宋史

列傳第八十  鄭獬 陳襄 錢公輔 孫洙 豐稷 呂誨 劉述 劉琦 錢顗 鄭俠

鄭獬

鄭獬、字は毅夫、安州安陸の人である。幼少より俊才を負い、詞章は豪壮で峻厳整斉、同輩は敢えて比肩する者なし。進士第一となる。陳州通判を経て、集賢院に直り、度支判官・修起居注・知制誥となる。

英宗即位の時、永昭山陵を造営するに当たり、悉く乾興の制度を用いようとした。獬は言う、「今、国用空乏し、近頃の軍兵への賞与に、既に横斂を見る。富室は嗟怨し、その声は京師に流れ聞こえる。先帝は節倹して民を愛し、蓋し天性より出づるもの、凡そ服用・器玩は極めて樸陋に至る。これは天下の共に知るところである。然るに山陵の制度は、乃ち乾興の最も盛んなる時に倣おうとする。独り儉徳を傷つけざるか。願わくは有司を飭し、その名数を損ずべし」と。また言う、「天子初めて即位するや、郡国より馳せて表を上し称賀する。例としてその人に官を授く。これは五代の余習より出で、因循して未だ改めず。今、庶官猥りに多く、銓曹に充溢す。況んや前日、群臣進官し、既に維新の沢を布きたる。復た此の恩を行い、僥倖を開く須いなし」と。皆、報いられず。また上疏して言う、「陛下初めて臨御し、恭しく黙して言わず、共に政を為す者は七八の大臣のみ。焉んぞ能く天下の聡明を尽くさんや。願わくは中外に詔を申し、尽く言うを許し令め、采録すべき有らば、召して之に対せしむべし。臣下の進見するに至りては、得失を訪い、虚心に之を求めば、必ずや治道に益有らん」と。帝嘉納した。時に詔して諸郡に遺逸の士を敦遣せしむ。至れば則ち秘閣にて之を試み、官を命ず。頗る謬挙する者有り、衆論喧嘩し、旋って廃罷す。獬言う、「古の士を薦ぐるは、十を抜きて五を得たりと謂い、猶ほ其の半を得たりとす。況んや今、失う所未だ十五に至らずして、而して遽に浮言を以て之を廃する、可ならんや。願わくは此の科を復し、豪俊に遺滞の歎無からしむべし」と。未だ行わざるに、出でて荊南を知る。

治平年中、大水ありて言を求む。獬上疏して曰く、「陛下側身して咎を思い、消復する所以を念う。忠言を求むる者は、将に之を用いんと欲するか、抑また只だ故事を挙げるのみか。前世の君を観るに、変異に因りて諫を求むる者甚だ衆し。及び其の実を考うるに、則ち能く其の言を用いて行事に載する者は、蓋し亦鮮し。今、天下の忠義の士に詔して発せしむ。必ずや其の蘊む所を極め、以て諸朝に薦めん。一日万機、勢い能く尽く覧るに及ばず。平時の如く、之を中書・密院に下すに過ぎず、行う所無きに至りて後止む。是くの如くんば、則ち前世の空言を為す者と等しきのみ。謂うべし、官を選び属を置き、上る章を掌らしめ、両府の近臣と従容に講貫し、可ならば則ち之を行い、否ならば則ち之を罷め、疑う有らば則ち広く詢いて之を決すべし。群臣得て衆事挙がる。これ天に応ずるの実なり。天下の言を進むること甚だ難く、而上の言を受くること常に忽せにす。願わくは陛下、群臣の章疏を采り、容れて之を聴き、史冊に大書し、以て某年大水、直言を求むるを詔し、某人の辞を用いて某事を求むと為し、以て前世の空言を為す者を出ださしめ、徒らに牆壁に掛けて虚文と為すのみならしむる無かれ」と。還りて、三班院を判ず。

神宗の初め、獬を召して夕べに内東門に対せしめ、呉奎をして青州を知らしむる制及び張方平・趙抃を参知政事と為す三つの制を草せしめ、双燭を賜い舍人院に送り帰す。外廷知る者無し。遂に翰林学士を拝す。朝廷横山を納れんと議す。獬曰く、「兵禍必ず此より起こらん」と。已にして种諤、綏州を取る。獬言う、「臣窃かに手詔を見るに、深く辺臣を戒めて生事無からしむ。今乃ち特に関詐の士を尊用し、務めて掩襲を為す。戦国の暴君の尚ぶる所の如し。豈に帝王の大略ならんや。諤は擅に興す、誅すべし」と。また諒祚の告哀に因り、使いを遣わして其の嗣子を立てんことを請う。識者之を韙とす。

権発遣開封府。民の喻興、妻と謀りて一婦人を殺す。獬、按問の新法を用いるを肯わず、王安石に悪まれる。出でて侍読学士・杭州知州となる。御史中丞呂誨、之を還すを乞うも、聴かず。未幾、青州に徙る。時に青苗銭を散ぜんとす。獬言う、「只だ其の害を見る。民の罪無くして憲網に陥るを忍びず」と。疾を引き閑を祈り、鴻慶宮を提挙す。卒す。年五十一。家貧しく子弱し。其の柩、僧屋に藁殯すること十余年、滕甫安州に在りて、乃く克く葬る。

陳襄

陳襄、字は述古、福州侯官の人である。少孤にして能く自立し、郷校に出遊し、陳烈・周希孟・鄭穆と友となる。時に学者は彫琢の文に沈溺し、所謂天を知り性を尽くすの説は、皆迂闊として之を講ぜず。四人は始めて相与に海濱に道を倡え、聞く者は皆笑って驚くも、守って変ぜず、遂に従いて化す。之を「四先生」と謂う。

襄、進士に挙げられ、浦城主簿に調じ、令事を摂る。県には世族多く、請託・脅持を常とし、令制すること能わず。襄稍く其の俗を革めんと欲し、毎に訟を聴くに、必ず数吏をして前に環立せしむ。私謁する者は発するを得ず、老奸手を束ぬ。物を失える民有り。賊曹、偷児を捕えて至る。数輩相い撐拄す。襄之に語りて曰く、「某廟の鐘は能く盗を弁ず。犯す者之を捫れば輒ち声有り、余れば則ち否」と。乃ち吏を遣わし先ず以て行かしめ、自ら同列を率いて鐘の所に詣り祭祷し、陰に墨を塗り、以て帷を以て之を蔽う。群盗を命じて往きて捫らしむ。少焉して呼び出だす。独り一人の手に汚れ無し。之を扣くに、乃ち盗を為す者なり。蓋し鐘に声有るを畏れ、故に敢えて触れず。遂に服罪す。

