宋史

列傳第七十  晏殊 龐籍孫:恭孫 王隨 章得象 呂夷簡子:公綽 公弼 公孺 張士遜

晏殊

晏殊、字は同叔、撫州臨川の人。七歳にして文を綴ることができた。景德の初め、張知白が江南を安撫した時、神童としてこれを推薦した。帝は殊を召し、進士千余人と共に廷中で試し、殊は神気自若として筆を執り立ち所に成した。帝は嘉賞し、同進士出身を賜う。宰相寇準曰く「殊は江外の人なり」と。帝は顧みて曰く「張九齢は江外の人に非ずや」と。後二日、詩・賦・論を覆試し、殊奏して曰く「臣嘗て私にこの賦を習いしことあり、他の題を試みさせ給え」と。帝はその欺かざるを愛し、既に成りて、数たび善しと称す。秘書省正字に擢てられ、秘閣にて読書す。直史館陳彭年に命じ、その交遊する者を察せしむるに、毎にこれを称許す。

明年、中書に召試され、太常寺奉禮郎に遷る。東封の恩により、光禄寺丞に遷り、集賢校理となる。父に喪あり、臨川に帰る。服を奪いて起復し、太清宮に従祀す。詔して宝訓を修めしめ、同判太常禮院となる。母に喪あり、服を終えるを求め、許されず。再び太常寺丞に遷り、左正言・直史館に擢てられ、昇王府記室参軍となる。歳中にして、尚書戸部員外郎に遷り、太子舎人となり、尋いで知制誥にて、集賢院を判ず。久しくして、翰林学士となり、左庶子に遷る。帝は毎に事を以て殊に訪うるに、率ね方寸の小紙に細書し、既に答奏すれば、すなわち稿を併せて封じて上る。帝はその慎密を重んず。

仁宗即位し、章献明粛太后が遺詔を奉じて権りに聴政す。宰相丁謂・枢密使曹利用、各々独りで奏事せんと欲し、その議を決する者敢えてなし。殊建言す「群臣、太后に奏事する者は、簾を垂れてこれを聴き、皆見ることを得ざらしむべし」と。議遂に定まる。右諫議大夫兼侍読学士に遷る。太后、東宮の旧臣なるを謂い、恩が称せずとして、給事中を加う。『真宗実録』の修撰に預かる。礼部侍郎に進み、枢密副使に拝す。上疏して張耆を枢密使とすべからざるを論じ、太后の旨に忤る。玉清昭応宮に従幸したる従者が笏を持ちて後至したるに坐し、殊怒りて笏を以てこれを撞き歯を折る。御史弾奏し、宣州知州に罷めらる。数月にして、応天府に改め、范仲淹を延いて以て生徒を教えしむ。五代以来、天下の学校廃れ、学を興すは殊より始まる。召されて御史中丞に拝し、資政殿学士・兼翰林侍読学士に改め、兵部侍郎・兼秘書監となり、三司使となり、復た枢密副使となる。未だ拝せずして、参知政事に改め、尚書左丞を加う。太后太廟に謁せんとし、袞冕を服せんことを請う者あり。太后以て問う。殊、『周官』の后服を以て対す。太后崩じ、礼部尚書を以て亳州知州に罷めらる。陳州に徙り、刑部尚書に遷り、本官を以て兼ねて御史中丞となり、復た三司使となる。

陝西方に兵を用う。殊、内臣の兵を監するを罷め、陣図を諸将に授けず、して敵に応じて攻守を為すを得しめんことを請う。及びいで弓箭手を募りてこれを教え、以て戦闘に備えんことを請う。又た宮中の長物を出だして辺費を助け、凡そ他の司の財利を領する者は、悉く罷めて度支に還さんことを請う。悉く施行せらる。康定の初め、枢密院事を知り、遂に枢密使となる。同中書門下平章事に進む。慶暦中、集賢殿学士・同平章事に拝し、枢密使を兼ぬ。

殊、平居賢を好み、当世知名の士、范仲淹・孔道輔の如きは皆その門を出づ。及び相と為り、益々賢材を進むるに務め、而して仲淹と韓琦・富弼は皆進用され、台閣に至るまで、多く一時の賢なり。帝も亦た奮然として意有り、群材に因りて以て治を更めんと欲す。而して小人権幸は皆便とせず。殊、欧陽修を出だして河北都転運使とす。諫官奏して留めんとすれど、許されず。孫甫・蔡襄上言す「宸妃、聖躬を生みて天下の主と為るに、而るに殊嘗て詔を被り宸妃の墓を志すも、没して言わず」と。又た奏論して殊が官兵を役し僦舎を治めて以て利を規すとす。これに坐し、工部尚書に降り、潁州知州となる。然れども殊は章献太后の方に臨朝せるを以て、故に志に敢えて斥言せず。而して役せし兵は、乃ち輔臣の例に宣借する者なり。時に以て殊の罪に非ずと謂う。

陳州に徙り、又た許州に徙り、稍々復た礼部・刑部尚書となる。明堂を祀り、戸部に遷る。観文殿大学士を以て永興軍を知り、河南府に徙り、兵部に遷る。疾を以て、京師に帰り医薬を訪わんことを請う。既に平癒し、復た出守を求めしも、特りに留めて経筵に侍せしめ、詔して五日に一度起居することとし、儀従は宰相の如し。一年を踰え、病次第に劇し。乗輿将に往きてこれを視んとす。殊即ち馳奏して曰く「臣老疾、行くこと愈えたり、陛下の憂えとするに足らず」と。已にして薨ず。帝は臨奠すれども、疾を視ざるを恨みとし、特りに朝を罷むること二日、司空しくう兼侍中を贈り、諡して元献と曰い、その碑首に篆して「旧学之碑」と曰う。

殊、性剛簡にして、奉養清儉なり。累ねて州を典とし、吏民頗るその悁急を畏る。人を知るに善く、富弼・楊察は皆その婿なり。殊が宰相兼枢密使たりし時、弼は副使たり。兼ぬる所を辞すれど、詔して許さず。その信遇此の如し。文章贍麗にして応用窮まらず、詩に尤も工にして、閑雅情思有り。晚歳篤学倦まず。文集二百四十巻、及び梁・陳以後の名臣の述作を刪次し、『集選』一百巻を為す。

子:知止、朝請大夫と為る。

龐籍

龐籍、字は醇之、単州成武の人。進士第に及第し、黄州司理参軍となり、知州夏竦以て宰相の器有りと為す。開封府兵曹参そうしん軍に調じ、知府薛奎薦めて法曹と為す。大理寺丞に遷り、襄邑県知県となる。

『天聖編勅』の修撰に預かり、刑部詳覆官となる。群牧判官に擢てらる。因って転封して言う「旧制、国馬を臣下に仮さず、武備を重んずるなり。枢密院、帯甲の馬を以て内侍楊懐敏に借す。群牧覆奏し、乃ち一馬を賜う。三日にして、乃ち復たこれを借す。数日にして復た罷む。枢密は機命を掌るに、反覆乃ち此の如し。平時、百官、上前に奏事し、自ら章を批せず、止だ中書・枢密院に送る。近年、璽書内降すること、旧に浸して多く、偏請を防ぎ、幸門を杜ぐこと無し。往者、王世融、公主の子を以て府吏を毆ち、法当に金を贖うべし、特りに任を停む。近く、作坊料物庫の主吏、官物を盗み、輒ち自ら逃避す。宮掖の親を以て、三司遽ちに追究を罷む。今日の聖断は乃ち昔に異なり、臣窃に惑う。祥符令、下を検する稍々厳しく、胥吏相率いて県を空うして去る。令は坐して罷免せらる。若し是くの如くんば、則ち清強者沮まん」と。

