宋史

列傳第六十七 上官正 盧斌 周審玉 裴濟 李繼宣 張旦 張煦 張佶

上官正

上官正、字は常清、開封の人。若くして『三傳』に挙げられ、後に鄜州の摂官となった。雍熙年中、召されて殿前承旨を授かり、しばしば獄を鞫くことを遣わされ、供奉官・閤門祗候・天雄監軍に遷った。淳化年中、作坊副使・劍門都監に転じた。李順の乱の時、その党が劍門に向かうのを分かち、時に疲弊した兵数百人であったが、正は士気を奮い立たせてこれを防いだ。たまたま成都監軍宿翰が兵を率いて劍門に投じ、正の兵と合流し、これに迎え撃って、賊数千の衆を大いに破り、斬り取ること殆んど尽くした。奏上が届くと、太宗はこれを嘉し、詔書で褒め戒め、併せて襲衣・金帯を賜い、正を超えて六宅使・劍州刺史・剣門部署を充て、翰は供奉官から崇儀使に抜擢し、昭州刺史を領した。数ヶ月後、正は病にかかり、医を尋ねることを請い、闕下に至った。病が癒え、入対すると、上は久しく労い問い、再び任所に遣わし還し、金丹・良薬・衣帯・白金千両・馬三匹を賜い、方略を授け、残党を招撫するよう命じ、慰め励まして遣わした。

初め、川の賊は甚だ盛んで、朝議は深く棧路を憂いとしたが、正は孤軍で力戦し賊の鋒を挫き、これより閣道に塞がりなく、王師は長駆して入ることができた。賊の衆三百余りが敗れて成都に帰ると、順はその衆を驚かせたことを怒り、ことごとく斬ったが、然れどもこれより気を沮喪させた。後に賊が既に誅せられると、余寇は山谷に匿れ、険を恃んで結集し、剽劫して患いとなった。王継恩は百方に召し誘ったが至らず、正は朝廷の恩信をもって諭すと、皆相率いて出降した。未だ幾ばくもせず、峰州団練使を加えられ、雷有終と共に西川招安使となり、王継恩に代わった。

正は木強で人を凌ぐことを好み、自ら賊を平らげた功があると謂い、人主に知られて、顧み憚ることがなかった。数度にわたり面と向かって両川の官吏の短所を攻めこれを暴露し、衆は怨み怒りを積み、多く上章してその不法を訴える者がいた。太宗は近臣に謂いて曰く、「人臣で任用すべき者は、朕は常に保全せんと欲する。正は婞直にして謙和を失い、謗書が至る毎に、朕は力を尽くして明らかに弁じるが、然れども衆怒は犯し難く、その自ら全うせざるを恐れる」と。乃ち手札を賜い戒めて諭して曰く、「言は君子の枢機なり、枢機の発するは栄辱の主なり、慎まざるべからざるなり。事に遇うて輒ち発すれば、悔ゆるも及ばず。もし自ら瑕なきを恃みて、人の短を面と向かって攻むるを好むは、豈に喜怒色に形せざるを謂うや。和輯して遠民を念うを以て当とすべし、斯れ善を尽くすなり」と。正は上表して謝した。

真宗即位の時、莊宅使に改めた。この秋、広武の叛卒劉於が数千の輩を嘯聚し、都巡検使韓景祐を逐い、漢しょく邛州・懷安永康軍を略した。正は鈐轄馬知節と兵を率いて新津に趨き、方井に抵り、これを撃ち破り、劉於を斬り、その党を平らげた。南作坊使に遷り、錦袍・金帯を賜った。咸平初年、召還され、東上閤門使・勾当軍頭引見司に擢拝され、俄かに権戸部使となった。二年、出て滄州を知り、高陽関副都部署に移り、真に洺州団練使を拝した。車駕が北巡する時、行営先鋒鈐轄とした。

未だ幾ばくもせず青州を知ることとなったが、行かず、たまたま王均が蜀に叛き、峽路都鈐轄を命じられ、梓州知事に移った。また滄・瀛・鎮・貝の四州、高陽関部署を歴任した。足疾のため、磁州知事を求め、手詔で慰め励ました。たまたま邢州が地震し、民居安んぜず、正を移してこれを典とした。潞州に移った。景德年中、河北が新たに兵革を経たため、守臣を慎んで選び、正を以て貝州知事とし、洺州防禦使に遷り、再び滄州知事となり、同州に移った。再び表を上って引年を請い、左龍武軍大将軍・平州防禦使を授かり、西京に分司した。未だ幾ばくもせず本官のまま致仕し、全俸を賜い、なお見緡を以てこれに給した。四年、卒す。年七十五。子の璨は内殿崇班に至った。

