富弼
富弼、字は彦國、河南の人である。初め、母の韓氏が身ごもった時、旌旗と鶴雁がその庭に降り立ち、天赦があると告げる夢を見て、やがて弼を生んだ。若くして篤学で大度あり、范仲淹はこれを見て奇異とし、「王を補佐する才である」と言った。その文章を王曾・晏殊に見せると、殊は娘を妻として与えた。
折しも契丹が国境に兵を屯させ、その臣の蕭英・劉六符を遣わして関南の地を求めて来た。朝廷は返答の使者を選んだが、皆その情が測り難いとして敢えて行こうとせず、夷簡はこれによって弼を推薦した。歐陽修は顔真卿が李希烈に使わされた故事を引き、弼を留めるよう請うたが、返答がなかった。弼は直ちに入朝して対し、叩頭して言った、「主憂いて臣辱しむ、臣は敢えてその死を惜しまない」。帝は顔色を動かし、先ず接伴使とした。英らが国境に入ると、中使が迎えて労ったが、英は病と託して拝礼しなかった。弼は言った、「昔、北朝に使いした時、病んで車中に臥していたが、命を聞けば直ちに起きた。今、中使が至ったのに君が拝礼しないのは、どうしたことか」。英は驚いて起き上がり拝礼した。弼は心を開いて語り合うと、英は感じて喜び、再びその内情を隠さず、遂かに密かにその主君の得たいところを告げて言った、「従えるならば従え、そうでなければ、一事で塞げば足りる」。弼はことごとくこれを上聞した。帝はただ歳幣を増額することを許し、さらに宗室の女をその子に嫁がせることとした。
弼を枢密直学士に進めたが、辞して言った、「国家に急あれば、義として労を憚るべきではない。どうして官爵を以てこれに賂することを予め逆料しようか」。遂に使者として返聘した。到着すると、六符が客館に来た。弼が契丹主に事の故を問うと、契丹主は言った、「南朝は約に背き、雁門を塞ぎ、塘水を増し、城隍を修め、民兵を籍するが、何を為さんとするのか。群臣は兵を挙げて南進するよう請うが、我は使者を遣わして地を求めるに如かず、求めて得られなければ、兵を挙げても遅くはないと言っている」。弼は言った、「北朝は章聖皇帝の大徳を忘れたのか。澶淵の役で、もし諸将の言に従っていたならば、北兵は脱する者を得なかったであろう。かつ北朝が中国と通好すれば、人主がその利を専有し、臣下は得るところがない。もし兵を用いれば、利は臣下に帰し、人主がその禍を任せることになる。故に兵を用いることを勧める者は、皆みな身のための謀り事である」。契丹主は驚いて言った、「どういうことか」。弼は言った、「晉の高祖は天を欺き君に叛き、末帝は昏乱で、国土は狭小、上下離叛していたから、契丹は全師独り勝つことができたが、壮士健馬は大半が物故した。今、中国は提封万里、精兵百万、法令は修明し、上下心を一つにしている。北朝が兵を用いようとして、必勝を保つことができるか。仮に勝ったとしても、亡くした士馬は、群臣が当たるのか、それとも人主が当たるのか。もし通好を絶やさなければ、歳幣は全て人主に帰する。群臣に何の利があろうか」。契丹主は大いに悟り、しばらくうなずき続けた。弼はまた言った、「雁門を塞いだのは、元昊に備えるためである。塘水は何承矩に始まり、事は通好以前にある。城隍は皆旧を修めたものであり、民兵も欠員を補ったまでで、約に背くものではない」。契丹主は言った、「卿の言がなければ、我はその詳細を知らなかった。しかし得たいと思うのは、祖宗の故地に過ぎない」。弼は言った、「晉が盧龍を以て契丹に賂し、周の世宗が関南を取り返したのは、皆異代の事である。もし各々地を求め合えば、果たして北朝の利となろうか」。
