宋史

列傳第九十七 蘇軾子:過

蘇軾

冠に及ぶ頃には、経史に博通し、文を属するに日に数千言、賈誼・陸贄の書を好んだ。やがて『莊子』を読み、歎じて曰く、「吾れ昔に見有りしも、口能く言はず、今是の書を見て、吾が心を得たり」と。嘉祐二年、礼部の試を受く。時に時文の磔裂詭異の弊勝れ、主司の歐陽脩はこれを救う術あらんことを思ひ、軾の『刑賞忠厚論』を得て驚喜し、多く士の冠たるべく擢さんと欲したが、猶その客曾鞏の為す所なるかと疑ひ、ただ第二に置く。復た『春秋』の対義を以て第一に居り、殿試に乙科に中る。後に書を以て脩に見えしに、脩は梅聖俞に語りて曰く、「吾れ当に此人を避けて一頭地を出づべし」と。聞く者始め譁然として厭はず、久しくして乃ち信服す。

母の憂に服す。五年、福昌主簿に調ず。歐陽脩は才識兼茂を以て、秘閣にこれを薦む。六論を試みるに、旧は草を起さず、故を以て文多く工ならず。軾始めて草を具へ、文義粲然たり。復た制策に対し、三等に入る。宋初より以来、制策三等に入るは、惟だ呉育と軾とのみ。

大理評事・簽書鳳翔府判官を除す。関中は元昊の叛より、民貧しく役重く、岐下は歳に南山の木筏を輸し、渭より河に入り、砥柱の険を経るに、衙吏踵を接して家を破る。軾その利害を訪ひ、衙規を修め、自ら水工を択ばしめて時を以て進止せしむ。是より害半減す。

治平二年、判登聞鼓院に入る。英宗は藩邸よりその名を聞き、唐の故事を以て翰林に召し入れ、知制誥とせんと欲す。宰相の韓琦曰く、「軾の才は、遠大の器なり。他日自ら天下の用たるべし。要は朝廷に在りてこれを培養し、天下の士をして畏慕降伏せざる莫からしめ、皆朝廷の進用を欲し、然る後に取りてこれを用ふれば、則ち人人復た異辞無からん。今驟にこれを用ふれば、則ち天下の士未だ必ずしも然りと為さず、適たこれを累するに足らん」と。英宗曰く、「且つ脩注を与ふるは如何」と。琦曰く、「記注は制誥と鄰す。未だ遽かに授くべからず。館閣中近上の貼職を与へ、且つ召して試み請はんには若かず」と。英宗曰く、「これを試みてその能否を知らず、軾に不能有るや」と。琦猶ほ不可とし、二論を試みるに及び、復た三等に入り、直史館を得たり。軾琦の語を聞きて曰く、「公は徳を以て人を愛すと謂ふべし」と。会に洵卒す。賻に金帛を以てす。これを辞し、一官を贈らんことを求む。ここに於て光祿丞を贈る。洵将に終らんとし、兄の太白早く亡び、子孫未だ立たず、妹は杜氏に嫁ぎ、卒して未だ葬らず、軾に属す。軾既に喪を除くや、即ち姑を葬る。後に官蔭すべきに及び、太白の曾孫彭に推す。

熙寧二年、朝に還る。王安石政を執る。素よりその議論己に異なるを悪み、判官告院を以てす。四年、安石科挙を変じ、学校を興さんと欲し、両制・三館に議せしむ。軾上議して曰く、

「人を得るの道は、人を知るに在り。人を知るの法は、実を責むるに在り。君相に知人の明有らしめ、朝廷に責実の政有らしめば、則ち胥吏皂隸未だ嘗て人無からず、而るに況んや学校貢挙においてをや。今の法に因ると雖も、臣以て余り有りと為す。君相人を知らず、朝廷実を責めざれば、則ち公卿侍従常に人無きを患へ、而るに況んや学校貢挙においてをや。古の制を復すると雖も、臣以て足らずと為す。夫れ時に可否有り、物に廃興有り。その安んずる所の方に在りては、暴君と雖も廃すること能はず、その既に厭ふに及びては、聖人と雖も復すること能はず。故に風俗の変ずるに、法制これに随ふ。譬へば江河の徙移するが如し。強ひてこれを復せば、則ち力を為し難し。

慶暦固に嘗て学を立てたり。今日に至るまで、惟だ空名のみ存す。今将に今の礼を変じ、今の俗を易へ、又当に民力を発して宮室を治め、民財を斂めて遊士を食はしめんとす。百里の内に、官を置き師を立て、獄訟はここに聴き、軍旅はここに謀る。又教に率はざる者を簡びて遠方に屏ふ。則ち乃ち徒に紛乱を為し、以て天下を患苦するに非ずや。若し乃ち大なる更革無くして、時に益有るを望まば、則ち慶暦の際と何ぞ異ならん。故に臣謂ふ、今の学校は、特だ旧制に因り仍り、先王の旧物をして吾が世に廃せられざらしむるに足ると。貢挙の法に至りては、これを行ふこと百年、治乱盛衰、初よりこれに由らず。陛下祖宗の世を視よ。貢挙の法、今と孰れか精なる。言語文章、今と孰れか優れる。得る所の人才、今と孰れか多き。天下の事、今と孰れか弁ずる。此の四者の長短を較ぶれば、その議決せり。

今変改せんと欲する所は数端に過ぎず。或いは曰く郷挙は德行にして文詞を略すと。或いは曰く専ら策論を取りて詩賦を罷むと。或いは誉望を兼ね采りて封弥を罷めんと欲し、或いは経生は墨を帖せずして大義を考へんと欲す。此れ皆その一を知りて、その二を知らざるなり。願くは陛下遠き者・大なる者に留意せよ。区区の法何ぞ預からん。臣又切に私憂過計する者有り。夫れ性命の説は、子貢よりして聞くを得ず。而るに今の学者は、性命を言はざるを恥づ。その文を読めば、浩然として当る所無くして窮むべからず。その貌を観れば、超然として著する所無くして挹むべからず。此れ豈に真に能く然るならんや。蓋し中人の性、放に安んじて誕を楽しむのみ。陛下亦安くにかこれを用ゐん」。

