滕元發
召されて試みられ、集賢校理・開封府推官・塩鉄戸部判官・同修起居注となった。英宗はその姓名を書いて禁中に蔵したが、用いるに及ばなかった。神宗即位の後、召して治乱の道を問うと、対えて言うには「治乱の道は白黒・東西の如し、色を変え位を易える所以は、朋党がこれを乱すがためなり」と。神宗が「卿は君子小人の党を知るか」と問うと、言うには「君子に党無し、草木に譬えれば、綢繆として相附く者は必ず蔓草にして、松柏に非ざるなり。朝廷に朋党無ければ、中主と雖も以て済うべし、然らずんば、上聖と雖も亦殆うし」と。神宗は名言と為し、久しく嘆息した。知制誥・知諫院に進んだ。御史中丞王陶が宰相が押班せざるを跋扈と論じ、神宗元発に問うと、元発は言うには「宰相固より罪有り、然れども跋扈と為すは、臣欺天して人を陥れると為す」と。
御史中丞に拝された。种諤が綏州を擅に築き、且つ薛向と諸路の兵を発し、環・慶・保安皆出でて剽掠し、夏人は将官楊定を誘殺した。元発は上疏して極言し、諒祚既に款を納れたれば、信を失うべからず、辺隙一たび開かば、兵連れ民疲れ、必ず内憂と為らんと。又中書・枢密が辺事を制すること多く合わず、中書は戦功を賞し枢密は約束を降し、枢密は堡を修むるを詰め中書は褒詔を降す、元発言うには「戦守は大事なり、而るに異同此の如し、願わくは二府に勅して必ず同にして後に下さしめよ」と。宰相がその子を鼓院判と為すを、諫官は不可と謂うと、神宗は「鼓院は伝達のみ、何事に与かろう」と言う。元発は「人宰相を訴うる有りて、その子をしてこれを達せしむるは、可ならんや」と言う。神宗悟り、これを罷めしめた。
京師郡国地震す。元発上疏して災を致す由を指陳す。大臣悦ばず、出でて秦州知州と為る。神宗は「秦州は朕の意に非ず」と言い、留めて遣わさず。契丹使楊興公を館伴し、懐を開いてこれと語る。興公感動し、去らんとして、泣いて別れた。河北地大いに震う。元発を安撫使と命ず。時に城舎多く圮ち、吏民圧されるを懼れ、皆幄寝茇舎す。元発独り屋下に処し、言うには「屋摧け民死せば、吾まさに身を以てこれに同じくすべし」と。死者を瘞い飢者に食わせ、田租を除き、堤障を修め、貪残を察し、盗賊を督す。北道遂に安んず。翰林学士・開封府知事を除す。民王穎に金有りて隣婦に隠され、数尹を閲て直を得ず。穎憤って傴を致し、杖を扶けて庭に訴う。元発一問して実を得、その金を返す。穎杖を投げ仰いで謝し、傴の在りし所を失う。
夏国主秉常、簒せらる。元発言うには「継遷の死する時、李氏幾くか立たず。当時の大臣諸豪を分建すること能わず、乃ち全地を以てこれに王し、今に至るまで患いと為る。今秉常位を失い、諸将権を争う。天これをもって陛下に遺す。若し再び此時を失わば、悔ゆるも将に及ばん。請う、一の賢将を択び立て、重権を仮し、して経営分裂せしめよ。労せずして定まり、百年の計なり」と。神宗その策を奇とすれど、然れども果たして用いず。
青州・応天府・斉・鄧の二州を歴任す。会に婦党の李逢逆を為す。或いは因りてこれを擠す。池州に黜せらる。未だ行かず、安州に改む。流落すること且つ十歳、猶以前の過ちを以て筠州に貶居す。或いは復た後命有らんと以為うも、元発談笑自若たり、曰く「天は吾が直を知り、上は吾が忠を知る。吾何をか憂えん」と。遂に上章して自ら訟え、曰く有り「楽羊功無くして、謗書篋に満つ。即墨何の罪か有らん、毀言日々聞こゆ」と。神宗これを覧みて惻然たり、即ち湖州知州と為す。
哲宗位に登る。蘇・揚の二州に徙し、龍図閣直学士を除し、復た鄆州知事と為る。学生食給せず、民公田を争うこと二十年決せざる者有り。元発曰く「学食無くして良田を以て頑民を飽かすべきか」と。乃ち請うて学田と為し、遂にその訟を絶つ。時に淮南・京東饑う。元発流民将に至らんことを慮り、蒸して癘疫と為らんとす。先ず城外の廃営地を度り、富室を召諭し、力を出して席屋を為さしむ。一夕に二千五百間成り、井竈器用皆具わる。民至ること帰するが如く、全活すること五万。真定に徙し、又太原に徙す。
元発辺を治むること凜然たり。威西北に行われ、名帥と号せらる。河東十二将、その八を以て西辺に備え、半ばに分かれて番休す。元発至ること八月、辺遽来り告げ、八将皆防秋せんことを請う。元発曰く「夏若し兵を併せて我を犯さば、八将と雖も敵せず。若し其れ来らざれば、四将足れり」と。卒に更休を遣わす。防秋将懼れ、閣を叩いてこれを争う。元発その頸を指して曰く「吾已にこれを捨てたり。頭は斬らるべし、兵は出すべからず」と。是歳、塞上風塵の警無し。詔して四砦を以て夏人に賜う。葭蘆は河東に在り。元発先ず境を画して後に棄てんことを請い、且つ曰く「城を取るは易く、城を棄つるは難し」と。部将訾虎に命じて兵を領し辺を護らしむ。夏敢えて近づかず。夏既に砦を得て、又綏徳城を以て説と為さんと欲し、境を画して二十里外に出だす。元発曰く「是れ一举にして百里を失う。必ず不可なり」と。九たび上章してこれを争う。
