邵亢
趙元昊が叛くと、邵亢は言った。「用兵は将を選ぶに在り。今、天下久しく戦を知らず、而して任用する者は多く儒臣であり、必ずしも応変に能くあるとは限らない。武人が一軍を長ずるを得ても、既に老いて、豈に自ら矢石に先んじ得ようか。折々に故家の恩幸の子弟を起用するが、彼らは如何にして攻守の計を識らんや。況んや将と卒は平素より相附かず、又堅甲利兵の備えを失っている。これは両軍相まみえるを待たずして、勝敗の機は固より既に形を現している。」因みに『兵説』十篇を献上した。
秘閣に召されて試みられ、潁州團練推官に任じられた。晏殊が太守となると、一切の事を彼に委ねた。民の税は旧来陳・蔡に輸送していたが、転運使がまた緡銭に換算して取り立てようとし、且つ多く取ろうとした。邵亢は言った。「民が移転して輸送するのは、労費既に甚だしい。毎年のように水旱が続く中、又従って加えて取るのは、恐らく不可ではあるまいか。」遂に止めた。入朝して国子監直講・館閣校勘・同知太常礼院となった。張貴妃が薨じ、園陵を立てるに当たり、京城の音楽を一月間禁じたが、邵亢は累次上疏してこれを廃止させた。集賢校理に進んだ。仁宗の後嗣が未だ立てられず、邵亢は言った。「国の外患は辺境に在るが、然れどもこれを御するの術は、羈縻して絶やさざるに過ぎない。内患は然らず、社稷の安危に係わり、早く定めざるべからず。」開封県鎮公事を提点した。近頃放火する者がおり、一人も捕えられないと主たる官吏が罪に坐せられ、民の中には自らその家を焼いて官吏を陥れようとする者もいた。邵亢は、傍らの家屋に延焼しない限りは、捕え損なっても罪に坐さないことを請うた。府推官に転じ、度支判官に改めた。
契丹が乾元節を賀すべく使者を遣わしたが、未だ到らぬうちに仁宗が崩御した。議する者は却けるべきと言い、或いは国門に及んでから諭して還らせようとした。邵亢は書を奉じて柩前まで至らせ、嗣君に拝謁させることを請うた。これに従った。選ばれて潁王府翊善となり、直史館を加えられた。群玉殿に召されて対し、英宗が世事について訪ねると、これを称して言った。「学士は真の国器なり。」同修起居注に抜擢された。建言した。「陛下の初政として、国を治めんと欲せば先ず家を斉うべし。潁王は将に室を授からんとす、古の婚礼を採用せんことを願う。公主が降嫁するに当たり、舅姑の尊を軽んずべからず。」帝は深くこれを納れた。他日、王に諭して言った。「翊善が端直朴厚なるを以て、諫官に転じさせよう。」王が退出して帝の言葉を伝えると、遂に知制誥・知諫院となった。東宮が建てられると、右庶子となった。
枢密直学士に進み、開封府知府となった。邵亢は事に遇うに敏密であり、吏が辞牘を携えて至ると、皆反覆してこれを閲した。或る人は煩労と思ったが、邵亢は言った。「須臾の間に是非を決するは、正にこれが然るべきなり。初めは煩わしくとも、後には省けるのである。」里閭の悪少年と、職を廃され停められた吏の名簿を作り、一たび犯すところあれば、皆移転処分し、畿下の闘訟はこれが為に衰え止んだ。枢密副使に拝された。
夏人が保安軍知事楊定を誘い殺したため、朝廷は西討を謀った。邵亢は言った。「天下の財力は尽き屈しており、兵を用うるに宜しからず。ただ意を降して撫納すべく、命に順わざるを俟って、然る後に師を出すに名有らん。」因みに条上して其事を述べた。詔を下して答えて言った。「中国の民力は大事なり。兵興の後、倍率無からざるべからず、人心一たび揺らげば、安危の係る所なり。今動き我より始まり、先ず信誓に違う。契丹これを聞けば、期せずして自ら合わん。これ朕の深く憂うる所なり。当に悉く卿の計の如くすべし。」未だ幾ばくもせず、夏主諒祚が死に、国人は楊定を殺した者を捕えて和を請うた。或いはこの機に乗じて更に塞門の地を取ろうとしたが、邵亢は人の喪に乗ずるは義に非ずとして、遂に止めた。
