任顓
任顓、字は誠之、青州壽光の人なり。進士に挙げられ、同學究出身を得たり。衛尉丞に至る。その文を上る、乃ち第を賜ひ、鹽鐵判官に擢でらる。陝西にて康定大銅錢を鑄る、顓曰く「五を壞して一と為し、一を以て十に當つ、犯す者衆かるべし」と。卒に其の言の如し。
夏人款を納る、使者を遣はして十一事を要請す、甚だしきは臣を去りて男と稱せんと欲す。顓押伴たり、一切義を以て曉し、辭を折して去る。又再び使者を遣はし來たりて自ら買賣せんと欲し、且つ青鹽を通じ、歲賜を増さんとす、詔して榷場を置くを許す、其の議多く顓の發する所なり。京西轉運使に出で、京師に奏計す。元昊下に殺さる、楊守素を遣はし來たりて哀を告ぐ。守素、乃ち始めて元昊の謀りて臣と稱せず、賜節を納れざる者なり。仁宗嘗て其の使者を屈せしを記し、復た押伴せしむ、顓守素に其の主の死する所以を問ふ、對ふること能はず、訖くまで去り、敢へて肆せず。鳳翔府を改めて知る。帝輔臣に語り、顓朝廷の委任に備ふべしと、留めて三司恁由司を判せしむ。諒祚冊禮使と為り、西夏の風物・山川・道里・出入攻取の要を采摭し、『治戎精要』三篇を為りて之を上る。
直史館に進み、河東轉運使に遷る。帝嘗て禁帑の金帛を以て河北に賜ふ、亦た河東に與へんと欲す、顓辭して曰く「委せられて財用を制す、而して先づ求むること有り、敢へず」と。顓使者と為り、行部する毎に、必ず僚佐の賢なる者一人を擇びて俱にし、凡そ事必ず與に議し、未だ嘗て胥吏を以て自ら隨ふることなく、人其の政を安んず。鹽鐵副使に入り、天章閣待制に擢でらる。
儂賊嶺外を犯す、以て潭州を知る。宣撫司宣毅卒功有りとし、檄して軍校に補す、顓其の色動くを察し、曰く「必ず異志有らん」と。執へて之を按ず、具に服して賊の内應と為る。其の家を搜す、記する所の潭事甚だ悉きを得、首を梟して以て徇す。詔書褒激し、白金五百兩を賜ひ、龍圖閣直學士に進み、渭州を知る。潭に在りし日に坐し、死商の珠を賤く市ひ、待制に降る。時に四路邊警を以て聞ゆ、渭獨り上る所無し、朝廷斥候密ならざるを疑ふ、顓力言して他虞無しとす、帝之を覘はしむ、信ず。乃ち學士を還し、徐州に徙り、太子賓客を以て致仕す。積み官して戶部侍郎に至り、卒す、年七十八。
李參
李參、字は清臣、鄆州須城の人なり。蔭を以て鹽山縣を知る。歲饑す、富室に諭して粟を出だし、其の直を平らかにして民に與へ、糴すること能はざる者には糟籺を給し、活かす所數萬。
定州を通判し、都部署夏守恩貪濫にして法に違ふ、轉運使參をして之を按ぜしむ、其の事を得、守恩謫せられて死す。荊門軍を知る、荊門歲に夏を以て竹を伐ち、併せて稅簿を荊南に輸して舟を造る、積み日久しくして蠹惡多く用ふべからず、牙校破產して責を償はず。參冬に竹を伐ち、其の費を度りて以て給し、餘り商人を募りて與に市を為すを請ふ、遂に其の害を除く。
歴て興元府、淮南・京西・陝西轉運使を知る。部多く戍兵有り、食少きを苦しむ。參其の闕を審訂し、民に自ら麥粟の贏を隱度せしめ、先づ錢を以て貸し、穀熟するを俟ちて官に還す、號して「青苗錢」と曰ふ、數年を經て、廩に羨糧有り。熙寧の青苗法、蓋し此に萌す。
朝廷邊費益々廣きを患ふ、參錢を邊郡に輦し、以て估を平らかにして糴し、權て入中法を罷むるを建議す。其の去るに比べ、榷貨錢千萬を省む。鹽鐵副使に召さる、右諫議大夫を以て河北都轉運使と為る。安撫使郭申錫と相ひ決河を視、議協はず、又真定の呂溱と相惡む、二人皆罪を得、參河東に使を移し、荊南を知る。
嘉祐七年、三司使に召さる、參知政事孫抃曰く「參主計と為らば、外臺將に風を承けて天下を刻剝せん、天下の民困れん」と。乃ち群牧使に改む。詔して王安石・王陶に局を置きて國計を經度せしむ、參言く「官各々職有り、臣若し事を任せずんば、當に廢黜に從ふべし。然らずんば、此の局を罷むるを乞ふ」と。之に從ふ。
治平初、集賢院學士を加へられ、瀛州を知り、黃金百兩を賜ふ、帥臣賜はるること有るは參より始まる。再び樞密直學士に遷り、秦州を知る。蕃酋藥家族亂を作す、討ちて之を平げ、良田五百頃を得、以て弓箭手を募る。鎮に居ること歲を閱す、未だ嘗て邊事を以て聞えず。英宗使者を遣はして故を問ふ、對へて曰く「將邊に在りては、事無きを期するのみ、敢へて妄りに寇を以て主の憂ひを貽さず」と。疾を以て邊任を解き、西京御史臺を判し、起きて曹・濮二州を知る。神宗久しく其の才を知り、姓名を殿柱に書す。以て永興軍を知らしめんとす、行はず、卒す、年七十四。
參學術無し、然れども剛果嚴深にして、姦伏を發擿するを喜び、假貸せず、事至れば即ち決し、簿書の纖悉たるも遺さず、時に能吏と稱す。
郭申錫
郭申錫、字は延之、魏の人である。自ら唐代の郭元振の後裔と称す。進士に及第し、晋陵尉となる。民が弟が人に殺されたと訴えるや、申錫はその顔色が恐れおののき、泣き声に哀しみがないのを察し、「吾は賊を得たり、汝にあらずや」と言い、これを捕らえて訊問すれば、果たしてその通りであった。久しくして博州知州となる。州兵が戍衛に出る際、衆を脅して乱を起こそうとする者があったが、申錫は一人を誅戮し、二人に黥刑を加えて、ようやく平定した。奏上が届くと、仁宗は「小官にして事に臨みかくの如し、豈に易く得んや」と言い、直ちに御史台推直官とした。しばしば上疏して事を論じ、大臣らはこれを不便とした。慶州で獄を審理する。京東の盗賊が濮州通判の井淵を捕らえるや、知州事に遷る。一月も経たぬうちに、凶党を悉く擒え、斬って示しとした。
