宋史

列傳第七十四 韓億 韓絳 韓維 韓縝

韓億

韓億、字は宗魏、その先祖は真定霊寿の人、開封の雍丘に移住した。進士に挙げられ、大理評事・永城県知事となり、治績の評判があった。他の県で訴訟が決しないものは、郡守の皇甫選が常に韓億に委ねてこれを治めさせた。陳州通判となり、時に黄河が決壊し、堤防修築の費用が万単位に上ったが、韓億は民に賦課せずにこれを営築した。真宗はかつて召し出して試験しようとしたが、王旦と親戚関係にあることを嫌い、特別に召見し、一官を改めて洋州知州とした。州の豪族李甲は、兄が死ぬと嫂を迫って嫁がせ、その子を他姓であると誣告し、その財産を独占した。嫂が官に訴えたが、李甲は役人を賄って拷問させて自白させ、十数年が経ち、訴えは止まなかった。韓億が旧記録を見ると、乳医を証人として引き出したことがなかったので、李甲を召し出して乳医を示すと、李甲は言い逃れができず、冤罪は遂に明らかになった。累遷して尚書屯田員外郎・相州知州となった。河北が旱魃に見舞われると、転運使は実情を上聞しなかったが、韓億のみが歳の飢饉を言上し、民の租税を貸し与えることを願った。その子の韓綱が金銭を受け取るよう請託したと誣告する者がおり、韓億は自ら獄を設けてこれを取り調べるよう請うた。事は明らかになったが、なお通判大名府に降格された。まもなく殿中侍御史となり、侍御史に遷り、淮・浙を安撫し、開封府判官を拝命し、出向して河北転運使となった。

仁宗の初め、直史館に進み、青州知事となり、司封員外郎を兼ねて侍御史知雑事となり、大理寺丞を判った。呉植が臨江軍知軍であった時、人を遣わして宰相の王欽若に金を納めさせ、牙吏を介して京師に至らせたが、取り調べると、言葉が漏れ、王欽若は隠し通せないと知り、吏を捕らえて上聞させた。詔して台に付して治めさせたところ、呉植は自ら未だ金を納めたことはないと言い、逆に吏が誤って親しい者への問いの言葉を王欽若に伝えたと誣告した。韓億が徹底的にこれを取り調べると、呉植が病気を理由に罷免を恐れ、金は届かずに事が露見したのであった。呉植は名を削除され、王欽若もまた取り調べられたが、詔して釈放して問わなかった。三司が茶法を改めると、歳の課税が上がらず、韓億は詔を承けてこれを弾劾し、丞相以下みな処分不当の罰に坐した。その剛直さはこのようであった。薛奎の後、韓億のみが台務を掌ること一年余りに及んだ。

龍図閣待制を拝命し、契丹に奉使した。時の副使は、章献太后の外戚であり、妄りに皇太后の旨を契丹に伝え、南北が歓好して子孫に伝える意を諭したが、韓億は初め知らなかった。契丹主が韓億に問うて曰く、「皇太后に既に旨があれば、大使は何故独り言わないのか」。韓億対えて曰く、「本朝は使を遣わす毎に、皇太后は必ずこれを戒められますが、北朝に伝えようとするものではありません」。契丹主は大いに喜び、曰く、「これは両朝の生霊の福である」。人は副使が既に言葉を誤りながら、韓億が更に恩意として説き、大いにこれを称賛したと言う。

亳州知州となり、召されて審刑院知事となり、再び兵部郎中・同判吏部流内銓に遷り、右諫議大夫・枢密直学士として益州知州となった。故事により、益州は毎年官粟六万石を出し、貧民に振糶した。この年は大旱であり、韓億は倍の数を出し、期日より先に民に与えたので、民はこれによって飢えなかった。また九升江口を疏浚し、下流の民田数千頃を灌漑した。維州・茂州の地は羌夷に接し、蕃部は毎年永康官場に至って馬を売ったが、韓億は彼らが両川を窺うことを慮り、場を黎州の境上に移すよう上奏した。御史中丞を拝し、唐の制度に倣い、御史裏行を置くよう請うた。

景祐二年、尚書工部侍郎同知枢密院事となった。時は太平が久しく、武備が緩んでいたので、二府に各々将帥の任に堪える人材数十人を列挙して上奏させ、少しずつ試用するよう請うた。また武臣は兵を知るべきであるが、兵書は禁じて伝わらないので、その要を纂輯して授けるよう請うた。ここにおいて帝自ら『神武秘略』を集め、辺境の臣に賜った。

唃廝囉が趙元昊と攻め合い、勝利を献上してきた。朝廷は唃廝囉に節制を加えることを議したが、韓億は曰く、「彼らは皆、蕃臣です。今、彼らに仇を解かせるよう諭すことができず、却って賞を加えるのは、四方を綏撫統御する道ではありません」。議は遂に取り止めとなった。元昊は毎年人を京師に遣わし、民間に出入りするのに他に禁制がなかったので、韓億は詔を下して館舎を設けて礼遇し、官が貿易を主管するよう請うた。外見上は煩わしいようであるが、実はこれを羈縻・防備するのであった。