邵亢は枢密院に在ること一年余り、大いに補益するところ無く、帝は頗るこれを厭い、嘗て諫官孫覚に言い、陳升之を以て邵亢に代え、長安を守らせようとした。孫覚は急ぎ邵亢を弾劾して陳升之を推薦した。帝はその意を迎えんとしたことを怒り、孫覚を罷免し、邵亢もまた疾を引いて辞し、資政殿学士として越州知州となった。鄭・鄆・亳の三州を歴任した。薨じ、年六十一。吏部尚書を追贈され、その郷里に居宅を賜り、諡して安簡といった。従父に邵必がいる。
従父 邵必
邵必、字は不疑。進士に挙げられ、上元主簿となった。国子監が石経を立てるに当たり、邵必は篆隸に善くしたため、召されて直講を充てられた。選ばれて『唐書』編修官となった。邵必は、史書が衆手を出づるは古人の撰述の体に非ずとして、辞して就かなかった。集賢校理・同知太常礼院に進んだ。天子が将に親祠せんとし、執事者が壇下で礼を習った。邵必は言った。「『周官・大宗伯』に『凡そ王の禱祠するは、儀を肄して位と為す』と。鄭康成は釈して『今の司徒府に肄するが若し』と。古礼は此の如し。今、祠所に即いてこれを習うは、不敬なり。」乃ち尚書省に移した。張貴妃が冊を受け、礼官が命婦の入賀の儀を議して未決であった。或る者は言った。「妃が修媛であった時、命婦は既に亢礼せず、況んや今日においてをや。」邵必は言った。「宮省の事は秘にして知るべからず。既に有司に下して議せしむれば、ただ外一品南省上事の百官班見の儀有り。然れども礼に答えざるは無し。」衆議乃ち定まった。
出て常州知州となり、召されて開封府推官となった。常州在任中に人を杖ち死に至らしめた罪に坐し、邵武税監に責められたが、然れども杖たれた者は実は死ななかった。久しくして高郵軍知軍となり、淮南刑獄を提点し、京西転運使となった。邵必は官に居るに震厲たる風采を以てし、初めて郡に至れば、ただ一度宴集に赴くのみ。部を行くには、ただ一度酒食の饋を受けるのみであった。数度会聚すれば則ち人情狎れ、多く饋を受ければ則ち事を行い得ず、使者の体に非ずと考えたのである。入朝して起居注を修め、知制誥となった。
雄州が道上に木を植えたところ、契丹が人を遣わして夜に伐り去り、又しばしば界河で漁をした。事が聞こえ、邵必を遣わして使わしめた。邵必は理を以て契丹を折伏し、これを屈せしめた。還って、知諫院となった。『仁宗御集』の編纂が成り、宝文閣直学士に遷り、権三司使となり、龍図閣学士を加えられ、成都知府となった。道中に卒し、年六十四。中使を遣わしてその喪を護り帰らせた。
馮京
知制誥を試みる。婦の父富弼が国政を執るのを避けて嫌い、龍圖閣待制・知揚州を拝命した。江寧府に改め、翰林侍読學士として召還され、在京刑獄を糾察した。翰林學士・知開封府となる。数か月も丞相府に詣でず、韓琦が富弼に話し、馮京が傲慢だと言った。富弼が行って韓琦に会わせようとすると、馮京は言った、「公は宰相であられ、従官が妄りに造請しないのは、まさに公を重んずる所以であり、傲慢ではない」と。出て陝西を安撫し、古渭に城を築き、西羌の唃氏と通じ、木征に官職を与えて、夏人の右臂を断つよう請うた。端明殿學士を除され、知太原府となる。
