宋史

列傳第九十二 楊佐 李兌 沈立 張掞 張燾 兪充 劉瑾 閻詢 葛宮 張田 榮諲 李載 姚渙 朱景 李琮 朱壽隆 盧士宏 單煦 楊仲元 余良肱 潘夙

楊佐

楊佐、字は公儀、本は唐の靖恭諸楊の後裔であり、楊佐に至って、宣に家を構えた。進士に及第し、陵州推官となった。州に塩井があり深さ五十丈、すべて岩盤である。底には柏の木を幹として用い、上は井戸口に出て、縄を垂らして下り、ようやく水に届く。歳月が経ち幹が朽ち崩れ、これを取り替えようとしたが、陰気が上に立ち昇り、入る者は即死する。ただ天に雨があれば、気がそれに従って下がり、やや工事ができるが、晴れると直ちに止めねばならなかった。楊佐は工人に木の盤に水を貯め、穴を開けて洒水し、雨滴のようになるものを教え、「雨盤」と称した。このように数ヶ月を経て、井戸の幹は一新し、利益は元の通りに戻った。

累遷して河陰発運判官となり、河渠司を幹当した。皇祐年間、汴水が常ならず氾濫し、漕運の船が連続して運行できなかった。楊佐は地形を測り溝を穿ち以て河流を通じ、ここに都水監を設置し、楊佐を塩鉄判官として同判を命じた。京城の地勢は南に向かって低く、夏秋に及ぶと霖潦に苦しんだ。楊佐は永通河を開削し、溝澮を疏浚して野外に導き出し、これより水害は止んだ。また孟陽河の治水を議し、議者は不便と謂った。楊佐は言う、「国初には毎年京東の粟数十万石を転送したが、今運ばれるものは幾ばくもない。もし旧跡を浚渫して復旧しなければ、後には廃れてしまうであろう」と。乃ちその策に従った。

江・淮発運使として出向した。孟陽の工役では、民を七、八千人徴発し、丘陵や墓を百余り平らげ、怨嗟の声が満ち溢れた。詔して開封に審理させたが、官吏はただ楊佐だけを問わなかった。糾察刑獄の劉敞が貶黜を加えるよう請うたが、聞き入れられなかった。召されて塩鉄副使となり、天章閣待制を拝命し、再び都水を判じ、審官院を知り、権発遣開封府を務めた。

かつて契丹に使いし、虜は方物を饋贈したが、書状にはただ名のみを称した。英宗が崩御し、遺留物を奉じて再び使いしたが、道中で卒した。享年六十一。詔して喪を護送して帰らせ、黄金を賻贈し、その家を恤った。

李兌

李兌、字は子西、許州臨潁の人。進士に及第し、屯田員外郎より殿中侍御史となった。斉州の叛卒を按問し、獄が成ったが、夜に囚人を奪おうとする者があった。李兌は便宜を以てこれを斬り、人々はその機略に服した。

張堯佐が河陽を判じたとき、李兌は堯佐は素より行能なく、戚里の故を以て用いるべからずと上言した。同知諫院に改めた。狄青が広西を宣撫するとき、入内都知の任守忠が副使となった。李兌は宦官を以て軍容を観させ、主将を掣肘させるは良策にあらずと上言し、仁宗は守忠を罷免させた。太常の新楽が成ったとき、王拱辰は十二の鐘磬をすべて黄鐘を律とするは古と異なるとし、胡瑗及び阮逸も声が諧わないと述べた。詔して近臣を集めて議させたが、久しく決しなかった。李兌は言う、「楽の道は広大微妙にして、知音入神ならざれば、豈に軽々に議するを容れん。新旧を参酌し、ただ諧和にして雅に近きものを取り、合わせて用いることを願う」と。侍御史知雑事に進み、天章閣待制・知諫院に抜擢された。転運使の制禄は郡守と異なり、時に弾劾により節度使を奪われた者や老疾により州を請うた者は、一切なお俸給を得ていた。李兌はこれは勧沮の道にあらずと上言し、乃ち詔してすべて居官の官格に依るべしとした。李兌は言職に十年在り、凡そ論諫する所は、自ら表立って誇示せず、故に世に伝わるもの少なし。

杭州知州として出向し、帝は「安民」の二字を書して寵遇した。越州に転じ、龍図閣直学士を加えられ、広州知州となった。南人は劉氏が帰順して以来、李兌のみが清節を顕わしたと謂う。還って河陽知州となり、帝はまた詩を以て寵遇した。鄧州に転じた。富人が僕を殴打して死なせ、首に縄をかけて井戸に投げ込み、縊死したと偽った。李兌は言う、「既に井戸に赴き、また自ら縊る、この理あらんや。必ずや吏が賄賂を受け教えたのであろう」と。訊問すると果たしてその通りであった。

李兌は名だたる州郡を歴任して守り、政は簡にして厳しく、老いて益々精明であった。鄧州より帰り、淡泊として仕宦の意なく、便殿に対し、力いっぱい退任を願い出た。英宗は拝礼を免じ、集賢院学士・判西京御史臺とした。積官して尚書右丞となり、工部尚書に転じて致仕した。卒す。享年七十六、諡して「莊」と曰う。従弟に先がいる。

従弟 先

先、字は淵宗、進士より起き、虔州観察推官となり、吉州永新県令を摂行した。両州の俗は訴訟を好み、先は枉直を弁じ、皆その公平を得た。

信州・南安軍を知り、楚州を撫し、利・梓・江東・淮南の転運使を歴任した。寿春の民陳氏が僧に田を施したが、その後貧弱となり、僧の所へ行き食を乞うたが僧に追い出され、僧の園中の筍を取ったので、遂にこれを捕えて盗賊とした。先はその由縁を詰問し、田の半分を奪い返して与えた。赴任する所では官を治めること家の如く、人は俚語を以て目した:信州では「錯安頭」、容貌なくして材能あるを謂い、楚州では「照天燭」、その明察を称えた。楚州に民が賦税の納入に迫られ、牛を殺して売った。里胥が官に報告したが、先はこれを哀れみ、ただ杖刑に処すよう命じた。通判の孫龍舒は徒刑とし、その案を破棄した。翌日龍舒が来ると、先は囚人を引き出して言う、「汝の罪は杖に応ずるが、通判が汝を赦した」と。これを出して遣わした。