開封府知事范仲淹が『百官図』を献上し、宰相の呂夷簡が官吏の任用に公平でないと指摘し、密かに韓億を用いるよう推挙した。范仲淹が既に貶黜されると、帝は韓億にこれを告げた。韓億は曰く、「仲淹が臣を挙げるのは公によるものであれば、臣の愚かさは陛下のご存知の通りです。私情によって臣を挙げたのであれば、臣が身を委ねて以来、未だ嘗て人に交託したことはありません」。ここにおいて戸部・参知政事を拝命した。時に忻州で大地震があり、諫官の韓琦が宰相の王随・陳堯佐は輔弼の才ではないと上言し、また韓億の子の韓綜が群牧判官であるのに、自ら請うて兄の韓綱を代わりにさせるのは不当であると上言した。遂に宰相と共に罷免され、応天府知事となり、まもなく資政殿学士を加えられ、成徳軍知軍となった。澶州に改められ、再び亳州知州となり、官は尚書左丞に至り、太子少傅をもって致仕した。卒すと、太子太保を贈られ、諡は「忠憲」。

韓億の性質は方正で重厚、家を治めるには厳格で、たとえ私居においても、惰慢な様子はなかった。親戚旧知の孤貧なる者を見ると、常にその婚姻や葬儀の費用を給した。天下の諸路が官吏の些細な過失を摘発して上奏するのを見る毎に、常に顔色を曇らせて曰く、「天下太平の時、聖主の心は、昆虫草木に至るまで、皆その所を得させようとされる。今、仕官する者は大は公卿となることを望み、次は侍従・職司一千石を望み、その下も京朝官・幕職を望む。どうして盛世にこれを閉じ込めておくことができようか」。八人の子あり:韓綱、韓綜、韓絳、韓繹、韓維、韓縝、韓緯、韓緬。

韓億の長子 韓綱

韓綱は、尚書水部員外郎。慶暦年間、光化軍知軍となり、性質は苛酷で性急、士卒を慰撫することができなかった。時に盗賊の張海が剽劫して境上に至ると、韓綱は禁兵を率いて城に登り、餅や餌を与えるのに多くは時を守らず、民が酒食を具えて軍を犒労すると、その羊や豚を収め、売って金銭とし兵器を造らせたので、兵士は皆憤怒した。また嘗て軍校に陣図を作らせ、完成しないと斬ろうとしたので、衆はますます驚愕した。ある日、兵士が食事をしていると、軍校の邵興が衆を叱って立ち上がり食べるなと言った。韓綱は怒り、数人を捕らえて獄に繋いだ。邵興は恐れ、衆を率いて庫の兵器を奪って乱を起こし、韓綱を殺そうとした。韓綱は妻子を連れて城を縋り下り、漢江に沿って下った。邵興らは遂に火を放って城中を掠め、衆を率いてしょく道に向かったが、官兵に敗れ、遂に斬られ、残党は悉く誅殺された。韓綱は城を棄てた罪に坐して名を削除され、英州に編管された。

韓億の次子 韓綜

韓綜、字は仲文。蔭補により将作監主簿となり、大理評事に遷った。進士に挙げられ及第し、鄧州・天雄軍の通判となった。時に黄河が金堤で溢れ、民が丘塚に依ったものが数百家あった。韓綜は令して曰く、「一人を救うことができれば、千銭を与える」。民は争って舟や筏を操って救い、やがて丘塚の多くが崩壊した。呂夷簡が北京から入朝して宰相となると、集賢校理・同知太常院に推薦された。開封府推官を歴任し、数月後、三司戸部判官・同修起居注に遷った。

契丹に使いしに、契丹主其の家世を問う、綜言ふ、億先朝に在りて嘗て礼を持して来たりしと、契丹主喜びて曰く、「中国と通好久しく、父子俱に我を使ひし、宜しく我が酒を酌むべし」と。綜同使者五人を率ひて起ち寿を爲す、契丹主亦席を離れて之に酬ひ、歡甚だ甚し。既に還りて、陳執中事を生ずと以て爲し、滑州を出知し、許州に徙す。

殿前指揮使許懷德の從妹亡ぶ、別産陽翟に在り、子無きを以て、官に籍す、懷德私に之を有せんと欲し、訟未だ決せず。楊儀に因りて書を爲して綜に属す、書至るに轉運使已に獄を他州に徙せり。綜書を得て以て聞えざるに坐し、集賢校理を奪はれ、袁州を知る。未だ幾ばくもあらず、復た江東轉運使と爲る。還りて、再び起居注を修め、累遷して刑部員外郎・知制誥に至り、卒す。

綜嘗て契丹館伴使と爲りしに、使者書を爲して北朝と稱し契丹の號を去らんと欲す。綜曰く、「古より未だ國を建てて號無き者あらず」と。使者慚ぢ、遂に復た言はず。其の後朝廷契丹使者を館伴する者を擇ぶに、帝曰く、「孰か韓綜の如き者有らんや」と。子宗道、戸部侍郎・寶文閣待制と爲る。