議上る。神宗悟りて曰く、「吾れ固にこれを疑ふ。軾の議を得て、意釋然たり」と。即日召して見え、問ふ、「方今政令の得失安くにか在る。朕が過失と雖も、指陳すべし」と。対へて曰く、「陛下生知の性、天縦の文武、明ならざるを患へず、勤ならざるを患へず、断ならざるを患へず。但だ治を求むること太だ急なるを患へ、言を聴くこと太だ広きを患へ、人を進むること太だ鋭きを患ふ。願くは安静を以て鎮め、物の来るを待ち、然る後にこれに応ぜよ」と。神宗悚然として曰く、「卿の三言、朕当に熟思すべし。凡そ館閣に在る者は、皆朕が為に治乱を深思し、隠す所無かるべし」と。軾退きて、同列に言ふ。安石悦ばず、権開封府推官を命じ、将に事を以てこれを困らんとす。軾決断精敏にして、声聞益々遠し。会に上元に敕し府に浙燈を市はしめ、且つ価を損ぜしむ。軾疏を上りて言ふ、「陛下豈に燈を以て悦ぶか。此れ不過だ二宮の歓を奉ずるのみ。然れども百姓戸ごとに曉すべからず、皆耳目の不急の玩を以て、その口体必用の資を奪ふと謂はん。此事至って小なれども、体則ち甚だ大なり。願くは前命を追還せよ」と。即ち詔してこれを罷む。

時に安石新法を創行す。軾上書してその不便を論じ、曰く、

「臣の言はんと欲する所は、三言のみ。願くは陛下人心を結び、風俗を厚くし、紀綱を存せよ。人主の恃む所は人心のみ。木の根有るが如く、燈の膏有るが如く、魚の水有るが如く、農夫の田有るが如く、商賈の財有るが如し。これを失へば則ち亡ぶ。此れ理の必然なり。古より今に及び、和易にして衆と同じて安からざる無く、剛果にして自用にして危からざる無し。陛下亦人心の悦ばざるを知れり。

祖宗以来、財用を治むる者は三司に過ぎず。今、陛下は財用を三司に付せず、故なくして又制置三司条例一司を創設し、六七の少年をして日夜内に講求せしめ、使者四十余輩をして外に分行して営幹せしむ。夫れ制置三司条例司は、利を求むるの名なり。六七の少年と使者四十余輩は、利を求むるの器なり。造端宏大にして、民実に驚疑す。創法新奇にして、吏皆惶惑す。万乗の主を以て利を言い、天子の宰を以て財を治む。論説百端、喧伝万口、然れども之を顧みる者莫きは、徒に曰く『我其事無し、何ぞ人言を恤れん』と。網罟を操りて江湖に入り、人に語りて曰く『我漁に非ず』と、網罟を捐つるに如かずして人自ら信ず。鷹犬を駆りて林藪に赴き、人に語りて曰く『我猟に非ず』と、鷹犬を放つるに如かずして獣自ら馴る。故に臣以爲うらく、讒慝を消して和気を召さんと欲せば、則ち条例司を罷むるに若かず。

今、君臣宵旰すること幾一年なり。而るに富国の功、茫乎として風を捕うるが如し。徒に内帑より数百万緡を出だし、祠部に五千余人を度すを聞くのみ。此を以て術と爲す、其れ誰か能はざらん。而して行う所の事は、道路皆其の難きを知る。汴水濁流、生民以来、以て稲を種えず。今、陂して之を清めんと欲す。万頃の稲は必ず千頃の陂を用う。一歳一淤、三歳にして満つ。陛下遂に其の説を信じ、即ち地形を相視せしめ、所在に空を鑿ち、水利を訪尋せしむ。妄庸軽剽、率意に爭ひて言ふ。官司其の疎なるを知るも、敢へて便ち抑退を行はず、老少を追集し、可否を相視す。若し灼然として行ひ難きに非ざれば、須らく且つ役を興すべし。官吏苟且に順從し、真に陛下の興作有るを謂ふ。上は帑廩を糜し、下は農時を奪ふ。堤防一たび開けば、水故道を失ふ。議者の肉を食らうと雖も、何ぞ民に補はん。臣、朝廷何ぞ苦しみて此れを爲すを知らず。

古より役人は必ず郷戸を用ふ。今、徒に江・浙の間、数郡の顧役を聞きて、之を天下に措かんと欲す。単丁・女戸は、蓋し天民の窮せる者なり。而るに陛下首に之を役せんと欲す。四海に富み、忍びて恤はざるか。楊炎両税を爲してより、租調と庸既に之を兼ぬ。奈何ぞ復た庸を取らんと欲す。万一後世不幸にして聚斂の臣有らば、庸錢除かず、差役仍舊す。推して其の来る所を尋ぬれば、則ち必ず其の咎を任ずる者有らん。青苗錢を放つは、昔より禁有り。今、陛下始めて成法を立て、毎歳常に行ふ。抑配を許さずと云ふと雖も、数世の後、暴君汙吏、陛下能く之を保つか。計らふに願請の戸は必ず皆孤貧不濟の人なり。鞭撻已に急なれば、則ち之に継ぎて逃亡す。還らざれば、則ち均しく鄰保に及ぶ。勢必ず至る有り。異日天下之を恨み、国史之を記し、曰く『青苗錢は陛下より始まる』と。豈に惜しまざらんや。且つ常平の法は、至れりと謂ふべし。今、之を青苗に變ぜんと欲し、彼を壞して此を成す。喪ふ所逾よ多く、官を虧け民を害す。悔ゆと雖も何ぞ及ばん。

