上官正
上官正、字は常清、開封の人。若くして『三傳』に挙げられ、後に鄜州の摂官となった。雍熙年中、召されて殿前承旨を授かり、しばしば獄を鞫くことを遣わされ、供奉官・閤門祗候・天雄監軍に遷った。淳化年中、作坊副使・劍門都監に転じた。李順の乱の時、その党が劍門に向かうのを分かち、時に疲弊した兵数百人であったが、正は士気を奮い立たせてこれを防いだ。たまたま成都監軍宿翰が兵を率いて劍門に投じ、正の兵と合流し、これに迎え撃って、賊数千の衆を大いに破り、斬り取ること殆んど尽くした。奏上が届くと、太宗はこれを嘉し、詔書で褒め戒め、併せて襲衣・金帯を賜い、正を超えて六宅使・劍州刺史・剣門部署を充て、翰は供奉官から崇儀使に抜擢し、昭州刺史を領した。数ヶ月後、正は病にかかり、医を尋ねることを請い、闕下に至った。病が癒え、入対すると、上は久しく労い問い、再び任所に遣わし還し、金丹・良薬・衣帯・白金千両・馬三匹を賜い、方略を授け、残党を招撫するよう命じ、慰め励まして遣わした。
初め、川の賊は甚だ盛んで、朝議は深く棧路を憂いとしたが、正は孤軍で力戦し賊の鋒を挫き、これより閣道に塞がりなく、王師は長駆して入ることができた。賊の衆三百余りが敗れて成都に帰ると、順はその衆を驚かせたことを怒り、ことごとく斬ったが、然れどもこれより気を沮喪させた。後に賊が既に誅せられると、余寇は山谷に匿れ、険を恃んで結集し、剽劫して患いとなった。王継恩は百方に召し誘ったが至らず、正は朝廷の恩信をもって諭すと、皆相率いて出降した。未だ幾ばくもせず、峰州団練使を加えられ、雷有終と共に西川招安使となり、王継恩に代わった。
正は木強で人を凌ぐことを好み、自ら賊を平らげた功があると謂い、人主に知られて、顧み憚ることがなかった。数度にわたり面と向かって両川の官吏の短所を攻めこれを暴露し、衆は怨み怒りを積み、多く上章してその不法を訴える者がいた。太宗は近臣に謂いて曰く、「人臣で任用すべき者は、朕は常に保全せんと欲する。正は婞直にして謙和を失い、謗書が至る毎に、朕は力を尽くして明らかに弁じるが、然れども衆怒は犯し難く、その自ら全うせざるを恐れる」と。乃ち手札を賜い戒めて諭して曰く、「言は君子の枢機なり、枢機の発するは栄辱の主なり、慎まざるべからざるなり。事に遇うて輒ち発すれば、悔ゆるも及ばず。もし自ら瑕なきを恃みて、人の短を面と向かって攻むるを好むは、豈に喜怒色に形せざるを謂うや。和輯して遠民を念うを以て当とすべし、斯れ善を尽くすなり」と。正は上表して謝した。
未だ幾ばくもせず青州を知ることとなったが、行かず、たまたま王均が蜀に叛き、峽路都鈐轄を命じられ、梓州知事に移った。また滄・瀛・鎮・貝の四州、高陽関部署を歴任した。足疾のため、磁州知事を求め、手詔で慰め励ました。たまたま邢州が地震し、民居安んぜず、正を移してこれを典とした。潞州に移った。景德年中、河北が新たに兵革を経たため、守臣を慎んで選び、正を以て貝州知事とし、洺州防禦使に遷り、再び滄州知事となり、同州に移った。再び表を上って引年を請い、左龍武軍大将軍・平州防禦使を授かり、西京に分司した。未だ幾ばくもせず本官のまま致仕し、全俸を賜い、なお見緡を以てこれに給した。四年、卒す。年七十五。子の璨は内殿崇班に至った。
盧斌