河陽県知県となり、始めて民に稲を種えしむることを教う。富弼郡守と為り、一見して即ち礼遇す。襄は教化に留意し、県の子弟を学に進む。或る者弼に之を讒り、邑の子を誘いて以て過客に資すと謂う。弼疑う。人学舎を毀ちて以て謗を塞がんことを勧むも、聴かず。久しくして、弼以て襄に語る。襄曰く、「自ら反りて縮まば、千万人と雖も往かん。公苟も惑志有らば、何を以て知己と名づけん」と。益々講説して少も懈らず。弼是より愈々之を奇とす。及び相に入り、秘閣校理・祠部判に薦む。訳経の僧死す。遺表して十僧を度す。列子廟に三年一道士を度す。皆抑えて行わず。

常州の知州となると、運河が震澤を横断して塞ぎ、水が北へ江に入ることができず、常州・蘇州の二州の患いとなっていた。襄は渠の丈尺と民田の歩畝を測り、その数を定め、浚渫の法を授けた。間もなく、望亭の古堰を削り取り、水は再び溜まらなくなった。開封府推官・塩鉄判官として中央に入る。神宗が即位すると、契丹に使いし、設けた席が常と少し異なるとして直ちに座らず、契丹が国境の官吏に檄を移したため、罪を得て明州知州として出された。翌年、同修起居注となり、諫院を管轄し、侍御史知雑事に改めた。青苗法の不便を論じ、「臣が制置司の議する所を見るに、経書を引いて言わないものはなく、その実は貸付けて利を取るものであり、事体卑しく削がれ、内外の嘲笑を招く。これは特に管夷吾・商鞅の術であり、聖世に行うべきではない。王安石・呂恵卿を貶斥して天下に謝することを望む」と言った。また韓絳を政府から罷めるよう請い、大臣が利を争って進むことを杜絶し、かつ韓維が中丞となるべきでなく、劉述・范純仁らは罪なく、官を復すべきであると言った。皆聞き入れられず、かえって知制誥に召し試された。襄は言が行われないとして、辞して肯ぜず、外補を願った。安石は陝西転運使にしようとしたが、帝はその去るを惜しみ、修起居注に留めた。襄は懇ろに辞し、手詔で諭され、ようやく職に就いた。一年余りして、知制誥となり、安石はまた出そうとしたが、帝は許さなかった。まもなく直学士院となり、安石はますますこれを忌み、詔書の小さな過失を摘発し、陳州知州として出し、杭州に移し、枢密直学士として通進銀台司を管轄し侍読を兼ね、尚書都省を判った。卒す。六十四歳。給事中を贈られた。

襄が官に臨んだ所では必ず学校を興すことに務めた。平素の心構えは民間の利害を講求することを急務とした。亡くなった後、友人劉尋がその篋を視ると、自筆の書が数十幅累なり、紙いっぱいに細かく書かれており、おおむね皆民事に関するものであった。経筵に在った時、神宗は彼を非常に厚く顧み、用いるべき人材を訪ねたことがあった。襄は司馬光・韓維・呂公著・蘇頌・范純仁・蘇軾から鄭侠に至る三十三人を挙げて答え、光・維・公著は皆股肱心膂の臣であり、長く外にあるべきでないと言い、侠は愚直で敢えて言い、忠義から発し、瘴癘の地に投げ込まれ、朝に夕を謀れず、生還を得させたいと願った。帝は全てを用いることはできなかった。

銭公輔

銭公輔、字は君倚、常州武進の人。若くして胡翼之に学び、呉中に名があった。進士甲科に及第。越州通判となり、集賢校理・同判吏部南曹となった。開封府推官・戸部判官・明州知州を歴任。衙前法は三等級で労勤を差次し、格に応じる者は酒場を指して自ら補うことを許し、富者は欲を満たし貧者は日に困窮し、充募はますます少なくなり、定員が不足すると、郷民を役し、破産しても費用を供給できなかった。公輔は酒場を官が売り、軽重を分けて役者に給し、再び民を調発しなかった。同修起居注となり、進んで知制誥となった。

英宗が即位すると、『治平十議』を上奏し、大意は民政を採り、吏課を分け、守宰を選び、二府の官属を置くことであった。また『帝問』一篇を作って上った。王疇が翰林学士となって間もなく、枢密副使に抜擢されると、公輔は疇の素望が浅いとして制を草しなかった。帝は初政で大臣を用いたのに、公輔が詔を阻んだとして、滁州団練使に貶した。議者は重すぎるとし、呂誨らが上章して救ったが、叶わなかった。一年余りして、広徳軍知軍として起用された。

神宗が立つと、天章閣待制・鄧州知州に拝され、再び知制誥となった。入朝して謁見すると、帝は労苦の言葉をかけ、『十議』を録して進めるよう命じ、諫院を管轄させた。かつて中書に至って事を白すると、富弼が言った、「上は治を求めること飢渇の如く、正に君輩の同心に頼って済さんとする」。公輔は言った、「朝廷のなす所が是ならば、天下誰か敢えて同ぜざらん。なす所が非ならば、公輔がこれに同ぜんと欲しても、得べからざるのみ」。

王安石は平素より彼と親善であったが、志を得ると、異己者を排し、滕甫を鄆州に出した。公輔は帝の前で数度、甫が去るべきでないと言った。薛向が塩法を改めると、安石はその議を主としたが、公輔は向が黜されるべきと言い、ついに安石の意に逆らい、諫職を罷め、まもなく江寧府知府として出された。翌年、帝は召還しようとしたが、安石は彼が小人を助けて異議を唱え、左右にあるべきでないと言い、ただ揚州に移しただけだった。病を理由に越を乞い、提挙崇福観に改め、卒す。五十二歳。

孫洙

孫洙、字は臣源、広陵の人。幼少より文ができ、冠せずして進士に抜擢された。包拯・欧陽修・吴奎が制科に応じるよう推挙し、策五十篇を進め、政体を指陳し、明白で切実であった。韓琦がこれを読み、嘆息して言った、「慟哭流涕し、天下の事を極論するは、今の賈誼なり」。再び集賢校理・太常礼院知事に遷った。

