宋史

列傳第六十八 王延德 常延信 程德玄 王延德 魏震 張質 楊允恭 秦羲 謝德權 閻日新 靳懷德

王延德

王延德は、開封府東明県の人である。曾祖父の芝は、濮陽県令であった。祖父の璋は、相州録事参軍であった。父の温は、五代後晉の末年に契丹が侵入した際、郷里の豪族を率いて境内を防衛し、郷里の人々に徳を慕われた。宣祖(趙弘殷)が畿甸の兵を掌った時、温と親しく交わり、延德がまだ幼少の頃、宣祖はその謹厳で重厚な様子を愛で、召し出して側近に置いた。太宗が京尹であった時、親校に任じ、専ら庖膳を主管し、特に信頼された。

太平興国初年、御厨副使に任じられ、数ヶ月後に正使に遷った。太原征伐に従軍し、間もなく尚食使を加えられ、浚儀県寿昌坊の邸宅一区を賜った。まもなく薊州刺史を領し、兼ねて武徳司を掌り、皇城使に改め、御輦院・左蔵庫を掌った。延徳が領する印は合わせて五つに及んだため、応対の際に懇ろに辞退したところ、左蔵・御厨の職は罷免された。八年、兼ねて親王諸宮使を充任した。延徳は元来謹慎であり、旧恩により、しばしば外事について諮問を受けた。端拱初年、本州団練使を領した。淳化年間、官位を進めるべき時、延徳と王継恩・杜彦鈞は使額が既に極官に達していたため、特に昭宣使を置き、延徳らをこれに任じた。至道二年、平州防禦使を加領した。

真宗が即位すると、懐州を領するよう改めた。永熙陵(太宗陵)の造営に際し、沿路の供頓を提点した。咸平初年、華州知州として出向し、拝謝の日、面会して昭宣使の罷免を請い、許された。これは実際には、禦侮の正規の官職の俸給が優厚であったためである。上(真宗)が大名府に行幸した際、東京旧城都巡検使となった。翌年、風痹を理由に休暇を請い、本郡に帰還を許され、この冬に卒去した。享年六十四。邕州観察使を追贈された。

延徳は赴任する先々で、近事を撰び集めることを好んだ。御厨を掌った時は『司膳録』を、皇城司を掌った時は『皇城紀事録』を、郊祀に従って行宮使となった時は『南郊録』を、詔を奉じて内廷を修築した時は『版築記』を、霊駕(太宗の葬送)に従った時は『永熙皇堂録』・『山陵提轄諸司記』を、また郡を治めた時は『下車奏報録』を撰した。先に、史官に太祖・太宗の『実録』を修撰するよう詔が下り、多く国初の事柄について延徳に諮問した。また『太宗南宮事跡』三巻を上進した。

子に応昌がおり、荘宅使・端州団練使となった。

常延信

常延信は、幷州平晋県の人である。祖父の思は、後周に仕えて昭義・帰徳・平盧の三鎮節度使を歴任し、延信はいずれも牙職に補され、和州刺史を領した。思が卒去すると、入朝して六宅使となり、刺史の領郡は元の通りであった。

建隆初年、平州を領するよう改められたが、妻の一族と訴訟を起こした罪により、左遷されて右監門衛副率となり、滑州の黄河堤防の護衛を領した。開宝年間、京師新城外の汴河南巡検となり、出向して潼関監軍となった。延信は関路が険しいため、道路の改修と禁坑の埋め立てを上奏し、役工四十余万人を動員した。また通許鎮兵を監し、梓・遂など十二州都巡検使に改められ、袍帯と銭百万を賜った。太平興国初年、任期が満了したが、留任を命じられ、銭四十万を賜った。当時、逃亡兵の多くが山林で賊となっていたため、延信はかつて配下を率いて三百余人を捕殺した。また唐州・鄧州都巡検使となり、交代で帰還した後、続いて右清道・右司禦の二副率に改められた。

雍熙三年、鎮州以北から軍前までの芻糧の監督を命じられた。この冬、全州・邵州など六州都巡検使となり、速やかに任地に赴くよう命じられた。そのまま羊状六砦都鈐轄を充任し、右衛副率に遷った。誠州の蛮が帰順した際、延信に命じて急ぎ溪洞に入り、その要領を探らせた。また蛮を追って直ちに古鎮に向かい、西延・大木などの諸洞を通過し、蛮人は畏服した。

淳化年間、襄州・鄧州・宋州・曹州などの都巡検使を歴任し、左監門衛将軍に改められ、たびたび配下を率いて河防の修護にあたり、左領軍・左屯衛の二将軍に改められ、西京水南都巡検使を充任した。盗賊が彭婆鎮及び甲馬営を掠奪した際、延信は急行して赴き、ことごとくこれを捕らえた。咸平年間、太康・鞏県の二監軍を歴任した。景德二年、卒去した。享年六十四。

