蘇轍
「陛下が即位されて三十余年になる。平素静かに思慮をめぐらせられる時、このことについて憂いを持たれたことがあるか、ないか。臣が詔制の策問を拝読すると、陛下にはすでに憂懼の言葉がある。しかし臣は愚かで不敏ながら、ひそかに思うに、陛下にはその言葉があるだけで、実はないのではないか。かつて宝元・慶曆の間、西夏が乱を起こした時、陛下は昼も安座せず、夜も安眠せず、天下の人々は皆、陛下が周の文王のように憂懼して小心であると言った。しかし西方の兵が解かれて以来、陛下は憂懼の心を棄て置かれて、二十年になる。古の聖人は、事がなければ深く憂え、事があれば懼れない。事がなくて深く憂えるのは、事があった時に懼れないためである。今、陛下は事がなければ憂えず、事があれば大いに懼れる。臣は憂楽の節度が変わってしまったと思う。臣は疎遠な小臣であり、道端で聞いた話であるが、真偽はわからない。
近年以来、宮中の貴姫は数千に至り、歌舞飲酒し、戯れ笑って度を過ごし、朝廷に出ても諮詢や謀議を聞かず、便殿では顧み問うこともない。三代の衰え、漢・唐の末世における女寵の害を、陛下もご存じであろう。久しく止めなければ、あらゆる弊害がここから出てくる。内では蠱惑によって汚され、和気を傷つけ性情を損ない、外では私的な請謁によって乱され、政事を敗り事を害する。陛下、内で好色にふけっても外事に害はないなどとお考えになってはならない。今、海内は窮困し、民は愁苦しているのに、宮中への好意的な賜与は限りがなく、欲しいものがあれば与え、有るか無いかを問わない。司会は争うことを敢えず、大臣は諫めることを敢えず、契約書を持ち勅命を奉じて、その迅速さは兵火のようである。国家は内に士人を養い兵を養う費用があり、外には契丹・西夏への貢ぎ物があり、陛下はさらに自ら一つの落とし穴を作ってその残りを消耗しておられる。臣は陛下がこれによって誹謗を受け、民心が帰附しなくなることを恐れる。」
時に王安石は執政として陳升之とともに三司条例を統括し、蘇轍にその属官となることを命じた。呂恵卿は王安石に附き、蘇轍は彼と議論して多く食い違った。王安石は『青苗書』を出して蘇轍に熟議させ、「不都合があれば、遠慮なく告げよ」と言った。蘇轍は言った、「銭を民に貸し付け、二分の利息を取らせるのは、本来民を救うためであって、利益を図るためではない。しかし出納の際に、役人が奸計を働き、法があっても禁じられず、銭が民の手に入れば、善良な民でも妄りに使うことを免れず、また銭を納める時には、富裕な民でも期限を過ぎることを免れない。このようでは、鞭や杖を用いなければならず、州県の事務は煩雑で耐えられないだろう。唐の劉晏が国計を掌った時、一度も貸し付けを行わなかった。これを非難する者がいたが、劉晏は言った、『民に僥倖で銭を得させれば、国の福ではなく、役人に法に依って督責させれば、民の便ではない。私は一度も貸し付けを行わなかったが、四方の豊凶貴賤を、時を過ぎずに知った。安ければ必ず買い入れ、高ければ必ず売り出し、これによって四方に甚だしい高値・安値の弊害がなく、どうして貸し付けが必要だろうか。』劉晏の言うことは、つまり常平法である。今この法は存在するのに修められないことを憂えている。公が真に民を思うお気持ちがあれば、これを挙げて行えば、劉晏の功績はすぐに待つことができる。」王安石は言った、「君の言うことは確かに道理がある。ゆっくり考えよう。」この後一ヶ月余り、青苗法について言及しなかった。
