宋史

列傳第六十五 謝泌 孫何 朱台符 戚綸 張去華 樂黃目 柴成務

謝泌

謝泌、字は宗源、歙州歙県の人である。自ら晋の太傅謝安の二十七世の孫と称した。若くして学を好み、志操があった。賈黃中が宣州の知事であった時、一度会って彼を異才と認めた。太平興国五年に進士となり、初めて官に就いて大理評事・清川県知事となり、彰明県に移り、著作佐郎に昇進した。端拱初年、殿中丞となり、自ら著した文十編と『古今類要』三十巻を献上し、中書省で試験を受けるよう召され、直史館に任じられ緋衣を賜った。当時、時事を論じる者が多く、詔により閣門は、僥倖を望むものでないものに限って受け付けることとし、これにより言路がやや塞がれた。泌は抗疏してその不可を陳べ、かつ言うには、「辺境に事有り、民政未だ治まらず、狂夫の言も、聖人はこれを択ぶ。もし詰問してこれを拒めば、四方を聴く聡明が、蔽われるところがあろう。その可なるものを採り、不可なるものを拒ぐことを願う。そうすれば庶民の仰ぎ望む心情、上達し得るであろう」と。また言うには、「国家の図書は、多く順序を失っている。唐の景龍年中、かつて経・史・子・集を四庫に分け、薛稷・沈佺期・武平一・馬懷素に分掌させた。旧例に復することを望む」と。そこで直館に命じて四部を分掌させ、泌に集庫を管掌させた。左正言に改め、嶺南に派遣して採訪させた。

淳化二年、長く旱魃が続き、また時政の得失について上言した。時に王禹偁が上言して、「請う、今より庶官が宰相に謁見を求めるには、皆、朝罷の後政事堂において、枢密使も同座して接見すべし。これをもって私的な請託を杜絶しよう」と。詔してこれに従った。泌が上言して曰く、「伏して明詔を拝見するに、宰相・枢密使が賓客に接見することを許さず、これは大臣を私心ありと疑うものである。『書経』に曰く、『賢を任ずるに貳することなく、邪を去るに疑うことなかれ』と。張説が姚元崇に謂って、『外においては疏遠に接物し、内においては謹んで君に事う。これ真の大臣の礼なり』と。今天下は極めて広く、万機は極めて繁雑である。陛下は聡明を輔臣に寄せられた。もし下の者と接しなければ、どうして外事を悉く知ることができようか。もし都堂で謁見を待たせれば、庶官が謁見を請い事を諮るのに、衣を解く暇もほとんどないであろう。今、陛下は宇宙を包み、英豪を総攬され、朝廷には巧言の士なく、方面には姑息の臣なし。どうして執政を疑い、衰世の事を行おうとするのか。王禹偁は大體に暗く、妄りに陳述するものである」と。太宗は奏疏を覧て、即ち前の詔を追還し、なお泌の上表を史館に送った。ちょうど正殿を修復し、かなり彩色を施したので、泌はまた上疏し、急いで丹と白土に代えるよう命じ、かつその忠藎を嘉して、左司諫に任じ、金紫・銭三十万を賜った。ある日、便殿で対面を得ると、太宗はその直諫敢言を称えた。泌が奏して曰く、「陛下は諫に従うこと流るるが如く、故に臣は誠を尽くすを得るのです。昔、唐末の孟昌図は、朝に疏を諫めて夕に位を去った。前代を鑑みれば、乱を取るは宜しい」と。太宗はしばらく顔色を動かした。時に、群臣が殿上に昇って事を言う者は、その奏が認可されると、有司に直接達することができ、かなり巧みで虚妄なことが許されていた。泌は請うて、今後は凡そ政事は中書省に、機密事は枢密院に、金穀は三司に送り、覆奏してから行うようにと。これに従った。

まもなく三司塩鉄勾院を判じた。詔を奉じて国学の挙人を解送したが、落第させた者が多く、群衆が集まって喧噪し、磚を懐いて泌の出るのを待った。泌はこれを知り、密かに他の道から史館に入り、数日宿直して出られず、対面を請いて自ら陳べた。太宗が問うて、「どの官の騶導が厳粛で、都人が畏れて避けるか」と。臺雑と答える者があったので、即ち泌を虞部員外郎兼侍御史知雑事に任じた。上元の観燈に、泌は特に召しに預かり、これより例となった。金部員外郎に転じ、塩鉄副使を充任した。まもなく、魏羽が使となったが、これは泌の外舅(妻の父)であり、親族の嫌疑を避けて、度支副使に改めた。郊祀に因り、軍士への賞給の数を条上した。太宗が曰く、「朕は金帛を惜しむのは、ただ賞賜に備えるためである」と。泌が因って曰く、「唐の徳宗の朱泚の乱、後唐の荘宗の馬射の禍は、皆、軍への賞が豊かでなかったことによる。今、陛下はご自身の用度は倹約され、賞賜は特に優厚で、実に歴代の難いところです」と。まもなく王沔とともに京朝官の磨勘を同僚した。太宗は孜々として治め、毎度長春殿で政務を視た後、また崇政殿に臨んで決裁し、日が暮れても御膳に進まれなかった。泌が言うには、「請う、今後長春殿での政務を罷めた後、御膳を済ませてから便坐に臨まれるように」と。返答はなかった。まもなく三班・通進銀臺司を管掌し、出て湖州知州となった。再び主客郎中に遷り、虢州知州となった。

真宗の初め、辺境の者がしばしば寇した。泌が上疏して曰く、

「臣が窃かに思うに、聖心の切に思われるところは、天下が朝夕太平であることを欲されることです。雍熙の末、趙普が唐の姚崇の『太平十事』を録して献上した。まもなく趙普はまた宰相となり、当時、治を致す策はこれに過ぎないと称された。ほどなく趙普は病み、また遼の騎兵が辺境を擾したため、因循して行われなかった。今、北辺は静謐で、李継遷は命を請うている。ならば今日において行いうるのです。臣が思うに、先朝で尽く行われなかったのは、陛下を待っていたのです。陛下が大宝に臨まれて以来、辺境に兵を加えず、西北は粛然とし、民は安らぎ年は豊かである。ならば太平の象は、また何ぞ遠からんや。至りて不急の務を省き、煩苛の政を削ぎ、奔競を抑え、直言を来たらしめる。これらは皆、太平を致す術であり、またどうして唐の開元の治に譲ろうか。議する者あるいは謂う、方今の用兵は開元と異なり、かつ開元では辺戎が甚だ熾んで、明皇はついにこれと和した。漢の高祖こうそもまた然り。これらは皆、己を屈して天下を寧んじたのであり、どうして大国を軽んじて小忿を競おうか。近き事を以て言うを請う。往年、交阯を討った時、王師が一動すれば、南方はほとんど動揺した。先皇はこれを得ても用なく、棄てるは実に便りと為し、及び官を授けて蕃屏と為すと、則ち今に至るまで鼠伏している。石晋の末、契丹と講和するを恥じて、遂に天下の横流を致した。どうして強と為し得ようか。あるいは言う者がいる。敵の嗜むところは禽色、貪るところは財利であり、他に智計はないと。先朝が晋を平げた後、もし兵を挙げて臨まず、ただ財帛を与えていたならば、幽薊は間もなく土を納めたであろう。これを察すれば、その情は古も今も同じであり、漢祖・明皇の用いた計は、正にその心を餌とすることができるのです。