退いた後、六符が言った、「我が主君は金帛を受けることを恥じ、固く十県を欲している。どうか」。弼は言った、「本朝皇帝は言われる、朕は祖宗のために国を守る。どうして妄りに土地を人に与えようか。北朝の欲するところは、租賦に過ぎない。朕は両朝の赤子を多く殺すに忍びず、故に己を屈して幣を増し以てこれに代えようとする。もし必ず地を得ようとするならば、それは盟を破ることを志し、これを口実とするに過ぎない。澶淵の盟は、天地鬼神が実に臨んでいる。今、北朝が先に兵端を開くならば、過ちは我にない。天地鬼神を、欺くことができようか」。翌日、契丹主は弼を召してともに狩猟し、弼の馬を自ら近くに引き寄せ、また地を得れば歓好は久しく続くと言った。弼は必ずできない様子を反覆陳述し、かつ言った、「北朝が地を得ることを栄えとすれば、南朝は必ず地を失うことを辱とする。兄弟の国が、どうして一栄一辱となすことができようか」。狩猟が終わると、六符が言った、「我が主君は公の栄辱の言を聞き、大いに感悟した。今はただ婚姻を議するのみである」。弼は言った、「婚姻は容易に嫌隙を生じる。本朝の長公主が降嫁する際の齎送も十万緡を過ぎない。どうして歳幣の無窮の利に及ぼうか」。契丹主は弼に帰国するよう諭し、言った、「卿が再び至るのを待って、一つを選んで受けるであろう。卿は誓書を持って来るがよい」。
弼は帰還して復命し、また二つの議案および政府より受けた口伝の言葉を持って往った。楽寿に至った時、副使の張茂実に謂って曰く、「吾は使者たりながら国書を見ず、もし書中の言葉が口伝と異なれば、吾が事は敗れるなり」と。開いて視れば果たして同じからず、即ち馳せて都に還り、晡時に入見し、書を改めて行った。至るに及んで、契丹はもはや求婚せず、専ら幣を増やすことを欲し、曰く、「南朝が我に遺わす辞は『献』と曰うべし、然らずば『納』と曰うべし」と。弼之を争う。契丹主曰く、「南朝は既に我を懼る。二字に於いて何かあらん。若し我兵を擁して南せば、悔い無からんや」と。弼曰く、「本朝は南北を兼ね愛する故に、更に成すを憚らず。何を以て懼るとなすや。或いは已むを得ずして用兵に至らば、則ち曲直を以て勝負と為すべし。使臣の知る所に非ず」と。契丹主曰く、「卿固執する勿れ。古にも亦之れ有り」と。弼曰く、「古より唯だ唐高祖のみ突厥より兵を借る。当時贈遺するに、或いは献納と称す。其の後頡利は太宗に擒えらる。豈に復た此の礼あらんや」と。弼声色俱に厲しく、契丹は奪うべからざるを知り、乃ち曰く、「吾自ら人を遣わして之を議せん」と。復た劉六符を使わして来らしむ。弼帰りて奏して曰く、「臣以て死を以て之を拒めば、彼気折す。許す可からず」と。朝廷竟に「納」の字を以て之に与う。始めて命を受くるに、一女卒するを聞く。再び命を受くるに、一子生まるるを聞く。皆顧みず。又枢密直学士を除かれ、翰林学士に遷る。皆懇ろに辞し、曰く、「歳幣を増やすは臣が本志に非ず。ただ方に元昊を討つに在りて、未だ暇あらずして角つるに及ばざるを以て、故に敢えて死を以て争わず。其れ敢えて受けんや」と。
