宋史

列傳第七十一 韓琦子:忠彦 曾公亮子:孝寬 孝廣 孝蘊 陳升之 呉充 王珪從父:罕 從兄:琪

韓琦

韓琦、字は稚圭、相州安陽の人。父は國華、別に傳がある。琦は風骨秀異、弱冠にして進士に挙げられ、名は第二に在り。唱名の際、太史が日下に五色雲の見ゆるを奏し、左右皆賀した。將作監丞・淄州通判に授けられ、集賢院に入直し、左藏庫を監した。時に高科を貴び、多くは直ちに顯職に去る中、琦獨り筦庫に滯り、衆は宜しからずと為すも、琦は之に處して自若たり。禁中金帛を需すれば、皆内臣直に旨を批して之を取るも、印を驗する無く、琦は舊制を復し、傳宣合同司を置き、以て相防察するを請う。又、毎に綱運至れば、必ず内臣監蒞を俟ちて始めて受くべしとし、往々数日も至らず、廡下に暴露し、衙校病と為す。琦奏して之を罷む。

開封府推官・三司度支判官を歴て、右司諫に拜す。時に宰相王隨・陳堯佐、參知政事韓億・石中立、中書に在りて建明罕にして、琦其の過を連疏し、四人同日に罷む。又、内降を停め、僥倖を抑うるを請う。凡そ事便ならざる有れば、未だ言わざる無く、毎に得失を明らかにし、紀綱を正し、忠直を親しみ、邪佞を遠ざくるを急務と為し、前後七十餘疏す。王曾相と為り、之に謂いて曰く、「今言者激せざれば、則ち多く畏顧す、何ぞ上德を補わん。君の言の如きは、切にして迂ならざるなりと謂うべし」と。曾聞望方に崇く、獎與罕にして、琦其の語を聞き、益々自信す。權知制誥と為る。

益・利歳饑、體量安撫使と為る。異時に郡縣賦調を督すること繁急にして、市上供の綺繡諸物に直を予せず、琦為に調を緩め之を蠲給し、貪殘不職の吏を逐い、冗役数百を汰し、饑民百九十萬を活かす。趙元昊反す、琦適にしょくより歸り、西師の形勢を論じて甚だ悉し、即ち命せられて陝西安撫使と為る。劉平賊と戰い、敗れて執らる、時宰他誣に入れ、平の子弟を收繫す、琦辨して直に其の冤をす。

樞密直學士に進み、夏竦の副として經略安撫・招討使と為る。詔して使を遣わし出兵を督す、琦も亦た先発して以て賊を制せんと欲すれども、合府固く爭い、元昊遂に鎮戎を寇す。琦攻守二策を畫き馳せて入奏す、仁宗攻策を用いんと欲すれども、執政者之を難ず、琦言す、「元昊國を傾けて入寇すと雖も、衆は四五萬人に過ぎず、吾が逐路の重兵自ら守りを為せば、勢分かれて力弱く、敵に遇えば輒ち支えず。若し一道に倂せて鼓行して前れば、賊の驕惰に乗じ、之を破る必し」と。乃ち詔して鄜延・涇原同に出征せしむ。既に營に還るや、元昊來りて盟を求む、琦曰く、「約無くして和を請う者は、謀なり」と。諸將に命じ戒嚴せしむ、賊果たして山外を犯す。琦悉く兵を大將任福に付し、令して懷遠城より德勝砦に趨り賊の後に出で、若し未だ戰う可からざれば、即ち險に據り伏を置き、其の歸を要せよと。行くに及び、之を戒むること再に至る。又、檄を移して約を申し、苟も節度に違わば、功有ると雖も、亦た斬らんと。福竟に賊の誘いに為り、好水川に沒す。竦人をして散兵を收めしむ、福の衣帶の間に於ける琦の檄を得、言う罪は琦に在らずと。琦も亦た章を上り自ら劾す、猶一官を奪われ、秦州を知り、尋いて之を復す。

會う四路帥を置くに、琦を以て秦鳳經略安撫・招討使を兼ぬ。慶曆二年、三帥と皆觀察使に換わる、范仲淹・龐籍・王沿拜せず、琦獨り受けて辭せず。未だ幾ばくもせず、舊職に還り、陝西四路經略安撫・招討使と為り、涇州に屯す。琦と范仲淹兵間に久しく、名一時に重く、人心之に歸し、朝廷倚りて以て重しと為す、故に天下「韓范」と稱す。東兵宿衛より來り、勞苦に習わず、琦土兵を増して以て戍を代えしむるを奏し、德順軍を建てて以て蕭關・嗚沙の道を蔽う。方に橫山を取らんと謀り、河南を規す、而して元昊臣と稱し、召されて樞密副使と為る。

元昊契丹を介して援と為し、強いて邀索して厭うこと無く、宰相晏殊等兵を厭い、将に一切之に從わんとす。琦其の不便を陳べ、宜しく先行すべき者七事を條す:一に曰く政本を清む、二に曰く邊計を念う、三に曰く材賢を擢ぐ、四に曰く河北を備う、五に曰く河東を固くす、六に曰く民心を収む、七に曰く洛邑を營む。繼いて又た救弊八事を陳べ、将帥を選び、按察を明らかにし、財利を豐かにし、僥倖を遏み、能吏を進め、不才を退け、入官を謹み、冗食を去らんと欲す。謂う、「数者の挙、謗必ず之に隨う、願わくは計を輔臣に委ね、其の注措を聽かん」と。帝悉く嘉納す。遂に陝西を宣撫し、群盜張海・郭邈山を討平す;禁卒羸老任用に堪えざる者は、悉く之を汰う;鄜延の城障を盡く修し、敵の侵す所の地を悉く歸するを須ちて、乃ち和を許す。西北四策を歸陳し、以て為すに、「今當に和好を以て權宜と為し、戰守を以て實務と為すべし。甲を繕い兵を厲し、都城を營修し、密かに討伐の計を定めんことを請う」と。

時に二府班を合して事を奏す、琦必ず言を盡くし、事中書に屬すと雖も、亦た其の實を指陳す。同列或いは悅ばず、帝獨り之を識し、曰く、「韓琦性直なり」と。琦と范仲淹・富弼皆海内の人望を以てし、同時に登用せられ、中外其の勳業を跂想す。仲淹等も亦た天下を己が任と為し、群小之に便ならず、毀言日々聞ゆ。仲淹・弼繼いて罷む、琦為に辨析すれども、報いず。尹洙と劉滬城水洛の事を爭う、琦洙を右す、朝論然りと謂わず。乃ち外を請い、資政殿學士として揚州を知り、鄆州・成德軍・定州に徙る。安撫使を兼ね、大學士に進み、又た觀文殿學士を加う。

初め、定州兵貝州の功に狃り、賞賚を需め、怨語を出だし、城下を噪がんと欲するに至る。琦之を聞き、治めざれば且つ亂れんと為し、軍制を用いて勒習せしめ、其の尤も無良なる者を誅す。士攻戰に死すれば、則ち其の家を賞賚し、其の孤嫠を籍して継ぎて之に稟し、威恩並び行わる。又た古の三陣法に倣い、日月之を訓齊し、是より中山の兵精勁河朔に冠たり。京師龍猛卒を発して保州に戍らしむ、道に在りて人を害し、定に至り、琦悉く留めて遣わさず、素より教うる者に易えて之をして北からしめ、又た饑民数百万を振活す。璽書褒激し、鄰道之を視て準と為す。

武康軍節度使・幷州知事に拜す。承受廖浩然、中貴の勢いに怙りて貪恣、既に前帥李昭亮を誣逐し、為す所益々法に不法、琦奏して之を還し、帝命して本省に鞭せしむ。契丹天池廟の地を冒占す、琦其の酋豪を召し、曩日彼の求めし所の廟を修する檄を示す、對する無く、遂に我が斥地を歸す。既にして又た陽武砦の地を侵耕す、琦塹を鑿ち石を立てて以て之を限る。初め、潘美河東に鎮し、寇鈔を患え、民をして悉く内徙せしめ、而して塞下を空しくして耕さず、是に於いて忻・代・寧化・大山の北多く廢壤たり。琦以為う、此れ皆良田、今棄てて耕さざれば、適足以て敵を資し、将に皆其の所有と為らんと。遂に請う、北界より十里を距るを禁地と為し、其の南は則ち弓箭手を募りて之に居らしめ、田を墾ること九千六百頃に至る。久しくして、相州を知らんことを求む。

