宋史

列傳第八十八 常秩 鄧綰 李定 舒亶 蹇周輔 徐鐸 王廣淵 王陶 王子韶 何正臣 陳繹

常秩

常秩、字は夷甫、潁州汝陰の人。進士に挙げられず、里巷に隠居し、経術をもって著名となる。嘉祐年中、束帛を賜り、潁州教授に任ぜられ、国子直講を除され、また大理評事とされた。治平年中、忠武軍節度推官・知長葛県を授けられたが、いずれも受けなかった。

神宗即位の後、三度使者を遣わして招聘したが、辞退した。熙寧三年、詔して郡に「礼を以て敦促して遣わし、秩の辞するを聴くことなかれ」と命じた。翌年、初めて宮門に詣でた。帝が「先朝累次命じたのに、何故起たなかったのか」と問うと、対えて「先帝は臣の愚を諒とされ、故に閭巷に安んずるを得ました。今、陛下が厳詔を以て急き迫られますので、敢えず来らざるを得ません。何ら去就を決択したわけではございません」と言った。帝は喜び、徐にこれを問うて「今、何の道をもって民を凍餒より免れしめんか」と言うと、対えて「法制立たず、庶民が侯の食を食い、侯の服を服する、これ今日の大患です。臣の才は用に適わず、辞して帰りたいと願います」と言った。帝は「既に来た以上、少しも留まらぬことがあろうか。他日卿を用いることができなければ、その時去るがよい」と言い、即座に右正言・直集賢院・管勾国子監に拝し、間もなく直舎人院を兼ね、天章閣侍講・同修起居注に遷り、なお諫職に供せしめ、また帰ることを乞うたので、判太常寺に改めた。

七年、宝文閣待制兼侍読に進み、その子の立に命じて崇文院で校書させた。九年、病みて朝することができず、中太一宮提挙・判西京留司御史台とし、潁州に帰した。十年、卒す。年五十九。右諫議大夫を贈られた。

秩は平素、学問に自得を求めた。王回は里中の名士であったが、毎度秩と語るごとに、輙ち欿然として自ら及ばずと為した。欧陽修・胡宿・呂公著・王陶・沈遘・王安石皆これを称薦した。翕然として名声一時に重かった。

初め、秩は隠居し、既に仕えることを肯んぜず、世間は必ず退く者と為した。後に王安石が相となって法を改めると、天下沸騰し、不便と為したが、秩は閭閻に在って、下された法令を見て、独り是と為し、一たび召されて遂に起った。朝廷に在って諫争を任じ、侍従と為りながら、頭を低く気を抑えて、建明する所なく、聞望日々に損ない、当時に譏笑された。秩は『春秋』に長じ、至っては孫復の学ぶ所を斥けて人情に近からずと為した。講解数十篇を著し、自ら「聖人の道は皆此に在り」と謂った。及んで王安石が『春秋』を廃すると、遂にその学を尽く諱んだ。

秩の子 立

立は初め天平軍推官に命ぜられた。秩が死ぬと、門人趙冲にその行状を書かせ、云うに「秩と王安石が去位して以来、天下の官吏が陰にその法を変え、民は塗炭を受け、上下循黙し、敗端内に萌し、覚る者も悟る者も無い。秩はその必ず敗るるを知っていた」と。紹聖年中、蔡卞が立を推薦して秘書省正字・諸王府説書侍講とし、崇政殿説書に用いることを請い、召対を得、また諫官とすることを請うた。蔡卞は丁度章惇と結託し、曾布はこれを傾けようとし、隙に乗じて哲宗に言上し、立が両人に附いているとし、因ってその行状の事を暴き、以て先帝を詆毀したと為した。帝は急ぎ史院に下して取り視せしめ、その不遜を言い、以て惇・卞を責めた。惇・卞は懼れ、立を貶することを請い、乃ち永州酒税監に貶黜した。

鄧綰

鄧綰、字は文約、成都双流の人。進士に挙げられ、礼部で第一となる。稍く職方員外郎に遷る。熙寧三年冬、寧州通判となる。時に王安石は君寵を得て専政し、時政数十事を条上し、以て宋興りて百年、安きに習い治を玩び、事に当たって更化すべしと為した。また上書して言うに「陛下は伊・呂の輔佐を得、青苗・免役等の法を作られ、民は聖沢を歌舞せざるは莫し。臣の見る所の寧州を以て観れば、一路皆然るを知り、一路を以て観れば、天下皆然るを知る。誠に世に稀なる良法、願わくは浮議に移されず堅く之を行われんことを」と。その言辞は王安石に媚びるものであった。また書を贈って頌し、極めて佞諛に及んだ。

王安石は神宗に推薦し、駅伝で召し出して対せしめた。丁度慶州に夏の寇があり、綰は敷陳甚だ悉く、帝が王安石及び呂惠卿について問うと、知らないと答えた。帝は「王安石は今の古人、恵卿は賢人なり」と言った。退いて王安石に会うと、欣然として旧知の如しであった。宰相陳升之・馮京は綰が辺事に練達しているとして、王安石が致斎に属する間に、また寧州知州とさせようとした。綰はこれを聞いて喜ばず、声を挙げて言った「急ぎ我を召したのに、乃ち還らせるのか」と。或る者が「君は今何の官に当たるか」と問うと、曰く「館職を失わぬであろう」「諫官ではあるまいか」と言うと、曰く「正に自ら然るべし」と。明日、果たして集賢校理・検正中書孔目房を除された。都にいる郷人皆笑い且つ罵ったが、綰は「笑罵は汝に従え、好官は須らく我が之を為す」と言った。

