宋史

列傳第六十三 周渭 梁鼎 范正辭 劉師道 王濟 方偕 曹穎叔 劉元瑜 楊告 趙及 劉湜 王彬 仲簡

周渭

周渭、字は得臣、昭州恭城の人。幼くして孤となり、諸父に養われる。力學し、詩を作るに巧みであった。劉鋹が五嶺を占拠し、昭州は皆その領地となり、政は煩雑で賦は重く、民は聊生すべからず。渭は郷人六百を率いて嶺を越え、零陵に避地せんとした。未だ至らざるに、賊が起こり、道を断ち糧を絶ち、復た恭城に還るも、則ち廬舍は煨燼となり、遂に道州に奔る。盗賊に襲われ、渭は身を脱して北上す。

建隆初年、京師に至り、薛居正に礼遇される。時務について上書し、召されて試みられ、同進士出身を賜り、白馬主簿に解褐す。県の大吏が法を犯すと、渭は即ちこれを斬った。上はその才を奇とし、右讚善大夫に擢る。時に魏帥符彥卿が専横恣にし、朝廷は常參官の強幹なる者を選んでその属邑に蒞ましめ、渭を以て永濟県を知らしむ。彥卿が郊外で迎えると、渭は馬上に揖し、館に就いて始めて相見え、少しも降屈せず。県に盗賊が人を傷つけて逃げた者がおり、渭は捕獲し、並びに匿う者を暴き出して按じて誅し、府に送らなかった。

乾徳年中、興州を通判す。州は罝口砦を領し戍兵多く、監軍の敖は狠にして、その下の暴を行うを縱し、居人はこれを苦しむ。渭は馳せ往きて禍福を諭し、その軍校を斬り、衆皆慴服す。詔書嘉獎し、本砦鈐轄を兼ねるを命ず。開寶元年、鳳州七房冶の主吏が官銀を盗み隠し、渭を選んで代わりに往かしむ。一年にして、羨課数倍、緋魚を賜い、また棣州知州に遷る。殿直傅延翰が監軍となり、契丹に走らんと謀りて乱を為さんとし、部下に告げられ、渭はこれを擒えて聞かす。命じて械し闕下に至らしめ、鞫して実を得、西市にて斬る。渭は郡において簡肅を以て称せられ、還るに及び、吏民道を遮り泣き留まる。俄に詔して銭百万を賜う。

太平興國二年、廣南諸州轉運副使となる。初め、渭が中原に入る時、妻子は恭城に留まる。開寶三年、廣南を平定し、詔して昭州に訪求せしめ、銭米を賜い存恤す。是に及び、渭始めて故里に還り、郷人以って栄と為す。渭は劉鋹の時の税算の繁きものを奏して去り、田賦を重ねて定め、学校を興す。殿中丞に遷る。交阯に事有るに属し、主将逗撓して功無し。二つの敗卒が甲を擐いて先ず邕州市に至り、民の銭を奪う。渭はこれを捕えて斬る。後に至る者は皆甲を解いて入るを令し、終に敢えて犯す者無し。交阯に移書し、朝廷の威信を諭し、将に刻日して再挙せんとす。黎桓懼れ、即ち使を遣わして入貢す。就いて監察御史を加え、嶺南に在ること凡そ六年。揚州知州に徙り、殿中侍御史に進み、兩浙東・西路轉運使に改め、入って鹽鐵判官となる。侍御史に遷り、歴て戸部・度支二勾院を判じ、出でて亳州を知り、金紫を賜い、俄に宋州に換わる。職方員外郎を加え、益州轉運使となる。從子が詔に違いて馬を市うに坐し、彰信軍節度副使に黜せらる。咸平二年、真宗その清節を聞き、召し還し、将に復用せんとす。詔下るも而して卒す。年七十七。上その貧にして葬るに克たざるを閔み、賻銭十万を賜い、その子建中を以て乘氏主簿と為す。

渭の妻莫荃は、賢婦人なり。渭が北走する時、暇あらずして荃と訣する能わず、二子は孩幼、荃は尚少にして、父母嫁がさんと欲す。荃泣き誓いて曰く、「渭は久しく困する者に非ず、今難に違いて遠く適す、必ず能く自ら奮うべし」と。是に於いて親しく蠶績碓舂し、以て朝夕を給し、二子皆婚娶を畢うす。凡そ二十六年にして、復た渭を見る。時に人これを異とす。朱昂『莫節婦傳』を著してその事を紀す。

梁鼎

梁鼎、字は凝正、益州華陽の人。祖鉞はしょくに仕えて劍門關使となる。父文獻は乘氏令。鼎は太平興國八年進士甲科、解褐して大理評事・秭歸県知県となり、再び著作佐郎に遷る。端拱初年、『聖德徽號頌』万余言を献じ、文を試みられ、殿中丞・歙州通判に遷り、能声聞こえ、詔有りて嘉獎す。吉州知州に徙る。民に蕭甲という者あり、豪猾にして民患を為す。鼎その凶状を暴き、脊を杖し面にげいして遠郡に徙す。太宗特にその強幹を賞し、代わり還り、緋魚を賜う。旧例当に銀寶瓶帶を給すべし、太宗特以て犀帶を賜い、その名を御屏に記す。

淳化年中、上言して曰く、「『書』に云う、『三載功績を考へ、三考幽明を黜陟す』と。此れ乃ち堯・舜氏の賢人を得て天下を治むる所以なり。三代而下、典章尚ほ存し、兩漢以還、沿革見るべし。唐室に至りては、此の道尤も精しく、考功の司有り、考課の令を明らかにし、下は簿尉より、上は宰臣に至るまで、皆歳ごとに功過を計り、優劣を較定す。故に人思ひ激厲し、績效著しく聞こゆ。五代兵革相継ぎ、禮法陵夷し、顧みて惟うに考課の文は、祇だ州縣の輩に拘わる。黜陟既に異なり、名は存して実は亡ぶ。且つ夫れ今の知州は、即ち古の刺史なり。治状顕著なる者は、朝廷知らず。方略蔑聞なる者は、任用旧の如し。大いに勧懲の理を失い、浸く苟且の風を成す。是れ以て水旱薦臻し、獄訟填溢し、天下の承平を欲望するも、豈に得べけんや。伏して惟うに陛下二聖の丕圖を継ぎ、億兆の司牧と為り、百官の未だ乂からざるを念い、四海の未だ康からざるを思し、特詔して有司に、考績の法を申明せしめ、庶幾くは官其の人を得、民其の賜を受くべし」と。

