宋史

列傳第八十四 劉平 任福 王珪 武英 桑懌 耿傅 王仲寶

劉平

劉平、字は士衡、開封祥符の人である。父の漢凝は、太宗に従い河東の岢嵐・憲州に征し、累遷して崇儀使となった。平は剛直で任侠を好み、弓馬に優れ、書を読んで強記した。進士に及第し、無錫尉を補し、賊を撃って五人を殺し、大理評事に擢げられた。鄢陵県を知り、南充に移った。夷人が淯井監を寇すと、轉運使は平に瀘州の事を權せしめ、平は土丁三千を率いてこれを撃退した。汾陰に祠り、本寺丞に遷った。還る途、安州にて賊十数人に遇い、平は矢を発して三賊を斃し、残りは驚き散った。寇準の推薦により、殿中丞・知瀘州となり、夷人は前の敗れを懲り、敢えて辺境を擾さず。

召されて監察御史に拝され、数度上疏して事を論じ、丁謂に忌まれた。久しくして、三司鹽鐵判官・河北安撫を除し、殿中侍御史・陝西轉運使に改めた。副使と事を論じて合わず、知襄州に移る。仁宗即位の時、侍御史に遷った。

初め、真宗はその才を知り、将に用いんとした。丁謂が隙に乗じて言うには、「平は将家の子、平素より兵を知る。若し西北を将せしめば、以て敵を制すべし」と。後に章獻太后は謂の言を思い、特に衣庫使・知邠州に改めた。属戸の明珠・磨糜族が数度反覆するに属し、平は潜かに兵を発し数千人を殺し、功により賓州刺史・鄜延路兵馬鈐轄を領し、涇原路に移り、兼ねて渭州を知った。胡則が陝西都轉運使となると、平は奏して言う、「則は丁謂の党なり。今則の部に隷するは、掎摭されて罪を致すを慮る」と。汝州に移し、淮南・江浙・荊湖制置發運副使に改め、数駅を行き、召し還されて、真に信州刺史・知雄州を拝した。四年居り、忻州團練使・知成徳軍に遷る。

景祐元年、龍神衛四廂都指揮使・永州防禦使・知定州を拝し、環慶路副都總管に移り、侍衛親歩軍都虞候に進む。奏して言う、「元昊勢として将に叛かんとす、宜しく厳にこれを備うべし」と。尋いで酒に酔い鎖を破り甲仗庫に入った罪に坐し、轉運使蘇耆に劾せられ、管軍を落とし、知同州となる。上疏して自ら列ね、召し入れて状を問われ、復た歩軍都虞候・知澶州となった。時に河を塞ぐを議すれど、平は河の事を知らずと言い、乃ち滄州副都總管に移る。

時に呂夷簡が宰相たり、臺諫官数度政事の闕失を言う。平は書を奏して曰く、「臣は范仲淹等が大臣を毀訾するを見る。此れ必ず要人ありて旨を仲淹の輩に授け、大臣を逐いて其の位に代わらんと欲する者なり。臣は真宗朝に御史たりし時を顧みるに、当時の同列に、未だ奸邪の党与詐忠売直して、為す所此の若きあるを聞かず。臣は小臣の浅文薄伎を以て、偶々顕用に致り、朝廷の典故を識らずして、事を論ずるに浸淫し、遂に管軍の将校に及ぶを慮る。且つ武人の進退は、儒臣と路を異にす。若し短長を掎摭し、妄りに挙劾有らば、則ち心動揺し怨み結ぶなり。願わくは明らかに臺諫官を諭し、職を越えしめず、仍お更に相引薦するを許さざらん。或いは員闕すれば、則ち朝廷自ら忠純耆徳を択びて之を用いよ」と。論者は夷簡の意に希うと謂う。高陽関副總管に改む。

寶元元年、殿前都虞候を以て環慶路馬歩軍副總管となる。会に元昊反し、邕州觀察使に遷り、鄜延路副總管兼鄜延・環慶路同安撫使となる。頃くして、兼ねて管勾涇原路兵馬し、歩軍副都指揮使・静江軍節度觀察留後に進む。攻守の策を献じて曰く、

「五代の末、中国多事なりしも、唯だ西戎を制するを得たり。中国未だ嘗て一騎一卒を遣わし、遠く塞上に屯せず、但だ土豪にして衆の伏する所たる者を任じ、州邑を以て封じ、征賦の入る所、以て兵を贍い士を養うに足れり、是れによりて辺鄙の虞無し。太祖天下を定め、唐末藩鎮の盛んなるを懲り、其の兵柄を削ぎ、其の賦入を収め、節度以下より、第に奉祿を給するに坐するのみ。或いは方面に警有れば、則ち師を総べて出討し、事已れば、則ち兵は宿衛に帰し、将は本鎮に還る。彼の辺方世襲は、宜しく此れに異なるべし。而るに誤って朔方の李彝興・霊武の馮継業を一切亦内地に徙す。此れより霊・夏は中国の戍守を仰ぎ、千里糧を運び、兵民倶に困す。

