張方平
張方平、字は安道、南京の人である。幼少より聡明で並ぶ者なく、家は貧しく書物が無かったが、人から三史を借り受け、十日ほどで返却し、「既にその詳細を得た」と言った。凡そ書物は一度見れば再読せず、宋綬・蔡齊は天下の奇才と認めた。茂材異等に挙げられ、校書郎・崐山県知事となった。また賢良方正に及第し、選ばれて著作佐郎・睦州通判に遷った。
夏竦が陝西を節制し諸将を護り、四路は稟覆によって事機を失い、且つ詔書を出して師を出させたが、逗留して進まなかった。豊州が陝落し、劉平等が軍を覆すと、主帥は皆譴責に坐したが、竦のみは預からなかった。方平はこれを弾劾して罷免し、四路の帥臣にそれぞれ戦守を任せることを請うた。西方の師は久しく解かれず、元昊も困弊した。方平は言う、「陛下は猶天地父母である。豈に犬豕豺狼と較べようか。願わくは郊祀の赦に因り、咎を引き示して信を表し、その自新の路を開かれんことを」。帝は喜んで「これ我が心なり」と言った。この年、慶暦の赦書を改め、辺吏に勅してその善意を通じさせたところ、元昊は遂に降った。既にして起居注を修めて契丹に使いした。契丹主は左右を顧みて「臣この如き有り、佳いかな」と言い、騎して前にて毬を撃ち、玉卮を酌んでこれを飲ませ、且つ乗馬を贈った。還り、知制誥となり、権知開封府事となった。府の事は叢集し、前任の府尹は率いて書板に記したが、方平は独り黙記して決裁し、少しも誤り忘れることが無かった。翰林学士に進んだ。元昊は既に臣となったが、契丹と隙があり、来てその使を絶つことを請うた。議者は認めなかった。方平は言う、「新たに附いた小羌を得て、久しく和した強敵を失うは、計ではない。宜しく元昊に詔を賜い、これを審らかに処せしむべし。但だ嫌隙朝に除かば、則ち封冊暮に下る。この如くすれば、西・北に対して両得となる」。時にその謀を是とした。御史中丞に拝し、三司使に改めた。
初め、王拱辰が河北の塩を専売にすることを議した。方平は見て「河北で再び塩を専売にするとは、何ぞや」と言う。帝は「始めて法を立てるのみ」と言った。方平は「昔、周世宗は塩課を税中に均した。今の両税塩銭がこれである。豈に再専売にあらずや」と言った。帝は驚いて悟り、方平は直に手詔を降してこれを罷めることを請うた。河朔の父老は澶州に迎え拝し、仏老の会を七日間行い、以て上の恩に報いた。事は『食貨志』に具わる。端明殿学士・太常寺判事を加えられた。
禁中の衛卒が夜に変を起こした。帝は朝に二府に語り、張貴妃の扈蹕の功を褒めた。夏竦は即ち「尊異する礼を求むべきなり」と唱えた。方平はこれを聞き、陳執中に謂って「漢の馮婕妤は身をもって猛獣に当たったが、尊異されたと聞かない。且つ皇后在りて貴妃を尊ぶは、古にこの事無し。果たしてこれを行えば、天下の責め、将に公に萃まん」と言った。執中は瞿然としてやめた。
帝は財を豊かにし費を省くことを群臣に訪ねた。方平は条対した上、また独り数千言を上書し、大略「祥符以来、姑息に務め、漸く祖宗の旧を失う。士を取る・任子・磨勘・遷補の法は壊れ、将を命じ兵を養うは、皆旧律に非ず。国用既に窘すれば、則ち政は多門より出で、大商豪民は隙に乗じて利を射、而して茶塩香礬の法は乱る。これ治忽盛衰の本にして、急がざるべからざるなり」と為した。帝は対を覧て甚だ悦び、且つ大用せんとしたが、判官楊儀が罪を得たのに坐し、交わり有りとして出され滁州知事となった。間もなく、江寧府知府となり、入って流内銓判事となった。
侍講学士を以て滑州知事となり、益州に移った。未だ至らぬ内に、或る者が儂智高が南詔に在り、将に侵入せんとすと扇動し、摂守は急ぎ兵を調発し城を築き、日夜休息を得ず、民は大いに驚き擾いた。朝廷はこれを聞き、陝西の歩騎兵仗を発し、絡繹として蜀に戍らせんとした。詔して方平を行かせしめ、便宜従事を許した。方平は「これは必ず妄りなり」と言い、道中で戍卒に遇うと皆帰らせ、他の役事は尽く罷めた。丁度上元で灯りを張り、城門を三晩閉めず、邛部川の訳人で始めてこの語を造った者を得て、境上に梟首し、その余党を流したので、蜀人は遂に安んじた。