綱の子 宗彥

綱の子宗彥、字は欽聖。蔭補にて將作監主簿と爲る。進士甲科に舉げられ、累遷して太常博士に至る。大臣の薦に以て、召し試みられ、集賢校理と爲る。歷て京西・京東刑獄を提點す。應天府平民を失入して死罪に處し、獄成りて未だ決せず、通判孫世寧之を辨正す。獄吏法に坐すべく、而るに尹劉沆縱して治めず、宗彥往きて按舉す、沆復た之を沮止す。宗彥朝に沆を疏し、吏の罪に抵す。仁宗春秋高く、未だ嗣無し。宗彥上書して曰く、「漢の章帝詔して諸の懷妊する者に胎養穀を賜ひ、人三斗、其の夫を復して算をせず一歳、令を著す。臣世次を考尋すに、帝八子、長は則ち和帝、而して質・安以下の諸帝皆其の系胄なり、胎養の令を修め請ふ」と。且つ曰く、「人君務めて其の民を蕃毓すれば、則ち天亦其の子孫を昌衍せしむ」と。尚書兵部員外郎を以て三司鹽鐵勾院を判じ、卒す。

綜の子 宗道

綜の子宗道、歷官して戸部侍郎・寶文閣待制に至る。

億の三子 韓絳

韓絳、字は子華。進士甲科に舉げられ、陳州を通判す。直集賢院、開封府推官と爲る。男子冷青有り、妄りに其の母頃に掖庭に在りて幸を得、娠有りて己を生出せりと稱す、府以て狂と爲し、汝州に流すを奏す。絳言ふ、之を外に留めば將に眾を惑はさんと。追ひて責め窮治せしむるに、蓋し其の母嘗て宮禁に役を執り、民冷緒に嫁ぎ、一女を生み、乃ち青を生む、遂に棄市を論ず。

歷て戸部判官と爲る。江南飢ゑ、體量安撫使と爲り、便民事數十條を行ふ。宣州守廖詢貪暴にして法に不法、吏に下して諸を理に寘く、民大いに悦ぶ。使い還りて、起居注を同修し、右正言に擢でらる。仁宗絳に謂ひて曰く、「卿を用ふるは朕より出づ、卿凡そ事を論ずるに、過激なる宜しからず、當に朝廷の大體を存し、要は之を行ふ可からしめ、朕をして諫を聽かざる者と爲す毋からしむべし」と。

入內都都知王守忠內侍省を兼判す、絳言ふ、「判の名重し、且つ國朝以來、未だ兩省を兼判する者あらず」と。詔して自今復た除く勿からしむ。道士趙清貺宰相龐籍の家に出入し、賂を以て敗る、開封杖して之を流し、道に死す。絳言ふ、籍府を諷して之を殺すと、籍と尹俱に謫せられ去る。未だ幾ばくもあらずして復た進む、絳力爭すれども得ず、遂に言職を解く。明年、知制誥と爲り、河陽を守らんことを乞ひ、召されて流內銓を判ず。河商胡に決す、李仲昌の議を用ひ、六塔河を開きて患滋甚だし、絳を命じて河北を安撫せしむ。時宰仲昌を主とし、人敢て異なる者莫し。絳其の國を蠹し民を害するを劾し、罪貸す可からずとす、仲昌遂に嶺表に竄る。龍圖閣直學士に遷り、瀛州を知る。歐陽修同列を率ひて言ふ、「絳は朝廷に在る宜しく、瀛は處する所に非ず」と。留めて諫院を知らしめ、在京刑獄を糾察す。翰林學士・御史中丞と爲る。

帝茅山に禱ひて嗣を求む、絳祝辭を草し、因りて帝を勸めて宮人を汰ひ出だし、及內臣の養子を限り、以て人の世を絶つを重んずるに、皆之に從ふ。掖庭劉氏請謁を通じて奸を爲す、絳以て帝に告ぐ、帝曰く、「卿の言に非ざれば、朕由て知る無からん」と。數日を經ずして劉氏及び他の謹みならざる者を出す。真定守呂溱法を犯す、從官章を通じて請ひて之を貰はんとす、絳曰く、「法行は當に貴者より始むべし、更相請援すれば、則ち公道廢す」と。並びに諸の請ふ者を劾し、溱遂に絀かる。富弼張茂實を用ひて禁兵を掌らしむ、絳言ふ、「人茂實を先帝の子と謂ふ、豈に宿えいを典るに宜しからんや」と。報へず、闔門して罪を待ち、自ら言ひて敢て復た御史中丞を稱せず。詔して之を召す、及び出づるに、笏を秉せずして朝堂を穿つ、諫官之を論じ、蔡州を知るを罷む。