其の後霊武守を失い、而して趙徳明は王師の罪を問うを懼れ、藩臣たらんと願う。当時に若し止めて霊・夏・綏・銀を棄て、之と山を限りて界とせば、則ち今日の患無からん。而るに霊・夏両州及び山界の蕃漢戸を併せて徳明に授く。故に甲を蓄え兵を治め、漸く辺隙を窺い、鄜延・環慶・涇原・秦隴の弛備せざる所以なり。

今元昊国を嗣ぎ、政刑惨酷にして、衆叛き親離れ、復た唃廝囉と怨を構う。此れ乃ち天の亡すの時なり。臣聞く、寇は玩ぶべからず、敵は縦すべからずと。或いは元昊自立すること能わず、別に酋豪有りて之に代わり、西は唃廝囉と復た平らぎ、北は契丹と約して表裏と為らば、則ち何を以てか其の侵軼を制せん。今元昊国勢未だ強からず、若し此れに乗じて鄜延・環慶・涇原・秦隴四路の兵馬を用い、両道に分ち、益すに蕃漢弓箭手を以てし、精兵二十万を得べく、元昊の衆に三倍し、糧を転ずること二百里、一月を出でずして、山界の洪・宥等州を収むべし。土豪を招集し、職を以て之を縻し、防禦使以下・刺史以上より、第に之を封じ、衣祿金帛を給せよ。又土人を以て将校を補し、勇者は祿に貪り、富者は家に安んぜしめ、期月を待たずして人心自ら定まらん。及び使を遣わし唃廝囉を諭し、霊武節度を授け、河外の族帳を撓がしめて、以て元昊を窘しめよ。復た麟・府・石州の蕃漢歩騎を出し、河西部族を獵取し、其の酋帥を招き、其の部衆を離れしめ、然る後に大軍を以て之に継がば、元昊は鼠竄して窮寇と為るに過ぎず、何をか為さん。

且つ霊・夏・綏・銀の地は五穀を産せず、人は険阻に習わず、毎歳資糧は、洪・宥に取りて足る。而るに洪・宥州の羌戸は勁勇善戦し、夏人は此れを恃みて以て肘腋と為す。我苟くも之を得ば、山を以て界とし、高きに憑り険に据え、下より沙漠を瞰し、各堡障を列ね、量りて戎兵を以て鎮守せば、此れ天険なり。廟朝の謀、此れに出ずるを知らずして、霊・夏・綏・銀を争い、連年調発し、師を老い財を費やし、以て中国を疲弊せしめ、小醜猖獗す。此れ議臣の罪なり。

今朝廷或いは元昊の罪を貸し、更に含容を示さば、宿兵転た多きのみならず、経費尤も甚だし。万一元昊潜かに契丹と結び、互いに掎角と為らば、則ち我一身二疾、併せて治むべからず。必ず軽きを先とし、重きを後とせん、如何にして兵を減じて以て河北に応ぜん。請う、辺臣を召し、二府と守禦の長策を定めよ」。

疏奏すれど未だ報いず。

時に元昊が大軍を率いて保安軍を攻撃し、劉平は慶州に駐屯していたが、范雍が書状を送って劉平を召喚したので、劉平は兵を率いて石元孫と合流し土門へ急行した。その後また敵兵が金明を破り延州を包囲したとの報告があり、范雍は再び劉平と石元孫を召喚して延州を救援させた。劉平は平素より敵を軽視し、騎兵を督して昼夜兼行で進軍し、翌日、万安鎮に到着した。劉平が先発し、歩軍が続いて進み、夜に三川口の西十里で宿営を止め、騎兵を先に延州へ向かわせて城門の争奪を図らせた。時に鄜延路駐泊都監の黄德和が二千余りを率いて保安北の碎金谷に駐屯し、巡検の万俟政・郭遵がそれぞれ配下を率いて分屯していたが、范雍は皆を召喚して外援とし、劉平もまた人を遣わして彼らの出動を促した。翌朝、歩兵が未だ到着せず、劉平と元孫は引き返してこれを迎えに行った。二十里進んだところでようやく歩兵に遭遇し、黄德和・万俟政・郭遵の率いる兵も全て到着したので、歩騎一万余りを率いて陣を整え東へ五里進み、敵と遭遇した。

