宋史

列傳第七十九 蔡襄 呂溱 王素 余靖 彭思永 張存

列傳第七十九 蔡襄 呂溱 王素 余靖 彭思永 張存

蔡襄

原文蔡襄

蔡襄、字は君謨、興化軍仙遊県の人。進士に挙げられ、西京留守推官・館閣校勘となった。范仲淹が言事により国を去ると、余靖がこれを論じて救い、尹洙は共に貶されることを請い、歐陽修は書を移して司諫高若訥を責めた。これにより三人はいずれも譴責を受けた。襄は『四賢一不肖詩』を作り、都の人士は争って伝写し、書を売る者はこれを市して厚利を得た。契丹の使節がちょうど到着し、買い求めて帰り、幽州の客館に掲げた。

原文蔡襄,字君謨,興化仙遊人。舉進士,為西京留守推官、館閣校勘。范仲淹以言事去國,余靖論救之,尹洙請與同貶,歐陽修移書責司諫高若訥,由是三人者皆坐譴。襄作《四賢一不肖詩》,都人士爭相傳寫,鬻書者市之,得厚利。契丹使適至,買以歸,張於幽州館。

慶曆三年、仁宗が輔相を改めて用い、自ら余靖・歐陽修及び王素を擢て諫官とし、襄はまた詩をもって賀し、三人は列挙して襄を推薦した。帝もまた襄に知諫院を命じた。襄は言路が開かれたことを喜んだが、正人が長く立つことは難しいと慮った。そこで上疏して言うには、「朝廷が諫臣を増用し、歐陽修・余靖・王素が一日に並んで命を受け、朝野ともに慶賀する。しかし諫臣を任用することは難しくなく、諫言を聴くことが難しく、諫言を聴くことは難しくなく、諫言を用いることが難しい。三人は忠誠剛直で、必ずや言い尽くすであろう。臣は邪な者が不利とし、必ずやこれを防ぐ説を捏造することを恐れる。その防ぐ説は三つに過ぎない。臣は陛下のためにこれを弁明したい。一つは名を好むという――忠臣は君を導いて正道に当たらせ、事を論ずるには至らぬことを恐れる。もし名を好む嫌疑を避けて何も陳べなければ、土木の人形でも用いることができる。二つは進取を好むという――前世の諫者の難しさは、忠憤に激し、世の昏乱に遭い、死をも辞さなかった。どうして進取を好むことがあろうか。近世では奨励抜擢が速すぎるが、ただ久しくして遷さなければ、たとえこの官で死んでも悔いはない。三つは君の過ちを顕わにするという――諫争の臣は、過ちを挙げることを司どるのである。人主が聴いてこれを行えば、従諫の誉れを致すに足り、どうして過ちを顕わにできようか。巧みな者に至ってはまた、事が言い難ければ黙して言わず、忤うことのないものを選び、時折一言する。それでも行われなければ、退いて『私はかつて某の事を論じた』と言う。これを名を好むというのである。黙々と容れ、愧じ恥ずるところなく、資歴を積み重ねて、顕職を掬い取る。これを進取を好むというのである。君に過失があれば、未然にこれを救わず、天下後世に伝え、その事がますます覆い隠せなくなる。これを君の過ちを顕わにするというのである。願わくは陛下がこれを察し、よく諫める名ばかりで実のないことのないようにされたい」。

原文慶曆三年,仁宗更用輔相,親擢靖、脩及王素為諫官,襄又以詩賀,三人列薦之,帝亦命襄知諫院。襄喜言路開,而慮正人難久立也。乃上疏曰:「朝廷增用諫臣,脩、靖、素一日並命,朝野相慶。然任諫非難,聽諫為難;聽諫非難,用諫為難。三人忠誠剛正,必能盡言。臣恐邪人不利,必造為禦之之說。其禦之之說不過有三,臣請為陛下辨之。一曰好名——夫忠臣引君當道,論事唯恐不至,若避好名之嫌無所陳,則土木之人,皆可為矣。二曰好進——前世諫者之難,激於忠憤,遭世昏亂,死猶不辭,何好進之有?近世獎拔太速,但久而勿遷,雖死是官,猶無悔也。三曰彰君過——諫爭之臣,蓋以司過舉耳,人主聽而行之,足以致從諫之譽,何過之能彰。至於巧者亦然,事難言則喑而不言,擇其無所忤者,時一發焉,猶或不行,則退而曰吾嘗論某事矣,此之謂好名。默默容容,無所愧恥,躡資累級,以挹顯仕,此之謂好進。君有過失,不救之於未然,傳之天下後世,其事愈不可掩,此之謂彰君過。願陛下察之,毋使有好諫之名而無其實。」

時に旱魃・蝗害・日食・地震の変異があり、襄は「災害の来るは、皆人事による。数年以來、天の戒めが屡々至る。その致す所以を原れば、君臣上下皆欠失による。専らに聴断せず、威権を攬めず、号令を人に信じさせず、恩沢を下に及ぼさない。これ陛下の失いである。天下の権柄を持ち、生民の命を司どり、嘉謀異画なくして時弊を矯めず、忠を尽くし節を竭して任使に副わない。これ大臣の失いである。朝に弊政あって正さず、民に疾苦あって除かず、陛下の寛仁少断を規諫できず、大臣の循黙避事を斥責できない。これ臣等の罪である。陛下は既に過ちを引く言葉を、天地神祇に達せられた。願わくはその実を思ってこれに応えられたい」。疏が出ると、聞く者は皆悚然とした。

原文時有旱蝗、日食、地震之變,襄以為:「災害之來,皆由人事。數年以來,天戒屢至,原其所以致之,由君臣上下皆闕失也。不顓聽斷,不攬威權,使號令不信於人,恩澤不及於下,此陛下之失也。持天下之柄,司生民之命,無嘉謀異畫以矯時弊,不盡忠竭節以副任使,此大臣之失也。朝有敝政而不能正,民有疾苦而不能去,陛下寬仁少斷而不能規,大臣循默避事而不能斥,此臣等之罪也。陛下既有引過之言,達於天地神祇矣,願思其實以應之。」疏出,聞者皆悚然。

直史館に進み、起居注を兼修し、襄はますます職任に励み事を論じ、曲げ撓むところがなかった。開寶寺の塔が災いし、下に旧く埋めた仏舎利があり、詔して取り入れると、宮人の多くが臂を灼き髪を落とす者がいた。ちょうど再建を議するにあたり、襄は諫めて言うには、「理に合わぬ福は、僥倖してはならない。今、生民は困苦し、四夷は驕慢である。陛下は人事を修めるべきであり、どうして専らに仏法を信じるのか。あるいは舎利に光があるとして、神異と推すが、彼らの居る所すら護れないのに、どうして威霊があろうか。天が災いを降すのは、戒めを示すためである。かえって大いに功役を興すのは、人力をもって天意を排そうとするものである」。

原文進直史館,兼修起居注,襄益任職論事,無所回撓。開寶浮圖災,下有舊瘞佛舍利,詔取以入,宮人多灼臂落髮者。方議復營之,襄諫曰:「非理之福,不可徼幸。今生民困苦,四夷驕慢,陛下當修人事,奈何專信佛法?或以舍利有光,推為神異,彼其所居尚不能護,何有於威靈。天之降災,以示儆戒,顧大興功役,是將以人力排天意也。」

呂夷簡が国事を平章すると、宰相以下がその邸宅に就いて政事を議した。襄は上奏してこれを罷めるよう請うた。元昊が款を納め、初め「兀卒」と自称し、後にまた「吾祖」と訳した。襄は言うには、「『吾祖』は『我が翁』の如きもので、慢侮甚だしい。朝廷が詔を賜うのに、また『吾祖』と言うのは、何たる言葉か」。

原文呂夷簡平章國事,宰相以下就其第議政事,襄奏請罷之。元昊納款,始自稱「兀卒」,既又譯為「吾祖」。襄言:「『吾祖』猶云『我翁』,慢侮甚矣。使朝廷賜之詔,而亦曰『吾祖』,是何等語邪?」

夏竦が樞密使を罷められ、韓琦・范仲淹が在位すると、襄は言うには、「陛下が夏竦を罷めて韓琦・仲淹を用いられると、士大夫は朝に賀し、庶民は路で歌い、酒を飲んで叫び号して歓ぶに至った。また一邪を退け一賢を進めるだけで、どうして天下の軽重に関わるなどできようか。一邪が退けばその類は退き、一賢が進めばその類は進む。衆邪ともに退き、衆賢ともに進めば、海内が安泰でないことがあろうか。そうではあるが、臣は切にこれを憂える。天下の勢いは、譬えば病者のようである。陛下は既に良医を得られた。信任して疑わなければ、ただ病を癒すだけでなく、民を長寿させる。医は良術であっても、尽く用いられなければ、病は日増しに深まり、たとえ和・扁がいても、効果を責めるのは難しい」。

原文夏竦罷樞密使,韓琦、范仲淹在位,襄言:「陛下罷竦而用琦、仲淹,士大夫賀於朝,庶民歌於路,至飲酒叫號以為歡。且退一邪,進一賢,豈遂能關天下輕重哉?蓋一邪退則其類退,一賢進則其類進。眾邪並退,眾賢並進,海內有不泰乎!雖然,臣切憂之。天下之勢,譬猶病者,陛下既得良醫矣,信任不疑,非徒愈病,而又壽民。醫雖良術。不得盡用,則病且日深,雖有和、扁,難責效矣。」

