宋史

列傳第九十  孫長卿 周沆 李中師 羅拯 馬仲甫 王居卿 孫構 張詵 蘇宷 馬從先 沈遘 李大臨 呂夏卿 祖無擇 程師孟 張問 陳舜兪 樂京 劉蒙 苗時中 韓贄 楚建中 張頡 盧革

列傳第九十  孫長卿 周沆 李中師 羅拯 馬仲甫 王居卿 孫構 張詵 蘇宷 馬從先 沈遘 李大臨 呂夏卿 祖無擇 程師孟 張問 陳舜兪 樂京 劉蒙 苗時中 韓贄 楚建中 張頡 盧革

孫長卿

原文孫長卿

孫長卿、字は次公、揚州の人である。外祖父の朱巽の任により秘書省校書郎となった。天禧年中、朱巽が雍州を守り、命じて浮屠の像を取るところに随って入見させた。仁宗はちょうど天下の事を聴く権限を持ち、その年少にして敏速な占対を嘉し、東宮に留めて侍らせようとしたが、母の病を理由に辞退した。詔して官を遷し楚州糧料院を治めさせた。郡の倉庫に米五十万が積み、陳腐して食うことができず、主吏は皆法を恐れ、軽々しく去る者はいなかった。長卿は新旧を斟酌して均等に流通させ、吏の罪は免れることができた。

原文孫長卿,字次公,揚州人。以外祖朱巽任為秘書省校書郎。天禧中,巽守雍,命隨所取浮圖像入見。仁宗方權聽天下事,嘉其年少敏占對,欲留侍東宮,辭以母疾。詔遷官知楚州糧料院。郡倉積米五十萬,陳腐不可食,主吏皆懼法,毋敢輕去,長卿為酌新舊均渫之,吏罪得免。

河南府を通判した。秋、大雨が降り、軍営が壊れた。ある者が言うには、ある兵衆が叛こうとしているという。洛中は騒然となった。長卿は馳せて諭して言った。「天雨が屋舎を壊し、まだ修繕できていない。お前たちに叛こうという意思があるはずがない。これに乗じて我が軍を動かそうとする者がいるのではないか。」首悪の者一人を推して誅し、その場所に宿泊して留まった。兵衆はついに落ち着いた。詔して三陵の奉先卒を淘汰しようとした。淘汰される者が群れをなして府の下で騒いだ。長卿は制を矯めて帰還させ、淘汰すべからざる理由を詳しく述べた。朝廷はこれにより中止した。和州を治めた。民が人を訴えて弟を殺したという。長卿はその言うところに道理がないと察し、その資産を問うた。言うには「上等です。」「家に幾人いるか。」「この弟だけです。」と言った。長卿は「それならば、お前が弟を殺したのだ。」と。取り調べると服罪した。郡人はこれを神明のごとく思った。

原文通判河南府。秋,大雨,軍營壞,或言某眾將叛,洛中讙然,長卿馳諭之曰:「天雨敗屋廬,未能葺,汝輩豈有欲叛意,得無有乘此動吾軍者邪?」推首惡一人誅之,留宿其所,眾遂定。詔汰三陵奉先卒,汰者群譟府下,長卿矯制使還,而具言不可汰之故,朝廷為止。知和州,民訴人殺弟,長卿察所言無理,問其資,曰:「上等也。」「家幾人?」曰:「惟此弟爾。」 曰:「然則汝殺弟也。」鞫之,服,郡人神明之。

益州路刑獄を提点し、開封塩鉄判官、江東淮南河北転運使、江浙荊淮発運使を歴任した。歳の漕運米は八百万に至り、ある者はその多さを疑った。長卿は言った。「私は羨贏を事としたいのではない。凶年に備えるためである。」議者が楚の水は風波が多いと言い、盱眙河を開き、淮から高郵に向かわせることを請うた。長卿は言った。「地は山に阻まれ回り繞り、工役は大きく成し難い。」事は都水に下され、工員数百万を徴発したが、ついに成し得ず、罷められた。時にまた茶禁を弛めてその徴収を行おうとし、長卿を召して議した。長卿は言った。「そもそも祖宗が茶を専売したのは、二辺の買い入れに備え、かつ都内の銭を出さず、公私ともに便利としたのである。今行おうとすることは、辺境の買い入れを助けるに十分の一も足らず、国用を消耗させる。」そこで不便なこと十五事を条陳したが、従わなかった。

原文提點益州路刑獄,歷開封鹽鐵判官、江東淮南河北轉運使、江浙荊淮發運使。歲漕米至八百萬,或疑其多,長卿曰:「吾非欲事羨贏,以備饑歲爾。」議者謂楚水多風波,請開盱眙河,自淮趣高郵,長卿言:「地阻山回繞,役大難就。」事下都水,調工數百萬,卒以不可成,罷之。時又將弛茶禁而收其徵,召長卿議,長卿曰:「本祖宗榷茶,蓋將備二邊之糴,且不出都內錢,公私以為便。今之所行,不足助邊糴什一,國用耗矣。」乃條所不便十五事,不從。

陝西都転運使に改めた。一年余りして、慶州を治めた。州は険阻な高所にあり、水のないことを患い、かつて澗谷を疏引して城中に汲んだが、間もなくまた絶えた。長卿は百の井戸を穿ち、皆泉に及んだ。泥陽に羅川・馬嶺があり、上には危険な桟道が架かり、下は測り知れぬ淵に臨み、通る者は恐れおののいた。長卿は訪ねて唐の旧道を得、これを開いて通途とした。集賢院学士・河東都転運使を加えられ、龍図閣直学士・定州知州に拝された。

原文改陝西都轉運使。逾年,知慶州。州據險高,患無水,蓋嘗疏引澗谷汲城中,未幾復絕。長卿鑿百井,皆及泉。泥陽有羅川、馬嶺,上構危棧,下臨不測之淵,過者惴恐。長卿訪得唐故道,闢為通塗。加集賢院學士、河東都轉運使,拜龍圖閣直學士、知定州。

熙寧元年、河北の地が大いに震い、城郭倉庫は皆崩壊した。長卿は力を尽くして修繕補修した。神宗はその才能を知り、兵部侍郎に転じ、留まって再任させた。翌年、卒去した。享年六十六。

原文熙寧元年,河北地大震,城郭倉庾皆隤,長卿盡力繕補。神宗知其能,轉兵部侍郎,留再任。明年,卒,年六十六。

長卿は文学はなかったが、政事に長け、能臣であった。性質は清廉で、一毫も人から取ることはなかった。定州で得るべき園利八十万は、悉く公に帰した。没した後、詔して中使にその喪を護送させて帰葬させた。

原文長卿無文學,而長於政事,為能臣。性潔廉,不以一毫取諸人。定州當得園利八十萬,悉歸之公。既沒,詔中使護其喪歸葬。

周沆

原文周沆

周沆、字は子真、青州益都の人である。進士に及第し、渤海県を治めた。任期が満ちると、県人が留任を請うた。すでに許可が下ったが、親が老いていることを理由に州の税を監ずることを求めた。鳳翔を通判し、初めて転運判官が置かれた。沆は江西に使いし、親の葬儀を求めて、沂州知州に改めた。開封府推官を歴任した。

原文周沆,字子真,青州益都人。第進士,知渤海縣。歲滿,縣人請留,既報可,而以親老求監州稅。通判鳳翔,初置轉運判官。沆使江西,求葬親,改知沂州。歷開封府推官。

湖南の蛮である唐・盤の二族が暴虐を働き、住民を殺害し、官軍は数度利あらず、沆を転運使とした。沆は言った。「蛮は急に勝って驕っているところで、容易に力で戦うべきではない。秋冬に進兵すべきである。かつその地は険しく気は毒しく、人は驍ぎょう悍で、鋋盾を用いることに長け、北軍は対抗できない。邕・宜・融の三州の卒三千人で山川技芸に習熟した者を選び、直ちにその巣窟を搗き、残りの兵を山の麓に絡ませて配置し、出てくればこれを狩り取るようにせよ。その勢いが窮まり力が屈するのを待って、初めて順撫することができる。」朝廷はその策を用い、二族は皆降伏した。直史館を加えられ、潭州知州となった。他の道から来て戍る兵は、大抵二期で交代したが、多くが瘴癘で死んだ。沆は一期を期限とすべきことを請うた。戍人はこれを便利とした。

原文湖南蠻唐、盤二族寇暴,殺居民,官軍數不利,以沆為轉運使。沆言:「蠻驟勝方驕,未易鬥力,宜須秋冬進兵。且其地險氣毒,人驍悍,善用鋋盾,北軍不能𥒰。請選邕、宜、融三州卒三千人習知山川技藝者,徑搗其巢,布餘兵絡山足,出則獵取之。俟其勢窮力屈,乃可順撫。」朝廷用其策,二族皆降。加直史館、知潭州。他道兵來戍者,率兩期乃代,多死瘴癘,沆請以期為斷,戍人便之。

河東転運使に移った。民が鉄銭を盗んで鋳造し、法で禁じることができなかった。沆は銭の価値を高く評価させ、鋳造する者が利益なくして、自然に止んだ。入朝して度支副使となった。

原文徙河東轉運使。民盜鑄鐵錢,法不能禁,沆高估錢價,鑄者以無利,自息。入為度支副使。

儂智高の乱が平定されると、仁宗は広西を安撫するよう命じ、諭して言った。「嶺外の地は悪く、賊の至らなかった所である。行くには及ばない。」答えて言った。「君命は仁である。しかし遠方の民が塗炭に罹っている。天子の徳沢を布宣すべきである。」ついに往き、郡邑を遍く行った。民は寇を避けて生業を棄てたが、吏は常法を用い、満半年で他人が耕作することを許した。沆は言った。「これはどうして凶年に徴役を偽る者と同じ扱いができようか。」と。奏してその期限を延長した。天章閣待制・陝西都転運使に抜擢され、河北に改めた。

原文儂智高亂定,仁宗命安撫廣西,諭之曰:「嶺外地惡,非賊所至處,毋庸行。」對曰:「君命,仁也;然遠民罹塗炭,當布宣天子德澤。」遂往,遍行郡邑。民避寇棄業,吏用常法,滿半歲則聽人革佃。沆曰:「是豈與凶年詭征役者同科?」奏申其期。擢天章閣待制、陝西都轉運使,改河北。

李仲昌が六塔河の議を建て、費用は省け功は倍になるとした。詔して沆に行視させた。沆は言った。「近く商胡を塞ぐ計画では、本来五百八十万工と算定し、薪芻千六百万を用いた。今はわずか一万工、薪芻三百万を用いるという。同じ一つの河であるのに、功力がこのように相俟たないのは、仲昌が先に小計を為して、工役を起こさせようとしたからである。況んや計画する新渠は、河の広さを見ても五分の一にも満たず、どうして容受できようか。この工役が成れば、河は必ず氾濫し、斉・博・濱・棣の民は魚となるであろう。」既にして初めの議に従い、河は塞がれたがまた決壊し、沆の言うようになった。

原文李仲昌建六塔河之議,以為費省而功倍。詔沆行視,沆言:「近計塞商胡,本度五百八十萬工,用薪芻千六百萬;今才用功一萬,薪芻三百萬。均一河也,而功力不相侔如是,蓋仲昌先為小計,以來興役爾。況所規新渠,視河廣不能五之一,安能容受?此役若成,河必泛溢,齊、博、濱、棣之民其魚矣。」既而從初議,河塞復決,如沆言。

また河東轉運使に移り、龍圖閣直學士に遷り、慶州の知州となり、召されて通進銀臺司を管轄し、太常寺を判った。英宗が即位すると、契丹の乾元節を賀する使者が到着し、沆は賓客を館したが、書状を柩前で受け取ろうとした。使者は典故に合わないとして許さなかった。沆はこれを論破して言った、「昔、貴国に喪があった時、我が国の使者は柳河に至って即座に帰った。今、几筵の前で命を伝えることを許している。恩礼は厚いというのに、まだ何を言うのか」。使者は立ち上がって書状を授けた。朝廷は契丹の君主の年齢を知らなかったが、沆は隙を見て他の言葉に混ぜて尋ね、実情を得た。使者は後悔して言った、「今また兄として南朝に事えるべき時が来た」。

原文又徙河東轉運使,遷龍圖閣直學士、知慶州,召知通進銀臺司、判太常寺。英宗既即位,契丹賀乾元節使至,沆館客,欲取書柩前,使者以非典故,不可。沆折之曰:「昔貴國有喪,吾使至柳河即反,今聽於几筵達命。恩禮厚矣,尚何云?」使者立授書。朝廷未知契丹主年,沆乘間雜他語以問,得其實,使者悔之曰:「今復應兄事南朝矣。」

樞密直學士に進み、成徳軍の知州となった。俗に親を棄てて仏に仕える風があった。沆は調査して、数千人を斥けて家に帰らせた。戸部侍郎の官で致仕し、卒去した。享年六十九。

原文進樞密直學士、知成德軍。俗方棄親事佛。沆閱按,斥數千人還其家。以戶部侍郎致仕,卒,年六十九。

李中師

原文李中師

李中師、字は君錫、開封の人。進士に挙げられ、陳執中に推薦されて集賢校理・提點開封府界となった。管内に盗賊が多かったので、中師は賞格を立て、官吏を督いて分捕させ、ことごとく捕らえた。進秩を賜ったが辞退して受けず、かえって度支判官に抜擢され、淮南轉運使となった。両浙が飢饉となった時、淮の粟を移して賑済しようとしたが、僚属は与えるなと議した。中師は言った、「朝廷が民を見るに、淮も浙も同等である」。結局与えた。河東に移り、入朝して度支副使となり、天章閣待制・陝西都轉運使を拝命し、澶州・河南府の知州となった。召されて権三司使・龍圖閣直學士となり、再び河南府を治めた。これ以前は多く大臣が居守として任じられ、事務を掾幕に委ねていたので、吏は弛緩に慣れていたが、中師は一貫して厳格にこれを整えた。治辦と称された。しかし用法は苛酷で、煩瑣にして大體を欠き、ただ宦官と厚く結んだ。