久しくして、秀州知州として出向し、召されて殿中侍御史となり、章獻太后の遺誥で章惠太后が軍国事を議するに当たり、龐籍は閣門に下して垂簾の儀制をことごとく焼却するよう請うた。また上奏して言うには、『陛下が万機を躬親されるにあたり、人を用いるには邪正を弁別し、朋党を防ぎ、近列を擢進するには、公論を採ることを願い、執政の出ずるに任せてはなりません』と。孔道輔は人に謂って言うには、『言事官は多く宰相の意を観望するが、ただ龐醇之(龐籍)こそは天子の御史である』と。開封府判官となり、尚美人が内侍を遣わして教旨と称し工人の市租を免じた。籍は言うには、『祖宗以来、美人が教旨と称して府に下すことはなく、内侍を杖刑に処すべきである』と。詔して有司に命じ、『今後、宮中より伝命する者は、みだりに受けず』と。数度にわたり范諷の罪を弾劾したが、諷は李迪と親しく、いずれも留中されて報いず、かえって宮禁の事を言って実を得ざる罪に坐し、祠部員外郎を以て罷免され広南東路転運使となった。また范諷の事が奏上した通りでない点があると上言し、諷は貶謫に坐し、籍もまた太常博士に降格され臨江軍知軍となった。まもなく官を復し、福建転運使に転じた。

景祐三年、侍御史となり、刑部員外郎・知雑事に改め、大理寺を判じ、天章閣待制に進んだ。元昊が反すると、陝西体量安撫使となった。開封府の吏馮士元に女口を買わせた罪に坐し、汝州知州に降格された。同州に転じ、そのまま陝西都転運使に任じられた。文彦博が黄徳和の獄を審理し、未だ上奏せざるに、詔して籍に同案を命じた。籍は言うには、『徳和は退怯して誅に当たる。劉平は力戦して没した、その子孫を加えて恤うべきである』と。また建言して言うには、『頻年にわたり災異があり、天は久しく雨を降さない。宮中の費用は奢靡で、出納は厳ならず、須索は煩多く、有司は虚実を鉤校する由なし。臣は窃かに謂うに、凡そ乗輿の費、宮中の用は、務めて裁抑を加え、先帝を則と取り、徳を修めて災を弭ぐの道である。今、兵を西鄙に宿し、将士は力戦するも、功賞を得ず。内官・医官・楽官は、功労なくして豊かな賜りを享け、天下は指目して『三官』と謂う。願わくは少し裁損し、厚く賚予せず、専ら戦功を励まし、寇は平らぐに足る』と。

龍図閣直学士・延州知州に進み、まもなく鄜延都総管・経略安撫縁辺招討使を兼ねた。翌年、延州観察使に改められたが、力辞し、左諫議大夫に換えた。元昊が金明・承平・塞門・安遠・栲栳砦を陥とし、五龍川を破り、辺民は焚掠されて殆ど尽きて以来、籍が至ると、少しずつ修治した。戍兵十万に壁塁なく、皆城中に散在していたが、籍を畏れて敢えて法を犯す者なし。金明の西北に渾州川あり、土は肥沃で平坦である。川の末端を橋子谷と曰い、寇の出入りの隘路である。部将狄青に万余人を将わせ、谷の傍らに招安砦を築かせ、数度にわたり民を募って耕種させ、粟を収めて軍を贍った。周美は承平砦を襲取し、王信は龍安砦を築き、失った地を悉く回復し、十一城を築いた。及び名を開き、平戎道を通し、永和・烏仁関を通じ、東西の陣法を方陣に改め、兵械を多少損益した。元昊が李文貴を遣わし野利旺栄の書を齎して降伏を申し出たが、籍は『これは詐りである』と言った。そこで兵を青澗城に屯した。後数ヶ月、果たして大いに定川に寇し、籍は文貴を召して開諭し、遣わし去った。既にして元昊また旺栄の書を持って来たが、時に帝は兵を厭い、これに因りて招懐し、籍を遣わして報書し、旺栄を太尉と呼ばせた。籍は言うには、『太尉は三公であり、陪臣の称すべき所にあらず。旺栄に当たらしめれば、則ち元昊は臣と為すを得ず。今その書は自ら「寧令」或いは「謨寧令」と称す、皆その官名なり、義に於いて嫌う所なし』と。朝廷はこれに従った。

時に敵は新たに涇原の城砦を破り、方に修復を議していた。使者の往来、年を逾え、また賀従勖を遣わして来たり、名を改めて曩霄とし、男と称して臣と称さなかった。籍は敢えて聞かず、従勖は言うには、『子が父に事えるは、猶お臣が君に事えるが如し。若し京師に至りて、天子が許さざれば、更に帰ってこれを議すべし』と。籍は使者を闕下に送り、因りて便宜を陳べ、言うには、『羌は久しく和市を通ぜず、国人は愁怨す。今、辞理は漸く順なり、必ずや中国に事えるの心を改むる有らん。願わくは使者を遣わしてこれを申諭せしめよ』と。朝廷はその策を採用した。元昊が既に臣と為ると、籍を召して枢密副使とした。籍は言うには、『陝西に用兵して以来、公私ともに困窮す。願わくは官属を併省し、近塞の兵を退けて内地に就食せしめよ』と。これに従い、ここに於いて辺費を頗る省いた。参知政事に改め、工部侍郎・枢密使に拝し、戸部に遷り、同中書門下平章事・昭文館大学士・監修国史に拝した。籍が初めて相に入り、且つ単独の員でありながら、急に昭文館大学士となったのは、殊なる拝命であった。

儂智高が反し、師は数度利あらず、狄青を宣撫使として遣わした。諫官韓絳は武人は専任すべからずと謂い、帝は籍に問うた。籍は言うには、『青は行伍より起り、若し文臣を以てこれを副えれば、則ち号令専ならず、遣わさざるに如かず』と。詔して嶺南の諸軍は、皆青の節度を受くべしと。既にして捷書至り、帝は喜んで言うには、『青が賊を破るは、卿の力なり』と。遂に青を枢密使・同平章事にせんと欲したが、籍は力を争って諫め、聴かれず。嶺南平らぎ、二広の挙人推恩する者六百九十一人、論者はこれを過ぎたりと為した。

頃くして、斉州の学究皇甫淵は賊を捕らえた功により、法は賞銭に当たるが、数度上書して任用を求めた。道士趙清貺は籍の姉の家と親しく、淵のために籍に白状すると偽り、乃ち堂吏と共に淵の賄賂を受けた。小吏がこれを訴え、開封府に下し、清貺を捕らえ、遠州に刺配したが、道中で死んだ。韓絳は籍が密かに府を諷して清貺を杖殺して口を滅ぼしたと上言し、覆按したが状なし。言やまず、乃ち罷免して鄆州知州とした。数ヶ月居て、観文殿大学士を加えた。昭徳軍節度使・永興軍知軍に拝し、幷州に改めた。

仁宗が不の時、籍は嘗て密疏を上し、宗室の賢者を択んで皇子と為すことを請うたが、その言甚だ切であった。麟州に白草平に堡を築くことを聴いた罪に坐し、州将武戡等が夏人に敗れたため、再び観文殿大学士・戸部侍郎・青州知州となった。尚書左丞に遷ったが拝せず。定州に転じ、召還されて京師に至り、上章して老を告げ、尋いで太子太保を以て致仕し、潁国公に封ぜられた。薨去、年七十六。時に仁宗不豫のため、廃朝・臨奠も皆果たせず、ただ使者を遣わしてその家を吊賻した。司空を贈り、侍中を加え、諡して荘敏と曰う。