數月、翰林侍讀學士を以て慶州を知る。熟羌堡に據りて亂を爲す、即日之を討平す。端明殿學士を加へ、成都府を知る。張詠蜀を鎮むる日、春に米を糶き、秋に鹽を糶き、官券を給して以て貧弱を惠み、歳を歷て久しく、權豪右に歸す。中人奉使して蜀に至り、酒吏をして貿易を主たらしめ、因りて附益して以て悦びを取る、絳悉く之を奏罷す。召されて開封府を知り、三司使と爲る。請ふ、川・陝の職田穀をして常平倉に輸せしめ、而して其の事任道里の差次に隨ひて直を給せんと。帝嘆じて曰く、「眾方に姑息す、卿獨り時に徇ふ能はざるか」と。即ち之を行ふ。內諸司の吏數恩澤を干む、絳輒ち執へて可ならずとす。帝に爲りて言ふ、「身眾の怒に犯し、飛語有らんことを懼る」と。帝曰く、「朕藩邸に在りし日、頗る有司の國事を以て人情と爲すを聞けり。卿の守る所固より善し、何ぞ讒を憚らんや」と。

神宗立ち、韓琦絳に公輔の器有りと薦め、樞密副使に拜す。始めて審官西院を建つるを請ひ、武臣の升朝する者を掌らしめ、以て吏奸を息む。神宗嘗て天下の遺利を問ふ、絳地力を盡すを請ふ。因りて差役の弊を言ひ、願はくは其の法を更定せんと、役議此より始まる。陳升之に代はりて同制置三司條例と爲る、王安石每に事を奏するに、必ず曰く、「臣安石の陳ふる所一に非ざるを見る、皆至當にして用ふ可し、陛下宜しく省察すべし」と。安石以て助と爲すに恃む。

熙寧三年、参知政事となる。夏人が塞を犯すや、韓絳は辺境に行くことを請い、王安石もまた行くことを請うた。絳は言う、「朝廷は今まさに安石を頼りとしている。臣が行くべきである」と。そこで陝西宣撫使に任じられた。既にしてまた河東を兼ね、機事で報を待つことのできないものは、便宜を以て施行することを聴し、空名の告勅を授け、自ら吏を除授することを得た。十二月、即ち軍中において同中書門下平章事・昭文館大学士を拝し、延安に幕府を開いた。絳は元来兵事に習わず、措置は方に乖き、蕃兵を選んで七軍とし、青澗城知事の种諤の策を用い、横山を取らんと欲し、諸将に諤に命を聴かしめ、蕃兵を厚く賞犒したので、衆皆怨望した。また騎兵の馬を奪ってこれに与え、馬の首を抱いて泣く者あり。既に囉兀を城し、また雪を冒して撫寧堡を築き、調発は騒然たり。已にして二城陥ち、諸道の兵を趣して出援せしむるや、慶州の卒遂に乱を起こす。議者は絳を罪し、鄧州知州に罷む。明年、観文殿学士を以て許州に移り、大学士に進み、大名府に移る。七年、復た王安石に代わって相となる。既に中書を顓処するや、事多く稽留して決せず、且つ数たび呂惠卿と争論するに及び、乃ち密かに帝に安石を再用することを請う。安石至るや、頗る絳と異なる。劉佐という者あり、法に坐して免ぜられ、安石は佐を抆拭して用いんと欲するも、絳は不可とす。帝の前で議して未だ決せず、即ち再拝して去らんことを求む。帝驚きて曰く、「これは小事なり、何ぞ必ずしも爾るや」と。対えて曰く、「小事すら尚お伸ばさず、況んや大事においてをや」と。帝は佐を逐うためしむ。未だ幾ばくもせず、絳もまた出でて許州知州となる。

元豊元年、建雄軍節度使・定州知州を拝す。入りて西太一宮使となる。六年、河南府知府となる。夏、大雨、伊・洛の間の民溺るる者十五六なり。絳は倉を発して振恤し、城を環らして堤を築く。数ヶ月、水復た至るも、民はこれに頼りて免る。哲宗立つ、鎮江軍節度使・開府儀同三司に更め、康国公に封ぜられ、北京留守となる。河、小呉に決す。都水監は魏城の傍らに渠を鑿ち東に金堤に趨らんと議す。役甚だ棘し。絳言す、「功必ず成らず、徒らに国力を耗費し、して魏人の流徙せしむるのみ。計に非ず」と。三たび奏し、遂にこれを罷む。元祐二年、老いを請い、司空しくう・検校太尉を以て致仕す。明年、卒す。年七十七。太傅を贈られ、諡して「献肅」と曰う。

絳は事に臨み果敢にして、後慮を為さず。士大夫を延接するを好み、数たび司馬光を用うべきを薦むるも、終に王安石に党して復た政を得たるを以て、是をもって清議これを少くす。

絳の子 宗師

子の宗師、字は伝道。父の任により州県の職を歴任す。既に第に登り、王安石の薦めにより度支判官・河北常平提挙となる。累官して集賢殿修撰・河中府知府に至り、卒す。初め、宗師は神宗の朝に在り、数たび対賜せられ、常に親の側を去るに忍びず、屡々官を辞して拝せず。世は孝を以てこれに与す。