臣が伏して近詔を拝見するに、不逞の徒の陳述するものは、皆、閭閻の事である。臣が聞くに、古の先哲の王が芻蕘に諮り、邇言を察するのは、視聴の蔽われることを慮り、故にこれを採って物情に達しようとするのであり、またその事を実行することは稀であった。先朝に侯莫陳利用・陳廷山・鄭昌嗣・趙贊の徒があり、喋喋と利口を振るったが、先帝の聖聡に頼り、まもなくこれを翦除した。然れども患い已に深かった。臣はまた聞く、時に輔え主を佐け、万世の基を建て、抜くべからざる策を立てる者は、必ず老成の人に倚る。成王・康王の刑措に至っては、周・召を任じたによる。文帝・景帝の清静は、蕭・曹を易えなかった。明皇の太平もまた姚・宋を資とした。国政を精練し、王度を斟酌するには、未だ市井の胥や走塵の吏がその任に当たり得るとは聞かない。惟うに陛下が往古の賢を用いて治を致す道を察せられれば、則ち賢者もまた必ず忠を尽くし力を竭くして、太平の治を輔成するであろう」と。

咸平二年、同州知州に転じた。任期満了で代わられて帰還し、鼓司・登聞院を管掌した。五年、陳恕とともに貢挙を同知し、再び通進銀臺司を管掌し、刑部を加官され、出向して両浙転運使となった。近年の制度では、文武官が老齢を理由に退任する者は皆官位を昇進させ、令録は朝官を授け、併せて半俸を給していた。泌は言う、「今後は七十歳以上で退任を求める者には致仕を許し、疾病による者及び在任中に贓罪を犯した者は、便宜に従うことを聴許すべきである」と。詔して可とした。福州知州に転じ、代わられて帰還する際、民はその慈愛を懐かしみ、石に刻んで去るを思うを記した。兵部郎中に転じ、再び審官院を管掌し、直昭文館となった。荊南府知府となり、襄州に改め、太常少卿・右諫議大夫に遷り、吏部銓を判じた。大中祥符五年に卒す。享年六十三。

泌の性質は端正で直諒であったが、方外の学を好み、病が重くなると道士の服を着て、端坐して死んだ。帝は聞いて嘆異し、使者を遣わして臨問し恤賜し、その子の衍を録して太常寺奉禮郎とし、衒を将作監主簿とした。衍は太子中舎となった。

孫何

孫何、字は漢公、蔡州汝陽の人である。祖父の鎰は、唐末に秦宗権が州を占拠した時、強いて賓佐として起用しようとした。鎰は偽って病気と称して応じず、家に帰り、講授を業とした。父の庸、字は鼎臣、顕徳年間に『賛聖策』九篇を献上し、唐の貞観の行った事を引き、魏元成に自らを比した。対面を得て、言う、「武は濫用すべからず、徴収は厚くすべからず、奢侈は放縦すべからず、欲望は極めるべからず」と。世宗はその言を奇とし、中書に試させ、開封兵曹掾に補した。建隆初年、河南簿となった。太平興国六年、鴻臚少卿劉章がその才能を推薦し、左賛善大夫に改めた。殿中丞を歴任し、龍州知州として卒した。

何は十歳で音韻を識り、十五歳で文を綴ることができ、学問に篤く古を嗜み、文章を作るには必ず経義を本とし、貢籍の中で甚だ名声があった。丁謂と齊名して親しくし、当時の輩は「孫丁」と号した。王禹偁は特に雅重した。嘗て『両晋名臣賛』・『宋詩』二十篇・『春秋意』・『尊儒教儀』を作り、時に聞こえた。淳化三年に進士に挙げられ、開封府・礼部ともに首位で推薦し、及第してまた甲科を得、将作監丞に解褐し、陝州通判となった。召されて直史館に入り、緋を賜り、秘書丞・京西転運副使に遷った。右正言を歴任し、右司諫に改めた。

真宗の初め、何は五つの議を献上した。第一に、方略ある儒臣を選んで兵を統率させることを請う。第二に、世禄の家は太学で学業に励み、寒雋の士は州郡が推薦し、贄を投じて自ら媒する者を禁ずることを請う。第三に、制挙を復することを請う。第四に、郷飲酒礼を行うことを請う。第五に、能によって官を授け、恩慶の例によって遷さないことを請う。上はこれを見て善しとした。

咸平二年、入閣の故事を挙行し、何の順番が待制に当たり、疏を献上して言う。

「六卿が職を分つことは、国家の大柄である。吏部は考績を辨じて人材を育み、兵部は車徒を簡びて戎備を治め、戸部は版図を正して貨財を阜くし、刑部は紀律を謹んで暴強を誅し、礼部は神示を祀って賢俊を選び、工部は宮室を繕って堤防を修す。六職が挙がれば天下の事備わる。故に周の会府、漢の尚書は、庶政の根本を立て、百司の綱紀を提す。令・僕はその属を率い、丞・郎はその行を分ち、二十四司は燦然として星の如く拱き、郎中・員外はその曹を判じ、主事・令史はその事を承く。四海九州の大なるも、綱に網在るが如し。

唐の盛時も、別に利権を分ち、使額を創り、軍需を取って足すとは聞かず。玄宗の侈心既に萌すに及び、召発既に広く、租調充たず、ここに蕭景・楊釗始めて地官をもって度支を判じ、宇文融は租調地税使となり、始めて利孔を開き、禍階を構う。肅宗・代宗に至っては、有司の職尽く廃れ、利を言う臣その間に臂を攘ぐ。ここに叛乱相仍い、経費充たず、軍期に迫られ、国計に切って、当時の急を救うに用い、率ね権宜をもってこれを裁す。五代は短促にして、曾て是を思わず。

今、国家は三聖相継ぎ、五兵試みず、太平の業、統を垂れ制を立つるは、この時に在り。宜しく三部の使額を六卿に還し、慎んで戸部尚書一人を選び、専ら塩鉄使の事を掌らせ、金部郎中・員外郎にこれを判じさせよ。また本行の侍郎二人を選び、分かって度支・戸部使の事を掌らせ、各々本曹の郎中・員外郎に分判させよ。然らば三使及び判官は、省くも猶省かざるが如し。仍って左右司郎中・員外に帳目を総知させ、分かって稽違を勾せしめよ。職守常有り、規程既に定まれば、進んでは掊克の慮無く、退いては詳練の名有り、周官唐式、復するを得べし。この事艱しからず、陛下のこれを行わんに在るのみ。」

