宋史

列傳第六十四 楊億 晁迥 劉筠 薛映

列傳第六十四 楊億 晁迥 劉筠 薛映

楊億

原文楊億

楊億、字は大年、建州浦城の人である。祖父の文逸は、南唐の玉山令であった。億が生まれようとする時、文逸が道士の夢を見た。自ら懐玉山人と称して来謁したという。間もなく億が生まれた。体に毛が生え、長さ一尺余り、一ヶ月を経てようやく落ちた。物言いができるようになると、母が小経を口授すると、すぐに誦することができた。七歳で文を綴ることができ、客に対して談論する様は老成の風があった。雍熙の初め、十一歳の時、太宗がその名を聞き、詔して江南転運使張去華に命じて詞芸を試させ、闕下に送らせた。連続三日間対面し、詩賦五篇を試したが、筆を下せばたちまち完成した。太宗は深く賞賛し、内侍都知の王仁睿に命じて中書に送らせ、さらに詩一章を賦させた。宰相はその俊異に驚き、上奏文を削って賀した。翌日、制を下して言うには、「汝はなお髫齔(幼年)にして、師訓によらず、精爽神助し、文字は生知である。越景絶塵、一日千里、予は汝に望みを有す」と。すなわち秘書省正字を授け、特に袍笏を賜った。まもなく外艱(父の喪)に遭い、服喪が終わると、従祖の徽之が許州を知るに会い、億はそこに身を寄せた。学業に励み、昼夜休むことなく、徽之が時折語り合うと、嘆じて言うには、「吾が門を興す者は汝に在り」と。

原文楊億,字大年,建州浦城人。祖文逸,南唐玉山令。億將生,文逸夢一道士,自稱懷玉山人來謁,未幾,億生,有毛被體,長尺餘,經月乃落。能言,母以小經口授,隨即成誦。七歲,能屬文,對客談論,有老成風。雍熙初,年十一,太宗聞其名,詔江南轉運使張去華就試詞藝,送闕下。連三日得對,試詩賦五篇,下筆立成。太宗深加賞異,命內侍都知王仁睿送至中書,又賦詩一章,宰相驚其俊異,削章為賀。翌日,下制曰:「汝方髫齔,不由師訓,精爽神助,文字生知。越景絕塵,一日千里,予有望於汝也。」即授秘書省正字,特賜袍笏。俄丁外艱,服除,會從祖徽之知許州,億往依焉。務學,晝夜不息,徽之間與語,歎曰:「興吾門者在汝矣。」

淳化年中、闕下に詣でて文を献上し、太常寺奉禮郎に改め、引き続き秘閣で読書することを命じられた。『二京賦』を献上し、翰林で試すことを命じられ、進士第を賜り、光祿寺丞に遷った。後苑での花見の曲宴に際し、太宗は召して座側で詩を賦すことを命じた。また『金明池頌』を上奏すると、太宗はその警句を宰相に誦した。明年三月、苑中の曲宴で、億は再び詩を献じた。太宗は有司が時を移さず召さなかったことを訝しんだが、宰相が言うには、「旧制では、貼職(兼官)していない者は預からない」と。すなわち億を以て集賢院に直らせた。表を上して郷里に帰ることを求め、銭十五万を賜った。至道の初め、太宗が自ら九弦琴・五弦阮を製すると、文士が頌を奏上する者は多かったが、独り億のものを優れていると称し、緋魚袋を賜った。二年春、著作佐郎に遷る。帝はその貧しさを知り、しばしば恩賜を与え、嘗て越王の生辰使を命じた。時に公卿の表疏は、多く億に文を借り、名声はますます著しくなった。

原文淳化中,詣闕獻文,改太常寺奉禮郎,仍令讀書秘閣。獻《二京賦》,命試翰林,賜進士第,遷光祿寺丞。屬後苑賞花曲宴,太宗召命賦詩於坐側;又上《金明池頌》,太宗誦其警句於宰相。明年三月,苑中曲宴,億復以詩獻。太宗訝有司不時召,宰相言:「舊制,未貼職者不預。」即以億直集賢院。表求歸鄉里,賜錢十五萬。至道初,太宗親製九弦琴、五弦阮,文士奏頌者眾,獨稱億為優,賜緋魚。二年春,遷著作佐郎,帝知其貧,屢有沾賚,嘗命為越王生辰使。時公卿表疏,多假文於億,名稱益著。

真宗が京府(開封府)にいた時、徽之が首僚(長官)であり、邸中の書疏はすべて億が起草した。即位の初め、左正言に超拜された。詔して銭若水に『太宗実録』を修めさせ、億の参預を奏し、凡そ八十巻のうち、億が独り五十六巻を起草した。書が完成すると、外補を乞いて就養し、処州知州となった。真宗はその才が史学に長けていると称し、留めて遣わさなかったが、固く請うたので、ようやくその任を許した。郡人の周啓明は篤学で文があり、深く礼遇した。召還されて左司諫・知制誥に拝され、金紫を賜った。

原文真宗在京府,徽之為首僚,邸中書疏,悉億草定。即位初,超拜左正言。詔錢若水修《太宗實錄》,奏億參預,凡八十卷,而億獨草五十六卷。書成,乞外補就養,知處州。真宗稱其才長於史學,留不遣,固請,乃許之任。郡人周啟明篤學有文,深加禮待。召還,拜左司諫、知制誥,賜金紫。

咸平年中、西辺が未だ寧かでないため、近臣に詔して霊州の棄守の事を議させた。億は上疏して言うには、

原文咸平中,西鄙未寧,詔近臣議靈州棄守之事。億上疏曰:

「臣は嘗て史を読み、漢の武帝が北方に朔方の郡を築いた時、平津侯(公孫弘)が諫めて、中国を疲弊させて無用の地に奉ずることを以てし、これを罷めることを願ったのを見た。上は弁士の朱買臣らに命じて十策を発して平津を難じさせたが、平津は答えることができなかった。臣は平津を賢相と為すが、買臣の舌を折ることができなかったのではなく、人君の意に順い将おさめる所以であったと考える。旧く朔方と称する地は、要荒の外に在り、声教は及ばなかった。元朔年中、大将軍衛青が奮って兵を起こし地を掠め、郡県を列置した。今の霊州は朔方の故墟であり、僻く西辺に介在し、数百里の間に水草無く、烽火亭障は相望まない。その道路が塞がれず、糧餉の輸送に憂いが無い時でさえ、なお大国の威声を張り、中原の蔽いと為すに足りる。辺境が屡々驚き、凶党が猖獗して以来、爵賞を与えても恭しくせず、討罰を加えても獲る所が無い。曹光實・白守榮・馬紹忠及び王榮の敗北以来、資糧屝屨(物資・糧食・履物)の失う所は極めて多く、将士丁夫は相枕して死んだ。商人を募って帛を輸送し穀物に入れ、価を数倍で償うに至り、孤れた地に城を築き、辺民は騒擾し、国帑は匱乏して、辺人の命を制し、霊武の急を済ますことができない。数年之間に、凶党はますます盛んになった。霊武の危うい城壁は、巋然として僅かに存するのみで、河外の五城は続いて陥没したと聞く。ただ堅壁清野し、糗糧を坐食し、塁を閉じて戈を枕にし、苟も朝夕を過ごすのみで、未だ一兵をも出し、一騎をも馳せて、敢えてこれと角することはない。この霊武の存することは益が無いのは、明らかである。平津の言う中国を疲弊させて無用の地に奉ずることは、正に今日の謂いである。

原文「臣嘗讀史,見漢武北築朔方之郡,平津侯諫,以為罷敝中國,以奉無用之地,願罷之。上使辯士朱買臣等發十策以難平津,平津不能對。臣以為平津為賢相,非不能折買臣之舌,蓋所以將順人君之意爾。舊稱朔方,地在要荒之外,聲教不及。元朔中,大將軍衛青奮兵掠地,列置郡縣。今靈州蓋朔方之故墟,僻介西鄙,數百里間無有水草,烽火亭障不相望。當其道路不壅,饢饋無虞,猶足以張大國之威聲,為中原之扞蔽。自邊境屢驚,凶黨猖熾,爵賞之而不恭,討罰之而無獲。自曹光實、白守榮、馬紹忠及王榮之敗,資糧屝屨,所失至多,將士丁夫,相枕而死。以至募商人輸帛入穀,償價數倍;孤壤築城,邊民繹騷,國帑匱乏,不能制邊人之命,及濟靈武之急。數年之間,凶黨逾盛。靈武危堞,巋然僅存,河外五城,繼聞陷沒。但堅壁清野,坐食糗糧,閉壘枕戈,苟度朝夕,未粕出一兵,馳一騎,敢與之角。此靈武之存無益,明矣。平津所言罷敝中國以奉無用之地,正今日謂也。

臣は存することに大害があり、棄つことに大利があると考える。国家は粟を輸送する労を免れ、士卒の流離の苦しみは、すべて免れることができる。堯・舜・禹は聖の中でも盛んな者であるが、地は数千里を過ぎず、明徳は天に格り、四門は穆穆たるものがあった。武丁・成王は商・周の明主であるが、地は東は江・黄を過ぎず、西は氐・羌を過ぎず、南は蛮荊を過ぎず、北は太原を過ぎなかったが、頌声は並び起こり、至治と号された。秦・漢が兵を窮め土を拓き、肝脳を地に塗らせたことと、その功德を較べれば、豈に同年の語たりえようか。昔、西漢の賈捐之が朱崖を棄つことを建議した時、当時の公卿にも異論があったが、元帝は衆説を力排し、独見を奮い起こして詔を下しこれを廃し、人はその徳を頌した。故にその詔に曰く、「議者は朱崖を棄つことを以て威の行わざるを恥ず。時に通変すれば、即ち万民の飢餓を憂う。危うきこと孰れかこれより大ならん。且つ宗廟の祭りは、凶年には備えず、況や嫌わざる辱を避けることにおいてをや」と。臣は霊武に類するものと考える。必ずや失地を以て言うならば、即ち燕・薊八州、河湟五郡、失う所は多かった。何ぞ必ずしもこれを以てせん。

原文臣以為存有大害,棄有大利,國家免粟之勞,士卒流離之苦,悉皆免焉。堯、舜、禹,聖之盛者也,地不過數千里,而明德格天,四門穆穆。武丁、成王,商、周之明主也,然地東不過江、黃,西不過氐、羌,南不過蠻荊,北不過太原,而頌聲並作,號為至治。及秦、漢窮兵拓土,肝腦塗地,校其功德,豈可同年而語哉!昔西漢賈捐之建議棄朱崖,當時公卿,亦有異論,元帝力排眾說,奮乎獨見,下詔廢之,人頌其德。故其詔曰:「議者以棄朱崖羞威不行,夫通於時變,即憂萬民之饑鋨,危孰大焉。且宗廟之祭,凶年不備,況乎避不嫌之辱哉?」臣以為類於靈武也,必以失地為言,即燕、薊八州,河湟五郡,所失多矣,何必此為?

臣は窃かに惟うに、太祖が姚内斌に慶州を領せしめ、董遵誨に環州を領せしめ、統兵はわずか五六千で、すべて閫外の事を付託した。士卒は命を効し、疆埸は晏然とし、朝廷には旰食の憂い無く、疆埸には羽書の警無かった。臣は将を選んで辺に臨ませ、廩賦を賜給し、策略を資し、便宜を行わせることを許すことを乞う。もし寇が内属を擾すならば、勁兵を以てこれを撓し、大信を以てこれを示し、荒を懐け遠を振い、賞格を以て諭せば、彼は衆を奔潰させて叛き、安んぞ大邦と敵対できようか。もし謀を廟堂で成し、功を漏刻に在らしめんと欲するならば、臣は彼の衆は方に黠で、財を積み猶豊かなりと為し、歳月を以て破るべからずと考える。直ちに霊州を棄て、環慶を保ち、然る後に計を以てこれを困らせるのみである。臣の策の如く、驍ぎょう将数人を得、鋭兵一二万を提げ、数県の賦を給して用いる所と為し、辺城を分守せしめれば、寇は就擒すべく、朝廷は以て憂い無きを得るであろう」。