官を積み重ねて秘書監に至り、致仕した。兄の沈兌はなお無事であり、事えることますます篤かった。子の沈敘の封により、太中大夫を授かり、閑居すること一紀にして卒す。年八十三。子の庭玉は、年六十にして即ち官を棄てて帰養した。人々はその家法を賢しとしたという。

沈立

沈立、字は立之、歴陽の人。進士に挙げられ、簽書益州判官となり、商胡埽を提挙した。大河の事跡と古今の利害を採り集め、『河防通議』と題する書を著し、河を治める者は皆これを法として守った。両浙転運使に遷る。蘇州・湖州は水害があり、民は食に艱しみ、県は豪強の民に粟を発して振恤するよう戒めたが、立は急ぎこれを返還するよう命じ、自ら貸し付けるよう勧め、歳が熟するのを待ち、官が償いを責めるようにした。茶の専売は民を害し、山場・榷場は多く管内にあり、歳ごとに罪に当たる者は数万に及び、官が得る銭は僅か四万であった。立は『茶法要覧』を著し、通商法を行うよう請い、三司使張方平がその議を上奏した。後に専売法が罷められ、その請いの如くになった。立は召されて戸部判官となった。

契丹に使いし、丁度冊礼を行おうとしており、その国の服に従わせようとし、従わなければ門で会見しようとした。立はこれを折して曰く、「往年、北使が会見の儀を講じた際、北使に冠服を易えさせたことはなく、まして門で会見することなどあろうか」と。契丹は恥じて止めた。

京西北転運使に遷る。都水監が六塔河の工事を興そうとした時、召されて議に与り、立は五股等の河及び漳河を修めるのみに止め、水勢を分かち殺して役を省くよう請い、これに従った。集賢修撰を加えられ、滄州を知り、進んで右諫議大夫・判都水監となり、出て江淮発運使となった。職に居て事を治めるに弁じ、金を賜わることを加えられ、数度詔を下されて嘉された。越州・杭州・審官西院・江寧府を知った。

初め、立がしょくに在った時、公の粟を尽くして書を購い、積んだ巻数は数万に及んだ。神宗が所蔵を問うと、立はその目録及び著した『名山水記』三百巻を上った。宣州に移り、崇禧観を提挙した。卒す。年七十二。

張掞

張掞、字は文裕、斉州歴城の人。父の蘊は、咸平初年、淄州の兵を監った。契丹が侵入し、遊騎が淄・青の間に至ると、州人は城を棄てようとしたが、蘊は刀を抜いて門で遮り止め、力を尽くして守備を治め、遊騎はこれのために引き去った。郡守は愧じ、初め掠めて己が功としようと謀り、却って罪に陥れようとしたが、蘊は受けても争わなかった。

掞は幼くより篤く孝行し、蘊が病むと、股の肉を刲いて療した。進士に挙げられ、益都県を知った。賦租を督めるに当たり、里胥を置かず用いなかったが、民は皆時に応じて納入した。石介が『息民論』を献じ、益都を以て天下の法とすべく請うた。母の喪に服し、時は厳寒であり、徒跣で柩を挙げ、叩頭して血を流し、兄の揆と共に墓の左に廬した。

明道年中、京東が飢え、盗賊が起こり、御史中丞范諷の推薦により、萊州掖県を知った。民が州に旱を訴えたが、拒絶されたので、掞自ら奏して聞かせ、詔して登州・萊州の税を除かせた。永興軍を通判し、集賢校理となり、四遷して龍図閣直学士・成徳軍知軍となった。宦官の閻士良が鈐轄となり、多く帥権を撓乱し、危法を用いて軍校を中傷したので、掞はこれを正し、士良を弾劾した。英宗が即位すると、朝廷が使いを来して告げたが、士良は疾を辞して家に居り、客を宴することを自若としていたので、奏してその罪に当てた。入って太常寺・司農寺を判じ、官を累ねて戸部侍郎に至り致仕した。熙寧七年、卒す。年八十。

掞は忠篤誠実であり、老いてますます康寧であった。若くして劉潜・李冠に従い交わり、その死に及んで、里人を率いて葬り、田を置いてその妻子を贍った。揆に事えること父の如くし、家を理めるには必ず諮って行い、郷党の矜式となった。

張燾

張燾、字は景元、枢密直学士奎の子なり。進士に挙げられ、単州を通判した。州の兵卒が乱を謀り、期日有り、燾は告げる者を得て、徐かに営に詣り首悪を取り、諸法に置いた。沂州・濰州の二州を知った。沂は布を産し、濰は絹を産するが、役所が賦を科するに相反し、燾が初めてこれを改めた。濰には圭田多く、率ね畝を計って絹を徴し、河役を蠲免していたが、燾は例に踵くことを肯ぜず、法を廃してその役を還し、収入は旧より五分の四損じ、且つ吏に命じて曰く、「吾は己を守るを知るのみ、後人を妨げず、汝は式として著すなかれ」と。

河北刑獄を提点し、澶州を摂領すること七日にして商胡が決壊した。燾は溺を拯い飢を救い、全活した者は十余万に及んだが、猶坐して免官された。数年後、再び河東・陝西・京西刑獄を提点し、塩鉄判官・淮南転運使・江淮発運副使となった。泗州に水害があり、城将に壊れんとす、燾は力を尽くして営護し、詔してその労を寵した。入って戸部副使となった。京師は酒に対して麹を賦課し、人に常籍有り、売れようと売れまいと問わず、或いは産を蹶いて償った。燾は歳額を罷め、禁令を厳にし、用いる麹の多寡に随って売るよう請い、これより課税は増溢した。官が睦親宅を修め、民居を取ることを議したが、燾は言う、「芳林園に余地有り、宗室は自ら処するに足り、民居を起こすに庸い無し」と。これに従った。孝厳殿が成り、乾興以来の文武大臣の像を壁に図すよう請うた。

天章閣待制・陝西都転運使に遷る。蒲津の浮橋が壊れ、鉄牛皆水中に没した。燾は策を以て岸に巨木を列ねて衡と為し、その末に石を縋り、引き出して、橋を復た其の初めに戻した。保安の二土豪は騎射に善く、辺人に憚られていたが、故に善馬を放って誘い取り、強いて漢法を以てした。燾はその状を按じて得て、俱に軍に隷させた。龍図閣直学士を加えられ、成都府を知った。蜀人は盗賊多きを苦しみ、燾は保伍を厳にし、隠すことを得ざらしめ、而してその捕限を申し立てた。南蛮が黎州・雅州を寇し、討って走らせ、磨刀崖の戍卒を罷めた。瀛州知州に改めた。

