彭乘
彭乘、字は利建、益州華陽の人。若くして好学をもって州里に称され、進士に及第した。かつて同年の者と相国寺の閣に登り、皆が郷里を眺め顧みて、官に従う楽しみを語る中、乗ひとり西を望み、悄然として言うには「父母は年老いた。どうして朝夕の孝養を捨てて、一身の栄達を図ることができようか」と。翌日、上奏して侍養を乞い、数日を経て漢陽軍判官に任じられ、かくして請いを許されて帰郷した。久しくして、その文行を推薦する者があり、召されて試験を受け、館閣校勘となったが、固辞して家に還り、後にまた鳳州団練推官に任じられた。
天禧の初め、寇準の推薦により、館閣校勘となり、天平軍節度推官に改めた。『南史』『北史』『隋書』の校正に参与し、秘書省著作佐郎に改め、本省丞・集賢校理に遷った。親に便ならんことを懇願し、普州知州を得た。蜀人が郷里の郡を守るのは乗に始まる。普州の人は学問を知る者が少なく、乗は学校を興し、その子弟を召し生員として教育した。乗の父が卒し、葬った後、甘露が墓の柏に降り、人は孝行の感応と為した。服喪が終わり、荊門軍知軍となり、太常博士に改めた。召し還されて尚書刑部同判となり、出て安州知州となり、転じて京西刑獄提点となり、夔州路転運使に改めた。時に土賊の田忠霸が下渓州の蛮を誘い内寇せんとしたが、乗はちょうど郡を巡按してその境に至り、辺境の官吏を大いに集め、兵を率いて山を下りて賊に備えたので、賊は遁走した。そこで間者を遣わしてこれを離間させると、その党が忠覇を斬り、その家を滅ぼした。召されて起居注を修め、知制誥に抜擢され、累遷して工部郎中となり、翰林に入って学士となり、吏部流内銓・三班院を領し、群牧使となった。病に罹ると、仁宗は太医に診視させ、禁中の珍薬を賜った。卒すと、白金三百両を賜った。御史知雑の何郯が贈官を論請したが、許されず、詔して一子に奉給を与えて喪を終わらしめた。
初め、起居注修撰に中書舎人が欠け、乗がその選中にあった。帝は乗を指して言うには「これは老儒なり。雅に恬退の名あり、これに代える者なし」と。召見した時、諭して言うには「卿は先朝の旧臣なり。久しく外官を補いながら、未だ嘗て自ら言わざりき」と。対えて言うには「臣は孤遠に生まれ、自らその分を量り、安んぞ過分に望みを有さんや」と。帝は大いにこれを嘉した。乗は質朴で重厚、寡言であり、性は純孝で、生業を営むことを好まず、書を万余巻集め、皆自ら校刊し、蜀中に伝わる書は多く乗によるものであった。晚年、歴て詔命の起草を掌ったが、文辞はやや巧みならざりしという。
嵇穎
嵇穎、字は公実、応天宋城の人。父の適は、かつて石首主簿を為した。民に父子が重罪に坐して繋がれた者がおり、府が適にこれを審理させたところ、その父を法に抵し、子は免れた。父が死に、人に仮って言うには「主簿は仁人なり。行く行く賢子を生み、後必ず大いならん」と。明年、穎が生まれた。
天聖年中、進士及第し、蔡州団練判官に授けられた。王曾が青州を知り、天雄軍に転じた時、皆これを辟いて従事とした。後に王曾の推薦により、太子中允に遷り、集賢校理となった。開封府推官・三司度支判官・同修起居注を歴任し、知制誥に抜擢され、累遷して尚書兵部員外郎となった。召されて翰林に入り学士となったが、謝恩に及ばずして卒した。詔して告敕・襲衣・金帯・鞍勒馬をその家に賜った。
穎が進士に挙げられた時、王曾・張知白が相継いで南京留守となり、穎が謹厚篤学なるを見て、その子弟に言うには「汝らが師表とすべき者なり」と。張堯封はかつて穎に学び、その為した文は多く穎の家に留め置かれた。その後、堯封の女が禁中に入り、修媛となり、甚だ寵幸を受け、その弟の化基に命じて穎のもとに詣らせ、その父の原稿を編次し、序を為して献上させようとした。穎は答えず、また献上することもなかった。
梅摯
梅摯、字は公儀、成都新繁の人。進士となり、初め大理評事・藍田上元県知県に起家し、転じて昭州知州となり、蘇州通判となった。二浙が飢饉に遭い、官が種と食糧を貸し与えたが、後に償還を督めること頗る急であった。摯は言うに、借貸は本来恵みを行わんがためであり、却って民を困窮させることになると。詔して輸納の期限を緩めた。
慶暦年中、殿中侍御史に抜擢された。時に災異が数度あり、『洪範』を引き『変戒』を上疏して言うには「『王は歳を省みる』とは、王が群吏を総べることは歳の如く、四時に順わざるがあれば、その職を省みることを謂う。今日食は春に、地震は夏に、雨水は秋にあり。一歳にして三時に変異が及ぶ。これは天意が陛下の職務省察が至らざることを以て、丁寧に戒告するものである。伊水・洛水が暴漲して廬舎を漂わし、海水が台州に入って人民を殺し、浙江は堤防を決壊し、黄河は堤を溢れさせた。これ所謂『水潤下せず』である。陛下は躬ら責めを負い徳を修め、以て上帝の眷佑を回らすべきである。陰が陽に勝たざれば、則ち災異は衰え止み、盛徳は日に起きん」と。