再び三司使として召された。西方の辺境で用兵し、両蜀は多く調発されたが、方平は奏して横賦四十万を免れさせ、鋳鉄銭十余万緡を減らした。また建言して「国家は陳留に都す。四通五達の道に当たり、雍・洛の如く山川の恃むに足るもの有るに非ず、特り重兵を倚りて以て国を立つるのみ。兵は食を恃み、食は漕運を恃む。汴を主とし、汴は淮・江を帯引し、利は南海に尽く。天聖以前は、歳ごとに民を調発してこれを浚ったので、水は地中を行った。その後、浅妄の者が争って役費を裁減することを功とし、汴は日に日に塞がり、今仰いでこれを望むは、尺寸の利を得て丘山を喪うなり」と言った。乃ち十四策を画して上った。富弼はその奏を読み、漏刻十刻を尽くし、帝は善しと称した。弼は「これ国計の大本にして、常の奏に非ず」と言い、悉くその説の如く行った。
尚書左丞に遷り南京知事となった。未だ幾ばくもせず、工部尚書を以て秦州の帥となった。諜者が夏人が将に境を圧せんとすと告げた。方平は士馬を料簡し、声を出して塞を出でんと言った。已にして寇は至らず、言事者はその軽挙を論じた。曾公亮は「兵は塞を出でず、何を以て軽挙と名づけん。寇の至るを得ざるは、備え有る故なり。仮にこれを罪せば、後の辺臣、将に先事の備えを為すことを敢えざるべし」と言った。方平は自ら安からず、南京知事を請うた。
英宗が立つと、礼部尚書に遷り、鄆州知事を請うた。還り、学士承旨となった。帝が不豫となると、福寧殿に召され、帝は几に憑って言ったが、言は弁じ難かった。方平が筆を進めて請うと、乃ち「明日詔を降し、皇太子を立てよ」と書いた。方平は声を抗して「必ず潁王なり。嫡長にして賢なり。その名を書かれたし」と言った。帝は力疾してこれを書き、乃ち退いて制を草した。
神宗が即位すると、召し見えられ、山陵の費を約することを請うた。帝は「先帝に奉ずることを損ずる可きか」と言った。対えて「遺制固より云う、先志を以てこれを行えば、孝と謂うべし」と言った。また錫賚を差減することを請い、乾興を基準とし、費は什七八を省いた。方平が詔草を進めると、帝は親しくこれを批し、「卿の文章は典雅、煥然として三代の風有り、又善く豊を以て約と為し、意博くして辞寡し。『書』の訓誥と雖も、殆ど加うる無からん」と言った。その称重せられることこの如くであった。
参知政事に任ぜられた。御史中丞司馬光は彼を用いるのは不適当であると上疏したが、聴き入れられなかった。光が中丞を解かれると、曾公亮は王安石を用いることを議したが、方平は不可と認めた。数日後、父の喪に遭い、服喪が終わると、観文殿学士として西京留守となった。入朝して拝謁し、尚書都省の判を留められたが、強く陳州知事を請い、許された。王安石が新法を施行すると、方平は陛辞の際、その弊害を極論し、言うには、「民は水のようなものであり、舟を載せることもできれば、覆すこともできる。兵は火のようなものであり、収めなければ必ず自らを焼く。もし新法がついに施行されれば、必ずや覆舟・自焚の禍いがあろう」と。帝は茫然とした。
韓絳が西方の軍事を主管し、慶州の兵卒が乱を起こすと、京西転運使は一路の各州に兵を集めるよう命じ、民は大いに驚いた。方平はその檄文を下さずに上奏した。帝は「守臣たる者、そのようにすべきではないか」と言い、諸郡の兵を罷めるよう命じた。宣徽北院使に召され、京師に留まった。王安石は深くこれを阻み、青州知事とさせた。赴任しないうちに、帝が祖宗の戎狄統御の要諦を問うと、答えて言うには、「太祖は遠略に勤めず、霊夏・河西などは皆その酋豪に因り、世襲を許した。環州の董遵誨、西山の郭進、関南の李漢超などは皆その禄賜を優遇し、その文法を寛大にした。諸将は財力豊かで威令が行き、間諜は精確で、吏士は命に従った。故に十五万の兵で百万の働きを得ることができた。太宗が燕薊を取らんと謀り、また李彝興・馮暉を内徙させると、朝廷はようやく遅くまで食事をとるようになった。真宗の澶淵での勝利により、契丹と盟を結び、今に至るまで人は兵革を知らない。三朝の事績はこのようである。近年の疆塲の臣は、天下を一擲に試さんとし、事が成れば利を求め、成らなければ患いを残す。聴くべからず」と。帝は「慶暦以来のことを卿は知っているか。元昊が初めて臣した時、どう扱ったか」と問うと、答えて「臣は当時学士であり、誓詔や封冊の文は皆臣の手によるものでした」と言った。帝は「卿は当時すでに学士であったのか。まさに旧徳と言えよう」と言った。