盧斌、開封の人。筆札をもって晋邸に事え、太宗即位の時、殿直を補った。雍熙年中、兵を領いて霸州に屯した。たまたま大挙して北伐し、五千騎を以て曹彬に随い祁溝に抵るよう命じられた。時に契丹は河を占拠し、王師は水に乏しく、斌は千弩を以て砦を斬ることを請うと、契丹は遁去し、遂に軍を移して河を夾した。既に涿州を克つと、斌に万人を以て戍守するよう命じたが、たまたま食尽き、大兵将に還らんとし、斌は因って懇ろに言う、「涿州は深く北境に在り、外に援兵なく、内に資糧なく、丁籍は残失し、これを守るに利なし。今若し還師すれば、必ず陣を結びて去るべく、一陣の役を以て、固守に比すれば、その利百なり」と。また遼人の便に乗じて剽襲するを慮り、これが備えを為すべしとした。彬は然りと以為い、遂に斌に城中の老幼を擁し、併せて狼山より南に還り易州に至らしめた。彬の還るや、行伍を復たず、果たして契丹に乗ぜられた。諸将は皆失律を以て譴責を受けたが、斌もまた枢密院に下って状を問われた。太宗はその嘗て涿州を棄つことを建議したと聞き、遂に釈して問わず。霸州破虜軍縁辺巡検とした。
四年、賊の王盡復が栄州・資州にて蜂起したので、斌はこれを撃滅し、ことごとく縛して献上した。内殿崇班に遷る。この冬、李順が乱を起こすと、斌は直ちに兵六百を率いて成都に至り、連月戦闘し、数万人を殺した。翌年、成都が守られず、斌は梓州に還り、十州の兵を集めて救援に赴き、知州張雍は監護の任を委ねた。ちょうど江水が氾濫し、子城を毀った。斌は州民を勧諭し、翌日、畚鍤が大いに集まり、城西の大濠より深さ一丈の塹を掘り、西河水を決してこれを注ぎ、城を環らせた。二月、賊の渠帥相里貴の衆二十一万が城下に迫り、城中の兵はわずか三千であった。斌は言う、「軍法に倍兵は戦わずとあるが、しかし狂える醜虜は烏合の衆であり、訓練された師ではない。我らが天子の威霊を仗るをもって、必ずや殲滅掃蕩できよう」と。即ち士伍を感厲し、土を負って南北の門を塞ぎ、固守の計を為した。また突出して賊と戦い、三十余合を撃刺し、賊は少し退いた。やがてまた大いに機石・連弩・衝車・雲梯を設け、四面より鼓噪して城に乗じ、矢石乱れ下る中、斌は州将と共に機に随って設備した。長囲八十日、ちょうど王継恩が石知顒に兵を率いて来援せしめると、斌は東門を出て王師を迎え労い、賊は戦わずして潰走した。斌は勝に乗じて追撃斬殺し、降伏を受け入れること二万余。五月、賊数万が閬州を囲むと、斌は千兵を率いてこれに赴き、五千を斬首し、囲みは遂に解けた。また蓬州老鴉山に至ると、賊衆三千が陣を為して斌を拒んだが、斌はこれを撃破し、城下に至ると、賊は再び大いに集結したので、三千級を斬った。蓬州が平定されると、斌は詔を伝えて蓬・閬・渠・達の四州を安撫し、西京作坊使に擢授され、成州刺史を領した。
斌は川峡にて六年、孤軍をもって寇を防ぎ、累ねて戦功を立て、上表して入奏を求めた。太宗は使者を遣わして諭して言う、「妖孽尽く殄滅するを俟ち、当に汝を召さん」と。既にして賊党が梓・綿・漢の三州の境上に集結すると、斌は往きてこれを平定した。未だ幾ばくもせず、代わって還ると、太宗は親しく労問を加えた。東上閤門使・検校左僕射を拝し、食邑三百戸を加えられ、白金千両・袍笏・金帯を賜う。上言する、「葭萌路より出師して賊を討つは、直ちに利州に入るべし。若し寇が棧道を焚かば、剣門の険も以て固うするに足らず。砦柵を置くことを請う」と。これに従う。
