宋史

列傳第六十六 喬維岳 王陟 張雍 董儼 魏廷式 盧琰 宋摶 凌策 楊覃 陳世卿 李若拙 陳知微

喬維岳

喬維岳、字は伯周、陳州南頓の人。『三傳』を修めた。周の顯德の初めに科挙に及第し、太湖主簿に任ぜられた。四年、平輿令に遷る。開寶年中、右拾遺劉稹がその才能を推薦し、太子中舍・知高郵軍に抜擢され、揚州通判を経て、常州に移る。金陵平定後、また昇州に移り、殿中丞に改まる。太平興国初年、襄州に移り、まもなく母の喪に服す。三年、陳洪進が上表して領土を献納し、その子文顯を泉州留後とした。朝廷は能臣を選んで郡の事務を管掌させようと議し、ただちに維岳を起用して通判とした。時に賊が仙遊県莆田県の百丈鎮に起こり、その衆十余万が城を攻め、城中の兵はわずかに三千、情勢は甚だ危急であった。監軍の何承矩・王文宝はその民を皆殺しにし、府庫を焼いて逃げ去ろうとした。維岳は毅然として抗議し、「朝廷は遠方を安んずることを委ねられたのに、今は恩恵がまだ行き渡らず、盗賊が連なっているのに、かえって城を屠ろうとするのは、詔の意に適うものか」と論じた。承矩らはこれによりまた堅く守り、やがて転運使楊克讓が福州の兵を率いて賊を破り、包囲はついに解けた。詔してこれを褒めた。

帰朝して、淮南転運副使となり、右補闕に遷り、転運使に進む。淮河が西に流れる三十里の所を山陽湾といい、水勢が急流で荒く、運搬船は多く転覆・沈没の災いに遭った。維岳は測量して古い沙河を開削し、末口から淮陰の磨盤口に至るまで、凡そ四十里とした。また建安から北の淮澨に至るまで、総計五つの堰があり、運搬船が通る度に十回上下し、重い積み荷の船は皆、食糧を下ろして通過し、船は時に破損して食糧を失い、綱運の兵卒はこれに乗じて悪事を働き、ひそかに侵奪した。維岳は初めて西河の第三堰に二つの閘門を設けることを命じ、二門の間隔は五十歩を超え、屋根付きの建物で覆い、懸門を設けて水を貯め、潮が満ちて水位が平らかになってからこれを放った。岸上に横橋を架け、土を築き石を積んで、その基礎を堅固にした。これより弊害はことごとく改まり、運搬船の往来に滞りがなくなった。

かつて巡察して泗州に至り、訴訟を審理した際、法曹が誤って囚人を死刑に断じた。維岳がこれを詰問すると、法曹はひれ伏し、かつ泣いて言うには、「八十余歳の母がおります。今罪を得れば、母は生きられません」と。維岳はこれを哀れみ、そこで言うには、「他日、朝廷の制度により審問を受ける時は、ただ転運使がこの罪を処せと命じたと言え」と。ついにその言葉の通りに免罪され、維岳は贖罪金百二十斤に処せられ、転運使の職を免ぜられ、権知楚州となった。戸部員外郎に遷る。任期を終えて帰還し、度支判官となり、本曹の郎中に転じ、出て両浙転運使となり、懐州・滄州の知州を歴任した。

時に京朝官の考課があり、召還された。真宗が寿王として開封府を治めるに当たり、府の官僚を精選し、維岳を留めて開封府推官とした。ある者が維岳が淮南にいた時、裁判が公平でなかったと言うと、側近にその事情を知る者が弁明し、太宗は特に賞賛して異遇を加えた。皇太子の宮が建てられると、左諭徳を兼ね、太常少卿に転ずる。開封府の事務は煩雑であったが、維岳は評定処理が詳細で敏速であった。王陟という者が司録であったが、真宗もまたその明敏で有能なことを称えた。即位すると、ただちに維岳と畢士安に権知開封府を命じ、給事中・知審官院を拝した。維岳は体が肥えて年老い、拝礼や趨走が困難であったため、外任して小州を希望した。上はその静かで退くことを嘉し、特に海州刺史を授けた。

咸平初年、蘇州知州となる。元来中風の病を患っており、上は呉中では魚蟹を多く食べるため、寿州に移し、なお太醫を馳せて治療させた。四年、卒去。七十六歳。兵部侍郎を追贈し、官がその葬儀を給した。大中祥符年中、その孫の世昌・献之を登用し、ともに同学究出身を賜った。維岳は吏事に明るく習熟し、煩雑な事務を処理する才能があった。懐州にいた時、王欽若が初めて進士に挙げられ、維岳はその貴ぶべきことを知った。また陳彭年を厚遇し、刺史の任から連続して上奏して通判とし、いずれもこれを称揚推薦した。

王陟 附

王陟は、潞州上黨の人。淳化三年に進士に挙げられ、嵐州團練推官に補せられた。内侍の羅懷嗣がその督運に功労があると上言し、晉州觀察推官に遷る。至道初年、度支判官李擇言が推薦して著作郎・同判大名府とし、留めて知開封府司録参軍事とした。前任の司録閻仲卿は言動を好み、しばしば殿上に昇って奏事したため、真宗が開封府を治めていた時は甚だ快く思わなかった。陟が代わると、謹厳で有能であると聞こえ、特に待遇された。即位すると、召し出して緋魚袋を賜い、著作郎・開封府推官に改め、伝馬に乗って陝西に赴き、転運使とともに霊武への芻糧の輸送を監督した。

咸平初年、太常博士に遷り、出て河東転運使となり、金紫を賜う。時に趙保吉が帰順し、しばしば内侍の張崇貴とともに辺境の事務を裁断することを遣わされ、その境界を正し、また崇貴の副使として夏州に赴き誥命を賜った。任期を終えて帰還すると、温仲舒が貢挙を管掌することとなり、陟と刑部員外郎董龜正に同考試及び封印卷首を命じた。まもなく工部員外郎・知棣州に改まる。