侍御史に召され、遂に知雑事となる。張貴妃の追冊と園陵の造営、張堯佐の使相任命、陳執中の寵妾が婢を殺したこと、余靖が胡恢の醜行を引き合いに出したこと、高若訥が范祥を引き立てて辺境に紛争を起こしたことについて、申錫は皆これを奏劾し、権勢を恃む者を繰り返し誹謗して避けるところがなかった。帝はこれに謂いて「近世の士大夫は、未だ顕達せざる時は、好んで時事を指陳するが、進用されると然らず。これは言を資として進むのみ。卿はこれを行うなかれ」と言った。
間諜が契丹が汎使を遣わすと称するや、命を受けて河北を体量安撫し、還って塩鉄副使となる。黄河の決壊を視察し、李参の事実誤認を論じて罪に坐し、濠州知州に左遷される。帝は朝堂に明らかに榜を掲げ、その欺瞞を称して、在職者を戒めた。まもなく直史館を加えられ、江寧府知府となり、再び塩鉄副使となり、天章閣待制に進み、鄧州・河中府の知事となる。
种諤が綏州を取ると、申錫は「辺患はこれより始まらん」と言う。諒祚が死ぬと、前の事柄を棄てて、その子の爵位襲封を聴くよう請い、かつ言うには「二虜(遼・西夏)は歳幣を頼みとすること甚だ厚し。平穏を破るは豈にその利とするところならん。必ずこれを致す所以あり。ただ重将をして辺境を守らせ、功を要して事を生ぜしめざれば、則ち善きかな」と。『辺鄙守禦策』を著す。給事中をもって致仕し、卒す。年七十七。
傅求
傅求、字は命之、考城の人である。進士甲科に及第し、泗州通判となる。淮水が氾濫し、城を毀つ。朝廷は中使を遣わして修築を監督させるが、淮を渡って土を取るのは道遠く、兵六十万を用いることを見込んだ。求は汴堤の傍らに高き丘ありと見て、これを平らげて土を得、舟に載せて戻れば、工費を半ば殆ど省くことができた。
大名府に転じ、府守の呂夷簡は事を委ねる。夷簡が宰相に入ると、その才を薦め、宿州知州に抜擢し、江西・益州刑獄提点となり、梓州路転運使となる。夷獠が合江を寇すや、鈐轄司が兵を会して掩撃しようとする。求は馳せ往きてその所以の状を按ずるに、県吏が播州の田を冒して取り立てたため、獠が恐れて叛いたのであった。直ちに吏を黥して嶺南に置くと、夷人はこれを聞き、散去した。益州の文彦博がその状を上奏し、官秩を進められ、陝西に転ずる。
関中で当十鉄銭を行ふや、盗鋳は数え切れず、求は法を変えるよう請う。時に州県は既に二百八十万緡を散じていたが、急ぎ令を下して更に当三とする。民は意に出ず、産を蕩尽し業を失い、多く自ら経死する者あり。然れども盗鋳は遂に止んだ。康定以来の用兵により、税を移して辺境に輸送するや、民力大いに困窮す。求は本州に輸納させ、銭を転送して辺境の穀物購入に供すれば、民はその恵みを受け、兵糧もまた足りた。戸部副使に召される。
隴右の蕃酋蘭氈が古渭州の地を献ずるや、秦州の范祥はこれを受け入れ、城を繕い兵を屯するよう請い、また熟戸の田を検括すれば、諸羌はこれを惜しみ、相率いて叛く。夏人は渭の地を得んと欲すること久しく、移文を来して索む。後の帥張昇は、范祥が利を貪り事を生ずとし、これを棄つるよう請う。詔して求をして往き視察せしむ。求は城は既に工事を終え、且つ既に得て棄つるは、国威を強くする所以にあらずとす。乃ち詔して羌衆を諭し、その田を返し、夏人に渭はその所有にあらずと報じ、索むべからずとし、その封疆を正して還る。兵は遂に解けた。天章閣待制に進み、陝西都転運使となり、龍図閣直学士を加えられ、慶州知事となる。
環州の定辺砦の蕃官蘇恩が、小過により疑懼して遁走す。将佐は討伐を致さんと議す。涇原は既に境上に出師せんとす。求は恩は元より二心を抱く者にあらず、兵を以て乗ずれば必ず辺患を起こさんと言う。ただ裨将に十数卒を従わせてその帳を叩き、禍福を開き諭せば、恩は感泣し、砦に還り初めの如し。入りて太常寺を判じ、権発遣開封府となり、枢密直学士に遷り定州知事となり、再び龍図閣学士をもって開封府を権知す。
求は元より吏能と幹局あり。これに至り、春秋漸く高く、且つ病みて耳聡からず。三司の大将銭吉が密かに妹を殺し、隣人が告ぐ。求は決すること能わず、却って告げた者を罪に坐せしむ。また獄を断ずるに数度差失あり。御史はその任に勝たずと言い、兗州知事として出される。卒す。年七十一。
張景憲
張景憲、字は正国、河南の人である。父の師徳の任子として淮南転運副使となる。山陽令の鄭昉は贓累巨万に及び、親戚多く要人たり。景憲は真っ先にこれを取り調べ治め、嶺外に流す。貪吏は風を望んで引き去る。京西・東転運使に転ずる。王逵が鄆に居り、専ら吏の短長を握り、請い求むる賄謝はその欲する如し。景憲はその悪を上奏し、宿州に編置す。熙寧初め、戸部副使となる。