この冬、大名に従幸し、詔して辺事を訪う。何は疏を上して言う。

「陛下嗣位以来、師を訓し将を択ぶこと、至多と謂うべし。高祖の大度を以て、蕭王の赤心を兼ね、神武は百王に冠たり、精兵は前代に倍す。閫を分ち鉞を仗する者は、固より身を以て士卒に先んずるを心とし、賊を遺して君父を恥ずるべし。然るに列城相望み、堅壁自ら全うし、強兵を手に握り、坐して成算に違い、遂に腥膻をして計を得させ、蛇豕をして肆に行わしめ、我が郡県を焚劫し、我が黎庶を係累す。陛下は人神の忿怒を攄き、河朔の生霊を憫み、爰に六師を御し、親しく澶・魏に幸す。天声一たび振るえば、敵騎四散に逃ぐ。鎮・定の道路已に通ずるも、徳・棣の烽塵未だ息まず。これは将帥或いは未だ人を得ず、辺奏或いは壅閼有り、隣境相救援せず、糗糧転輸を俟つ須らくするに致る所なり。

将帥とは何ぞ。或いは勇を恃みて謀無く、或いは功を忌みて寇を玩び、只だ城堡を全うし、人民を恤れみず。辺奏とは何ぞ。塞を護る臣、禄を固め位を守り、城池焚劫も実を以て聞かず、老幼殺傷も他盗と託言す。救援せざるとは何ぞ。辺境に沿う州県、城壘参錯し、輔車唇歯の相依るが如く、頭目手足の相衛うが若し、兵少を称えて出でず、或いは奏可を待ちて乃ち行く。輓輸を俟つとは何ぞ。敵騎往還し、猋馳鳥逝し、糧を贏て景従し、万両方に行く。我の来るに迨うも、寇已に遁去す。この四者は、当今の急務なり。将帥を択ぶには、文武の内、謀臣を参用するに若くは莫し。壅閼を防ぐには、凡そ辺防を奏するは、陛見庭問するに若くは莫し。救援を合するには、軍令を以て督し、その便宜を聴くに若くは莫し。糗糧を運ぶには、軽く齎して疾く駆り、彼の趫捷と角するに若くは莫し。

今、大駕既に鄴下に駐まり、契丹終に敢えて南牧の心を萌さず。慮る所は薦食する者は、惟だ東北の備え無き城なり。繕完周防は、慎まざるべからず。且つ蜂蠆毒有り、豺狼厭き無し。今、契丹は西に大兵を畏れ、北に帰路無く、獣窮すれば則ち搏つ、物軽んずべからず。余孽尚お或いは誅を稽え、奔突も亦宜しく備うべし。大河の津済は、処々に之れ有り。亦た望むらくは量りに禁兵を屯し、その要害を扼せば、則ち和を請うの使、日に待たずして待つ可きなり。」

真宗はこれを見て賞賛した。傅潛が逗留して功績がなかった時、何承矩はまた傅潛を斬って示しにせよと請うた。まもなく戸部判官を権知し、出向して京東転運副使となり、また上疏して州県の守宰を選び、三司の冗員を省き、法官を選抜し、俸給を増やすことを請うた。間もなく、両浙転運使に転じ、起居舎人を加えられた。景德初年、代わって帰還し、太常礼院を判じた。まもなく晁迥・陳堯諮とともに知制誥に任じられ、金紫を賜り、三班院を掌った。何承矩は先に病を得ており、無理をして職務に当たっていた。ある日、御前で奏事する際、奏牘を地面に落とし、かがんで拾い上げたが、また笏を落とした。有司が失儀を弾劾したが、詔によって赦された。何承矩は恥じ、上章して少卿監に改め、西京に分司して養生することを求めたが、上は許さず、ただ告身を賜い、医者を遣わして診察させた。医者が灸を勧めたが、何承矩は答えて「死生は天命にある」と言い、ついに聞き入れなかった。この冬に卒去した。四十四歳であった。上は澶淵におり、これを聞いて哀惜し、その子の言を大理評事に任じた。

何承矩は名教を楽しみ、士類を勤めて接し、後進で詞芸のある者は必ず称揚した。しかし性はせっかちで、人を容れることができなかった。浙右では峻刻を専ら務め、州郡はこれを苦しめた。好学で、『駁史通』十余篇を著し、文集四十巻があった。弟に僅がいる。

弟の僅

僅は字を鄰幾という。若くして学問に励み、何承矩とともに当時に有名であった。咸平元年、進士甲科に及第し、兄弟連続して貢挙の籍を冠し、当時の人はこれを栄しんだ。舒州団練推官に初任官し、詔が賢良方正の士を挙げるに会い、趙安仁が僅の名を聞かせた。策問で第四等に入り、光禄寺丞・直集賢院に抜擢され、まもなく浚儀県知事となった。景德初年、太子中允・開封府推官に任じられ、緋衣を賜った。北辺が盟を請うて、使者を交わして聘問するに当たり、僅が最初に国母生辰使となった。本府判官に改め、右正言・知制誥に遷り、金紫を賜り、審官院同知となった。この冬、永興の孫全照が代わりを求めたので、真宗は循良を選んでこれに任じようと考え、御筆で辺肅と僅の二名を宰相に示した。ある者が僅はかつて京府の副官を務め、民政に通じていると言ったので、永興軍府知事に任命した。僅は純厚な長者で、政事はかなり寛大であり、かつて詔で戒められた。大中祥符元年、比部員外郎を加えられた。代わって帰還し、審刑院知事となった。ほどなく、右諫議大夫・集賢院学士・権知開封府に任じられた。左諫議大夫に改め、出向して河中府知事となった。朝廷に帰り、再び審刑院を管轄した。長く在任し、給事中に進んだ。天禧元年正月に卒去した。四十九歳であった。その子の大理評事和を衛尉寺丞に任じた。

僅は性が端正で誠実、中立して争わず、儒学に篤く、士大夫はその品行を推し、文集五十巻があった。僅の弟の侑もまた進士に及第し、殿中丞に至った。

朱台符

朱台符は字を拱正といい、眉州眉山県の人である。父の賦は抜萃に挙げられ、度支判官を歴任し、殿中丞の任で卒去した。台符は幼少より聡明で、十歳にして文を綴ることができ、かつて『黄山楼記』を作り、士友に称賛された。成長してからは、詞賦を得意とした。当時太宗は貢士を廷試し、多く敏速な者を抜擢したが、台符は同輩と課試し、短時間で一賦を作った。淳化三年、進士甲科に及第し、将作監丞・青州通判に初任官した。召されて直史館に入り、緋魚袋を賜り、再び秘書丞に遷り、浚儀県知事となった。

