宋史

列傳第九十一 滕元發 李師中 陸詵 趙禼 孫路 游師雄 穆衍

列傳第九十一 滕元發 李師中 陸詵 趙禼 孫路 游師雄 穆衍

滕元發

原文滕元發

滕元發は、初め名を甫といい、字を元發といった。高魯王の諱を避けて、字を名と改め、字を達道とし、東陽の人である。生まれんとする夕べ、母は虎が月の中を行き、その室に堕つる夢を見た。性質は豪放で慷慨、小節に拘わらなかった。九歳にして詩を賦することができ、范仲淹これを見て奇異とした。進士に挙げられ、廷試で第三となったが、声韻が規定に中らず、罷められ、再び挙げられてまた第三となった。大理評事・湖州通判に任じられた。孫沔が杭州を守り、これを見て異とし、言うには「奇才なり、後に必ず賢将とならん」と。治劇守辺の略を授けた。

原文滕元發,初名甫,字元發。以避高魯王諱,改字為名,而字達道,東陽人。將生之夕,母夢虎行月中,墮其室。性豪雋慷慨,不拘小節。九歲能賦詩,范仲淹見而奇之。舉進士,廷試第三,用聲韻不中程,罷,再舉,復第三。授大理評事、通判湖州。孫沔守杭,見而異之,曰:「奇才也,後當為賢將。」授以治劇守邊之略。

召されて試みられ、集賢校理・開封府推官・塩鉄戸部判官・同修起居注となった。英宗はその姓名を書いて禁中に蔵したが、用いるに及ばなかった。神宗即位の後、召して治乱の道を問うと、対えて言うには「治乱の道は白黒・東西の如し、色を変え位を易える所以は、朋党がこれを乱すがためなり」と。神宗が「卿は君子小人の党を知るか」と問うと、言うには「君子に党無し、草木に譬えれば、綢繆として相附く者は必ず蔓草にして、松柏に非ざるなり。朝廷に朋党無ければ、中主と雖も以て済うべし、然らずんば、上聖と雖も亦殆うし」と。神宗は名言と為し、久しく嘆息した。知制誥・知諫院に進んだ。御史中丞王陶が宰相が押班せざるを跋扈と論じ、神宗元発に問うと、元発は言うには「宰相固より罪有り、然れども跋扈と為すは、臣欺天して人を陥れると為す」と。

原文召試,為集賢校理、開封府推官、鹽鐵戶部判官、同修起居注。英宗書其姓名藏禁中,未及用。神宗即位,召問治亂之道,對曰:「治亂之道如黑白、東西,所以變色易位者,朋黨汩之也。」 神宗曰:「卿知君子小人之黨乎?」曰:「君子無黨,辟之草木,綢繆相附者必蔓草,非松柏也。朝廷無朋黨,雖中主可以濟;不然,雖上聖亦殆。」神宗以為名言,太息久之。進知制誥、知諫院。御史中丞王陶論宰相不押班為跋扈,神宗以問元發,元發曰:「宰相固有罪,然以為跋扈,則臣以為欺天陷人矣。」

御史中丞に拝された。种諤が綏州を擅に築き、且つ薛向と諸路の兵を発し、環・慶・保安皆出でて剽掠し、夏人は将官楊定を誘殺した。元発は上疏して極言し、諒祚既に款を納れたれば、信を失うべからず、辺隙一たび開かば、兵連れ民疲れ、必ず内憂と為らんと。又中書・枢密が辺事を制すること多く合わず、中書は戦功を賞し枢密は約束を降し、枢密は堡を修むるを詰め中書は褒詔を降す、元発言うには「戦守は大事なり、而るに異同此の如し、願わくは二府に勅して必ず同にして後に下さしめよ」と。宰相がその子を鼓院判と為すを、諫官は不可と謂うと、神宗は「鼓院は伝達のみ、何事に与かろう」と言う。元発は「人宰相を訴うる有りて、その子をしてこれを達せしむるは、可ならんや」と言う。神宗悟り、これを罷めしめた。

原文拜御史中丞。种諤擅築綏州,且與薛向發諸路兵,環、慶、保安皆出剽掠,夏人誘殺將官楊定。元發上疏極言諒祚已納款,不當失信,邊隙一開,兵連民疲,必為內憂。又中書、樞密制邊事多不合,中書賞戰功而樞密降約束,樞密詰修堡而中書降褒詔,元發言:「戰守,大事也,而異同如是,願敕二府必同而後下。」宰相以其子判鼓院,諫官謂不可,神宗曰:「鼓院傳達而已,何與於事。」元發曰:「人有訴宰相,使其子達之,可乎?」神宗悟,為罷之。

京師郡国地震す。元発上疏して災を致す由を指陳す。大臣悦ばず、出でて秦州知州と為る。神宗は「秦州は朕の意に非ず」と言い、留めて遣わさず。契丹使楊興公を館伴し、懐を開いてこれと語る。興公感動し、去らんとして、泣いて別れた。河北地大いに震う。元発を安撫使と命ず。時に城舎多く圮ち、吏民圧されるを懼れ、皆幄寝茇舎す。元発独り屋下に処し、言うには「屋摧け民死せば、吾まさに身を以てこれに同じくすべし」と。死者を瘞い飢者に食わせ、田租を除き、堤障を修め、貪残を察し、盗賊を督す。北道遂に安んず。翰林学士・開封府知事を除す。民王穎に金有りて隣婦に隠され、数尹を閲て直を得ず。穎憤って傴を致し、杖を扶けて庭に訴う。元発一問して実を得、その金を返す。穎杖を投げ仰いで謝し、傴の在りし所を失う。

原文京師郡國地震,元發上疏指陳致災之由,大臣不悅,出知秦州。神宗曰:「秦州,非朕意也。」留不遣。館伴契丹使楊興公,開懷與之語,興公感動,將去,泣之而別。河北地大震,命元發為安撫使。時城舍多圮,吏民懼壓,皆幄寢茇舍,元發獨處屋下,曰:「屋摧民死,吾當以身同之。」瘞死食饑,除田租,修堤障,察貪殘,督盜賊,北道遂安。除翰林學士、知開封府。民王穎有金為鄰婦所隱,閱數尹不獲直。穎憤而致傴,扶杖訴於庭。元發一問得實,反其金,穎投杖仰謝,失傴所在。

夏国主秉常、簒さんせらる。元発言うには「継遷の死する時、李氏幾くか立たず。当時の大臣諸豪を分建すること能わず、乃ち全地を以てこれに王し、今に至るまで患いと為る。今秉常位を失い、諸将権を争う。天これをもって陛下に遺す。若し再び此時を失わば、悔ゆるも将に及ばん。請う、一の賢将を択び立て、重権を仮し、して経営分裂せしめよ。労せずして定まり、百年の計なり」と。神宗その策を奇とすれど、然れども果たして用いず。

原文夏國主秉常被篡,元發言:「繼遷死時,李氏幾不立矣。當時大臣不能分建諸豪,乃以全地王之,至今為患。今秉常失位,諸將爭權,天以此遺陛下,若再失此時,悔將無及。請擇立一賢將,假以重權,使經營分裂之,可不勞而定,百年之計也。」神宗奇其策,然不果用。

元発は神宗の前に在りて事を論ずるに、家人父子の如く、言に文飾無く、肝鬲を洞見す。神宗その誠藎を知り、事の巨細、人の親疏を問わず、輒ち皆これを問う。元発は事に随い解答し、少しも嫌隠せず。王安石方に新法を立て、天下詾詾たり。元発の言有らんことを恐れ、神宗これを信ずるを、事に因り、翰林侍読学士を以て出でて鄆州知州と為る。定州に徙す。初めて郡に入り、新法の害を言い、且つ曰く「臣始め意を以てその不可を度るのみ、既に郡と為りて、乃ち親しくこれを見る」と。歳旱えて言を求む。又疏奏して「新法民を害するは、陛下既にこれを知れり。但だ一手詔を下し、応に熙寧三年以来行う所に不便なる者、悉くこれを罷めよ。則ち民心悦びて天意解けん」と。皆聴かず。

原文元發在神宗前論事,如家人父子,言無文飾,洞見肝鬲。神宗知其誠藎,事無巨細,人無親疏,輒皆問之。元發隨事解答,不少嫌隱。王安石方立新法,天下詾詾,恐元發有言,神宗信之也,因事,以翰林侍讀學士出知鄆州。徙定州。初入郡,言新法之害,且曰:「臣始以意度其不可耳,既為郡,乃親見之。」歲旱求言,又疏奏:「新法害民者,陛下既知之矣,但下一手詔,應熙寧三年以來所行有不便者,悉罷之,則民心悅而天意解矣。」皆不聽。

青州・応天府・斉・鄧の二州を歴任す。会に婦党の李逢逆を為す。或いは因りてこれを擠す。池州に黜せらる。未だ行かず、安州に改む。流落すること且つ十歳、猶以前の過ちを以て筠州に貶居す。或いは復た後命有らんと以為うも、元発談笑自若たり、曰く「天は吾が直を知り、上は吾が忠を知る。吾何をか憂えん」と。遂に上章して自ら訟え、曰く有り「楽羊功無くして、謗書篋に満つ。即墨何の罪か有らん、毀言日々聞こゆ」と。神宗これを覧みて惻然たり、即ち湖州知州と為す。

原文歷青州、應天府、齊、鄧二州。會婦黨李逢為逆,或因以擠之,黜為池州,未行,改安州。流落且十歲,猶以前過貶居筠州。或以為復有後命,元發談笑自若,曰:「天知吾直,上知吾忠,吾何憂哉。」 遂上章自訟,有曰:「樂羊無功,謗書滿篋;即墨何罪,毀言日聞。」神宗覽之惻然,即以為湖州。

哲宗位に登る。蘇・揚の二州に徙し、龍図閣直学士を除し、復た鄆州知事と為る。学生食給せず、民公田を争うこと二十年決せざる者有り。元発曰く「学食無くして良田を以て頑民を飽かすべきか」と。乃ち請うて学田と為し、遂にその訟を絶つ。時に淮南・京東饑う。元発流民将に至らんことを慮り、蒸して癘疫と為らんとす。先ず城外の廃営地を度り、富室を召諭し、力を出して席屋を為さしむ。一夕に二千五百間成り、井竈器用皆具わる。民至ること帰するが如く、全活すること五万。真定に徙し、又太原に徙す。