老を以て力を求め淮南に、乃ち龍図閣学士と為り、復た揚州知事と為る。未だ至らざるに卒す。年七十一。左銀青光禄大夫を贈られ、諡して「章敏」と曰う。
李師中
李師中、字は誠之、楚丘の人。年十五、封事を上して時政を言う。父緯は涇原都監たり。夏人十余万鎮戎を犯す。緯兵を帥いて出戦す。然るに帥司の遣わす別将郭志高逗遛して進まず。諸将衆寡敵せずと以て、敢えて復た出でず。緯坐して責め降さる。師中宰相に詣り父の罪無きを弁す。時に呂夷簡相と為り、詰問すれども屈せず。夷簡怒り、布衣の宜しく言う所に非ずと以為う。対えて曰く「師中の言う所は、父の事なり」と。ここより名を知らる。
進士に挙げられ、鄜延の龐籍が召し出して洛川県知事とした。民に罪ある者で、その農時を妨げる者は必ず帰らせ、農閑期に自ら役所に出頭するよう命じた。命令で下すべきものは民に掲示し、あるいは父老を召して諭した。租税は皆期日より先に集まった。民が官茶の代金十万緡を負い、追捕・拘束される者が多かったが、師中は彼らの枷を外し、告げて言うには、「公の金銭に償わぬ道理はない。期限を寛げてやるが、よいか」と。皆感泣して命に従った。そこで各郷に一つの箱を置き、その名を記し、日々負債を納めることを許し、一銭以上あれば直ちに投げ入れた。帳簿に記して去った。歳末までに、滞納者は全て完済した。官が諸郡の粟を辺境に移し、後に返すこととなったが、厳冬の大雪で労力と費用がかさみ、兼併の家に安値で売り渡すに至った。師中は、県を通過する際に輸送を願う者は聴許し、自ら倉庫の門に座り、証文を手にして待った。数日で一万斛を得た。その法を他の県にも下した。かつて郷亭に出て、戎人が雑居して耕作するのを見た。皆、戦乱の時に中国に入り、人はその労力を頼み、しばしば婚姻を結び、久しく帰らなかった。師中は、彼らは雑居すべきでないと述べ、経略使に言上し、傍郡の者も合わせて求め、諸々の絶塞に移住させた。
龐籍が樞密副使となって、その才能を推薦した。召されて応対し、太子中允に転じ、敷政県知事となり、権主管經略司文字を兼ねた。夏人が歳賜の遅延を理由に、辺境に移書して言うには、「歳暮を過ぎぬよう願う」と。詔により役人が返答を許されたが、師中は更に公文書を改めて言うには、「故事の通りにせよ」と。樞密院は詔書を擅自に改めたと弾劾したが、師中は言うには、「改めたのは郡の公文書であって、詔書ではない」と。朝廷はこれを是とし、その過失を軽く見た。
廣西刑獄提點となった。桂州の靈渠はかつて漕運に通じていたが、年久しく石が詰まり舟が滞った。師中は直ちに石を焼き、鑿って通した。邕管に馬軍五百があったが、馬は夏に耐えられず多く死んだ。師中は、地勢が皆険阻で騎兵を用いるべき事がなく、上奏してこれを廃止した。士人が補任・摂行する官職は、選授に法がなく、権限は吏にあった。その名を全て記し、家で任命を待たせた。
初め、邕州の蕭注と宜州の張師正が辺境の紛争を起こそうと謀り、注は管下の蠻峒の酋豪を用いて交阯を討伐しようとし、朝廷の兵糧を用いないと言った。詔が經略使蕭固と轉運使宋咸に下り、二人は注に籠絡され、口を合わせて便宜であると称した。師中が到着すると、詔をもって注の上奏を付託した。師中は注を招き寄せ、難詰して言うには、「君は酋豪をもって交阯を伐つと言うが、必勝を保証できるか」と。注が「できない」と言うと、師中は言うには、「既に必勝を保証できぬなら、万一敗北したらどうするか」と。注は不可能と知り、遂に議論を止めた。時に蠻徭の申紹泰が逃亡者を追って侵入し、巡檢宋士堯を害した。注はまた大げさに驚いた奏上をし、仁宗はそのため遅くまで食事もとれなかった。師中は憂うるに足らぬと述べ、かえって注が功を邀えて事を生じ、搾取して衆心を失い、遂に将帥の敗北を招いたと弾劾し、法に照らせば斬刑に当たるとした。ここにおいて注は責められて泰州安置とされ、固と咸も合わせて取り調べられ、皆坐して貶官された。師中が帥事を摂行した。交阯が辺境に兵を耀かし、寇入すると声言した。師中はちょうど客を宴しており、酒を飲み平常と変わらず、六通の榜文を草して境上に掲げ、その内情を暴いたので、敢えて動かず、即日に方物を貢いだ。紹泰は恐れ、巣穴を棄てて逃げ去った。儂智高の子宗旦が火峒に拠り、衆は帰属する所がなかった。前の将帥が賞を幸いとするため討伐を企てたので、固く守っていた。師中が檄を飛ばして禍福を諭すと、宗旦は直ちにその一族を率い、土地をもって降った。辺境の人はその徳に感化され、多く肖像を描き祠を立てて祀り、桂州の李大夫と称し、名を呼ばなかった。