程徳玄

程徳玄は、字を禹錫といい、鄭州滎沢県の人である。医術に長けていた。太宗が京尹であった時、召し出して側近に置き、押衙に任じ、非常に親しく信任されて用いられた。太祖が危篤となった夜、徳玄は信陵坊に宿泊していたが、夜中に門を叩き、急ぎ宮邸に赴くよう呼びかける者があった。徳玄は急いで起き上がり、洗面や髪梳きの暇もなく、府(晋王府)に赴いたが、府門はまだ閉ざされていた。ちょうど三更のことで、徳玄は事情が分からず、しばらく彷徨っていた。しばらくして、内侍の王継恩が馳せ至り、遺詔により太宗を迎えて即位させる旨を告げた。徳玄はこれに従って入り、翰林使に拝された。

太平興國二年、陳洪進が来朝した際、徳玄は命を受けてこれを迎え労った。船艦が淮を渡るとき、暴風が起こり、人々は恐れて皆進むなと請うた。徳玄は言った、「我は君命を奉じており、どうして危険を避けようか」と。酒を捧げて祈り進むと、風浪はたちまち止んだ。三年、東上閤門使に遷り、翰林司事を兼ねた。この秋、代州刺史を領した。太原征従に従い、行宮使となり、師が還ると、功により四方館事を判ずることを改めた。まもなく本州団練使を領するに遷り、さらに本州防禦使を領することを加えられた。

五年、秦・隴の竹木を連筏にして京師に入れ、通過地で詔制を偽って算を免じ、またその価を高くして官に入れた罪に坐し、王仁贍に発覚され、責めて東上閤門使を授けられ、本州刺史を領した。陝府西南転運使・左拾遺韋務昇、京西転運使・起居舍人程能、判官・右賛善大夫時載は、部下において徳玄らが私的に販売することを放任した罪に坐し、務昇および能はともに責めて右賛善大夫を授けられ、載は将作監丞となった。この冬、車駕が魏府に幸した際、命を受けて御営四面巡検を総べ、諸軍の資糧の給与を掌った。

徳玄は攀附して近列に至り、上はその言を頗る信じた。これにより趨附する者が甚だ多かった。ある者がその交遊が盛んすぎると言ったので、遂に出されて崇信軍節度行軍司馬となった。一年余りして、再び慈州刺史を拝し、環州知州に移った。時に西辺の酋豪が相次いで内附したので、詔して空名の告敕百道を徳玄に付し、便宜に補授することを得させた。まもなく、疾を理由に致仕を求めたが、優詔して許さなかった。淳化三年、本州団練使に改め、邠州知州となった。半年に満たず、再び環州を典した。李順が西しょくを寇した際、鳳州知州に移り、鳳・成・階・文等州駐泊兵馬事を兼領し、慶州に徙った。咸平年中、入朝し、真宗は命じて座につかせ労をねぎらい、辺事について訪ねた。まもなく出て幷州知州兼幷代副都部署となり、鎮州に移り、交代を受けて帰闕した。景德初年、卒した。六十五歳。大中祥符年中、その子継宗が上章し、懇ろに贈典を祈った。上はこれを憫れみ、特に鄭州防禦使を贈った。

兄の徳元は同じく王府に仕え、内酒坊副使に至った。継宗は東頭供奉官・閤門祗候、次子の継忠は内殿崇班である。徳元の子賁は、大中祥符五年に進士に挙げられ、累遷して太常博士となった。

王延德

王延徳は、大名の人である。少時に晋邸に給事した。太平興國初年、殿前承旨に補され、再遷して供奉官となった。六年、高昌国が使を遣わして朝貢した際、太宗は遠人の誠を輸することを以て、延徳と殿前承旨白勳をしてこれに使わしめた。夏州から河を渡り、沙磧を経て、伊州を歴、北庭を望むこと一万五千里。雍熙二年、使いより還り、『西州程記』を撰して献上し、崇儀副使を授けられ、御厨を掌った。明年、正使を拝し、出て慶州知州となった。

淳化三年、代わって還り、折博倉を監した。延徳は張斉賢と親しく、国子博士朱貽業を通じて斉賢に言い、倉庾を掌ることを免れ、進用を希った。斉賢がこのことを言上すると、上は怒って言った、「延徳は自ら効力を尽くすために倉を掌ることを願ったのに、一月も経たず、また宰相に祈って免れようとするのはどういうことか」と。そこで延徳を召して詰責すると、自ら言うには、かつて貽業を相府に遣わして何らかの求め請うたことはないと。上は斉賢の言が事実でないと疑い、貽業を召し至らせると、貽業もまたこれを隠した。斉賢は自ら弁明することを恥じ、頓首して罪を称した。上は怒り、即ち延徳に懿州刺史を領させてこれを寵した。五年、三司衙司・磨勘憑由司を提点した。まもなく、左屯衛大将軍・枢密都承旨を拝し、俄かに度支使を授けられた。

