蔚昭敏
蔚昭敏、字は仲明、開封祥符の人。父の興は、周の世宗に仕え、数たび戦伐に功あり、また太宗に従って太原を平らげ、終に龍尉都虞候に至る。真宗が襄王であった時、昭敏は東班殿侍より選ばれて襄王府に隷す。帝即位すると、西頭供奉官を授けられ、累遷して崇儀使・冀貝行営兵馬都監となる。契丹が五千騎を以て突如冀州城南に至るや、昭敏は部兵を率いてこれと戦い、これを破り、その器甲を得、賊は遁走し、而して師は一人も失わず。
咸平四年、順州刺史・定州行営鈐轄を領し、兼ねて大陣を押え、また鎮・定・高陽関三路の先鋒となる。契丹が寇すや、帝北巡して大名に至る。契丹退いて莫州に趨る。昭敏は范廷召と共に追って莫州東三十里に至り、首級万余を斬り、生口を多く擒え、契丹は器甲を委棄して遁去す。唐州団練使に拝され、累遷して殿前副都指揮使に至り、都指揮使・保静軍節度使に遷る。足疾のため、謁見に際し拝礼せぬことを命ぜらる。卒す。侍中を贈られる。
高化
高化、字は仲熙、真定の人。少より沈勇にして力あり、耕稼に事えず、撃剣を学び、射を善くす。契丹が河北を犯すや、募に応じて飛狐口に糧餉を転送す。楊業がこれを麾下に留め、賊酋大鵬翼を捕えしむるに、これを獲たり。会に契丹また真定を犯すや、乃ち業に辞して家に還るも、家屬は悉く契丹に掠め去らる。州将に従って京師に入り、遂に禁軍に隷し、選ばれて襄王の牽䪊官となる。王が京尹たる時、内外八廂を巡視せしめ、奸盗を多く捕獲す。盗人に化に金帛を遺す者有りしも、化は受けず。一日、王が急召に趨り府門を出づるや、馬驚きて墮つ。化これを掖えて起たしむ。王曰く「汝無くば、吾幾くんぞ殆からざらん」。益々親信す。
兵を発して明珠族を襲うも、利あらず、滑州総管に降る。興州防禦使・真定路副都総管に改め、高陽関路に徙る。章恵太后の園陵を修護し、累ねて殿前副都指揮使に拝され、建武軍節度使を歴任す。老を以て、管軍を辞す。詔して入朝せしむ。化また固く請うて、武安軍節度使・知滄州に改めらる。未だ行かず、相州に改む。部内に大獄已に具わる有り、皆死を論ぜらるべき所なり。化これを疑い、遣わして訊問を移さしむるに、果たして無罪の者三人を出だす。年を踰え、また老を告げ、右屯衛上将軍を以て致仕す。卒す。年八十。太尉を贈られ、諡して恭莊と曰う。
化は謹質にして過ち少なく、軍を馭するに法有り。行伍より身を起すと雖も、然れども頗る民事を知れり。
周美
周美、字は之純、霊州回楽の人。少くして朔方軍に隷し、材武を以て称せらる。趙保吉が霊州を陥すや、美は其の族を棄て、間道を走って京師に帰る。天子召見し、禁軍に隷す。契丹辺を犯すや、真宗澶州に幸す。城北門に禦するに、美慷慨自ら陳じ、数騎を仮りて契丹の将を縛り闕下に至らんことを願う。帝これを壮とし、常に宿衛せしむ。
天聖初め、徳明の部落が平涼方渠を寇す。美は軍候として辺に戍し、州将と追戦し、これを九井原・烏侖河に破り、斬首甚だ衆し。累遷して天武都虞候となる。元昊反す。陝西兵を用う。経略使夏竦其の材を薦め、供備庫使・延州兵馬都監に擢てらる。夏人は既に金明諸砦を破りし後、美は経略使范仲淹に請いて曰く「夏人は新たに志を得、其の勢必ず復た来らん。金明は辺衝に当たり、我が蔽なり。今急ぎ完うせずんば、将に遂に之を失わん」。仲淹因りて美に属して故の如く城を復せしむ。数日を経ずして賊果たして来たり、其の衆数万金明に薄り、延安城北三十里に陣す。