億の五子 維

韓維、字は持国。進士として礼部に名を奏すれども、時に韓億が政を輔けているため、大廷での試験を受けず、蔭により官に入る。父没後、門を閉ざして仕えず。宰相がその古を好み学を嗜み、静退に安んずるを薦ぐるや、学士院に召して試すも、辞して就かず。富弼が河東幕府に辟き、史館修撰の欧陽修が検討・太常礼院知事に薦む。礼官が祫享の東向位を議するや、維は室を虚しくして太祖を待つことを請う。温成后の廟を立てて楽を用いんとするや、維は礼に如かずとし、一切裁去することを請う。陳執中の諡を議するに、張貴妃が皇儀殿で喪を治め、位号を追冊したことは皆執中の建てたる所なりとして、「栄霊」とすべきを以てす。詔して諡を「恭」とす。維曰く、「君に難きを責むるを恭と謂う。執中何を以てかこれを得ん」と。議遂に行われず、礼院を罷むることを乞う。秘閣校理として涇州通判となる。

神宗が淮陽郡王・潁王に封ぜられし時、維は皆記室参軍となる。王は毎事諮訪し、維は悉心を以て対え、拝起進趨の容に至るまで、皆その節を陳ぶ。嘗て天下の事を論じ、語功名に及ぶ。維曰く、「聖人の功名は、事に因りて始めて見る。功名の心あるべからず」と。王拱手して善しと称す。維が疾を引いて郡を請うを聞き、上章してこれを留む。時に禁中より使を遣わし、諸臣の家に泛くして、王の妃を択ばしむ。維上疏して曰く、「王は孝友聡明、動履法度、方に経学に向かい、以て成徳を観んとす。今族を卜し室を授くには、宜しく歴らかに勲望の家を選び、謹んで淑媛を択び、古を考へて納采・問名の義に、以て礼を成すべし。苟くも華色を取るのみなるべからず」と。

左・右史闕く。英宗、除授の例を訪う。執政曰く、「館閣久次及び進士高第の者を用う」と。帝曰く、「第に人を択べ。必ずしも専ら高科を取るに及ばず」と。執政、維を以て対う。遂に同修起居注・邇英侍講となる。帝、初めて喪を免るるや、簡黙して言わず。維上疏して曰く、「邇英閣は、陛下の燕閒の所なり。側に侍する者は、皆献納論思の臣なり。前に陳ぶるは、経ならざれば則ち史なり。以て博く諮訪の義をなし、仁義の道を窮め、成敗の原を究むべし。今礼制終わり畢る。臣下、耳を傾けて玉音を聴かんとす。陛下の言、これ其の時なり。臣請う、筆を執りて俟たん」と。進みて知制誥・通進銀臺司知事となる。

御史の呂誨らが濮議を以て罪を得る。維諫めて曰く、「誨らは審議して職を守る。過ぎたるは陛下の先王の法の如く尽くさんことを欲するに止まるのみ。前詔を追還し、百官をして詳議せしめ、以て人情を尽くすことを請う。誨らの職任を復し、以て政体を全うせんことを」と。既にして責命は門下を由らず。維また言う、「御史を罷黜することは、事政体に関わる。而るに有司をして聞くことを与えしめざるは、紀綱の失、此より甚しきは莫し。銀臺司を解くことを乞う」と。聴かれず。遂に門を闔いて罪を待つ。詔して臺官二人を挙げしむ。維言う、「呂誨・范純仁には已に試みたる効あり。願わくは其の職を復せん」と。翰林学士の范鎮が批答を作るに旨に合わず、出でて郡を補す。維言う、「鎮の失う所は只文字に在り。当にこれを涵容すべし。前に錢公輔を黜し、中外以て太重と為す。二の近臣を連ねて退け、而して衆其の所謂る所を知らず。此より誰か敢えて忠を尽くさん者あらんや」と。

潁王、皇太子となるに及び、右庶子を兼ぬ。神宗即位す。維進言して曰く、「百執事各々職位有り。当に責任すべし。若しこれに代わって事を行わば、最も体を失う。天下の大事は猝に為すべからず。人君の施設には、自ら先後有り」と。因りて滕文公が孟子に居喪の礼を問うたことを釈し、後世の礼文の変を推して、以て規諷を伸ぶ。帝皆嘉納す。龍図閣直学士を除く。

御史中丞の王陶、宰相の韓琦を弾劾して跋扈と為す。罷めて翰林学士と為す。維言う、「中丞の言是なれば、宰相安んぞ罪無からん。若し其れ非なれば、安んぞ止だ臺職を罷むるに止まらん。今学士と為すは、是れ遷なり」と。参知政事の呉奎、陶の事を論ず。出でて青州知州となる。維言う、大臣の進退は、是の如くあるべからずと。詔して奎の官を遷す。維また言う、「執政罷免するは、則ち降黜と為す。今復た官を遷すは、則ち褒進と為す。二者の理並び行い難し。此れ王陶が中丞を罷めて学士を加うるに何を以てか異ならん」と。章上る。奎還りて職に就く。維は前言を援りて去らんことを求め、汝州知州となる。数ヶ月、召されて侍講を兼ね、太常寺を判す。

