宋史

列傳第六十四 楊億 晁迥 劉筠 薛映

楊億

楊億、字は大年、建州浦城の人である。祖父の文逸は、南唐の玉山令であった。億が生まれようとする時、文逸が道士の夢を見た。自ら懐玉山人と称して来謁したという。間もなく億が生まれた。体に毛が生え、長さ一尺余り、一ヶ月を経てようやく落ちた。物言いができるようになると、母が小経を口授すると、すぐに誦することができた。七歳で文を綴ることができ、客に対して談論する様は老成の風があった。雍熙の初め、十一歳の時、太宗がその名を聞き、詔して江南転運使張去華に命じて詞芸を試させ、闕下に送らせた。連続三日間対面し、詩賦五篇を試したが、筆を下せばたちまち完成した。太宗は深く賞賛し、内侍都知の王仁睿に命じて中書に送らせ、さらに詩一章を賦させた。宰相はその俊異に驚き、上奏文を削って賀した。翌日、制を下して言うには、「汝はなお髫齔(幼年)にして、師訓によらず、精爽神助し、文字は生知である。越景絶塵、一日千里、予は汝に望みを有す」と。すなわち秘書省正字を授け、特に袍笏を賜った。まもなく外艱(父の喪)に遭い、服喪が終わると、従祖の徽之が許州を知るに会い、億はそこに身を寄せた。学業に励み、昼夜休むことなく、徽之が時折語り合うと、嘆じて言うには、「吾が門を興す者は汝に在り」と。

淳化年中、闕下に詣でて文を献上し、太常寺奉禮郎に改め、引き続き秘閣で読書することを命じられた。『二京賦』を献上し、翰林で試すことを命じられ、進士第を賜り、光祿寺丞に遷った。後苑での花見の曲宴に際し、太宗は召して座側で詩を賦すことを命じた。また『金明池頌』を上奏すると、太宗はその警句を宰相に誦した。明年三月、苑中の曲宴で、億は再び詩を献じた。太宗は有司が時を移さず召さなかったことを訝しんだが、宰相が言うには、「旧制では、貼職(兼官)していない者は預からない」と。すなわち億を以て集賢院に直らせた。表を上して郷里に帰ることを求め、銭十五万を賜った。至道の初め、太宗が自ら九弦琴・五弦阮を製すると、文士が頌を奏上する者は多かったが、独り億のものを優れていると称し、緋魚袋を賜った。二年春、著作佐郎に遷る。帝はその貧しさを知り、しばしば恩賜を与え、嘗て越王の生辰使を命じた。時に公卿の表疏は、多く億に文を借り、名声はますます著しくなった。

真宗が京府(開封府)にいた時、徽之が首僚(長官)であり、邸中の書疏はすべて億が起草した。即位の初め、左正言に超拜された。詔して銭若水に『太宗実録』を修めさせ、億の参預を奏し、凡そ八十巻のうち、億が独り五十六巻を起草した。書が完成すると、外補を乞いて就養し、処州知州となった。真宗はその才が史学に長けていると称し、留めて遣わさなかったが、固く請うたので、ようやくその任を許した。郡人の周啓明は篤学で文があり、深く礼遇した。召還されて左司諫・知制誥に拝され、金紫を賜った。