美は衆二千を領して力戦し、暮に抵るも、援兵至らず。乃ち軍を山北に徙し、多く疑兵を設く。夏人望見し、救い至れりと以為い、即ち引き去る。既にしてまた艾蒿砦より出で、遂に郭北平に至り、夜鬥解けず。美は衆を率い、人をして炬を一つ持ちて間道より山上ることを使う。益々旗幟を張り、四面大いに噪く。賊懼れて走る。牛羊・橐駝・鎧甲数千を獲る計り。遂に兵を募りて万安城を築きて還る。敵また金明を寇す。美は兵を引き虞家堡より並びて北山を下る。敵即ち引き却く。文思使に遷り、知保定軍に徙る。経略使龐籍表してこれを留め、東路都巡検使に改む。金湯城にて敵を敗り、其の族部二十一を焚く。
元昊大いに入り、承平砦を拠る。諸将兵を会して攻討を議す。洛苑副使种世衡は三日の糧を齎し、直ちに敵穴を搗かんことを請う。美曰く「彼吾が来るを知り、必ず伏を設けて我を待たん。間道を以て其の不意を掩うに如かず」。世衡聴かず。美独り兵を以て西より芙蓉谷に出で、敵を大破す。世衡等果たして功無し。未だ幾ばくもせず、敵また土塠砦を略す。美は野家店にて迎撃し、北に追って拓跋谷に至り、其の衆を大敗す。功を以て右騏驥使に遷る。軍還り、蔥梅官道谷に柵を築き、以て敵路を拠る。士卒に命じて益々営田を種えしめ、而して穀六千斛を収む。復た衆を率いて廳子部より西し大理河を済い、劄萬多移二百帳を屠り、其の積聚を焚きて帰る。籍・仲淹交わってこれを薦ぐ。鄜延路兵馬都監を除き、賀州刺史に遷る。
初め、美は霊武より来たりし時、其の服する精甲を上る。詔して軍器庫に蔵む。是に至り、黄金を以て加飾し、使を遣わして即ち軍中にこれを賜う。また無定河にて敵を破り、勝に乗じて綏州に至り、其の酋豪を殺し、廬帳を焚き、牛馬・羊駝・器械三百を獲る計り。因りて龍口平砦に城す。敵は精騎数千を以て来襲す。美は百余騎より従い馳せ撃ちてこれを破る。本路鈐轄を加えられ、遂に副総管と為る。龍神衛四廂都指揮使・通州刺史に遷り、捧日・天武四廂都指揮使に進み、陵州団練使となる。
慶暦年間(1041-1048年)に、さらに清水、安定、黒水、仏堂、北横山、乾谷、土明、柳谷、雕巣、盧児、原安の十一の堡塁を築城した。安定の戦役では、間者が数万の敵が大挙して来ると報告し、経略使は管勾機宜の楚建中に諸将の兵を分け与え、黒水へ急行して城を築き待機させた。諸将は敵が来るのを恐れ、兵を与えようとしなかった。美は言った、「兵は常に寡をもって衆を撃つものである。どうして自ら怯むことがあろうか」と。ついに兵二千を建中に与え、敵もまた引き揚げた。辺境からの文書が届くたび、諸将はそれぞれ都合のよい任務を選んだが、美だけは困難を辞したことがなく、向かうところ必ず勝利したので、諸将はこれをもって彼を敬服した。侍衛親軍馬軍殿前都虞候、眉州防禦使、歩軍副都指揮使、遂州観察使、鄜延副都総管を歴任した。召還されて耀州観察使を授かり、さらに馬軍副都指揮使に進んだ。死去し、忠武軍節度使を追贈され、諡は忠毅。
陝西で戦争が始まって以来、諸将は多くが戦果を挙げられなかったが、美は前後十余戦し、二百の族帳を平定し、二十一を焼き払い、種族を招いて内附させた者は十一族、城砦を回復したものは非常に多かった。軍中で得た俸禄や恩賜は、多くを配下の兵士に分け与え、余ればすべて彼らを慰労した。死んだとき、家に余財はなかった。子は早世し、孫の永清を子として、官は引進副使に至った。
閻守恭