真宗即位の際、左千牛衛上将軍に転じ、充使はもと通りとした。延徳は以前西域に使いし、寒さを冒して汗をかかず、風痹の疾を得て、歩行が困難であった。咸平初年、出て舒州団練使・鄆州知州となり、青州に徙ったが、物を市して剰利を得た罪に坐し、降授して左武衛将軍となった。久しく病んで落籍し、家人を遣わして登聞鼓院に代わり詣でて休致を求めた。上はその久しく先帝に事えたことを以て、再び左千牛衛上将軍を授けて致仕させた。景德三年、卒した。六十八歳。

延徳は攀附によって官を得、傾険で進取を好み、時人はこれを憎んだ。兄の延之は、乾徳六年の進士で、屯田郎中に至り致仕した。

魏震

魏震は、何許の人か知れない。祖父の浩は、贍国軍榷塩制置使。父の鉞は、蒲台令。震は初め祖父の蔭を用い、廷職に補されるべきであったが、自ら詞業を習ったことを以て、就くことを屑しとしなかった。姚恕はかつて鉞と蒲台で交代し、また皇子教授となったとき、太宗が藩邸におられた際、恕は震の材を称したことがあり、これにより召して邸中に置いた。即位すると、殿直・廬寿八州巡検に補された。河東征従に従い、行在左蔵庫を掌り、供奉官に改まった。雍熙初年、温州が瑞木の文を成したものを進めた際、震は詩賦を作って献上し、崇儀副使を拝し、白金二千両を賜り、内弓箭庫を掌った。出て保州知州となり、諸将の北伐に際し、幽州西北路鈐轄となった。飛狐・蔚州を下し、功により就いて崇儀使に遷り、蔚州知州となった。再び保州知州となり、秦州鈐轄に移った。端拱年中、召されて西上閤門使を拝し、俄かに廬州知州となり、澶州に徙った。淳化二年、東上閤門使に進み、鳳州知州となったが、事に坐して免じられた。至道初年、起用されて洛苑使・洪州知州となった。二年、再び東上閤門使となり、定・代二州知州を兼ねて行営鈐轄を兼ねた。咸平元年に卒した。子の致恭は、殿中丞。

張質

張質は、字は守樸、博州高唐の人である。少孤で、兄の賛に養われた。賛が枢密院典謁であったため、質はこれにより兵房に隷し、趙普・曹彬に頗る知られた。太宗が河東を征した際、還って鎮陽に駐ったとき、彬はちょうど枢務を典していた。ある夜、屯兵を調発することを議したが、時に軍載の簿領が道中に阻留されていた。質は密かに兵数を計算し、軍馬を部分し、兵籍を得て較べると、全て差謬がなかった。淳化年中、累遷して本房副都承旨となった。

咸平初年、左監門衛将軍・枢密副都承旨を授けられた。これ以前、枢密の吏は皆年功によって次第に補され、主事に至ってもその職を懵としている者がいた。景德三年夏、内より公事三条を出し、主事以下に詳しく決めさせ、質と礼房副承旨尹徳潤に命じて御書院に宿し考第させた。翌日、上自ら臨んで閲視し、凡そ四十余人を選補し、中式せずに崇班・供奉官・奉職に除する者十余人を除いた。質を左屯衛大将軍とし、月俸を加給し、右神武軍・右衛の二大将軍を歴任した。

大中祥符七年、都承旨に転じた。枢要に在ること僅か五十日であったが、事程に習練し、精敏で端愨であり、かつて過ちがなかった。旧来、本院の吏で都承旨に遷る者は稀であったが、上は質が廉謹であることを素より知っていたので、これを以て授けた。かつて召して五代以降から国初に至るまでの軍籍更易の制度を問い、かつ利害を条具することを命じた。質はこれを纂めて三篇とし、目を『兵要』として進上した。上はこれを見て善しと称した。

養生の術を好み、老いても衰えず、このため多く隠者や方士と交わるが、公の事には言及しなかった。大祀や巡幸の際には、質が多く行宮使を務め、あるいは巡検提点として供頓の務めを領した。天禧元年九月、ちょうど承明殿で対を待つ間に、突然中風眩暈を起こし、輿に乗せられて帰宅し卒去した。享年七十四。その子で大理評事の純を衛尉寺丞に、孫の思道を三班奉職に任じた。