間もなく同知諫院となる。著わした『洪範建極錫福論』を献上した。帝は「『洪範』は天人・自然の大法、朕方や之を挙げて諸れを天下に措き、衆の弊を矯革せんと欲す。卿は淫朋比徳の人を堲ぎ、規を以て朕を助くべし」と言った。綰は頓首して曰く「敢えて学ぶ所を力行せずして、聖訓を奉ぜんや」と。明年、侍御史知雑事・判司農寺に遷る。

時に常平・水利・免役・保甲の政は、皆司農より出る。故に王安石は綰を藉りて衆を威した。綰は先ず府界において免役を行い、次いで諸道に及ぼすことを請うた。利州路は歳に銭九万六千緡を用いるが、転運使李瑜は三十万を率いた。綰は言うに「均役は本民を裕かにするため、今は却って聚斂に務め、寛余を積む、宜しく重く黜すべし」と。富弼は亳州に在って青苗銭を散ぜず、綰は吏に付して究治することを請うた。畿県の民が助役を訴え、詔してその便否を詢ねて両行せしめようとしたが、綰と曾布は輙ち堂帖を上還した。中丞楊絵は司農が繳奏するを得たと聞かずと上言したが、報いられなかった。凡そ呂公著・謝景温の置いた推直官・主簿を悉く罷去し、蔡確・唐坰を引いて御史とした。

五年の春、御史中丞に抜擢された。国朝の故事として、台雑が中丞となった例はなく、帝が特にこれを命じた。また龍圖閣待制を加えられた。建議して言うには、「近頃御史が罷免されても、なお省府の職司に任じられるのは、そもそも当初の選用が既に審らかであれば、議論が合わなくとも、人材を遺棄すべきではないからである。願わくは前後の諫官・御史で罪を得た者の姓名を記録し、順次に甄録し、進退の間に凡僚と少し異なる扱いをすれば、思慮を竭くすであろう」。

遼人が辺境の地について理を言い、兵を国境に駐屯させ、師を用いると声言した。そこで両河は戒厳し、かつ河北に城守の具を修めさせた。鄧綰は言う、「無益であるばかりか、大いに擾乱と費用を生む」。帝はその言に従って止めた。また言う、「遼が妄りに地の訴訟を起こすのは、我が国を窺う意図がある。去冬は兵を聚めて累月に及び、逡巡して自ら罷めた。その情偽は見える。今は堅強をもってこれを禦ぐべきであり、そうすれば二国の平を渝えず、平であれば彼は我を疑わず、我は遠慮を為すことができる。もし畏屈を先にすれば、彼は力を爭うであろう。それは大いに中国の恥となる」。帝は疏を覧めてこれを嘉した。

安石が去位すると、鄧綰は頗る呂惠卿に附いた。安石が再び相となると、鄧綰は前の行跡を彌縫せんとし、惠卿が華亭に田を置いた事を発し、陳州知州として出させた。また三司使章惇がその奸を協濟したと論じ、湖州知州として出させた。初め、惠卿の弟和卿が手実法を創った。鄧綰は言う、「凡そ民の養生の具は、日用にして家に有る。今ことごとく疏実させようとすれば、家には告訐の憂いがあり、人は隱匿の慮りを懐き、手足を措く所がない。商賈が貨財を通殖し、有無を交易するのは、服食・器用・米粟・絲麻・布帛の類に過ぎず、或いは春に有って夏に蕩析し、或いは秋に貯えて冬に散亡する。公家の簿書がどうして拘録できようか。その勢い犯さざるを得ない。ただ嚚訟の者が賞に趨き怨みに報いて相告訐し、畏怯の者が死を守り困を忍ぶのみである」。詔してその法を罷めた。翰林學士に遷り、なお中丞を為した。

鄧綰は安石が去って失勢することを慮り、上言して安石の子及び婿を録用し、なお京師に第を賜うべきだと述べた。帝が安石に語ると、安石は言う、「鄧綰は国司直でありながら、宰臣のために恩澤を乞う。極めて国体を傷つける。当に黜すべきである」。また彭汝礪を御史に薦めたが、安石は悦ばず、遽かに自ら失挙を劾した。帝は鄧綰が操心頗る僻く、賦性奸回であり、事を論じ人を薦めるに分守を循ねずとし、虢州知州として斥けた。一年余りして、集賢院學士・河陽知州となり、元豊中に、待制として荊南・陳・陝を知り、永興軍に徙り、青州に改めた。歳大いに稔り、斗粟五七錢と奏言した。帝はその佞を知り、提挙官に市価を酌んで奏聞させた。龍圖閣直學士に進み、鄧州知州となった。

元祐初め、揚州に徙った。言者がその奸を論じ、滁州に改められたが、鄧を去らぬうちに卒した。年五十九。子に洵仁・洵武がいる。洵仁は大観中に尚書右丞となった。

鄧綰の子 洵武

洵武、字は子常、進士に及第し、汝陽簿となった。紹聖中、哲宗が召して対し、秘書省正字・校書郎・國史院編修官となり、『神宗史』を撰した。議論は専ら蔡卞を右とし、宣仁后を誣ることに特に切で、史禍の起こるは、その力が多かった。起居舍人に遷った。

徽宗の初め、秘書少監に改めた。既にして蔡京の推薦を用い、史職に復した。御史陳次升・陳師錫が言う、「洵武の父綰は熙寧の時に曲めて王安石に媚び、神宗はその邪僻奸回を数えた。今洵武を太史に置くのは、どうして公心直筆を以て神考の盛徳を発揚し、その父の悪を掩わないことができようか。かつ其人材凡近にして、学問荒繆、この選を汚すに足りない」。聴かなかった。起居郎に遷った。

