王延德
王延德は、開封府東明県の人である。曾祖父の芝は、濮陽県令であった。祖父の璋は、相州録事参軍であった。父の温は、五代後晉の末年に契丹が侵入した際、郷里の豪族を率いて境内を防衛し、郷里の人々に徳を慕われた。宣祖(趙弘殷)が畿甸の兵を掌った時、温と親しく交わり、延德がまだ幼少の頃、宣祖はその謹厳で重厚な様子を愛で、召し出して側近に置いた。太宗が京尹であった時、親校に任じ、専ら庖膳を主管し、特に信頼された。
真宗が即位すると、懐州を領するよう改めた。永熙陵(太宗陵)の造営に際し、沿路の供頓を提点した。咸平初年、華州知州として出向し、拝謝の日、面会して昭宣使の罷免を請い、許された。これは実際には、禦侮の正規の官職の俸給が優厚であったためである。上(真宗)が大名府に行幸した際、東京旧城都巡検使となった。翌年、風痹を理由に休暇を請い、本郡に帰還を許され、この冬に卒去した。享年六十四。邕州観察使を追贈された。
延徳は赴任する先々で、近事を撰び集めることを好んだ。御厨を掌った時は『司膳録』を、皇城司を掌った時は『皇城紀事録』を、郊祀に従って行宮使となった時は『南郊録』を、詔を奉じて内廷を修築した時は『版築記』を、霊駕(太宗の葬送)に従った時は『永熙皇堂録』・『山陵提轄諸司記』を、また郡を治めた時は『下車奏報録』を撰した。先に、史官に太祖・太宗の『実録』を修撰するよう詔が下り、多く国初の事柄について延徳に諮問した。また『太宗南宮事跡』三巻を上進した。
子に応昌がおり、荘宅使・端州団練使となった。
常延信
常延信は、幷州平晋県の人である。祖父の思は、後周に仕えて昭義・帰徳・平盧の三鎮節度使を歴任し、延信はいずれも牙職に補され、和州刺史を領した。思が卒去すると、入朝して六宅使となり、刺史の領郡は元の通りであった。
建隆初年、平州を領するよう改められたが、妻の一族と訴訟を起こした罪により、左遷されて右監門衛副率となり、滑州の黄河堤防の護衛を領した。開宝年間、京師新城外の汴河南巡検となり、出向して潼関監軍となった。延信は関路が険しいため、道路の改修と禁坑の埋め立てを上奏し、役工四十余万人を動員した。また通許鎮兵を監し、梓・遂など十二州都巡検使に改められ、袍帯と銭百万を賜った。太平興国初年、任期が満了したが、留任を命じられ、銭四十万を賜った。当時、逃亡兵の多くが山林で賊となっていたため、延信はかつて配下を率いて三百余人を捕殺した。また唐州・鄧州都巡検使となり、交代で帰還した後、続いて右清道・右司禦の二副率に改められた。
程徳玄
程徳玄は、字を禹錫といい、鄭州滎沢県の人である。医術に長けていた。太宗が京尹であった時、召し出して側近に置き、押衙に任じ、非常に親しく信任されて用いられた。太祖が危篤となった夜、徳玄は信陵坊に宿泊していたが、夜中に門を叩き、急ぎ宮邸に赴くよう呼びかける者があった。徳玄は急いで起き上がり、洗面や髪梳きの暇もなく、府(晋王府)に赴いたが、府門はまだ閉ざされていた。ちょうど三更のことで、徳玄は事情が分からず、しばらく彷徨っていた。しばらくして、内侍の王継恩が馳せ至り、遺詔により太宗を迎えて即位させる旨を告げた。徳玄はこれに従って入り、翰林使に拝された。