楊允恭

楊允恭は漢州綿竹の人である。家は代々豪富で、允恭は若い頃より倜儻として任侠を好んだ。乾徳年間、王師が蜀を平定した際、群盗が蜂起し、允恭は弱冠の年にして郷里の子弟を率いて清泉郷に砦を築いたが、賊に捕らえられ殺されそうになった。允恭は言った、「もし私を生かしてくれるなら、お前たちを助けよう」。賊はもとより彼の豪族たるを聞いていたので、釈放した。允恭は密かに賊の首領の子と結び、毎日酒を飲み博打をして、わざと負けて金を払い、賊の様子を探らせた。賊が允恭を害そうとした時、その子が告げたので、逃げ去った。内客省使丁徳裕が賊討伐のため州に至ると、允恭は策を以てこれに干謁し、綿・漢招收巡検に任じられ、賊平定後、殿前承旨に補された。

太平興国年間、殿直として広州市舶を掌った。南漢滅亡後、海賊の子孫が代々襲い、大規模なものは数百人に及び、州県はこれを苦しめていた。允恭は物資輸送の任に当たりつつ上奏してこの事を報告し、太宗は直ちに広・連都巡検使に任命した。また、海塩の密売人が嶺北に入り、これに犯される民が多いため、大庾県を軍として設置し、官が塩を運搬して売ることを請うた。詔して南安軍を設置し、これ以降禁を犯す者は少なくなった。葉氏という賊は、五百余人を擁し、海上を往来していた。允恭は水軍を集め、軽快な小船を造り、その首領を急襲して斬った。残党は船を捨てて逃げ、山谷に潜伏したが、允恭は木を伐り道を開き、ことごとく殲滅した。賊寇は風濤に遭うと、洲島の間に逃げ込んでいた。允恭は衆を率いて海を渡り、ほぼ全てを捕らえ、賊はみな風の便りに奔り潰走した。また漳州・泉州の賊の根拠地に至り、先に掠われた男女六十余人を奪い返して各家に帰した。詔書で嘉奨され、十万銭を賜り、供奉官に転じた。詔により帰還し、内殿崇班に改められた。

当時、長江沿いには賊が多く、江南の水運を監督し、賊党を捕らえることを命じられた。臨江軍に至り、ぎょう卒を選び軽舟に乗せて下流の賊の根拠地を偵察させ、夜に軍城を出発し、三更に百余りの賊と遭遇し、長く抵抗した後、その首領を全て梟首した。また通州の境まで急行して海賊を追跡した。賊は多くの舟をつなぎ、幕を張り、強弩や短炮を発射した。允恭の兵の刃の向かうところは多く幕に絡め取られ、炮が允恭の左肩に当たり、血が袖にまで流れたが、その容色はますます壮であった。徐々に水泳の巧みな者に縄でつないだ鉄鉤をばら撒かせ、その幕を破壊し、士卒が争って進むと、賊の大半は水に飛び込んで死に、数百人を生け捕りにした。これ以降、長江の水路に掠奪の患いはなくなった。功により洛苑副使、江・淮・両浙都大発運・擘画茶塩捕賊事に転じ、紫袍・金帯・銭五十万を賜った。以前は、三路の転運使がそれぞれ職務を分担し、倉庫に物資が多く積まれても軍士や舟楫が不足し、官銭で丁男を雇って舟を引かせても、土地の人はその役を恐れたため、歳の上供米は三百万を超えなかった。允恭は三路の舟卒と輸送物資の数を全て登録し、諸州に牙吏を選ばせて全て集め、允恭が数と任務を分けて授けた。江・浙からの輸送は淮・泗までとし、淮・泗から京師へ輸送するようにし、これを一年行って、上供米は六百万となった。

淳化五年、西京作坊使に転じた。当初、茶の産地では、民が賦を納める際は全てその価値を計算し、官がこれを売り、精粗を問わず全て榷務に納めさせた。商人は買い取ろうとせず、長く置くと焼却していた。允恭は言った、「民の利を尽くして取り上げ、腐らせて捨てるのは良策ではない」。至道初年、劉式が建議して長江沿いの榷務を廃止し、商人に長江を渡ることを許し、私的な売買を認めるよう請うた。允恭は、諸州で新旧の茶が混ざり、両河の諸州の風土はそれぞれに適したものがあり、数種類を混ぜなければ商人の利益が少ないと考えた。従来通り江北に務を設置し、品質と等級を均一にし、年次順に支給することを請うた。事は三司に下り、塩鉄使陳恕らは允恭の議を是とし、詔してこれに従った。直ちに允恭を発運使に任命し、初めて「擘画」を「制置」と改め、西京作坊副使李廷遂・著作佐郎王子輿をともに同発運使とした。