昔、漢武帝財力匱竭を以て、賈人桑羊の説を用ひ、賤きを買ひ貴きを賣り、之を均輸と謂ふ。時に商賈行はず、盗賊滋熾し、幾くんぞ亂に至らんとす。孝昭既に立ち、霍光民の欲する所に順ひて之に與ふ。天下心に歸し、遂に事無し。意はざらん今日此の論復興す。立法の初め、其の費已に厚し。縦ひ薄く獲る所有るとも、而して商を徵するの額、損ふ所必ず多し。譬へば人有りて其の主の爲めに畜牧し、一牛を以て五羊に易ふ。一牛の失は則ち隱して言はず。五羊の獲は則ち指して勞績と爲す。今、常平を壞して青苗の功を言ひ、商税を虧けて均輸の利を取る。何を以て此れに異ならん。臣竊に以て過ちたりと爲す。議者必ず謂はん、『民は樂成と與にする可く、慮始と與にするは難し』と。故に陛下堅執して顧みず、必行に期す。此れ乃ち戰國貪功の人、險を行ひ僥倖を求むるの説なり。樂成に及ばずして、怨已に起これり。臣の陛下に人心を結ばんことを願ふ所以の者、此れなり。

国家の存亡する所以の者は、道德の淺深に在りて、強弱に在らず。歷數の長短する所以の者は、風俗の薄厚に在りて、富貧に在らず。人主此れを知れば、則ち輕重を知る。故に臣願はくは陛下務めて道德を崇くし風俗を厚くせんことを、陛下の有功を急にし富強を貪らんことを願はず。風俗を愛惜すること、元氣を護るが如し。聖人は深刻の法以て衆を齊うる可く、勇悍の夫以て事を集むる可きを知らざるに非ず。忠厚は迂闊に近く、老成は初め遲鈍の若し。然れども終に肯て彼を以て此れに易へざるは、其の得る所小にして喪ふ所大なるを知ればなり。仁祖法を執ること至寬にして、人を用ふるに序有り。專ら過失を掩覆するを務め、未だ嘗て舊章を輕く改めず。其の成功を考ふれば、則ち曰く未だ至らずと。兵を用ふるを言へば、則ち十出でて九敗し、府庫を言へば、則ち僅かに足りて餘無し。徒に德澤人の在るを以て、風俗義を知る。故に升遐の日、天下仁に歸す。議者其の末年吏多く因循し、事振ひ舉げざるを見て、乃ち之を矯めんと欲して苛察を以てし、之を齊うるに智能を以てし、新進勇銳の人を招來して、以て一切速成の效を圖る。未だ其の利を享けずして、澆風已に成る。驟進の門多く開き、意外の得有らしむ。公卿侍從跬步圖る可く、常調の人をして舉げて非望を生ぜしむ。風俗の厚きを望まんと欲す、豈に得可けんや。近歲樸拙の人愈よ少なく、巧進の士益多し。惟ふに陛下之を哀れみ之を救ひ、簡易を以て法と爲し、清淨を以て心と爲して、民德厚きに歸せんことを。臣の陛下に風俗を厚くせんことを願ふ所以の者、此れなり。

祖宗臺諫を委任し、未だ嘗て一言の者を罪せず。縦ひ薄責有るとも、旋ち即ち超升し、風聞を許して官長無し。言乘輿に及べば、則ち天子容を改め、事廊廟に關すれば、則ち宰相罪を待つ。臺諫固より必ずしも皆賢ならず、言ふ所亦必ずしも皆是ならず。然れども須らく其の銳氣を養ひ、之に重權を借するは、豈に徒然ならんや。將に奸臣の萌を折らんと爲すなり。今、法令嚴密、朝廷清明、所謂る奸臣は、萬に此の理無し。然れども猫を養ひて鼠を去るも、鼠無きを以て捕らざる猫を養ふ可からず。狗を畜へて盜を防ぐも、盜無きを以て吠えざる狗を畜ふ可からず。陛下上は祖宗此の官を設くるの意を念ひ、下は子孫萬世の防を爲さざる可けんや。臣長老の談を聞くに、皆臺諫の言ふ所は常に天下の公議に隨ふと謂ふ。公議の與する所、臺諫亦之に與し、公議の撃つ所、臺諫亦之を撃つ。今者物論沸騰し、怨讟交至る。公議の在る所、亦之を知る。臣恐らくは自茲以往、習慣風と成り、盡く執政の私人と爲り、以て人主の孤立を致し、紀綱一たび廢れば、何事か生ぜざらん。臣の陛下に紀綱を存せんことを願ふ所以の者、此れなり。

軾、安石の神宗を贊して獨斷專任せしむるを見て、因りて進士に試みて策を發し、「晉武吳を平ぐるは獨斷を以てして克ち、苻堅晉を伐つは獨斷を以てして亡び、齊恒管仲を專任してたり、燕噲子之を專任して敗る。事同じくして功異なる」を以て問ふと爲す。安石滋に怒り、御史謝景溫をして其の過を論奏せしめ、窮治するも得る所無し。軾遂に外を請ひ、杭州を通判す。高麗貢に入る。使者幣を官吏に發し、書に甲子と稱す。軾之を卻けて曰く、「高麗本朝に稱臣すと雖も、正朔を稟せず。吾安んぞ敢へて受けん」と。使者書を易へて熙寧と稱し、然る後に之を受く。

時に新法が日々下され、軾はその間にあって、常に法に因って民に便宜を図り、民はこれに頼って安んじた。密州知州に転じた。司農寺が手実法を施行し、時を移さず施行しない者は違制の罪に問うた。軾は提挙官に言うには、「違制の罪は、もし朝廷から出たものであれば、誰が従わないことがあろうか。今は司農寺から出ている。これは勝手に律を作るものである」と。提挙官は驚いて言うには、「貴殿は暫くゆっくりなさるがよい」と。間もなく、朝廷は法が民を害することを知り、これを廃止した。