五年、秦・隴の竹木を連筏にして京師に入れ、通過地で詔制を偽って算を免じ、またその価を高くして官に入れた罪に坐し、王仁贍に発覚され、責めて東上閤門使を授けられ、本州刺史を領した。陝府西南転運使・左拾遺韋務昇、京西転運使・起居舍人程能、判官・右賛善大夫時載は、部下において徳玄らが私的に販売することを放任した罪に坐し、務昇および能はともに責めて右賛善大夫を授けられ、載は将作監丞となった。この冬、車駕が魏府に幸した際、命を受けて御営四面巡検を総べ、諸軍の資糧の給与を掌った。
兄の徳元は同じく王府に仕え、内酒坊副使に至った。継宗は東頭供奉官・閤門祗候、次子の継忠は内殿崇班である。徳元の子賁は、大中祥符五年に進士に挙げられ、累遷して太常博士となった。
王延德
延徳は攀附によって官を得、傾険で進取を好み、時人はこれを憎んだ。兄の延之は、乾徳六年の進士で、屯田郎中に至り致仕した。
魏震
張質
張質は、字は守樸、博州高唐の人である。少孤で、兄の賛に養われた。賛が枢密院典謁であったため、質はこれにより兵房に隷し、趙普・曹彬に頗る知られた。太宗が河東を征した際、還って鎮陽に駐ったとき、彬はちょうど枢務を典していた。ある夜、屯兵を調発することを議したが、時に軍載の簿領が道中に阻留されていた。質は密かに兵数を計算し、軍馬を部分し、兵籍を得て較べると、全て差謬がなかった。淳化年中、累遷して本房副都承旨となった。
大中祥符七年、都承旨に転じた。枢要に在ること僅か五十日であったが、事程に習練し、精敏で端愨であり、かつて過ちがなかった。旧来、本院の吏で都承旨に遷る者は稀であったが、上は質が廉謹であることを素より知っていたので、これを以て授けた。かつて召して五代以降から国初に至るまでの軍籍更易の制度を問い、かつ利害を条具することを命じた。質はこれを纂めて三篇とし、目を『兵要』として進上した。上はこれを見て善しと称した。
楊允恭
楊允恭は漢州綿竹の人である。家は代々豪富で、允恭は若い頃より倜儻として任侠を好んだ。乾徳年間、王師が蜀を平定した際、群盗が蜂起し、允恭は弱冠の年にして郷里の子弟を率いて清泉郷に砦を築いたが、賊に捕らえられ殺されそうになった。允恭は言った、「もし私を生かしてくれるなら、お前たちを助けよう」。賊はもとより彼の豪族たるを聞いていたので、釈放した。允恭は密かに賊の首領の子と結び、毎日酒を飲み博打をして、わざと負けて金を払い、賊の様子を探らせた。賊が允恭を害そうとした時、その子が告げたので、逃げ去った。内客省使丁徳裕が賊討伐のため州に至ると、允恭は策を以てこれに干謁し、綿・漢招收巡検に任じられ、賊平定後、殿前承旨に補された。
太平興国年間、殿直として広州市舶を掌った。南漢滅亡後、海賊の子孫が代々襲い、大規模なものは数百人に及び、州県はこれを苦しめていた。允恭は物資輸送の任に当たりつつ上奏してこの事を報告し、太宗は直ちに広・連都巡検使に任命した。また、海塩の密売人が嶺北に入り、これに犯される民が多いため、大庾県を軍として設置し、官が塩を運搬して売ることを請うた。詔して南安軍を設置し、これ以降禁を犯す者は少なくなった。葉氏という賊は、五百余人を擁し、海上を往来していた。允恭は水軍を集め、軽快な小船を造り、その首領を急襲して斬った。残党は船を捨てて逃げ、山谷に潜伏したが、允恭は木を伐り道を開き、ことごとく殲滅した。賊寇は風濤に遭うと、洲島の間に逃げ込んでいた。允恭は衆を率いて海を渡り、ほぼ全てを捕らえ、賊はみな風の便りに奔り潰走した。また漳州・泉州の賊の根拠地に至り、先に掠われた男女六十余人を奪い返して各家に帰した。詔書で嘉奨され、十万銭を賜り、供奉官に転じた。詔により帰還し、内殿崇班に改められた。