巣・廬江の二県は以前廬州に属し、道が遠く賊が多く、民は労役と費用を負担していた。允恭は二県を以て軍を建てることを請い、詔してこれを許し、無為をその名称とした。淮南十八州軍のうち、九つは塩の販売が禁じられた地域で、価格を上下させたため、民は商人の安い塩を好み、密売人がますます増え、武器を持って往来し盗賊となる者さえいた。允恭は法の執行は統一すべきと考え、直ちに上奏して全て禁じ、官が吏を派遣して管理することを請うた。事は三司に下り、三司はその不可を言上したが、允恭が再三請うたので、太宗は初めてこれに従った。この年、利益は巨万に上った。允恭は王子輿・秦羲とともに茶塩の任を主管し、多くの条制を作り、遂に新法を変更した。

真宗が即位すると、西京左蔵庫使に改められた。また川峡の鉄銭の弊害について言上し、「凡そ民田の税は、昔は銅銭一つを納めたが、今は鉄銭一つを納める。しかし吏卒の俸給は、以前は銅銭一つを与えたが、今は鉄銭五つを与える。また流通取引では、鉄銭十が銅銭一に相当する。民が田税を納めるのに、一を以て十と為し、官はその九を失う。吏卒の俸給は、一を増やして五と為し、官はさらにその四を失う。吏卒が五を得て十として使い、またその半を失う。臣は先朝において、かつてこの事を陳べ、法を変えてその弊を革めんことを願ったが、先帝はまさにこれを実行しようと議されたところ、賊の順が叛き擾乱したために止んだ。今陛下は先烈を継がれ、遂にその法を建て、民をして所を失わしめられるべきである。また饒・信の銅は数千万積もっており、もしこれを荊に運び、蜀に達せしめれば、蜀はもとより銅が多いので、夔・益・遂にそれぞれ監を置いて鼓鑄させ、歳用を均等に給すれば、十年と経たずして全て銅銭を用いるようになるであろう」。議は用いられなかったが、これ以降、吏卒の俸給は、初めて鉄銭十を以て銅銭一と交換するよう改められた。

まもなく通利軍の知軍となり、黄・御河発運使を兼ねた。時に西辺の屯兵を減らし、転餉を休めようと会議し、允恭と崇儀副使竇神宝・閤門祗候李允則を召して馳せ往き経度させ、郡県山川の形勝を図上にした。允恭はこれに因み建議して言った、「環州から積石に入り、霊武に至るまで七日の行程である。芻粟の運搬には三つの策がある。しかし人や驢馬を用いると費用が甚だ煩わしく、運べる数は少ない。諸葛亮の木牛の制を用い、小車で兵卒を発し、分鋪して運搬するに如くはない。一車ごとに四人で引き、傍らに兵衛を設け、その上に戈刃を加え、賊が来れば車を中に集め、士卒の力を合わせて外で賊を防ぐ」。まもなく議者に阻まれて止んだ。再び任地に派遣され、また議し、江・淮塩鉄使陳恕が力爭したが、詔して允恭の議に従った。康州刺史を兼ねることを加えられた。

咸平初年、北辺での馬の売買に定価がなかったため、允恭にその価格を公平に定めることを主とさせ、估馬司を設置し、印を鑄して常制とした。王均の乱の際、皇帝は南方に寇が集まることを憂慮し、允恭を荊湖・江・浙都巡検使に任命し、内殿崇班楊守遵をその副とし、賜与は甚だ厚かった。二年夏、病気であると聞き、その子で大理評事の可に伝車に乗って侍疾することを許した。七月、昇州で卒去した。享年五十六。次子の告に同学究出身を賜り、賻として銭二十万・絹百匹を賜った。また銭五万・帛五十匹をその家に給した。揚州の官に命じて第一等の邸宅一区を造らせて賜った。

允恭は胆力と才幹を有し、方略をもって賊を捕らえることができた。王小波の乱の際、李順の兄自栄が綿竹を占拠し、土人の多くは脅迫に従わされた。允恭の兄允升、弟允元は、郷里の子弟を率いて力を合わせてこれを撃破し、また官軍の郷導となり、自栄を捕らえて剣門に赴き献上した。王継恩がその事績を上表すると、詔により允升に学究出身を賜り本県令に任じ、允元は什邡令に任じられた。翌年、召されて闕下に赴き、允升は右賛善大夫を、允元は大理評事を授けられた。

可は咸平元年の進士であり、文を綴ることを好み、吏務の才幹があり、累次召されて試され、戸部・塩鉄判官を歴任し、洪・宣・潤・寿・潭州の知州となり、都官員外郎に至った。告は虞部員外郎であった。