原文臣竊惟太祖命姚內斌領慶州,董遵誨領環州,統兵才五六千,悉付以閫外之事,士卒效命,疆埸晏然,朝廷無旰食之憂,疆埸無羽書之警。臣乞選將臨邊,賜給廩賦,資以策略,許以便宜而行。儻寇擾內屬,撓之以勁兵,示之以大信,懷荒振遠,諭以賞格,彼則奔潰眾叛,安能與大邦為敵哉?若欲謀成廟堂,功在漏刻,臣以為彼眾方黠,積財猶豐,未可以歲月破也。直須棄靈州,保環慶,然後以計困之爾。如臣之策,得驍將數人,提銳兵一二萬,給數縣賦以資所用,令分守邊城,則寇可就擒,而朝廷得以無虞矣。」

景德の初め、家が貧しいことを以て、江左の郡を典することを乞うと、詔して通進銀司を兼ねて知り門下封駁事を兼ねることを命じた。時に吏部銓主事前宜黄簿の王太沖を大理評事としたが、億は丞吏の賤しい者が清秩に任ずるに宜しくないとし、即ち詔を封じて返した。間もなく、太沖は外補された。まもなく史館を判じ、『冊府元亀』を修めるに会い、億は王欽若とともにその事を総べた。その序次体制はすべて億の定めるところであり、群僚が分かれて篇序を撰したが、詔して億に経て竄定させて初めて用いた。三年、翰林学士に召され、また国史を同修し、凡そ変例は多く億の手から出た。大中祥符の初め、兵部員外郎・戸部郎中を加えられた。

原文景德初,以家貧,乞典郡江左,詔令知通進銀司兼門下封駁事。時以吏部銓主事前宜黃簿王太沖為大理評事,億以丞吏之賤,不宜任清秩,即封詔還。未幾,太沖補外。俄判史館,會修《冊府元龜》,億與王欽若同總其事。其序次體制,皆億所定,群僚分撰篇序,詔經億竄定方用之。三年,召為翰林學士,又同修國史,凡變例多出億手。大中祥符初,加兵部員外郎、戶部郎中。

五年、病により告暇中、中使を遣わして太醫をして診せしめ、億は章を奉りて謝す。上は詩を作りて紙尾に批し、「予が前席を副へて名賢を待つ」の句あり。久疾を以て、近職の解任を求め、優詔して許さず、但だ朝直を権めて免ず。億は剛介にして寡合、書局に在りては、唯だ李維・路振・刁衎・陳越・劉筠の輩と厚く善し。當時の文士、咸く其の題品に頼り、或いは貶議せらるる者は、退きて多く怨誹す。王欽若驟貴す、億は素より其の人を薄しとし、欽若之を銜み、屢び其の失を抉む。陳彭年方に文史を以て進み、億の名の己が右に出るを忌み、相與に毀訾す。上は素より億を重くし、皆其の説に惑はず。億に別墅陽翟にあり、億の母之を往きて視る、因りて疾を得、帰省を請ふ、報を待たずして行く。上親しく薬剤を緘し、金帛を加へて賜ふ。億は素より體羸、是に至り、病を以て聞こえ、官を解くを請ふ。憲官を嗾かして億が命を俟たずして去るを劾せしむる者有り、太常少卿を授け、西京に分司し、就居して養療するを許す。嘗て『君可思賦』を作り、以て忠憤を抒ぶ。『冊府元龜』成り、秩を進めて秘書監とす。

原文五年,以疾在告,遣中使致太醫視之,億拜章謝,上作詩批紙尾,有「副予前席待名賢」之句。以久疾,求解近職,優詔不許,但權免朝直。億剛介寡合,在書局,唯與李維、路振、刁衎、陳越、劉筠輩厚善。當時文士,咸賴其題品,或被貶議者,退多怨誹。王欽若驟貴,億素薄其人,欽若銜之,屢抉其失;陳彭年方以文史售進,忌億名出其右,相與毀訾。上素重億,皆不惑其說。億有別墅在陽翟,億母往視之,因得疾,請歸省,不待報而行。上親緘藥劑,加金帛以賜。億素體羸,至是,以病聞,請解官。有嗾憲官劾億不俟命而去,授太常少卿,分司西京,許就所居養療。嘗作《君可思賦》,以抒忠憤。《冊府元龜》成,進秩秘書監。

七年、病癒え、起きて汝州を知る。玉皇聖號を加うるに会し、表を奉りて陪預を求め、即ち代還し、以て参詳儀制副使と為し、禮儀院を知り、秘閣・太常寺を判ず。天禧二年冬、工部侍郎を拝す。明年、権めて同知貢挙と為り、考較差謬に坐し、降授して秘書監とす。内艱に丁し、郊禮を行はんとす、億を以て禮樂を典司せしむ、未だ卒哭せず、起復して工部侍郎とし、視事を令す。四年、復た翰林學士と為り、詔を受けて御集を注釋し、又た史館修撰を兼ね、館事を判じ、権めて景靈宮副使と為る。十二月、卒す、年四十七。其の子紘を録して太常寺奉禮郎と為す。

原文七年,病愈,起知汝州。會加上玉皇聖號,表求陪預,即代還,以為參詳儀制副使,知禮儀院,判秘閣、太常寺。天禧二年冬,拜工部侍郎。明年,權同知貢舉,坐考較差謬,降授秘書監。丁內艱,屬行郊禮,以億典司禮樂,未卒哭,起復工部侍郎,令視事。四年,復為翰林學士,受詔注釋御集,又兼史館修撰、判館事,權景靈宮副使。十二月,卒,年四十七。錄其子紘為太常寺奉禮郎。

億は天性穎悟、幼より終りに至るまで、翰墨を離れず。文格雄健、才思敏捷、略ね凝滯せず、客に対し談笑し、揮翰輟まず。精密にして規裁有り、細字を善くし草を起し、一幅数千言、點竄を加へず、當時の學者、翕然として之を宗とす。而して博覽強記、特に典章制度に長じ、時に多く正しきを取る。後進を誨誘するを喜び、以て名を成す者甚だ衆し。人に片辭紀す可き有れば、必ず諷誦す。手づから當世の述作を集め、『筆苑時文録』数十篇と為す。交遊を重んじ、性耿介、名節を尚ぶ。多く親友に周給す、故に廩祿も亦た随ひて盡く。釋典禪觀の學に留心し、著す所の『括蒼』・『武夷』・『潁陰』・『韓城』・『退居』・『汝陽』・『蓬山』・『冠鼇』等の集・『内外制』・『刀筆』、合わせて一百九十四卷。弟倚、景德中に進士に挙げられ、第三等及第を得、億の故を以て、第二等に升る。億に子無く、從子紘を以て後と為す。弟偉。

