范仲淹
泰州西溪の塩税を監り、大理寺丞に遷り、楚州糧料院を監するに徙り、母の喪により官を去る。晏殊が應天府を知り、仲淹の名を聞き、召して府學に寘く。上書して郡守を択び、縣令を挙げ、游惰を斥け、冗僭を去り、選挙を慎み、將帥を撫することを請う、凡そ萬餘言。服除け、殊の薦により、秘閣校理となる。仲淹は『六經』に泛通し、『易』に長じ、學者多く質問に從い、經を執り講解し、倦む所なし。嘗て其の俸を推して四方の游士を食わしめ、諸子は衣を易えて出るに至るも、仲淹は晏如たり。每に感激して天下の事を論じ、奮って身を顧みず、一時の士大夫は矯厲して風節を尚び、仲淹これを倡う。
天聖七年、章獻太后將に冬至を以て朝を受けんとし、天子百官を率いて壽を上ぐ。仲淹極めて之を言い、且つ曰く、「親を内に奉ずるには、自ら家人の禮有り、顧みて百官と同列し、南面して之に朝するは、後世の法と為すべからず」と。且つ上疏して太后の政を還すことを請う、報えず。尋いで河中府を通判し、陳州に徙る。時に方に太一宮及び洪福院を建て、材木を陝西に市す。仲淹言う、「昭應・壽寧、天戒遠からず。今又土木を侈り、民産を破るは、以て人心に順い天意に合する所以に非ず。宜しく寺觀の修を罷め、常歲の木を市する数を減じ、以て積負を蠲除すべし」と。又言う、「恩幸多く内降を以て官を除くは、太平の政に非ず」と。事行われざるも、仁宗忠と為す。
太后崩じ、右司諫として召さる。言事者多く太后の時の事を暴く、仲淹曰く、「太后は先帝の遺を受け、陛下を調護すること十餘年、宜しく其の小故を掩い、以て后の德を全うすべし」と。帝の為に中外に詔し、輒と太后の時の事を論ずる毋からしむ。初め、太后遺誥して太妃楊氏を以て皇太后と為し、軍國の事に參決せしむ。仲淹曰く、「太后は母の號なり、古より保育に因りて代立する者無し。今一の太后崩じ、又た一の太后を立てば、天下將に陛下の一日も母后の助け無き可からざるを疑わん」と。
歳大いに蝗旱し、江・淮・京東甚だし。仲淹使いを遣わし循行することを請う、未だ報えず。乃ち間を請いて曰く、「宮掖中半日食わざれば、當に何如せん」と。帝側然とし、乃ち仲淹に命じて江・淮を安撫せしめ、至る所倉を開きて之を振い、且つ民の淫祀を禁じ、廬舒の折役茶・江東の丁口鹽錢を蠲するを奏し、且つ救弊の十事を條上す。
會に郭皇后廢せられ、諫官・御史を率いて閣に伏して之を爭うも、得ず。明日、將に百官を留めて宰相に揖し廷爭せんとし、方に待漏院に至るに、詔有りて睦州を知らしむ。歳餘り、蘇州に徙る。州大水し、民田耕うるを得ず、仲淹五河を疏け、太湖を導きて之を海に注がしめ、人を募りて興作す、未だ就かず、尋いで明州に徙る。轉運使奏して仲淹を留めて以て其の役を畢からしむ、之を許す。尚書禮部員外郎・天章閣待制を拜し、召し還され、國子監を判し、吏部員外郎・權知開封府に遷る。
時に呂夷簡執政し、進用する者多く其の門を出づ。仲淹『百官圖』を上り、其の次第を指して曰く、「此くの如くは序遷と為し、此くの如くは不次と為し、此くの如くは公、此くの如くは私なり。況んや近臣を進退するに、凡そ格を超ゆる者は、宜しく全く之を宰相に委すべからず」と。夷簡悦ばず。他日、建都の事を論ずるに、仲淹曰く、「洛陽險固にして、汴は四戰の地なり、太平は宜しく汴に居り、即ち事有らば必ず洛陽に居るべし。當に漸く儲蓄を廣め、宮室を繕うべし」と。帝夷簡に問う、夷簡曰く、「此れ仲淹の迂闊の論なり」と。仲淹乃ち四論を為して以て獻じ、大抵時政を譏切す。且つ曰く、「漢の成帝張禹を信じ、舅家を疑わざりし故に、新莽の禍有り。臣恐らくは今日も亦た張禹有りて、陛下の家法を壞さんことを」と。夷簡怒り訴えて曰く、「仲淹陛下の君臣を離間し、引用する所は、皆朋黨なり」と。仲淹對益々切なり、此れにより饒州を知らしめて罷む。
殿中侍御史韓瀆宰相の旨に希い、仲淹の朋黨を書し、朝堂に掲ぐることを請う。ここに於いて秘書丞余靖上言して曰く、「仲淹一言を以て宰相に忤い、遽かに貶竄を加う、況んや前に言う所の者は陛下の母子夫婦の間にあるをや。陛下既に之を優容せり、臣請う前命を追改せん」と。太子中允尹洙自ら訟えて仲淹と師友たり、且つ嘗て己を薦めしを以て、降黜に從わんことを願う。館閣校勘歐陽修は高若訥の諫官に在りて、坐視して言わざるを以て、書を移して之を責む。此れにより、三人の者偕いに坐して貶せらる。明年、夷簡も亦た罷む、此れより朋黨の論興る。仲淹既に去り、士大夫論薦する者已まず。仁宗宰相張士遜に謂いて曰く、「向に仲淹を貶せしは、其の密かに皇太弟を建立せんことを請いしが故なり。今朋黨稱薦すること此くの如し、奈何」と。再び詔を下して戒敕す。
仲淹饒州に在ること歳餘り、潤州に徙り、又た越州に徙る。元昊反し、天章閣待制・知永興軍として召さる。陝西都轉運使に改む。會に夏竦陝西經略安撫・招討使と為り、仲淹を進めて龍圖閣直學士と為し以て之に副わしむ。夷簡再び相に入り、帝仲淹に諭して前憾を釋かしむ。仲淹頓首して謝して曰く、「臣が鄉に論ずるは蓋し國家の事なり、夷簡に憾み無し」と。
延州の諸砦多く守りを失う、仲淹自ら行くことを請い、戶部郎中を遷り兼ねて延州を知る。先ず是に、詔して邊兵を分つ:總管は萬人を領し、鈐轄は五千人を領し、都監は三千人を領す。寇至りて之を禦ぐれば、則ち官卑しき者先ず出づ。仲淹曰く、「將を択ばず、官を以て先後と為すは、敗を取るの道なり」と。ここに於いて大いに州兵を閲し、萬八千人を得、六分と為し、各三千人を將い、部を分ちて之を教え、賊の眾寡を量り、使いて更に出でて賊を禦がしむ。時に塞門・承平等の諸砦既に廢せられ、種世衡の策を用い、青澗を城して以て賊の衝に據り、大いに營田を興し、且つ民の互市を得るを聽き、以て有無を通ぜしむ。又た民の遠く輸する勞苦を以て、鄜城を建てて軍と為し、以て河中・同・華の中下戶の稅租を就きて之に輸せしむることを請う。春夏兵を徙して食に就かしめば、糴の十の三を省く可く、他の減ずる所は與せず。詔して以て康定軍と為す。
明年正月、詔して諸路入討せしむ、仲淹曰く、「正月塞外大寒、我が師暴露す、春を俟ちて深入するに如かず、賊馬瘦せ人饑え、勢い制し易し。況んや邊備漸く修まり、師出でて紀有り、賊雖も猖獗すと雖も、固に已に其の氣を懾す。鄜・延は靈・夏に密邇し、西羌の必ず由るの地なり。第に兵を按じて動かず、以て其の釁を観、臣を許して稍々恩信を以て之を招來せしめよ。然らずんば、情意阻絕し、臣恐らくは偃兵期無からんことを。若し臣の策效せずんば、當に兵を挙げて先ず綏・宥を取り、要害に據り、兵を屯し田を營し、持久の計と為さん。則ち茶山・橫山の民は、必ず族を挈して來歸せん。疆を拓き寇を禦ぐるは、策の上なり」と。帝皆其の議を用う。仲淹又た承平・永平等の砦を修め、稍々流亡を招き還し、堡障を定め、斥候を通じ、十二の砦を城することを請う。ここに於いて羌漢の民、相踵いて業に歸す。