保州の兵卒が乱を起こし、懦弱な兵士十余人を推して首悪とし、これを殺して招撫を求めた。襄は言うには、「天下の兵は百万、もし誅殺を断行する令がなければ、必ず驕慢暴乱の源を開く。今、州兵が官吏を殺害し、城門を閉ざす。討伐できず、これに従って招撫するのは、四方の笑いものとならないか。兵を率いて城に入り、これを尽く誅することを乞う」。詔してその議に従った。

原文保州卒作亂,推懦兵十餘輩為首惡,殺之以求招撫。襄曰:「天下兵百萬,苟無誅殺決行之令,必開驕慢暴亂之源。今州兵戕官吏、閉城門,不能討,從而招之,豈不為四方笑。乞將兵入城,盡誅之。」詔從其議。

母が老いたため、福州の知事を求めて出、福建路轉運使に改まり、古い五つの塘を開いて民田を灌漑し、五代時の丁口税を半減するよう奏上した。再び起居注を修めた。唐介が宰相を撃弾し、盛怒に触れると、襄は進み出て言うには、「介は確かに狂愚ではあるが、忠を進めることから出ており、必ずや全うされることを望む」。既に春州に貶されると、また上疏してこれは必ず死すべき謫であるとし、英州に改めさせた。溫成后の追冊に際し、忌日を立てず、園陵官の監護を罷めるよう請うた。

原文以母老,求知福州,改福建路轉運使,開古五塘溉民田,奏減五代時丁口稅之半。復修起居注。唐介擊宰相,觸盛怒,襄趨進曰:「介誠狂愚,然出於進忠,必望全貸。」既貶春州,又上疏以為此必死之謫,得改英州。溫成后追冊,請勿立忌,而罷監護園陵官。

知制誥に進み、三御史が梁適を論じて解職させようとしたが、襄は制を草しなかった。後に除授が職に当たらないと、毎度封を還上した。帝はますます厚く遇し、その母に冠帔を賜って寵を示し、また親しく「君謨」の二字を書し、使者に詔を持たせて与えた。龍圖閣直學士・開封府知事に遷る。襄は吏事に精しく、談笑のうちに剖決し、奸を破り隠を発し、吏は欺くことができなかった。樞密直學士として再び福州知事となる。郡の士人周希孟・陳烈・陳襄・鄭穆は行義で著名であった。襄は礼を備えて招き延べ、諸生に経学を教えた。俗に凶儀を重んじ、親が亡くなると秘して挙げず、破産して僧に飯を施すに至った。下令してこれを禁止した。泉州知事に移る。州から二十里の万安渡は、海を渡って往来するが、その険しさを畏れた。襄は石を立てて梁とし、その長さ三百六十丈、礎に蠣を種えて固めとし、今日まで頼っている。また松を七百里に植えて道路を庇い、閩人は碑を刻んで徳を紀した。

原文進知制誥,三御史論梁適解職,襄不草制。後每除授非當職,輒封還之。帝遇之益厚,賜其母冠帔以示寵,又親書「君謨」兩字,遣使持詔予之。遷龍圖閣直學士、知開封府。襄精吏事,談笑剖決,破奸發隱,吏不能欺。以樞密直學士再知福州。郡士周希孟、陳烈、陳襄、鄭穆以行義著,襄備禮招延,誨諸生以經學。俗重凶儀,親亡或秘不舉,至破產飯僧,下令禁止之。徙知泉州,距州二十里萬安渡,絕海而濟,往來畏其險。襄立石為梁,其長三百六十丈,種蠣於礎以為固,至今賴焉。又植松七百里以庇道路,閩人刻碑紀德。

翰林學士・三司使に召され、天下の盈虚出入を較べ、力に量りて用を制した。蠹敝を剗剔し、簿書紀綱の細かなことまで皆法とすべきものであった。

原文召為翰林學士、三司使,較天下盈虛出入,量力以制用。剗剔蠹敝,簿書紀綱纖悉皆可法。

英宗が不豫よとなると、皇太后が聴政し、輔臣に言うには、「先帝が既に皇子を立てられると、宦官妾媵がさらに熒惑し、近臣で名の知れた者もまた同様で、大事を敗るに近かった。近く已にその上奏文を焼いた」。やがて外間では襄に論議があったと云うようになり、帝はこれを聞いて疑った。ちょうど襄が屡々謁告したため、人を選んで襄に代えるよう命じた。襄は杭州を乞い、端明殿學士を拝して赴いた。治平三年、母の喪に服す。明年卒す。年五十六。吏部侍郎を贈られた。

原文英宗不豫,皇太后聽政,為輔臣言:「先帝既立皇子,宦妾更加熒惑,而近臣知名者亦然,幾敗大事,近已焚其章矣。」已而外人遂云襄有論議,帝聞而疑之。會襄數謁告,因命擇人代襄。襄乞為杭州,拜端明殿學士以往。治平三年,丁母憂。明年卒,年五十六。贈吏部侍郎。

蔡襄は書に巧みで、当時第一とされ、仁宗は特にこれを愛し、『元舅隴西王碑文』を撰して書を命じた。また『温成后父碑』を書かせようとした時には、「これは待詔の職務である」と言って詔に奉じなかった。朋友に対しては信義を重んじ、その喪を聞けば酒肉を口にせず、位を設けて哭した。かつて会霊東園で酒宴を催した時、座客が誤って矢を射て人を傷つけたが、すぐに蔡襄のせいだと指弾した。後日、帝がこれを問うと、再拝して慚愧謝罪したが、終に自ら弁明することはなかった。

原文襄工於書,為當時第一,仁宗尤愛之,製《元舅隴西王碑文》命書之。及令書《溫成后父碑》,則曰:「此待詔職耳。」不奉詔。於朋友尚信義,聞其喪,則不御酒肉,為位而哭。嘗飲會靈東園,坐客誤射矢傷人,遽指襄。他日帝問之,再拜愧謝,終不自辨。

蔡京は同郡の出身であったが輩出が遅く、名門に附こうとして、自ら族弟と称した。政和初年、蔡襄の孫の佃が廷試で唱名され、首位にあったが、蔡京が殿上に侍しており、族孫であることを引嫌して、第二に降格させた。佃は終身これを恨んだ。乾道年間、蔡襄に忠恵と諡を賜った。

原文蔡京與同郡而晚出,欲附名閥,自謂為族弟。政和初,襄孫佃廷試唱名,居舉首,京侍殿上,以族孫引嫌,降為第二,佃終身恨之。乾道中,賜襄諡曰忠惠。

呂溱

原文呂溱

呂溱は字を済叔といい、揚州の人である。進士第一となった。亳州通判を経て、直集賢院となり、同修起居注を兼ねた。進奏院の宴飲に預かった罪で、蘄州・楚州・舒州の知州に出された。再び修起居注となった。

原文呂溱,字濟叔,揚州人。進士第一。通判亳州,直集賢院,同修起居注。坐預進奏院宴飲,出知蘄、楚、舒三州。復修起居注。

儂智高が嶺南を寇した時、詔して奏邸に報じてはならないとした。呂溱は言った。「一方に警報があれば、諸道にこれを知らせ、共に備えをなすことができる。今、人に知らせまいとするのは、これはどういう意味か。」知制誥に進み、また杭州知州に出され、入朝して翰林学士となった。宰相陳執中の奸邪を疏論したが、仁宗はその疏を返した。呂溱は言った。「口舌で人を論ずるのは、密かに大臣を中傷することです。願わくはこれを出して執中に示し、自ら弁明させてください。」間もなく、執中は去り、呂溱も侍読学士として徐州知州に出され、資善堂で賜宴があり、使者を遣わして諭して言った。「これは特に卿の為に設けたもの、宜しく酔いを尽くすべし。」詔して今後、経筵より出る者はこれを例とせよとした。

原文儂智高寇嶺南,詔奏邸毋得輒報。溱言:「一方有警,使諸道聞之,共得為備。今欲人不知,此何意也。」進知制誥,又出知杭州,入為翰林學士。疏論宰相陳執中奸邪,仁宗還其疏。溱曰:「以口舌論人,是陰中大臣也。願出以示執中,使得自辨。」未幾,執中去,溱亦以侍讀學士知徐州,賜宴資善堂,遣使諭曰:「此特為卿設,宜盡醉也。」詔自今由經筵出者視為例。

成徳軍に転じた。時に六塔河を開削しようとしており、宰相がその議を主導していた。地震が起こると、呂溱はこれを罷めて天戒に答えるよう請うた。呂溱は豪奢で自ら放縦、事を簡略に忽せにした。都転運使李参と仲が悪く、還朝して流内銓を判じたが、李参が彼が官の麹を借りて酒を作り、私貨を持って河東に貿易し、及び式に違って餞別を受けたことを弾劾した。事は大理寺に下って議せられた。呂溱は実際には受け取っていなかったが、外廷では紛然として呂溱に死罪があると言った。帝はその過ちが軽いことを知り、ただ官位を貶めて和州知州とした。御史はまだ罪に相当しないとして、南京に分司させた。起復して池州・江寧府の知州となり、再び集賢院学士に復し、龍図閣直学士を加えられ開封府知事となった。