五年、召還され、三司鹽鐵勾院を判ず。初め、上は開封府時代の旧縁により、頗る厚く眷遇し、擢用しようとした。時に、彼が貢挙の部門にいた時、挙子で賄賂を納めて名声を得た者がおり、恩寵を恃み、顕要な地位を望み、大きな邸宅を借りて住んだということがあり、事はついに止んだ。六年、卒去。上は甚だこれを哀れみ、その子の若拙を奉禮郎に、若谷を太廟齋郎に登用した。後に陟の妻が卒去すると、またその子に俸給を与えることを命じ、喪に服する期間を終えさせた。若拙は國子博士に至った。

張雍

張雍は、德州安德縣の人。『毛氏詩』を修めた。開寶六年に及第し、初めて官に就き東關尉となる。太平興国初年、その才能を推薦する者があり、召還され、将作監丞・知南雄州に改まる。太子右贊善大夫・知開封府司録参軍事に遷り、まもなく秘書丞となり、推官を充てられた。

京城の民に王元吉という者がいた。母の劉は早くに寡婦となり、姦通の情状があり、姻族に知られ、憂い恐れて病気となった。また元吉が告発することを恐れ、そこで侍女を遣わして、元吉が食中に堇を入れて自分を毒殺しようとし、病が重くなって死にそうだと訴えた。事は右軍巡に下って審理されたが、実情を得られず、左軍巡に移された。推吏が劉の賄賂を受け、拷問して審理したため、元吉は自ら誣服した。まもなく劉が死に、府が囚人を審理すると、元吉は初めて実情を答えた。また司録に移され、元の推吏をことごとく捕らえ、少しずつ誣告で陥れた跡が見えてきた。かつ逮捕される者が多く、また獄事がすでに数ヶ月に及んで決せられず、府中はその滞留を恐れ、状況を列記して引見し、詔により死刑を免じて流刑に処することとした。元吉は大声で叫んで言うには、「府中の官吏は皆、私の賄賂を受けているのに、かえって私に刑罰を受けさせるのか」と。府は決断できず、元吉は次々と賄賂を受け取った者の名を陳述し、また妻の張に命じて登聞鼓を打って訴えさせた。上は張を召し出し、軒前に臨んで顧み問い、その冤罪の状況をことごとく得て、ただちに中使を遣わして元の推吏を捕らえ、御史に付して審理させた。時に滕中正が中丞であったが、雍の妻の父であるため、詔して供奉官蔚進に別に審理させた。雍は知府の劉保勳・判官の李繼凝と初めに審問した際、元吉が冤罪を称したのに、左軍巡に移し、雍は吏に戒めてただその母を毒殺した情状を審理させよと命じたため、吏に惨暴な拷問をさせた罪に坐した。上は怒り、雍及び左右軍巡判官の韓昭裔・宋廷煦は皆、現職を免ぜられる罪に坐し、保勳・繼凝はそれぞれ一等の俸給を奪われ、左右軍巡使殿直の龐則・王榮はともに殿前承旨に降格された。

雍熙の初め、張雍は再び秘書丞・御史臺推直官となり、塩鉄推官に改め、右補闕に遷り、判官を充任した。端拱の初め、工部郎中・判度支勾院に転じた。間もなく、また塩鉄判官兼判勾院となった。一年余りして、本官のまま侍御史知雑事を兼ねた。一月余りで、出向して淮南転運使となった。淳化の初め、選ばれて太府少卿となった。二年、右諫議大夫を加えられ、両浙転運使に移り、入朝して審刑院を管轄した。三年、戸部使を充任し、出向して梓州を管轄し、そのまま西川転運使に任命され、間もなく再び梓州を管轄した。

五年、しょく州青城の民王小波・李順が乱を起こし、その衆は一万人に至った。張雍は士卒を訓練し、城中の兵三千余人を得、また強壮な勇者千人を募って城を守らせ、綿州の金帛を車で運んで府庫を充実させた。推官陳世卿は兵器を整え、掌書記施謂・榷塩院判官謝濤は山の木を伐って竿とし、銅の鐘を溶かして矢じりとし、布をより合わせて索とし、守城の器械をことごとく備えた。推官盛梁を派遣して朝廷に援軍を請わせた。間もなく、益・綿・邛・彭・漢の各州および永康軍はことごとく賊に陥落した。李順は成都に入り、大蜀王と僭称し、その勢いは甚だ盛んで、その党楊広に十万の兵を率いさせて剣門を寇し、相里貴は十万の衆を率いて梓潼を包囲した。張雍は監軍の盧斌と共に城壁に登ってこれを眺めると、賊の出兵する者は皆老弱で疲弊し、鎧甲を着ておらず、盧斌は笑って北門を開いてこれを撃つことを請うたが、張雍は言った、「不可である。賊はあるいは老弱を偽って見せかけ、伏兵を設けて我を待っているかもしれぬ。また城中の吏民の心は未だ定まらず、もしも伏兵に突かれたならば、その奸計に陥ることであり、良策ではない。」言葉が終わらないうちに、果たして兵卒が敵楼に寄って呼嘯し、外と応和する者がおり、張雍は急いでこれを斬って衆に示した。賊は大いに梯衝・火車を設け、昼夜鼓噪して、城を攻めること益々急であり、城中は大いに恐れた。張雍は命じて投石機を発動させてこれを砕き、火箭を交えて射下ろした。賊は少し退き、また攻撃具を城の西北隅に整えた。張雍は欺いて言った、「軍士は急いで装備を整えよ、我は東門を開いて賊を撃たん。」陽動として歩騎五百を東門に臨ませた。賊は牛頭山に登って城内を瞰ると、その通りであると信じ、精兵一万余りを山の東隅に伏せて我を待った。張雍は即ち敢死の士百人を召し、縄で下ろし、その攻撃具をことごとく焼き払わせ、午の刻から申の刻にかけてほとんど尽き、賊はこれを神の如しと思った。凶徒の党は数度城に乗じて進み戦ったが、皆利あらず。ある日、北風が吹き昼も暗くなり、賊は風に乗じて火を放ち、急いで北門を攻めた。張雍は盧斌らと兵を率いて門を守り、矢石の間に立ち、固く守って動かず、賊はこれのために少し退いた。長く八十余日包囲されたが、ちょうど王継恩が石知顒を派遣して来援し、賊は初めて潰走した。施謂を派遣して入奏させると、上手詔を下して褒め称え、張雍を給事中に抜擢し、盧斌を西京作坊使・成州刺史を兼ねさせ、陳世卿を掌書記に、施謂を節度判官に、謝濤を観察推官にした。また通判将作監丞趙賀を太子中舎に、監軍供奉官辛規を内殿崇班とした。