嘉祐元年、召されて三司使となったが、未だ到着せず、迎えて枢密使に拝された。三年六月、同中書門下平章事・集賢殿大学士に拝された。六年閏八月、昭文館大学士・監修国史に遷り、儀国公に封ぜられた。帝は既に三王を連続して失い、至和年間より病に臥せり、殿に御すること能わず。朝廷内外は恐れおののき、臣下は争って後嗣を立てて根本を固めることを言上し、包拯・范鎮は特に激切であった。五、六年を積み、依違して未だこれを行わず、言上する者も次第に怠った。ここに至り、琦は隙に乗じて進言して曰く、「皇嗣は、天下の安危の繫がる所なり。昔より禍乱の起こるは、皆策を早く定めざるに由る。陛下は春秋高く、未だ建立なく、何ぞ宗室の賢なる者を択ばずして、以て宗廟社稷の計と為さざるや」と。帝曰く、「後宮に将に就館せんとする者あり、姑くこれを待て」と。既にしてまた女子を生んだ。

ある日、琦は『漢書かんじょ』孔光伝を懐にして進み、曰く、「成帝には嗣なく、弟の子を立てたり。彼は中材の主なり、猶おかくの如くす、況や陛下においてをや。願わくは太祖の心を以て心と為し、則ち不可なること無からん」と。また曾公亮・張昇・欧陽修と極めてこれを言う。時に司馬光・呂誨が皆請いあり、琦は二つの疏を進読し、未だ啓する所あらざるに、帝は遽かに曰く、「朕は意有ること久し、誰か可ならん」と。琦は惶恐して対えて曰く、「これは臣輩の議する所に非ず、まさに聖択より出づべし」と。帝曰く、「宮中に嘗て二子を養う、小なる者は甚だ純なりしも、近くは慧ならず、大なる者は可なり」と。琦はその名を請うと、帝は宗実を以て告げた。宗実は、英宗の旧名なり。琦等は遂に力を尽くしてこれを賛し、議は乃ち定まった。

英宗は濮王の喪に居り、議して宗正を知らしめんとす。琦曰く、「事若し行わるれば、中止すべからず。陛下断じて自ら疑わず、内中の批出を乞う」と。帝は宮人に知らしむるを欲せず、曰く、「只だ中書に行う足る」と。命下るも、英宗は固く辞す。帝また琦に問う、琦対えて曰く、「陛下既にその賢を知りてこれを選ぶ、今敢えて遽かに当たらざるは、蓋し器識遠大なるが故に、以て賢と為す所以なり。願わくは固くこれを起せ」と。英宗は既に喪を終えても、猶お堅く臥して起たず。琦言う、「宗正の命初めて出づるや、外人皆必ず皇子と為るを知る、その名を遂に正すに若かず」と。乃ち詔を下して皇子に立てしむ。明年、英宗は位を嗣ぎ、琦を以て仁宗山陵使と為し、門下侍郎を加え、衛国公に進封した。

琦は既に英宗を輔立し、門人親客、或いは従容として定策の事に語及すとも、琦は必ず正色して曰く、「これは仁宗の聖徳神断、天下の為に計らい、皇太后の内助の力なり、臣子の何ぞ与かるところあらんや」と。英宗は暴に疾を得、太后は簾を垂れて政を聴く。帝の疾甚だしく、挙措或いは常度を改め、宦官に遇うには特に恩少なく、左右多く悦ばざる者あり、乃ち共に讒間を為し、両宮遂に隙を成す。琦と欧陽修は簾前にて奏事し、太后は嗚咽流涕し、具にその所以を道う。琦曰く、「この病固より爾り、病已めば、必ず然らず。子の疾、母はこれを容れざるを得んや」と。修もまた委曲を尽くして進言し、太后の意稍々和らぎ、久しくして罷む。後数日、琦独り上に見え、上曰く、「太后我を待つに恩無し」と。琦対えて曰く、「古より聖帝明王、少なからず。然れども独り舜を称して大孝と為すは、豈にその余は尽く孝ならざるや。父母慈愛にして子孝なるは、この常事足らざるを道うに非ず。惟だ父母不慈にして、子孝を失わざるは、乃ち称すべきと為す。但だ恐らくは陛下のこれを事うる未だ至らざるを爾り、父母豈に慈ならざる者あらんや」と。帝大いに感悟す。及び疾癒ゆるに及び、琦は乗輿に因りて雨を祷るに素服を具えて以て出づることを請い、人情乃ち安んず。太后は政を還し、琦を右僕射に拝し、魏国公に封ず。

夏人が大順を寇す。琦は歳賜を停め、和市を絶ち、使を遣わして罪を問うことを議す。枢密使文彦博これに難し、或いは宝元・康定の事を挙ぐ。琦曰く、「諒祚は狂童なり、元昊の智計有るに非ず、而して辺備は当時に過ぐること遠く甚だし。亟にこれを詰めよ、必ず服せん」と。既にして諒祚は表を上して謝す。帝は顧みて琦に曰く、「一に所料の如し」と。帝は疾に臥せり、琦入りて起居を問い、言う、「陛下久しく朝を視ず、願わくは早く儲を建て、以て社稷を安んぜん」と。帝は頷き、即ち学士を召して制を草せしめ、潁王を立てしむ。

神宗立ち、司空しくう兼侍中に拝され、英宗山陵使と為る。琦は三世にわたり執政し、或いはその専を病む。御史中丞王陶は、琦が文徳殿に赴かず押班せざるを跋扈として劾す。琦は去らんことを請う、帝は陶を黜す。永厚陵復土の後、琦は復た中書に入らず、堅く位を辞す。鎮安武勝軍節度使・司徒しと兼侍中・相州判を除す。入対し、帝泣いて曰く、「侍中必ず去らんと欲せば、今日已に制を降す」と。興道坊の宅一区を賜い、その子忠彦を擢て秘閣校理と為す。琦は両鎮を辞し、乃ち但だ淮南を領す。

時に种諤が綏州を擅に取り、西辺は俶擾す。永興軍判に改め、陝西を経略す。琦言う、「辺臣肆意に妄作し、約を棄てて乱を基づく、願わくは二府を召して亟にこれを決せしめよ」と。琦入りて辞し、曾公亮等方に事を奏し、乞うて琦と同議せんことを。帝これを召す、琦曰く、「臣前日に政府に備員し、当に共に議すべし。今日は、藩臣なり、敢えて預聞せず」と。また言う、「王陶は臣を指して跋扈と為す、今陛下乃ち陝西の兵柄を挙げて臣に授く、復た陶の如く臣を劾する者あらば、則ち臣は赤族せん」と。帝曰く、「侍中猶お朕が意を知らざるか」と。琦は初め綏州は当に取るべからずと言い、已にして夏人が楊定を誘殺す。琦復た言う、「賊既に此の如し、綏は今棄つべからず」と。枢密院は初議を以てこれを詰む、琦は具にその故を論じ、遂にこれを存す。

熙寧元年七月、復た相州を請いて以て帰る。河北地震し、河決す。大名府判に徒り、安撫使を充て、便宜従事を得る。王安石事を用い、常平使者を出して青苗銭を散ず。琦は亟にこれを言う。帝はその疏を袖にして宰臣に示し、曰く、「琦は真の忠臣なり、外に在りと雖も、王室を忘れず。朕は始め以て民を利すべしと謂えども、今乃ちかくの如く民を害す。且つ坊郭安んぞ青苗を得ん、而して亦強いてこれを与うるか」と。安石勃然として進みて曰く、「苟くもその欲に従わば、坊郭と雖も何の害かあらん」と。明日、疾を称して出でず。当の時、新法幾く罷まらんとす。安石復た出で、前議を持して益々堅し。琦また懇ろに奏す。安石これを条例司に下し、その属に疏駁せしめ、石に刊して天下に頒つ。琦は申辨愈々切なり、従うこと克たず。ここにおいて四路安撫使を解かんことを請い、只だ一路を領するに止まる。安石は琦を沮まんと欲し、即ちこれに従う。六年、還って相州判と為る。

