宋史

列傳第八十三 石普 張孜 許懷德 李允則 張亢 劉文質 趙滋

石普

石普は、その先祖は幽州の人であり、自ら唐の河中節度使石雄の後裔であると称し、太原に移り住んだ。祖父の石全は、周に仕えて鉄騎軍使となった。父の石通は、太宗に晋邸において仕えた。普は十歳で邸中に給事し、謹直で信頼できるところを親しまれ、寄班祗候に補され、再び遷って東頭供奉官となった。賊の邢橐駝・賈禿指ら数百人が永興諸県を寇掠したので、普に兵を督して捕らえに行かせたところ、悉くこれを捕獲した。内殿崇班・帯御器械に遷った。李順が叛くと、普は西川行営先鋒となり、韓守英・馬知節とともにこれを誅斬した。西京作坊使・欽州刺史に遷った。順の余党が再び邛しょくを寇し、偽って邛南王と称した。普はまた西川都提挙捉賊使となった。当時、蜀の民は疑心暗鬼で不安定であり、多くが盗賊になろうとしていた。普はそこで馳せて入朝して対面し、面と向かって陳べた。「蜀の乱は賦斂が苛酷で急迫し、農民が失業したことによる。少しこれを蠲減し、自ら生計を立てられるようにすべきである。そうすれば討たずして自ずから平定するでしょう。」帝はこれを許した。普は即日に蜀に戻り、榜を掲げて諭したので、悦服しない者はなかった。賊が平定されると、白金三千両・襲衣・金帯・鞍勒馬を賜った。累遷して洛苑使・富州団練使・延州縁辺都巡検使となった。羌の酋長乜羽が内寇したので、普はこれを追殺した。

真宗に従って大名に幸し、時に王均が叛いたので、普を川峡路招安巡検使とし、雷有終を佐けて諸将を率いて進討させた。天回鎮に至ると、賊は出て拒戦したが、普は前陣を率いて力戦してこれを撃破した。賊は益州に退いて守った。王師は城を数ヶ月包囲したが落とせなかった。普は車炮を整え、また地道を掘って城を攻めた。城が破れ、均は夜半に包囲を突破し、南門から遁走した。普は兵を引いて富順監で追撃し、均は自殺し、余党は皆平定された。冀州団練使に遷り、黄金三百両・白金三千両を賜った。故事では、正任の官は帯御器械を兼ねないが、帝は特に普にこれを命じた。

契丹が辺境を犯すと、普は保州兵馬鈐轄・北面行営押策先鋒となり、契丹と廉良城で戦い、また長城口で戦い、捕虜・首級・器甲を多く獲た。定州路副都総管に転じた。霊州が失陥すると、関中の兵備を増強するため、永興軍副都総管に転じた。当時、軍制が粗略で、凡そ号令の進退や、将佐を呼び召し、別の屯所と会合する際は、皆人を馳せて告げさせていた。普は上奏して請うた。「臣がかつて兵を将いた時、常に一銭を割り、別将とそれぞれ半分を持ち、合わせて符契としました。」帝はこれにより伝信牌を設けた。漆を塗った木製で長さ六寸、幅三寸、腹と背に文字を刻んで中央で二分し、鑿枘を設けて合わせられるようにした。また二つの穴を穿ち、筆墨を容れ、上に紙札を施し、陣に臨むごとに分けて持ち、あるいは命令を伝える時はその言葉を書き、軍吏の首に掛け、彼方に至って合わせて符契とした。また『禦戎図』を献上し、塹壕を設けて敵の馬を陥れるよう請い、併せて自らが設けた戦闘器械を多く上進した。莫州総管に転じた。

初め、契丹が南侵し、我が兵を望都で敗った。その後、諜者がまた大いに侵入しようとしていると報告した。帝は自ら軍事を画策し、手詔を輔臣に示して言った。

鎮・定・高陽の三路の兵は定州に会すべく、唐河を挟んで大陣を為し、柵を立てて守る。敵の遠近を量って軍を出す。敵が疲れたならば先鋒が出て師を致し、騎兵を中央に置き、歩兵で環らせ、短兵を接するのみで、隊伍を遠く離れてはならない。

また兵を分けて三路に出し、六千騎を威虜軍に屯させ、魏能・白守素・張鋭にこれを率いさせ、五千騎を保州に屯させ、楊延昭・張禧・李懷岊にこれを率いさせ、五千騎を北平塞に屯させ、田敏・楊凝・石延福にこれを率いさせて、賊の鋒に当たらせる。初め到着した時は軽々しく戦わず、その気勢が衰えるのを待ち、城を背にして戦う。もし南に保州を越え、大軍と遭遇したならば、威虜の師に命じて延昭と会合させ、腹背に敵を受けるようにする。もし定州を攻めず、縦横に南侵したならば、また北平の田敏と会合し、勢いを合わせて契丹の境界に入り、その輜重を遮り、雄州・覇州・破虜軍以来、互いに声援とする。

また孫全照・王徳鈞・裴自栄に命じて兵八千を率い寧辺軍に屯させ、李重貴・趙守倫・張継旻に命じて兵五千を率い邢州に屯させ、東西の路を扼させる。契丹が遁走しようとするならば、定州の大軍と三路の騎兵に命じて会してこれを撃たせ、普に命じて軍一万を莫州に統率させ、盧文寿・王守俊にこれを監させ、敵騎が北へ去ったならば、西へ順安軍に向かって襲撃し、西山の路を断たせる。もし河の氷が既に合わさり、敵が東路から来たならば、劉用・劉漢凝・田思明に兵五千を率いさせて普・全照と会合し、犄角の勢いとし、なお石保吉に命じて兵一万を率い大名を鎮めさせ、軍勢を張らせる。

図を繋いで諸将に授けた。

数ヶ月後、輔臣に勅して言った。「北辺には既に大兵を屯しているが、辺境からの奏上によれば、敵に隙はなく、軍を集めては虚費し、民力はどうしてこれを供給できようか。制御するための計画があるべきである。また静戎軍・順安軍の境界では、先に営田・河道を開き、これをもって黒盧口・三台・小李路を扼することができ、また漕運を通じて辺境に至らせることができる。この機に乗じて衆を用いて浚治し、軍城に及ぶようにすべきである。彼らがもし我が役事を撓乱するならば、即ち兵を合わせてこれを撃つ。」李沆らは言った。「険を設けて敵を制するのは、辺境を守る利です。」そこで詔して内侍閻文慶と静戎・順安の知軍事王能・馬済にこれを監督させ、普を転じて順安の西に屯させ、威虜の魏能・保州の楊延昭・北平の田敏と犄角の勢いとした。

内侍の馮仁俊が御剣を莫州で掌ったが、普と和合しなかった。帝は言った。「窮めて治めて将帥を驕らせるな。」ただ仁俊を召還したのみであった。また普に命じてその部を率い乾寧軍に屯させ、再び普を冀州団練使に遷し、本州総管に転じた。車駕が澶淵に幸した時、王継忠は既に契丹に陥っていた。契丹は和を請おうとし、継忠を通じて人に信箭を持たせて書を普に送り、かつ密表を通じさせた。事が平定されると、容州観察使に遷った。向敏中が鄜延路都総管となった時、普をその副とした。趙徳明が款を納れると、詔して制命を降すこととなった。普は言った。「彼に押蕃落使を授け、これに属羌を総制させてはならない。そうすれば強横で制御できなくなる。」そこで管内蕃落使を兼ねるのみにとどめた。

未だ幾ばくもせず、幷代路に転じ、公使銭二千五百緡を給された。普は先例を援用して歳に銭三千緡を給するよう求めたが、枢密院はこのような先例はないと言った。また、李漢超が河朔を守った時は、歳に万を計って給していたが、今幷代に屯する軍は多く、軍を犒うには足りないと述べたが、帝は聞き入れなかった。桂州観察使・鎮州路総管に改め、保平軍節度観察留後に遷り、本鎮に赴いた。帝が汾陰を祀り、還って陝西に至ると、普は駐蹕を城中に請うた。これにより詩を賜い、扈従して西京に至るよう命じられた。河西軍節度使・河陽知事に拝し、許州に転じた。大流堰を築き、黄河を引いて京師への漕運を通じた。『軍儀条目』二巻・『用将機宜要訣』二図を上進した。当時は符瑞を崇尚していたが、普は天下の醮設を罷めるよう請い、歳に七十余万緡を省いて国用に充てることができると述べた。これにより帝の意に忤った。