至道二年、工部侍郎に改めた。明年召還され、再び永興軍を管轄し、礼部侍郎に転じ、刑部に改め、度支使を充任した。咸平四年、塩鉄使に遷った。上は張雍がちまちまと小心であり、三司の事は重いので、裁制すべきものがあると考え、王嗣宗を用いてこれを代えさせた。またその過ちがないことを以て、特に戸部侍郎を拝し、再び審刑院を管轄し、出向して秦州を管轄し、鳳翔府に移った。

景德の初め、開封府事を権知した。上は奏上された獄を閲覧し、京府の囚人が二百余人いるのを、滞留していると考え、給事中董儼・直昭文館韓國華を派遣して共に慮問させ、判決して遣わした。三年、兵部侍郎・同知審官院に改めた。明年、車駕が陵を朝拝する際、留司尚書省を判じ、出向して鄧州を管轄した。大中祥符元年、老齢を理由に致仕を請い、尚書右丞のまま致仕し、誥命が届かないうちに卒去した。年七十。

張雍の性格は卑吝であり、職務に臨んで勤勉で謹直であり、米塩の細かい監察を善く行って部下を粛清し、その清廉で有能なことを恃み、時に遇されたため、益々矯厲して名誉を取った。赴任した藩鎮での宴会や犒賞は、全て削減し節約した。公銭を集めて羨余とし、官庫に納めた。賓客や僚佐を集めて会食する時は、粗食のみであった。三司において簿籍を置き、「按前急」「馬前急」「急中急」などの項目があり、頗る当時の論議に誚られた。張雍の風貌は魯朴であり、初めて科挙に登第した時、滕中正の婿となり、中正の子滕錫・滕世寧は皆これを笑った。中正は言った、「この人は異日必ず顕達し長寿であろう、汝らが及ぶところではない。」滕錫兄弟は名はあったが、然し終に郎署を越えず、また高齢に達する者もいなかった。子の張太沖は、殿中丞に官した。

董儼

董儼、字は望之、河南洛陽らくようの人である。太平興国三年に進士となり、初官として大理評事・饒州通判となり、著作佐郎を加えられた。五年、左拾遺・直史館を授けられた。右補闕に転じ、淮南西路転運副使を充任した。ちょうど使職が廃止されたため、そのまま光州知州に任命された。董儼は狂躁で進取に務め、外郡を好まず、上書して京師に還ることを乞うた。太宗は怒り、秘書丞に降格し、史館の職を削り、忠州知州に移した。再び右補闕となり、間もなく再び直史館となった。ちょうど水陸発運を一つに併合することになり、董儼は王継昇と共にその事を統領し、そのまま刑部員外郎に転じた。

端拱の初め、郎中・三司度支副使に進んだ。翟馬周の事に連座し、左遷されて海州団練副使となり、泰州知州に移った。一年余りして、戸部員外郎として泉州知州となり、召還されて京東転運使となった。時に三司が制度を改易し、三計使を置いたため、そのまま留任されて右諫議大夫を拝し、右計使を充任した。使職が廃止されると、出向して揚州知州となり、右諫議大夫に遷った。潭州に移り、給事中に転じ、広州・岳州・洪州の三州および江陵府の知事を歴任した。

景德年中、朝廷に帰った。ちょうど開封府に囚人が二百余人拘禁されており、朝議はその滞留を問題とし、董儼と韓國華・張雍に命じて共に慮問させ、裁決させた。間もなく吏部銓を判じ、工部侍郎を加えられた。時に黄観が西川転運を罷めて朝廷に帰った。董儼は知雑御史王済と姻戚であり、そこで王済に頼んで黄観に言わせ、自分を益州知州に推薦してくれるよう求めた。間もなく、黄観が再び陝西転運を領することになり、便殿で対面する機会を得た。董儼は彼が必ず自分を推薦するだろうと思った。他日、面陳して言った、「自分は孤直のため権要に容れられず、況んや黄観は庸浅で操持なく、恐らく執政に使われて、妄りに論薦し、臣を遠方に赴任させようとするでしょう。惟うに陛下はこれを明察せられよ。」真宗はこれを詰問しなかった。数日後、王済が対面を得て、そこで董儼がかつて私的に頼んだことを述べ、且つ言った、「董儼の性格は元来矯詐であり、臣は黄観に許すべからずと語りました。」真宗はその事を暴露することを欲せず、そこで董儼を出して青州知州とした。董儼は再び対面を請い、権臣に排斥されたと述べた。上は慰めて遣わしたが、長く去ろうとしないので、そこで彼に言った、「爾は自ら黄観に告げて益州知州を求めたではないか、また何人が排斥したというのか。」董儼は即ち愕然とし、且つ言った、「黄観・王済はかつて益州は臣を派遣して鎮圧させるべきだと議しました。」上はその言葉が道理に合わないと見て、そこで条分して奏上するよう命じ、また使者を陝西に派遣して黄観に質問させた。黄観は董儼が王済に頼んで推薦を求めた事柄を具に述べ、且つ董儼が平素から自分を厚く遇していなかったと述べた。初め、淳化年中、董儼が計使であり、黄観が判官であった時、董儼は黄観が酒を飲まないことを知っていたが、ある日食事を共にし、親しく酌をして黄観に勧めた。黄観は強いてこれを飲んだ。しばらくして、都監趙贊が黄観を召して議事した。黄観は即ち行った。趙贊は言った、「酒を飲んだのか。」黄観は実情を答えた。翌日、董儼と趙贊は密かに上奏して黄観が酒を嗜み職務を廃したと述べた。故に黄観はこの事によってこれに言及したのである。そこで詔して枢密直学士劉綜と御史に命じて雑治させた。董儼はようやく伏罪し、責められて山南東道節度行軍司馬に授けられ、州事を署さなかった。