時に韓忠彥・曾布が相となっていた。洵武は対して言う、「陛下は先帝の子である。今の相忠彥は韓琦の子である。先帝は新法を行って民を利し、韓琦は嘗てその非を論じた。今忠彥が相となり、先帝の法を更えるのは、忠彥は父の志を継ぐことができ、陛下はできないということである。必ず志を継ぎ事を述べようとすれば、蔡京を用いなければならない」。京は外鎮に出ていたが、帝は未だ復用の意がなかった。洵武は帝に言う、「陛下が方に先志を紹述しようとされるに、群臣に助ける者がない」。乃ち『愛莫助之圖』を作って献じた。その図は『史記しき』の年表の如く、旁行七重を列べ、左右に別け、左を元豊、右を元祐とし、宰相・執政・侍従・臺諫・郎官・館閣・学校各々一重とする。左の序は紹述を助ける者で、執政中は温益ただ一人、余は三四に過ぎず、趙挺之・范致虛・王能甫・錢遹の属のみ。右の序は挙朝の輔相・公卿・百執事皆在り、百数に及ぶ。帝は曾布に示し、左方の一姓名を揭き去った。布が問うと、帝は言う、「蔡京である。洵武はこの人を相としなければならないと言い、卿と異なるので去った」。布は言う、「洵武が既に臣と見る所異なるなら、臣安んぞ敢えてめ議せん」。明日、温益に改めて付すと、益は欣然として奉行し、異論者を籍することを請うた。ここにおいて決意して京を相とした。洵武を中書舍人・給事中兼侍講に進め、『哲宗實録』を修撰させ、吏部侍郎に遷した。

洵武が疏を上言した、「神宗は古を稽へ官を建て、既に省・臺・寺・監の職を正し、寄祿階を以て空名を易えた。今選にある七階は、両使判官より主簿・尉に至り、安州雲夢県を知る帯びて河東幹當公事を為す者あり、河中司録参軍にして楚州塩場を監する者あり、瀛州軍事推官・大名府元城県を知り濮州教授を充てる者あり、殽乱紛錯、これより甚だしきはない。謂わく、新名を造り、因って禄を制すべし」。詔して悉くこれを更えた。刑部尚書に遷り、また初出官人に刑法試を兼用させ、吏たるの方を知らしめることを請うた。崇寧三年、尚書右丞を拝し、左丞・中書侍郎に転じた。

妖人張懷素の獄が起こり、その党に洵武と連昏する者があり、坐して随州知州として出された。明道宮を提挙し、復た端明殿學士となり、亳州・河南府を知り、中太一宮使に召され、連ねて観文殿學士に進み、大名尹となった。政和中、夏祭に、入って祠に侍した。佑神観使兼侍読を以て留まって国史を修し、保大軍節度使に改めた。未だ幾ばくもなく、樞密院を知った。

五谿の蠻が辺境を擾した。即ち陝西の弓箭手の制に倣い、辺民で溪洞の険易を習知する者を募り、司を置いて戦陣を教え、耕牧を勧め、勝兵幾万を得てこれを鎮撫した。特進に遷り、少保を拝し、莘国公に封ぜられ、恩典は宰相の如くであった。宣和元年、薨じ、年六十五、太傅を贈られ、諡して文簡といった。

鄧氏は綰以来、世々その奸を濟し、洵武は二蔡に阿ることに特に力を入れた。蔡京が天下を敗乱させた禍源は洵武に起こる。

李定

李定、字は資深、揚州の人なり。少くして王安石に学を受く。進士に及第し、定遠尉・秀州判官となる。熙寧二年、孫覺之を薦め、召されて京師に至り、諫官李常に謁す。常問うて曰く、「君南方より来る、民青苗法を何如と謂うや」と。定曰く、「民之に便し、喜ばざる者なし」と。常曰く、「挙朝方に是の事を争う共にす、君此の言を為す勿れ」と。定即ち往きて安石に白し、且つ曰く、「定但だ実に拠りて言うを知るのみ、京師乃ち許さざるを知らず」と。安石大いに喜び、之に謂いて曰く、「君且く見ゆるを得ん、何ぞ上に之を道わざるや」と。立って対すを薦む。神宗青苗の事を問う、其の対曩の言の如し、ここに於て諸新法の便ならざるを言う者、帝皆聴かず。命じて定をして諫院を知らしむ。宰相言う、前に選人の諫官を除くの比無しと、遂に拝して太子中允・監察御史裏行とす。知制誥宋敏求・蘇頌・李大臨制書を封還し、皆罷め去る。

御史陳薦疏す、「定頃に涇県主簿と為り、庶母仇氏の死を聞き、匿して服せざるを為す」と。詔して江東・淮・浙転運使に下して状を問わしむ。奏して云く、「定嘗て父の年老を以て、帰り侍養を求む、生母に服する所を持つと云わず」と。定自ら弁言す、実に仇の生む所たるを知らず、故に疑いて敢えて服せず、而して侍養を以て官を解く、と。曾公亮謂う、定まさに追いて服を行うべしと。安石力を之に主とし、改めて崇政殿説書と為す。御史林旦・薛昌朝言う、孝ならざるの人を以て勧講の地に居らしむるに宜しからずと、並びに安石を論ず。章六七上る、安石又白して両人を罷めしむ。定亦自ら安からず、職を解かんことを蘄い、集賢校理・検正中書吏房・直舎人院同判太常寺を以てす。八年、集賢殿修撰を加え、明州を知る。

元豊初、召して拝して宝文閣待制・同知諫院とし、進めて知制誥と為し、御史中丞と為す。蘇軾の『湖州謝上表』を劾し、其の語を擿げて侮慢と為し、因って軾の熙寧以来より、文章を作し、君父を怨謗し、戚里に交通するを論ず。逮えて台獄に赴き窮治す。まさに赦に会うべし、論じて已まず、之を黄州に竄す。方に定自ら軾の獄を鞫く、勢い回らすべからず。一日、崇政殿門外に於て同列に語りて曰く、「蘇軾は乃ち奇才なり」と。俱に敢えて対せず。