籍は律令に明るく、吏事に長けていた。法を執るに深峭で、軍中に犯す者あれば、或いは断斬刳磔し、或いは累笞して死に至らしめ、以て故に士卒は畏服した。民を治めるには頗る恵愛有り、及んで相と為ると、声望は郡を治めた時に減じた。子:元英、朝散大夫。孫:恭孫。

孫 恭孫

恭孫、字は德孺、蔭補により施州通判に補せらる。崇寧年中、部内の蠻人向文強叛く、詔して轉運使王蘧に州事を領せしめて討伐せしむ、恭孫文強を説き降して之を斬る。蘧其の功を上奏し、三秩を進め、涪州知州と為り、遂に開邊を以て己が任と為す。珍州の駱文貴・承州の駱世華を誘いて納土せしむ、費用貲ふに足らず。轉運判官朱師古恭孫の事を生ずるを劾す、詔して師古を黜け恭孫を以て代えしむ、ここに於て溱・播・溪・思・費等州相継ぎて降る。一城を開く毎に、輒ち褒遷せられ、五年の間に、徽猷閣待制に至る。威州守保・二州を通ぜんことを乞う、恭孫を直學士に進め成都府知府と為し、招納を委ねる。未だ幾ばくもあらざるに、其の酋董舜咨・董彥博来たりて納土す、詔して闕に赴かしめ、皆承宣使を拝し、京師に第宅を賜い、保州を祺州と、霸州を享州と更名し、恭孫をして進みて之を築かしむ。言者其の貪縦を論ず、章の如く究治し、保靜軍節度副使に謫せらる。纔かに一月を踰え、起復して陳州知州と為り、待制を復し、瀘州を帥す。又思州を築くを以て、學士に進む。前後西南に在ること二十年、得たる州縣、多く名簿を張り、實は瘠鹵不毛の地、繕治轉餉、しょく人の病と為り、幾ばくもあらざる時皆廢す。宣和中、卒す。

王隨

王隨、字は子正、河南の人。進士甲科に登り、將作監丞・同州通判と為り、秘書省著作郎・直史館・三司磨勘司判に遷る。京西轉運副使と為り、陛辭に及び、且つ言う「臣が父母家は洛中に在り、乃ち在所部に在り、湯藥を奉ずるを得るは、聖主の澤なり」と。真宗因り詩を賜いて寵行し、羊酒束帛を以て家を過ぎて壽を為さしむ。淮南轉運使に遷り、父憂に遭い、起復す。時に歳飢饉に比し、隨屬部を敕して庫錢を出し、民に貸して種糧を市わしめ、歳中に約して絹を輸して償わしむ、流庸多く復業す。河東轉運使に徙り、三遷して刑部員外郎兼侍御史知雜事と為る。知制誥に擢でらる、制辭を善くせざるを以て、出でて應天府知府と為る。一日、帝宰相に謂いて曰く「隨南京を治むること太だ寬なり」と。王旦曰く「南京は都會の地、隨事に臨みて汗漫、彈壓する無し」と。揚州知州に改む。再び右諫議大夫を加え、權知開封府と為る。

仁宗太子と為るや、右庶子を拝し、仍り府事を領す。周懷政誅せらる、隨自ら陳す嘗て懷政に白金五十兩を假せりと、知制誥を奪われ、給事中・杭州知州に改む。乾興初、復た秘書少監に降り、通州に徙る。州に學者少なきを以て、孔子廟を徙し、學舍を起す、州人喜び、子弟を遣わして就學せしむ。母喪に遭い、起復して光祿卿・潤州知州と為り、江寧府に徙る。歳大いに飢え、轉運使府に移文して常平倉米を發せしむ、口を計りて日ごとに一升を給せんとす、隨置きて聽かず、曰く「民の飢える所以は、兼併閉糴に由り、以て高價を邀うるなり」と。乃ち大いに官粟を出し、其の價を平らかにす。

給事中に復し、龍圖閣直學士・秦州知州と為る。秦州の卒に罪を負いて蕃部に逃げ入る者有り、戎人輒ち奴畜す、小しく意に如かざれば、復た執り出でて賞を求む、此れ以前法に坐して多く死す。隨下教して能く自ら歸る者は死を免れ、復た軍籍に隷するを聽く、由りて多く來歸する者あり。又蕃落卒を増し、廢陷の馬地を給し、民を募りて耕種せしむるを建請す。事に坐し、河南府に徙る。入りて御史中丞と為り、禮部貢挙を同知し、尚書禮部侍郎・翰林侍讀學士に遷る。

明道年中、江淮安撫使と為り、還りて戶部侍郎・參知政事を拝し、同列と日に前代名臣の規諫一事を獻ずることを請う。議者輔弼の職に非ずと謂い、其の事遂に寢す。吏部侍郎を加え、樞密院事を知り、莊惠皇太后園陵監護使と為り、門下侍郎・同中書門下平章事・昭文館大學士・國史監修を拝す。薛居正以後、故事、初めて相と為る者門下侍郎を越えて遷る者無し、學士丁度の失なり。

頃くして、疾を以て告在し、詔して五日に一朝し、中書に入りて事を視さしむ。相と為ること一年、建明する所無し。陳堯佐・韓億・石中立と同執政し、數え爭事す。會うに災異屢發し、諫官韓琦之を言う、四人俱に罷めらる。隨彰信軍節度使・同中書門下平章事を以て河陽を判す。薨じ、中書令を贈られ、諡して章惠と曰う、後文惠と改む。

隨外は方嚴の若く、而して治め寬なるを失う。晚に更に卞急にし、輒ち人を嫚罵す。性佛を喜び、裴休が為人を慕う、然れども風跡逮わず。

章得象

章得象、字は希言、世々泉州に居る。高祖こうそ仔鈞、閩に事えて建州刺史と為り、遂に浦城に家す。得象の母方に娠するや、山に登り、神人に遇い玉象を授けらるるを夢み、生まるるに及び、父奐復た夢みるに家庭笏を積むこと山の如し。長じて學を好み、姿表美くしく、人と為り莊重なり。進士及第し、大理評事・玉山縣知縣と為り、本寺丞に遷る。

真宗將に泰山を東封せんとし、殿中丞を以て兗州觀察判官事を簽書し、台州を知り、南雄州を歴え、洪州に徙る。楊億公輔の器有りと以為い、之を薦む。或る人之を問う、億曰く「閩士輕狹なり、而して章公深厚容有り、此れ其の貴きなり」と。得象嘗て億と戲れに李宗諤の家に博す、一夕に錢三十萬を負う、而して酣寢自如たり。他日博に勝ち、宗諤の金一奩を得、數日博に又負う、即ち奩を宗諤に反し、封識未だ嘗て發せざりき。其の度量宏廓此の如し。

未だ幾ばくもあらざるに、召し試みられ、直史館・京東安撫使と為り、權三司度支判官、累遷して尚書刑部郎中、契丹に使い、遂に兵部郎中を以て知制誥と為る。年を踰え、翰林學士と為り、右諫議大夫に遷り、給事中を以て群牧使と為り、禮部侍郎兼龍圖閣學士に遷り、承旨兼侍講學士に進み、同知樞密院事に擢でられ、戶部侍郎に遷り、遂に同中書門下平章事・集賢殿大學士を拝す。帝得象に謂いて曰く「向者太后朝に臨み、群臣の邪正、朕皆默識す。卿清忠附する所無く、且つ未だ嘗て干請する所有らず、今日卿を用うるは、職此れなり」と。

陝西兵を用うるに、中書侍郎兼工部尚書兼樞密使を加えらる、加えらるる官を辭す。明年、工部尚書を以て昭文館大學士と為る。慶歷五年、鎮安軍節度使・同平章事を拝し、郇國公に封ぜられ、河南府を判するに徙り、司空を守りて致仕し、薨ず。故事、致仕官乘輿臨奠せず、帝特ちに往く。太尉兼侍中を贈られ、諡して文憲と曰う。皇祐年中、諡を文簡と改む。