咸平元年、楊礪・李若拙・梁顥とともに貢挙を同知し、まもなく京府の旧僚として、太常博士に抜擢され、出向して京西転運副使となった。当時北辺が障害となっていたので、台符は上言して言った。

「臣は聞く、蛮夷が夏を乱すことは、『帝典』に載せられており、商・周以下、たびたび辺境の害となった。あるいは軍を振るって討伐し、あるいは和親して友好を修め、歴代の経営はこれが良策であった。秦が長城を築いて黔首が叛き、漢が大漠を絶って海内が虚しくなったことまで、一時の志を逞しくして、万代に笑いを遺す、これこそ殷の鑑遠からずである。近年、晋氏が統御を失い、中原が乱離したが、太祖は往古を深く鑑み、中道を酌み取り、民を休息させ、使者を往来させた。二十年の間、侵入の聞くこと稀で、辺境の戍兵を大いに省き、塞を出る兵を興さなかった。関防は静謐で、府庫は充溢し、まことに制御の道を得ていたのである。

幽薊の地は、まさに我が疆域であるが、まだ混同を隔てており、開拓すべきである。太宗が晋を平定した後、その兵勢に乗じて、ついにこれを取ろうとした。人は協謀したが、天は未だ乱を厭わず、螗斧が轍を拒み、霊誅が稽留した。重ねて弔伐の師を興し、また遷延の役を作した。これ以降、凶鋒を大いに振るい、軍民を殺略し、城砦を攻め抜き、長駆深入して、禁止することができなかった。当時は、河を塞とし、趙・魏の間はほとんど国家の所有とならなかった。すでに歓盟を阻まれ、備禦をなすに至り、兵馬を屯し、将帥を増やし、芻粟の飛輓、金帛の委輸、贍給賞賜は数え切れないほどであった。これにより国家の食貨は河朔で枯渇したのである。

陛下は天より命を受け、万物を更始し、李継遷に節度を授け、黎桓に爵を加え、皆使者を命じてその邦を鎮撫させた。ただかの契丹だけは、未だ渥沢を加えず、遠方を柔らげ近きを能くするものではなく、王道の偏りのないことを明らかにしていない。今、祥禫が終わろうとしており、中外が首を伸ばして徳音を観聴している。臣愚かにも、この時に契丹の罪を赦し、文武の才略で辺境に習熟し弁説に長けた士を選び、一介の使者として、嗣位して喪が除け、隣国と修好することを告げ諭すべきであると考える。彼らは十年以来、再び塞を犯さず、臣の計らいでは、力が足りず、志は帰向したいが、その機会を得ていないのである。今もし天覆の仁を垂れ、来王の便を仮すれば、必ずや歓悦して義を慕い、使者を遣わして朝貢するであろう。これに因って前悪を尽くし捨て、旧盟を再び尋ね、貨財の利を与え、関市を許し、太祖の故事のようにして、恩を懐かしみ威を畏れさせる。そうすれば両国は既に和し、北顧の憂いがなく、専ら西鄙に力を注ぐことができ、李継遷は自ら心を改めて束手するであろう。これは一挙にして両得である。」

台符はまた自ら往使を請い、当時の論はこれを是とした。

咸平二年春、旱魃があり、詔して直言を求めた。台符は上疏し、農を重んじて穀を積み、将を任じて兵を選び、守令を慎んで選び、考課して黜陟し、徭役を軽くして用を節し、賦を均しくして刑を慎み、大臣に責任を与えて治道を図ることを請うた。奏上されると、優詔で褒めて答えた。入朝して塩鉄判官となり、戸部勾院判官に改め、工部員外郎に任じられ、度支判官に換えた。景德初年、鄭文宝が陝西転運使となったが、ある者がその張皇して事を生ずると言い、台符を代わりに徙任させ、金紫を賜った。

台符は俊爽で謀を好んだが、ややもすれば刻碎をもって職務を挙げることを旨とした。楊覃と連事し、覃はかなり旧慣に因ろうとしたが、台符は煩擾を更革し、議事が違戾して、互いに掎み奏し、不協を以て聞こえ、御史にその状を視させた。九月、台符を徙任して郢州知事とし、覃を随州知事とした。三年、召還されたが、執政に不喜ぶ者がおり、再び出向して洪州知事となり、舟中で卒去した。四十二歳であった。その子の公佐に同学究出身を賜い、賵賻として銭二十万を賜った。

台符は好学で、文を綴ることに敏く、後進の名声を延ばすことを喜び、文集三十巻があった。公佐および台符の弟の昌符は、大中祥符年間に進士に挙げられ、廷試でともに第五人を得た。初め、昌符が登科した時、宰相が昌符は即ち台符の弟であると言うと、上は台符に文学及び著述の採るべきものがあると言い、非常に嘆悼した。公佐が卒去すると、また次子の寿隆を試みに将作監主簿とした。昌符は屯田員外郎となった。

戚綸

戚綸、字は仲言、応天楚丘の人。父は同文、字は文約、別に伝がある。綸は若くして兄の維とともに文才と品行で知られ、古学に篤く、名教を喜んで談じた。太平興国八年、進士に挙げられ、初めて沂水主簿に任じられた。戸籍を調査し、逃亡戸や口数漏れ・租税逃れの者が甚だ多いことを明らかにした。太和県知県に転じた。同文が随州で没すると、綸は徒歩で千里余りを馳せて訃報に赴いた。まもなく詔により喪中に復職し、そのまま大理評事を加えられた。江南の民は険阻で強悍で訴訟を構えることが多く、『諭民詩』五十篇を作り、当時の風俗や耳目に触れる事柄によって、規律と教誨を述べ、老若多くこれを伝誦した。毎年、時節には必ず獄囚と約束し、帰して先祖を祀らせたが、皆期日通りに戻ってきた。光禄丞に遷ったが、陳州での裁判が事実に合わなかったことで罪に坐し、免官された。『理道評』十二篇を著し、錢若水・王禹偁に深く賞賛された。久しくして、再び大理評事・永嘉県知県を授かり、境内に灌漑用の池の利があったので、これを浚渫・整備して水害・旱害に備えた。再び光禄寺丞となり、転運使がまたその政績を上奏したので、詔を連ねてこれを褒めた。