契丹来たりて代北の地を求めんとす。帝手詔を以て琦に訪う。琦奏して言う。

「臣観るに近年以来、朝廷事を挙ぐるは、大敵を恤れみと為さざるに似たり。彼は形を見て疑いを生じ、必ず我に燕南を復さん意有りと謂い、故に先発制人の説を引き、釁端を造る。疑いを致す所以のもの、その事七つ有り。高麗は北方に臣属し、久しく朝貢を絶つ。乃ち商舶に因りてこれを誘い来たらしむ。契丹これを知らば、必ず将に以て我を図らんとすと謂わん。一なり。吐蕃の地を強いて取りて以て熙河を建つ。契丹これを聞かば、必ず行将に我に及ばんとすと謂わん。二なり。西山に遍く榆柳を植え、その成長を冀りて以て蕃騎を制せんとす。三なり。団保甲を創む。四なり。諸州城を築き池を鑿つ。五なり。都作院を置き、弓刀の新式を頒ち、大いに戦車を作る。六なり。河北に三十七将を置く。七なり。契丹素より敵国と為り、事に因りて疑いを起こす、然らざるを得ざるなり。

臣が往年青苗銭の事を論じた時、言論者は直ちに厚誣をほしいままにし、陛下の明察がなければ、ほとんど大戮に及ぶところであった。この後、新法が日に日に下されるのを聞き、敢えて再び言上することはなかった。今、詔を親しく受け問われ、事は安危に関わる。言及して隠せば、死してなお罪が余る。臣はかつてひそかに考えた。初めに陛下のために謀った者は、必ずや「治国の本は、まず財を聚め穀を積み、民に兵を募れば、以て四夷を鞭撻することができる」と言ったであろう。故に青苗銭を散じて民に利を出させ、免役の法を為して順次に銭を取り、市易務を置くに至っては、小商細民は措く手がない。新制は日に日に下され、更改は常なく、官吏は茫然として詳しく記すことができず、監司は督責し、厳刻を以て明察と為す。今、農は甽畝に怨み、商は道路に嘆き、長吏はその職に安んぜず、陛下はこれを尽く知らないのである。四夷を攘斥して太平を興さんと欲しながら、先ず邦本を困摇せしめ、衆心を離怨させる。これこそ陛下のために始めに謀った者の大誤りである。

臣が今陛下のために計るには、使者を遣わして報聘し、向來の興作は乃ち備えを修める常のことであり、他意があるわけではないと具に言い、疆土は素より定まり、悉く旧境の如く、これを持って事端を造り、累世の好を隳すべからずとすべきである。将官の類いの如き疑わしき形のものは、これに因って罷め去る。益々民を養い力を愛し、賢を選び能に任じ、奸諛を疏遠し、忠鯁を進用し、天下をして悦服せしめ、辺備を日に充実させる。もし彼らが果たして自ら盟を敗るならば、則ち一たび威武を振るい、故疆を恢復し、累朝の宿憤を攄くことができるであろう。」

上疏が上ると、丁度王安石が再び宰相に入り、争っていた土地を悉く契丹に与え、東西七百里に及び、論者はこれを惜しんだ。八年、節を永興軍に換え、再任されたが、拝受せずに薨去した。享年六十八。前夜、大星が治所に隕ち、厩の馬が皆驚いた。帝は苑中で哀悼の意を発し、慟哭した。三日間朝政を停め、銀三千両、絹三千匹を賜い、両河の卒を発して塚を治めさせ、その碑に「両朝顧命定策元勲」と篆した。尚書令しょうしょれいを追贈し、諡して「忠献」と曰い、英宗廟庭に配享した。常にその子若しくは孫の一人を相に官させ、以って丘墓を護らせた。故事によれば、三省の長官は、惟だ尚書令が特に重く、贈る者は必ず他官を兼ねた。韓琦に至っては、乃ち単独で贈った。後にまた詔して、たとえ追策すべき時であっても、再び師保を加えない、蓋し彼を貴んだのである。

韓琦は早くから盛名があり、識量は英偉で、事に臨んで喜慍を色に現さず、論者はその重厚さを周勃に比し、政事を姚崇に比した。学士として辺境に臨んだ時、年甫三十にして、天下既に韓公と称した。嘉祐・治平の間、再び大策を決して、以て社稷を安んじた。当時、朝廷には多事多難であり、韓琦は危疑の際に処して、知ることは為さざる無かった。或る者が諫めて言うには、「公の為す所は誠に善いが、万一蹉跌すれば、ただ身を保たぬのみならず、恐らく家も処する所が無かろう。」韓琦は嘆いて言うには、「これは何たる言か。今臣は力を尽くして君に事え、死生はこれを天に任せる。成敗に至っては、天である。どうして予めその成らぬことを憂え、遂に為すことを止められようか。」聞く者は愧服した。魏都に久しく在った時、遼の使者が過ぎる度に、移牒には必ず名を書き、「韓公がここに在るが故である」と言った。忠彦が遼に使いした時、遼主はその容貌が父に似ていると聞き知ると、即ち工人に命じてその姿を図らせた。外国にこのように重んぜられたのである。

韓琦は天資朴忠で、節を折って士に下り、賤貴の別なく、礼を一様にした。特に人才を奨励抜擢することを急務とし、仮に公論が与する所であれば、たとえ自らの意に悦ばざる者でも、収用した。故に人を得ること多かった。群司を選び飭り、皆をして法を奉じ理に循わしめた。その建請する所は、ただ義の在る所を顧み、適莫の心が無かった。宰相の位に在った時、王安石に盛名があり、或る者は用いるべしとしたが、韓琦のみは然らず。相州を守る時、陛辞に際し、神宗が言うには、「卿が去れば、誰を以て国に属すべきか。王安石はどうか。」韓琦は言う、「安石は翰林学士と為すには余りあるが、輔弼の地に処するには不可である。」上は答えなかった。大名を鎮守した時、魏人は生祠を立てた。相州の人々は父母の如く彼を愛し、闘訟があれば、伝え相い諫め止めて言うには、「我が侍中を撓らすなかれ」と。富弼と斉名し、賢相と号され、人は「富韓」と謂った。徽宗は韓琦の定策の勲を追論し、魏郡王を追贈した。子は五人:忠彦、端彦、純彦、粹彦、嘉彦。端彦は右賛善大夫。純彦は官は徽猷閣直学士に至る。粹彦は吏部侍郎となり、終に龍図閣学士。嘉彦は神宗の女斉国公主に尚し、駙馬都尉を拝し、終に瀛海軍承宣使。

子 忠彦

忠彦、字は師樸。少にして父の任により、将作監簿と為り、また進士に挙げられた。韓琦が政を罷めると、忠彦は秘書丞として召されて館職を試され、校理・同知太常礼院に除され、開封府判官・三司塩鉄判官と為った。出て永寧軍を通判し、召還されて戸部判官と為る。

韓琦が薨じ、服喪が終わると、直龍図閣と為り、天章閣待制・知瀛州に抜擢された。朝廷は夏人がその主秉常を囚え廃したことを以て、西方に兵を用い、既に米脂等の城砦数十を下した。夏人は遼に救いを求め、遼人の移書が継いて至った。丁度遼主の生辰を賀す使者を遣わすことになり、神宗は忠彦に命じ、遂に給事中として奉使した。遼は趙資睦を遣わしてこれを迎え、西事に言及した。忠彦は言う、「これは小役である。何ぞ問うことがあろうか。」遼主はその臣王言敷をして館で燕をさせ、言敷が問うには、「夏国は何の罪があって、中国の兵が解かないのか。両朝の歓を失わなければ、それで善い。」忠彦は言う、「西夏に罪を問うことは、二国の好に何ぞ関わることがあろうか。」