盗賊の事件が発生すると、安撫司が三班使臣を派遣して悍卒を率いさせ捕らえさせたが、卒は凶暴で勝手に振る舞い、禁物をでっち上げて民を誣告するに至り、その家に入って争い殺人し、しかも罪を恐れて驚き潰走し、乱を起こそうとした。民は軾に訴え出た。軾はその書状を投げ出して見ようともせず、「必ずここまでには至らない」と言った。散り散りになった卒らはこれを聞き、少し安んじた。軾はゆっくりと人をやって招き出してこれを誅殺した。

徐州知州に転じた。黄河が曹村で決壊し、梁山泊に氾濫し、南清河に溢れ出て、城下に匯流し、水かさが増して時を移さず排水されず、城は崩壊しようとした。富民は争って避水のために出て行こうとした。軾は言うには、「富民が出て行けば、民は皆動揺する。私は誰と共に守ろうか。私がここにいる以上、水が決して城を崩すことはできない」と。彼らを追い立てて再び入らせた。軾は武衛営に行き、卒長を呼んで言うには、「黄河が城を害そうとしている。事態は切迫している。禁軍であっても我がために力を尽くしてほしい」と。卒長は言うには、「太守でさえ泥水を避けられない。我々小人は、命を捧げるべきである」と。その配下を率いて箕と鍬を持って出て、東南の長堤を築き、端は戯馬台から始まり、末端は城に連なった。雨は日夜止まず、城が沈まないのはあと三版のところであった。軾はその上に小屋を建てて住み、家を通り過ぎても入らず、官吏を分けて各区域を守らせ、ついに城を全うした。さらに来年の人夫を徴発して旧城を増築し、木岸を作り、水が再び来るのに備えるよう請願した。朝廷はこれに従った。

湖州知州に転じ、上表して謝意を述べた。また、民に不便な事柄については敢えて言わず、詩に託して諷諫し、国に補うところがあればと願った。御史の李定、舒亶、何正臣がその上表の言葉を拾い上げ、さらに彼の作った詩をでっち上げて誹謗であるとし、御史台の獄に捕らえ、死罪に処そうとした。でっち上げの取り調べは長く続いたが決着しなかった。神宗はただ彼を哀れに思い、黄州団練副使として安置した。軾は田舎の老人らと、溪山の間に交わり、東坡に住居を築き、自ら「東坡居士」と号した。

三年、神宗はたびたび再び任用する意向を示したが、常に権力の座にある者によって阻まれた。神宗はかつて宰相の王珪、蔡確に言った、「国史は最も重い。蘇軾に完成させることができる」と。珪は難色を示した。神宗は言った、「軾が無理なら、暫く曾鞏を用いよ」と。鞏が『太祖総論』を進上したが、神宗の意に合わず、そこで手札を下して軾を汝州に移し、次のように言った、「蘇軾は左遷されて過ちを反省し、年月を経るごとに深まっている。人材は実に得難い。終わりまで棄てるに忍びない」と。軾は汝州に着く前に、上書して自ら飢えと寒さを訴え、常州に田があるので、そこに住むことを願った。朝に奏上し、夕に許可の返答があった。

道中金陵に立ち寄り、王安石に会い、言った、「大規模な軍事と大獄は、漢、唐が滅亡する兆しである。祖宗は仁厚をもって天下を治め、正にこれを革めようとされた。今西方で戦争が行われ、連年解決せず、東南ではたびたび大獄が起こっている。貴公はただ一言もこれを救う言葉を発しないのか」と。安石は言った、「二つの事柄は皆、呂恵卿が始めたものである。安石は外にいる。どうして敢えて言えようか」と。軾は言った、「朝廷にあれば言い、外にあれば言わないのは、君主に仕える常礼である。上(皇帝)が貴公をもってする扱いは、常礼ではない。貴公が上をもってする扱いは、どうして常礼でよいのか」と。安石は声を荒げて言った、「安石は言わねばならぬ」と。また言った、「安石の口から出て、子瞻(軾の字)の耳に入る」と。また言った、「人は、一つの不義を行い、一人の罪なき者を殺し、天下を得るとしても行わない、ということを知らねばならぬ」と。軾は戯れて言った、「今の君子は、半年の磨勘(勤務評定による昇進待機期間)を減らすことに争い、たとえ人を殺すことでもするであろう」と。安石は笑って何も言わなかった。

常州に着くと、神宗が崩御し、哲宗が即位した。朝奉郎、登州知州に復し、礼部郎中に召された。軾は以前から司馬光、章惇と親しかった。時に光は門下侍郎、惇は枢密院知事であり、二人は仲が悪く、惇は常にからかって侮り光を困らせ、光はこれを苦にしていた。軾は惇に言った、「司馬君実(光の字)は当代の声望が甚だ重い。昔、許靖は虚名だけで実がなく、しょくの先主(劉備)に軽蔑されたが、法正が言った、『許靖の浮いた名声は四海に広まっている。もし礼を加えなければ、必ず賢者を軽んじたことが累となろう』と。先主はこれを受け入れ、ついに許靖を司徒しととした。許靖でさえ軽んじてはならない。まして君実(光)においておや」と。惇はこれを正しいと思い、光はこれによって少し安んじた。

起居舎人に遷った。軾は憂患から立ち上がったばかりで、急に要職に就くことを望まず、宰相の蔡確に辞退した。確は言った、「貴公は長く待機していた。朝中に貴公より優れた者はいない」と。軾は言った、「昔、林希が同じく館職にいたが、年も長じている」と。確は言った、「林希が確かに貴公より先であるべきか」と。ついに許さなかった。元祐元年、軾は七品の服で延和殿に侍し、すぐに銀緋(銀魚袋と緋色の袍)を賜り、中書舎人に遷った。