閻守恭は、并州榆次県の人である。父の栄は、豪放で志略があり、劉継元が帳下に召し出そうとしたが、母が老いていることを理由に辞退して就かなかった。守恭は生まれつき体貌が奇偉で、栄は言った、「これは必ず太平の天子に仕えるであろう。私は恨みはない」と。その後十七年、劉氏が平定され、太原の民が大名府に移住させられ、そこで家を構えた。并州と汾州の間で行商をして往来し、西山を過ぎたとき、郭進が都巡検使となり、太宗が非常に寵遇していると聞いた。そこで慨然として言った、「郭進も主君に遇わなければ、一兵卒に過ぎない。私は自ら考えてみて、どうして郭進に及ばないことがあろうか」と。そこで募兵に応じ、拱聖軍に所属し、殿前押班に抜擢された。
守恭の性格は沈着で勇猛、軍を統御することは厳格であった。家にいる時も賓客に対面するようであった。常に士大夫を訪ね求め、郭進の事跡を取り上げて師法した。得た俸禄はすべて人に分け与えた。并州にいた時、春の社会(祭礼)に因んで賓客に言った、「守恭は、太原の一貧民に過ぎない。徒歩で刺史の位に至り、老いて故郷で官に就くことができた。分を超えたことが多い。今日、卿らと別れを告げよう」と。十日後に死去した。
孟元
孟元は、字を善長といい、洺州の人である。性格は謹直で過ちが少なく、読書を好んだ。若い頃禁軍に所属し、強弓を引くことで選抜され殿侍に補され、累進して散都頭班指揮使となり、如京使、并代州兵馬都監に抜擢され、鈐轄に改められ、高陽関路に転任し、さらに真定路に転任した。
王則が貝州を占拠して反乱を起こすと、元は城下に赴き攻撃し、数十ヶ所の傷を負い、さらに投石器の石に当たって堀に落ちた。出てくると、ますます奮戦した。さらに死士を募り、永済渠から地下道を掘って進んだ。賊が平定されると、右騏驥使に改められ、大名府路鈐轄に転任した。河朔が飢饉となると、滄州の権知事となった。民は塩を売って生計を立てていたが、凶作で塩が売れず、民は自活できなかった。元は軍糧が余っているのを見計らい、すべて塩と交換した。これによって民は転居しなかった。
御史中丞の郭勧が、彼の貝州での功績を述べて賞が相当でないと上言したため、普州刺史に抜擢され、宮苑使に昇進し、麟府軍馬事を専管勾した。永寧堡の築城を監督し、敵は動けなかった。龍神衛四廂都指揮使、忠州団練使、高陽関馬歩軍総管となり、天武・捧日四廂都指揮使に昇進し、さらに歩軍都虞候、眉州防禦使、并代路副都総管となった。北京判官の賈昌朝が上奏して大名府路副都総管とし、定州路に転任させ、馬軍都虞候に昇進し、鄜延路に転任したが、鄭州に至ったところで死去し、遂州観察使を追贈された。
劉謙
劉謙は、字を漢宗といい、開封の人である。若くして衛士に補され、数度の昇進で捧日右廂都指揮使となり、嘉州団練使を兼ねて京城巡検を領した。元昊が反乱を起こすと、博州団練使、環慶路馬歩軍総管兼邠州知事に改められた。謙は読書をしなかったが、争訟の是非曲直を、すべて区分して道理にかなうように処置した。前任の知事たちは多くが強引に市民の物を買い上げて饗応を飾ったが、謙だけは何も強要せず、邠人は彼を非常に愛した。夏竦が上奏して涇原路総管とし、涇州知事に転任させたが、赴任しないうちに、賊が鎮戎軍を侵したため、謙は兵を率いて深く賊の境内に入り、その集落を破壊して帰還した。功績により龍神衛四廂都指揮使、象州防禦使に抜擢された。急病で死去し、永清軍節度観察留後を追贈された。