契丹の汎使蕭禧が来朝して疆界の事を議し、辞去する時が迫ったが、駅舎に臥して起きなかった。方平は枢密使呉充に言った。「ただ主管の者に日々饋遺を届けさせて問わず、かつ辺境の郡からその国に檄文を飛ばせばよい」と。充は啓上してこれに従い、禧はすぐに出発した。
中太一宮使に任ぜられた。王安石が銅禁を緩めると、奸民は日々銭を溶かして器物とし、辺関や海舶ではもはや銭の持ち出しを検査せず、銭は日々消耗した。方平はその害を極論し、安石を詰問するよう請うた。「累朝の令典を挙げて、一朝にしてこれを削除する。その意図はどこにあるのか」と。帝はその言をかなり採用したが、方平は去職を求めた。南院使に進み、応天府の判となった。帝は言った。「朕は卿に韓絳と共に事に当たらせたいと思ったが、卿の政論は異なる。卿を枢密に置きたいと思ったが、卿の兵論もまた異なる。卿は先帝の末命を受けながら、ついに朕の意に副うことがないのか」と。そこで赴任した。
高麗の使者が府を通過する際、長吏は送迎すべきところであったが、方平は言った。「臣の班位は二府と同等であり、陪臣のために屈するわけにはいきません」と。詔により少尹のみを遣わした。王師が安南を征討すると、方平は言った。「西北の壮士や健馬を挙げて、炎熱の荒地に棄てる。その患いは言い尽くせないものがある。もし師が老いて財を費やし、無功のまま還れば、社稷の福である」と。後になれば、皆その言の通りとなった。
新法により河渡や坊場を売却することとなり、司農は祠廟にも及び、宋の閼伯廟や微子廟までもが商区とされた。方平は言った。「宋の王業の基となったところであり、閼伯は商丘に封ぜられて大火を主祭し、微子は始封の君である。この二つの祠廟さえも免れないというのか」と。帝は激怒し、牘尾に批をして「神を慢り国を辱しめること、これに甚だしいものはない」と言った。これにより天下の祠廟は皆売却を免れた。たびたび老齢を理由に退職を請い、太子少師として致仕した。官制が施行されると宣徽使は廃されたが、ただ方平のみは従前の通りこれに領せしめられた。哲宗が即位すると、太子太保を加えられた。元祐六年、薨去。八十五歳。司空を追贈された。遺言で諡を請うなと命じたが、尚書右丞蘇轍が請うたため、文定と諡された。
方平は慷慨として気節があり、告老してからは、事を論ずるのにますます切直で、とりわけ用兵や獄を起こすことについては、反覆して言及した。かつて言うには、「臣は死して、地下の先帝に会うとき、口実とするものがあります」と。平素より、言葉で物に従ったり、顔色で人に迎合したりすることはなかった。蜀を守った時、眉山の蘇洵とその二子の軾・轍を得て、深く器異した。かつて軾を諫官に推薦した。軾が制獄に下された時、また抗章して請うた。故に軾は終生敬って彼に仕え、その文章を叙して孔融や諸葛亮に比した。晚年に神宗に知遇を得た。王安石が権勢を振るっていた時も、嶷然として少しも屈せず、これによって一時の声望が高かった。宋都を守った時、富弼が亳から汝に移る途中、会って見て言った。「人を知るのは難しいものだ」と。方平は言った。「王安石のことを言っているのか。どうして難しいことがあろうか。かつて方平が皇祐の貢挙を管轄した時、ある者がその文学を称え、考校に辟召した。入院すると、院中の事は凡て紛更しようとした。方平はその人を憎み、檄文を出して退去させた。それ以来、一言も語ったことはない」と。弼は慚愧の色を示した。弼もまた平素より安石と親しかったからである。
王拱辰