司馬光は王安石の雇役の害を以て、差役を復活させようとしたが、その害が雇役と半ば同じであることを知らなかった。蘇轍は言った、「差役を廃止してからわずか二十年、官吏も民もまだ慣れていない。まして役法は多くの事柄に関わり、根や芽が複雑に絡み合っている。ゆっくりと行えば、はじめて詳細に審査できる。首尾を窮め究めず、急いで施行すれば、施行後に別の弊害が生じる恐れがある。今、州県の役銭には例によって積年の余剰があり、大体数年分は支弁できる。しばらく従来通り雇役とし、今年限りで止める。役所に督促して差役を審議させ、今冬中に法を成し、来年から郷戸を役使する。ただ施行後に、再び人々の非難がなければ、進退ともに都合がよい。」司馬光はまた、王安石が私に『詩経』『書経新義』を設けて天下の士を試験し、科挙を改め、別に新たな格式を作ろうとした。蘇轍は言った、「進士の来秋の試験まで、日数はあまりなく、議論は時を定めず決まらない。詩賦は小技とはいえ、声律を整えるのに用いる功は浅くない。経書を治めるには、誦読講解することは特に容易でない。要するに、来年はいずれも施行できない。来年の科挙場では、一切従来通りとし、ただ経義については注疏及び諸家の論議を兼ね取り、あるいは自らの見解を出し、王氏の学説に専用しないことを乞う。また律義を廃止し、挙人に定論があることを知らせ、一意に学問に励み、選抜試験を待たせ、それからゆっくりと元祐五年以後の科挙格式を議論しても遅くはない。」司馬光は皆従わなかった。
朝廷が黄河を旧河道に戻すことを議すると、蘇轍は呂公著に言った。「黄河が決壊して北流したのは、先帝でさえ戻せなかった。今その旧流に因って未だ至らぬ所を修繕せず、却って取り戻そうとすれば、その為す力は難しく、責めは重い。これは智勇勢力が先帝を過ぎると謂うことである。」公著は悟ったが、結局用いることはできなかった。戸部侍郎に進む。蘇轍は転対の機会に因って、言うには、「財賦の源は四方より出で、中都に委ねられる。故に国を善く治める者は、これを民に蔵し、次にはこれを州郡に蔵す。州郡に余裕あれば、則ち転運司は常に足り、転運司が既に足れば、則ち戸部も困窮しない。唐代の制度では、天下の賦税は、その一は上供し、その一は送使し、その一は留州した。今と比べれば、上供の数は少ないと言えよう。然るに毎に緩急あれば、王命一出で、舟車相銜き、大事以て済む。祖宗以来、法制は異なるが、諸道の蓄蔵の計は、猶極めて豊厚であった。是故に斂散時を失わず、縦捨己に由り、利柄の在る所、為すこと必ず成った。熙寧以来、利を言う臣は、本末の術を知らず、富国を求めようとして先ず転運司を困らせた。転運司が既に困れば、則ち上供は継がず、上供が継がなければ、戸部もまた疲弊する。両司が既に困窮する故に、内帑別蔵は、丘山の如く積もれども、朽ちた土と化し、算用に益するところがない。」尋いでまた言う。
「臣が祖宗の故事を考うるに、今日の本部(戸部)の行う所は、体例を同じくせず、利害遠く相い隔たり、事に随って措置し、以て弊害の源を塞ぐべきである。謹んで三つの弊害を具えて聞かせる。その一は、河渠案を分けて都水監と為すこと。その二は、胄案を分けて軍器監と為すこと。その三は、修造案を分けて将作監と為すこと。三監は皆工部に隷属し、則ち本部の専管する所は、その余僅かであり、出納損益の制は他司にある。近ごろ、司馬光が政を執り、その害あることを知り、嘗て本部に諸司の利権を収攬せしめた。当時収めた所は、その要を得ず、今日に至るまで三案は猶お他司の擅にする所となり、深く惜しむべきである。