六案糾察の職を復すを請い、並びに諸路の監司皆鉤考を得べしと、之に従う。彗東方に出づ、直言を求め、太史兵変有りと謂う。帝命じて宦者をして衛士の飲食を視さしむ。定言う、一飯恩を市うに足らず、適に小人の心を起こすに過ぎずと、乃ち止む。或いは明堂の祀を廃するを議す。帝以て定に訪う。定曰く、「三歳一郊或いは明堂、祖宗以来、未だ之を改むる有らず。誰か此の言を為す、願わくは其の妄を治めん」と。帝曰く、「卿の言を聴く足る」と。遷して翰林学士と為す。府界の養馬の事を論じて失実に坐し、罷めて河陽を知り、南京を留守し、召されて戸部侍郎と為す。哲宗立ち、龍図閣学士を以て青州を知り、江寧府に移る。言者争って其の前過を暴き、又滁州に謫居す。元祐二年、卒す。

定宗族に恩有り、財を分かち振贍し、家に余貲無し。任子を得て、先ず兄の息に及ぶ。死の日、諸子皆布衣なり。徒に王安石に附するを以て驟に美官を得、又蘇軾を罪に陥る。是を以て公論之を悪み、而して不孝の名遂に著わる。

舒亶

舒亶、字は信道、明州慈溪の人なり。礼部を試みて第一、臨海尉に調う。民酒を使い後母を詈逐し、亶の前に至る。命じて之を執らしむ、服せず、即ち自ら起ちて之を斬り、劾を投じて去る。王安石国を当る、聞きて之を異とし、御史張商英亦其の材を称し、用いて審官院主簿と為す。熙河に使い田を括り、績有り、奉礼郎に遷る。鄭侠既に貶せられ、復逮えらる。亶命を承けて往き捕らゆ、之に陳に遇う。侠の篋を捜し、録する所の名臣の諫草を得、新法の事を言う及び親朋の書尺有り、悉く姓名を按じて之を治め、侠を嶺南に竄し、馮京・王安国諸人皆罪を得。亶を擢て太子中允・提挙両浙常平と為す。

元豊初、権監察御史裏行。太学官賂を受け、事聞こゆ。亶詔を奉じて験治す。凡そ辞語微かに及ぶ者、輒ち株連して考竟し、多きを以て功と為す。集賢校理を加う。李定と同しく蘇軾の歌詩を作して時事を議訕するを劾す。亶又言う、「王詵の輩公に朋比を為し、盛僑・周邠の如きは固より論ずるに足らず、若し司馬光・張方平・范鎮・陳襄・劉摯は、皆略能く先王の言を誦説し、而して懐く所此の如し、置いて誅せざるべけんや」と。帝其の言の過ぐるを覚り、但だ軾・詵を貶し、而して光等は罰金す。

未だ幾ばくもあらず、同修起居注、改めて知諫院と為す。張商英中書検正と為り、亶に手帖を遺し、子婿の為す所の文を示す。亶具に以て白し、云く商英宰属として言路に干請すと。坐して江陵の税を監するを責む。始め、亶商英の薦を以て用いらるるを得、是に及び、反って之を陥る。進めて知雑御史・判司農寺、超えて拝して給事中・権直学士院。月を踰え、御史中丞と為す。挙劾多く私し、気焰熏灼し、見る者側目す、独り王安礼を憚る。

亶翰林に在り、厨錢を受け法を越ゆ。三省以て聞こゆ、事大理に下る。初め、亶言う、尚書省凡そ奏鈔の法まさに籍を置き、其の事目を録すべしと。今違法して録せず、既に案奏し、乃ち漫りに発放歴を以て録目の籍と為す。亶以て大臣の欺罔と為す。而して尚書省台中の受事籍を取って之を験す、亦録目無し。亶遽かに他の文書を雑えて省に送る。ここに於て執政復其の欺を発す。大理厨錢の事を鞫し、亶を誤と謂う。法官呉外厚之を駁す。御史楊畏言う、亶の受くる文籍具在り、承わざるの理無しと。帝曰く、「亶自ら盗みて贓と為すは、情軽くして法重し。詐りて録目と為すは、情重くして法軽し。身執法たりて、詐妄此の若くは、安んぞ置くべけんや」と。命じて両秩を追い勒停せしむ。亶比歳獄を起こし、好んで疑似を以て士大夫を排抵す。微罪に坐して廃斥せらるるも、然れども遠近快しと称す。十余年、始めて通直郎に復す。

崇寧初、南康軍を知る。辰溪の蛮叛く。蔡京使いて荊南を知らしめ、辺を開くの功を以て、直龍図閣より進みて待制と為す。明年、卒す。直学士を贈る。

蹇周輔

蹇周輔、字は磻翁、成都双流の人なり。少くして范鎮・何郯と布衣の交わりを為す。年未だ冠せず、大廷を試み、第せず。鎮・郯既に貴達し、周輔始めて特奏名し、再び進士に挙げられ、宜賓・石門二県を知り、安粛軍を通判し、御史台推直官と為る。訊鞫に善くし、微隠を鉤索し、皆智を用いて情を得。嘗て詔獄有り、事掖庭の掌宝侍史に連なり、它司累月決する能わず、乃ち周輔を命ず。追逮すべからざるを度り、奏請して要辞を以て主者に示し詰服せしむ。時に以て体を知ると為す。及び李逢の獄を治め竟り、台臣雑治して異辞無し。神宗其の能を称し、擢て開封府推官と為し、出でて淮南転運副使と為す。盗廖恩党を閩中に聚め、多く兵吏を害す。改めて福建に使い、諸将を護りて以て之を討たしむ。恩遂に降る。