韓絳が撫寧・囉兀の両城を築くや、帝は景憲をして往き視察せしむ。初めて詔を受けるや、即ち城は守るべからずと言い、固より到着して後知るまでもないとす。未だ幾ばくもせず、撫寧は陥落す。延安に至り、また言う「囉兀は邈然として孤城、井を鑿るも水なく、将に何を以てか守らん。臣が道中に見る所、師労し民困するの状一にあらず。願わくは徒労の役を罷め、無用の城を廃し、厳しく辺将を飭めて守りの計を為さしめよ。辺郡に生羌を召し、これに金帛・官爵を与うるは、恐らくは黠羌多く詐りあり、緩急ある時は内応せん。宜しく亟にこれを止むべし」と。陝西転運司が議し、半年を限りて民に悉く官に銭を納めさせ、交子に易えんと欲す。景憲は言う「この法は蜀に行うべし。若しこれを陝西に施せば、民は将に以て命となすこと無からん」と。その後、遂に行われず。
集賢殿修撰を加えられ、河東都轉運使となる。議者が河東を二路に分けようとすると、景憲は言う、「本道は土地の肥瘠が混在し、州縣の貧富も異なる。まさに有無相通じさせるべきであり、分けるのは不便である。」議論はそこで止み、瀛州知州に改められる。上言して曰く、「近年は多く収穫がなく、民は積もる滞納がある。今やや豊作であるが、官が督促して一括償還させようとすれば、巷に流言が立ち、その禍は凶年よりも甚だしい。寛大な措置を願う。」帝はこれに従い、さらにその事を下命した。
元豐初年、河陽知州となる。時に西南蠻を討伐しようとしていた。景憲が入朝して辞す際、言う、「小醜が跳梁するのは、おそらく辺境の吏が擾乱させたためである。しかもその巣窟は険阻であり、もし兵を動かして遠征すれば、万一糧秣の補給が続かなければ、我が軍は坐して困窮するであろう。」帝曰く、「卿の言う通りである。しかし朝廷には已むを得ざる事情がある。」翌年、同州に移り、太中大夫の官で卒す。年七十七。
景憲は仁宗朝において部使者であった時、吏治がまだ寛大であったが、彼だけは多く挙劾した。熙寧以来、吏治が峻急になると、景憲はかえって寛大をもってこれを補った。新法が行われた時、一人も弾劾しなかった。官に在っては強禦を畏れず、公事でなければ執政の門に至らなかった。自らが守るところを恃み、人に対してはほとんど認めるところがなかった。母が卒すると、一晩で鬚髪がことごとく白くなり、世間はこれをもって彼を称えた。
竇卞
集賢校理を加えられ、太常院を管轄し、絳州知州、開封府推官となる。時に金を溶かして衣とすることを禁じており、皇城の兵卒が捕らえた。卞に属してこれを処断するよう命じられ、宮中の禁令であることを理由にした。奏上して曰く、「真宗がこの制を行ったのは、掖廷から始まった。今法によって正さなければ、天下に示すところがなく、かつ祖宗の立法の意に非ず。」英宗曰く、「その通りだ。文王の『刑を寡妻に於いてし、兄弟に至り、以て家邦に御す』とは、まさにこれを謂うのである。」その請いに従った。
深州知州として出向する。熙寧初年、河が滹沱で決壊し、水が郡城に及び、大地震があった。流民が恩州・冀州から踵を接して来た。卞は常平倉の粟を発してこれを食わせた。吏が「独断で発すれば罪を得るでしょう」と申し出ると、卞は曰く、「請うて返答を待っていれば、民は死んでしまう。私は一人の身をもって数万人を生かそう。」すぐに請うたところ、詔してこれを許した。外間に水が大いに来るとの流言があった。卞は敢えて言う者を斬ると下令した。ある日、また大水が来るとの報せがあり、吏が門を閉じるよう請うたが、卞は許さなかった。果たして虚妄であった。時に六州の兵卒を発して武彊を築かせた。陳州の兵卒が怠惰で、主管者がこれを鞭打つと、服従しなかった。卞曰く、「廂兵が将校を犯しても、法は重くはない。しかし工事を起こし人夫を集めている時は、常法に拘ってはならない。」命じてこれを斬り、上聞した。詔して嘉獎された。還って戸部判官・同修起居注となり、天章閣待制に進み、昭文館・将作監を管轄した。
初め、卞が汝州に官した時、殿直の王永年と交際が非常に厚かった。京師に在った時、永年が金曜門庫の監を求めた。卞が提挙の揚繪に頼み、繪が推薦してこれを実現させた。永年が家で酒宴を設け、繪と卞を招き、その妻を出して酒を勧め、かつ時折薄い贈り物を届けた。永年は事あって獄に繋がれ死んだ。御史がその私事を暴き、卞は連座して職を奪われ、靈仙觀提挙となる。卒す。年四十五。
張瓌
張瓌、字は唐公、張洎の孫なり。進士に挙げられるが、舅の王欽若を憚り、學士院に召し出されて試験を受け、及第を賜り、秘閣校理・同知太常禮院に除される。錢惟演に諡して「文墨」とし、その子が登聞鼓を叩いて上訴した。仁宗がその状を問わせると、瓌は条奏して甚だ痛切であり、朝廷もその意見を覆せず、乃ち諡を賜って「思」とした。溫成廟の祭祀が神御の如く行われたので、その礼を殺ぐよう請うた。