俄に開封府判官となり、太常博士・三司右計判官に遷り、又総計判官となり、会うに三部を復するに及び、度支判官に換わる。至道初年、鼎及び陳堯叟建議して三白渠を興し、及び陳・許・鄧・穎・蔡・宿・亳数州に水利を以て田を墾く。事は『食貨志』に具す。都官員外郎・江南轉運副使に遷り、就いて起居舍人に改め、陝西に徙る。二年、五将分道して李繼遷を撃つ。李繼隆擅に赤檉路を出でて功無く、還り奏して軍儲期に失す。鼎坐して三任を削らる。復た殿中丞となり、職を領すること旧の如し。母老を以て郡を求め、歴て徐・密二州を知る。真宗践位し、旧官に復す。咸平四年、兵部員外郎・知制誥に遷り、金紫を賜う。時に三司逋負を督むること厳急にして、久しく留係せらるる者有り。命じて鼎と薛映に籍を按じて詳定せしむ。多く蠲免す。月を逾え、右諫議大夫・度支使に拝す。

時に西鄙未だ寧からず、建議して陝西に解池鹽を禁じ、所在官に鬻がしむ。詔してこれに従う。鼎を以て製置使と為し、楊覃を轉運使と為し、張賀これを副え、又内殿崇班杜承睿を以て同製置鹽事と為す。議者多く言う、「辺民旧青鹽を食す。その価甚だ賤し。青鹽を禁じて賊を困らしめ、商賈に粟を入れしめ、解鹽を縁辺に運ばしむるに及び、価直蕃鹽と相遠からず。故に蕃部鹽を齎して至る者、貨鬻する能わず。今若し解池鹽を禁じ、内地と同価と為さば、則ち民必ず禁を冒して復た青鹽を市い、乃ち盗糧を資すなり」と。時に劉綜が陝西轉運使たり。鼎奏してこれを罷む。綜朝に帰り、亦密かにその便に非ざるを陳す。鼎既に行き、即ち移文して鹽商を禁止し、所在の約束乖當なり。延州劉廷偉・慶州鄭惟吉皆規畫に従わず。

また、向鼎は咸陽倉の粟を運んで辺境を充実させることを奏上したが、粟はすでに陳腐化していたので、向鼎は直ちに民に与え、秋の収穫を待って新粟と交換しようとした。朝廷はこれを聞いて止めさせ、上封章によってその煩擾を密かに陳述する者が甚だ多く、向鼎の当初の計画は多く阻まれた。そこで林特に駅伝を乗り継がせて永興の張詠と会わせ、向鼎らとともに可否を協議させた。ここにおいて旧に依って塩商を通すこととなった。向鼎は首謀して改作を議したことが誤りであるとして罪に坐し、詔によって度支使を罷免され、本官を守った。間もなく、母の喪に服したが、起復した。景德初年、三班院・通進銀台司を管轄し、門下封駁事を兼ね、出て鳳翔府の知事となった。喪に服して哭泣し目を傷めたため、表を奉って西京留司御史臺の判官を求めた。三年、卒去。享年五十二。二子に出身を賜った。

向鼎は姿貌魁偉で、磊落として気節を尚び、介節があり、官に居るや峻厲で、名称甚だ茂かった。学を好み、篆書・籀書・八分に巧みであった。嘗て『隠書』三巻、『史論』二十篇、『学古詩』五十篇を著した。子に申甫・吉甫がいる。

范正辭

范正辭は、字を直道といい、齊州の人である。父の勞謙は獲嘉県令であった。正辭は『春秋公羊伝』・『穀梁伝』を修め、科挙に及第し、補任されて安陽主簿となった。開宝年中、判入等し、国子監丞に遷り、戎州知事となり、著作佐郎に改めた。任を代わって帰還し、淄州において逋欠を処理し、転運使がその能を称えたため、左讚善大夫に転じ、そのまま淄州知事となった。太宗が河東を征した時、諸州が部送する糧秣は多く期日に及ばなかったが、正辭の管轄する長山県の吏である張秀が民に輸送を督し、銭二千を受けたので、直ちに杖殺した。郡中は畏服した。

太平興国年中、殿中丞に改まり、棣州・深州の通判を歴任し、国子博士に遷った。御史中丞劉保勳が奏して台直に充てようとしたところ、時に饒州に滞訟が多いとの言があり、正辭を選んで州事を管轄させた。到着すると、宿係していた者を全て決遣し、胥吏で淹獄によって停職した者は六十三人に及んだ。詔によって州兵を選抜して京師に送るよう命じられた時、王興という者が、郷土を懐かしみ行くことを憚り、刃物で故意に自分の足を傷つけたので、正辭はこれを斬った。興の妻が登聞院に上訴したため、太宗が召見し、正辭は朝廷でその事を弁明した。正辭は言う、「東南の諸郡は、饒州が実に繁盛しており、人心動き易い。興が敢えて扇動しようとしたので、もし制御を失えば、臣に待罪の地無からん。」と。上はその敢断を壮とし、特に膳部員外郎に遷し、江南転運副使を充て、銭五十万を賜った。

饒州の民に甘紹という者がおり、財を巨万積んでいたが、群盗に掠奪され、州は十四人を捕縛し、獄が具わり、死に当たるとされた。正辭が巡察して到着し、引問すると、囚人らは皆泣き、その実情でないことを察し、他所に移して訊鞫するよう命じた。やがて民が群盗の所在を告げる者があったので、正辭は密かに監軍の王願を召して掩捕させた。願が未だ到らぬうちに盗賊は逃げ去り、正辭は即ち単騎で城外二十里に出て、追い及んだ。賊は弓を引き肖を持って逼ったが、正辭は大呼し、鞭でこれを撃ち、賊の両目に中て、これを捕らえた。賊は自ら刃を立てたが死に至らず、残りの賊は江を渡って散走し、追っても捕獲できなかったが、傍らに棄てられた贓物を得た。賊は尚かすかに息があり、正辭は即ち車に載せて帰り、医者に薬を塗らせた。創が癒えた後、その奸状を按問し、法に伏した。そして前の十四人も皆釈放された。

端拱二年、任を代わって帰還し、洛苑副使綦仁澤・西京作坊副使尹宗諤とともに折中倉を監察した。先に、商人に米豆を輸納させて茶塩でその価を酬いることを「折中」と称したが、またその弊を言う者があり、廃止されていた。ここに至って再び設置されたのである。倉部員外郎に遷り、幕府州県官の考課を同知し、判刑部に改まり、戸部・塩鉄の二判官を歴任し、考功員外郎に遷り、定州・揚州・杭州の三州を通判した。真宗が即位すると、膳部郎中に遷り、召されて三司勾院を判じ、俄かにまた塩鉄判官となった。咸平二年、出て河東転運使となった。三年、本官をもって侍御史知雑事を兼ねた。

時に李昌齢は忠武行軍司馬から起用されて梓州知事となり、董儼は寿州知事となり、王德裔・楊緘は皆転運使を任じられたが、後に失官して畿邑の長官となった。正辭が上言して言う、「昌齢らは貪墨著聞です。願わくは陛下その民政を罷め給え。」と。詔して儼の任命書を追還し、残りは悉く代えさせた。また言う、「民を治める官は、牧宰が急務です。」と。吳奮ら五人を挙げて大郡に堪えうるとし、また奮らに各々知県・県令を挙げさせるよう請うた。従われた。任懿の獄を鞫問したことに坐し、滁州団練副使に貶された。赦令に遇い、再び倉部考功員外郎となり、鄆州を通判し、淮陽軍知事となり、再び膳部郎中となり、年老いたことを以て、兗州商税の監を求めた。大中祥符三年四月卒去。享年七十五。子の識・諷は共に進士及第した。