蓋し国に財有るは、人の飲食有るが如し。飲食の道は、口に出納を司らせ、而して腹に多寡を制せしむべきである。然る後に気血を分佈し、以て百骸を養い、耳目は之に頼りて以て聡明と為し、手足は之に頼りて以て力と為す。若し専ら口腹に任せずして、手足・耳目をして分治せしめれば、則ち一飽を求めんと欲すれども得べからず、況んや安且つ寿なることをや。今戸部の朝廷に在るは、口腹の如きものなり。而して他司をしてその事を分治せしむるは、何を以てこれと異ならんや。数十年以来、群臣は毎に一事挙がざるに因り、輒ち他司を建て入れる。利権一分すれば、財を用いるに藝なし。他司は事を弁ずるを効と為せば、則ち財の有無を恤れず。戸部は財を与えるを功と為せば、則ち事の当否を問わず。彼此各々一職を営み、その勢い復た相知ることなく、戸部に材智の臣を得しむるも、終いには亦た益なく、能うと否と病を同じくし、府庫卒いに空し。今早く救わざれば、後患必ず甚だし。
昔、嘉祐年中、京師は頻年に大水有り、大臣始めて河渠案を取って都水監を置く。監を置く以来、旧案に比べて、補う所の事は何か。而して大いに不便なるは、河北に外監丞有り、転運司の職事を侵奪す。転運司の河事を領するや、郡の諸なる埽、埽の吏兵・儲蓄、事無き時は分かれ、事有る時は合う。水の向かう所、諸埽これに趨き、吏兵並びに功を為すを得、儲蓄並びに用いるを得る。故事の作るの日、暴斂財を傷つくるの患無く、事定まるの後、徐かにその欠を補い、両ながら妨げ無し。監丞有るよりこのかた、法に拠りて責成し、緩急の際、諸埽相い用いられず、而して転運司その弊に勝えず。これ工部都水監の戸部の害と為る、一なり。
先帝は官制を一新し、並びに六曹を建て、曹に随って事を付した。故に三司の故事多く工曹に隷し、名は正に近けれども実は利ならず。昔、胄案の掌る所、今は内では軍器監と為りて上は工部に隷し、外では都作院と為りて上は提刑司に隷す。興作有らんと欲すれば、戸部は議に与ることを得ず。訪聞するに河北道は近歳羊の渾脱を為すこと、動もすれば千計に及ぶ。渾脱の用は、必ず軍行水に乏しく、渡河に船無きに、然る後にこれを須う。而してその物は、稍々歳月を経れば、必ず蠹敗に至る。朝廷に出兵の計無くして、有司は営戢し、利害を顧みず、至って公私応副せしめ、財を虧け物を害す。若し専ら転運司に在らしめば、必ずここに至らざるべし。これ工部都作院の戸部の害と為る、二なり。
昔、修造案は百工の事を掌り、事に緩急有り、物に利害有り、皆これを専らにす。今、工部は職を弁ずるを事と為せば、則ち緩急利害、誰か当にこれを議せん。朝廷近く箔場の竹箔、積久して損爛するを以て、創めて売却を令し、上下皆以て当たりと為す。指揮未だ幾ばくもせず、復た諸処の営造、歳に科制有るを以て、遂に般運堆積を令し、以て売却の計を破る。臣は将作の見工幾何なるか、一歳の所用幾何なるかを知らず。此れを取りて彼れに積む、未だ用いざるの間、損敗有る無し、而して遂にこの計を為す。本部は不便と知るも、工部の事を以て、敢えて復た言わず。これ工部将作監の戸部の害と為る、三なり。
凡そ事の此の類なるもの多く、臣は遍く挙ぐる能わず。故に願わくは明詔を有司に下し、外水監丞を罷め、河北の河事及び諸路の都作院を挙げて皆転運司に帰せしめ、都水・軍器・将作の三監に至っては、皆兼ねて戸部に隷せしめ、その事の可否を定め、その費の多少を裁せしめ、而して工部はその功の良苦を任じ、その作の遅速を程せしめよ。苟も可否・多少戸部に在らば、則ち財を傷つけ民を害するは、戸部その責を逃るる所無し。苟も良苦・遅速工部に在らば、則ち事を敗り用に乏しきは、工部その譴を辞する所無し。制一に出で、然る後に天下の貧富、戸部に責むべきなり。」