契丹の使者劉六符がかつて賈昌朝に言った。「塘濼とは何のためか。一本の葦で渡れ、鞭を投げれば平らになる。そうでなければ、その堤を決ち、十万の土嚢を投げ入れれば、道とすることができる」と。仁宗が拱辰に問うと、答えて言った。「兵事は尚詭であり、彼らに本当に謀があれば、我々に語るべきではない。これは誇言です。険阻を設けて国を守ることは、先王も廃さず、祖宗が敵を限るために用いたものです」と。この時、また六符を使者として来朝させ、関南十県を求め、太宗の燕征伐を無名と非難した。挙朝誰も答えることを知らなかった。拱辰は言った。「王師が河東を征した時、契丹はすでに使者を通じていたが、石嶺関を寇して賊を援けた。太宗は怒り、そこで軍を返してこれを伐った。どうして無名と言えようか」と。そこで報書を作って「既に石嶺の鋒を交えしより、遂に薊門の役あり」と記した。契丹は報書を得て、遂に以前のように友好を継いだ。帝は喜び、輔臣に言った。「拱辰が深く故実に練達していなければ、おそらく答えるのは難しかったであろう」と。
権知開封府となり、御史中丞に任ぜられた。夏竦が枢密使に任ぜられると、拱辰は言った。「竦は西師を経略して、功績なくして帰還した。今これを二府に置くのは、どうして世を励ますことができましょうか」と。対面の際、極論した。帝がまだ省みないうちに、急に立ち上がると、拱辰は前に進んでその裾を引き、ようやくその説を納れさせ、竦は遂に罷免された。また言った。「滕宗諒は慶州において、その行いが法度を越えているのに、ただ官秩を降して虢州を守らせただけでは、辺臣がこれを模倣することを恐れます。重い責めを加えるべきです」と。聴き入れられないと、すぐに家に引き籠もり、自ら貶されることを求めた。そこで宗諒を岳州に移し、拱辰に台に赴くよう勅した。入見すると、帝は言った。「言事官はただ自らの職責を挙げるだけで、朝廷が行わないことを以て自らを沮喪させ、軽々しく去って名を沽るようなことはするな。今後、言うべきことがあれば、力を尽くして陳べよ。避けてはならない」と。
僧紹宗が仏像を鋳造して衆を惑わし、都人は競って金を鋳型の中に投げ入れ、宮中もまた資金を出して助けた。拱辰は言った。「西師が辺境に駐屯しているのに、不急のことに財費し、士心を動揺させ、民怨を起こします」と。詔により直ちにこれを禁じた。蘇舜欽が進奏院で賓客を会した時、王益柔が酔って『傲歌』を作った。拱辰はその僚の魚周詢・劉元瑜にそそのかしてこれを挙劾させた。二人は既に流罪・廃免され、同席した者も皆追放された。当時杜衍・范仲淹が政を執り、多くのことを更張したため、拱辰の党は不便に思った。舜欽・益柔は共に仲淹が推薦した者であり、舜欽は衍の婿であった。故にこれを機に彼らを傾けようとした。これによって公議に薄められた。
再び翰林学士を以て三司使を権知す。富民鄭旭を挙げたる事に坐し、鄭州知州に出され、澶州・瀛州・幷州の三州に移る。数年して還り、学士承旨兼侍読となる。帝は邇英閣に『太玄経』と蓍草を置き、顧みて曰く、「朕は毎にこれを閲す。卿も亦其の説を知るや」と。拱辰は具に以て対へ、且つ曰く、「願くは陛下『六経』に意を垂れ、旁ら史策を採らん。此れ学ぶに足らず」と。
哲宗立ち、節を彰德に徙し、検校太師を加ふ。是の年薨ず、年七十四。開府儀同三司を贈られ、諡して懿恪と曰ふ。
論じて曰く、方平・拱辰の才は、皆較然として人に過ぐる者有り、而も司馬光・趙抃の論を免れず。豈に其の英発の気、勇んで見得し、一時の趨郷能く盡く正に適せざるか。新法行はるるに及び、方平痛く其の弊を陳べ、拱辰保甲を争ひ、言尤だ剴切なり。皆諤諤として少も貶せず、国の老成と為り、望始めて重し。若し方平王安石を辟校貢挙の時に識り、而して其の後必ず政を乱るを知る、其の先見の明、呂誨に忝かじと云ふ。
張昪
張昪、字は杲卿、韓城の人なり。進士に挙げられ、楚邱主簿と為る。南京留守王曾其の公輔の器有るを称す。累官して度支員外郎に至る。夏竦陝西を経略し、其の才を薦め、六宅使・涇原秦鳳安撫都監に換ふ。未だ幾ばず、母老ゆるを以て、故官に帰らんことを求め、絳州知州を得、京西転運使に改む。鄧州を知り、又た母を以て辞す。或ひ之を指して事を避くると為す。范仲淹朝に言ひて曰く、「張昪豈に事を避くる者ならんや」と。乃ち帰養を許す。戸部判官・開封府推官を歴て、知雑御史に至る。