盧斌

盧斌、開封の人。筆札をもって晋邸に事え、太宗即位の時、殿直を補った。雍熙年中、兵を領いて州に屯した。たまたま大挙して北伐し、五千騎を以て曹彬に随い祁溝に抵るよう命じられた。時に契丹は河を占拠し、王師は水に乏しく、斌は千弩を以て砦を斬ることを請うと、契丹は遁去し、遂に軍を移して河を夾した。既に涿州を克つと、斌に万人を以て戍守するよう命じたが、たまたま食尽き、大兵将に還らんとし、斌は因って懇ろに言う、「涿州は深く北境に在り、外に援兵なく、内に資糧なく、丁籍は残失し、これを守るに利なし。今若し還師すれば、必ず陣を結びて去るべく、一陣の役を以て、固守に比すれば、その利百なり」と。また遼人の便に乗じて剽襲するを慮り、これが備えを為すべしとした。彬は然りと以為い、遂に斌に城中の老幼を擁し、併せて狼山より南に還り易州に至らしめた。彬の還るや、行伍を復たず、果たして契丹に乗ぜられた。諸将は皆失律を以て譴責を受けたが、斌もまた枢密院に下って状を問われた。太宗はその嘗て涿州を棄つことを建議したと聞き、遂に釈して問わず。霸州破虜軍縁辺巡検とした。

端拱年中、また永挙軍・華州巡検となった。時に大賊侯和尚・劉渥が興平・櫟陽を劫略し、捕賊官二人を殺した。斌は兵を率いて掩襲し、且つ追い且つ闘い、南山に迫り、渭水を渡り、鳳翔に抵り、また耀州に至り、擒斬併せて尽くした。労により、供奉官に改めた。召還され、面を加えて奨め慰め、閤門祗候を授け、また白金・緡錢・衣帯を賜った。未だ幾ばくもせず梓・遂十二州都巡検使となり、太宗はこれを諭して曰く、「川陝の人情は揺らぎ易く、もし寇攘あらば、他の境であっても襲逐すべく、なお便宜に従事することを許し、中覆を須いず」と。淳化二年、賊の任誘等が昌・合州を寇した。斌は兵を率いて昌州南の牛鬥山に頓し、賊が龍水鎮に在ることを偵知し、大雨に値い、斌は馬を馳せて四十里、騎従数十人、遂に任誘等百余級を斬り、賊衆悉く平らげた。

三年、富順監の蛮が栄州を掠め、斌は晨夜倍道して赴き、州兵千人を得て、随軍糧料に署してその勢いを張った。蛮は乃ち遁れ、地頭鎮の東南八十里まで追い、柵を樹て、その酋の甫羌一阿奴綱を招き、朝旨を以て諭し、血を歃って石に刻み盟してこれを遣わした。俄かに栄・戎・資州・富順監の賊十五隊が郷邑を鈔した。斌は三百人を擒え、部を分けて闕下に送り、余は悉く臨敵して斬り戮した。

四年、賊の王盡復が栄州・資州にて蜂起したので、斌はこれを撃滅し、ことごとく縛して献上した。内殿崇班に遷る。この冬、李順が乱を起こすと、斌は直ちに兵六百を率いて成都に至り、連月戦闘し、数万人を殺した。翌年、成都が守られず、斌は梓州に還り、十州の兵を集めて救援に赴き、知州張雍は監護の任を委ねた。ちょうど江水が氾濫し、子城を毀った。斌は州民を勧諭し、翌日、畚鍤が大いに集まり、城西の大濠より深さ一丈の塹を掘り、西河水を決してこれを注ぎ、城を環らせた。二月、賊の渠帥相里貴の衆二十一万が城下に迫り、城中の兵はわずか三千であった。斌は言う、「軍法に倍兵は戦わずとあるが、しかし狂える醜虜は烏合の衆であり、訓練された師ではない。我らが天子の威霊を仗るをもって、必ずや殲滅掃蕩できよう」と。即ち士伍を感厲し、土を負って南北の門を塞ぎ、固守の計を為した。また突出して賊と戦い、三十余合を撃刺し、賊は少し退いた。やがてまた大いに機石・連弩・衝車・雲梯を設け、四面より鼓噪して城に乗じ、矢石乱れ下る中、斌は州将と共に機に随って設備した。長囲八十日、ちょうど王継恩が石知顒に兵を率いて来援せしめると、斌は東門を出て王師を迎え労い、賊は戦わずして潰走した。斌は勝に乗じて追撃斬殺し、降伏を受け入れること二万余。五月、賊数万が閬州を囲むと、斌は千兵を率いてこれに赴き、五千を斬首し、囲みは遂に解けた。また蓬州老鴉山に至ると、賊衆三千が陣を為して斌を拒んだが、斌はこれを撃破し、城下に至ると、賊は再び大いに集結したので、三千級を斬った。蓬州が平定されると、斌は詔を伝えて蓬・閬・渠・達の四州を安撫し、西京作坊使に擢授され、成州刺史を領した。