母の喪が終わり服喪期間が明けた。故事によれば、執政を起用するには詔書を、近臣を起用するには堂帖を用いるが、神宗は特に詔書を賜うことを命じた。太常寺を判じ、鄧州・許州の二州を治め、再び太常寺を判じ、通進銀臺司を治め、崇福宮を提挙し、給事中から通議大夫に転じた。卒去、年七十。

燾は才智が敏捷で、常に范仲淹に従って河東に使した。汾州に至ると、民が数百人も道を遮って訴え出たので、仲淹は燾にこれを任せた。ちょうど客と囲碁を打っている最中で、一局が終わらぬうちに、処置は既に完了していた。英宗の時、三司が前に出て奏事し、帝が銭鋳造の経緯を詰問すると、皆答えることができなかったが、燾は隠すことなくことごとく論じた。帝はこれを是とし、左右の者にその姓名を覚えさせ、後に観察使として辺境を守らせようとして言った、「卿の家の世業である」。燾は答えて言った、「臣の叔父亢は大才がありますが、臣は愚かで継ぐことはできません」。そこで止めた。

俞充

俞充、字は公達、明州鄞県の人。進士に及第した。熙寧年間に都水丞となり、汴河沿いの淤泥を提挙して田を灌漑し、上等の肥沃な土地八万頃を得た。中書戸房を検正し、集賢校理を加えられ、淮南転運副使となり、成都路転運使に遷った。茂州の羌が辺境を寇したので、充は十策を上書して戎を防禦した。神宗は内侍の王中正を派遣してともに経制させ、三つの堡を築き、永康を再び軍とし、羌の衆を詐って殺して中正の功としたため、中正と深く結びつき、ついには妻を出して彼に拝礼させた。中正が朝廷に帰還すると、充を挙げて任用に堪えるとした。召されて都水監を判じ、直史館に進んだ。中書都検正御史の彭汝礪が、彼が中正に媚び仕えたと論じたため、任命は取りやめとなった。

黄河が曹村で決壊したので、充は救護に向かい、帰還後、河防に関する十余事を上奏し、概ね「水衡(水利)の政が修まらず、因循苟且で、次第に習慣となっている。曹村が決壊した時、役務に就いていた兵はわずか十余人であり、有司自ら敗事を招いたのであって、歳のせいにするのは恐らく適切ではない」と論じた。集賢殿修撰を加えられ、市易を提挙し、歳の課税は百四十万に達した。故事では賜銭すべきところであったが、充は言った、「課税を奏上するのは職務である。今後賜与を廃止することを願う」。詔してこれを聞き入れた。

天章閣待制に抜擢され、慶州を治めた。慶陽の兵は驕慢で、少しでも規律を正そうとするとすぐに悖逆したが、充は厳しく規律を束ね、妄言した者五人を軍門で斬った。病苦の者があると聞けば巡撫して労い食を賜い、死して葬る者なき時は私財を出してその喪を助けたので、これにより威を畏れ恵みを懐く者なきはなかった。環州の田地は夏の境と犬牙交錯し、収穫の度に必ず掠奪に遭い、多くは放棄して顧みられなかったが、充は管下部に檄を飛ばし、時を以て耕植させた。慕家族の山夷が叛き、戸を挙げて西に亡入する者が三百近くに及んだので、充は将の張守約を遣わして塞上に兵を耀かせると、夏人は急いでこれを返還させた。

充が辺境を帥いたのは、実は王珪の推薦によるもので、司馬光の入朝を阻止しようとしたのである。充もまた帝に用兵の意があることを知り、しばしば西征を請うことを唱え、後に言った、「夏の酋長秉常は母の梁氏に害され、あるいは存命でも囚われの身で国政に関与できないと云う。その母は淫らで凶暴に恣にし、国人は怨嗟しており、まさに師を興して罪を問うべき時である。秉常が亡くなれば、桀黠な者が起こり、必ずや我が患いとなろう。今、師を出すに名有り、天がその国を亡ぼすのであれば、破竹の如き容易さと推測される。乗伝して入覲し、攻討の策略を面陳することを得たい」。詔して掾属を入朝させて議させたが、未だ行わぬうちに、充は急死した。年四十九。

劉瑾

劉瑾、字は元忠、吉州の人、劉沆の子である。進士に及第し、館閣校勘となった。沆が亡くなると、褒贈を得た。知制誥の張瓌が詞を草したが、言葉に譏貶が含まれており、瑾は泣いて食事も取れず、家門を閉ざして喪服を着て、宰相を邀えて自ら訴えた。朝廷は書命を改め、瓌を州に左遷し、瑾もまた喪服を着て公門に入った罪で罷職に坐した。喪が明けても官に就かず、墳墓を守ることを請うた。王素が請うて、孝子の志を伸ばさせた。詔して復職し、集賢校理に遷り、睦州を通判し、淮南転運副使となった。召されて起居注を修め、史館修撰を加えられ、河北転運使となり、天章閣待制に拝され、瀛州を治めた。世居と通問した罪に坐し、明州に移された。未だ赴任せず、広州に改めて鎮した。枢密院と戍兵について論じ合わず、虔州に改められた。戦棹都監の楊従先が旨を奉じて兵を募ったが至らず、勝手にその子の懋を遣わして諸県の巡検兵を糾合して郡の下に集めたので、瑾は怒ってこれを責めると、すぐに悖謬の言葉を発し、懋が朝廷に瑾を訴えたため、遂に家に廃された。一年余り後、再び待制となり、江州を治め、福州・秦州・成徳軍を歴任し、卒去した。

瑾は平素より操尚を持ち、治めた所は能をもって称されたが、しかし部下を御するに苛酷で厳しく、寛容に捨てることが少なく、人の短所を面と向かって折ることを好んだので、これにより多く誹怨を招いた。