初め、僖祖の神主は既に遷されていたが、英宗が廟に合祀されるに及んで、中書は僖祖は稷や契らと同等であり、その廟を毀つべきではないと主張した。韓維が言うには、「太祖は大乱を平定し、子孫はその業を遵奉して、宋の太祖となったのであり、議論の余地はない。僖祖は高祖こうそではあるが、その功業の跡を仰ぎ見るに、何ら根拠となるものはない。もし稷や契に仕えるようにこれに仕えるならば、不安があると思われ、従前のままの方がよい。」王安石はちょうど当初の議論を支持していたので、この意見を押し留めて採用しなかった。熙寧二年、翰林学士・知開封府に遷る。翌年、御史中丞となるが、兄の韓絳が枢府に在ったため、強く辞退した。王安石もまた彼が保甲法について述べたことを嫌い、再び開封府知事とし、始めて八廂を分置して軽い刑罰を決断させ、都下は清粛となった。時に呉充が三司使であったが、帝は言った、「韓維と呉充は文学によって進んだが、煩雑な職務を任せても、ともにその職に適っており、人材を得たと言えよう。」兼侍読学士、群牧使を充てる。制挙人の試験を担当し、孔文仲の対策が合格したが、その切直さゆえに罷免されて帰された。韓維が言うには、「陛下、文仲を一介の賤士とお考えになり、罷免しても何の損もないとお思いにならぬよう。臣は賢俊の者が離反し、忠良の者が口を閉ざし、阿諛苟合の者が隙を窺って進み出ることを恐れます。禍いは小さくありません。」王安石はますます彼を憎んだ。

枢密使の文彦博が辞任を求めた。帝は言った、「枢密院の事務は煩雑である。韓維を任じて卿を補佐させよう。」翌日、韓維が殿中で奏事し、その言が用いられないことを理由に、州郡の長官を請うた。帝は言った、「卿は東宮の旧人である。留まって政を輔弼すべきである。」答えて言うには、「もし臣の言が行われれば、富貴に勝ります。もし旧恩に縋り付いて進むのであれば、臣の願うところではありません。」遂に襄州知州として出され、許州に改められた。

七年二月、学士承旨として召される。入内して対し、帝は言った、「天が久しく雨を降らさない。朕は日夜焦り苦しんでいるが、どうしたものか。」韓維は言った、「陛下が旱魃を憂い憐れみ、食事を減らし殿を避けられるのは、これは故事を挙行しているに過ぎず、天変に応じるには足りないと思われます。自らを痛く責め、広く直言を求めるべきです。」退出後、また上疏して言った、「近畿内の諸県では、青苗銭の督索が甚だ急であり、往々にして鞭撻して満足を得、桑を伐って薪とし銭貨に換えるに至り、旱魃の際に、重ねてこの苦しみに遭っています。もし甲兵を動かし、士民を危うくし、財用を荒夷の地で空しくするようなことは、朝廷は疑わずに処し、甚だ鋭く行います。ところが租税を免除し、滞納を寛容にして、愁苦の民を救うことについては、遅々として発しようとしません。陛下が英断を奮ってこれを行い、人を養うことに過ぎるのは、人を殺すことに過ぎるよりもまだましです。」上は感ずるところがあり、即座に韓維に詔を草させて直言を求めた。その要旨は、「思うに、聴納が理に適わないのであろうか。獄訟がその実情に合わないのであろうか。賦斂がその節度を失っているのであろうか。忠言讜論が上聞に鬱結し、阿諛壅蔽して私を成す者が多いのであろうか。」詔が出ると、人情は大いに喜んだ。市易・免行の利害を体量する旨があり、力田・保甲を権(暫)く罷めることとなり、この日に雨が降った。

王安石が罷免され、ちょうど韓絳が宰相に入ったので、端明殿学士を加えられ河陽知州となり、再び許州知州となる。帝が旧邸に行幸し、資政殿学士に進む。曾鞏が制を担当し、その純明亮直を称えたが、帝は命詞を改めさせた。韓維は帝の意を知り、嵩山崇福宮の提挙を請うた。帝が崩御すると、臨闕の庭に赴いた。宣仁后が手詔を下して労問すると、韓維は答えて言った、「人情は貧しければ富を思い、苦しければ楽を思い、困れば休息を思い、鬱すれば通ずることを思います。誠に常に民を利することを本とすれば、民は富みます。常に民を憂うることを心とすれば、民は楽になります。賦役で人の力の堪えられないものを除けば、労困は息みます。法禁で人情に便ならざるものを免じれば、鬱塞は通じます。これを推し広め、誠を尽くして行えば、子孫は陛下の徳を見て、教えずして成ります。」