時に平地には数寸の雪が積もり、劉平と敵は共に偃月陣を布いて相対した。しばらくして、敵兵が川を渡って横陣を布くと、郭遵と忠佐の王信がこれに迫ったが、突破できなかった。官軍が一斉に進撃し、数百人を殺してようやく退却した。敵は再び盾を並べて陣を布き、官軍はまたこれを撃退し、盾を奪い、殺傷および溺死者はほぼ千人に及んだ。劉平は左の耳と右の首筋に流れ矢を受けた。日が暮れ、兵士が敵の首級と捕獲した馬を報告すると、劉平は言った「戦いは今まさに緊迫している、お前たちはそれぞれ記録しておけ、皆必ず重く賞するであろう」。言葉が終わらぬうちに、敵が軽兵で接近戦を挑み、官軍は二十歩後退した。黄徳和は陣の後方におり、軍が退却するのを見ると、配下を率いて西南の山へ逃れ守りを固め、兵士たちもこれに従い、皆潰走した。劉平はその子の宜孫を馳せさせて黄徳和を追わせ、手綱を取って言った「兵を引き返させ、力を合わせて敵に抗すべきである、どうして先に逃げるのか」。黄徳和は従わず、馬を駆って甘泉へ遁走した。劉平は軍校に剣を杖にして兵士を遮り留めさせ、千余人を得た。三日間転戦し、賊は水の東岸へ退いた。劉平は残兵を率いて西南の山を守り、七つの柵を立てて自らを固めた。敵は夜に人を遣わして柵を叩き、大将はどこにいるかと問うたが、兵士は答えなかった。また人を遣わして戍卒を装わせ、文書を劉平に届けさせたが、劉平はこれを殺した。夜の四更、敵は営を囲んで呼ばわった「これほどの残兵で、降伏しないで何を待つのか」。夜明けに、敵の首長が鞭を挙げて騎兵を指揮し、山から四方に現れ挟撃し、官軍を二つに分断したため、劉平は石元孫と共に捕らえられた。

初め、黄徳和が劉平が賊に降ったと上言したため、朝廷は禁兵を発してその家を包囲した。殿中侍御史の文彦博に命じて河中府に獄を設けさせ、龐籍を派遣して取り調べさせたところ、詳細に事実を得た。そこでその家族を釈放し、黄徳和は腰斬に処せられた。また延州の官吏・民衆も宮門に赴き劉平が戦死した状況を訴えたため、朔方軍節度使兼侍中を追贈し、諡を壮武とし、信陵坊の邸宅を賜り、その妻の趙氏を南陽郡太夫人に封じ、子孫および諸弟は皆優遇して昇進させ、官に就いていない者は採用した。その後、降伏した羌族の多くが劉平は興州で死んでおらず、賊の中で子を生んだと述べた。石元孫が帰還してから、劉平が戦闘中に捕らえられ、後に興州で没したことを知った。弟に劉兼済がいる。

弟 劉兼済

劉兼済は、字を寶臣といい、父の蔭官により三班奉職に補せられた。騎射に優れ、兵書を読んでその大要を知った。襄州兵馬監押となった。漢江が暴漲した時、劉兼済は衣を脱ぎ水を渡り、衆を率いて城を守り、州はこれにより保全された。閤門祗候・雄州界河巡検に抜擢され、晋・絳・澤・潞都巡検使に転じた。凶作の年、太行に盗賊が多く、二百余人を捕らえた。左侍禁・鄜延路兵馬都監に改め、権知保安軍を務め、同提点陝西・河東刑獄を歴任し、籠竿城知事に転じた。

夏人が辺境を侵犯し、その数は数万と号し、劉兼済は千余りの兵を率いて転戦し黒松林に至り、これを撃破した。その兄の劉平が三川口で戦死したのに伴い、特に内殿崇班・原州知事を授けられた。入朝して辞する際、仁宗は慰労激励して言った「国の憂いは未だ消えず、家の仇は未だ報いられぬ、力を尽くさざるを得ない」。属戸の明珠族が反乱し、諸将は急いで討伐しようとした。劉兼済はただ毎日酒を飲み鞠を打つことにふけり、知らないふりをして、その意図を疑わせた。やがて反乱者は自ら潰走し、そこで追撃し、その酋長を射殺し、残党を収容して帰還した。寧州に転じ、靳廝韈砦を破り、鄜州に転じた。

元昊が臣従を称した後、梓夔路鈐轄に転じ、また鎮戎軍知事に転じた。劉兼済は部下を統御するのに厳しく急であったため、転運使が兵士の心に怨みが多いと上言し、内郡に転任させるよう請うた。涇原路鈐轄に改め、再び寧州知事となり、また原州知事となり、冀州・広信軍に転じた。累進して文思使・惠州刺史・河北縁辺安撫副使となり、西上閤門使・同管勾三班院に抜擢され、雄州知事として出向した。

先に、辺境の民で罪を避けて逃亡する者を、契丹はしばしば受け入れたが、守将は事を畏れて詰問できず、劉兼済は全て檄文を送って責任を問い返還させた。冀州に転じ、一ヶ月余りで忻州に改め、再び管勾三班院を務め、死去した。