哲宗はこれに従ったが、惟だ都水のみは旧の如くにした。
朝廷は吏部が元豊年間に定めた吏員の定数が、旧定数より数倍多いことを以て、蘇轍に事の軽重を量り裁減するよう命じた。吏員の白中孚が言うには、「吏員の定数を定めるのは難しくありません。かつての流内銓(文官選任機関)は、今の侍郎左選(吏部尚書左選)にあたり、事務の煩雑多忙さはこれに過ぎるものはありません。かつて銓吏は十数人に過ぎなかったが、今の左選の吏は数十人に至ります。事務は以前より増えていないのに用いる吏が数倍に至るのは、何故でしょうか。昔は重法も重禄もなく、吏が賄賂を通じていたので、人数を多くして得るものを分け合うことを望まなかった。今は重法を施行し、重禄を与えているので、賄賂は以前より少なく、人数が多いことを忌まず、事務が少ないことを幸いとする。これが吏員定数の多少に関する実情です。旧法では、一日に発生する事務を難易によって七等に分け、重いものは一分、軽いものは一厘以下とし、幾らかの分を積み重ねて一人分としました。今もし各官庁の二か月分の事務を取り上げてその分数を定めれば、吏員定数の多少の限界は、逃れようがありません。」蘇轍は言った、「これは群吏の身の計らいに関わることだ。もし分数をもって人数とすれば、必ず大いに減らされることになり、大いに紛争と訴えを招き、朝廷といえども守り通せないだろう。」そこで詳しく宰相執政に報告し、実情に基づいて定数を立て、吏員が年満ちて転出したり、事故や死亡した者を補充せず、定数に達したら止めるよう請うた。十年を過ぎず、余剰の定数は尽きるだろう。効果はやや緩やかではあるが、現任の吏は自分自身の患いでないと知り、再び怨むことはない。呂大防は諸司の吏員任永寿らに省吏数人を付けてこれを主管させたが、彼らは蘇轍の議に背いて定数を立て、日々吏員を裁減し、また好き嫌いで諸局の順序を改易した。永寿はまた贓罪で刺配に処せられ、大防はおおよそ蘇轍の議に依って施行した。蘇軾に代わって翰林学士となり、まもなく権吏部尚書を兼ねた。契丹に使いし、館客を務めた侍読学士王師儒は蘇洵・蘇軾の文章と蘇轍の『茯苓賦』を誦することができ、全集を見られないことを恨んだ。使いから戻り、御史中丞となった。
元祐初年から、あらゆる政務を一新し、ここに至って五年となった。人心は既に定まっていたが、ただ元豊の旧党が朝廷内外に分布し、多く邪説を起こして在位の者を動揺させようとしていた。呂大防と劉摯はこれを憂え、少しばかり登用して、積年の怨みを和らげようとし、これを「調停」と呼んだ。宣仁太后は疑って決断できず、蘇轍は面と向かってその非を斥け、さらに上疏して言った。
「臣が近く面と向かって論じましたように、君子と小人は並び処すべからず、聖意は臣の言を非とされないようでした。しかし天威は咫尺の間にあり、言詞が急迫して、尽くせないところがありました。臣が言わなければ、誰がその過失を救うべきでしょうか!君子に親しみ小人を遠ざければ、君主は尊く国家は安泰です。君子を疎んじ小人を任用すれば、君主は憂い国家は危うくなります。これは理の必然です。小人が外にいることを憂え、その不悦を恐れて内に引き入れて、自ら禍を遺すなどということは聞いたことがありません。故に臣は言います、小人は腹心として任用すべからずとも、四方を治めさせ、庶務に奔走させることには、偏りなく用いてもよいと。