神宗が即位すると、再び翰林學士となり、御史中丞に改めた。王安石が政を執ると、馮京はその更張が失当であると論じ、累数千百言に及び、王安石はこれを邪説と指弾し、罷免を請うた。帝は用いるに足ると考え、樞密副使に抜擢した。河東の麟・府・豊の三州は、城壘と兵械が整わず、官吏は皆譴責を受けた。馮京はかつてこの道を帥したことがあるとして、上章して自らを劾し言うには、「諸路の帥臣に、たとえ一時的に免れ去っても、後に僥倖して名位を窃む者は、なお必ず法を行われることを知らしめれば、将たる者は再び怠惰で職を疎かにすることはできなくなるでしょう」と。優詔して聞き入れなかった。參知政事に進む。しばしば王安石と論辨し、また劉分攵・蘇軾を外制を執らせるよう推薦した。王安石が保甲に馬を養わせようとすると、馮京は必ず行うべからずと言った。ちょうど選人の鄭俠が時政について上書し、馮京を宰相にすべきと推薦したので、呂惠卿はこれによって馮京が鄭侠と通じていると讒言し、罷めて知亳州とした。まもなく、資政殿學士として知渭州となる。茂州の夷が叛き、知成都府に転じた。蕃部の何丹がちょうど雞粽関を寇していたが、馮京の兵が来ると聞いて、降伏を請うた。議する者はその巣窟を掃蕩しようとしたが、馮京は朝廷に請い、侵掠を禁じ、農具を与え、糧食を供給して、帰らせた。夷人は喜び、争って犬や豚を出し血を割いて盟を受け、世々漢の藩屏たらんことを願った。呂惠卿が王安石の罪を告発し、その私書を公開したところ、「齊年に知らせるな」とあり、齊年とは馮京のことで、王安石と同年の生まれであった。帝は王安石が欺いていたと考え、再び馮京を召して知樞密院とした。馮京は病気でまだ到着せず、帝は夜中に左右を呼んで語り、「さきほど馮京が入朝する夢を見た、まことに我が意を慰める」と言った。そこで馮京に詔を賜い、「儀刑を渇想し、夢寐にも忘れず」との語があった。入朝して拝謁すると、まず夢のことを告げた。しばらくして、觀文殿學士として知河陽となる。
初め、馮京が郷里に居た時、通判南宮成に恩を受けたが、貴くなってから、郊恩によってその子に官職を与えた。かつて外兄の朱適を訪ねた時、侍妾を出したが、尋ねて知ると同年の進士の妻であったので、急いで請うて嫁がせた。郡守としての時は、諸県の公事が至ると、すぐに逐一究明し、もし県の文書と合致して処断が法に麗するものは、法吏を呼んで罪を決し、獄に侍らせなかった。報下は迅速で、少しも滞ることがなく、人はその敏捷さに服したという。
錢惟演
錢惟演、字は希聖、呉越王俶の子である。幼少より牙門将に補され、俶に従って帰朝し、右屯衛將軍となった。右神武軍將軍を歴任した。博學で文辞に能くし、召されて學士院で試され、笏で起草して立ちどころに成し、真宗は善しと称した。太僕少卿に改め、『咸平聖政錄』を献上した。真秘閣に命じられ、『冊府元龜』の編修に預かり、詔によって楊億と分かってその序を書いた。尚書司封郎中・知制誥を除され、再び給事中・知審官院に遷った。大中祥符八年、翰林學士となるが、私謁の事に坐して罷免された。まもなく尚書工部侍郎に遷り、再び學士・會靈觀副使となった。また貢挙の失実に坐し、給事中に降格した。再び工部侍郎となり、樞密副使・會靈觀使兼太子賓客に抜擢され、さらに祥源観を領した。累遷して工部尚書となった。
仁宗が即位すると、兵部に進んだ。王曾が宰相となると、錢惟演がかつて王曾の上位にいたため、これによって樞密使を拝命した。故事では、樞密使には必ず檢校官を加えるが、錢惟演はただ尚書をもって使を充てたのは、有司の過失であった。初め、錢惟演は丁謂の権勢が盛んなのを見て、これに附き、婚姻を結んだ。丁謂が寇準を逐うのに、錢惟演は力を与えた。また樞密題名を序する時、ただ寇準だけを削り去り、「逆準」と名づけ、削って書かなかった。丁謂の禍が既に萌すと、錢惟演はともに罪を得ることを慮り、遂に丁謂を排して自らを解いた。宰相の馮拯はその人となりを憎み、これによって言うには、「錢惟演は妹を劉美に嫁がせ、これは太后の姻家であるから、機政に与るべからず、出されるよう請う」と。そこで罷めて鎮國軍節度觀察留後とし、即日保大軍節度使・知河陽に改めた。一年を過ぎて、入朝を請うたので、同中書門下平章事・判許州を加えた。まだすぐには行かず、再び用いられることを冀ったが、侍御史の鞠詠がこれを奏劾したので、錢惟演は急いで去った。天聖七年、武勝軍節度使に改めた。翌年入朝し、先人の墳墓が洛陽にあると上言し、宮鑰を守りたいと願った。すぐに判河南府とし、再び泰寧軍節度使に改めた。