原文哲宗登位,徙蘇、揚二州,除龍圖閣直學士,復知鄆州。學生食不給,民有爭公田二十年不決者,元發曰:「學無食而以良田飽頑民乎?」乃請以為學田,遂絕其訟。時淮南、京東饑,元發慮流民且至,將蒸為癘疫。先度城外廢營地,召諭富室,使出力為席屋,一夕成二千五百間,井灶器用皆具。民至如歸,所全活五萬。徙真定,又徙太原。

元発辺を治むること凜然たり。威西北に行われ、名帥と号せらる。河東十二将、その八を以て西辺に備え、半ばに分かれて番休す。元発至ること八月、辺遽来り告げ、八将皆防秋せんことを請う。元発曰く「夏若し兵を併せて我を犯さば、八将と雖も敵せず。若し其れ来らざれば、四将足れり」と。卒に更休を遣わす。防秋将懼れ、閣を叩いてこれを争う。元発その頸を指して曰く「吾已にこれを捨てたり。頭は斬らるべし、兵は出すべからず」と。是歳、塞上風塵の警無し。詔して四砦を以て夏人に賜う。葭蘆は河東に在り。元発先ず境を画して後に棄てんことを請い、且つ曰く「城を取るは易く、城を棄つるは難し」と。部将訾虎に命じて兵を領し辺を護らしむ。夏敢えて近づかず。夏既に砦を得て、又綏徳城を以て説と為さんと欲し、境を画して二十里外に出だす。元発曰く「是れ一举にして百里を失う。必ず不可なり」と。九たび上章してこれを争う。

原文元發治邊凜然,威行西北,號稱名帥。河東十二將,其八以備西邊,分半番休。元發至之八月,邊遽來告,請八將皆防秋。元發曰:「夏若併兵犯我,雖八將不敵;若其不來,四將足矣。」卒遣更休。防秋將懼,扣閣爭之。元發指其頸曰:「吾已舍此矣,頭可斬,兵不可出。」是歲,塞上無風塵警,詔以四砦賜夏人,葭蘆在河東,元發請先畫境而後棄,且曰:「取城易,棄城難。」命部將訾虎領兵護邊,夏不敢近。夏既得砦,又欲以綏德城為說,畫境出二十里外。元發曰:「是一舉而失百里,必不可。」九上章爭之。

老を以て力を求め淮南に、乃ち龍図閣学士と為り、復た揚州知事と為る。未だ至らざるに卒す。年七十一。左銀青光禄大夫を贈られ、諡して「章敏」と曰う。

原文以老力求淮南,乃為龍圖閣學士,復知揚州,未至而卒,年七十一,贈左銀青光祿大夫,諡曰「章敏」。

李師中

原文李師中

李師中、字は誠之、楚丘の人。年十五、封事を上して時政を言う。父緯は涇原都監たり。夏人十余万鎮戎を犯す。緯兵を帥いて出戦す。然るに帥司の遣わす別将郭志高逗遛して進まず。諸将衆寡敵せずと以て、敢えて復た出でず。緯坐して責め降さる。師中宰相に詣り父の罪無きを弁す。時に呂夷簡相と為り、詰問すれども屈せず。夷簡怒り、布衣の宜しく言う所に非ずと以為う。対えて曰く「師中の言う所は、父の事なり」と。ここより名を知らる。

原文李師中,字誠之,楚丘人。年十五,上封事言時政。父緯為涇原都監,夏人十餘萬犯鎮戎,緯帥兵出戰,而帥司所遣別將郭志高逗遛不進,諸將以眾寡不敵,不敢復出,緯坐責降。師中詣宰相辯父無罪,時呂夷簡為相,詰問不屈,夷簡怒,以為非布衣所宜言。對曰:「師中所言,父事也。」由是知名。

進士に挙げられ、鄜延の龐籍が召し出して洛川県知事とした。民に罪ある者で、その農時を妨げる者は必ず帰らせ、農閑期に自ら役所に出頭するよう命じた。命令で下すべきものは民に掲示し、あるいは父老を召して諭した。租税は皆期日より先に集まった。民が官茶の代金十万緡を負い、追捕・拘束される者が多かったが、師中は彼らの枷を外し、告げて言うには、「公の金銭に償わぬ道理はない。期限を寛げてやるが、よいか」と。皆感泣して命に従った。そこで各郷に一つの箱を置き、その名を記し、日々負債を納めることを許し、一銭以上あれば直ちに投げ入れた。帳簿に記して去った。歳末までに、滞納者は全て完済した。官が諸郡の粟を辺境に移し、後に返すこととなったが、厳冬の大雪で労力と費用がかさみ、兼併の家に安値で売り渡すに至った。師中は、県を通過する際に輸送を願う者は聴許し、自ら倉庫の門に座り、証文を手にして待った。数日で一万斛を得た。その法を他の県にも下した。かつて郷亭に出て、戎人が雑居して耕作するのを見た。皆、戦乱の時に中国に入り、人はその労力を頼み、しばしば婚姻を結び、久しく帰らなかった。師中は、彼らは雑居すべきでないと述べ、経略使に言上し、傍郡の者も合わせて求め、諸々の絶塞に移住させた。

原文舉進士,鄜延龐籍辟知洛川縣。民有罪,妨其農時者必遣歸,令農隙自詣吏。令當下者榜於民,或召父老諭之。租稅皆先期而集。民負官茶直十萬緡,追繫甚眾,師中為脫桎梏,語之曰:「公錢無不償之理,寬與汝期,可乎?」皆感泣聽命。乃令鄉置一匱,籍其名,許日輸所負,一錢以上輒投之。書簿而去。比終歲,逋者盡足。官移諸郡粟於邊,已而反之,盛冬大雪,勞且費,至賤售予兼並家。師中令過縣願輸者聽,躬坐庾門,執契以須,數日,得萬斛。使下其法於他縣。嘗出鄉亭,見戎人雜耕,皆兵興時入中國,人藉其力,往往結為婚姻,久而不歸。師中言若輩不可雜處,言之經略使,並索旁郡者,徙諸絕塞。

龐籍が樞密副使となって、その才能を推薦した。召されて応対し、太子中允に転じ、敷政県知事となり、権主管經略司文字を兼ねた。夏人が歳賜の遅延を理由に、辺境に移書して言うには、「歳暮を過ぎぬよう願う」と。詔により役人が返答を許されたが、師中は更に公文書を改めて言うには、「故事の通りにせよ」と。樞密院は詔書を擅自に改めたと弾劾したが、師中は言うには、「改めたのは郡の公文書であって、詔書ではない」と。朝廷はこれを是とし、その過失を軽く見た。

原文龐籍為樞密副使,薦其才。召對,轉太子中允、知敷政縣,權主管經略司文字。夏人以歲賜緩,移邊曰:「願勿逾歲暮。」詔吏報許,師中更牒曰:「如故事。」樞密院劾為擅改制書,師中曰:「所改者郡牒耳,非制也。」朝廷是之,薄其過。

廣西刑獄提點となった。桂州の靈渠はかつて漕運に通じていたが、年久しく石が詰まり舟が滞った。師中は直ちに石を焼き、鑿って通した。邕管に馬軍五百があったが、馬は夏に耐えられず多く死んだ。師中は、地勢が皆険阻で騎兵を用いるべき事がなく、上奏してこれを廃止した。士人が補任・摂行する官職は、選授に法がなく、権限は吏にあった。その名を全て記し、家で任命を待たせた。

原文提點廣西刑獄。桂州靈渠故通漕,歲久石窒舟滯,師中即焚石,鑿而通之。邕管有馬軍五百,馬不能夏,多死。師中謂地皆險阻,無所事騎,奏罷之。士人補攝官,銓授無法,權在吏。悉記其名,使待除於家。

初め、邕州の蕭注と宜州の張師正が辺境の紛争を起こそうと謀り、注は管下の蠻峒の酋豪を用いて交阯を討伐しようとし、朝廷の兵糧を用いないと言った。詔が經略使蕭固と轉運使宋咸に下り、二人は注に籠絡され、口を合わせて便宜であると称した。師中が到着すると、詔をもって注の上奏を付託した。師中は注を招き寄せ、難詰して言うには、「君は酋豪をもって交阯を伐つと言うが、必勝を保証できるか」と。注が「できない」と言うと、師中は言うには、「既に必勝を保証できぬなら、万一敗北したらどうするか」と。注は不可能と知り、遂に議論を止めた。時に蠻徭の申紹泰が逃亡者を追って侵入し、巡檢宋士堯を害した。注はまた大げさに驚いた奏上をし、仁宗はそのため遅くまで食事もとれなかった。師中は憂うるに足らぬと述べ、かえって注が功を邀えて事を生じ、搾取して衆心を失い、遂に将帥の敗北を招いたと弾劾し、法に照らせば斬刑に当たるとした。ここにおいて注は責められて泰州安置とされ、固と咸も合わせて取り調べられ、皆坐して貶官された。師中が帥事を摂行した。交阯が辺境に兵を耀かし、寇入すると声言した。師中はちょうど客を宴しており、酒を飲み平常と変わらず、六通の榜文を草して境上に掲げ、その内情を暴いたので、敢えて動かず、即日に方物を貢いだ。紹泰は恐れ、巣穴を棄てて逃げ去った。儂智高の子宗旦が火峒に拠り、衆は帰属する所がなかった。前の将帥が賞を幸いとするため討伐を企てたので、固く守っていた。師中が檄を飛ばして禍福を諭すと、宗旦は直ちにその一族を率い、土地をもって降った。辺境の人はその徳に感化され、多く肖像を描き祠を立てて祀り、桂州の李大夫と称し、名を呼ばなかった。