もし内に引き入れるならば、それは盗賊が財を得たいと患えて、寝室に導き入れるようなものであり、虎豹が肉を食らいたいと知りながら、野原に開け放つようなもので、そのような道理はありません。かつ君子と小人は、勢い氷炭のごとく同じところにあれば必ず争います。一たび争った後は、小人が必ず勝ち、君子が必ず敗れます。何故でしょうか。小人は利に貪り恥を忍び、撃っても去り難く、君子は身を潔くし義を重んじ、阻めば引き下がるからです。古語に曰く、『一たび香草と一たび臭草とが同じ器にあれば、十年経っても尚臭気が残る』と。まさにこれを言うのでしょう。
先帝(神宗)は聡明聖智で、頽靡した風俗を憎み、四方を綱紀し、夏・殷・周の三代に比肩しようとされました。しかし臣下が順調に補佐できず、諸法を作り上げ、上は天意に逆らい、下は民心を失いました。二聖(宣仁太后・哲宗)は民の願いに因り、これを取り上げて改められ、上下ともに喜び慰めました。ならば以前に権勢を振るった臣下は、今朝廷が斥逐しなくとも、その勢いとして再び留まることはできません。なお二聖の慈仁に頼り、外で寛容にされているのは、既に厚い処遇です。ところが議論する者は説に惑わされ、招き入れて共に事を行おうとし、これを「調停」と呼びます。彼らが戻れば、ただでは済むでしょうか?必ずや正人を害し、次第に旧事を復活させ、私憤を晴らそうとするでしょう。人臣が禍を受けるのは言うに足りません、臣が惜しむのは、祖宗の朝廷です。願わくは陛下が聖心より断じられ、流言に惑わされず、小人を一たび進ませて、後に臍を噬む悔いを残すことのないよう、そうすれば天下幸いです。」
上疏が入ると、宣仁太后は宰相執政に命じて簾前で読ませ、言った、「蘇轍は我ら君臣が邪正を兼用することを疑っているが、その言は極めて理に適っている。」諸臣はこれに従って和し、「調停」の説は遂に止んだ。
蘇轍はまた上奏して言った。
「臣が窃かに見るに、方今の天下は未だ大いに治まってはいないが、祖宗の綱紀は備わっており、州郡の民と物事はおおよそ安泰です。もし大臣が己を正し心を平らかにし、事を起こして功を求めようとする意がなく、弊害に因って法を修め、民を安んじ国を靖める方術とすれば、人心は自ずから定まり、たとえ異なる党派があろうと、誰が心を寄せないことがありましょうか。以前の異同反覆の心も、もはや慮るに足りません。ただ患うべきは、朝廷が事を行うのに、類い稀に審詳でないことです。かつて、黄河が北流したのは、正に水性を得ていたのに、水官が穿鑿して、これを東に導かせようとし、低きを移して高きに就かせ、五行の理を乱しました。陛下が使者を遣わして視察させ、不可能と知った後も、なお固執して従わなかった。今に至るまで数年を経て、回河(流路を戻す工事)は罷められたが、減水河(分流路)は尚存し、遂に河朔の生霊を、財力ともに困窮させました。今また西夏と青唐(吐蕃)は、外では皆臣従順服し、朝廷は手厚く招来して、失うことを恐れています。ところが熙河の将吏が二つの堡塁を築いてその膏腴の地を侵し、醇忠(蕃部首長)を納れてその節鉞を奪おうと議し、功績は未だ期待できぬうちに、争いが先に形を現しました。朝廷はその非を知りながら、終にはっきりと処置せず、もし遂に辺境の争いを育てれば、関陝は再び安らかに住めましょうか。この二つの事柄は、臣が言うところの、己を正し心を平らかにし、事を起こして功を求めることなきべきというものです。