初め、祖宗の時代、差役法が長く行われ弊害が生じ、戸籍に編入されて役を充てられた者はその役に慣れず、また酷使され、多く破産に至り、狭い郷の民には一年中休むことのできない者さえいた。王安石が神宗の宰相となり、免役法に改め、戸の等級の高低に応じて銭を出させて役を雇わせたが、法を執行する者が過剰に取り立て、民の苦しみとなった。司馬光が宰相となり、免役法の害は知っていたが、その利は知らず、差役法に復そうとし、役所を設けて官を差し、軾もその選に加わった。軾は言った、「差役、免役は、それぞれ利害がある。免役の害は、民財を搾り取り、十軒のうち九軒が空になり、上に収斂されると下には銭不足の患いがある。差役の害は、民が常に官にあり、農事に専念できず、貪欲な官吏や狡猾な下役人がこれに乗じて悪事を働く。この二つの害の軽重は、ほぼ等しいと言えよう」と。光は言った、「君はどう考えるか」と。軾は言った、「法が相継ぐなら事は成し易く、事に漸進があれば民は驚かない。三代の法は、兵と農が一つであったが、秦に至って初めて二つに分かれ、唐の中葉に至り、府兵を全て長征の兵卒に変えた。それ以来、民は兵事を知らず、兵は農事を知らず、農は穀物と布帛を出して兵を養い、兵は命を出して農を守り、天下はこれを便利とした。たとえ聖人が再び現れても、変えることはできない。今の免役法は、実にこれに大いに類する。貴公が急に免役を廃して差役を行おうとされるのは、ちょうど長征の兵を廃して民兵に復するようなもので、容易ではない」と。光はこれを正しいと思わなかった。軾はまた政事堂で陳述した。光は憤然とした。軾は言った、「昔、韓魏公(韓琦)が陝西で義勇兵を徴発した時、貴公は諫官として、非常に力を込めて争い、韓公は喜ばず、貴公も顧みなかった。軾はかつて貴公がその詳細を話されるのを聞いた。まさか今日宰相となられて、軾に言い尽くすことを許されないというのか」と。光はこれを笑った。間もなく翰林学士に任じられた。

二年、侍読を兼ねた。進講する毎に治乱興衰、邪正得失の際に至ると、未だ嘗て反復して開導し、啓発して悟らせようとしなかったことはなかった。哲宗は恭しく黙して言わなかったが、常に肯いて同意した。かつて祖宗の『宝訓』を読み、時事に因って、軾は歴然と述べた、「今、賞罰は明らかでなく、善悪に対して勧めることも止めることもない。また黄河の流勢は今まさに北へ流れようとしているのに、強いて東へ流させようとしている。夏人が鎮戎軍に入り、数万人を殺掠したが、帥臣はこれを上聞しない。何事もこのようでは、恐らく次第に衰乱の兆しとなっていくであろう」と。

軾はかつて禁中に宿直し、便殿に召し入れられて対面した。宣仁太后が問うて曰く、「卿は前年、何の官であったか。」曰く、「臣は常州団練副使でございました。」曰く、「今は何の官か。」曰く、「臣は今、翰林学士の職にあり、罪を待つ身でございます。」曰く、「どうして急にここまで至ったのか。」曰く、「太皇太后・皇帝陛下のご恩遇によるものでございます。」曰く、「そうではない。」曰く、「まさか大臣の論薦によるのでしょうか。」曰く、「それも違う。」軾は驚いて曰く、「臣は無様ではありますが、他からの途を以て進むことは致しません。」曰く、「これは先帝の御心である。先帝は卿の文章を誦するごとに、必ず歎じて『奇才、奇才!』と言われた。ただ卿を進用するに及ばなかっただけだ。」軾は思わず声をあげて泣き、宣仁太后と哲宗も泣き、左右の者も皆感涙した。やがて座を賜り茶を賜い、御前の金蓮燭を撤して院に送り帰らせた。

三年、礼部貢挙を権知す。大雪が降り厳寒となり、士子らは庭中に坐り、口を閉ざして言葉を発することができなかった。軾は禁令を緩め、彼らが十分に技を尽くせるようにした。巡鋪の内侍がしばしば挙子を挫き辱め、かつ曖昧な単語を握り、罪に陥れようとしたので、軾はことごとく奏上して彼らを追放した。

四年、積もり積もって事を論じたため、権力者に憎まれた。軾は容れられぬことを恐れ、外任を請い、龍図閣学士・杭州知事に拝された。未だ赴任せず、諫官が言うには、前宰相の蔡確が安州知事となり、郝処俊の故事を借りて詩を作り、太皇太后を諷したと。大臣らは彼を嶺南に遷すことを議した。軾は密かに上疏して曰く、「朝廷がもし確の罪を軽くすれば、皇帝の孝治に足らざるものあり。もし確を深く罪すれば、太皇太后の仁政に小さき累いとなろう。謂わく、宜しく皇帝が勅を下して獄を置き逮捕処罰させ、太皇太后が手詔を出してこれを赦すべし。然らば仁と孝の両者を得るであろう。」宣仁太后は心に軾の言を善しとしながらも用いることができなかった。軾が郊外に出るに際し、前執政の恩例を用い、内侍を遣わして龍茶・銀合を賜い、慰労すること甚だ厚かった。

既に杭州に至ると、大旱魃が起こり、飢饉と疫病が併発した。軾は朝廷に請い、本路の上供米の三分の一を免除させ、さらに度僧牒を賜ることを得て、米に換えて飢えた者を救った。明年の春、また常平米を減価して売り出し、多く粥や薬剤を作り、使者に医者を帯同させて各坊に分かれて病気を治療させ、生き延びた者は甚だ多かった。軾曰く、「杭州は水陸の要衝であり、疫病死する者は他処より常に多い。」乃ち余剰の緡銭を集めて二千を得、さらに嚢中の黄金五十両を出し、以て病坊を作り、少しずつ銭糧を蓄えてこれに備えた。