秦羲

秦羲、字は致堯、江寧の人である。代々江左に仕えた。曾祖父の本は岳州刺史であった。祖父の進遠は寧国軍節度副使であった。父の承裕は建州監軍使・知州事であった。李煜が帰朝する際、承裕は羲を遣わして符印を闕下に上奏させた。太祖は召見し、その進退応対が詳細で謹厳なことを喜び、殿直に補し、広済の漕船を監督させた。太平興国年間、南唐の軍校馬光璉らが荊楚に亡命し、徒党を組んで盗賊となった。羲は詔を受け、光璉を縛って献上し、太宗はこれを壮とした。労を積んで西頭供奉官に改め、淮南諸州で獄を決した。

淳化年間、また洛南の銅採掘を監督した。雷有終はその心計あることを称え、興国軍茶務を監させた。ちょうど楊允恭が茶塩法を改めた際、羲を推薦して真州の榷務を掌らせ、まもなく淮南西路茶塩提点となり、羨余十余万を得た。そこで允恭とともに江淮制置となり、閤門祗候に抜擢され、制置礬税を兼ねた。

咸平初年、入奏し、真宗は面と向かって慰労を加えられた。淮南の榷塩は、二年で銭八十三万余貫を増加させ、その労により内殿崇班に改め、また制置荊湖路を兼ねた。江南の群盗は久しく民の患いとなっていたが、羲は討捕してことごとく殄滅した。四年、発運使事を領し、供備庫副使に改め、榷酤の歳額を十八万緡増やすことを献策した。増額が多かったため、特に民を酷使することとなった。ちょうど旱魃の年であったため、詔してこれを罷めた。景德初年、供備庫使・江陵府知事に遷った。挙げた官が状のごとくでなかったことを坐し、秩を削られた。

大中祥符初年、起用されて供備庫副使・宿州監軍を授かり、次第に東染院副使に遷った。翌年、広州より澄海兵がかつて宜州の賊を捕らえ、恩賞を望んで甚だ桀驁であり、軍中で制御できず、部送して闕下に送ったとの上奏があった。上は遠方の大鎮であるから、才幹の臣を得て鎮撫させるべきであると考えられた。宰相が数人を挙げたが、いずれも旨に称わなかった。上は「秦羲がこの任に当たるべし」と言われ、再び供備庫使を授け、広州鈐轄を充てた。東染院使・蘇州知事を歴任し、崇儀使・提挙在京諸司庫務に改めた。対面の際、藩郡の長官を求めたため、内園使・泉州知事に遷った。天禧四年、代わられて帰還する途中、病を得て卒した。享年六十四。

羲は書をよくし、詩を作ることを好み、賓客を喜び、頗る士風があった。財貨の任に歴事すること十余年、精勤して習練し、称職と号された。

謝德権

謝德権、字は士衡、福州の人である。父の文節は、初め王氏に仕え侯官令となった。後に南唐に入り、忠烈都虞候・饒州団練使となり、驍勇をもって聞こえた。周世宗が南征した際、文節はただ一人甲冑を着て大江を渡り、密かに敵の堡塁を覘い、呉人は「鉄龍」と号した。後に鄂州を守り、宋軍に抵抗して戦死した。

德権は初め父の死事により、李煜より庄宅副使に任じられた。宋に帰順し、登聞検院に詣でて自薦し、殿前承旨に補され、殿直・陝西巡検に遷り、労により右侍禁に改められた。咸陽の浮橋が損壊した際、転運使宋太初が德権に計画させたところ、土を築いて岸を固め、石を積んで倉とし、河中の鉄牛の制を用い、竹索で纜いだ。これにより患いはなくなった。

咸平二年、宜州の溪蛮が叛き、陳堯叟を派遣して経略させたが、德権はその一行に加わり、単騎で蛮境に入り、朝旨をもって諭したところ、衆は皆聴命した。堯叟がこれを上聞し、閤門祗候を加えられ、広・韶・英・雄・連・賀の六州都巡検使となった。代わられて帰還し、提点京城倉草場となった。以前より、倉庫の積み立ては地下の湿気に悩まされていたが、德権は磚を積み重ねて台とし、その上に載せたため、ついに腐敗することはなくなった。

京城の街路巷陌が狭隘であったため、德権にこれを拡げるよう命じた。詔を受けると、まず貴要の邸舎を撤去したため、群議が紛然となった。詔してこれを止めようとしたが、德権は面と向かって請うて言った。「臣は既に命を受けました。中止することはできません。今事を阻む者は皆権豪の輩であり、屋室の賃借料を惜しんでいるだけです。他意はありません。」上はこれに従われた。そこで街路の広狭及び禁鼓の昏曉の制を条上した。