真宗が即位すると、著作佐郎・泰州通判に転じた。赴任しようとする時、秘書監楊徽之がその文学が純粋で謹厳であることを推挙し、館閣に在るべきとし、命じて秘閣校理とした。詔を受けて司天臺の職官を考査し、州県の職田に関する条制を定めた。館閣の官に旧文を献上するよう詔が出され、上は綸の著したものを嘉し、特に太常丞に改め、まもなく鼓司・登聞院を判った。内府の緡帛を出して辺境の食糧を買い付け、詔して綸に駅伝を乗り継いで往き、均等に買い付けることを命じた。

景德元年、三司開拆を判り、緋魚袋を賜り、塩鉄判官に改めた。辺境の事について上疏し、甚だ嘉賞された。十月、右正言・龍圖閣待制に任じられ、金紫を賜った。当時この職は初めて設けられ、杜鎬とともに任命され、人皆これを栄誉とした。綸は長く州県の官を歴任し、吏事に留意し、毎回便殿で対面を請うと、語ること必ず日時計の影が移るほど長く、あるいは夜中に召し出されても、多く事を敷陳し啓奏した。まもなく上奏して言うには、「出納し献替することは、王臣の任である。章疏を奏議することは、諫者の職である。臣は屡々召し出されて対面を賜り、皆数刻を延ばし、万乗の尊を屈して、一介の士に接せられる。聖徳は深遠にして、荒穢をも包み納れ、その至愚を体して、触犯を罪とされない。安んぞ黙して言わずに従おうか。謹んで十事を拾い、治国の根本に該るものを章奏の左に附す。一には王畿関輔、二には五等封建、三には制科の復活、四には国学の尊崇、五には曠土の開拓、六には貢挙の修明、七には大臣の任用、八には平糴の設置、九には廂軍の増強・禁兵の削減、十には『六典』令式の修撰である。」言葉は甚だ深切で、上はこれを嘉賞した。

二年、趙安仁・晁迥・陳充・朱巽とともに貢挙を同知し、綸は士人を取る法について上言し、多く規制を設け、皆採用された。『冊府元龜』の編修に参与し、たまたま官を置いて在京諸司の事務を総括することとなり、凡そ百三十司に及び、綸と劉承珪に命じてともにこれを統轄させた。鴻臚寺を判った。先に、群臣の詔葬には、公私の費用に定式がなかった。綸がこの事を言上し、晁迥・朱巽・劉承珪とともに官品の差を校定し、制度として定め、遂にこれに従って行われた。綸は、三公・尚書・九列の任について、唐末以来、官署が次第に煩雑になり、綱目が統一されていないとして、『通礼』・『六典』の令式を採用し、沿革を類比して、大典として著すべきであるとし、当時の論はこれを称えた。右司諫・兵部員外郎に進んだ。当時、詔して群臣の匿名による上封および順序を越えて昇殿して奏事することを禁じたが、綸は「忠直な言論が入るには、言路を開き奨励すべきであり、特に疎遠の士は、対面を請うことが難しい。」と言った。上はこれを頗る嘉した。

大中祥符元年、吏部の選事を掌った。上が初めて霊文を受けた時、綸は上疏して言うには、「臣は遠く載籍を稽え、歴代の秘文を考証し、霊応が祥瑞を垂れることを験し、天と人の相接することを顧みる。陛下は二聖の大業を継ぎ、万世の鴻基を啓き、道を行い企てることに勤め、恭しく黙して玄理を思い、上天は降って鑑み、瑞牒は明らかに賜い、臨民の戒めを示し、以て代々の祥を広げんとされる。乞うらくは有司に詔し、速やかに大祀を修め、侍従に命じ、祥符を模写して、嘉玉に刻み、これを太廟に蔵し、別に副本を中禁に秘し、万代に伝え示し、敢えて怠り荒れることなからしめられたい。然れども臣は流俗が幻惑し狂謀をなし、人鬼の妖辞をもって、天書の真旨を乱すことを恐れる。伏して望むらくは、元符を端く守り、正道に神を凝らし、以て天の賜いに答え、以て民衆を恵まんことを。」と。この冬、泰山を封じるに当たり、綸に命じてともに計度発運の事に当たらせた。礼が成ると、戸部郎中・直昭文館に遷り、待制は元の通りとした。詔を受け、『東封祥瑞封禪記』をともに編纂した。たまたま待制の官秩を高めることとなり、また集賢殿修撰を兼ねた。釈奠の儀礼を修めて天下に頒布すること、常平倉を立てて司農寺に隷属させ、民の買い入れを平準にすることを建議し、皆従われた。かつて龍圖閣で种放を宴して送別する時、近臣に序を作るよう詔し、上は綸の作ったものを覧て、これに史才があると称えた。

三年、枢密直学士に抜擢され、上は詩を作ってこれを寵した。汾陰を祀るに当たり、また発運の職を領した。間もなく、杭州知州として出向し、そのまま左司郎中を加えられた。江潮が患いとなっていたので、堤防を築き、柱石の構造を改め、水害は免れたが、人々はその法を変えたことを頗る非とした。胡則が当時発運を領しており、かつて杭州に住み、ほしいままに振る舞い慎みなく、李溥と厚く結んでいたが、綸は平素からこれを憎んでいた。通判の吳耀卿は則の党であり、綸の動静を窺い、密かに則に報告した。則は当時権力者に昵懇にされていたので、ともに綸の過失を拾い集め、揚州知州に転じさせた。惟揚もまた溥・則の巡察区域内であり、綸をいっそう厳しく扱い、僻遠の郡への転任を求めて、徐州に転じた。八年、劉綜とともに学士を罷め、左諫議大夫を授かった。任期を終えて帰還し、再び青州知州となった。凶年に当たり、公の倉庫を開いて餓死者を救い、多くを全安させた。鄆州に転じた。王遵誨が勧農副使であり、かつて西辺を補佐し、永興に家族を住まわせていたが、閨門が整わず、事が発覚しようとした時、知府の寇準がこれを平らげた。綸が戯れの言葉で寇準に言及したので、遵誨は憤慨し、自分を汚したと思い、遂に綸が誹謗したと奏上し、岳州団練副使に左遷され、和州に移された。天禧四年、保静軍副使に改めた。この冬、病気を理由に故郷への帰還を求め、太常少卿に改め、南京に分司した。五年、卒去、六十八歳。