杭州は本来海に近く、地泉は鹹苦であり、居民は稀少であった。唐の刺史李泌が始めて西湖の水を引き六井を作り、民は水に足りた。白居易はまた西湖の水を浚って漕河に入れ、河より田に入れ、灌漑すること千頃に至り、民は殷富となった。湖水には葑(マコモ)が多く、唐より銭氏の時代まで、毎年浚治していたが、宋が興ってこれを廃し、葑が積もって田となり、水はほとんど無くなった。漕河は利を失い、江潮に給するようになり、舟は市中を行き、潮はまた多く淤泥し、三年に一度浚渫するのは民の大患となり、六井もまたほとんど廃れた。軾は茅山一河が専ら江潮を受け、塩橋一河が専ら湖水を受けるのを見て、遂に二河を浚って漕運を通じさせた。また堰閘を造り、以て湖水の貯留・放流の制限とし、江潮は再び市中に入らなくなった。余力を以て六井を再び完備し、また葑田を取って湖中に積み、南北三十里に径る長堤を作って通行する者の便とした。呉人は菱を植え、春になれば刈り除き、一寸の草も残さない。かつ人を募って湖中に菱を植えさせ、葑は再び生じなくなった。その利益を収めて湖の修繕に備え、救荒の余剰銭一万緡・糧一万石を取り、及び百僧の度牒を得ることを請いて役夫を募った。堤が完成し、その上に芙蓉・楊柳を植えると、望むこと絵図の如く、杭州人はこれを蘇公堤と名付けた。

杭州の僧浄源は、旧く海浜に居住し、舶客と交際し、船が高麗に至ると、互いに彼を称賛した。元豊の末、その王子の義天が来朝し、因って往きて拝謁した。この時、浄源が死ぬと、その徒弟が密かにその像を持ち、船に附して告げに行った。義天もまたその徒弟を遣わして来祭させ、因ってその国母の二金塔を持たせ、両宮の寿を祝うと云った。軾は受け取らず、これを奏上して曰く、「高麗は久しく貢ぎせず、賜与の厚利を失い、朝貢を求めたい意向であるが、我が待遇の厚薄を測りかねている。故に亡僧を祭ることを因として祝寿の礼を行っているのである。もし受けても答えなければ、怨みの心を生じよう。受けても厚く賜えば、正にその計略に陥る。今は知らせずに、州郡が自ら道理を以てこれを退けるべきである。彼らの凡庸な僧侶と狡猾な商人が、国のために事を生じさせるのは、漸くして長ずべからず、宜しく痛く懲らしめるべし。」朝廷は皆これに従った。未だ幾ばくもせず、貢使が果たして至った。旧例では、使者の至る呉越七州で、費用二万四千余緡を要した。軾は乃ち諸州に命じて事に応じて裁減させ、民は交易の利を得、再び侵掠の害を受けることはなくなった。

浙江の潮は海門より東来し、勢い雷霆の如く、而して浮山が江中に峙え、漁浦の諸山と犬牙相錯し、渦巻き激しく射て、毎年公私の船を損壊すること数え切れない。軾は議して、浙江上流の地名石門より、山に並びて東へ、漕河として鑿ち、浙江及び渓谷の諸水を二十余里引きて江に達せしめようとした。また山に並んで岸とし、十里に満たずして龍山大慈浦に達し、浦より北折して小嶺に至り、嶺を六十五丈鑿って嶺東の古河に達し、古河を数里浚って龍山の漕河に達し、以て浮山の険を避けようとした。人は便利と思った。奏聞するに、軾を憎む者がおり、力を尽くしてこれを阻み、工事は故に成らなかった。

軾はまた言う、「三呉の水は太湖に瀦り、太湖の水は松江に溢れて海に入る。海は日に二度潮が来る。潮は濁り江は清し。潮水は常に江路を淤塞せんと欲し、而して江水は清く速やかなり、随って直ちに洗い去る。海口が常に通ずれば、則ち呉中に水害少なし。昔、蘇州より以東、公私の船は皆篙で行き、陸で牽く者は無かりき。慶暦以来、松江に大いに挽路を築き、長橋を建てて江路を扼塞した。故に今、三呉に水多く、挽路を鑿ち、十橋を作り、以て江の勢いを迅めんと欲す。」とも果たして用いられず、人皆これを恨んだ。軾は二十年の間に再び杭州に臨み、民に徳あり、家には画像を掛け、飲食の際必ず祝った。また生祠を作って報いた。

六年、吏部尚書として召されたが、未だ至らず。弟の轍が右丞に除せられたため、翰林学士承旨に改めた。轍は右丞を辞し、兄と共に従官に備えんとしたが、聴かれなかった。軾は翰林に在ること数ヶ月、また讒言により外任を請い、乃ち龍図閣学士を以て潁州知事として出た。先に、開封の諸県に水害多く、吏は本末を究めず、その陂沢を決し、惠民河に注ぎ、河は堪えられず、陳州もまた水多くした。また鄧艾溝を鑿って潁河と並べ、且つ黄堆を鑿って淮河に注がんとしようとした。軾が初めて潁に至り、吏を遣わして水準器で測らせると、淮河の漲水は新溝より一丈近く高く、もし黄堆を鑿てば、淮水は却って潁の地に流れて患いとなろう。軾は朝廷に言上し、従われた。