咸平年中、西辺が未だ寧かでないため、近臣に詔して霊州の棄守の事を議させた。億は上疏して言うには、

「臣は嘗て史を読み、漢の武帝が北方に朔方の郡を築いた時、平津侯(公孫弘)が諫めて、中国を疲弊させて無用の地に奉ずることを以てし、これを罷めることを願ったのを見た。上は弁士の朱買臣らに命じて十策を発して平津を難じさせたが、平津は答えることができなかった。臣は平津を賢相と為すが、買臣の舌を折ることができなかったのではなく、人君の意に順いおさめる所以であったと考える。旧く朔方と称する地は、要荒の外に在り、声教は及ばなかった。元朔年中、大将軍衛青が奮って兵を起こし地を掠め、郡県を列置した。今の霊州は朔方の故墟であり、僻く西辺に介在し、数百里の間に水草無く、烽火亭障は相望まない。その道路が塞がれず、糧餉の輸送に憂いが無い時でさえ、なお大国の威声を張り、中原の蔽いと為すに足りる。辺境が屡々驚き、凶党が猖獗して以来、爵賞を与えても恭しくせず、討罰を加えても獲る所が無い。曹光實・白守榮・馬紹忠及び王榮の敗北以来、資糧屝屨(物資・糧食・履物)の失う所は極めて多く、将士丁夫は相枕して死んだ。商人を募って帛を輸送し穀物に入れ、価を数倍で償うに至り、孤れた地に城を築き、辺民は騒擾し、国帑は匱乏して、辺人の命を制し、霊武の急を済ますことができない。数年之間に、凶党はますます盛んになった。霊武の危うい城壁は、巋然として僅かに存するのみで、河外の五城は続いて陥没したと聞く。ただ堅壁清野し、糗糧を坐食し、塁を閉じて戈を枕にし、苟も朝夕を過ごすのみで、未だ一兵をも出し、一騎をも馳せて、敢えてこれと角することはない。この霊武の存することは益が無いのは、明らかである。平津の言う中国を疲弊させて無用の地に奉ずることは、正に今日の謂いである。

臣は存することに大害があり、棄つことに大利があると考える。国家は粟を輸送する労を免れ、士卒の流離の苦しみは、すべて免れることができる。堯・舜・禹は聖の中でも盛んな者であるが、地は数千里を過ぎず、明徳は天に格り、四門は穆穆たるものがあった。武丁・成王は商・周の明主であるが、地は東は江・黄を過ぎず、西は氐・羌を過ぎず、南は蛮荊を過ぎず、北は太原を過ぎなかったが、頌声は並び起こり、至治と号された。秦・漢が兵を窮め土を拓き、肝脳を地に塗らせたことと、その功德を較べれば、豈に同年の語たりえようか。昔、西漢の賈捐之が朱崖を棄つことを建議した時、当時の公卿にも異論があったが、元帝は衆説を力排し、独見を奮い起こして詔を下しこれを廃し、人はその徳を頌した。故にその詔に曰く、「議者は朱崖を棄つことを以て威の行わざるを恥ず。時に通変すれば、即ち万民の飢餓を憂う。危うきこと孰れかこれより大ならん。且つ宗廟の祭りは、凶年には備えず、況や嫌わざる辱を避けることにおいてをや」と。臣は霊武に類するものと考える。必ずや失地を以て言うならば、即ち燕・薊八州、河湟五郡、失う所は多かった。何ぞ必ずしもこれを以てせん。

臣は窃かに惟うに、太祖が姚内斌に慶州を領せしめ、董遵誨に環州を領せしめ、統兵はわずか五六千で、すべて閫外の事を付託した。士卒は命を効し、疆埸は晏然とし、朝廷には旰食の憂い無く、疆埸には羽書の警無かった。臣は将を選んで辺に臨ませ、廩賦を賜給し、策略を資し、便宜を行わせることを許すことを乞う。もし寇が内属を擾すならば、勁兵を以てこれを撓し、大信を以てこれを示し、荒を懐け遠を振い、賞格を以て諭せば、彼は衆を奔潰させて叛き、安んぞ大邦と敵対できようか。もし謀を廟堂で成し、功を漏刻に在らしめんと欲するならば、臣は彼の衆は方に黠で、財を積み猶豊かなりと為し、歳月を以て破るべからずと考える。直ちに霊州を棄て、環慶を保ち、然る後に計を以てこれを困らせるのみである。臣の策の如く、ぎょう将数人を得、鋭兵一二万を提げ、数県の賦を給して用いる所と為し、辺城を分守せしめれば、寇は就擒すべく、朝廷は以て憂い無きを得るであろう」。

景德の初め、家が貧しいことを以て、江左の郡を典することを乞うと、詔して通進銀司を兼ねて知り門下封駁事を兼ねることを命じた。時に吏部銓主事前宜黄簿の王太沖を大理評事としたが、億は丞吏の賤しい者が清秩に任ずるに宜しくないとし、即ち詔を封じて返した。間もなく、太沖は外補された。まもなく史館を判じ、『冊府元亀』を修めるに会い、億は王欽若とともにその事を総べた。その序次体制はすべて億の定めるところであり、群僚が分かれて篇序を撰したが、詔して億に経て竄定させて初めて用いた。三年、翰林学士に召され、また国史を同修し、凡そ変例は多く億の手から出た。大中祥符の初め、兵部員外郎・戸部郎中を加えられた。