原文徙成德軍,時方開六塔河,宰相主其議。會地震,溱請罷之,以答天戒。溱豪侈自放,簡忽於事。與都轉運使李參不相能,還,判流內銓,參劾其借官麹作酒,以私貨往河東貿易,及違式受饋贐,事下大理議。溱乃未嘗受,而外廷紛然謂溱有死罪。帝知其過輕,但貶秩,知和州。御史以為未抵罪,分司南京。起知池州、江寧府,復集賢院學士,加龍圖閣直學士、知開封府。

当時、京尹となる者は概ね職に称せず、呂溱は精識人に過ぎ、訴訟を弁じて立ちどころに断じ、豪悪は跡を潜めた。嘗て職事をもって対した時、神宗はその病める色あることを察し、医薬に近づくよう励ましたが、已にして果たして病んだ。枢密直学士・醴泉観提挙に改め、遂に卒した。年五十五。礼部侍郎を追贈された。帝はこれを悼み念い、中書に詔して言った。「呂溱は立朝最も孤にして、事君の節を知り、権貴と絶交した。故に十有余年中途で廃されても、人これを言う者無し。方に要劇を擢領せんとし、而して奄忽として淪亡す。家貧しく子幼く、此の大禍に遭い、必ず狼狽に至らん。宜しく賻礼を優給し、官して其の葬を庀い、以て臣節を厲すべし。」その婦の兄に勅して喪を護り帰らせた。

原文時為京尹者比不稱職,溱精識過人,辨訟立斷,豪惡斂跡。嘗以職事對,神宗察其有疾色,勉以近醫藥,已而果病。改樞密直學士、提舉醴泉觀,遂卒,年五十五。贈禮部侍郎。帝悼念之,詔中書曰:「溱立朝最孤,知事君之節,絕跡權貴,故中廢十餘年,人無言者。方擢領要劇,而奄忽淪亡,家貧子幼,遭此大禍,必至狼狽。宜優給賻禮,官庀其葬,以厲臣節。 」敕其婦兄護喪歸。

呂溱は開明敏速で、議論を善くし、一時の名輩は皆推許した。然れども自ら貴重にして、杭州では賓客に接するも数語を過ぎず、時に「七字舎人」と目されたという。

原文溱開敏,善議論,一時名輩皆推許。然自貴重,在杭州接賓客,不過數語,時目為「七字舍人」云。

王素

原文王素

王素は字を仲儀といい、太尉王旦の末子である。進士出身を賜り、屯田員外郎に至った。御史中丞孔道輔が侍御史に推薦した。道輔が貶されると、鄂州知州に出された。仁宗はその賢を思い、諫院知事に抜擢した。王素は壮年にして、事に遇えば感発した。嘗て言った。「今、中外に名の無き費用は、以前の数倍に及ぶ。急ならざるものを省くことを請う。」丁度皇子が生まれ、百官に官を進め、諸軍に賞を与えようとした。王素が争って言った。「今、西夏は畔渙し、契丹は要求し、県官の需用は日増しに急である。宜しく爵秩を留めて戦功を賞し、金帛を儲けて辺費を助くべし。」議は遂に止んだ。

原文王素,字仲儀,太尉旦季子也。賜進士出身,至屯田員外郎。御史中丞孔道輔薦為侍御史。道輔貶,出知鄂州。仁宗思其賢,擢知諫院。素方壯年,遇事感發。嘗言:「今中外無名之費,倍蓰於前,請省其非急者。」適皇子生,將進百僚以官,惠諸軍以賞。素爭曰:「今西夏畔渙,契丹要求,縣官之須,且日急矣。宜留爵秩以賞戰功,儲金繒以佐邊費。」議遂已。

京師が旱魃した時、王素は帝に郊で祈祷するよう請うた。帝は言った。「太史が言うには月の二日に雨が降るという。今、旦日に出て祈祷しよう。」王素は言った。「臣は太史ではないが、この日は必ず雨が降らないと推量します。」帝がその故を問うと、言った。「陛下は雨が降ると知りながら祈祷される。天に応ずるに誠をもってせず、故に臣は雨が降らないと知ります。」帝は言った。「然らば明日、醴泉観に詣でよう。」王素は言った。「醴泉観の近きは、猶お外朝の如きもので、暑さを憚って遠くに出られないというのか。」帝は悚然とした。改めて西太一宮に詣でるよう詔し、諫官は故に属車の間に在らず、乃ち王素に扈従を命じた。日は甚だ熾んじ、埃気空を翳し、輿駕の還るに及び、未だ城に近づかぬ内に、天は大いに雷電して雨が降った。

原文京師旱,素請帝禱於郊,帝曰:「太史言月二日當雨,今將以旦日出禱。」素曰:「臣非太史,然度是日必不雨。」帝問故,曰:「陛下知其且雨而禱之,應天不以誠,故臣知不雨。」帝曰:「然則明日詣醴泉觀。」素曰:「醴泉之近,猶外朝耳,豈憚暑不遠出邪?」帝悚然。更詔詣西太一宮,諫官故不在屬車間,乃命素扈從。日甚熾,埃氛翳空,比輿駕還,未薄城,天大雷電而雨。

王徳用が二人の女子を進めたので、王素がこれを論じた。帝は言った。「朕は真宗皇帝の子であり、卿は王旦の子である。世旧あり、他人の比ではない。徳用が確かに女子を進めたが、已に朕の左右に事えている。どうすればよいか。」王素は言った。「臣の憂い、正に左右に在ることを恐れるのみです。」帝は動容し、立ちどころに二人の女子を出させるよう命じた。王素に銀緋を賜り、天章閣待制・淮南都転運按察使に抜擢した。時に新たに按察を置いたが、類多くは苛酷を以て明察と為した。王素のみは細故を摘発せず、即ち貪刻あれば必ずこれを糺治して窮竟した。以って故に下吏はこれを愛しつつ畏れた。渭州知事に改めたが、河東で木材を市い民を擾した状により、華州に降格し、また職を奪われ汝州に移された。俄かに悉くその故官を還され、龍図閣直学士に遷った。

原文王德用進二女子,素論之,帝曰:「朕真宗皇帝之子,卿王旦之子,有世舊,非他人比也。德用實進女,然已事朕左右,奈何?」素曰:「臣之憂正恐在左右爾。」帝動容,立命遣二女出。賜素銀緋,擢天章閣待制、淮南都轉運按察使。時新置按察,類多以苛為明。素獨不擿細故,即有貪刻,必繩治窮竟,以故下吏愛而畏之。改知渭州,坐市木河東有擾民狀,降華州,又奪職徙汝。俄悉還其故,遷龍圖閣直學士。

初め、原州の蒋偕が大虫巉堡を築くことを建議し、宣撫使がこれを聴いた。工事が未だ成らぬ内に、敵が隙を伺って要撃し、完成できなかった。蒋偕は恐れて帰り死罪を請うた。王素は言った。「もし蒋偕を罪するならば、これは敵の計に堕するものだ。」蒋偕を責めて力を尽くして自ら効うるようさせた。総管狄青は言った。「蒋偕が行けば益々敗れる。遣わすべからず。」王素は言った。「蒋偕が敗れれば総管が行き、総管が敗れれば、素が即ち行く。」狄青は敢えて再び言わず、蒋偕は遂に城を築いて還った。枢密直学士として開封府知事となった。至和の秋、大雨が降り、蔡河が決壊し、水が城内に入った。詔して軍吏に朱雀門を防がせようとした。王素は言った。「皇上は御不豫であり、兵民の廬舎多く覆圧され、衆心怦怦然たり。奈何ぞ更に門を塞いで衆を動かさん。」詔に違ってその役を止めさせ、水もまた害をなさなかった。

原文初,原州蔣偕建議築大蟲巉堡,宣撫使聽之。役未具,敵伺間要擊,不得成。偕懼來歸死。素曰:「若罪偕,乃是墮敵計。」責偕使畢力自效。總管狄青曰:「偕往益敗,不可遣。」素曰:「偕敗則總管行,總管敗,素即行矣。」青不敢復言,偕卒城而還。以樞密直學士知開封府。至和秋,大雨,蔡河裂,水入城。詔軍吏障朱雀門,素曰:「皇上不豫,兵民廬舍多覆壓,眾心怦怦然,奈何更塞門以動眾。」違詔止其役,水亦不害。

定州・成都府の知州に出された。先に、牙校が歳ごとに酒坊銭を輸納して厨伝に供していたが、日増しに厚くなり、輸納する者が転じて困窮していた。王素は一切これを裁減した。鉄銭が両蜀しょくに満ちていたが、鼓鑄が止まず、貨幣益々軽くなり、商賈行われなかった。十年間鼓鑄を罷めて物価を権衡するよう命じた。凡そ政を為すに、務めて人情に合い、蜀人はその事績を記録して「王公異断」と号した。再び開封府知事となった。王素は三公子として少時より知名で、出入りして侍従将帥となり、久しく頗る鞅鞅として、劇煩を厭い倦み、事多く鹵莽にして治まらず、盗賊しばしば発した。御史がその過ちを糾弾し、許州知州に出された。

原文出知定州、成都府。先是,牙校歲輸酒坊錢以供廚傳,日加厚,輸者轉困。素一切裁約之。鐵錢布滿兩蜀,而鼓鑄不止,幣益輕,商賈不行,命罷鑄十年,以權物價。凡為政,務合人情,蜀人紀其目,號曰「王公異斷」。復知開封。素以三公子少知名,出入侍從將帥,久頗鞅鞅,厭倦劇煩,事多鹵莽不治,盜賊數發。御史糾其過,出知許州。