吏部南曹を管轄し、開封府推官・洪州知州となる。営校が役の監督に苛急で、その配下三百人が夜に彼を殺そうとした。校を見つけられず、鍬を持って門前で騒ぎ、校の交代を請うた。瓌は召し出して問い諭して帰した。翌日、狡猾な者十人を推問して処罰し、校は替えなかった。功績を積んで昇任すべきであったが、十年間考課が行われなかった。文彥博が言上し、特別に昇進させた。兩浙轉運使に移り、直史館を加えられ、潁州・揚州知州を経て、即時に淮南轉運使に任じられる。
三司が諸道に余剰財の上納を命じた。淮南だけが金九銭を上申した。三司使が怒り、文書を送って譴責した。瓌は賦税の数と民の貧しさをもって答えた。入朝して起居注を修め、知制誥となる。故相劉沆の贈官の制を起草し、その附会して顕位を取ったことをかなり述べた。沆の子の劉瑾が子弟婦女を率いて喪服で宮門に赴き、哭訴して瓌が私怨を抱き、かつその人を醜く誹謗したと訴えた。執政は褒贈は恩典であるから、瓌が貶す言葉を書くべきでないとし、黃州知州として出向させた。しかし瑾も結局父の諡を請うことは敢えてしなかった。還って流内銓を管轄する。英宗の時、先朝において早く皇太子を定めるよう請願した者の順位を論じ、左諫議大夫・翰林侍讀學士に進む。劉瑾がまた、彼が銓を管轄した日に、自分の子を法に応じないように任用したと訴え、再び濠州に出される。應天府・河南府・河陽府を歴任し、太平州を請うた。
瓌は平生人材を推薦したが、後にその推薦通りでなくても、一度も自ら進んで報告したことはなく、故に再び階級を削られることになった。官に当たって事に遇えば即ち言上し、勢要に触れ忤り、たびたび貶黜されるに至ったが、終に悔いなかった。卒す。年七十。
孫瑜
孫瑜、字は叔禮、博平の人。父の任子により将作監主簿となり、賈昌朝に推薦されて崇文檢討・同知禮院・開封府判官となる。
契丹に使いし時、西方討伐の捷書が到着し、館伴が賀に入ることを求め、厚い餉で誘ったが、孫瑜は奉使には指図があるとして辞し、賀せず。秘閣校理・両浙転運使を加えられる。入朝して辞す時、仁宗がその家世を訪ねて言うには、「卿は孫奭の子か。奭は大儒なり、久しく道をもって朕を輔けた」と。そこで面と向かって金紫を賜う。
先に、郡県の倉庫が斗斛の大小をもって不正を働いていたが、孫瑜はその制を均一にするよう奏上し、無状の吏を罷免したので、民は大いに喜んだ。その新器を変えるのは便利でないとの言があり、左遷されて曹州知州となる。まもなく孫瑜の作った量法が均一で誠に便利だとの言があり、元の資を還され、蔡州知州に移り、呉元済の像を毀ち、その祠を裴度に祀らせた。大水が城の隙間から入った時、孫瑜は数千の砂嚢でその衝きを防がせ、城は壊れずに済んだ。さらに相・兗・濰・単の四州を歴任し、累官して工部侍郎となり、卒す。享年七十九。
初め、孫奭が亡くなった時、朝廷がその子孫を録用しようとしたが、当時孫瑜の子が諸孫の長であった。孫瑜は言う、「我が子を父の喪に乗じて官に就けようなど、私にどうしてできようか」と。兄の孤児を推挙した。孫瑜は天資が整い敏速で、家を斉えるには厳格と称された。人と交わることを善くし、一度知遇を受ければ終身変わらなかった。推薦した士に過ちがあっても、あるいは自ら言うよう教えられたが、「既に知っていながら再び陥れるようなことは、私はしない」と言った。
論じて曰く、宋は神宗に至り、承平百余年、風教行き政成り、士は皆官を守り職に称し、上からの化育もまた下の気習がそうさせたのである。当時朝廷に仕え、方岳を出守し、節を持って一道を治め、四方に専対した者には、それぞれその人あり、その政跡多く記すべきものあり、孫顕から孫瑜に至るまでがこれである。孫顕は夏人を折衝し、元昊の使者を屈服させ、孫参は貪を撃ち害を除き、心を辺事に尽くし、孫申錫は凶党を除き、権幸を詆し、孫求は黠吏を黥し、盗鋳を禁じ、孫卞は身をもって人を活かし、孫瓌は羨財を貢がず、孫景憲は母の死によりて髪白くし、孫瑜は父の喪に因って官を得るを忍びず、これらはその行い特に昭々たる者であろうか。
許遵
許遵、字は仲塗、泗州の人。進士に及第し、また明法科に合格し、大理寺詳断官・長興県知県に抜擢される。水害の時、民多く流亡したが、許遵は民に米を出させて救済し、ついに災害がなかった。さらに水利を興し、田を灌漑すること甚だ広く、邑人は便利とし、石碑を立ててこれを記した。
審刑院詳議官となり、宿州・登州の知州を歴任する。許遵は累ねて刑獄を主管し、強敏で明恕であった。登州知州となった時、執政が判大理寺に任じることを許したので、許遵は奇を立てて自らを売ろうとした。時に婦人阿云の獄が起こる。初め、阿云は許嫁したが未だ行かず、婿の醜さを嫌い、その田舎の家で寝ているのを伺い、懐に刀を隠してこれを斬り、十余の創を負わせたが殺せず、一指を断った。吏が盗賊を求めたが得ず、阿云の仕業を疑い、捕えて詰問し、訊掠を加えようとしたところ、ようやく実を吐いた。許遵は、阿云が納采の日、母の喪服が除かれていなかったので、凡人として論ずべきであると按じ、朝廷に讞した。有司は謀殺已傷と断じたが、許遵は駁して言うには、「阿云は問われて即座に承服したので、按問とすべきである。