臣は見聞が浅く狭く、当今の得失を尽く知ることができない。しかし四つの事柄が去らなければ、臣のような者でもその非を知るのに、ましてや心に異同を懐き、反覆を志し、国の過失を幸いとして、口実とするものがある者であろうか。臣は恐れるが、このような四つの事柄を、彼らはすでに黙して心に識り、多くの誹謗議論を造り、時を待って発し、以て衆人の聴聞を揺るがすであろう。伏して宰執に宣諭を乞う、事に失当があれば、これを改めて疑うことなく、法に未完があれば、これを修めて倦むことなかれ。もし民心を得れば、則ち異議は自ずから消える。陛下は端拱して承平を享け、大臣は逡巡して富貴を安んじ、海内は福を蒙り、上下ともに同じくする、豈に美ならずや。
大臣は過ちを恥じて、終に肯えて改めようとしない。
六年、尚書右丞を拝し、門下侍郎に進む。初め、夏人が登極を賀しに来て、相継いで和を求め、かつ地界を議した。朝廷は約を許し、地界は既に定まり、歳賜を与えた。久しくして、議決せず。明年、夏人は兵を以て涇原を襲い、弓箭手数千人を殺掠し、朝廷はこれを忍んで問わず、使を遣わして策命を賜う。夏人は礼を受けて倨慢にし、地界を口実として、再び謝せず、再び涇原を犯す。四年、坤成節を賀しに来て、かつ地界を議す。朝廷は先に歳賜を与え、地界はまた未決。夏人は乃ち疆事に於いて多方に侵求し、熙河の将佐范育・种誼ら、遂に約に背き買孤・勝如の二堡を侵築す。夏人は即ちこれを平蕩す。育らはまた兵を以て趙醇忠を納れんと欲し、及びその部人千余を擅かに招く。朝廷はこれを退けて受けず、西辺騒然たり。轍は育・誼を罷め、別に老将を択びて熙河を守らしむるを乞う。宣仁后は以て然りと為すも、大臣は竟に育・誼を主とし、従わず。轍はまた面奏して曰く、「人君と人臣とは、事体同じからず。人臣は是非を明らかに見ると雖も、力及ばずんば、須らく且く止むに至る。人君は事に於いて、知らざれば則ち已む、知りて行うこと能わざれば、則ち事権去る。臣今此を言うは、蓋し陛下に威柄を収攬し、以て君臣の分を正さんことを欲するのみ。若し専ら所謂を聴き、漸を以てこれを制せざれば、その甚だしきに及び、必ず罪を加え、免れずして逐い去る。事此に至るは、豈に朝廷の美事たるや。故に臣は大臣を保全せんと欲するも、害せんと欲するに非ざるなり」。
六年、熙河より奏す、「夏人十万騎、通遠軍の境に圧し、争う所の崖巉を挑掘し、人を殺すこと三日にして退く。その退くに因り、急ぎ近裏の堡砦を界に移し、利に乗じて往き、復た誠信を守るを須いざるを乞う」。大臣を下して会議す。轍曰く、「先ず議を定むべし、兵を用いんと欲するか、用いざらんと欲するか」。呂大防曰く、「もし兵を用いるに合わば、亦た用いざるを得ず」。轍曰く、「凡そ兵を用いるには、先ず理の曲直を論ず。我れ若し直からずんば、兵決して当に用うべからず。朝廷は須らく夏人と地界を議し、慶暦の旧例を用い、以て彼此見今住処の當中を直と為さんと欲す。此の理最も簡直なり。夏人は従わず、朝廷は遂に固執せず。蓋し朝廷の事に臨むや、常に先易後難を患う。此れ所謂先易なる者なり。既にして非所賜の城砦に於いて許し、綏州の例に依り、二十里を以て界と為し、十里を堡鋪と為し、十里を草地と為す。要約纔に定まり、朝廷はまた両砦界首の夏地を侵し、一抹に取りて直せんことを要す。夏人は見て従う。また夏界に更に草地十里を留めんことを要す。夏人も亦た許す。凡そ此れ所謂後難なる者なり。今定西城と隴諾堡とに於いて一抹に取りて直せんと欲し、侵す所の夏地凡そ百数十里。隴諾は祖宗の旧疆、豈に所謂非所賜の城砦なるや。此れ則ち直からず、寇を致すの大なる者なり」。劉摯曰く、「兵を用いざるは美と雖も、然れども事に須い用兵する者あれば、亦た用いざるべからず」。轍奏して曰く、「夏兵十万、熙河の境上に圧し、他処に於いてせず、専ら争う所の処に於いて人を殺し、崖巉を掘る。此の意見るべし。此れ西人の罪に非ず、皆朝廷の直からざる故なり。熙河は輒敢て事を生じ、誠信を守らず。臣は帥臣を詰責せんと欲するのみ」。後に屢辺兵の夏地に深入するに因り、宣仁后は遂に轍の議に従う。