原文億天性穎悟,自幼及終,不離翰墨。文格雄健,才思敏捷,略不凝滯,對客談笑,揮翰不輟。精密有規裁,善細字起草,一幅數千言,不加點竄,當時學者,翕然宗之。而博覽強記,尤長典章制度,時多取正。喜誨誘後進,以成名者甚眾。人有片辭可紀,必為諷誦。手集當世之述作,為《筆苑時文錄》數十篇。重交遊,性耿介,尚名節。多周給親友,故廩祿亦隨而盡。留心釋典禪觀之學,所著《括蒼》、《武夷》、《潁陰》、《韓城》、《退居》、《汝陽》、《蓬山》、《冠鼇》等集、《內外制》、《刀筆》,共一百九十四卷。弟倚,景德中舉進士,得第三等及第;以億故,升為第二等。億無子,以從子紘為後。弟偉。

弟 偉

原文弟 偉

偉、字は子奇、幼くして億に學ぶ。天禧元年頌を獻じ、召されて學士院に試みられ、進士及第を賜ふ。秘書省校書郎を試みて衢州龍遊縣を知り、再び補はれて蘄州錄事參軍と為り、國子監薦めて直講と為る。駙馬都尉李遵勖澶州を守り、辟して簽書鎮寧軍節度判官事と為す。遷りて大理寺丞・河間縣を知り、再び遷りて太常博士。近臣の薦を用ひ、集賢校理・單州を通判す。會に巡檢部卒李素州卒二百餘人を合し、謀りて巡檢使を殺し、鼓角門に入る、州將出づるを敢へず。偉挺身して往きて問ひて曰く、「若屬何を為してか反すや」と。俱に曰く、「將に州に訴へんとす、反に非ざるなり」と。偉曰く、「兵を持ち來る、反に非ずして何ぞや。若屬皆父母妻子有り、一朝の忿を以てして之を魚肉せんと欲するか」と。悉く兵を投げしめ、坐して首惡を籍し十餘人を得、之を斬る。徙めて祥符縣を知り、開封府界諸縣鎮公事を提點し、權めて開封府判官と為り、又た三司開拆司を判じ、累遷して尚書兵部員外郎・同修起居注と為る。

原文偉,字子奇,幼學於億。天禧元年獻頌,召試學士院,賜進士及第。以試秘書省校書郎知衢州龍遊縣,再補蘄州錄事參軍,國子監薦為直講。駙馬都尉李遵勖守澶州,辟簽書鎮寧軍節度判官事。遷大理寺丞、知河間縣,再遷太常博士。用近臣薦,為集賢校理、通判單州。會巡檢部卒李素合州卒二百餘人,謀殺巡檢使,入鼓角門,州將不敢出。偉挺身往問曰:「若屬何為而反?」俱曰:「將有訴於州,非反也。」偉曰:「持兵來,非反而何?若屬皆有父母妻子,以一朝忿而欲魚肉之乎?」悉令投兵,坐籍首惡得十餘人,斬之。徙知祥符縣、提點開封府界諸縣鎮公事,權開封府判官,又判三司開拆司,累遷尚書兵部員外郎、同修起居注。

偉は清慎、劇を治むる才無く、常に小笏を秉りて朝し、知制誥缺く、中書偉の名を以て進む、仁宗曰く、「此れ小笏を秉る者に非ずや」と。遂に知制誥を命ず。權めて諫院、嘗て曰く、「諫臣は宜しく大事を陳列すべし、細故何ぞ論ずるに足らん」と。然れども當時其の補ふこと亡きを譏る。遷りて刑部郎中、翰林學士と為る。明堂を祀り、遷りて右司郎中・太常寺を判じ、群牧使兼侍讀學士と為り、進みて中書舍人と為る。卒し、贈りて尚書禮部侍郎とす。

原文偉清慎,無治劇才,常秉小笏以朝,知制誥缺,中書以偉名進,仁宗曰:「此非秉小笏者邪?」遂命知制誥。權諫院,嘗曰:「諫臣宜陳列大事,細故何足論。」然當時譏其亡補。遷刑部郎中,為翰林學士。祀明堂,遷右司郎中、判太常寺,為群牧使兼侍讀學士,進中書舍人。卒,贈尚書禮部侍郎。

子 紘

原文子 紘

紘、字は望之、蔭を以て歷官し鄞縣を知る。鄞は海に濱し、惡少魚鹽を販ふ者、群居して洲島に在り、或いは商人の財物を掠めて海に入り、吏禁むる能はず。紘至り、方略を設け、識者をして惡少の船を質せしめ、帰るに及び、始めて還し給ひ、且つ戒諭す、是に由りて敢へて盜を為さず。億の文獻を以て、進士出身を賜ふ。越州を通判し、筠州を知り、江東刑獄を提點し、轉運・按察使を除く。江東饑ふ、紘義倉を開きて之を振ふ、吏持して不可とす、紘曰く、「義倉は民の為なり、稍く稽れば、人將に殍せん」と。

原文紘,字望之,以蔭歷官知鄞縣,鄞濱海,惡少販魚鹽者,群居洲島,或掠商人財物入海,吏不能禁,紘至,設方略,使識者質惡少船,及歸,始給還,且戒諭之,由是不敢為盜。以億文獻,賜進士出身。通判越州,知筠州,提點江東刑獄,除轉運、按察使。江東饑,紘開義倉振之,吏持不可,紘曰:「義倉,為民也,稍稽,人將殍矣。」

紘は下を御するに急にし、常に曰く、「法に不法の人は貸す可からず、之を去るは、只だ一家を不利にするのみ、豈に郡邑千萬家をして俱に害を受くべけんや」と。聞く者風を望みて解去し、或いは期を過ぎて敢へて之に官せず。王鼎・王綽と號して「江東の三虎」とす。坐して降りて衡州を知り、越州に徙む。荊南轉運使と為り、福建に徙む、赴かず、湖州を知り、復た江東轉運使と為る。官は太常少卿に至り、卒す。紘は性嚴しく、家居すと雖も、兒女敢へて妄りに言笑せず。書数萬卷を聚め、事實を手抄し、名づけて『窺豹篇』とす。