趙振
趙振は、字を仲威といい、雄州帰信県の人である。景德年間(1004-1007年)、順安軍の石普に従った。契丹の陣図を捕獲し、三班借職を授けられた。数年後、隰州兵馬監押となり、青灰山で盗賊を捕らえ、多くを殺害・捕獲した。
高平の蛮が反乱すると、湖北都巡検使兼制置南路に転任した。南方は暑湿で弓弩が不利なため、別に小矢を創製し、三百歩を飛ばし、当たれば貫通し、蛮は驚いて散った。その年のうちに、慶州沿辺都巡検使に転任した。当時、金湯の李欽、白豹の神木馬児、高羅跛臧の三族は特に強悍で制しがたく、振は羌族の降伏者を募り、利益で釣って互いに攻撃させ、十余りの堡塁を破った。欽らは振のもとに自ら出頭して帰順した。振は酒宴を設け、まず自ら杯を干し、細い矢(細仗)を取り、直径数分ほどの的を立てて百歩離れて共に射た。欽らは百発百中せず、振は十矢すべて貫き、欽らは皆驚き、二度と侵犯しないと誓った。
翌年、涇原の属羌である胡薩逋歌らが叛き、鈐轄の王懷信が兵数千を趙振に遊奕として属させ、しばしば勝利した。数十騎を従えて懷信のもとへ赴いたところ、十倍の賊兵と遭遇し、数十人を射殺すると、残りは悉く退散した。数か月後、賊数万が平遠砦を包囲し、都監の趙士龍が戦死した。振は別道より出撃し、力戦して砦に到達し、水泉を奪取し、敢死の士を率いて包囲を破ると、賊は逃走し、追撃して数千級を斬首し、涇原都塩に転任し、順安・保安・廣信軍・霸州の知州を歴任し、京東都大提挙捉賊に改任された。翌年、環州知州となり、累遷して象州防禦使となった。
元昊が反乱を企て、金銀の冠珮で甲騎を隠し飾り、属羌に贈ったが、振は密かに金帛でこれを誘い取り、その勢いを挫き、冠珮銀鞍三千、甲騎数百を得た。隣接する部族に告げて環州を手本とするよう促したが、聞き入れず、そのため東茭・金明・萬劉の諸族の勝兵数万が、悉く賊の所有するところとなった。劉平等が皆敗れた時も、環慶路だけは被害がなかった。本路馬歩軍副総管から龍神衛四廂都指揮使・鄜延路副都総管・延州知州に抜擢され、范雍の後任となった。まもなく捧日・天武四廂に改任された。振は将吏に言った、「今、賊は我が軍の損傷を見て、必ず勝ちに乗じて進軍するであろう。情勢としては固守すべきである。なお諸城が皆わが謀のようにはできないことを憂慮する。もし延州が支えきれなければ、陝西の行方は測りがたく、これは天下の安危の鍵である」。
まもなく、賊が塞門砦を寇した。振は兵およそ八千を擁しながら、甲を按えて動かなかった。砦中の兵はわずか千人で、しばしば危急を告げたが、五か月包囲された後、ようやく百余人を派遣しただけで、砦はついに陥落した。砦主の高延德と塩押の王継元はともに賊に没した。振は兵を擁しながら救援せずにいた罪により、都転運使の龐籍に奏劾され、白州団練使・絳州知州に貶された。赴任前に、延德と継元の家族が朝廷に再び訴えたため、御史の方偕に命じて振を糾弾させた。法に照らせば斬刑に当たるが、再び太子左清道率府率に貶され、潭州に安置された。一年余り後、右武衛将軍・惠州団練使・幷代路兵馬鈐轄に復し、そのまま副総管・祁州団練使に昇進した。
元昊が豊州を破った後、近くの砦を襲おうとした時、振は鈐轄の張亢・麥允言を率いて麟州の深柏堰より出撃し、これを撃破した。嵐・憲六州の軍事を兼ねて統轄した。河外が飢饉となると、振は方策を講じて砦外の商人と通じ、米数十万斛を得て、軍民を救済した。博州防禦使に進み、解州で致仕した。再び起用されて左神武軍大将軍となり、死去した。