久しくして、元昊は捕虜の将軍高延徳を帰還させ、これに因って范仲淹と和を約し、仲淹は書を為してこれを戒め諭した。時に任福が好水川にて敗れ、元昊の答書の言葉は不遜であり、仲淹は来使に対しこれを焼き捨てた。大臣は、勝手に書を通じたのは不当であり、また勝手に焼いたのも不当であるとし、宋庠は仲淹を斬るよう請うたが、帝は聞き入れなかった。本曹員外郎に降格し耀州知州となり、慶州に転じ、左司郎中に昇進し、環慶路経略安撫・縁辺招討使となった。初め、元昊が反乱を起こした時、密かに属する羌族を誘って助力とし、環慶の酋長六百余人は、内応の案内役となることを約したが、事は間もなく露見した。仲淹は彼らが反覆して常ならざるを以て、任地に着くや即ち辺境巡行を奏上し、詔書を以て諸羌を犒賞し、その人馬を閲し、条約を立ててこれに示した:「もし仇敵が既に和解・裁断されたのに、勝手に私的に報復し、人を傷つけた者は、羊百頭・馬二頭を罰し、既に殺害した者は斬刑に処す。負債の争訟は、役人に訴えて処理を待つことを許し、勝手に無関係の者を人質に縛る者は、羊五十頭・馬一頭を罰す。賊の馬が境界内に入った時、追集に応じず本族に従わない者は、戸毎に羊二頭を罰し、その首領を人質とする。賊が大挙して侵入した時、老幼は本砦に入って守り、官は食糧を給与する;もし砦に入らなければ、その家は羊二頭を罰す;全族が来なければ、その首領を人質とする。」諸羌は皆これを受け入れ、これより初めて漢のために用いられるようになった。
邠州観察使に改任されたが、仲淹は上表して言った:「観察使の序列は待制の下にあります。臣は辺境を守ること数年、羌人は頗る臣に親しみ愛し、臣を『龍図老子』と呼んでおります。今、退いて王興・朱観と同列となるのは、ただ賊に軽んじられることを恐れるのみです。」と辞して拝命しなかった。慶州の西北にある馬鋪砦は、後橋川の河口に当たり、賊の勢力圏の奥深くにあった。仲淹はここに城を築こうと考え、賊が必ず争うと推測し、密かに子の純祐と蕃将の趙明を遣わして先にその地を占拠させ、兵を率いてこれに続いた。諸将は行く先を知らず、柔遠に至って初めて号令を下し、築城の資材は全て整い、十日で城は完成した。これが即ち大順城である。賊は気付き、騎兵三万をもって戦いに来たが、偽って敗走した。仲淹は追撃を戒めた。果たして伏兵があった。大順城が築かれると、白豹・金湯の賊も敢えて侵犯せず、環慶路はこれより賊の侵入が益々少なくなった。
明珠・滅臧の強兵数万に対し、仲淹は涇原路がこれを襲撃討伐しようとしていると聞き、上言して曰く:「二族の地は険阻であり、攻撃すべからず、先日高継嵩は既に軍を喪っております。平時でさえ反覆の心を抱いており、今これを討てば、必ずや賊と表裏をなし、南は原州に入り、西は鎮戎を攪乱し、東は環州を侵し、辺境の患いは未だ止むことがないでしょう。もし北の細腰・胡蘆の諸泉を取って堡塁とし、以て賊の通路を断つならば、二族は安堵し、環州・鎮戎の間の直通ルートも開通し、憂い無きを得ましょう。」その後、遂に細腰・胡蘆の諸砦を築いた。
葛懐敏が定川で敗れ、賊は大いに掠奪して潘原にまで至り、関中は震恐し、民は多く山谷間に逃げ込んだ。仲淹は兵六千を率い、邠州・涇州より救援に向かったが、賊が既に塞外に出たと聞き、乃ち引き返した。初め、定川の敗報が伝わると、帝は地図を指して側近に謂って曰く:「もし范仲淹が出援すれば、我に憂い無し。」と。奏上が届くと、帝は大喜びして曰く:「我は固より仲淹の用いるべきを知っていた。」と。枢密直学士・右諫議大夫に進めた。仲淹は軍を出して功績が無かったことを以て、辞して敢えて命を受けず、詔は聞き入れなかった。
時に既に文彦博を涇原路経略使に任命していたが、帝は涇原路が損傷したことを以て、仲淹と対等に転任させようと考え、王懐徳を遣わしてこれを諭させた。仲淹は謝して曰く:「涇原の地は重要です。ただ臣がこの路を担当するに足りぬことを恐れます。韓琦と共に涇原路を経略し、共に涇州に駐屯し、琦は秦鳳路を兼ね、臣は環慶路を兼ねます。涇原に警報あれば、臣は韓琦と秦鳳・環慶の兵を合わせ、犄角の勢いで進軍します;もし秦鳳・環慶に警報あれば、亦た涇原の軍を率いて援軍と為すことができます。臣は韓琦と兵を練り将を選び、漸次に横山を回復し、以て賊の臂を断ち、数年を経ずして、平定を期すことができましょう。願わくは詔を以て龐籍に環慶路を兼領させ、首尾相応ずる勢いを成さしめます。秦州は文彦博に委ね、慶州は滕宗諒を用いてこれを総括させます。孫沔も亦た事を処理し得ましょう。渭州は、一武臣にて足ります。」帝はその言を採用し、復た陝西路安撫・経略・招討使を置き、仲淹・韓琦・龐籍に分領させた。仲淹は韓琦と共に涇州に開府し、彦博を転じて秦州を統帥させ、宗諒を慶州に、張亢を渭州に統帥させた。
仲淹が将となるや、号令は明白で、士卒を愛撫し、来る諸羌に対しても、誠心を推してこれを疑わず、故に賊もまた敢えて勝手にその境を侵犯しなかった。元昊が和を請うと、召されて枢密副使に拝された。王挙正は懦弱沈黙して事を任せず、諫官の欧陽修らが仲淹に宰相の才ありと上言し、挙正を罷めて仲淹を用いるよう請うたので、遂に参知政事に改任された。仲淹は曰く:「執政の職は諫官の言によって得られるものか?」と。固く辞して拝命せず、韓琦と共に辺境に出向くことを願った。陝西宣撫使に任命されたが、未だ出発せず、復た参知政事に任じられた。時に王倫が淮南を寇し、州県官の中に守り抜けなかった者がおり、朝廷はこれを取り調べて誅殺しようとした。仲淹は曰く:「平時には武備を言うことを忌み、賊が至って専ら守臣に死守を責めるのは、可なりや?」と。守令は皆誅殺を免れた。
帝は正に太平に意を鋭くし、数々当世の事を問うた。仲淹は人に語って曰く:「上、我を用いること至れり。事には前後あり、久安の弊は、一朝一夕に革め得るものにあらず。」と。帝は再び手詔を賜い、又このために天章閣を開き、二府を召して条陳させた。仲淹は惶恐し、退いて十事を上奏した:
天子方に仲淹を信向し、悉く之を採用す。令を著すべきものは、皆詔書を以て画一に頒下す。独り府兵法は、衆以て不可と為して止む。
又建言す。「周の制、三公は分かちて六官の職を兼ぬ。漢は三公を以て六卿を分かち部し、唐は宰相を以て六曹を分かち判ず。今中書は古の天官塚宰なり、枢密院は古の夏官司馬なり。四官(司徒・宗伯・司寇・司空)は群有司に散じ、三公兼領の重き無し。而して二府は惟だ進擢差除、資級に循り、賞罰を議し、条例を用いて検するのみ。上は三公論道の任に非ず、下は六卿王を佐くるの職無し。治法に非ず。臣請ふ、前代に倣ひ、三司・司農・審官・流内銓・三班院・国子監・太常・刑部・審刑・大理・群牧・殿前馬歩軍司に、各輔臣を委ねて其の事を兼判せしむ。凡そ官吏の黜陟、刑法の重軽、事利害有るものは、並びに輔臣の予奪に従ふ。其の体大なるものは、二府僉議して奏裁す。臣請ふ自ら兵賦の職を領す。若し其の補無くば、請ふ先づ臣を黜降せよ」と。章得象等皆曰く不可と。久しくして、乃ち参知政事賈昌朝に命じて農田を領せしめ、仲淹に刑法を領せしむ。然れども卒に果たして行はれず。