錢惟演は柄用されることを雅意としていたが、抑鬱として志を得なかった。帝が籍田を耕す時、侍祠を求めて、これによって留められて景靈宮使となった。太后が崩ずると、詔して河南に還された。錢惟演は自ら安からず、庄獻明肅太后・庄懿太后をともに真宗の廟室に配するよう請い、以て帝の意を希った。錢惟演は既に劉美と親しく、またその子の曖に郭后の妹を娶らせたが、この時、また庄懿太后の族と婚姻を結ぼうとした。御史中丞の范諷が錢惟演が宗廟を擅に議し、かつ后家と婚姻を通じることを劾した。平章事を落とされ、崇信軍節度使となり、本鎮に帰った。まもなく卒去し、特贈して侍中とした。太常の張瑰が按ずるに、『諡法』に「敏にして學を好むを文と曰い、貪にして官を敗るを墨と曰う」とあり、文墨と諡するよう請うた。その家が朝廷に訴えたので、詔して章得象らに覆議させたところ、錢惟演に貪黷の状はなく、晩節は職を率いて自ら新たにし、惶懼して憐れむべき意があるとして、『諡法』に「前過を追悔するを思と曰う」を取り、諡を思に改めた。慶暦年間、二太后が初めて真宗廟室に升祔すると、子の曖が前の議を再び訴えたので、諡を文僖に改めた。
惟演は勲貴の家に生まれ、文辞は清麗にして、名声は楊億・劉筠と相上下した。書物において読まざるものなく、家に儲蔵する文籍は秘府に匹敵した。特に後進を奨励することを喜んだ。初め、真宗の諡号は「文」と称されたが、惟演は言うに「真宗は澶淵に幸して契丹を御し、盟してこれを服した。宜しく兼ねて『武』と諡すべし」と。下して有司に議させ、乃ち「武定」を加諡した。著すところに『典懿集』三十巻、また『金坡遺事』・『飛白書敘録』・『逢辰録』・『奉藩書事』を著す。惟演は嘗て人に語りて曰く、「吾が平生の足らざるところは、ただ黄紙の上に押字するを得ざるのみ」と。蓋し嘗て中書を歴せざる故なり。子に曖・晦・暄あり、従弟に易あり。
晦は字を明叔といい、大理評事として献穆大長公主の女を娶り、累遷して東上閣門使・貴州団練使となった。王守忠が両使留後を領し、閣門に移して朝立及び燕坐の位を定めようとしたとき、晦は因みに言うに、「天子の大朝会において、宦者に命じて士大夫と殿上に並び坐せしむれば、必ずや外夷に笑われん」と。守忠は更に礼服をもって進酒せんと欲したが、晦はまた以て不可と為した。勾当三班院・群牧都監を務め、忠州防禦使・知河中府を授かった。帝は因みに戒めて曰く、「陝西は方に兵を罷め、民は久しく困窮す。卿は朕のために愛撫し、酒楽を恣にすることなく、人をして貴戚の子弟と呼ばしむることなかれ」と。晦は頓首して謝した。潁州防禦使に改め、秦鳳路馬歩軍総管となった。再び三班院に還り、同提挙集禧観となった。歴任して霸州防禦使となり、群牧副使として卒した。
暄は字を載陽といい、父の蔭により累官して駕部郎中・知撫州となり、台州に移った。台州城は地悪く低湿で、秋の潦が暴集すれば、即ち崩壊溺れ、人多くは山に即いて居をなした。暄は城堞を増築修治し、石を積んで台とし、大堤を築いてこれを防いだ。少府監に進み、権塩鉄副使となった。暄は諸路の逋租を鉤考し、両浙転運使が課を負って坐すべきところ、暄は上言して曰く、「浙部は仍歳飢饉あり、故に租賦は籍に登らず。今使者が罪を得れば、必ずや民に急斂せん。民は堪えざるなり」と。神宗は即ち詔してこれを釈かせた。官制行はれ、光禄卿となり、出でて鄆州を知り、宝文閣待制を拝して卒した。子に景臻あり、秦・魯国大長公主に尚す。景臻の子忱は、『外戚伝』にある。