治平中に言を求めた時、洙が詔に応じて時弊の要務十七事を疏し、後多く施行された。史館検討・同知諫院を兼ね、諫員を増やして言路を広げるよう請うた。凡そ章奏があると、すぐにその草稿を焼き、親しい子弟にも聞かせなかった。王安石が新法を主とすると、多く諫官御史を逐った。洙は不可と知りながら、鬱々として言うことができず、ただ外補を強く求め、海州知州を得た。免役法が行われると、常平使者が緡銭の徴収を加え、余剰を得て功としようとしたが、洙は力爭した。春に旱魃の時、発運使が民を調発して漕渠を浚い塩船を通そうとしたが、洙はこれを押し留めて下さず、三度上奏してその役を止めるよう請うた。旱魃と蝗害があった時、朐山で祈禱し、奠を撤くと大雨が降り、蝗は海に赴いて死んだ。

まもなく三班院を管轄した。三班の員は万数を超え、功罪の籍が明らかでなく、前後矛盾し、吏が左右に出し入れし、公然と欺奸を行った。洙はその甚だしい八事を改め、令として定めた。同修起居注となり、進んで知制誥となった。これ以前、百官の遷叙には一定の詞を用いていた。洙は建言した、「群臣が進秩するのは、事理各々異なるのに、同じ一詞を用い、あるいは一門の内で数人が恩を拝し、名体は散殊であるのに一律の格で臨む。苟くも簡便に従うのは、王言を暢にし命令を重んずる所以ではない」。詔して今後は封贈蔭補は、毎大礼ごとに一易し、他は皆等に随って撰定することとした。

元豊初め、直学士院を兼ねた。澶州で黄河が治まり、霊津廟が作られると、詔して洙にその碑文を書かせ、神宗はその文を賞した。翰林学士に抜擢され、一ヶ月余りして病を得た。時に参知政事が欠員で、帝は彼を用いようとし、数度中使や尚医を遣わして労問した。入朝の期日、洙は少し快方に向かい、家で拝跪の礼を練習したが、倒れて起き上がれず、ついに卒した。四十九歳。帝は臨朝して嗟惜し、常例の賻の外に銭五十万を賜った。

洙は博聞強記で、典故に明練であり、古今の事を道うこと甚だ条理があった。言葉を出せば皆文章となり、親狎な者に対しても、一度も卑しい言葉を発しなかった。文詞は典麗で、西漢の風があった。士大夫は皆丞輔となることを期待したが、不幸にも早世し、一時憫傷された。

豊稷

豊稷、字は相之、明州鄞の人。及第し、穀城県令となり、廉明で称された。安燾に従って高麗に使いし、海中で大風に遭い、檣が折れ、船はほとんど覆りそうになった。衆は惶擾してなす所を知らなかったが、稷だけは神色自若であった。燾は嘆いて言った、「豊君は量り難し」。封丘県知事となり、神宗が召して対問し、「卿は昔、海中で風波に遭ったが、どうして畏れなかったのか」と問うた。答えて言った、「巨浸天に連なり、風濤は固よりその常なり。威霊に憑仗すれば、尚何をか畏れん」。帝は悦び、監察御史に抜擢した。参知政事章惇の請託の事を治め、少しも移撓せず、惇を陳州に出した。著作佐郎・吏部員外郎に徒し、利州・成都路刑獄を提点した。

殿中侍御史として朝廷に入る。哲宗に上疏して曰く、「陛下の明は万事の統べを察するに足りるが、その明を用いるべからず。智は変に応じて曲に当たるに足りるが、その智を用いるべからず。古道に順って考うれば、二帝の聖たる所以なり。文王を儀刑すれば、成王の賢たる所以なり。願わくは『洪範』を元亀とし、祖訓を宝鑑として、一動一言、四海に則と為り、千載に法と為る所以を思わば、則ち教化行わり、習俗美しく、而して中国安んぜん」と。劉奉世が夏国の嗣子乾順を冊立し、乾順が坤成節を賀するに来たるや、奉世は急ぎ国境を出でた。稷はこれを弾劾し、奉世は贖罪をもって論ぜられ、右司諫に遷る。揚・荊の二王は天子の叔父として、尊寵並ぶものなし。密かにしょくの道に命じて錦の茵を織らせた。稷は正衙において論じて曰く、「二聖は倹をもって天下に先んずるに、宗王は僭侈をなす。官吏の奉承するは、皆な糾正すべし」と。退いた後、御史趙㞦が謂いて曰く、「君の言を聞きて、幾らか汗流背に浹せり」と。国子司業・起居舍人に改め、太常少卿・国子祭酒を歴任す。車駕太学に幸し、『書経』の「無逸篇」を講ぜしめ、四品服を賜い、刑部侍郎兼侍講を除す。元祐八年春、雪多く、稷言う、「今嘉祥未だ臻らず、沴気交作す。豈に天に応ずるの実未だ充たず、天に事うるの礼未だ備わらず、天を畏るるの誠未だ孚かざるか。宮掖の臣に、政事に関預する者あり、天聖の羅崇勳・江徳明、治平の任守忠の如きか。願わくは陛下聖徳を昭かにし、天戒を祗り、万事を総正して、以て災祥を消さんことを」と。帝親政し、外に居る内侍楽士宣ら数人を召す。稷言う、「陛下初めて万機に親しむに、忠良を登進するを聞かずして、まず近幸を召す。恐らくは大徳を上累せん」と。

集賢院学士として潁州・江寧府を治め、吏部侍郎に拝され、また出でて河南府を治め、龍図閣待制を加えられる。章惇は道路をもって困じんと欲し、連年急に六州を徙す。徽宗立ち、左諫議大夫をもって召され、道中に御史中丞を除され、入対す。蔡京に遇い、京は班を越えて揖して曰く、「天子外服より公を召して中執法と為す。今日必ずや高論あらん」と。稷は正色して答えて曰く、「行い自ら之を知らん」と。この日、京の奸状を論じ、既にして陳瓘・江公望皆な之を言うも、動かす能わず。稷は陳師錫らに語りて曰く、「京朝に在りて、吾属何の面目か此に居らん」と。撃つこと已まず、京遂に翰林を去る。また宣仁の誣謗の禍を弁ぜんことを乞い、且つ言う、「史臣王安石の『日録』をもって『神宗実録』を乱る。今方に『哲宗実録』を修す。願わくは之を申飭せん」と。時に宦官漸く盛んにして、稷は『唐書』の「仇士良伝」を懐きて帝の前に読み、数行読みて、帝曰く、「已に諭せり」と。稷は若し聞かざる者の如く為し、読み畢りて乃ち止む。