原文紘御下急,常曰:「不法之人不可貸,去之,止不利一家爾,豈可使郡邑千萬家俱受害邪?」聞者望風解去,或過期不敢之官。與王鼎、王綽號「江東三虎」。坐降知衡州,徙越州。為荊南轉運使,徙福建,不赴,知湖州,復為江東轉運使。官至太常少卿,卒。紘性嚴,雖家居,兒女不敢妄言笑。聚書數萬卷,手抄事實,名《窺豹篇》。

晁迥

原文晁迥

晁迥、字は明遠、世々澶州清豐の人、其の父佺より、始めて家を彭門に徙す。迥は進士に挙げられ、大理評事と為り、歷て岳州錄事參軍を知り、將作監丞に改め、稍く遷りて殿中丞。囚の死罪を失入するに坐し、二官を奪はる。復た將作丞と為り、徐・婺二州の税を監し、遷りて太常丞。真宗即位し、宰相呂端・參知政事李沆の薦を用ひ、擢て右正言・直史館と為す。『咸平新書』五十篇を獻じ、又た『理樞』一篇を獻ず。召して試み、右司諫・知制誥を除き、尚書刑部を判ず。

原文晁迥,字明遠,世為澶州清豐人,自其父佺,始徙家彭門。迥舉進士,為大理評事,歷知岳州錄事參軍,改將作監丞,稍遷殿中丞。坐失入囚死罪,奪二官。復將作丞,監徐、婺二州稅,遷太常丞。真宗即位,用宰相呂端、參知政事李沆薦,擢右正言、直史館。獻《咸平新書》五十篇,又獻《理樞》一篇。召試,除右司諫、知制誥,判尚書刑部。

帝北征し、雍王元份京師を留守し、右諫議大夫を加へ、判官と為り、進みて翰林學士と為る。未だ幾ばくもあらず、審官院を知り、明德・章穆二園陵の禮儀使と為り、國史を同修す。大中祥符元年の貢挙を知る。泰山に封じ、汾陰を祀り、太常と同しく儀注を詳定し、累遷して尚書工部侍郎。契丹に使し、還りて『北庭記』を奏し、史館修撰を加へ、通進銀臺司を知る。『玉清昭應宮頌』を獻じ、其の子宗操繼ぎて『景靈宮慶成歌』を上る。帝曰く、「迥父子同しく歌頌を獻ず、搢紳の間の美事なり」と。

原文帝北征,雍王元份留守京師,加右諫議大夫,為判官,進翰林學士。未幾,知審官院,為明德、章穆二園陵禮儀使,同修國史。知大中祥符元年貢舉。封泰山,祀汾陰,同太常詳定儀注,累遷尚書工部侍郎。使契丹,還,奏《北庭記》,加史館修撰、知通進銀臺司。獻《玉清昭應宮頌》,其子宗操繼上《景靈宮慶成歌》。帝曰:「迥父子同獻歌頌,搢紳間美事也。」

史成り、擢て刑部侍郎と為り、進みて承旨と為る。時に朝廷方に禮文の事を修め、詔令多く迥の手に出づ。嘗て夜召して對せしめ、帝内侍を令して燭を持ちて院に送らしむ。方に盛暑なるを、宿直を蠲ち、三五日に一たび院に至らしむ。迥は故事に非ずと辭す、乃ち聽して秋を俟ちて還直せしむ。遷りて兵部侍郎、西京に分司するを請ひ、特拜して工部尚書・集賢院學士・西京留司御史臺を判ず。一子に官を河南に賜ひ、以て就養せしむ。

原文史成,擢刑部侍郎,進承旨。時朝廷方修禮文之事,詔令多出迥手。嘗夜召對,帝令內侍持燭送歸院。方盛暑,為蠲宿直,令三五日一至院;迥辭以非故事,乃聽俟秋還直。遷兵部侍郎,請分司西京,特拜工部尚書、集賢院學士、判西京留司御史臺。賜一子官河南,以就養。

仁宗が即位すると、礼部尚書に遷る。御史台に在ること六年、累次上書して老齢を理由に退職を請い、太子少保として致仕し、全俸を給され、歳時の賜賚は学士の如くであった。天聖年間、晁迥八十一歳の時、太清楼に召されて宴に預かり、舞蹈を免ぜられる。子の宗悫が知制誥として、侍従と共に同席して宴に預かる。晁迥は御史中丞の南に座し、宰臣と同様に御筆の飛白の大字を賜わる。宴罷の後、寵賚する所甚だ厚く、太子少傅に進む。後に再び延和殿に召し対し、帝は『洪範』の雨暘の応について尋ねられる。対して曰く、「近年災変が重なって至るは、これ天が以て陛下を警める所以なり。願わくは陛下、王事を修飭し、以て天心に当たり、転乱して祥と為ることを庶幾えん」と。既にして『斧扆』、『慎刑箴』、『大順』、『審刑』、『無尽灯頌』を献じ、凡そ五篇。及び疾を感じ、人事を絶ち、医薬を屏け、冠服を具えて卒す。年八十四。朝を一日罷め、太子太保を贈られ、諡して文元と曰う。

原文仁宗即位,遷禮部尚書。居臺六年,累章請老,以太子少保致仕,給全俸,歲時賜賚如學士。天聖中,迥年八十一,召宴太清樓,免舞蹈。子宗愨為知制誥,侍從同預宴。迥坐御史中丞之南,與宰臣同賜御飛白大字。既罷,所以寵賚者甚厚,進太子少傅。後復召對延和殿,帝訪以《洪範》雨暘之應。對曰:「比年變災薦臻,此天所以警陛下。願陛下修飭王事,以當天心,庶幾轉亂而為祥也。」既而獻《斧扆》、《慎刑箴》,《大順》、《審刑》、《無盡燈頌》,凡五篇。及感疾,絕人事,屏醫藥,具冠服而卒,年八十四。罷朝一日,贈太子太保,諡文元。