張堯佐恩に縁りて驟用せられ、開封府を知る。内侍楊懷敏夜禁中に直し、而して衛士変を為す。皆極めて之を論ず。昪性質樸にして、言を択ぶに善からず。至りて張貴妃を斥けて一婦人と為し、懷敏志を得ば、将に劉季述に減ぜざらんと謂ふ。仁宗之を読んで懌ばず、以て陳升之に語る。升之曰く、「此れ忠直の言なり。激切ならざれば、則ち聖意回らす可からず」と。帝乃ち解す。天章閣待制を以て慶州知州と為り、龍図閣直学士・秦州知州に改む。
初め、青唐蕃部の藺氈、世に古渭に居り、積もりて夏人と隙有り、懼れて其の地を献ず。摂帥范祥遠慮無く、亟に之を城す。諸族其の偪るるを畏れ、挙兵して叛く。昪至り、棄てて城す勿からんことを請ふ。詔して戸部副使傅求をして審視せしむ。以爲く棄つ可からずと、昪の議と殊なり。是に先立ち、副総管劉渙叛羌を討ち、逗撓して時に進まず。昪命じて他の将郭恩を以て之に代はしむ。羌乃ち潰ち去る。渙其の功を黜し、讕ひ訟ひて恩多く老稚を殺すとし、以て昪を撼がす。朝廷命じて張方平をして秦を守らしめ、渙を涇原に徙し、亦た昪を青州に徙す。将に昪を罪せんとす。方平辞して曰く、「渙・昪に階級有り。今互ひに言ひて両つながら帥を罷むるは、為す可からず」と。昪乃ち復た留まる。
英宗立ち、老を請ふ。帝曰く、「太尉王家に勤労す、詎ぞ可ぞ遽かに去らん」と。但だ五日に一たび院に至らしめ、進見に蹈舞無からしむ。司馬光上疏して言ふ、「近歳以来、大臣年高き者は皆敢へて自ら其の位を安んぜず。事を言ふ者は以て名と為さんと欲し、又た従ひて之を攻む。其の人取る可き無きも、雖も少壮何を為さん。果して時に益有らば、雖も老何の傷かん。昪人と為り忠謹清直、私を以て干す可からず。若し且く其の位に居らしむれば、事に於ても未だ曠廢有らざらん」と。昪請ふこと已まず、始めて告を賜ひ、疾を養はしむ。遂に彰信軍節度使・同中書門下平章事を以て許州を判し、鎮を河陽三城に改む。太子太師を拝して致仕す。熙寧十年薨ず、年八十六。司徒兼侍中を贈られ、諡して康節と曰ふ。
趙槩
趙槩、字は叔平、南京虞城の人なり。少く篤学自力し、器識宏遠にして、一時の名輩に称許せらる。進士第に中り、海州通判と為り、集賢校理・開封府推官と為る。殿中に事を奏す。仁宗面して銀緋を賜ふ。
洪州知事として出向した。州城の西南は章江に近く、氾濫の憂いがあったので、槩は石堤を二百丈、高さ五丈築き、その激流を防ぎ、水害を起こさないようにした。属官の鄭陶・饒奭は郡政を掌握し、不法を働き、前任の知事は制御できなかった。州の帰化兵は、みなかつての群盗であった。奭が流言を飛ばして言うには、「兵士が受け取る官米が古く悪いので、怨嗟の声があり、良質の米に替えなければ、反乱が起こるだろう」と。槩は答えなかった。容州の守備から逃亡して帰還し、夜禁を犯した兵士がいたので、これを斬って見せしめとし、ついで陶と奭を捕らえて罪に当てた。府中の者はみな股を震わせた。
直集賢院を加えられ、青州知事となった。澠池県令張誥を推挙し損なった罪で免職され、久しくしてから起用され、密州の酒務を監督した。滁州知事となると、山東の賊寇李二が境を通過し、人に告げて言うには、「私は東の者であるが、公はかつて青州におられ、民は父母のように慕っていた。私は侵犯するに忍びない」と。賊は徒党を率いて去った。
召されて起居注を修めた。欧陽修が後から到着したが、朝廷は急いで彼を用いようとし、順序を飛び越えるのを難しく思った。槩はこれを聞き、州郡を請い、天章閣待制・糾察在京刑獄に任じられ、修はついに知制誥となった。一年余りして、槩がようやくその職を代わった。郊祀の際、任子・進階爵の恩典を受けるべきところ、その恩典を返上し、母を郡太君に封じることを願った。宰相が言うには、「君はまもなく学士となるのだから、封じるのは遠くないだろう」と。槩は言った、「母は八十二歳です。今のうちに君の賜り物を拝受して栄誉としたい」と。そこで許され、以後これが例となった。