振は剛強で自負心が強く、武力に優れ、弓馬に巧みで、謀略を好み、財を軽んじ気節を尊び、人々は喜んで彼に用いられた。子の珣と瑜は、ともに騎射に巧みであった。
趙珣は十六歳の時、仁宗が便殿で試し、三班借職を授けられた。景祐年間、珣の武芸がさらに進歩し、かつ書史を学んでいるという上奏があり、再び召見されて武伎を閲し、中書で策略を試され、数千言に及ぶ条対をした。殿直から閤門祗候に進み、まもなく濠州兵馬都監に任じられた。
初め、珣は父に従って西辺にあり、五路の境外の形勝と利害を探訪し、『聚米図経』五巻を作成した。詔によりその書を献上させ、さらに珣を召し出すと、さらに『五陣図』・『兵事』十余篇を上奏した。帝は歩騎を与えて陣形を演習させ、完成すると臨観した。陳執中が陝西招討使となった時、彼を推挙して縁辺巡検使とした。呂夷簡と宋庠が上奏して言った、「用兵以来、策士の言は万を数えるが、珣に及ぶ者はいない」。即座に通事舎人・招討都監に抜擢された。珣は自ら年少で新進であることを理由に都監を辞した。兵一万人を授け、御賜の鎧仗を与えられ、偏裨・参佐を自ら選び、涇原に駐屯し、兼ねて籠竿城を治めた。
麻氈・黨留の百余帳が近塞に居て暴虐を働いていたので、珣は府に申し出て、兵二万を率い、静辺より揆呉を経て木寧に至り賊を襲撃し、数千を数える俘獲を得た。静辺の将劉滬が殿軍を務めたが、賊に襲撃された。珣が坂に登ってこれを見ると、数百騎を従えて再び突入し、滬の兵衆を救い出したので、士卒は皆歎服した。瞎氈が龕穀に居て所属がなかったので、珣は書を送って招き、綈綿を贈ると、瞎氈はこれに従った。
本路都監に改任され、詔により朝廷に召還されることになった。出発しようとした時、丁度元昊が大挙侵入し、府の檄により珣は留め置かれ、瓦亭で葛懷敏と合流した。懷敏はすでに五谷口から西の馬欄城に駐屯していたが、夏人が新壕の外に軍を移したと聞き、夜明けを待って掩襲しようと議した。珣は懷敏に言った、「敵は遠来し、兵力は倍し鋒鋭である。馬欄城に依拠して柵を布きその進路を扼し、鎮戎城を守って糧道を便利にし、その衰えるのを待って撃つのが、必勝の道です。そうしなければ、必ず賊に屠られるでしょう」。懷敏は聞き入れず、兵は鎮戎城に迫り、界壕を越えて定川に到達した。陣を整える間もなく、夏人が鉄騎を率いて来犯し、珣は陣の西北に位置し、瑜も軍中にあって力戦した。東壁の兵はすぐに潰走し、中軍は大いに乱れたが、珣は刀斧手を擁して前進して戦い、夏の兵衆は少し退き、我が軍は再び陣を整えた。懷敏は翌朝退走し、鎮戎で食を求めた。まもなく夏の騎兵が四方から包囲し、珣は捕らえられ、瑜は身をもって免れた。
珣は風采が美しく、性質は勁直で好学であり、恭順で儒者のようであった。死後、多くの人が惜しんだ。莫州刺史を追贈されたが、後に賊中で死去した。瑜の弟の璞も有名であった。
張忠
范恪
かつて諸道の兵を集めて十二盤および咄当・迷子の砦を攻撃した時、流れ矢に当たったが、督戦を一層力めた。砲石の中に竈の破片があるのを見て、恪は取って衆に示し、「賊の矢石は尽き、竈の下の甓を使っている」と叫んだ。そこで士卒は奮い争い、果たして先に城を陥落させた。供備庫副使に遷った。