使いより還る。時に官制が行われ、章惇が門下侍郎となり、奏上して言うには、「給事中は東省の属官であり、封駁は宜しく先ず稟議して後に上すべきである。」忠彦は奏上して言う、「朝廷の事は、執政の行う所である。事が封駁すべきものであれば、則ち執政と既に固より異なる。尚ほ何の稟議があろうか。」詔してその請いに従う。左僕射王珪が南郊大礼使となり、事の当に下すべきものは、自らその画旨に従った。忠彦は官制を以てこれを駁して言う、「今南郊に関する事は、大礼使が既に中から画旨せず、処分が一時に出るものは、また中書の奏審に従わない。官制の行われること、未だ期月に及ばずして、廟堂自らこれを渝える。後将にこれを如何せん。」乃ち詔して、事の巨細を問わず、必ず三省を経て後に行う。礼部尚書を拝し、枢密直学士として定州を知る。

元祐中、召されて戸部尚書と為り、尚書左丞に抜擢された。弟の嘉彦が公主に尚したので、同知枢密院事に改め、知院事に遷る。哲宗が親政し、大臣を更用すると、言者は観望し、争って垂簾の時の事を言った。忠彦は言う、「昔、仁宗が政を始めた時、当時も亦多く章献太后の時の事を譏斥したが、仁宗はその情を執って薄きに近きを悪み、詔を下して戒飭した。陛下が仁祖の用心を法とすることができれば、則ち善い。」観文殿学士として真定府を知り、定州に移る。忠彦は西府に在って、西方に兵を用いることは非であるとし、取った所の地を棄て還して、以て民力を息まんことを願った。この時、言者がこれを言上し、資政殿学士に降格し、大名府を知ることに改めた。徽宗が即位し、吏部尚書として召されて門下侍郎を拝した。忠彦は四事を陳べた:一は仁恩を広む、二は言路を開く、三は疑似を去る、四は用兵を戒む、と。一ヶ月余りして、尚書右僕射兼中書侍郎を拝した。上は忠彦の言を用い、数えて詔を下して天下の逋負を蠲免し、流人を尽く還して甄叙し、忠直敢言なる知名の士を、稍々収用した。

左僕射兼門下侍郎に進み、儀国公に封ぜられた。しかし曾布が右相となると、多く協調せず、言事の者が曾布を助けて韓忠彦を排斥し、観文殿大学士として大名府を治めた。また欽聖皇后が廃后を復位させようとしたことを、韓忠彦の罪とし、再び太中大夫に降格し、懐州に居住させた。また韓忠彦が宰相の地位にあった時、湟州を棄てるべきではなかったと論じ、崇信軍節度副使に貶謫し、済州に居住させた。湟州・鄯州が回復されると、また磁州団練副使に貶謫された。太中大夫に復し、遂に宣奉大夫の官で致仕した。七十二歳で卒去した。子の韓治は、徽宗の時、太僕少卿となり、出て相州を治めた。病気のため祠官を乞うと、その子の韓肖冑に代わらせた。別に伝がある。

論じて曰く、韓琦は三朝に宰相となり、二帝を立てた。その功は大きい。治平の危疑の際に当たり、両宮はほとんど嫌隙を成さんとしたが、韓琦はこれを裕如に処し、ついに社稷を安んじた。人はその器量に服した。欧陽修は彼を称して「大事に臨み、大議を決し、紳を垂れ笏を正し、声色を動かさず、天下を泰山の安きに措く。これをもって社稷の臣と謂うべし」と言った。まことに信ずるに足る。韓忠彦はその美を世に継ぎ、相次いで相位に登った。宜なるかな。

曾公亮

曾公亮は、字を明仲といい、泉州晋江の人である。進士甲科に挙げられ、会稽県を治めた。民の田は鏡湖の傍にあり、毎度湖の氾濫に悩まされた。曾公亮は斗門を立て、水を曹娥江に泄らし、民はその利益を受けた。父が境内に田を買った罪に坐し、湖州の酒務監に貶謫された。久しくして、国子監直講となり、諸王府侍講に改めた。任期が満ち、故事により館職を試すべきところ、独り自らの文章を献上し、集賢校理・天章閣侍講・修起居注に任ぜられた。天章閣待制に抜擢され、金紫を賜った。これ以前、待制は服を改めなかった。仁宗が面と向かってこれを賜り、「朕は講席より卿に賜う。これ儒臣を尊寵する所以なり」と言った。遂に知制誥兼史館修撰となり、翰林学士・判三班院となった。三班の吏は叢猥で、賄賂や謝礼がなければ事を行わず、貴遊の子弟は多く勢いに倚って請謁した。曾公亮は前後の章程を掇拾し、これに従って事を行わせたので、吏は手を挙げることができなかった。端明殿学士として鄭州を治め、政治に能ある名声があり、盗賊は悉く他境に逃げ、夜には戸を閉ざさないほどであった。かつて使客が嚢中の物を亡くし、文書を送って盗賊を詰問したことがあった。曾公亮は答えて「我が境は盗賊を蔵さず。おそらく従者の隠匿であろう」と言った。探させると、果たしてそうであった。再び入朝して翰林学士・知開封府となった。間もなく、給事中・参知政事に抜擢された。礼部侍郎を加えられ、枢密使に任ぜられた。嘉祐六年、吏部侍郎・同中書門下平章事・集賢殿大学士に拝された。

曾公亮は文法に明練で、官職を歴任すること久しく、朝廷台閣の典憲に習熟していたので、首相の韓琦はしばしば彼に諮問した。仁宗の末年、韓琦が皇太子の冊立を請うと、曾公亮らと共に大議を定めた。密州の民の田から銀が産出し、ある者がこれを盗み取った。大理寺は強盗の罪に当たるとした。曾公亮は言った、「これは禁物である。取るのは強盗であっても、民家の物を盗むのとは区別がある」と。固く争ったので、遂に有司に議させ、禁物を劫掠する法に比べ、盗人は死罪を免れた。初め、東州の人は多くこの法で処罰されていたが、これ以後死者はなくなった。

契丹が人を放って界河で漁をさせ、またしばしば塩舟を通したが、吏は敢えて禁じず、皆これと争えば事を生ずると言った。曾公亮は言った、「萌芽のうちに禁じなければ、後になってどうしようか。雄州の趙滋は勇猛で謀略があり、任に堪える」と。指意を諭させるようにし、辺境の害はついに止んだ。英宗が即位すると、中書侍郎兼礼部尚書を加えられ、まもなく戸部尚書を加えられた。帝が病気で、遼の使者に会えず、曾公亮に館で宴を設けさせた。使者は赴こうとしなかった。曾公亮が詰め寄せて言った、「賜宴に赴かぬは、君命を虔しとせざるなり。人主に疾ありて、必ず親臨せしめんとする。これを安んずるか」と。使者は即座に席に就いた。神宗が即位すると、門下侍郎兼吏部尚書を加えられた。

熙寧二年、昭文館大学士に進み、累ねて魯国公に封ぜられた。老齢を理由に位を避け、三年九月、司空兼侍中・河陽三城節度使・集禧観使に拝された。翌年、起用されて永興軍を判じた。これ以前、慶州の兵卒が反乱し、既に誅殺されたが、余党が逃散し、陝以西は皆警備した。義勇を閲し、辺兵を増やし、内地の租賦を移し、人情は騒然とした。曾公亮は一貫して静謐をもって鎮め、順次上奏してこれを罷め、専ら冗費を裁抑することに務めた。長安ちょうあんの豪族が喜んで流言を造り、営卒が削減を怨み、上元の夜に外兵と結んで乱を謀ると言い触らし、邦人は大いに恐れた。ある者は出遊すべからずと勧めたが、曾公亮は動じず、灯りを掲げて観覧し、賓客や僚佐と夜通しして帰った。一年居て、京師に還った。まもなく太傅をもって致仕した。元豊元年に卒去、八十歳。帝は臨哭し、三日間朝を輟み、太師・中書令を贈り、諡して宣靖といい、英宗の廟庭に配享した。葬られる時、御筆でその碑の首に「両朝顧命定策亜勲之碑」と篆した。