蘇舜欽らが群飲の罪で追放されたとき、槩は言った、「宴会に参加した者はみな館閣の名士である。これを挙げて棄てることは、士大夫の期待を損ない、国の福ではない」と。返答はなかった。蘇州知事を請い、母の喪が終わると、入朝して翰林学士となった。契丹に赴き、契丹主が狩猟を催し、『信誓如山河詩』を賦することを請うた。詩ができあがると、主はみずから玉杯を酌んで槩に勧め、さらに侍臣の劉六符に素扇を授け、詩を書いて袖の中に納めさせた。礼遇の重厚さはこのようであった。帰還後、侍読学士を兼ねた。諫官の郭申錫が事を論じて旨に逆らい、帝は罪を加えようとした。槩は言った、「陛下は初め面と向かって申錫に面従するなと諭された。今これを罷免すれば、どうして天下に示すことができましょうか」と。そこでやめた。
龍図閣学士として鄆州・応天府の知事となり、韓絳に代わって御史中丞となった。絳は張茂実が宿衛を統べるにふさわしくないと論じて罷免された。槩が着任すると、まずこのことを言上し、茂実はついに去った。御薬院の宦官に、寄資して団練使に至る者がおり、これを暗転と呼んだ。槩は年限を明示するよう請い、詔して出院を待って優遇して昇進させ、累次寄資することを許さないようにした。枢密使・参知政事に抜擢された。たびたび老齢を理由に辞任を求めた。熙寧初年、観文殿学士・徐州知事に任じられた。左丞から吏部尚書に転じたが、これ以前に、執政が転官した例はなかった。太子少師をもって致仕し、退居して十五年、古今の諫争の事を集め、『諫林』百二十巻を編んで献上した。神宗は詔を賜って言った、「老いて去る者は、だいたい音信を朝廷に寄せないことを高しとする。ただ卿のみが志を愛君にあり、退いて山林に処しても、一日も忘れたことがない。座右に置き、時々閲覧に用いよう」と。元豊六年に薨去した。八十八歳。太子太師を追贈され、諡は康靖。
槩は心を平穏に保ち、人と怨み怒ることがなかった。職務にあってもあたかもものを言わぬようであったが、密かに人を利する事が少なくなく、論者は劉寛・婁師徳に比した。張誥の事件に連座して六年間貶謫されたが、誥を思いやり終始衰えず、誥が死ぬと、その家族を手厚く救済した。欧陽修は槩に平素冷淡に遇し、また順序を越えて知制誥となったが、修が罪に問われたとき、槩はただ一人抗章してその無罪を明らかにし、仇敵によって中傷されたのであり、天下の法を以て私怨に報いるべきではないと言った。修は釈放され、初めてその長者ぶりに敬服した。鄆州にいたとき、属吏が前任の知事馮浩が公使銭三十万を横領したことを取り調べ、職田の租税で償うべきとした。槩はその貧しさを知り、自分の俸給で代弁した。その平生の行いはみなこのようなものであった。
槩は初めの名を禋といったが、かつて神人が金で名簿に「趙槩」と書いている夢を見たので、名を改めたという。
胡宿
胡宿、字は武平、常州晉陵の人。科挙に合格し、揚子尉となった。県は大水に見舞われ、民が溺れ、県令は救うことができなかった。宿は公私の船を率いて数千人を救った。推薦されて館閣校勘となり、集賢校理に進んだ。宣州通判となった。囚人に人を殺した者がおり、死刑に処せられようとしたが、宿は疑って訊問した。囚人は鞭打ちを恐れて言おうとしなかった。左右を退けて再び問うと、ようやく言うには、「朝に田に行こうとしたところ、県吏が縛って官に連行し、その理由はわからない」と。宿は判決文書を取り出して読み返し、その当初の供述を探ると、婦人が情夫と共に夫を殺し、平民を捕らえて訴え出たものであった。
湖州知事となった。前任の知事滕宗諒が大いに学校を興し、数十万の銭を費やした。宗諒が去ると、通判や属官はみな欺瞞と疑い、歴任の証文に署名しようとしなかった。宿はこれを諫めて言った、「君たちは滕侯を長く補佐してきた。もし過ちがあれば、どうして早く正さなかったのか。ひそかに手をこまねいて見て、その去るを待って非難するのは、古人が謗りを分かち合うという意にかなうであろうか」と。座中の者は大いに恥じて謝罪した。その後、湖州の学は東南で最も盛んとなり、宿の力によるものが多かった。石塘を百里築き、水害を防いだ。民は胡公塘と呼び、学者は生祠を立てた。
久しくして、両浙転運使となった。召されて起居注を修め、知制誥となった。入内都知の楊懷敏が衛士の変乱に連座し、和州都監に左遷されたが、まもなく召し出されて元の職に復した。宿は詞頭を封還し、さらに言った、「懷敏が徹底的に糾問され誅殺されずに済んだのは、すでに幸いである。どうして再び左右に置くことができましょうか」と。命令はついに取りやめとなった。