大中祥符九年、上言して九月下旬に日食が三度あると述べた。また言うには、「商人が秦州より来て、唃廝囉が密かに曹瑋に報復せんとしていると言う。臣の献じた陣図を瑋に付与されよ。これにより瑋をして必ず勝たしめん」と。帝は普の言が分を越えているとし、枢密使王欽若が「普は辺境の事を以て朝廷を動かそうとしている」と述べたため、帝は怒り、知雑御史呂夷簡に命じてこれを弾劾させた。獄が決し、百官を集めて参驗させたところ、九月下旬に日食は無かった。普が私的に天文を蔵していた罪に坐し、百官に雑議させたところ、罪は死に当たるとされた。議して官をもって当てる(官当)こととした。詔して除名し、賀州に貶し、使者を遣わして縛り流刑地に送らせた。帝は輔臣に謂いて曰く、「普は微賤の出で、性質軽躁にして、干求止まず。既に文芸に懵懂とし、他人の手を借りて撰述し、以て時事を揣摩す。繫所に在りて、その幼子を思い、時時に泣下するを聞く。家を携えて行くことを聴すべし」と。はやく賀州に至り、太子左清道率府副率を授け、房州に安置し、房州の屯兵を百人増やして護守せしめた。

普は倜儻として膽略有り、凡そ討伐に預かること、敵の所在を聞けば、即ち馳せ赴く。蜀の盜賊を兩度平定し、大小數十戰、鋒を摧き賊とつ。衆その勇を推す。頗る兵書、陰陽、六甲、星曆、推步の術に通ず。太宗嘗て曰く、「普の性質剛驁にして、諸將とすこし合わず」と。然れどもその善戰をかりて、つねに厚く遇す。後に罪を以て廢せられ、太宗の忌日每に、必ず盡室して佛寺に詣で齋薦し、おおむね以て常と為す。

張孜

張孜は開封の人。母が微賤の時に孜を生み、後に宮中に入り悼獻太子を乳した。孜方まさ繈褓きょうほうの中に在りし時、真宗は内侍張景宗に付して曰く、「此兒の貌厚し、汝謹んで之を視よ」と。景宗遂に養いて子と為す。蔭補により三班奉職、給事春坊司に補され、殿直に轉ず。

皇太子即位し、供奉官、閤門祗候に遷る。陳州兵馬都監と為り、堤を袁家曲に築き水を捍ぎ、陳州以て患無し。五遷して供備庫使に至り、恩州團練使、真定路兵馬鈐轄を領し、歴て莫、貝、瀛の三州を知る。轉運使張昷之、冀・貝のぎょう捷軍士の上關銀・鞋錢を罷むるを奏す。事下りて孜に議せしむ。孜言う、「此れ界河の策先鋒兵なり、戰有れば必ず先登す。故に平時の賜予諸軍に異なり、罷むべからず」と。昷之猶お執りて已まず、遂に奏して保州雲翼の別に給する錢糧を罷む。軍怨み果たして叛く。

契丹、盟を背かんと欲す。富弼、使として往かんとし、孜を副使と為すことを命ず。議論は弼より出づれども、然れども孜も亦安重にして事に習熟す。勞により西上閤門使、瀛州知事に遷り、單州團練使、龍神衛四廂都指揮使、幷代副總管を拜す。河東、鐵錢法をあらたむ。人情疑貳し、兵相率いて府を叩き訴えんと欲す。門を閉じて納れず。是の日幾ほとんど亂る。孜、馬を策し數卒を從えて往きて之を諭す。皆散じて營に還る。濟州防禦使、侍衛馬軍都虞候に遷り、又殿前都虞候に遷り、桂州管內觀察使を加えられ、侍衛步軍副都指揮使に遷る。虎翼兵の教練、程に中らず。指揮使、狀を問うも、屈強にしてがえんじて對せず。夜に乘じ、十餘人大いに噪ぎ、おもむき往きて人を害せんとす。孜、首惡をとらえて斬り、然る後に聞す。昭信軍節度觀察留後、馬軍副都指揮使に遷る。

孜は宮禁の中に長じ、内外頗る疑似に涉る。言者、孜の兵柄を罷むるを請う。乃ち出でて寧遠軍節度使、潞州知事と為り、陳州に徙す。仁宗、其の他無きを以て、復た召して馬軍副都指揮使と為す。御史中丞韓絳又言う、「孜は兵をつかさどるに當らず。而るに宰相富弼之を薦引す。弼を黜すを請う」と。弼、咎を引き政事を罷むるを求む。諫官御史皆言う、進擬は弼より自らせずと。絳、家に居りて罪を待つ。曰く、「敢えて復た御史と稱せず」と。此れに坐して蔡州知事に謫せらる。而して孜尋まもなく罪を以て罷められ、曹州を知る。卒す。太尉を贈られ、諡して勤惠と曰う。孜初め茂實と名乗り、英宗の舊名を避け、「孜」と改む。

許懷德

許懷德は字を師古と云い、開封祥符の人。父は均、磁州團練使。懷德は身長六尺餘、騎射撃刺に長ず。少にして父の任により東西班殿侍と為り、累擢して殿前指揮使、左班都虞候に至る。

元昊、邊を寇す。選ばれて儀州刺史、鄜延路兵馬鈐轄と為り、副總管に遷る。夏人三萬騎、承平砦を圍む。懷德時に城中に在り、勁兵千餘人を率いて突圍し、之を破る。夏人復た陣す。陣前に出で鞍に據りて嫚罵する者有り。懷德、弓を引き一發にしてたおす。敵乃ち去る。金明縣を屠り、復た進んで延州を圍む。懷德遽すみやかに還り、夜に裨將を遣わし步騎千餘人を以て、不意に出でて之を撃ち、斬首二百級、遂に延州を解く。鳳州團練使に遷り、專ら延州東路茭村一帶の公事を領す。

秦鳳路に徙す。未だ行かず、夏人が塞門砦を破るに赴援せざるに坐し、寧州刺史に降る。頃之しばらくして、擢でられて龍神衛四廂都指揮使、陵州團練使、本路副都總管と為る。康州防禦使に遷り、又た賊を討つに出でるに當り逗留して進まず、所部の兵夫が隨軍の芻糧を棄つるに坐し、赦を更て、秦鳳路副都總管に徙し、捧日・天武四廂に改む。又た賊が屬羌を侵掠し、十餘帳をうしなうに坐し、永興軍に徙し、又た高陽關、幷代路に徙す。歴て殿前都虞候、遂州觀察使、侍衛親軍馬軍副都指揮使、武信軍節度觀察留後、殿前副都指揮使、寧遠軍節度使を經る。從妹の亡きに會し、子無し。懷德其の田を冒して有さんと欲す。事覺る。管軍を罷め、亳州を知り、徐州に徙す。歲餘りして、復た殿前副都指揮使と為る。明堂を祀り、都指揮使に進み、保寧・建雄の二節度を更む。

年八十にして猶お子を生む。筋力人に過ぐ。宿衛に在ること十四年、しばしば身を乞うも、帝許さず。懷德曰く、「臣年過ぎたり。もし御史の彈する所と為らば、且つ善く罷むるを得ざらん」と。即ち詔して數歲を減ずるを為す。卒す。侍中を贈られ、諡して榮毅と曰う。

懷德は初め擢でられて邊を守りてより、連ねて畏懦を以て謫せられ、やがて功臣と並び進みて軍を典る。請託に坐して罪を得、去りて復た還るに及び。時に承平に遭い、寵を保ち祿を終う。故事こじに、節度使が鎮を移し恩を加えらるるは、皆別に表を上りて再辭す。每に批答を降し、內侍を遣わしてもたらし賜うに、必ず遺る所有り。懷德は祫享により恩を加えられ、既に又た鎮を移す。乃ち共に一表を為して辭す。翰林學士歐陽修、其の朝命を慢にするを劾す。詔して修の章を以て之を示す。懷德謝罪するのみ。復た別に表を進めず。其の鄙吝此の如し。