曾公亮は方正で厚く荘重、沈深で周密であり、平素は謹んで規矩を守り、矩矱に蹈んだ。しかし性は吝嗇で、財貨を殖やして巨万に至り、帝はかつて張安世に比した。初め王安石を推薦し、共に政を輔けるに及んで、上(皇帝)が彼を向いていることを知り、ひそかに子孫のためを計り、凡そ庶事を更張することは一切聴従し、外見はそれに関与しないかのようにした。かつて子の曾孝寛を遣わしてその謀議に参与させ、天子の前では少しも異なることがなかった。そこで帝はますます王安石を信任した。王安石は彼が己を助けたことを徳とし、故に曾孝寛を引き抜いて枢密に至らせて報いた。蘇軾がかつて悠々と曾公亮を責めて救正できなかったと言うと、曾公亮は言った、「上と介甫(王安石)は一人の如し。これ天なり」と。世はその禄を保持し寵を固めることを譏った。子に曾孝寛、甥に曾孝広・曾孝蘊がいる。

子 曾孝寛

曾孝寛は、字を令綽といい、蔭官により桐城県を治めた。選ばれて咸平県を治め、民が府に訴えて雨が麦を傷めたと言った。府は虚妄としてこれを杖打した。曾孝寛は自ら田を行き、その実情を弁明し、賦税の免除を得た。秘閣修撰・提点開封府界鎮県に任ぜられた。

保甲法が施行されると、民は驚き相伝えて兵籍に編入されると言った。知府の韓維が上言し、農閑期を待って施行するよう乞うた。曾孝寛は十七県に告示を掲げ、賞金をかけて扇動者を告発・捕縛させたので、民兵は訴えることができず、韓維の言は行われなかった。入朝して審官東院を治め、刑部を判じた。

熙寧五年、枢密都承旨に遷った。承旨に文臣を用いるのは、曾孝寛から始まった。枢密直学士・簽書枢密院に抜擢拝された。父の喪に服し、喪が明けると、端明殿学士として河陽を治め、鄆州に移った。鄆州に孟子廟があり、曾孝寛は朝廷に請うて、鄒国公に封ぜられ、孔子に配享することを得た。連続して鎮を移り、吏部尚書として召されたが、途中で卒去した。六十六歳。右光禄大夫を贈られた。

曾孝広

曾孝広は、字を仲錫という。元豊の末、北外都水丞となった。元祐の中、大臣が黄河の故道を回復することを議し、曾孝広を召して問うたが、不可と言ったので、出て保州の通判となった。久しくして、再び都水丞となった。これ以前、班行使臣が木筏を部送して至ると、検証して失亡がないことを確かめて、初めて選部に送ることができた。監吏が賄賂や謝礼を受け取るので、時を定めずに派遣した。曾孝広は簿籍を整え姓名を記し、その去留を厳しくし、一年のうちに帰選する者が百人ほどいた。

京西転運判官に任ぜられ、入朝して水部員外郎となる。黄河が内黄で決壊すると、詔により孝広は巡視を行い、蘇村を疏濬し、鉅野を開鑿して、河北流を導き、澶・滑・深・瀛の被害を緩和した。都水使者に遷る。洛水が毎年溢れて北岸を浸食していたので、孝広が河堤を調査し、廃棄された澾口の遺跡を発見し、「これは昔の人が水勢を殺ぐために用いたものだ」と言い、即日にこれを浚渫して決壊させ、石を積んで堤防とし、これ以降水害はなくなった。出て永興路刑獄提点、陝西・京西転運副使となり、還って左司郎中となり、戸部侍郎に抜擢され、尚書に進んだ。銭帛の費用を給しない罪に坐し、罷免されて天章閣待制・杭州知州となる。また以前の契丹への聘使が使節としての礼を失ったことにより、職を奪われた。まもなく復職し、潭州知州に移り、顕謨閣直学士を加えられて鄆州知州となる。

孝広は胡安国・鄒浩と親しく、皆大観年間に時の宰相に逆らい、御史がこれを論じたため、再び職を奪われて饒州知州となった。一年余りして、広州に移り、成徳軍・太原府を歴任し、元の職に復して卒した。享年六十。正議大夫を追贈された。孝広は官に臨んで厳格をもって称され、盗賊を捕らえると、すぐにその手を砕いた。

孝蘊

孝蘊、字は処善。紹聖年間、発運司糶糴事を管幹し、揚州の瓜洲、潤州の京口、常州の奔牛において、堰を閘に改め、漕運と商賈の便を図ることを建議した。完成後、公私ともに便利となった。両浙常平提挙となり、転運判官に改め、臨江軍知軍となり、召されて左司員外郎となり、起居舎人に遷る。

当時、京邑に盗賊がおり、徽宗は怒り、三日以内に捕獲しなければ府尹を罪に処すとした。孝蘊は奏上して「盗賊を急ぎ求めれば却って遠くへ逃げ、少し緩めれば自ら出てくるでしょう」と言った。その言葉に従い、盗賊を捕らえた。崇寧年間に殿中省が設置されると、監に抜擢された。数ヶ月在任し、言事官が彼が張商英と親しいと論じたため、集賢殿修撰として出て襄州知州となり、江浙荊淮発運使に移る。泗州で直河を開削し、漲溢と沙石の害を避けることが議論されたが、孝蘊は淮水と汴水が接続していないため、成功しないと論じた。やがて工役が大規模に集められ、結局完成し、功績を評して賞を与えようとしたが、辞退して受けなかった。まもなく、河は果たして塞がり、召されて戸部侍郎となる。帝が右曹の貯蔵物がどれほどあるかと問うたが、病気が発作して答えられなかった。工部に移り、顕謨閣待制として杭州知州となる。その後、連座して累が及び、連続して削官・貶黜され、安遠軍節度副使にまで貶せられた。

宣和二年、ようやく天章閣待制に復し、歙州知州となる。方臘が青溪で蜂起すると、孝蘊は郡内を戒め、奔走騒擾することを禁じ、兵を分けて要害を守らせ、賊を避けて来帰する者が罪を得た場合、境外に出させ、人々は次第に頼りとして安んじた。ちょうど青州に移ることになり、出発した後に歙州は陥落し、途中で杭州知州に改任された。当時、賊はすでに杭州を破っており、孝蘊は単車で城下に至った。城が克復された後、軍士が多く人を殺したので、孝蘊は命令を下し、脅従した者は自首することを許し、むやみに殺すことを禁じたので、皆手を束ねて敢えて暴れなかった。功績により、顕謨閣直学士に進み、さらに龍図閣学士を加えられた。卒去。享年六十五。通議大夫を追贈された。

陳升之

陳升之、字は暘叔、建州建陽の人。進士に挙げられ、封州知州・漢陽軍知軍を歴任し、入朝して監察御史・右司諫となり、起居舎人・知諫院に改める。当時の風俗として、親交ある者の書簡を隠し持つことを好み、訴訟があると、互いに告げ言い、役所はこれに基づいて推問した。升之は「これは告げ口の習いである。禁止を請う」と言い、また「三館は搢紳の栄達の途であるが、近頃は用人がますます軽んじられ、遂に貴遊の進取の階梯となっている。その選任を厳格にすることを請う」と言った。詔して、今後臣僚が子孫に恩蔭を乞う者は、館閣の職に任じてはならないとした。

著作佐郎の王瓘が道で殿帥の郭承祐に出会い、怒って馬から下りず、捕らえて府に送られた。升之は、京官は節度使のために下馬すべきではないと言い、ついで承祐の驕慢恣肆を弾劾し、その任を解かせた。張堯佐は後宮の縁故により三司使となり、まもなく宣徽使となった。内侍の王守忠は両鎮留後を領し、正班への昇進を求めた。御史の張昪は郡に補され、長く召されなかった。彭思永が事を論じ、その情報源を厳しく問うことを命じられた。唐介が宰相を弾劾し、嶺南に斥けられた。升之はこれら全てを極諫した。侍御史知雑事に遷る。言責を担うこと五年、上奏したことは数十百事に及んだが、持論が堅固でなかったため、全てが採用されなかった。