得象翰林に在ること十二年、章獻太后朝に臨み、宦官方に熾んず、太后每に内侍を學士院に遣わす、得象必ず正色して之を待ち、或いは一言も交えず。中書に在ること凡そ八年、宗黨親戚、一切抑えて進めず。仁宗銳意天下の事にし、韓琦・范仲淹・富弼を進用し、得象と同く當世の急務を經畫せしむ、得象建明する所無く、御史孫抗數え之を言う、得象位に居ること自若たり。既にして章十上して罷めんことを請う、帝已むを得ず、之を許す。初め、閩人謡して曰く「南臺江合して宰相を出す」と。得象相と為る時に至り、沙涌ぎて渉る可しと云う。

論ずるに、晏殊・龐籍・章得象は皆孤生より起り、宰相の位に至る。龐籍は法令に通暁し、章得象は民事に練達し、皆その長所を用いることを得たり。然れども龐籍は終に罷免に至り、章得象は数たび譴責斥逐に遭へり、何ぞその才の得難きこと此の如きや。章得象は渾厚にして包容あり、晏殊は人物を薦抜するを喜び、善を楽しんで倦まず、諸人に比するに、晏殊は其れ最優なるか。

呂夷簡

呂夷簡、字は坦夫、先世は萊州の人なり。祖父の呂龜祥は壽州を知り、子孫遂に壽州の人となる。夷簡は進士に及第し、絳州軍事推官を補し、稍く遷りて大理寺丞となる。祥符年中、材識兼茂明於體用科に試みる。或る者言ふ、六科は以て闕政を求むる所以なり、今封禪告成せり、何の闕政を求めんと、之を罷む。通州を通判し、濠州に徙り、再び遷りて太常博士となる。

河北に水害あり、濱州を知ることを選ばる。代はりて還り奏す、「農器に算あり、是れ力本を勧むる所以に非ず」と。遂に詔して天下の農器皆算するなからしむ。提點兩浙刑獄を擢げ、尚書祠部員外郎に遷る。時に京師に大いに宮観を建て、材木を南方に伐る。有司は期會を責め、工徒至って死する者有り、亡命を誣ひて妻子を収繫す。夷簡は其の役を緩むるを請ふ、之に從ふ。又言ふ、「盛冬に挽運艱苦なり、須らく河流漸く通ずるを待ち、以て卒を番送すべし」と。真宗曰く、「卿の奏を観るに、国を為し民を愛するの心有り」と。刑部員外郎兼侍御史知雜事を擢ぐ。

蜀の賊李順叛き、闕下に執送す、左右賀す。既にして御史臺に属して之を按ずるに、是に非ず、賀する者趣に順の獄を具ふるを促す。夷簡曰く、「是れ朝廷を欺くこと可ならんや」と。卒に実を以て奏し、大臣の意に忤ふ。歳に蝗旱あり、夷簡は躬を責め政を修め、輔相を厳しく飭り、以て天意に共に順ふ所以を思ふことを請ふ。及び李溥の専利上を罔ふるを奏弾す。寇準は永興を判じ、罪有る者をげいして湖南に徙す、道京師を由り、準の変事を上る。夷簡曰く、「準は治下急なり、是れ準を中傷せんと欲する爾、宜しく問はず、益々之を遠方に徙すべし」と。之に從ふ。趙安仁は御史中丞と為る、夷簡は親嫌を以て、起居舍人・同勾當通進司兼銀臺封駁事に改む。契丹に使いし、還り、知制誥と為る。兩川飢饉あり、安撫使と為り、龍圖閣直学士に進み、再び遷りて刑部郎中・権知開封府と為る。治め厳辦にして声有り、帝姓名を屏風に識し、将に大いに之を用いんとす。

仁宗即位し、右諫議大夫に進む。雷允恭擅に永定陵の地を徙す、夷簡は魯宗道とともに驗治し、允恭誅せらる。給事中参知政事を以て、因りて祥符の天書を方中に内することを請ふ。真宗廟に祔す、太后は平生の服玩を具へ宮中の如くし、銀罩を以て神主を覆はんと欲す。夷簡言ふ、「此れ未だ以て先帝に報ゆるに足らず。今天下の政は兩宮に在り、惟だ太后奸邪を遠ざけ、忠直を奨め、聖徳を輔成し、以て先帝に報ゆる所以は、宜しく此れに若くは莫かるべし」と。故事に、郊祠畢りて輔臣官を遷す、夷簡は同列と皆之を辞し、後例と為る。尚書礼部侍郎・修国史に遷り、戸部に進み、同中書門下平章事・集賢殿大学士・景靈宮使を拝す。玉清昭應宮災有り、太后泣きて大臣に謂ひて曰く、「先帝道を尊び天に奉りて此れを為す、今何を以て遺旨に称せん」と。夷簡其の将に復た営構せんとするを意ひ、乃ち『洪範』の災異を推して以て諫め、太后默然たり。因りて奏して二府の宮観使を兼ぬるを罷む。吏部に進み、昭文館大学士・監修国史を拝す。史成り、官を進むるを辞す。

天聖末、中書侍郎を加ふ。章懿太后は順容と為り、薨ず。宮中未だ喪を治めず、夷簡朝して奏事す、因りて曰く、「宮嬪亡する者有ると聞く」と。太后矍然として曰く、「宰相も亦宮中の事に預かるや」と。帝を引き偕に起つ。有りて頃くして独り出でて曰く、「卿何ぞ我が母子を間はんや」と。夷簡曰く、「太后他日劉氏を全うせんと欲せざるか」と。太后の意稍く解く。有司太后の旨に希ひ、歳月葬未だ利ならずと言ふ。夷簡は哀を発し服を成し、儀仗を備へて之を葬ることを請ふ。

大内火災有り、百官晨朝す、而して宮門開かず。輔臣対請す、帝拱辰門に御す、百官楼下に拝す、夷簡独り拝せず。帝人をして其の故を問はしむ、曰く、「宮庭に変有らば、群臣願はくは一たび清光を望まん」と。帝簾を挙げて之を見る、乃ち拝す。詔して以て大内を修する使と為す。内成り、尚書右僕射兼門下侍郎に進む。僕射を辞し、乃ち吏部尚書を兼ぬ。

初め、荊王の子禁中に養はる、既に長ず、夷簡出だすことを請ふ。太后留めて帝に従ひ誦読せしめんと欲す、夷簡曰く、「上春秋に富み、親しむ所儒学の臣に非ざれば、恐らくは聖徳に益無からん」と。即日命して邸中に還らしむ。太后崩じ、帝始めて政事に親しむ、夷簡手疏を以て八事を陳ぶ、曰く、朝綱を正し、邪徑を塞ぎ、貨賂を禁じ、佞壬を辨じ、女謁を絶ち、近習を疏んじ、力役を罷め、冗費を節す。其の帝を勧むる語甚だ切なり。