審刑院・大理寺が絞刑としたのは誤りである」と。事は刑部に下り、許遵が妄りであるとし、詔して贖罪をもって論ずる。まもなく、果たして判大理寺となる。議法によって劾されるのを恥じ、再び言うには、「刑部の定議は正しからず、阿云はその因った罪を免ずるに合う。今、勅を用いず、ただ断例を引き、一切按じて殺すのは、自ら守る道を塞ぎ、罪疑わしきは惟れ軽きに従うの義に殆ど非ず」と。詔して司馬光・王安石に議させる。光は不可とし、安石は許遵を支持した。御史中丞滕甫・侍御史銭顗は皆、許遵の争うところは法意に背くとし、ここより廷論紛然となる。安石が執政となると、異を唱える者を悉く罪し、ついに許遵の議に従った。累ねて問われても承服しない者も、按問とすることができるようになった。あるいは二人が共に盗劫をした場合、吏が先に左を問えば按問は左にあり、先に右を問えば按問は右にある。獄の生死は問う先後に在り、盗の情実に非ず、天下ますますその説を厭う。
熙寧年間、出て寿州知州となり、再び判大理寺を請い、潤州知州を請い、また提挙崇福宮を請う。まもなく致仕し、累官して中散大夫となる。卒す。享年八十一。
盧士宗
盧士宗、字は公彦、濰州昌楽県の人。『五経』に挙げられ、審刑院詳議・編敕刪定官を歴任し、江西刑獄提点となる。侍講楊安国が経術をもってこれを推薦し、仁宗が延和殿に臨み、詔して講官悉く殿に昇らせてその『易』を講ずるを聴かせた。翌日、また命じて『泰卦』を講ぜしめ、さらに経筵官及び僕射賈昌朝を召してこれを聴かせた。天章閣侍講を授け、三品服を賜い、直龍図閣・天章閣待制・判流内銓を加えられる。
李参・郭申錫に黄河決壊の訴訟があり、詔して盧士宗にこれを劾させた。盧士宗は言う、両人とも時に用いられる者であり、罪あれば験問すべきで、逮鞫すべからずと。ここにおいてただ郭申錫を州に左遷するのみとした。龍図閣直学士・知審刑院・通進銀台司に進む。
仁宗の神主を廟に祔するに当たり、礼院は太祖・太宗を一世とし、一室を増やして天子が七世を祀る礼を備えるよう請うた。詔して両制と礼官に考議させ、孫抃らはこれに従おうとしたが、盧士宗はこれに反対し、「礼においては、太祖の廟は万世毀たず、その余の昭穆は親尽きれば即ち毀ち、終わり有るを示す。漢以来、天子が受命の初め、太祖は尚ほ三昭三穆の次に在り、四世または六世を祀り、それ以上の主は、属は太祖より尊くとも、親尽きれば遷す。故に漢元帝の世、太上廟主を国に瘞し、魏明帝は処士主を国邑に遷し、晋の武帝・恵帝が祔廟する時、征西・豫章府君を遷した。大抵六世を過ぎればその主を遷すのは、太祖既に東向の位に正しければ、則ち三昭三穆を併せて七世となるからである。唐高祖は初め四世を祀り、太宗は六世を増祀し、太宗が祔廟すれば弘農府君を遷し、高宗が祔廟すればまた宣宗を遷し、皆前世の成法である。ただ明皇の九廟八世祀りは、事として経に合わず。今、大行皇帝を祔廟するに、僖祖は親尽きて当に遷すべく、典礼に合い、一室を添え展ぶべからず」と。詔して孫抃らに再議させ、ついに八室の説に従い、議者はこれを咎めた。
出て青州知州となり、入朝して辞す時、英宗が言うには、「学士の忠純なる操は、朕の素より知るところ、豈に久しく外に処すべきや」と。命じて再対せしめ、見えるに及び、人を知り民を安んずる要を論じ、帝に祖宗の法を守るよう勧めた。御史がその吏事に通ずること稀で、かつ衰病であると上言したので、沂州に改める。
熙寧初年、礼部侍郎をもって致仕し、卒す。享年七十一。盧士宗は儒者として刑名の学に長じ、仁恕を主としたので、刑部・審刑院に在ること前後十数年であった。
銭象先
錢象先、字は資元、蘇州の人である。進士の高第に及第し、呂夷簡が国子監直講に推薦し、権大理少卿・度支判官・河北・江東転運使を歴任し、召されて天章閣侍講を兼ねた。一路の勅令を詳定して完成させたとき、勲爵を進めるべきところであったが、仁宗は象先の母が年老いていることをもって、これを慰めようとし、独り紫の章服を賜った。待制に進み、審刑院知事となり、龍圖閣直学士を加えられ、出て蔡州知州となった。
象先は経術に長け、邇英殿に侍すること十餘年、顧問があれば必ず経書に依拠して答え、反復して諷諭し、やがて当世の事務に及んだので、帝の礼遇は甚だ厚かった。故事によれば、講読官は日を分けて交替で進講するが、象先は既に蔡州を得ていたのに、帝はなお諭して言った、「大夫が行くには日がある。宜しく一編を講じ終えるべし。」そこで同列で進講を罷めた者は十日間に及んだ。河南府知事・陳州知事に転じ、再び侍講・審刑院知事を兼ねた。
象先は法家の説に旁通していたので、たびたび刑官となり、条令を多く裁定した。嘗て勅を犯す者は重く、令を犯す者は軽いと考え、勅文を令に移すことを請うた者は甚だ多かった。また告捕法を議し、罪には捕らえるべきものと、捕らえるべからざるものがあると考え、もし皆捕らえることを許せば、奸人は法に倚って善良を害するであろうとして、よって許捕することを削ること百余事に及んだ。その心を平恕に持するのはこの類である。再び許州・潁州・陳州の三州の知州となり、吏部侍郎をもって致仕した。卒す、年八十一。