治平の初め、夏人が静辺砦を寇す。召されて端明殿学士を拝し、再び渭州を知る。ここに至りて三鎮・涇原の蕃夷故老皆歓賀し、比して至れば、敵解き去る。渭の西南城を拓き、隍を浚えて三周し、粟を積みて十年を支う。属羌土地を奉じて来献し、悉く弓箭手を増募す。行陳出入の法を行い、身自ら督訓す。その居は旧く土を穿ちて室と為し、寇至れば、老幼多く焚死す。八堡を築きて之に居らしむ。その従は両巡検に領せられ、人自便を得ること莫し。素曰く、「是れ豈に民兵を募るの意ならんや」と。散じて田里に耕すを聴し、警有れば則ち聚まる。故に士気感奮し、精悍他道及ぶ莫し。嘗て堂上に宴し、辺民寇至るを伝え、驚きて城に入る。諸将曰く、「奸人をして亦従いて入らしめば、将に必ず内応と為らん。合して拒みて内れざるべし」と。素曰く、「若し之を拒めば東去し、関中必ず揺らん。吾此に在り、敵必ず敢えて我を犯さじ。此に当に奸言有るべし」と。乃ち下令す、「敢えて寇至ると称する者は斬る」と。有りて頃、候騎西より来たり、人の伝うる果たして妄なり。諸将皆其の明に服す。

原文治平初,夏人寇靜邊砦。召拜端明殿學士,復知渭州,於是三鎮、涇原蕃夷故老皆歡賀,比至,敵解去。拓渭西南城,浚隍三周,積粟支十年。屬羌奉土地來獻,悉增募弓箭手。行陳出入之法,身自督訓。其居舊穿土為室,寇至,老幼多焚死,為築八堡使居之。其從領於兩巡檢,人莫得自便。素曰:「是豈募民兵意邪?」聽散耕田里,有警則聚,故士氣感奮,精悍他道莫及。嘗宴堂上,邊民傳寇至,驚入城。諸將曰:「使奸人亦從而入,將必為內應,合拒勿內。」素曰:「若拒之東去,關中必搖。吾在此,敵必不敢犯我,此當有奸言。」乃下令:「敢稱寇至者斬。」有頃,候騎從西來,人傳果妄,諸將皆服其明。

澶州観察使に換え、成徳軍を知る。青州観察使に改む。熙寧の初め。還り、学士として太原府を知る。汾河大いに溢れ、素曰く、「若し平晋を壊せば、遂に州城を灌がん」と。亟に命じて舟楫を具え、堤を築きて以て之を捍がしむ。一夕、水驟然として至り、人頼りて安んず。入りて通進銀台司を知り、工部尚書に転じ、仍って故職のまま致仕す。故事、三公と雖も致仕すれば、亦た職を帯びず。朝廷方に法制を新たにし、素首めて学士にて第に就く。卒す。年六十七。諡して懿敏と曰う。子:鞏。従子:靖。従孫:震。

原文換澶州觀察使、知成德軍,改青州觀察使。熙寧初。還,以學士知太原府。汾河大溢,素曰:「若壞平晉,遂灌州城矣。」亟命具舟楫,築堤以捍之。一夕,水驟至,人賴以安。入知通進銀臺司,轉工部尚書,仍故職致仕。故事,雖三公致仕,亦不帶職。朝廷方新法制,素首以學士就第。卒,年六十七,諡曰懿敏。子:鞏;從子:靖;從孫:震。

素の子 鞏

原文素子 鞏

鞏は雋才有り、詩に長じ、蘇軾に従いて遊ぶ。軾徐州を守り、鞏之を訪う。客と泗水に遊び、魋山に登り、笛を吹き酒を飲み、月に乗じて帰る。軾之を黄楼上に待ち、鞏に謂いて曰く、「李太白死して、世に此の楽三百年無し」と。軾罪を得、鞏亦た賓州に竄す。数歳にして得て還る。豪気少も挫けず。後に宗正丞を歴たり、跌蕩として世を傲り、毎に官を除くに、輒ち言者の議する所と為る。故に終に顕れず。

原文鞏有雋才,長於詩,從蘇軾遊。軾守徐州,鞏往訪之,與客遊泗水,登魋山,吹笛飲酒,乘月而歸。軾待之於黃樓上,謂鞏曰:「李太白死,世無此樂三百年矣。」軾得罪,鞏亦竄賓州。數歲得還,豪氣不少挫。後歷宗正丞,以跌蕩傲世,每除官,輒為言者所議,故終不顯。

素の従子 靖

原文素從子 靖

靖、字は詹叔。蚤く孤となり、自力して学に励み、天下の利害を講切するを好む。祖蔭に以て閬州通判・滁州知州を歴たり、北京御史台を主管す。契丹数たび横使を遣わして来たり、靖疏して言う、「彼は中国の賜遺を利し、虚声を挟みて以て其の欲を済す。漸くすべからず、宜しく之を折する所有るべし」と。又た明経科を復し、貢士に策を加えて試み、其の学ぶ所を観、稍く声律の習を変えんことを請う。

原文靖,字詹叔,蚤孤,自力於學,好講切天下利害。以祖蔭歷通判閬州、知滁州,主管北京御史臺。契丹數遣橫使來,靖疏言:「彼利中國賜遺,挾虛聲以濟其欲,漸不可長,宜有以折之。」又請復明經科,加試貢士以策,觀其所學,稍變聲律之習。

利州路転運判官に擢げられ、陝西刑獄を提点す。郷戸州県に役する者、優なれば則ち久留を願い、労なれば則ち亟に去らんと欲す。吏其の遅速を権るを得たり。靖一に歳月を以て遣代し、遂に令と為る。河東長子県に徙る。賊人を殺し、捕治すること十数輩、実を得ず、皆釈き去る。靖其の牘を閲して曰く、「此れ真の盗なり」と。吏を教えて曲折囚を訊わしめ、果たして罪に服す。開封府推官と為る。曹・濮に盗害有り、官吏久しく獲ず。靖詔を受けて督捕し、成擒する者十八九。因りて言う、盗の戢えざるは、大姓の囊橐と為るに由る、請う並びに之を坐せしめ、令と為して著わさん、と。

原文擢利州路轉運判官,提點陝西刑獄。鄉戶役於州縣者,優則願久留,勞則欲亟去,吏得權其遲速。靖一以歲月遣代,遂為令。徙河東長子縣。賊殺人,捕治十數輩,不得實,皆釋去。靖閱其牘曰:「此真盜也。」教吏曲折訊囚,果服罪。為開封府推官。曹、濮盜害,官吏久不獲,靖受詔督捕,成擒者十八九。因言盜之不戢,由大姓為囊橐,請並坐之,著為令。

広南転運使に徙る。熙寧の初め、広人訛言して交阯且に至らんとす。老幼保に入る。事聞こえ、中外以て憂えと為す。神宗曰く、「王靖彼に在り、念うる無かるべし」と。即ち太常少卿・直昭文館・広州知州を拝す。居ること二年、入りて度支副使と為り、卒す。

原文徙廣南轉運使。熙寧初,廣人訛言交阯且至,老幼入保。事聞,中外以為憂。神宗曰:「王靖在彼,可無念。」即拜太常少卿、直昭文館、知廣州。居二年,入為度支副使,卒。

靖の子 古

原文靖子 古

子古、字は敏仲。進士に第す。熙寧中、司農主簿と為り、淮・浙を行きて旱菑を振い、張若済の獄を究め、転運使王廷老・張靚の失職を劾し、皆罷む。連ねて四路常平を提挙す。王安礼用いんとして太常丞と為さんと欲す。神宗古を好んで異論を為すと謂い、止めて博士と為す。仁宗・英宗の諡を加え上るに因り、四后を升祔す。初め議して冊を発さず。古言う、「冊を発するの礼、祔廟の節文と為すと雖も、而して升祔の重きは、乃ち冊に由りて後に顕わる。今既に升祔を行えば、則ち礼廃すべからず」と。乃ち詔して竹冊を用いしむ。又た諸神祠の封額・爵号の序を定む。

原文子古,字敏仲,第進士。熙寧中,為司農主簿,使行淮、浙振旱菑,究張若濟獄,劾轉運使王廷老、張靚失職,皆罷之。連提舉四路常平,王安禮欲用為太常丞,神宗謂古好異論,止以為博士。加上仁宗、英宗諡,因升祔四后,初議不發冊,古言:「發冊之禮,雖為祔廟節文,而升祔之重,乃由冊而後顯。今既行升祔,則禮不可廢。」乃詔用竹冊。又定諸神祠封額、爵號之序。

湖南転運判官に出で、淮東刑獄を提点し、工部・吏部・右司員外郎、太府少卿を歴る。契丹に奉使す。異時に北使の過ぐる所、凡そ供張悉く民に貸す。古公銭を出だして之を為さんことを請い、民擾れずを得。紹聖の初め、戸部侍郎に遷り、役法を詳定し、尚書蔡京と多く合わず。京言う、「臣元豊の人額雇直を用いんと欲す。而るに古乃ち司馬光の法を用う」と。詔して古を兵部に徙す。尋いで集賢殿修撰を以て江淮発運使と為り、宝文閣待制に進み広州を知る。言者其の常に平歳を指して凶年と為し、妄りに邦財を散ずるを論じ、職を奪われ袁州を知る。