晁迥は吐納養生の術を善くし、釈・老の書に通じ、経伝を以て傅致し、一家の説を為す。性楽易寛簡、道に服し正を履み、貴勢有りと雖も屈する所無く、官に歴り事に臨むも、未だ情を挟みて物を害する事無し。真宗は数々其の好学の長者なるを称す。楊億嘗て晁迥の作る所の書命は過褒無く、代言の体を得たりと謂う。経史の疑義を質正するを喜び、字類を摽括す。術命を以て晁迥に語る者有り、晁迥曰く、「自然の分は天命なり。天を楽えて憂えざるは命を知るなり。理を推し常に安んずるは命に委ぬるなり。何ぞ未然を逆計せんや」と。著す所に『翰林集』三十巻、『道院集』十五巻、『法蔵碎金録』十巻、『耆智余書』、『随因紀述』、『昭徳新編』各三巻。子に宗悫有り。

原文迥善吐納養生之術,通釋、老書,以經傳傅致,為一家之說。性樂易寬簡,服道履正,雖貴勢無所屈,歷官臨事,未嘗挾情害物。真宗數稱其好學長者。楊億嘗謂迥所作書命無過褒,得代言之體。喜質正經史疑義,摽括字類。有以術命語迥,迥曰:「自然之分,天命也。樂天不憂,知命也。推理安常,委命也。何必逆計未然乎?」所著《翰林集》三十卷,《道院集》十五卷,《法藏碎金錄》十卷,《耆智餘書》、《隨因紀述》、《昭德新編》各三卷。子宗愨。

子 宗悫

原文子 宗愨

宗悫、字は世良、父の蔭により秘書省校書郎と為る。屡々歌頌を献じ、召し試みられ、進士及第を賜わる。又館閣校勘を除かれ、三遷して大理寺丞、集賢校理兼注釈御集検閲官と為る。晁迥が西台を領するに及び、宗悫は便養を求め、許州を通判す。仁宗即位、殿中丞、同修起居注に遷る。天聖年中、百官転対の時、宗悫は上供を減じ、閑田を墾き、獄官を択び、監司に令して県令を挙げるを請う。累遷して尚書祠部員外郎、知制誥と為る。宋綬嘗て謂う、「唐以来、唯だ楊於陵のみ其の子嗣復が書命を継ぎ掌るを見る。今始めて晁氏有り」と。父憂に遭い、喪を奪われ、管勾会霊観と為り、翰林に入り学士と為る。母亡き後、又起復し、龍図閣学士を兼ね、権発遣開封府事と為り、疑獄を弁雪して能名有り。

原文宗愨,字世良,以父蔭為秘書省校書郎。屢獻歌頌,召試,賜進士及第。又除館閣校勘,三遷大理寺丞、集賢校理兼注釋御集檢閱官。迥領西臺,宗愨求便養,通判許州。仁宗即位,遷殿中丞、同修起居注。天聖中,百官轉對,宗愨請減上供,墾閑田,擇獄官,令監司舉縣令。累遷尚書祠部員外郎、知制誥。宋綬嘗謂:「自唐以來,唯楊於陵身見其子嗣復繼掌書命,今始有晁氏焉。」父憂,奪喪,管勾會靈觀,入翰林為學士。母亡,又起復,兼龍圖閣學士、權發遣開封府事,辨雪疑獄有能名。

元昊反す、関中久しく師を宿す。宗悫を以て陝西を安撫せしめ、夏竦と攻守の策を議す。未だ還らざるに、道中にて右諫議大夫、参知政事を拝す。時に朝廷金飾の胡床及び金の汲器を以て唃廝羅に賜わんとす。宗悫曰く、「仲叔於奚は邑を辞し繁纓を請う。孔子曰く『邑を多く与うるに如かず』と。繁纓は諸侯の馬飾なり、猶お陪臣に与うべからず。況んや乗輿の器を以て外臣に賜わんや。必ずや其の礼を優せんと欲せば、金帛を加賜するに如かず」と。後に帝に従い郊祠し疾を感じ、数々罷免を求め、資政殿学士、給事中を除かる。数日にして卒す。工部尚書を贈られ、諡して文荘と曰う。

原文元昊反,關中久宿師,以宗愨安撫陝西,與夏竦議攻守策。未還,道拜右諫議大夫、參知政事。會朝廷以金飾胡床及金汲器賜唃廝羅,宗愨曰:「仲叔於奚辭邑請繁纓,孔子曰:『不如多與之邑。』繁纓,諸侯之馬飾,猶不可與陪臣,況以乘輿之器賜外臣乎?必欲優其禮,不若加賜金帛。」後從帝郊祠感疾,數求罷,除資政殿學士、給事中。數日,卒。贈工部尚書,諡文莊。

宗悫の性敦厚、父母に事えて孝、故旧に篤く、凡そ任子の恩は皆其の族人を先んず。翰林に在りて、一夕に将相五制を草し、褒揚訓戒、人宜しきを得たり。嘗て密詔を以て辺策を訪われ、七事を陳べ、頗る之を用いらる。

原文宗愨性敦厚,事父母孝,篤於故舊,凡任子恩皆先其族人。在翰林,一夕草將相五制,褒揚訓戒,人得所宜。嘗密詔訪邊策,陳七事,頗施用之。

劉筠

原文劉筠

劉筠、字は子儀、大名の人。進士に挙げられ、館陶県尉と為る。還り、詔有りて知制誥楊億に選人を試みて太清楼の書を校せしむ。劉筠を第一に擢で、大理評事を以て秘閣校理と為す。真宗北巡、大名府観察判官事を知ることを命ぜらる。辺鄙兵を罷めて以来、国家閑暇、帝篇籍に意を垂れ、始めて諸儒を集めて文章を考論し、一代の典と為す。劉筠は図経及び『冊府元亀』の修撰に預かり、精敏と推せらる。真宗将に汾睢を祀らんとし、屡々嘉雪を得、劉筠及び監察御史陳従易を召し崇和殿にて歌詩を賦せしむ。帝数々善しと称す。車駕西巡、又劉筠に命じて土訓を纂せしむ。是の時四方符瑞を献じ、天子方に礼文の事を興す。劉筠数々賦頌を上る。及び『冊府元亀』成り、左正言、直史館、修起居注に進む。嘗て疾に属し、予告満つるや、輒ち再び予けらる。積もること二百日、毎詔して其の俸を続けしむ。