天章閣待制・河北都転運使に抜擢され、瀛州・真定府知事となり、龍図閣直学士を加えられ、再び知諫院となる。上言して「天下の州県の治乱を、朝廷は詳らかに知ることができず、全て転運使に委ねている。今、選用が精選されず、また考課もないため、暗愚で停滞した者か、罷軟な者か、さもなくば横暴で刻薄な者ばかりであり、それゆえに疾苦愁歎が、塞がれて上聞に達しない。必ずや元元(民)に意を留めようとするならば、ここから始めるべきである」と言った。そこで詔して、翰林学士承旨の孫抃・権御史中丞の張昪に、升之とともに転運使及び提点刑獄の功務を磨勘させることとした。

升之が初めて諫官となった時、内降(宮中からの直接命令)を抑制し絶つことを請い、詔して役所に執奏して下さないことを許した。この時、改めてこれを申し述べた。詔して三省に委ねてその罪を劾正させ、なお朝堂に掲示させた。文彦博が宰相の罷免を乞うた。升之は枢密使の賈昌朝が再び任用されることを憂い、その邪悪を論じる上疏をし、昌朝はついに罷免されて去った。枢密直学士に遷り、開封府知事となる。一年余りして、枢密副使に拝される。ここにおいて諫官御史の唐介・范師道・呂誨・趙抃・王陶が相次いで上章し、升之がひそかに宦官と結んでいるので、大用されたと論じた。仁宗はこれを升之に示すと、升之は辞去を願い出た。帝は輔臣に「朕が執政を選用するのに、どうして内臣が予め議論に関与することを許せようか」と言い、両者をともに罷免した。升之を資政殿学士・定州知州とし、太原府に移す。

治平二年、再び枢密副使に拝される。神宗が即位すると、母が老齢であることを理由に州郡を請い、観文殿学士・越州知州となる。熙寧元年、許州に移り、途中で大名府に改められ、宮門を過ぎる際に留められて枢密院知事となる。故事では、枢密使と知院事は併置されない。当時、文彦博・呂公著がすでに使となっていたが、帝は升之が三度政務を補佐したことを考慮し、その礼遇を少し異ならせようとして、特にこれを命じた。翌年、三司条例司の同制置となり、王安石とともに事に当たる。数ヶ月後、中書門下平章事・集賢殿大学士に拝される。升之が宰相となると、すぐに条例司の廃止を請い、その論は、宰相は統べないものはなく、その領する職事を、どうして「司」と称することができようか、というものであった。安石は「古代の六卿は、即ち今の執政であり、司馬・司徒・司空があり、それぞれ一職を名乗ったが、理に何の害があろうか」と言った。升之は「もし百司の条例を制置するのであればよいが、ただ今、三司一官を制置するのは、よろしくない」と言った。これにより安石に逆らい、病気と称して帰宅し、百余日臥せった。帝は幾度も諭したので、ようやく出仕した。ちょうど母の喪に遭い、職を去る。喪が終わると、召されて枢密使となる。足の病で朝廷に立つことができず、七年、冬の祭祀にも、礼を助けることができなかった。鎮江軍節度使・同平章事・揚州判事に拝され、秀国公に封ぜられる。卒去。享年六十九。太保・中書令を追贈され、諡して成肅といった。

升之は深く狡猾で術数に長け、巧みに付会して富貴を取った。王安石が権勢を握ると、正論が朝廷に満ちるのを憂い、升之を引き立てて自らを助けさせた。升之はそれがよくないと内心知りながらも、力を尽くしてこれに用いられ、安石はその恩に感じ、彼を先に宰相にさせた。ようやく志を得ると、すぐに条例司の解消を求め、また時折小さな異論を唱え、表面上は彼と同調しないかのように振る舞った。世間はこれをもって彼を嘲笑し、「筌相」と呼んだ。升之は初め旭と名乗ったが、神宗の諱を避けて改めた。

呉充

吳充、字は沖卿、建州浦城の人。冠に未だ及ばず進士に挙げられ、兄の育・京・方と皆高第を得た。穀熟主簿に調じ、入って國子監直講・吳王宮教授となる。同輩多く宗室と狎れる中、充は最も年少なりしが、厳格さをもって畏れられ、相率いて席を設けて経を受けた。充は『六箴』を作りて献じ、視・聴・好・学・進徳・崇儉と曰う。仁宗、繕写して皇族に賜うことを命じ、英宗、藩邸に在りし時、これを坐右に書した。

集賢校理・判吏部南曹を除す。選人胡宗堯なる者は、翰林學士宿の子、小累に坐し、京官に改まることを得ず。判銓歐陽修、これがために請う。仇家、修を譖りて宿に党すと為し、詔して修を同州に出だす。充言う、「修は忠直をもって侍従に擢げられたり、讒言を用いて逐うべからず。もし私と為すならば、臣は願わくは修とともに貶せられん」。ここにおいて修は復た留まり、充は太常禮院を知るに改む。張貴妃薨じ、喪を治むるに式を越ゆ。判寺王洙、吏に命じて印紙をもって文書を行わしめ、同僚に知らしめず。充、開封に移して吏の罪を治め、執政の意に忤い、高郵軍を知って出だされる。還って群牧判官・開封府推官となり、陝州を知り、京西・淮南・河東轉運使を歴任す。

英宗立つ、数たび充の所在を問い、会に入覲し、その吳王宮教授たりし時の事を語り、嘉み労う。尋いで鹽鐵副使を権む。熙寧元年、知制誥となる。神宗、任用意を以て諭し、「先帝卿を知ること久し」と曰う。ここにおいて同知諫院となる。言う、「士大夫、親没し、或いは藁殯すること数十年、風化を傷敗す、期を限りて葬らしむべし」。詔して令と為すことを著す。河北水災・地震あり、安撫使と為る。使より還りし時、王安石參知政事と為る。充の子安持はその婿なり、嫌を引きて諫職を解き、審刑院を知り、三司使を権め、翰林學士と為る。三年、樞密副使を拝す。王韶、洮州を取る。蕃酋木征遁去す。充、故地に招き還し、爵秩を以て縻し、自ら部を領せしめ、永く外臣と為し、郡縣を列置するに庸い無きを請う。時に方に開拓を韶に付す。充の言用いられず。

八年、檢校太傅・樞密使に進む。充は安石と連姻すと雖も、その為す所を善しとせず、数たび帝に政事の不便を言う。帝、その中立して与する無きを察し、相と為さんと欲す。安石去り、ここにおいて代わって同中書門下平章事・監修國史と為る。充、変革せんと欲し、司馬光・呂公著・韓維・蘇頌を召し還すことを乞い、乃ち孫覺・李常・程顥等数十人を薦む。光も亦た充に告げ語るべきを以てし、これに与える書に曰く、「新法の行わるるより、中外洶洶たり。民は煩苛に困し、誅斂に迫られ、愁怨流離し、転死溝壑す。日夜首を引き、朝廷の覚悟を冀い、一たび敝法を変えんことを、幾年これに在り。今日天下の急を救わんと欲せば、苟も青苗・免役・保甲・市易を罷めず、征伐の謀を息めずして、成效を求めんと欲するは、猶ほ湯の沸くを悪みて薪を益し橐を鼓するが如し。この五者を去らんと欲せば、必ず先ず利害を別ち、以て人主の心を悟らしむべし。人主の心を悟らしめんと欲せば、必ず先ず言路を開くべし。今病已に深しと雖も、未だ膏肓に至らず、今を失いて治めざれば、遂に痼疾と為らん」。充用いる能わず。

王珪、充と並び相たり、充を忌み、陰にその肘を掣く。而して充は素より蔡確を悪む。確、相州の獄を治め、安持及び親戚・官属を捕えて考治し、充の語を鉤致せんと欲す。帝独りその他無きを明らかにす。及んで確政に預かるに及び、充、前に於いてこれと変法を議し、数たび詘せらる。安南の師出でて功無し。知諫院張璪、又た充の郭逵に与える書、その進兵を止むと謂い、復た獄を置く。充、既に数たび同列の困毀に遭い、素より瘤の病あり、憂畏積り、疾益々侵さる。元豊三年三月、輿にて第に帰り、観文殿大学士・西太一宮使に罷めらる。月を逾え、卒す。年六十。司空兼侍中を贈られ、諡して正憲と曰う。