閻詢

閻詢、字は議道、鳳翔天興の人。若い時から学問で著名であった。進士に及第し、また書判抜萃科に中った。累遷して秘書丞となり、監察御史裏行となった。詔して王素の獄を治めたが、姻戚関係の嫌疑があることを上聞しなかった罪に坐し、河陽の酒税監に降格され、累遷して塩鉄判官となった。契丹に使した。詢は北方の疆理に詳しく、時に契丹は靴淀におり、迎えの者王惠が詢を導いて松亭から行こうとした。詢は言った、「これは松亭の路である。どうして葱嶺を直行せずにこのように迂回するのか。大国の地の広大を誇示して我を欺こうとするのではないか」。恥じて答えることができなかった。直龍図閣を加えられ、梓州を治めた。河東転運使に移され、言上した、「三路の土兵で疲労老衰した者は、その一族の強壮な者に代わることを許すべきである」。聞き入れられた。集賢殿修撰に進み、河中府を治めた。大河が増水して浮橋を損壊したので、詢は長橋に改めた。天章閣待制に拝され、広州を治めたが、直ちに赴任せず、罷職されて商州を治めた。神宗が右諫議大夫に転じさせ、邠州・同州の二州に改め、上清太平宮を提挙し、卒去、年七十九。

葛宮

葛宮、字は公雅、江陰の人。進士に挙げられ、忠正軍掌書記を授かった。文を属することを善くし、『太平雅頌』十篇を上進すると、真宗はこれを嘉し、学士院に召して試し、二階を進めた。また『宝符閣頌』を献じ、楊億に称賛された。南充県を治めた。東川が飢饉となり、民が食に苦しんだので、部使者が資州・昌州の二州を守るよう檄を飛ばし、恵政をもって聞こえた。南剣州を治めた。土豪の彭孫が数百の党を聚め、山沢に憑依して盗賊となり、出て吏民を害し、捕らえることができなかったが、宮は沙県尉の許抗を遣わして諭し降伏させた。溪山の一帯は多く銅・銀を産したが、吏が奸を挟んで利を罔り、課税が年々達成されなかった。宮は一たびその法を変え、歳に余剰六百万を得た。三司使が朝廷に聞こえさせ、賞すべきと論じたが、宮は言った、「天地の産物を、私は盗んでいるようなものだ。どうして功とすることができようか」。遂に言わなかった。

滁州・秀州の二州を治めることに移された。秀州は江湖の間に介在し、吏が関を涇瀆の上に設けて往来を徴税し、時に婚礼や葬儀があっても、期日に急ぐ者は多く間に合わなかったので、宮は命じてことごとくこれを撤去させた。官を積んで秘書監・太子賓客となった。治平年間に工部侍郎に転じた。熙寧五年、卒去、年八十一。宮は性格が敦厚で、宗族を恤み録し、孤児や寡婦を撫で、これにより生き延びた者は甚だ多かった。

宮の弟の密もまた進士となり、光州推官となった。豪民の李新が人を殺し、その罪を邑民の葛華に着せ、かつ華の子を証人に用いた。獄が決したが、密はその実情を得て、彼を釈放した。法に照らして賞を受けるべきであったが、密は州に申し出て言わないようにさせた。官は太常博士に至った。天性恬淡で静かであり、五十歳の時、突然上表して致仕を願い出た。姻族や友人たちが交わって引き留めたが、笑って言った、「罪や病気、老死に至るまで休官しない者が、どうして余裕があろうか」と。すぐに退居し、「草堂逸老」と号し、八十四歳でようやく亡くなった。平生、詩を作るに李商隱を慕い、西崑体の高い趣きがあった。

子の書思は、踵いで科挙に合格し、建徳主簿に任じられた。当時、密はすでに老いており、官に迎えようとしたが、密はそれを難しく思った。書思は言った、「曾子は一日も親の側を離れることを肯んじなかった。どうして五斗の俸禄で平素の志を変えようか」と。そこで上表して官を辞し、帰って養ったこと十余年。近臣がその志行を表上し、泗州教授に任じようとしたが、就任しなかった。密はやむなく、他日ともに赴くことを許し、ようやく新市鎮の監を乞うた。父の喪に服し、哀しみにやつれて骨と皮ばかりとなり、盛夏でも喪服を脱がず、喪が明けても墓舎を去るに忍びなかった。数年を経て、ようやく出仕し、封丘主簿、漣水(の官)を歴任した。当時、兄の書元が望江令であり、ともに淮南監司に属していたが、兄を捨てて自分を推薦する者がいたので、文書を送って推薦を兄に改めるよう乞うたが、許されなかったため、封をした文書を返還した。その篤実な行いは、すべてこのようなものであった。官は朝奉郎に至り、やはり老齢を理由に退官を願い出た。父子ともに帰って休むこと、皆、年限を待たなかった。卒し、年七十三、特旨により「清孝」と諡された。子の勝仲、孫の立方は、皆、学業によって侍従に至り、代々儒家となった。勝仲は独自に伝がある。

論じて言う、佐と立は水衡(財務・水利)の政務を掌り、当時に称せられた。兌は官に在って論諫し、表立って顕示することはなかったが、先にその志を継いだ。掞の孝行、燾の知恵、瑾の苛酷で厳格なこと、詢の弁舌は、皆、一時に著しく、自ら顕官に至った。俞充は軍を統制し暴を禁じ、能臣たるに足りたが、時の宰相の意に迎合し、西征を請うことを唱え、もし彼が死ななかったならば、辺境の禍は、果たして終わることがあっただろうか。葛氏は宮以下、簪纓(高官)が相継ぎ、盛んなことよ。

張田

張田、字は公載、澶淵の人。進士に及第し、応天府司録を知った。欧陽脩がその才能を推薦し、広信軍通判となった。夏竦と楊懷敏が七郡の塘水を増やす策を建て、詔により通判が集議したが、田は言った、「これは敵を防ぐ策ではない。良田を壊し、墳墓を浸し、民はその患いを受け、便利ではない」と。そこで上疏して極力論じ、郢州税監に左遷された。

久しくして、冀州通判となった。内侍の張宗礼が郡を経由して使いしたが、酒に酔って勝手気ままに振る舞い、太守と次官は敢えて言上する者もなかったが、田はその事を発覚させ、詔により西陵の灑掃に配流された。度支判官を代理した。祫祭で太廟を享けた時、また執政以下から賜物の費用を差し減らすよう請うたが、唐介がそれが上恩を損なうと論じ、蘄州知州として出された。まもなく湖南刑獄提点となり、介と司馬光がまたその傾き危険であることを上奏し、湖州知州に改められ、廬州に移り、善政の跡があった。