斌は川峡にて六年、孤軍をもって寇を防ぎ、累ねて戦功を立て、上表して入奏を求めた。太宗は使者を遣わして諭して言う、「妖孽尽く殄滅するを俟ち、当に汝を召さん」と。既にして賊党が梓・綿・漢の三州の境上に集結すると、斌は往きてこれを平定した。未だ幾ばくもせず、代わって還ると、太宗は親しく労問を加えた。東上閤門使・検校左僕射を拝し、食邑三百戸を加えられ、白金千両・袍笏・金帯を賜う。上言する、「葭萌路より出師して賊を討つは、直ちに利州に入るべし。若し寇が棧道を焚かば、剣門の険も以て固うするに足らず。砦柵を置くことを請う」と。これに従う。

尋いで銀・夏兵馬鈐轄を命ぜられ、李継隆ら五路の出師に遣わされて李継遷を討たしむ。斌は対面を求め、懇ろに言う、「羌夷の族は、馬驕り兵悍く、往来定まり無く、敗るれば則ち他境に走り、疾く沙漠に戦うは、天兵の利する所に非ず。堅く霊州を保ち、内地に多く芻糧を積み、師を以て援送するに若かず。苟くも其の至るや、兵を会して首尾よりこれを撃てば、庶幾くは枉費無くして、固圉の策を失わざらん」と。時に既に出師した後であり、その議に従わなかった。霊環路鈐轄に改授され、兵二万を領して前鋒と為し、烏・白池にて諸軍と会することを令せられた。斌は李継隆に謂う、「霊州より烏・白池に至るは、月余を方として至る。若し環州橐駝路よりせば、わずか十日の行程なり」と。即ち詔を俟たずして往き、諸将と期を失い、賊を見ずして還った。やがて寧州に徙屯し、疾を以て召還され、軍頭引見司を勾当した。咸平初年、卒す。年五十。子の文質は殿中丞。

周審玉

周審玉は開封の人。父の勲は、親校として唐の明宗に事え、累ねて戦功を立て、太平興国年中、隰州団練使に至った。周の顕徳初年、審玉は蔭補により殿直となり、世宗に従って瓦橋関を平らげ、甚だ親信せられた。太祖が禅を受けると、供奉官となり、未だ幾ばくもせず、閤門祗候を加えられた。累遷して崇儀・洛苑副使、西京作坊使となる。雍熙年中、契丹が塞を犯すと、潘美は師を定州に屯し、審玉は監軍と為った。嘗て敵と戦い、先鋒の劉緒が賊に陥ると、審玉は馬を躍らせて趣き撃ち、緒を抜き出して還り、勇敢を以て聞こえた。

淳化年中、貝州を知る。ぎょう捷卒として州に戍する者三十七人、同謀して審玉を殺し、庫兵を劫いて叛かんとし、虞候の趙咸雍を推して首と為した。審玉はこれを覚り、転運使の王嗣宗と兵を率いて其の党を悉く擒え、十五級を斬り、咸雍を市にて磔いた。先に、咸雍の父の鏻は、晋の天福年中、嘗て契丹を誘いて州城を屠った。ここに至ること五十年、而其の子が都市にて戮せられ、旧老なお其の事を記憶し、咸しくこれを異とした。審玉は功により順州刺史を領した。

至道初年、幷州鈐轄に徙る。咸平初年、鳳翔府を知る。桑門が伝乗して西行し、木を市うるを名とし、府県を威動せしむる者有り。審玉は言う、「此れ倚る所有りて為すなり」と。因って按詰し、尽く其の奸状を得、其の背を杖ち、械して闕下に送った。目疾のため、代わって還り、奉朝請し、やがて内艱に遭う。既にして親友に謂う、「僕は歯髪遅暮たりと雖も、未だ禄仕を辞せざるは、良く母心を慰めんが為の爾り。今其の志を行うべし」と。乃ち章を拝して請老し、千牛衛大將軍を以て致仕するを得た。三年、卒す。年七十四。審玉は晚年、『神農本草』を読むを好み、方術に留意した。少くより兵間に長じ、攻守の法を習い知る。真宗は嘗て便坐に召し至らせ、攻戦の器を示した。方に奏対するに、疾発し、詔して使者を就第せしめ、白金を賜って慰恤した。子の允迪は虞部員外郎と為る。