元昊使いを遣わして書を以て来たり、男と称して臣と称せず。弼言う、「契丹は元昊を臣とし、我は臣とせざれば、則ち契丹は天下に敵無しと為る。許すべからず」と。乃ち其の使を却け、遂に之を臣とす。四年、契丹雲中に礼を受け、且つ兵を発して元昊と会し呆児族を伐つ。河東に於いて近し。帝二辺の同謀を疑う。弼曰く、「兵を出すに名無し。契丹は為さざるなり。元昊本より契丹と約して相左右す。今契丹独り重幣を獲れば、元昊怨言有り。故に威塞に城して之を備う。呆児屡々威塞を寇す。契丹元昊之を使わすを疑い、故に是の役を為す。安んぞ合して我を寇せんや」と。或いは調発して備えんことを請う。弼曰く、「此くの如くせば正に其の計に堕つ。臣請う之を任せん」と。帝乃ち止む。契丹卒して動かず。夏竦志を得ず、飛語を以て弼を中る。弼懼れ、河北を宣撫せんことを求め、還りて資政殿学士を以て鄆州知州に出づ。歳余、讒験せず。給事中を加え、青州に移り、兼ねて京東路安撫使と為る。
河朔大水有り、民流れて食を就く。弼部内の民に出粟を勧め、官廩を以て益し、公私の廬舎十余万区を得、其の人を散処せしめ、以て薪水に便ならしむ。官吏前資・待缺・寄居の者自ら、皆祿を賦し、民の聚まる所に即かしめ、老弱病瘠の者を選びて之に廩し、仍其の労を書き、他日の為に奏請して賞を受くるを約す。率ね五日に輒ち人を遣わし酒肉飯糗を持たせて慰藉す。至誠より出で、人人为に尽力す。山林陂沢の利生を資うる可き者は、流民の擅に取るを聴す。死者は大冢を為りて之を葬り、目して「叢冢」と曰う。明年、麦大いに熟す。民各おの遠近に従い糧を受けて帰る。凡そ五十余万人を活かし、兵に募る者万計なり。帝之を聞き、使いを遣わして褒労し、礼部侍郎を拝す。弼曰く、「此れ守臣の職なり」と。辞して受けず。此れ以前、災を救う者は皆民を城郭中に聚め、粥を為りて之を食わしめ、蒸して疾疫と為り、及び相蹈藉し、或いは哺を待つこと数日粥を得ずして仆る。名は之を救うと為すも、実は之を殺すなり。弼法を立て簡便周尽してより、天下伝えて以て式と為す。
時に、災異は皆天の数であり、人事の得失に関わるものではないと帝に言う者があった。弼はこれを聞いて嘆いて言うには、「人君の畏れるものは天のみである。もし天を畏れなければ、何事か為さざらんや。これは必ず奸人が邪説を進めて、上心を動揺させ、輔弼諫争の臣が力を施すところなからしめんとするものである。これは治乱の機であり、速やかに救わざるべからず」と。即ち数千言の上書をして、力を尽くしてこれを論じた。また言うには、「君子と小人の進退は、王道の消長にかかわる。深く弁察を加え、同異をもって喜怒とせず、喜怒をもって用捨とせざることを願う。陛下は外事を伺察する者を使うことを好むため、奸険の者が志を得ている。また親批を多く出すが、もし事事皆中るとしても、君たるの道ではない。仮に十中七八であっても、積日累月すれば、失うところもまた多い。今、中外の務は漸く更張があるが、大抵小人はただ事を生ずることを喜ぶ。深くその然るを照察し、悔いなからしめんことを願う」と。この時、旱魃が長く続き、群臣が尊号を上ること及び楽を用いることを請うたが、帝は許さず、同天節に契丹の使節が上寿すべきであるため、その請いを断たなかった。弼はこれが盛徳の事であり、正にこれをもって示すべきであると言い、上寿を併せて罷めることを乞うた。帝はこれに従い、即日に雨が降った。弼はまた上疏して、天戒を益々畏れ、奸佞を遠ざけ、忠良を近づけることを願った。帝は手詔を下して褒め答えた。