従弟 易
易は字を希白という。初め、父倧が呉越王を嗣いだが、大将胡進思に廃せられ、その弟俶が立てられた。俶が朝に帰すると、群従悉く官を補されたが、易と兄の昆は録されず、遂に志を刻んで読書した。昆は字を裕之といい、進士に挙げられ、治めるところ寛簡にして民に便し、詩を能くし、草隷書を善くし、累官して右諫議大夫となり、秘書監を以て家に於いた。
易は年十七にして進士に挙げられ、崇政殿で試みられ、三篇を日未だ中ならざるうちに成した。言者その軽俊を悪み、特これを罷めた。然れども此より才藻を以て知名となる。太宗は嘗て蘇易簡と唐世の文人を論じ、時に李白無きを嘆いた。易簡曰く、「今の進士錢易、歌詩を為すこと殆ど白に下らざるなり」と。太宗驚喜して曰く、「誠に然らば、吾自ら布衣より召して翰林に置かん」と。値うに盗賊が剣南に起こり、遂に寝した。真宗が東宮に在りしとき、山水の扇を図り、会に易が歌を作りしを、賞愛した。
景德中、賢良方正科に挙げられ、策入等し、秘書丞・通判信州を除された。泰山を東封するに当たり、『殊祥録』を献じ、太常博士・直集賢院に改めた。汾陰を祀り、亳州に幸するに当たり、『車駕所過図経』を修めることを命じられ、『宋雅』一篇を献じ、尚書祠部員外郎に遷った。国子監諸科の人を得ざるを発したことに坐し、穎州税監に降った。数月して召還された。久しくして、三司磨勘司を判じた。上言して曰く、「官物は籍に在るも、三司が文を移して釈正すれば、或いはその数細微にして、輒ね年を歴て報を得ず、徒らに州県を擾す。今より後、官銭百・穀斗・帛二尺以下は、欺紿する者に非ざればこれを除くべし」と。真宗は雅に詞臣を眷し、その典掌誥命は、皆躬自ら柬抜した。知制誥・判登聞鼓院・糾察在京刑獄に擢でられた。累遷して左司郎中となり、翰林学士となった。
儤直未だ満たざるに卒した。仁宗之を憐れみ、その妻盛氏を禁中に召し至らせ、冠帔を以て賜った。
易は才学瞻敏にして人に過ぎ、数千百言も、筆を援げば立就した。また尋尺の大書行草を善くし、及び仏書を観ることを喜び、嘗て『道蔵経』を校し、『殺生戒』を著し、『金閨』・『瀛州』・『西垣制集』一百五十巻、『青雲総録』・『青雲新録』・『南部新書』・『洞微志』一百三十巻あり。子の彦遠・明逸、相継いで皆賢良方正に応詔した。宋興以来、父子兄弟制策登科するもの、錢氏一家のみ。
易の子 彦遠
彦遠は字を子高といい、父の蔭により太廟斎郎を補し、累遷して大理寺丞となった。進士第に挙げられ、殿中丞として御史台推直官となった。通判明州を務め、太常博士に遷った。賢良方正能直言極諫科に挙げられ、尚書祠部員外郎・知潤州に擢でられた。上疏して曰く、
陛下即位以来、内に声色の娛なく、外に畋漁の楽なし。然るに前歳地震あり、雄・霸・滄・登、旁く荊湖に及び、幅員数千里、往昔の定襄の異といえども、此に甚だしからず。今復た大旱あり、人心嗷嗷たり。天其れ或いは陛下の寇に備うるの術未だ至らず、民を牧するの吏未だ良からず、天下の民未だ安からざるを以て、故に譴告を出して以て之を示すか。苟くも能く天の戒に順い、徳業を増修せば、宗社の福なり。