大中祥符の初め、赦令に会い、起用されて郢州知州となり、病で癰疽を患い卒す。年五十四。儼は俊弁で材幹有り、学ばず操行無く、至る所で厚く貨賂を納めた。嘗て引賛の吏に命じて朱衣を改製させ、毎夕儼の邸に納めさせ、密かに軽い帛で衣を製してこれと取り替えた。銓司においては、胥吏に命じて物を買わせ、その代価を請うと、呵責した。その鄙屑たることは此の如し。又広く姬媵を蓄え、頗る豪侈を事とした。傾狡を用いて位を図り、終に是れを以て敗れ、士大夫これを醜とした。東封の恩により、その官を復した。子仲容・仲宗、並びに太子中舎となる。兄偉は殿中丞に至り致仕す。

魏廷式

魏廷式、字は君憲、大名宗城の人。少くして法學に明るし。嘗て趙州に客遊し、監軍魏咸美の廨舎に宿る。廨舎に西堂有り、元来凶あり。咸美は廷式に胆気有るを知り、命じて之に居らしむ。卒えて恙無し。京師に来たり、咸美の弟咸信、館舎に延いて置き、同宗として善く之を待遇す。太平興國五年に第に中り、釋褐して朗州法曹掾となる。轉運使李惟清、その吏材を以て奏し、桃源縣知縣と為り、將作監丞に遷る。端拱初め、著作佐郎・潁州通判に改む。

淳化二年、始めて李昌齡を命じて審刑院を判ぜしめ、廷式の刑章に明練なるを以て、詳議官に奏す。屢進對し、太宗その明辨を悅び、太子左贊善大夫に遷る。時に初めて廷臣の殿最を較ぶるに、廷式と樞密都承旨趙鎔・李著を命じて同勾當三班と為し、多く規制を為す。越王の生日に、禮物を持たせて之を賜い、超拜して主客員外郎・判三司都勾院と為し、河南東道判官に換え、戶部員外郎・利州知州に改む。

李順が盗を為すや、就いて命じて陝西より益州路轉運使を充てしむ。後に奏事に入る。太宗之に謂いて曰く、「事有れば當に中書に白すべし。」廷式曰く、「臣は三千七百里の外より驛を乗りて至り、機事を以て上聞す。願わくは宸衷の断を取らん。宰相の為に来たるに非ざるなり。」即時に召對せず、方略を問うて旨に称し、錢五十萬を賜い、任に還るを令す。賊平ぎ、寧州知州と為る。未だ至らざるに、召し入れて大理寺を判ぜしむ。

至道の初め、傳に乗じて河朔に決獄し、復た出でて宋・潭二州を知る。湖南の地土は衍沃にして、民は産を訟うるを喜び、根柢有りて巧偽辨じ難き者有り。廷式立ちどころに之を裁断し、吏民咸く服す。吏部員外郎・桂州知州に轉じ、工部郎中を歴る。真宗即位し、刑部に改む。會うに王繼恩罪有りて吏に下る。廷式を命じて同しく之を按じ、一宿を逾えて獄具わる。俄かに審官院・通進銀臺封駁司を知り、右諫議大夫・審刑院知事を拜し、出でて涇州を知る。咸平二年卒す。年四十九。其の子攝太常寺太祝舜卿を錄して太祝と為し、禹卿に同學究出身を賜う。

廷式の至る所、嚴明を以て称せられ、剛果敢言、人主の厚遇を受けしも、然し性傾險にして、人を中傷するを喜び、士君子其の口を憚りて其の行いを鄙む。

盧琰

盧琰、字は錫珪、淄州淄川の人。父浚、右諫議大夫。琰は太平興國八年進士に挙げられ、釋褐して歴城主簿となる。大理評事・安吉縣知縣を歴る。三遷して太常丞・幷州通判となる。至道中、就いて加えて太常博士と為す。咸平二年、選ばれて開封府判官と為り、推官李防と並びて命ぜらる。真宗宰相に謂いて曰く、「人の材有るは、尽く知り難し。但だ歴試して後に見るべし。」占謝の日、特ちに殿に升らしめ、天府の事繁にして慎選の意を諭し、仍ち緡錢を賜う。會うに獄空ず。詔有りて之を獎す。工部員外郎に遷り、河北轉運副使と為る。

時に北鄙未だ寧かならず、軍儲を調發し、糧道絶えず。職務修舉するを以て、召し入れて秩を遷し刑部と為し、金紫を賜い、復た之を任に遣わす。會うに祁州を城す。命じて専ら其の役を董ぜしむ。契丹邊に入る。車駕澶州に幸す。琰は定州より軍に随い大名に至り、即ち単騎にて行在に赴く。召對し、勞問すること久し。其の子士宗時に隰州推官と為る。特ちに大理寺丞に遷す。契丹和を請う。琰上言して職を領すること六年、闕に帰るを求む。之を許す。使の勞を以て、優に拜して吏部員外郎・判三司三勾院と為す。會うに宋摶契丹に使す。命じて權戶部副使と為す。時に東封を議す。又權京東轉運使と為し、往きて頓置を營む。戶部郎中を加え、復た三勾院を判ず。