李允則

李允則は、字を垂範といい、済州団練使李謙溥の子である。若くして才略をもって知られ、蔭補により衙内指揮使となり、左班殿直に改めた。太平興国七年、幽薊より還師するに及び、初めて静戎軍に榷場を置き、允則はその事を主管した。還って、河東路に派遣され繫囚を決断し、逋欠を治めて原宥した。また荊湖に派遣され官吏を巡察し、転運使とともに銭帛・器甲・刑獄を検視し、閤門祗候に抜擢された。京師の諸河を浚治し、水門を創設し、鄭州に水磑を設けた。西川の賊劉旰が平定されると、上官正が城を修築することを議したが未決であり、命により允則は王承衎・閻承翰とともに視察に赴いた。還って、西川は城が無ければ守り難いと上言し、正の議の如くすべきであるとした。また兵が分散すれば緩急の際に用を為さず、要害に併せて屯し、糧餉の便にすべしと請うた。高渓州の蛮酋田彦伊が寇掠したため、辰州に派遣され、転運使張素・荊南劉昌言と計議した。允則は蛮徼は兵を加えるに足らず、ことごとく招撫すべしとした。

累遷して供備庫副使・知潭州となった。赴任に際し、真宗は言った、「朕が南衙にいた時、畢士安がしばしば卿の家世を称していた。今、湖南を卿に任せる」。初め、馬氏が暴斂を行い、州民が絹を出したのを地税と称した。潘美が湖南を平定し、屋敷ごとに絹を納めさせたのを屋税と称した。営田戸には牛を与え、毎年米四斛を納めさせ、牛が死んでも納めさせたのを枯骨税と称した。民が茶を納める際、初めは九斤を一大斤としたが、後に三十五斤にまで増加した。允則は三税の廃止を請い、茶は十三斤半を定制とし、民はみな便益を得た。湖湘には山田が多く、粟を栽培できるが、民は惰って耕さなかった。そこで月々に給する馬の芻秣は、すべて現物で納めさせるよう下令し、これにより山田はことごとく開墾された。湖南が飢饉に陥ると、官倉を開いて先に賑済してから上奏しようとしたが、転運使が固く反対した。允則は言った、「上報を待てば一ヶ月を過ぎ、飢えた者は救えなくなる」。翌年また凶作となり、再び先に賑済しようとしたが、転運使がまた固く反対した。允則は家財を担保に提供することを請い、ようやく官倉を開いて安価に売り出せた。そこで役務に堪える飢民を募って軍籍に編入し、一万人を得た。転運使が募兵を発して邵州の蛮を防がせようと請うたが、允則は言った、「今、蛮は攪乱せず、名もなく戍兵を増やせば、かえって辺患を長じる。しかも兵はすべて新たに募った者で、飢えて疲れており、出戍に任じられない」。そこで上奏してこれを罷めさせた。陳堯叟が湖南を安撫した時、民が允則の治績を列挙して留任を請い、堯叟はこれを上聞した。召還され、連日三度対面し、帝は言った、「畢士安は人を知るに誤りなかった」。

洛苑副使に遷り、知滄州となった。允則は州境を巡視し、浮陽湖を浚治し、営塁を修繕し、官舎の間に井戸を穿った。間もなく契丹が来攻し、老幼すべてが保塁に入ったが水に乏しからず、氷を砕いて砲石の代わりとし、契丹はついに解囲して去った。真宗は再び召して言った、「先頃、卿が井戸を浚り屋舎を修めるのは労民だと上言する者があったが、契丹が至って初めて善く備えていたことが分かった」。西上閤門副使・鎮定高陽三路行営兵馬都監に転じ、大陣の東面を押さえた。対面を請い、自ら武芸は長じず、辺境の劇務に当たるべからずと陳述した。帝は言った、「卿は朕のために籌策を運らせばよく、必ずしも矢石に当たらねばならぬものではない」。白金二千両を賜い、幃幄・什器を副えた。諸路に下す宣勅はすべて、必ず先ず允則に属して省覧させてから施行した。王超が敗れた時、人心が震動したが、允則は超に衰絰を着けて軍の方を向いて哭するよう勧め、衆人の忿りを解かせた。真宗は允則が初めしばしば超を促して進兵させたことを知り、手詔を下して褒賞激励した。

契丹と通好し、知瀛州に転じた。上言して曰く、「朝廷はすでに契丹との和議を許された。ただ辺将を選び、誓約を謹み、和好が利ならずと説く者は、一切斥去すべきである」。真宗は言った、「これ朕の意なり」。西上閤門副使に遷った。何承矩が河北縁辺安撫・提点榷場となったが、承矩が病むに及び、詔により自ら代任を選ばせたところ、允則を雄州知州とするよう請うた。初め、榷場で異物の取引を禁じていたが、巡察の者が交易した瑉玉帯を押収した。允則は言った、「これは我が無用の物をもって彼の有用の物と交換するものなり」、とがめずに放免した。東上閤門使・奨州刺史に遷った。河北ではすでに兵を罷めたが、允則は城塁の修治をやめなかった。契丹主が言った、「南朝はなお城備を修めるが、誓約に違背するのではないか」。その宰相張儉が言った、「李雄州は安撫使であるが、その人は長者であり、疑うに足らぬ」。間もなく詔が下って詰問したが、允則は奏上して言った、「通好の初めに直ちに完治しなければ、他日頽廃すればこれにより守備が廃れ、辺患は測り難い」。帝はこれを然りとした。

城の北に旧来甕城があったが、允則は大城と合体させて一つにしようとした。先ず東嶽祠を建立し、黄金百両を出して供器とし、鼓吹を道に並べて導き、住民が争って金銀を献じた。久しくして密かに自ら撤去し、盗賊が北より来たと声言し、そこで盗賊捕縛を下令し、三度文書を北界に移し、ようやく版築を起こし、祠を護ると言い触らした。そしてついに關城を築き濠を浚い、月堤を築き上げ、これにより甕城の住民はすべて内城に入った。初め、州民は多く茅で屋根を葺いていたが、允則は西山より材木を伐り出し、大いに倉廩・営舎を建てた。初めて民に陶瓦・甓を焼かせ、里閈に標識を立て、廊市・邸舎・水磑を設置した。城上にはすべて甓を累ね、下には溝塁を環らせ、麻を植え、榆柳を植えた。閻承翰が修めた屯田を拡大し、石橋を架け、亭榭を構え、堤道を列ね、安粛軍・広信軍・順安軍に通じさせた。

毎年修禊の行事を行い、界河の戦棹を召して競渡とし、北人に遊観を許し、ひそかに水戦を寓した。州の北には旧来多く陷馬坑を設け、城上に楼を築いて斥候とし、十里を望見した。兵を罷めて以来、人は敢えて登らなかった。允則は言った、「南北すでに和を講じた。何ぞこれを用いんや」。命じて楼を撤去し坑を埋め、諸軍の蔬菜園とし、井戸を浚い溝渠を通じ、畦隴を列ね、短垣を築き、縦横にその中を通し、荊棘を植えて、その地をいっそう阻隘ならしめた。そこで坊巷を整備し、浮図を北の原上に移築し、州民は朝夕これに登って三十里を望見した。安撫司に令を下し、管轄境内の隙地にはすべて榆を植えさせ、久しくして榆は塞下に満ちた。僚佐を顧みて言った、「これは歩兵の地であり、騎戦に利せず、ただ屋材を供するのみならんや」。

上元節には旧来燈を燃やさなかったが、允則は彩山を結び、優楽を集め、民に夜を徹して遊ばせた。翌日、北酋がひそかに城中に入り観ようとしているのを偵知し、允則は同僚とともに郊外で待ち受けた。果たして紫衣の者が来たので、ともに伝舎に入り、一言も交わさず、奴婢・女楽を出して左右に侍らせ、大いに飲んで終わらせた。かつてその乗った騾を廡下に置き、逃げ去らせたが、それは幽州統軍であった。数日後、契丹に誅殺された。かつて軍中で宴を催した時、甲仗庫が火災した。允則は音楽を奏で酒を巡らすのをやめず、副使が救火を請うたが答えなかった。しばらくして火が消え、焼けた物をすべて埋めるよう命じ、密かに吏を遣わして檄を瀛州に持ち行かせ、茶籠で器甲を運ばせた。十日と経たぬうちに、兵数はすでに完備し、人に知る者はなかった。枢密院が火を救わなかった罪状を弾劾しようと請うたが、真宗は言った、「允則には必ず謂れがある。姑く詰問せよ」。答えて言った、「兵械を蔵する所は、火の警戒は甚だ厳重である。宴を催している最中に焼けたのは、必ず奸人の仕業である。宴を捨てて救えば、事は測り難きに至るかも知れぬ」。