原文李中師,字君錫,開封人。舉進士,陳執中薦為集賢校理、提點開封府界。境多盜,中師立賞格,督吏分捕,盡得之。進秩,辭不受,乃擢度支判官,為淮南轉運使。兩浙饑,移淮粟振贍,僚屬議勿與,中師曰:「朝廷視民,淮、浙等爾。」卒與之。徙河東,入為度支副使,拜天章閣待制、陝西都轉運使,知澶州、河南府。召權三司使、龍圖閣直學士,復為河南。前此多大臣居守,委事掾幕,吏習弛緩,中師一以嚴整齊之。號為治辦。然用法刻深,煩碎無大體,唯厚結中人。

初め、神宗が宰相に対しその治績を称えたことがあった。富弼が言った、「陛下はどこからご存知ですか」。帝は黙然とした。中師は富弼が己を沮んだことを恨み、再び河南に至った時、富弼は既に老いており、その戸籍を調べて、富民と同等の免役銭を出させた。また司農の意を迎え、余剰を多く取り、他の地方より重くしたので、洛の人はこれを怨んだ。朝廷は中師が率先して推行したとして、群牧使に召した。河南・北の監牧を廃し、国費を省いて民に馬を養わせるよう請うたが、回答がなかった。後に結局その説が行われ、民は堪えられなかった。権発遣開封府となり、卒去した。享年六十一。娘が陳執中の子世儒に嫁いだが、夫の事に坐して誅死した。

原文初,神宗嘗對宰相稱其治狀,富弼曰:「陛下何從知之?」帝默然。中師銜弼沮已,及再至,弼已老,乃籍其戶,令出免役錢與富民等。又希司農指,多取餘,視他處為重,洛人怨之。朝廷以中師率先推行,召為群牧使。乞廢河南、北監牧,省國費,而養馬於民,不報。後竟行其說,民不堪命。權發遣開封府,卒,年六十一。有女嫁陳執中子世儒,坐夫事誅死。

羅拯

原文羅拯

羅拯、字は道濟、祥符の人。進士に及第し、歴官して栄州の知州となった。州は両江の間に介在し、江が漲るたびに城郭を犯したので、拯は東西二つの堤を築いてその患いを除いた。選ばれて秀州の知州となり、江西轉運判官・提點福建刑獄となった。泉州興化軍で水害により家屋が損壊した時、拯は海運の竹木の徴収を止めるよう請い、一年を経て、民居は皆旧に復した。

原文羅拯,字道濟,祥符人。第進士,歷官知榮州。州介兩江間,每江漲,輒犯城郭,拯作東西二堤除其患。選知秀州,為江西轉運判官、提點福建刑獄。泉州興化軍水壞廬舍,拯請勿徵海運竹木,經一年,民居皆復其舊。

轉運使に遷った。邵武の光沢では酒を専売とせず、課税を民に賦し、「黄麹銭」と号していたが、拯はこれを他の三邑に均等にし、人々は便利とした。江・淮発運副使に改めた。江・淮には従来積倉がなく、漕船は岸下に繋留し、米を買い入れるのを待ってようやく航行できた。これは官吏が淮南が陳米を受け入れないことを口実に譴責を逃れるためであった。拯は初めて、米が到着して上供できないものは、すべて軍の倉庫に収めるよう請い、また浙西の米を潤州の倉に貯蔵して時宜に応じて運ぶようにした。これ以来、漕運は増え費用は省かれた。発運使に転じた。

原文遷轉運使。邵武之光澤不榷酒,以課賦民,號「黃麹錢」,拯均之他三邑,人以為便。改江、淮發運副使。江、淮故無積倉,漕船繫岸下,俟糴入乃得行,蓋官吏以淮南不受陳粟為逃譴計。拯始請凡米至而不可上供者,以廩軍;又貯浙西米於潤倉以時運,自是漕增而費省。轉為使。

拯が福建に使者として赴いた時、泉州の商人黄謹が高麗に行き、礼賓省に館せられた。その王が言うには、天聖以後、朝貢が絶えているので、使者を黄謹とともに来させたいとのことであった。ここに至り、拯はこれを上聞し、神宗が許したので、遂に金悌を遣わして入貢させた。高麗が再び中国と通じるのはここから始まった。天章閣待制を加えられた。職に在ること七年、永興軍・青州・潁州・秦州の三州の知州に移り、卒去した。享年六十五。

原文拯使閩時,泉商黃謹往高麗,館之禮賓省,其王云自天聖後職貢絕,欲命使與謹俱來。至是,拯以聞,神宗許之,遂遣金悌入貢。高麗復通中國自茲始。加天章閣待制。居職七年,徙知永興軍、青、潁、秦三州,卒,年六十五。

拯の性質は温和で、人と曲直を争わなかった。発運使の時、副使の皮公弼と不協和であった。公弼が他の道に移ると、御史がその官銭を貸し付けたことを弾劾したが、拯は力を尽くして弁理した。錢公輔が諫官であった時、拯の短所を論じたことがあったが、公輔の姻党の多くは拯の管轄内にあり、拯はしばしば彼らを推薦進用した。ある者が徳を以て怨みに報いることを譏ったが、拯は言った、「同僚が不協和なのは、見解が異なるからである。諫官が言うところは、職務である。また何を怨むことがあろうか」。当時の論はその長者ぶりに服した。

原文拯性和柔,不與人校曲直。為發運使時,與副皮公弼不協。公弼徙他道,御吏劾其貸官錢,拯力為辨理。錢公輔為諫官,嘗論拯短,而公輔姻黨多在拯部內,往往薦進之。或譏以德報怨,拯曰:「同僚不協,所見異也;諫官所言,職也。又何怨乎?」時論服其長者。

馬仲甫

原文馬仲甫

馬仲甫、字は子山、廬江の人、太子少保亮の子である。進士に挙げられ、登封県の知県となった。轘轅道が険阻であったので、民を雇って平らに開鑿し平坦な道とし、人々はその通行を便利とし、石を刻んでその美を頌した。趙州の通判となり、台州の知州となり、度支判官となった。

原文馬仲甫,字子山,廬江人,太子少保亮之子也。舉進士,知登封縣。轘轅道險厄,遂傭民鑿平為坦塗,人便其行,為刻石頌美。通判趙州,知台州,為度支判官。

内侍の楊永德が、淮・汴間の漕船には水遞鋪が便利であると上言した。詔して仲甫をしてともに往って可否を定めさせたが、帰ってその害を十数条言上し、議は遂に止んだ。夔路轉運使として出向した。凶年に、粟を盗んだ者は死罪に当たるとされたが、仲甫は罪一等を減ずるよう請い、詔して奏聞して裁決を待つこととした。また言上した、「飢えて弱った者が拘囚され、返報を待つ間に死んでしまう。請う、決断して後に奏上させられたい」。

原文內侍楊永德言漕舟淮、汴間,惟水遞鋪為便。詔仲甫偕往訂可否,還言其害十餘條,議遂格。出為夔路轉運使。歲饑,盜粟者當論死,仲甫請罪減一等,詔須奏裁。復言:「饑羸拘囚,比得報,死矣,請決而後奏。」

淮南轉運使に移った。真州・揚州など諸州は土地が狭く、米の産出が少ないのに、官が多く買い上げるので、価格が常に高騰し、江辺では米が余っているのに農民は売る先がなかった。仲甫は買い上げを移してその患いを緩和するよう請い、双方の民に益があるとして、従われた。遂に戸部判官から発運使となった。淮陰から泗上しじょうを経て長淮を航行するのに、風波で船が覆り、毎年その患いに遭っていた。仲甫は洪澤渠六十里を開鑿するよう建議し、漕運を行う者に便利とした。

原文徙使淮南。真、揚諸州地狹,出米少,官糴之多,價常踴登,濱江米狼戾,而農無所售。仲甫請移糴以紓其患,兩益於民,從之。遂繇戶部判官為發運使。自淮陰徑泗上浮長淮,風波覆舟,歲罹其患。仲甫建議鑿洪澤渠六十里,漕者便之。

天章閣待制を拝命し、瀛州秦州の知州となった。古渭は青唐の南に介在し、夏人はその北にあり、中に一つの小道が通じ、少しでも警報があれば道が絶えた。仲甫は篳栗城の故址を得て、雞川砦から堡を築き、北は南谷に至り、数百里を環として内地とした。詔して甘谷堡と名付けた。以前は羌人が城内に入って貿易する時、皆邸を借りていたが、仲甫は館を設けて彼らを処遇し、表面上は礼を厚く示し、実はこれを隔離したのである。

原文拜天章閣待制、知瀛州秦州。古渭介青唐之南,夏人在其北,中通一徑,小警則路絕。仲甫得篳栗城故址,自雞川砦築堡,北抵南谷,環數百里為內地,詔賜名甘谷堡。故時羌人入城貿易,皆僦邸,仲甫設館處之,陽示禮厚,實閑之也。

熙寧の初め、亳州・許州・揚州の三州を守り、在京刑獄を糾察し、通進銀臺司を知り、再び揚州となり、崇禧観を提挙し、卒す。

原文熙寧初,守亳、許、揚三州,糾察在京刑獄,知通進銀臺司,復為揚州,提舉崇禧觀,卒。

王居卿

原文王居卿

王居卿、字は壽明、登州蓬萊の人、進士を以て齊州知事に至り、夔路京東刑獄・鹽鐵判官を提挙す。建言す、商賈百貨を轉じて塞上に市する者は、家貲を以て官に抵するを聽け、長券を給し、賣る所に至り、並びに徵稅直を輸せしむれば、公私之に便なりと。

原文王居卿,字壽明,登州蓬萊人,以進士至知齊州,提舉夔路京東刑獄、鹽鐵判官。建言商賈轉百貨市塞上者,聽以家貲抵於官,為給長券,至賣所,並輸徵稅直,公私便之。

揚州知事に出で、京東轉運使に改む。青州の河城を貫き、泛溢を苦しみ病と為す。居卿即ち城に飛梁を立て、上に樓櫓を設け、下に門を建て、時に閉啓し、人其の智を誦す。河北路に徙す。河曹村に決す。居卿軟橫二埽を立てて怒流を遏へ、而して水と爭はず。朝廷其の功を賞し、以て都水法と為すを建つ。召されて戶部副使・提舉市易に拜し、天章閣待制・河北都轉運使に擢でらる。秦州・太原府を知り、卒す。年六十二。居卿は俗吏、特り利を言ふを以て從官に至る。

原文出知揚州,改京東轉運使。青州河貫城中,苦泛溢為病,居卿即城立飛梁,上設樓櫓,下建門,以時閉啟,人誦其智。徙河北路。河決曹村,居卿立軟橫二埽以遏怒流,而不與水爭。朝廷賞其功,建以為都水法。召拜戶部副使、提舉市易,擢天章閣待制、河北都轉運使。知秦州、太原府,卒,年六十二。居卿俗吏,特以言利至從官。

孫構

原文孫構

孫構、字は紹先、博平の人。進士第に中り、廣濟軍判官と為る。歲に圭田粟六百石を入る。構止だ百石を受く。餘を以て學官に畀ふ。久しくして、黎州を知る。夷年墨數へ邊を擾す。間を用ひて之を殺す。蜀しょく帥呂公弼其の事を上る。擢でられて真州を知る。凶歲盜を得て、令して各黨伍を指さしめ、悉く諸法に置き、境內清しと為る。

原文孫構字紹先,博平人。中進士第,為廣濟軍判官,歲入圭田粟六百石,構止受百石,餘以畀學官。久之,知黎州,夷年墨數擾邊,用間殺之。蜀帥呂公弼上其事,擢知真州。凶歲得盜,令各指黨伍,悉置諸法,境內為清。

度支判官に遷る。夔州部の夷梁承秀・李光吉・王兗生獠を導き入寇す。轉運判官張詵之を誅せんことを請ふ。構を選びて使と為し、倍道して官に之く。至れば則ち渝州の豪杜安行を遣はし千人を募り往き襲はしめ、自ら官軍及び黔中の兵を督して其の後を撃ち、承秀を斬り、入りて二族を討ち、其の居を火す。餘眾黑崖嶺に保つ。黔兵間道より夜譟して進み、光吉崖に墜ちて死に、兗自ら縛して降る。其の地を以て南平軍を建つ。功を錄し直昭文館を加ふ。

原文遷度支判官。夔州部夷梁承秀、李光吉、王兗導生獠入寇,轉運判官張詵請誅之。選構為使,倍道之官,至則遣渝州豪杜安行募千人往襲,自督官軍及黔中兵擊其後,斬承秀,入討二族,火其居。餘眾保黑崖嶺,黔兵從間道夜譟而進,光吉墜崖死,兗自縛降。以其地建南平軍。錄功加直昭文館。

湖北轉運使に徙す。章惇南・北江蠻の事を興す。構諭して懿・洽二州を降し、歸附州十四を納る。初め、辰溪を渡り、舟毀ちて溺る。援くる者を得て僅かに免る。神宗之を憫み、帛三百を賜ふ。北江の酋彭師晏常に向背を持す。構向水の酋彭儒武之と隙有るを知り、檄して攻めしむ。師晏降り、其の下溪州の地を得、五溪皆平ぐ。集賢殿修撰に進み、三品服を賜ふ。交阯入寇す。右諫議大夫・桂州知事に拜し、聲言して將に掎角して其の巢穴を搗たんとす。寇聞きて引き去る。疾を以て崇福宮を提挙し、太中大夫に換へ、卒す。年六十四。

原文徙湖北轉運使。章惇興南、北江蠻事,構諭降懿、洽二州,納歸附州十四。初,渡辰溪,舟毀而溺,得援者僅免,神宗憫之,賜帛三百。北江酋彭師晏常持向背,構知向水酋彭儒武與有隙,檄使攻之。師晏降,得其下溪州地,五溪皆平。進集賢殿修撰,賜三品服。交阯入寇,拜右諫議大夫、知桂州,聲言將掎角搗其巢穴,寇聞引去。以疾提舉崇福宮,換太中大夫,卒,年六十四。

構は功名を喜び、建立に勇み、西南の邊事此より始まる云ふ。

原文構喜功名,勇於建立,西南邊事自此始云。

張詵

原文張詵

張詵、字は樞言、建州浦城の人。進士に第し、越州通判と為る。民衙前役を患ひ苦しむ。詵人戶を科別し、其の役に當る者を籍し、差人錢を以て人を雇ひ充てしむ。皆以て便と為す。襄邑縣を知り、夔路轉運判官に擢でらる。土を辟くの功を錄し、直集賢院を加へ、陝西轉運副使に改む。召されて對す。帝曰く、「朕未だ卿を識らず。每章奏を閱するに、獨り卿と蔡挺の論請する所有りて、人をして了然たらしむ。尋で當に帥事を以て相屬せん」と。及び入り辭するに、服金紫を賜ふ。