郡に宿賊の尹遇らがおり、数度人を劫略殺害し、また捕盗の吏兵を殺した。朝廷は名指しで捕らえられず、殺された家はまたその害を恐れ、匿って敢えて言わなかった。軾は汝陰尉の李直方を召して曰く、「君がこれを捕らえ得れば、力を尽くして朝廷に言上し、優れた賞を行うよう乞う。獲られなければ、また不職を以て君を奏免しよう。」直方には老いた母あり、母と決別して後に行った。乃ち盗賊の所在を探知し、その党与を分捕し、手戟を以て遇を刺し、これを捕らえた。朝廷は小さいことで格に応ぜず、賞を推及せず。軾は己の年功を以て、朝散郎の階を改めるべきところを、直方の賞に当てるよう請うたが、従われなかった。その後、吏部が軾の昇進を定めようとした時、その考課に符合させようとしたが、軾は既に直方に約したと謂い、また報いられなかった。

七年、揚州に移る。旧来の発運司は東南の漕法を主管し、舟を操る者に私的に物貨を積載することを許し、徴商は留難することができなかった。故に舟を操る者は富厚となり、官舟を家とし、その破損漏洩を補い、かつ船夫の困窮を救済したので、積載するものは概ね速達して憂いがなかった。近年は一切これを禁じて許さず、故に舟は弊れ人は困窮し、多くは積載したものを盗んで飢え寒さをしのぎ、公私ともに弊害を被った。軾は旧制の復活を請い、これに従った。一年を経ずして、兵部尚書として召され侍読を兼ねる。

この年、哲宗はみずから南郊で祭祀を行い、軾は鹵簿使となり、導駕して太廟に入った。赭繖犢車と青蓋犢車十余輛が道を争い、儀仗を避けなかった。軾は御営巡検使を使ってこれを問わせたところ、皇后および大長公主の車であった。時に御史中丞李之純が儀仗使であったが、軾は言った、「中丞の職は政を粛正すべきであり、これを上聞しないわけにはいかない」。之純は敢えて言わなかったので、軾は車中よりこれを奏上した。哲宗は使いに疏を持たせて馳せさせ太皇太后に報告させ、翌日、詔して儀衛を整え粛正し、皇后以下みな迎謁してはならないとした。まもなく礼部尚書に遷り、端明殿学士・翰林侍読学士の両学士を兼ねた。高麗が使いを遣わして書籍を請うたので、朝廷は故事により全て許そうとした。軾は言った、「漢の東平王が諸子の書および『太史公書』を請うた時でさえ、なお与えようとしなかった。今、高麗の請うところは、これよりも甚だしい。どうして与えることができようか」。聞き入れられなかった。

八年、宣仁后が崩御し、哲宗が親政を始めた。軾は外補を乞い、両学士のまま定州知州として出向した。時に国事は変革せんとし、軾は入朝して辞することができなかった。既に出発した後、上書して言う。

「天下の治乱は、下情の通塞より出ず。至治の極みにおいては、小民すら皆自ら通ずることができ、大乱に至っては、近臣でさえ自ら上達することができない。陛下が御位に臨まれて九年、執政・台諫を除いては、未だ群臣と接せられたことがない。今、聴政の初めに当たり、下情を通じ、壅蔽を除くことを急務とすべきである。臣は日に帷幄に侍り、まさに辺境を守らんとするに、顧みて一見することもできずに出発する。まして疏遠の小臣が自ら通ぜんと欲するは、難しいことである。然れども臣は、対面できなかったことを理由に、愚かな忠誠を尽くさないわけにはいかない。古の聖人は、将に為さんとする時、必ずまず晦に処って明を観、静に処って動を観る。そうすれば万物の情は、ことごとく前に陳べられる。陛下の聖智は人に絶し、春秋に鼎盛である。臣は願わくは虚心に理に循い、一切未だ為すところなく、黙って庶事の利害と群臣の邪正を観察されんことを。三年を期とし、その実を得てから、然る後に物に応じて作興されたい。そうすれば、既に作した後、天下に恨みなく、陛下もまた悔いなからん。これより観れば、陛下の有為は、ただ早きを憂うるのみで、稍々遅きを患うるには及ばず、また既に明らかである。臣は恐らくは、急進好利の臣が、軽々しく陛下に変更を勧めるであろうから、この説を進める。敢えて願わくは陛下留意されんことを。社稷宗廟の福、天下幸甚である」。

定州の軍政は弛み崩れ、諸衛の兵卒は驕惰で教えず、軍校は兵卒の廩賜を蚕食し、前任の守は誰何しようとしなかった。軾は貪汚の者を捕らえて遠悪の地に配流し、営房を修繕し、飲酒博奕を禁止した。軍中の衣食が稍々足りるようになってから、戦法を部署し規律したので、衆は皆畏服した。然し諸校は業々として不安を抱き、ある卒史が贓罪をもってその長を訴えた。軾は言った、「この事は我が自ら治めればよい。汝の告げるに任せれば、軍中が乱れる」。直ちに決して配流し、衆はようやく定まった。春の大閲に際し、将吏は久しく上下の分を廃していた。軾は旧典を挙行するよう命じ、帥は常服で帳中より出で、将吏は戎服で執事した。副総管王光祖は自ら老将を任じ、これを恥じて、病と称して来なかった。軾は書吏を召して奏文を作らせると、光祖は恐れて出てきて、事を終えるまで、一人として怠慢な者はなかった。定州の人は言った、「韓琦が去って以来、今日までこの礼を見なかった」。契丹とは久しく和しており、辺兵は用をなさず、ただ沿辺の弓箭社のみが寇と隣り合わせで、戦射をもって自衛し、なお精鋭と称されていた。故相の龐籍が辺境を守った時、その俗に因って法を立てた。歳月が経ち法は弛み、また保甲法に阻害されていた。軾は保甲および両税の折変・科配を免除するよう奏上したが、返答がなかった。