帝始め夷簡と謀り、張耆・夏竦は皆太后の任用する所なるを以て、悉く之を罷む。退きて郭皇后に告ぐ。后曰く、「夷簡独り太后に附せざりしや、但だ機巧多く、善く応変するのみ」と。是に由りて夷簡も亦罷められ武勝軍節度使・検校太傅・同中書門下平章事・陳州を判すと為る。及び制を宣す、夷簡方に押班す、唱名を聞き、大いに駭き、其の故を知らず。而して夷簡素より内侍副都知閻文応に厚く、因りてして中詗たらしむ、久しくして、乃ち事皇后に由るを知る。歳中にして夷簡復た相と為る。初め、劉渙上疏して太后の政に還ることを請ふ、太后怒り、して嶺外に投ぜしめんとす、太后疾革まるに属し、夷簡之を留むることを請ふ。是に至り、渙以前の疏を以て自ら言ふ、帝渙を擢げて右正言と為し、顧みて夷簡に謂ひて曰く、「向者枢密院亟に渙を投ぜんと欲す、卿に頼りて以て免る」と。夷簡謝し、因りて曰く、「渙は疏外なる故を以て敢へて言ふ、大臣或いは此に及ばば、則ち太后必ず風旨陛下より出づるを疑ひ、子母相安からしめざらん」と。帝夷簡を以て忠と為す。郭后は怒りを以て尚美人に、其の頰を批り、誤て帝の頸を傷つく。帝爪痕を執政大臣に示す、夷簡は前に罷相せし故を以て、遂に后を廃する議を主とす。仁宗之を疑ふ、夷簡曰く、「光武は漢の明主なり、郭后は止だ怨懟を以て坐して廃せらる、況んや陛下の頸を傷つくをや」と。夷簡将に后を廃せんとし、先づ有司に敕し、臺諫の章奏を受くること無からしむ。是に於て御史中丞孔道輔・右司諫范仲淹は臺諫を率ひ閤門に詣り対請す、旨有りて臺諫をして中書に詣らしむ、夷簡乃ち道輔等を貶出し、后遂に廃せらる。宗室の子益々衆し、大宗正を置きて糾率せしめ、教授員を増す。右僕射を加へ、申国公に封ず。

王曾は夷簡と数たび事を争ひ、平らかならず、曾は夷簡の賂を納れ恩を市ふを斥く。夷簡対を置くことを乞ふ、帝曾に問ふ、曾語屈す、是に於て二人皆罷む。夷簡は鎮安軍節度使・同平章事を以て許州を判し、天雄軍に徙る。未だ幾ばず、右僕射を以て復た相に入り、年を踰え、司空の位に進む。拝せずを辞し、許国公に徙す。時に方に兵備を飭る、枢密院事を判すを以てす。而して諫官田況は総判の名太重きを言ふ、改めて枢密使を兼ぬ。

契丹が幽薊に兵を集め、侵攻すると言いふらし、議する者は洛陽らくように城を築くことを請うた。夷簡は言う、「契丹は強きを畏れ弱きを侮る。急いで洛陽に城を築けば、威を示すに足らず。景德の役(澶淵の役)では、乗輿(天子の車駕)が河を渡らなければ、契丹は容易に服さなかったであろう。大名に都を建て、親征することを示してその謀を挫くべきである」と。或いは言う、「これは虚勢に過ぎぬ。洛陽を修めるに如かず」と。夷簡は言う、「これは子囊が郢に城を築く計略と同じである。契丹に河を渡らせてしまえば、たとえ高い城壁と深い堀があっても、何を頼みとできようか」と。そこで北京(大名府)を建てた。

間もなく、風眩めまいを患い、詔して司空・平章軍国重事に拝する。病が少し癒えると、数日に一度中書に至り、可否を裁決するよう命じられた。夷簡は固辞し、再び手詔を降して言う、「古に髭は病を癒すと謂う。今これを翦りて卿に賜う」と。三年の春、帝は延和殿に御して召見し、馬に乗って殿門に至ることを許し、内侍に兀子(腰掛け)の輿を取らせて前に進ませた。夷簡は久しく引退を請うたが、詔して扶持を与え、拝礼をさせなかった。そこで司徒しと・監修国史を授け、軍国大事は中書・枢密とともに議するよう命じた。老いを請うことを固く請い、太尉をもって致仕し、朔望(月の初めと十五日)に朝参した。薨去の後、帝は群臣に会い、涙を流して言う、「いずくんぞ夷簡のごとき憂国忘身の者を得んや」と。太師・中書令を贈り、諡して文靖といった。

仁宗が初めて即位して以来、太后が朝政に臨んで十余年、天下は平穏であったが、夷簡の力が多かった。その後、元昊が反乱を起こし、四方は久しく兵を用いなかったため、出兵して数度敗れた。契丹はこれに乗じ、使者を遣わして関南の地を求めた。夷簡の計画に大いに頼り、一時の名臣を選んで契丹に報使させ、西夏を経略させたため、二辺(契丹と西夏の国境)は寧かになった。しかし万勝軍を募って建てたが、市井の小人を雑え、浮ついて脆く戦闘に耐えなかった。宗室を用いて環衛官を補い、急に俸給と賜与を増やし、また契丹に歳幣として絹と金二十万を加えた。当時は深く計算しなかったが、その後費用が大きくて止めることができなかった。郭后が廃されると、孔道輔らが閤に伏して進諫したが、夷簡は閤に伏すことは太平の事ではないと言い、かつ道輔を追放した。その後、范仲淹がたびたび事を言い、『百官図』を献じて遷除(昇進と任命)の弊を論じたが、夷簡はこれを狂肆と指摘し、外に斥けた。当時の論はこれをもって彼を軽んじた。

夷簡が国柄を執ること最も久しく、たびたび言者に誹謗されたが、帝の眷顧と倚頼は衰えなかった。しかし彼が斥けた士人は、まもなく再び収用され、また終わりまで廃されることはなかった。彼の天下の事に対する態度は、屈伸舒巻、動くごとに術策があった。後に仁宗廟に配食され、世の名相とされた。初め、王旦は夷簡を奇とし、王曾に言った、「君は善くこれと交われ」と。ついに曾とともに相となった。後に曾の家が御篆の墓碑を請うた時、帝は惨然として夷簡を思い、「懐忠之碑」の四字を書いてこれを賜った。文集二十巻がある。

子に公綽・公弼・公著・公孺あり。公著は別に伝がある。

子 公綽

公綽、字は仲裕。蔭補により将作監丞・陳留県知事となる。天聖年間、館閣対読となった。召されて試験を受け、直集賢院に任じられたが、辞退して校理に改められ、太子中允に遷った。夷簡が宰相を罷めると、再び直集賢院・同管勾国子監となり、出て鄭州知事となった。かつて民の疾苦を問うたところ、父老が言う、「官は民産を籍(登録)し、賦役の重軽を定めるため、牛を多く飼うことを敢えてせず、田畑は久しく荒れている」と。公綽はこれを奏上し、これより牛は籍に入れられなくなった。還って吏部南曹を判じ、累遷して太常博士・同判太常寺となった。太醫局を復することを請い、および令・丞・府史を天官の醫師のように設けることを請うた。鈞容直が太常の旌纛・羽籥を借りて優人の戯れとしたが、公綽はこれに執して許さず、遂にやめさせた。在京刑獄を糾察した。虎翼卒の劉慶が変事を告げたが、下吏が案検したところ、実は慶が最初に謀り、衆は従わず、慶はかえって衆を誣いて賞を求めたのである。そこで言う、「京師の衛兵百万、これを痛く懲らしめなければ、衆心が揺らぐ」と。遂に慶を斬って衆に示した。尚書工部員外郎に遷り、史館修撰となった。