また間諜を捕らえ、縄を解いて厚遇したところ、間諜は燕京大王が派遣した者であると言い、そこで辺境の金穀・兵馬の数を刺探したものを出した。允則は言った、「もし得たものが誤りであれば」と。主吏を呼んで簿籍に基づき実数を書き与えた。間諜は封印を加えるよう請うたので、厚く金を賜い、釈放して帰した。間もなく、間諜は急ぎ至り、与えた数を返し、封印は元のままで、逆に彼の地の兵馬・財力・地理の委曲を出して報告とした。ある日、民が契丹の民に殴打されて傷を負い、逃げ去ったと訴える者があったが、允則は処罰せず、傷ついた者に二千銭を与えた。人々は臆病だと思った。一月余り過ぎて、幽州がその件を問い質してきたので、無かったと答えた。おそらく他の間諜が殴打事件を証拠としようとしたのであろうが、返答を得て、虚妄であると思い、間諜を殺したのである。雲翼の兵卒が契丹に亡命した。允則は文書を送り返還を督促した。契丹は所在を知らないと返答した。允則は言った、「某所にいる」と。契丹は驚き、隠しきれず、兵卒を帰した後、斬って示しにした。四方館引進使・高州團練使を歴任した。天禧二年、客省使として鎮州知州となり、潞州に移った。仁宗が即位すると、康州防禦使を兼ねた。天聖六年、死去した。

允則は威儀を重んじず、時折歩き出て、語りかけるに値する民に出会えば、座に招いて語り合い、これによって人情に通じていた。訴訟が至れば、大小を問わず面と向かって訊問し、即座に裁断した。士卒をよく撫で、皆その用を成した。盗賊が発生すればすぐに捕らえ、人々もその方法を知らなかった。身に二重の衣はなく、食に重ねた珍味はなく、資財を蓄えなかった。河北に二十余年おり、事功が最も多く、その方略や施設は、遊観や亭伝の間に託されていたが、後人も敢えて廃することはなかった。国信の往来に至っては、費用や儀式を多く裁定した。晚年は京師に住み、契丹から亡命して帰ってくる者があれば、皆允則の家に住まわせた。允則が死ぬと、初めて枢密院の大程官営に寓居した。

張亢

張亢、字は公壽、自ら後唐の河南尹張全義の七世の孫であると称した。臨濮に家を構えた。若い頃から豪邁で奇節があり、兄の張奎に仕えて甚だ謹んだ。進士に及第し、広安軍判官・応天府推官となった。白沙・石梁の二渠を治め、民は水害がなくなった。大理寺丞に改め、簽書西京判官事となった。

鎮戎軍の通判となり、上言した、「趙徳明が死に、その子の元昊は誅殺を好み、勢い必ず制し難いであろう。急ぎ辺防を整えるべきである」と。そこで西北の攻守の計について論じ、数十回上奏した。仁宗は彼を用いようとしたが、ちょうど母の喪に服した。その後、契丹が幽・涿の間に兵を集め、河北が守備を増強したため、遂に起用されて如京使・安粛軍知軍となった。そこで入朝して対し言った、「契丹は毎年金帛を厚く享受しているが、今その主は弱く、年は凶作であり、中国が征伐するのを恐れ、特に大言しているだけで、実情ではない。万一約束に背くことがあれば、臣は甲を擐えて諸軍の先鋒とならんことを請う」と。

元昊が反乱を起こすと、涇原路兵馬鈐轄・渭州知州となり、累進して右騏驥使・忠州刺史に至り、鄜延路に移り鄜州知州となった。上疏して言った、

「旧制では、諸路の総管・鈐轄・都監はそれぞれ三、両員を超えず、その他の官は位が高くても、ただ一路を超えない。総管・鈐轄は本路の事には関与しない。今は各路多くは十四五員に至り、少なくとも十員を下らず、皆本路の分事を兼ね、互いに統制せず、凡そ論議があれば、互いに報告が異なる。唐の総管・統軍・都統・処置使・制置使を按ずるに、それぞれ副貳があった。国朝にも経略使・排陣使があった。故事に倣い、別に使名を置き、各路の軍馬の事は、ただ三、両員がこれを統率することを請う。

また涇原一路は、総管・鈐轄・都監・巡検及び城砦の所部六十余所からなり、兵の多いものは数千人、少ないものはわずか千人であり、兵勢が既に分散しているため、大敵に当たるには足りない。もし敵が一万人を二十隊とし、多く声勢を張って我が軍を引きつけ、後に三、五万の大軍で突入奔襲すれば、どうして支えられようか。

また近頃、主将と軍伍の移動が定まらず、人馬の強弱、配属が均しくなっていない。今、涇原の正兵は五万、弓箭手は二万、鄜延の正兵は六、七万を下らない。もし能く予め団結し、節制を明らかに定め、互いに応援し合い、逸をもって労を待てば、烏合の飢えた衆が、どうして我が浅深を窺うことができようか。韓琦・范仲淹に下命して分かれて巡按させ、各路ごとに馬歩軍八千以上から一万人を以て、才位ともに高い者を選んで総領とすべきである。その下を三将に分ける。一は前鋒、一は策前鋒、一は後陣とする。毎将に使臣・忠佐を三、両人ずつ配し、要害の地に分屯させる。敵が小規模に侵入すれば一将が出撃し、大規模に侵入すれば大将が出撃する。

また敵の数の多少を量り、隣路に出兵させて応接させる。これいわゆる常山の蛇の勢いである。今、一万人以上を一大将とし、一路にはまた主帥がいる。延州は三大将を統率し、鄜州は一大将、保安軍及び西路巡検・徳靖砦は合わせて一大将とすれば、鄜延路の兵は五万人となる。原州・渭州・鎮戎軍はそれぞれ一大将、渭州山外及び瓦亭はそれぞれ一大将とすれば、涇原路は五万人となる。弓箭手・熟戸はこれに含まない。先の延州の敗戦は、諸将が自ら守り、互いに応援しなかったためである。辺臣に予めその法を定めさせ、敵が某所を寇すときは、某将を先鋒とし、某将は某所より出て奇兵とし、某将は某所より出て声援とし、某城砦は近くより敢戦の死士を出し、某所に伏兵を設け、都・同巡検はそれぞれ要害を扼することを請う。

また隣路に命じて某路より出て応ずるようにし、なお密かに旗幟を号として用いる。先に劉平が延州を救援したとき、前鋒が賊に陥った者は既に二千騎に及んだが、劉平はまだ知らなかった。趙瑜が馬軍を率いて間道より先に進んだが、趙振と王逵は塞門に向かい、高頭平路に至ったとき、白馬が敵が青蓋を張って山の東に駐ると報じた。趙振が兵を指揮して掩襲したところ、それは趙瑜であった。臣が山外で策応したとき、本指揮の旗号を用いず、自ら五行の干支によって別に引旗とした。もし甲子の日に本軍が相遇すれば、先に見た者は青旗を張り、後から見た者は緋旗でこれに応じる。これは干が相生するからである。その干が相克する場合及び支が相生相克する場合もまたこれと同じである。兵馬の出入りは、昼間であれば百歩の外では互いに知ることができない。もし予め号を定めなければ、必ず軍事を誤る。国家は平穏な日が久しく、訓練を失っている。今、毎指揮で技芸に精しい者は百余人を超えず、その他は皆痩弱で用をなさない。かつ官軍の恃むところは、歩軍と強弩のみである。臣が渭州を知ったとき、広勇軍の弩を引く者三百五十人を見たが、一石二斗を引く者はわずか百人、その他はわずか七、八斗に及ぶのみで、正に閲習の時に力を易えることを欲するのみである。臣が跳鐙弩で試したところ、皆張ることができず、十余日閲習して、ようやく百余人を得た。また小坐法を教えたが、これも十余日、さらに帯甲小坐法を教えたが、五十余日を経てようやく熟達した。もし前の弊を安んじて新たな敵に応ずれば、必勝の理があろうか。