五年、病により告暇中、中使を遣わして太醫をして診せしめ、億は章を奉りて謝す。上は詩を作りて紙尾に批し、「予が前席を副へて名賢を待つ」の句あり。久疾を以て、近職の解任を求め、優詔して許さず、但だ朝直を権めて免ず。億は剛介にして寡合、書局に在りては、唯だ李維・路振・刁衎・陳越・劉筠の輩と厚く善し。當時の文士、咸く其の題品に頼り、或いは貶議せらるる者は、退きて多く怨誹す。王欽若驟貴す、億は素より其の人を薄しとし、欽若之を銜み、屢び其の失を抉む。陳彭年方に文史を以て進み、億の名の己が右に出るを忌み、相與に毀訾す。上は素より億を重くし、皆其の説に惑はず。億に別墅陽翟にあり、億の母之を往きて視る、因りて疾を得、帰省を請ふ、報を待たずして行く。上親しく薬剤を緘し、金帛を加へて賜ふ。億は素より體羸、是に至り、病を以て聞こえ、官を解くを請ふ。憲官を嗾かして億が命を俟たずして去るを劾せしむる者有り、太常少卿を授け、西京に分司し、就居して養療するを許す。嘗て『君可思賦』を作り、以て忠憤を抒ぶ。『冊府元龜』成り、秩を進めて秘書監とす。

七年、病癒え、起きて汝州を知る。玉皇聖號を加うるに会し、表を奉りて陪預を求め、即ち代還し、以て参詳儀制副使と為し、禮儀院を知り、秘閣・太常寺を判ず。天禧二年冬、工部侍郎を拝す。明年、権めて同知貢挙と為り、考較差謬に坐し、降授して秘書監とす。内艱に丁し、郊禮を行はんとす、億を以て禮樂を典司せしむ、未だ卒哭せず、起復して工部侍郎とし、視事を令す。四年、復た翰林學士と為り、詔を受けて御集を注釋し、又た史館修撰を兼ね、館事を判じ、権めて景靈宮副使と為る。十二月、卒す、年四十七。其の子紘を録して太常寺奉禮郎と為す。

億は天性穎悟、幼より終りに至るまで、翰墨を離れず。文格雄健、才思敏捷、略ね凝滯せず、客に対し談笑し、揮翰輟まず。精密にして規裁有り、細字を善くし草を起し、一幅数千言、點竄を加へず、當時の學者、翕然として之を宗とす。而して博覽強記、特に典章制度に長じ、時に多く正しきを取る。後進を誨誘するを喜び、以て名を成す者甚だ衆し。人に片辭紀す可き有れば、必ず諷誦す。手づから當世の述作を集め、『筆苑時文録』数十篇と為す。交遊を重んじ、性耿介、名節を尚ぶ。多く親友に周給す、故に廩祿も亦た随ひて盡く。釋典禪觀の學に留心し、著す所の『括蒼』・『武夷』・『潁陰』・『韓城』・『退居』・『汝陽』・『蓬山』・『冠鼇』等の集・『内外制』・『刀筆』、合わせて一百九十四卷。弟倚、景德中に進士に挙げられ、第三等及第を得、億の故を以て、第二等に升る。億に子無く、從子紘を以て後と為す。弟偉。

弟 偉

偉、字は子奇、幼くして億に學ぶ。天禧元年頌を獻じ、召されて學士院に試みられ、進士及第を賜ふ。秘書省校書郎を試みて衢州龍遊縣を知り、再び補はれて蘄州錄事參軍と為り、國子監薦めて直講と為る。駙馬都尉李遵勖澶州を守り、辟して簽書鎮寧軍節度判官事と為す。遷りて大理寺丞・河間縣を知り、再び遷りて太常博士。近臣の薦を用ひ、集賢校理・單州を通判す。會に巡檢部卒李素州卒二百餘人を合し、謀りて巡檢使を殺し、鼓角門に入る、州將出づるを敢へず。偉挺身して往きて問ひて曰く、「若屬何を為してか反すや」と。俱に曰く、「將に州に訴へんとす、反に非ざるなり」と。偉曰く、「兵を持ち來る、反に非ずして何ぞや。若屬皆父母妻子有り、一朝の忿を以てして之を魚肉せんと欲するか」と。悉く兵を投げしめ、坐して首惡を籍し十餘人を得、之を斬る。徙めて祥符縣を知り、開封府界諸縣鎮公事を提點し、權めて開封府判官と為り、又た三司開拆司を判じ、累遷して尚書兵部員外郎・同修起居注と為る。