唐介が嶺南に貶謫されたとき、帝は宦官を使者として派遣し、護送させた。宿は言った、「事は測りがたいものがある。介がもし不幸にして道中で死ねば、陛下は直臣を殺した名を負うことになります」と。帝は悟り、使者を追い返した。翰林学士に遷り、審官院・刑院を管轄した。李仲昌が六塔河を開削し、民が被害を受けたが、詔獄はその罪を軽くした。宿は斬って河北に謝罪すべきと請い、仲昌はこれにより南方に流された。袞国公主が降嫁するにあたり、冊礼を行おうとした。宿は諫めて言った、「陛下はかつて二人の長公主を封じられたが、冊命はなさらなかった。今、愛女にこれを施すのは、漢の明帝が『我が子はどうして先帝の子と等しくできようか』と言われた義には、およそ合わないでしょう」と。
涇州の兵卒が折支(俸給の代わりに支給される物資)が時を過ぎても給されないため、悪口を言い、かつ互いに扇動して乱を起こそうとした。既に法に処した後、三司の吏を弾劾するよう命じた。三司使包拯がこれを庇って吏を遣わさなかった。胡宿は言った、「涇州の兵卒は確かに横暴無礼であるが、然るに給すべき物資が八十五日を過ぎても与えられないのであれば、会計吏が無罪であると言えようか。包拯は自ら反省せず、公然と詔命を拒み、綱紀はますます廃れるであろう」。包拯は恐れ、直ちに吏を遣わした。韓琦が并州を守り、その節鎮を復活するよう請うた。胡宿は言った、「参星と商星は仇讎の星である。国家は商丘にて天命を受け、而して参星は晋の地である。今晋を崇めようとするは、国の利にあらず。宋が興り四方を平定し、并州は最後に服した、故に太宗はこれを方鎮の列に置かず、八十年になる。従前のままが妥当である」。議は遂に止んだ。後に韓琦が政を執り、ついにこれを復活させた。
子:宗炎。従子:宗愈、宗回。
子 宗炎
宗炎は、字を彦聖といい、将作監主簿より鎖庁登第した。国子大宗正丞・開封府推官・考功吏部郎中となった。旧制では、選人が京官に改まる際、挙主が少しでも吏議にかかると、直ちに止められて行われなかった。宗炎は先に引見し、挙主の罪が確定したら追って止めるよう請い、従われた。
哲宗が崩御すると、遼の使者が来て弔祭し、宗炎は鴻臚少卿として国境に出迎えた。使者が服を改めないので、宗炎は礼をもってこれを折伏し、その聴命するを待って、ようやく相見えた。帰還すると、卿に昇った。初め、父の胡宿が遼に使いし、遼人は彼を重んじた。その後、宗炎の婿の鄧忠臣が客を迎え、客が問うて、「中外に嘗て使者を充てた者はあるか」。忠臣は胡宿のことを告げ、且つ言った、「先の鴻臚を使わしめたのは、その子である」。客は嘆じて、「胡氏は世に人を欠かさず」。俄かに直龍図閣を以て潁昌府知府となり、密州を歴任して卒した。
宗炎は詩を善くし、藻思清婉であった。歐陽修が亳州を守り、客と郡圃を遊んだ時、或る者がその詩を誦すると、修は賞味して已まず、鮑照・謝霊運の風致有りと認めた。そのように重んじられたのである。
従子 宗愈
宗愈は、字を完夫といい、進士甲科に挙げられ、光禄丞となった。胡宿が杭州を得て請うた時、英宗が問うて、「子弟のうち誰が継ぐべきか」。宗愈を以て答えた。召されて学士院で試された。
神宗が立つと、集賢校理とした。久しくして、史館検討を兼ね、遂に同知諫院となった。殿内の兵卒が皇城の器物を盗んだ時、宗愈は言った、「唐の長孫無忌が佩刀を解かずに東上閣門に入り、校尉が死に当たると論じた。今、禁卒が盗みを為し、而入内都知がこれを覚察できなかった、願わくはその罪を正されよ」。殿帥の直廬が長慶門内にあり、久しくして自ら隷圉を置いた。宗愈は言った、「禁旅を厳にするは、奸宄を杜ぐ所以である。何ぞ私人にこれを為すを得しめんや。万一凶悪狡猾な者がその間に名を潜ませば、悔い改めることができなくなるであろう。請う、老卒を募って代えられんことを」。