充、内行修飭し、兄に事うること甚だ謹し。相と為りては安静を務む。性沈密、家人に語るに、未だ嘗て国家の事に及ばず、上に言う所は、人知る者莫し。将に終らんとし、妻子に戒めて私事を以て朝廷に干す勿からしむ。帝益々之を悲しむ。世、充を心正しくして力足らざると謂い、その知りて可からざるに、勇退する能わざるを譏る。子安詩・安持。安詩は元祐の時に諫官・起居郎と為る。安持は都水使者と為り、工部侍郎に遷り、終に天章閣待制。安詩の子儲・安持の子侔、官皆員外郎、妖人張懷素と通謀するに坐し、誅死す。

王珪

王珪、字は禹玉、成都華陽の人、後に舒に徙る。曾祖永、太宗に事えて右補闕と為る。呉越土を納るるに、命を受けて往きて賦を均う。至れば則ち無名の算を悉く除き、民皆感泣す。使より還りし時、或いはその賦租を多く弛むると言う。帝之を詰う。対えて曰く、「新附の邦をして、天子の仁恩を蒙らしむ。臣罪を得ると雖も、死して恨み無し」。帝大いに悦ぶ。

珪、弱歳奇警、語を出すに人を驚かす。従兄琪その賦する所を読み、唶して曰く、「騏驥方に生まるるも、已に千里の志有り、但だ蘭筋未だ就かざるのみ」。進士甲科に挙げられ、揚州を通判す。吏民皆珪を少なしとす。大校有りて嫚にして謹まず、捽いて法に置く。王倫淮南を犯す。珪、郊に出でてこれを掩撃せんと議す。賊遁去す。直集賢院に召され、鹽鐵判官・修起居注と為る。契丹使を接伴す。北使魏を過ぐるに、旧は皆盛服して入る。是に至り、便服せんと欲し、妄りに衣冠は後乗に在りと云う。珪、取りてこれを授くることを命ず。使者愧謝す。ここにおいて賀正旦使と為る。進みて知制誥・知審官院となり、翰林學士・知開封府と為る。母憂に遭う。喪を除き、復た學士となり、侍讀學士を兼ぬ。

是に先立ち、三聖並びに南郊に侑えり、而して温成廟は享献太室に同じ。珪言う、「三后並びに配すは、孝を致す所以なり、而して饗帝に瀆し。後宮廟有るは、恩を広むる所以なり、而して饗親に僭る」。ここにおいて専ら太祖を以て郊に侑え、温成廟を祠殿に改む。嘉祐、皇子を立つ。中書珪を召して詔を作らしむ。珪曰く、「此れ大事なり、面して旨を受くるに非ざれば不可なり」。明日請対し、曰く、「海内此の挙を望むこと久し、果たして聖意より出づるか」。仁宗曰く、「朕の意決す」。珪再拝して賀し、始めて退きて詔を草す。歐陽修聞きて歎じて曰く、「真の學士なり」。帝宝文閣に宴し、飛白書を作りて侍臣に分かち、珪に命じて歳月姓名を識せしむ。再び群王に宴し、又た序を作らしめ、御する所の筆・墨・箋・硯を以て之に賜う。

英宗が即位すると、先帝の諡を撰ぶこととなり、王珪は言う、「古は賤は貴を誄せず、幼は長を誄せず、故に天子は天を称してこれを誄し、諡を郊に制す、天より之を受くると云うが如し。近制は、唯だ詞臣が議を撰び、庶僚は参聞するを得ず、頗る天を称するの義に違う。請う、両制をして共に議せしめん」と。これに従う。濮王追崇の典礼に、珪は侍従・礼官と合議して皇伯と称すべしとし、三夫人は大國に改封すべしとしたが、執政は然りとせず。その後、三夫人の称は、終に初めの議の如くとなった。初め、珪が対を請いて詔を作った時、密かにこれを讒する者あり。英宗在位の四年、忽ち蘂珠殿に召し至り、詔を伝えて端明殿学士を兼ねさせ、盤龍の金盆を賜い、諭して曰く、「秘殿の職は、直ちに卿を翰墨の間に器するのみならず、二府に員欠あれば、即ち命を出さん。曩に讒口ありしが、朕今は釈然として疑い無し」と。珪謝して曰く、「陛下の至明に非ざれば、臣は死する日無からん」と。神宗即位し、学士承旨に遷る。珪は内外の制を典すること十八年、最も久次たり、嘗て事を展ぶるに齋宮に因り、詩を賦して感ずる所あり、帝見てこれを憐れむ。熙寧三年、参知政事を拝す。九年、同中書門下平章事・集賢殿大学士に進む。

元豊官制行わるや、礼部侍郎より超授して銀青光禄大夫となる。五年、三省の官名を正し、尚書左僕射兼門下侍郎を拝し、蔡確を右僕射とす。是に先立ち、神宗、執政に謂いて曰く、「官制将に行わんとす、新旧の人を両用せんと欲す」と。又曰く、「御史大夫は、司馬光に非ざれば不可なり」と。珪・確相顧みて色を失う。珪憂い甚だしく、出ずる所を知らず。確曰く、「陛下久しく霊武を収めんと欲す、公能く責を任せば、則ち相位は保たれん」と。珪喜び、確に謝す。帝嘗て司馬光を召さんと欲し、珪は俞充を薦めて慶を帥とし、平西夏の策を上らしむ。珪の意は、既に兵を用いて深入すれば、必ずや光を召さず、仮に召すとも、将に至らざらんと以為う。已にして光果たして召されず。永楽の敗、死者十余万人、実に珪これを啓く。

八年、帝疾あり、珪は皇太后に白し、延安郡王を立てて太子と為さんことを請う。太子立ち、是を哲宗と為す。珪を金紫光禄大夫に進め、岐国公に封ず。五月、位に卒す、年六十七。特に朝を輟むこと五日、賻に金帛五千、太師を贈り、諡して文恭と曰う。寿昌の甲第を賜う。

珪は文学を以て進み、流輩咸共に推許す。その文は閎侈瑰麗、一家を成し、朝廷の大典策は、多くその手に出づ、詞林これを称す。然れども執政より宰相に至るまで、凡そ十六年、建明する所無く、率ね諛い将順す。当時「三旨相公」と目す、その上殿進呈に、云く「聖旨を取る」;上可否畢りて、云く「聖旨を領す」;退きて事を稟ぐる者に諭し、云く「已に聖旨を得たり」と。紹聖中、邢恕の謗起こり、黄履・葉祖洽・劉拯交えて珪の元豊末命の事を論じ、当時両府の大臣、嘗て奏請して儲を建つるを議すと為し、珪輒ち李清臣に語りて云く、「他自家の事、外庭当に管すべからず」と。恕又高遵裕の子士京を誘教して上奏せしめ、珪雍王を立てんと欲し、士京の故兄士充を遣わし、禁中に言語を伝道せしむと言う。珪是に由りて罪を得、追貶して万安軍司戸参軍と為し、諸子の籍を削る。徽宗即位し、その官封を還す。蔡京政を秉り、復た贈諡を奪う。政和中、又これを復す。珪の季父罕、従兄琪。

従父 罕

罕、字は師言、蔭を以て宜興県を知る。県は湖田多く、歳ごとに水を訴え、軽重その平を失う。罕躬から田処に至り、高下を列ねて図と為し、明年訴牒至るや、図を按じてこれを示し、某戸は免すべく、某戸は免すべからず、衆皆服す。范仲淹潤に在り、その式を諸道に下すを奏す。西方兵を用い、仍年箭羽を東南に科し、価踊り貴く、富室は至ってめ貯えて以て鬻ぐを待つ。罕郡守に白し、その直を倍してこれを市い、而して民をして銭を輸せしむ。旁州これを聞き、皆願う常州の法の如くならんと。累遷して戸部判官となる。太宗の別廟を修し、中貴人大いに材を慮り、将にこれを一新せんとす。罕白す、是は特だ歳久しく丹漆黯暗するのみ、但だ致飾すべき耳、榱櫨皆故の如く、唯だ一楹を易うるに、緡銭十万を省く。