当時、夷簡はすでに政事を謝していたが、なお国史を領していたので、公綽は修撰を辞した。夷簡が薨じると、兵部員外郎に還り、再び修撰となった。服喪が終わると、再び同判太常寺兼提挙修祭器となった。公綽は郊廟の祭器が未完成で、制度が多く礼に違っているとして、すべて造り替えることを請うた。故事によれば、新物を薦める諸物は、礼官が議定してから薦めるが、時には遅れて陳腐になることもあった。公綽は『月令』諸書を採り、四時の新物および薦めるべきものを、配合して図とした。また、歳の大・中・小祠凡そ六十一、禘祫二、祼献興俯、玉帛尊彝、菁茆醓醢、鐘石歌奏を集めて『郊祀総儀』として上進した。また言う、「古には、天地・宗廟・日月・五方・百神の祀りには、すべて尊罍があり、五斉三酒を分けてその中に実(満た)し、明水・明酒を加えて、陰陽の気を通じさせた。今、有司はただ尊罍を設けるだけで、酌みには一尊を用いる。これは神を礼する意ではない。『周礼』に従って斉酒を実し、日より火を取り、月より水を取り、天地の潔気によるべきである」と。また言う、「祖宗が郊祀に配するには、正位にあるべきである。今は側に向いている。これは尊厳を示すものではない」と。初め、諸后に諡する時、すべて祖宗の諡に繫げていたが、真宗の五后だけは「荘」といった。公綽は言う、「婦人は夫の諡に従う。真宗の諡は章聖であるのに、后を『荘』とするのは礼ではない。願わくば『章』と改められたい」と。多く施行された。

知制誥・龍圖閣直學士・集賢殿修撰・永興軍知事を歴任し、枢密直學士・秦州知事に改められた。安遠砦・古渭州の諸羌が地を献じようとして来たが、公綽はその属官を見て言う、「天下の大なること、いずくんぞ区落の尺寸の地を利して広きと為さんや」と。これを退けた。弓箭手の馬が多く欠けていたので、公綽は諸砦戸を三等に分け、凡そ十丁を社とし、秋の収穫時になると、金帛を出して馬を買うよう募り、馬が少ない時は先後に与えた。明堂を祀り、刑部郎中に遷り、召されて龍圖閣學士・権知開封府となった。一年余りして、府事を罷めることを願い、翰林侍讀學士・知審刑院兼判太常寺に進んだ。

初め、公綽が開封府にいた時、宰相龐籍の外戚である道士趙清貺が賄賂を受け、杖脊の刑で路上で死んだ。この時、御史は公綽が籍の旨を受け、清貺を杖殺して口を滅ぼしたとし、左遷されて龍圖閣學士・徐州知事となった。清貺を杖つ時、実は公綽が臨んでいなかった。まもなく、公綽も自ら弁明し、再び侍讀學士となり、河陽に移され、留まって経筵に侍した。当時、久しく雨が降らなかったので、帝が顧みて問う、「どうすれば雨を得られるか」と。答えて言う、「獄が久しく決せられなければ、すなわち冤ある者がある。故に旱が多いのである」と。帝は自ら囚を慮り(再審し)、やがて大雨が降った。右司郎中に遷ったが、拝せずに卒した。左諫議大夫を贈られた。

公綽は通敏で才があり、父が執政していた時、多く干請(請託)に渉り、名を喜び進取を好む者はこれに趨った。かつて除拜(任命)を漏洩して恩を売り、当時の人はこれを竇申に比した。

子 公弼

公弼、字は寶臣。進士出身を賜り、積遷して直史館・河北転運使となった。宝元・慶暦以来、宿師が辺境を備えていた。西北の警備が撤かれた後も、将兵の屯駐は元のままで、民は糧秣の輸送に疲弊していた。公弼は初めて御河を通し、粟を漕いで塞下に実らせ、鉄を冶して経費を助けた。近辺の屯兵を移して京東で食糧を得させ、城卒を増やして板築(城壁修築)に与し、冗賦および民の逋負数百万を蠲免した。夷簡が亡くなった時、仁宗はこれを思い、公弼の名を知り、殿柱に記した。この時、ますますその才能を認めた。都転運使に抜擢し、龍圖閣直學士を加え、瀛州知事となり、入朝して権知開封府となった。かつて奏事を終えて退いた時、帝はその背を見送り、宰相に言った、「公弼はその父に甚だ似ている」と。

同群牧使に改め、枢密直学士として渭州・延州の二州を治め、成都府に移る。その治め方は寛容を尊び、人々はやや威断に欠けると疑った。営卒が法を犯して杖刑に当たるが、抵抗して受けず、「寧ろ剣で死のう」と言った。公弼は「杖は国の法なり、剣は汝の自ら請うところなり」と言い、杖刑を加えた後に斬り、軍府は粛然とした。英宗が三司使蔡襄を罷免し、公弼を召して代えさせた。初め、公弼が群牧にいた時、帝は藩王の地位にあり、賜った馬が甚だ劣っていたが、交換できなかった。この時、帝は言った、「卿は往年朕に馬を与えず、その時既に卿を知っていた。蔡襄は主計を務め、訴訟を時に決せず、故に事多く留まる。卿がその後を継ぐに、どう処するつもりか」。公弼は頓首して謝し、答えて言った、「蔡襄は事に勤め、未だ曠失があったことはありません、恐らく言う者が妄りでございましょう」。帝は長者と認めた。枢密副使に拝された。時に言事者がしばしば大臣と異議を唱えて去るので、公弼は諫めて言った、「諫官・御史は陛下の耳目、執政は股肱なり。股肱と耳目は必ず相い用いられて、然る後に身安くして元首尊し。言を考へ事を観て、その所以る所を視て進退すべきなり」。彗星が営室に出ると、帝は憂い、同列が辺境の備えを整えるよう請うた。公弼は言った、「彗は小さな変異にあらず、陛下は側身して徳を修め、以て天戒に応ずべきなり、臣は患い辺に在らざるを恐れます」。

神宗が立つと、司馬光が内侍の高居簡を弾劾したが、帝は決めかねた。公弼は言った、「光と居簡は勢い両立せず。居簡は内臣に過ぎず、光は中執法なり、願わくは陛下にはその重きを択ばれん」。帝は言った、「然らば当に奈何せん」。公弼は言った、「居簡を一官遷し、その近職を解かば、光は争わぬでしょう」。これに従った。枢密使に進む。議者が環慶と鄜延を併せて一路としようとしたが、公弼は言った、「白草より西、定遠に至るまで、中間相去ること千里、若し一路に合せば、猝かに緩急あれば、将に何を以て応えん」。また辺境の臣下に下して議させようとしたが、公弼は言った、「廟堂の上に処決せずして、辺吏に諉する、可ならんや」。そこで止めた。

王安石が政事を知ると、公弼が己に附かぬことを恨み、その弟の公著を御史中丞に用いて彼を逼らせた。公弼は自ら安からず、直ちに上章して位を避けようとしたが、許されなかった。陳升之が建議し、衛兵で年四十以上、稍々程に中らざる者は、その牢廩を減じて淮南に移そうとした。公弼は人情に非ずとし、帝は言った、「これは退けて剩員とすべき者なり、今故に優仮するは、何の害かあらん」。答えて言った、「臣は敢えて事を生じて名を邀えず、正に国を誤るを恐れるのみ。既に本土を去らしめ、又その廩を削る、儻や二十万の衆皆反側すれば、之を奈何せん」。韓絳が肉刑を復活させようと議したが、公弼は力説して不可とし、帝は皆そのために止めた。

王安石が新法を立てると、公弼は数度、安静を務むべきと言い、また疏を上して論じようとした。従孫の嘉問がその草稿を盗み見て安石に示すと、安石が先に帝に言上し、帝は快く思わず、遂に観文殿学士・太原府知府に罷められた。韓絳が秦・晋を宣撫し、囉兀城を取らんとし、河東に命じて兵二万を発し、神堂新路に向かわせた。公弼は言った、「虜は必ず伏兵を設けて我を待つ。永和関は回遠なれども、安んじて行きて患いなし」。そこで永和関を経由した。既にして新路の援兵は果たして伏兵に遇い、詔を下して褒めた。麟州には井戸がなく、ただ沙泉が城外にあるのみで、城を拓いてこれを包み込もうとしたが、土は陥没しやすく、夏人が毎度城を囲むと、人々は皆渇死を憂えた。公弼はその僚の鄧子喬の計を用い、古の抜軸法に倣い、その沙を取り除き、末炭を以て実とし、その上に土を盛り、板築して立て、遂に泉を中に包んだ。これより城は堅く陥せず、州は守りを固めることができた。