偉は清慎、劇を治むる才無く、常に小笏を秉りて朝し、知制誥缺く、中書偉の名を以て進む、仁宗曰く、「此れ小笏を秉る者に非ずや」と。遂に知制誥を命ず。權めて諫院、嘗て曰く、「諫臣は宜しく大事を陳列すべし、細故何ぞ論ずるに足らん」と。然れども當時其の補ふこと亡きを譏る。遷りて刑部郎中、翰林學士と為る。明堂を祀り、遷りて右司郎中・太常寺を判じ、群牧使兼侍讀學士と為り、進みて中書舍人と為る。卒し、贈りて尚書禮部侍郎とす。

子 紘

紘、字は望之、蔭を以て歷官し鄞縣を知る。鄞は海に濱し、惡少魚鹽を販ふ者、群居して洲島に在り、或いは商人の財物を掠めて海に入り、吏禁むる能はず。紘至り、方略を設け、識者をして惡少の船を質せしめ、帰るに及び、始めて還し給ひ、且つ戒諭す、是に由りて敢へて盜を為さず。億の文獻を以て、進士出身を賜ふ。越州を通判し、筠州を知り、江東刑獄を提點し、轉運・按察使を除く。江東饑ふ、紘義倉を開きて之を振ふ、吏持して不可とす、紘曰く、「義倉は民の為なり、稍く稽れば、人將に殍せん」と。

紘は下を御するに急にし、常に曰く、「法に不法の人は貸す可からず、之を去るは、只だ一家を不利にするのみ、豈に郡邑千萬家をして俱に害を受くべけんや」と。聞く者風を望みて解去し、或いは期を過ぎて敢へて之に官せず。王鼎・王綽と號して「江東の三虎」とす。坐して降りて衡州を知り、越州に徙む。荊南轉運使と為り、福建に徙む、赴かず、湖州を知り、復た江東轉運使と為る。官は太常少卿に至り、卒す。紘は性嚴しく、家居すと雖も、兒女敢へて妄りに言笑せず。書数萬卷を聚め、事實を手抄し、名づけて『窺豹篇』とす。

晁迥

晁迥、字は明遠、世々澶州清豐の人、其の父佺より、始めて家を彭門に徙す。迥は進士に挙げられ、大理評事と為り、歷て岳州錄事參軍を知り、將作監丞に改め、稍く遷りて殿中丞。囚の死罪を失入するに坐し、二官を奪はる。復た將作丞と為り、徐・婺二州の税を監し、遷りて太常丞。真宗即位し、宰相呂端・參知政事李沆の薦を用ひ、擢て右正言・直史館と為す。『咸平新書』五十篇を獻じ、又た『理樞』一篇を獻ず。召して試み、右司諫・知制誥を除き、尚書刑部を判ず。

帝北征し、雍王元份京師を留守し、右諫議大夫を加へ、判官と為り、進みて翰林學士と為る。未だ幾ばくもあらず、審官院を知り、明德・章穆二園陵の禮儀使と為り、國史を同修す。大中祥符元年の貢挙を知る。泰山に封じ、汾陰を祀り、太常と同しく儀注を詳定し、累遷して尚書工部侍郎。契丹に使し、還りて『北庭記』を奏し、史館修撰を加へ、通進銀臺司を知る。『玉清昭應宮頌』を獻じ、其の子宗操繼ぎて『景靈宮慶成歌』を上る。帝曰く、「迥父子同しく歌頌を獻ず、搢紳の間の美事なり」と。