初め、仲淹は呂夷簡に忤ひて、放逐すること数年、士大夫二人の曲直を持ち、交はり指して朋党と為す。及び陝西兵を用ふるに及び、天子仲淹の士望の属する所を以て、抜き用ふ。及び夷簡罷めらるるに及び、召し還し、倚りて以て治めんとす。中外其の功業を想望す。而して仲淹は天下を己が任と為し、幸濫を裁削し、官吏を考覈し、日夜謀慮して太平を興致せんとす。然れども更張漸無く、規摹闊大、論者以て行ふべからずと為す。及び按察使出づるに及び、多く挙劾有り、人心悦ばず。任子の恩薄く、磨勘の法密なるより、僥倖の者便せず。是に於て謗毀稍く行はれ、而して朋党の論浸いに上に聞こゆ。
会ふ辺陲警有り、因りて枢密副使富弼と請ひて辺を行く。是に於て、仲淹を河東・陝西宣撫使と為し、黄金百両を賜ひ、悉く辺将に分遺す。麟州新たに大寇に罹り、言者多く之を棄つるを請ふ。仲淹為に故砦を修し、流亡三千余戸を招き還し、其の税を蠲み、榷酤を罷めて民に予ふ。又奏して府州の商税を免じ、河外遂に安んず。去るに比り、攻むる者益急なり。仲淹亦自ら政事を罷むるを請ふ。乃ち資政殿学士・陝西四路宣撫使・邠州知州と為す。其の中書に在りし所施為するものも、亦稍く沮み罷む。
疾を以て鄧州を請ふ。給事中に進む。荊南に徙る。鄧人使者を遮り留むるを請ふ。仲淹亦鄧に留まらんと願ふ。之を許す。尋いで杭州に徙り、再び戸部侍郎に遷り、青州に徙る。会ふ病甚だしく、潁州を請ふ。未だ至らざるに卒す。年六十四。兵部尚書を贈り、諡して文正と曰ふ。初め、仲淹病み、帝常に使を遣はし薬を賜ひ存問す。既に卒し、嗟悼すること久し。又使を遣はし就きて其の家を問はしむ。既に葬り、帝親しく其の碑に書して曰く「褒賢之碑」。
仲淹内剛外和、性至孝、母の在りし時方に貧しきを以て、其の後貴く雖も、賓客に非ざれば重肉せず。妻子の衣食、僅かに自ら充つる能ふ。而して施予を好み、義荘を里中に置き、以て族人を贍ふ。愛を泛くし善を楽み、士多く其の門下に出づ。里巷の人と雖も、皆能く其の名字を道ふ。死するの日、四方聞く者、皆為に歎息す。政を為すに忠厚を尚び、至る所恩有り。邠・慶二州の民と属羌は、皆画像を画き生祠を立てて之に事ふ。及其の卒するに及び、羌酋数百人、之を父の如く哭し、三日斎して去る。四子:純祐・純仁・純礼・純粹。
子 純祐
純祐は字を天成といい、性質は英悟にして自得し、節行を尚んだ。十歳の時、諸書を読み、文章を作り、籍籍として称賛された。父仲淹が蘇州を守り、初めて郡学を建て、胡瑗を師として招聘した。瑗は学規を厳密に立て、生徒数百人、多くは教えに従わず、仲淹はこれを憂えた。純祐はまだ冠していなかったが、すぐに進んで入学し、諸生の末席に列し、その規を全て実行し、諸生はこれに従い、遂に敢えて犯す者はなかった。ここより蘇学は諸郡の先駆けとなった。宝元中、西夏が叛き、仲淹は関陝に連任し、皆兵を率いた。純祐は将卒と交わり、深く隠れたことを探り、その才能の有無を得た。これにより仲淹は人を用いるに誤りなく、しばしば功績を立てた。仲淹が環慶を帥とし、馬鋪砦を築くことを議し、砦は夏の境に迫り、夏はその要衝を扼されることを恐れ、その工事を侵撓した。純祐は兵を率いて馳せその地を占拠し、夏の衆が大挙して至り、戦いながら工事し、数日にして完成し、一路はこれにより安んじた。純祐は父母に仕えて孝であり、左右を離れず、科第に応じなかった。仲淹が讒言により罷免されると、純祐は已むを得ず、蔭により将作監主簿を守り、また司竹監となったが、好みに非ず、すぐに解任して去った。仲淹に従って鄧に至り、病を得て昏聵し、許昌に臥した。富弼が淮西を守り、訪ねて見舞うと、なお感慨をもって忠義を説き、弼の来たるが公か私かを問うた。弼が「公である」と言うと、純祐は「公ならばよろしい」と言った。病は凡そ十九年にして卒し、年四十九。子に正臣あり、太常寺太祝を守った。
子に純禮あり。
純禮は字を彝叟といい、父仲淹の蔭により、秘書省正字となり、河南府判官を簽書し、陵台令兼永安県知事となった。永昭陵が建てられると、京西転運使は一路に木石磚甓及び工徒を配したが、永安のみは命令を受けなかった。使者が陵使韓琦に報告すると、琦は言った、「范純禮はこれを知らぬはずがない。必ず説があるだろう。」後日、衆がこれを質すと、純禮は言った、「陵寢は皆邑の境内にあり、歳時繕治する日がない。今、百県と均しく賦するよりは、これを置き、常時の用を奉らせる方がよい。」琦はその答えを是とした。朝廷に還り、三司塩鉄判官に用いられ、比部員外郎として出て遂州知事となった。
滬南に辺境の事変があり、調度が苛酷で急迫したが、純禮は一貫して静かに待ち、調達可能なものを弁じ、民から取らなかった。民は家屋にその像を描き、神のように奉り、「范公庵」と名付けた。草場が火災し、民情は疑懼し、守吏は息を殺して誅罰を待った。純禮は言った、「草が湿れば火が生ずる。何の怪しむに足らん。」ただ密かに償わせたのみ。庫吏が絹糸を盗み多くは死罪に至ったが、純禮は言った、「紛然たる糸のためにこれを殺すは、我忍びず。」その家に急いで買い取らせて贖わせ、株連する者を釈放するよう命じた。戸部郎中・京西転運副使に任じられた。
元祐初め、吏部郎中として入り、左司に遷った。また太常少卿・江淮荊浙発運使に遷った。光禄卿として召され、刑部侍郎に遷り、給事中に進んだ。純禮が封駁したものは、名分紀綱を正すもので、皆国体の大事であった。張耒が起居舎人に任じられ、病で朝に出られず、先に職務に就くよう命じられた。純禮は勅書に批して言った、「臣僚が病気で告げず、朝参せずに先に視事する例はない。耒が職務を勤められるなら、どうして君に会えないことがあろうか。礼を壊し法を乱すことは、なすべからざる所である。」聞く者は皆悚然とした。御史中丞が執政を弾劾し、その位を代えようとし、先に純禮にほのめかした。純禮は言った、「人を論じてその位を奪う。どうして嫌疑を避けぬことがあろうか。命令が果たして下れば、我必ずこれを返す。」宰相はすぐに純禮を刑部侍郎に移し、その後で命令を出した。吏部に転じ、天章閣待制・枢密都承旨に改められ、去って亳州知事・明道宮提挙となった。