王安石が政事を用いると、元より弼と合わなかった。弼は争うことができないと察し、多く病を称して退くことを求め、数十の上章をした。神宗はこれを許そうとして、問うて言うには、「卿が去れば、誰が卿に代わることができようか」と。弼は文彦博を推薦した。神宗は黙然とし、良久くして言うには、「王安石はどうか」と。弼もまた黙然とした。武寧節度使・同中書門下平章事・判河南に拝され、亳州に改めた。青苗法が出ると、弼はこれでは財が上に聚まり、人が下に散ると言い、行わぬよう堅持した。提挙官の趙済が弼が詔旨を阻むことを弾劾し、侍御史の鄧綰がまた有司に付して鞠治することを乞うたため、僕射として汝州を判することとなった。安石は言うには、「弼は責められても、なお富貴を失わない。昔、鯀は方命によって殛せられ、共工は象恭によって流された。弼はこの二つの罪を兼ねているのに、使相を奪うに止まる。どうして奸を沮むことができようか」と。帝は答えなかった。弼は言うには、「新法は、臣の知らぬところであり、郡を治めることはできません。洛に帰って疾を養いたい」と。許された。遂に老を請い、司空を加拝され、韓国公に進封されて致仕した。弼は家居していても、朝廷に大利害があれば、知る限りを言わなかったことはない。郭逵が安南を討つに当たり、詔を下して逵に利を択んで進退させ、王師を全うすることを乞うた。契丹が河東の地界を争うに当たり、これを許すべからざることを言った。星文に変があると、言路を開広することを乞うた。また新法を速やかに改めて、倒懸の急を解くことを請うた。帝は尽く用いることはなかったが、眷礼は衰えず、嘗て安石が何かを建明した際、これを退けて言うには、「富弼の手疏に『老臣、訴えるところなく、ただ屋を仰いで窃かに嘆く』と称する者が、即ち至るであろう」と。その敬うことこのようであった。
「陛下が即位された初め、邪臣が説を納れて任用を図った際、聴受が宜しきを失い、上は聡明を誤り、漸く禍患を成した。今、上は輔臣より、下は多士に至るまで、禍を畏れ利を図り、敝風を習い成し、忠詞讜論は、再び上達することがない。臣は老病にして将に死せんとす、なお何を顧みて求めようか。ただ聖明に負うに忍びず、すなわち肝胆を傾け、愚忠を哀れみ憐れみ、曲げて採納されることを冀う。
去年の永楽の役では、兵民の死亡する者数十万に及んだ。今、久しく戍りて未だ解けず、百姓は困窮している。過ちを諱み敗北を恥じて、禍を救うことを思わぬ時であろうか。天地は至仁であり、どうして羌夷と曲直勝負を校べようか。その侵地を帰し、兵を休め民を息ませ、関・陝の間に、少しでも生計を遂げさせたい。兼ねて陝西では再び保甲を団結し、また教場を葺き、州県が奉行する勢いは星火の如く、人情は惶駭し、再び用いることは難しい。寝罷してこれを綏懐するに如かず。臣の陳ぶるところは、事を済すに急なるものである。若し要道を論ずれば、則ち聖人の存する所、及び用いる人君子と小人の弁にある。陛下は天下の勢いを審らかに観察され、無足慮と為すことができようか」。
帝は奏を覧て震悼し、朝を三日間輟め、内より祭文を出して奠し、太尉を贈り、諡して文忠といった。
弼の性格は至孝であり、恭儉で修めることを好み、人と話す時は必ず敬を尽くし、微官や布衣の謁見にも、皆これと亢礼し、気色は穆然として、喜慍を見せなかった。その善を好み悪を嫉むことは、天資より出ていた。常に言うには、「君子と小人が並び処すれば、その勢い必ず勝たず。君子が勝たなければ、則ち身を奉じて退き、道を楽しんで悶えず。小人が勝たなければ、則ち交結し構扇し、千岐万轍、必ず勝って後やむ。その志を得るに及んで、遂に善良に毒を肆にし、天下の乱れざるを求むるも、得べからざるなり」と。その終身は皆これより出たという。元祐の初め、神宗廟庭に配享された。哲宗はその碑の首を篆して「顕忠尚徳」とし、学士の蘇軾に命じて文を撰し刻ませた。紹聖の中、章惇が執政すると、弼が先帝に罪を得たと言い、配享を罷めた。靖康の初めに至り、詔して旧典に復させた。