帰還し、濟州と兗州の知州となった。濟水は長く埋もれ塞がっていたが、師中は旧河道を訪ね、兗城の西南から開鑿し、工事半ばで去った。直史館に遷り、鳳翔府知府となった。种諤が綏州を取ると、師中は言うには、「西夏はちょうど入貢したばかりで、叛状は未だ明らかでない。恐らく彼らに口実を与え、徒らにその紛争の端を開くだけである」と。鄜延路が西夏が綏州・銀州に駐兵していると探知し、諸路に牽制すべきと檄を飛ばした。師中は上疏して牽制の害を論じた。時に諸将は皆出撃を請うたが、師中は言うには、「出兵しなければ、罪は帥にのみあり、諸将の憂いではない」と。既にしてこの挙は結局取り止めとなった。
熙寧初年、天章閣待制・河東都轉運使に任ぜられた。西人が侵入したため、師中を秦州知州とした。詔して『班超伝』を賜り、師中もまた重厚に大體を総べることを以て自ら処した。これ以前は境に重兵を多く屯させ、寇が至れば戦い、その鋭鋒を引き受け、内にはその侵入を防ぐ術がなかった。師中は善く守る者を選んで塞上に配し、善く戦う者を中居させ、諸城に命じて言うには、「寇が至れば、堅壁固守せよ。その去るを待ち、戦士を出して尾いて襲え」と。規律が既に熟すると、常に勝利を得た。
王韶が渭州・涇州の上下二城を築き、兵を屯して武勝軍を脅かし、洮州・河州の諸部を撫納した。師中に意見を下すと、遂に言うには、「今、修築すれば必ず広く兵を発し、大いに声勢を張り、及び蕃部に土地を納めさせ、弓箭手を招くことになろう。西蕃及び洮州・河州・武勝軍の部族が疑念を生ずることを恐れる。今は青唐・武勝及び洮州・河州の諸族を先に招撫するに如かず。そうすれば西蕃族は必ず城砦の修築を請い、その欲する所に因り、量を以て兵を発して城堡を築き、夏人の鈔略の患を断つことを示せば、部人は必ず帰心する。唐は西域において、地を得る毎に州を建てたが、その後皆陥落喪失し、清水を以て境界とした。大抵、根本の計未だ実ならず、腹心の患未だ除かれずして、遠略に勤め、土地を貪る者は、かくの如くならざるはない」と。詔して師中の師事を罷めさせた。韶はまた市易を置き、辺境の曠土を耕す者を募ることを請うた。師中は上奏してその謀を阻んだ。王安石がちょうど韶を支持していたため、奏報が反覆する罪に坐し、職を削られ舒州知州となった。洪州・登州・齊州に移り、再び待制となり瀛州知州となった。また司馬光・蘇軾等を召して左右に置くことを乞うた。師中は時政の得失を言上し、また自らを推薦して言うには、「天、微臣を生むは、蓋し聖世の為なり。臣此くの如き者有り、陛下其れ諸れを捨てんや」と。呂惠卿がこの言葉を揚げて、上を欺くものとし、遂に和州團練副使に貶し安置された。右司郎中に還り、卒した。享年六十六。
師中が初めて州県に仕えた時、邸状が包拯の参知政事就任を報じ、或る人が「朝廷はこれより多事となろう」と言った。師中は言うには、「包公に何ができよう。今の鄞県の王安石という者は、眼に白き多く、甚だ王敦に似ている。他日天下を乱す者は、必ずこの人である」と。後二十年にして、その言は信じられることとなった。
その志尚は甚だ高く、進見する毎に、多く天人の際・君臣の大節を陳べ、進賢退不肖を以て宰相の考課法とすべきことを請うた。官にあっては威罰を貴ばず、務めて信をもって人を服させ、極めて明察でありながら寛恕であった。去る日、民は道に押し寄せ遮って泣き、馬は進むことができなかった。杜衍・范仲淹・富弼は皆、彼に王佐の才があると推薦した。然れども大言を好んだため、故に時に容れられずして屡々貶黜されたが、気魄は少しも衰えなかった。
陸詵
太常禮院判事・吏部南曹を判じ、開封縣鎮提點となった。咸平の龍騎軍は皆かつての群盗で、兵糧が時に得られず、給与官を殴打し、営に還って自ら安んぜず、大校の柴元が扇動して乱を起こさせた。詔して詵に視察を命じ、元に死罪を免ずることを許し、始めに禍をなした者を捕らえて自ら贖うよう命じた。衆は皆平然とした。
陝西刑獄の提點に任ぜられる。時に鑄錢法が崩れ、議者は大錢を一當一に變へようとし、詵は言ふ、「民間は平素より小銅錢を重んじ大鐵錢を賤しむ。他日に一を以て三に當つても尚ほ之を輕んずるに、今減じて均直ならしむれば、大錢必ず廢せられん。請ふ一を以て二に當つと、則ち公私の損亡幾ばくもなく、而して商賈は以て通行すべし。兼ねて盜鑄する者は其の直を計りて贏なしとすれば、將に必ず自ら止まん。」之に從ふ。