原文初,邕州蕭注、宜州張師正謀啟邊釁,注欲以所管蠻峒酋豪往討交阯,云不用朝廷兵食。詔下經略使蕭固、轉運使宋咸,二人為注所餌,合詞稱便,而師中至,詔以注奏付之。師中邀注來,難之曰:「君以酋豪伐交阯,能保必勝乎?」曰:「不能。」師中曰:「既不能保必勝,脫有敗衄,奈何?」注知不可,遂罷議。會蠻徭申紹泰入追亡者,害巡檢宋士堯,注又張皇為駭奏,仁宗為之旰食。師中言無足憂,因劾注邀功生事,掊斂失眾心,卒致將率敗覆,按法當斬。於是注責泰州安置,並按固、咸,皆坐貶。師中攝帥事。交阯耀兵於邊,聲言將入寇。師中方宴客,飲酒自若,草六榜揭境上,披以其情得,不敢動,即日貢方物。紹泰懼,委巢穴遁去。儂智高子宗旦保火峒,眾無所屬,前將規討以幸賞,遂固守。師中檄諭禍福,立率其族以地降。邊人化其德,多畫象立祠以事,稱為桂州李大夫,不敢名。

帰還し、濟州と兗州の知州となった。濟水は長く埋もれ塞がっていたが、師中は旧河道を訪ね、兗城の西南から開鑿し、工事半ばで去った。直史館に遷り、鳳翔府知府となった。种諤が綏州を取ると、師中は言うには、「西夏はちょうど入貢したばかりで、叛状は未だ明らかでない。恐らく彼らに口実を与え、徒らにその紛争の端を開くだけである」と。鄜延路が西夏が綏州・銀州に駐兵していると探知し、諸路に牽制すべきと檄を飛ばした。師中は上疏して牽制の害を論じた。時に諸将は皆出撃を請うたが、師中は言うには、「出兵しなければ、罪は帥にのみあり、諸将の憂いではない」と。既にしてこの挙は結局取り止めとなった。

原文還,知濟、兗二州。濟水堙塞久,師中訪故道,自兗城西南啟鑿之,功未半而去。遷直史館、知鳳翔府。种諤取綏州,師中言:「西夏方入貢,叛狀未明,恐彼得以藉口,徒啟其釁端也。」 鄜延路覘知西夏駐兵綏、銀州,檄諸路當牽制,師中疏論牽制之害。時諸將皆請行,師中曰:「不出兵,罪獨在帥,非諸將憂也。」既而此舉卒罷。

熙寧初年、天章閣待制・河東都轉運使に任ぜられた。西人が侵入したため、師中を秦州知州とした。詔して『班超伝』を賜り、師中もまた重厚に大體を総べることを以て自ら処した。これ以前は境に重兵を多く屯させ、寇が至れば戦い、その鋭鋒を引き受け、内にはその侵入を防ぐ術がなかった。師中は善く守る者を選んで塞上に配し、善く戦う者を中居させ、諸城に命じて言うには、「寇が至れば、堅壁固守せよ。その去るを待ち、戦士を出して尾いて襲え」と。規律が既に熟すると、常に勝利を得た。

原文熙寧初,拜天章閣待制、河東都轉運使。西人入寇,以師中知秦州。詔賜以《班超傳》,師中亦以持重總大體自處。前此多屯重兵於境,寇至則戰,嬰其銳鋒,而內無以遏其入。師中簡善守者列塞上,而使善戰者中居,令諸城曰:「即寇至,堅壁固守;須其去,出戰士尾襲之。」約束既熟,常以取勝。

王韶が渭州・涇州の上下二城を築き、兵を屯して武勝軍を脅かし、洮州・河州の諸部を撫納した。師中に意見を下すと、遂に言うには、「今、修築すれば必ず広く兵を発し、大いに声勢を張り、及び蕃部に土地を納めさせ、弓箭手を招くことになろう。西蕃及び洮州・河州・武勝軍の部族が疑念を生ずることを恐れる。今は青唐・武勝及び洮州・河州の諸族を先に招撫するに如かず。そうすれば西蕃族は必ず城砦の修築を請い、その欲する所に因り、量を以て兵を発して城堡を築き、夏人の鈔略の患を断つことを示せば、部人は必ず帰心する。唐は西域において、地を得る毎に州を建てたが、その後皆陥落喪失し、清水を以て境界とした。大抵、根本の計未だ実ならず、腹心の患未だ除かれずして、遠略に勤め、土地を貪る者は、かくの如くならざるはない」と。詔して師中の師事を罷めさせた。韶はまた市易を置き、辺境の曠土を耕す者を募ることを請うた。師中は上奏してその謀を阻んだ。王安石がちょうど韶を支持していたため、奏報が反覆する罪に坐し、職を削られ舒州知州となった。洪州・登州・齊州に移り、再び待制となり瀛州知州となった。また司馬光・蘇軾等を召して左右に置くことを乞うた。師中は時政の得失を言上し、また自らを推薦して言うには、「天、微臣を生むは、蓋し聖世の為なり。臣此くの如き者有り、陛下其れ諸れを捨てんや」と。呂惠卿がこの言葉を揚げて、上を欺くものとし、遂に和州團練副使に貶し安置された。右司郎中に還り、卒した。享年六十六。

原文王韶築渭、涇上下兩城,屯兵以脅武勝軍,撫納洮、河諸部。下師中議,遂言:「今修築必廣發兵,大張聲勢,及令蕃部納土,招弓箭手,恐西蕃及洮、河、武勝軍部族生疑。今不若先招撫青唐、武勝及洮、河諸族,則西蕃族必乞修城砦,因其所欲,量發兵築城堡,以示斷絕夏人鈔略之患,部人必歸心。唐於西域,每得地則建為州,其後皆陷失,以清水為界。大抵根本之計未實,腹心之患未除,而勤遠略、貪土地者,未有不如此者。」詔師中罷師事。韶又請置市易,募人耕緣邊曠土,師中奏阻其謀。王安石方主韶,坐以奏報反覆罪,削職知舒州。徙洪、登、齊,復待制、知瀛州。又乞召司馬光、蘇軾等置左右。師中言時政得失,又自稱薦曰:「天生微臣,蓋為聖世,有臣如此,陛下其舍諸。」呂惠卿敭其語,以為罔上,遂貶和州團練副使安置。還右司郎中,卒,年六十六。

師中が初めて州県に仕えた時、邸状が包拯の参知政事就任を報じ、或る人が「朝廷はこれより多事となろう」と言った。師中は言うには、「包公に何ができよう。今の鄞県の王安石という者は、眼に白き多く、甚だ王敦に似ている。他日天下を乱す者は、必ずこの人である」と。後二十年にして、その言は信じられることとなった。

原文師中始仕州縣,邸狀報包拯參知政事,或云朝廷自此多事矣。師中曰:「包公何能為,今鄞縣王安石者,眼多白,甚似王敦,他日亂天下,必斯人也。」後二十年,言乃信。

その志尚は甚だ高く、進見する毎に、多く天人の際・君臣の大節を陳べ、進賢退不肖を以て宰相の考課法とすべきことを請うた。官にあっては威罰を貴ばず、務めて信をもって人を服させ、極めて明察でありながら寛恕であった。去る日、民は道に押し寄せ遮って泣き、馬は進むことができなかった。杜衍・范仲淹・富弼は皆、彼に王佐の才があると推薦した。然れども大言を好んだため、故に時に容れられずして屡々貶黜されたが、気魄は少しも衰えなかった。

原文其志尚甚高,每進見,多陳天人之際、君臣大節,請以進賢退不肖為宰相考課法。在官不貴威罰,務以信服人,至明而恕。去之日,民擁道遮泣,馬不得行。杜衍、范仲淹、富弼皆薦其有王佐才。然好為大言,以故不容於時而屢黜,氣未嘗少衰。

陸詵

原文陸詵

陸詵、字は介夫、餘杭の人。進士より起家し、簽書北京判官となった。貝州の乱に際し、軍需の供給に欠けることなく、賊平定後、またその獄事を条理よく治め、濫りの者無かった。集賢校理を加えられ、秦州通判となった。范祥が古渭に城を築くと、詵は糧餉の供給を主管し、具に言うには、「中国の恃む所ではなく、師を労して屯戍し、且つ事を生ずる」と。既にして諸羌は果たして怒り争い、塞下大いに擾い、二年を経てようやく定まった。

原文陸詵,字介夫,餘杭人。進士起家,簽書北京判官。貝州亂,給事不乏興;賊平,又條治其獄,無濫者。加集賢校理、通判秦州。范祥城古渭,詵主饋餉,具言:「非中國所恃,而勞師屯戍,且生事。」既而諸羌果怒爭,塞下大擾,經二歲乃定。

太常禮院判事・吏部南曹を判じ、開封縣鎮提點となった。咸平の龍騎軍は皆かつての群盗で、兵糧が時に得られず、給与官を殴打し、営に還って自ら安んぜず、大校の柴元が扇動して乱を起こさせた。詔して詵に視察を命じ、元に死罪を免ずることを許し、始めに禍をなした者を捕らえて自ら贖うよう命じた。衆は皆平然とした。

原文判太常禮院、吏部南曹,提點開封縣鎮。咸平龍騎軍皆故群盜,牢廩不時得,毆蒞給官,還營不自安,大校柴元煽使亂。詔詵往視,許元以不死,命取始禍者自贖,眾皆帖然。

陝西刑獄の提點に任ぜられる。時に鑄錢法が崩れ、議者は大錢を一當一に變へようとし、詵は言ふ、「民間は平素より小銅錢を重んじ大鐵錢を賤しむ。他日に一を以て三に當つても尚ほ之を輕んずるに、今減じて均直ならしむれば、大錢必ず廢せられん。請ふ一を以て二に當つと、則ち公私の損亡幾ばくもなく、而して商賈は以て通行すべし。兼ねて盜鑄する者は其の直を計りて贏なしとすれば、將に必ず自ら止まん。」之に從ふ。

原文提點陝西刑獄。時鑄錢法壞,議者欲變大錢當一,詵言:「民間素重小銅錢而賤大鐵錢,他日以一當三猶輕之,今減令均直,大錢必廢。請以一當二,則公私所損亡幾,而商賈可以通行;兼盜鑄者計其直無贏,將必自止。」從之。