桂州に移った。かつて蛮の使者が朝貢する際に通り道を借り、方伯(地方長官)と対等の礼をとっていたが、田はただ堂上に座り、彼らを導いて庭で拝礼させ、その上で犒労と贈り物を厚くした。土豪の劉紀と廬豹はもとより辺境の患いであったが、田が去るまで、敢えて暴れることはなかった。京師の禁兵が守備に来たが、風土に慣れず、しばしば瘴癘で病んだため、田は兵法で峒丁を訓練し、守備兵を廃止するよう上奏した。ある者が交阯の李日尊が兵九万を率い、特磨道を襲おうと謀っていると告げたので、諸将は増兵を請うたが、田は言った、「交阯の兵は三万に満たない。必ずやその国に変事があり、虚勢を張って我々を脅かしているのだ」と。間諜が実情を得たところ、果たしてその兄弟が内輪で争い、辺境の将がそれに乗じることを恐れていたのである。宜州人の魏利安は罪を負って西南の龍蕃に亡命し、その使者に従って入貢し、十回も往復したが、この時、龍以烈が来たので、また彼に従った。田は彼が謁見に来た際に詰問し、その首をさらし、以烈をも斬ろうとしたところ、以烈は頭を叩きつけて血を流し命乞いをした。田は言った、「汝の罪は死に当たる。しかし事は幸いにも新天子即位の赦しの前である。汝自ら朝廷に恩を乞え」と。そこで密かにその死を赦すよう請うた。

熙寧初年、直龍図閣を加えられ、広州知州となった。広州には以前、外城がなく、民は皆、野外に住んでいたが、田は初めて東城を築き、七里を巡らせ、役夫五十万を賦し、二十日で完成させた。初め、役夫たちが白虎が夜に出ると言って驚き騒いだが、田はその偽りであることを突き止め、巡邏の者を呼んで戒めて言った、「今夜、白衣の者が林間に出入りする者がいたら、厳しく捕らえよ」と。言う通りにして捕らえた。城が完成した後、東南がわずかに陥没したので、視察に行ったところ、急死した。年五十四。

田は人となり、剛直で自らを喜び、よく罵詈雑言し、その気勢は部下を圧したので、死んでも哀しむ者はいなかった。しかし政務に臨むには清廉で、妹を馬軍帥の王凱に嫁がせたが、広州で真珠や犀角を売りたいと思い、顧みて言った、「南海は諸物に富む。しかし我が身が市舶使である以上、自らを汚すことは望まぬ」と。欽賢堂を作り、古昔の清廉な刺史の像を描き、日夜、師として拝んだ。蘇軾はかつて彼の書を読み、古の廉吏に匹敵するとした。

榮諲

榮諲、字は仲思、済州任城の人。父の宗範は、信州鉛山県知事であった。詔により県が民を募って銅を採ることを罷めたところ、民は散り散りになって盗賊となったので、宗範は以前のようにするよう請うた。真宗はこれを嘉み異とし、江・浙諸路銀銅坑冶提点に抜擢し、九年間官に在った。

諲は進士に挙げられ、塩鉄判官に至った。晋州は礬を産出し、京城の大豪商が毎年鉄五万緡を納めて、その利益を独占していたが、諲は官による専売を請うた。これ以来、収入は四倍になった。広東転運使となった。広州には板歩古河路という極めて険しい道があり、林や竹藪に瘴毒があった。諲は真陽峡を開削し、洸口の古径に至り、七十間の棧道を作って清遠に至り、広州に向かう道とし、遂に平坦な道となった。

再び召されて開封府判官となった。太康の民は仏教に帰依し、集まって祈祷や除災を行い、「白衣会」と号していたが、県は数十人を捕らえて府に送った。府尹の賈黯は妖術を疑い、首謀者を殺し、残りを流刑にするよう請うたが、諲はこれに従わず、それぞれ意見を具えて上奏した。中書は諲の意見を是とし、ただ首謀者を流刑とし、残りを杖刑に処した。直史館を加えられ、澶州知州となった。

京東転運使に改められた。萊陽は銀砂を産出し、民が密かに採る者がおり、事が露見したので、安撫使はこれを強盗として論じようとした。諲は言った、「山沢の利益は、人が得るべきものである。盗んだのは民の財産なのか」と。赦免した者は甚だ多かった。また成都府路に使いし、召されて戸部副使となり、集賢殿修撰として洪州知州となった。病気のため、舒州に移されたが、到着せずに卒した。累官して秘書監、年六十五。

李載

李載、字は伯熙、黎陽の人。若くして苦学し、酷暑に読書するときは足を水に浸け、病を得ても捨て去らなかった。進士に及第し、冀州推官に任じられた。大名冠氏県の知県となり、府守の呂夷簡が宰相に入ると、その才能を推薦され、斉州知州となった。鈐轄の趙瑜が酒に酔って李載を殴打したので、戸を閉めて避けて逃れた。趙瑜が罪を得ると、李載は弾劾しなかった罪に坐し、信陽軍に左遷された。安撫使の錢明逸らがそのために申し立てて理を明らかにし、常州に改任された。祥符県知県となり、巫が井泉の水を人に飲ませて病を癒すと言い、赴く者が雑踏していたので、李載は巫を杖罰し、その井を埋めた。虢州・漣水軍の知州・知軍を歴任した。

李載の性質は篤実で孝行であり、母の病に侍って帯を解かず、病が重くなって食事ができなくなると、李載も食事を取らず、母がそれを知って、強いて食べさせた。六度州を治め、一貫して寛厚と称された。光禄卿として仙源観を提挙し、卒去、年七十四。