綸は古学に篤く、名理を善く談じ、民政を喜んで言ったが、頗る迂闊に近かった。兄の維に仕えて友愛甚だ厚く、維が没し訃報を聞くと、哀慟して数日食事をしなかった。交遊の故旧とは、信義をもって著しかった。士子で謁見する者には、必ずその学業を尋ね、その志尚を訪ね、才能に従って誘導教誨した。かつて言うには、「老いて帰った後、十年を郷里で講習するを得れば、また道を恢め世を済すこともできよう。」と。大中祥符年間、礼文の事を引き継いで修めるに当たり、綸は皆その議に参与し、陳彭年とともに職務に当たり、屡々召し出されて対面し、多く条式を建議し、恩寵は甚だ盛んであった。士人を推薦することを喜び、一たび奏上するごとに十数人、皆当時の知名の士であった。晩節は権幸に排撃され、遂に再び振るわなかった。子弟を善く訓育し、清顕の位に至っても、その純朴で倹約な風を改めなかった。没した後、家に余財がなかった。張知白が当時府事を治めており、俸給を割いてその葬儀を助けた。家人が机や棚の間に、『遺戒』一篇を得たが、大略皆学問を勧誘するものであった。文集二十巻がある。また前後の奏議には、機務の利害・辺備・均田の策があり、別に『論思集』十巻として、上下篇に分けた。天聖年間、その子の舜賓がこれを献上し、詔して左諫議大夫を追贈した。舜賓は、太子中舍の官に至った。

張去華

張去華、字は信臣、開封襄邑の人。

父の誼は、字を希賈という。学問を好み、産業に従事しなかった。孤児となった後、叔父たちが彼を田畑の畔で耕作を監督させたが、ある日そこへ行ってみると、木の下で書物を読んでいたので、農事に親しまないことに怒り、罵り辱めた。誼はその兄に言った、「もし外で学問を修めなければ、平素の志は成就しないであろう」と。そこで密かに洛陽らくようの龍門書院に赴き、同族の沆・鸞・湜と交友を結んだので、その名が都に聞こえた。

長興年間(後唐)、和凝が貢挙を掌ると、誼は進士に挙げられ、耀州団練推官に補任された。後晋の天福初年、任期を終えて帰還した。ちょうど和凝が内署より端明殿学士に任ぜられ、門に掲示して賓客に接しなかったので、誼はこれを聞き、即日に和凝に書を送り、「近侍の職は、まさに顧問に当たり、四方の利害について尋ね訪ねるべきである。もし賓客に接しなければ、耳目が聾瞽のようになり、職務を怠ることになる。たとえ自らの安泰を図るとしても、果たしてそれが得られるであろうか」と論じた。和凝は大いにこれを奇とし、後日、宰相の桑維翰に薦めて言った、「凝の門生に張誼という者がおります。性質は介直で、文芸にかなり通じており、諫職に備えることができます」と。間もなく、左拾遺に超拜された。誼は、晋室が新たに興ったばかりで典礼が未完成であるとして、たびたび上章して唐代の旧制を復するよう請うた。また、契丹には援立の功績があるので、信義を厚くし謹んで備えるべきであり、安逸に流れて隙を開くべきではないと述べた。右補闕に改められ、集賢殿修撰を充任し、礼部員外郎・侍御史を歴任した。倉部に改められ、知制誥となり、礼部郎中を加えられた。

乾祐初年(後漢)、正式に中書舎人に任ぜられた。当時、蘇逢吉・楊邠・王章らは漢の高祖(劉知遠)に取り入り、急に重用され、官僚の多くが彼らに附いたが、誼は屈せず、故に彼らから共に憎まれた。誼を呉越宣諭使として派遣し、兵部郎中馬承翰と共に官告を賜るために赴かせた。浙の人々は朝使を迎えるたびに、必ず歩兵騎兵を並べて自ら誇示したが、誼と承翰は密かにこれを笑った。また酒に乗じて、軽率な言葉を発することがあり、銭俶は大いにこれを恥じ、誼が防援官を鞭打ったと奏上した。また夜に集まり、承翰と酒に任せて言葉で互いに侵し合い、罪を得て均州司戸に貶され、房州司馬に改められ、一年余りで卒した。

去華は幼い頃から学問に励み、文章を綴るのに敏速で、蔭補により太廟齋郎となった。周の世宗が淮南を平定した時、去華は十八歳で、慨然として嘆いて言った、「兵戦は止まず、民事は修まらぬ。これは国を治め長く持続させる方策ではない」と。そこで『南征賦』・『治民論』を著し、行在に献上した。召されて試みられ、御史台主簿に任ぜられた。三院が議事する際、座に預かれなかったので、親しい者に言った、「簿領の職務は、壮夫のなすべきことではない」と。即座に官を棄てて鄭州に帰り、門を閉ざして三年間出なかった。

建隆初年(宋)、初めて文章を携えて京師に遊学し、李昉に大いに称賛された。翌年、進士甲科に挙げられ、即座に秘書郎・直史館に任ぜられた。任期が満ちても昇進しないので、上章して自ら訴え、ついで制誥の張澹・盧多遜・殿中侍御史の蘇頌の文学が浅薄であるとし、その優劣を校べることを願った。太祖は直ちに張澹らを召し、去華と共に臨軒で策試を行い、陶穀らに考課させた。張澹は問いに応じた答えが不適切であったため、位階を降格され、去華は右補闕に抜擢され、襲衣・銀帯・鞍勒馬を賜った。朝議は彼の躁進を軽んじ、このため十六年間昇進しなかった。かつて便殿で対面を得た際、家世について尋ねられ、父が初めに権貴に逆らい、重い貶謫に遭ったことを訴えた。宰相の薛居正もまたこのことを言上し、太祖はその話に心を動かされ、かつて言った、「漢室は道に外れ、奸臣が権を擅にした。これは朕が親しく見聞きしたことである」と。荊湖が平定されると、道州通判を命ぜられた。去華は上言して、「桂管は五嶺の要衝であり、今、劉鋹が境を保ち固守し、これに頼って防壁としている。もし大軍が先ずその城を攻克し、番禺に向かえば、無人の境を踏むが如きである」と述べ、さらに桂州が攻略可能な状況にあることを言上した。詔があり嘉奨された。任期を終えて帰還し、磁州・乾州の知州を歴任し、益州通判に選ばれ、起居舎人に遷り、鳳翔府知府となった。

太宗の太原征伐に従い、随駕左蔵庫を監察し、そのまま京東転運使に任命された。左司員外郎・礼部郎中を歴任した。太平興国七年、江南転運使となった。雍熙年間、王師が幽州を討つと、去華は宋州の糧餉輸送を拒馬河まで監督し、そのまま河北転運事を掌ることを命ぜられた。三年、陝州知州に任ぜられたが、赴任せず、『大政要録』三十篇を著して献上した。上はこれを見て嘉し、詔書で褒め称え、采五十匹を賜り、そのまま留め置かれて派遣されなかった。ちょうど許王が京尹となると、開封府判官に任命され、殿中侍御史陳載が推官となり、ともに金紫を賜った。上は言った、「卿らは皆、朝廷の端士である。特に選んで任用する。わが子をよく補佐せよ」と。各々に銭百万を賜った。一年余りして、そのまま左諫議大夫に任ぜられ、また枢密使王顯に命じて旨を伝えさせ、補佐して成し遂げるよう諭させた。間もなく、廬州の尼の道安が弟の妻を虚偽で訴えたが、府がこれを取り扱わず、枷をはめて本州に送還した。弟の妻はすなわち徐鉉の妻の甥であった。道安が登聞鼓を打ち、徐鉉が書簡で請託したので、去華が故意に取り扱わなかったと訴えた。上は怒り、去華は一階級削られる罪に坐し、安州司馬に貶された。一年余りして、召されて将作少監・興元府知府に任ぜられたが、赴任せず、晋州に改められた。秘書少監に遷り、許州知州となった。