原文出為湖南轉運判官,提點淮東刑獄,歷工部、吏部、右司員外郎,太府少卿。奉使契丹,異時北使所過,凡供張悉貸於民,古請出公錢為之,民得不擾。紹聖初,遷戶部侍郎,詳定役法,與尚書蔡京多不合。京言:「臣欲用元豐人額雇直,而古乃用司馬光法。 」詔徙古兵部,尋以集賢殿修撰為江淮發運使,進寶文閣待制、知廣州。言者論其常指平歲為凶年,妄散邦財,奪職知袁州。

徽宗立ち、復た戸部侍郎を拝し、尚書に遷る。御史中丞趙挺之と偕に放欠を領す。挺之言う、「古蠲除太多く、尽く天下の財を傾けんと欲す。用うべからず」と。遂に刑部に改む。攻み已まず、宝文閣直学士を以て成都を知る。崇寧の党籍に堕ち、衡州別駕を責められ、温州に安置せらる。復た朝散郎、尋いで卒す。

原文徽宗立,復拜戶部侍郎,遷尚書。與御史中丞趙挺之偕領放欠,挺之言:「古蠲除太多,欲盡傾天下之財,不可用。」遂改刑部。攻不已,以寶文閣直學士知成都。墮崇寧黨籍,責衡州別駕,安置溫州。復朝散郎,尋卒。

素の従孫 震

原文素從孫 震

震、字は子発。父任に以て試銓優等、賜いて及第す。諸路学制を上る。神宗其の才を称す。習学中書刑房公事を以て、遂に検正と為る。条例の修むるに預かり、館閣校勘を加え、孔目吏房を検正す。

原文震,字子發,以父任試銓優等,賜及第。上諸路學制,神宗稱其才。以習學中書刑房公事,遂為檢正。預修條例,加館閣校勘,檢正孔目吏房。

元豊官制行わる。震と吳雍輔臣に従い筆を執り入りて上語を記し、面して尚書右司員外郎を授け、自ら除目を書かしむ。挙朝之を栄しむ。兼ねて『市易敕』を修む。帝之に諭して曰く、「朝廷法を造るは、皆先王之制に本づく。人に非るを推し行う、故に善後能わず。且つ銭を以て民に貸し、償う能わざる有れば、輒ち其の家を籍す。豈に善政ならんや。宜しく其の負う所幾何を計い、悉く之を捐つべし」と。震頓首して詔を奉ず。

原文元豐官制行,震與吳雍從輔臣執筆入記上語,面授尚書右司員外郎,使自書除目,舉朝榮之。兼修《市易敕》,帝諭之曰:「朝廷造法,皆本先王之制,推行非人,故不能善後。且以錢貸民,有不能償,輒籍其家,豈善政也。宜計其負幾何,悉捐之。」震頓首奉詔。

起居舍人に進み、西辺に使いし、還って中書舍人となる。元祐初め、給事中に遷り、御史王岩叟に弾劾され、龍圖閣待制として蔡州を治め、五郡を歴任す。

原文進起居舍人,使行西邊,還為中書舍人。元祐初,遷給事中,御史王岩叟劾之,以龍圖閣待制知蔡州,歷五郡。

紹聖初め、再び給事中となり、権吏部尚書を兼ね、龍圖閣直学士・知開封府を拝す。震は章惇と共に呂惠卿の推薦を受けたが、元来仲が悪し。府が獄空を奏上するや、哲宗は事実ならずと疑う。震は惇が己を抑えたと謂い、ここに潁昌の蓋漸が訴訟を起こし、許して惇の子弟に賄賂を贈るとの事あり、震は漸を捕えて拷問し、頗る跡を得たり。惇懼れ、獄を大理寺に付し、而して震を枢密都承旨に転じ、遂に折獄滋蔓・傾揺大臣の罪に坐し、職を奪われ岳州を治め、卒す。

原文紹聖初,復為給事中,權吏部尚書,拜龍圖閣直學士、知開封府。震與章惇皆呂惠卿所薦,而素不相能。府奏獄空,哲宗疑不實。震謂惇抑已,於是潁昌蓋漸有訟,許賂惇子弟,震捕漸掠治,頗得蹤跡。惇懼,以獄付大理,而徙震為樞密都承旨,遂坐折獄滋蔓、傾搖大臣,奪職知岳州,卒。

余靖

原文余靖

余靖、字は安道、韶州曲江の人。少より羈檢に事えず、文学を以て郷里に称せらる。進士に挙げられて起家し、贛県尉となり、書判拔萃に試みられ、将作監丞・知新建県に改められ、秘書丞に遷る。数たび上書して事を論じ、班固『漢書かんじょ』の舛謬を建言す。命ぜられて王洙と共に司馬遷・范曄の二史を校す。書奏して、集賢校理に擢でらる。

原文余靖,字安道,韶州曲江人。少不事羈檢,以文學稱鄉里。舉進士起家,為贛縣尉,試書判拔萃,改將作監丞、知新建縣,遷秘書丞。數上書論事,建言班固《漢書》舛謬,命與王洙並校司馬遷、范曄二史。書奏,擢集賢校理。

范仲淹が饒州に貶せられしとき、諫官御史敢えて言う者なし。靖言す、「仲淹は大臣を刺譏したことを以て重く譴謫を加えらる。もし其の言が聖慮に合わざれば、陛下の聴くか聴かざるかに在り、安んぞ罪と為すべけんや。汲黯朝廷に在りて、平津を以て多詐と為し、張昭将を論じて、魯肅を以て粗疏と為す。漢皇・呉主熟聞して訾毀すれども、両用して猜無く、豈に令徳を損ぜんや。陛下親政より以来、屡たび言事者を逐い、天下の口を鉗せんことを恐る、不可なり」と。疏入り、職を落とされ筠州酒税を監む。尹洙・歐陽修も亦た仲淹の故を以て、相継いで貶逐せられ、靖は是より益々知名となる。泰州税を監むるに転じ、英州を治め、太常博士に遷り、再び校理・同知礼院となる。

原文范仲淹貶饒州,諫官御史莫敢言。靖言:「仲淹以刺譏大臣重加譴謫,倘其言未合聖慮,在陛下聽與不聽耳,安可以為罪乎?汲黯在廷,以平津為多詐;張昭論將,以魯肅為粗疏。漢皇、吳主熟聞訾毀,兩用無猜,豈損令德。陛下自親政以來,屢逐言事者,恐鉗天下口,不可。」疏入,落職監筠州酒稅。尹洙、歐陽修亦以仲淹故,相繼貶逐,靖繇是益知名。徙監泰州稅,知英州,遷太常博士,復為校理、同知禮院。

慶曆中、仁宗鋭意天下の敝事を更めんと欲し、諫官員を増し、得失を論ぜしむ。靖を以て右正言と為す。時に四方盗賊窃発し、州郡制す能わず。靖言す、「朝廷の天下を威制するは賞罰に在り。今官吏事を弛め、群盗蜂起す。大臣齷齪として常を守り、法禁を立たず。国家の憂いと為すべし。賊を捕うる賞罰を厳にし、及び賊に劫質せられ、器甲を亡失する者の除名追官の法を定むるを請う」と。

原文慶曆中,仁宗銳意欲更天下敝事,增諫官員,使論得失,以靖為右正言。時四方盜賊竊發,州郡不能制。靖言:「朝廷威制天下在賞罰,今官吏弛事,群盜蜂起,大臣齷齪守常,不立法禁,可為國家憂也。請嚴捕賊賞罰,及定為賊劫質、亡失器甲除名追官之法。」

司天が太白歳星を犯し、又た執法を犯すと言う。靖上疏して躬を責め徳を修め、以て天変に謝すべしと請う。契丹に使いし日、奏する所の事を笏に書き、各一字を挙げて目と為す、凡そ数十事。帝顧みて之を見、悉く条奏せしむ。日幾ばく昃にして乃ち罷む。起居注を修進す。開寶寺霊感塔災に遭い、復た上疏して言う、「五行の占は、本災変なり。朝廷宜しく誡懼し、以て天意に答うべし。嘗て詔して旧に瘞せし舍利を取って禁中に入れ閲視せしむと聞く。道路伝言す、舍利内廷に在りて光怪有りと。窃に巧佞の人の、推して霊異と為し、視聴を惑乱し、再び営造を図らんことを恐る。臣聞く、帝王の道は、能く其の徳を勤儉し、人心を感動せば、則ち危難有りと雖も、後必ず安済すと。今西垂より用兵し、国帑虚竭し、民儲蓄を亡くし、十室九空なり。陛下若し勤労して己を罪し、人の憂いを憂えば、則ち四民安居し、海内福を蒙らん。如し民の病を恤せず、広く浮費を事とし、仏を奉じて福を求めば、天下の望む所に非ざるなり。若し舍利火経て壊れざるを以て、遽かに神異と為せば、即ち本土中に在りて、火の及ばざる所なり。若し舍利皆能く光怪を出すと言わば、必ず神霊之に憑く有らん、此れ妄言なり。且つ一塔自衛する能わず、火の為に毀たるるに、況んや其の福を藉りて以て民を庇わんや」と。