曾布は嬖昵の助けを得て、将に相に拝せんとす。稷は其の僚を約して共に之を論ず。俄かに工部尚書兼侍読に転じ、布遂に相と為る。稷の謝表に佞臣の語あり。帝誰ぞと問う。対えて曰く、「曾布なり。陛下之を外郡に斥かば、則ち天下の事定まれり」と。礼部に改む。宋用臣の美諡を賜うべからざるを論じ、勅を書かず。哲宗升祔し、功臣の配享を議す。稷は当に司馬光・呂公著を用うべしと以為う。或いは二人嘗て罪を得たりと謂い、用うべからずとす。稷曰く、「止だ其の時に功有るを論ずるのみ。唐の五王豈に中宗に得罪せざるや、配享に何の嫌かあらん」と。又言う、「陛下『建中靖国』を以て紀元す。臣謂う、賢を尊び諫を納れ、己を捨てて人に従う、是れ『建中』と謂う。奇技淫巧を作さず、近習をして権を招かしめざる、是れ『靖国』と謂う。以て体元謹始の義に副わん」と。禁内に錦を織りて宮簾の縁と為し地衣と為すを禁ず。稷言う、「仁宗の衾褥は黄絁を用い、服御は縑繒を用う。宜しく家法を守るべし」と。詔して之を罷む。

稷は言を尽くして正を守り、帝之を厚く待ち、将に之を尚書左丞に処せんとす。然れども積もって貴近に忤い、留まることを得ず、竟に枢密直学士として越を守る。蔡京政を得て、故怨を修め、海州団練副使・道州別駕に貶し、台州に安置す。名を除き建州に徙し、稍々朝請郎に復す。卒す。年七十五。建炎中、学士を追復し、諡して清敏と曰う。

初め、文彦博嘗て稷の人を品して趙抃に似たりとす。及び諡を賜うに、皆な「清」を以て名を得たり。稷三たび言責に任じ、毎に疏を草するに、必ず密室にし、子弟も得て見ず。退きて多く稿を焚き、未だ嘗て時政を以て人に語らず。薦むる所の士、張庭堅・馬涓・陳瓘・陳師錫・鄒浩・蔡肇の如きは、皆な当世に知名なり。

論じて曰く、熙寧新法を行い、軽進の少年は争いて趨り競い進み、老成の務を知る者は逡巡して引退す。何ぞ其の幾を見るの明なるや。獬の議論は剴切にして、民事に精練す。青苗法行わるるや、獬独り幡然として去らんことを求め、窘迫不堪に至るも、恤みせず。襄は海隅より奮起し、屡えに折するも変ぜず、学者遂に従いて化し、乃ち民事に心を尽くし、死すも猶已まず。公輔は安石に忤いて見黜せられ、洙は諫官として言う能わず、免役の贏を取るに至りて、洙方に力争す。所謂其の本を揣わざる者か。稷は蔡京を劾し、司馬光・呂公著の当に廟庭に配享すべしを論ず。蓋し亦た名ある侍従なり。

呂誨

呂誨、字は献可、開封の人。祖の端は、太宗・真宗に相たり。誨の性は純厚にして、家に居て力学し、妄りに人と交わらず。進士に登第し、屯田員外郎より殿中侍御史と為る。時に廷臣多く上章して人の罪を訐つ。誨言う、「台諫官は風聞を許して事を言うは、蓋し広く采納して闕政を補わんと欲するなり。苟も職分に非ざれば、是れ官を侵すなり。今乃ち平生を詆斥し、曖昧を暴揚し、刻薄の態浸く以て風と成る。詔を下して懲革せんことを請う」と。枢密副使程戡は貴幸に結び、政地に位を致す。誨其の過を疏し、宣徽使として延州を判せしむ。復た上言す、「戡は非才を以て罷む。宜しく更に辺任を委すべからず。宣徽使は地高く位重し、戡の当に得る所に非ず」と。兗国公主其の夫を薄くし、夜に禁門を開き入り訴う。誨は並びに閽吏を劾し、且つ主第の宦者の罪を治め、悉く之を逐わんことを請う。御薬供奉官四人遥かに団練使を領し、御前忠佐当に汰すべく復た留まる。誨は枢密使宋庠の陰に援助を求め、私に徇いて法を紊うを劾す。詔して庠を罷め、陳升之を用いて副使と為す。誨又た之を論ず。升之既に去り、誨も亦た出でて江州を治む。時に嘉祐六年なり。

上疏して早く皇嗣を建てんことを請い、曰く、「窃かに中外の臣僚、聖嗣未だ立たざるを以て、屡えに密疏を上して宗人を択ばんことを請うを聞く。唯だ陛下忠言を思い、独断を奮い起こし、以て未然の乱を遏んことを。又た太史の奏するを聞く、彗星心宿に躔き、西北を備えんことを請うと。按ずるに『天文志』、心は天王の正位、前星は太子なり。直なれば則ち勢を失い、明なれば則ち祥を見る。今既に直にして且つ暗く、而して妖彗之に乗ず。臣恐らくは咎證独り西北に在るのみに非ざらんと。夏より秋に及び、雨淫し地震す。陰盛の沴、固より冥符有り。近き者宗室の中に、訛言事露れ、四方に流伝し、人心駭惑す。窺覦の志、其の漸を防がざるべけんや。願わくは社稷宗廟の為に計り、親賢を審択し、天意に稽合し、宸謀已に定まりたれば、当に天下をして共に知らしむべし。万一奸臣其の間に附会し、陽は忠実と為り、以て上の心を緩ます者有らば、此れ患い最も大なるものと為り、察せざるべからず」と。仁宗は誨の章を中書韓琦に付す。此れより議を定む。