子 諷

范諷は、字を補之といい、蔭補によって将作監主簿となり、『東封賦』を献じて太常寺奉礼郎に遷った。またその為した文を献じ、召されて試みられ入等し、出て平陰県知事となった。時に河が王陵埽で決壊し、水が去って土が肥えたが、阡陌を失い、田に関する訴訟が決せられなかった。諷は疆畔を分別し、券書に著し、民はそれを持ち去って再び争わなかった。諷は弁数激昂し、名声を喜んだが、然しながらも操持は己に在り、吏も敢えて欺かなかった。県において貧弱な者を存視し、豪猾の大家に至っては峻法をもってこれを治めた。

進士に挙げられ、大理評事に遷り、淄州を通判した。歳旱蝗があり、他の穀物は皆育たず、民は蝗が菽を食わないので、なお作付けできるが、種が無いことを患った。諷が行県して鄒平に至り、官倉を開いて民に貸し与えようとした。県令が争って不可としたが、諷は言う、「責め有るも、令は関与せず。」と。即ち三万斛を出貸しした。秋の頃には、民は皆期より先に輸納した。梁山軍知事に転じたが、母老のため行かず、鄆州通判を得た。時に知州李迪が衡州副使に貶され、宰相丁謂が使者に詔書を持たせて上道を促すよう戒めたが、諷は輒ち迪を数日留め、行装を整え餞別をした。詔して決河を塞がせ、州は民を募って芻揵を納めさせたが、城邑の住民と農戸が同等であった。諷は言う、「貧富不同にして軽重相若ければ、農民は必ず大いに困窮します。かつ詔書は民力を度らせよとしているのに、今は均しくこれを取る。これは有司の誤りです。」と。即ち符を改め、富人に三分の二を輸納させ、因って諸州に下して鄆州を基準とさせるよう請うた。朝廷はその言に従った。

広済軍知事に転じた。民は水を避けて堤に居住し、官に徭役を給する者は、諷は悉く放ってその家を護らせ、租賦を除くよう奏上した。累遷して太常博士となり、病を以て舒州霊仙観を監した。尚御薬の張懷德が観に至り斎祠したが、諷は頗るこれを要結し、懷德が章献太后に推薦したので、遂に召還された。何か言いたいことを問われると、対えて言う、「今、権臣驕悍にして、将に制すべからざんとす。」と。蓋し曹利用を指したのである。利用が貶されると、右司諫・三司度支判官に拝された。百官が転対する時、近臣に勅してその可行なるものを閲視させ、類次して聞かせた。諷が奏して言う、「上自ら覧て可否を決せられなければ、誰か肯て陛下のために極言する者がありましょうか。」と。玉清昭応宮が災害に遭い、下って有司に火の起こった所を治めさせたが、諷は言う、「これは天の戒告である。乃ちまた獄を置いて窮治するは、天に応える所以ではありません。」と。獄はここによって解かれた。議者が再修を疑うと、諷は上書して諫めて言う、「山木は已に尽き、人力は已に竭き、宮は必ず成りません。臣は朝廷もまた此れを為さざるを知りますが、天下を疑わしむることを如何せん。宜しく四方に詔示し、明白に知らしむべし。」と。ここにおいて詔を下して修復を罷めた。尚書礼部員外郎兼侍御史知雑事に改まった。

錢惟演が許州より来朝し、相位を図り、諷が奏して曰く、「惟演は嘗て樞密使たりしも、皇太后の姻属を以て之を罷む、天下に私せざるを示す、固より復用すべからず」と。遂に惟演をして河南を守らしむ。契丹に使いし、道幽州の北を過ぎ、原野平曠なるを見て慨然として曰く、「此れ戦地たるや、亦信ならずや」と。遼人相目して敢えて対せず。天章閣待制・知審刑院に擢げられ、出でて青州を治め、再び戸部郎中に遷る。時に山東饑饉す、宰相王曾は青の人にして、家に粟を積むこと多し、諷発して数千斛を取り飢民を済し、因りて使いを遣わし京東を安撫せしむるを請う。入りて右諫議大夫・権御史中丞と為る。又た漕江・淮の米百万を益すことを請い、河陽・河陰より東下して以て之を賑貸す。錢惟演が献・懿二太后を真宗廟室に祔すべしと倡議す、諷之を弾奏す、及び其の太后の時に権寵甚だ盛んなりしを言い、且つ後族と連姻す、請うて絀去せんとす。仁宗聴かず、諷袖に告身をして以て対して曰く、「陛下臣が言を聴かずんば、臣今山陵に奉使す、而して惟演河南を守る、臣早暮刺客を憂う。願わくは此れを納れ、敢えて復た御史中丞と為らざらん」と。帝已むを得ず之を可とす、諷乃ち趨り出で、遂に惟演を随州に貶す。

陳堯佐が参知政事を罷む、王文吉と云う者有り、堯佐の謀反を告ぐ、仁宗中官を遣わして訊問せしめ、復た諷に属す。夜中に旨を被りて究詰し、旦にして其の誣状を得て之を奏す。時に章懿皇后の諡を上る、宰相張士遜・樞密使楊崇勳日中に慰班に赴かず、諷士遜と崇勳を弾し、俱に罷む。諷嘗て侍対す、帝郭后の子を亡くすに及びて語る。諷言う、子を亡くすは大義当に廃すべしと、陰に帝の旨に合し、龍圖閣直學士・権三司使と為る。時に狄棐直學士と為ること已久し、諷盛気を以て棐を淩ぎ、宰相李迪之を右す、遂に特詔して班を棐の上にせしむ、論者之を非とす。尋ち閣學士に転じ、又た疾を以て三司使を免じ、翰林侍讀學士・管勾祥源観に改む。会霊観に徙め、復た閣學士・給事中・知兗州に改む。

既に郡に至るや、而して龐籍が広南東路転運使と為り、未だ行かず、上言して曰く、「向に侍御史たりし時、嘗て諷を弾奏す、三司使として曲く左蔵監庫吳守則の奏課を為し官を遷す。尚美人の同父弟、守則の女を娶る、諷銀鞍勒を以て守則に遺し相結納す。既に兗州を出で、乃ち貧しきを紿言し、翰林の白金器数千両を仮りて自ら随い、而して産を斉州に増し、官田を市い平估を虧く」と。獄を南京に置きて之を劾す、諷坐す、方に旨を聴きて擅に驛を馳せて兗州に還る、当に贖すべし。籍の奏する所実ならざる有り、当に官を免ぜらるべし。宰相呂夷簡諷の詭激を嫉み、特ち諷を武昌軍節度行軍司馬に貶す、籍を貸し、止だ官を降して臨江軍を治めしむ。是より宰相李迪等坐す、諷に親善するを以て皆斥けらる。