尋いで銀・夏兵馬鈐轄を命ぜられ、李継隆ら五路の出師に遣わされて李継遷を討たしむ。斌は対面を求め、懇ろに言う、「羌夷の族は、馬驕り兵悍く、往来定まり無く、敗るれば則ち他境に走り、疾く沙漠に戦うは、天兵の利する所に非ず。堅く霊州を保ち、内地に多く芻糧を積み、師を以て援送するに若かず。苟くも其の至るや、兵を会して首尾よりこれを撃てば、庶幾くは枉費無くして、固圉の策を失わざらん」と。時に既に出師した後であり、その議に従わなかった。霊環路鈐轄に改授され、兵二万を領して前鋒と為し、烏・白池にて諸軍と会することを令せられた。斌は李継隆に謂う、「霊州より烏・白池に至るは、月余を方として至る。若し環州橐駝路よりせば、わずか十日の行程なり」と。即ち詔を俟たずして往き、諸将と期を失い、賊を見ずして還った。やがて寧州に徙屯し、疾を以て召還され、軍頭引見司を勾当した。咸平初年、卒す。年五十。子の文質は殿中丞。
周審玉
周審玉は開封の人。父の勲は、親校として唐の明宗に事え、累ねて戦功を立て、太平興国年中、隰州団練使に至った。周の顕徳初年、審玉は蔭補により殿直となり、世宗に従って瓦橋関を平らげ、甚だ親信せられた。太祖が禅を受けると、供奉官となり、未だ幾ばくもせず、閤門祗候を加えられた。累遷して崇儀・洛苑副使、西京作坊使となる。雍熙年中、契丹が塞を犯すと、潘美は師を定州に屯し、審玉は監軍と為った。嘗て敵と戦い、先鋒の劉緒が賊に陥ると、審玉は馬を躍らせて趣き撃ち、緒を抜き出して還り、勇敢を以て聞こえた。
淳化年中、貝州を知る。驍捷卒として州に戍する者三十七人、同謀して審玉を殺し、庫兵を劫いて叛かんとし、虞候の趙咸雍を推して首と為した。審玉はこれを覚り、転運使の王嗣宗と兵を率いて其の党を悉く擒え、十五級を斬り、咸雍を市にて磔いた。先に、咸雍の父の鏻は、晋の天福年中、嘗て契丹を誘いて州城を屠った。ここに至ること五十年、而其の子が都市にて戮せられ、旧老なお其の事を記憶し、咸しくこれを異とした。審玉は功により順州刺史を領した。
裴濟
裴濟は字を仲溥といい、絳州聞喜の人。唐の宰相耀卿の八世の孫、後に家を河中に徙す。濟は少くより晋邸に事え、同輩に忮悍なる者有り、濟は屡々其の過失を糾し、譖せられて出でて太康鎮将を補す。未だ幾ばくもせず、濟を譖る者坐法す。太宗は濟の任に堪うるを知り、即位するに会い、殿直を補し、天威軍兵馬監押と為す。及び太原を平らげ、幽薊を征するに及び、濟は迎謁陪扈し、軍を監して易州せしめ、契丹城を攻めて下す能わず。労により、西頭供奉官に遷る。
太平興国末、江表に盗起こり、巡検を命ぜられ、崇儀副使に遷る。召還され、崇儀使に遷る。威虜軍に戍兵を監し、塗次鎮州、夜に賊騎有りて城門を叩き、大呼して曰く「官軍至れり」と。州将然りとし、守吏を促して関を開かしむ。濟は遽かにこれを止めて曰く「此れ必ず妄りなり」と。旦に及び、果たして敵兵有りて遁ぐ。太宗これを嘉し、西上閤門使・定州都監に遷し、就いて行営鈐轄を加え、尋いで定州を知る。契丹三万騎来たりて攻むると、濟は徐河にて逆撃し、数千級を斬り、牛馬・鎧仗甚だ衆くを獲る。
子の張徳穀は虞部郎中に至り、張徳基は如京使に至り、張徳豊は殿中丞に至った。張済の兄張麗澤、弟張麗正は共に進士及第した。張麗澤は右補闕に至り、張麗正は金部員外郎に至った。張麗正の子張徳輿は、殿中丞となった。