子に紹庭あり。
紹庭は、字は徳先、性格は靖重で、よく家法を守ることができた。弼が薨じると、二人の娘と婿及び甥が皆同居したが、紹庭はこれらを父の時と変わらず待遇し、一家の事は毫髪も敢えて変えず、族里に称えられた。宗正丞・提挙三門白波輦運・通判絳州を歴任した。建中靖国の初め、提挙河北西路常平に除されたが、辞して言うには、「熙寧変法の初め、先臣が青苗を行わなかったことで罪を得ました。臣はこの官となることを敢えてしません」と。徽宗はこれを嘉し、祠部員外郎に擢げた。未だ幾ばくもなく、出て宿州を知った。卒した。年六十八。子の直柔は、紹興の中、同知枢密院事となり、別に伝がある。
文彦博
文彦博は、字は寛夫、汾州介休の人である。その先はもと敬氏であったが、晋の高祖及び宋の翼祖の諱を避けて改めた。若い時に張昪・高若訥と共に潁昌の史炤に学び、炤の母はこれを異とし、「貴人なり」と言って、これを甚だ厚く待った。進士に及第し、翼城県を知り、通判絳州となり、監察御史となり、殿中侍御史に転じた。
西方で戦争が行われた時、偏校(下級将校)の中には戦陣を監視して先に退却したり、敵を見て進まない者がいたが、大将は法令を守って皆これを上申した。彦博は言う、「これは平時で事なき時に施行できるものである。今や数十万の兵を擁しながら、将軍の権限が専一でなく、兵法が厳しくないならば、どうして事を成し遂げられようか」と。仁宗はこれを嘉納した。黄徳和が劉平が虜に降ったと誣告した時、金帯で劉平の奴僕を賄い、自分の説に従わせて証言させた。劉平の家の二百口は皆枷をはめられ拘束された。詔により彦博は河中に獄を設け、審理して事実を得た。徳和の党与の支援は盛んで、その獄を覆そうと謀り、ついに他の御史を派遣して来た。彦博は受け入れを拒み、言う、「朝廷は獄が成就しないのを慮り、故に君を遣わしたのである。今や案は整った。速やかに還るべきである。事がもし成就しなければ、彦博がその責を執る」と。徳和と奴僕は共に誅殺された。直史館を以て河東転運副使となった。麟州の糧道は迂遠であり、銀城の河外に唐代の旧道があったが、廃れて修治されていなかった。彦博の父の洎が転運使であった時、これを復旧しようとしたが、果たさずに卒した。彦博は父の志を継いで完成させ、穀物の備蓄を増やした。元昊が来寇し、城を十日間包囲したが、備えがあると知って解いて去った。天章閣待制・都転運使に遷り、連ねて龍図閣・枢密直学士に進み、秦州知州となり、益州に改めた。かつて鈐轄の官舎で球を撃っていた時、外で大変な喧噪がするのを聞き、それは卒長が一兵卒を杖打ちしたが、服従しなかったためであった。呼び入れて様子を問い、引出して杖打ちするよう命じたが、また受け入れず、再び呼び入れてこれを斬り、球を終えてから帰った。召されて枢密副使・参知政事に拝された。
先に、弼は朝士の李仲昌の策を用い、澶州の商胡河から六漯渠を穿ち、横壠の故道に入れた。北京留守の賈昌朝は元より弼を憎んでおり、密かに内侍の武継隆と約し、二人の司天官に執政が集まる時を待って、殿庭で声高に国家が北方で河を穿つべきでない、それによって上体が不安になると言わせた。彦博はその意図があることを知っていたが、これを制する術がなかった。数日後、二人がまた上言し、皇后が共に政を聴くことを請うた。これも継隆が教えたことであった。史志聰がその状を執政に報告した。