歳中に保信軍に徙め、舒州に居して母の喪を持つを聴し、又た斉州に帰るを許す。日々酒を飲み自ら縦す、時に譏らる。服除け、将作少監・知淮陽軍に改め、光祿卿・知陝州に遷り、道潞州に改む。入りて帝に見え言う、「元昊撃つべからず、独り兵を以て要害を守り、侵掠を捍ぎ、久しうして自ら服すべし。倘し内に百度を修め、躬ら節儉し、祖宗の故事の如くせば、則ち疆事憂うるに足らず」と。復た給事中と為り、卒す。

諷嘗て建議す、朝廷当に能臣を差択し、留めて以て大臣の職に称せざる者に代えんと。大臣聞きて之を悪む。又た数たび参知政事王随を帝の前に短くし、因りて奏す、「外人臣が随を逐い将に其の位を取らんと謂う、願わくは先ず臣を出だし、陛下の為めに奸邪を引き去らしめ、而して朝廷清からん」と。又た嘗て張士遜と議事合わず、諷曰く、「世に大事は未だ易く議すべからず、小事は為すに足らずと謂う、為す所終に何事ぞや」と。及び龐籍に訟えらるるに及び、人謂う、大臣陰に籍を諷すと。

諷は類く曠達なり、然れども捭闔して進を図り、名檢を守らず、与に遊ぶ者輒ち其の為す所を慕い、時に号して「東州逸党」とす。山東の人顏太初『逸党詩』を作りて之を刺し、而して薑潜なる者又た嘗て書を貽して以て其の過を疏く云う。子寬之、終に尚書刑部郎中・知濠州と為る。

劉師道

劉師道、字は損之、一字宗聖、開封東明の人。父澤、右補闕。師道、雍熙二年進士に挙げられ、初め和州防禦推官を命ぜられ、保寧・鎮海二鎮の從事を歴め、凡そ十年。王化基・呂祐之・樂史朝に薦ぐ、著作佐郎に擢げられ、纔か一月、会す考課、又た殿中丞に遷り、出でて彭州を治め、就いて監察御史を加う。転運使劉錫・馬襄其の治跡を上る、召し帰す。会す浦洛の敗、詔を奉じて白守榮輩を劾す、獄成る、太宗其の勤を奨し、面して緋魚を賜う。

川陝の豪民多く旁戸有り、小民を役属する者を佃客と為し、之を使うこと奴隸の如くす、家或いは数十戸、凡そ租調庸斉、悉く佃客之を承く。時に言有り、李順の乱、皆旁戸の鳩集する所なりと、請う旁戸を択みて三耆長と為し迭りて之を主せしめ、疇歳労すれば則ち官を授けんと、詔して師道をして両川に使いて其の事を議せしむ。師道以為う、迭りて使いて主領せしめば則ち爭忿滋く多く、名級を署すれば又た重ねて擾害を増す、廷に奏して便ならずと、卒に之を罷む。祠部員外郎に改め、出でて京東転運使と為る。真宗位を嗣ぎ、秩を進めて度支と為す。咸平初、范正辞其の材長民に堪うるを薦め、潤州を治めしむるに徙む。三年、淮南転運副使兼淮南・江・浙・荊湖発運使に改む。四年、漕事を以て入奏し、特ち司封に遷り、俄にして正使と為り、工部郎中に改め、查道に代わりて三司度支副使と為る。七月、樞密直學士に擢げられ、三班を掌る。俄に権三司使に擢げられ、澶淵に幸すに従い、随駕三司を判じ、都転運使を充つ。

師道の弟幾道、進士に挙げられ礼部名を奏す、将に廷試せんとす、近制悉く名を糊して等を較う、陳堯谘当に考官と為るべく、幾道を教えて巻中に密かに識号を為さしむ。幾道既に第を擢げらる、事泄る、詔して其の籍を落とし、永く挙に預からしめず。師道固より辨理を求め、詔して曹利用・邊肅・閻承翰をして御史府に詣らしめて之を推治せしむ。坐す論奏誣罔、責めて忠武軍行軍司馬と為し、堯谘居る官を免じ、鄆州団練副使と為す。二年、郊祀の恩を以て、起して工部郎中・知復州と為し、秀州に換う。

大中祥符二年、兵部郎中を以て潭州を治め、太常少卿に遷る。師道吏事に敏にして、至る所声有り、吏民畏愛す。長沙湖・嶺の都会に当たり、煩を剖き滞を析し、案留まる事無し。歳満ち、復た樞密直學士を加え、左司郎中に換え、一任を留む。七年、李応機代わり還る。応機未だ郡に至らざるに、六月、師道暴病に卒す、年五十四、幾道を録して試秘書省校書郎と為す。

師道性慷慨気を尚び、善く世務を談じ、人と交わり敦篤なり。詩を工とし、多く楊億輩と酬唱し、当時に之を称す。

王濟

王濟、字は巨川。その先祖は真定の人、祖父の卿は弁舌に優れ、趙王の熔が幕府に召し置いた。熔の政が衰えると、卿は禍を恐れ、深州饒陽に避難し、遂にその県の人となった。父の恕は、後唐の時に童子科に及第し、開寶年間に秀州知州となった。時に盗賊が起こり、城が陥落し、盗賊に殺され、王濟をも害そうとした。濟は柩に伏して慟哭し、賊に言った、「我が父は既に死んだ。私はどうして生きる必要があろうか、ただ恨むのは力が汝を殺し、父の仇を報いることができないことだ」と。賊はその義を感じ、去った。濟は父の骨を携えて山谷の間に匿った。やがて官軍が大挙して集まると、濟は身を脱してその将帥の朱乙に謁し、賊を討つ計略を述べた。乙はこれを賞賛し、束帛を贈り、駅伝を仮に用いて帰還させるよう上奏した。

先に、濟の母は嶽陽で亡くなり、仮に仏寺に葬られていた。この時に至り、遂に二つの喪を併せて護り饒陽に帰った。州の将がこれを聞き、太祖が召し出して見ると、そのまだ若いことを以て、暫く学業に就かせた。雍熙年間に、上書して自ら死事の孤児であることを陳べ、学士院の試験を受け、龍溪主簿に補せられた。時に福建に鶴の羽根を箭羽として輸送するよう徴発した。鶴は常にある物ではなく、役人が督促して急かせたので、一つの羽根が数百銭の値に至り、民は甚だ苦しんだ。濟は民に鵝の羽根を取って代わりに納めさせるよう諭し、駅伝でその事を奏上し、これにより詔して傍らの郡も全て濟の陳べた通りにさせた。県に数百頃の陂塘があったが、郷里の豪族がその利益を独占していた。年に旱魃があった折、濟は全てこれを導き分かち、民田を灌漑した。汀州では銀の採掘を巡って訴訟が起こり、十年決せず、数百人が逮捕拘束されていた。転運使が濟にこれを審理させると、わずか七日で実情を得、数人だけを罪に坐せた。