湖南・北轉運使に移り、直集英院を經て、集賢殿修撰・桂州知事に進む。奏して言ふ、「邕州は桂州より十八驛を隔つ。異時經略使未だ嘗て武備を飭ふことなし。臣願はくは一往を得て、群蠻をして大將の號令を省みしめ、因りて以て南交を震はしむ。」詔して可とす。儂徭平定の後より、交人は漸く驕り、守帥は常に姑息たり。詵部に至るや、其の使者黎順宗來り、偃蹇として故態の如し。詵其の禮を絀け、召して問ひ折諭し、以て爲すべき所を導き、懾伏して去る。詵遂に邕州に至り、左・右江四十五峒の首長を麾下に集め、工丁五萬を閱簡し、將吏を補置し、更に印を鑄して之に給し、軍聲益〻張る。交人は益〻恭しくし、使を遣はして入貢す。召されて天章閣待制・知諫院と爲り、張田をして之に代はらしむ。英宗は以て詵の法を改むること毋からんことを戒む。
道を以て延州知事に除せられ、趣に入覲す。帝勞ひて曰く、「卿嶺外に在りて、施設當らざるなし。鄜延は最も敵要に當る。今將に何をか先にせん。」對へて曰く、「邊事は度るに難し。未だ審らかにせず、陛下は安靜せんと欲するか、將に之を威せんとするか。」帝曰く、「大抵邊陲は安靜すべし。昨王素朕に言ふ、惟だ朝廷と帥臣の意此の如し。諸將に至りては、功を貪り事を生ぜざるは無しと。卿何如と謂ふ。」詵曰く、「素の言是なり。」諒祚慶州を寇し、敗れて還り、聲言して益〻人騎を發し、且つ嫚辭を出だし、復た大順城を攻圍す。詵は積習より致然る由と謂ひ、稍くも折誚を加へざれば、則ち國威立たずと。乃ち請時服の使者及び歲賜を留止し、而して宥州に移して故を問はしむ。帝喜びて曰く、「固より詵の能く此を辦するを知る。」諒祚之を聞きて大いに沮み、盤旋して敢へて入らず、乃ち報じて言ふ、「邊吏擅に兵を興す。今之を誅せり。」朝廷何次公を遣はし詔書を以て諭告せしむ。詵は未だ可ならずと爲す。明年、又た賜冬服及び大行遺留の二使を留めんことを乞ひ、而して自ら帥牒を以て之に故を告ぐ。諒祚始めて詵に因りて罪を謝し、共に貢職す。
銀州監軍嵬名山其の國と隙有り、青澗城主种諤を扣きて內附を求む。諤狀を以て聞く。遂に因りて河南の地を取らんと欲す。詵曰く、「數萬の衆土を納るるは容へて受く可し。若し但だ衆を以て來らば、情偽未だ知る可からず、且つ安くにか之を置かん。」諤を戒めて妄動する毋からしむ。諤之を堅持す。詔して詵に諤を召して狀を問はしめ、轉運使薛向と議して撫納せしむ。詵・向言ふ、「名山誠に能く橫山を據りて以て敵を捍がんには、我刺史を以て世に之を封じ、自ら守らしむれば、故に中國の利と爲す。今我に益なくして輕く西釁を啓くは、計に非ず。」乃ち共に三策を畫き、幕府張穆之をして入奏せしむ。而して穆之陰に向の指を受けて、詭りて必ず成る可しと言ふ。神宗詵の協力せざるを意ひ、秦鳳知事に徙す。諤遂に兵を發して綏州を取り、詵諤の節制を稟せざる狀を理めんと欲す。未だ及ばずして徙す。詵馳せて帝に見え、綏州を棄てて諤の罪を上らんことを請ふ。帝愈〻懌せず、晉州知事を罷む。既にして諤罪に抵り、向・穆之皆坐して貶せらる。詵を以て真定知事と爲し、龍圖閣學士・成都知事に改む。
子 師閔
久しくして、起きて蘄州知事と爲る。會ひ復た常平官を置く。李清臣中書に在り、即ち師閔を以て河北に使はす。尋で直秘閣を加へ、復た秦・蜀の茶事を領す。於是一切初めの如し。又た掾屬をして闕に詣り券馬の事を奏せしむ。安燾・韓忠彥議頗る異なり、獨り曾布然りと爲して曰く、「但だ之を行ふこと一年にして、以て綱馬に較ぶれば、利害即ち見る可し。」師閔遂に詳かに令して蕃漢の商人馬を持ち券を受けんと願ふ者、熙・秦兩路に於いて印驗價を給し、而して直を太僕に請はしむ。若し此の券盛行せば、則ち買馬場罷む可しと。既に其の策を用ふ。明年、太僕綱馬の籍を會するに、死者什二に至り、而して券馬の損ずる所纔か百分一なり。詔して之を獎し、金帛を以て賜ふ。陝西轉運使に改め、集賢殿修撰を加へ、秦州知事と爲る。
諸道方に進築して爵賞を被る。師閔秦に在りて事する所無く、怏怏として釋かず。曾布議して本部の兵を督し熙河に赴き共に攻めしめんとす。師閔命を受け踴躍し、兵四萬を集めて以て待つ。而して章惇陰に熙帥鍾傳を諷して先づ塞を出ださしめ、敕して師閔傳の節制を聽かしめ、淺井を築き、又た癿羅を築く。皆成らずして還る。傳更に檄を以て兵を顛耳關に會せしむ。未だ至らずして復た卻く。秦鳳の師再び出で再び返り、勞はれ且つ弊す。言者責を加へんことを乞ふ。聽かず。
旋て寶文閣待制に進み、召されて戶部侍郎と爲る。未だ拜せず、秦州に在りて首虜を詐りて增す事に坐し、職を落として鄞州知事と爲る。未だ幾もなく、之を還す。河南・永興軍・延安府を歷て、卒す。
趙禼