当時、長江沿いには賊が多く、江南の水運を監督し、賊党を捕らえることを命じられた。臨江軍に至り、驍卒を選び軽舟に乗せて下流の賊の根拠地を偵察させ、夜に軍城を出発し、三更に百余りの賊と遭遇し、長く抵抗した後、その首領を全て梟首した。また通州の境まで急行して海賊を追跡した。賊は多くの舟をつなぎ、幕を張り、強弩や短炮を発射した。允恭の兵の刃の向かうところは多く幕に絡め取られ、炮が允恭の左肩に当たり、血が袖にまで流れたが、その容色はますます壮であった。徐々に水泳の巧みな者に縄でつないだ鉄鉤をばら撒かせ、その幕を破壊し、士卒が争って進むと、賊の大半は水に飛び込んで死に、数百人を生け捕りにした。これ以降、長江の水路に掠奪の患いはなくなった。功により洛苑副使、江・淮・両浙都大発運・擘画茶塩捕賊事に転じ、紫袍・金帯・銭五十万を賜った。以前は、三路の転運使がそれぞれ職務を分担し、倉庫に物資が多く積まれても軍士や舟楫が不足し、官銭で丁男を雇って舟を引かせても、土地の人はその役を恐れたため、歳の上供米は三百万を超えなかった。允恭は三路の舟卒と輸送物資の数を全て登録し、諸州に牙吏を選ばせて全て集め、允恭が数と任務を分けて授けた。江・浙からの輸送は淮・泗までとし、淮・泗から京師へ輸送するようにし、これを一年行って、上供米は六百万となった。
淳化五年、西京作坊使に転じた。当初、茶の産地では、民が賦を納める際は全てその価値を計算し、官がこれを売り、精粗を問わず全て榷務に納めさせた。商人は買い取ろうとせず、長く置くと焼却していた。允恭は言った、「民の利を尽くして取り上げ、腐らせて捨てるのは良策ではない」。至道初年、劉式が建議して長江沿いの榷務を廃止し、商人に長江を渡ることを許し、私的な売買を認めるよう請うた。允恭は、諸州で新旧の茶が混ざり、両河の諸州の風土はそれぞれに適したものがあり、数種類を混ぜなければ商人の利益が少ないと考えた。従来通り江北に務を設置し、品質と等級を均一にし、年次順に支給することを請うた。事は三司に下り、塩鉄使陳恕らは允恭の議を是とし、詔してこれに従った。直ちに允恭を発運使に任命し、初めて「擘画」を「制置」と改め、西京作坊副使李廷遂・著作佐郎王子輿をともに同発運使とした。
巣・廬江の二県は以前廬州に属し、道が遠く賊が多く、民は労役と費用を負担していた。允恭は二県を以て軍を建てることを請い、詔してこれを許し、無為をその名称とした。淮南十八州軍のうち、九つは塩の販売が禁じられた地域で、価格を上下させたため、民は商人の安い塩を好み、密売人がますます増え、武器を持って往来し盗賊となる者さえいた。允恭は法の執行は統一すべきと考え、直ちに上奏して全て禁じ、官が吏を派遣して管理することを請うた。事は三司に下り、三司はその不可を言上したが、允恭が再三請うたので、太宗は初めてこれに従った。この年、利益は巨万に上った。允恭は王子輿・秦羲とともに茶塩の任を主管し、多くの条制を作り、遂に新法を変更した。