再び胙城尉に転じ、臨河主簿に移った。転運使の王嗣宗が詔を受けて法官を推挙し、濟の名を聞かせた。光祿寺丞に遷り、権大理丞となり、刑部詳覆官・鎮州通判に改めた。州の長官は多く勲功ある旧臣の武臣で、尊大で下を陵ぐが、濟は一度も屈服しなかった。戍卒が甚だ恣に暴れ法に背き、夜には民家を焼いて盗みを働くことがあった。ある晩、火事の報せがあり、濟は数十人の壮士を率いて密かに偵察に行かせると、果たして数人と盗んだ物を捕え、即座に斬った。駅伝でこの事を奏上すると、太宗は大いに喜んだ。都校の孫進は酒乱で無頼、人の歯を折るほど殴打した。濟は上奏を待たず、脊杖を加えて京に送った。これにより軍城は畏れ粛然とした。そのまま太子中舎に遷り、詔書で褒め労った。登聞鼓院判事に召され、監察御史に拝された。上疏して天下を統べる術、民の物を節する道を陳べ、大なるものは十あった。左右を択び、賢愚を別ち、名器を正し、冗食を去り、俸祿を加え、政教を謹み、良将を選び、兵を分かちて戍らせ、民事を修め、仕進の道を開く。その言は時に切実で、言葉は多く載せられない。

咸平初年、濟は刑罰の網が尚繁雑であるとして、制勅を刪定するよう建議し、張齊賢にその事を統括させ、濟もこれに参与した。『刑統』の旧条には、凶器を持って強盗を行えば、贓物の有無に関わらず、全て死罪に当たるとあった。齊賢は財物を得られなかった者は減刑すべしと議した。濟は言った、「刑は、刑なきことを期するものだ。死をもって恐れさせても尚恐れないのに、ましてその死を緩めることがあろうか」と。これにより齊賢と朝廷で数度争った。濟の言葉の勢いは甚だ激しく、齊賢を腐儒と見なした。しかし結局齊賢の議に従い、人は濟を厳酷と見なした。鹽鐵判官に改めた。

皇帝が大名に巡幸した時、丁夫十五万を徴発して黄河・汴河を修築したが、濟は民を労すると考え、詔して濟に馳せ往きて計画させた。戻って奏上すると、十六七分を省いた。齊賢は当時宰相で、黄河の決壊を憂えていた。対面の機会に、濟も併せて召し出された。齊賢は濟に状を署して黄河が決壊しないことを保証させようと請うた。濟は言った、「黄河の決壊も陰陽の災いである。宰相がもし陰陽を和し、災いを消し、国家のために太平をもたらすならば、黄河が決壊しないことは、私も保証できます」。齊賢は言った、「もしそうなら、今は太平ではないのか」。濟は言った、「北に契丹、西に継遷があり、両河・関右は毎年侵擾を受けている。陛下の神武英略をもって、もし人を得て用いれば、馴致することができるでしょうが、今はまだそうではありません」。上は顔色を動かし、濟だけを留めて辺境の事を問うた。濟は言った、「陛下は二聖の基業を継ぎ、百万の衆を擁しておられるのに、愚かなる醜虜が、敢えてこのように侵陵するのは、国政を謀る人に昔のような者がいないからです。臣が思うに、国家が恃むものは、ただ一つの大河だけです。これは誠に賢者を急ぐ秋です。そうでなければ、臣は敵人が河辺に馬を飲ませることを恐れます」。また『備邊策』十五条を著して献上した。

三年、官を選んで大理寺判事とし、上は言った、「法寺は官職に当たって曲げない者を選ぶべきだ。もしその人でなければ、あるいは冤罪や濫刑があれば、和気を損なう。王濟は近頃数度事を言上し、操持があるようだ。試してみよ」。遂に濟に権判大理寺事を命じた。福津尉の劉瑩が僧舎に集まり、狗を屠って群れ飲みし、一人の伶官を杖打ちして死なせた。濟は大辟の罪に論じ、赦令に遇って流刑に従った。時に王欽若が審刑院を知り、濟と元より仲が悪く、また濟がかつて齊賢に逆らったこともあり、劉瑩は徳音により赦免されるべきと奏上した。齊賢・王欽若は議して、濟を故に入罪した罪に坐せ、官を停めた。一年余りして、再び監察御史・河南府通判となった。

景德初年、河中府知事に移った。契丹が南侵し、上は澶淵に行幸した。詔して河沿いの橋梁を断ち、船を破壊し、遅滞した者は軍法に論ずるとした。濟は言った、「陝西には関防の隔たりがあり、船隊は遠く連なっており、軍の蓄えは数万である。一旦これを沈めるのは惜しい。また民心を動揺させます」。密かに奏上してこの事を止めさせると、上は深く賞賛し、使者を遣わして褒め諭した。間もなく、工部員外郎兼侍御史知雑事に召し拝された。三年、司農寺判事となった。時に周伯星が現れた。濟は機会を捉えて言った、「昔、唐太宗は豊年を上瑞とされました。臣は願わくば陛下が日一日と慎み、安きに居りて危うきを慮われますように。そうすれば天下は幸いです」。詔を受けて劉綜と共に茶法を改定し、旧制をかなり変えた。これにより丁謂・林特・劉承規らに逆らい、王欽若と共に代わる代わる誹謗した。

四年、本曹郎中に拝され、杭州知事として出向した。上は面と向かって慰め諭し、なお朝廷の欠失があれば密かに上言することを許すと戒めた。刑部郎中に遷った。郡城の西に銭塘湖があり、千余頃の田を灌漑していたが、年久しく埋もれ塞がっていた。濟は工人に命じて浚渫修治させ、斗門を増設して、潰溢の患いに備え、なお白居易の旧記を石に刻んで湖の側に置き、民は大いに利益を得た。睦州に狂僧が突然州庁に押し入り、妖言を吐いた。転運使の陳堯佐と共にその実を按問し、斬った。上はその果断を賞賛した。大中祥符三年、洪州知事に移り、江南西路安撫使を兼ねた。年に旱魃があり民が飢えたので、自ら官吏を督して粥を作らせ、日々自ら嘗めて与えた。飢民を録して州兵とし、多くを全活させた。この年に卒した。五十九歳。遺奏の大意は、賢者を進め諂佞を退け、土木の不急の費を罷めることを言上したものであった。

濟は経史に広く渉猟し、『左氏春秋』を好んで読んだ。性質剛直で、畏れ避けるところがなかった。若い時、深州刺史の念金鎖が一度会って器とし、かつ後事を濟に託した。金鎖が没すると、濟はその孤児を撫育し、官禄を得られるよう援けた。元より内臣の裴愈と不和があった。愈が事に坐した時、上は甚だ怒り、憲府に審理させた。濟は丁度知雑事であり、力を尽くして弁明し理を説いたので、遂に軽い処罰を得た。子の孝傑は国子博士である。