出でて広東転運使と為る。儂智高寇に入り、罕行部潮に在り、広州守仲簡囲中より書を遣わして罕を邀う、罕報じて曰く、「吾が家も亦た困を受く、帰らざるに非ず、顧みるに独り帰るは益無く、当に相済すべき所以を求めん」と。遂に惠州に還る。州の悪少年正に相率いて盗と為り、里落驚擾し、恵人罕を要して城を出で、郊に及ぶや、道を遮りて救護を求むる者数千計。罕父老に語る可き者を択びて以て策を問うに、曰く、「吾が属は皆田客有り、兵を給いて以て相保聚せしめんと欲す」と。罕曰く、「田客有る者は是くの如くすれば、得たり、無き者は奈何」と。乃ち耆長を呼びて里民を発し、壮丁を補い、毎長二百人;又た邑尉をして弓手二千を増さしむ。巳時に下令し、申を約して集まる。方略有る者を募り、官秩・金帛を許し、以て甲首と為さしむ。久しくして、至る者無し。婦人あり、僕に釵珥を奪わるを訴え、これを捕え得、並びに奪攘する者十八輩を執り、皆梟首して口を決し道左に置き、伝えて曰く、「此れ耆長発して壮丁と為りて肯て行かざる者なり」と。観者始めて怖色有り。期に至り、六百人を得、尉の部する所も亦た至る。是に於いて庫帛を染めて旗と為し;これを授く。牛革を割いて盾の形と為し、これを湯中に柔らげ、毎盾竹簽十六を削り、革に穿ち、木を以て鼻と為し、これを持ちて自ら蔽わしむ。苦竹数千を断ち、その末を銛かにし、これを持ちて兵と為さしむ。公私の戎器を悉く出す。檄を属城に告げ、倣いてこれを行わしむ。数日、衆大いに振い、向の悪少年は、皆行伍に隷し、敢えて動く者無し。乃ち卒三千を簡び、方舟に旗を建て、鼓を伐って楽を作し、順流して下る。将に広に至らんとし、衆を悉く登岸せしめ、木を斬って鹿角と為し、高さ数仞に積み、南門に営す。智高黄蓋を戴き臨観し、相去ること三十歩、已に厳備するを見て、敢えて犯さず。罕徐かに門を開きて入る、智高遂に解き去る。時に南道の郵驛断絶し、罕事を上ぐるも、通ずるを得ず;而して提点刑獄鮑軻南雄に遁れ処り、数たび具に奏す。及び賊平ぎ、軻賞を受け、罕謫せられて信州酒を監す。安撫使孫沔言う、罕実に功有りと、復た以って西路転運使と為す。或いは伝う、智高死せず、火峒に走り、儂宗旦険に拠り衆を聚む、邕守蕭注これを撃たんと謀る。罕宗旦の子日新を呼びてこれに謂いて曰く、「汝が父内には交阯の仇と為り、外には辺将の賞を希う餌と為る、計に非ず。汝帰り報い、利を択びてこれ為せ」と。是に於いて父子俱に降る。

徙めて潭州を知る。擢でて戸部・度支副使と為り、復た潭州と為る。政を為すに務めて人情に適い、威罰を加えず。狂婦数たび事を訴え、言を出すに章無く、これを却すれば則ち勃然として罵り、前守毎に叱りてこれを逐う。罕独りこれを前に引き、委曲徐かに問い、久しくして稍く曉る可く、乃ち本は人の妻と為り、子無く、夫死に、妾子有り、遂に婦を逐いて家資を据え、屡々訴えて直を得ず、因りて憤恚して狂を発す。罕妾を治めてその資を反し、婦良く愈ゆ、郡人伝えて神明と為す。監司上に治状を上ぐ、敕書褒諭し、絹三百を賜う。徙めて明州を知る。光禄卿を以て卒す、年八十。兄の子珪少くして孤、罕教養して恩有り、後珪貴く、毎に書を予うるに、必ず盛満を以て戒めと為すと云う。

従兄の琪

琪は字を君玉といい、幼少の時より既に歌詩を作ることができた。進士に挙げられ、江都主簿に任ぜられる。時務十二事を上書し、義倉の設置、営田の設置、度僧の削減、爵位売買の廃止、錦綺・珠貝の禁止、郷飲酒礼・籍田の施行、制科の復活、学校の興隆を請うた。仁宗はこれを嘉し、館閣校勘・集賢校理に任じた。

帝が太清楼に宴を催し、館閣の臣に『山水石歌』を作らせたところ、琪のみが特に褒賞を受けた。詔して舒州通判に任ぜられる。凶年に際し、官倉を開いて民を救うことを上奏したが、返答がないうちに公租をもって救済した。太守以下は皆従わなかったが、琪は身を挺してその責を負った。復州知州となり、民が佃客を殴り殺した事件があった。官吏は律に照らして論じたが、琪はこれを疑い、判決を留保した。やがて新たな規定が下り、このような場合は死刑を減ずることを許すこととなった。開封府推官、直集賢院、両浙淮南転運使、修起居注、塩鉄判官、判戸部勾院、知制誥を歴任した。かつて便殿で応対した際、帝は穏やかに言われた、「卿は元来心計に長けている。もし三司使に欠員があれば、卿に代える者はないであろう」。

契丹に使いするに際し、病を得て帰還した。上介がその詐りを誣告したため、信州団練副使に左遷された。久しくして、龍図閣待制として潤州知州となる。転運使が常・潤の漕河を浚渫しようとしたが、琪はその不便を陳述し、詔して工事を中止させた。しかし後に議者がついに古城埭を廃し、古い函管を破って浚渫することを請うたところ、河はかえって狭くなり、舟が並んで航行できず、公私ともに弊害を被った。江寧府知事に転ず。以前より、府内に火災が多く、ある者は鬼神に託して、人々は救おうとしなかった。琪は廂邏を召集し、賞金をかけて捕らえる法令を整備した。間もなく、奸人を得てこれを誅し、火災は遂に止んだ。再び知制誥となり、枢密直学士を加えられて鄧州知州、揚州知州に転じ、入朝して太常寺を判じ、また出て杭州知州となり、再び揚州・潤州の知州を務めた。礼部侍郎をもって致仕した。七十二歳で卒した。

琪の性質は孤高で、時流と合わなかった。数度にわたり東南の名鎮を治め、政は簡静を尚んだ。常に俗吏が供応を飾り立てて名誉を沽ぼることを憎み、故に賓客の待遇は甚だ粗略であった。時に流言飛語を造り出して誹謗を起こされたが、終に自ら憂えなかった。真州に葬られた。詔して真・揚二州の兵卒を発してその葬送を護らせた。これは異例のことであった。

論じて曰く、公亮は静重にして浮華を鎮め、典憲に練達し、韓琦と並んで宰相となり、老成と称された。升之は言官となった当初より直声を著わした。しかし皆、術策を抱き、数を用いて任じた。公亮は韓琦の専任を憎み、王安石を推薦してこれを離間し、升之は陰に王安石を助け、表向きは異同を装って清議を避けた。二人の考え方はこのようであり、誠心をもって国を謀った者と言えようか。新法の施行に際し、どうして彼らがこれを正し救うことを望めよう。王安石が去位すると、呉充・王珪が実質的にこれを代わった。天下は喁喁として、休息することを望んだ。呉充は力が心に及ばず、同僚に左に掣かれ右に伺われ、ついに鞅鞅として死んだ。悲しいかな、彼と共に事を行いうる者ではなかった。王珪は身を容れ位を固め、勢いに対して何の重軽もなかったが、陰に正人を忌み、その患失の謀を助けた。鄙夫をもって君に事えさせることができようか。