郭遵 付記

郭遵は、開封の人である。家は代々武勇で称された。郭遵は若くして軍籍に属し、次第に昇進して殿前指揮使となった。乾興年中、左班殿直・幷代路巡検に改められた。右侍禁・慶州柔遠砦兵馬監押に昇進した。召されて騎射の試験を受け優等となり、左侍禁・閤門祗候に昇進した。秦州三陽砦主となり、延州西路都巡検使に転じた。

元昊が延州を侵犯した時、郭遵は裨将として劉平に属し、敵に遭遇すると、馬を馳せて敵陣に突入し、数十人を殺傷した。敵はぎょう将を繰り出し郭遵に当たると宣言したが、郭遵は鉄杵を振るってその脳を砕き、両軍ともに大いに叫んだ。再び鉄槍を持って進み、向かうところ敵なしであった。時に黄徳和が兵を率いて先に潰走し、敵の攻撃はますます激しくなった。郭遵は奮戦し、必死を期して、単騎で敵陣を出入りした。軍が少し退却すると、すぐに馬に乗り返して殿軍となり、また大槊を持って横から突撃した。敵はこれに敵わないと知り、人が大縄を持って高い所に立ち郭遵の馬を迎えさせたが、常に郭遵によって断ち切られた。そこで郭遵を深く突入させ、兵を集めて矢を射かけさせ、馬に命中し、馬が倒れたため、殺害された。特に果州団練使を追贈された。その父の郭斌を太子右清道率府副率とし、母の賀氏を仁寿郡君に封じ、妻の尹氏を安康郡君に封じ、弟の郭青石を侍禁に、郭逵を三班奉職とした。四人の子はまだ幼かったが、仁宗は全てに名を賜り、郭忠嗣は西頭供奉官、郭忠紹は左侍禁、郭忠裔は右侍禁、郭忠緒は左班殿直とした。娘は以前尼となっていたが、紫の方袍も賜った。

郭遵が用いた鉄杵・槍・槊は合わせて九十斤あり、その後耕作者が戦場でその武器を得た。皇祐年中、その衣冠と共に河南に葬った。郭逵は、独自に伝がある。

任福

任福は、字を祐之といい、その先祖は河東の人であったが、後に開封に移住した。咸平年中、衛士に補せられ、殿前諸班から累進して遙郡刺史に至った。元昊が反乱すると、莫州刺史・嵐石隰州縁辺都巡検使に任じられた。辞去する際、上奏して言った「河東の地は大河に接し、斥候が疎らである。願わくは守備を厳重にし、不測の事態に備えられたい」。仁宗はこれを良しとし、隴州知事に命じ、秦鳳路馬歩軍副総管に抜擢した。詔により陝西で城塁・器械を増強するよう命じられ、任福は命を受けて四十日で、戦守の備えを全て整えた。忻州団練使として鄜延路副総管・管勾延州東路蕃部事となった。

まもなく慶州知事となり、再び環慶路副総管を兼ねた。上言して「慶州は蕃族から遠くない。願わくは兵を率いて境上に臨み、亭堡を巡視し、斥候を厳重にしたい」。そこで通過する山川道路を経画し、緩急の場合の攻守の備えとした。帝はますますこれを良しとし、便宜による処置を許した。

西夏軍が保安及び鎮戎軍を侵すや、任福は子の任懷亮、甥婿の成暠と共に華池鳳川鎮より辺境巡視を称し、諸将を召集して敵勢を牽制せしむ。柔遠砦に至りて蕃部を犒労し、即座に諸将を部署して白豹城を攻撃す。夜漏未だ尽きざるに城下に抵り、四面より合撃す。平明、其の城を破り、兵を放って大いに掠奪せしめ、巣穴を焚き、牛馬・駱駝七千余頭を獲、積み重ねること方四十里、骨咩等四十一族を平定す。功により龍神衛四廂都指揮使・賀州防禦使に拝せられ、侍衛馬軍都虞候に改む。