俄かに病を以て、鄭州知府を請うた。王韶が熙河を取ると、朝廷は秦鳳の帥を謀り、帝は言った、「公弼は河東に在り、方に出師倉卒の時、緩急を御する能あり、往かしむるに宜し」。そこで宣徽西院使・秦州判官に拝した。帝はその行くを肯わざるを疑ったが、公弼は命を聞くや即ち装いを整え、帝は喜び、召し入れて対面させ、慰労して遣わした。鎮に赴くや、羌の董氈が輒ち書を治めて勅と称したが、公弼はこれを退けて言った、「藩臣安んぞ妄りに勅と称するを得ん」。董氈は懼れ、これより敢えてしなくなった。僅か旬月にして、また病を以て解任を請い、西太一宮使となった。薨去、年六十七。太尉を贈られ、諡して惠穆といった。

子に公孺あり。

公孺、字は稚卿。奉礼郎に任じられ、進士出身を賜り、吏部南曹を判った。占対は詳密敏捷で、仁宗は用いるに足ると認めた。沢州・潁州・廬州・常州の四州を治め、福建路・河北路の刑獄を提点し、入って開封府推官となった。民が薪を売って盗賊に奪われ、これを追って傷つけられたが、府尹の包拯は盗賊を笞打つよう命じた。公孺は言った、「盗みて主を傷つくるは、法は笞に止まらず」。執って従わず、包拯はその操守を善しとした。及び三司使となると、公孺は判官となり、事皆その決断を諮った。都水監を判り、未だ幾ばくもせず、陝西転運使に改めた。

神宗が綏州を得ると、使者を遣わして守るか棄てるかの便宜を議させたが、久しく決まらなかった。公孺を往かせ、郭逵と議が合い、遂に綏州を存置した。常平法が行われると、公孺は青苗法・免役法を提刑司に帰属させるよう請うた。渭州知府に移り、再び鄆州に移る。死刑を誤って入れる罪に坐し、蔡州知府を責められた。

元豊初年、帝は公孺を召し、慰めて言った、「長安ちょうあんの帥を謀るに、卿に易えるものなし」。永興軍知府を命じた。河陽に移る。洛口の兵千人、久役して帰りを思い、奮って斧鍤を以て関を排し、入るを得ず、西に走って河橋に至り、観聴洶洶たり。諸将は出兵して掩撃を請うたが、公孺は言った、「これ皆亡命の徒、急げば変生ぜん」。即ち馬に乗って東へ行き、牙兵数人を遣わして迎え諭して言った、「汝ら誠に労苦なり、然れども豈に擅に還るを得んや。一度橋を渡れば、則ち罪赦さず。太守ここに在り、願わくは自首する者は道左に止まれ」。皆佇立して待った。公孺は首謀者を索め、一人を黥面し、残りは復た役所に送り返した。その校に語って言った、「若し復た偃蹇する者あらば、斬って後に報ぜよ」。衆は帖然と息んだ。そこで自ら専命を劾し、詔してこれを釈した。

審官東院を治め、出て秦州知府となった。李憲が詔を以て出兵し、原州・渭州に尽く駐屯させようとしたが、公孺は不可とし、李憲と相論奏し、坐して相州に移され、更に陳州・杭州・鄭州・瀛州の四州を治めた。元祐初年、龍図閣直学士を加えられ、復た秦州知府とされたが、固辞し、秘書監に改めた。刑部侍郎に遷り開封府知府となり、政は明察で寛恕であった。幕人が黼座を遷し設ける際、その角を毀ったが、法は徒刑に当たる。公孺は罪を請い、数十人皆杖刑で免じられた。原廟の珠が亡くなり、典吏を繫治すること久しかったが、公孺は言った、「主者は番代一ならず、嘗て珠の数を以て相授受せず、歳時の諱日には、宮嬪狎りて至る、奈何ぞ顓に吏卒を指すや」。請うて、釈放を得た。戸部尚書に擢てられ、病を以て、醴泉観を提挙した。卒す、年七十。右光禄大夫を贈られた。

公孺は廉潔倹約で、人と合うこと少なかった。嘗て曹佾の喪を護り、厚い餞別を得たが、辞して受けず、談論する者はその節操を清しとした。

張士遜

張士遜は、字を順之という。祖父の裕は、かつて陰城の塩院を主管し、そのため陰城に家を構えた。士遜は生後百日にして初めて泣いた。淳化年間(990-994年)に進士に挙げられ、鄖郷の主簿に任じられ、射洪の令に遷った。転運使が檄を飛ばして士遜を郪の治めに移そうとしたが、民衆が馬の首を遮って去ることを許さず、そのため聴き入れて射洪に戻らせた。安撫使が梓州に至り、属吏の有能・無能を問うたところ、知州の張雍は言った。「射洪の令が第一である。」襄陽の令に改められ、秘書省著作佐郎・邵武県知事となり、寛厚をもって民衆の信を得た。以前に射洪を治めた時、旱魃のため、白崖山の陸使君祠で雨を祈ると、間もなく大雨が降り、士遜は庭中に立ち、雨が十分になるのを待ってから去った。今度は、邵武で旱魃があり、歐陽太守廟に祈ると、廟は城から一舎(三十里)を超える距離にあったが、士遜は蓋(笠や傘)を外し、雨が十分に濡らすまで帰らなかった。秘書丞・監折中倉に改められ、御史臺推直官を歴任した。

翰林学士の楊億が推薦して監察御史とした。貢挙で初めて糊名法を用いた時、士遜は諸科の巡鋪官であったが、進士に姻党(姻戚関係)があるため、士遜は避けて去るよう請うた。真宗はその名を御屏風に記し、これより親嫌(親族関係による嫌疑)のある者は皆試験を移すこととし、令として定着させた。中書が人を擬して江南転運使に充てようとしたが、再び擬するとすぐに退けられ、帝は独り士遜を用いた。再び侍御史に遷り、広東に移り、また河北に移った。黄河が棣州に侵食したため、詔して州を陽信に移すこととし、議者は糧食が多いことを憂えて、移転できないとした。士遜は河に臨む数州がちょうど食糧難であるのを見て、すぐに余剰分を計算して貧しい者に貸し与え、来年陽信に納入することを約束させ、公私ともに利益を得た。

仁宗が宮邸を出た時、帝が僚佐を選び、宰臣に言った。「翊善・記室は府の属官であり、王は皆拝礼を受ける。今、王はまだ年少であるから、士遜を友とし、王に答拝させよ。」そこで戸部郎中・直昭文館をもって、寿春郡王友とし、昇王府諮議参軍に改め、右諫議大夫兼太子右庶子に遷り、左庶子に改めた。士遜が言うには、「資善堂に詣で、階を昇って列拝するのに、皇太子はなお跪いて受けている。皇太子に坐って受けさせるよう詔すべきである。」帝は許さなかった。士遜らに詔して、太子が侍駕して出入りする際には陪従を許した。史館を判じ、審刑院を知り、太子賓客・枢密直学士をもって集賢院を判じた。やがて二府の大臣が皆東宮の官を兼ねたため、太子詹事に換え、枢密副使に抜擢し、給事中兼詹事に遷り、累遷して尚書左丞となり、ついに礼部尚書・同中書門下平章事・集賢殿大学士に拝された。