李継宣
李継宣は、開封浚儀の人である。乾徳年中、右班殿直に補任され、御帯と交代で宿直することを命じられ、僅か十七歳であった。嘗て陝州に虎を捕らえに行くことを命じられ、二十余頭を殺し、二頭の虎と一頭の豹を生け捕りにして献上した。太平興国初年、南作坊使を管掌し、供奉官に改め、出て邠州・寧州・慶州の三州巡検・都監となった。李継宣は本名を継隆といい、明徳皇后の兄と姓名が同じであった。ここに至り、太宗がこれを改めさせた。
五年、召還され、定州路の奏事を承受した。詔を奉じて長城口・平塞・威虜・静戎軍・保州を修築し、また兵を率いて敵境に入り、老幼千余人、牛畜数百頭を捕獲した。また兵を率いて乾寧の泥姑海口で契丹を防いだ。契丹が静戎軍を寇すと、崔彦進に従って拒馬河を渡り接戦し、午より申に至るまで、これを大いに破った。また貝州監軍となった。
李継宣は追撃に鋭く、傅潜が部署であった時、李継宣は傅潜の下に出向いて出撃を請うたが、甚だ抑えられた。傅潜が召還されて官吏に付されると、詔で李継宣と高瓊が共に軍事を主管し、敵を拒馬河を越えて追撃し、再び鎮州鈐轄となった。詔を受けて辺境の城砦を巡視し、威虜軍の権知を兼ねた。敵騎が城下に至ると、屡々出兵して伏兵を設け、斬獲甚だ多かった。間もなく鎮州に戻った。
咸平四年、西上閤門使に任じられ、康州刺史を兼ね、前陣鈐轄となり、秦翰・楊延昭・楊嗣と分かれて静戎・威虜に駐屯した。敵が至ると、威虜で会師し、楊延昭・楊嗣は軽騎で先に羊山に向かい、李継宣は秦翰と左右の隊に分かれ各々配下を整え、秦翰の全軍もまた向かったが、李継宣は赤虜に陣を留め、僅か二騎で続いて進んだ。到着すると、丁度楊延昭・楊嗣が敵に襲われていた。李継宣は直ちに赤虜の軍を召し寄せ、秦翰の軍と合流して大戦し、敵は羊山に逃げ上った。李継宣はこれを追撃し、山麓を巡ってその北側に至った。李継宣の馬は連続して矢に当たり斃れ、凡そ三度馬を乗り換え、牟山谷に進んで大いに勝利した。楊延昭・楊嗣・秦翰の軍は、初め赤虜に駐屯していたが、やがて退いて威虜を守った。李継宣は独り配下の兵で敵と戦い、日暮れになって、ようやく威虜に至った。詔書で称揚され、特に検校官と食邑を加えられた。
翌年、定州鈐轄に転じ、唐河で契丹を防いだ。時に辺境都巡検使楊延昭・楊嗣が敵を防いで敗れると、詔で李継宣と内殿崇班王汀が代わった。望都の敗戦で、敵騎が郡県を掠奪すると、李継宣は徐河に陣を築き、契丹数十隊が威虜に迫った。威虜の魏能が戦い、これを退けたが、李継宣が到着したのは久しくなってからであった。また静戎を寇すと、王汀は分兵して自ら将として契丹を襲うことを請うたが、李継宣はこれを拒み、日々遊騎を出して敵情を偵察し、屡々砦を移したが、ついに出戦しなかった。魏能・王汀に告発され、召還され、枢密院で事情を問われ、如京副使に降格された。
大中祥符の初め、鎮・定両路鈐轄に転じ、東上閤門使に進秩した。召還されて鄆州部署に改め、四方館使を加えられた。病のため、西京水南都巡檢使を授けられたが、毎夜の巡警が稀であったため、留司に挙発され、特詔により巡檢一員を増員し、専ら夜間巡邏を主管させた。六年、病が重くなり、京師に至り医を求めることを請い、卒去した。享年六十四。子の守忠は、左侍禁・閤門祗候となった。
張旦