彦博はそれを見て懐中し、同列には示さず、喜んだ様子で、ゆっくりと二人を召して詰問して言う、「汝らは今日何か言うことがあったか」と。言う、「はい」と。彦博は言う、「天文の変異は、汝らの職務として言うべきことである。どうして軽々しく国家の大事に干与するのか。汝らの罪は族誅に当たる」と。二人は恐れ、顔色が変わった。彦博は言う、「汝らはただ狂愚であるのを見る。未だ汝らの罪を治めるに忍びない。今より再びこのようなことがあってはならない」と。二人が退いた後、ようやく状を同列に示した。同列は皆憤怒して言う、「奴隷が敢えてこのような僭上の言葉を言うとは、何故斬らないのか」と。彦博は言う、「斬れば、事が明らかになり、中宮(皇后)が不安になる」と。衆は皆言う、「善い」と。既にして司天官を派遣して六漯の方位を定めることを議し、再び二人を行かせた。継隆が留めるよう請うたが、彦博は言う、「彼らは本来妄言することを敢えず、教える者がいたのである」と。継隆は黙って敢えて答えなかった。二人は六漯に至り、前の罪を治められるのを恐れ、改めて六漯は東北にあり、正北ではないと言った。帝の病気が癒え、彦博らはようやく邸宅に帰った。この時、京師は危惧していたが、彦博・弼が重厚を保ったことにより、衆心は安んじた。沆は密かに帝に白して言う、「陛下が御不例の時、彦博が勝手に反乱を告げる者を斬りました」と。彦博はこれを聞き、沆の判した文書を呈上し、帝の疑念は解けた。御史の呉中復が唐介を召還するよう乞うた。彦博はそれにより言う、「介はかつて御史として、臣の事を言う多くは臣の欠点を中てました。その中には風聞の誤りもありましたが、当時は責めが深すぎました。中復の奏の如くにして下さい」と。時に彦博を厚徳と為した。久しくして、河陽三城節度使同平章事・河南府判事となり、潞国公に封ぜられ、保平軍に鎮を改め、大名府判事となった。また成徳軍に鎮を改め、尚書左僕射に遷り、太原府判事となった。俄かに再び保平軍に鎮し、河南府判事となった。母の喪に服し、英宗が即位すると、起復して成徳軍節度使となったが、三度上表して喪に終わることを乞い、許された。
初め、仁宗が御不例の時、彦博は富弼らと共に儲嗣(皇太子)を立てることを乞うた。仁宗はこれを許したが、後宮に出産を控える者がいたため、その事は緩やかになった。既にして彦博は去位し、その後弼もまた憂いにより去った。彦博が既に喪明けを終えると、再び元の官で河南府判事となり、詔があって入朝した。英宗は言う、「朕が立ったのは、卿の力である」と。彦博は竦然として答えて言う、「陛下が大統を継がれたのは、先帝の聖意であり、皇太后の協賛の力によるもので、臣が何の力がありましょうか。兼ねて陛下が儲君として極位に即かれた時、臣は外におり、皆韓琦らが聖志を承け顧命を受けられたのであり、臣は関与しておりません」と。帝は言う、「始めの議論を詳しく聞いた。卿は朕に対して恩がある」と。彦博は遜って避け、敢えて当たろうとしなかった。帝は言う、「暫く西行を煩わせるが、すぐに召還する」と。尋ねて侍中を除し、淮南に鎮を移し永興軍知軍となり、入朝して枢密使・剣南西川節度使となった。