裴濟

裴濟は字を仲溥といい、絳州聞喜の人。唐の宰相耀卿の八世の孫、後に家を河中に徙す。濟は少くより晋邸に事え、同輩に忮悍なる者有り、濟は屡々其の過失を糾し、譖せられて出でて太康鎮将を補す。未だ幾ばくもせず、濟を譖る者坐法す。太宗は濟の任に堪うるを知り、即位するに会い、殿直を補し、天威軍兵馬監押と為す。及び太原を平らげ、幽薊を征するに及び、濟は迎謁陪扈し、軍を監して易州せしめ、契丹城を攻めて下す能わず。労により、西頭供奉官に遷る。

太平興国末、江表に盗起こり、巡検を命ぜられ、崇儀副使に遷る。召還され、崇儀使に遷る。威虜軍に戍兵を監し、塗次鎮州、夜に賊騎有りて城門を叩き、大呼して曰く「官軍至れり」と。州将然りとし、守吏を促して関を開かしむ。濟は遽かにこれを止めて曰く「此れ必ず妄りなり」と。旦に及び、果たして敵兵有りて遁ぐ。太宗これを嘉し、西上閤門使・定州都監に遷し、就いて行営鈐轄を加え、尋いで定州を知る。契丹三万騎来たりて攻むると、濟は徐河にて逆撃し、数千級を斬り、牛馬・鎧仗甚だ衆くを獲る。

淳化初年、周瑩と同判四方館し、未だ幾ばくもせず、鎮州行営鈐轄と為る。又た李継隆と賊を唐河にて撃ち、濟は短兵を以て陣に陥り、賊大いに敗走す。優詔を以て褒美す。初め、継隆は濟の性剛なるを以て、これを悦ばざりしが、是の役に及び、濟を撫でて相知るの晩きを恨んだ。四方館使に改め、再び定州を知り、天雄軍鈐轄に徙る。客省使に遷り、再び定州を知る。至道二年、内客省使に改め、鎮州を知る。立春日、土牛を出して祭り、酌奠始めて畢るや、卒有りて牛を挟み去る。濟は其の挙止を察し、変を為さんと欲するを知り、亟に命じてこれを擒えしむ。果たして窃発する者数十人、已に鄽間を劫せり。悉く蒐捕して腰斬し、軍民粛然たり。濟は鎮・定に在ること凡そ十五年、威績甚だ著しい。召還され、天雄軍を知る。

咸平初年、李継遷が叛くと、張済を順州団練使・霊州知州兼都部署に任じた。州に至って二年、八鎮を整備し、屯田の利を興し、民は大いに頼りとした。その年、清遠軍が陥落し、西夏軍が大挙集結し、糧道を断ち、孤軍は援軍を絶たれた。張済は指を刺して血で奏状を染め、救援を切に求めたが、兵は至らず、城は陥落し、戦死した。皇帝はこれを聞き嘆き悼み、特に鎮江軍節度使を追贈した。三人の子は皆優遇されて官位を進めた。張済は諸使の中でも甚だ声望があり、死ぬと、西夏人も皆惜しんだ。景德年中、張済の妻永泰郡君景氏が卒去すると、特詔で平陽郡夫人を追封し、諸子には喪が終わるまで俸給を与えた。

子の張徳穀は虞部郎中に至り、張徳基は如京使に至り、張徳豊は殿中丞に至った。張済の兄張麗澤、弟張麗正は共に進士及第した。張麗澤は右補闕に至り、張麗正は金部員外郎に至った。張麗正の子張徳輿は、殿中丞となった。

李継宣

李継宣は、開封浚儀の人である。乾徳年中、右班殿直に補任され、御帯と交代で宿直することを命じられ、僅か十七歳であった。嘗て陝州に虎を捕らえに行くことを命じられ、二十余頭を殺し、二頭の虎と一頭の豹を生け捕りにして献上した。太平興国初年、南作坊使を管掌し、供奉官に改め、出て邠州・寧州・慶州の三州巡検・都監となった。李継宣は本名を継隆といい、明徳皇后の兄と姓名が同じであった。ここに至り、太宗がこれを改めさせた。

五年、召還され、定州路の奏事を承受した。詔を奉じて長城口・平塞・威虜・静戎軍・保州を修築し、また兵を率いて敵境に入り、老幼千余人、牛畜数百頭を捕獲した。また兵を率いて乾寧の泥姑海口で契丹を防いだ。契丹が静戎軍を寇すと、崔彦進に従って拒馬河を渡り接戦し、午より申に至るまで、これを大いに破った。また貝州監軍となった。