張旦は趙州の人である。勇敢で射術に優れ、経学によって科挙に及第し、国子博士に至った。淳化年中、陵州知事となった。時に李順が乱を起こし、相次いで城邑を陥落させた。賊党数万が陵州を攻撃したが、州兵は三百に満たず、従来より城塹を設けていなかった。旦は戦具を修繕整備し、鹿角砦を設置し、市人を駆り立てて進撃し、これを大いに破り、五千余人を殺し、器械を万単位で鹵獲した。詔書がこれを褒め、特旨により水部員外郎に遷任し、緋魚袋を賜り、これによって名を知られるようになった。数か月後、西川招安使上官正が言上した。「雅州は蛮蜑に密接し、鎮撫には適任を得る必要があります。伏して見るに、水部員外郎張旦は以前陵州を守り、孤軍をもって群寇に抗し、壁壘を保全し、今なお剣門関の外でその威名を畏れさせております。諸司使に改授し、州事を知らせますよう望みます。」上は省郎の重職であるため、他の職に換えることを欲せず、刑部員外郎を授け、金紫を賜った。駅伝に乗って任地に赴くと、寇は敢えて侵犯しなかった。
真宗が即位すると、兵部員外郎に遷り、尚食使・徳清軍知軍に改められた。景德年中、契丹が侵入し、軍壁を陥落させた。旦はその子の利涉と共に衆を率いて奮撃し、共に戦死した。上はこれを聞き驚き悼み、特旨により左衛大将軍・深州団練使を追贈し、利涉には崇儀副使を追贈した。その四子に官を録した。時に上封事する者がおり、朝廷は恩典を優しく加えるべきで、忠臣を勧めるべきであると述べた。詔して旦を恤う事を以て天下に告諭した。
また虎翼都虞候の胡福が軍城を戍守し、兵を率いて力戦し、金創が全身に及びながらも、なお剣を奮って転戦し、矢は虚発なく、麾下の兵が既に尽きた後も、独り刃を挺てて数十人を殺した。副指揮使の尚祚は大撾を振るうことができ、斬った首や肋骨を引き裂いた者も百余人に上り、衆寡敵せず、遂に指揮使の張睿・劉福・都頭の輔能等の四人と共に死んだ。真宗はその忠勇を嘉賞し、使者を遣わして遺骸を訪ねさせたが、胡福の屍のみを得たので、その子に命じて厚く葬らせた。胡福に洺州団練使を、尚祚に濱州刺史を、張睿に演州刺史を、劉福に臨州刺史を追贈し、輔能等には皆諸衛率府副率を追贈した。また邯鄲県令の李晦辞が赴任する途中、道路が塞がれ、徳清に留まって共に敵に抗した。侍禁の夏承皓が兵を部勒して大名の境界に至り敵に遭遇し、皆戦死した。晦辞に工部員外郎を、承皓に崇儀使を追贈した。時にまた河朔で事を受け戦死した者に、殿直の劉超に供備庫使を、入内高班内品の李知順に六宅副使を、奉職の胡度等三人に内殿崇班を追贈し、更に各々その子を録用し、その家に金帛を賜った。
張煦
咸平年中、王均が蜀で乱を起こすと、煦を綿・漢・剣門路都巡檢使とした。また雷有終と共に成都を進攻し、煦は東砦を主管し、その外城及び楼櫓を焼き、均は包囲を突破して遁走した。賊が平定されると、功績により正使に就任して遷任し、益州都監に転じ、知州の宋太初と共に本路諸軍事を提総した。戦艦の兵卒が謀って動揺させようとしたが、煦は即日にこれを斬った。