召されて侍御史となり、改めて同知諫院に任ぜられた。英宗が病に伏せると、呂誨は皇太后に対し、毎日大臣一名を命じて淮陽王と共に薬餌の進呈を見届けるよう請うた。都知任守忠は長く権勢を振るい、帝の即位は守忠の意に沿わぬものであったため、しばしば東宮(皇太后)の間を諜し、悪言を撒き散らし、内外は騒然と恐れた。誨は両宮に上書し、大義を説き明かし、言葉の趣旨は深切で、多くの人が言い難いことを述べた。帝の病が少し癒えると、誨はたびたび自ら万機を親裁するよう乞うた。太后が政権を返上すると、誨は帝に言上した。「太后は先帝を輔佐して多年に及び、天下の事を多くご覧になっておられます。大事な事柄については、宜しく報告し諮問してから実行し、専断を敢えてしないことを示すべきです。」そして守忠の平生の罪悪を論じ、その党類の史昭錫と共に南方に流罪とした。内臣の王昭明らが陝西四路の鈐轄となり、専ら蕃部を主管した。誨は言う。「唐以来、挙兵が不利に終わるのは、監軍が原因でないことはなかった。今、走馬承受の官は品階が極めて卑しいが、一路ですでにその害に耐えられない。ましてや鈐轄であろうか。」ついにこれを罷免させた。

治平二年、兵部員外郎に遷り、侍御史知雑事を兼ねた。上言した。「台諫は、人主の耳目であり、その聡明を補益して、蔽塞を防ぐことを期すものです。旧制では三院の御史は常に二十員いたが、後には次第に減り、これは執政者が主上に中外の欠失を聞かせたくないからです。今、御史台は中丞が欠け、御史五員のうち、職にある者は三人のみで、封章を十度上奏しても、報聞されるのは八、九度です。諫官二人は、一人は他に転じ、一人は出使しており、言路が塞がれていることは、今日ほど甚だしいことはありません。窃かに陛下のため恥ずかしく思います。」帝は奏覧するや、即座に邵必をして知諫院とせしめた。

ここにおいて濮議が起こり、侍従らは王を皇伯と称するよう請うたが、中書は是とせず、誨は義を引いて固く争った。折しも秋に大水が起こると、誨は言う。「陛下に過ちある挙動があり、災害が急に起こりました。ただ濮王一事が中正を失い、これが宗廟からの罰なのです。」郊廟の礼が終わると、再び以前の議論を申し立て、七度上章したが聞き入れられず、台職の解任を乞うたが、これも聞き入れられなかった。そこで宰相韓琦の不忠五罪を弾劾し、言う。「昭陵の土も未だ乾かぬうちに、急いで濮王を追崇しようとし、陛下に生みの親を厚くし継ぐ親を薄くさせ、小宗を隆盛させて大宗を絶やそうとしています。言者が論弁すること累月、琦はなおも非を遂げ、改正せず、中外憤鬱し、万口一詞です。願わくは外藩に左遷され、士論を慰められますように。」また御史の范純仁、呂大防と共に歐陽修を弾劾した。「邪議を初めて開き、枉道をもって人主を説き、近利をもって先帝に背き、陛下を過ちある挙動に陥らせた。」いずれも報いられなかった。やがて詔して濮王を親と称することとなり、誨らは言が用いられぬと知るや、即座に告敕を返上し、家に居て罪を待ち、かつ輔臣と勢い両立し難いと述べた。帝が執政に問うと、修は言う。「御史は理において並び立つことが難しいと言っています。もし臣らに罪があるならば、御史を留めるべきです。」帝は久しく躊躇し、御史を出させることを命じたが、やがて言う。「あまり重く責めるのは宜しくない。」そこで誨を工部員外郎に降格し、蘄州知州とした。

神宗が即位すると、晉州に移り、集賢殿修撰を加えられ、河中府知府となった。召されて鹽鐵副使となり、天章閣待制に抜擢され、再び知諫院となり、御史中丞に拝された。初め、中旨により京東に金数万両を買い求めさせ、また広東に真珠を買わせ、宮中の十閣の用度に備えるとの風説が流れた。誨は言う。「陛下は春秋に富み盛んですが、聡明睿知で天下を心にかけておられ、必ずやこれに心を留められることはありません。願わくは急いでこれを罷められますように。」

王安石が執政となると、当時は多く人を得たと言われた。誨は彼が時事に通ぜず、大用するのは適さないと言った。著作佐郎の章辟光が上言し、岐王顥は外邸に移るべきだとすると、皇太后は怒り、帝はその離間の罪を治めさせた。安石は無罪であると言い、誨は辟光を吏に下すよう請うたが聞き入れられず、遂に上疏して安石を弾劾した。「大奸は忠に似、大佞は信に似る。安石は外に朴野を示し、中に巧詐を蔵し、陛下はその才弁を悦んで委任なさる。安石は初め遠大な謀略はなく、ただ改作立異に務め、上を罔き下を欺き、文言をもって非を飾り、天下の蒼生を誤らせる者は、必ずこの者です。もし久しく廟堂に居れば、必ず安静の理はありません。辟光の謀は、本来安石及び呂惠卿が導いたものです。辟光は揚言します。『朝廷もし深く我を罪するならば、我は終にこの二人を置かない。』と。故に力を加えて営救するのです。願わくは隠伏したところを察し、士論に質して、然る後に臣の言の当否を知られますように。」帝は安石に傾注して倚り、その章を返した。誨は去ることを求め、帝は曾公亮に言う。「もし誨を出せば、安石が自ら安んぜぬ恐れがある。」安石は言う。「臣は身を以て国に許し、陛下は義をもって処せられます。臣何ぞ形跡をもって自ら嫌い、苟も去就を為さんや。」そこで誨を出して鄧州知州とした。蘇頌が制を当てると、公亮は彼に言う。「辟光が治平四年に上書した時、安石は金陵におり、惠卿は杭州の酒税を監じており、どうして教えることができようか。」故に制詞に云う。「小人の党と交わり譖言し、罔上無根の語を肆にする。」制が出ると、帝は頌を咎め、公亮の言葉を告げて、初めて辟光が治平中に他事を自ら言ったのであり、これではないことを知った。誨が言おうとした時、司馬光は制止したが、誨は言う。「安石は時に名声があるが、偏見を執ることを好み、奸回を軽信し、人の己に佞することを喜ぶ。その言を聞けば美しいが、用に施せば疎かである。宰輔に置けば、天下は必ずその禍を受ける。かつ上は新たに嗣位され、朝夕図議を共にする者は、二、三の執政のみである。もしその人に非ざれば、国事を敗るであろう。これは腹心の疾であり、救うには唯恐くも及ばぬことを恐れるのであって、どうして緩やかにできようか。」誨が既に斥けられると、安石はますます横暴になった。光はここにおいて誨の先見の明に服し、自ら及ばぬと思った。