論じて言う。渭は清節有り、事に臨んで多く便宜的な条文に従った。鼎は計画を好んだ。師道は世務を論ずることを喜んだ。正辭は貪吏を按問し、冤獄を弁明した。濟の議論は突出し、畏れ避けるところがなかった。五臣は、官は監司・郡守を超えなかったが、名声は甚だ盛んで、尊ぶべきである。

方偕

方偕は、字を齊古といい、興化軍莆田県の人である。二十歳で進士に及第し、温州軍事推官となった。凶年にて、民は軍籍に属して食糧を得ようとしたが、州は勝手に募集することができなかった。そこで方偕は提点刑獄の呂夷簡のもとに赴き、「民は流亡に迫られており、早く募集しなければ、やがて集まって盗賊となるでしょう」と述べた。夷簡はこれに従い、軍籍に編入した者は七千人に及んだ。後に汀州判官に転じ、建安県の知県を権知した。県は茶を産し、毎年社日の前に、数千の民を徴発して山の傍らで騒ぎ立て、陽気を通じさせる習わしがあった。方偕はこれが農事を害すると考え、上奏してこれを廃止させた。

秘書省著作佐郎に遷り、福清県・資陽県の知県を歴任した。累遷して尚書屯田員外郎となり、御史臺推直官となった。澧州の逃亡兵卒が民家に雇われて生計を立てていたが、ある日、その民が摩駝神を祀り、毎年十二人を殺して供えると誣告した。州はその一族三百人を捕らえて獄に繋いだが、長く決着がつかなかった。方偕は詔を受けてこれを取り調べ、兵卒に殺した者の名前を列挙させて調べたところ、いずれも事実無根であったため、事はようやく明らかとなり、兵卒は誣告の罪で死刑に処せられた。知雑事の龐籍が彼を御史裏行に推薦し、再び遷って侍御史となった。南京の鴻慶宮が火災に遭うと、方偕は漢代が原廟を廃した故事を引き合いに出し、再建しないよう請うた。

元昊が塞門を寇した際、鄜延副総管の趙振が逗留して救いに出ず、詔により方偕がこれを取り調べに行き、法に照らせば斬刑に当たった。方偕は上奏して「兵は寡なく敵わず、もし出撃して賊をおびき寄せれば、益はありません」と述べた。趙振はこれにより死を免れた。開封府判官・江南安撫使となる。三司は毎年乳香や綿綺を州郡に下し、民に割り当てていたが、方偕は上奏してこれを廃止させた。さらに塩鉄判官に転じ、兵部員外郎兼御史知雑事に遷り、「罪により監当官に貶された者は、監司が親民官を権知させるべきではない」と上言した。大理寺を判り、度支副使に改められ、天章閣待制・江淮製置発運使・杭州知州に抜擢され、刑部郎中に遷った。

方偕は吏事によって進み、杭州を治めて有能な名声があった。酒を好み、酣宴に至っては節度がなかった。数か月後、突然中風を患い、太常少卿として西京に分司され、光祿卿に遷り、卒した。

曹穎叔

曹穎叔は、字を秀之といい、亳州譙県の人である。初めは熙と名乗っていたが、かつて官府の夢を見て、そこに穎叔の名があったため、名を穎叔と改めた。進士に及第し、威勝軍判官・渭州軍事推官を歴任した。御史中丞の蔡齊が彼を台主簿に推薦し、大理寺丞に改められた。韓億が亳州の知州となった時、僉書節度判官事に辟召され、儀州を通判した。韓琦・文彥博がその才能を推薦し、夔州路転運判官に転じた。夔州・峡州では淫祠が盛んで、人々は病にかかっても医者にかからず専ら神に頼っていたため、穎叔はこれをことごとく禁絶し、代わりに医薬を教えた。陝西路刑獄を提点し、夏人が帰順すると、詔により戸部副使の夏安期・転運使の柳灝と共に、冗員の戍卒と吏員を削減した。開封府判官となった時、御史の宋禧が内侍省で衛士の獄を審理したが、宋禧は真相を究明できず、獄が決すると、内侍が宋禧に自ら文書を作成させた。穎叔は、宋禧が製使として使命を辱めたと上言し、法に照らして処するよう請うた。元昊が死ぬと、夏国祭奠使となった。直史館・鳳翔府知州に除され、益州路転運使に転じ、権度支副使を兼ねた。

儂智高が嶺南を寇した際、朝廷では閩中の兵備が長く弛んでいるとの議論から、彼を天章閣待制・福州知州に抜擢した。累遷して右司郎中となり、陝西都転運使となった。慶暦年間から大鉄銭が鋳造されて陝西で流通していたが、民の盗鋳が止まず、三司は鉄の専売を上議した。穎叔は「鉄銭は軽く物価は高いため、長く流通させることはできません。まして官が自ら鉄を専売するなどということがありましょうか。諸郡での鉄銭鋳造を廃止し、三鉄銭を一銅銭に換算するよう請います」と述べた。朝廷はこれに従った。両川の和買絹を陝西の兵に給していたが、蜀人は煩雑な徴収に苦しんでいた。穎叔は毎年、本路の緡銭五十万を出して軍衣の余りと交換させ、両川の民はようやく煩わされなくなった。龍図閣直学士に進み、永興軍知軍となった。しかし年老いて次第に昏耄となり、政事はかなり滞積し、人から嘲笑されることもあった。官にて卒した。

劉元瑜

劉元瑜は、字を君玉といい、河南の人である。進士に及第し、舞陽県主簿に補され、秘書省著作佐郎・雍丘県知県に改められ、隰州・並州を通判し、郢州知州となった。太常博士として監察御史となり、上言して「考課の法では、朝廷から員外郎・郎中・少卿に至るまで、清望官五人による保任があって初めて昇進できるため、浮薄な輩が日々権門に趨っています。これは廉恥を養う道ではありません」と述べた。詔によりこの法は廃止された。

河北便糴を提挙した。ちょうど永寧の雲翼軍の兵士が変を謀り、吏が厳しく捕らえたところ、その仲間が囚人を奪って反乱を起こそうと謀り、百姓は密かに知って多くが逃避した。元瑜は馳せ至り、首謀者を斬り、残りは皆釈放して問わなかった。京西・河東転運使を歴任し、右司諫に遷った。「集賢校理の陸経が河南に謫官していた時、田を争う寡婦を杖殺し、また民から銭を借りた。監司がその才能を列挙して推薦し、権要に取り入ったため、遂に館職に復した。重ねて法に照らして処し、保薦した者も連座させるべきである」と弾劾上奏した。詔により吏に委ねられ、陸経は袁州に流された。