大中祥符二年、本官を以て兼ねて侍御史知雜事と為る。数月、三司度支副使を授かる。汾陰を祀るの歳、鮑中和と同しく留守司三司を判ぜしめ、吏部郎中を加え、俄かに右諫議大夫・知永興軍府を拜す。五年、再び河北轉運使と為る。

琰は吏職に勤め、至る所幹集を以て聞こゆ。頗る命を知り、嘗て親舊に語りて曰く、「官五品、服三品、天の與えざるは壽のみ。」明年疾を被る。詔して中使を遣わし太醫を将いて診視せしむ。六年卒す。年五十九。時に琰の母八十餘、恙無し。上之を憫み、士宗を以て太常博士と為し、特ちに懷州知州を命ず。又次子秘書丞士倫を以て太常博士と為し、祿を給して喪を終わらしむ。士倫は工部郎中・度支副使に至り、士宗は自ら傳有り。

宋摶

宋摶、字は鵬舉、萊州掖の人。毛氏詩を治む。開寶八年、宋準貢部を典とし、第を得、調補して遂寧尉と為る。濰州司理參軍を歴り、白龍令に改む。膳部員外郎鞠礪其の能を薦め、右贊善大夫・知利豐監に遷り、徙めて藤州知州と為る。殿中丞・洪州通判に改む。復た薦むる者有り、召し還り、命じて河北西路刑獄を提點せしむ。未だ行かず、左藏庫監に改む。國子博士・西京留守司通判に遷り、便坐に対を得、錢三十萬を賜う。久しくして、江南轉運使に徙め、就いて度支員外郎に遷す。

真宗位を嗣ぎ、司封員外郎・河東轉運使に遷る。上言す、「大通監の冶鐵盈積し、諸州軍数十年の鼓鑄に備うべし。願わくは權りて採るを罷め以て民を紡がん。」又諸州の丁壯を科して兵と為し、以て戎備を増さんことを請う。在任凡そ十一年。河東は西北境に接し、時に邊事未だ息まず、屯師甚だ広し。摶は漕運を經制し、幹治を以て称せらる。連ねて他に徙むるも、州郡輒ち留まるを乞い、詔有りて褒飭す。兩たび夏州界に至りて居民を部發し、数たび闕に詣りて奏事し旨に称す。屢び秩滿を以て代わるを請う。朝議摶の善く職するを以て、就いて加えて祠部郎中と為し、金紫を賜う。嘗て代州承受使臣王白を薦む。上、本に此の職を置くは、止だ軍政を視、邊事を察するに在るのみとし、摶応に保奏すべからずとす。因りて諸路に詔し、自今より承受使臣を挙ぐること勿れとす。

景德四年、判三司勾院に入り、月を踰えて戸部副使となる。大中祥符初年、刑部郎中に進秩し、俄かに契丹に使いし、疾に会す。契丹主は車を以て之を迎へし。二年、卒す。年六十六。子可法は太子中舍に至り、舜元は進士第に登る。摶の卒するや、舜元は筠州判官より著作佐郎に改まる。又其の孫に出身を賜ふ。

凌策

凌策、字は子奇、宣州涇の人なり。世に州県に給事す。策幼くして孤となり、獨り志を厲し學を好み、宗族初め禮を加へず、因つて決意して江を渡り、姚鉉と廬州に於て同學す。雍熙二年進士に舉げられ、廣安軍判官を起家とす。西川節度推官に改まり、強幹を以て聞こゆ。淳化三年、就て命ぜられて光祿寺丞となり、兩使判官を簽書す。代還して、左贊善大夫・通判定州を拜し、朱衣・銀章・御書曆を賜ひ、實奉を給す。李順の亂に、川陝の選官多く行くを憚る。策自ら三たび蜀境に蒞るを陳べ、其の民俗に諳んず。即ち命じて蜀州を知らしむ。又巴西の益の餫道に當るを以て、綿州に徙し、太常博士を加ふ。

還朝し、會ひ命ぜられて廣南西路轉運使となり、屯田員外郎に進む。入りて戸部判官となり、都官に遷る。先是、嶺南香藥を輸するに、郵置の卒萬人を以てし、鋪二百を分ち、擔負して京師に抵る。且つ煩役を以て患ひと為す。詔して策に之を規制せしむ。策陸運して南安に至り、舟に泛びて北するを請ふ。役卒八百を止め、轉送の費を大いに省く。盧之翰廣州に任ずるに、廉稱無し。策に幹名有るを以て、職方員外郎・直史館を拜し、命じて之に代はしめ、金紫を賜ふ。廣・英路吉河より板步に趣くこと二百里、盛夏の時に當り瘴起り、行旅死者十八九に及ぶ。策英州大源洞より山を伐り道を開き、直ちに曲江に抵るを請ふ。人以て便と為す。代還して、青州を知る。東封に、供億の勤を以て、都官郎中を超拜し、入りて三司三勾院を判じ、出でて揚州を知る。江・淮の歲儉に屬し、頗る盜賊有り。策を以て淮南東路安撫使を領せしむ。駕旋し、使を停む。司封に進秩す。時に洪州水有り、知州李玄病む。上宰相と歷て朝士を選び、將に策を徙して之に代へんとす。上曰く、「南昌水潦艱殆たり。長吏當に便宜に事を従ふべし。必ずしも外計に稟せず。」王旦言ふ、「策事に蒞るに和平にして、方面を寄すべし。望むらくは即ち江南轉運使を以て之を授け、仍詔して差選の意を諭せ。」饒州金を産す。嘗て商市の鬻ぐを禁ず。或は論告有り、逮繫獄に滿つ。策民を縱ち販市せしめ、官其の算を責むるを請ふ。人甚だ之を便とす。五年、召して右諫議大夫・集賢殿學士・知益州を拜す。初め、策第に登る時、人六印を以て劍の上に加へて之を遺すの夢を見る。其の後劍外に往くこと凡そ六任、時に以て異と為す。策吏職に勤め、事を處するに精審にして、至る所治跡有り。