趙禼、字は公才、邛州依政の人。進士に第し、汾州司法參軍と爲る。郭逵陝西を宣撫し、辟して機宜文字を掌らしむ。种諤擅に綏州降人數萬を納る。朝廷其の事を生ずるを以て、諤を誅し、故地を反し降人を歸し、以て仇を解き兵を釋かんと議す。禼上疏して曰く、「諤名無く興舉す。死して餘責有り。若し將に改めて之を還さば、彼能く聽順して絶約の心を亡くさんか。若からずんば彼の衆餓莩にして、死を投じて中國すと諭すに若かず。邊臣擅に納るれども、實に利する所無し。特だ往年我が蘇立・景詢の輩を俘へしのみ。詢等を遣はして來らしめ、降人と交へて歸し、各〻紀律を遵ばしめば、而して疆場寧かならん。其の蔽ひて遣はさずんば、則ち我橫山の衆を留むるも、未だ失と爲さざるなり。」
また趙卨を鄜延の帥に移すと、趙卨のために執政に書を移し、綏州を存置して兵勢を張ることを請い、先ず大理河川を規度し、堡砦を建て、稼穡の地三十里を画し、降伏者を処置すべしと述べた。もし綏を棄てて守らざれば、新たに帰附した衆を安んずる由なしと。かつての种世衡が蕃兵を招き敵を部して青澗城に屯した故事を援用した。朝廷これに従い、降伏者数万人を活かし、東路の捍蔽となった。熙寧初年、夏人が知保安軍楊定らを誘殺し、既にして李崇貴・韓道喜を献じて来たり、且つ和を請うた。朝廷はその任事の酋長に官職を与え、歳賜を削って俸給とし、これにより塞門・安遠の二砦を納めさせて綏州を還付せんとした。趙卨は言う、「綏は実に形勢の地なり、辺障を増広すべし、乃ち無窮の利なり。もし綏を存してその変を観るは、計の得たるものなり」と。神宗は召して状を問うと、対えて言う、「綏の存亡、皆兵を用いるを免れず。二万人が我が肝脾に入り、釁隙既に深し、備えを亡くすべからず」と。神宗はこれを然りとした。集賢校理を除す。
夏人が環慶を犯し、後にまた来たりて正旦を賀す。趙卨は辺吏にその心腹を離間し、これにより横山の衆を招くことを請う、これ戦わずして人の兵を屈するなりと。提点陝西刑獄に遷る。韓絳が陝西を宣撫し、河東の兵が西討するに、趙卨は韓絳に言う、「大兵が山界を過ぐれば、皆砂磧にして善き水草乏しく、また険隘を亡くして控扼すべきものなし、今切にこれを危ぶむ。もし兵威に乗じて山界の人戸を招誘し、生地に処せば、当に先ず山界の控扼の地を経画し、然る後に招降すべし。しからざれば、師を労して遠く攻め、その利を見ざるべし」と。韓絳は横山を取らんとし、种諤の策を納れ、遂に囉兀に城し、趙卨を以て宣撫判官を権とす。种諤は河東兵を促して銀川に会し、後期を以て将を斬らんと規す。趙卨は韓絳に白し、种諤をして自ら中路に往きて東兵を迎えしむ。种諤は節制に違うを懼れ、乃ち敢えて逞しむること能わず。直龍図閣を加え、延州を知る。
夏人は屡々塞に款せんと欲し、毎に虚声を以て辺を揺がす。詔して方略を問うと、趙卨は形勢を審計し、敵を破るの策を為して献ず。裨将曲珍・呂真を遣わし、兵千人を以て東西路を分巡せしむ。夏人は方に四万の衆を以て間道より綏を取らんと欲し、道すがら曲珍に遇い、皇駭して亟に戦い、呂真継いて至るに、夏の衆敗走す。夏は綏を失いてより、意未だ已む能わず。趙卨はその情を揣み知り、奏して言う、「夏の使和を請うは、必ずや綏の界を画せんと欲するなり、願わくは本路経略司に聴きて分画せしめよ。歳賜は、則ち通和の日に俟ちて復すべし」と。明年、遂に趙卨の策を用い、綏を以て綏徳城とす。
初め、鄜延の地は皆荒瘠にして、田を占むる者は租賦を出さず、藩蔽として倚りて頼む。宝元の用兵後、凋耗殆んど尽き、その曠土は諸酋の所有と為る。趙卨は因りて招き問うて曰く、「往時汝が族戸若干、今皆安在ぞ」と。対えて曰く、「大兵の後、死亡流散し、その存するは此れに止まる」と。趙卨曰く、「その地は存するか」と。酋対うる無し。趙卨曰く、「汝が自ら丁を募り、家して田を占めて兵に充てるを聴かん、如何。吾が得る所は人のみ、田は則ち吾問わざるなり」と。諸酋皆感服して帰り募り、悉く亡籍を補う。また境内の公私閑田を検括し、七千五百余頃を得、騎兵一万七千を募る。趙卨は異時に蕃兵が空簿を提げ、漫として考うべからざるを以て、因りてその手に涅するを議す。歳饑に属し、蕃兵に手を刺すを願う者に、常平穀一斛を貸すと令す。ここに於いて人人刺すを願い、因りて時に訓練し、精鋭正兵に過ぐ。神宗聞きてこれを嘉し、天章閣待制に擢ぐ。