雍熙三年、曹彬が北征すると、李継宣は先鋒李継隆に従って方城に至り、三日間力戦し、大軍が続いて到着し、遂に固州を陥れた。進んで涿州の東に陣を築き、また敵と戦い、乗勝して北門を攻め、これを陥れた。日々軽騎を率いて涿河を渡り、敵の情勢を偵察し、また五千騎を率いて米信を救援し、勁騎を率いて新城の北まで追撃し、これを大いに破り、その酋長賀恩相公を斬り、李継宣も流れ矢に当たった。大軍が雄州に戻って糧秣を取ると、契丹に新城で遭遇し、激戦して暮れに至り、李継宣は十ヶ所の傷を受け、剣は兜鍪に及んだ。翌日再び戦い、李継隆が敵に遮られると、李継宣は配下の兵でこれを救い出し、戦いながら進み、涿河を奪い、数日を経て、ようやく涿州に至った。州を棄てて岐溝関を守ると、また拒馬河上で戦い、追撃して孤山に至り、契丹はようやく退却した。満城に留まって駐屯し、間もなく貝州に戻った。召し入られ、功により超えて崇儀使に任じられ、王継恩に代わって易州駐泊都監となり、銭五十万、白金五百両を賜った。また騎兵五千を率いて北平を守り、大陣の東側を押さえ、田重進の節度を受け、長城口に駐屯した。敵が大溝に至ると、李継宣は満城に進んだ。敵が定州に至り、唐河橋を奪うと、田重進は李継宣と田紹斌を召し出して救援に向かわせたが、田紹斌は敵に敗れ、李継宣は独り配下を整えて転戦して定州に入った。敵兵が北去すると、田重進は五千騎を率いてその後を追跡することを命じ、拒馬河に至った。敵が楊疃を占拠すると、李継宣は直ちにこれを急襲し、敵は家屋を焼いて遁走した。

雍熙四年、高陽関行営都監となった。端拱初年、契丹の騎兵が瀛州・鎮州に至ると、李継宣は歩騎一万人を率いて敵境に入り、勝務に抵り、集落を焼き、捕虜を獲たので、契丹はようやく引き返した。時に易州の偵騎が至らず、李継宣は易州・平塞軍・長城口・威虜・静戎・順安軍から高陽に至るまで、望楼七所を築き、烽火を挙げて緊急を報せた。二年、鎮州・定州・高陽関の三路排陣都監となり、大陣の西側を押さえた。李継隆と共に糧秣を威虜まで運び、帰途徐河を渡ると、敵に追襲された。李継宣は軍を駐めて戦い、多くを殺傷捕獲した。また騎兵二千を率いて、保州西の射城で契丹を破り、西山に迫り、詔書で褒め称えられた。

淳化三年、保州知州に転じ、さらに庄宅使に転じた。関城を築き、外濠を浚い、営舎千五百区を修繕した。船二百艘を造り、鶏距泉に入れて糧食を運ばせ、人々は皆便利とした。数ヶ月後、定州行営都監に転じ、深州を守り、高陽関行営都監に改めた。軍中の勁弩を訓練し、戦陣に入る備えとした。五年、高州刺史を兼ねた。契丹が海を渡って千乗県を劫略すると、李継宣は海口に砦を設置して防ぐことを請うた。

至道三年、北作坊使に遷り、間もなく召還され、南作坊使を加えられ、出て鎮州行営鈐轄となった。契丹が定州を寇すと、無地分馬を主管することを命じられた。敵が懐徳橋に至ると、李継宣は兵三千を率いてこれを急襲した。到着すると契丹は既に橋を破壊しており、李継宣は丸木を渡して渡河し、五十余里を追撃した。契丹が鎮州の中渡・常山の二橋を焼くと、李継宣は兵を率いて急行し、契丹は豊隆山砦を守った。李継宣が木材を伐って常山橋を修復すると、契丹はこれを聞き、大いに恐れ、砦を抜いて遁走した。

李継宣は追撃に鋭く、傅潜が部署であった時、李継宣は傅潜の下に出向いて出撃を請うたが、甚だ抑えられた。傅潜が召還されて官吏に付されると、詔で李継宣と高瓊が共に軍事を主管し、敵を拒馬河を越えて追撃し、再び鎮州鈐轄となった。詔を受けて辺境の城砦を巡視し、威虜軍の権知を兼ねた。敵騎が城下に至ると、屡々出兵して伏兵を設け、斬獲甚だ多かった。間もなく鎮州に戻った。