原文張詵,字樞言,建州浦城人。第進士,通判越州。民患苦衙前役,詵科別人戶,籍其當役者,以差人錢為雇人充,皆以為便。知襄邑縣,擢夔路轉運判官。錄辟土之功,加直集賢院,改陝西轉運副使。召對,帝曰:「朕未識卿,每閱章奏,獨卿與蔡挺有所論請,使人了然。尋當以帥事相屬。」及入辭,賜服金紫。

明年、直龍圖閣・秦州知事と為る。此に先んじ將吏功を貪り、多く羌地に從ひ獵射し、因りて邊患を起す。詵至り、令を申して犯すこと毋からしむ。一人を得て、諸境上に斬る。群羌感悅し、天章閣待制・熙州知事に遷る。董氈鬼章を遣はし岷州を逼る。詵往き討つ。董氈迎ひ戰ひ、之を錯鑿城に破り、首級萬を斬る。

原文明年,直龍圖閣、知秦州。前此將吏貪功,多從羌地獵射,因起邊患。詵至,申令毋得犯,得一人,斬諸境上,群羌感悅,遷天章閣待制、知熙州。董氈遣鬼章逼岷州,詵往討,董氈迎戰,破之於錯鑿城,斬首萬級。

元豐の初め、龍圖閣直學士を加へ、成都府を知り、杭州に徙す。將に行かんとし、復命して權經略熙河事と為り、趣して倍道して行かしむ。時倉卒に戎を治む。有司産を計り夫を調ふ。戶累首に至る。民多く流亡す。詵中塗其の狀を訴へ、敕して劍外之を招攜せしむるを乞ふ。報はず。會に靈武の師罷む。乃ち杭に赴く。道京師を過ぐ。帝西事を訪ふ。對へて曰く、「彼勢弱しと雖も、而我が師未だ銳からず、邊備未だ飭はらず。願くは歲月を以て功を圖らん」と。累官正議大夫、卒す。年七十二。

原文元豐初,加龍圖閣直學士、知成都府,徙杭州。將行,復命權經略熙河事,趣使倍道行。時倉卒治戎,有司計產調夫,戶至累首,民多流亡。詵中塗訴其狀,乞敕劍外招攜之,不報。會靈武師罷,乃赴杭,道過京師,帝訪以西事,對曰:「彼勢雖弱,而我師未銳,邊備未飭,願以歲月圖功。」累官正議大夫,卒,年七十二。

詵性孝友、財に廉、平生田業を殖へず。既に瀘夷の地を建拓し進用せらるる後、善言紀す可き有りと雖も、終に清議を逭れず云ふ。

原文詵性孝友,廉於財,平生不殖田業。既建拓瀘夷地被進用後,雖有善言可紀,終不逭清議云。

蘇寀

原文蘇寀

蘇寀は、字を公佐といい、磁州滏陽の人である。科挙に合格し、兗州觀察推官に任じられ、太守杜衍に知遇を得た。大理詳斷官となった。民のうちに、母が再嫁して死に、埋葬した後、すぐにその柩を盗んで帰り父に合葬した者がおり、法では死罪に当たった。蘇寀は言った、「子が母を取って父に合葬することを、どうして墓を発き財物を取るのと同等にできようか」と。請うてその者を生かした。

原文蘇寀,字公佐,磁州滏陽人。擢第,調兗州觀察推官,受知於守杜衍。為大理詳斷官。民有母改嫁而死,既葬,輒盜其柩歸祔,法當死。寀曰:「子取母祔父,豈與發塚取財等?」請而生之。

審刑院詳議・御史臺推真官に遷り、単州知州となり、梓州益州路刑獄・利路轉運使を提点した。文州では毎年羌の馬を買い、羌は蜀の産物を転売し、狡猾な仲買人が物価を上下させ、ほしいままに奸計を働き利益を貪っていた。蘇寀は折博務を設置し、物価を平準化して馬と交換することを建議し、積年の弊害はたちまち絶えた。

原文遷審刑院詳議、御史臺推真官,知單州,提點梓州益州路刑獄、利路轉運使。文州歲市羌馬,羌轉買蜀貨,猾駔上下物價,肆為奸漁。寀議置折博務,平貨直以易馬,宿弊頓絕。

召されて大理寺を判じ、湖北・淮南・成都路轉運使となり、侍御史知雑事に抜擢され、刑部を判じた。契丹に使いし、帰途半ばにして、英宗の崩御を聞いた。契丹が宴を設け依然として音楽を用いたので、蘇寀は送りの者に言った、「両朝は兄弟の国であり、君臣の義は、我と君らと同一である。これを忍ぶことができれば、何を忍ぶことができまいか」と。そこで彼らのために音楽を撤去させた。

原文入判大理寺,為湖北、淮南、成都路轉運使,擢侍御史知雜事,判刑部。使契丹,還及半道,聞英宗晏駕,契丹置宴仍用樂,寀謂送者曰:「兩朝兄第國家,君臣之義,吾與君等一也。此而可忍,孰不可忍。」遂為之徹樂。

度支副使に進み、集賢殿修撰として鳳翔府を知った。帰朝し、在京刑獄を糾察し、また出て潭州・広州を知り、累転して給事中となり、河南府を知り、滞留する訴訟はなかった。召されて審刑院を知り、卒した。蘇寀は刑名に長じていたので、たびたび法官となり、数度にわたり讞議によって詔により賞賛された。

原文進度支副使,以集賢殿修撰知鳳翔。還,糾察在京刑獄,又出知潭州、廣州,累轉給事中,知河南府,無留訟。入知審刑院,卒。寀長於刑名,故屢為法官,數以讞議受詔獎焉。

馬従先

原文馬從先

馬従先は、字を子野といい、祥符の人である。若くして学問に尽力した。父が任子の恩典を受けるべき時、これを弟に譲った。進士より累官して太常少卿・宿州知州となった。宿州は淮水と汴水の間にあり、もとより治め難い所であったが、従先は賭博をする者・重罪に坐する者に厚く賞を与えて盗賊を求めさせた。牛を屠殺すること・銭を鋳造することを禁じ、厳格であった。大水が出ると、倉を開いて流亡の民を救済し、数十万を全活させた。代わって帰還し、寿州知州となったが、老齢を理由に辞退した。英宗は諭して遣わし、「卿の治績が甚だ盛んであると聞く。寿州は特に宿州より重い。しばらく朕のために赴任せよ」と言った。到着すると、以前と同様に治めた。太子賓客より工部侍郎に転じて致仕した。従先の性質は整斉厳粛で、盛夏でも肌を脱いだり裸足になったりしなかった。晩年は仏教を学び、自身の終わる時を予言し、七十六歳で卒した。

原文馬從先,字子野,祥符人。少盡力於學。父當任子,推以與其弟。由進士累官太常少卿、知宿州。宿在淮、汴間,素難治,從先以囊博者、重坐者厚賞以求盜。禁屠牛、鑄錢,嚴甚。大水,發廩振流亡,全活數十萬。代還,知壽州,以老辭,英宗諭遣之曰:「聞卿治行籍甚,壽尤重於宿,姑為朕往。」既至,治如曩時。由太子賓客轉工部侍郎致仕。從先性整嚴,雖盛夏不袒跣。晚學佛,預言其終時,年七十六而卒。

【史評】

原文【史評】

論じて言う。長卿は性質廉潔を務め、能臣と称され、中師は用法が刻深で、治辨と称された。ともに材吏ではあるが、優劣は自ずから現れている。拯および仲甫はともに国に利を興し害を除くことができた。構は初めて西南の辺境を開き、詵はついに瀘夷を拓いて進用された。他の善行があっても、清議を免れることはできなかった。沆に至っては黄河の決壊を議し、遠方の民を安んじ、隣国の使者を折衝し、歴任して称述すべき事績があり、最も優れていると言えようか。

原文論曰:長卿性務廉潔,以能臣稱,中師用法刻深,以治辨稱,雖均為材吏,而優劣自見。拯及仲甫俱能為國興利除害。構始開西南邊,詵遂拓瀘夷被進用,雖有他善,而不能逭清議。至於沆決河議,綏遠民,折鄰使,歷有可稱述者,其最優歟。

沈遘

原文沈遘

沈遘は、字を文通といい、銭塘の人で、蔭官により郊社斎郎となった。進士に挙げられ、廷試で第一と唱名されたが、大臣が既に官にある者は多くの士に先んじることはできないと言ったので、沈遘を第二とした。江寧府通判となり、帰朝して『本治論』を奏上した。仁宗は言った、「近頃文を献ずる者は概ね詩賦であるが、どうしてこの十篇の書が用いられるのに及ぼうか」と。集賢校理を除した。まもなく、起居注を修し、ついに知制誥となった。父の沈扶が事に坐して免官となったため、越州知州を求め、杭州に移った。

原文沈遘,字文通,錢塘人,以蔭為郊社齋郎。舉進士,廷唱第一,大臣謂已官者不得先多士,乃以遘為第二。通判江寧府,歸,奏《本治論》。仁宗曰:「近獻文者率以詩賦,豈若此十篇之書為可用也。」除集賢校理。頃之,修起居注,遂知制誥。以父扶坐事免,求知越州,徙杭州。

人となりは疏雋博達で、吏治に明るく、令は行き禁は止まった。民で貧しく葬ることができない者には公銭を与え、孤女数百人を嫁がせ、倡優が養っていた良家の子は奪い返してその父母に帰した。僚属を善く遇し、皆が喜んで力を尽くして彼の耳目となり、里巷の長短を探り、細かいことまで必ず知り、事が来ればたちまち断じた。西湖の魚鱉を捕ることを禁じた。旧知の人が湖上に住んでおり、蟹が夜にその籬の間に入り込んだ。ちょうど客が宿泊しており、ともにこれを食べた。朝になって府に赴くと、沈遘は迎えて言った、「昨夜の蟹は美味であったか」と。客は笑って謝した。小民で法を犯し、情状がやや不善の者は、法の軽重を問わず、ただちに兵士に刺配し、奸猾な者は息を潜めた。提点刑獄鞫真卿がその状を按じようとしたが、沈遘はやや緩め、刺配した者を再び民とした。

原文為人疏雋博達,明於吏治,令行禁止。民或貧不能葬,給以公錢,嫁孤女數百人,倡優養良家子者,奪歸其父母。善遇僚寀,皆甘樂傾盡為之耳目,刺閭巷長短,纖悉必知,事來立斷。禁捕西湖魚鱉,故人居湖上,蟹夜入其籬間,適有客會宿,相與食之,旦詣府,遘迎語曰:「昨夜食蟹美乎?」客笑而謝之。小民有犯法,情稍不善者,不問法輕重,輒刺為兵,奸猾屏息。提點刑獄鞫真卿將按其狀,遘為稍弛,而刺者復為民。

嘉祐の遺詔が届くと、外に次いで、酒を飲み肉を食わないこと二十七日間を守った。召されて開封府知府となり、龍図閣直学士に遷り、治績は杭州にいた時と同様であった。早く起きて政務を視、午前中に終え、出て親旧と交際し、ゆったりと談笑し、豊かに余暇があり、士大夫はその才能を交えて称えた。翰林学士・判流内銓に拝された。母の喪に服し、英宗はその去るを哀れみ、黄金百両を賜い、なお喪を扶けて蘇州に帰ることを命じた。葬った後、墓の下に廬し、喪服が終わらないうちに卒した。年四十、世間は惜しんだ。弟に沈遼、従弟に沈括がいる。

原文嘉祐遺詔至,為次於外,不飲酒食肉者二十七日。召知開封府,遷龍圖閣直學士,治如在杭州。蚤作視事,逮午而畢,出與親舊還往,從容燕笑,沛然有餘暇,士大夫交稱其能。拜翰林學士、判流內銓。丁母憂,英宗閔其去,賚黃金百兩,仍命扶喪歸蘇州。既葬,廬墓下,服未竟而卒,年四十,世咨惜之。弟遼,從弟括。

弟 沈遼

原文弟 遼

沈遼は、字を睿達といい、幼い頃より挺拔して衆に群れず、成長して学問を好み友を尚び、一世を傲睨した。左氏伝・班固の書を読み、少し模倣すると、たちまち近似した。そこで鋤き植え、縦ち捨てて、自ら一家を成した。趣操は高爽で、縹縹然として物外の意があり、決して進取を喜ばなかった。兄の任子の恩典により寿州酒税を監した。呉充が三司使となった時、内蔵庫を監するよう推薦した。熙寧初年、審官を分けて西院を建て、主簿とした。当時この官を重んじ、出れば奉使持節した。沈遼はもと王安石に知遇を得ており、王安石はかつて詩を与え、「風流謝安石、瀟灑陶淵明」と称していた。この時王安石が国政を執り、法令を更張すると、沈遼は彼と議論し、次第に意に逆らい、日に日に疎遠となり、そこで長官と相容れないことに坐し、罷免された。

原文遼,字睿達,幼挺拔不群,長而好學尚友,傲睨一世。讀左氏、班固書,小摹仿之。輒近似,乃鋤植縱舍,自成一家。趣操高爽,縹縹然有物外意,絕不喜進取。用兄任監壽州酒稅。吳充使三司,薦監內藏庫。熙寧初,分審官建西院,以為主簿,時方重此官,出則奉使持節。遼故受知於王安石,安石嘗與詩,有「風流謝安石,瀟灑陶淵明」之稱。至是當國,更張法令,遼與之議論,浸浸咈意,日益見疏,於是坐與其長不相能,罷去。

久しくして、太常寺奉礼郎として杭州軍資庫を監し、轉運使が華亭県を摂行させた。他の使者がちょうど旧怨があり、法律をもって中傷しようと考え、県民の紛争が互いに牽連して告発するのに乗じ、言辞が連及したので、ついに文飾してその罪を成した。獄に下されて服罪し、官を奪われ永州に流された。父の喪に遭い釈放されなかった。赦令が改まって、初めて池州に移された。江湖の間に留まり連年を過ごし、ますます傲世した。池州に至ると、九華・秋浦の間を得て、その林泉を玩び、喜んで言った、「私が自ら選んでも、これ以上ではあるまい」と。すでに斉山の上に室を築き、「雲巣」と名付け、好事の者が多く遊びに往った。