時に監司多く新進の少年、転運判官汪輔之輒ち彦博の事を事とせざるを奏す、帝其の奏を批して彦博に付して曰く、「侍中の旧徳を以て、故に臥して北門を護するを煩はす、細務必ずしも心を労すべからず。輔之小臣、敢えて爾くの如く無礼なるは、将に別に処置有らん」と。未だ幾ばくもあらず、罷めて去る。初め、選人に李公義なる者有り、鉄龍爪を以て河を治めんことを請ふ、宦官黄懷信其の制に沿ひて濬川杷と為す、天下指して笑ひて児戯と為すも、安石独り之を信じ、都水丞范子淵を遣はして其の法を行はしむ。子淵杷を用ふるの功を奏し、水悉く故道に帰り、民田数万頃を退出すと。詔して大名に実を核せしむ、彦博言ふ、「河は杷を以て濬ぶべからず、甚だ愚かなる人のみと雖も、皆益無きを知る、臣敢えて雷同して上を罔みざらん」と。疏至る、帝悦ばず、復た知制誥熊本等を遣はして行き視せしむ、彦博の言ふ如し。子淵乃ち覲を請ひ、本等安石の罷むるを見、彦博の復た相たらんことを意ひ、故に其の説に傅会すと。御史蔡確亦本の奉使状無きを論ず。本等皆罪を得、独り彦博は問はず。尋いで司徒を加ふ。
王中正辺事を経制し、過ぐる所に密旨を受けて禁兵を募ると称し、之を将ひて西せんとす。彦博詔無きを以て之を拒み、中正亦敢えて募らずして去る。久しくして、老を請ひ、太師を以て致仕し、洛陽に居る。元祐初、司馬光彦博の宿徳元老を薦め、宜しく起して以て自ら輔けしむべしと。宣仁后将に三省の長官と為さんとすれども、言事者以て不可と為し、及んで平章軍国重事を命じ、六日に一朝し、一月に両たび経筵に赴き、恩礼甚だ渥し。然れども彦博歳無くして退を求めず、五年居り、復た致仕す。紹聖初、章惇政を秉り、言者彦博の司馬光に朋附し、先烈を詆毀するを論じ、太子少保に降す。卒す、年九十二。崇寧中、元祐党籍に預る。後特命を以て籍を出だし、太師を追復し、諡して忠烈と曰ふ。
彦博四朝に事へ逮ふ、将相を任ずること五十年、名四夷に聞こゆ。元祐間、契丹使耶律永昌・劉霄来聘す、蘇軾館客たり、使と入覲し、殿門外に彦博を見るに望みて、却き立ち容を改めて曰く、「此れ潞公なるか」と。其の年を問ふ、曰く、「何ぞ壮んなるや」と。軾曰く、「使者其の容を見るも、未だ其の語を聞かず。其の庶務を綜理するは、精練の少年と雖も及ばざる者有り、其の古今を貫穿するは、專門の名家と雖も逮はざる者有り」と。使者拱手して曰く、「天下の異人なり」と。既に洛に帰り、西羌の首領温溪心名馬有り、辺吏に請ひ、願くは以て彦博に饋せんとす、詔して之を許す。其の外国に敬せらるること此の如し。
彦博窮貴極富と雖も、平居物に接するに謙下にし、徳を尊び善を楽しむこと、及ばざらんことを恐るるが如し。其の洛に在るや、洛人邵雍・程灝兄弟皆道を以て自ら重んず、賓接すること布衣の交はりの如し。富弼・司馬光等十三人と、白居易九老会の故事を用ひ、酒を置き詩を賦して相楽み、歯を序して官を序せず、堂を為し、其の中に像を繪し、之を「洛陽耆英会」と謂ふ、好事者慕はざる莫し。神宗洛を導きて汴を通ず、而して主者洛水を遏絶し、城中に入らしめず、洛人頗る之を患ひ苦しむ。彦博中使劉惟簡の洛に至るに因り、其の故を語る、惟簡以て聞こゆ。詔して通行を初めの如くせしむ、遂に洛城の窮無きの利と為る。
論じて曰く、国家隆盛の時に当たり、其の大臣必ず耆艾の福有り、其の余有るを推し、足りて当世を芘ふ。富弼再び契丹に盟し、能く南北の民をして数十年兵革を見ざらしむ。仁人の言、其の利博なるかな。文彦博朝に立ちて端重、顧盼に威有り、遠人来朝し、風采を仰望す、其の徳望固より以て千里の表に衝を折り侮を禦ぐに足る。公忠直亮に至り、事に臨みて果斷なるは、皆大臣の風有り、又皆高寿を承平の秋に享く。至和以来、是の大計を建て、功成りて退居し、朝野倚重す。熙・豊而降り、弼・彦博相継ぎて衰老し、憸人忌憚無く、善類淪胥し、而して宋の業衰ふ。《書》に曰く、「番番たる良士、膂力既に愆るも、我尚ほ之を有つ」と。豈に信然ならずや。