咸平四年、西上閤門使に任じられ、康州刺史を兼ね、前陣鈐轄となり、秦翰・楊延昭・楊嗣と分かれて静戎・威虜に駐屯した。敵が至ると、威虜で会師し、楊延昭・楊嗣は軽騎で先に羊山に向かい、李継宣は秦翰と左右の隊に分かれ各々配下を整え、秦翰の全軍もまた向かったが、李継宣は赤虜に陣を留め、僅か二騎で続いて進んだ。到着すると、丁度楊延昭・楊嗣が敵に襲われていた。李継宣は直ちに赤虜の軍を召し寄せ、秦翰の軍と合流して大戦し、敵は羊山に逃げ上った。李継宣はこれを追撃し、山麓を巡ってその北側に至った。李継宣の馬は連続して矢に当たり斃れ、凡そ三度馬を乗り換え、牟山谷に進んで大いに勝利した。楊延昭・楊嗣・秦翰の軍は、初め赤虜に駐屯していたが、やがて退いて威虜を守った。李継宣は独り配下の兵で敵と戦い、日暮れになって、ようやく威虜に至った。詔書で称揚され、特に検校官と食邑を加えられた。

翌年、定州鈐轄に転じ、唐河で契丹を防いだ。時に辺境都巡検使楊延昭・楊嗣が敵を防いで敗れると、詔で李継宣と内殿崇班王汀が代わった。望都の敗戦で、敵騎が郡県を掠奪すると、李継宣は徐河に陣を築き、契丹数十隊が威虜に迫った。威虜の魏能が戦い、これを退けたが、李継宣が到着したのは久しくなってからであった。また静戎を寇すと、王汀は分兵して自ら将として契丹を襲うことを請うたが、李継宣はこれを拒み、日々遊騎を出して敵情を偵察し、屡々砦を移したが、ついに出戦しなかった。魏能・王汀に告発され、召還され、枢密院で事情を問われ、如京副使に降格された。

景德初年、如京使・鎮州鈐轄を加えられた。契丹が秋に乗じて攻めて来ると、時に桑贊は足を病み、鄭誠は定州に赴き、李継宣が独り鎮州の全軍を主管し、邢州・趙州に駐屯した。契丹と和すると、高陽関鈐轄を命じられた。この冬、再び西上閤門使となり、康州刺史を兼ねた。三年、瀛州知州を兼ねた。李継宣は字をほとんど識らず、皇帝は河間郡の事務が繁雑なのを慮り、訴訟に冤罪があることを憂えて高継勳に代えさせ、鈐轄のみとした。

大中祥符の初め、鎮・定両路鈐轄に転じ、東上閤門使に進秩した。召還されて鄆州部署に改め、四方館使を加えられた。病のため、西京水南都巡檢使を授けられたが、毎夜の巡警が稀であったため、留司に挙発され、特詔により巡檢一員を増員し、専ら夜間巡邏を主管させた。六年、病が重くなり、京師に至り医を求めることを請い、卒去した。享年六十四。子の守忠は、左侍禁・閤門祗候となった。

張旦

張旦は趙州の人である。勇敢で射術に優れ、経学によって科挙に及第し、国子博士に至った。淳化年中、陵州知事となった。時に李順が乱を起こし、相次いで城邑を陥落させた。賊党数万が陵州を攻撃したが、州兵は三百に満たず、従来より城塹を設けていなかった。旦は戦具を修繕整備し、鹿角砦を設置し、市人を駆り立てて進撃し、これを大いに破り、五千余人を殺し、器械を万単位で鹵獲した。詔書がこれを褒め、特旨により水部員外郎に遷任し、緋魚袋を賜り、これによって名を知られるようになった。数か月後、西川招安使上官正が言上した。「雅州は蛮蜑に密接し、鎮撫には適任を得る必要があります。伏して見るに、水部員外郎張旦は以前陵州を守り、孤軍をもって群寇に抗し、壁壘を保全し、今なお剣門関の外でその威名を畏れさせております。諸司使に改授し、州事を知らせますよう望みます。」上は省郎の重職であるため、他の職に換えることを欲せず、刑部員外郎を授け、金紫を賜った。駅伝に乗って任地に赴くと、寇は敢えて侵犯しなかった。

真宗が即位すると、兵部員外郎に遷り、尚食使・徳清軍知軍に改められた。景德年中、契丹が侵入し、軍壁を陥落させた。旦はその子の利涉と共に衆を率いて奮撃し、共に戦死した。上はこれを聞き驚き悼み、特旨により左衛大将軍・深州団練使を追贈し、利涉には崇儀副使を追贈した。その四子に官を録した。時に上封事する者がおり、朝廷は恩典を優しく加えるべきで、忠臣を勧めるべきであると述べた。詔して旦を恤う事を以て天下に告諭した。