史成り、擢て刑部侍郎と為り、進みて承旨と為る。時に朝廷方に禮文の事を修め、詔令多く迥の手に出づ。嘗て夜召して對せしめ、帝内侍を令して燭を持ちて院に送らしむ。方に盛暑なるを、宿直を蠲ち、三五日に一たび院に至らしむ。迥は故事に非ずと辭す、乃ち聽して秋を俟ちて還直せしむ。遷りて兵部侍郎、西京に分司するを請ひ、特拜して工部尚書・集賢院學士・西京留司御史臺を判ず。一子に官を河南に賜ひ、以て就養せしむ。

仁宗が即位すると、礼部尚書に遷る。御史台に在ること六年、累次上書して老齢を理由に退職を請い、太子少保として致仕し、全俸を給され、歳時の賜賚は学士の如くであった。天聖年間、晁迥八十一歳の時、太清楼に召されて宴に預かり、舞蹈を免ぜられる。子の宗悫が知制誥として、侍従と共に同席して宴に預かる。晁迥は御史中丞の南に座し、宰臣と同様に御筆の飛白の大字を賜わる。宴罷の後、寵賚する所甚だ厚く、太子少傅に進む。後に再び延和殿に召し対し、帝は『洪範』の雨暘の応について尋ねられる。対して曰く、「近年災変が重なって至るは、これ天が以て陛下を警める所以なり。願わくは陛下、王事を修飭し、以て天心に当たり、転乱して祥と為ることを庶幾えん」と。既にして『斧扆』、『慎刑箴』、『大順』、『審刑』、『無尽灯頌』を献じ、凡そ五篇。及び疾を感じ、人事を絶ち、医薬を屏け、冠服を具えて卒す。年八十四。朝を一日罷め、太子太保を贈られ、諡して文元と曰う。

晁迥は吐納養生の術を善くし、釈・老の書に通じ、経伝を以て傅致し、一家の説を為す。性楽易寛簡、道に服し正を履み、貴勢有りと雖も屈する所無く、官に歴り事に臨むも、未だ情を挟みて物を害する事無し。真宗は数々其の好学の長者なるを称す。楊億嘗て晁迥の作る所の書命は過褒無く、代言の体を得たりと謂う。経史の疑義を質正するを喜び、字類を摽括す。術命を以て晁迥に語る者有り、晁迥曰く、「自然の分は天命なり。天を楽えて憂えざるは命を知るなり。理を推し常に安んずるは命に委ぬるなり。何ぞ未然を逆計せんや」と。著す所に『翰林集』三十巻、『道院集』十五巻、『法蔵碎金録』十巻、『耆智余書』、『随因紀述』、『昭徳新編』各三巻。子に宗悫有り。

子 宗悫

宗悫、字は世良、父の蔭により秘書省校書郎と為る。屡々歌頌を献じ、召し試みられ、進士及第を賜わる。又館閣校勘を除かれ、三遷して大理寺丞、集賢校理兼注釈御集検閲官と為る。晁迥が西台を領するに及び、宗悫は便養を求め、許州を通判す。仁宗即位、殿中丞、同修起居注に遷る。天聖年中、百官転対の時、宗悫は上供を減じ、閑田を墾き、獄官を択び、監司に令して県令を挙げるを請う。累遷して尚書祠部員外郎、知制誥と為る。宋綬嘗て謂う、「唐以来、唯だ楊於陵のみ其の子嗣復が書命を継ぎ掌るを見る。今始めて晁氏有り」と。父憂に遭い、喪を奪われ、管勾会霊観と為り、翰林に入り学士と為る。母亡き後、又起復し、龍図閣学士を兼ね、権発遣開封府事と為り、疑獄を弁雪して能名有り。

元昊反す、関中久しく師を宿す。宗悫を以て陝西を安撫せしめ、夏竦と攻守の策を議す。未だ還らざるに、道中にて右諫議大夫、参知政事を拝す。時に朝廷金飾の胡床及び金の汲器を以て唃廝羅に賜わんとす。宗悫曰く、「仲叔於奚は邑を辞し繁纓を請う。孔子曰く『邑を多く与うるに如かず』と。繁纓は諸侯の馬飾なり、猶お陪臣に与うべからず。況んや乗輿の器を以て外臣に賜わんや。必ずや其の礼を優せんと欲せば、金帛を加賜するに如かず」と。後に帝に従い郊祠し疾を感じ、数々罷免を求め、資政殿学士、給事中を除かる。数日にして卒す。工部尚書を贈られ、諡して文荘と曰う。