徽宗が即位すると、龍図閣直学士として開封府知事となった。前任の府尹は厳刻を以て治めたが、純禮は言った、「寛猛相俟つは、聖人の訓である。今、深文の後に処り、もし猛を以て益せば、これ火を以て火に済すようなものである。今は前の苛酷を去ることに務め、なお未だ尽くさざるを慮る。どうして寛が患いとなろうか。」ここにより一切寛を以て処した。中旨により享沢村民の謀逆を審理せよとの命があり、純禮はその故を審らかにすると、この民が戯場にて優伶を見物し、帰途に匠が桶を作るのを見て、取って頭に戴き、「劉先生と比べてどうか」と言ったので、匠に捕らえられたのであった。明日、入対し、徽宗がどう処するかを問うと、答えて言った、「愚人村野にして知る所なし。もし叛逆を以て罪を蔽うならば、恐らく好生の徳を辜んずる。不応為を以て杖つくれば足りる。」「どうして後人を戒めようか。」「正に外間に陛下の刑憲が濫りないことを知らせ、以て訓戒とすべきです。」徽宗はこれに従った。
礼部尚書に拝され、尚書右丞に擢られた。侍御史陳次升が言官の除罷を内批により、三省の進擬によらず行うよう乞うた。右相曾布が力爭して得られず、次升を降黜するよう乞うた。純禮が徐に進み言った、「次升に何の罪があるか。柄臣が各々親しい者を引き、かつ己に附かざる者を去らんとするのを防ぐに過ぎぬ。」徽宗は「その通り」と言い、布の議を止めた。
また言った、「古より天下の乱れるは、用人に係る。祖宗はここに於いて、最もその要を得た。太祖は呂餘慶を用い、太宗は王禹偁を用い、真宗は張知白を用い、皆下位より諸要路に置いた。人君が英傑の心を得んと欲すれば、固に次を俟たず抜擢すべきである。必ず推薦を待って後に用いれば、守正特立の士は、終身跡を晦ますであろう。」左司諫江公望が継述の事は中道を執るべきで、一偏に拘るべからずと論じた。徽宗がその上疏を示すと、純禮はこれを賞賛して言った、「願わくは陛下これを以て中外に知らせ、聖意の向かう所を知らしめ、亦小人が利に殉ずる情を革するに足りる。公望を褒め遷し、以て来る者を勧められんことを乞う。」
純禮は沈毅剛正であり、曾布はこれを憚り、駙馬都尉王詵を煽てて言った、「上は君を承旨に除かんと欲するが、范右丞が許さぬ。」詵は怒った。折しも詵が遼使を接待し、純禮が宴会を主催した時、詵は純禮が御名を軽んじたと誣告し、純禮は端明殿学士・潁昌府知事に罷められ、崇福宮提挙となった。崇寧中、党禁が始まり、試少府監に貶され、南京に分司した。また静江軍節度副使に貶され、徐州に安置され、単州に移された。五年、左朝議大夫に復し、鴻慶宮提挙となった。卒す。年七十六。
子に純粹あり。
純粹は字を德孺といい、蔭により遷って贊善大夫・檢正中書刑房に至ったが、同僚と争いがあり、出て滕縣の知縣となり、遷って提舉成都諸路茶場となった。元豐年間、陝西轉運判官となった。時に五路より出師して西夏を伐つ:高遵裕は環慶より出で、劉昌祚は涇原より出で、李憲は熙河より出で、种諤は鄜延より出で、王中正は河東より出づ。遵裕は昌祚が期に後れたことを怒り、これを按じて誅せんと欲し、昌祚は憂い憤って病臥し、その麾下は皆憤慨した。純粹は両軍が協調せず、他変を生ずるを恐れ、遵裕を勧めて昌祚の病を問わしめ、その難は遂に解けた。神宗は諸将の無功を責め、再挙を謀らんとした。純粹は奏上して「関陝の事力は単竭し、公私大いに困窮す。若し復た騒動を加うれば、根本憂うべし。異時に言者は必ず臣を職として是れ咎めん。臣は寧ろ今日に尽言の罪を受け、黙して以て後悔を貽すを忍びず」といった。神宗はこれを納れ、進めて副使とした。
吳居厚が京東轉運使となり、数えて羨賦を献上した。神宗は将に徐州の大錢二十万緡を以て陝西を助けんとしたが、純粹はその僚に語って「吾が部は急なりと雖も、忍びて復た此の膏血の余を取らんや」といい、即ち奏上して「本路の錢を得るは誠に利なりと雖も、徐より邊に至るまで、労費甚だ甚だし」といい、懇ろに辞して受けず。入って右司郎中となった。哲宗立つと、居厚は敗れ、純粹を命じて直龍圖閣を以て往きて之に代わらしめ、その苛政を尽く革めさせた。時に蘇軾が登州より召し還され、純粹は軾と共に募役の議を建て、軾は純粹が此の事を講ずること尤も精詳なりといった。
復た兄純仁に代わって慶州の知州となった。時に夏と疆界を分かつを議し、純粹は取った夏の地を棄つるを請い、曰く「争地未だ棄てざれば、則ち邊隙時に除く可からず。河東の葭蘆・呉堡、鄜延の米脂・羲合・浮図、環慶の安疆の如きは、深く夏境に在り、漢界の地利形勢に於て、略んど益する所無し。而して蘭・会の地は、耗蠹尤も深く、棄つ可からず」といった。言う所は皆略ぼ施行された。純粹又た言う「諸路の策応は旧制なり。徐禧が策応を罷めてより、若し夏兵大挙し、一路攻囲せば、力勝たざる有りて、而して鄰路拱手坐観すれば、其の抜かれざるは幸いなるのみ。今宜しく戦守救援の法を修明すべし」と。朝廷是れとす。夏の涇原を侵すに及んで、純粹は将の曲珍を遣わして之を救わしめ、曰く「本道首めて応援牽制の策を建つ。臣子の義、躯を忘れて国に徇う。鄰路寇せらるるを以て我が職に非ずと謂う無かれ」と。珍は即日疾馳して三百里、之を曲律に破り、横山を搗ち、夏衆遁れ去った。元祐年間、宝文閣待制を除かれ、再任し、召されて戸部侍郎となり、又た出て延州の知州となった。
紹聖初め。哲宗親政し、用事者邊釁を開かんと欲し、御史郭知章遂に純粹の元祐に地を棄てし事を論じ、直龍圖閣に降す。明年、復た宝文閣待制を以て熙州の知州となる。章惇・蔡卞が西夏を経略し、純粹と共に事をせざるを疑い、改めて鄧州の知州とす。歴て河南府・滑州に任じ、旋って元祐の党人を以て職を奪われ、均州の知州となる。徽宗立ち、起して信州の知州とし、故職を復し、太原の知州となり、龍図閣直学士を加え、再び延州に臨む。改めて永興軍の知州となる。尋ねて言者に落職せられ、金州の知州となり、鴻慶宮を提挙す。又た責められて常州別駕、鄂州に安置せられ、子弟を錮して擅に都に入るを得ざらしむ。赦に会い、復た祠を領す。久しくして、右文殿修撰を以て太清宮を提挙す。党禁解け、復た徽猷閣待制となり、致仕す。卒す、年七十余。
純粹は沈毅にして幹略有り、才時須に応じ、嘗て売官の濫を論じ、以て「国法固より進納に官を取るを許すと雖も、然れども未だ嘗て其の選を理するを聴かず。今西北三路に於て、三千二百緡を納れて齋郎を買い、四千六百緡を納れて供奉職を買い、並びに試みを免じて官に注すを許す。夫れ天下の士大夫勤めに服して垂死に至るも、世恩に沾わず、其の富民猾商、錢千万を捐てば、則ち三子を任ず可し。切に朝廷の為に之を惜しむ」といった。疏上るも、聴かれず。凡そ事を論ずる剴切なること此の類の如し。
范純仁