九年、蜀より代還す。上頗る擢用の意有り。會ひ已に病み、命じて通進銀臺司を兼ね門下封駁事を知り、在京刑獄を糾察せしむ。真宗嘗て王旦に對して言ふ、「策才用有り、蜀を治むるに敏にして斷有り。」旦曰く、「策性淳質和にして、事に臨み強濟なり。」上深く之を然す。是の秋、給事中・權御史中丞を拜す。時に榷茶の法弊甚だし。詔して翰林學士李迪・知雜御史呂夷簡と同議して經制し、稍く其の舊を寬ぐ。

明年、疾甚だしく、朝謁すること能はず。累り中使を遣はし醫を挾みて存問し、名藥を賜ふ。復表して益を典むるを求め、尋て工部侍郎に遷り、其の請に従ふ。天禧二年三月卒す。年六十二。其の子將作監主簿瓘・琬を錄して並びに奉禮郎と為し、續けて其の奉を給す。策の兄簡、國子博士に官し、分司南京す。

楊覃

楊覃、字は申錫、漢の太尉震の後なり。唐に京兆尹憑履道坊に居り、僕射於陵新昌坊に居り、刑部尚書汝士靖恭坊に居る。時に「三楊」と稱し、皆盛んなる門と為る。而して靖恭尤も著し。汝士の弟虞卿・漢公・魯士皆顯名す。虞卿工部侍郎・京兆尹に至り、堪を生む。太子少師と為る。堪承休を生む。昭宗の朝、兵部員外郎を以て吳越に使し、會ひ楊行密淮甸に據り、其の歸路を絕つ。因つて浙中に留まる。承休岩を生む。即ち覃の祖なり。鎮海軍節度副使に署し、春州刺史を奏領す。岩郁を生む。早く卒す。

覃少くして嗣王俶に書を獻ず。俶私に著作佐郎に署し、俶に從ひて朝に歸り、禹城尉と為る。太平興國八年、進士に舉げられ第を擢で、徐州觀察推官を授かり、著作佐郎・知戎州に改まる。再び太常博士に遷り、陝西に使し、逋負を蠲む。覃本名蟫、是に至り、太宗爲に改む。淳化中、屯田員外郎・同判壽州に轉ず。巡撫使潘慎修其の政績を上る。詔有りて嘉獎し、就て命じて州事を知らしむ。數月、召還す。未だ上道せず、會ひ丁內艱す。州民狀を列ねて留まるを乞ふ。轉運使以て聞く。詔有りて奪情す。

時に田重進永興節度と為り、覃と林特を選びて同判軍府事と為し、覃に緋魚を賜ひ、仍て御書曆を賜ひ、實奉を給す。重進法に背く。覃事多く抗執す。重進頗る悅ばず、辭色に形す。覃表して徙任を求め、許さず。就て都官員外郎に轉ず。時に李繼遷を討つに、芻糧を調發す。覃・特皆苛急に促辦するを務と為す。覃は手を鉗せしめ、特は即ち頸を械せしむ。衣冠の舊族と雖も免れず。人用て怨嗟す。職方員外郎に改む。

咸平初、屯田郎中・三門發運使に遷る。呂蒙正河南に在り、其の材を薦む。詔して入りて三司磨勘・憑由・理欠司を判ぜしむ。四年春、旱す。覃上言す、「古の刑を用ふるは、皆三統の月を避く。漢の舊章獄を斷ち重きに報するは、盡く三冬の月なり。又唐の太宗凡そ重刑を斷ずる日は、敕して膳を減じ樂を徹す。今春物方に盛んにして、時雨尚ほ愆る。輦轂の下、獄繫甚だ繁し。望むらくは有司に詔し、死罪未だ論決を得ず、雨降るを俟ちて、乃ち常典に復せよ。仍て望むらくは今より凡そ重刑を決する日は、唐の故事に依ひ、以て至仁の德を彰はせ。」嘗て『時務策』五篇を獻ず。一に曰く禦戎、二に曰く用兵、三に曰く爲政、四に曰く選賢、五に曰く刑罰。文多く載せず。

明年、權同知貢舉となり、出でて陝西轉運使と爲り、金紫を賜ふ。會ひ邊臣繼遷死すと言ひ、願はくは此の時に乘じ深入して致討せんとす。覃建議す、「喪を伐つは禮に非ず。且つ其の子尚ほ在り。當に之が爲に備ふべし。請ふらくは邊臣に詔し謹みて疆候を守り、輕く舉くること毋からしめ、其の眾叛親離するを俟てば、則ち亡ぶこと日無からん。」時に西鄙兵を屯し、調役甚だ繁し。副使朱台符務めて有爲を爲し、而して覃務めて舊に循ひ、且つ邊事更張すべからずと言ふ。初め、寇準青州を知り、台符通判と爲る。是に至り、準相と作る。覃意ふらくは台符僚舊を憑恃すと。密かに上聞す。不協に坐し、隨州に徙り知る。王超漢東を節制す。覃唐州に移る。

景德二年、召し返されて帰朝した。河北が兵乱の後であったため、命じて覃を澶・濱・棣・徳・博州に派遣し、巡撫して救済物資を給与させた。潭州知州として出向し、王師が宜州の賊を討伐した際、軍需物資の多くは長沙から出したので、曹利用がこれを上聞し、詔書で褒賞と慰労を賜り、刑部郎中を加えられた。大中祥符二年、馮亮に代わって淮南・江浙・荊湖制置発運使となった。一月余りして、太常少卿・直昭文館・広州知州に改められた。