また虎翼都虞候の胡福が軍城を戍守し、兵を率いて力戦し、金創が全身に及びながらも、なお剣を奮って転戦し、矢は虚発なく、麾下の兵が既に尽きた後も、独り刃を挺てて数十人を殺した。副指揮使の尚祚は大撾を振るうことができ、斬った首や肋骨を引き裂いた者も百余人に上り、衆寡敵せず、遂に指揮使の張睿・劉福・都頭の輔能等の四人と共に死んだ。真宗はその忠勇を嘉賞し、使者を遣わして遺骸を訪ねさせたが、胡福の屍のみを得たので、その子に命じて厚く葬らせた。胡福に洺州団練使を、尚祚に濱州刺史を、張睿に演州刺史を、劉福に臨州刺史を追贈し、輔能等には皆諸衛率府副率を追贈した。また邯鄲県令の李晦辞が赴任する途中、道路が塞がれ、徳清に留まって共に敵に抗した。侍禁の夏承皓が兵を部勒して大名の境界に至り敵に遭遇し、皆戦死した。晦辞に工部員外郎を、承皓に崇儀使を追贈した。時にまた河朔で事を受け戦死した者に、殿直の劉超に供備庫使を、入内高班内品の李知順に六宅副使を、奉職の胡度等三人に内殿崇班を追贈し、更に各々その子を録用し、その家に金帛を賜った。

張煦

張煦は字を輔暘といい、開封の人である。開宝末年に府中の牙職を補任された。雍熙二年、自ら陳べて太宗が京尹であった時に左右に仕えたことがあると述べ、命ぜられて殿前承旨となり、殿直・歙州監軍に遷った。凶人黄行達の弟が法に坐して死罪に当たったが、行達が州将を誣告して故意に罪を入れたと訴えた。詔して宣州通判の姚鉉と煦にこれを審理させたところ、即日に判決して処分した。還って供奉官・閤門祗候に抜擢された。拝謝の日、また内殿崇班・鎮定・邢・趙・山西・土門路都巡檢使に改められた。契丹の騎兵が境上を略奪したので、煦は配下部隊を率いて数十の首級を斬り、これを敗走させた。葛霸・周瑩・李継宣がその幹事としての挙措を称え、詔があり嘉奨した。交代で還朝し、供備庫副使を拝し、環州権知州となった。数か月後、岢嵐軍使に改め、また保安軍知軍となった。

咸平年中、王均が蜀で乱を起こすと、煦を綿・漢・剣門路都巡檢使とした。また雷有終と共に成都を進攻し、煦は東砦を主管し、その外城及び楼櫓を焼き、均は包囲を突破して遁走した。賊が平定されると、功績により正使に就任して遷任し、益州都監に転じ、知州の宋太初と共に本路諸軍事を提総した。戦艦の兵卒が謀って動揺させようとしたが、煦は即日にこれを斬った。

夏人が辺境を侵犯すると、涇原儀渭都鈐轄に改められた。また邠寧環慶路鈐轄兼巡檢・安撫都監となり、累次にわたり寇を追って賊中に踏み込み、多くを掩襲殺戮し、詔があり嘉奨した。時に王超・張凝・秦翰を派遣して霊武を救援することとなり、煦を西路行営都監に命じた。鎮戎軍に至り、霊武が既に陥落したと聞き、再び本来の任に戻った。張凝と共に西夏境内に入り、白豹鎮から出て柔遠川に至ると、夏人七百余が邀撃して戦いを挑んだので、煦は慶州監軍の張綸と共に多くを撃殺した。清遠故城に酋長がおり、甲騎三万を率いて降伏を請うた。煦と張凝は「これは詐りである」と言い、急いで厳兵してこれを待ったところ、果たしてその通りであった。張凝が部内巡視から環州に帰還する途中、道中で敵に邀撃された。煦はこれを聞き、配下の精鋭を率いて慶州から救援に赴き、一夜にして張凝と会合し、その大将を射殺し、張凝と共に還った。

景德元年、賀州刺史を加領し、再び涇原儀渭鎮戎軍鈐轄となり、また環州知州となった。四年、宜州の戍卒陳進が反乱を起こすと、曹利用の副使として広東西路安撫使に命じられた。賊衆は判官宜州の盧均を擁立し、南平王を僭称し、象州を包囲した。煦は兵を率いて利用と会し、これを斬った。初め利用と共に紙に署名し、人ごとに百枚を持たせ、功を立てた将士に給与する準備をした。賊を破った時、利用は前軍にいて何も与えず、煦は後軍にいて給与したものが過半数に及んだので、真宗はその行き過ぎを指摘した。賊が平定されると、如京使に改め、懐州知州となった。

東封の年、河陽鈐轄を権任し、文思使・曹州知州に遷った。時に江・淮で災害による凶作があり、大藩の長吏を分命して綏撫させ、煦を江南西路安撫都監とした。まもなく済陰に還り、北作坊使を加えられ、また滄州に転じ、宮苑使に転官し、康州刺史を領した。大中祥符九年、昭州団練使を加領し、鄜州知州となった。間もなく、また滄州知州となった。天禧三年、西上閤門使を拝し、幷代鈐轄に転じた。老病のため近隣の州郡を求め、磁州知州を得た。四年、卒去した。享年七十三。煦は術数に明るく、宅相をよくし、時にその妙を称えられた。