仲淹没し、始めて出仕し、著作佐郎を以て襄城縣の知縣となる。兄純祐心疾有り、之を父の如く奉じ、薬膳居服、皆躬親して時節之す。賈昌朝北都を守り、幕府に参ぜんことを請うも、兄を以て辞す。宋庠館職を試むるを薦むるも、謝して曰く「輦轂の下は、兄の疾を養う地に非ず」と。富弼之を責めて曰く「臺閣の任豈に易く得んや。何ぞ庸て是の如くせん」と。卒に就かず。襄城の民蠶織せず、勧めて桑を植えしめ、罪有りて情軽き者は、植うる所の多寡を視て其の罰を除く、民益々頼慕し、後「著作林」と呼ぶ。兄死し、洛陽に葬る。韓琦・富弼書を洛尹に貽し、其の葬を助けしめんとす。既に葬りて、尹先だって聞かざるを訝る。純仁曰く「私室の力足れて辦ず、豈に宜しく公を慁して為さんや」と。
簽書許州觀察判官・知襄邑縣となる。縣に牧地有り、衛士馬を牧し、以て民の稼を践む。純仁一人を捕えて之を杖す。牧地初め縣に隷せず、主者怒りて曰く「天子の宿衛、令敢えて爾るか」と。其の事を上に白し、劾治甚だ急なり。純仁言う「兵を養うは税畝より出づ。若し民田を暴して問うを得ざらしめば、税安んぞ出づる所あらん」と。詔して之を釈し、且つ牧地の縣に隷するを聴す。凡そ牧地の縣に隷するは、純仁より始まる。時旱久しく雨降らず、純仁境内の賈舟を籍し、之に諭して曰く「民将に食無からんとす、爾の販う所の五穀、之を佛寺に貯え、食闕する時を候へ、吾之を糴せん」と。衆賈命に従い、蓄うる所十数万斛。春に至り、諸縣皆饑うるも、独り境内の民知らず。
治平年間、擢て江東轉運判官となり、召されて殿中侍御史となり、遷って侍御史となる。時に方に濮王の典禮を議し、宰相韓琦・参知政事歐陽修等議して之を尊崇す。翰林学士王珪等議して、宜しく先朝の期親尊屬を追贈する故事の如くすべし。純仁言う「陛下仁宗より命を受け而して其の子と為る、前代の定策入繼の主と異なり、宜しく王珪等の議の如くすべし」と。継いて御史呂誨等と更に論奏すれども、聴かれず。純仁授かる所の告敕を還し、家居して罪を待つ。既にして皇太后手書して王を尊び皇と為し、夫人を后と為す。純仁復た言う「陛下長君を以て臨禦す、奈何ぞ命をして房闈より出さしむ。異日或は権臣の矯托の地と為らん、人主自ら安んずるの計に非ず」と。尋ねて詔して追尊を罷め、純仁を起して職に就かしむ。純仁出づるを請うて已まず、遂に安州の通判となり、改めて蘄州の知州となる。歴て京西提點刑獄・京西陝西轉運副使となる。
召還され、神宗が陝西の城郭・甲兵・糧儲の状況を問うと、対して曰く、「城郭は粗全、甲兵は粗修、糧儲は粗備」。神宗愕然として曰く、「卿の才は朕が倚信する所なり、何ぞ皆粗と謂うや」。対して曰く、「粗とは未精の辞なり、是の如くにして足れり。願わくは陛下、暫く辺功に留意せずんば、若し辺臣観望せば、将に他日の意外の患たらん」。兵部員外郎を拝し、起居舍人・同知諫院を兼ねる。奏言して曰く、「王安石、祖宗の法度を変じ、財利を掊克し、民心安からず。『書』に曰く、『怨は豈に明らかなるに在らんや、見えざるを図るなり』。願わくは陛下、見えざる怨を図らん」。神宗曰く、「何をか見えざる怨と謂う」。対して曰く、「杜牧の所謂『天下の人、敢えて言わずして敢えて怒る』是なり」。神宗嘉納し、曰く、「卿よく事を論ず、宜しく朕が為に古今の治乱、監戒と為すべき者を条陳すべし」。乃ち『尚書解』を作りて以て進め、曰く、「其の言は、皆堯・舜・禹・湯・文・武の事なり。天下を治むるに此れを以て易うる無し、願わくは深く究めて力を以て之を行え」。直集賢院を加え、同修起居注と為す。
神宗、治を求むるに切にして、疏逖の小臣を多く延見し、闕失を諮訪す。純仁言う、「小人の言は、之を聴けば采る可き若くも、之を行えば必ず累有り。蓋し小を知り大を忘れ、近きに貪り遠きを昧くすなり、願わくは深く察せん」。富弼、相位に在りて、疾を称して家居す。純仁言う、「弼は三朝の眷倚を受け、当に自ら天下の重きを任ずべし。而るに己を恤うこと物を恤うより深く、疾を憂うること邦を憂うるに過ぎ、主を致し身を処するの道、二者倶に失う。弼は先臣と素より厚し、臣諫省に在り、私謁を録せずして忠告を致す、願わくは此の章を以て示し、之をして自ら省みしめん」。又呂誨の御史中丞を罷むるは当たらず、李師中の辺を守るは不可と論ず。
薛向が発運使に任ぜられ、六路に均輸法を行わんとするに及ぶ。純仁言う、「臣嘗て親しく徳音を奉ず、先王の補助の政を修めんと欲すと。今乃ち桑弘羊の均輸の法に倣い、小人をして之を行わしめ、生霊を掊克し、怨を斂めて禍を基う。安石、富国強兵の術を以て、上心を啓迪し、近功を求め、其の旧学を忘る。法令を尚べば則ち商鞅を称し、財利を言えば則ち孟軻に背き、老成を鄙しんで因循と為し、公論を棄てて流俗と為し、己に異なる者を不肖とし、意に合う者を賢人とす。劉琦・錢顗等一言にして、便ち降黜を蒙る。廷に在る臣、方に大半趨附す。陛下又従いて之を駆る、其れ将に何所に至らざらん。道遠き者は理当に馴致すべく、事大なる者は速成す可からず、人材は急求す可からず、積弊は頓革す可からず。儻し事功の亟就を欲せば、必ず憸佞に乗ぜられん、宜しく言者を速やかに還し安石を退け、中外の望に答うべし」。聴かず。遂に諫職を罷めんことを求め、判国子監に改め、去るの意愈確なり。執政、使をして之に諭さしめて曰く、「軽々に去る毋れ、已に知制誥を除くを議す」。純仁曰く、「此の言何ぞ我に至るや、言用いられずんば、万鐘も顧みる所に非ず」。
其の上ぐる所の章疏、語多く激切なり。神宗悉く外に付せず、純仁尽く録して中書に申す。安石大いに怒り、重貶を加うるを乞う。神宗曰く、「彼に罪無し、姑く一の善地を与えよ」。命じて河中府を知らしむ。成都路転運使に徙す。新法不便を以て、州県に戒めて未だ遽に行う可からずとす。安石、純仁の沮格を怒り、讒者に因りて使を遣わし、私事を捃摭せんと欲すも、得ること能わず。使者、他事を以て伝言者を鞭傷す。属官喜び純仁に謂いて曰く、「此の一事以て其の謗を塞ぐに足る、請う朝に聞かん」。純仁、既に使者の過を奏せず、亦言者の非を折らず。後竟に僚佐の燕游を失察するに坐し、左遷して和州を知り、邢州に徙す。未だ至らざるに、直龍図閣を加え、慶州を知らしむ。
闕を過ぎて入対す。神宗曰く、「卿の父慶州に在りて威名著しく、今世職と謂う可し。卿父に随い既に久し、兵法必ず精しく、辺事必ず熟せん」。純仁、神宗に功名の心有るを揣り、即ち対して曰く、「臣儒家なり、未だ嘗て兵を学ばず。先臣辺を守る時、臣尚幼く、復た記憶せず、且つ今日の事勢宜しく同からざる有るべし。陛下臣をして城壘を繕治し、百姓を愛養せしむれば、敢えて辞せず。若し開拓侵攘せんとせば、願わくは別に帥臣を謀らん」。神宗曰く、「卿の才何の不能かあらん、顧みて肯て朕が為に悉心せざるのみ」。遂に行く。