覃は吏事に勤勉で、赴任する先々で幹事としての手腕を称えられた。南海には蕃船の利益があったが、前後の長官の中には誹謗や非議を招く者もあり、ただ覃のみが清廉で著名であり、遠方の人々に便利であった。右諫議大夫を加えられた。四年、卒去した。享年五十四。その長子である奉礼郎の文友に駅伝を用いて喪に赴かせ、詔して本州に命じて柩を護送してその家に還らせ、官が費用を給した。次子の文敏を揚州司士参軍に任用した。覃の従弟の蛻および従子の侃・傅は、いずれも進士に及第した。蛻は官司封員外郎に至り、侃は後に大雅と名乗り、独自に伝がある。

陳世卿

陳世卿、字は光遠、南剣の人である。雍熙二年、進士に及第し、初めて官に就き衡州推官となった。再び東川節度推官に転じた。ちょうど李順が両川を寇した際、知州の張雍は州の兵馬を数部に分け、官吏に分領させた。世卿はもとより射術に優れ、城の一面を担当し、自ら射て数百人を射中てた。賊の勢いが次第に盛んになると、同僚の幕僚たちは皆、身の安全を図る策を謀った。世卿は厳しい顔色で言った、「君の禄を食む者は、身を委ねて国に報いるべきである。どうして難を避けて他を図ろうとするのか」。急いで出て張雍に申し出た、「この連中は皆、懦弱な儒者です。留めておけばかえって衆を惑わすに足ります。援軍を求めに出させるのがよろしいでしょう」。張雍はこれに従った。賊が引き去った後、世卿はちょうど父の喪に服していたが、張雍がその才能を上表したので、詔して喪中を差し置いて職務に就かせ、そのまま掌書記に改めた。合わせて七年を経て、帰朝し、秘書郎となり、太常丞・新安県知県に遷った。ある者がその憲台(御史台)の任に堪えると推薦したので、すぐに召し返された。ちょうど張鏗が広州知州として出向する際、上表して通判とした。出発しようとする時、召されて引見され、緋衣を賜り、太常博士を加えられた。

景德の初め、建州知州に転じた。真宗はその才能と幹略を知っており、一月余りして、福建路転運使を授け、南剣州安仁などの銀場を計画し、毎年の上納額・余剰を増加させたので、詔してこれを褒賞した。まもなく姚鉉に代わって両浙路転運使となり、祠部員外郎を歴任し、三司三勾院を判った。大中祥符四年、度支員外郎に改められ、荊湖北路転運使として出向した。時に澧州慈利県の下溪など四州の蛮人が県境地四百余里を侵犯したので、朝廷は世卿に閤門祗候の史方・澧州知州の劉仁とともに兵を率いて討伐させ、ついに侵犯された地を奪還し、境界を正しく標示し、その要領を得た。さらに掠った漢人の千余人を納めさせ、また澧川・武口などの砦を設置してこれを制御した。これ以来平定し、詔して嘉賞した。帰朝して、しばしば渓洞の利害を述べた。召されて応対し、真宗はその才能を重んじ、また自ら煩雑な職務で用いられたいと願い出た。ちょうど邵曄が広州知州であったが、病気にかかったので、世卿に秘書少監を授けて代わらせ、金紫を加えて賜った。郡には人頭割りで塩を買う制度があり、人々は多く不便に感じていた。着任すると、すぐに上奏してこれを廃止した。九年、卒去した。享年六十四。その子で南安主簿の儼を太祝に任用した。

李若拙

李若拙、字は蔵用、京兆府万年県の人である。父の光贊は、貝冀観察判官であった。若拙は初め、蔭官により太廟斎郎に補され、また抜萃科に挙げられて大名府戸曹参そうしん軍を授かった。時に符彦卿がその鎮におり、光贊が幕下にいたので、若拙は養いを受けることができた。まもなくまた進士に挙げられ、王祐が貢挙を主管し、上第に抜擢して密州防禦推官を授かった。賢良方正直言極諫科に及第し、太祖はその機敏で豊かな識見を嘉し、著作佐郎に改めた。故事によれば、制策で選ばれた者は拾遺・補闕に任じられる。若拙は恩例に及ばず、上書して自ら陳述したが、執政官はこれを嫌い、商州坑冶監として出向させた。太子左賛善大夫に遷ったが、官名が父の名(光贊の「賛」)と同じであったため、辞退したが、許されなかった。太平興国二年、乾州知州となった。ちょうど李飛雄が駅伝を詐乗して詔使と称する事件が起こり、事が敗露して法に伏した。太宗は若拙と飛雄の父の若愚が名を連ねているのを見て、兄弟ではないかと疑い、殿直の盧令珣に命じてすぐに捕らえて州の獄に繋がせたところ、若愚とは同宗ではあるが、家は通じていても親族ではなく、その謀議を知らなかった。それでも連座して官籍を削除され、海島に流された。一年余りして、起用されて衛尉寺丞・隴州知州を授かった。

四年、旧官に復した。政績が聞こえ、監察御史・泰州通判に超授された。同帥の宋偓は年老いて政務が弛緩していたため、また若拙を転じてその通判とした。まもなく、御史中丞の滕中正がこれを推薦し、召し返されて御史台に帰った。しばらくして、右補闕に改められた。時に諸王が宮邸を出た際、若拙が頌を献上して旨に適ったので、召されて引見され、緋魚袋を賜り、河東転運使並びに雲・応など八州の事を同勾当した。かつて宮闕に赴いて辺境の事を上言し、太宗はこれを嘉した。また水陸発運司を同掌した。

雍熙三年、秘書監を仮として交州に使した。先に、黎桓が制度を僭越していた。若拙は国境に入ると、すぐに左右の者を遣わして臣下の礼を戒めた。これにより黎桓は命令を聴き、詔書を拝してことごとく恭順であった。宴会の日、珍しい品々や異物を前に並べたが、若拙は一顧だにしなかった。先に蛮地に陷った使者の鄧君辯を連れ帰り、礼としての幣帛以外には、私的な贈り物を受け取らなかった。使いから帰還すると、上はその命を辱めなかったと評した。起居舎人に遷り、塩鉄判官を充てた。