また兵官は辺境の事を誇張し、進昇の媒介とし賞を邀える。劉平の敗戦は、正に功を貪り軽々しく進んだためである。鎮戎軍は最も賊境に近く、賊騎の到来を報ずるごとに、多寡を問わず、凡そ兵を主る者は皆出撃し、辺壕に至れば賊は既に去っていた。権力が均しく勢いが等しいため、互いに譲らず、もし出撃しなければ、怯懦の罪を得ることを恐れるからである。かつ諸路の騎兵は険を馳せず、その芻粟を計れば、一馬の費用で歩軍五人を養える。馬が規格に及ばないものは、悉く坊監に還すべきで、十の三のみを留め、残りは歩兵で代える。また近頃、禁衛の隊長は、年功によって前班に換える者があり、あるいは諸司使副となり、白丁が武技を試みても、また官を命じられる。しかし諸路の弓箭手は辺陲に生長し、父祖が命を尽くし、累世賊を防いでいるのに、進擢の路が無い。どうして辺民を激励できようか。

臣は密かに聞く、大帥が五路より進軍することを議し、かつ用兵以来、屡々出でて功なく、若し一旦深く入らば、臣は切に未だ可ならずと為す。山界の諸州城砦は、辺境よりただ二三百里に距たり、夏の兵器甲冑は精利なりと雖も、其の闘戦は山界の部族に及ばず、而して財糧も又尽く山界より出づ。若し十月後に諸将をして番を分ちて界を出でしめ、夏人をして耕牧することを得ざらしむ。然る後に歩兵を出し、十日分の糧を負はしめ、人には日に米一升を給し、馬には日に粟四升・草五分を給す。賊界に草地有らば、半ばを以て放牧に資し、亦た運送の半を減免すべし。王師既に行かば、唃廝囉及び九姓回紇をして其の後を分制せしめ、必ずや巣穴を蕩覆せん。」

又言す、「陝西の民の調発の苦は、常歳より数倍す、宜しく一切権に罷め、安撫司に令して逐州の長吏と他役を減省し、専ら辺須に応ぜしむべし。及び殿侍・軍将各三十人を選び、駝・騾各二百を以てし、其の半を河中に留め、以て鄜・延・保安軍の軍須を運ばしめ、其の半を乾州或は永興軍に留め、以て環・慶・原・渭・鎮戎軍の軍須を運ばしめ、一転運使を分ちて専ら其の事を董せしむべし。又た鄜州四路は半ば衝要に当たり、嘗て閑慢路の遞鋪兵卒の半を以て、衝要二路に貼せしむ。駅に百人、毎に三人小車を挽き、二百五十斤より三百斤を載す。若し団併して輦運せば、辺計も亦た未だ備を失ふに至らず、而して民力を以て寛にすべし。」

初め、亢は駅を乗りて入対することを請ふ、詔して手疏を上ぐるを令す。後に多く施用す。西上閤門使に進み、都鈐轄に改め、延州に屯す。又た辺機軍政措置の宜しからざる者十事を奏し、言ふ。

「王師の毎に出でて利あらず、豈に節制立たず、号令明らかならず、訓練至らず、器械精ならざるに非ずや。或は敵の詭計に中り、或は自ら功を貪り、或は左右前後自ら相救はず、或は進退出入其の便を知らず、或は兵多きも而も用ふる能はず、或は兵少なきも而も避くる能はず、或は権を執る者に逼られ、或は懦将に牽かれ、或は人馬困饑して奮ふ能はず、或は山川険阻して通ずる能はず。此れ皆将の兵を知らざるの弊なり。未だ深く敗を致すの由を究めて之が為に措置するを聞かず、徒らに兵馬を益すも、未だ勝術を見ず。一なり。

去春、敵の延州に至るや、諸路援兵を発す。而して河東・秦鳳は各千里を逾え、涇原・環慶は十程を減ぜず。去秋、賊の鎮戎に出づるや、遠く鄜延より兵を発し、千里遠く闘ひ、鋭気已に衰ふ。賊の已に退くに若し、乃ち是れ空しく師徒を労するなり。異時に更に別路を寇すも、必ず又此の如くならん。是れ戦はずして自ら弊するを謂ふ。二なり。

今、鄜延副都総管許懷德は環慶軍馬を管勾するを兼ね、環慶副総管王仲寶は復た鄜延を兼ぬ。其の涇原・秦鳳総管等も亦た隣路を兼ぬ。互いに策応せしむるを令すと雖も、然れども環州より延州に至るまで十四五駅、径ちに赴くも亦た十駅に下らず。涇原より秦鳳に至るまで千里、若し兵を発して互いに援けば、而して山路険悪、人馬の力已に竭く。三なり。

四路の軍馬は各五六万に下らず、朝廷力を罄して供億す。而して辺臣は但だ兵少なしと言ひ、毎路更に十万人を増さんと欲す。亦た未だ功效を見ず。且つ兵に節制無きは一の弊、奇正無きは二の弊、応援無きは三の弊、主将一ならざるは四の弊、兵分れて勢弱きは五の弊。此の五弊有りては、市人を駆りて戦はしむるが如く、百万有ると雖も、亦た事に益無し。四なり。

古人の教習は、須く三年にして後に成る。今の用兵已に三年なり。将帥の材孰れか賢く孰れか愚か、攻守の術孰れか得て孰れか失ふ、累年敗衄して、而して辺要に居る者未だ何の謀あるを知らず。数年にして兵を罷めざらしめば、国用民力、何を以てか克く堪へん。若し之に因りて饑饉を以てし、之に加ふるに他寇を以てせば、則ち安危の策、未だ如何なるかを知らず。五なり。

今、辺事を言ふ者甚だ衆し。朝廷或は即ち奏可し、或は再び詳究して以て聞かしめ、或は有司に付す。前条方に行はれ、後令即ち変ず。胥史に鈔録の労有り、官吏に商略の暇無し。辺防軍政、一も定制無し。六なり。

夏竦・陳執中は皆朝廷の大臣なり。凡そ辺事有らば、当に之を付して疑はずすべし。今但だ文書を主とし、詔令を守り、毎に宣命有れば、則ち翻録して行下し、諸処の申稟するに若しは、則ち朝旨を候はしむ。是の如くんば、何を以て必ずしも大臣を以て事を主たせん。七なり。

前、河北に用兵するに、冗官を減じて以て費を省く。今、陝西日に以て員を増す。制置青白塩使副・招撫蕃部使臣十余員の如き、占むる所の兵士千余人、請給歳約万緡。復た都大提挙馬鋪器甲の類有り、諸州並びに克敵・致勝・保捷・広鋭・宣毅等の兵を募る。久しく未だ団結訓練せず、但だ軍廩を費し、辺備に益無し。八なり。

今、軍に手藝有る者、兵を管するの官、毎一指揮に、三の一を抽占す。延州の諸将出でざるに若しは、即ち兵二万有り、五千を除きて城を守る外、其の余は只だ一万五千に止まる。若し警急有らば、三日の内に団集する能はず。況んや四十里外は便ち敵境なり。一たび奔突有らば、何を以てか之を備へん。九なり。

陝西に郷兵を教集するに、共に十余万人。市井の無頼、名は尺籍に掛かり、心は田夫を薄しむ。豈に奸盗其の中に雑ぜざらんや。苟くも措置無くんば、他日患ひと為る小さからず。十なり。」