韓璹
韓璹、字は君玉、衛州汲県の人である。進士第に登り、定州安喜県知事となった。政事に強力で、吏をして賄賂を受けさせず、知州韓琦はその才を称えた。開封府司録となった。嘉祐年間に諸道を寛恤するため、使者を分遣した。璹は言った、「京師は諸夏の根本である。顧みて独り恵みを受けないのはどうか。」そこで徭役の利害を具して上奏し、詔して司馬光・陳洙に条式を詳定させ、大姓が漁り併せる弊害を革めた。利州路・河北刑獄提点となり、開封府判官として契丹使を迎えた。使が問うて言った、「南朝では打囲を聞かないが、何故か。」璹は言った、「我が后は仁が昆虫に及び、時に非ざれば為さないだけです。」
熙寧初年、梓州路転運使となった。朝廷が諸道に命じて役法を改めさせると、璹は率先して綱を併せ役を減らす制度を建策し、綱は数で計るもの百二十有八、衙前は人で計るもの二百八十有三、役人を五百人省いた。また諸州の衙簿を裁定することを請うた。そこで王安石が言った、「璹の言うところは皆久しく公私の病となっている。監司は公に背き誉を養い、これを恤れむ者もないのに、独り上意を体することができる。賞を加えるべきである。」そこで褒詔を下し、かつ帛二百匹を賜った。入朝して塩鉄副使となり、右諫議大夫として澶州知州となった。挙げることを失した罪に坐し、太常少卿に降格された。黄河が決壊すると、昼夜を分かたず防禦した。神宗はその労を思い、故官の太中大夫に復し、将作監判事とし、正議大夫に転じて致仕した。卒す、年七十七。
璹は吏事に人に絶し、案牘を閲すれば終身忘れず、澶州の民はこれを懐かしみ思った。他日、郡守が何かを為そうとすれば、民は必ず言った、「これは既に韓太中が為されたことです。」この故に直ちに止めた。
杜純
杜純、字は孝錫、濮州鄄城県の人である。少にして成人の操りがあり、伯父が南海の地で官に没し、その孤児は弱く、柩を還すことができなかった。純は父に白状して往くことを請い、期の如くにして喪が至った。
蔭補により泉州司法参軍となった。泉州には蕃舶の富があり、雑貨は山のように積まれていた。時に州に官する者は私的にこれと市を為し、価の十に一も償わなかったが、ただ知州関詠と純は私買せず、人もまた知らなかった。後事が発覚し、獄の治めは多く互いに牽連したが、ただ両人は関与しなかった。詠はなお不察を以て免ぜられ、かつ檄を以て参対させられた。純は憤懣し、使者に陳書して冤罪を訟ぎ、詠は坐せずに済んだ。
熙寧初年、河西県令として上書して政事を言い、王安石はこれを異とし、条例司に引き置き、数回論事し、朝廷に推薦し、審刑詳議官に充てた。或る者が肉刑を復することを議し、先ず刖刑をもって死刑の軽いものに代えようとした。純は言った、「今盗みは死に抵するが、歳に五十を減ぜず、死をもって民を懼れさせても、民は常に畏れず、況んや刖刑においてをや。人が死なずと知れば、犯す者は益々衆く、これは名は軽くして実は重いということです。」事は遂に止んだ。
秦州の帥郭逵がその属官王韶と訴訟を成し、純は詔を受けて推鞫し、韶の罪を得た。安石は韶を支持し、その獄を変え、純を免官させた。韓絳が宰相となると、三司会計を検詳させた。安石が再来すると、池州酒監を請うた。久しくして、大理正となった。上言して言った、「朝廷は告訐を悪しまざるにあらず、しかるに覘事者をもって隠微を擿抉するのは、蓋し京師は万姓を聚め、宿奸を為し易く、計らい当然であり、人を擾すのではない。近来或いは徒隷が望みを觖き、或いは民が相怨仇し、或いは賞を冒して告げようと意図し、ただ泛然と某に罪あり、某は状を知ると言い、官は逮えようとする囚を知らず、囚は逮えられる故を省みない。もし有司に先ずその実を計らせ、欺くを坐して誣告とすれば、竟わざることはないでしょう。」
隰州の商人尹奇が温泉礬を貿易して羨数があり、官が潤したと言い、大理寺は河東で械訊しようとした。純は言った、「奇の情はこれに止まる。もしその罪を傅致すれば、恐らく是より民は復た敢えて礬を貨すことなく、則ち数百万の儲けは皆土石となるでしょう。請う、姑くその羨を没収してその人を釈放せよ。」曹州の民王坦が水害を避け、車に貨を載せて京に入り、商を征する者が匿税と為し、大理寺は坦に黥刑を議した。純は再びこれを争い、卿楊汲は立異と奏し、また家に廃された。
召されて刑部員外郎・大理少卿となり、侍御史に擢げられた。言事者がその科第によらざることを詆り、右司郎中に改め、尋いで相州知事となり、徐州に転じ、陝西転運使となった。還り、鴻臚卿・光祿卿に拝され、権兵部侍郎となり、病を謝して集賢院学士として崇福宮を提挙し、修撰に改めた。卒す、年六十四、弟は紘である。
弟の紘。