交阯叛く。詔して安南行営経略・招討使と為り、九将の軍を総べてこれを討ち、中官李憲を以て貳とす。趙卨は李憲と議合わず、李憲の罷免を請う。神宗、代わるべき者を問うと、趙卨は郭逵が辺事に老練なるを以て、願わくは裨贊と為らんとす。ここに於いて郭逵を以て宣撫使と為し、趙卨これを副う。郭逵至るや、輒ち趙卨と異なり、趙卨は兵形未だ動かざるに乗じ、先ず両江の峒丁を撫輯し、壮勇を択び利を以て啖い、携貳を招徠せしめ、その腹心を隳し、然る後に大兵を以てこれに継がんと欲す。郭逵聴かず。趙卨また人をして敕榜を齎し賊中に入り招納せしめんと欲す。また聴かず。遂に燕達をして先ず広源を被わしめ、また永平に還らしむ。趙卨は広源の間道、交州に距ること十二驛、利に趣き掩撃し、その不意に出で、川途並びに進み、三路より致討すれば、勢必ず分潰すと以為い、固く争うも得ず。賊は緩みに乗じて遂に江に拠り戦艦数百艘を列ね、官軍渡る能わず。趙卨は将吏を分遣し木を伐ち攻具を治めしむ。機石雨の如く、その艦撃たれて皆廃す。徐かに罷卒を以て賊を致し、伏を設けてこれを撃ち、数千級を斬首し、その渠酋を馘り、遂に皆降る。郭逵は寇を玩んだことを怍じ、乃ち疾を移して先に還る。郭逵既に坐して貶せられ、趙卨もまた即時に賊を平げざるを以て、直龍図閣に降り、桂州を知る。後にまた天章閣待制・権三司使に復す。
時に西師大挙し、五路並びに進む。趙卨を以て河東転運使と為し、降卒を領いて鄜延に赴き种諤の軍に餉う。种諤罪に抵る。趙卨また餽免の給せざるに坐し、黜けられ相州を知る。既にして職を鐫じ淮陽軍を知り、数ヶ月居りて、尽く故職に復す。
慶州を知る。羌の〓移名昌、幣を送ると詭称し、将に寇に入らんとす。趙卨は蕃主白信を使わしむべく知る。白信適た罪に以て獄に繋がる。械を破りてこれを出し、その故を告げ、期日を約して往かしむ。果たして縛り取りて帰る。明年、夏人は新壘を襲取せんと欲し、大いに攻械を治む。趙卨具に夏を撓ます計を上る。夏の蘭州を侵すに及び、趙卨は曲珍を遣わし兵を将いて直ちに塩韋に抵らしめ、千を俘馘し、孳畜五千を駆る。その酋栧厥嵬名、兵を賀蘭原に宿し、時に出でて辺を攻む。趙卨は将李照甫・蕃官帰仁を遣わし各々兵三千を将い左右より分撃せしめ、耿端彦に兵四千をして賀蘭原に趍かしめ、端彦に戒めて曰く、「賀蘭は険要なり、嶺を過ぐれば則ち砂磧なり。敵をして平夏に入らしめば、これを破る由無し」と。また三蕃官を選び各々軽兵五百を以てし、間道を取りて敵砦の後に出で、その帰路を邀えしむ。端彦、賀羅平に戦う。敵敗れ、果たして平夏に趍く。千兵伏して発つ。敵駭き潰え、斬馘甚だ衆く、嵬名を生擒し、首領六を斬首し、戦馬七百を獲、牛羊・老幼三万余を得。龍図閣直学士に遷り、また延安を帥す。
元祐初年、梁乙埋数え辺を擾す。趙卨は夏の将に入侵せんとするを知り、西路の将劉安・李儀に檄して曰く、「夏即ち塞門を犯せば、汝径に軽兵を以てその腹心を搗け」と。後果たして来たりて犯す。劉安ら洪州を襲い、俘斬甚だ衆く、夏遂に貢に入る。既にして重兵を以て境を圧す。諸将亟に戍兵を益して備えと為さんことを請う。趙卨徐かにこれを諭して曰く、「第に斥堠を謹み、戈甲を整え、寇の先と為る無かれ。戍兵は益すべからず」と。因りて人を遣わし夏を詰む。夏兵遂に去る。枢密直学士に遷る。
梁乙埋終に悛まざりき。間をして善意を以て梁乙埋に問わしむ、「何ぞ苦しんで漢と仇と為る。必ず寇せんと欲せば、第に数え来たれ、恐らくは汝が得る所、能く亡する所に償わず、洪州の如きなり。能くこれを改めば、吾汝を善く遇わん」と。これに戦袍・錦彩を遺す。ここより梁乙埋復た塞を窺わず。趙卨乃ち間を縦つ。国中疑いてこれを殺す。
五年、端明殿学士を拝し、太中大夫に遷る。夏は使を遣わし地界を以て請う。朝廷葭蘆・米脂・浮屠・安疆の四砦を還すを許し、趙卨を以て分画の議を領せしむ。夏は四砦を得てより、猶未だ恭順の意有らず。未だ幾もなく復た涇原を犯す。会うに趙卨卒す。年六十五。右光禄大夫を贈る。紹聖四年、趙卨を以て元祐の地を棄つる議とし、その名を党籍に係う。
孫路
孫路、字は正甫、開封の人。進士に及第。元豊年間、司農丞となる。鄧潤甫が御史に推薦し、召されて対すも、その言は新政に合わず、神宗は輔臣に語り用いるべからずとし、下って主簿に遷す。孫路は鬱々として解けず、河州の通判を求め、蘭州に移る。夏人が入寇し、防禦の功を論じ、五階を進め、陝西転運判官に除す。
元祐初め、吏部・礼部員外郎となり、徐王府の侍講を務む。司馬光が河・湟を棄てんとす、邢恕が光に言う、「これは小事にあらず、辺人に訪うべし、孫路は彼の地に四年、その行い信ずるに足り、問うべし」と。光は急ぎ召して問う、孫路は輿地図を挟み示して光に言う、「通遠より熙州に至るまでただ一径通ずるのみ、熙の北はすでに夏の境に接し、今北関より百八十里の土を開き、大河に臨み、蘭州を城し、然る後に捍蔽すべし。もしこれを棄てて敵に与えれば、一道危うし」と。光は翻然として言う、「君に訪うを得たるに頼る、然らずんばほとんど国事を誤らんとす」と。議はここに止む。