また「李用和・曹琮・李昭亮は軍を統べるべきでない。梁適は翰林学士に相応しくない。范仲淹は無実の罪で貶されたが、既に天章閣待制に復しているので、左右に置くべきである。尹洙・余靖・欧陽修は皆、朋党として斥逐された。これらは小人が直を悪み正を醜とする者である」と上疏した。やがて余靖らと不和になると、逆に「以前、夏竦を枢密使に除した時、諫臣数人がその旧過を摘み、都門に召して罷免させた。以来、彼らは大臣の進退を己が任務とし、陰私を激しく攻撃することを忠直とし、軽薄な者を推薦して館閣に列ね、唱和して朋比している。近ごろ両府を除したのは聖断によるものだが、独り党人は進用が己から出ていないとして議論を紛然とさせている。臣は彼らが再び上疏して罷められることを恐れる。先日、孫甫が葉清臣を推薦し、丁度を誹毀したのも、この例に倣ったものである」と述べた。ついでに「余靖は知制誥を兼ねて諫職に領ずるのは相応しくなく、かつ契丹に奉使した際、契丹主に対し六ヶ国語を真似て、国命を辱めた。罪を加えるべきである」と論じた。欧陽修・余靖は彼を深く憎み、これにより論者は元瑜を奸邪と見なした。

後に三司塩鉄副使に除され、天章閣待制として潭州知州となった。徭人がたびたび寇したため、元瑜は州人の楊謂を梅山に遣わし、酋長四百余人を説得して出て命を聴かせ、厚く労って民籍に編入し、凡そ千二百戸となった。桂州に転じたが固辞し、鄧州に降格された。潭州在任中に勝手に画工の易元吉を画助教に補した罪で、随州知州に降格された。また保任を失い、信州に改められ、襄州に転じた。富人の子の張銳は幼くして孤弱であり、同里の車氏がその財産を奪おうと謀り、張銳の父が捨てた妾の他姓の子を取って養った。成長すると、自ら訴え出るように仕向け、密かに吏を賄って助けさせ、州は張氏に帰属させるよう判決したため、張銳は敢えて弁明できなかった。同居すること一年余り経つと、車氏はすぐに分居を求めるよう導いた。元瑜はこれを察知し、徹底的に調べて奸状を得たため、車氏を黥面して流刑に処した。人々はその明察に敬服した。河中府を歴任し、左諫議大夫として青州知州となり、卒した。

元瑜は性貪にして、禁物を盗み売るに至り、自ら小人と争って権を握ったため、当時の論者は彼を卑しんだ。

楊告

楊告は、字を道之といい、その先祖は漢州綿竹の人である。父の允恭は、西京左蔵庫使となり、数度職務に当たり功績があった。死後、告に同学究出身を賜り、廬江尉に任じられた。時に張景が吏を鞭打ち死なせ、吏が急ぎ捕らえようとしたので、逃れて告のもとに帰り、告が受け入れないことを恐れたが、告は言った、「君は憂うるなかれ、我は生死を共にしよう」と。景はついに免れた。豊城主簿に改められ、邑に賊が人を殺し、屍を江に投げ入れる事件があり、人は主犯の名を知りながら、恐れて敢えて言わなかったが、告はこれを聞き、自ら往きて賊を捕らえた。賊が怨みを報いようとしているという話があったが、告は動じなかった。果たして夜に乗じて告を刺そうとしたが、告はまた捕らえ、法に照らして処し、境内は粛然とした。

再び南剣州判官に任じられ、南安・六合・銭塘・寧国の県知事を歴任し、大理寺丞・江寧州通判に改められた。盗賊が商人を殺し、舟を穿ち屍を江中に沈めた。誣告された者が鞭打たれて自白し、裁判が整ったが、告はその無実を疑い、数日後、果たして真の盗賊を得た。池州知事に転じ、累進して尚書司封員外郎・開封府推官・開拆司となった。趙元昊の旌節官告使となり、元昊は専ら席を尊大にしていたが、告は座を移して即座に賓位につき、彼に屈しなかった。京西転運副使に任じられた。管轄地域が凶作に遭うと、至る所で公倉を開き、また富家に粟を出させて救済した。民が桑を伐って粟と交換しても売れず、告はその評価を高めて酒と給付するよう命じ、官民で救われた者は多かった。病気のため、権管勾西京留台となった。まもなく、三司憑由・理欠司を判じ、淮南転運使となり、製置発運使に転じ、三司戸部副使に任じられ、さらに度支に移り、河東を安撫し、塩鉄副使に改められた。祠部・度支・司封郎中を歴任し、少府監として再び製置発運使となった。右諫議大夫・鄭州知事に任じられ、江寧府・寿州に転じた。

告は法令に明るく、財利にかなり通じていたが、苛酷を務めず、当時は能吏と称されたが、権貴に事えて進昇を求めることを好んだ。一子があり、学に励み文才があり、数度近臣に推薦され、召されて試験を受け、同進士出身を賜ったが、まもなく卒した。告はこれを悲しみ、間もなく卒した。

趙及

趙及は、字を希之といい、その先祖は幽州良郷の人である。父の的は、契丹に仕えて蔚州霊丘令となり、雍熙年中、王師が北征すると、帰順し、偃師令を授けられ、ここに家を定めた。及は進士に挙げられ、慈州軍事推官となり、広信軍判官に転じ、秘書省著作佐郎・魏県知事に改められ、九隴に転じ、母が老いたため葉県の税務を監し、黄河・御河の催綱を歴任し、青州・大名府を通判し、累進して尚書屯田員外郎となり、推挙されて殿中侍御史・権宗正丞となった。詔により夏守恩の獄を弾劾し、内侍の岑守中が賄賂を用いて法を撓めたが、及はその罪を弾劾して正した。侍御史に昇進し、夏守贇が西辺を経略して還ると、及はその無功を言上し、再び枢府に復すべきでないとした。また上疏して郭承祐の団練使を罷免させた。

まもなく、懐州知事を請い、徐州に転じ、還って三司戸部判官となり、兵部員外郎・京東転運按察使に昇進した。萊州知事の張周物が貪暴であったので、及が弾劾上奏し、周物を嶺外に貶した。兼侍御史知雑事に抜擢され、数度時政を論じ、権判吏部流内銓となった。初め、銓吏が官欠員を隠し、選人と取引していたが、及は欠員が来れば即座に掲示するよう上奏し、吏部が欠員を掲示するのは及から始まった。戸部副使に昇進し、病気のため、刑部郎中・直昭文館・衛州知事に改められ、召されて塩鉄副使となった。また病気のため、汝州知事を請い、一年余りして、再び召されて副使となったが、赴任しなかった。河中府知事に転じ、特拜で天章閣待制・右司郎中となった。明堂の祭祀に際し、右諫議大夫に昇進した。還って大理寺・流内銓を判じた。徐州知事として出向し、病が重く、近職を解くことを請い、州事を返上し、本官のまま南京留司御史台を管勾したが、赴任せずに卒した。