旱魃と蝗害の時節、民は食糧に乏しく、彦遠は常平倉を開いてこれを賑救した。部使者がその専断と価格統制を詰問したが、彦遠は屈しなかった。召されて右司諫となり、しばしば赦すことなかれ、牧守を選び、俸給を増して廉潔な官吏を養い、土木を止めて功費を省くことを請うた。起居舍人・直集賢院・知諫院に遷る。諸路が大水を奏上した折、彦遠は陰気過盛とし、『五行伝』に「下に上を謀るの象あり」とあるところから、宮省の宿衛を厳にすることを請うた。間もなく、刃物を持って謻門を犯す者あり。特旨をもって五品服を賜う。また上疏して曰く、
農は国家の急務であり、天に順い財を養い、水旱を防ぎ、蛮夷を制する所以の根本である。唐の開元の戸は八百九十余万、而して墾田は一千四百三十余万頃。今、国家の戸は七百三十余万、而して墾田は二百一十五万余頃、その間に逃廃の田、三十余万に下らず、これは田畑が開けず、遊手の者が多いためである。勧農の課役を興さずしてよいであろうか。
本朝の転運使・提点刑獄・知州・通判は、皆勧農の職を帯びるが、徒らに虚文のみで、勧導の実がない。宜しく勧農司を置き、知州を長官とし、通判を佐とし、清廉剛直な幕職・州県官を挙げて判官とする。先ず墾田の頃畝及び戸口数・屋塘・山沢・溝洫・桑柘を籍に著し、然る後に法を設けて勧農し、害を除き利を興す。歳末の農閑期に、転運司がこれを考校し、その賞罰を定めるべきである。
楊懐敏が妄りに契丹主宗真の死を言い、入内副都知に除せられ、内侍の黎用信は罪により海島に流され、赦されて帰り、直ちに環衛官として致仕を得、許懐徳・慎鏞は高齢ながら未だ謝事せず、楊景宗・郭承祐は闟冗の小人にして、廃して用いざるべきなり、と歴々にこれを弾劾し、多くは聴き入れられた。彦遠は性質豪邁にして、言職に任じ、数々に建明あり。官にて卒す。
子 易、明逸。
明逸、字は子飛。殿中丞より制科に策して、太常博士に転ず。呂夷簡に知られ、右正言に抜擢される。まず范仲淹・富弼を弾劾し、「綱紀を更張し、国経を紛擾す。凡そ推薦する所は、多く朋党を挟む。早く罷免せられ、奸詐をして敢えて倣わしめず、忠実をして自立を得しめよ」と。疏が奏上され、二人は皆罷免され、その夜、杜衍もまた相を免ぜられた。明逸は蓋し章得象・陳執中の意に迎合したのである。
石元孫が夏人と戦って没し、死事として褒贈されたが、後に生きて帰還し、朝廷は問わずに釈放した。明逸はその敗軍の罪を正すことを請い、遂に遠方に流してその恩典を奪った。同修起居注・知制誥に進み、知諫院に抜擢され、翰林学士となる。登科よりここに至るまで、僅か五年である。史館修撰を加えられ、開封府知事となる。妄人の冷青が自ら皇子と称し、捕らえられて府に至ると、明逸が正しく坐していると、青は言う、「明逸、どうして起たぬのか」と。明逸はこれに起つ。京兆尹として威望なく、また獄吏が婦人酇氏を鞭打って足を落とし死なせたため、龍図閣学士・蔡州知事に罷められる。揚・青・鄆・曹州・応天府を歴任し、還って流内銓を判じ、通進銀台司知事となり、再び出て成徳軍・渭州知事となる。端明殿学士を加えられ、秦州知事となる。
先に、于闐が入貢するに当たり、邈川を通ると、唃廝囉が留めて遣わさなかった。折しもその妻が亡くなり、前帥の張方平がこれに因んで恤み、且つその般次を誘って入貢させることを請い、詔して絹千匹を賻した。明逸は言う、「朝廷が唃氏を撫するは至って厚い。近頃、招馬を名目として繒縕を賂い、六事を邀請し、既にその五に従いながら、なお不足を望む。今、荒服の貢を塞ぎ止めるは、固より罪あり。どうして再び賜を加えて国体を辱しめようか」と。これに従う。而して于闐の使と般次も皆至った。廝囉には秦に質子としてある子があり、別子の木征は河州に居た。殿侍の程従簡が密かにこれと盟し、洮河を渡らせ、官を許し、且つその質子を帰すと約した。事は験せず、木征は怒り、貢使を留めた。明逸は従簡を械して往き詰問し、因ってこれを斬った。木征は惶懼し、留めた者を悉く遣わした。