湖南・北轉運使に移り、直集英院を經て、集賢殿修撰・桂州知事に進む。奏して言ふ、「邕州は桂州より十八驛を隔つ。異時經略使未だ嘗て武備を飭ふことなし。臣願はくは一往を得て、群蠻をして大將の號令を省みしめ、因りて以て南交を震はしむ。」詔して可とす。儂徭平定の後より、交人は漸く驕り、守帥は常に姑息たり。詵部に至るや、其の使者黎順宗來り、偃蹇として故態の如し。詵其の禮を絀け、召して問ひ折諭し、以て爲すべき所を導き、懾伏して去る。詵遂に邕州に至り、左・右江四十五峒の首長を麾下に集め、工丁五萬を閱簡し、將吏を補置し、更に印を鑄して之に給し、軍聲益〻張る。交人は益〻恭しくし、使を遣はして入貢す。召されて天章閣待制・知諫院と爲り、張田をして之に代はらしむ。英宗は以て詵の法を改むること毋からんことを戒む。

原文徙湖南、北轉運使,直集英院,進集賢殿修撰、知桂州。奏言:「邕去桂十八驛,異時經略使未嘗行飭武備,臣願得一往,使群蠻知省大將號令,因以聲震南交。」詔可。自儂徭定後,交人浸驕,守帥常姑息。詵至部,其使者黎順宗來,偃蹇如故態。詵絀其禮,召問折諭,導以所當為,懾伏而去。詵遂至邕州,集左、右江四十五峒首詣麾下,閱簡工丁五萬,補置將吏,更鑄印給之,軍聲益張。交人滋益恭,遣使入貢。召為天章閣待制、知諫院,命張田代之,英宗戒以毋得改詵法。

道を以て延州知事に除せられ、趣に入覲す。帝勞ひて曰く、「卿嶺外に在りて、施設當らざるなし。鄜延は最も敵要に當る。今將に何をか先にせん。」對へて曰く、「邊事は度るに難し。未だ審らかにせず、陛下は安靜せんと欲するか、將に之を威せんとするか。」帝曰く、「大抵邊陲は安靜すべし。昨王素朕に言ふ、惟だ朝廷と帥臣の意此の如し。諸將に至りては、功を貪り事を生ぜざるは無しと。卿何如と謂ふ。」詵曰く、「素の言是なり。」諒祚慶州を寇し、敗れて還り、聲言して益〻人騎を發し、且つ嫚辭を出だし、復た大順城を攻圍す。詵は積習より致然る由と謂ひ、稍くも折誚を加へざれば、則ち國威立たずと。乃ち請時服の使者及び歲賜を留止し、而して宥州に移して故を問はしむ。帝喜びて曰く、「固より詵の能く此を辦するを知る。」諒祚之を聞きて大いに沮み、盤旋して敢へて入らず、乃ち報じて言ふ、「邊吏擅に兵を興す。今之を誅せり。」朝廷何次公を遣はし詔書を以て諭告せしむ。詵は未だ可ならずと爲す。明年、又た賜冬服及び大行遺留の二使を留めんことを乞ひ、而して自ら帥牒を以て之に故を告ぐ。諒祚始めて詵に因りて罪を謝し、共に貢職す。

原文道除知延州,趣入覲,帝勞之曰:「卿在嶺外,施設無不當者。鄜延最當敵要,今將何先?」對曰:「邊事難以隃度,未審陛下欲安靜邪,將威之也?」帝曰:「大抵邊陲當安靜。昨王素為朕言,惟朝廷與帥臣意如此;至如諸將,無不貪功生事者。卿謂何如?」詵曰:「素言是也。」諒祚寇慶州,以敗還,聲言益發人騎,且出嫚辭,復攻圍大順城。詵謂由積習致然,不稍加折誚,則國威不立。乃留止請時服使者及歲賜,而移宥州問故。帝喜曰:「固知詵能辦此。」諒祚聞之大沮,盤旋不敢入,乃報言:「邊吏擅興兵,今誅之矣。」朝廷遣何次公持詔書諭告,詵以為未可。明年,又乞留賜冬服及大行遺留二使,而自以帥牒告之故。諒祚始因詵謝罪,共貢職。

銀州監軍嵬名山其の國と隙有り、青澗城主种諤を扣きて內附を求む。諤狀を以て聞く。遂に因りて河南の地を取らんと欲す。詵曰く、「數萬の衆土を納るるは容へて受く可し。若し但だ衆を以て來らば、情偽未だ知る可からず、且つ安くにか之を置かん。」諤を戒めて妄動する毋からしむ。諤之を堅持す。詔して詵に諤を召して狀を問はしめ、轉運使薛向と議して撫納せしむ。詵・向言ふ、「名山誠に能く橫山を據りて以て敵を捍がんには、我刺史を以て世に之を封じ、自ら守らしむれば、故に中國の利と爲す。今我に益なくして輕く西釁を啓くは、計に非ず。」乃ち共に三策を畫き、幕府張穆之をして入奏せしむ。而して穆之陰に向の指を受けて、詭りて必ず成る可しと言ふ。神宗詵の協力せざるを意ひ、秦鳳知事に徙す。諤遂に兵を發して綏州を取り、詵諤の節制を稟せざる狀を理めんと欲す。未だ及ばずして徙す。詵馳せて帝に見え、綏州を棄てて諤の罪を上らんことを請ふ。帝愈〻懌せず、晉州知事を罷む。既にして諤罪に抵り、向・穆之皆坐して貶せらる。詵を以て真定知事と爲し、龍圖閣學士・成都知事に改む。

原文銀州監軍嵬名山與其國隙,扣青澗城主种諤求內附,諤以狀聞,遂欲因取河南地。詵曰:「數萬之眾納土容可受,若但以眾來,情偽未可知,且安所置之。」戒諤毋妄動。諤持之力,詔詵召諤問狀,與轉運使薛向議撫納。詵、向言:「名山誠能據橫山以捍敵,我以刺史世封之,使自為守,故為中國之利。今無益我而輕啟西釁,非計也。」乃共畫三策,令幕府張穆之入奏,而穆之陰受向指,詭言必可成。神宗意詵不協力,徙知秦鳳。諤遂發兵取綏州,詵欲理諤不稟節制之狀,未及而徙。詵馳見帝,請棄綏州而上諤罪,帝愈不懌,罷知晉州。既諤抵罪,向、穆之皆坐貶,以詵知真定,改龍圖閣學士、知成都。

青苗法出づ。詵言ふ、「蜀しょく峽は刀耕火種、民常に足らず。今省稅科折已に重し。其の民輕侈にして儲積を爲さず。脱し歲儉にして逋を償ふ能はざれば、適に之を死地に陷れん。願はくは四路の使者を罷めん。」詔して獨り成都府一路を置く。熙寧三年、卒す。年五十九。子師閔。

原文青苗法出,詵言:「蜀峽刀耕火種,民常不足。今省稅科折已重,其民輕侈不為儲積,脫歲儉不能償逋,適陷之死地,願罷四路使者。」詔獨置成都府一路。熙寧三年,卒,年五十九。子師閔。

子 師閔

原文子 師閔

師閔父の任を以て官と爲る。熙寧末、李稷成都路茶場を提舉し、辟して幹當公事と爲す。三年に滿たずして本路常平を提舉し、遂に稷の職に居る。蜀に在る茶額三十萬、稷既に之を增して五と爲し、師閔又た衍して百萬と爲す。稷死し、師閔其の前功を訟へ、土田を之に賜はんことを乞ふ。詔して稷に十頃を賜ひ、師閔を進めて都大提舉成都・永興路榷茶と爲し、位轉運使に視す。又た買馬・監牧を兼ね、事權震灼し、建請するに不遂志なること無し。行ふ所の職事、他司預り聞くこと莫し。茶禍既に秦・蜀に被り、又た荊・楚・兩河に延ばんと欲す。神宗許さず。元祐初、御史中丞劉摯の言を用ひ、黃廉を遣はし蜀に入り訪察せしむ。右司諫蘇轍其の六害を論じ、謂ふ、「李稷師閔を引いて共に事とし、額を增し場を置き、金銀貨を以て民間の物を拘へ折博し、賤く取りて貴く出だす。其の害市易に過ぐ。法始めて行はるるより、今に至るまで四變し、利益深く、民益〻困む。立法の虐、此に甚しきは未だ有らざるなり。」廉の奏至る、轍の陳ぶる所の如し。乃ち師閔を貶して東嶽廟を主管せしむ。

原文師閔以父任為官。熙寧末,李稷提舉成都路茶場,辟幹當公事;不三年,提舉本路常平,遂居稷職。在蜀茶額三十萬,稷既增而五之,師閔又衍為百萬。稷死,師閔訟其前功,乞賜之土田。詔賜稷十頃,進師閔都大提舉成都、永興路榷茶,位視轉運使。又兼買馬、監牧,事權震灼,建請無不遂志,所行職事,他司莫預聞。茶禍既被於秦、蜀,又欲延荊、楚、兩河,神宗不許。元祐初,用御史中丞劉摯言,遣黃廉入蜀訪察。右司諫蘇轍論其六害,謂:「李稷引師閔共事,增額置場,以金銀貨拘民間物折博,賤取而貴出之,其害過於市易。自法始行,至今四變,利益深,民益困。立法之虐,未有甚於此者。」廉奏至,如轍所陳。乃貶師閔主管東嶽廟。

久しくして、起きて蘄州知事と爲る。會ひ復た常平官を置く。李清臣中書に在り、即ち師閔を以て河北に使はす。尋で直秘閣を加へ、復た秦・蜀の茶事を領す。於是一切初めの如し。又た掾屬をして闕に詣り券馬の事を奏せしむ。安燾・韓忠彥議頗る異なり、獨り曾布然りと爲して曰く、「但だ之を行ふこと一年にして、以て綱馬に較ぶれば、利害即ち見る可し。」師閔遂に詳かに令して蕃漢の商人馬を持ち券を受けんと願ふ者、熙・秦兩路に於いて印驗價を給し、而して直を太僕に請はしむ。若し此の券盛行せば、則ち買馬場罷む可しと。既に其の策を用ふ。明年、太僕綱馬の籍を會するに、死者什二に至り、而して券馬の損ずる所纔か百分一なり。詔して之を獎し、金帛を以て賜ふ。陝西轉運使に改め、集賢殿修撰を加へ、秦州知事と爲る。