康定二年春、朝廷は涇原・鄜延両路の兵を発して西討せんと欲し、詔して任福を涇原に詣らしめ事を計らしむ。時に安撫副使韓琦が辺境を行き涇原に赴くに会し、元昊が渭州を侵さんと謀るを聞き、韓琦は急ぎ鎮戎軍に赴き、其の兵を尽く出し、又敢勇を募りて一万八千人を得、任福をして之を将とせしむ。耿傅をして軍事に参ぜしめ、涇原路駐泊都監桑懌を先鋒とし、鈐轄朱観・都監武英・涇州都監王珪各おの其の部を率いて任福の節制に従わしむ。韓琦は任福等に併兵を戒め、自ら懐遠城より得勝砦に趨り、羊牧隆城に至り、敵の後を出でんことを命ず。諸砦の相距るること僅か四十里、道近く糧餉便にして、勢を度りて未だ戦うべからざれば、則ち険に拠りて伏兵を設け、其の帰るを待ち邀撃せんとす。任福は軽騎数千を引き、懐遠城捺龍川に趨るに、鎮戎軍西路巡検常鼎・劉肅に遇い、敵と張家堡の南に戦い、数百級を斬る。西夏人は馬羊駱駝を棄て偽りに敗走す、桑懌は騎兵を率いて之を追い、任福は其の後に踵く。諜者が敵兵少なきを伝うるや、任福等は頗る之を軽んず。薄暮、桑懌と合軍して好水川に屯し、朱観・武英は龍落川に屯し、山を隔てて五里を距ち、翌日の川口に会兵するを約す。路既に遠く、芻餉継がず、士馬食に乏すること已に三日。奔を追うて籠竿城の北に至り、西夏軍に遇い、川に沿いて行き、六盤山の下を出で、羊牧隆城より五里を距てて陣を結ぶ。諸将方に敵の計に堕ちたるを知り、勢留まるべからず、遂に前に進み格闘す。桑懌は馳せて其の鋒を犯し、任福の陣未だ列を成さざるに、賊は鉄騎を縦して之を突く。辰より午に至り、陣動き、衆は山に傅りて勝地を拠らんと欲す。俄かに伏兵発し、山背より下りて撃つ。士卒多く崖塹に墜ち、相覆い圧さる。桑懌・劉肅戦死す。敵は兵数千を分かち、官軍の後を断つ。任福は力戦し、身に十余矢を受く。小校劉進なる者有り、任福に自ら免るるを勧む。任福曰く、「吾れ大将たり、兵敗るれば、死を以て国に報いんのみ」と。四刃の鉄簡を揮い、身を挺して決闘す。槍左頰に中り、其の喉を絶ちて死す。乃ち兵を併せて朱観・武英を攻む。戦既に合し、王珪は羊牧隆城より兵四千を引き、朱観軍の西に陣す。渭州駐泊都監趙津、瓦亭の騎兵二千を将いて継いて至る。王珪は屡々出でて陣を略すも、陣堅くして破るべからず。武英は重傷を受け、軍を視ること能わず。敵兵益々至り、官軍遂に大いに潰ゆ。武英・趙津・王珪・耿傅皆死す。内殿崇班訾贇・西頭供奉官王慶・侍禁李簡・李禹亨・劉鈞も亦戦没す。軍校の死者数十人、士卒の死者六千余人。唯だ朱観は兵千余を以て民垣を保ち、四方に射を縦し、暮れに会うて敵引き去る。任福の戦いし処と五里を距つも、然れども其の敗は相聞こえざりき。任福の子懷亮も亦之に死す。

元昊が国を傾けて入寇するに当たり、任福は敵に臨みて命を受け、統ぶる所皆平素撫でし兵に非ず、既に又分かれて出で利に趨りたる故に、甚だしき敗に至る。奏至るや、帝震悼し、任福を武勝軍節度使兼侍中に贈り、第一区を賜い、月に其の家に銭三万、粟・麦四十斛を給す。母を追封して隴西郡太夫人と為し、妻を琅琊郡夫人と為し、其の子及び従子凡そ六人を録す。

王珪 附

王珪は、開封の人なり。少より拳勇に長じ、騎射を善くし、鉄杵・鉄鞭を用うることを能くす。年十九、親従官に隷し、累遷して殿前第一班押班に至り、礼賓副使・涇州駐泊都監に擢でらる。

康定初め、元昊が鎮戎軍を侵すや、王珪は三千騎を将いて策先鋒と為り、瓦亭より師子堡に至る。敵之を数重に囲む。

王珪奮撃して披靡せしめ、獲る所の首級多し。鎮戎城を叩き、益兵を請うも、許さず。城中唯だ糗糧を縋りて之に与う。軍既に飽くに因り、其の下に語りて曰く、「兵法に、寡を以て衆を撃つは必ず暮に在りと。我が兵少なし、其の暮に乗じて之を撃てば、志を得べし」と。復た馳せて入る。驍将有り、白幟を持ち槍を植えて詈りて曰く、「誰か敢えて吾が敵たる者あらんや」と。槍直ちに王珪の胸に及びて右臂を傷つく。王珪左手を以て杵を以て其の脳を砕く。継いて又一将復た槍を以て進む。王珪其の槍を挟み、鞭を以て之を撃殺す。一軍大いに驚き、遂に引き去る。王珪も亦馬中箭して還る。仁宗特に使を遣わし之を撫諭す。然れども其の下の死傷も亦多きを以て、止めて名馬二匹、黄金三十両、創を裹く絹百匹を賜う。復た詔を下し其の功を塞下に暴き、以て諸将を厲ます。