劉恪は一石七斗の弓を有し、その箭鏃は鏵の如く、名付けて鏵弓と曰う。また羽の間に其の官称・姓氏を識し、凡そ発する所必ず中り、遂には一箭にして二人を貫くに至る。他日、蕉蒿砦を取って帰るに、恪独り殿後に在りて、数千騎に襲わる。属に視るに矢箙に止めて二鏵有り、即ち引満の勢を為すと、賊遽かに却く。嘗て総管杜惟序・鈐轄高継隆と兵を将いて分かち討ち漢乞・薛馬・都嵬等の三砦に、恪先ず都嵬を破り、而して継隆薛馬を囲みて下さず、恪馳せ往きて之を取る。既にして又惟序を援けて漢乞砦を下す。左騏驥副使に改む。
虜大順城を犯すや、諸将皆城を閉じて自ら守る。恪兵二千余を率いて戦い之を克つ。宮苑副使・環慶路兵馬都監に改め、因て特召して見る。仁宗謂ひて曰く、「適に辺奏有り、賊高平軍劉璠堡を犯す、駅を乗りて亟に往くべし」と。遂に礼賓使・栄州刺史・環慶路鈐轄に遷し、手詔して范仲淹麾下に趣き兵を起して赴援せしむ。恪昼夜兼行し、比して平涼に至るに、賊已に解く。頃之、洛苑使に遷り、権秦鳳路兵馬総管を為す。
恪驍勇にして射に善く、難に臨みて敢へて前進す、故に数に戦功有り。龍・神衛四廂都指揮使より累遷して侍衛親軍馬歩軍副都指揮使に至り、坊州刺史・解州防禦使・宣州観察使・保信軍節度観察留後を歴任す。疾を以て出でて永興軍路副都総管と為り、数月にして卒す。昭化軍節度使を贈らる。
馬懷德
馬懷徳、字は得之、開封祥符の人。父は玉、東頭供奉官、言ふに懷徳は試みに弓を引き、剣を撃ち、角觝すべしと、三班奉職に補し、延州南安砦主・東路巡検と為る。数たび少を以て西賊を撃ち、其の衆を敗る。范仲淹延州を知り、青澗城を修す。懷徳を兵馬監押に奏し、以て所部の兵を率いて賊境に入り、遮鹿・要冊の二砦を破り、親しく其の酋狗児廂主を射殺し、左班殿直に遷す。又蕃漢を率いて賊の海溝・茶山・龍柏・安化十七砦三百余帳を焼蕩し、首級数百を斬り、馬駝牛羊万数を虜ひ、右侍禁に遷す。
范仲淹・韓琦の薦に依り、閣門祗候を授けらる。延州の龐籍入奏して東路都巡検使と為す。黒神・厥保等十八砦を夷し、賊四万騎を以て辺を犯し、僕射谷に趨く。懷徳兵数千を以て谷旁の高原に拠りて之を待ち、首級二百を斬り、畜産・器械千数を得る。内殿崇班に遷す。又兵を以て龍安城を修し、虜敢へて犯さず、遂に鄜延路都監と為る。又綏平を城し、賊の青化・押班・吃当の三砦を破り、殺獲甚だ衆し。
元昊夏国主と為るや、国子博士高良夫を命じて懷徳と会し西人と界を画せしむ。龐籍其の前後の功を具論し、供備庫副使兼閣門通事舎人に遷す。時に兵を用ふること久しく、民多く亡散す。懷徳招輯方有り、経略使梁適奏して其の法を諸路に推すを請ふ。保安軍・環州・環慶益利路鈐轄を知り、累遷して四方館使・舒州団練使に至り、鄜延路副都総管に徙す。
法に違ひ宦官閻士良に賂するに坐し、安撫呂景初の奏に依り、四方館使・英州刺史に降す。大名府路総管、侍衛親軍歩軍都虞候・象州防禦使・鄜延路副都総管、馬軍都虞候に遷し、環慶路に徙す。環州の蕃官蘇恩其の属を以て叛き、往きて之を降す。又殿前都虞候・歩軍副指揮使・随州観察使に遷す。
英宗即位し、静難軍節度観察留後に遷し、召還さる。卒す。安遠軍節度使を贈らる。嘗て戦に因り、流矢其の顙に中り、鏃骨に入る。弩弦を以て鏃に係け、機を発して之を出す。
安俊