原文久之,以太常寺奉禮郎監杭州軍資庫,轉運使使攝華亭縣。他使者適有夙憾,思中以文法,因縣民忿爭相牽告,辭語連及,遂文致其罪。下獄引服,奪官流永州,遭父憂不得釋。更赦,始徙池州。留連江湖間累年,益偃蹇傲世。既至池,得九華、秋浦間,玩其林泉,喜曰:「使我自擇,不過爾耳。」既築室於齊山之上,名曰「雲巢」,好事者多往遊。

遼は平生自ら貴重せざるを悔い、少時の習いを悉く謝棄し、門を杜ぎ机に隠れ、筆硯すらも埃塵に終日交わることあり。時に文章を作し、雄奇峭麗にして、特に歌詩に長じ、曾鞏・蘇軾・黄庭堅皆これと唱酬往来すれども、然れども竟に復た起たず、元豊末に卒す、年五十四。

原文遼追悔平生不自貴重,悉謝棄少習,杜門隱几,雖筆硯亦埃塵竟日。間作為文章,雄奇峭麗,尤長於歌詩,曾鞏、蘇軾、黃庭堅皆與唱酬相往來,然竟不復起,元豐末,卒,年五十四。

従弟 括

原文從弟 括

括、字は存中、父の任により沭陽主簿となる。県は沭水に依る、乃ち職方氏の書く所の「浸は沂・沭と曰う」者なり、故跡漫として汚沢と為る。括は其の二坊を新たにし、水を疏して百渠九堰と為し、以て原委を播節し、上田七十頃を得たり。

原文括,字存中,以父任為沭陽主簿。縣依沭水,乃職方氏所書「浸曰沂、沭」者,故跡漫為汙澤,括新其二坊,疏水為百渠九堰,以播節原委,得上田七十頃。

進士第に擢げられ、昭文書籍を編校し、館閣校勘と為り、三司条例を刪定す。故事に、三歳毎の郊丘の制、有司籍に按じて行い、其の副を蔵し、吏之に沿りて利を干す。壇下に幔を張り、城を距ること数里を園囿と為し、采木を植え、鳥獣を刻みて其の間を綿絡す。事に将たるの夕、法駕臨観し、端門に御し、仗衛を陳べて以て厳警を閲し、遊幸登賞、類て斎祠の宜くすべき所に非ず。乗輿一器にして、百工侍役する者六七十輩。括は礼の沿革を考へ、書を為りて曰く『南郊式』。即ち詔して事務を点検せしめ、新式を執りて事に従はしむ、省する所万計、神宗善しと称す。

原文擢進士第,編校昭文書籍,為館閣校勘,刪定三司條例。故事,三歲郊丘之制,有司按籍而行,藏其副,吏沿以干利。壇下張幔,距城數里為園囿,植采木、刻鳥獸綿絡其間。將事之夕,法駕臨觀,御端門、陳仗衛以閱嚴警,遊幸登賞,類非齋祠所宜。乘輿一器,而百工侍役者六七十輩。括考禮沿革,為書曰《南郊式》。即詔令點檢事務,執新式從事,所省萬計,神宗稱善。

太子中允・検正中書刑房・提挙司天監に遷る。日官は皆市井の庸販、法象図器、大抵漫として知らず。括始めて渾儀・景表・五壺浮漏を置き、衛朴を招きて新暧を造らしめ、天下に募りて太史占書を上らしめ、士人を雑用し、方技科を分かちて五と為す、後皆施用す。史館検討を加ふ。

原文遷太子中允、檢正中書刑房、提舉司天監,日官皆市井庸販,法象圖器,大抵漫不知。括始置渾儀、景表、五壺浮漏,招衛朴造新曆,募天下上太史占書,雜用士人,分方技科為五,後皆施用。加史館檢討。

淮南饑饉あり、括を遣わして察訪せしむ。常平銭粟を発し、溝瀆を疏し、廃田を治め、以て水患を救ふ。集賢校理に遷り、両浙農田水利を察訪し、太常丞・同修起居注に遷る。時に大いに民車を籍し、人県官の意を諭せず、相挻きて憂いと為す。又市易司蜀塩の禁ぜられざるを患ひ、尽く私井を実して解池塩を輦し之を給せんと欲す。言者二事を論ずること織の如く、皆省みず。括帝の側に侍す、帝顧みて曰く「卿車を籍するを知るや」と。曰く「之を知れり」と。帝曰く「何如」と。対へて曰く「敢へて問ふ、何をか用ひんと欲するや」と。帝曰く「北辺馬を以て勝を取る、車に非ざれば以て之に当つべからず」と。括曰く「車戦の利は、歴世に見ゆ。然れども古人の所謂兵車は軽車なり、五御折旋、捷速に利あり。今の民間の輜車は重大にして、日に三十里を能はざる、故に世之を太平車と謂ふ、但だ無事の日に施す可きのみ」と。帝喜びて曰く「人の言此に及ぶ者無し、朕当に之を思はん」と。遂に蜀塩の事を問ふ。対へて曰く「一切私井を実して解塩を運び、使って一に官售より出ださしむるは、誠に善し。然れども忠・万・戎・瀘の間夷界の小井尤も多く、猝に絶つ可からず、勢ひ須らく候を列ね警を加ふべし、臣得る所の足らざるを以て費を償はんことを恐る」と。帝之を頷く。明日、二事俱に寢す。知制誥に擢げ、兼ねて通進銀台司と為る。中允より是に至るまで纔に三月。

原文淮南饑,遣括察訪,發常平錢粟,疏溝瀆,治廢田,以救水患。遷集賢校理,察訪兩浙農田水利,遷太常丞、同修起居注。時大籍民車,人未諭縣官意,相挻為憂;又市易司患蜀鹽之不禁,欲盡實私井而輦解池鹽給之。言者論二事如織,皆不省,括侍帝側,帝顧曰:「卿知籍車乎?」 曰:「知之。」帝曰:「何如?」對曰:「敢問欲何用?」帝曰:「北邊以馬取勝,非車不足以當之。」括曰:「車戰之利,見於歷世。然古人所謂兵車者,輕車也,五御折旋,利於捷速。今之民間輜車重大,日不能三十里,故世謂之太平車,但可施於無事之日爾。」帝喜曰:「人言無及此者,朕當思之。」遂問蜀鹽事,對曰:「一切實私井而運解鹽,使一出於官售,誠善。然忠萬、戎、瀘間夷界小井尤多,不可猝絕也,勢須列候加警,臣恐得不足償費。」帝頷之。明日,二事俱寢。擢知制誥,兼通進銀臺司,自中允至是才三月。

河北西路察訪使と為る。是に先立ち、銀冶、転運司官を置きて其の利を収む。括言ふ「宝に近ければ則ち国貧し、其の勢必然なり。人衆ければ則ち囊橐の奸偽何を以てか検頤せん。朝廷歳毎に契丹に銀数十万を遺ふ、其の北方の所有に非ざるを以ての故に、重んじて之を利とす。昔日銀城県・銀坊城皆彼に没す、其の山を鑿つ利を知らしむれば、則ち中国の幣益々軽し、何をか歳餉に頼まん、隣釁将に自ら茲より始まらん」と。

原文為河北西路察訪使。先是,銀冶,轉運司置官收其利,括言:「近寶則國貧,其勢必然;人眾則囊橐奸偽何以檢頤?朝廷歲遺契丹銀數十萬,以其非北方所有,故重而利之。昔日銀城縣、銀坊城皆沒於彼,使其知鑿山之利,則中國之幣益輕,何賴歲餉,鄰釁將自茲始矣。」

時に近畿戸に賦して馬を出だし辺に備ふ、民病と為す。括言ふ「北地は馬多くして人騎戦に習ふ、猶ほ中国の強弩に工なるが如し。今我が長技を捨て、能はざる所を強ふ、何を以てか勝を取らん」と。又辺人は兵に習ひ、唯だ強を挽きて以て最を定むるも、而して必ずしも革を貫く能はざるを謂ひ、宜しく遠く射て堅に入るを以て法とすべしと謂ふ。是の如き者三十一事、詔して皆之を可とす。

原文時賦近畿戶出馬備邊,民以為病,括言:「北地多馬而人習騎戰,猶中國之工強弩也。今舍我之長技,強所不能,何以取勝。」又邊人習兵,唯以挽強定最,而未必能貫革,謂宜以射遠入堅為法。如是者三十一事,詔皆可之。

遼の蕭禧来たりて河東黄嵬の地を理め、館に留まりて辞せず、曰く「必ず請を得て後に反らん」と。帝括を遣はして往き聘せしむ。括枢密院に詣り故牘を閲し、頃歳疆地を議せし所の書を得、古長城を指して境と為す、今争ふ所は蓋し三十里遠し、表を上げて之を論ず。帝休日に天章閣を開き召し対せしめ、喜びて曰く「大臣殊に本末を究めず、幾くんぞ国事を誤らんとす」と。命して画図を以て禧に示さしむ、禧の議始めて屈す。括に白金千両を賜ひて行かしむ。契丹の庭に至る、契丹の相楊益戒来たりて議に就く。括地訟の籍数十を得、予め吏士をして之を誦せしむ。益戒問ふ所あれば、則ち吏を顧みて挙げて以て答ふ。他日復た問ふも、亦之の如し。益戒応ふる無く、謾りに曰く「数里の地を忍ばずして、軽く好を絶つや」と。括曰く「師は直なれば壮と為り、曲なれば老と為る。今北朝先君の大信を棄て、威を以て其の民を用ふるは、我が朝の利に非ざるなり」と。凡そ六会し、契丹奪ふ可からざるを知り、遂に黄嵬を捨てて天池を以て請ふ。括乃ち還る、道に在りて其の山川の険易迂直、風俗の純龐、人情の向背を図り、『使契丹図』を為り、抄して之を上ぐ。翰林学士・権三司使を拝す。

原文遼蕭禧來理河東黃嵬地,留館不肯辭,曰:「必得請而後反。」帝遣括往聘。括詣樞密院閱故牘,得頃歲所議疆地書,指古長城為境,今所爭蓋三十里遠,表論之。帝以休日開天章閣召對,喜曰:「大臣殊不究本末,幾誤國事。」命以畫圖示禧,禧議始屈。賜括白金千兩使行。至契丹庭,契丹相楊益戒來就議,括得地訟之籍數十,預使吏士誦之,益戒有所問,則顧吏舉以答。他日復問,亦如之。益戒無以應,謾曰:「數里之地不忍,而輕絕好乎?」括曰:「師直為壯,曲為老。今北朝棄先君之大信,以威用其民,非我朝之不利也。」凡六會,契丹知不可奪,遂舍黃嵬而以天池請。括乃還,在道圖其山川險易迂直,風俗之純龐,人情之向背,為《使契丹圖》,抄上之。拜翰林學士、權三司使。

嘗て丞相府に事を白す、呉充問ひて曰く「免役令下りてより、民の詆訾する者今未だ衰へず、是果たして民に於て何如」と。括曰く「不便と為す者は、特だ士大夫と邑居の人復除に習ふ者のみ、恤ふに足らず。独り微戸は本より力役無く、而も亦出銭せしむるは、則ち念ふ可きと為す。若し悉く之を弛めて、使って一も預かる所無からしむれば、則ち善し」と。充其の説を然りとし、表して之を行はしむ。

原文嘗白事丞相府,吳充問曰:「自免役令下,民之詆訾者今未衰也,是果於民何如?」括曰:「以為不便者,特士大夫與邑居之人習於復除者爾,無足恤也。獨微戶本無力役,而亦使出錢,則為可念。若悉弛之,使一無所預,則善矣。」充然其說,表行之。

蔡確括を論じて首鼠乖剌、陰に司農法を害すとす。集賢院学士として宣州を知り、明年、復た龍図閣待制・知審官院と為り、又出でて青州を知らんとす、未だ行かず、延州に改む。鎮に至り、悉く別賜の銭を以て酒と為し、命じて廛市の良家子に馳射角勝せしめ、軼群の能ある者あれば、自ら起ちて酒を酌みて以て之を労す。辺人歓激し、弓を執り矢を傅へ、唯だ進むを得ざるを恐る。歳を越え、徹札超乗する者千余を得、皆中軍義従に補し、威声他府に雄なり。副総管种諤の西討し銀・宥を援くる功を以て、龍図閣学士を加ふ。朝廷宿衛の師を出だして来り戍らしむ、賞賚再に至るも而して鎮兵に及ばず。括以為く、衛兵は重しと雖も、而して歳として戦はざるは無きは、鎮兵なり。今均しからざる若是くんば、且つ乱を召さん、と。乃ち勅書を蔵し、而して制を矯ひて緡銭数万を賜ひ、駅を以て聞かしむ。詔報へて曰く「此れ右府頒行の失なり、卿事機を察せざれば、必ず軍政を擾さん」と。是より、暇あらずして請ふ事は、皆専ら之を得。蕃漢の将士皇城使より降る、制を承りて補授するを許す。

原文蔡確論括首鼠乖剌,陰害司農法,以集賢院學士知宣州,明年,復龍圖閣待制、知審官院,又出知青州,未行,改延州。至鎮,悉以別賜錢為酒,命廛市良家子馳射角勝,有軼群之能者,自起酌酒以勞之,邊人歡激,執弓傅矢,唯恐不得進。越歲,得徹劄超乘者千餘,皆補中軍義從,威聲雄他府。以副總管种諤西討援銀、宥功,加龍圖閣學士。朝廷出宿衛之師來戍,賞賚至再而不及鎮兵。括以為衛兵雖重,而無歲不戰者,鎮兵也。今不均若是,且召亂。乃藏敕書,而矯制賜緡錢數萬,以驛聞。詔報之曰:「此右府頒行之失,非卿察事機,必擾軍政。」自是,事不暇請者,皆得專之。蕃漢將士自皇城使以降,許承制補授。