宗悫の性敦厚、父母に事えて孝、故旧に篤く、凡そ任子の恩は皆其の族人を先んず。翰林に在りて、一夕に将相五制を草し、褒揚訓戒、人宜しきを得たり。嘗て密詔を以て辺策を訪われ、七事を陳べ、頗る之を用いらる。

劉筠

劉筠、字は子儀、大名の人。進士に挙げられ、館陶県尉と為る。還り、詔有りて知制誥楊億に選人を試みて太清楼の書を校せしむ。劉筠を第一に擢で、大理評事を以て秘閣校理と為す。真宗北巡、大名府観察判官事を知ることを命ぜらる。辺鄙兵を罷めて以来、国家閑暇、帝篇籍に意を垂れ、始めて諸儒を集めて文章を考論し、一代の典と為す。劉筠は図経及び『冊府元亀』の修撰に預かり、精敏と推せらる。真宗将に汾睢を祀らんとし、屡々嘉雪を得、劉筠及び監察御史陳従易を召し崇和殿にて歌詩を賦せしむ。帝数々善しと称す。車駕西巡、又劉筠に命じて土訓を纂せしむ。是の時四方符瑞を献じ、天子方に礼文の事を興す。劉筠数々賦頌を上る。及び『冊府元亀』成り、左正言、直史館、修起居注に進む。嘗て疾に属し、予告満つるや、輒ち再び予けらる。積もること二百日、毎詔して其の俸を続けしむ。

左司諫、知制誥に遷り、史館修撰を加えられ、出でて鄧州を知り、陳州に徙る。還り、在京刑獄を糾察し、貢挙を知り、尚書兵部員外郎に遷る。再び鄧州を請う。未だ行かざるに、翰林学士に進む。初め、劉筠嘗て丁謂と李迪の罷相の制を草す。既にして丁謂復留まる。別に制を草せしむるを命ずるも、劉筠詔を奉ぜず。乃ち更に晏殊を召す。劉筠院を出で、枢密院南門にて晏殊に遇う。晏殊側面して過ぎ、敢えて揖せず。蓋し内に愧づる所有ればなり。帝久しく疾有り、丁謂浸に権を擅にす。劉筠曰く、「奸人の事を用うる、安んぞ一日も此に居らんや」と。外補を請い、右諫議大夫を以て廬州を知る。

仁宗即位、給事中に遷り、復た召されて翰林学士と為る。一月を踰え、御史中丞を拝す。是に先立ち、三院御史事を言うは、皆先ず中丞に白す。劉筠台中に榜して曰く、「御史自ら事を言うは、丞雑に知らしむる毋れ」と。天聖二年貢挙、数々疾を以て告げ、尚書礼部侍郎、枢密直学士、潁州知事に進む。召し還され、復た貢挙を知り、翰林学士承旨兼龍図閣直学士、同修国史、判尚書都省に進む。南郊に祀り、礼儀使と為り、太廟に宿斎する日、朝饗玉清昭応宮を罷め、礼成るを俟ち、鑾駕を備えて恭謝するを請う。之に従う。劉筠素より廬江を愛し、遂に城中に室を築き、閣を構えて前後賜わる所の書を蔵す。帝飛白を以て書して「真宗聖文秘奉之閣」と曰う。再び廬州を知り、塚墓を営み、棺を作り、自ら銘を為り之を刻す。既に病み、書閣に徙りて卒す。

劉筠は、景德以来、文翰の選に居り、其の文辞対偶を善くし、尤も詩を工みす。初め楊億に識抜せられ、後遂に之と齊名し、時に「楊劉」と号す。凡そ三たび禁林に入り、又三たび貢部を典し、策論を以て天下の士を升降するは、劉筠に始まる。性苟も合せず、事に遇いて明達、其の治め簡厳を尚ぶ。然れども晩年に陽翟の同姓の富人恩沢を奏求せしめ、清議之を少くす。著す所『冊府応言』、『栄遇』、『禁林』、『肥川』、『中司』、『汝陰』、『三入玉堂』凡そ七集。一子早く卒し、田廩官に没せらる。包拯少時、頗る劉筠に知らる。及び包拯顕るるに及び、其の族子を後と為すを奏し、又没せし所の田廩の還付を請う。