間もなく、陳州知州として起用されるが、赴任せず、兼侍読として召され、大学士を加えられる。嘗て言った、「先帝は夏国主の秉常が廃されたため、故に問罪の師を起こされました。今既に復位し、蕃臣の礼を有しています。その故地を還すべきです。」因みに兵を止めざるを得ない理由を三つ、地を棄てざるを得ない理由を五つ陳べた。また言った、「仁宗が儲嗣を選び建てられた時、一時の忠勲は皆寵祿を被りました。范鎮がこの議を最初に開いたのに、賞は彼だけが及びませんでした。願わくはその功を褒め顕わしてください。」范鎮はこれにより再び起用された。

元祐年間に役法が改められ、韓維に詳定を命じた。時に四方からの書疏はその便を言うものが多かったが、韓維は司馬光に言った、「小人の議論は、意を窺って迎合するものです。察しないわけにはいきません。」成都転運判官の蔡曚が定差法に附会したので、韓維はこれを憎んで弾劾した。執政が王安石の『新経義』を廃そうとしたが、韓維は先儒の説と併行すべきであるとし、論者はその公平さに服した。門下侍郎に拝される。御史の張舜民が言事により罷免されると、王岩叟がこれを救い、簡を折って密かに上官均に相談した。言葉が漏れ、詔により岩叟に弁明を求めた。韓維は言った、「臣下が簡を折って集まり語り、互いに督責するのは、まさに善に率いることであり、理に何の害がありましょうか。瑣瑣たる善を責めるのは、国事に益なきを懼れます。」

韓維が門下省に在ること一年余り、彼を忌む者が密かに讒訴したため、詔により南京に分司させられた。尚書右司の王存が簾前で声を抗して言った、「韓維が罪を得たが、その端緒を知る者はいません。臣は窃かに朝廷のため惜しみます。」そこで大学士に還り、鄧州知州となる。兄の韓絳が彼のために請うたので、汝州に改められた。久しくして、太子少傅をもって致仕し、少師に転じた。

紹聖年間、元祐の党に坐し、左朝議大夫に降格され、再び崇信軍節度副使に貶謫され、均州に安置された。諸子が官爵を納めて、父の郷里居住を聴くことを乞うた。哲宗は奏を覧て惻然とし、これを許した。元符元年、睿成宮に行幸したことを機に、左朝議大夫に復し、この年に卒した。八十二歳。徽宗の初め、旧官を悉く追復された。

韓億に六子あり 韓縝

韓縝、字は玉汝。進士第に登り、南京判官に簽書する。仁宗が水災により直言を求めたので、韓縝は上疏して言った、「今、国本が未だ立たず、天下の心を繋ぐものがない。これが陰盛陽微の応です。」言葉は極めて切実であった。劉沆がその才を推薦し、三班敕の編修を命じられる。これ以前、武臣は親の喪に服さなかった。韓縝が建言して、「三年の喪服は、古今の通制である。晋の襄公が墨衰して戎に従ったのは、一時の事である。」遂に令を著し、崇班以上は喪服を持つことを聴すこととなった。殿中侍御史となる。参知政事の孫抃は祿を保持して位を充たすのみ。権陝西転運副使の薛向が闕に赴くと、枢密院はすぐに旨を画して真除とした。劉永年は外戚として防御使に除された。内侍の史志聰は皇城親従を私的に使役した。韓縝はこれらをことごとく極論した。帝は孫抃を罷め、薛向と劉永年の任命を取り止め、史志聰の罪を正した。侍御史・度支判官に遷り、両浙・淮南転運使として出され、河北に移る。

夏の諒祚が死に、子の秉常が嗣ぎ、使者を遣わして封冊を求めた。朝廷はちょうど夏人が職貢を修めないことを責め、使者を詰問する人を選ぼうとしていた。韓縝がちょうど陛辞する際、神宗が彼を行かせた。韓縝が駅で罪を問うと、使者は服した。夜に及んで、奏上した。帝は喜び、陝西への使者に改めた。入朝して審官西院・直舎人院を管知する。兄の韓絳が執政となったため、集賢殿修撰・塩鉄副使に改められ、天章閣待制として秦州知州となる。嘗て客を宴して夜に帰ると、指使の傅勍が酒に酔い、誤って州の官舎に入り込み、侍妾と出会った。韓縝は怒り、軍校に鉄を裹んだ杖でこれを箠殺させた。傅勍の妻が血衣を持ち、登聞鼓を撾いて訴えたため、落職し、南京に分司させられた。秦人は言った、「乳虎に逢うとも、玉汝に逢うなかれ。」その暴酷はこのようなものであった。久しくして、待制に還り、瀛州知州となる。