諤の師五原に次す、値ふ大雪に、糧餉継がず、殿直劉帰仁衆を率ひて南奔す、士卒二万人皆潰えて塞に入り、居民怖駭す。括東郊に出でて河東の帰師を餞し、奔る者数千を得、問ひて曰く「副都総管汝を遣はして帰り糧を取らしむ、主者は何なる人ぞ」と。曰く「後に在り」と。即ち諭令して各々屯に帰らしむ。暮に及び、至る者八百、旬日に未だ至らず、潰卒尽く還る。括出でて兵を按ず、帰仁至る。括曰く「汝帰り糧を取る、何を以てか軍符を持たざるや」と。帰仁対ふる能はず、斬りて以て徇す。数日を経て、帝内侍劉惟簡をして来たりて叛者を詰ましむ、具さに対ふ。

原文諤師次五原,值大雪,糧餉不繼,殿直劉歸仁率眾南奔,士卒二萬人皆潰入塞,居民怖駭。括出東郊餞河東歸師,得奔者數千,問曰:「副都總管遣汝歸取糧,主者為何人?」曰:「在後。」即諭令各歸屯。及暮,至者八百,未旬日,潰卒盡還。括出按兵,歸仁至,括曰:「汝歸取糧,何以不持軍符?」歸仁不能對,斬以徇。經數日,帝使內侍劉惟簡來詰叛者,具以對。

大将軍の景思誼と曲珍が夏人の磨崖・葭蘆・浮図の城を陥落させると、沈括は石堡を築いて西夏に臨むことを議し、給事中の徐禧が来た。徐禧は先ず永楽に城を築くことを望んだ。詔して徐禧に諸将を護衛させて築城に赴かせ、沈括に府を移して塞に併せ、以て軍用を賄わせた。やがて徐禧は敗死し、沈括は夏人が綏徳を襲ったため、先ずこれを救援に向かった。永楽を援けることができず、連座して均州団練副使に貶謫された。元祐初め、秀州に移され、続いて光禄少卿分司となり、潤州に八年居住して卒した。享年六十五。

原文大將景思誼、曲珍拔夏人磨崖葭蘆浮圖城,括議築石堡以臨西夏,而給事中徐禧來,禧欲先城永樂。詔禧護諸將往築,令括移府幷塞,以濟軍用。已而禧敗沒,括以夏人襲綏德,先往救之。不能援永樂,坐謫均州團練副使。元祐初,徙秀州,繼以光祿少卿分司,居潤八年卒,年六十五。

沈括は博学で文を善くし、天文・方志・律暦・音楽・医薬・卜算に至るまで通じないものはなく、皆論著があった。また、平素賓客と語ったことを記して『筆談』とし、朝廷の故実や耆旧の出処を多く載せて、世に伝わった。

原文括博學善文,於天文、方志、律曆、音樂、醫藥、卜算,無所不通,皆有所論著。又紀平日與賓客言者為《筆談》,多載朝廷故實、耆舊出處,傳於世。

李大臨

原文李大臨

李大臨は、字を才元といい、成都華陽の人である。進士に及第し、絳州推官となった。杜衍が河東を安撫した時、国子監直講・睦親宅講書に推薦された。文彦博が秘閣校理に推薦した。挙人の試験で、失声韻の者を誤って収録したため、責められて滁州税を監した。間もなく、元の職に戻った。

原文李大臨,字才元,成都華陽人。登進士第,為絳州推官。杜衍安撫河東,薦為國子監直講、睦親宅講書。文彥博薦為秘閣校理。考試舉人,誤收失聲韻者,責監滁州稅。未幾,還故職。

仁宗がかつて使者を遣わして館閣の官に御書を賜った時、李大臨の家に至ると、李大臨は貧しくて皂隸がおらず、ちょうど自ら馬に秣をやっていた。使者が還奏すると、帝は「真の廉士なり」と言った。親が老いていることを理由に、広安軍の知事を請い、邛州に移った。還って、群牧判官・開封府推官となった。

原文仁宗嘗遣使賜館閣官御書,至大臨家,大臨貧無皂隸,方自秣馬,使者還奏,帝曰:「真廉士也。」以親老,請知廣安軍,徙邛州。還,為群牧判官、開封府推官。

神宗は平素よりその名を知っており、起居注を修める官に抜擢し、知制誥・糾察在京刑獄に進めた。青苗法は有害無益であると上言し、王安石は怒った。ちょうど李定が御史に任ぜられ、宋敏求・蘇頌が相次いで詞命を封還したので、次に李大臨の番となり、李大臨もまたこれを返還した。帝は批して「去年の詔書に、台官は官職に拘わらず奏挙すべしとあり、その後改めて制を定めたことは未だ審らかならず」と言った。蘇頌と李大臨は共に言った「故事によれば、台官は必ず員外郎・博士を用いる。近時の制はただこれに限らないが、選人をも許すという意味ではない。李定は初等職官の身分から朝廷の官籍を超え、憲台に躐等して登ったが、国朝以来未だなかった。幸門ひとたび開かれれば、名器は有限である。どうして人人がその意を満たすことができようか」。再び詔を諭すこと数四、蘇頌と李大臨は依然として争って止まず、ついに累次詔命を阻んだ罪で、皆帰班させられ、李大臨は工部郎中として汝州知州に出された。

原文神宗雅知其名,擢修起居注,進知制誥、糾察在京刑獄。言青苗法有害無益,王安石怒。會李定除御史,宋敏求、蘇頌相繼封還詞命,次至大臨,大臨亦還之。帝批:「去歲詔書,臺官不拘官職奏舉,後未審更制也。」頌、大臨合言:「故事,臺官必以員外郎、博士,近制但不限此,非謂選人亦許之也。定以初等職官超朝籍,躐憲臺,國朝未有。幸門一開,名器有限,安得人人滿其意哉。」復詔諭數四,頌、大臨故爭不已,乃以累格詔命,皆歸班,大臨以工部郎中出知汝州。

辰渓が丹砂を貢いだ時、葉県を通ると、その二つの篋が双雉に化け、山谷の間で闘った。耕者がこれを獲たので、人は盗みを疑い、械を付けて府に送った。李大臨はその異変を識り、訊問して実情を得、耕者を釈放した。梓州知州に移り、集賢殿修撰を加えられ、再び天章閣待制となった。ちょうど七十歳で致仕し、七年後に卒した。

原文辰溪貢丹砂,道葉縣,其二篋化為雙雉,鬥山谷間。耕者獲之,人疑為盜,械送於府。大臨識其異,訊得實,釋耕者。徙知梓州,加集賢殿修撰,復天章閣待制。甫七十,致仕七年而卒。

李大臨は清廉整然として操守があり、議論は大体を識り、李定の件で争った後、名声は益々重くなり、世間では宋敏求・蘇頌と並んで「熙寧の三舎人」と称された。

原文大臨清整有守,論議識大體,因爭李定後名益重,世並宋敏求、蘇頌稱為「熙寧三舍人」云。

呂夏卿

原文呂夏卿

呂夏卿は、字を縉叔といい、泉州晋江の人である。進士に挙げられ、江寧尉となった。『唐書』の編修が完成し、直秘閣・同知礼院となった。仁宗が大臣を選任し、治道を求めた時、呂夏卿は時務五事を陳べ、かつ言った「天下の勢いは常に安泰ではあり得ず、未然の前にその弊を救うべきである。事が至ってから図れば、恐らく及ばないであろう」。朝廷はその策をかなり採用した。

原文呂夏卿,字縉叔,泉州晉江人。舉進士,為江寧尉。編修《唐書》成,直秘閣、同知禮院。仁宗選任大臣,求治道,夏卿陳時務五事,且言:「天下之勢,不能常安,當於未然之前救其弊;事至而圖之,恐無及已。」朝廷頗采其策。

英宗の世、歴史館検討・同修起居注・知制誥を歴任した。帝がかつて政を訪ねると、答えて言った「両朝は金帛を惜しまずして二辺と和し、民を鋒鏑の禍から脱せしめたことは、古来未だなかった。願わくは前の好を失わざらんことを」。潁州知州に出され、奇病にかかり、身体は日に日に縮み、卒した時はようやく小児の如くで、享年五十三。

原文英宗世,歷史館檢討、同修起居注、知制誥。帝嘗訪以政,對曰:「兩朝不惜金帛以和二邊,脫民鋒鏑之禍,古未有也。願勿失前好。」出知潁州,得奇疾,身體日縮,卒時才如小兒,年五十三。

呂夏卿の学問は史に長け、唐の事柄を貫穿し、伝記雑説数百家を博采して、折衷整比した。また譜学に通じ、世係諸表を創始し、『新唐書』において最も功績があったという。

原文夏卿學長於史,貫穿唐事,博采傳記雜說數百家,折衷整比。又通譜學,創為世係諸表,於《新唐書》最有功云。

祖無擇

原文祖無擇

祖無擇は、字を択之といい、上蔡の人である。進士の高第に及第した。南康軍知軍・海州知州を歴任し、淮南広東刑獄提点・広南転運使となり、入朝して集賢院に直した。時に孔子の後裔を文宣公に封じようとしたが、祖無擇は言った「前代の封じたものは宗聖・奉聖・崇聖・恭聖・褒聖といった。唐の開元中、孔子を尊んで文宣王としたので、ついに祖の諡を以て後嗣に加えたが、礼に非ず」。ここにおいて近臣に議させ、衍聖公に改めた。

原文祖無擇,字擇之,上蔡人。進士高第。歷知南康軍、海州,提點淮南廣東刑獄、廣南轉運使,入直集賢院。時封孔子後為文宣公,無擇言:「前代所封曰宗聖,曰奉聖,曰崇聖,曰恭聖,曰褒聖;唐開元中,尊孔子為文宣王,遂以祖諡而加後嗣,非禮也。」於是下近臣議,改為衍聖公。

袁州知州に出された。慶暦以来詔して天下に学を立ててから十年、その弊はただ形式だけで、命教の実がなかった。祖無擇は先ず学官を建て、生徒を置き、郡国に弦誦の風が起こった。これより盛んとなる。同修起居注・知制誥となり、龍図閣直学士を加えられ、開封府権知事となり、学士に進み、鄭州・杭州の二州の知州となった。

原文出知袁州。自慶曆詔天下立學,十年間其敝徒文具,無命教之實。無擇首建學官,置生徒,郡國弦誦之風。由此始盛。同修起居注、知制誥,加龍圖閣直學士、權知開封府,進學士,知鄭、杭二州。

神宗が即位すると、通進銀臺司を管掌した。初め、詞臣が誥命を作る際、潤筆料を受け取ることを許されていた。王安石と無擇はともに知制誥を務めたが、安石はある一家からの贈り物を辞退しきれず、義理として受け取ることを欲せず、それを役所の梁の上に置いた。安石が憂いで職を去ると、無擇はそれを公費に充てた。安石はこれを聞いて憎んだ。熙寧初年、安石が政権を得ると、監司に無擇の罪を探らせた。明州知事の苗振は貪婪で知られており、御史の王子韶が両浙に派遣され、その様子を調べたところ、事が無擇に連座した。子韶は小人であり、内侍を京師から派遣して秀州の獄に連行するよう請うた。蘇頌は、無擇は侍従の列にあり、かつての下吏と曲直を争うべきではないと述べ、御史の張戩もまた救おうとしたが、いずれも聞き入れられなかった。獄が決すると、貪婪の事実はなく、ただ官銭を貸し付けたり、部民と交際して罪を得たり、乗船の規制を超えたことなどが明らかになっただけだった。そこで忠正軍節度副使に左遷された。安石はなおも帝に言った。「陛下が一御史を派遣されれば、ただちに無擇の罪を得られました。これにより朝廷は事を行わないだけで、行って効果のないことはないと知るべきです。」まもなく光祿卿・秘書監・集賢院學士に復し、西京御史臺を主管し、信陽軍知軍に移り、そこで没した。

原文神宗立,知通進銀臺司。初,詞臣作誥命,許受潤筆物。王安石與無擇同知制誥,安石辭一家所饋不獲,義不欲取,置諸院梁上,安石憂去,無擇用為公費,安石聞而惡之。熙寧初,安石得政,乃諷監司求無擇罪。知明州苗振以貪聞,御史王子韶使兩浙,廉其狀,事連無擇。子韶,小人也,請遣內侍自京師逮赴秀州獄。蘇頌言無擇列侍從,不當與故吏對曲直,御史張戩亦救之,皆不聽。及獄成,無貪狀,但得其貸官錢、接部民坐及乘船過制而已。遂謫忠正軍節度副使。安石猶為帝言:「陛下遣一御史出,即得無擇罪,及知朝廷於事但不為,未有為之而無效者。」尋復光祿卿、秘書監、集賢院學士,主管西京御史臺,移知信陽軍,卒。

無擇は人となり義を好み、師友の情に篤かった。若い頃に孫明復に経術を学び、また穆修に文章を学んだ。二人が死ぬと、その遺文を懸命に求め集めて編纂し、世に伝えた。言語と政事をもって時の名卿となったが、小さな過ちを鍛錬されて見捨てられ、ついに再び振るわず、士論はこれを惜しんだ。

原文無擇為人好義,篤於師友,少從孫明復學經術,又從穆修為文章。兩人死,力求其遺文彙次之,傳於世。以言語政事為時名卿,用小累鍛煉放棄,訖不復振,士論惜之。

【史評】

原文【史評】

論じて言う。沈遘は文学によって身を立て、治才に長けていた。沈括は博物洽聞で、幽深な道理に通じ、それを政事に措いても、極めて開敏であった。呂夏卿は史才と称され、特に譜諜の学に精通していた。宋の縉紳は、士それぞれがその能を精しくし、学問をおろそかにしなかった。故にこのようになったのである。李大臨は官において繳駁の任にあり、その職責をよく果たした。祖無擇は郡を治める所至、校官を修めることができた。これらは皆、明らかに記録すべき事績である。しかし大臨は李定を論じて罷免され、無擇は安石に逆らって終身廃棄された。これをもって二人の賢さを知るには十分であろう。

原文論曰:沈遘以文學致身,而長於治才。沈括博物洽聞,貫乎幽深,措諸政事,又極開敏。呂夏卿號稱史才,尤精譜諜之學。宋之縉紳,士各精其能,學不苟且,故能然也。李大臨官居繳駁,克舉其職;祖無擇治郡所至,能修校官,是皆班班可紀者。然大臨以論李定絀,無擇以忤安石廢棄終身,即是亦足以知二人之賢矣。