真宗が即位すると、再び左諫議大夫に任ぜられた。間もなく、給事中に遷り、杭州知州となった。両浙では銭氏以来、民に丁銭を賦課し、死んでも免除されない者がいたので、去華はこれを除くよう建議したが、有司は経費の頼みとする所であるとして、固執して許さなかった。咸平二年、蘇州に移った。ほどなく、病気を理由に西京分司を求めた。洛陽で園廬を修築し、中隠亭を作って志を表した。景德元年、工部侍郎として致仕した。三年、卒去。享年六十九。

去華は姿形が美しく、談論に長け、含蓄があり、気節を重んじた。営道において父の同門生である何氏の二人の子を得て、その学問を教えた。任期交代の際、彼らを京師に連れて行き、慰め推薦して学舎と食糧を与え、ともに官籍に登った。かつて『元元論』を献上し、その大旨は民を養い農務を急務とすることを説き、真宗は深くこれを嘉賞し、縑素にその論を写して十八軸とし、龍図閣の四壁に掲げるよう命じた。しかし、辺幅を飾らず、清議によってかなり貶され、このため顕要な任用には登らなかった。文集十五巻がある。子に、師古(国子博士に至る)・師錫(殿中丞)・師顔(国子博士)がいる。

子に師徳。

師徳は、字を尚賢という。去華の十人の子の中で、最も師徳を重んじた。かつて官に任せようとしたが、辞して就かなかった。去華は言った、「この児は必ずやわが志を継ぐであろう」と。真宗が汾陰を祀った時、河南府知府薛映がその学行を推薦し、また行在に『汾陰大礼頌』を献上した。この年、進士に挙げられてもまた第一となり、当時の人々はこれを栄誉とした。将作監丞・耀州通判に任ぜられた。秘書省著作郎・集賢校理・三司都理欠憑由司判官に遷った。建議して言った、「官物を滞納して拘束されている者で、本来は侵盗ではなく、もし孤獨で貧病のために自ら償うことができない者は、特に免除されることを願います」と。帝はその言を用いた。かつて殿中で奏事した際、帝が時事について訪ねると、条理立てて対答すること甚だ詳備であった。帝は喜んで言った、「朕は藩邸の時より卿の父の名を知っていた。今また卿の才を知った」と。その後、使者を派遣するたびに、帝は常に言った、「張師徳を用いることができる」と。契丹・高麗の使者が来ると、多くは師徳がこれを主管した。天禧初年、淮南を安撫したが、風眩に苦しみ、司農寺判官に改められた。右正言・知制誥に抜擢され、尚書刑部判官となった。ほどなく、潁州知州として出向し、刑部員外郎・大理寺判官に遷り、群牧使・景霊宮判官となり、再び吏部郎中に遷った。病気のため、鄧州知州となり、汝州に移り、左諫議大夫に任ぜられ、知制誥を罷免された。

師徳は孝行で謹み深く家法を守り、権貴と交わらず、時の宰相は甚だこれを快く思わなかった。しかしまた病多く、西掖(中書省)に九年間在って昇進せず、官にて卒した。文集十巻あり。子の景憲は太中大夫となった。

楽黄目

楽黄目、字は公礼、撫州宜黄の人である。代々江左の李氏に仕えた。父の史、字は子正。斉王景達が臨川を鎮守した時、召されて奏箋を掌り、秘書郎を授かった。朝廷に入り、平原主簿となった。太平興国五年、顔明遠・劉昌言・張観と共に現任官として進士に挙げられた。太宗は科第を与えるのを惜しみ、ただ諸道の掌書記を授けた。史は武成軍の佐官を得、その後また及第を賜った。上書して事を言い、著作佐郎・陵州知州に抜擢され、『金明池賦』を献上し、召されて三館編修となった。

雍熙三年、著した『貢挙事』二十巻、『登科記』三十巻、『題解』二十巻、『唐登科文選』五十巻、『孝弟録』二十巻、『続卓異記』三巻を献上した。太宗はその勤勉を嘉し、著作郎・直史館に遷した。太常博士・舒州知州に転じ、水部員外郎に遷った。淳化四年春、司封員外郎・直昭文館李蕤と共に両浙巡撫使となり、都官・黄州知州を加えられた。また『広孝伝』五十巻、『総仙記』百四十一巻を献上した。詔により秘閣に写本を作り内に進めた。史は著述を好んだが、博くして要を得ず、五帝・三王を皆仙人として去ったと云い、論者はその詭誕を嗤った。

咸平初年、職方に遷り、また『広孝新書』五十巻、『上清文苑』四十巻を献上した。出て商州知州となった。史は前後民に臨むこと頗る多く、賄賂の噂が聞こえた。間もなく老病を理由に上言し、職を解くことを許され、西京に分司された。五年、郊祀が終わり、留守司の表を奉じて入賀し、これにより召対を得た。上はその矍鑠として衰えず、また篤学なるを知り、著した書を全て取り秘府に蔵め、旧職を再授し、黄目と共に文館に在らせ、人は栄えと為した。出て西京磨勘司を掌り、黄目は京西転運使となった。留司御史台の判に改めた。車駕が洛に幸した時、召対し、金紫を賜った。史は久しく洛に在り、卜居して亭榭竹樹の勝があり、優遊自得した。間もなく卒し、年七十八。撰したものにまた『太平寰宇記』二百巻、『総記伝』百三十巻、『坐知天下記』四十巻、『商顔雑録』・『広卓異記』各二十巻、『諸仙伝』二十五巻、『宋斉丘文伝』十三巻、『杏園集』・『李白別集』・『神仙宮殿窟宅記』各十巻、『掌上華夷図』一巻がある。また己の著を編んで『仙洞集』百巻とした。