原文司天言太白犯歲星,又犯執法。靖上疏請責躬修德,以謝天變。使契丹,辭日,以所奏事書笏,各舉一字為目,凡數十事。帝顧見之,命悉條奏,日幾昃,乃罷。進修起居注。開寶寺靈感塔災,復上疏言:「五行之占,本是災變,朝廷所宜誡懼,以答天意。聞嘗詔取舊瘞舍利入禁中閱視,道路傳言,舍利在內廷有光怪,竊恐巧佞之人,推為靈異,惑亂視聽,再圖營造。臣聞帝王之道,能勤儉厥德,感動人心,則雖有危難,後必安濟。今自西垂用兵,國帑虛竭,民亡儲蓄,十室九空。陛下若勤勞罪己,憂人之憂,則四民安居,海內蒙福。如不恤民病,廣事浮費,奉佛求福,非天下所望也。若以舍利經火不壞,遽為神異,即本在土中,火所不及。若言舍利皆能出光怪,必有神靈憑之,此妄言也。且一塔不能自衛,為火所毀,況藉其福以庇民哉?」

靖職に在りて数たび事を言う。嘗て夏竦の奸邪を論じ、枢密使と為すべからずとし、王挙正の不才を論じ、政府に在るに宜しからずとし、狄青武人を論じ、之をして独り渭州を守らしむれば、恐らくは辺事を敗らんとし、張堯佐は修媛の故を以て、提点府界公事を除かるるは、政事の美に非ず、且つ郭后の禍は楊・尚より起こる、監めざるべからずとす。太常博士王翼西京に獄を治めて還り、五品服を賜わる。靖曰く、「獄を治めて服を錫う、外人知らず、必ず翼の深文重法、能く陛下の意に希い、以て此の寵を取り、損う所細事に非ざるを以為さん。嘗て工部郎中呂覺獄を治めて対賜せられ、章綬を易えんことを祈る。陛下之に諭して曰く、『朕は囚を鞫うるを因りて人に恩沢を与うるを欲せず』と。覚退きて臣に告ぐ、臣嘗て之を起居注に書す。陛下前日覚に諭す所是なれば、則ち今日翼に賜う所は非なり。是非与奪の間、一体を貴ぶ。小人風を望みて進を希い、至らざる所無し。幸いに陛下事端毎に、其の奔競を抑えよ」と。其の説多く用いらる。

原文靖在職數言事,嘗論夏竦奸邪,不可為樞密使;王舉正不才,不宜在政府;狄青武人,使之獨守渭州,恐敗邊事;張堯佐以修媛故,除提點府界公事,非政事之美,且郭后之禍,起於楊、尚,不可不監。太常博士王翼西京治獄還,賜五品服,靖曰:「治獄而錫服,外人不知,必以為翼深文重法,能希陛下意,以取此寵,所損非細事也。嘗有工部郎中呂覺以治獄賜對,祈易章綬,陛下諭之曰:『朕不欲因鞫囚與人恩澤。』覺退以告臣,臣嘗書之起居注。陛下前日諭覺是,則今日賜翼非矣。是非與奪之間,貴乎一體。小人望風希進,無所不至,幸陛下每於事端,抑其奔競。」其說多見納用。

会に西鄙兵を厭い、元昊和を請い、歳賜を増やすを議す。靖言す、「景德中、契丹国を挙げ師を興し、直ちに澶淵に抵る。先帝北征して河を渡り、止だ金繒三十万を捐てて之に与う。今元昊戦に累勝すと雖も、皆将帥の軽敵易動の故なり。数年将を選び兵を練り、始めて守戦の備を知る。而して鋭意仇を解かんとし、与うる所二十六万に至る。且つ戎事機有り、国力限り有り、之を始めに失えば、悔ゆると雖も何をか追わん。夫れ景德の患は、封域の内に近く、而して歳賜彼の如し。今日の警は、辺鄙の外に遠く、而して歳賜此の如し。若し元昊の使還り、益々許す所あらば、契丹之を聞き、寧んぞ心を生ぜざらんや。厭うこと無き求は、此より始まらん。儻し西を移して北に備えば、禍更深し。但だ和と不和とを思うに、皆後患有り。則ち必ずしも曲意俯徇し、以て国の羞を貽すべからず」と。知制誥に擢でらる。

原文會西鄙厭兵,元昊請和,議增歲賜。靖言:「景德中,契丹舉國興師,直抵澶淵,先帝北征渡河,止捐金繒三十萬與之。今元昊戰雖累勝,皆由將帥輕敵易動之故。數年選將練兵,始知守戰之備,而銳意解仇,所予至二十六萬。且戎事有機,國力有限,失之於始,雖悔何追。夫以景德之患,近在封域之內,而歲賜如彼;今日之警,遠在邊鄙之外,而歲賜如此。若元昊使還,益有所許,契丹聞之,寧不生心?無厭之求,自此始矣。儻移西而備北,為禍更深。但思和與不和,皆有後患,則不必曲意俯徇,以貽國羞。」擢知制誥。

元昊既に款を帰し、朝廷封冊を加えんと欲す。而して契丹兵を以て西境に臨み、使いを遣わして言う、「中国の為に賊を討たんと請い、和するを止めよ」と。朝議之を難ず。会に靖数たび契丹の詐を挟むを言い、軽々しく許すべからずとす。即ち靖を遣わして往き報ぜしめ、而して夏国の封策を留めて発たず。靖契丹に至り、卒に其の議を屈して還る。朝廷遂に夏冊を発し、元昊を臣とす。西師既に厳を解き、北辺亦た事無し。靖三たび契丹に使いし、亦た外国語に習い、嘗て番語の詩を作る。御史王平等靖の使者の体を失うを劾し、吉州を治めて出づ。靖諫官たりし時、嘗て太常博士茹孝標の不孝、母の喪を匿すを劾奏し、坐して廃せらる。靖既に勢を失い、孝標闕に詣りて言う、靖少く広州に遊び、法を犯して榜を受くると。靖之を聞きて自得せず、侍養を求めて去る。将作少監に改められ、分司南京と為り、曲江に居る。已にして左神武軍大将軍・雅州刺史・寿州兵馬鈐轄を授かるも、辞して就かず。再び衛尉卿に遷り、虔州を治め、父憂に遭い去る。

原文元昊既歸款,朝廷欲加封冊,而契丹以兵臨西境,遣使言:「為中國討賊,請止毋和。」朝議難之。會靖數言契丹挾詐,不可輕許,即遣靖往報,而留夏國封策不發。靖至契丹,卒屈其議而還。朝廷遂發夏冊,臣元昊。西師既解嚴,北邊亦無事。靖三使契丹,亦習外國語,嘗為番語詩,御史王平等劾靖失使者體,出知吉州。靖為諫官時,嘗劾奏太常博士茹孝標不孝,匿母喪,坐廢。靖既失勢,孝標詣闕言靖少遊廣州,犯法受榜。靖聞之不自得,求侍養去。改將作少監,分司南京,居曲江。已而授左神武軍大將軍、雅州刺史、壽州兵馬鈐轄,辭不就。再遷衛尉卿、知虔州,丁父憂去。

儂智高が邕州に反し、勝に乗じて九郡を掠め、兵を以て広州を包囲した。朝廷は南の事態を憂慮し、喪中にあった余靖を起用して秘書監・知潭州とし、桂州に改め、詔を以て広南西路を余靖に委ねて経制させた。智高は西走して邕州に至り、余靖は彼が必ずや交阯と結んで援軍を求め、諸峒を脅して自らを固めると策し、李徳政に約して兵を会し、邕州において賊を撃たせ、万人分の糧食を備えてこれを待った。詔もまた緡銭二万を与えて徳政の興師を助け、且つ賊平定の後さらに緡銭二万を賞として与えることを約した。また儂氏・黄氏ら諸姓の酋長を募り、皆に官職を与えて懐柔し、智高と合流させないようにした。やがて朝廷は狄青・孫沔を遣わして兵を将い、共に賊を討たせた。狄青は交阯の援兵を退け、用いず、賊は平定された。余靖はそのまま給事中に遷った。御史梁蒨が賞が薄いと上言し、さらに尚書工部侍郎に遷った。初め、狄青の兵が未だ到らぬ前に、部将に戦わぬよう戒めていた。余靖が鈐轄陳曙を迫って出闘させると、敗走した。狄青が至り、軍法に按じて陳曙及び指使袁用らを座中で斬った。余靖は瞿然として起ち拝した。諸将が班師する中、独り余靖を広西に留め、人を遣わして特磨道に入り、智高の母・弟・子の三人を生け捕りにして闕下に致した。集賢院学士を加えられ、知潭州に徙り、さらに青州に徙った。

原文儂智高反邕州,乘勝掠九郡,以兵圍廣州。朝廷方顧南事,就喪次起靖為秘書監、知潭州,改桂州,詔以廣南西路委靖經制。智高西走邕州,靖策其必結援交阯,而脅諸峒以自固,乃約李德政會兵擊賊於邕州,備萬人糧以待之;而詔亦給緡錢二萬助德政興師,且約賊平更賞以緡錢二萬。又募儂、黃諸姓酋長,皆縻以職,使不與智高合。既而朝廷遣狄青、孫沔將兵共討賊。青卻交阯,援兵不用,賊平。就遷靖給事中。御史梁蒨言賞薄,又遷尚書工部侍郎。初,青兵未至前,戒部將勿戰。靖迫鈐轄陳曙出鬥,敗走。青至,按軍法斬曙及指使袁用等於坐,靖瞿然起拜。及諸將班師,獨留靖廣西,遣人入特磨道擒智高母子弟三人,生致之闕下。加集賢院學士,徙知潭州,又徙青州。