程師孟

原文程師孟

程師孟、字は公闢、呉の人である。進士甲科に及第した。累任して南康軍・楚州の知事となり、夔路刑獄を提点した。瀘州・戎州の者がたびたび渝州を侵犯したが、辺境の使者の治所は万州にあり、距離が遠く、警報があってもおよそ十日かかってようやく到着した。師孟は渝州に移すよう上奏した。夔路には常平倉の粟がなく、倉を設置するよう建議した。凶年にあたり、民を救済するのに不足すると、すぐに他の備蓄を矯発して、報告を待たなかった。役人は恐れて、いけないと申し出た。師孟は言った。「必ず報告を待てば、飢えた者はみな死んでしまう。」ついにそれを発した。

原文程師孟,字公闢,吳人。進士甲科。累知南康軍、楚州,提點夔路刑獄。瀘戎數犯渝州,邊使者治所在萬州,相去遠,有警率浹日乃至,師孟奏徙於渝。夔部無常平粟,建請置倉,適凶歲,振民不足,即矯發他儲,不俟報。吏懼,白不可。師孟曰:「必俟報,餓者盡死矣。」竟發之。

河東路に転任した。晋の地には土山が多く、川谷に接しており、春夏の大雨の際、水は黄河のように濁り、俗に「天河」と呼び、灌漑に利用できた。師孟は私財を出して渠を開き堰を築き、一万八千頃の良田を沃土化した。その事績をまとめて『水利図経』とし、州県に頒布した。度支判官となり、洪州知事として、石を積んで江の堤防とし、章溝を浚渫し、北閘を設けて水位の昇降を調節した。その後、水害はなくなった。

原文徙河東路。晉地多土山,旁接川谷,春夏大雨,水濁如黃河,俗謂之「天河」,可溉灌。師孟出錢開渠築堰,淤良田萬八千頃,裒其事為《水利圖經》,頒之州縣。為度支判官,知洪州,積石為江隄,浚章溝,揭北牐以節水升降,後無水患。

三司都磨勘司を判った。契丹使を接伴した際、蕭惟輔が言った。「白溝の地は両属すべきところである。今、南朝は数里にわたって柳を植え、北人が界河で漁をすることを罪とするのは、理にかなっているのか。」師孟は言った。「両朝は誓約を守るべきである。涿郡には文書があり検証できる。君は文書を捨て、口先だけで、急に事を起こそうとするのか。」惟輔は恥じて謝罪した。

原文判三司都磨勘司。接伴契丹使,蕭惟輔曰:「白溝之地當兩屬,今南朝植柳數里,而以北人漁界河為罪,豈理也哉?」師孟曰:「兩朝當守誓約,涿郡有案牘可覆視,君舍文書,滕口說,遽欲生事耶?」惟輔愧謝。

出向して江西轉運使となった。盗賊が袁州で発生し、州吏がその耳目となっていたため、長らく捕らえられなかった。師孟は数人の役人を拘束して獄に送ると、盗賊はただちに捕らえられた。直昭文館を加えられ、福州知事となった。子城を築き、学舎を建て、その治績は東南で最も優れていた。広州に転任した。州城は儂寇によって破壊されており、他日に警報があると、民は驚き逃げ散り、地方長官が相次いで赴任したが、皆、土が粗悪で築城できないと言った。師孟は広州で六年間、西城を築いた。交阯が邕管を陥落させた時、広州の守備が堅固であると聞き、東進することを敢えなかった。当時、師孟はすでに召還されていたが、朝廷は以前の功績を思い、給事中・集賢殿修撰・判都水監に任じた。

原文出為江西轉運使。盜發袁州,州吏為耳目,久不獲。師孟械吏數輩送獄,盜即成擒。加直昭文館、知福州。築子城,建學舍,治行最東南。徙廣州,州城為儂寇所毀,他日有警,民駭竄,方伯相踵至,皆言土疏惡不可築。師孟在廣六年,作西城。及交阯陷邕管,聞廣守備固,不敢東。時師孟已召還,朝廷念前功,以為給事中、集賢殿修撰、判都水監。

契丹の生辰を賀するため、涿州に至った。契丹が席を設けると、迎える者は正しく南向きに、涿州の官は西向きに、宋の使節は東向きに座るよう命じた。師孟は言った。「これは我が国を卑しめるものだ。」列に就かなかった。日が傾いてから夕暮れまで争い、従者は顔色を失ったが、師孟の言葉と気勢はますます激しく、接待係を叱ってこれを変えさせた。そこでようやく迎える者と東西に向かい合う形に改められた。翌日、涿州の人々が郊外で餞別をしたが、師孟は疾駆して通り過ぎ、顧みなかった。涿州の人々は雄州に移り、このことを言上したため、師孟は罷免されて帰班させられた。再び起用されて越州・青州の知事となり、やがて致仕し、光祿大夫の位で没した。七十八歳であった。

原文賀契丹生辰,至涿州,契丹命席,迎者正南向,涿州官西向,宋使介東向。師孟曰:「是卑我也。」不就列。自日昃爭至暮,從者失色,師孟辭氣益厲,叱儐者易之,於是更與迎者東西向。明日,涿人餞於郊,疾馳過不顧;涿人移雄州,以為言,坐罷歸班。復起知越州、青州,遂致仕,以光祿大夫卒,年七十八。

師孟は累任して重要な州鎮を治め、政は簡にして厳であり、死罪に当たらない罪人は下吏に任せなかった。隠れた悪事や伏した罪を暴くのは神の如く、豪悪で不逞な行いをする者を得れば、必ず痛く懲らしめ、根絶やしにするまでやめず、管轄区域は粛然とした。洪州・福州・広州・越州では生前に祠を立てられた。

原文師孟累領劇鎮,為政簡而嚴,罪非死者不以屬吏。發隱擿伏如神,得豪惡不逞跌宕者,必痛懲艾之,至剿絕乃已,所部肅然。洪、福、廣、越為生立祠。

張問

原文張問

張問、字は昌言、襄陽の人である。進士として起家し、大名府の通判となった。群牧の土地は魏にあったが、年月が経つうちに民地に侵されていた。役所が旧籍に基づいて調査すると、土地は数度持ち主が変わり、証文が不明瞭であった。役人はただ手早く済ませようと、詔書をかざして人の田を奪い、家屋を壊し、墓を暴くに至った。問が到着すると、言った。「これは果たして朝廷の意図か。」上奏して報告した。仁宗は大臣に諭して言った。「役人の心がみな張問のようであれば、どうして民衆が安らかでないことがあろうか。」すぐにこれをやめさせた。

原文張問,字昌言,襄陽人也。進士起家,通判大名府。群牧地在魏,歲久冒入於民,有司按舊籍括之,地數易主,券不明,吏苟趣辦,持詔書奪人田,至毀室盧、發丘墓。問至,則曰:「是豈朝廷意耶?」其上以聞。仁宗諭大臣曰:「吏用心悉如問,何患赤子之不安也。」 立罷之。

河北刑獄提点に抜擢された。黄河が決壊し、小呉に堤防を築くことが議論された。問は言った。「曹村と小呉は南北に向かい合っており、曹村が水の衝に当たっている。小呉の堤防が薄いために、水が北に溢れ出るので、南の堤防に災害がないのだ。もし小呉に堤防を築けば、左岸は強固になるが右岸が傷み、南岸が決壊するだろう。水が京畿に合流して害をなす。ただ孫・陳両埽の間に堤防を築いて備えるのみである。」詔により水官に議論が付されたが、長く決まらず、小呉はついに決壊した。

原文擢提點河北刑獄。大河決,議築小吳,問言:「曹村、小吳南北相直,而曹村當水衝,賴小吳堤薄,水溢北出,故南堤無患。若築小吳,則左強而右傷,南岸且決,水並京畿為害,獨可於孫、陳兩埽間起堤以備之耳。」詔付水官議,久不決,小吳卒潰。

江東・淮南轉運使に転任し、直集賢院・戸部判官を加えられ、再び河北轉運使となった。管轄区域で地震があり、黄河が再び決壊した。議者は京東から民三十万人を徴発し、澶州から乾寧まで堤防を築くことを望んだ。問は言った。「堤防は益とならず、災害の後で、労役は民を疲弊させる。良策ではない。」神宗はこれに従った。問は十年間考課を上奏しなかったが、詔により特にその官を進められ、入朝して度支副使となり、集賢殿修撰・河東轉運使に任じられた。軍需品の調達を誤った罪で、光化軍知軍に貶められたが、まもなく、再び河北に派遣された。諸葛公権の乱では、郡県が連座し、連座して逮捕された者は数百人から千人に及んだ。問は上疏して理を申し立て、首謀者のみを誅するよう求めた。

原文徙江東、淮南轉運使,加直集賢院、戶部判官,復為河北轉運使。所部地震,河再決,議者欲調京東民三十萬,自澶築堤抵乾寧。問言:「堤未能為益,災傷之餘,力役勞民,非計也。」神宗從之。問十年不奏考課,詔特遷其官,入為度支副使,拜集賢殿修撰、河東轉運使。坐誤軍須,貶知光化軍,未幾,復使河北。諸葛公權之亂,郡縣株蔓,連逮至數百千人,問上疏申理,止誅首惡。

熙寧の末、滄州の知州となる。新法の施行以来、問はただ時流に迎合せず。凶年に、帝に民が常平・助役の苦しみを免れ、かえって流亡を得て幸いとすることを言い、言葉は切直で人を驚かせた。元豊の官制定めに、王安禮が問を推挙して六曹侍郎に任ずべしとし、帝はその異論を好むとして用いず。河陽・潞州の知州を歴任。元祐初め、秘書監・給事中となり、累官して正議大夫に至り、卒す。年七十五。

原文熙寧末,知滄州。自新法行,問獨不阿時好。歲饑,為帝言民苟免常平、助役之苦,反以得流亡為幸,語切直驚人。元豐定官制,王安禮薦問可任六曹侍郎,帝以其好異論,不用。歷知河陽、潞州。元祐初,為秘書監、給事中,累官正議大夫,卒,年七十五。

問は己を処するに廉潔にして、嘗て鄜延の幕府に仕え、种世衡と善し。父の喪に、世衡は汝州の田十頃を遺すも、辞して受けず。使いより帰るも、未だ至らざるに世衡卒す。その子の古、父の治命を用い、亦た田を受け入れず、荒廃すること三十年。後に汝州の守が学に給することを請うと、朝廷は命じて諸の种氏に返させた。

原文問處己廉潔、嘗仕鄜延幕府,與种世衡善,父喪,世衡遺汝州田十頃,辭弗受。使歸,未至而世衡卒。其子古,用父治命,亦不納田,蕪穢者三十年。後汝守請以給學,朝廷命反諸种氏。

熙寧の時、陳舜俞・楽京・劉蒙あり、亦た役法によりて廃黜せらる。

原文熙寧時,有陳舜俞、樂京、劉蒙,亦以役法廢黜。

陳舜俞

原文陳舜俞

舜俞、字は令挙、湖州烏程の人。博学強記。進士に挙げられ、又た制科第一に挙げらる。熙寧三年、屯田員外郎として山陰県の知県となり、詔して代還を待ちて館職を試みしむ。舜俞辞して曰く、「爵禄名器は、多士を砥礪すべく、至神を示すべきなり、豈に期を要し、剤契を付するが如くすべきや」と。中書の帖を繳して上る。

原文舜俞,字令舉,湖州烏程人。博學強記。舉進士,又舉制科第一。熙寧三年,以屯田員外郎知山陰縣,詔俟代還試館職。舜俞辭曰:「爵祿名器,砥礪多士,宜示以至神,烏可要期,如付劑契?」繳中書帖上之。

青苗法の行わるるや、舜俞は令に奉ぜず、上疏して自ら劾して曰く、「民間に財物を出挙するは、利息を取ること重きは一倍に止まり、緡銭の償いを約すも、穀粟・布縷・魚塩・薪蔌・耰鋤・釜錡の類、雑に取り得る。朝廷民を募りて貸し取らしむるに、有司中熟を約して価と為し、必ず緡銭を償わしむ、私家の如く他物を雑に償わしむるを得ざるを欲すれば、故に愚民多く田宅を売り、妻子を質するに至る。識有る耆老、其の郷党子弟を戒むるに、未だ嘗て貰貸を苦しむと為さざるはなし。祖宗の令を著すに、財物を以て相出挙するは、任せて書契に従い、官は理せず。其の元元を保全するの意、深遠此の如し。今之を便利に誘い、之を威刑を以て督む、旧法に比すれば、異なり。詔に民の乏絶を振るい兼併を抑うと謂うも、然れども十戸を甲と為し、浮浪にして根無き者は俵給するを得ざらしむれば、則ち乏絶者は已に其の恵を蒙らず。此法終に行わるれば、愈々兼併の地と為らん。何を以て之を言う。天下に常平有るは、能く人人計口して餉けを受くるに非ず、但だ穀価貴賤の柄を権り、積貯する者をして深蔵して利を邀えしめざらしむるのみ。今散じて青苗と為すは、唯だ尽きざるを恐る、万一饑饉薦めて至らば、必ず時を乗じて貴糶する者有らん、何の法を将いて之を制するかを知らず。官制既に銭を放ちて利息を取る、富室蔵鏹し、坐して隣里の逋欠する時を待ち、田宅妻子随いて欲するを得ん、是れ豈に兼併の利と為さざらんや。夏秋二科に分つと雖も、而して秋に放つ月は夏に斂むる期と等しく、夏に放つ月は秋に斂むる期と等し、転転計息して、給するを以て納と為すに過ぎず、吾が民をして終身及び世世に、毎歳両たび息銭を輸せしめ、窮まり已む無からしむ。是れ別に一の賦を以て海内を敝わす、王道の挙に非ざるなり」と。奏上して、責められ南康軍の塩酒税を監す、五年にして卒す。