薛映

薛映、字は景陽、唐の中書令薛元超の八世の孫、後にしょくに家を定む。父の允中は、孟氏に仕えて給事中となる。帰朝して尚書都官郎中となる。映は進士に及第し、大理評事を授かり、綿州・宋州・昇州の通判を歴任し、累遷して太常丞となる。王化基が監察御史・知開封県に推薦す。太宗が召して対問し、江南転運使と為し、左正言・直昭文館に改め、江・淮・両浙茶塩制置副使と為す。京東転運使に改め、河東に転じ、河西随軍を兼ねる。親の便を求め、相州を知る。再び京東の漕運を領し、積み遷って尚書礼部郎中となり、知制誥に抜擢され、権判吏部流内銓兼制置群牧使を権める。梁顥とともに河北を安撫し、還りて権判度支を権む。

映は右諫議大夫として杭州を知る。映は臨機の決断が鋭敏にして、庭に滞留する事無し。転運使姚鉉が属州に移牒す「当直司は徒罪以上の罪を軽々に断じてはならず」と。映は即ち奏す「徒・流・笞・杖の刑にはそれぞれ科条あり、もし情状明白なれば、何ぞ必ずしも獄に繋ぎ、以て和気を累わす必要あらん。請う、天下に詔し、凡そ徒流の罪は長吏の前で対弁し、異議無きものは、遣わして決せしむるを聴け」と。朝廷その言を用う。鉉と既に協わず、遂に鉉が管内の女口を納れ、及び銅器を売りてその価を抑えて取り、また広く綾羅を市りて税を納めざるを発す。真宗、御史台推勘官儲拱を遣わして鉉を劾せしめ、実を得て、連州文学に貶す。映は嘗て人を召して鉉を告げる状を取らしめたる罪に坐し、金を贖うべきところ、帝特にこれを赦す。

杭州に在ること五年、入りて通進銀台司を知り門下封駁事を兼ぬ。泰山を封じ、東京留守判官と為り、給事中に遷り、勾当三班院を務め、出でて河南府を知る。汾陰を祀り還り、西京に駐蹕す。映に治状あるを以て、御書を賜りて嘉奨す。

尚書工部侍郎・集賢院学士・判尚書都省に遷り、枢密直学士・知昇州に進む。建言す「州、牛を以て民に賦し租を納めしむ。牛死すれば、租を蠲免せず」と。帝章を覧みて矍然とし、「此れ朝廷豈に知らんや」と曰う。因って諸州に条奏せしめ、悉くこれを蠲す。頃くして、在京刑獄を糾察し、再び都省を判ず。尚書左丞・知揚州を歴任す。幷州に転じ、また永興軍に転じ、工部尚書兼御史中丞を拝す。仁宗即位し、礼部に遷り、再び集賢院学士・判院事・知曹州と為り、南京に分司す。卒す。右僕射を贈られ、諡して文恭と曰う。

映は学を好み文あり、該覧強記し、筆札に善くし、章奏尺牘は下筆立成す。治を為すこと厳明にして、吏欺く能わず。毎五鼓に冠帯し、黎明に案に据わって事を決す。寒暑と雖も、一日として異なること無し。子の耀卿は秘閣校理。孫の紳は直龍図閣。

論ずるに、唐末より詞気浸く敝れ、五季に至りて甚だし。先民に言有り「政厖にして土裂け、大音完からず、必ず混一して後に振う」と。宋、海内を一にし、文治日より起こる。楊億首めて辞章を以て天下に擅り、時に宗と為らる。蓋し其の清忠鯁亮の気、未だ大いに施さずして卒す。悉く言に発す。宜なるかな、雄偉にして浩博なるは。劉筠後出して、能く之と斉名し、気象似たり。文體の今古に至りては、時習之を然らしむ。遑暇あらんや是を議するの。晁迥は寛易にして、物と忤わず、父子先後して書命を典し、名臣と称せらる。薛映は学芸・吏術ともに優れども、忿りを挟みて以て人の私を抉く。君子之を病む。