熙寧七年、遼の使節蕭禧が来朝し、代北の地界を議す。縝を召して館客とし、遂に報聘せしめ、図牒を持たせて遼主に致すも、見るを得ずして還る。開封府知事となり、禧再び至る。復た之を館す。詔して駅伝に乗り河東に詣り、禧と分画せしむ。分水嶺を以て界とす。命を覆し、襲衣・金帯を賜い、枢密都承旨と為り、龍図閣直学士に還る。元豊五年、官制行はれ、太中大夫・同知枢密に易え、知院事に進む。

哲宗立つ。尚書右僕射兼中書侍郎を拝す。首相蔡確、章惇と謀り東朝を誣う。及び確が山陵使と為るや、縝其の奸状を暴く。是に由りて東朝及び外廷悉く之を知る。確使より還り、以て其の属たる高遵恵・張璡・韓宗文を美官とせんと欲す。宣仁后以て縝に訪う。縝曰く、「遵恵は太后の従父、璡は中書郎璪の弟、宗文は臣の甥なり。今擢用次に非ざれば、則ち是れ君臣各其の親を私す。何を以て天下に示さん」と。乃ち止む。

元祐元年、御史中丞劉摯・諫官孫覚・蘇轍・王覿、縝を論じて才鄙く望軽しとし、先朝に在りて奉使と為り、地六百里を割きて以て契丹に遺す。辺人之を怨むこと骨を切るが如し。相の位に居らしむべからずと。章数十上る。観文殿大学士・潁昌府知事に罷めらる。永興・河南に移り、安武軍節度使・太原府知事を拝し、奉寧軍に節を易う。老を請い、西太一宮使と為り、太子太保を以て致仕す。紹聖四年卒す。年七十九。司空を贈られ、諡して「荘敏」と曰う。

縝は外事に荘重にして、至る所厳を以て称せらる。将相に出入すと雖も功烈寂たるものあり。自ら奉養厚く、世に以て晋の何曾に比す云う。子に宗武あり。

縝の子 宗武

宗武、進士に第し、韓宗彦が瀛州を鎮むるに、辟かれて河間令と為る。河溢に値い、堤を増して城を護る。吏兵五百を率いて材を近郊に伐つ。墓木と雖も免れず。父老道を遮りて泣く。宗武府に入り白して之を罷む。徽宗即位し、秘書丞と為る。日食に因り上疏して言う、「近世の事、微漸有りて察せざるべからざる者五つあり。大臣公論を畏れず、小臣利に趨き下に附く、一なり。人主政事に怠り、威柄下に移り、怨讟上に帰す、二なり。左右に輔拂の士無く、辺を守るに禦侮の臣無し、三なり。境土を開きて以て辺患を速にし、賦財を耗して以て民力を弊す、四なり。歳穀登らず、倉庾空竭し、民人流亡し、盗賊数起す、五なり。朋党を根治し、私怨を追復す。正士黜廢せられ、耆老殲亡し、旋って大獄を起こし、害善類に及ぶ。文章号令、前世に衰う。大河決溢し、饑饉薦臻す。執政大臣、人異意を懐き、旧怨を排して去り、以て新党を立つ。徒に紛紛たるのみにて、国を憂え家を忘るるの慮無し。誠に願わくは躬ら権綱を攬り、威柄を収還し、言を敷き功を奏し、名実を考察し、侍御の好・鐘鼓の娛を以て楽と為さざらんことを。仁祖の惻怛至誠は以て天下の心を収め、神宗の厲精不息は以て天下の事を挙げたり。皆法とすべし所なり」と。報いず。

哲宗将に廟に祔せんとす。中旨省中の書画を索むること甚だ急なり。宗武言う、「先帝廟に祔せんとし、陛下哀慕方に深し。而して丹青の玩、取索已まず。之を外に播けば、聖徳を損ずるを懼る。陛下践祚し、日初めて升るが如し。当に典訓を講劘し、聖学を開広すべし。好み玩すれば志易うは、正に古人の戒むる所なり」と。疏入る。皇太后之を見て怒りて曰く、「是れ皆内侍数輩の為す所なり」と。尽く罰を加えんと欲す。帝委曲申し救う。乃ち已む。明日、太后宰相に対し獎嘆し、諫官の員闕を俟ちて即ち之を用いしむ。尋いで都官員外郎を除き、開封府推官に改む。外を丐い、淮南転運判官と為る。前の使者上供の銭を貸す。禁庭使いを遣わし来たりて索む。宗武状を具して奏す。詞極めて鯁切なり。坐して秩を貶せられ、罷められて帰る。久しうして、蔡京以て潁州を知らしめんと欲す。帝秘書の事を語る。京復た言う敢えず。遂に致仕す。官累ねて太中大夫に至り、年八十二にして卒す。

論す。

論して曰く、王稱曰く、「昔、袁安未だ嘗て贓罪を以て人を鞫せず。史氏其の仁心を以て、以て後昆に覃うに足るとす。韓億人を捃えて小過を悦ばず。而して君子其の後必ず大なるを知る。皆盛徳の事なり。億子有りて公府に位し、而行各適有り。絳は同に適し、維は正に適し、縝は厳に適す。嗚呼、維其れ賢なるかな」と。