原文青苗法行,舜俞不奉令,上疏自劾曰:「民間出舉財物,取息重止一倍,約償緡錢,而穀粟、布縷、魚鹽、薪蔌、耰鋤、釜錡之屬,得雜取之;朝廷募民貸取,有司約中熟為價,而必償緡錢,欲如私家雜償他物不可得,故愚民多至賣田宅、質妻孥。有識耆老,戒其鄉黨子弟,未嘗不以貰貸為苦。祖宗著令,以財物相出舉,任從書契,官不為理。其保全元元之意,深遠如此。今誘之以便利,督之以威刑,方之舊法,異矣。詔謂振民乏絕而抑兼並,然使十戶為甲,浮浪無根者毋得給俵,則乏絕者已不蒙其惠。此法終行,愈為兼並地爾!何以言之?天下之有常平,非能人人計口受餉,但權穀價貴賤之柄,使積貯者不得深藏以邀利爾。今散為青苗,唯恐不盡,萬一饑饉薦至,必有乘時貴糶者,未知將何法以制之?官制既放錢取息,富室藏鏹,坐待鄰里逋欠之時,田宅妻孥隨欲而得,是豈不為兼並利哉。雖分為夏秋二科,而秋放之月與夏斂之期等,夏放之月與秋斂之期等,不過展轉計息,以給為納,使吾民終身以及世世,每歲兩輸息錢,無有窮已。是別為一賦以敝海內,非王道之舉也。」奏上,責監南康軍鹽酒稅,五年而卒。

舜俞始め嘗て官を棄てて帰り、秀の白牛村に居り、自ら「白牛居士」と号す。已にして復た出で、遂に貶死す。蘇軾文を為て之を哭し、其の学術才能を称え、「百人の器を兼ぬ……慨然として将に身を以て天下の事を任せんとす……而して人の周旋委曲し、其の天を輔成する所以の者至らず」と、一たび斥けられて復た用いられず、士大夫識ると識らざるとを問わず、皆深く之を悲しむと云う。

原文舜俞始嘗棄官歸,居秀之白牛村,自號「白牛居士」。已而復出,遂貶死。蘇軾為文哭之,稱其學術才能,「兼百人之器……慨然將以身任天下之事……而人之所以周旋委曲、輔成其天者不至」,一斥不復,士大夫識與不識,皆深悲之云。

楽京

原文樂京

京、荊南の人。布衣の時、郷里其の行義を称え、母に事うること至孝。妻張氏の家絶ゆ、女弟を挟みて自ら随うも、京未だ嘗て其の面を見ず。妻死すや、京は外に寝食し、之を嫁がす。嘉祐初め、詔して遺逸を訪い、以て薦聞され、校書郎を得、湖陽・赤水の二県令と為る。神宗言を求めしめ、京上疏して畏天保民を以て請う。長葛県の知県となる。助役法の行わるるや、京曰く、「提挙常平官言う不便なりと」と。之をして条析せしむるも、又た報いず、且つ県事を治むるを肯ぜず、自ら列して去るを丐う。提挙官之を劾し、詔して著作佐郎を奪う。十年を経て、乃ち官を復し、黄州の酒税を監し、承議郎を以て致仕す。元祐初め、闕に召し赴かしむるも、至らず、家にて終わる。

原文京,荊南人。為布衣時,鄉里稱其行義,事母至孝。妻張氏家絕,挾女弟自隨,京未嘗見其面。妻死,京寢食於外,為嫁之。嘉祐初,詔訪遺逸,以薦聞,得校書郎,為湖陽、赤水二縣令。神宗求言,京上疏以畏天保民為請。知長葛縣。助役法行,京曰:「提舉常平官言不便。」使之條析,又不報,且不肯治縣事,自列丐去。提舉官劾之,詔奪著作佐郎。經十年,乃復官,監黃州酒稅,以承議郎致仕。元祐初,召赴闕,不至,終於家。

劉蒙

原文劉蒙

蒙、字は子明、渤海の人。詞賦を為すを恥じ、進士に挙がるを肯ぜず。茂才異等を習うも、又た自ら售るを欲せず。都転運使劉庠遺逸を挙げ、召し試みて第一、湖陽県の知県となる。常平使者諸県の令を召し会して免役法を議す。蒙は不便と為し、議に与るを肯ぜず、退きて条上に其の害を上ぐ、即ち劾を投じて去り、亦た官を奪わる。郷に帰り教授し、親を養い講学し、従い遊ぶ者甚だ衆し。元豊二年、卒す。才年四十。門人朋友其の行を誄し、号して「正思先生」と曰う。元祐初め、其の家に帛五十匹を賜う。

原文蒙,字子明,渤海人。恥為詞賦,不肯舉進士;習茂才異等,又不欲自售。都轉運使劉庠舉遺逸,召試第一,知湖陽縣。常平使者召會諸縣令議免役法,蒙為不便,不肯與議,退而條上其害,即投劾去,亦奪官。歸鄉教授,養親講學,從遊甚眾。元豐二年,卒,才年四十。門人朋友誄其行,號曰「正思先生」。元祐初,賜其家帛五十匹。

苗時中

原文苗時中

苗時中、字は子居、其の先は壺関より宿州に徙る。蔭によりて寧陵の主簿を主る。邑に古河久しく陻る有り、開導して以て田を溉がんことを請い、利と為すこと甚だ博く、人これを「苗公河」と謂う。

原文苗時中,字子居,其先自壺關徙宿州。以蔭主寧陵簿。邑有古河久陻,請開導以溉田,為利甚博,人謂之「苗公河」。

潞州司法参軍に調ず。郡守一囚を死に入れんと欲すも、執して不可とす。守怒り、責むること甚だ峻し。時中曰く、「寧ろ田里に帰らんも、法は奪うべからず」と。守悟りて之を聴く。熙寧中、司農丞として梓州路に使し、能吏十人を密かに薦む。後皆進用せられ、人終に之を知る莫し。

原文調潞州司法參軍。郡守欲入一囚於死,執不可。守怒,責甚峻,時中曰:「寧歸田里,法不可奪。」守悟而聽之。熙寧中,以司農丞使梓州路,密薦能吏十人,後皆進用,人卒莫之知。

交人辺を犯すや、広西転運副使に擢げらる。師交人の罪を討ち、富良江に次すも、久しく進まず。時中曰く、「師に進討の意無く、賊必ず間道より来たり、我が不備に乗じ、万一の勝を冀い、勢窮して然る後に降らん」と。密かに之を備う。既にして果たして上流より来たり、戦いに敗れ、始めて款を納る。

原文交人犯邊,擢廣西轉運副使。師討交人罪,次富良江,久不進。時中曰:「師無進討意,賊必從間道來,乘我不備,冀萬一之勝,勢窮然後降耳。」密備之,既而果從上流來,戰敗,始納款。

梓州転運副使に転ずる。韓存宝が蛮の乞弟を討つに当たり、逗留して進まなかった。時中は言う、「軍は老いた、将兵は野営に曝されている、良策とは言えぬ」と。存宝は聞かず、ついに誅殺の罪に坐す。林広が存宝に代わる。乞弟は既に降ったが、また逃げ去り、将兵は顔を見合わせて色を失った。暮れになって、刁斗が鳴らぬ。時中が広に問うと、広は言う、「既に賊を失ったので、兵を放って追わせている、余裕がないのだ」と。時中は言う、「天子が十万の兵を託されたのに、一死をもって勇とするようなことがあろうか。今、異境に入り、変事は測りがたい」と。広は悟り、急いで追撃兵を止めさせ、軍を整えて進んだ。詔を奉じて班師することとなり、軍が行くに当たり、時中は糧道が遠いため、攢運の法を創めて、食糧が欠乏しないようにした。二階を進み、発運副使・河東転運使となり、直龍図閣を加えられ、桂州知州に任ぜられ、宝文閣待制に進み、戸部侍郎に至り、卒す。

原文徙梓州轉運副使。韓存寶討蠻乞弟,逗遛不行。時中曰:「師老矣,將士暴露,非計之善者。」存寶不聽,卒坐誅。林廣代存寶。乞弟既降,復逸去,將士相視失色。及暮,刁斗不鳴,時中問廣,廣曰:「既失賊,故縱兵追之,不暇恤爾。」時中曰:「天子以十萬眾相付,豈以一死為勇耶。今入異境,變且不測。」廣悟,亟止追者,整軍以進。會得詔班師,軍行,時中以糧道遠,創為攢運法,食以不乏。遷兩階,為發運副使、河東轉運使,加直龍圖閣、知桂州,進寶文閣待制,至戶部侍郎,卒。

韓贄

原文韓贄

韓贄、字は献臣、斉州長山の人。進士に及第し、殿中侍御史に至る。微罪に坐し、江州税監に左遷される。赴任途中で睦州知州に任ぜられ、また侍御史となる。荊湖に災害があり、節を持って出て安撫する。湘中では馬氏が国政を専らにして以来、丁ごとに米を納めさせ、身死して産が尽きても免れなかったが、贄が上奏してこれを除いた。諫院知事に改め、天章閣待制に進む。宰相梁適が私情で奸を容れ、狄青が卒伍から起ち枢密に位し、内侍王守忠が順序を越えて官を遷したことなどを、憚ることなく弾劾した。

原文韓贄,字獻臣,齊州長山人。登進士第,至殿中侍御史。坐微累,黜監江州稅。道除知睦州,復為侍御史。荊湖災,出持節安撫。湘中自馬氏擅國,計丁輸米,身死產竭不得免,贄奏除之。改知諫院,進天章閣待制。宰相梁適以私容奸,狄青起卒伍、位樞密,內侍王守忠遷官不次,皆舉劾無所諱。

滄州・瀛州の二州知州として出向し、龍図閣直学士・河北都転運使に遷る。黄河が商胡で決して北流し、これを復旧させようとする議論があった。工事が始まらんとした時、贄は言う、「北流は既に安定している、急にこれを改めても、必ずしも成功するとは限らない。魏の金堤を開いて故道に分注させ、二つの河に分流させれば、水害を緩和できるかもしれぬ」と。詔して使者を遣わして視察させ、その策の通りにすると、わずか三千人を役し、数ヶ月で完了した。都水監を判じ、開封府を権知し、政は簡にして治まる。河南府知府となり、永厚陵を造営し、費用は省き民を煩わさず、神宗に称賛された。還って審刑院を判じ、在京刑獄を糾察し、徐州知州となり、吏部侍郎をもって致仕する。

原文出知滄、瀛二州,遷龍圖閣直學士、河北都轉運使。河決商胡而北,議者欲復之。役將興,贄言:「北流既安定,驟更之,未必能成功。不若開魏金堤使分注故道,支為兩河,或可紓水患。」詔遣使相視,如其策,才役三千人,幾月而畢。入判都水監,權開封府,政簡而治。知河南府,建永厚陵,費省而不擾,神宗稱之。還知審刑院、糾察在京刑獄,知徐州,以吏部侍郎致仕。

贄の性格は淑やかで均しく、平素の自らの暮らしは極めて倹約であり、得た俸禄や賜物を推して田を買い族党を養い、これに頼って生きる者は百人近くに及んだ。退休して十五年、人事を謝絶し、書を読み詩を賦して自ら楽しんだ。八十五歳で卒す。

原文贄性行淑均,平居自奉至約,推所得祿賜買田贍族黨,賴以活者殆百數。退休十五年,謝絕人事,讀書賦詩以自娛。年八十五,卒。

楚建中

原文楚建中

楚建中、字は正叔、洛陽らくようの人。進士に及第し、滎河県知県となる。民は塩税の不公平に苦しんでいたが、建中は田の多寡を基準として軽重を定めた。鄜延経略機宜文字を主管する。夏人が来て境界を正そうとした時、往ってその事に臨んだ。暴徒が至り、二騎が矢を番えて満弓に引き彼に向けたが、建中は腹をあらわにして射させ、「我は死を畏れぬ」と言った。騎兵は去り、衆はその度量に服した。元昊が帰順すると、建中は府に白状して安定・黒水など八堡を築いて東道を押さえるよう請い、夏人が果たして来たが、備え有りと聞き、敢えて入らなかった。累遷して提点京東刑獄・塩鉄判官となる。昭陵造営に当たり、調度を裁定することを命ぜられ、数十万を省いた。夔路・淮南・京西転運使を歴任し、度支副使に進む。

原文楚建中,字正叔,洛陽人。第進士,知滎河縣。民苦鹽稅不平,建中約田多寡以為輕重。主管鄜延經略機宜文字。夏人來正土疆,往蒞其事。眾暴至,兩騎傅矢引滿向之,建中披腹使射,曰:「吾不憚死。」騎即去,眾服其量。元昊歸款,建中白府請築安定、黑水八堡以控東道,夏人果來,聞有備,不敢入。累遷提點京東刑獄、鹽鐵判官。昭陵建,命裁定調度,省數十萬計。歷夔路、淮南、京西轉運使,進度支副使。

神宗が西方辺境に力を用いようとした時、建中がかつて辺臣に推薦されていたため、召して用いようとしたが、言が旨に合わず、滄州知州として出される。久しくして、天章閣待制・陝西都転運使となり、慶州・江寧・成徳軍の知州を歴任し、正議大夫をもって致仕する。元祐初め、文彦博が戸部侍郎に推薦したが、拝命しなかった。卒す、八十一歳。

原文神宗用事西鄙,以建中嘗為邊臣所薦,召欲用之,言不合旨,出知滄州。久之,為天章閣待制、陝西都轉運使,知慶州、江寧、成德軍,以正議大夫致仕。元祐初,文彥博薦為戶部侍郎,不拜。卒,年八十一。

張頡

原文張頡

張頡、字は仲挙、その先祖は金陵の人、鼎州桃源に移る。進士に及第し、江陵推官に任ぜられる。旱魃で飢饉となり、朝廷が使者を遣わして安撫した時、頡は十事を条陳して献じ、数万人を生かした。益陽県知県となり、県は梅山の溪峒に接し、蛮獠の出没が多いため、頡は禁地の規制を定め、徭人を召して耕墾させ、その事を上奏したが、返答がなかった。累遷して開封府判官・提点江西刑獄・広東転運使となる。

原文張頡,字仲舉,其先金陵人,徙鼎州桃源。第進士,調江陵推官。歲旱饑,朝廷遣使安撫,頡條獻十事,活數萬人。知益陽縣,縣接梅山溪峒,多蠻獠出沒,頡按禁地約束,召徭人耕墾,上其事,不報。累遷開封府判官、提點江西刑獄、廣東轉運使。