秦中方に饑え、常平粟を擅に発して振貸す。僚属奏して報を須うべしと請う。純仁曰く、「報至るも及ばざらん、吾当に独り其の責を任ぜん」。或る者其の全活する所実ならずと謗る。詔して使を遣わし按視せしむ。会うに秋大いに稔り、民歓びて曰く、「公実に我を活かす、忍びて公を累せんや」。昼夜争って輸還す。使者至るに、已に負う所無し。邠・寧の間に叢塚有り。使者曰く、「全活不実の罪、此に於いて得たり」。塚を発き骸を籍して上る。詔して本路監司に窮治せしむるに、乃ち前帥楚建中の封ずる所なり。朝廷建中の罪を治む。純仁上疏して言う、「建中は法を守り、申請の間に免れず殍死者有り、已に罪に坐して罷去す。今按臣に縁りて建中に及ぶは、是れ一罪に再刑なり」。建中猶お銅三十斤を贖う。環州の種古、熟羌を執えて盗と為し、南方に流す。慶州を過ぎて冤を呼ぶ。純仁、吏に属するに、盗に非ず。古、罪を避けて讕訟す。詔して御史に寧州に於いて治めしむ。純仁就逮す。民万数馬を遮り涕泗し、行くを得ず、自ら河に投ずる者有るに至る。獄成る。古誣告を以て謫せらる。亦純仁に他過を加え、信陽軍に知らしめて黜す。
斉州に移る。斉の俗兇悍にして、人軽々しく盗劫を為す。或る者謂う、「此れ厳に之を治むるも猶お戢め難し、公一に寛を以てす、恐らく其の治に勝えざらん」。純仁曰く、「寛は性より出づ、若し強いて猛を以てせば、則ち持久す能わず。猛にして久しからず、凶民を治むるは、玩びを取るの道なり」。西司理院有り、囚を係する常に満つ、皆屠販盗竊にして償いを督めらるる者なり。純仁曰く、「此何ぞ保外して輸納せしめざる」。通判曰く、「此を釈すれば復た紊る。官司往々其の疾を以て獄中に斃るるを待つ、是れ民の害を除くのみ」。純仁曰く、「法死に至らず、情を以て之を殺す、豈に理ならんや」。尽く呼びて庭下に至らしめ、訓して自新せしめ、即ち釈して去らしむ。期歳、盗減じて比年より大半なり。
罷免を丐い、西京留司御史台を提挙す。時に耆賢多く洛に在り、純仁及び司馬光、皆客を好みて家貧しく、相約して真率会を為し、脱粟一飯、酒数行、洛中勝事と為す。復た河中を知る。諸路保甲を閲し農を妨ぐ。論救甚だ力めり。録事参軍宋儋年暴死す。純仁子弟をして喪を視せしめ、小殮するに、口鼻血出づ。純仁其の命に非ざるを疑い、按ずるに其の妾と小吏の奸を得たり。会に因り、毒を鱉肉の中に寘く。純仁問う、「肉を食うこと第幾巡に在りしや」。曰く、「豈に既に中毒して尚能く席を終うる者あらんや」。再び之を訊ぬるに、則ち儋年素より鱉を食わず。其の毒鱉肉と曰うは、蓋し妾と吏、獄を変ずるの張本を為さんと欲し、以て死を逃れんとするのみ。実は儋年酔いて帰り、酒に毒して之を殺す。遂に其の罪を正す。
哲宗が即位すると、直龍図閣に復し、慶州知事となった。召されて右諫議大夫となったが、親族の嫌疑を避けて辞し、天章閣待制兼侍講に改められ、給事中を授かった。時に宣仁后が垂簾し、司馬光が政務を執り、熙寧・元豊の法度をことごとく改めようとした。純仁は光に言った、「甚だしきを去るは可なり。差役の一事は、特に熟議して緩やかに行うべきで、然らずんば、民の病となる。公が虚心に衆論を延べ、必ずしも謀を自ら出すことなからんことを願う。謀を自ら出せば、諂諛の徒が隙に乗じて迎合するを得ん。役法の議が回らぬならば、一路に先ず行い、その究竟を観るがよかろう」。光は従わず、ますます固執した。純仁は言った、「これは人をして言わしめざるのみ。公に媚びて容悦せんとするは、安石に迎合して富貴を速めた少年の如き、いかんぞ」。また言った、「熙寧の按問自首の法は、既に行われたが、有司が文を立てるに甚だ深く、四方の死者は旧数の数倍に及び、先王の『寧ろ失うとも経に違わず』の意に非ざるに近し」。純仁は元来光と志を同じくしていたが、事に臨んで規正するは、多くこのようであった。初め、種古が純仁を誣いて停任させた。この時至り、純仁は彼を永興軍路鈐轄に推薦し、また隰州知事に推薦した。常に自ら咎めて言った、「先人は種氏の上世と契義あり、純仁不肖にして、その子孫に訟えられしは、曲直を論ずるに及ばず」。
元祐初め、吏部尚書に進み、数日後、同知枢密院事となった。初め、純仁は西夏の議に与り、兵を罷め地を棄て、掠めた漢人を帰還させることを請うたが、執政がこれを留めて決しなかった。この時至り、前議を申し述べ、また漢人一人を帰すごとに十縑を与えることを請うた。事は皆施行された。辺境で捕らえた鬼章を献上したが、純仁はこれを塞上で誅し、辺境の人に謝することを請うたが、聞き入れられなかった。議者がその子を招き、河南の故地を収めようとしたため、赦して殺さなかった。後にまた官を与えようとしたが、純仁は再び固く争い、然し鬼章の子は結局来なかった。
学士蘇軾が発策問を以て言者に攻められ、韓維は名無くして門下侍郎を罷められ外補された。純仁は軾に罪無く、維は国家に尽心し、讒によって官を黜すべからずと奏した。及び王覿が言事して旨に忤うや、純仁は朋党の将に熾んとするを慮り、文彦博・呂公著と簾前で弁じたが、解けなかった。純仁は言った、「朝臣に本党無し、但だ善悪邪正、各おの類を以て分かる。彦博・公著は皆累朝の旧人、豈に雷同して上を罔うるを容れんや。昔、先臣は韓琦・富弼と慶曆の柄任を同じくし、各おの知る所を挙げしに、常時飛語して朋党と指さる。三人相継いで外補せられ、謗を造る者は公に相慶して曰く『一網打尽』。此の事遠からず、願わくは陛下これを戒めよ」。因って前世の朋党の禍を極言し、併せて欧陽修の『朋党論』を録して進めた。
漢陽軍知事呉処厚が蔡確の安州における『車蓋亭詩』を傅致し、宣仁后を謗るものとして、上奏した。諫官は典憲に置かんとし、執政はその説を右にし、唯だ純仁と左丞王存が不可と為した。争って未だ定まらぬ内、太師文彦博が嶺嶠に貶さんとするを聞き、純仁は左相呂大防に言った、「此の路は乾興以来、荆棘すること七十年に近し、吾輩これを開かば、恐らく自ら免れざらん」。大防は遂に敢えて言わなかった。及び確の新州命が下るや、純仁は宣仁后の簾前にて言った、「聖朝は宜しく寛厚を務むべく、言語文字の間の曖昧不明の過ちを以て、大臣を誅竄すべからず。今の挙動は宜しく将来の法と為すべく、此の事甚だ端を開くべからず。且つ重刑を以て悪を除くは、猛薬を以て病を治すが如く、その過つや、損なう無き能わざるなり」。また王存と哲宗に諫め、退いて上疏し、その略に云う、「蓋し父母に逆子有るが如く、天地鬼神と雖も容赦能わず、父子至親、恕を主とするのみ。若し必ず死の地に処せば、則ち恩を傷つくるを恐る」。確は遂に新州に貶された。