王安石が李定を御史に用いようとした時、宗愈は言った、「御史は学士及び丞・雑(丞郎・雑監)の論薦を用いるべきであり、また官は博士・員外郎を須いる。今、李定は幕職の身で、薦めによらずしてこれを得る、これは恐らく一出の執政の意によるもので、大臣が不法を為しても、誰が再び言うであろうか」。蘇頌・李大臨が制を草せず、坐して貶せられた。宗愈がまたこれを争うと、王安石は怒り、真州通判に出した。河東刑獄提点・開封府推官・吏部右司郎中を歴任した。
元祐初め、起居郎・中書舎人・給事中・御史中丞に進んだ。当時、役法を更定し、書が成ると、衙校の募り足りない者は、入等戸を差すことを聴した。宗愈は言った、「法は均一を貴ぶ、もし両端を持すれば、則ち文に害あり。これは差法であって、募法ではない。これを削るを請う」。
哲宗が嘗て朋党の弊を問うと、答えて言った、「君子が小人を奸と指せば、則ち小人は君子を党と指す。君子とは、蓋し義に比する者である。陛下が中立の士を選んで用いられれば、則ち党禍は熄むでしょう」。明日、『君子無党論』を具して進めた。尚書右丞に拝された。ここにおいて諫議大夫王覿がその不当を論じ、而して劉安世・韓川・孫覚等が合してこれを攻め、朝廷は依違した。一年余りして、王覿を潤州に出し、而言者はますます力を入れた。乃ち罷めて資政殿学士・陳州知事とし、成都府に移し、蜀人はその政に安んじた。召されて礼部尚書とし、吏部に遷り、卒し、六十六歳であった。左銀青光禄大夫を贈られた。
従子 宗回
宗回、字は醇夫、蔭により登第し、編修敕令官・司農寺幹當公事・京西轉運判官・提點刑獄・京東陝西轉運使・吏部郎中を歴任した。紹聖初年、直龍圖閣を以て桂州知州となり、宝文閣待制に進んだ。平民を拘束して死なせた罪に坐し、集賢殿修撰に降格され随州知州となり、秦州・慶州に改められ、再び待制となった。
先に、熙河の将王贍が邈川を下して功があり、帥の孫路は王贍を快く思わず、その兵を奪って王愍に与えた。朝廷はこれを知り、宗回をもって孫路に代え、直学士を加えた。時に青唐の瞎征が内附したが、心牟欽氈が兵を率いて別の酋長隴拶を立て、その地を回復し、勢いが再び盛んとなった。瞎征は大いに恐れ、自ら髪を剃って僧となり、免れんことを祈った。王贍は孫路を怨み、青唐は兵を用いずして下すことができると上言した。宗回が到着すると、王贍は宗哥城に駐屯して進まなかった。宗回は怒り、日夜檄を飛ばしてこれを促し、かつ王贍に戒めて言うには、「青唐の兵は甚だ弱く、隴拶は稚子に過ぎず、何ができようか。汝が怯懦して逗留するならば、我は軍法をもって処分せん」と。また王愍を再び邈川に遣わし、王贍に代わると声言した。王贍は恐れ、歩騎を率いて青唐を襲い、これを占拠し、隴拶は降伏した。詔して青唐を鄯州とし、邈川を湟州とした。間もなく、属羌の郎阿章が叛き、官軍を拒んだ。宗回は将の王吉・魏釗を遣わしてこれを討たせたが、皆敗死した。また鈐轄の种朴を遣わした。种朴は言うには、「賊の鋒は正に鋭く、かつ厳寒である。師を少し緩めるべきである」と。宗回は聞かず、急ぎ督めた。种朴は已むなく行き、これも敗死した。ここにおいて轉運判官の秦希甫が、湟・鄯は守り難く、これを棄てるのが得策であると上言した。事は宗回に下され、宗回は不可を主張し、秦希甫は罷免されて去った。徽宗が鄯州を棄てるに及び、ここにおいて任伯雨が再びその罪を上疏し、職を奪われ蘄州知州となった。
還って、待制となった。慶・渭・陳・延・澶州を歴任した。兄の宗愈が黨籍に入り、宗回もまた郡を罷免された。居ること暫くして、その湟・鄯を堅守する議を記録し、秦州知州として起用された。枢密直学士に進み、永興・鄭州・成徳軍に移り、再び事に坐して去った。大観年間に卒し、銀青光禄大夫を贈られた。
胡氏は宿より始めて大となり、宗愈に至ってなお代々執政し、その後子孫が侍従・九卿に至る者十数人に及び、遂に晉陵の名族となった。
論ずるに、張昪は清忠諒直、趙槩は雅量人に過ぎ、胡宿は学天人の奥を通じ、その立朝の大節を考うるに、皆磊落として良き執政たり。宗愈はなお右轄に居たが、学術は宿と比べれば隔たりがある。宗回は辺将の材にあらず、その河湟を守る議は、蓋し种朴を死に趣かせ、上意に合わんことを蘄り、その責を解かんとしたのみである。胡氏の世々大なるは、殆ど万人を水死より脱せしめし陰徳の致すところか。