治平初め、再び翰林学士となる。神宗即位の後、御史がその傾險憸薄を論じ、近頃賈昌朝・夏竦に附いて正人を陥れ、文辞浅繆にして、どうして翰院に冒居すべきか、と。乃ち学士を罷められる。久しくして、永興軍知事となる。熙寧四年、卒す。年五十七。礼部尚書を贈られ、諡して修懿という。
藻、字は醇老、明逸の従子なり。幼くして孤となり、刻苦勉励して学ぶ。進士に及第し、また賢良方正科に中り、秘閣校理となる。
慈聖后が朝に臨むと、藻は三度上書して政務の返還を乞うた。同修起居注・知制誥となる。枢密直学士を加えられ、開封府知事となる。平素は楽易で崖岸なく、居官しては独立して規矩を守り、政を為すには簡静にして条理あり、私に徇って顕職を取ろうとせず。数度退くことを求め、翰林侍読学士・審官東院知事に改まる。卒す。年六十一。神宗はその貧しきを知り、賻銭五十万を賜い、太中大夫を贈る。
諸孫 景諶。
景諶は、景臻の従兄なり。殿直より巡轄両京馬遞を経て、進士第に及第す。初めて開封の解試に赴く時、王安石がその文を得て、道を知る者と為す。既にこれを薦送し、又公卿の間に推誉し、ここより弟子の礼を執る。安石が府界を提点する時、景諶はその属主簿となり、また文をもってこれを薦める。喪に服して許に居る時、安石が政を得たと聞き、喜び、事に因って京師に来りこれを謁す。盛夏の折、安石は僧智縁と地に臥し、最も親しい者が袒坐してその側にいた。景諶を見て服を脱ぎ帽を脱がせ、他の語に及ばず、卒然として問うて曰く、「青苗・助役は如何」と。景諶曰く、「利少なく害多く、異日必ず民の患いとならん」と。又問う、「孰れか用うべきの人」と。曰く、「喪に居て人事を交えず、而して人を知るは尤も難き事なり」と。遂に辞して出づ。
後に官を調えて復た来たり、安石は既に相となり、又往きてこれを詣る。安石は弟の安国に先ず相見えしむ。安国も亦これと善くし、景諶に謂いて曰く、「相君は館閣をもって相い処し、事を以って任せんと欲す」と。景諶曰く、「百事皆なすべし、知らざる所は新書・役法のみ」と。安石に見えるに及んで、安石は峡路の役書を治めしめ、且つ戎・滬の蛮事を委んと欲す。景諶曰く、「峡路の民情は、僕固より知る能わず。而して戎・滬の用兵は、朝廷の挙動・一路の生霊の休戚に係る。兵を知り人を愛する者を択ばんことを願う」と。安石大いに怒る。座上客数十人、皆なこれがために懼る。退いて謁舎に就くに、賞激する者と矯りと詆する者と半ばす。景諶笑いて曰く、「古より以来、利を好む者多く、義を顧みる者寡し。故に天下の万事、皆な人に由りて己に在らず。苟も利に動かされ、人に由らば、則ち盗も亦為すべし。夫れ盗の盗たる所以は、義に勝る利ありて、其の為す所以を知らざるのみ。吾また何を憾みんや」と。遂に安石と絶つ。熙寧末、張景憲に従い辟かれて瀛州知事となり、終身外官に止まり、僅かに朝請郎に至って卒す。
諸孫 勰。
高麗に使いして弔問す。外意は頗る之を結んで北伐せんと欲すと謂えり。勰入りて使指を請う。帝曰く、「高麗は文を好み、又士大夫の家世を重んず。卿を選ぶ所以は、他無し」と。乃ち呂端の故事を求めて以て行く。凡そ饋餼にして故より所有に非ざる者は皆納れず。帰りて紫燕島に次ぐ。王、二吏を遣わして追い金銀器四千両を餉る。勰曰く、「館に在りし時既に之を辞せり。今何を為さんとするか」と。吏泣いて曰く、「王に命有り、徒に帰れば則ち死す。且つ左番は已に受けたり」と。勰曰く、「左右番各々職有り。吾は唯例を是れ視るのみ。汝は死すべし、吾は受けざるべし」と。竟に之を却く。還りて、中書舎人に拝す。