熙寧年中、章惇が南江の地を取って沅・懿などの州を建て、梅山を平定し、楊光僭と敵対した。頡は鼎州で喪に服していたが、朝貴に書を送り、南江での殺戮が甚だしく、無辜の者が十八九を占め、浮屍が江を蔽い、民が数ヶ月魚を食わなかったと述べた。惇はその説を憎み、功を分けて啗わんとした。そこで言うには、「頡は昔、益陽県令として、梅山の議を初めて建てた。今日の成功は、頡に始まる」と。詔して絹三百匹を賜う。まもなく江淮制置発運副使に抜擢され、荊南知州に改め、また広西転運使に転ずる。当時、広源を順州と建て、城を築こうとしたが、頡は益なしとし、朝廷はその議に従った。参軍沈竦を掴んで罵った罪で罷免され帰郷する。

原文熙寧中,章惇取南江地,建沅、懿等州,克梅山,與楊光僭為敵。頡居憂於鼎,移書朝貴,言南江殺戮過甚,無辜者十八九,浮屍蔽江,民不食魚者數月。惇疾其說,欲分功啖之。乃言曰:「頡昔令益陽,首建梅山之議,今日成功,權輿於頡。」詔賜絹三百匹。尋擢江淮制置發運副使,改知荊南,復徙廣西轉運使。時建廣源為順州,將城之,頡謂無益,朝廷從其議。坐捽罵參軍沈竦罷歸。

未だ幾ばくもせず、直集賢院として斉州・滄州の二州知州となり、直龍図閣に進み桂州知州となる。入朝して拝謁すると、帝はまず言う、「卿がかつて順州は守れぬと論じたのは、誠にその通りであった」と。時に献策する者がいて言うには、「海南の黎人陳被蓋は五洞の酋長で、かつては盛んで強く、やがて中国の患いとなろう。今、出兵して自ら効力を請うているので、これを撫納すべきである」と。頡にその事を処置させた。頡は一介の使者を遣わして呼び出させ、牙校に補してやると、喜んで去った。詔して何故賞が薄いかと問うと、答えて言う、「荒遠の蛮蜒には他に望みはなく、これで足りる」と。まもなく兵を罷め、海外はついに事無く終わった。

原文未幾,以直集賢院知齊、滄二州,進直龍圖閣、知桂州。入覲,帝首言:「卿向者論順州不可守,信然。」時有獻言者謂:「海南黎人陳被蓋五洞酋領,異時盛強,且為中國患。今請出兵自效,宜有以撫納之。」命頡處其事。頡使一介往呼之出,補以牙校,喜而去。詔問何賞之薄,對曰:「荒徼蠻蜒無他覬,得是足矣。」尋罷兵,海外訖無事。

久しくして、転運使馬默がその宜州蛮事の処理が適切でないと弾劾し、職を罷めて均州知州となる。哲宗が立つと、故職に還り、鳳翔・広州の知州となり、召されて戸部侍郎となる。

原文久之,轉運使馬默劾其經理宜州蠻事失宜,罷職知均州。哲宗立,還故職,知鳳翔、廣州,召為戶部侍郎。

頡の歴任した所は厳格をもって治めを致したが、法文を深く用いて狡獪であった。右司諫蘇轍がその九つの罪を論じたが、執政は頡に徳はなくとも才は用いるに足るとし、返答しなかった。一年余りして、宝文閣待制として出て河北都転運使となり、瀛州知州に転ずる。湖北の溪徭が叛くと、朝廷は頡の平素の声望に託し、また荊南知州に転じさせたが、都門に至り、急死した。

原文頡所歷以嚴致理,而深文狡獪。右司諫蘇轍論其九罪,執政以頡雖無德而才可用,不報。逾年,以寶文閣待制出為河北都轉運使,徙知瀛州。湖北溪徭叛,朝廷託頡素望,復徙知荊南,至都門,暴卒。

盧革

原文盧革

盧革、字は仲辛、湖州徳清の人なり。少にして童子に挙げられ、杭州を治むる馬亮その詩作を見て、嗟異す。秋、貢士に挙げられ、密かに主司に戒めて革を遺すなからしむ。革聞き、人に語りて曰く、「私を以て薦めらるるは、吾れ之を恥づ」と。去りて就かず。後二年、遂に首選たり。登第に至り、年僅かに十六。

原文盧革,字仲辛,湖州德清人。少舉童子,知杭州馬亮見所為詩,嗟異之。秋,貢士,密戒主司勿遺革。革聞,語人曰:「以私得薦,吾恥之。」去弗就。後二年,遂首選;至登第,年才十六。

慶曆中、龔州を治む。蛮寇し入り、桂管騷動す。革軍須を経畫し、事に先だちて集む。安撫使杜杞に書を移し、諸郡の城を治め、及び長吏の不才なる者を易うるを請う。又言す、「嶺外の小郡、四、五を合するも中州の一大県に当たらず、城池甲兵の備え無く、将に賊の困らんとす。宜しく遠近を度りて之を並省すべし」と。後に儂智高来たり、九郡相継いで守らず、皆革の慮うるが如し。

原文慶曆中,知龔州。蠻入寇,桂管騷動,革經畫軍須,先事而集。移書安撫使杜杞,請治諸郡城,及易長吏之不才者。又言:「嶺外小郡,合四五不當中州一大縣,無城池甲兵之備,將為賊困,宜度遠近並省之。」後儂智高來,九郡相繼不守,皆如革慮。

婺・泉二州を治め、広東刑獄を提點し、福建湖南轉運使と為る。復た外任を請う。神宗宰相に謂ひて曰く、「革廉退此の如し、宜しく嘉郡を与うべし」と。遂に宣州と為る。光祿卿を以て致仕す。子の秉の恩に依りて通議大夫に轉じ、吳に退居すること十五年。秉発運使と為り、歳一たび帰覲するを得るを請うて得たり。後に渭を帥と為り、官を解き終養するを乞う。帝数たび詔を賜ひて慰勉し、時に以て栄と為す。卒す、年八十二。

原文知婺、泉二州,提點廣東刑獄、福建湖南轉運使。復請外,神宗謂宰相曰:「革廉退如是,宜與嘉郡。」遂為宣州。以光祿卿致仕。用子秉恩轉通議大夫,退居於吳十五年。秉為發運使,得請歲一歸覲。後帥渭,乞解官終養。帝數賜詔慰勉,時以為榮。卒,年八十二。

子に秉あり。

原文子 秉

秉、字は仲甫、未だ冠せずして雋譽有り。嘗て蔣堂に謁す。池亭に坐す。堂曰く、「亭沼粗に適す、恨むらくは林木未だ就らざる爾」と。秉曰く、「亭沼は爵位の如く、時来れば或いは之あり。林木は培植根株に非ざれば成らず、大いに士大夫の名節を立つるに似たり」と。堂其の言を賞味し、曰く、「吾子必ず佳器と為らん」と。

原文秉,字仲甫,未冠,有雋譽。嘗謁蔣堂,坐池亭,堂曰:「亭沼粗適,恨林木未就爾。」秉曰:「亭沼如爵位,時來或有之;林木非培植根株弗成,大似士大夫立名節也。」堂賞味其言,曰:「吾子必為佳器。」

進士甲科に中り、吉州推官・青州掌書記に調じ、開封府倉曹参そうしん軍を治む。州縣に浮湛すること二十年、人知る者無し。王安石其の壁間の詩を得て、其の静退なるを識り、方に條例司を置き、選に預かりて中る。淮・浙に奉使して塩法を治め、薛向と利病を究索し、本錢を出して海を鬻ぐの民を業とし、私に鬻ぐことを得ざるを戒む。還りて奏し、遂に定制と為る。

原文中進士甲科,調吉州推官、青州掌書記、知開封府倉曹參軍,浮湛州縣二十年,人無知者。王安石得其壁間詩,識其靜退,方置條例司,預選中。奉使淮、浙治鹽法,與薛向究索利病,出本錢業鬻海之民,戒不得私鬻,還奏,遂為定制。

吏房公事を檢正し、兩浙・淮東刑獄を提點し、専ら塩事を提舉す。法を持すること苛嚴にして、胥を追ひ保を連ね、罪は妻孥に及び、一歳中犯す者千万を以て数ふ。制置発運副使に進む。東南饑え、詔して上供米の價を損じて以て糴す。秉言す、「價賤しと雖も、貧者は終に錢を得艱し。請ふ、但だ糴本を償ひ、而して其の餘を以て振贍せん」と。是歳上計す。神宗問ひて曰く、「聞く、滁・和の民蝗を捕へて食と充つと、諸れ有りや」と。對へて曰く、「之あり。民饑甚だしく、殍死相枕藉す」と。帝惻然として曰く、「此に先だち獨り趙抃朕が為に之を言へり耳」と。是に先だち、発運使多く餘羨を献じて以て恩寵を希ふ。秉言す、「職は六路の財賦を董督し、時を以て之を上るに在り、安んぞ羨を得ん。今羨と稱する者は、率ね正數なり。請ふ、是より献を罷め、獨り七十萬緡を以て三司の逋を償はん」と。

原文檢正吏房公事,提點兩浙、淮東刑獄,專提舉鹽事,持法苛嚴,追胥連保,罪及妻孥,一歲中犯者以千萬數。進制置發運副使。東南饑,詔損上供米價以糴。秉言:「價雖賤,貧者終艱得錢,請但償糴本,而以其餘振贍。」是歲上計,神宗問曰:「聞滁、和民捕蝗充食,有諸?」對曰:「有之,民饑甚,殍死相枕籍。」帝惻然曰:「前此獨趙抃為朕言之耳。」先是,發運使多獻餘羨以希恩寵,秉言:「職在董督六路財賦,以時上之,安得羨。今稱羨者,率正數也。請自是罷獻,獨以七十萬緡償三司逋。」

集賢殿修撰を加へられ、渭州を治む。五路大いに出で西討す。唯だ涇原のみ功有り。寶文閣待制に進む。夏境の胡盧川、塞に距ること二百里、險遠を恃みて設備せず。秉将姚麟・彭孫を遣はして之を襲撃せしむ。俘斬万計。龍圖閣直學士に遷る。夏酋仁多嵬丁挙国して入寇し、熙河定西城を犯す。秉兵を瓦亭に治め、両将を分かちて静邊砦に駐ましめ、夏人の来路を指して曰く、「吾れ遲明に坐して捷報を待たん」と。明に及びて果たして至る。宋師を見て驚きて曰く、「天降るなり」と。縱撃して之を撃つ。皆奔潰す。或は嵬丁既に死せりと言ふ。其の衣服を識る者有り。諸将聞すを請ふ。秉曰く、「幕府功を上くるは實ならざるを患ふ。吾れ敢へて疑似を以て欺を成さんや」と。他日之を物色す。嵬丁果たして死す。詔して服馬・金幣を褒賜し、且つ獲たる器甲を上るることを使はす。

原文加集賢殿修撰、知渭州。五路大出西討,唯涇原有功,進寶文閣待制。夏境胡盧川距塞二百里,恃險遠不設備,秉遣將姚麟、彭孫襲擊之,俘斬萬計。遷龍圖閣直學士。夏酋仁多嵬丁舉國入寇,犯熙河定西城,秉治兵瓦亭,分兩將駐靜邊砦,指夏人來路曰:「吾遲明坐待捷報矣。」及明果至,見宋師,驚曰:「天降也。」縱擊之,皆奔潰。或言嵬丁已死,有識其衣服者,諸將請以聞。秉曰:「幕府上功患不實,吾敢以疑似成欺乎?」他日物色之,嵬丁果死,詔褒賜服馬、金幣,且使上所獲器甲。

秉邊を守ること久し。父革の年老いたるを表し、帰るを乞ふ。湖州を治むるに移す。三驛を行く。復た詔して渭に還るを賜ひ、慰藉優渥なり。革聞き、亦た義を以て其の議を止む。已にして革疾亟し。乃ち帰るを得。元祐中、荊南を治む。劉安世其の塩法を行ひて民を虐ぐるを論じ、待制に降り、洞霄宮を提舉す。卒す。

原文秉守邊久,表父革年老,乞歸。移知湖州,行三驛,復詔還渭,慰藉優渥。革聞,亦以義止其議。已而革疾亟。乃得歸。元祐中,知荊南。劉安世論其行鹽法虐民,降待制、提舉洞霄宮,卒。

【史評】

原文【史評】

論じて曰く、宋室の人才亦た盛んなり。青苗法始めて行はる。滿朝の耆壽故臣・法家拂士、古今の通誼を引き、力を盡くして之を爭ふも而も止むること能はず、往々多く自ら引去る。数年之後に及び、憲令既に成り、天下亦た之を如何ともすること莫し。已にして間も無く遠郡を守り、尚ほ能く懇懇として民の為に言有り。舜俞・京・蒙俱に區區一縣令を以て、力を部使者に抗し、其の官を棄つること弊屣の如く視る。類ひて威を畏れ祿を懷ふ者の能くする所に非ず。師孟饑羸を活かし、水利を興し、奸を擿き惡を誅す。歴る所稱す可し。逮ひて契丹に使はるるに及び、坐席の禮を正し、毅然として少も屈せず。時中林廣の兵を縱ちて蛮を追はしむるを止め、深く兵家の變に達す。贄諫省に居り、舉劾すること避くる所無く、允に直臣の風有り。建中雅量を以て敵を卻け、辭嚴氣正、尤も奇偉なり。頡才有ると雖も、深文狡獪、豈其れ天性然らんや。革終始廉退たり。秉は時に好むに阿徇するを免れず、塩法を行ひて以て民を虐ぐ。父子の相ひ遠きかな。

原文論曰:宋室之人才亦盛矣。青苗法始行,滿朝耆壽故臣、法家拂士,引古今通誼,盡力爭之而不能止,往往多自引去。及數年之後,憲令既成,天下亦莫如之何。已而間守遠郡,尚能懇懇為民有言。舜俞、京、蒙俱以區區一縣令,力抗部使者,視棄其官如弊屣,類非畏威懷祿者能之。師孟活饑羸,興水利,擿奸誅惡,所歷可稱;逮使契丹,正坐席禮,毅然不少屈。時中止林廣縱兵追蠻,深達兵家之變。贄居諫省,舉劾無所避,允有直臣之風。建中雅量卻敵,辭嚴氣正,尤為奇偉。頡雖有才,而深文狡獪,豈其天性然。革始終廉退,秉不免於阿徇時好,行鹽法以虐民,父子之相遠哉!