原文久之,起知蘄州。會復置常平官,李清臣在中書,即以師閔使河北。尋加直秘閣,復領秦、蜀茶事,於是一切如初。又使掾屬詣闕奏券馬事,安燾、韓忠彥議頗異,獨曾布以為然,曰:「但行之一年,而以較綱馬,利害即可見矣。」師閔遂詳令蕃漢商人願持馬受券者,於熙、秦兩路印驗價給之,而請直於太僕,若此券盛行,則買馬場可罷。既用其策,明年,太僕會綱馬之籍,死者至什二,而券馬所損才百分一。詔獎之,賜以金帛。改陝西轉運使,加集賢殿修撰、知秦州。

諸道方に進築して爵賞を被る。師閔秦に在りて事する所無く、怏怏として釋かず。曾布議して本部の兵を督し熙河に赴き共に攻めしめんとす。師閔命を受け踴躍し、兵四萬を集めて以て待つ。而して章惇陰に熙帥鍾傳を諷して先づ塞を出ださしめ、敕して師閔傳の節制を聽かしめ、淺井を築き、又た癿羅を築く。皆成らずして還る。傳更に檄を以て兵を顛耳關に會せしむ。未だ至らずして復た卻く。秦鳳の師再び出で再び返り、勞はれ且つ弊す。言者責を加へんことを乞ふ。聽かず。

原文諸道方進築被爵賞,師閔在秦無所事,怏怏不釋。曾布議使督本部兵赴熙河共攻,師閔承命踴躍,集兵四萬以待。而章惇陰諷熙帥鍾傳先出塞,敕師閔聽傳節制,築淺井,又築癿羅,皆不成而還。傳更檄會兵於顛耳關,未至復卻。秦鳳之師再出再返,勞且弊,言者乞加責,不聽。

旋て寶文閣待制に進み、召されて戶部侍郎と爲る。未だ拜せず、秦州に在りて首虜を詐りて增す事に坐し、職を落として鄞州知事と爲る。未だ幾もなく、之を還す。河南・永興軍・延安府を歷て、卒す。

原文旋進寶文閣待制,召為戶部侍郎。未及拜,坐秦州詐增首虜事,落職知鄞。未幾,還之。歷河南、永興軍、延安府,卒。

趙禼

原文趙禼

趙禼、字は公才、邛州依政の人。進士に第し、汾州司法參軍と爲る。郭逵陝西を宣撫し、辟して機宜文字を掌らしむ。种諤擅に綏州降人數萬を納る。朝廷其の事を生ずるを以て、諤を誅し、故地を反し降人を歸し、以て仇を解き兵を釋かんと議す。禼上疏して曰く、「諤名無く興舉す。死して餘責有り。若し將に改めて之を還さば、彼能く聽順して絶約の心を亡くさんか。若からずんば彼の衆餓莩にして、死を投じて中國すと諭すに若かず。邊臣擅に納るれども、實に利する所無し。特だ往年我が蘇立・景詢の輩を俘へしのみ。詢等を遣はして來らしめ、降人と交へて歸し、各〻紀律を遵ばしめば、而して疆場寧かならん。其の蔽ひて遣はさずんば、則ち我橫山の衆を留むるも、未だ失と爲さざるなり。」

原文趙禼,字公才,邛州依政人。第進士,為汾州司法參軍。郭逵宣撫陝西,辟掌機宜文字。种諤擅納綏州降人數萬,朝廷以其生事,議誅諤,反故地歸降人,以解仇釋兵。禼上疏曰:「諤無名興舉,死有餘責。若將改而還之,彼能聽順而亡絕約之心乎?不若諭以彼眾餓莩,投死中國,邊臣雖擅納,實無所利,特以往年俘我蘇立、景詢輩爾。可遣詢等來,與降人交歸,各遵紀律,而疆場寧矣。如其蔽而不遣,則我留橫山之眾,未為失也。」

また趙卨を鄜延の帥に移すと、趙卨のために執政に書を移し、綏州を存置して兵勢を張ることを請い、先ず大理河川を規度し、堡砦を建て、稼穡の地三十里を画し、降伏者を処置すべしと述べた。もし綏を棄てて守らざれば、新たに帰附した衆を安んずる由なしと。かつての种世衡が蕃兵を招き敵を部して青澗城に屯した故事を援用した。朝廷これに従い、降伏者数万人を活かし、東路の捍蔽となった。熙寧初年、夏人が知保安軍楊定らを誘殺し、既にして李崇貴・韓道喜を献じて来たり、且つ和を請うた。朝廷はその任事の酋長に官職を与え、歳賜を削って俸給とし、これにより塞門・安遠の二砦を納めさせて綏州を還付せんとした。趙卨は言う、「綏は実に形勢の地なり、辺障を増広すべし、乃ち無窮の利なり。もし綏を存してその変を観るは、計の得たるものなり」と。神宗は召して状を問うと、対えて言う、「綏の存亡、皆兵を用いるを免れず。二万人が我が肝脾に入り、釁隙既に深し、備えを亡くすべからず」と。神宗はこれを然りとした。集賢校理を除す。

原文又徙逵帥鄜延,為逵移書執政,請存綏州以張兵勢,先規度大理河川,建堡砦,畫稼穡之地三十里,以處降者。若棄綏不守,則無以安新附之眾。援种世衡招蕃兵部敵屯青澗城故事。朝廷從之,活降人數萬,為東路捍蔽。熙寧初,夏人誘殺知保安軍楊定等,既而以李崇貴、韓道喜來獻,且請和。朝廷欲官其任事之酋,鐫歲賜以為俸給,因使納塞門、安遠二砦而還綏州。禼言:「綏實形勢之地,宜增廣邊障,乃無窮之利。若存綏以觀其變,計之得也。」神宗召問狀,對曰:「綏之存亡,皆不免用兵。降二萬人入吾肝脾,釁隙已深,不可亡備。」神宗然之。除集賢校理。

夏人が環慶を犯し、後にまた来たりて正旦を賀す。趙卨は辺吏にその心腹を離間し、これにより横山の衆を招くことを請う、これ戦わずして人の兵を屈するなりと。提点陝西刑獄に遷る。韓絳が陝西を宣撫し、河東の兵が西討するに、趙卨は韓絳に言う、「大兵が山界を過ぐれば、皆砂磧にして善き水草乏しく、また険隘を亡くして控扼すべきものなし、今切にこれを危ぶむ。もし兵威に乗じて山界の人戸を招誘し、生地に処せば、当に先ず山界の控扼の地を経画し、然る後に招降すべし。しからざれば、師を労して遠く攻め、その利を見ざるべし」と。韓絳は横山を取らんとし、种諤の策を納れ、遂に囉兀に城し、趙卨を以て宣撫判官を権とす。种諤は河東兵を促して銀川に会し、後期を以て将を斬らんと規す。趙卨は韓絳に白し、种諤をして自ら中路に往きて東兵を迎えしむ。种諤は節制に違うを懼れ、乃ち敢えて逞しむること能わず。直龍図閣を加え、延州を知る。

原文夏人犯環慶,後復來賀正。禼請邊吏離其心腹,因以招橫山之眾,此不戰而屈人兵也。遷提點陝西刑獄。韓絳宣撫陝西,河東兵西討,禼為絳言:「大兵過山界,皆砂磧,乏善水草,又亡險隘可以控扼,今切危之。若乘兵威招誘山界人戶,處之生地,當先經畫山界控扼之地,然後招降;不爾,勞師遠攻,未見其利。」絳欲取橫山,納种諤之策,遂城囉兀,以禼權宣撫判官。諤趣河東兵會銀川,規以後期斬將。禼白絳,令諤自往中路迎東兵。諤懼違節制,乃不敢逞。加直龍圖閣、知延州。

夏人は屡々塞に款せんと欲し、毎に虚声を以て辺を揺がす。詔して方略を問うと、趙卨は形勢を審計し、敵を破るの策を為して献ず。裨将曲珍・呂真を遣わし、兵千人を以て東西路を分巡せしむ。夏人は方に四万の衆を以て間道より綏を取らんと欲し、道すがら曲珍に遇い、皇駭して亟に戦い、呂真継いて至るに、夏の衆敗走す。夏は綏を失いてより、意未だ已む能わず。趙卨はその情を揣み知り、奏して言う、「夏の使和を請うは、必ずや綏の界を画せんと欲するなり、願わくは本路経略司に聴きて分画せしめよ。歳賜は、則ち通和の日に俟ちて復すべし」と。明年、遂に趙卨の策を用い、綏を以て綏徳城とす。

原文夏人屢欲款塞,每以虛聲搖邊。詔問方略,禼審計形勢,為破敵之策以獻。遣裨將曲珍、呂真以兵千人分巡東西路。夏人方以四萬眾自間道欲取綏,道遇珍,皇駭亟戰,真繼至,夏眾敗走。夏自失綏,意未能已。禼揣知其情,奏言:「夏使請和,必欲畫綏界,願聽本路經略司分畫;歲賜,則俟通和之日復焉。」明年,遂用禼策,以綏為綏德城。

初め、鄜延の地は皆荒瘠にして、田を占むる者は租賦を出さず、藩蔽として倚りて頼む。宝元の用兵後、凋耗殆んど尽き、その曠土は諸酋の所有と為る。趙卨は因りて招き問うて曰く、「往時汝が族戸若干、今皆安在ぞ」と。対えて曰く、「大兵の後、死亡流散し、その存するは此れに止まる」と。趙卨曰く、「その地は存するか」と。酋対うる無し。趙卨曰く、「汝が自ら丁を募り、家して田を占めて兵に充てるを聴かん、如何。吾が得る所は人のみ、田は則ち吾問わざるなり」と。諸酋皆感服して帰り募り、悉く亡籍を補う。また境内の公私閑田を検括し、七千五百余頃を得、騎兵一万七千を募る。趙卨は異時に蕃兵が空簿を提げ、漫として考うべからざるを以て、因りてその手に涅するを議す。歳饑に属し、蕃兵に手を刺すを願う者に、常平穀一斛を貸すと令す。ここに於いて人人刺すを願い、因りて時に訓練し、精鋭正兵に過ぐ。神宗聞きてこれを嘉し、天章閣待制に擢ぐ。