真宗が即位すると、西京左蔵庫使に改められた。また川峡の鉄銭の弊害について言上し、「凡そ民田の税は、昔は銅銭一つを納めたが、今は鉄銭一つを納める。しかし吏卒の俸給は、以前は銅銭一つを与えたが、今は鉄銭五つを与える。また流通取引では、鉄銭十が銅銭一に相当する。民が田税を納めるのに、一を以て十と為し、官はその九を失う。吏卒の俸給は、一を増やして五と為し、官はさらにその四を失う。吏卒が五を得て十として使い、またその半を失う。臣は先朝において、かつてこの事を陳べ、法を変えてその弊を革めんことを願ったが、先帝はまさにこれを実行しようと議されたところ、賊の順が叛き擾乱したために止んだ。今陛下は先烈を継がれ、遂にその法を建て、民をして所を失わしめられるべきである。また饒・信の銅は数千万積もっており、もしこれを荊に運び、蜀に達せしめれば、蜀はもとより銅が多いので、夔・益・遂にそれぞれ監を置いて鼓鑄させ、歳用を均等に給すれば、十年と経たずして全て銅銭を用いるようになるであろう」。議は用いられなかったが、これ以降、吏卒の俸給は、初めて鉄銭十を以て銅銭一と交換するよう改められた。
まもなく通利軍の知軍となり、黄・御河発運使を兼ねた。時に西辺の屯兵を減らし、転餉を休めようと会議し、允恭と崇儀副使竇神宝・閤門祗候李允則を召して馳せ往き経度させ、郡県山川の形勝を図上にした。允恭はこれに因み建議して言った、「環州から積石に入り、霊武に至るまで七日の行程である。芻粟の運搬には三つの策がある。しかし人や驢馬を用いると費用が甚だ煩わしく、運べる数は少ない。諸葛亮の木牛の制を用い、小車で兵卒を発し、分鋪して運搬するに如くはない。一車ごとに四人で引き、傍らに兵衛を設け、その上に戈刃を加え、賊が来れば車を中に集め、士卒の力を合わせて外で賊を防ぐ」。まもなく議者に阻まれて止んだ。再び任地に派遣され、また議し、江・淮塩鉄使陳恕が力爭したが、詔して允恭の議に従った。康州刺史を兼ねることを加えられた。
允恭は胆力と才幹を有し、方略をもって賊を捕らえることができた。王小波の乱の際、李順の兄自栄が綿竹を占拠し、土人の多くは脅迫に従わされた。允恭の兄允升、弟允元は、郷里の子弟を率いて力を合わせてこれを撃破し、また官軍の郷導となり、自栄を捕らえて剣門に赴き献上した。王継恩がその事績を上表すると、詔により允升に学究出身を賜り本県令に任じ、允元は什邡令に任じられた。翌年、召されて闕下に赴き、允升は右賛善大夫を、允元は大理評事を授けられた。
秦羲
秦羲、字は致堯、江寧の人である。代々江左に仕えた。曾祖父の本は岳州刺史であった。祖父の進遠は寧国軍節度副使であった。父の承裕は建州監軍使・知州事であった。李煜が帰朝する際、承裕は羲を遣わして符印を闕下に上奏させた。太祖は召見し、その進退応対が詳細で謹厳なことを喜び、殿直に補し、広済の漕船を監督させた。太平興国年間、南唐の軍校馬光璉らが荊楚に亡命し、徒党を組んで盗賊となった。羲は詔を受け、光璉を縛って献上し、太宗はこれを壮とした。労を積んで西頭供奉官に改め、淮南諸州で獄を決した。
淳化年間、また洛南の銅採掘を監督した。雷有終はその心計あることを称え、興国軍茶務を監させた。ちょうど楊允恭が茶塩法を改めた際、羲を推薦して真州の榷務を掌らせ、まもなく淮南西路茶塩提点となり、羨余十余万を得た。そこで允恭とともに江淮制置となり、閤門祗候に抜擢され、制置礬税を兼ねた。