右司郎中に遷り、直龍図閣を以て慶州を知る。章惇が国を柄とし、また棄地を取るを議す。時に諸道相視して未だ進まず、孫路は声を揚げて旧塁を修め、器甲楼鹵を載せ、大順城下に頓し、夜半に安疆に趨き、遅明にこれを占拠し、六日にして城完す。宝文閣待制を加え、ここに興平・横山を築く。龍図閣直学士に進み、熙州知事に移る。
涇原が西安を城す、詔して出師しその勢いを牽制す。孫路はすなわち将を率いて会州に臨み、ここに青唐を取るの策を建つ。大将王湣・王贍が邈川を搗つ、王贍先に至り、これを下す。王湣と功を争い、孫路は王湣を右とし、専ら兵を属す。王贍に請う有れば、すなわち応ぜず。王贍朝廷に訴う、召して孫路を兵部尚書に拝し、龍図閣学士を以て成都を知らしむ。未だ行かず、他事に坐して職を削り、興国軍を知る。徽宗立ち、太原・河南・永興軍・河中府を歴任し、卒す。
遊師雄
遊師雄、字は景叔、京兆武功の人。張載に学び、進士に及第。儀州司戸参軍となり、徳順軍判官に遷る。鄜延の将劉琯が主帥と戦守の策を議し、延安より安定・黒水に入らんとす、師雄は地賊境に薄く、伏あるを懼れ、他道よりすべしと請う。既にして諜者の言う、夏は精騎を黒水の傍に伏せたりと、劉琯謝して言う、「君の言無くんば、吾返らず」と。
趙禼が延安を帥とし、辟いて属とす。時に夏人辺を擾わし、戍兵は別堡に在り、龍安以北諸城の兵力皆弱く、趙禼これを患う。師雄は義勇を発して守らしめ、多く石を城上に聚め、その至るを待つべしと請う。夏人は備え有るを知り、敢えて入らず、ただ荒堆・三泉を襲いて還る。歳饑え、諸塁を行きて振貸し、口を計りて糧を賦し、人に殍亡無し。石を運びて甲を瑩にし、溝を深くし城を繕い、辺備益々固し。
元祐初め、宗正寺主簿となる。執政四砦を棄てんとし、師雄に訪う。師雄曰く、「これ先帝の立てられ、以て夏人を制せしむる所なり、何を以てかこれを棄つ、ただ中国の怯を示すのみならず、将に敵人の厭き無き求を起こさん。儻や瀘・戎・荊・粵視て以て請わば、また将にこれを与えんか。万一燕人一乗の使を遣わし、来たりて関南十県を求めば、これを奈何せん」と。聴かず。ここに因りて『分疆録』を著す。軍器監丞に遷る。
吐蕃辺を寇し、その酋鬼章青宜結、間に乗じて属羌を脅し夏人と構えて乱を為し、謀りて熙河を分拠せんとす。朝廷可使う者を択びて辺臣と措置せしめ、詔して師雄を行かしめ、便宜に従事するを聴す。既に至り、諜知するに夏人は天都山に兵を聚め、前鋒は通遠の境に屯す。吐蕃将に河州を攻めんとす、師雄は先に発してこれを制せんと欲し、帥劉舜卿に請う。舜卿曰く、「彼衆我寡、奈何」と。師雄曰く、「謀に在りて衆に在らず。脱すること済まずとも、甘んじて首戮を受く」と。議すること三日にして乃ち定まり、ここに兵を分かちて二と為し、姚兕将として左とし、种誼将として右とす。姚兕六逋宗城を破り、首級千五百を斬り、講朱城を攻め、黄河の飛梁を断ち、青唐十万の衆度るを得ず。种誼洮州を破り、鬼章及び大首領九人を擒え、首級千七百を斬る。捷書聞こえ、百僚表して賀し、使を遣わして永裕陵に告ぐ。将に厚く師雄を賞せんとす、言者なお邀功生事と以為し、ただ一官を遷し、陝西転運判官・提点秦鳳路刑獄と為す。
夏人涇原を侵し、また熙河に入る、師雄言う、「蘭州賊に一舍を距たり、通遠百里に満たず、重山復嶺の阻有るに非ず。定西・通渭の間に安遮・納迷・結珠の三柵を建て、及び護耕七堡を以て藩籬を固くすべし、これ無窮の利なり」と。詔して范育に付す、皆初議の如し。
祠部員外郎に拝し、集賢校理を加え、陝西転運使と為る。内地より粟を辺に移す、民は輦僦を以て病と為す。師雄言う、「往時辺土耕さず、内に仰ぎ給す、今積粟已に多く、軍食自ら足る、宜しく内地に量りて転輸致すの直を令し、以て大費を免るべし」と。報じて可とす。召して闕に詣らしむ、哲宗これを労して曰く、「洮州の役、雋功と謂うべし、ただ賞の薄きを恨むのみ」と。対えて曰く、「皆上廟算を稟く、臣何の力か之有らん。ただ当時将士の勲労未だ録せられず、これ欠と為す」と。ここに因りてその本末を陳ぶ。衛尉少卿に拝す。哲宗数えずして辺防の利病を訪う、師雄は慶暦以来の辺臣施置の臧否、朝廷謀議の得失、及び方今禦敵の要、凡そ六十事を具し、名づけて『紹聖安辺策』と曰い、これを上る。
邠州知事に出で、河中府に改め、直龍図閣に進み秦州を知る、未だ至らず、詔して熙州を摂せしむ。夏人辺を擾わすを以て、詔して使者と熙帥・秦帥と共にこれを謀らしむ。使者は討撃に鋭く、師雄謂う、「城塁を進築して以て自ら蔽い、席卷の師未だ応に深入すべからず」と。上章してこれを争う、報ぜず。既にして使者は攻取の難きを知り、卒に師雄の策を用う。