翌年、河南知府に改められたが、命令が下らぬうちに病に臥した。まもなく崇福宮提挙となり、病を以て表を上りて致仕を求めた。「臣は本来持病はなく、医者が術を誤り、妄りに湯剤を投じ、率ね任情に任せ、指下に誤り、禍が四肢に延びました。一身の微は、固より恤うに足りませんが、九族の託する所を奈何せん。」これは身の病をもって朝政を諭したのである。

誨は三度言責の地位にあり、いずれも大臣を弾奏して去り、一時その鯁直を推された。病に困憊して臥せっても、なお旦夕憤歎し、天下の事を憂いとした。病が革まるや、司馬光が訪ねて見舞うと、到着した時には既に目は瞑っていた。光の哭く声を聞くと、蹶然として起き上がり、目を見開いて強いて視て言う。「天下の事は尚お為すべし、君実(司馬光)、努めよ。」光が「他に託すべきことがありますか」と問うと、「無し」と言った。遂に卒去、五十八歳。海内で聞く者は痛惜した。

元祐初め、呂大防、范純仁、劉摯がその忠を表し、詔して通議大夫を贈り、その子の由庚を太常寺太祝とした。誨が罷め去って以来、御史の劉述、劉琦、錢顗はいずれも安石を言って貶黜された。

劉述

劉述、字は孝叔、湖州の人。進士に挙げられ、御史臺主簿となり、溫州、耀州、真州の知州を歴任し、江西刑獄提点となり、累官して都官員外郎となったが、六年間考功課を奏上しなかった。知審官院の胡宿がその沈静で操守があると上言し、特に兵部員外郎に遷し、荊湖南北路、京西路転運使に改め、再び覃恩により刑部郎中に遷った。

神宗が即位すると、召されて侍御史知雑事となり、さらに十一年間も考課を上奏しなかった。帝はその長年の在職を知り、吏部郎中を授けた。かつて奢侈を廃するには後宮から始めるべきであると述べ、章辟光は誅すべきであり、高居簡は退けるべきであり、張方平は大政に参与すべきでなく、王拱辰は宣徽使に任ずべきでないと上言したが、いずれも聞き入れられなかった。滕甫が中丞となると、述は彼を弾劾しようとした。甫はこれを聞き、先に帝に対面を請うた。甫が退出した後、述は甫が言事官として何ら発明するところがなく、かつその隠れた悪事を摘発すべきであると述べた。帝は言った、「甫は事に遇えば必ず諫争し、裨益するところ甚だ多いが、ただ外の者は知らないだけである。甫は卿の美を談じて口を絶たず、卿は言うな」。

王安石が参知政事となると、帝は詔を下して専ら中丞に御史を挙薦させ、官の高低を限らなかった。趙抃がこれに争ったが、聞き入れられなかった。述は言った、「旧制では、御史官を挙薦するには、中行員外郎から太常博士までの官であり、資任は実歴の通判を経ていることを要し、また必ず翰林の衆学士と本台の丞・雑が互いに挙薦した。衆議が皆で挙げるからこそ、各自が心を尽くすことを務め、偏りや私愛の患いを容れないのである。今、専ら中丞に委ねれば、愛憎は一己に在ることとなる。もし一人一人が適任を得れば、なお事を生じるに至らないが、万一その人に非ざれば、権臣の属託を受け、自ら党援を立て、己に附かざる者を中傷し、醸成して誣陷するなど、その弊害は一様でない。法度を変更することは、その事軽からず、しかるにただ参知政事二人のみが、同じく劄子に書するのである。かつ宰相の富弼は暫く謁告し、曾公亮は既に朝に入っている。台官は今欠けておらず、何ぞかくも急疾たるに至らんや!願わくは前の旨を収還し、弼の出仕を待ち、公亮とともに議し、然る後にこれを行われたい」。聞き入れられなかった。

述は刑部の判を兼ね、王安石が謀殺の刑名について争ったが、述は是としなかった。勅が下ると、述はこれを中書に封還し、執奏して止まなかった。安石は帝に奏し、詔して開封府推官の王克臣に述の罪を劾させた。ここにおいて述は御史の劉琦・錢顗を率いて共に上疏して言った。

「安石が執政して以来、数ヶ月を経ずして、中外の人情囂然として相動く。専ら胸臆を肆にし、憲度を軽んじ、忌憚の心なきが故である。陛下は賢を任じて治を求め、常に飢渇の如くであるから、安石を政府に置かれた。必ず時に唐・虞の如くならんことを致そうとしながら、反って管仲・商鞅の権詐の術を操り、媚びを取ることを規る。遂に陳升之と合謀し、三司の利権を侵して己の功と為し、局を開き官を設け、八人の者を用いて天下に分行させ、物聴を驚駭し、人心を動揺させた。去年、許遵が過ちを文飾して非を妄りに議し、自首按問の法を議するに因り、安石は一偏の見解を任じ、新議を立て改めて、天下の大公を害した。章辟光が岐邸を外に遷すの説を献じ、骨肉を間疏し、その罪は誅に容れられない。呂誨らが連章して論奏し、竄逐を加えることを乞うた。陛下はその請いを許されたが、安石独り瞽言を進めて、聖聴を熒惑した。陛下は己を愛すると思われ、隠忍して行わなかった。先朝の立てられた制度は、自ら宜しく世々の子孫が守って失わざるべきであるのに、乃ち事事を更張し、廃して用いないと欲する。安石は応挙して官を歴る以来、堯・舜の道を尊尚し、以て学者を倡率したから、士人の心靡として帰向せざるはなく、これを賢と謂った。陛下もまた聞いてこれを知り、遂に公府に正位された。時に遭い君を得ることかくの如く専なるに、乃ち首めて財利の議を建て、務めて容悦を為し、言行乖戾、一にここに至る。剛狠自ら任ずるは、則ちまた甚だし。姦詐専権の人、豈に廟堂に処して国紀を乱すべきや!願わくは早く罷逐し、以て天下の元元の心を慰安せられたい。曾公亮は丞弼の位に居りながら、忠を竭くして国に許すことができず、反って畏避の意有り、陰に自ら結援して以て寵を固め、久しく賢路を妨げた。また宜しく斥免すべきである。趙抃は則ち囊を括み手を拱き、ただ大臣に依違することを務め、君に事えること豈にこの如くあるべきや!」