既にして復た利害を面陳するを請ふ、報へず。

会に元昊益々熾なり、兵を以て河外を囲む。康德輿は守禦の才無く、属戸の豪乜囉叛き去り、夏人を導きて後河川より府州を襲はしむ。兵の近道に至りて始めて覚り、而して蕃漢の民殺掠せらるる已に衆し。城を攻めて下す能はず、兵を引いて琉璃堡に屯し、遊騎を縦して麟・府の間を鈔す。二州壁を閉じて出でず。民飲むに乏し、黄金一両に水一杯を易ふ。時に豊州は已に夏人の破る所と為り、麟・府勢孤なり。朝廷河外を棄てて保徳軍を守るを議す未だ果たさず、亢を徙めて幷代都鈐轄・管勾麟府軍馬事と為す。単騎にて城を叩き、授かる所の敕を出して城上に示す。門啓き、既に入りて、即ち民をして薪芻を出でて采り澗谷に汲ましむ。然れども夏人は猶ほ時に出でて鈔掠す。亢は州東の焦山に石炭の穴有るを以て、東勝堡を築き、城下の旁に蔬畦有るを以て、金城堡を築き、州北の沙坑に水泉有るを以て、安定堡を築き、兵を置きて之を守らしむ。人を募りて外に獲せしめ、腰鐮と衛送する者均しく得しむ。其の時禁兵は皆敗北し、闘志無し。乃ち役兵の敢戦する者を募り、夜に隘道に伏し、夏人の遊騎を邀撃す。比明するに、首級を持ちて来たり献ずる者有り。亢は錦袍を以て之に賜ふ。禁兵始めて慚奮して曰く、「我顧みて彼に若かざらんや」。又た之をして飲博せしむ。方に窘乏して利を幸ふに、咸く一戦を願ふ。亢用ふ可きを知り、始めて琉璃堡を撃たんと謀り、諜をして敵砦の旁の草中に伏せしむ。老羌の羊の髀を炙して吉凶を占むるを見て、驚きて曰く、「明日急兵有るべし、且つ趣いて之を避けよ」。皆笑ひて曰く、「漢児は皆頭を膝の間に蔵す、何ぞ敢へん」。亢備無きを知り、夜に兵を引いて襲撃し、之を大破す。夏人堡を棄てて去り、乃ち宣威砦を歩駝溝に築きて寇路を捍ぐ。

時に麟州の輸送路は未だ通じておらず、詔勅により劉亢は自ら賞賜の物品を護送して麟州に送った。敵は既に財貨を奪えず、遂に兵数万を率いて柏子砦に向かい邀撃してきた。亢の率いる兵は僅か三千人であったが、亢は彼らを激しく奮い立たせて言った、「汝らは既に死地に陥っている。前に進んで戦えば生き残ることができ、そうでなければ賊に皆殺しにされて一人も残らないであろう。」兵士たちは皆感激して奮い立った。折しも天は大風が吹き、順風に乗ってこれを撃ち、六百余級を斬首し、互いに踏み躙られて崖谷に落ちて死んだ者は数え切れず、千余匹の馬を奪った。そこで建寧砦を修築した。夏人はたびたび出て争い、遂に兔毛川で戦った。亢は自ら大陣を率いて抗し、一方で驍将の張岊に短兵と強弩数千を率いさせて山後に伏せさせた。亢は万勝軍が皆、京師で新たに募集した市井の無頼の子弟であり、疲弊して柔弱で戦えないことを知り、敵はこれを「東軍」と呼び、平素から軽んじており、一方で虎翼軍の勇猛さを恐れていた。亢は密かに彼らの旗を交換して敵を誤らせ、敵は果たして「東軍」に向かったが、遭遇したのは虎翼軍の兵卒であり、長時間にわたって激戦し、伏兵が現れると、敵は大敗し、二千級を斬首した。一ヶ月も経たぬうちに、清塞・百勝・中候・建寧・鎮川の五つの堡を築き、麟州・府州の間の道はようやく通じた。

劉亢はまた上奏した、「今通じているのはただ一つの道のみである。併せて辺境の諸柵を増設して互いに支え合うように請う。そうすれば田牧を広げ、河外の勢いを壮んにすることができる。」議論が未だ決まらぬうちに、契丹が盟約を破ろうとしたため、果州団練使を領し、瀛州知州となった。葛懷敏が敗れると、四方館使・涇原路経略安撫招討使・渭州知州に遷った。亢は詔を聞くと即座に出発したが、到着した時には敵は既に去っていた。鄭戩が四路を統轄し、亢は彼と議論が合わず、引進使に遷り、幷代副都総管に転じた。御史の梁堅が亢が庫の銀を出して牙吏に与え成都で交易させ、利益を私したと弾劾し、引進使を奪われ、本路の鈐轄となった。夏人が契丹と河外で戦った時、再び引進使・副都総管となり、代州知州兼河東沿辺安撫事を拝命した。范仲淹が河東を宣撫した時、再び亢が以前に増築した堡砦について上奏し、彼にその総責任を担わせるべきであるとした。詔が下った後、明鎬はこれを不可とし、たびたび牒を送って止めさせた。亢は言った、「詔を受けて堡砦を設置するのである。経略の牒によって止めることができようか?節度に違反する罪に坐するとしても、死をもって甘んじる。堡砦は必ず築く。」牒を受けるたびに、机の上に置き、工事の監督をますます急がせた。堡が完成すると、封を開けて自らを弾劾したが、朝廷はこれを問わなかった。蕃漢の帰順者は数千戸に及び、毎年の戍兵を一万人減らすことができ、河外は遂に幷州・汾州の遮蔽となった。

再び瀛州知州となり、上言した、「州は小さく人口が多いため、緊急時に収容する場所がない。もし東南の関を広げれば、民家は皆城中に入ることができる。」夏竦は以前陝西にいた時、亢が自分に附かないことを憎み、特にこの工事を妨害したが、結局城は完成した。眉州防禦使を加領し、再び涇原路総管・渭州知州となった。郊祀の賞与を支給する際、州の庫の物品は良質で評価額が低かったが、三司が支給する物品は粗悪で評価額が高かった。亢はその価値を均等にして軍人の便宜を図った。転運使が亢が三司の評価額を擅に減らしたと上奏した。夏竦が枢密使となった時、防禦使を奪われ、磁州知州に降格した。御史の宋禧が続いて亢がかつて庫銀で交易したと上言し、再び引進使を奪われ、右領衛大将軍・寿州知州となった。

後に陝西転運使が亢が交易に用いた庫銀は私したものではないと上言し、将作監・和州知州に改められた。挙薦を誤った罪に坐し、筠州に転じた。久しくして、再び引進使・果州団練使となり、また眉州防禦使・真定府路副都総管に復した。客省使に遷り、足の病のため衛州知州となり、懐州に転じた。隣郡の太守と河川の事を議し、国境を越えて一晩中過ごして帰った罪に坐し、曹州鈐轄に降格した。河陽総管に改められたが、病気を理由に辞退し、秘書監となった。間もなく、再び客省使・眉州防禦使・徐州総管となり、死去した。

劉亢は施しを好み財を軽んじ、凡そ宴会や犒賞、贈り物は、類い稀なほどに厚く、人を派遣して貿易させその費用を補助したが、なお不足した。このため人々は喜んで彼のために働いた。同じ学舎の者が吏部の官となったが、亢はその老齢を憐れみ、県令に推薦した。後にその者に連累されて筠州に出されたが、帰還すると、推薦した者が再び援助を求めた。亢はまた金帛を贈り、終始気にかけなかった。軍を統御するには厳明で、赴任先には風紀と治績があり、民はその像を描いて祠に祀った。

兄 劉奎

劉奎、字は仲野、劉亢に先んじて進士に及第した。幷州・秀州の推官を歴任し、衢州の酒務を監察した。徐生という者が人を殴り殺し、婺州の獄に繋がれ、再審の度に冤罪を訴えた。転運使が劉奎に再審理を命じた。奎は囚人の記録の印の穴が偽物であるのを見て、深く探求すると、獄吏が書き換えたものであった。遂に徐生を釈放し、獄吏を罪に処した。人々は驚いて服した。同時に推薦された者は三十九人おり、大理寺丞に改められ、合肥県知県となり、南充県に転じた。