紘は字を君章といい、進士に及第して起用され、永年県令となった。凶年にあたり、民は他郷へ逃れようとした。紘は父老を召して諭して言った、「県令たる私が汝らを必ず留まらせられぬとは言わぬ。もし留まるならば、汝らを飢えさせぬようにできる」。皆喜んで命を聴いた。そこで官が印券を与え、富豪の家から借財させ、豊作の年に督促して返済することを約束した。こうして皆が食を得、逃亡する者はなかった。翌年は豊作となり、返済は平素の約束に違わなかった。神宗はその才能を聞き、大理詳断官・検詳樞密刑房に任用し、『武経要略』を編修させた。職務のことで対面したとき、帝は翌日宰相に語り、その論奏の明白さを称賛したが、結局任用されなかった。
紘は毎度獄事を議するとき、必ず経書の義を敷衍した。民間に、幼いときに許嫁した娘がいたが、婚礼を挙げずに婿の家で養われていた。婿の家が彼女を殺して他人を誣告した。役人は婚姻法に照らして処断しようとした。紘は言った、「礼によれば、婦は三月して廟見する。廟見せずに死ねば、家に帰葬する。これは未だ婦とならざるを示す。律によれば、婚約が定まり夫が罪を犯せば、常人と同様に論ずる。養婦は礼律に合わぬとはいえ、未だ婦とならざる点では同じである」。議はこうして定まった。また論じて言った、「天下の囚人で死罪に当たる者を、役人が臆して法を行わず、しばしば疑獄として上奏する。人を殺しておきながら疑獄として上奏するのは、民を殺人に走らせる道である。妄りに上奏する者を処罰せられたい」。聞き入れられなかった。刑部郎中に抜擢された。
元祐初め、夏国母祭奠使となった。当時、夏人はちょうど朝貢を修めており、その国に入ると、礼はなお傲慢で、出迎えの者は毛皮の衣を着け、下人の座を設け、薄墨色の布で覆い、しかも跪いて詔書を受けようとしなかった。紘はこれを責めて言った、「天王の弔礼は甚だ厚い。今これ以上礼を加えることはできない」。夏人は畏れて敬意を加えた。後日、夏の使者が来て、侵奪された疆土の返還を請うた。紘は彼らを迎えて宿舎に至り、使者が入見して陳述したいと言ったが、紘はこれを止め、答語は頗る不遜であった。紘は言った、「国主に何か請いがあれば、必ず表文に具することである。これは大事である。朝廷が使者の口上を以て可否とされようか」。言葉に従って連続して詰めると、遂に敢えて言わなかった。
右司郎中・大理卿に遷り、直秘閣を以て斉州・鄧州の知州となり、再び大理卿となり、権刑部侍郎を兼ね、集賢殿修撰を加えられ、江淮発運使・鄆州知州となった。獄に繋がれた囚人は三百人、紘が着任して十日で、処断を立てて悉く決した。また刑部に召されたが、未だ着かず、鄆州に還された。
かつて城の隅に幟を掲げ、その上に妖言を書き、期日を定めて変事を起こそうとしたことがあった。州民は皆震駭した。間もなく草場が白昼に火災を起こした。これは掲げた一件のことである。民はまた一層恐れた。ある者は城中を大捜索するよう請うた。紘は笑って言った、「奸計はまさにここにある。我が膠着混乱に乗じて発動することを望んでいる。どうしてその術中に堕ちようか。彼らには為す能わぬことだ」。暫くして盗賊を捕らえたところ、奸民が妖術を行ったのは推測の通りであり、遂にこれを按じて誅した。応天府知事に転じ、卒去。享年六十二。
紘は兄の純礼に仕えること甚だ周到であった。鄆州で訃報を聞き、泣いて言った、「兄は私を教え立身させてくれた。今その死に臨めぬのは、死んでも瞑目できぬ」。ちょうど朝廷に参内する折、その柩を都門に迎え、哀哭の様は行路の人をも感動させた。俸給を悉く寡婦となった兄嫁に与え、その子への恩典を推譲し、その子あるいは孫一人に官職を与えた。京師に宦していたとき、同郷の馬随が選調を受け、病んで旅舎に臥していた。紘は車に乗せて帰り、医者に見せた。馬随は結局死んだが、邸内で喪を治めた。ある者は嫌疑を受けることを心配したが、自らは顧みず、その風義は天性のものであった。
杜常。
杜常は字を正甫といい、衛州の人で、昭憲皇后の族孫である。志を屈して学問に励み、外戚の気習がなかった。かつて驢馬に乗って読書していたところ、驢馬が草を求めて道を誤り、気づかずに桑の木に触れて落ち、額に傷を負った。進士に及第し、河陽司法参軍事に調任され、富弼は礼を以て重んじた。累遷して河東転運判官、提点河北刑獄となり、兵部左司郎中・太常少卿・太僕太府卿・戸工刑吏部侍郎を歴任し、出て梓州・青州・鄆州・徐州・成徳軍の知事となった。
崇寧年間、工部尚書に至り、龍図閣学士を以て河陽軍知事となった。旱魃に苦しんでいたが、境に至ると雨が降った。大河が決壊し、州の西の上流の堤防(上埽)を直撃し、勢い甚だ危うかった。常は自ら工事を監督し、堤防の上に移って処した。堤防が崩れ水が溢れたが、常の座る所までで止まった。こうして役人は尽力し、河流は遂に退き、郡はこれによって安泰となった。卒去。享年七十九。
謝麟。
謝麟は字を応之といい、建州甌寧の人である。科挙に合格し、会昌県令に調任された。民が酒に酔って夜に仇敵と闘い、帰宅した後、親族に殺され、それによって仇敵を誣告した事件があった。麟は死者に子がなく、親族がその財産を狙ったことを知り、一訊して実情を得た。再び石首県令に調任された。県は江水の被害に苦しみ、堤防では防ぎきれなかった。麟は石を積み重ねてこれを防ぎ、これより人は安堵を得、「謝公堤」と号した。