疏が上ると、安石は先ず琦・顗を貶して処州・衢州の塩務を監させた。公亮は重すぎると疑うと、安石は言った、「蔣之奇もまた監に降格した、これに従うべきである」。司馬光は乃ち上疏して言った、「臣は孔子が『道を守るは官を守るに如かず』と言い、孟子が『言責ある者は、その言を得ざれば則ち去る』と言ったと聞く。これは古今の通義、人臣の大節である。彼の謀殺已傷自首の刑名は、天下皆その非を知る。朝廷は既に衆議に違いてこれを行い、また官を守る臣を以てこれを罪する。臣は天下の心を失うことを恐れる。鷹鸇に絏食する者は、その鷙を求めるのであり、鷙にしてこれを烹れば、将に何を用いんとするか!今、琦・顗の坐する所は、疏直に過ぎず、乃ち大臣に迕犯したを以て、猥りに譴謫を加える。臣下、これより言を以て諱とすることを恐れる。乞う、その本資を還し、以て群聴を靖められたい」。報いられなかった。

開封府の獄が決すると、述は三度問われても承服しなかった。安石はこれを獄に置こうとしたが、光がまた范純仁とこれを争い、乃ち通判に貶すことを議した。帝は許さず、江州知州とした。一年余りを経て、崇禧観の提挙となった。卒す。七十二歳。紹興初年、秘閣修撰を贈られた。

劉琦

劉琦、字は公玉、宣城の人。博学強覧、立志峻潔。都官員外郎として歙州を通判した。召されて侍御史となり、建言した、「綏州に城して以来、数えて羌寇を致す。棄つべし」。浙西で漕渠を開く役は甚だ小さいのに、使者がその事を大げさにし、功を以て官を遷した。言者がその非を論じ、詔して琦に就いて劾させた。官吏は人人惴恐したが、琦はただ首謀の二人を按ずるのみであった。既に貶され、鄧州を通判して卒した。六十一歳。

錢顗

錢顗、字は安道、常州無錫の人。初め寧海軍節度推官となり、守の孫沔は威厳を以て治め、属吏は奔走して命令を聴いた。顗は官に当たって行い、容撓する所なく、不可に遇えば必ずこれを争い、これにより独り器重された。贛・烏程の二県を知り、皆治行を以て聞こえた。

治平末、金部員外郎として殿中侍御史裏行となった。許遵が謀殺案問の刑名を議し、未だ定まらぬうちに判大理に入ると、顗は「一人の偏った言葉は、以て天下の法を汨すべからず。遵の見解は迂執であり、以て刑法の任に当たるべからず」と考えた。従わなかった。二年にして貶され、台を出んとするに当たり、衆中で同列の孫昌齢を責めて言った、「平素、士大夫は未だ君の名を知らず、ただ昔金陵に官し、王安石に媚事し、宛転して君を薦め、御史となるを得ただけである。少しは国を執ることを思うべきであり、奈何ぞ専ら附会を欲して美官を求めんとするのか?顗今遠く竄せられんとする。君は自ら策を得たりと謂うか?我は君を見るに犬彘の如くにも及ばず」。即ち衣を拂って馬に上り去った。

後に衢州から秀州に徙った。家貧しく母老いて、親旧に丐貸して朝晡の給をまかなうに至ったが、怡然として謫官の色がなかった。蘇軾が詩を遺し、「烏府先生鉄を以て肝と為す」の句有り、世は因って「鉄肝御史」と目した。卒す。五十三歳。

鄭俠

鄭侠、字は介夫、福州福清の人。治平年中、父に随って江寧に官し、戸を閉じて苦学した。王安石はその名を知り、邀えて相見え、称奨した。進士高第に及第し、光州司法参軍に調された。安石が政府に居た。凡そ施行する所は、民間これを便とせず。光州に疑獄有り、侠が讞議を傅奏すると、安石は悉くその請いの如くにした。侠は知己と為されたことを感じ、忠を尽くさんと思った。

任期が満ちると、鄭俠はまっすぐに都に入った。当時、試法の令が初めて施行され、選人の中式者は京官を超えて任用されることとなり、王安石は彼にこの方法で進むよう望んだが、鄭俠は未だ法を学んだことがないと辞退した。三度彼を訪ねて、聞いたことを問うと、鄭侠は答えて言った、「青苗法・免役法・保甲法・市易法の数事と、辺境での用兵とは、私の心中において些細なこととは思えません」と。王安石は答えなかった。鄭侠は退いて再び会わず、ただたびたび書を送って法が民に害をなすことを述べた。長い時を経て、安上門の監官となった。王安石は不愉快であったが、なおその子の王雱を遣わして、試法について語らせた。ちょうど修経局を設置し、また彼を辟召して検討官にしようとし、さらにその客の黎東美に命じて意を伝えさせた。鄭侠は言った、「読書は僅かで、検討官を辱めるには足りません。私が来た所以は、相君の門下で経を執り学ぼうとしたからです。しかし相君の発言や持論は、官爵を先とするものばかりで、士を待遇するやり方も浅はかです。もし本当に私を引き上げて成し遂げさせようとお思いなら、私が献上した民に利し物を便にする事柄の中から、一二を取り上げて施行し、私が進んでも恥じないようにしてくだされば、それもまた善いことではありますまいか」。

この時、免役法が出され、民も商人も皆苦しみとし、水を担ぐ者、髪を結う者、粥を売る者、茶を提げる者などの類であっても、銭を納めない者は販売することが許されなかった。税務は市利銭を求め、その末端の負担は元本よりも重いこともあり、商人は死をもって争うに至り、このようなことは一つや二つではなかった。鄭侠は黎東美を通じてこれらの事を列挙した。間もなく、詔が下り、小商人や行商人は徴税を免じられ、商人の重い負担は十のうち七を減じたが、その他は何も行われなかった。