元豐の初め、唐の制度に従い、諸官庁の獄事を大理寺に帰属させ、選ばれて少卿となり、三司度支副使に遷る。先に、湖南は例として淮塩を食していたが、周輔が初めて広塩数百万石を運び、郴州・全州・道州に分売することを請う。また淮塩を増配して潭州・衡州などの諸郡に配し、湘中の民は愁苦困窮し、法が既に行われると、遂に度支に属することとなる。集賢殿修撰を以て河北都転運使となり、宝文閣待制に進み、召されて戸部侍郎・知開封府となるも、事多く決せず。中書舎人を授けられるも拝せず、刑部侍郎に改める。元祐の初め、言事者がその江西・福建塩法を立て、搾取欺瞞し、公に背き民を擾したことを暴き、罷めて和州知州となる。廬州に移る。卒す、年六十六。

周輔は学を強く志し、文を属するに善く、神宗嘗て『答高麗書』を作るを命じ、屡々善しと称す。吏として深文刻覈、故に老いて罪を得たり。子に序辰あり。

周輔の子 序辰

序辰、字は授之、登第後数年、泗州推官を以て広西常平を主管す。周輔方に閩に使し、上言して父子並びに遠方に命を祗け、家託する所無し、一近地に改むるを蘄う。乃ち京西に易え、旋って江西常平を提挙し、父の塩法を行い継ぐ。監察御史となり、殿中侍御史・右司諫に遷る。哲宗立ち、司封員外郎に改む。周輔罪を得、序辰其の悪を成すを以て、降って簽書廬州判官となる。起きて楚州知州となり、江東刑獄を提点す。

紹聖中、左司員外郎に遷り、起居郎・中書舎人・同修国史に進む。疏を上りて言う、「朝廷前日司馬光等の奸悪を正し、其の罪罰を明らかにし、以て中外に告ぐ。惟だ典刑を変乱し、法度を改廃し、宗廟を讟し、両宮を睥睨するは、事を観言を考うるに、実状彰著なり、然れども蹤跡深秘、禍心を包蔵し、相去ること八年の間、蓋し已に究質すべからず。其の章疏案牘、有司に散在し、若し彙緝して之を蔵せざれば、歳久必ず淪棄に致さん。願わくは悉く奸臣の行い言う所を討ち、官を選び編類し、一帙に入れ、一府に置き、以て天下後世の大戒と示さん。」遂に序辰及び徐鐸に編類せしむ。是より縉紳の禍、一も脱する者無し。礼部尚書に遷り、安惇と訴理の事を看詳す。遼国に奉使して状無きを以て、黜けて黄州知州となる。四月を閲し、龍図閣待制・揚州知州を除く。

徽宗立ち、中書序辰の元祐章牘を類し、語言を傅致し、謗訕と指すを言う。詔して惇と並びに除名勒停し、放ちて田里に帰す。蔡京相と為り、復た刑部・礼部侍郎を拝し、翰林学士となり、承旨に進む。先帝の遏密中に音楽を以て自ら娯しましむる有りと言う者あり、黜けて汝州知州となる。二年、蘇州に移る。部民の盗銭を縦すに坐し、単州団練副使に謫せられ、江州に安置す。又た蘇州を守る時、天寧節其の父の忌日に同じく、輒ち前一日に宴を設け、及び節日に楽を張らざるに坐し、永州に移す。赦に会い、官を復たし中奉大夫、遂に卒す。序辰亦た文有り、傅会に善く、深文刻覈、其の父に似たりと云う。

徐鐸

徐鐸、字は振文、興化莆田の人。熙寧進士第一、簽書鎮東軍判官、紹聖末、給事中を以て学士院を直す。蹇序辰元祐諸臣の章牘事状を編類するを建議し、詔して鐸同じく之を主たる。凡そ一時施行の文書、攈拾附著し、纖悉遺さず。礼部侍郎に遷る。鐸云く封駁と雖も、是の時凡そ給事中肯て書読せざる者は、輒ち命じて代わりに行わしむ。貢院挙人の書を挟むを獲、開封尹蔣之奇徒を以て罪を定めんとす、鐸争いて不可とし、之奇軽きに比するに従う。既に省に上る、章惇怒り、府吏を罰し、挙人竟に刑に坐し、鐸復た敢えて言有ること無く、衆伝えて以て笑いと為す。後御史中丞を除くを議し、或いは此の事を摭て以て執持する所無しと為し、乃ち止む。

徽宗立ち、龍図閣待制を以て青州知州となる。御史中丞豊稷鐸の事状を編類し、率ね章惇の好悪を視て軽重と為し、存歿の名臣、横に竄斥を罹るを論じ、序辰既に放ちて田里に帰す、鐸の罪其の下に在らざる無し。詔して職を落として湖州知州となる。崇寧中、礼部尚書を拝す。方に廟制を議す、鐸九室に増すを請う。議者已に祧したるの主復た祔すべからずを疑う、鐸言う、「唐の献祖・中宗・代宗と本朝の僖祖は、皆嘗て祧して復す、今宜しく宣祖を当に祧すべきに存し、翼祖を已に祧したるに復し、礼称わざる無し。」之に従う。吏部尚書に進み、卒す。

論じて曰く、士学を己が為さずして、俯仰時に随い、皋を挈きて井上に居くるが如く、其の朝に立ちて撓がざるを求むるは、得べからざるのみ。常秩嘉祐・治平の時、三たび羔雁の聘を辞し、若くは隠居して以て其の志を求むる者の如し、及び王安石事を用うるに、一たび召せば即ち至り、容容として歴年、曾て一の嘉謨無くして、窃かに顕位に竊る。定之の党附、亶之の凶徳に至りては、宜しく世の指名する所と為すべし。綰及び周輔の二家、父子並びに同じく悪を相い済し、而して序辰と鐸事状を編類し、元祐の名臣に流毒し、忠義の士、之が為に一空し、馴て靖康の禍に致る、勝げて歎ずべけんや。