原文劉筠,字子儀,大名人。舉進士,為館陶縣尉。還,會詔知制誥楊億試選人校太清樓書,擢筠第一,以大理評事為秘閣校理。真宗北巡,命知大名府觀察判官事。自邊鄙罷兵,國家閑暇,帝垂意篇籍,始集諸儒考論文章,為一代之典。筠預修圖經及《冊府元龜》,推為精敏。真宗將祀汾睢,屢得嘉雪,召筠及監察御史陳從易崇和殿賦歌詩,帝數稱善。車駕西巡,又命筠纂土訓。是時四方獻符瑞,天子方興禮文之事,筠數上賦頌。及《冊府元龜》成,進左正言、直史館、修起居注。嘗屬疾,予告滿,輒再予,積二百日,每詔續其奉。

左司諫、知制誥に遷り、史館修撰を加えられ、出でて鄧州を知り、陳州に徙る。還り、在京刑獄を糾察し、貢挙を知り、尚書兵部員外郎に遷る。再び鄧州を請う。未だ行かざるに、翰林学士に進む。初め、劉筠嘗て丁謂と李迪の罷相の制を草す。既にして丁謂復留まる。別に制を草せしむるを命ずるも、劉筠詔を奉ぜず。乃ち更に晏殊を召す。劉筠院を出で、枢密院南門にて晏殊に遇う。晏殊側面して過ぎ、敢えて揖せず。蓋し内に愧づる所有ればなり。帝久しく疾有り、丁謂浸に権を擅にす。劉筠曰く、「奸人の事を用うる、安んぞ一日も此に居らんや」と。外補を請い、右諫議大夫を以て廬州を知る。

原文遷左司諫、知制誥,加史館修撰,出知鄧州,徙陳州。還,糾察在京刑獄,知貢舉,遷尚書兵部員外郎。復請鄧州,未行,進翰林學士。初,筠嘗草丁謂與李迪罷相制,既而謂復留,令別草制,筠不奉詔,乃更召晏殊。筠自院出,遇殊樞密院南門,殊側面而過,不敢揖,蓋內有所愧也。帝久疾,謂浸擅權,筠曰:「奸人用事,安可一日居此。」請補外,以右諫議大夫知廬州。

仁宗即位、給事中に遷り、復た召されて翰林学士と為る。一月を踰え、御史中丞を拝す。是に先立ち、三院御史事を言うは、皆先ず中丞に白す。劉筠台中に榜して曰く、「御史自ら事を言うは、丞雑に知らしむる毋れ」と。天聖二年貢挙、数々疾を以て告げ、尚書礼部侍郎、枢密直学士、潁州知事に進む。召し還され、復た貢挙を知り、翰林学士承旨兼龍図閣直学士、同修国史、判尚書都省に進む。南郊に祀り、礼儀使と為り、太廟に宿斎する日、朝饗玉清昭応宮を罷め、礼成るを俟ち、鑾駕を備えて恭謝するを請う。之に従う。劉筠素より廬江を愛し、遂に城中に室を築き、閣を構えて前後賜わる所の書を蔵す。帝飛白を以て書して「真宗聖文秘奉之閣」と曰う。再び廬州を知り、塚墓を営み、棺を作り、自ら銘を為り之を刻す。既に病み、書閣に徙りて卒す。

原文仁宗即位,遷給事中,復召為翰林學士。逾月,拜御史中丞。先是,三院御史言事,皆先白中丞。筠榜臺中:「御史自言事,毋白丞雜知」。天聖二年貢舉,數以疾告,進尚書禮部侍郎、樞密直學士、知潁州。召還,復知貢舉,進翰林學士承旨兼龍圖閣直學士、同修國史、判尚書都省。祀南郊,為禮儀使,請宿齋太廟日,罷朝饗玉清昭應宮,俟禮成,備鑾駕恭謝。從之。筠素愛廬江,遂築室城中,構閣藏前後所賜書,帝飛白書曰「真宗聖文秘奉之閣」。再知廬州,營塚墓,作棺,自為銘刻之。既病,徙於書閣,卒。

劉筠は、景德以来、文翰の選に居り、其の文辞対偶を善くし、尤も詩を工みす。初め楊億に識抜せられ、後遂に之と齊名し、時に「楊劉」と号す。凡そ三たび禁林に入り、又三たび貢部を典し、策論を以て天下の士を升降するは、劉筠に始まる。性苟も合せず、事に遇いて明達、其の治め簡厳を尚ぶ。然れども晩年に陽翟の同姓の富人恩沢を奏求せしめ、清議之を少くす。著す所『冊府応言』、『栄遇』、『禁林』、『肥川』、『中司』、『汝陰』、『三入玉堂』凡そ七集。一子早く卒し、田廩官に没せらる。包拯少時、頗る劉筠に知らる。及び包拯顕るるに及び、其の族子を後と為すを奏し、又没せし所の田廩の還付を請う。

原文筠,景德以來,居文翰之選,其文辭善對偶,尤工為詩。初為楊億所識拔,後遂與齊名,時號「楊劉」。凡三入禁林,又三典貢部,以策論升降天下士,自筠始。性不苟合,遇事明達,而其治尚簡嚴。然晚為陽翟同姓富人奏求恩澤,清議少之。著《冊府應言》、《榮遇》、《禁林》、《肥川》、《中司》、《汝陰》、《三入玉堂》凡七集。一子蚤卒,田廬沒官。包拯少時,頗為筠所知。及拯顯,奏其族子為後,又請還所沒田廬云。

薛映

原文薛映

薛映、字は景陽、唐の中書令薛元超の八世の孫、後に蜀しょくに家を定む。父の允中は、孟氏に仕えて給事中となる。帰朝して尚書都官郎中となる。映は進士に及第し、大理評事を授かり、綿州・宋州・昇州の通判を歴任し、累遷して太常丞となる。王化基が監察御史・知開封県に推薦す。太宗が召して対問し、江南転運使と為し、左正言・直昭文館に改め、江・淮・両浙茶塩制置副使と為す。京東転運使に改め、河東に転じ、河西随軍を兼ねる。親の便を求め、相州を知る。再び京東の漕運を領し、積み遷って尚書礼部郎中となり、知制誥に抜擢され、権判吏部流内銓兼制置群牧使を権める。梁顥とともに河北を安撫し、還りて権判度支を権む。