ちょうど凶人劉曄と僧澄雅が、執政が許州の民と陰に西夏と結んで叛逆を謀っていると訴えた事件があり、詔して温仲舒と謝泌に審問させ、德権にこれを監させた。やがて取り調べて証拠がないことが分かり、翌日、便殿で対面し、その虚妄を詳しく奏上した。泌だけが「大臣を追及して取り調べれば、獄状は整うでしょう」と言った。德権は「泌は大臣を陥れようとするのか。もし大臣が無罪で辱めを受けるならば、人君はどうして臣を使い、臣下はどうして君に仕えようか」と言った。仲舒は「德権の奏上は甚だ善い」と言った。上はようやくこれを認められた。

六年、新楽県を城するよう命じられ、供奉官に遷った。また北平砦の濠を浚わせ、蒲陰城を修繕させた。ある日、急遽駅伝に乗って闕下に赴き対面を求め、かつ言った。「辺境の民は多く一族を引き連れて城内に居住しています。前年、契丹が塞内に入り、傅潜は堡塁を閉じて自らを固守し、康保裔は生け捕られ、官軍には勝捷がありませんでした。臣は今年契丹が必ず内寇すると考えます。辺兵を一箇所に集めて駐屯させるのは、特に便利ではありません。願わくは速やかに鎮・定・高陽の三路に分戍させてください。天雄の城塁は広遠です。急詔してこれを縮小し、なお澶州城を修繕し、北の徳清軍の城塁を治め、予備とすべきです。臣は実に蒲陰の工事が未だ完了せず、寇が必ず急に至ることを慮ります。」上は慰めてこれを遣わされた。やがて契丹は果たして蒲陰を包囲した。河北に行宮を修する詔があると聞くと、德権はまた駅伝で奏上し、車駕が河を渡らぬよう請い、澶州に至ると、德権は単騎で間道を行き行在に赴いた。

間もなく、内殿崇班に遷り、三司衙司を提轄す。徳権は条制を設け、その差使を均しくす。大将ありて内侍の主蔵に隷し、内侍其の留まるを奏し、煩重の役を免れんと規る。徳権奏を携えて上に白し、僥倖を極言す。上其の守有るを称す。又命せられて京城四排岸を提総し、汴河を領護し兼ねて輦運を督む。先ず是れ、歳に浚河の夫三十万を役すも、主者因循にして堤防固からず、但だ沙を挑ぎて岸址を擁し、或いは河流泛濫すれば、即ち中流復た填淤す。徳権須らく沙尽きて土に至るを以て垠と為し、沙を堤外に棄て、三班の使者を遣わして地を分ち以て其の役を主らしむ。又大錐を為て以て築堤の虚実を試み、或いは錐を引いて入るべき者は、即ち轄する所の官吏に坐し、譴免せらるる者多し。樹数十万を植えて以て岸を固む。京師の鑄錢監を廃し、西窯務を河陰に徙すを建議し、大いに労費を省く。崇儀副使に改め、兼ねて東西八作司を領す。先時、毎に営造は工少なきを患え、歳を終るに至りても成らず。徳権其の役を按ずるに、皆克日にして就く。

大中祥符元年、東封を議し、命ぜられて劉承珪・戚綸と同しく計度発運し、供備庫使に遷る。玉清昭応宮の修築に預る。時に、累ねて民舎を徙して以て宮地を広む。劉承珪地を掘りて丈に及び、築き加えて以て基址を壮んにするを議す。徳権其の労役過甚なるを患え、日々に忿争すも、奪う能わず、遂に罷めんことを求め、復た京城倉草場を領す。金水河を導き、皇城西より太廟を環ること凡そ十余里。三年、泗州を知りて出づ。占謝の日、自ら陳す「臣久しく京務を領し、頗る中外の観聴を慮り、臣の譴を負いて外遷すと謂わんことを、願わくは稍く其の秩を進めよ」と。詔して西染院使に改めて之を遣わす。任に至り、月を逾えて卒す。年五十八。其の子平を以て定遠主簿と為し、奉を給して喪を終わらしむ。

徳権は清苦に事を幹し、功利を興すを好み、経画すること多し。官吏の私に徇う者を見れば、必ず面して之を斥け、至る所整肅たり。然れども纖微を采察して以て上に聞かするを喜び、朝論之を悪む。