原文初,鄜延地皆荒瘠,占田者不出租賦,倚為藩蔽。寶元用兵後,凋耗殆盡,其曠土為諸酋所有。禼因招問曰:「往時汝族戶若干,今皆安在?」對:「大兵之後,死亡流散,其所存止此。」禼曰:「其地存乎?」酋無以對。禼曰:「聽汝自募丁,家使占田充兵,若何?吾所得者人爾,田則吾不問也。」諸酋皆感服歸募,悉補亡籍。又檢括境內公私閑田,得七千五百餘頃,募騎兵萬七千。禼以異時蕃兵提空簿,漫不可考,因議涅其手。屬歲饑,令蕃兵願刺手者,貸常平穀一斛,於是人人願刺,因訓練以時,精銳過於正兵。神宗聞而嘉之,擢天章閣待制。

交阯叛く。詔して安南行営経略・招討使と為り、九将の軍を総べてこれを討ち、中官李憲を以て貳とす。趙卨は李憲と議合わず、李憲の罷免を請う。神宗、代わるべき者を問うと、趙卨は郭逵が辺事に老練なるを以て、願わくは裨贊と為らんとす。ここに於いて郭逵を以て宣撫使と為し、趙卨これを副う。郭逵至るや、輒ち趙卨と異なり、趙卨は兵形未だ動かざるに乗じ、先ず両江の峒丁を撫輯し、壮勇を択び利を以て啖い、携貳を招徠せしめ、その腹心を隳し、然る後に大兵を以てこれに継がんと欲す。郭逵聴かず。趙卨また人をして敕榜を齎し賊中に入り招納せしめんと欲す。また聴かず。遂に燕達をして先ず広源を被わしめ、また永平に還らしむ。趙卨は広源の間道、交州に距ること十二驛、利に趣き掩撃し、その不意に出で、川途並びに進み、三路より致討すれば、勢必ず分潰すと以為い、固く争うも得ず。賊は緩みに乗じて遂に江に拠り戦艦数百艘を列ね、官軍渡る能わず。趙卨は将吏を分遣し木を伐ち攻具を治めしむ。機石雨の如く、その艦撃たれて皆廃す。徐かに罷卒を以て賊を致し、伏を設けてこれを撃ち、数千級を斬首し、その渠酋を馘り、遂に皆降る。郭逵は寇を玩んだことを怍じ、乃ち疾を移して先に還る。郭逵既に坐して貶せられ、趙卨もまた即時に賊を平げざるを以て、直龍図閣に降り、桂州を知る。後にまた天章閣待制・権三司使に復す。

原文交阯叛,詔為安南行營經略、招討使,總九將軍討之,以中官李憲為貳。禼與議不合,請罷憲。神宗問可代者,禼以郭逵老邊事,願為裨贊,於是以逵為宣撫使,禼副之。逵至,輒與禼異:禼欲乘兵形未動,先撫輯兩江峒丁,擇壯勇啖以利,使招徠攜貳,隳其腹心,然後以大兵繼之,逵不聽;禼又欲使人齎敕榜入賊中招納,又不聽。遂令燕達先被廣源,復還永平。禼以為廣源間道距交州十二驛,趣利掩擊,出其不意,川途並進,三路致討,勢必分潰,固爭不能得。賊乘緩遂據江列戰艦數百艘,官軍不能濟。禼分遣將吏伐木治攻具,機石如雨,其艦被擊皆廢。徐以罷卒致賊,設伏擊之,斬首數千級,馘其渠酋,遂皆降。逵怍於玩寇,乃移疾先還。逵既坐貶,禼亦以不即平賊,降為直龍圖閣、知桂州。後復天章閣待制、權三司使。

時に西師大挙し、五路並びに進む。趙卨を以て河東転運使と為し、降卒を領いて鄜延に赴き种諤の軍に餉う。种諤罪に抵る。趙卨また餽免の給せざるに坐し、黜けられ相州を知る。既にして職を鐫じ淮陽軍を知り、数ヶ月居りて、尽く故職に復す。

原文時西師大舉,五路並進,以禼為河東轉運使,領降卒赴鄜延餉种諤軍。諤抵罪,禼又坐餽免不給,黜知相州。既而鐫職知淮陽軍,居數月,盡復故職。

慶州を知る。羌の〓移名昌、幣を送ると詭称し、将に寇に入らんとす。趙卨は蕃主白信を使わしむべく知る。白信適た罪に以て獄に繋がる。械を破りてこれを出し、その故を告げ、期日を約して往かしむ。果たして縛り取りて帰る。明年、夏人は新壘を襲取せんと欲し、大いに攻械を治む。趙卨具に夏を撓ます計を上る。夏の蘭州を侵すに及び、趙卨は曲珍を遣わし兵を将いて直ちに塩韋に抵らしめ、千を俘馘し、孳畜五千を駆る。その酋栧厥嵬名、兵を賀蘭原に宿し、時に出でて辺を攻む。趙卨は将李照甫・蕃官帰仁を遣わし各々兵三千を将い左右より分撃せしめ、耿端彦に兵四千をして賀蘭原に趍かしめ、端彦に戒めて曰く、「賀蘭は険要なり、嶺を過ぐれば則ち砂磧なり。敵をして平夏に入らしめば、これを破る由無し」と。また三蕃官を選び各々軽兵五百を以てし、間道を取りて敵砦の後に出で、その帰路を邀えしむ。端彦、賀羅平に戦う。敵敗れ、果たして平夏に趍く。千兵伏して発つ。敵駭き潰え、斬馘甚だ衆く、嵬名を生擒し、首領六を斬首し、戦馬七百を獲、牛羊・老幼三万余を得。龍図閣直学士に遷り、また延安を帥す。

原文知慶州。羌〓移名昌詭稱送幣,將入寇,禼知蕃主白信可使,信適以罪繫獄。破械出之,告以其故,約期日使往,果縛取以歸。明年,夏人欲襲取新壘,大治攻械。禼具上撓夏計。及夏侵蘭州,禼遣曲珍將兵直抵鹽韋,俘馘千,驅孳畜五千。其酋栧厥嵬名宿兵於賀蘭原,時出攻邊,禼遣將李照甫、蕃官歸仁各將兵三千左右分擊,耿端彥兵四千趍賀蘭原,戒端彥曰:「賀蘭險要,過嶺,則砂磧也。使敵入平夏,無繇破之。」又選三蕃官各輕兵五百,取間道出敵砦後,邀其歸路。端彥與戰賀羅平,敵敗,果趍平夏。千兵伏發,敵駭潰,斬馘甚眾,生擒嵬名,斬首領六,獲戰馬七百,牛羊、老幼三萬餘。遷龍圖閣直學士,復帥延安。

元祐初年、梁乙埋数え辺を擾す。趙卨は夏の将に入侵せんとするを知り、西路の将劉安・李儀に檄して曰く、「夏即ち塞門を犯せば、汝径に軽兵を以てその腹心を搗け」と。後果たして来たりて犯す。劉安ら洪州を襲い、俘斬甚だ衆く、夏遂に貢に入る。既にして重兵を以て境を圧す。諸将亟に戍兵を益して備えと為さんことを請う。趙卨徐かにこれを諭して曰く、「第に斥堠を謹み、戈甲を整え、寇の先と為る無かれ。戍兵は益すべからず」と。因りて人を遣わし夏を詰む。夏兵遂に去る。枢密直学士に遷る。

原文元祐初,梁乙埋數擾邊,禼知夏將入侵,檄西路將劉安、李儀曰:「夏即犯塞門,汝徑以輕兵搗其腹心。」後果來犯,安等襲洪州,俘斬甚眾,夏遂入貢。既而以重兵壓境,諸將亟請益戍兵為備,禼徐諭之曰:「第謹斥堠、整戈甲,無為寇先,戍兵不可益也。」因遣人詰夏,夏兵遂去。遷樞密直學士。

梁乙埋終に悛まざりき。間をして善意を以て梁乙埋に問わしむ、「何ぞ苦しんで漢と仇と為る。必ず寇せんと欲せば、第に数え来たれ、恐らくは汝が得る所、能く亡する所に償わず、洪州の如きなり。能くこれを改めば、吾汝を善く遇わん」と。これに戦袍・錦彩を遺す。ここより梁乙埋復た塞を窺わず。趙卨乃ち間を縦つ。国中疑いてこれを殺す。

原文乙埋終不悛。使間以善意問乙埋:「何苦與漢為仇。必欲寇,第數來,恐汝所得不能償所亡,洪州是也。能改之,吾善遇汝。」遺之戰袍、錦彩,自是乙埋不復窺塞。禼乃縱間,國中疑而殺之。

五年、端明殿学士を拝し、太中大夫に遷る。夏は使を遣わし地界を以て請う。朝廷葭蘆・米脂・浮屠・安疆の四砦を還すを許し、趙卨を以て分画の議を領せしむ。夏は四砦を得てより、猶未だ恭順の意有らず。未だ幾もなく復た涇原を犯す。会うに趙卨卒す。年六十五。右光禄大夫を贈る。紹聖四年、趙卨を以て元祐の地を棄つる議とし、その名を党籍に係う。

原文五年,拜端明殿學士,遷太中大夫。夏遣使以地界為請,朝廷許還葭蘆、米脂、浮屠、安疆四砦,以禼領分畫之議。夏既得四砦,猶未有恭順意,未幾復犯涇原。會禼卒,年六十五,贈右光祿大夫。紹聖四年,以禼與元祐棄地議,係其名於黨籍。

孫路

原文孫路

孫路、字は正甫、開封の人。進士に及第。元豊年間、司農丞となる。鄧潤甫が御史に推薦し、召されて対すも、その言は新政に合わず、神宗は輔臣に語り用いるべからずとし、下って主簿に遷す。孫路は鬱々として解けず、河州の通判を求め、蘭州に移る。夏人が入寇し、防禦の功を論じ、五階を進め、陝西転運判官に除す。