紹聖初年、御史が軾が内外の制誥を掌った時、作った詞命が先朝を譏斥していると論じた。そこで本官のまま英州知州とされ、まもなく一官を降格され、未だ到着せずに、寧遠軍節度副使に貶ぜられ、惠州に安置された。三年居住し、淡泊として何のわだかまりもなく、人の賢愚を問わず、皆その歓心を得た。さらに瓊州別駕に貶ぜられ、昌化に居住した。昌化は、もと儋耳の地で、人の住むところではなく、薬餌も何もなかった。初め官屋を借りて住んだが、有司がなお不可とすると、軾は遂に地を買って家を築き、儋人が甓を運び土を畚うてこれを助けた。ただ幼子の過と共に処し、著書をもって楽しみとし、時にその父老に従って遊び、終身をここに過ごさんとするかのようであった。

徽宗が即位すると、廉州に移され、舒州団練副使に改められ、永州に移された。三度の大赦を経て、遂に玉局観提挙に任ぜられ、朝奉郎に復した。軾は元祐以来、歳課をもって昇進を乞うたことがなく、故に官はここに止まった。建中靖国元年、常州にて卒す。享年六十六。

軾は弟の轍と共に、父の洵を師として文を学び、既にして天より得るところがあった。嘗て自ら言う、「文を作ることは行雲流水の如く、初め定まった質はないが、ただ常に行くべき所に行き、止むべからざる所に止まるのみである」。嬉笑怒罵の辞といえども、皆書き記し誦することができた。その文体は渾涵として光芒を放ち、百代を雄視し、文章の有って以来、蓋しまた稀である。洵は晩年に『易』を読み、『易伝』を作ったが未だ完成せず、軾にその志を述べるよう命じた。軾は『易伝』を完成し、さらに『論語説』を作った。後に海南に居住し、『書伝』を作った。また『東坡集』四十巻、『後集』二十巻、『奏議』十五巻、『内制』十巻、『外制』三巻、『和陶詩』四巻がある。一時の文人、黄庭堅・晁補之・秦観・張耒・陳師道らは、世に未だ認められていなかったが、軾は彼らを朋儔の如く遇し、未だ師資たることを自ら任じなかった。

挙子たる時から出入りして侍従に至るまで、必ず君を愛することを本とし、忠規讜論、挺挺たる大節は、群臣の中にその右に出る者なし。ただ小人に忌み悪まれ擠排され、朝廷の上に安んぜしめられなかったのみである。

高宗が即位すると、資政殿学士を追贈し、その孫の符を礼部尚書とした。またその文章を左右に置き、これを読むこと終日倦むことを忘れ、文章の宗と謂い、自ら集の賛を制し、その曾孫の嶠に賜うた。遂に太師を追贈し、諡して「文忠」とした。軾に三子あり、邁・迨・過、皆善く文を作る。邁は駕部員外郎。迨は承務郎。

子 過

過、字は叔党。軾が杭州を知った時、過は年十九、詩賦をもって両浙路の解試に合格し、礼部試に下第した。軾が兵部尚書となった時、右承務郎に任ぜられた。軾が定武を帥とし、英州知州に謫ぜられ、惠州に貶ぜられ、儋耳に移され、漸次廉州・永州に移された時、ただ過のみがこれに侍った。凡そ生計に必要なもの、昼夜寒暑にわたる一切を、一身で百般のことを為し、その難しさを知らなかった。初めて海上に至り、『志隠』と題する文を為した。軾はこれを見て言った、「我れは島夷に安んずることができる」。そこで命じて『孔子弟子別伝』を作らせた。軾が常州で卒すると、過は軾を汝州郟城の小峨眉山に葬り、遂に潁昌に家を構え、湖陰に数畝の水竹を営み、「小斜川」と名付け、自ら「斜川居士」と号した。卒す。享年五十二。

初めに太原府の税を監り、次に潁昌府郾城県の知事となったが、いずれも法令により罷免された。晩年には中山府の通判を権知した。『斜川集』二十巻がある。その『思子臺賦』と『颶風賦』は早くから世に行われた。当時「小坡」と称され、これは蘇軾を「大坡」としたためである。叔父の蘇轍は常に蘇過の孝行を称え、宗族の訓戒とした。かつて言う、「我が兄は遠く海上に住み、ただこの児(蘇過)を成し遂げて文を能くするに至った」と。七人の子あり、籥・籍・節・笈・篳・篴・箾。

論じて曰く、蘇軾は童子であった時、士人で石介の『慶曆聖德詩』を蜀中に伝えた者がおり、軾は詩中に言う韓琦・富弼・杜衍・范仲淹ら諸賢を歴挙して師に問うた。師は怪しんで語ると、軾は曰く、「正に是れ諸人を識らんと欲するのみ」と。既に当世の賢哲と頡頏する意があったのである。弱冠にして、父子兄弟は京師に至り、一日にして声名赫然として四方を動かした。既に上第に登り、詞科に擢でられ、内に入って書命を掌り、外に出て方州を典した。器識の閎偉、議論の卓犖、文章の雄雋、政事の精明、この四者は皆、特立の志を以て之が主となり、邁往の気を以て之を輔うることができた。故に意の向かう所、言は以て其の猷有るを達するに足り、行いは以て其の為有るを遂げるに足る。禍患の来るに至っては、節義は以て其の守有るを固くするに足り、皆な志と気の為す所である。仁宗は初めて軾・轍の制策を読み、退いて喜びて曰く、「朕今日子孫の為に両宰相を得たり」と。神宗は特に其の文を愛し、宮中にて読み、膳を進むるに食を忘れ、天下の奇才と称した。二君は皆な軾を知る所以有り、而して軾は終に大用を得ず。一人の欧陽脩先ず之を識り、其の名遂に之と斉しき、豈に軾の長ずる所、掩抑すべからざるは、天下の至公なるに非ずや、相たる相たらずは命有り、嗚呼、軾が相を得ざるは、又た豈に幸いならずや。或いは謂う、「軾稍々自ら韜戢すれば、柄用を獲ずと雖も、亦た禍を免るべし」と。然りと雖も、仮令軾是れを以てして其の為す所を易うるとも、尚ほ軾たるを得んや。