閻日新

閻日新は、宿州臨渙の人なり。少くして本州の牙職と為り、三司使役吏に補せらる。淳化中、選ばれて寿王府に隷し、邸中の記簿を主る。真宗即位し、擢て供奉官と為し、雄・・静戎軍の榷場を提点す。咸平元年、内殿崇班・永興軍駐泊都監に遷り、剣門関に徙し兼ねて剣門県を知り、就きて供備庫副使・慶州都監を加う。景德初、命ぜられて邠・寧・環州駐泊兵馬を管勾す。時に、部署張凝屡々辺界に入りて族帳を焚く。日新皆兵を提げて応援す。俄にして涇州を知る。未だ幾ばくもあらず、慶州に移る。上言す「野溪・三門等の族は嶮隘を恃み、桀黠にして制し難し。古川道を開き、東は楽業鎮に至り、西は府城に出ださんことを請う」と。之に従う。就きて供備庫使に転じ、環州を知り兼ねて邠寧環慶路鈐轄・縁辺都巡検使・安撫都監と為る。俄にして涇原儀渭路に換う。二年、如京使に遷り、万州刺史を領す。上陵に朝し、東封するに、皆命ぜられて行宮使と為る。

大中祥符初、文思使に改む。日新は胥史より起り、云為を好みて以て進取す。嘗て上言す「群臣の子弟蔭を以て官を得る者は、往々にして未だ童齔ならずして奉を受く。望むらくは今年より二十以上にして、乃ち廩を給せよ。又京城の百官早朝するに、学士・丞・郎・舍人以上は、導従嗬止甚だ盛んなり。趨避し難し。望むらくは令して裁減せしめよ」と。又屡々対請し、建白すること多し。且つ自ら筋力尚ほ壮んなるを陳し、願わくは正しく刺郡を授け、辺城を守らしめて以て效用せしめんと。

俄にして真に坊州刺史を拝し、渭州を知り兼ねて涇原路駐泊鈐轄と為る。将に汾陰を祀らんとす。故に同州事を知るに改む。儼信頓は即ち日新の所部なり。車駕至るに及び、迎謁し方物を献ず。労問すること久しく、遂に睢上に従祀し、襲衣・金帯を以て賜う。還りて新市鎮を過ぐるに、又綵楼楽伎を設けて以て駕を迎う。明年、徐州を知りて徙る。代わり還り、足疾を以て、右領軍衛大将軍・昭州団練使・単州知州に改む。疾益々甚だしく、許されて京師に還る。天禧初、卒す。年六十八。

靳懷德

靳懷德は、博州高唐の人なり。祖父昌範は殿中丞。父隠は禹城令。懷德は太平興国中に明法に及び、褐を解いて広安軍判官と為る。秩満し、鴻臚寺丞を授けられ、著作佐郎・太子左賛善大夫・相州通判を歴え、殿中丞・広州通判に改まり、国子博士・滄州通判に遷る。虞部・比部員外郎を歴え、又莫州通判、徳州知州と為る。

咸平中、契丹寇す。懷德城壁を固守し、又転運使劉通其の善政を言う。連ねて詔有りて之を褒む。密州知州に徙る。留後孔守正の鎮するに会い、代わり還る。塩鉄使陳恕・判官王濟其の武幹を薦む。如京使に換え、邛州知州と為る。懷德本名は湘。素より寇準の門に遊ぶ。準の父の名は湘。景德中、準方に相と為る。懷德乃ち名を改む。俄にして滄州を知る。大中祥符初、召し還され、復た之を任に遣わす。吏民転運使李士衡に詣りて懷德を借留せんと請う。士衡以て聞す。未だ幾ばくもあらず、文思使に遷る。三年秋、江左旱歉を以て、命ぜられて洪・虔等十州安撫都監と為る。未だ任に至らざるに、曹州知州に改む。

明年春、選ばれて益州鈐轄と為り、長州刺史を領するを加う。懷德歴官強幹を以て称せらる。然れども酗酒多く失あり。将に行かんとす。別に詔して戒勖す。真宗又面して之を諭し、就きて北作坊使に遷す。剣外に在りて、軍民甚だ之を畏愛す。復た善職を以て入り拝して西上閤門使と為り、昭州刺史を領するを改め、澶州知州と為る。是の州は水陸の要に居る。懷德心を悉くして撫治し、頗る政績著しく、使車往復するも、多く称誉す。又陝州を知る。年を逾え、闕に帰りて卒す。時に天禧元年、年七十三。

論じて曰く、世に全材乏しければ、則ち各其の長を録して用う。亦皆以て事功を集むる可し。允恭は心計有り、事を言うを好む。是の時、山を摘み海を煮し、方舟の漕は、規制未だ備わらず。故に其の建白に因りて之に従い、利甚だ博なり。羲も亦精しく心を敏く職にし、士大夫其の醞藉を許す。徳権は清廉強忮にして、名を矯り威を好む。然れども其れ謝泌を斥けて大臣は受辱す可からずとし、堂陛の分を識るは、長者の言なるかな。延德以下、遘会して進陟し、迭りに事任に居り、其の指使治跡、各取るべき者有り。