曹汭の獄事が起こると、宦官の羅崇勳・江徳明がちょうど権勢を振るっており、曹利用を讒訴した。帝は疑い、執政に問うたが、衆人は顧み望んで答える者がいなかった。士遜は徐々に言った。「これはただ不肖の子がしたことであり、利用は大臣として、おそらくその状況を知らないでしょう。」太后は怒り、士遜を罷免しようとした。帝は彼が東宮の旧臣であるため、刑部尚書・江寧府知事を加え、通犀の帯を解いて賜った。後に定国軍節度使を領し、許州知事となった。

明道(1032-1033年)の初め、再び宰相に入り、中書侍郎兼兵部尚書に進んだ。翌年、門下侍郎・昭文館大学士・監修国史に進んだ。この年は旱魃と蝗害があり、士遜は漢の故事のように冊免(宰相の辞任を求める)を請うたが、許されなかった。帝が自ら尊号を減損すると、士遜はまた官位を一等降下して天変に応えるよう請うたが、帝は慰労激励した。群臣が章懿皇后(李宸妃)の諡冊を奉った後、退出して慰めに入ったが、士遜は同列とともに楊崇勳の園に過ぎて飲み、日が中天になっても至らなかった。御史中丞の范諷が士遜を弾劾し、尚書左僕射・河南府判に左遷し、崇勳も使相として許州判に左遷された。翌日入朝して謝す時、班位が崇勳より下であった。帝がその故を問うと、士遜は言った。「崇勳は使相であり、臣の官は僕射ですから、位は下がるべきです。」そこで山南東道節度使・同中書門下平章事・許州判とし、崇勳を陳州知事とした。この時、士遜の罷免から既に数日経っていたが、制書にはなお宰相の官銜が用いられ、有司はただ制書を奉行するだけで、追って改めることはしなかった。河南府に移った。

宝元(1038-1040年)の初め、再び門下侍郎・兵部尚書をもって宰相に入り、郢国公に封ぜられた。士遜が輔臣とともに奏事すると、帝は従容として言った。「朕は先日宮人を放免したが、ただ幽閉を哀れむだけでなく、浮費を省くためでもある。近ごろまた孿女(双子の女)を献じる者がいたが、朕は退けて受けなかった。」士遜は言った。「これは盛徳の事です。」帝は徐々に言った。「近ごろ言事する者の中には、大臣を毀り、君主の過ちをあばく者さえいる。」士遜は言った。「陛下が邪正を審らかに察せられれば、憸訐(邪悪で他人をあばく)の人は、自ら戒め懼れるでしょう。」馮士元の獄が既に決着した時、帝は判決について士遜に問うた。士遜は言った。「台獄が阿徇えこひいきするのであれば、宸断(天子の裁断)から出たものでない以上、どうして内外の論を満足させられましょうか。」帝は言った。「君子と小人にはそれぞれ党があるのか。」士遜は言った。「あります。ただ公私が異なるだけです。」帝は言った。「法令が必ず行われ、邪正が区別されれば、朝綱は挙がるであろう。」

康定(1040-1041年)の初め、士遜は言った。禁兵が長く辺境に戍守し、その家族が京師にいて自活できない者がいる。帝は内侍に命じて指揮使以下を差等に分け、内蔵の緡銭十万を出して賜った。士遜はまた使者を派遣して陝西を安撫するよう請うた。帝は知制誥の韓琦を行かせることを命じた。そこで枢密院に詔して、今後辺境の事は全て士遜らと参議することとした。輦官を簡抜して禁軍とした時、輦官が妻子を連れて宰相・枢密院の前に遮り喧嘩訴えた。士遜がちょうど朝に出る時、馬が驚いて地に堕ちた。当時朝廷は多事であり、士遜は建明(献策)するところがなく、諫官の韓琦が論じて言った。「政事府は豈に病を養う地であろうか。」士遜は自ら安からず、累次上章して老齢を理由に辞任を請うた。そこで太傅に拝し、鄧国公として致仕した。詔して朔望の朝見および大朝会には、中書門下の班に綴じ、一子に五品の服を与えた。士遜は朔望の朝見を辞した。間をおいて中使を遣わして労問し、御筆の飛白で「千歳」の字を賜ると、士遜はそれに因んで千歳堂を建てた。かつて城南の官園を買い求めようと請うたところ、帝はそれを士遜に賜った。宰相が謝恩(致仕)するのは、おそらく士遜から始まった。邸に就いて凡そ十年、卒去した。八十六歳。帝は臨奠し、太師・中書令を追贈し、諡して文懿とし、御篆でその墓碑に「旧徳之碑」と記した。

士遜は生後七日で母を喪い、その姑が養育した。成長してからは、姑に孝謹につかえ、姑が亡くなると、喪服を着て、徒跣はだしで柩を扶けて葬り、南陽県太君に追封した。初め、陳堯佐が参知政事を罷められた時、怨みを抱く者が堯佐の謀反を告げ、また諫官が陰に宗室に附いていると誣告する者がいた。士遜は言った。「憸人(邪悪な者)が善良を構陥(陥れ)して朝廷を揺るがそうとしています。奸偽の口が一旦開けば、自分もまた自保できなくなるでしょう。」帝は悟り、告げた者を罪に処し、諫官を誣告した事も下問しなかった。しかし曹利用が枢府にいた時、寵を藉りて威をほしいままにしたが、士遜はその間にあって、可否を言わず、当時の人は「和鼓」(調子を合わせる太鼓)と見なした。士遜はかつて女口(女性の下僕)を宮中に納めたことがあり、御史の楊偕に弾劾された。

子の友真、字は益之。初め将作監主簿に補せられ、再び遷って丞となった。士遜が館閣校勘を請うたが、仁宗は「館閣は英俊を待つところであり、不可である」と言い、そこで館閣で読書させ、詔して校勘の員数を増やすことを得ざらしめた。後に三館の書籍を編纂し、秘閣校理・同知礼院に遷り、進士出身を賜り、襄州知州となった。軍賊張海の剽劫を制することができず坐し、罷免されて帰った。後に史館修撰を除されたが、御史何郯が「史館修撰は故事により、皆知制誥を試みるものであり、友直は得るに当たらない」と上言したため、集賢殿修撰に改められた。天章閣待制として陝州知州となり、同勾当三班院を兼ねた。集英殿で侍宴したとき、なお緋衣を着ていたが、仁宗が顧みてこれを見、そこで金紫を賜った。累遷して工部郎中・越州知州となった。州民は毎年春に財を斂め、大いに僧・道士・女を集め、「祭天」と称していたが、友直は禁令を下してこれを絶ち、斂めた財を取って学を建て、諸生を延べた。官において卒した。士遜はかつて帝の東宮旧事を記していたが、史官はまだこれを見ていなかったので、友直はこれを纂めて『資善録』として上進した。

幼子の友正、字は義祖、門を杜して家事を治めず、小閣に居て書を学び、三十年を積んで輟めず、遂に書をもって名を知られた。神宗はその草書を評し、本朝第一とした。

論じて曰く、呂夷簡・張士遜は皆儒学をもって起家し、輔弼の位に列せられた。仁宗の世、天下は承平であり、時に因り制を宜しくし、寛厚をもってこれを済わしめたのは、相臣の力に預かるところがあった。士遜は民事に練達し、風跡記すべきものがあるが、曹利用に依違して譏りを取った。夷簡が下僚にあったとき、諸父の蒙正は宰相の才をもってこれを期した。その相となるに及んで、深謀遠慮あり、古の大臣の度有り。在位日久しく、頗る恩を収め怨を避けて、権利を固めることに務め、郭后の廃は、遂にその君の過挙を成すに至り、咎これより大なるは莫し。然りと雖も、呂氏は更に国政を執り、三世四人、世家の盛なるは、則ち未だこれ有らざるなり。