夏人が辺境を侵犯すると、涇原儀渭都鈐轄に改められた。また邠寧環慶路鈐轄兼巡檢・安撫都監となり、累次にわたり寇を追って賊中に踏み込み、多くを掩襲殺戮し、詔があり嘉奨した。時に王超・張凝・秦翰を派遣して霊武を救援することとなり、煦を西路行営都監に命じた。鎮戎軍に至り、霊武が既に陥落したと聞き、再び本来の任に戻った。張凝と共に西夏境内に入り、白豹鎮から出て柔遠川に至ると、夏人七百余が邀撃して戦いを挑んだので、煦は慶州監軍の張綸と共に多くを撃殺した。清遠故城に酋長がおり、甲騎三万を率いて降伏を請うた。煦と張凝は「これは詐りである」と言い、急いで厳兵してこれを待ったところ、果たしてその通りであった。張凝が部内巡視から環州に帰還する途中、道中で敵に邀撃された。煦はこれを聞き、配下の精鋭を率いて慶州から救援に赴き、一夜にして張凝と会合し、その大将を射殺し、張凝と共に還った。
張佶
張佶は字を仲雅といい、本来は燕の人であったが、後に華州渭南に移住した。初めの名は志言といったが、後に改めた。父の昉は殿中少監であった。佶は若くして志節があり、初め蔭補により殿前承旨となり、儒業を修め、文章を献上して試験を求め、国子監丞に換官された。著作佐郎・三白渠監・涇陽県知県に遷った。端拱初年、太子右賛善大夫となった。曹州の民に誣告されて殺人罪に問われた者がおり、詔により往ってこれを審理し、奸悪の隠れた事実を摘発し、冤罪を被った者が雪冤を得た。まもなく忻州通判となり、殿中丞に遷り、御河督運を兼ねた。
大中祥符四年(1011年)、皇帝が汾陰を祀るに際し、西京旧城巡検・鈐轄とした。祭祀が成ると、北作坊使を加授され、趙徳明官告使を充てた。また鄜延鈐轄となった。時に秦州の李浚が急死し、皇帝は近臣に語って「天水は辺境の要地、速やかに適任者を得るべし」と言った。馬知節が曹佶を推薦したので、皇帝はこれを認め、左騏驥使に改め、そのまま秦州知州に任命した。州に至り、四門砦を設置し、疆境を開拓したので、辺境の部族は甚だ怨んだ。また渭水のほとりに木材伐採場を設けると、戎人はこれと争わず、帳を移して去った。曹佶はあまり慰撫を心掛けず、また恩賞を加えるよう奏上もしなかったので、辺境の民は後悔し、衆を率いて劫掠した。曹佶は深く侵入して急襲し、これを敗走させた。議者の中にはまた宗哥・立遵等の族に恩を加えて平夏を扼しようとする者もあったが、曹佶はこれを拒絶するよう請い、事は『吐蕃伝』に詳しい。朝廷は初め辺境の安寧に務めようとし、曹佶が軽信して事を易く見るとして、邠寧路鈐轄に転任させた。天禧初年(1017年)、契丹国信副使に召され、再び邠寧を任され、邠州知州を兼ね、宮苑使に昇進した。一月も経たずに、西上閤門使に抜擢され、再び涇原鈐轄となった。四年(1020年)、卒去。享年六十九。
曹佶は書史に広く通じ、詩を詠むことを好み、勇敢で弓術に優れ、方略を有し、軍を総べ塞を護るに、威名を以て自ら任じた。子の宗象は、兵部員外郎・直史館・度支判官となった。
論じて曰く、古より盛徳の世といえども、未だ嘗て辺境の患い無きことはなく、要は果毅の臣を得てこれを扞禦するに在り。昔人の言に「誰か兵を去ることを能わん」とあり、漢祖もまた云う「安んぞ猛士を得ん」と、蓋し此れが為なり。李順が蜀に叛き、郡邑を攻め陥すや、雷徳驤は剣門を捍ぎ、裴庄は梓潼を守り、その績最も多し。契丹の入寇に、李継宣・李延渥は、重囲の中より陥没した将を抜き出し、固より余勇有り、曹佶・上官正は西南に力を宣べ、勤勉で威恵有り、亦皆取るべきもの有り。馬知節・張煦は孤城を以て強寇を捍ぎ、援絶えて戦死し、一代の死事の表表たる者、其れ泯ぼすべけんや。