安俊、字は智周、其の先は太原の人。祖は贇、高州団練使。仁宗皇太子と為るや、俊将家の子謹厚を以て、選ばれて資善堂祗候と為る。即位に及び、右班殿直に補し、累遷して東頭供奉官・閣門祗候、環州都監と為る。趙元昊の吃〓江・井那等諸砦を破り、安撫使韓琦其の功を上る。内殿崇班・環慶路都監に遷し、涇原に徙す。契丹盟を渝えんと欲し、狄青・范恪と同召されて京師に至り、将に北辺に備へしめんとす。内園副使に擢ぐ。翌日、礼賓使に改む。
会に葛懐敏敗るや、秦鳳路鈐轄を命ぜられ、復た涇原に徙す。因りて条上す御戎の十三事。原州に改め、麟州に徙し、六宅使・貴州刺史・忻州知事に遷し、代州に徙す。帥臣に誣奏せられ、京東路鈐轄に降す。富弼青州を治め、之が為に弁理し、真除して虢州刺史、高陽関路に徙し、又原州刺史に遷し、滄・涇・冀の三州を知る。秦州古渭城を築くに、蕃部大いに擾る。秦鳳路総管に徙す。龍神衛・捧日・天武四廂都指揮使、果州団練使、環慶路副総管を歴任す。侍衛歩軍都虞候・陵州防禦使に遷す。卒す。閬州観察使を贈らる。
俊久しく辺に在り、羌人之を識る。環州俘虜を得、知州種世衡之に問ひて曰く、「若属吾が将に於いて孰れをか畏るるや」と。曰く、「安大保を畏る」と。俊を座に指して曰く、「此の長髯の將軍是れなり」と。
向寶
向寶、鎮戎軍の人、御前忠佐と為り、礼賓使に換え、涇原・秦鳳鈐轄と為る。労を積み、皇城使より帯禦器械を帯び、真定・鄜延副総管を歴任し、龍神衛四廂都指揮使・嘉州団練使に遷り、卒す。
寶は騎射に長じ、十四歳の時、敵と戦い、首級二つを斬った。壮年になると、勇猛さをもって知られた。虎が五原の卑邪州に居座り、東西百里にわたり人跡を絶っていたが、寶は一矢でこれを射殺した。潼関を通りかかると、大盗の郭邈山が関中の金帛・子女を多く積載していたので、寶はこれを射て走らせ、その掠奪したものをことごとく奪い返した。かつて太原に至った時、梁適が弩を射て二度的に中てたので、寶に矢を与えて射させると、四発して三つが命中した。適は言った、「今の飛将である」と。神宗はその勇を称え、薛仁貴に比した。死んだ時には、その家を厚く恤った。
論じて曰く、蔚昭敏・高化・周美は、みな辺境に功績のあった者である。化は蜀州において、軍中の積み材を取って水害を防ぎ、また冤獄を平反し、人を死から脱せしめた。これは武人にして民事を知る者であろう。美は夏人を破り、族部を焼き、城堡砦を攻めたが、利便を選ぶことなく、向かうところつねに勝った。得た禄賜はすべて麾下に分け与え、士卒もまた喜んでこれを用いた。古の良将を推すも、これに何を加えようか。閻守恭は郭進の為人を慕い、慷慨として自ら効い、徒歩の身から刺史に至った。その志もまた小さくなかった。孟元・劉謙・馬懷德・範恪はみな西方辺境を経略し、数たび戦って功があった。その初めは卒伍より起こりながら、よく民事を練習し、散亡を招輯した。ただの一武夫ではなかったのである。趙振は強弓を引き命中させ、兵機に精通していた。塞門の敗戦の時、振は兵を擁して救わなかった。どうしてここに至って暗かったのか。子の珣は年少にして書史を習い、武技を閲し、用兵以来、人々は珣に及ぶ者なしと思った。籠竿の一戦では、西人は奔走する暇もなく、従容として劉滬を死中より抜き出した。英風義烈、なんぞ少なからんや。葛懷敏は珣の計を用いなかったために敗を取った。珣もまた力戦して没した。惜しいことである。安俊・向寶は多戦の功績はないが、夏人はみなその名を知って畏れた。張忠は区区たる者で、諸人と較べれば、同日の談ではない。