王広淵

王広淵、字は才叔、大名成安の人。慶曆中、曾祖『明家集』を上り、詔して其の後に官す、広淵推して弟広廉に与え、而して進士を以て大理法直官・編排中書文字と為る。祖宗の御書千巻を裁定し、仁宗之を喜び、以て舒州知州と為すも、留まりて行かず。

英宗藩邸に居る、広淵因りて見昵され、為す所の文を献じ、及び即位す、直集賢院を除く。諫官司馬光言う、「漢のえい綰太子の飲に従わず、故に景帝之を厚く待つ。周の張美私に公銭を以て世宗に給す、故に世宗之を薄くす。広淵交結奔競、世に与に比ぶる無く、仁宗の世に当たり、私自ら陛下に託す、豈に忠臣ならんや?今当に其の罪を治むべく、而して更に之を賞す、何を以て人臣の節を厲さん?」帝聴かず、用いて群牧・三司戸部判官と為し、従容として謂いて曰く、「朕『洪範』に高明沈潜の義を得、剛内に以て自ら強く、柔外に以て物に応ず、人君の体、是に出ずる無し。卿朕が為に之を欽明殿の屏に書き、以て観省に備えよ、開元の『無逸図』に非ざるのみ。」直龍図閣を加う。帝疾有り、中外憂疑し、寝食すること能わず、帝自ら詔を為りて之を諭して曰く、「朕疾少しく間あり。」広淵衆に宣言す。

神宗立ち、言事者其の禁中の語を漏泄するを劾し、出でて斉州知州となり、京東転運使に改む、内省に於いて章奏を伝達するを得る。曾公亮・王安石持して不可とし、乃ち止む。広淵方に春農事興りて民苦しみ乏しむに、兼併の家以て急に乗じ利を要するを得、本道の錢帛五十万を留め、之を貧民に貸すを乞い、歳に息二十五万を獲べしとす、之に従う。其の事青苗銭法と合い、安石始めて以て用うべしと為し、京師に召す。御史中丞呂公著其の旧悪を摭い、故官に還す。程顥・李常又た其の抑配掊克し、朝廷の旨意を迎えて以て百姓を困らすを論ず。会に河北転運使劉庠青苗銭を散ぜざる奏適至る、安石曰く、「広淵力主して新法にして劾に遭い、劉庠故に新法を壊して問わず、事を挙ぐること此の如く、安んぞ人に向背無からんや?」故に顥と常の言行われず。河東に使を徙し、宝文閣待制・慶州知州に擢でらる。

宣撫使が軍を起こして夏の境に入り、慶に檄を飛ばして兵を合わせさせようとした。ちょうど甲冑を授けようとした時、卒長の呉逵が兵を率いて乱を起こしたので、広淵は急ぎ五営の兵を召集してこれを防いだ。逵は二千人を率いて関を斬って出奔し、広淵は部将の姚兕・林広を遣わして追撃させ、その兵を降伏させた。柔遠三都の戍卒が賊に応じようとしたが果たせず、広淵は表面上労って、彼らを帰還させて戍守させたが、密かに兵を間道から派遣して邀撃し、ことごとくこれを殺戮した。それでもなお、盗賊が管轄区域で発生したことを理由に、二階級を削減された。二年、龍図閣直学士に進み、渭州知州となった。

広淵は小才があり、よく権勢に附会したが、辟召して任用した者は概ね適任ではなかった。帝は執政に言った、「広淵が奏上して辟召した将佐は、貴遊の子弟でなければ、胥史の輩であり、濮宮の書吏までも選に預かっている。これはその人が時君卿と親しいからである。一路の官吏は少なくないのに、置いて採用せず、かえってこの輩を用いるとは、朝廷の事を誤らせないか。すでに詔を下して厳しく責めたが、卿らは書を送って戒めよ」。卒去、年六十、右諫議大夫を追贈された。元豊初年、詔して、先帝に遇せられた縁故により、弟の臨を皇城使から兵部郎中・直昭文館に抜擢し、子の得君に進士出身を賜った。

広淵の弟 臨

臨は字を大観といい、これも進士より起家し、雄州判官を簽書した。嘉祐初年、契丹の汎使が到来し、朝廷の議論は応対を疑ったが、臨は言った、「契丹は今まさに飢困している、何ができようか。しかし『春秋』の許与の義は、謹まざるを得ない。彼らはかつて馴象を求めたが、拒むべきでありながら拒まず、かつて楽章を求めたが、与えるべきでありながら与えず、両方とも失った。今、横使が来たのは、聖像を求めるためだという。聖像は果たして与えるべきであろうか」。朝廷はその議を善しとした。治平年中、詔して武略を求め、近臣の推薦により、屯田員外郎から崇儀使に換えて順安軍知軍となり、河北沿辺安撫都監に改めた。備禦の策数十を上奏し、大略はみな自ら治めることのみであった。

契丹が両輸人を刺して義軍とし、帰順して来る者が数万に及んだ。ある者がこれを送還するよう請うたが、臨は言った、「彼らが我に帰順したのに送り返せば、必ず乱を起こすであろう。むしろこれに乗じて撫でるのがよい」。詔してその請いに従い、これより来る者がますます多くなり、契丹は失策を悔いた。安撫副使に進み、涇州・鄜州の知州、広信軍・安肅軍の知軍を歴任した。