時に三省、李清臣を除して吏部尚書と為し、給事中范祖禹、詔書を封還し、且つ姚勔も亦た之を言うと曰う。三省復た蒲宗孟を除して兵部尚書と為す。轍奏す、「前に清臣を除し、給諫紛然として、之を争いて未だ定まらず。今又宗孟を用う、恐らく便ならず」。宣仁后曰く、「官闕するを奈何せん」。轍曰く、「尚書の官闕すること已に数年、何ぞ嘗て事闕せしことあらん。今日此の二人を用うるは、正に去年鄧溫伯を用うるに異ならず。此の三人の者は、大悪有るに非ず、但だ昔王珪・蔡確の輩と並び進み、意思今日の聖政に合わざるなり。見今尚書共に闕すること四人、若し並びに此の四人の如きを用い、党類をして互いに進ましめば、恐らく朝廷自ら是より安静ならざらん」。議遂に止む。
紹聖初、哲宗、李清臣を起して中書舎人と為し、鄧潤甫を尚書左丞と為す。二人久しく外に在り、志を得ず、稍々熙・豊の事を復言して以て哲宗の意を激怒せしむ。会に廷試進士、清臣策題を撰す。即ち邪説と為る。轍諫めて曰く、
「伏して御試策題を見るに、近歳の行事を歴詆し、熙寧・元豊を紹復せんとするの意有り。臣謂う、先帝は天縱の才を以て、大為有るの志を行い、其の施設する所、前古を度越し、蓋し百世改むべからざる者有り。在位近二十年にして、終身尊号を受けず。宗室を裁損し、恩は袒免に止まり、朝廷の無窮の費を減ず。坊場を出売し、衙前を顧募し、民間の破家の患を免る。諸科誦数の学を黜罷し、諸将慵惰の兵を訓練す。寄祿の官を置き、六曹の旧を復し、重祿の法を厳にし、交謁の私を禁ず。浅攻の策を行いて以て西夏を制し、六色の銭を収めて以て雑役を寬う。凡そ此の類の如きは、皆先帝の睿算にして、利有りて害無し。而して元祐以来、上下奉行し、未だ嘗て失墜せず。他の至るに於いては、事に失当有る、何の世にか之無からん。父は之を前に作り、子は之を後に救う。前後相済う、此れ則ち聖人の孝なり。
漢武帝は外に事として四征し、内に宮室を興し、財用匱竭す。是に於いて塩鉄・榷酤・均輸の政を修め、民命に堪えず、幾くんぞ大乱に至らんとす。昭帝は霍光を委任し、煩苛を罷去し、漢室乃ち定まる。光武・顕宗は察を以て明と為し、讖を以て事を決し、上下恐懼し、人懐不安たり。章帝即位し、深く其の失を鑒み、之に代えて寬厚・愷悌の政を以てす。後世之を称す。本朝真宗は文を右にし武を偃げ、太平と号せらる。而して群臣其の極盛に因り、天書の説を為す。章献臨御し、大臣の議を攬み、書を梓宮に蔵し、以て其の跡を泯す。及び仁宗聴政し、口を絶えて言わず。英宗は藩邸より入り継ぎ、大臣濮廟の議を創む。及び先帝嗣位し、或いは復た其の事を挙げんことを請う。寝して答えず、遂に以て安静と為す。夫れ漢の昭・章の賢と、吾が仁宗・神宗の聖とを以てす、豈に其れ孝敬に薄くして軽々しく事を変易せんや。臣区々たるに勝えず、願わくは陛下臣の言を反覆し、慎んで軽々しく事を改易すること勿れ。若し軽く九年已に行わるる事を変え、累歳用いられざる人を擢任し、人私忿を懐き、而して先帝を以て辞と為さば、大事去らん」。
轍の性質は沈静簡潔であり、文章は汪洋として澹泊、その人となりに似て、人に知られんことを欲せず、しかし秀傑の気は終に隠すべからず、その高邁なところは殆ど兄の軾に迫るものがあった。著した『詩伝』・『春秋伝』・『古史』・『老子解』・『欒城文集』は並び世に行われた。三子:遅・適・遜。族孫に元老あり。