及は温和で謙虚、内行は特に篤く、治績に名声があり、民吏に愛された。

劉湜

劉湜は、字を子正といい、徐州彭城の人である。進士に挙げられ、澶州観察推官となり、再び湖南節度推官に任じられ、秘書省著作佐郎・益都県知事に改められ、陰平に転じた。再び太常博士に昇進し、剣州通判となった。閬州の獄を審理し、死刑囚七人を生かした。王堯臣が陝西を安撫した時、彼を推薦し、耀州知事に抜擢された。富平に人子女を掠奪する盗賊がおり、捕らえられた後、仮死し、隙を見て逃げ去った。捕らえられ、再び仮死し、看守が報告すると、湜はその屍を焼くよう急がせた。監察御史に任じられ、王徳用が随州から詔により還されると、近臣がその反相があると言ったが、湜は庇い擁護した。開封府推官・三司塩鉄判官を歴任し、殿中侍御史に昇進した。上言して、「転運使が郡県を掎摭し、官吏を苛束して、人がその才を騁せるを得ず、宜しく稍々寛大にし、改めない者はこれを糾治すべし」とした。詔により渭州に赴き尹洙が公使銭を私用したことを弾劾し、かなり重法に導き、この故に洙は罪に坐して廃された。還り、尚書礼部員外郎兼侍御史知雑事となり、同判吏部流内銓を兼ね、塩鉄副使に任じられた。論者は湜が宰相の意を探り、深く洙の罪に致したので、優れた抜擢を得たと言った。

翌年、紫宸殿で宴があり、副使は殿東廡に座すべきであったが、湜は即座に座らず、急いで退出した。閣門がこれを奏上し、沂州知事に貶謫され、兗州に転じた。また沂州で囚人の死罪を誤って出した罪に坐し、海州知事に降格された。河東転運使として起用され、戸部員外郎に昇進し、再び塩鉄副使となり河渠事を兼ねた。汴水が絶えた時、河陰に新渠を穿ち、漕運を以前のように通じさせた。江南が飢饉に遭うと、天章閣待制・江寧府知事に抜擢され、蘇州の米五十万斛を運搬し、飢民に貸し与えるよう上奏した。戸部郎中・広州知事に任じられた。儂智高が初めて平定された時、湜は士兵を訓練し、器械を整え、鉄鎖を作って江路を断った。盗賊が山を占拠し、詔で罪を赦して招いたが、降伏しなかった。湜は山に隣接する民が食糧を供給していることを知り、即座に民を移住させて糧道を絶つと、盗賊は困窮して降伏を請い、民は安堵した。二年在任し、母が老いたので内徙を求め、ついに徐州に転じた。湜は喜んで言った、「昔は布衣で計吏に随ったが、今は侍従官三品として再び郷郡を治める、初めの望みを超えた」と。また左司郎中として鄆州知事となり、龍図閣直学士・慶州知事に昇進した。

湜は若い時賤しく、母は営卒に再嫁したが、登第後、袍笏を整えて卒の家に急ぎ母を迎え、里人は見て嘆いた。しかし酒を嗜み、法の執行に寛容さが少なく、密州知事に改められ、病で卒した。

王彬

王彬は、光州固始の人である。祖父の彦英、父の仁偘は、その族人の潮に従って閩に入った。潮が閩の地を有すると、彦英はかなり権勢を用い、潮はその逼迫を憎み、密かに図ろうとした。彦英はこれを察し、家族を連れて海を渡り新羅に奔った。新羅の長はその才能を愛し、用い、父子相継いで国政を執った。

彬は十八歳の時、賓貢として太学に入った。淳化三年、進士及第し、雍丘尉を歴任した。皇城司が密かに人を畿県刺史に派遣し、多くは民を虐げ、県令・佐官は賓主の礼を交わすまでであった。彬が着任すると、捕らえて審問し、受け取った賄賂を得て、法に照らして処し、これにより詔して親事官は都城を出てはならないとした。右班殿直に改められたが、辞して受けなかった。後に秘書省著作佐郎として筠州通判となり、撫州知事を歴任した。撫州の民李甲・饒英は財を恃み郷曲で武断し、県は制することができなかった。甲の従子が県令を罵り、人が甲が乗輿を斥ける言葉を言ったと告げた。彬はこれを取り調べ、その家を捜索して蔵していた兵械を得、また服器に龍鳳の飾りがあるのを得て、甲は大逆罪に坐して棄市に処された。また英がかつて人の妻子を強奪したことを取り調べ、嶺南に配流し、州裏は粛然とした。

荊湖南路刑獄提點に抜擢され、潭州知州に転じ、入朝して三司戸部勾院を判じ、出て京西轉運使となり、河北に転じた。配下の官吏馬崇正が章獻太后の姻戚の家を頼みに豪横で法を守らず、彬はその奸悪と贓物を摘発し、官吏に下した。太后の意に逆らい、京東に転じ、また河東・陝西に転じた。再び三司鹽鐵判官となり、都理欠・憑由司を判じ、累遷して太常少卿に至り、卒した。

仲簡

仲簡、字は畏之、揚州江都の人。貧しさのため、楊億の門下で書を傭い、億は詩賦を教え、進士に挙げられた。鄭州通判・河南府推官を歴任した。秘書省著作佐郎に改め、蕪湖県知県となり、楚州通判に転じ、累遷して尚書都官員外郎となった。侍御史に改め、京東を安撫し、真州知州に遷り、入朝して三司度支判官となった。陝西の糧草を経制し、そのまま兵部員外郎・直史館・陝州知州に遷った。江東轉運使に転じ、侍御史知雜事を除され、三司鹽鐵副使・工部郎中となった。陝西に奉使し、喜怒を多く任せ、馬箠で軍士を撃ち流血させ、仁宗が面と向かって詰問したが、答えることができず、河東轉運使として出された。

一年余りして、再び鹽鐵副使となり、再び兵部に遷り、天章閣待制・廣州知州に抜擢された。儂智高が邕州を犯し、沿江して下り、人が急を告げると、簡はすぐにこれを囚え、なお道に榜示し、敢えて妄言して衆を惑わす者は斬るとし、これにより人は再び賊を避ける計を為さなくなった。智高が至るに及んで、初めて民を城に入れることを命じ、民は道を争い、競って金帛を閽者に贈り、互いに蹂躙されて死者が甚だ多く、入ることができなかった者は皆賊に附した。賊が去った後、その城を守ることができたとして、荊南知州に転じた。後に言事者がこれを論じ、遂に職を落とし、また刑部郎中・筠州知州に降格した。再び兵部郎中となり、洪州に転じ、卒した。

論じて曰く、一芸を抱く士は、奮励して功名を以て自ら効らんと志す、況んやその施設が政事に見える者においてをや。方偕・曹穎叔・楊告・趙及・王彬の流れは皆文吏であり、恩を推し行い利を行い、煩わしさを剗ぎ去り蠹を去り、その治績は古人に下らなかった。劉元瑜・劉湜の輩もまたこの数人に劣らなかったが、しかし元瑜は余靖を譏詆し、湜は尹洙を文致し、公議はこれを与しなかった。仲簡は小才、いわゆる斗筲の器なり、何をか道に足らんや。