大防は確の党人が甚だ盛んなりと奏し、問わざるべからずと為した。純仁は面諫して朋党は弁じ難く、善人に誤り及ぶを恐ると言った。遂に上疏して曰く、「朋党の起こるは、蓋し趣向の異同に因る。我に同ずる者を正人と謂い、我に異なる者を邪党と疑う。既に我に異なるを悪めば、則ち逆耳の言至り難く、既に我に同ずるを喜べば、則ち迎合の佞日々親しむ。以て真偽知る莫く、賢愚倒置し、国家の患、率ね此れに由る。至るに王安石の如きは、正に同を喜び異を悪むに因り、遂に黒白分かたず、今に至るも風俗、猶お観望を能と為し、後の柄臣、固く永く商鑑と為すべし。今蔡確に必ずしも党人を推治せず、旁ら枝葉に及ぼさず。臣聞く、孔子曰く『直きを挙げて諸れを枉れるに錯けば、枉れる者をして直からしむるを得』と。則ち是れ正直を挙用すれば、枉邪を化して善人と為すを得、不仁者は自ら跡を屏むべし。何ぞ煩わしく党人を分辨せん、或いは仁化を傷つくるを恐る」。司諫呉安詩・正言劉安世が交章して純仁が確に党すと撃ち、純仁も亦た力求めて罷めんとした。
明年、観文殿学士として潁昌府知府となった。一年余りして、大学士を加えられ、太原府知府となった。その境は土狭く民衆し、地を惜しんで葬らなかった。純仁は僚属を遣わして主無き燼骨を収め、男女を別けて異穴に葬り、葬る者三千余り。また一路に推し広め、葬る者万数を数えた。夏人が境を犯すと、朝廷は将吏を罪せんとした。純仁は自ら咎を引き貶謫を求めた。秋、詔ありて官一等を貶し、河南府に移し、再び潁昌に移された。
召還され、再び右僕射に拝された。入謝するに因り、宣仁后が簾中に諭して曰く、「或いは卿必ず先ず王覿・彭汝礪を引用すべしと言う、卿宜しく呂大防と一心たるべし」。対えて曰く、「此の二人は実に士望有り、臣終に敢えて位を保ち賢を蔽わず、陛下の加察を望む」。純仁が再び入らんとするに当たり、楊畏は悦ばず、嘗て言有りしが、純仁は知らなかった。此に至り、大防は畏と約して助けと為し、諫議大夫に引きんとした。純仁は曰く、「諫官は正人を用うべく、畏は用うべからず」。大防は曰く、「豈に畏が嘗て公を言いしを以てか」。純仁は始めて之を知った。後に畏は大防に叛き、凡そ大防を害するに以てする所は、至らざる所無かった。宣仁后が病臥せられ、純仁を召して曰く、「卿の父仲淹は、忠臣と謂うべし。明粛皇后の垂簾の時、唯だ明粛に母道を尽くすを勧め、明粛上賓の後、唯だ仁宗に子道を尽くすを勧む。卿はこれに似るべし」。純仁は泣いて曰く、「敢えて忠を尽くさざらんや」。
宣仁后が崩じ、哲宗が親政すると、純仁は位を避けんことを乞うた。哲宗は呂大防に語って曰く、「純仁は時望有り、去るべからず、朕が為に之を留めよ」。且つ入見を促し、問うて曰く、「先朝の青苗法を行うは如何」。対えて曰く、「先帝の民を愛するの意は本深し、但だ王安石の法を立つる過甚にして、賞罰を以て激し、故に官吏急切にして、以て民を害するに至る」。退いて上疏し、その要は「青苗は行うべからざる所、之を行えば終に民を擾すを免れざるなり」と為す。
この時、二、三の大臣を用いること、皆内より出で、侍従・台諫の官も多くは進擬によらず。純仁言う、「陛下初めて親政せられ、四方は目を拭いて観んとし、天下の治乱は実にここに本づく。舜は皋陶を挙げ、湯は伊尹を挙げ、仁ならざる者は遠ざく。縦え古人の如くならずとも、亦た須らく天下の選を極むべし」と。又群小力めて宣仁后の垂簾の時の事を排す。純仁奏して曰く、「太皇は聖躬を保佑し、功烈誠心、幽明共に監る。議者は国事を恤れず、何ぞ一も薄きや」と。遂に仁宗の明肅垂簾の事を言うを禁ずる詔書を以て之を上る。曰く、「願わくは陛下稽仿して行い、以て薄俗を戒めよ」と。
蘇轍殿試の策問を論じ、漢の昭帝が武帝の法度を変えた事を引く。哲宗震怒して曰く、「安んぞ漢の武帝を以て先帝に比すべけんや」と。轍は殿下に下りて罪を待つ。衆敢えて仰ぎ視ることなし。純仁従容として言う、「武帝は雄才大略、史に貶辞なし。轍以て先帝に比すは、謗にあらず。陛下親事の始め、大臣を進退する、呵叱奴僕の如くあるべからず」と。右丞鄧潤甫越次して曰く、「先帝の法度、司馬光・蘇轍に壊し尽くさる」と。純仁曰く、「然らず、法は本より弊無し、弊すれば則ち当に改むべし」と。哲宗曰く、「人は秦皇・漢武と謂う」と。純仁曰く、「轍の論ずる所は、事と時なり、人にあらず」と。哲宗之が為に少しく霽る。轍は平日純仁と多く異なり、ここに至りて乃ち服し純仁に謝して曰く、「公は仏の位の中の人なり」と。轍竟に職を落とし汝州を知る。
全台蘇軾が呂惠卿の告詞を行い、先帝を訕謗すと言い、英州に知らしめて黜す。純仁上疏して曰く、「熙寧の法度は、皆惠卿が王安石に附会して建議し、先帝の民を愛し治を求むる意に副わず。垂簾の際に至り、始めて言者を用い、特に行い貶竄す、今已に八年なり。言者は多く当時の御史、何故畏避して即ち忠を納れず、今乃ち是の奏有るは、豈に観望に非ずや」と。御史来の邵、高士敦が成都鈐轄を任ずる日の不法の事及び蘇轍の謫せらるる所の太だ近きを言う。純仁言う、「之邵は成都の監司たり、士敦犯有れば、自ら当に按発すべし。轍は政に与ること累年、之邵已に御史と作り、亦た糾正無し、今乃ち継ぎて二つの奏有るは、其の情知るべし」と。
純仁凡そ人材を薦引するに、必ず天下の公議を以てし、其の人純仁の出づる所を知らず。或いは曰く、「宰相と為りて、豈に天下の士を牢籠せずして、門下より出づるを知らしめざるべけんや」と。純仁曰く、「但だ朝廷進用して正人を失わざれば、何ぞ必ずしも我より出づるを知らんや」と。哲宗既に章惇を召して相と為し、純仁堅く去らんことを請い、遂に観文殿大学士を以て右正議大夫を加え潁昌府を知る。入りて辞す。哲宗曰く、「卿朕が為に留まらんと肯わず、縦え外に在りとも、時政に見る所有らば、宜しく悉く以て聞かしむべし、形跡を事とすなかれ」と。河南府に徙め、又陳州に徙む。初め、哲宗嘗て言う、「貶謫の人、殆ど永く廃するに似たり」と。純仁前に賀して曰く、「陛下此れに念い及ぼさるるは、堯・舜の用心なり」と。
既にして呂大防等嶺表に竄る。明堂の肆赦に会す。章惇期に先だちて言う、「此の数十人は、当に終身徙るる勿れ」と。純仁聞きて憂憤し、斎戒して上疏し之を申理せんと欲す。親しむ者触怒する勿れと勧む。万一遠く斥けらるれば、高年に宜しからずと。純仁曰く、「事ここに至り、一人も敢えて言う者無し。若し上心遂に回らば、係る所大なり。然らずんば、死すとも何の憾みかあらん」と。乃ち疏して曰く、「大防等は年老いて疾病し、水土に習わず、炎荒は久しく処るの地に非ず、又憂虞測るべからず、何を以てか自ら存せん。臣曾て大防等と共に事え、多く排斥せらる。陛下の親しく見る所なり。臣の激切は、止だ是れ聖徳を仰ぎ報いんとす。向章惇・呂惠卿は縦え貶謫せられると雖も、裏居を出でず。臣向て嘗て言有り、深く陛下の開納を蒙る。陛下は一蔡確の故を以て、常に聖念を軫む。今赴彦若已に貶所に死す。将に一蔡確に止まらず。願わくは陛下淵衷より断じ、大防等を引き赦し原放せよ」と。疏奏す。惇の意に忤い、同罪と詆り、職を落とし随州を知る。