殿中丞として瀘州の通判となり、罷免されて帰還した。時に秦州の塩税が数十万緡不足し、事は十一州に連座した。詔により奎が往って調査し、帰還して上奏したところ、三司が塩引の発行を遅滞させたのが原因であり、諸州の罪ではないと。そこで言上した、「塩法は軍費を充足させるためのものであり、仁政の行うべきことではない。もしやむを得ないなら、商人に転売流通させ、ただ関市でその税を徴収すれば、上下ともに利益がある。重い禁令を設けて流通を阻害し民を苦しめるのと、どちらがよいか?」そこで負債は全て免除された。間もなく、江州知州となり、楚州に転じ、太常博士に遷り、召されて殿中侍御史・滑州知州となり、邢州に転じた。母が病むと、自ら腿の肉を切り取って薬と合わせて進め、母は遂に全快した。その後母が亡くなると、墓の傍に廬を建て、自ら土を背負って松柏を植えた。

喪が明けると、度支判官を授かり、出向して京東転運使となり、侍御史として河東転運使となり、刑部員外郎・知御史雑事に進んだ。京東を安撫し、民を募って軍に充てること凡そ十二万、州県の吏の有能・無能数十人を上奏した。帰還して戸部副使となった。陝西を四路に分割した時、天章閣待制・環慶路経略安撫招討使・慶州知州に抜擢されたが、父の名が余慶であることを理由に辞退したが、許されなかった。陝西都転運使・永興軍知軍・河東都転運使を歴任し、龍図閣直学士を加え、澶州・青州・徐州・揚州等の知州となり、再び吏部郎中に遷った。

時に李宥が江寧府知府となり、府の官舎が全て焼失した。諫官が言うには、金陵は最初に封じられた地であり、守臣が火事を注意深く見守らなかった。才幹ある臣を選んで修復させるべきであると。右諫議大夫・江寧府知府に遷った。奎は材料と工匠を選び、全て旧制に従い、時を移さずに再び完成させた。帰還し、吏部流内銓を判じ、審官院・河南府知府に転じた。河南の宮殿は年久しくかなり崩れていたが、奎は大いに修復した。また唐代の街路に基づき、各坊に標榜を分けた。初め、張全義が洛陽らくようを四十年守り、洛陽の人々はその徳を慕い、生前に祠があった。奎の偉大な風貌を見て、人々は言った、「真に斉王の孫である。」そこでまた斉王祠を復興させた。一年余り後、善政で名が聞こえ、給事中に遷り、朝廷に帰った。京東で盗賊が起こると、枢密直学士を加え、鄆州知州となり、数ヶ月で諸盗賊を捕らえ、悉く平定した。

劉奎は身を治めるに法度があり、風格と識見は精強で、赴任先には治績があり、吏は欺くことを敢えなかったが、ただ苛細に過ぎる点があった。劉亢は豪放で功名を好み、細かいことに拘らなかった。兄弟の行いはこのように異なっていたが、皆一時に名を知られた。子の劉燾は、龍図閣直学士となった。

劉文質

劉文質は、字を士彬といい、保州保塞の人で、簡穆皇后の従孫である。父の審琦は虎牢関使となり、李重進討伐に従って戦死した。文質は幼くして母に従い禁中に入り、太宗より左班殿直に任じられ、西頭供奉官・寄班祗候に遷った。帝は彼を大いに親信し、しばしば外事について尋ねた。かつて内侍の竇神興に言った、「文質は朕の近親であり、また忠謹である。白金百斤を賜え」と。出て両浙走馬承受公事となり、抜擢されて西京左蔵庫副使・岢嵐軍使となり、金帯・名馬を賜った。麟州知州に転じ、麟府濁輪砦兵馬鈐轄に改めた。蕃酋の萬保移を撃ち、これを走らせた。河を越えて契丹を破り、黄太尉砦を抜き、殺獲は万を数え、錦袍・金帯を賜った。慶州知州に転じた。

李継遷が侵入すると、文質は兵を出そうとしたが、官吏が庫の銭を発することを敢えてしなかった。そこで私銭二百万を軍に給し、兵士は皆感激奮発し、遂に賊を大破した。涇州に転じ、麟州・清遠軍都監を充て、また枝子平で敵を破った。咸平年中、清遠軍が陥落し、逗撓の罪で官を奪われ、雷州に安置された。久しくして、起用されて太子率府率・杭州駐泊都監となった。泰山封禅の際、内殿崇班として青・斉・淄・濰州巡検となった。礼賓副使・石隰縁辺同都巡検使に進み、秦州鈐轄に転じた。小落門砦を築き、自ら兵士を率いて版築した。時に李浚が秦州知州となり、これに因んで白金五百両を賜った。

天禧年中、代州知州となった。先に、蕃部が逃亡兵を捕らえると、絹二匹・茶五斤を与え、兵卒は皆死罪とされていた。時に百三十九人を捕らえ、文質は二十九人を取り上げ、赦後に法に照らして論じ、残りは悉く他州に配隷した。再び遷って内園使・邠州知州となり、しばしば曹瑋に従って出戦し、堡障を築いた。再び秦州鈐轄に転じ、連州刺史を領し、再び代州知州となり、卒去した。家に厚く賻を与え、子三人に官を授けた。

文質は簡穆皇后の親族であり、また父が国事に死したため、前後して諸将とは異なる賜与を受けた。真宗はかつて保塞の旧事を問うと、文質は宣祖・太祖の賜書五函を上った。仁宗もまた書を賜って彼に与えた。しかし性質は剛直で、短所を批評するのを好み、貴近に対しても避けるところがなかったため、大いに顕れなかった。子は十六人おり、渙・滬は皆名を知られた。

子の渙

渙は、字を仲章といい、父の任子として将作監主簿となり、へい州の倉を監った。天聖年中、章献太后が長く臨朝すると、渙は天子の年齢が加わるにつれ、上書して政権を返還するよう請うた。太后は激怒し、げい面して白州に隷させようとしたが、呂夷簡・薛奎が力諫して免れた。仁宗が親政すると、右正言に抜擢された。郭后が廃されると、渙は孔道輔・范仲淹らと共に闕に伏して争い、皆罰金を科された。時に河東走馬承受が上奏したことには、渙がかつて并州に官し、営妓と遊んだという。磁州通判に左遷され、まもなく遼州知州となった。

夏人が叛くと、朝廷は使者を遣わして河西の唃氏と通じることを議し、渙は行くことを請うた。間道を走って青唐に至り、恩信をもって諭した。唃氏は大いに族帳を集め、死を誓って辺境を防衛し、騎兵を遣わして国境を護り、その誓書と西州の地図を得て献上した。直昭文館を加えられ、陝西転運使に遷り、工部郎中より滄州知州となり、吉州刺史に改め、保州知州となった。州は戍卒の叛乱後、兵士はますます驕慢であった。渙が至ると、虎翼軍が城を挙げて叛こうと謀り、民は大いに恐れた。渙は単騎でゆっくりと営門を叩き、首悪者を械で捕らえて帰り、これを斬ると、一軍は服従した。登州に転じ、刀魚船を整備して海寇に備えると、寇は敢えて侵犯せず、詔してこれを嘉奨した。

歴任して邢・恩・冀・涇・澶の五州知州となった。恩州は賊の蹂躙後、渙が経理繕葺に順序があり、兵民が法を犯せば一切重典を用い、威令は大いに振るった。治平年中、河北で地震があり、民は粟に乏しく、朝夕をしのぐために耕牛を安売りしていた。渙は澶州に在り、公銭を尽くしてこれを買った。翌年、民は牛がなく耕せず、価格は十倍に増した。渙は再び買い入れた牛を出し、元の値段で民に与えたので、澶州の民は失業せずに済んだ。歴任して秦鳳・涇原・真定・定州路総管となり、四遷して鎮寧軍節度観察留後に至った。熙寧年中、還朝し、工部尚書として致仕した。

渙は才略があり、気概を重んじて束縛されず、事に臨んで避けるところがなかったが、進取に鋭かった。ちょうど洮・岷を開拓し、安南を討とうとした時、渙は既に老いていたが、なお露章して自ら効力することを請うたが、返答はなかった。卒去し、年八十一。

子の滬

滬は、字を子浚といい、書伝をよく知り、沈着で寡言、知略があった。蔭補により三班奉職となり、累遷して右侍禁となった。康定年中、渭州瓦亭砦監押となり、静辺砦を権知し、党留等の族を撃破し、驍将一人を斬り、馬・牛・駱駝を万単位で獲た。時に任福が敗れ、辺城は昼も閉ざされ、住民の畜産は多く賊に掠奪されたが、滬だけは門を開いてこれを受け入れた。