交阯の蛮申紹泰が邕州を寇し、五人の巡検を殺害した。余靖を以て広西を安撫させ、至ると交阯の用事の臣費嘉祐を召して詰問した。嘉祐が至り、辺境近くの種族が互いに侵し合ったと報告したと偽り、誤って官軍を犯したとし、悉く推治を願い、掠めたものを還し、罪人を械して自ら贖罪すると言った。余靖はこれを信じ、厚く礼をして遣わした。嘉祐は遂に帰り、再び出てこなかった。

原文交阯蠻申紹泰寇邕州,殺五巡檢。以靖安撫廣西,至則召交阯用事臣費嘉祐詰問之,嘉祐至,紿以近邊種落相侵報,誤犯官軍,願悉推治,還所掠及械罪人以自贖。靖信之,厚謝遣去,嘉祐遂歸,不復出。

広州知州となり、官は工部尚書に至り、代わって帰朝し、卒した。三司使蔡襄が余靖のために上言し、特に刑部尚書を追贈され、諡して襄といった。余靖はかつて神人が夢に現れ、終わる官と秦亭で死ぬと告げられたと夢に見た。故に余靖は常に西行を畏れた。及んで卒したのは、江寧府の秦淮亭であった。

原文知廣州,官至工部尚書,代歸,卒。三司使蔡襄為靖言,特贈刑部尚書,諡曰襄。靖嘗夢神人告以所終官而死秦亭,故靖常畏西行。及卒,則江寧府秦淮亭也。

彭思永

原文彭思永

彭思永、字は季長、廬陵の人。進士に及第し、南海県・分寧県の知県となり、睦州の通判となった。台州で大水が城を破り、多くが溺死したので、往ってその治めを摂った。死者を尽く葬り、文を作ってこれを祭った。民は貧しくて家屋を修復できず、木を伐ってこれを助けた。数ヶ月で、公私の家屋は皆整い、城壁は以前より高く築かれ、堅固さもまた同じであった。

原文彭思永,字季長,廬陵人。第進士,知南海、分寧縣,通判睦州。台州大水敗城,人多溺,往攝治焉。盡葬死者,作文祭之;民貧不能葺居,為伐木以助之,數月,公私之舍皆具,城築高於前,而堅亦如之。

潮州・常州の知州となった。入朝して侍御史となり、内降により官賞を授ける弊害を論じ、斜封は盛世の有すべきところではないと言い、仁宗は深く然りとした。皇祐の明堂祭祀の前日、百官皆進秩するという伝えがあった。思永は濫恩は不適当で、僥倖を益すと上言した。時に張堯佐は既に貴い地位にありながらなお執政を覬み、王守忠は既に寵を受けながら旄節を求めていた。思永は同列を率いてこれを言おうとした。或る者が「命が出るのを待ってからでも遅くはない」と言った。思永は「事に先立って言えば、ただ罪を得るのみである。命が一出れば、止めることはできない」と言った。遂に独り抗疏して言った。「陛下がこの謬恩を施されるのは、天下の孤寒のためではなかろう。ただ堯佐・守忠が衆人を悦ばせるためである。外戚が政を秉り、宦侍が権を用いるのは、社稷の福ではない。」帝は怒り、中丞郭勸・諫官吳奎がこれを請うたので、泛恩により司封員外郎に転じ、台職を解かれて湖北転運使となった。

原文知潮州、常州。入為侍御史,論內降授官賞之弊,謂斜封非盛世所當有,仁宗深然之。皇祐祀明堂前一日,有傳百官皆進秩者。思永言不宜濫恩,以益僥幸。時張堯佐已貴而猶覬執政,王守忠已受寵而求旄節。思永率同列言之,或曰:「俟命出,未晚也。」思永曰:「先事而言,第得罪爾;命一出,不可止矣。」遂獨抗疏曰:「陛下覃此謬恩,豈為天下孤寒哉。不過為堯佐、守忠取悅眾人耳。外戚秉政,宦侍用權,非社稷之福也。」帝怒,中丞郭勸、諫官吳奎為之請,乃以泛恩轉司封員外郎而解臺職,為湖北轉運使。

下渓の蛮彭仕羲が乱を起こし、先ず文書を送って辰州の守を激しく罵った。守将がこれを討とうとした時、思永が按部して丁度到着した。仕羲は懼れ、使者を遣わして迎え謝罪し、その謀を止めた。

原文下溪蠻彭仕羲作亂,先移書激罵辰州守。守將討之,思永按部適至,仕羲懼,遣使迎謝,寢其謀。

直史館を加えられ、益州路転運使となった。成都府の吏が公銭を盗み、獄に付されて既に三年になるが、出入り自由であった。思永が府事を摂ること甫一日、即ち獄を具えた。民は楮券を以て市とし、衣帯の中に蔵めていたが、盗賊が刃を爪に置き、素早くこれを取るので、敗れる者は稀であった。思永は一人を得てこれを詰問し、その党類を尽く黥げい面して兵籍に隷させた。中使が毎年峨眉を祠るのに、率いて成都に留まり珍玩を掊ち、価値数百万銭に及び、悉く民より出した。思永はその三分の一を削った。中使は怒って去ったが、中傷することはできなかった。

原文加直史館,為益州路轉運使。成都府吏盜公錢,付獄已三歲,出入自如。思永攝府事甫一日,即具獄。民以楮券為市,藏衣帶中,盜置刃於爪,捷取之,鮮敗者。思永得一人詰之,悉黥其黨隸兵間。中使歲祠峨眉,率留成都掊珍玩,價直數百萬錢,悉出於民。思永朘其三之一,使怒去,而不能有所中傷也。

まもなく戸部副使となり、天章閣待制・河北都転運使・知瀛州に擢られた。北の習俗では桑麻を産籍としていたが、民は賦を懼れて栽培せず、日増しに貧しくなっていた。思永が初めて奏上してこれを改めさせた。知江寧府に徙った。

原文尋為戶部副使,擢天章閣待制、河北都轉運使、知瀛州。北俗以桑麻為產籍,民懼賦不敢藝,日益貧,思永始奏更之。徒知江寧府。

治平年中、召されて御史中丞となった。濮王に親と称する議があり、言事者が争って皆斥けられた。思永はさらに上疏して極論して言った。「濮王は陛下を生み、仁宗は陛下を嗣とされた。これは仁宗が皇考であり、濮王は属としては伯である。これは天地の大義、生人の大倫である。乾坤が定位する如く、変えるべからざるものである。陛下は仁廟の子として、考といい親というのは、仁廟である。もしこれを濮王に施せば、二親があることになる。王を諸父と同等にし、殊別がなければ、大孝の心にも安じ難かろう。臣は尊んで濮国大王とし、祭告の辞では『侄嗣皇帝某、昭告す皇伯父に』とすべきと考える。王には極めて尊崇の道を尽くし、仁廟にも嫌うところがなく、これは万世の法である。」疏が入ると、英宗はその切至さに感じ、施行しようとしたが、中書が強くこれを押し止め、遂に果たせなかった。

原文治平中,召為御史中丞。濮王有稱親之議,言事者爭之,皆斥去。思永更上疏極論曰:「濮王生陛下,而仁宗以陛下為嗣,是仁宗為皇考,而濮王於屬為伯,此天地大義,生人大倫。如乾坤定位,不可得而變也。陛下為仁廟子,曰考曰親,乃仁廟也;若更施於濮王,是有二親矣。使王與諸父夷等,無有殊別,則於大孝之心亦為難安。臣以為當尊為濮國大王,祭告之辭,則曰『侄嗣皇帝書名昭告於皇伯父』。在王則極尊崇之道,而於仁廟亦無所嫌矣,此萬世之法也。」疏入,英宗感其切至,垂欲施行,而中書持之甚力,卒不果。

神宗が即位すると、御史蔣之奇が欧陽修の陰事を糾弾し、思永を引き込んで助けを求めた。思永は帷薄の私事は外の者の知るところではなく、ただ彼が首に濮議を建て、典礼に違いて衆怒を犯したので、政府に在るに宜しくないと考えた。詔が語の由来を問うたが、思永は答えず、ひたすら大臣の専恣と朋党を陳べた。そこで知黄州に出され、太平州に改まった。熙寧三年、戸部侍郎を以て致仕し、卒した。年七十一。

原文神宗即位,御史蔣之奇糾歐陽修陰事,挽思永自助。思永以為帷薄之私,非外人所知,但其首建濮議,違典禮以犯眾怒,不宜更在政府。詔問語所從來,思永不肯對,而極陳大臣專恣朋黨。乃出知黃州,改太平州。熙寧三年,以戶部侍郎致仕,卒,年七十一。

思永は仁厚で廉恕であった。児童の時、朝起きて学びに行き、門外で金釵を得た。黙ってその場所に坐っていた。やがて釵を亡くした者が来て物色し、よく確かめて確かにその物であると、即ちこれを渡した。その人は銭で礼をしようとしたが、思永は笑って「私が欲しければ、金を匿っていたであろう」と言った。挙に就こうとした時、数個の腕輪を資金として持っていた。同挙の者が訪れ、出して弄んだが、或る者がその一つを袖の間に落とした。衆人は互いに探し求めた。思永は「数はこれだけである」と言った。客が去り、手を挙げて揖すると、腕輪が地に落ちた。衆人は皆その度量に服した。母の喪に居り、甚だ窶しく、郷人が饋ったが、受け取らなかった。子の彭衛もまた孝謹で、父が老いたため、官を棄てて家に居ること十余年、族里に称された。