明年、又武安軍節度副使に貶じ、永州に安置す。時に疾して失明す。命を聞きて怡然として道に就く。或いは近名と謂う。純仁曰く、「七十の年、両目倶に喪い、万里の行、豈に其れ欲する所ならんや。但だ区区の君を愛する、懐いて尽さざる有り。若し好名の嫌を避けんとせば、則ち善を為すの路無からん」と。毎に子弟を戒めて小なる不平有るを得ざらしむ。諸子の章惇を怨むを聞けば、純仁必ず怒りて之を止む。江行して貶所に赴く。舟覆る。純仁を扶け出づ。衣尽く湿る。顧みて諸子に曰く、「此れ豈に章惇の為す所ならんや」と。既に永に至る。韓維均州に責めらる。其の子維が執政の日司馬光と合わざるを訴う。行くを得て免る。純仁の子純仁が光と役法を議うこと同じからざるを以て請わんと欲す。純仁曰く、「吾れ君実の薦を用い、以て宰相に至る。昔同朝して事を論じ合わざれば則ち可なり。汝輩以て今日の言と為すは、則ち不可なり。愧心を有して生くるは、愧心無くして死するに若かず」と。其の子乃ち止む。
純仁許に帰り疾を養わんことを乞う。徽宗已むを得ず之を許す。毎に輔臣に会い安否を問い、乃ち曰く、「范純仁、一たび面を識る足れり」と。遂に上医を遣わし疾を視しむ。疾小愈す。以て得たる冠帔を丐い服色を改め医に酬ゆ。詔して医に章服を賜い、冠帔を族の侄に与えしむ。疾革む。宣仁后の誣謗未だ明らかならざるを以て恨みと為す。諸子を呼び口に遺表を占め、門生李之儀に次第せしむ。其の略云く、「蓋し嘗て天下に先だちて憂え、期して聖人の学に負かざらんとす。此れ先臣の以て子を教え、而して微臣の以て君に事うる所の資なり」と。又云く、「惟だ宣仁の誣謗未だ明らかならざるを致し、保佑の憂勤顕れず」と。又云く、「未だ疆埸の厳を解かず、幾くか帑蔵の積を空うす。城有れば必ず守り、地を得ても耕し難し」と。凡そ八事。建中靖国改元の旦、家人の賀を受け。明日、熟寐して卒す。年七十五。詔して白金三十両を賻い、許・洛の官に其の葬を給するを敕し、開府儀同三司を贈り、諡して「忠宣」と曰う。碑額を御書して「世済忠直之碑」と曰う。
純仁の性質は平易で寛大簡素、声や色を以て人に加えることなく、義の存するところでは、挺然として少しも屈せず。布衣より宰相に至るまで、廉潔倹約は一貫し、得た俸禄や賜物は皆、広く義荘に充てた。前後して任子の恩典を受けるに当たり、多くは先ず疎遠の族に与えた。没する日、幼子及び五人の孫は未だ官に就いていなかった。嘗て曰く、「吾が平生の学び、忠恕の二字を得て、一生用いて尽きず。以て朝廷に立ちて君に事え、僚友を接待し、宗族を親睦するに至るまで、未だ嘗て須臾も此れを離れざりき」と。毎に子弟を戒めて曰く、「人は至愚なりと雖も、人を責むれば則ち明らかであり、聡明なりと雖も、己を恕せば則ち昏し。苟も以て人を責むるの心を以て己を責め、己を恕すの心を以て人を恕すことあらば、聖賢の地位に至らざるを患えず」と。又た戒めて曰く、「『六経』は聖人の事なり。一字を知れば則ち一字を行え。要は須らく『造次顛沛必ず是れに在り』とすべく、則ち所謂『為す者有らば亦た是の若くならん』のみ。豈に人に在らざらんや」と。弟純粹が関陝に在りし時、純仁は其が西夏に対して功を立てんとする意有らんことを慮り、之に書を送りて曰く、「大輅と柴車と争って逐い、明珠と瓦礫と相触れ、君子と小人と力を闘わせ、中国と外邦と勝負を校するは、唯だ勝つべからざるのみならず、兼ねてまた勝つに足らず。唯だ勝つに足らざるのみならず、勝つと雖も亦た非なり」と。親族に教えを請う者有りしに、純仁曰く、「惟だ儉のみ以て廉を助くべく、惟だ恕のみ以て徳を成すべし」と。其の人、坐隅に之を書す。文集五十巻有り、世に行わる。子に正平、正思有り。
子 正平
正平、字は子夷、学行甚だ高く、庸言と雖も必ず『孝経』『論語』を援く。父純仁卒す、詔して特遺沢を増し、其の子孫を官すべしとす。正平は幼弟に推し与う。紹聖中、開封尉となり、向氏が其の墳に慈雲寺を造る有り。戸部尚書蔡京、向氏が后戚なるを以て、自ら結ばんと欲し、四隣の田廬を拓くを奏す。訴え有る民有り、正平按視し、拓く所は皆民業なりとして、奪うべからずと為す。民又た鼓を撾ちて上訴す。京、罰金二十斤に坐す。是を以て正平に恨みを蓄う。
国を当たるに及んで、乃ち正平が父の遺表を矯撰せしと言い、又た李之儀の述ぶる所の『純仁行状』が、妄りに中使蔡克明の二聖虚佇の意を伝うるを載すと謂い、遂に正平をして之儀・克明と共に御史府に詣らしむ。正平将に行かんとす、其の弟正思曰く、「『行状』を議せし時、兄方窀穸の事を営み、筆削に参預せし者は正思なり。兄何をか為さん」と。正平曰く、「時相の意我に属す。且つ我長に居る。我往かざれば、兄弟倶に将に免れざらん。身をして之を任せしむるに若かず」と。遂に獄に就く。捶楚甚だ苦しく、皆誣服せんと欲す。独り克明曰く、「旧制、凡そ聖語を伝うるは、本を御前に受け、宝印を請い出で、内東門に籍を注す」と。其の家より永州伝宣聖語本に御宝有るを得しめ、又た内東門の籍を験するに皆同じ。其の遺表八事、諸子朝廷の大事を以て、後患を防ぎ、敢えて之を上せず、潁昌府に繳申し印を寄せ軍資庫にす。潁昌より取り至るも、亦た実なり。獄遂に解く。正平は象州に羈管せられ、之儀は太平州に羈管せらる。正平の家屬、死する者十余人。
赦に会い、潁昌に帰るを得たり。唐君益守たり、其の居る所を表して忠直坊と為し、賜う所の「世済忠直」の碑額を取る。正平之に告げて曰く、「此れ朝廷の賜う所、金石に施し、墓隧に掲げ、范氏子孫に仮寵するは則ち可なり。若し通途広陌の中に在りて往来の観と為し、以て庸俗を聳動せしむるは、不可なり」と。君益曰く、「此れ有司の事、君家何ぞ預からんや」と。正平曰く、「先祖先君の功名、人の知る所なり。十室の邑と雖も必ず忠信有り。異時独り吾が家の笑いを詒るのみならず、君も亦た其の責を受けん」と。竟に之を撤去す。正平退閑久しく、益々詩に工なり、尤も五言に長ず。『荀裏退居編』を著し、以て寿を終う。
論じて曰く、古より一代の帝王の興るは、必ず一代の名世の臣有り。宋に仲淹諸賢有り、此れに愧じず。仲淹初め制中に在りし時、宰相に書を遺し、天下の事を極論し、他日政を為すに、尽く其の言を行えり。諸葛孔明草廬始めて昭烈に見えし数語、生平の事業備は是れに見ゆ。豪傑自ら知るの審かなる、類は是の如きか。其の当朝を考うるに、久しからずと雖も、然れども先憂後楽の志、海内固より已に其の弘毅の器有るを信じ、以て斯の責に任ずるに足り、其の為さんと欲する所を究ましめば、豈に古人に譲らんや。純仁は位其の父を過ぎ、而して幾く父の風有り。元祐の建議、熙・豊を攻むること太だ急なり。純仁の蔡確を救う一事、所謂国を謀る甚だ遠し。当世若し其の言に従わば、元祐党錮の禍、是の如く烈しきに至らざりしなり。仲淹諸子に謂いて、純仁は其の忠を得、純礼は其の静を得、純粹は其の略を得たりと。子を知ること孰れか父と与にせん。