大中祥符初年、起用されて供備庫副使・宿州監軍を授かり、次第に東染院副使に遷った。翌年、広州より澄海兵がかつて宜州の賊を捕らえ、恩賞を望んで甚だ桀驁であり、軍中で制御できず、部送して闕下に送ったとの上奏があった。上は遠方の大鎮であるから、才幹の臣を得て鎮撫させるべきであると考えられた。宰相が数人を挙げたが、いずれも旨に称わなかった。上は「秦羲がこの任に当たるべし」と言われ、再び供備庫使を授け、広州鈐轄を充てた。東染院使・蘇州知事を歴任し、崇儀使・提挙在京諸司庫務に改めた。対面の際、藩郡の長官を求めたため、内園使・泉州知事に遷った。天禧四年、代わられて帰還する途中、病を得て卒した。享年六十四。
羲は書をよくし、詩を作ることを好み、賓客を喜び、頗る士風があった。財貨の任に歴事すること十余年、精勤して習練し、称職と号された。
謝德権
謝德権、字は士衡、福州の人である。父の文節は、初め王氏に仕え侯官令となった。後に南唐に入り、忠烈都虞候・饒州団練使となり、驍勇をもって聞こえた。周世宗が南征した際、文節はただ一人甲冑を着て大江を渡り、密かに敵の堡塁を覘い、呉人は「鉄龍」と号した。後に鄂州を守り、宋軍に抵抗して戦死した。
德権は初め父の死事により、李煜より庄宅副使に任じられた。宋に帰順し、登聞検院に詣でて自薦し、殿前承旨に補され、殿直・陝西巡検に遷り、労により右侍禁に改められた。咸陽の浮橋が損壊した際、転運使宋太初が德権に計画させたところ、土を築いて岸を固め、石を積んで倉とし、河中の鉄牛の制を用い、竹索で纜いだ。これにより患いはなくなった。
京城の街路巷陌が狭隘であったため、德権にこれを拡げるよう命じた。詔を受けると、まず貴要の邸舎を撤去したため、群議が紛然となった。詔してこれを止めようとしたが、德権は面と向かって請うて言った。「臣は既に命を受けました。中止することはできません。今事を阻む者は皆権豪の輩であり、屋室の賃借料を惜しんでいるだけです。他意はありません。」上はこれに従われた。そこで街路の広狭及び禁鼓の昏曉の制を条上した。
ちょうど凶人劉曄と僧澄雅が、執政が許州の民と陰に西夏と結んで叛逆を謀っていると訴えた事件があり、詔して温仲舒と謝泌に審問させ、德権にこれを監させた。やがて取り調べて証拠がないことが分かり、翌日、便殿で対面し、その虚妄を詳しく奏上した。泌だけが「大臣を追及して取り調べれば、獄状は整うでしょう」と言った。德権は「泌は大臣を陥れようとするのか。もし大臣が無罪で辱めを受けるならば、人君はどうして臣を使い、臣下はどうして君に仕えようか」と言った。仲舒は「德権の奏上は甚だ善い」と言った。上はようやくこれを認められた。
六年、新楽県を城するよう命じられ、供奉官に遷った。また北平砦の濠を浚わせ、蒲陰城を修繕させた。ある日、急遽駅伝に乗って闕下に赴き対面を求め、かつ言った。「辺境の民は多く一族を引き連れて城内に居住しています。前年、契丹が塞内に入り、傅潜は堡塁を閉じて自らを固守し、康保裔は生け捕られ、官軍には勝捷がありませんでした。臣は今年契丹が必ず内寇すると考えます。辺兵を一箇所に集めて駐屯させるのは、特に便利ではありません。願わくは速やかに鎮・定・高陽の三路に分戍させてください。天雄の城塁は広遠です。急詔してこれを縮小し、なお澶州城を修繕し、北の徳清軍の城塁を治め、予備とすべきです。臣は実に蒲陰の工事が未だ完了せず、寇が必ず急に至ることを慮ります。」上は慰めてこれを遣わされた。やがて契丹は果たして蒲陰を包囲した。河北に行宮を修する詔があると聞くと、德権はまた駅伝で奏上し、車駕が河を渡らぬよう請い、澶州に至ると、德権は単騎で間道を行き行在に赴いた。