辰州通判となった。章惇が湖湘に派遣され、沅州を開拓したとき、麟を太守に推薦し、太常博士から西上閤門副使に改めた。徭賊が辰溪を侵犯したが、麟は捕縛と招撫を併せ行い、一方を寧静にした。詔により宜州の獠を経略させ、その種落四千八百人を降伏させ、思広洞の民千四百戸を帰順させ、鎧甲二万を得た。褒賞賜与は甚だ厚かった。果州刺史を加えられ、荊南・涇州・邠州の知事となった。
元祐初め、再び朝議大夫・直秘閣を以て潭州知事となり、直龍図閣を加えられ、江寧府・鳳翔府・渭州・桂州の知事を歴任した。融江に夷族の警報があり、将吏が討伐を議したが、麟は計略を以てこれを平定した。北方から来た戍兵は水土に慣れず、麟は土着の兵士を最南端に配し、北方の兵士は近隣の郡にのみ駐屯させた。これによって全うされた者は甚だ多かった。官の任上で卒去した。
王宗望。
王宗望、字は磻叟、光州固始の人。蔭により累進して夔州路転運副使に抜擢された。哲宗即位の際、赦令を施行して軍に賞を与えることとなり、万州では十日を過ぎても支給されなかった。炊事兵の朱明が衆の怒りに乗じ、白昼に府宅に乱入し、守臣を傷つけると、左右の者は驚いて散り散りとなり、他の兵卒も騒然として乱の兆しを謀った。宗望は変事を聞き、夔から疾駆して至り、先ず賞を与えることを命じ、その後朱明を斬って示し、且つ守臣の傷を見ながら救わなかった者を追放した。そして自らを弾劾したので、朝廷はこれを嘉した。倉部郎中・司農少卿・江淮発運使を歴任した。
楚州の淮河沿いから漣州に至る区間は風濤が険しく、舟の溺れることが多かった。議する者は支氏渠を開削して水を運河に引き入れるべきとしていたが、長年決着せず、宗望が初めてこれを成し遂げ、公私の利となった。呉安持に代わって都水使者となった。大河に東流と北流の異なる流路が生じて以来、紛争は十年に及び、水官は従うべきところを知らなかった。宗望は、河を戻すには七十里の金堤を創設し、百万緡の費用を要すると述べ、詔はこれに従った。右正言の張商英がその虚誕を論じたが、宗望は既に成績を奏上し、遂に官秩を三等増し、直龍図閣・河北都転運使を加えられ、工部侍郎に抜擢され、集賢殿修撰として鄆州知州となった。卒去、年七十七。元符年間、その河を導いて東流させた事績を追及し、元祐の政に附会したとして、得た恩典を追奪されたという。
王吉甫
王吉甫、字は邦憲、同州の人。明経に挙げられ、法律に習熟し、断刑の試験に合格して大理評事となり、累進して丞・正・刑部員外郎・大理少卿となった。
舒亶が官燭を私邸に持ち帰った件で、執政は自盗の罪に処そうとした。吉甫は不可とし、執政は怒って獄を他所に移し、吉甫もまた弁明に赴いた。舒亶は結局飲食の罪で論じられ、燭の件ではなかった。南郊の祭礼で幔城を築く際、役卒が急いで完成させようとしたところ、工事監督者が責めて言うには、「これはまるで白露の屋のようだ」。役卒がこれを訴えた。吏は「言うべからざることを言った」と当てて死罪に論じた。吉甫は、呪詛でなければ死罪に当たらないとし、遂に対面を求めた。神宗は怒って言った、「白露屋の件で来たのではないか」。吉甫は従容として陳述し、少しも恐れず、帝は怒りを収め、その者は釈放された。蘇軾が南方に遷された時、通過する郡の守臣に館を提供した者がおり、走馬使がこれを上聞し、詔によって審問された。吉甫は笞刑に当たると議したが、宰相の章惇は快く思わなかった。吉甫は言った、「法はこの通りであり、無理に罪を重ねることは難しい」。結局笞刑に従った。太倉が火災に遭い、守衛者十余人を誅すと議されたが、これにも争い、皆死を免れた。その持論の寛平さは、大抵このようなものであった。
斉州・梓州の知州を請うた。梓州は東川において雄藩であり、戸口が最も盛んだった。転運使が折配を増やして剰余金を得ようとした。吉甫はその僚属に言った、「民力は尽きている。一度増やした後は、再び減らすことはできない。私は寧ろ使者の怒りを招こうとも、国のために怨みを集め、民のために禍の基を築くことを忍べようか」。遂にこれを退けた。梓州路京畿刑獄提点・開封少尹・同州・邢州・漢州の知州を歴任し、中大夫の官で卒去、年七十。
吉甫は吏として老練で、廉潔方正で曲がることなく、ただ一筋に法を用いることに徹したが、士人はその潤飾が少ないことを惜しんだという。
論じて曰く、宋は士を取るに律令を兼ねて習わせたので、儒者は経術をもって吏事を潤飾し、その官能を挙げることができた。遵は恵政を民に及ぼしたが、登州の婦人の獄を緩めたことで、君子はこれを刑を失ったと謂う。士宗・象先は皆経を執って講じ勧め、その刑官としての論法は平恕であり、宜なるかな。璹は吏事に人に絶し、民はその徳を懐いた。純は微官ながら清節を顕著にし、紘は獄を議するに必ず経誼を附し、風義藹然たり。常は危埽を護り、麟は徭・獠を定め、宗望は万州の変を鎮め、皆至難の事を談笑の間に靖んじた。吉甫は一筋に法を用い、廉潔方正で曲がることなく、称すべきところがあるという。