姚渙

姚渙、字は虚州、代々長安ちょうあんに家を構えた。隋の開皇年間に、景徹という者が瀘夷を討平し、功績により普州刺史に任じられ、卒去し、子孫は普州に住み着いた。姚渙は進士に及第し、益州交子務を監理し、奸隠一万緡を摘発した。主吏らは皆死罪に当たったが、姚渙は言った、「人を殺して恩沢を求めるのは、わが志ではない。義は奸を隠さないだけである。」使者に請い、賞を受けないことを願い、こうして全活する者が多かった。峡州知州となった。宜都の民が盗賊に殺害され、県は囚人を捕らえて自白させ、獄を上申した。姚渙は他の官衙に弾劾を移し、しばらくして、真犯人が捕らえられた。大江が漲溢し、姚渙は事前に民に蓄積を移し、高き阜に遷るよう戒め、城が水没した時、溺死者はいなかった。地形に因んで子城・埽台を築き、木岸七十丈を造り、長堤で囲み、薪石で堰き止めた。その後、江水が漲っても害をなさず、民はその徳を慕った。涪州知州に転じた。賓化夷がたびたび国境を犯したが、姚渙は恩信を施して慰撫し、酋豪らは争って廷下に羅列して拝礼し、姚渙が去るまで警報はなかった。光禄卿で終わり、年六十七。

朱景

朱景、字は伯晦、河南偃師の人。進士に挙げられ、滎澤主簿に任じられた。西方で戦争があり、詔して侍従・館閣の官に県令を推薦させ、朱景は選に預かり、隴州汧源県知県となった。累遷して汝州知州となった。葉県の駅道は遠く、隷属する囚人が護送者に虐待され、多く死に、俗に「葉家関」と伝えられた。朱景は厳禁してその患いを絶った。寿州知州に抜擢され、秩禄は提点刑獄に準じた。着任早々、急いで倉を開いて救済し、富者に積穀を出させるよう勧め、数万人を生かした。城西の居民三千戸のために、外郭を築いて囲み入れるよう請い、公私ともに便利と称された。再び光禄卿に遷った。

熙寧初年、病が重くなり、自ら遺表を口述し、その子の光庭に筆を執らせて書かせた。その要旨は、「河北の水災・地震を切に聞く。陛下は膳を減らし殿を避け、斎居して反省を加え、二府の大臣を召して朝夕に欠失を諮問し、災いを消す方策を思うべきである。」数百言に及び、一言も恩を求めるものはなかった。卒去、年七十一。詔して賻贈を加え、その子を録して官とした。

子 光庭

光庭、字は公掞、十歳で文を綴ることができた。父の蔭を辞して及第し、萬年主簿に任じられた。たびたび県を代行し、人は「明鏡」と称した。四県の県令を歴任した。曾孝寬が才能を推薦し、神宗が召見して、安南への再出兵を考えているかと問うた。光庭は答えて言った、「願わくは陛下、人を類として畜わしめ給うことなかれ。その地を得ても住むべからず、その民を得ても使うべからず、広土闢地に何の益かあらん。」また、何の経を治めるかと問うと、答えて言った、「若くして孫復に従い『春秋』を学びました。」また、「今、朝廷内外に何か聞くところがあるか」と問うと、答えて言った、「陛下が法度を更張なさるので、臣下が奉行するとき聖意に合わないことがあり、故に便利なものも不便なものもあります。誠にその不便なものを除くならば、天下は福を受けるでしょう。」帝はその言を疎闊として用いなかった。河陽判官に簽書し、呂大防に従って長安幕府にあった。五路が兵を出して西夏を討つとき、雍は都会であり、事はこれに依って処理され、調発の期会は甚だ急であったが、光庭はたびたび従わなかった。使者は怒り、乏興の罪を加えようとしたが、光庭は免職を求め、大防がこれを解いた。

哲宗が即位すると、司馬光が推薦して左正言とし、まず提挙常平官・保甲青苗等の法を廃止するよう請うた。蔡確が山陵使でありながら、霊駕に先立って行ったのは、臣として不恭であると論じた。また、章惇が欺罔して弁を弄し、韓縝が邪を挟んで寵を冒すと論じ、言は甚だ切直であった。宣仁后はその守正を嘉し、畏避することなく尽く言うよう諭した。左司諫に遷り、また論じて言った、「蘇軾が館職の試験で策を発し、『今、仁祖の忠厚に師法しようとすれば、百官有司がその職を挙げず、あるいは怠惰に至ることを患う。神考の厲精を法としようとすれば、監司・守令がその意を識さず、苛酷に流れることを恐れる。』と言っています。臣は思うに、仁宗の名づけ難き盛徳、神考の有為の善志を、『怠惰』『苛酷』をもって議論すべきではなく、その罪を正し、臣として不忠なる者を戒めることを望みます。」間もなく、中丞の傅堯俞・侍御史の王岩叟が相次いで論列した。宣仁后は言った、「文意を詳しく覧れば、これは今日の百官有司・監司守令を指して言ったのであり、祖宗を諷したものではない。」そこで止めた。

河北が飢饉となると、節を持って行視するよう遣わされ、直ちに倉を開いて民を救済した。しかし、議者が先帝の積年の兵食の蓄えを消耗させると論じ、左司員外郎に改めた。太常少卿に遷り、侍御史に拝された。蔡確の怨謗の罪を論じ、蔡確は新州に貶された。右諫議大夫・給事中に拝された。外補を請い、集賢殿修撰・亳州知州に除かれた。数か月して召還され、再び給事中となった。

劉摯の免相の制書を封還して返上した罪に坐し、再び職を落として亳州を守った。一年余りして、潞州に転じ、集賢院学士を加えられた。隣境が旱魃で飢饉となり、流民が国境を越えて入る者が続いた。光庭は毎日食事を用意して彼らに食べさせ、常に日暮れまで至り、自ら食事する暇もなく、遂に病にかかったが、なお自力で政務を見た。雨乞いに出て、拝礼して起き上がれず、二晩して卒去、年五十八。紹聖年間、柳州別駕に追貶された。元符初年、またその諸子の任官を停止した。

光庭は初め胡瑗に学び、胡瑗は学問の根本は忠信にあると告げたので、終身これを行った。徽宗が立つと、その官を復した。

李琮

李琮、字は獻甫、江寧の人。進士に及第し、寧国軍推官に任じられた。州の倉庫に積んだ穀物が腐敗し、転運使が州に移文して民に分散させ、秋に新しいものを償わせようとした。守将がこれを行おうとしたが、李琮は言った、「穀物は食べられないのに、強いて民に責めて償わせれば、どうして耐えられようか。」押しとどめて行わせず、守将は慚愧して謝り止めた。