この時、熙寧六年七月から雨が降らず、七年三月に至るまで、人々に生計の道はなかった。東北の流民は、風砂が曇り暗くなるたびに、互いに支え合い連れ立って道を塞ぎ、やせ衰えて愁苦し、身に完衣はなかった。都の城の民も麻かすや麦ふすまを買い、米に混ぜて粥とし、あるいは木の実や草の根を食べ、ついには身に鎖や械をかけられ、瓦や木の板を背負って売り、官に償う者が絶え間なく続いた。鄭侠は王安石が諫められぬことを知り、見たことをすべて描いて図とし、奏疏を閤門に届けたが、受け入れられなかった。そこで密急と称し、馬逓で銀臺司に上奏した。その概略は次のようであった。

「去年は大蝗害があり、秋冬はひどい旱魃で、麦の苗は焦げ枯れ、五穀は実らず、人々の心情は死を恐れている。春になっても伐採し、池を干して魚を捕り、草木や魚鱉もまた生い茂ることができない。災害の来るに、これを防ぐ者はない。願わくは陛下、倉庫を開き、貧乏な者を救済し、役人の搾取して道理に外れた政治を取り、一切これを罷め去られたい。下って和気を召し、上って天心に応じ、万姓の垂死の命を延ばされますように。今、台諫は官位に充てられているだけで、左右の輔弼の臣もまた皆、貪欲で卑しく近利を求め、道を抱き識を持つ士をして、皆彼らと語りたくないと思わせている。陛下は爵禄や名器をもって、天下の忠賢を駕御なさるのに、人をこのようにさせておられるのは、まことに宗廟社稷の福ではありません。窃かに聞くに、南征北伐する者は皆、その勝利の勢いや山川の形を図として献上しており、天下の民が妻子を質に入れ売り、桑を切り家を壊し、流離散逸し、慌ただしくして足りない有様を上聞に達する者は一人もいないと推察します。臣は謹んで日々見たことをもとに、一つの図を描きましたが、ただ目を通すだけで、すでに涙を流さずにはいられません。ましてこれよりも甚だしいことがあるでしょうか。もし陛下が臣の言葉を行われて、十日雨が降らなければ、ただちに臣を宣徳門外で斬り、欺君の罪を正されんことを乞います」。

疏が奏上されると、神宗は繰り返し図を観覧し、幾度も長く嘆息し、袖に入れて持って行った。その夜、寝つくことができなかった。翌日、開封府に命じて免行銭の取り立てを停止させ、三司に市易を監察させ、司農寺に常平倉を開かせ、三衛に熙河路で用いた兵のことを具申させ、諸路に民物が流散した原因を報告させた。青苗銭・免役銭の取り立ては一時停止し、方田均税法・保甲法もともに罷め、合わせて十八事に及んだ。民間では歓声をあげて互いに祝った。また、自らを責める詔を下して直言を求めた。三日を経て、大雨が降り、遠近に潤い行き渡った。輔臣が入朝して祝賀すると、帝は鄭侠が進上した図と状を示し、かつ彼らを責めた。皆再拝して謝罪した。

王安石は上章して去ることを求めた。外間は初めて行われたことの由を知り、群奸は歯ぎしりして恨み、ついに鄭侠を御史に付して、彼が馬逓を擅発した罪を問わせた。呂恵卿と鄧綰が帝に言った、「陛下は数年この方、寝食を忘れてこの美政を成し遂げられ、天下はまさにその恩恵を受けようとしているのに、一旦狂夫の言葉を用い、ほとんど全てを罷め廃されようとするのは、まことに惜しいことではありませんか」と。互いに帝の前で輪になって泣いた。そこで新法は一切元の通りとなった。

王安石が去り、呂恵卿が政を執ると、鄭侠はまた上疏してこれを論じた。なお唐の魏徴・姚崇・宋璟・李林甫・盧杞の伝を取って両軸とし、『正直君子邪曲小人事業図跡』と題した。在位の臣で李林甫の輩に暗合し、姚崇・宋璟に反する者を、それぞれその類によって、また書を為して献上した。併せて禁中に甲冑を着け、殿に登るなどの事があると述べた。呂恵卿はこれを誹謗と奏上し、汀州に編管した。御史台の吏である楊忠信が彼を訪ねて言った、「御史は黙して言わず、しかるに君は上書して止まない。これは言責が監門にあり、台中に人無きがごときです」と。懐中の『名臣諫疏』二帙を取り出して鄭侠に授け、「これを以て正人の助けとせよ」と言った。呂恵卿はこの事を暴き、かつ御史の張琥を唆して馮京を党与として弾劾させた。鄭侠は太康まで行ったが、戻って獄に対し、獄が決すると、呂恵卿は彼を死に致すことを議した。帝は言った、「鄭侠の言うところは身のためではなく、忠誠もまた嘉すべきである。どうして深く罪すべきであろうか」と。ただ英州に移すだけだった。到着すると、崩れかけた僧の屋を得て住んだ。英州の人々は貧富貴賤を問わず皆敬いを加え、争って子弟を遣わして学ばせ、家を築いて移してやった。

哲宗が即位すると、初めて帰ることができた。蘇軾と孫覚が上表して言上し、泉州教授とした。元符七年、再び英州に竄せられた。徽宗が即位すると、赦免し、なお元の官に戻したが、また蔡京に奪われ、この後は再び出仕しなかった。布衣に粗食で、田野に隠れ住んだが、一言一話、君を忘れたことはなかった。宣和元年に卒去。七十九歳。里人はその里門に「鄭公坊」と掲げ、州県は皆学校で彼を祀った。紹熙初年、詔して朝奉郎を追贈した。その孫の鄭嘉正を山陰尉に任じた。

論じて言う。劉誨は直言によって三度罷免され、劉述・劉琦・孔文仲・孔武仲・鄭侠・孫洙は困窮苦しみ死に至ったが、皆充然として悔いがなく、身は遇わなかったが、声名は天下後世に昭著である。鄭侠は区区たる小官でありながら、未だ信を得ずして諫め、一片の言葉をもって主君を悟らせ、民に災いをもたらす法をほとんど一挙にして空しくせんとし、功は成らなかったが、この心もまた天下後世に明らかにするに足る。呂恵卿・鄧綰の罪は、誅し尽くすことができようか。