族孫 元老
元老、字は子廷。幼くして孤となり力学し、『春秋』に長じ、文章をよくした。軾が海上に謫居した時、しばしば書簡を往来させた。軾はその学問に功あることを喜び、轍もまた愛して奨励した。黄庭堅はこれを見て奇とし、「これ蘇氏の秀なり」と言った。進士に挙げられ、広都主簿に調せられ、漢州教授・西京国子博士・彭州通判を歴任した。
政和年間、宰相が西南の辺境を開くことを好み、帥臣は多く近界の諸族を誘い、土地を納めさせ、郡県を分置して功と為し、茂州蛮の反乱を招いた。帥司は急いで招降の令を下した。元老は嘆いて言った、「威厳が服させるに足らざれば、恩恵も懐かしめるに足らぬ」と。そこで成都の帥周燾に書を送って言った、「この蛮は山谷間に跳梁し、隙を窺って窃発する。彼の長ずるところは、我の短ずるところなり、ただ施・黔両州の兵のみが敵と為り得る。もし数千人を檄して、倍道して往かせれば、官軍十万に勝る。次には夔・陝の兵を大集し、まず夔兵をもってその前を誘い、陝兵をもってその後を従わせれば、十日と経たず、賊は必ず破れよう。彼が降伏して我がそれを受ければ、威懐の道を得る。今賊を討たず、既に招いて還れば、必ず再び叛き、免れず重ねて兵を用いることになろう」と。燾は書を得て、即ち召して計事に与らせた。元老はまた策を述べた、「茂には二道あり、正道は湿山より長平に趨り、嶺を絶って上る、その路は険にして高し。間道は青崖関より刁溪に趨り、江に沿って行く、その路は平らにして径し。正兵をして湿山に陣せしめ、陰に奇兵を出して刁溪を搗ち、石泉と力を併せて合攻すれば、賊は腹背に敵を受け、必ず擒にすべし」と。燾は皆用いず、遂に罪を得た。後任の帥が至り、元老の策の如くにすると、蛮の勢いが窮まり、乃ち降伏した。
国子博士に除され、秘書正字・将作少監・比部考功員外郎を歴任し、まもなく成都路転運副使に除され、軍器監・司農少卿・衛尉少卿・太常少卿となった。
元老は外は和やかで内は勁く、妄りに人と交わらなかった。梁師成が権勢を振るっていた時、自ら軾の外子(庶子)であると言い、縁故を頼ってこれに会おうとし、かつその文章を求めたが、拒絶して答えなかった。言事官は遂に元老が蘇軾の従孫であり、かつ元祐の邪説を為し、その学術議論は頗る軾・轍に倣うとして、中朝に在るべからずと論じた。罷められて提点明道宮となった。元老は嘆いて言った、「昔、顔子は驥尾に附して名を顕わす。我は今、家世によって累を坐す、栄えたり」と。まもなく卒去、四十七歳。詩文が時に行われた。
論じて曰く、蘇轍は事を論ずるに精確、修辞は簡厳、必ずしもその兄に劣らぬ。王安石が初めて青苗法を議した時、轍は数語でこれを止め、安石はこれより自らこれに及ばず、後に王広廉が傅会しなければ、この議は止んだであろう。轍は寡言で欲少なく、平素より安石の敬心を得る所以あり、故に能くかくの如くであった。このような点では、軾は及ばざるが如し、然し軾の英邁の気、閎肆の文を論ずるに至っては、轍は軾の弟として、難きと言うべし。元祐に政を執り、力をもって章・蔡を斥け、調停を主とせず、及び回河・雇役を議するに、文彦博・司馬光と異同あり、西辺の謀は、また呂大防・劉摯と合わず。君子は党せず、轍に見る。轍と兄の進退出処は、同じからざるなく、患難の中、友愛は弥篤く、少しの怨尤もなく、近古に稀なり。ただその年齢と爵位は皆兄より優れていた。思うに造物の賦与する所にも、また乗除がその間にあったのであろうか。