是歳、涇原路都監に改む。明年、本路行営都監に為り、金字を勒したる処置牌を賜い、専ら誅殺するを得しむ。尋で黒山に至り、敵の族帳を焚き、首級・馬駝甚だ衆し。会うて敵大いに侵入し、兵五千を以て任福に従い好水川に屯す。三日連戦し、諸将皆敗る。任福は囲みの中に陥り、麾幟の猶在るを見る。王珪は之を援け出さんと欲す。軍校に顧望して進まざる者有れば、斬りて以て徇す。乃ち東に向かいて再拝して曰く、「臣国に負くに非ず、臣力及ばざるなり。独り死を以て報いんのみ」と。乃ち復た入りて戦い、数十百人を殺す。鞭鉄撓み曲がり、手掌尽く裂け、奮撃自若たり。馬中鏃し、凡そ三たび易うるも、猶馳せて数十人を撃殺す。矢目に中り、乃ち還り、夜中に卒す。

王珪は少より陰陽術数の学に通ず。始めて出戦するに、其の家人に謂ひて曰く、「我前後大小二十余戦、敵を殺すること多し。今は還ることを得ざるを恐る。我死せば、速やかに此を去れ、敵の仇と為る無かれ」と。及び敵瓦亭を攻め、購うこと甚だ急なりしに、果たして其の料りの如し。鎮戎の戦い、以て得たる所の二槍を山上に植う。其の後辺人即ち其の処を以て祠を立つ。金州観察使を贈られ、其の妻を追封して安康郡君と為し、其の子光祖を録して西頭供奉官・閤門祗候と為し、後東上閤門使に至る。光世は西頭供奉官、光嗣は左侍禁。

武英 附

武英、字は漢傑、太原の人なり。父の武密は劉継元に随い帰朝し、仕えて侍禁・鎮定同巡検に至る。契丹と戦い、望都に於いて没す。西京左坊使を贈られ、武英を録して三班借職と為し、右班殿直を以て忻・代州同巡検と為す。会うて州将出猟す。因りて帳中に留まりて飲む。武英曰く、「今空郡にして来る。万一敵間を乗じて城に入らば、奈何」と。既にして敵百余騎果たして入寇す。武英衆を領し左右に馳射し、悉く之を禽獲す。功により左班殿直・監雄州榷場に遷り、右侍禁・閤門祗候に改め、環州都巡検使と為り、洪徳砦主に徙り、又慶州柔遠砦に徙る。

元昊が延州を寇すと、英は兵を率いて後橋を攻め、敵の勢力を分断せしむ。内殿承制・環慶路駐泊都監に擢げらる。党平族を破り、また任福に従い白豹城を破り、礼賓副使に遷り、まもなく涇原行営都監を兼ぬ。任福と諸将を合わせて張家堡に戦い、数十百の首級を斬り、敵は羊馬を棄て偽り遁走す。諸将は皆利に趨り争って進むも、英は前方に必ず伏兵あると以為い、衆は聴かず、やがて伏兵発す。福ら既に敗れ、英は猶力戦し、辰より申に至り、矢尽きて害に遇う。邢州観察使を贈らる。その子、三班奉職永符を録し、東頭供奉官・閤門祗候となす。永孚は西頭供奉官、永昌は左侍禁。甥の永保は右班殿直、永錫は三班奉職。

桑懌 附

桑懌は、開封雍丘の人なり。勇力人に過ぎ、剣及び鉄簡を用いるに善く、謀略あり。その人となりは甚だ長大ならず、人と接するに、常に祗畏して自ら足らざるが若く、言語はその口より出でざるが如く、卒然に之に遇えば、その勇健なるを知らざるなり。兄の慥は進士に挙げられ、名あり。懌は再び進士に挙げられしも、中らず。

嘗て大水に遭い、粟二廩あり、将に舟を以て之を載せんとす。百姓の水を避けて走る者を見て、遂にその粟を棄てて之を載せ、皆死なずして済む。歳饑饉の時、人を聚めて共にその粟を食らわしめ、尽きて止む。後に汝・潁の間に徙り居し、龍城の廃田数頃を耕して自給す。

諸県に盗賊多し。懌自ら耆長に補わることを請い、往来して奸を察するを得、因りて里中の悪少年を召して戒めて曰く、「盗は為すべからず、吾は汝を容れじ」と。有る頃、里老父子死して未だ斂めず、盗夜にその衣を脱ぎ去る。父は敢えて県に告げず。懌は少年の王生なる者を疑い、夜その家に入り、その衣を得、之を知らしめざりき。明日、見て之に問いて曰く、「爾我に許して盗を為さずとす、今里中に屍の衣を盗む者は、爾に非ずや」と。少年色動き、即ち推し仆し地に、之を縛り、共に盗める者の姓名を詰め、尽く県に送る。皆辜に伏す。