原文薛映,字景陽,唐中書令元超八世孫,後家於蜀。父允中,事孟氏為給事中。歸朝,為尚書都官郎中。映進士及第,授大理評事,歷通判綿、宋、昇州,累遷太常丞。王化基薦為監察御史、知開封縣。太宗召對,為江南轉運使,改左正言、直昭文館,為江、淮、兩浙茶鹽制置副使。改京東轉運使,徙河東,兼河西隨軍。求便親,知相州。再領漕京東,積遷尚書禮部郎中,擢知制誥,權判吏部流內銓兼制置群牧使。同梁顥安撫河北,還,權判度支。

映は右諫議大夫として杭州を知る。映は臨機の決断が鋭敏にして、庭に滞留する事無し。転運使姚鉉が属州に移牒す「当直司は徒罪以上の罪を軽々に断じてはならず」と。映は即ち奏す「徒・流・笞・杖の刑にはそれぞれ科条あり、もし情状明白なれば、何ぞ必ずしも獄に繋ぎ、以て和気を累わす必要あらん。請う、天下に詔し、凡そ徒流の罪は長吏の前で対弁し、異議無きものは、遣わして決せしむるを聴け」と。朝廷その言を用う。鉉と既に協わず、遂に鉉が管内の女口を納れ、及び銅器を売りてその価を抑えて取り、また広く綾羅を市りて税を納めざるを発す。真宗、御史台推勘官儲拱を遣わして鉉を劾せしめ、実を得て、連州文学に貶す。映は嘗て人を召して鉉を告げる状を取らしめたる罪に坐し、金を贖うべきところ、帝特にこれを赦す。

原文映以右諫議大夫知杭州。映臨決蜂銳,庭無留事。轉運使姚鉉移屬州:「當直司毋得輒斷徒以上罪。」映即奏:「徒、流、笞、杖,自有科條,苟情狀明白,何必繫獄,以累和氣。請詔天下,凡徒流罪於長吏前對辨,無所異,聽遣決之。」朝廷施用其言。與鉉既不協,遂發鉉納部內女口及鬻銅器抑取其直,又廣市綾羅不輸稅。真宗遣御史臺推勘官儲拱劾鉉,得實,貶連州文學。映坐嘗召人取告鉉狀,當贖金,帝特貰之。

杭州に在ること五年、入りて通進銀台司を知り門下封駁事を兼ぬ。泰山を封じ、東京留守判官と為り、給事中に遷り、勾当三班院を務め、出でて河南府を知る。汾陰を祀り還り、西京に駐蹕す。映に治状あるを以て、御書を賜りて嘉奨す。

原文在杭五年,入知通進銀臺司兼門下封駁事。封泰山,為東京留守判官,遷給事中、勾當三班院,出知河南府。祀汾陰還,駐蹕西京,以映有治狀,賜御書嘉獎。

尚書工部侍郎・集賢院学士・判尚書都省に遷り、枢密直学士・知昇州に進む。建言す「州、牛を以て民に賦し租を納めしむ。牛死すれば、租を蠲免せず」と。帝章を覧みて矍然とし、「此れ朝廷豈に知らんや」と曰う。因って諸州に条奏せしめ、悉くこれを蠲す。頃くして、在京刑獄を糾察し、再び都省を判ず。尚書左丞・知揚州を歴任す。幷州に転じ、また永興軍に転じ、工部尚書兼御史中丞を拝す。仁宗即位し、礼部に遷り、再び集賢院学士・判院事・知曹州と為り、南京に分司す。卒す。右僕射を贈られ、諡して文恭と曰う。

原文遷尚書工部侍郎、集賢院學士、判尚書都省,進樞密直學士、知昇州。建言:「州以牛賦民出租,牛死,租不得蠲。」帝覽章矍然,曰:「此朝廷豈知邪?」因令諸州條奏,悉蠲之。頃之,糾察在京刑獄,再判都省。歷尚書左丞、知揚州。徙幷州,又徙永興軍,拜工部尚書兼御史中丞。仁宗即位,遷禮部,再為集賢院學士、判院事、知曹州,分司南京。卒,贈右僕射,諡文恭。

映は学を好み文あり、該覧強記し、筆札に善くし、章奏尺牘は下筆立成す。治を為すこと厳明にして、吏欺く能わず。毎五鼓に冠帯し、黎明に案に据わって事を決す。寒暑と雖も、一日として異なること無し。子の耀卿は秘閣校理。孫の紳は直龍図閣。

原文映好學有文,該覽強記,善筆劄,章奏尺牘,下筆立成。為治嚴明,吏不能欺。每五鼓冠帶,黎明據案決事,雖寒暑,無一日異也。子耀卿,秘閣校理。孫紳,直龍圖閣。

論ずるに、唐末より詞気浸く敝れ、五季に至りて甚だし。先民に言有り「政厖にして土裂け、大音完からず、必ず混一して後に振う」と。宋、海内を一にし、文治日より起こる。楊億首めて辞章を以て天下に擅り、時に宗と為らる。蓋し其の清忠鯁亮の気、未だ大いに施さずして卒す。悉く言に発す。宜なるかな、雄偉にして浩博なるは。劉筠後出して、能く之と斉名し、気象似たり。文體の今古に至りては、時習之を然らしむ。遑暇あらんや是を議するの。晁迥は寛易にして、物と忤わず、父子先後して書命を典し、名臣と称せらる。薛映は学芸・吏術ともに優れども、忿りを挟みて以て人の私を抉く。君子之を病む。

原文論曰:自唐末詞氣浸敝,迄於五季甚矣。先民有言:「政厖土裂,大音不完,必混一而後振。」宋一海內,文治日起。楊億首以辭章擅天下,為時所宗,蓋其清忠鯁亮之氣,未卒大施,悉發於言,宜乎雄偉而浩博也。劉筠後出,能與齊名,氣象似爾,至於文體之今古,時習使然,遑暇議是哉。晁迥寬易,與物無忤,父子先後典書命,稱為名臣。薛映學藝、吏術俱優,而挾忿以抉人之私,君子病之。