元祐初め、給事中に遷り、龍図閣待制を以て開封府知府となる。老吏其の敏を畏れ、事を以て困ぜんと欲し、訴牒を導きて七百に至る。勰は随時に剖決し、理に中らざる簡は緘して之を識し、復た来る無きを戒む。月を閲て訟を聴くに、一人又至る。呼びて詰めて曰く、「吾固より汝を戒めたり。安んぞ我を欺くを得ん」と。其の人讕言して曰く、「有ること無し」と。勰曰く、「汝前の訴え云云、吾は某の字を以て識せり」と。緘を啓きて之を示せば、信然たり。上下皆驚吒す。宗室・貴戚之が為に手を斂め、丞相府の謁吏と雖も干請すれば、亦械して之を治む。積もりて衆の憾と為り、越州知州に出で、瀛州に徙る。召されて工部・戸部侍郎に拝し、尚書に進み、龍図閣直学士を加えられ、復た開封知府となり、事に臨み益々精し。蘇軾其の案に拠る時に乗じて之に詩を遺す。勰筆を操り立ちどころに就きて以て報ず。軾曰く、「電の如く庭訟を掃い、響の如く詩筒に答う。近歳未だ見ざる所なり」と。
哲宗政に蒞る。翰林に学士欠く。章惇三たび林希を薦む。帝は命を以て勰にし、仍ね侍読を兼ぬ。嘗て惇の謫詞を行ひしを以て、懼れて去らんと求む。帝曰く、「豈に『鞅鞅として少主の臣に非ず、硜硜として大臣の節無し』と為す者に非ずや。朕固より之を知る。避くるに用いる毋れ」と。嘗て経幄に侍す。帝留めて之と語りて曰く、「台臣徐邸の事を論ず。其の辞鄭・雍に及ぶ。小人骨肉を離間すること此の如し。若し雍に請有らば、当に卿を付して美詔を以て之を慰安すべし」と。既にして雍の章至る。勰詔に答えて云く、「群枉を容れず、規として動揺せんと欲す。朕其の厚誣を察し、力を加えて明辨す。夫れ何の異趣ぞ、乃ち爾くの如く身を乞う」と。帝之を見て、能く言わんと欲する所を道うと謂う。惇是に因りて極意排詆し、全台を諷して之を攻めしめ、言已まず。池州知州に罷め、官に卒す。年六十四。訃未だ至らざるに、帝猶即ち其の従弟景臻に安否を問う。元符末、龍図閣学士を追復す。
諸孫 即
即は字を中道といい、呉越王の諸孫なり。進士に第し、睦州推官となる。部使者衢に獄有り。即を啖うに薦牘を以てし、往きて治めしむ。即曰く、「吾寧ろ冗選の中に老いん、豈に数十人を以て一薦に易えんことを忍びんや」と。至れば則ち之を平反す。鄜延幕府を辟く。崇寧中、陝西転運判官となる。王師銀州を復す。転餉最も優る。徽宗召対し、問うて曰く、「霊武は取るべしや」と。対えて曰く、「夏人の去来飄忽として、能く持久せず。是れ其の短なり。然れども其の民皆兵なり。居ては飲食を縻せず、動けば転餉を勤めず。願わくは辺臣に勅し、先ず勝たざるを為して以て釁を待たしめ、庶幾くは志を得べし」と。帝曰く、「大砦泉は取るべしや否や」と。対えて曰く、「是れ所謂瀚海なり。臣其の地皆舄鹵にして、水泉無く、或いは以て馬に飲ませば、口鼻皆裂くを聞く。正に之を得るも用うる所無し」と。帝之を然りとす。
直龍図閣・慶州知州を除く。鎮に至り、安辺城・帰徳堡を築き、地万頃を包み、縦に其中に耕し、歳に粟数十万を得。延安府知府に徙り、集賢殿修撰を加えられ、又徽猷閣待制・顕謨閣直学士に進む。延に在ること五年、童貫陝西を宣撫し、便宜行事を得たり。時に長安百物踊貴し、銭幣益々軽し。貫力を以て之を平らげんと欲す。計司風旨を承望し、市価を取って率ね什四を減じ、違う者は法に重ねて置く。民市を罷するに至る。徐処仁之を争い、罪を得。又均糴法を行い、賤く民粟を入れ、而して高く金帛を估して以て賞とし、下は蕃兵・射士の田を授かる者に至るまで、咸く抑配せられ、関内騒然として、幾くんか変を生ぜんとす。即も亦屡抗章し、極めて其の害を陳べ、永州団練副使に貶せらる。然れども糴の害も亦寝む。