左侍禁に遷り、韓琦・范仲淹が推薦して閤門祗候を授けた。また穆寧生氐を破った。西南に略陽から二百里のところに、水洛という城があり、川は平らで土は肥沃、また水輪・銀・銅の利があり、城を囲んで数万帳、漢民の逃亡者がこれに帰し、百工商賈を教え、自ら完備した国を成していた。曹瑋が秦州に在った時、かつて経営したが得られなかった。滬は章川に進んで城を築き、良田数百頃を収め、屯兵を増やし、密かに人を遣わして城主の鐸廝那を説き、内附させようとした。時に鄭戩が辺境を巡行し、滬は遂に鐸廝那とその酋長の属を召して結公・水洛・路羅甘の地を献上させ、属戸となることを願わせた。戩は即座に滬に兵を率いて行き、地を受け取らせた。既に到着すると氐の情勢が中変し、数万の兵を集めて合囲し、夜に火を放って呼嘯し、官軍を皆殺しにしようとした。滬の兵は僅か千人、前後数百里に援けはなく、滬は堅く臥し、朝食をゆっくりとらせるよう命じ、胡床に坐って進退を指揮し、一戦で氐は潰走し、石門まで追撃し、酋長は皆額づいて降伏を請うた。そこでその衆を尽く麾下に隷属させ、秦・渭の通路を通じさせた。また臨洮氐を城下で破った。内殿崇班に遷った。

戩は三将の兵を遣わし董士廉を助けさせて城を築かせたが、工事は半ばにも至らず、戩が四路招討使を罷免されると、涇原路の尹洙は不便とみなし、築城を中止させ、かつ滬を召還しようとしたが、滬は聞かず、日ごとに版築を増やして役事を急がせた。洙は怒り、狄青に滬と士廉を械で捕らえ獄に下させた。氐衆は驚き、積聚を収め、吏民を殺して乱を起こした。朝廷は魚周詢・程戡を遣わして視察させると、氐衆は周詢に詣で、牛羊と丁壮をもって工役を助けることを請い、また滬を水洛城砦主に権知させた。城が完成したが、結局本路安撫使の節制に違反したとして、一官を削られ、鎮戎軍西路都巡検となった。再び内殿崇班に復し、頭に瘍ができ、卒去した。弟の淵がその柩を東に帰そうとすると、住民は道を遮って号泣し留まるよう請い、水洛に葬り、城隅に祠を立て、歳時これを祀った。

経略司が言上したことには、熟戸蕃官の牛裝等の状を得たが、滬の子弟にその城を主とさせたいと願うという。そこでその弟の淳を水洛城兵馬監押に命じ、城中には滬の事績を記した碑がある。

趙滋

趙滋は、字を子深といい、開封の人である。父の士隆は、天聖年間に閤門祗候として邠寧環慶路都監となり、戦死した。滋は三班奉職に任じられた。滋は若くして果敢で気概に富み、智略があった。康定元年、右侍禁として京西の叛卒を捕らえるのに功があり、左侍禁に昇進し、後に涇原儀渭・鎮戎軍都巡検となった。時に渭州得勝砦主の姚貴が監押の崔絢を殺害し、宣武神騎の兵卒千余人を脅して叛き、羊牧隆城を攻撃した。滋は馳せ至り、降伏を説いて八百余人を降し、姚貴は窮して砦から逃げ出した。招討使は滋に降卒への賜物支給と将吏への昇補を命じたが、滋はそのようにすれば彼らを乱に誘うことになると考え、その文書を隠して用いず、帰還した。招討使の怒りを買ったため、賞は行われなかった。

范仲淹と韓琦が陝西を経略した際、滋を将領に推挙し、閤門祗候を得て、鎮戎軍西路都巡検となった。時に京西の軍賊張海が長く誅殺されずにいたため、滋を都大提挙陝西・京西路捉賊に任命し、数か月で賊を平定した。後に京東東路都巡検となった。富弼が安撫使となった時、再任を推挙して登州に赴任した。乳山砦の兵が叛き、巡検を殺害した。州の将は首謀者数人を誅したが、徹底的に取り調べなかった。滋は命令を受けて検証・処置に当たり、その陣営に馳せ入り、順次尋問して、徒党百余人を捕らえて獄に下し、衆は敢えて動く者はいなかった。

京東に在ること五年、数度盗賊を捕らえたが、自ら言上せず、富弼が言上したため、東頭供奉官から超擢されて供備庫副使・定州路駐泊都監となった。かつて軍糧を支給した際、同僚が粟が良くないと言ったので、滋は叱責して言った、「お前はこれで兵士を怒らせようというのか。もし兵士が一言でも言えば、まずお前を斬って衆に示すぞ。」韓琦はこれを聞いて豪壮とし、真の将帥の材と認めた。韓琦が河東に在った時、また滋を権幷代路鈐轄に奏挙し、管勾河東経略司公事に改めた。建議して言うには、「代州・寧化軍には万頃の土地があり、いずれも肥沃で、人を募って耕作させ、戦射を教え、堡砦とすることができる。」人々はこれを利とした。

累進して西上閤門副使となり、安粛軍・保州の知州を歴任した。滋は強力で精悍、吏能があり、赴任先で治績を称えられた。時に契丹の民がたびたび約束を破り、小船で界河の中に漁に出たが、役人は事を起こすのを恐れ、数年も敢えて禁じなかった。後にまた大船十余隻を遣わし、海口から塩を運んで界河に入れた。朝廷はこれを憂い、滋を任に適するとみて、雄州知州に転任させた。滋は巡兵に戒め、船が来れば直ちにその者を捕らえて殺し、その船を奪い、文書を送って涿州に返還させたので、漁をする者は遂に絶えた。契丹は使者を遣わしてこれについて言わせたが、瀛州知州の彭思永や河北転運使の唐介・燕度らは、皆滋が事を起こすとし、罷免を請うた。朝廷はかえって有能とみなし、龍神衛四廂都指揮使・嘉州団練使に抜擢し、天武・捧日四廂都指揮使に昇進させた。

英宗が即位すると、端州防禦使・歩軍都虞候を兼ね、白金五百両を賜り、再任を命じられた。間もなく卒去し、遂州観察使を追贈された。

滋は雄州に六年在任し、契丹はこれを恐れた。契丹がかつて大飢饉に遭った時、旧例では米が塞外に出るのは三斗を超えてはならなかったが、滋は言った、「彼らもまた我が民である。」と。米を出すのを何も禁じないように命じたので、辺境の民はその恩徳を感じた。軍を統御するに厳格で、戦卒は旧来労役に服さなかったが、滋は彼らを廂兵のように労役に就かせ、敢えて言う者はなかった。城壁や楼櫓を修繕し、簿書や米塩に至るまで、全て条法があった。性格は特に廉潔で謹厳、月ごとの公使酒を得ても家に持ち帰らなかった。しかし傲慢で自らを誉める点が、その短所であった。

論じて言う。石普は軍事に通暁し、民情に習熟していたが、時政を推し量り、終には罪を得て廃された。張孜は持重と称されたが、その長所を跡づけても、取るに足るものはない。許懷徳は懦弱で事を任せられず、数度貶斥に遭い、その点では石普に遠く及ばない。劉文質は私財を以て軍に給し、かつ人を死から救い出し、官途は不遇であったが、名声は共に顕著であった。渙は小官ながら、母后に抗疏し、暴を鎮め奸を止めることができたのは、その余事である。滬は、水洛の戦いで、悠然と退師し、滬の才略は最も優れていたと言えようか。趙滋は吏能があり、塞下で米を出して契丹を救済したのも、仁人の心遣いである。李允則は河北に二十年在り、施設方略は声気を動かさず、契丹に至っては長者と称された。張亢は儒生から身を起こし、韜略に通暁し、琉璃堡・兔毛川の勝利は、まことに人心を快くさせた。区区の書生でありながら、功名がこのようであったとは、何と壮烈なことであろうか。奎は治跡をもって称えられ、亢と比べれば、いわゆる兄たり難く弟たり難き者であろうか。