嘗て郟城に之く。尉の盗を捕えに出づるに遇い、懌を招きて酒を飲ます。俱に行き、賊の蔵する所に至る。尉は怯懦甚だしく、陽に知らざるを為し、将に去らんとす。懌曰く、「賊ここに在り、何くにか之かんと欲する」と。乃ち馬を下り、独り数人を格殺し、因りて尽く之を縛る。又襄城に盗十許人有ると聞き、独り一剣を提げて往き、数人を殺し、その余を尽く縛る。汝の傍県之が為に盗無し。京西転運使その事を奏し、郟城尉に補す。

天聖中、河南諸県に盗賊多し。転運使奏して澠池尉に移す。群盗青灰山に保ち、時に出でて攘剽す。宿盗の王伯なる者あり、尤も民の害と為る。朝廷巡検使を授くる毎に、必ず姓名を疏して之を捕えしむ。懌官に至り、巡検偽りて宣頭を為して懌に示し、牒を以て之を招致す。懌その偽なるを知らず、因りて挺身して賊中に入り、伯と同臥起すること十余日、伯遂に懌と出でて山口に至る。巡検の伏兵に執せられ、懌幾くんか免れざらんとす。懌曰く、「巡検功無きを懼るるのみ」と。即ち伯を以て巡検に与え、自ら功を為さしむ。巡検俘を献じて京師に至るも、懌復た自ら言わず。朝廷之を知り、巡検を黜し、懌を右班殿直・永安県巡検に擢ぐ。

明道末、京西旱蝗あり。悪賊二十三人あり、枢密院懌を召して京師に至らしめ、賊の名姓を授け、往きて捕えしむ。懌曰く、「盗吾が名を畏れ、必ず潰ゆ。潰ゆれば則ち得難し。宜しく先ず之に怯を以て示すべし」と。至れば則ち柵を閉じ、軍吏に戒めて一人も輒ち出づることを得ざらしむ。数日居るに、軍吏なす所を知らず、数たび請いて自ら効せんとすも、輒ち許さず。夜、数卒と変じて盗服を以て出で、盗の嘗て行く所の処を跡づく。民家に入れば、民皆走るも、独り一おう留まり、飲食を具えて事うること群盗の如し。懌帰り、柵を閉じて三日、復た往き、自ら具を携えて媼に就き饌し、而して余りを以て媼に遺う。媼以て真の盗と為す。乃ち稍く媼に就き、語及び群盗、一媼曰く、「彼ら桑殿直の来るを聞き、皆遁去せり。近く閉営して出でずと聞き、その畏るるに足らざるを知り、今皆還れり。某は某処に在り」と。懌又三日を経て往き、厚く之に遺い、遂に実を以て告げて曰く、「我は桑殿直なり。我が為にその実を察し、慎んで泄らすことなかれ」と。後三日復た来たり、ここに於いて媼尽く居処の実を得て以て告ぐ。懌明日軍士を部分し、尽く諸盗を擒う。その尤も強梁なる者、懌自ら馬を馳せて往き、士卒従うに及ばず、惟だ四騎之を追う。遂に賊と遇い、手ずから三人を殺す。凡そ二十三人の者、一日に皆獲る。

京師に還る。枢密の吏銀を求め、閤門祗候を致さんとす。懌曰く、「賄を用いて官を得るは、我が欲する所に非ず。況んや貧しくして銀無し。有りと雖も、固より不可なり」と。吏怒り、その功状を匿し、止だその短使を免ずるのみ。兵馬監押を除す。未だ行かず、宜州蛮の叛くに会い、海上巡検を殺す。官軍制すること能わず、因りて命じて懌を往かしめ、尽く手ずから之を殺す。還りて、乃ち閤門祗候を授く。懌曰く、「この行は、独り吾が功に非ず。位吾が上に居る者有り、吾は乃ちその佐なり。今彼留まりて我還る。我賞厚くして彼軽し。我がその功を蓋い自ら伐るを疑わざるを得んや。之を受くるは、徒に吾が心を慚じ入らしむるのみ」と。将にその賞を譲りて己が上の者に帰せんとす。或る者好名を以て譏る。懌歎じて曰く、「士はその心の如何なるかを顧みるのみ。当に自らその心を信じて以て行うべし。若し名を避けんと欲せば、則ち善皆為すべからざるなり」と。益々之を辞す。許さず。

宝元初、西頭供奉官・広西駐泊都監に遷る。元昊反す。参知政事宋庠その勇略有るを薦め、内殿崇班・鄜延路兵馬都監に遷る。一月を逾え、涇原路に徙り、鎮戎軍に屯す。任福と好水川にて敵に遇い、力戦して死す。解州防禦使を贈らる。子の湜は皇城使。

耿傅 附

耿傅は、字を公弼と曰い、河南の人なり。祖父の昭化は、しょく州司戸参軍と為る。盗城を拠し、将に官を以て脅かんとす。昭化大いに罵り、手足を断たるるに至るも、屈せずして死す。