召されて対し、文階に還り、斉州・滄州・荊南の知州となり、入朝して戸部副使となり、宝文閣待制として広州府・河中府の知事となり、卒去した。

王陶

王陶は字を楽道といい、京兆府万年県の人である。進士に及第し、太常丞に至って父の喪に服した。陶は登朝が郊祀の後であったため、恩が親に及ばず、遷した官を返還し、追贈を請うた。詔して特にこれを聴し、なお喪明けを待って、太子中允を除した。

嘉祐初年、監察御史裏行となった。衛卒が延福宮に入って盗みを働いたが、有司は疏決の恩赦を引き合いに出してその罪を減じた。陶は言った、「禁省の厳重さは、外間の会赦による減刑と比べるべきではない」。そこで賊を諸海島に流し、主管者をみな罰した。中貴人が煉丹者を導いて禁廷に入れたが、陶は言った、「漢・唐の方士で、黄金を化し、年寿を益すと称して人主を惑わした者は、後みな誅戮された。これを出させるよう請う」。陳升之が枢密副使となったが、その不当を論じ、升之が去ると、陶もまた衛州知州となり、蔡州知州に改まった。翌年、ふたたび右正言として召された。陶は言った、「臣は四人とともに郡に補せられたが、今ただ二人が召されている。唐介・呂誨らを併せて還すよう請う」。

英宗が宗正寺を領することになったが、一年を過ぎても就職しなかった。陶は上疏して言った、「至和年中に聖躬が違豫されて以来、天下は顒顒として、寄命する所なく、交章抗疏して、早く宗室の親賢を択び、儲嗣を立てるよう請い、危言切語、天を動かし人を感ぜしめた。この議をなす者は、みな不忠不孝を懐き、奸利に附託する人であろうか。至誠より発し、宗廟社稷の無窮の大計を念ずるのみである。陛下は民の欲に順い人心を安んぜられたので、親しく徳音を発し、鋭くこの挙を行い、中外の揺揺たる心は、一朝にして定まった。その後、浸潤して稽緩し、憂疑を免れようか。流言に、事が嬪御・宦侍の姑息の言葉によるというものがあるが、聖意はそれによって惑わされたのであろう。婦人近幸が、どうして遠図を識らんや。臣は恐れる、海内の民庶が、陛下が始めは天意民心に順って命じられたのに、今は左右の姑息の言を聴いて疑われたと言い、遠近の奸邪に間隙を窺わせることを。惜しまれないであろうか」。そこで対面を請うたところ、仁宗は言った、「今は別に一名目を与えよう」。まもなく韓琦が決策し、ついに皇子として立てられた。英宗が即位すると、直史館・修起居注・皇子位伴読・淮陽潁王府詡善・知制誥を加えられ、龍図閣学士に進み永興軍知軍となり、召されて太子詹事となった。

神宗が立つと、枢密直学士に遷り、御史中丞に拝された。郭逵が枢密を簽書して陝西を宣撫することになったが、詔して都に還るよう命じた。陶は言った、「韓琦が逵を二府に置き、ついには太祖の故事を用いて、出師して人主を劫制するに至った。琦には必ず奸言があって聖徳を惑乱している。逵を罷めて渭州とすべきである」。帝は言った、「逵は先帝が用いた者で、今罪なくしてこれを黜すれば、先帝の用人の失を顕わすことになる。不可である」。陶は思いを遂げられないと、ついに琦が文徳殿の常朝班を押さないことを奏劾した。陶は初め琦に知遇を受け、急に奨め抜擢された。帝は初めて臨御し、執政の専断を頗る悦ばず、陶は必ず大臣を易置するだろうと見込み、自ら重位を図ろうとしたので、琦を仇のように見なし、力を尽くしてこれを攻撃し、琦は門を閉じて罪を待った。帝は陶を翰林学士に転じ、まもなく陳州知州に出し、入朝して権三司使とした。呂公著がその反覆して近づくべからざることを言い、また侍読学士として蔡州知州となり、河南府・許州・汝州・陳州の三州を歴任し、東宮の旧臣として観文殿学士を加えられた。帝は終にその人となりを薄くし、ふたたび用いなかった。元豊三年、卒去、年六十一、吏部尚書を追贈され、諡して「文恪」といった。

陶は微時に貧苦しめられ、京師に寓居して小学を教えていた。その友の姜愚は気性豪壮で施すことを楽しみ、一日大雪の折、陶が母を養い寒餒しているのを思い、鍤を担いで雪を剗き、二十里を行って訪ねた。陶の母子は凍えて坐り、日が高くなっても炊煙が上がらない。愚は急いで身に着けていた錦裘を解き、質に入れて銭を得て酒肉・薪炭を買い、ともに火に附いて飲食し、また数百千を捐げて彼のために娶わせた。陶が貴くなってから、洛陽らくようの尹となった時、愚は老いて失明し、衛州新郷から往って謁見したが、陶が必ず旧を思い己を哀れむだろうと期待した。陶は彼に対し邈然として、ただ酒を出しただけだった。愚は大いに失望し、帰って病没した。聞く者はますます陶の人となりを薄くした。

王子韶

王子韶は字を聖美といい、太原の人である。進士に及第したが、年齢が冠に達していないため守選し、ふたたび太学に遊学し、久しくしてようやく調を得た。王安石が条例司に引き入れ、監察御史裏行に抜擢し、出て明州の苗振の獄を按察した。安石は祖無択を憎んでいたので、子韶はその意を迎え、無択が杭州にいた時の事を発し、京師から逮対させ、苗振の獄は張載に委ね、無択はついに廃された。中丞の呂公著らが新法を論じ、一台ことごとく罷免された。子韶は上元県知県に出され、湖南転運判官に遷った。御史の張商英が父母を葬らないことを弾劾し、高郵県知県に貶された。司農丞から両浙常平を提挙した。入朝して対し、神宗と字学を論じ、留まって資善堂修定『説文』官となった。官制が行われると、礼部員外郎となり、省に入るのが後期したため、庫部に改まった。