原文思永仁厚廉恕。為兒時,旦起就學,得金釵於門外,默坐其處。須臾亡釵者來物色,審之良是,即付之。其人欲謝以錢,思永笑曰:「使我欲之,則匿金矣。」始就舉,持數釧為資。同舉者過之,出而玩,或墜其一於袖間,眾相為求索。思永曰:「數止此耳。」客去,舉手揖,釧墜於地,眾皆服其量。居母喪,窶甚,鄉人饋之,無所受。子:衛,亦孝謹,以父老,棄官家居十餘年,族里稱之。

張存

原文張存

張存、字は誠之、冀州の人。進士に挙げられ、安粛軍判官となった。天禧年中、詔して銓司に身言書判を以て士を取らせたが、ようやく二人を得た。張存はその選に預かった。著作佐郎に改め、大名府朝城県の知県となった。寇準が守であったが、異例の待遇をした。御史中丞王曙が屡々推薦して殿中侍御史とし、侍御史に遷った。

原文張存,字誠之,冀州人。舉進士,為安肅軍判官。天禧中,詔銓司以身言書判取士,才得二人,存預其選。改著作佐郎,知大名府朝城縣。寇準為守,異待之。御史中丞王曙,屢薦為殿中侍御史,遷侍御史。

仁宗が初めて親政し、百官の転対を罷めた。張存はこれを復するよう請うた。また言った。「以前、曹修古らが同じく旨に忤って廃黜され、布衣の林献可が封事を上ったために悪地に竄せられた。恐らく今後、忠直の言と、理乱安危の機は、蔽われて上達しないであろう。」因って歴然と周昌・朱雲・辛慶忌・辛毗の故事を引き、以て帝の意を開いた。京東陝西・河北の転運使・戸部度支副使を歴任した。西辺で兵が動くと、天章閣待制を以て陝西都転運使となった。

原文仁宗初親政,罷百官轉對,存請復之。又言:「前者曹修古輩同忤旨廢黜,布衣林獻可因上封事竄惡地,恐自今忠直之言,與夫理亂安危之機,蔽而不達。」因歷引周昌、朱雲、辛慶忌、辛毗事,以開帝意。歷京東陝西、河北、轉運使、戶部度支副使。西邊動兵,以天章閣待制為陝西都轉運使。

黄徳和が劉平を誣告した際、張存は上奏して言うには、「劉平は敵と交戦し、朝から夕方まで戦い、殺傷は互角であったが、黄徳和が退却したために潰走したのである。賊の勢いが甚だ盛んであった時に、劉平が奮戦しなければ、その勢いは必ずや挫けなかったであろう。延州は孤立した城塞であり、劉平が包囲を解かなければ、その城は必ずや守れなかったであろう。身は既に陥没し、不幸にもまた讒言する狡猾な者に陥れられ、辺境の臣はこれより死節を尽くす者は再びいなくなるであろう」と。朝廷はその説を採用し、初めて文彦博を派遣して審理させた。これによって劉平は冤罪が晴れ、黄徳和は誅殺された。

原文黃德和之誣劉平也,存奏言:「平與敵接戰,自旦至暮,殺傷相當,因德和引卻,以致潰敗。方賊勢甚張,非平搏戰,其勢必不沮;延州孤壘,非平解圍,其城必不守。身既陷沒,而不幸又為讒狡所困,邊臣自此無復死節矣。」朝廷采其說,始遣文彥博按治,由是平得直,而德和誅。

元昊が帰順を求めたが、議論する者はなおも攻討の策を執った。張存は建言して言うには、「兵役が止まず、民衆は疲弊している。敵に既に悔い改める心があるならば、名号が正しくなくとも、これを羈縻すべきである」と。龍図閣直学士に遷り、延州知州となった。母が老いており行くのを憚り、沢州に移り、都に還って待制となった。一年余りして、成徳軍知軍となり、再び学士の職を帯びた。

原文元昊求款附,議者猶執攻討之策。存建言:「兵役不息,生民疲弊。敵既有悛心,雖名號未正,頗羈縻之。」遷龍圖閣直學士,知延州。以母老憚行,徙澤州,還為待制。逾年,知成德軍,復學士。

契丹が元昊と婚姻を結び、陰謀を以て首尾し、兵を塞上に集めて関南を求めた。張存は言うには、「河北の城は久しく修治されていない。留意すべきである」と。そこで都運使とされ、諸州の城を全て築かせた。開封府知府として入朝し、再び河北に派遣された。王則が反乱を起こし、失察の罪に坐し、汀州知州に降格された。

原文契丹與元昊結昏,陰謀相首尾,聚兵塞上而求關南。存言:「河北城久不治,宜留意。」乃以為都運使,盡城諸州。入知開封府,復使河北。王則反,坐失察,降知汀州。

張存の婿である李敭の弟の李教が、酔って妖言を吐き、事が発覚して自縊死した。ある者は李教は死んでおらず貝州にいると言い、父母が密かに張存の縁故によって免れたと言った。御史が取り調べたが証拠はなく、なおも職を奪われ池州知州となり、また郴州に移された。久しくして、ようやく職を回復し、吏部侍郎の官で致仕し、凡そ十五年を経て、累遷して礼部尚書となった。

原文存婿李敭之弟李教,因醉為妖言,事覺自縊死。或言教不死,在貝州,父母私屬以存故得免。御史案驗無狀,猶奪職知池州,又徙郴。久之,乃復職,以吏部侍郎致仕,凡十五年,積遷禮部尚書。

張存は性質孝友であり、かつて蜀郡に任じた時、珍しい繒文錦を得て帰り、全て堂上に広げ、兄弟に恣に選び取らせた。常に言うには、「兄弟は手足である。妻妾は外舎の人に過ぎない。どうして外人を先にして手足を後にするのか」と。宗族を収め恤れ、貧窮した寡婦の嫁入りや聘礼を助け、一人も行き場を失わないようにした。家に居る時は謹厳で、子孫は正しく衣冠を整えなければ会わなかった。賓客や友人と宴席で接する時は、足を垂れて端座し終日、一度も傾いたり寄りかかったりしなかった。棗強で黄河が決壊し、その勢いが冀城に迫った時、或る者が他の地に移るよう勧めたが、言うには、「我が家は衆人の望みである。軽率に動けば、一州の吏民はどうして自ら安んじられようか」と。遂に移らなかった。卒去、八十八歳、諡は恭安。

原文存性孝友,嘗為蜀郡,得奇繒文錦以歸,悉布之堂上,恣兄弟擇取。常曰:「兄弟,手足也;妻妾,外舍人耳。奈何先外人而後手足乎?」收恤宗屬,嫁聘窮嫠,不使一人失所。家居矜莊,子孫非正衣冠不見。與賓友燕接,垂足危坐終日,未嘗傾倚。棗強河決,勢逼冀城,或勸使他徒,曰:「吾家,眾所望也,苟輕舉動,使一州吏民何以自安。」訖不徙。卒,年八十八,諡恭安。

論

原文論

論じて曰く、蔡襄・王素・余靖は、皆、昭陵(仁宗)の賢明な御史である。蔡襄はしばしば治体を論じ、韓琦・范仲淹の賢を推挙した。王素は不急の賞を罷めるよう請い、仁宗が二人の女子を納れるのは非であると論じた。余靖は夏竦・王挙正を罷めて用いるべからざる者とした。仁宗が治を求めることに鋭意であったので、数君子が綱紀を提げ振るいこれを扶持し、遂に慶暦の治を成したのは、まことに由る所があるのである。蔡襄は民事に精しく、吏は敢えて欺かなかった。余靖は蛮徼に兵を用い、遂に功名を収めた。王素は西辺に多くの恵政を施し、開封府尹として任じた時は、頗る煩劇を厭ったが、再び渭州となると、辺民の老幼が相率いて祝賀を称えるに至った。その恵みが民に及ぶことは、深いものであった。呂溱が陳執中を論じたのは、口舌を以て人を中傷することを欲しなかったからである。彭思永は名士であり、程頤の賢を識ることはできたが、欧陽修の剛直を容れることはできず、蒋之奇の誣告によって、竟にこれに坐して罷免され、士論はこれを憾んだ。劉平の死に、衆は敢えて言う者なく、張存のみが独り処してこれを明らかにした。忠義の気をして、死して復た生かしめ、諸人と較べても、また忝くすることはない。

原文論曰:蔡襄、王素、余靖,皆昭陵賢御史也。襄數論治體,推韓琦、范仲淹之賢。素請罷不急之賞,論仁宗納二女子為非。靖黜夏竦、王舉正為不可用。蓋仁宗銳於求治,數君子提綱振紀而扶持之,卒成慶曆之治,良有以也。夫襄精於民事,吏不敢欺;靖用兵蠻徼,卒收功名;素在西邊多惠政,其尹開封,雖頗厭煩劇,再為渭州,邊民老幼,至相率稱賀,其惠之在民者,深矣哉。若呂溱論陳執中,則不欲以口舌中人。彭思永名士,能識程頤之賢,而不能容歐陽修之剛;蔣之奇之誣,竟坐是黜,士論憾之。劉平之死,眾莫敢言,張存獨處而明之。使忠義之氣,死而復生,較之諸人,亦無忝焉。