傅は少より侠を喜び気を尚ぶ。初め父の蔭を以て三班奉職と為り、伊陽県尉に換え、明州司理参軍を歴て、将作監丞・永寧県知事に遷る。河南守の宋綬その材を薦め、通判儀州に遷り、慶州に徙る。時に兵を進めて西討するを議し、傅を以て一道の糧饋を督めしむ。

元昊の入寇に会い、任福の行営軍事に参じ、姚家川にて敵に遇う。諸将利あらず、敵騎益々至る。武英傅に避けて去るを勧む。傅答えず。英歎じて曰く、「英当に死すべし。君は文吏、軍責無し。奈何ぞ英と俱に死せん」と。朱観も亦傅に賊鋒を少しく避けんことを白すも、傅愈々前し、指顧自若たり。数創を被り、乃ち死す。

初め、傅と観は籠落川に営す。夜書を作りて福に遺い、その日の小勝を以て、前に敵の大軍に遇わば、深く持重を以て之を戒む。自ら書き題して観の名とし、以て福の軍中に致す。傅死したる後、韓琦その書を随軍の孔目官彭忠に得て、奏して上る。詔して傅に右諫議大夫を贈り、その子の瑗を官して太常寺太祝と為し、琚を太常寺奉礼郎と為し、璋を将作監主簿と為し、珪を試みに秘書省校書郎と為し、琬を同学究出身と為す。

王仲寶 附

王仲寶、字は器之、密州高密の人。初め刑部の史となり、齊州章丘の尉を補す。群盗六十余人を捕らえる功により、開封府判官鞠仲謀の推薦を用い、召されて対し、右班殿直に改め、鎮・定・保・深・永寧・天雄の六州軍巡検となる。また賊を捕らえる功により、左班に遷り、河北西路提挙捉賊に徙り、磁州の名賊王遇仙・博州の孫流油の輩、凡そ四十人を擒える。

夜に盗賊戸外に叩き降を乞う有り、左右之を殺さんと欲し、首級を以て功を論ぜんとす、仲宝は不可とし、舎中に納れて寝せしむ。閤門祗候に擢てられ、命じて駅を乗り登州の海賊百余りを捕らえしめ、之を獲る。還りて、河北提挙捉賊となり、又百余りを捕斬す。信安軍を知り、復た河北提挙捉賊となる。盗賊百余り西山に依る有り、官軍之を捕うること能わず、仲宝悉く招き出だし、軍籍に隷し、奏して自ら随う。澤・潞・晉・絳・慈・隰・威勝軍巡検使に徙り、官に至ること纔か八日、太行山の宿賊八十人を獲る。累ねて金帛・緡錢を賜う。契丹に使いし、積ねて内殿承制に遷る。

天聖初め、鎮戎軍を知り、供備庫副使に改む。康奴族を破り、首領百五十・羊馬七千を獲り、詔して其の功を獎す。凡そ五年、還り、惠民河の堤岸を巡護し、供備庫使・麟府路兵馬鈐轄・麟州知事に遷る。会に鎮戎軍の蕃族内寇し、涇原路鈐轄に徙り、復た鎮戎軍を知り、又原・環の二州に徙る。西京左蔵庫使・恵州刺史を以て利州を知り、幷代州鈐轄に徙り、西上閤門使に改む。建言す、「縁辺の博糴、属羌之を苦しめ、数えて逃去す。請う其の法を寛にして、復業するを得しめ、以て辺境を捍がんことを。」久しくして、東上閤門使に遷る。

元昊延州を寇す、仲宝兵を将いて賀蘭谷に至り、以て兵勢を分かち、蕃将羅逋を長鶏嶺に敗る。四方館使に遷り、濮州団練使を領し、涇原路総管・安撫副使兼管勾秦鳳路軍馬事となる。西羌と六盤山に戦い、俘馘数百人を得る。

時に任福大いに好水川に敗れ、別将朱観姚家堡に囲まる、仲宝兵を以て之を救い、観を囲みより抜き出だし、従馬に乗せて以て従う。時に諸将皆没し、独り仲宝と観のみ還るを得たり。環慶路副都総管・慶州知事に徙る。未だ幾ばくもせず、兼ねて本路経略安撫・招討副使となる。金湯城を破り、復た詔を賜い獎諭し、澶州副総管に徙る。安撫使范仲淹仲宝の武幹未だ衰えずと以て、奏して之を留む。明年磁州防禦使を以て代州を知り、左屯衛大將軍を除き致仕し、卒す。

論じて曰く、元昊中国の備え弛むに乗じ、衆を悉くして辺を寇し、王師大いに衄くる者三たび有り、夫れ豈に天時の利あらざらんや。亦た人の謀のみ。好水の敗、諸将力戦して以て死す。噫、利に趨いて以て節度に違うは、固より計を失えり。然れども義を秉りて屈せず、庶幾くは烈士なる者か。