呂公著が開封府尹となった時、彼は陽武県知事に推薦された。役法が初めて施行されるや、琮は計画を立てて道理を尽くし、近隣の民衆は相次いで登聞鼓を打ち鳴らし、彼を模範としたいと願った。徽宗が召し出して対面させると、利州路・江東転運判官に抜擢した。巡察して宣城に至り、民田を調査して逃亡・絶戸を偽称する者が九千戸あることを明らかにし、他の県も皆同様であった。朝廷に上言し、戸部判官として江・浙に派遣され、有能で明察な官吏を選んで賞を与え、隠匿を摘発させた。官吏は賞を当てにし、数を多くすることを功績とし、琮もまたこれによって昇進を望み、民衆は苦しみ悩まされ、緡銭百余万を得た。進んで度支判官となり、職式を諸道に頒布した。淮南の租税収入は他の部署を上回り、転運副使とし、梓州路に転任させた。

元祐初年、言事官が彼の隠匿税を摘発することの弊害を論じ、吉州知州に左遷された。御史の呂陶がまた、巴蜀はしょくの科折(税の折納)は既に重いのに、琮がさらに民に強いて税を納めさせ、かつ奇数(端数)を併合して(一単位にまとめて)納めさせることを許さず、人々は特に怨嗟したと上言した。ここにおいて、凡そ隠田摘発によって賞を受けた者は悉くそれを剥奪された。相州・洪州・潞州の三州を歴任した。潞州に謀反を企てる者がおり、日時を記した文書を道端に貼り付けたが、部使者がこれを聞いて恐れ、檄を飛ばして奸人を捜索することを甚だ急いだ。琮はこれを放置して問わず、その日に酒宴を設けて盛会を催し、結局何事もなかった。召されて太府卿となり、戸部侍郎に昇進し、宝文閣待制として杭州・永興軍・河南府・瀛州の知事を歴任した。卒去、七十五歳。

琮は吏治に長けていたが、赴任する先々で搾取を主とし、士論から軽蔑された。子の回は、紹興初年に参知政事となった。

朱壽隆

朱壽隆、字は仲山、密州諸城県の人。蔭補により九隴県知事となる。役人が一家七人が火事で死んだと報告したが、壽隆は言った、「一家全員が焼け死んで一人も逃げられないことがあろうか、おそらく何か奸計があるに違いない。」一ヶ月余りして盗賊を捕らえると、果たしてその者を殺して放火したのであった。宿州知事となり、宿州には凶悪な盗賊が多く、白昼に鎧を着て掠奪攻撃し、郡県では制御できなかった。壽隆は方策を講じて情報網を張り、千余人を捕らえて斬った。

提点広西刑獄に抜擢された。嶺外は新たに儂智高の賊の被害を受け、城壁や堡塁を修築する際、貴州がその民衆を酷使し、生活の目途が立たなかった。壽隆は急ぎ州に馳せつけ、太守を拘束して獄に送り、罷免するよう上奏した。老人・子供・婦女で乱に遭い、流浪して自力で帰還できない者は、所在の役所に檄を飛ばして費用を支給して帰還させた。旧制では、溪蛮が羈縻州を侵暴しても、たとえ人を殺しても報復してはならなかったが、壽隆は互いに償わせることを認めるよう請願し、蛮族は初めて畏れて鎮まった。

塩鉄度支判官・夔路転運使を歴任した。巴峡の地は狭隘で、民衆は労役に苦しんでいたので、法に適わない者千五百人を免除した。再び塩鉄判官・京東転運使となり、三品の礼服を賜った。凶作で民衆が流亡すると、壽隆は大姓や富家に諭して田僕として雇い入れ、貸付を行って利息を立て、官が帳簿を作成して管理させ、貧富ともに利益を得るようにした。少府監として揚州知事となり、卒去、六十八歳。

壽隆は人となり温和で篤実、談話に接すれば和やかで、必ず道理に適い、権貴にも屈しなかった。狄青が賊を討伐する時、命令に従わない副将数人を殺そうとしたが、壽隆は罪が死に当たらないと極力論じた。孫沔が同席して言った、「儂賊は民を害すること万を数える、これなど惜しむに足りない。」壽隆は言った、「王師が来るのは民の害を除くためである、賊の暴虐をまねてよいものか。」狄青はその言葉に感じ入ってやめた。

盧士宏

盧士宏、字は子高、新鄭県の人。父の任官により幾度も州県を転任し、赴任先々で清廉な名声を著した。信陽軍知事となる。官が妖術を行った者を捕らえると、残党は連座を恐れて山谷に群れ集まったが、士宏はその罪を減じて招くよう請願し、たちまち相率いて帰順した。漢州知事に転任し、民産を実地調査して、労役が濫用されないようにし、人々はその徳を慕った。また洋州知事となる。以前は、圭田(官吏の禄田)の多くは虚偽の帳簿があった。士宏が調査検討し、実状に応じて納入させるようにすると、部使者以下、皆十割中七八割を減じた。文彦博と包拯が廉潔で有能として推薦し、三司開拆司から夔州路転運使に抜擢され、ついに広州知事となった。或る者が、安南の船数百隻が海中に停泊し、寇となるだろうと伝えると、嶺南の辺境は動揺した。士宏はそれが誤りであると見抜き、その日、賓客を従えて宴会遊楽を楽しみ、民衆はこれによって安堵した。任期を終えて帰還し、病気を理由に便利な州郡を乞い、鄭州知事となる。間もなく、光禄卿で致仕した。卒去、七十三歳。凡そ衣衾棺槨の制度について、全て遺言があり、諸子に墓誌銘を作らないよう戒めた。

単煦

単煦、字は孟陽、平原県の人。進士に挙げられ、洛陽らくよう県知事となる。民衆が妖幻の術を伝え教え合っていたが、煦は跡を追って三十余人を捕らえて誅殺し、上賞を受ける資格があったが、自ら言おうとしなかった。転じて昌州知事となり、当時詔が蜀の治所に城を築くことを命じたが、煦は蜀の地が山を背にし江を帯び、一朝に籬垣を壊して板築を興すなら、その費用は巨万に上り、民力の堪えうるところではないとして、ただ子城のみを築くよう請願した。転運使は直ちに諸郡にその議の通りに移した。