黄目は淳化三年に進士に挙げられ、伊闕尉に補された。大理寺丞・寿安県知県に遷った。咸平年中、壁州知州に転じるが未だ赴任せず、上章して辺事を言い、召対され、殿中丞を拝した。久しくして、直史館・浚儀県知県となった。間もなく上言して曰く、『伏して以みるに、政に従うの原は、州県を急と為し、民に親しむの任は、牧宰が先に居る。今、朝官は数任を以て知州に除し、簿尉は両任を以て県令に入る。功過は易く見ゆれども、能否は明らかにし難し。伏して見るに、唐の開元二年に群官を選び、宏才通識・致理化に堪うる者に、刺史・都督ととくを授けた。また新たに授かる県令を宣政殿に引き、理人策一道を試み、ただ鄄城令袁済のみ及格し、醴泉令に擢授し、余り二百人は且つ赴任を令し、十余人は並びに習学を令して放った。臣は望む、今より審官院が知州を差し、銓曹が県令を注するに、各々三二十人に及ぶを俟ち、一度に御前に引見し、時務策一道を試みることを。言を察し行いを観て、吏治に明らかで教化に達する才識ある者を選び充て、曲直を分かたず是非を弁えざる者あれば、或いは厘務を黜し、或いは旧資を守らしめて退かせる。かくの如くせば、官は其人を得、事治まらざるは無からん』。上は頗るその好古を嘉した。度支・塩鉄判官を歴任し、太常博士・京西転運使に遷った。母の喪に服す(丁内艱)。時に真宗が洛に幸せんとし、供億の務繁雑なるを以て、起復して職に莅ましめた。史は間もなく卒し、上はまた詔して権奪(喪中起復)させた。

大中祥符年中、契丹に使いして還り、工部員外郎・広南西路転運使に改めた。就いて起居郎を拝し、陝西転運使に改め、金紫を賜った。陳堯諮が永興を知り、気勢を以て黄目を凌ぐことを好み、表を上って職の解任を求めたが、許されなかった。堯諮は多く恣に法を縱え、密かにその事を言う者有り、詔して黄目にこれを察せしめ、実を得て以て聞こえ、堯諮は龍図閣職を罷めて坐し、鄧州知州に転じた。八年、黄目は入り三司三勾院を判じた。天禧初年、馬元方が黄目の職事挙がらざるを奏し、遂に三勾院を分かち、三人を以てこれを掌らしめた。黄目は任を罷め、奉朝請となった。一月余りを経て、兵部員外郎・知制誥を拝し、会霊観判官を充てた。黄目は属辞淹緩(文章作成が遅い)であり、朝議は不称職と為した。時に盛度を以て京府知事と為さんとしたが、辞して拝さず、即ち黄目を右諫議大夫・権知開封府に遷し、度を会霊観判官と為し、両者の任を換えた。

仁宗が皇太子に昇るに及び、給事中兼左庶子を拝した。入内副都知張継能は、嘗て公事にて黄目に請托し、是に至るも未だ謝を申さず、事敗れ、左諫議大夫・荊南府知事に降格した。明年、復た給事中と為り、潭州に転じた。長沙の月給は、荊渚より減じており、特詔を以てこれを増し、また兵賦繁綜の寄任の意を諭した。五年、代わられて還り、審官院知事となった。黄目は風疾のため題品(官吏考課)に乖当あり、通進・銀台司兼門下封駁事知事に改めた。数月後、外任を求め、亳州知州を得た。間もなく幼子死に、訃報を聞き慟哭絶え、患っていた病が加甚し、卒した。年五十六。子の理国を衛尉寺丞に、定国を大理評事に録した。

黄目は顔つき柔らかく簡默(簡素で寡黙)であり、吏として劇務を処するも、また敗事無かりき。文集五十巻あり、また『学海搜奇録』四十巻、『聖朝郡国志』二十巻を撰した。黄目の兄黄裳、弟黄庭、黄裳の孫の滋は、並びに進士及第した。黄裳・黄庭は皆太常博士に至った。

柴成務

柴成務、字は宝臣、曹州済陰の人である。父の自牧は進士に挙げられ、詩を能くし、兵部員外郎に至った。成務は、乾徳年中に京府の抜解(選抜推薦)を受け、太宗は平素よりその名を知り、首にこれを推薦し、遂に進士甲科に中り、初官として陝州軍事推官に就いた。曹・単観察推官に改め、大理寺丞に遷った。太平興国五年、太常丞に転じ、陝西転運副使を充て、緋衣を賜い、再び殿中侍御史に遷った。八年、供奉官葛彦恭と共に河南に使いし、遙堤を案行した。果州・蘇州の二州知州を歴任し、就いて両浙転運使と為り、戸部員外郎・直史館に改め、金紫を賜った。入朝して戸部判官となり、本曹(戸部)郎中に遷った。太宗が郎官を選んで少卿監と為すに当たり、成務を光禄少卿とした。

俄かに高麗に使節として赴く、遠方の習俗は尚拘忌を重んじ、月日の吉凶が利ならざるを以て恩拝を留め、朝使を稽留す、成務は書を貽し、往復して大體を開諭す、国人信服し、事は『高麗傳』に具す。淳化二年、京東轉運使となる。時に宋州の河決す、成務上言す、『河水の経る地は肥澱なり、願はくは其の租税を免じ、民を勧めて種藝せしめよ』と。之に從ふ。召されて司封郎中・知制誥に拜し、錢三十萬を賜ふ。時に呂蒙正宰相たり、嘗て之と外姻を聯ねたるを以て、嫌を避けて職を辭す、許さず。俄にして魏庠と同知京朝官考課す。四年、又庠と同知給事中事たり、凡そ制敕に便ならざる所ある者は、封駁を許して以て聞かしむ。

真宗即位し、給事中・知梓州に遷る。未幾にして代わり還り、又青州を治むるを遣わされ、表して永熙陵の復土畢るを俟ちて之に任ぜんことを求む。旋ちに詔を受けて錢若水等と『太宗實錄』を同修し、書成りて、揚州を治む。入りて尚書刑部を判じ、本司の小吏倨慢なり、成務怒りて之を笞す、吏登聞鼓を撃ちて冤を訴ふ、詔有りて状を問ふ。成務歎じて曰く、『忝くも長官たり、一胥を杖して劾せらる、何の面目か有りて堂に據りて事を決せんや』と。乃ち職を解くを求む。景德初、卒す、年七十一。

成務は詞學有り、博聞稽古し、談論を善くし、諧笑を好み、士人其の文雅を重んず。然れども郡を為すに廉稱乏しく、時論之を惜しむ。文集二十卷。成務年六十六にして始めて子有り、卒するに比し、纔に六歳、奉禮郎を授け、名は貽範、後に國子博士と為る。

論ずるに曰く、泌は唐・漢の治を述べ、台符は商・周の鑒を陳べ、曆は腹心を布き、奏議反覆して當世の事を論じ、言を盡くして隱すこと無し。何は五議を建て、綸は十事を摭ひ、皆輔治に切なり。何は士類を接するに勤め、綸は士を薦むるを樂しみ、皆以て當世を儀表するに足る者なり。去華は頗る氣節を尚び、而して能く後進を作成し、黃目は屬辭淹緩にして、而も著述浩瀚なり、成務は清白の操寡くして、而も專對辱しめず、俱に稱すべき者有り。