洮州を復しての後より、于闐・大食・仏林・邈黎諸国皆懼れ、悉く使を遣わして入貢す。朝廷は熙河に令してその二歳一進を限らしむ。師雄曰く、「此くの如くは、遠人を来たす所以に非ず」と。未だ幾ばくもせず秦に還り、陝州知事に移る。卒す、年六十。師雄は慷慨豪邁、志事功にあり、議者は用いてその材を尽くさざるを以て恨みと為す。
穆衍
穆衍、字は昌叔、河内の人、河中に徙る。進士に及第し、華池令に調ず。民の牛が仇家に舌を断たれ而して何人なるかを知らず、県に訟う、衍はこれを殺すを命ず。明日、仇は私殺を以て告ぐ、衍曰く、「牛の舌を断つ者は乃ち汝か」と。これを訊すに具に服す。
後に淳化(の知事)となり、耀州の属県を管轄した。趙衍は韓絳に従って陝西を宣撫し、慶州の兵卒の潰乱に遭遇した。趙衍は母が耀州にいることを思い、急ぎ帰還を請い、二晩で七つの駅を走った。到着する頃には、慶州の兵卒はかつて華池に駐屯しており、趙衍の名を知っていたので、近づかなかった。当時、諸郡が賊を捕らえる兵糧の乾飯を供給する術がなく、ついに常平倉を勝手に開き、かつ罪を得ることを恐れた。趙衍は言った、「飢えを救わなければ、我々の地域も慶州の兵卒のようになるであろう」。趙衍の考課は一路で最も優れていた。元豊年間、種諤が西征するに当たり、その軍事に参与した。種諤が恩賞を定める際、戦死した者を下位にした。趙衍は言った、「これは忠を勧めるものではない」と、力を尽くして争った。種諤が帰還して塞内に入ると、詔により霊武へ赴き、渭州・慶州の両軍を救援せよと命じられた。出発しようとした時、趙衍は言った、「我が兵は疲れており、帰還してまだ甲冑を解く暇もない。どうして千里の外で不測の事態に立ち向かえようか」。種諤はそこで止めた。同幕の者は罪を恐れ、表面上趙衍に謝して言った、「軍を再び挙げなかったのは、君の力である」。趙衍はその意を悟り、言った、「万衆の命を全うし、一身をもって責任を果たす。趙衍に遺憾はない」。
元祐初め、大臣が熙州・蘭州を放棄することを議した。趙衍は孫路と疆事について論じ、『蘭州を棄てれば熙州が危うく、熙州を棄てれば関中が震動する。唐は河州・湟州を失って以来、西辺に少しでも不順があれば、すぐに京都に警報が及んだ。今から二百余年、先帝(神宗)の英武がなければ、誰がこれを克復できたであろうか。もし一朝にしてこれを委ねれば、後患が前よりも甚だしくなり、悔いても及ばないであろう』と言った。議論はそこで止んだ。陝西転運判官、金部員外郎、戸部員外郎に改任された。熙河路の境界画定が未決であったため、詔により趙衍が視察した。帰還して言上した、「質孤・勝如は両川の良田を占拠し、実に彼我必争の地である。西関が敗れて以来、遂に廃して守らなかった。二つの堡塁の間にあって、李諾平に城を築き要害を制し、その他の城堡にも皆、亭障を築いて涇原路と連絡すべきである」。翌年、遂に李諾に城を築き、名を定遠と称した。三度昇進して左司郎中となった。
紹聖初め、直秘閣として陝西転運使となり、直龍図閣を加えられ、慶州知州に任ぜられた。延安府に移り、また秦州に移されたが、赴任せずに卒去した。享年六十三。詔により河中府の官がその葬儀を執り行い、後に蘭州放棄の議に反対したことを追録し、その一子に官職を授けた。
論じて言う。熙寧より紹聖に至るまで、四方の事変は多かった。夏人は忽ち服し忽ち叛き、その地は或いは与え或いは奪われ、廟堂の上では議論定まらず、互いに長短を争った。滕元発・劉師中ら七人の一時の謀議は、およそ考察し得るものである。滕元発が君子小人を論じた言葉は簡潔にして尽きており、人主を動かすに足るものであったが、神宗は王安石の言葉に惑わされ、遂に悟ることがなかった。劉師中は王安石を鄞県令の時に予め見抜き、その目が王敦に似て天下を乱すであろうとした。これは呂誨よりも先んじていたと言えよう。劉詵は西夏を鎮撫でき、また交阯の難を靖めることができた。誠に辺境を防禦する才能があった。その子の劉師閔は時に利を籠絡したが、取るに足るものはない。趙禼は西陲の勝利に慣れ、南裔で敗北を取ったが、後に嵬名を捕らえ、ほぼ自らを贖うに足りた。朝臣が河州・湟州放棄を議した時、孫路は一言でこれを止め、司馬光をして自ら誤って国を危うくしそうになったことを悔いさせた。及びて青唐を取リ、邈川を下したことは、その能力を検証し得る。しかし王湣を支持し王贍を窮地に陥れたのは、大将の器ではなかった。遊師雄が鬼章を捕らえ、洮州を回復し、もって諸国を入貢させたことは、諸将と比べてその功は特に傑出して偉大であった。趙衍は政務を行うに民心を得、去った後に乱兵さえその母を驚かすに忍びなかった。徳が人を感動させるに足ることは、このようなものである。