清平軍使に転任。二人の盗賊が人を殺したが、捕らえて取り調べても自白しない。煦は彼らを解放して食事をさせたところ、甲は食べ終わったが、乙は飲み下せなかった。捕らえて訊問すると、果たして人を殺した者であった。御史台推直官となり、江南の者が転運使の呂昌齢を賄賂で誣告し、中丞の張が審問して断罪した。審理が完了しないうちに、煦を派遣して治めよとの勅命があり、煦は上司に迎合することを肯まず、ついに昌齢を無罪とした。外任を請い、濮州・合州の二州の知事となる。合州は涪水と漢水の間に位置し、夏秋に淫雨による水害に悩まされていたので、煦は東堤を築いて防いだ。赤水県の塩井が涸れたので、その賦税を免除するよう上奏した。累官して光禄卿となり、卒去、七十七歳。

煦は兄の熙を友愛し、兄がかつて人を殴り死なせたが、知る者はいなかった。煦は言った、「家は貧しく親は老いて、兄に養われている、義理として私が代わって死ぬべきである。」即ち急いで闘争の現場に行って捕らえられるのを待った。やがて死んだ者が蘇生し、驚いて問うと、煦は実情を告げた。その人は感嘆し、ついに訴訟を取り下げた。

楊仲元

楊仲元、字は舜明、管城の人。進士に及第し、宛丘主簿に任ぜられる。民が旱害を訴えたが、太守はこれを拒み、「県は旱害に遭ったことはなく、狡猾な役人が民を唆してそう言わせているのだ」と言った。仲元はこれを弁明して言うには、「野に青草なく、公は日々黄堂で宴を催しておられ、知る由もないでしょうが、ただ一度郊外に出てみれば分かります。狡猾な役人とは他ならぬ、実は仲元でございます。」ついにその税を免じた。

澤州沁水県の知県となる。民が物を持って納税に来る者には、その価格を少し増やして評価し、余りはその評価を下げた。官に必要なものがあっても、民に強いて賦課せず、所有するもので官に納入することを許し、相当の度合いになれば止め、常に先んじて事を整えた。

河外で軍事行動があり、糧秣の輸送を西の境界まで監督し、夕方に洪谷口に宿泊した。仲元はその地を見て、これは賊の通る道筋だと、急いで去るよう命じた。民は困窮していると弁解したが聞き入れず、賊は果たして夜に出て諸部を掠奪し、沁水だけは免れた。後二十年、その子が県を通りかかると、父老が拝礼して泣き、「河西の役では、公がなければ今日はなかった」と言った。

初め、軍の期日はまだ緩やかであったが、仲元は行きを監督して甚だ急いだ。到着すると、芻糧で集まっていないものは皆安く買え、期日に遅れた者は物価が数倍となり、民は初めてそれが利益であると知った。

州が羊を買うのに、民から差し出させる銭帛の徴収が蔓延し、民を苦しめることが甚だしかったので、仲元はその令を改め、一戸につようやく百銭の費用で済んだ。また吏を他所に遣わして子羊を買わせ、翌年に州に供給し、一文も賦課しなかった。

鄖郷県の知県に転ずる。宰相張士遜の先祖の墳墓が管轄内にあり、これを属させようとして召したが行かなかった。到着すると戸籍に照らして均等に役を課し、たとえ堂帖で免除を求めても減らさなかった。

光・虔・虢の三州の知州を歴任し、光禄卿に任ぜられ、中散大夫に改まる。諸子に戒めて言うには、「我が官に入ること五十年、未だ私的な怒りをもって人に加えたことはない。杖刑のような微細なことでも、もし二つの比べるべきことがあれば、軽い法を与えることを敢えてせず、これをもって国に報いるのだ」と。卒す、年七十五。

余良肱

余良肱、字は康臣、洪州分寧の人。進士に及第し、荊南司理参軍に任ぜられる。属県が殺人者を捕らえ、既に自ら誣服していたが、良肱は屍と刃物を検視して疑い、「刃物が一尺満ちているのに傷が一寸に及ばないことがあろうか」と言い、府に申し出て自ら捕縛することを請い、間もなく果たして真の殺人者を捕らえた。

民が財物を十万以上失い、数十人の平民が逮捕された。時は夏の盛り、拷打の号呼が外に聞こえ、ある者が吏の耳に囁きかける者がいた。良肱は密かにこれが盗賊であると知り、急いで捕らえて詰問し、贓物をことごとく得た。

大理寺丞に改められ、湘陰県の知県として出向する。県で数千石の米が未納で、毎年里胥に代納を責めていたが、良肱がこれを論列したので、ついにその籍を免除した。杭州の通判となる。江の潮はよく溢れ、官民の家屋を漂流させたので、良肱は石堤を二十里にわたって築いて防ぎ、潮は害とならなかった。

当時王陶が属官としており、常に気性をもって府の帥に抵触し、吏が王陶を訴えることがあった。帥は遺恨を抱いて取り調べようとしたが、良肱は許さず、「王陶を罪で去らせるのは、直を容れられないことです」と言った。帥は遂にやめた。後年王陶は朝廷で官に就き、果たして直を以て聞こえた。虔州の知州となる。嶺外で死んだ士大夫の喪車が虔州から出るが、多くは弱い子や寡婦であった。良肱は力を尽くして救護し、孤女で寄る辺のない者は俸銭を出して嫁がせた。

母が老いたため、南康軍の知軍を得る。母の喪に服し、喪が明けて三司使判官となる。関・陝で軍事行動があると、朝廷では在京の民から銭を貸し付けることを議したが、良肱は強く争い、ちょうど大臣もこれに反対したので、議は遂に止んだ。内府が腐った貨幣を出して三司に売ろうとし、三司の吏が受け取ろうとしたが、良肱だけは言うには、「もし諸軍に賦課すれば、軍は怨むであろう。しからざれば民に貸せば、民は苦しむであろう。文思院に付して、帷幄に奉ぜしめることを請う」と。

論ずるに、士がこの世に官し、一つの善行を称えられるものがあり、生民をしてその恩沢を無限に被らしめるものは、故に州郡の任は特に重い。張田は禁兵の瘴癘による毒害を免れしめ、士宏は圭田を実輸に基づいて考課し、朱景父子、諲、載、煦、渙、士宏、壽隆らは、皆民に徳あり。仲元は私怨を以て人に加えず、良肱は折獄に明るく、夙は将家の子として能く辺務に心を留め、その材を用いて当たらしめ、挙げてその官を能くせしむ。若し琮に至っては、吏治に長ずるとは雖も、至る所掊克す、君子は何をか取らん。