淳化二年、両浙転運使として出向した。契丹が辺境を寇したため、職方員外郎に改められ、河北路に転じ、金紫を賜った。五年、直昭文館となり、主客郎中・江南転運使に遷った。若拙は体躯が魁偉で、気概を重んじ幹才があったが、事に臨んで非常に緩慢であった。宰相がこのことを言上したので、転運使を罷めて涇州知州とした。至道二年、黎桓が再び南方の辺境を侵犯したので、また詔して若拙を使者に充てた。到着すると、黎桓は再び命令に従った。使いから帰還し、真宗が即位すると、召されて引見され慰問され、官階を進めて金部郎中とした。学士院で試みられ、兵部郎中に改められ、史館修撰を充て、まもなく知制誥となった。咸平の初め、同知貢挙となったが、病気にかかり、右諫議大夫に改められた。皇帝の車駕が北巡した際、留司御史台を判った。翌年、河朔に使して辺境の事を巡察し、昇・貝二州の知州を兼ねた。四年、卒去した。享年五十八。子に繹がいる。

子 繹

繹、字は縦之、幼少より謹直で自ら修めた。初め、父が交阯に使いして功労があったため、太廟斎郎に補され、太常寺太祝に改められた。進士に挙げられて及第し、将作監丞に任じられた。累遷して尚書屯田員外郎・華州知州となった。蒲城県の民である李蘊が、人が自分の従子を盗んで行方不明にしたと訴えた。繹が問うて言った、「仇があるのか」。曰く、「ありません」。曰く、「何か失ったものがあるのか」。曰く、「ありません」。繹は李蘊を退かせ、密かに李蘊を探らせたところ、李蘊には隠れた罪があり、甥がそれに気づき、事が露見するのを恐れ、口封じのために殺したのであった。そこで李蘊を収監して法に処した。抜擢されて河北刑獄提点となり、貝州知州を権知した。旱魃の年、繹は酒務のため、市民から薪草を常例より多く買い上げたので、飢えた者たちは皆、樵採によって自らを養い、死なずに済み、官の収入も数倍になった。辺境の民は毎年、防城用の火牛草を十余万束納めていたが、積み置かれて久しく、腐敗してしまった。繹は上奏してこれを廃止した。三度遷って本曹(工部)郎中となり、利州路転運使となった。

河北の経費が支弁できず、仁宗が誰を任ずべきかと問うと、参知政事薛奎が繹を推薦したので、ついに河北に移された。刑部郎中・直史館に進み、延州知州となり、兵部に改められ、江淮制置発運使となった。内庫より絹五十万匹を出し、東南に買い付けさせようとした。繹は「百姓は飢えており、重ねて煩わせるべきではない」と言い、ただちに上奏してこれをやめさせた。わずか半年で、漕運の課税は平年より五分の一増加した。太常少卿に遷り、再び延州知州となった。繹の赴任した地ではよく治績を上げたが、自らは長く外官を務めたことをもって、心に満足せず、『五知先生伝』を作り、時を知り、難を知り、命を知り、退くを知り、足るを知ると称した。かつて二度鳳翔府知府を務め、この時また鳳翔に移された。まもなく右諫議大夫となり、卒した。

陳知微

陳知微、字は希顔、高郵の人。咸平五年、進士甲科に及第し、初めて官に就き将作監丞・歙州通判となった。著作佐郎・直史館に抜擢され、まもなく三司戸部判官を充てられた。契丹に使いし、太常博士に遷り、三司都磨勘司を判じ、再び戸部判官となり、出て京東転運副使となった。東平監が侵奪した民田六百八十家を返還するよう上奏した。また古広済河を開削して運路を通じ、黄河沿いの堤防工事を廃止し、毎年数万に上る夫役を減らした。

右司諫に遷り、荊湖南路転運使に移された。召還されて比部員外郎・知制誥に任ぜられた。淮南が飢饉となったので、知微を派遣して巡撫させ、赴く先々で備蓄の食糧を点検し、諸官吏の能力の有無を察した。使いから戻り、吏部銓を判じ、刑部を兼ねた。知微の文章は奇抜な文采はないが、平明雅正で実用に適していた。ある日、群官の改任を進め、任官の目録が次々と押し寄せたが、ちょうど知微が当直の番に当たり、思考も敏速であった。また司農寺を判じ、在京刑獄を糾察した。天禧二年、玉清昭応宮判官を加えられ、まもなく病気と聞こえ、真宗は宦官に太医を伴わせて往診させた。卒去、年五十。その子舜卿を太常奉礼郎に任じ、喪が終わるまで俸給を与え、また官船を借りてその柩を郷里に運ばせた。

知微は風采が非常に立派で、沈着温厚にして才幹があり、細かいことを探ろうとせず、当時の人々は彼が繁雑な事務を処理できると認め、母が老いて終養できなかったことを惜しんだ。文集三十巻あり。子の堯卿は、大中祥符五年に進士及第した。

論じて言う。維岳は吏事に明るく習熟し、才は繁劇を治めるに足り、しかも法曹の属官を曲げて全うし、その仁恕の心は和やかであった。雍は平素より鄙吝と称されたが、勤勉で慎み深く清廉有能であり、その防衛の様子を見ても明らかである。儼は進取に務めて賄賂を貪り、廷式は傾邪険悪で猜疑心が強く、自ら清議に容れられなかった。琰や摶のように漕運の経営に方策があり、策のように処事に精細で、治績が顕著であり、覃のように自らを律して廉潔で、吏事にも勤勉であり、世卿の安遠の治め方、若拙の専対の才は、いずれも当時の論評に認められた。繹は謹直誠実をもって、その家をよく継ぎ、知微は篤実で才幹があり、その職を辱めず、これまた称えられるべきである。王陟に至っては謹直で有能と称されたが、士を取るに誹謗によって汚名を招き、惜しいことである。