原文孫路,字正甫,開封人。進士及第。元豐中,為司農丞。鄧潤甫薦為御史,召對,其言不合新政,神宗語輔臣以為不可用,下遷主簿。路鞅鞅不釋,求通判河州,徙蘭州。夏人入寇,論捍禦功,進五階,除陝西轉運判官。

元祐初め、吏部・礼部員外郎となり、徐王府の侍講を務む。司馬光が河・湟を棄てんとす、邢恕が光に言う、「これは小事にあらず、辺人に訪うべし、孫路は彼の地に四年、その行い信ずるに足り、問うべし」と。光は急ぎ召して問う、孫路は輿地図を挟み示して光に言う、「通遠より熙州に至るまでただ一径通ずるのみ、熙の北はすでに夏の境に接し、今北関より百八十里の土を開き、大河に臨み、蘭州を城し、然る後に捍蔽すべし。もしこれを棄てて敵に与えれば、一道危うし」と。光は翻然として言う、「君に訪うを得たるに頼る、然らずんばほとんど国事を誤らんとす」と。議はここに止む。

原文元祐初,為吏部、禮部員外郎,侍講徐王府。司馬光將棄河、湟,邢恕謂光曰:「此非細事,當訪之邊人,孫路在彼四年,其行止足信,可問也。」光亟召問,路挾輿地圖示光曰:「自通遠至熙州才通一徑,熙之北已接夏境,今自北關辟土百八十里,瀕大河,城蘭州,然後可以捍蔽。若捐以予敵,一道危矣。」光幡然曰:「賴以訪君,不然幾誤國事。」議遂止。

右司郎中に遷り、直龍図閣を以て慶州を知る。章惇が国を柄とし、また棄地を取るを議す。時に諸道相視して未だ進まず、孫路は声を揚げて旧塁を修め、器甲楼鹵を載せ、大順城下に頓し、夜半に安疆に趨き、遅明にこれを占拠し、六日にして城完す。宝文閣待制を加え、ここに興平・横山を築く。龍図閣直学士に進み、熙州知事に移る。

原文遷右司郎中,以直龍圖閣知慶州。章惇柄國,復議取棄地。時諸道相視未進,路聲言修舊壘,載器甲樓鹵,頓大順城下,夜半趍安疆,遲明據之,六日而城完。加寶文閣待制,遂築興平、橫山。進龍圖閣直學士,徙知熙州。

涇原が西安を城す、詔して出師しその勢いを牽制す。孫路はすなわち将を率いて会州に臨み、ここに青唐を取るの策を建つ。大将王湣・王贍が邈川を搗つ、王贍先に至り、これを下す。王湣と功を争い、孫路は王湣を右とし、専ら兵を属す。王贍に請う有れば、すなわち応ぜず。王贍朝廷に訴う、召して孫路を兵部尚書に拝し、龍図閣学士を以て成都を知らしむ。未だ行かず、他事に坐して職を削り、興国軍を知る。徽宗立ち、太原・河南・永興軍・河中府を歴任し、卒す。

原文涇原城西安,詔出師牽制其勢。路即將眾臨會州,遂建取青唐之策。大將王湣、王贍搗邈川,贍先至,下之。湣與爭功,路右湣,顓屬以兵;贍有請,輒弗應。贍訴諸朝,召拜路兵部尚書,以龍圖閣學士知成都。未行,坐他事削職,知興國軍。徽宗立,歷太原、河南、永興軍、河中府,卒。

遊師雄

原文遊師雄

遊師雄、字は景叔、京兆武功の人。張載に学び、進士に及第。儀州司戸参軍となり、徳順軍判官に遷る。鄜延の将劉琯が主帥と戦守の策を議し、延安より安定・黒水に入らんとす、師雄は地賊境に薄く、伏あるを懼れ、他道よりすべしと請う。既にして諜者の言う、夏は精騎を黒水の傍に伏せたりと、劉琯謝して言う、「君の言無くんば、吾返らず」と。

原文遊師雄,字景叔,京兆武功人。學於張載,第進士。為儀州司戶參軍,遷德順軍判官。鄜延將劉琯與主帥議戰守策,欲自延安入安定、黑水,師雄以地薄賊境,懼有伏,請由他道。既而諜者言夏伏精騎於黑水傍,琯謝曰:「微君言,吾不返矣。」

趙禼が延安を帥とし、辟いて属とす。時に夏人辺を擾わし、戍兵は別堡に在り、龍安以北諸城の兵力皆弱く、趙禼これを患う。師雄は義勇を発して守らしめ、多く石を城上に聚め、その至るを待つべしと請う。夏人は備え有るを知り、敢えて入らず、ただ荒堆・三泉を襲いて還る。歳饑え、諸塁を行きて振貸し、口を計りて糧を賦し、人に殍亡無し。石を運びて甲を瑩にし、溝を深くし城を繕い、辺備益々固し。

原文趙禼帥延安,辟為屬。時夏人擾邊,戍兵在別堡,龍安以北諸城兵力咸弱,禼患之。師雄請發義勇以守,多聚石城上,待其至。夏人知有備,不敢入,但襲荒堆、三泉而還。歲饑,行諸壘振貸,計口賦糧,人無殍亡。運石瑩甲,深溝繕城,邊備益固。

元祐初め、宗正寺主簿となる。執政四砦を棄てんとし、師雄に訪う。師雄曰く、「これ先帝の立てられ、以て夏人を制せしむる所なり、何を以てかこれを棄つ、ただ中国の怯を示すのみならず、将に敵人の厭き無き求を起こさん。儻や瀘・戎・荊・粵視て以て請わば、また将にこれを与えんか。万一燕人一乗の使を遣わし、来たりて関南十県を求めば、これを奈何せん」と。聴かず。ここに因りて『分疆録』を著す。軍器監丞に遷る。

原文元祐初,為宗正寺主簿。執政將棄四砦,訪於師雄。師雄曰:「此先帝所立,以控制夏人者也,若何棄之,不惟示中國之怯,將起敵人無厭之求。儻瀘、戎、荊、粵視以為請,亦將與之乎?萬一燕人遣一乘之使,來求關南十縣,為之奈何?」不聽。因著《分疆錄》。遷軍器監丞。

吐蕃辺を寇し、その酋鬼章青宜結、間に乗じて属羌を脅し夏人と構えて乱を為し、謀りて熙河を分拠せんとす。朝廷可使う者を択びて辺臣と措置せしめ、詔して師雄を行かしめ、便宜に従事するを聴す。既に至り、諜知するに夏人は天都山に兵を聚め、前鋒は通遠の境に屯す。吐蕃将に河州を攻めんとす、師雄は先に発してこれを制せんと欲し、帥劉舜卿に請う。舜卿曰く、「彼衆我寡、奈何」と。師雄曰く、「謀に在りて衆に在らず。脱すること済まずとも、甘んじて首戮を受く」と。議すること三日にして乃ち定まり、ここに兵を分かちて二と為し、姚兕将として左とし、种誼将として右とす。姚兕六逋宗城を破り、首級千五百を斬り、講朱城を攻め、黄河の飛梁を断ち、青唐十万の衆度るを得ず。种誼洮州を破り、鬼章及び大首領九人を擒え、首級千七百を斬る。捷書聞こえ、百僚表して賀し、使を遣わして永裕陵に告ぐ。将に厚く師雄を賞せんとす、言者なお邀功生事と以為し、ただ一官を遷し、陝西転運判官・提点秦鳳路刑獄と為す。

原文吐蕃寇邊,其酋鬼章青宜結乘間脅屬羌構夏人為亂,謀分據熙河。朝廷擇可使者與邊臣措置,詔師雄行,聽便宜從事。既至,諜知夏人聚兵天都山,前鋒屯通遠境。吐蕃將攻河州,師雄欲先發以制之,請於帥劉舜卿。舜卿曰:「彼眾我寡,奈何?」師雄曰:「在謀不在眾。脫事不濟,甘受首戮。」議三日乃定,遂分兵為二,姚兕將而左,种誼將而右。兕破六逋宗城,斬首千五百級,攻講朱城,斷黃河飛梁,青唐十萬眾不得度。誼破洮州,擒鬼章及大首領九人,斬首千七百級。捷書聞,百僚表賀,遣使告永裕陵。將厚嘗師雄,言者猶以為邀功生事,止遷一官,為陝西轉運判官、提點秦鳳路刑獄。

夏人涇原を侵し、また熙河に入る、師雄言う、「蘭州賊に一舍を距たり、通遠百里に満たず、重山復嶺の阻有るに非ず。定西・通渭の間に安遮・納迷・結珠の三柵を建て、及び護耕七堡を以て藩籬を固くすべし、これ無窮の利なり」と。詔して范育に付す、皆初議の如し。

原文夏人侵涇原,復入熙河,師雄言:「蘭州距賊一舍,通遠不百里,非有重山復嶺之阻。宜於定西、通渭之間建安遮、納迷、結珠三柵,及護耕七堡,以固藩籬,此無窮之利也。」詔付范育,皆如初議。

祠部員外郎に拝し、集賢校理を加え、陝西転運使と為る。内地より粟を辺に移す、民は輦僦を以て病と為す。師雄言う、「往時辺土耕さず、内に仰ぎ給す、今積粟已に多く、軍食自ら足る、宜しく内地に量りて転輸致すの直を令し、以て大費を免るべし」と。報じて可とす。召して闕に詣らしむ、哲宗これを労して曰く、「洮州の役、雋功と謂うべし、ただ賞の薄きを恨むのみ」と。対えて曰く、「皆上廟算を稟く、臣何の力か之有らん。ただ当時将士の勲労未だ録せられず、これ欠と為す」と。ここに因りてその本末を陳ぶ。衛尉少卿に拝す。哲宗数えずして辺防の利病を訪う、師雄は慶暦以来の辺臣施置の臧否、朝廷謀議の得失、及び方今禦敵の要、凡そ六十事を具し、名づけて『紹聖安辺策』と曰い、これを上る。