張佶

張佶は字を仲雅といい、本来は燕の人であったが、後に華州渭南に移住した。初めの名は志言といったが、後に改めた。父の昉は殿中少監であった。佶は若くして志節があり、初め蔭補により殿前承旨となり、儒業を修め、文章を献上して試験を求め、国子監丞に換官された。著作佐郎・三白渠監・涇陽県知県に遷った。端拱初年、太子右賛善大夫となった。曹州の民に誣告されて殺人罪に問われた者がおり、詔により往ってこれを審理し、奸悪の隠れた事実を摘発し、冤罪を被った者が雪冤を得た。まもなく忻州通判となり、殿中丞に遷り、御河督運を兼ねた。

至道年間(995-997年)、陝州の通判となり、再び糧秣を霊武に護送し、そのまま国子博士に改任された。咸平初年(998年)、陝西転運副使に抜擢され、緋魚袋を賜った。延安に至り、夏人の侵入に遭遇し、自ら兵を督してこれを撃破した。三年(1000年)、西川転運副使に転任した。時に詔が王均を討つに当たり、糧秣供給の功労により、虞部員外郎に昇進した。賊が平定されると、川峡路を四路に分割し、曹佶を利州路転運使とした。その武勇と才幹を推薦する者がおり、召還されて如京使・涇原鈐轄兼知鎮戎軍を授かった。麟府路鈐轄に転任し、夏人が来寇したので、曹佶は兵を率いて戦い、自ら酋帥を射殺し、捕虜や鹵獲品は甚だ多く、残党は遁走した。詔書でこれを褒め、錦袍・金帯を賜った。景德年間(1004-1007年)、益州鈐轄に転任し、宜州刺史を加官され、文思使に昇進した。曹佶は軍を統御し民を撫でるに、威厳と恩恵が甚だあり、蜀人は久しくして尚これを懐かしんだ。

大中祥符四年(1011年)、皇帝が汾陰を祀るに際し、西京旧城巡検・鈐轄とした。祭祀が成ると、北作坊使を加授され、趙徳明官告使を充てた。また鄜延鈐轄となった。時に秦州の李浚が急死し、皇帝は近臣に語って「天水は辺境の要地、速やかに適任者を得るべし」と言った。馬知節が曹佶を推薦したので、皇帝はこれを認め、左騏驥使に改め、そのまま秦州知州に任命した。州に至り、四門砦を設置し、疆境を開拓したので、辺境の部族は甚だ怨んだ。また渭水のほとりに木材伐採場を設けると、戎人はこれと争わず、帳を移して去った。曹佶はあまり慰撫を心掛けず、また恩賞を加えるよう奏上もしなかったので、辺境の民は後悔し、衆を率いて劫掠した。曹佶は深く侵入して急襲し、これを敗走させた。議者の中にはまた宗哥・立遵等の族に恩を加えて平夏を扼しようとする者もあったが、曹佶はこれを拒絶するよう請い、事は『吐蕃伝』に詳しい。朝廷は初め辺境の安寧に務めようとし、曹佶が軽信して事を易く見るとして、邠寧路鈐轄に転任させた。天禧初年(1017年)、契丹国信副使に召され、再び邠寧を任され、邠州知州を兼ね、宮苑使に昇進した。一月も経たずに、西上閤門使に抜擢され、再び涇原鈐轄となった。四年(1020年)、卒去。享年六十九。

曹佶は書史に広く通じ、詩を詠むことを好み、勇敢で弓術に優れ、方略を有し、軍を総べ塞を護るに、威名を以て自ら任じた。子の宗象は、兵部員外郎・直史館・度支判官となった。

論じて曰く、古より盛徳の世といえども、未だ嘗て辺境の患い無きことはなく、要は果毅の臣を得てこれを扞禦するに在り。昔人の言に「誰か兵を去ることを能わん」とあり、漢祖もまた云う「安んぞ猛士を得ん」と、蓋し此れが為なり。李順が蜀に叛き、郡邑を攻め陥すや、雷徳驤は剣門を捍ぎ、裴庄は梓潼を守り、その績最も多し。契丹の入寇に、李継宣・李延渥は、重囲の中より陥没した将を抜き出し、固より余勇有り、曹佶・上官正は西南に力を宣べ、勤勉で威恵有り、亦皆取るべきもの有り。馬知節・張煦は孤城を以て強寇を捍ぎ、援絶えて戦死し、一代の死事の表表たる者、其れ泯ぼすべけんや。