元祐年間、吏部郎中・衛尉少卿を歴任し、太常少卿に遷る。諫官の劉安世が言うには、「熙寧初年、士大夫に『十鑽』の目録があり、子韶は『衙内鑽』と呼ばれ、要人の子弟と交結し、刀の鑽のように鋭いことを指す。また祖無擇を深文に陥れ、搢紳の共に鄙薄するところであり、どうして礼楽の地を汚すべきであろうか」と。衛尉卿に改める。安世が再び言うには、「七寺の正卿は少常の上に位し、弾撃によって超遷を得るのは、僥倖を開くものである」と。そこで滄州知州として出される。入朝して秘書少監となり、遼使を迎え伴うが、部下に苛酷で、軍吏が酒に酔って刃物で子韶とその子を傷つけた。また済州知州として出され、先烈を追復して後法に遺すことを乞う建言をし、再び太常少卿として召され、秘書監に進み、集賢殿修撰・明州知州に拝され、卒す。崇寧二年、子の相が元祐中に上疏した草稿を録して朝廷に聞かせ、詔して顕謨閣待制を贈られた。

何正臣

何正臣、字は君表、臨江軍新淦県の人。九歳で童子挙に挙げられ、出身を賜り、また進士第に及第する。元豊年間、蔡確の推薦により、御史裏行となる。そこで李定・舒亶とともに蘇軾を論じ、五品服を得、三班院を領す。ちょうど正御史が六察を専らにすることとなり、正臣は言う、「幸いに言路に備え、濁りを激し清きを揚げることを職とすべく、他の曹を兼ねて治めるべきではない」と。神宗はこれを善しとし、御史の兼局を悉く罷めさせ、正臣は三班を解き、直集賢院を加えられ、侍御史知雑事に擢でられる。

韓存寶が瀘夷を討って功なく、その獄を治めることを命じられ、逗撓の罪を被せてこれを誅する。還り、宝文閣待制・審官東院知事に除され、尚書省が建てられて吏部侍郎となる。一年余りして、職務に怠慢で、銓擬に多く牴牾あり。事が聞こえ、制法が善くないことを以て弁解する。王安禮が言う、「法が善くないのは、有司が請うべきところであり、どうして法に帰罪できようか」と。そこで潭州知州として出される。時に詔して州県に民に家財を以て塩と易えることを聴かせ、吏が施行を誤ることがある。正臣はその害を条上し、民に益なく、また国用を助けるに足りないと謂い、遂にこれを止め、民は便利とした。後に刑部侍郎・宣州知州を歴任し、卒す。

陳繹

陳繹、字は和叔、開封の人。進士第に及第し、館閣校勘・集賢校理となり、『前漢書かんじょ』を刊定し、母の喪に服すとき、詔して家で讎校させる。英宗が政に臨み淵默なるに、繹は五箴を献じ、主断・明微・広度・省変・稽古と曰う。同判刑部となり、獄訟に情と法が相忤うものがあれば、これを讞する。ある者が言う、刑曹はただ正しいか否かを知るのみで、軽重を加えるべきではないと。繹は言う、「法を執る者は審允を貴び、心に失刑を知りながら、どうして坐視できようか」と。これにより多く平反する。帝はその文学を称え、実録検討官とする。

神宗が立つと、陝西転運副使となり、入朝して直舎人院・修起居注・知制誥となり、翰林学士に拝され、侍講学士として鄧州知州となる。繹は閨門を粛にできず、子と婦が一夕のうちに卒伍の手に共に殞ち、傲然として慚色なし。召されて通進銀臺司知事となり、帝は輔臣に語り、「繹は事を論ずるに権貴を避けず」と。権開封府を命ずる。時に獄に小疑あれば、輙ち中覆に従うが、繹に至っては、特便宣に処決することを聴かせる。久しくして、翰林に還り、仍府を領す。司農吏が庫銭を盗む獄を治めて未だ竟わざるに、中書検正の張諤が寺事を判じ、失察を懼れ、帖を以て稽留を詰む。繹は吏を遣わして成牘を示し、言者はその宰属に徇い、有罪を縱すことを論じ、滁州知州として出される。郊祀の恩により、再び知制誥となり、言者が再びこれを論じ、秘書監・集賢院学士を得る。

元豊初年、広州知州となる。庫に檀香の佛像あり、繹は木を以てこれを易える。事が覚り、有司は官物に剩利ありと当てる。帝は言う、「これは事仏を以て重典に麗すものである」と。時に繹は既に龍圖閣待制を加えられ、江寧府知事となっていたが、乃ち建昌軍に貶し、その職を奪う。後に太中大夫を復して卒し、年六十八。

繹は政を務めて豪党を摧くが、行いと外貌は違ひ、暮年には謬りて敦樸の状を為し、好事者は目して「熱熟顏回」とす。

論じて曰く、王廣淵は仁宗の時に、近昵に因り英宗の潜邸に文を献じ、固より既に功名を窃取するの心あり、蓋し臣として不忠なる者は、侍従に列すれども、何ぞ足らんや道うに。王陶は始め韓琦に知られ、御史の時は頗る能く時政を譏切す、及中丞となるや、則ち風旨を承望し、琦を攻むること仇讎の如く、自ら重位を取らんと欲し、その姜愚の布衣の義を忘るるは、又た責むるに足らず。王子韶の祖無擇を陥るる、何正臣の蘇軾を論ずるは、皆小人の名を盗むなり。陳繹は用事に希合し、固より道うに足らず、然れども獄事に於いて多く平反す、惜しむらくは閨門粛ならず、廉恥並びに喪ひ、吏事に明曉すれども、亦た何をか取らん。