原文入拜祠部員外郎,加集賢校理,為陝西轉運使。內地移粟於邊,民以輦僦為病。師雄言:「往者邊土不耕,仰給於內,今積粟已多,軍食自足,宜令內地量轉輸致之直,以免大費。」報可。召詣闕,哲宗勞之曰:「洮州之役,可謂雋功,但恨賞太薄耳。」對曰:「皆上稟廟算,臣何力之有焉。唯當時將士勳勞未錄,此為欠也。」因陳其本末。拜衛尉少卿。哲宗數訪邊防利病,師雄具慶曆以來邊臣施置之臧否,朝廷謀議之得失,及方今禦敵之要,凡六十事,名曰《紹聖安邊策》,上之。

邠州知事に出で、河中府に改め、直龍図閣に進み秦州を知る、未だ至らず、詔して熙州を摂せしむ。夏人辺を擾わすを以て、詔して使者と熙帥・秦帥と共にこれを謀らしむ。使者は討撃に鋭く、師雄謂う、「城塁を進築して以て自ら蔽い、席卷の師未だ応に深入すべからず」と。上章してこれを争う、報ぜず。既にして使者は攻取の難きを知り、卒に師雄の策を用う。

原文出知邠州,改河中府,進直龍圖閣、知秦州,未至,詔攝熙州。以夏人擾邊,詔使者與熙帥、秦帥共謀之。使者銳於討擊,師雄謂:「進築城壘以自蔽,席卷之師未應深入也。」上章爭之,不報。既而使者知攻取之難,卒用師雄策。

洮州を復しての後より、于闐・大食・仏林・邈黎諸国皆懼れ、悉く使を遣わして入貢す。朝廷は熙河に令してその二歳一進を限らしむ。師雄曰く、「此くの如くは、遠人を来たす所以に非ず」と。未だ幾ばくもせず秦に還り、陝州知事に移る。卒す、年六十。師雄は慷慨豪邁、志事功にあり、議者は用いてその材を尽くさざるを以て恨みと為す。

原文自復洮州之後,于闐、大食、佛林、邈黎諸國皆懼,悉遣使入貢。朝廷令熙河限其二歲一進。師雄曰:「如此,非所以來遠人也。」未幾還秦,徙知陝州。卒,年六十。師雄慷慨豪邁,有志事功,議者以用不盡其材為恨。

穆衍

原文穆衍

穆衍、字は昌叔、河内の人、河中に徙る。進士に及第し、華池令に調ず。民の牛が仇家に舌を断たれ而して何人なるかを知らず、県に訟う、衍はこれを殺すを命ず。明日、仇は私殺を以て告ぐ、衍曰く、「牛の舌を断つ者は乃ち汝か」と。これを訊すに具に服す。

原文穆衍,字昌叔,河內人,徙河中。第進士,調華池令。民牛為仇家斷舌而不知何人,訟於縣,衍命殺之。明日,仇以私殺告,衍曰:「斷牛舌者乃汝耶?」訊之具服。

後に淳化(の知事)となり、耀州の属県を管轄した。趙衍は韓絳に従って陝西を宣撫し、慶州の兵卒の潰乱に遭遇した。趙衍は母が耀州にいることを思い、急ぎ帰還を請い、二晩で七つの駅を走った。到着する頃には、慶州の兵卒はかつて華池に駐屯しており、趙衍の名を知っていたので、近づかなかった。当時、諸郡が賊を捕らえる兵糧の乾飯を供給する術がなく、ついに常平倉を勝手に開き、かつ罪を得ることを恐れた。趙衍は言った、「飢えを救わなければ、我々の地域も慶州の兵卒のようになるであろう」。趙衍の考課は一路で最も優れていた。元豊年間、種諤が西征するに当たり、その軍事に参与した。種諤が恩賞を定める際、戦死した者を下位にした。趙衍は言った、「これは忠を勧めるものではない」と、力を尽くして争った。種諤が帰還して塞内に入ると、詔により霊武へ赴き、渭州・慶州の両軍を救援せよと命じられた。出発しようとした時、趙衍は言った、「我が兵は疲れており、帰還してまだ甲冑を解く暇もない。どうして千里の外で不測の事態に立ち向かえようか」。種諤はそこで止めた。同幕の者は罪を恐れ、表面上趙衍に謝して言った、「軍を再び挙げなかったのは、君の力である」。趙衍はその意を悟り、言った、「万衆の命を全うし、一身をもって責任を果たす。趙衍に遺憾はない」。

原文後知淳化,耀之屬縣。衍從韓絳宣撫陝西,遇慶卒潰亂,衍念母在耀,亟謁歸,信宿走七驛。比至,慶卒嘗戍華池,知衍名,不敢近。時諸郡捕賊兵糧糒無以給,遂擅發常平倉,且懼得罪。衍曰:「饑之不恤,則吾丘將為慶卒矣。」衍考課為一路最。元豐中,种諤西征,參其軍事。諤第賞,以死事為下。衍曰:「此非所以勸忠也。」力爭之。諤還入塞,詔往靈武援渭、慶兩軍。將行,衍曰:「吾兵惰,歸未及解甲,安能犯不測於千里外哉?」諤乃止。同幕畏罪,陽謝衍曰:「師不再舉,君之力也。」衍識其意,曰:「全萬眾之命,以一身塞責,衍無憾焉。」

元祐初め、大臣が熙州・蘭州を放棄することを議した。趙衍は孫路と疆事について論じ、『蘭州を棄てれば熙州が危うく、熙州を棄てれば関中が震動する。唐は河州・湟州を失って以来、西辺に少しでも不順があれば、すぐに京都に警報が及んだ。今から二百余年、先帝(神宗)の英武がなければ、誰がこれを克復できたであろうか。もし一朝にしてこれを委ねれば、後患が前よりも甚だしくなり、悔いても及ばないであろう』と言った。議論はそこで止んだ。陝西転運判官、金部員外郎、戸部員外郎に改任された。熙河路の境界画定が未決であったため、詔により趙衍が視察した。帰還して言上した、「質孤・勝如は両川の良田を占拠し、実に彼我必争の地である。西関が敗れて以来、遂に廃して守らなかった。二つの堡塁の間にあって、李諾平に城を築き要害を制し、その他の城堡にも皆、亭障を築いて涇原路と連絡すべきである」。翌年、遂に李諾に城を築き、名を定遠と称した。三度昇進して左司郎中となった。

原文元祐初,大臣議棄熙、蘭,衍與孫路論疆事,以為「蘭棄則熙危,熙棄則關中震。唐自失河、湟,西邊一有不順,則警及京都。今二百餘年,非先帝英武,孰能克復。若一旦委之,恐後患益前,悔將無及矣」。議遂止。改陝西轉運判官,金部、戶部員外郎。熙河分畫未決,詔衍視之。還言:「質孤、勝如據兩川美田,實彼我必爭之地,自西關失利,遂廢不守。請界二壘之間,城李諾平以控要害,及他城堡皆起亭障,以通涇原。」明年,遂城李諾,名曰定遠。三遷左司郎中。

紹聖初め、直秘閣として陝西転運使となり、直龍図閣を加えられ、慶州知州に任ぜられた。延安府に移り、また秦州に移されたが、赴任せずに卒去した。享年六十三。詔により河中府の官がその葬儀を執り行い、後に蘭州放棄の議に反対したことを追録し、その一子に官職を授けた。

原文紹聖初,以直秘閣為陝西轉運使,加直龍圖閣、知慶州,徙延安,又徙秦州,未行而卒。年六十三。敕河中官庀其葬,後追錄不棄蘭州議,官其一子。

論じて言う。熙寧より紹聖に至るまで、四方の事変は多かった。夏人は忽ち服し忽ち叛き、その地は或いは与え或いは奪われ、廟堂の上では議論定まらず、互いに長短を争った。滕元発・劉師中ら七人の一時の謀議は、およそ考察し得るものである。滕元発が君子小人を論じた言葉は簡潔にして尽きており、人主を動かすに足るものであったが、神宗は王安石の言葉に惑わされ、遂に悟ることがなかった。劉師中は王安石を鄞県令の時に予め見抜き、その目が王敦に似て天下を乱すであろうとした。これは呂誨よりも先んじていたと言えよう。劉詵は西夏を鎮撫でき、また交阯の難を靖めることができた。誠に辺境を防禦する才能があった。その子の劉師閔は時に利を籠絡したが、取るに足るものはない。趙禼は西陲の勝利に慣れ、南裔で敗北を取ったが、後に嵬名を捕らえ、ほぼ自らを贖うに足りた。朝臣が河州・湟州放棄を議した時、孫路は一言でこれを止め、司馬光をして自ら誤って国を危うくしそうになったことを悔いさせた。及びて青唐を取リ、邈川を下したことは、その能力を検証し得る。しかし王湣を支持し王贍を窮地に陥れたのは、大将の器ではなかった。遊師雄が鬼章を捕らえ、洮州を回復し、もって諸国を入貢させたことは、諸将と比べてその功は特に傑出して偉大であった。趙衍は政務を行うに民心を得、去った後に乱兵さえその母を驚かすに忍びなかった。徳が人を感動させるに足ることは、このようなものである。

原文論曰:自熙寧至於紹聖,四方之事多矣。夏人乍服乍叛,其地或予或奪,廟堂之上,論靡有定,相為短長,元發、師中輩七人,一時謀謨,蓋可考也。元發論君子小人,言簡而盡,足動人主,而神宗惑安石之言,竟弗之悟。師中豫識安石於鄞令,以為目肖王敦,將亂天下,蓋又先於呂誨矣。詵能鎮撫西夏,又能靖交阯之難,誠有禦邊之才;其子師閔為時籠利,無足取者。趙禼狃於西陲之勝,取敗南裔,後獲嵬名,庶足自贖。朝臣議棄河、湟,孫路以一言止之,使司馬光自悔幾於誤國;及取青唐,下邈川,可驗其能,然右王湣而困王贍,非大將之器也。遊師雄之禽鬼章,復洮州,以致諸國入貢,校之諸將,其功獨為雋偉。衍為政得民心,既去而亂兵不忍驚其母,德之足以感人,有如是夫。