間もなく、内殿崇班に遷り、三司衙司を提轄す。徳権は条制を設け、その差使を均しくす。大将ありて内侍の主蔵に隷し、内侍其の留まるを奏し、煩重の役を免れんと規る。徳権奏を携えて上に白し、僥倖を極言す。上其の守有るを称す。又命せられて京城四排岸を提総し、汴河を領護し兼ねて輦運を督む。先ず是れ、歳に浚河の夫三十万を役すも、主者因循にして堤防固からず、但だ沙を挑ぎて岸址を擁し、或いは河流泛濫すれば、即ち中流復た填淤す。徳権須らく沙尽きて土に至るを以て垠と為し、沙を堤外に棄て、三班の使者を遣わして地を分ち以て其の役を主らしむ。又大錐を為て以て築堤の虚実を試み、或いは錐を引いて入るべき者は、即ち轄する所の官吏に坐し、譴免せらるる者多し。樹数十万を植えて以て岸を固む。京師の鑄錢監を廃し、西窯務を河陰に徙すを建議し、大いに労費を省く。崇儀副使に改め、兼ねて東西八作司を領す。先時、毎に営造は工少なきを患え、歳を終るに至りても成らず。徳権其の役を按ずるに、皆克日にして就く。
徳権は清苦に事を幹し、功利を興すを好み、経画すること多し。官吏の私に徇う者を見れば、必ず面して之を斥け、至る所整肅たり。然れども纖微を采察して以て上に聞かするを喜び、朝論之を悪む。
閻日新
大中祥符初、文思使に改む。日新は胥史より起り、云為を好みて以て進取す。嘗て上言す「群臣の子弟蔭を以て官を得る者は、往々にして未だ童齔ならずして奉を受く。望むらくは今年より二十以上にして、乃ち廩を給せよ。又京城の百官早朝するに、学士・丞・郎・舍人以上は、導従嗬止甚だ盛んなり。趨避し難し。望むらくは令して裁減せしめよ」と。又屡々対請し、建白すること多し。且つ自ら筋力尚ほ壮んなるを陳し、願わくは正しく刺郡を授け、辺城を守らしめて以て效用せしめんと。
俄にして真に坊州刺史を拝し、渭州を知り兼ねて涇原路駐泊鈐轄と為る。将に汾陰を祀らんとす。故に同州事を知るに改む。儼信頓は即ち日新の所部なり。車駕至るに及び、迎謁し方物を献ず。労問すること久しく、遂に睢上に従祀し、襲衣・金帯を以て賜う。還りて新市鎮を過ぐるに、又綵楼楽伎を設けて以て駕を迎う。明年、徐州を知りて徙る。代わり還り、足疾を以て、右領軍衛大将軍・昭州団練使・単州知州に改む。疾益々甚だしく、許されて京師に還る。天禧初、卒す。年六十八。
靳懷德
靳懷德は、博州高唐の人なり。祖父昌範は殿中丞。父隠は禹城令。懷德は太平興国中に明法に及び、褐を解いて広安軍判官と為る。秩満し、鴻臚寺丞を授けられ、著作佐郎・太子左賛善大夫・相州通判を歴え、殿中丞・広州通判に改まり、国子博士・滄州通判に遷る。虞部・比部員外郎を歴え、又莫州通判、徳州知州と為る。
論じて曰く、世に全材乏しければ、則ち各其の長を録して用う。亦皆以て事功を集むる可し。允恭は心計有り、事を言うを好む。是の時、山を摘み海を煮し、方舟の漕は、規制未だ備わらず。故に其の建白に因りて之に従い、利甚だ博なり。羲も亦精しく心を敏く職にし、士大夫其の醞藉を許す。徳権は清廉強忮にして、名を矯り威を好む。然れども其れ謝泌を斥けて大臣は受辱す可からずとし、堂陛の分を識るは、長者の言なるかな。延德以下、遘会して進陟し、迭りに事任に居り、其の指使治跡、各取るべき者有り。