開封府推官に転じ、判官に遷った。僧の常瑩が簡札をもって宮人に達し、輦官の鄭玉が酔って呼び、徼巡の卒を殴打したが、皆釈放して問わなかった。摯は悉く杖罰の上配流すべきことを請うた。度支判官に改め、侍御史に進んだ。石元孫を論じて「行陣において死せず、縲絏につながれて還るは、国の辱なり。斬らざれば以て辺臣を励ますことなし」とし、再奏したが返答がなかった。李用和が宣徽使に除され、同中書門下平章事を加えられた。摯は言うには「国初、杜審瓊もまた帝の舅であったが、官は大将軍に止まった。李継隆は累ねて戦功があり、晚年に始めて使相を拝した。祖宗は名器をこのように慎重にした。今、功なき者に急いで授くべからず」と。戸部員外郎兼侍御史知雑事・権判大理寺を以て言うには「権陝西転運使張堯佐は才なく、宮掖より進み、恐らくは聖徳を累わす」と。また資政殿学士の員数を減ずることを奏し、待制官を召して政を議せしめ、百官の転対を復することを請うた。帝は大臣に謂って「梅摯の言事は体有り」と言い、戸部副使とした。
契丹使を紫宸殿に宴するに当たり、三司副使は殿の東廡下に坐すべきであった。同列に、曲宴の例では殿上に坐し、大宴では殿門外に止まるべきだと言う者があった。そこで直ちに坐らず、劉湜・陳洎と共に急ぎ出て行った。海州知州に降格となり、蘇州に転じ、後に度支副使として召し還された。初め、河北が毎年飢饉に遭い、三司は江・淮の米を漕運して河北に供給することを増やした。後に江・淮が飢饉に遭ったが、有司は尚その数量を責めた。摯はこれを減ずることを奏した。
天章閣待制・陝西都転運使に抜擢された。後に吏部流内銓の判官となり、龍図閣学士・滑州知州に進んだ。州では毎年黄河の備えとして、壮丁を徴発して灘の葦を伐採させていたが、摯は民を疲弊させると考え、州兵を用いて代行するよう上奏した。黄河が大いに増水し、決壊しようとした時、夜間に官属を率いて工役の者を督励し堤防を補修したため、水害は起こらず、詔によりその労を褒賞された。三班院を勾当し、貢挙の同知を務めた。杭州知州を請うと、帝は詩を賜って送別を栄えた。累遷して右諫議大夫となり、江寧府に移り、さらに河中府に移った。死去した。
摯の性質は淳朴で静かであり、作為的な厳しい行いはせず、政績はその人柄のようであった。平素は生業(家業)を問うたことはなく、詩を好み、多くの警句があった。奏議四十余篇がある。
司馬池
司馬池は、字を和中といい、自らは晋の安平献王司馬孚の末裔であると称した。征東大将軍司馬陽が安邑の瀾洄曲に葬られ、後魏が安邑を分割して夏県を設置したため、遂にこの県の人となった。池は幼くして父を亡くし、家財は数十万あったが、全て叔父たちに譲り、自らは勉学に励んだ。当時、議する者が蒲阪・竇津・大陽の路による官塩の輸送が迂遠であると上聞したため、㟏口道を開き、聞喜から山を越えて垣曲に至るようにしたが、皆が便利だと考えた。池は人に言った、「昔の人がなぜ近道を捨てて迂遠な道を選んだのか、必ずや不便な点があったに違いない。」と。衆人はそうは思わなかった。間もなく山水が暴漲し、塩を積んだ車と人牛は全て河に沈んだので、衆人はようやく敬服した。
進士に挙げられ、殿廷での試験を受けようとした時に母の死の報せが届いたが、友人がその手紙を隠した。池は胸騒ぎがして夜も眠れず、「我が母は元来病弱である。家に何か変事はないのか?」と言った。宮城の門まで来て、逡巡して中に入れず、友人に話すと、友人は母の病気とだけ告げたので、遂に号泣して帰郷した。後に及第し、永寧主簿に任じられた。出入りには驢馬に乗った。県令と仲が悪く、池が公事で県令に謁見すると、県令は南向きに踞坐して起立せず、池は県令を引き寄せて西向きに対座させて事を論じ、少しも屈しなかった。建徳・郫県の県尉を歴任した。蜀で兵士が反乱し、蛮が侵入するとの妄説が流れ、富人は争って金銀を埋め山谷に逃げた。県令の閭邱夢松は他事を口実に府へ上り、主簿は病気と称して出仕しなかったので、池が県の事務を代行した。上元節の灯りを掲げる時節であったので、民に遊観を許し、三晩続けたところ、民心はようやく安まった。
鄭州防禦判官・光山県知県に転じた。宮中で営造があり、諸州に竹木を調達するよう詔が下り、州からの命令では三日以内に納入を完了することとされた。池は、土地が大竹を産出せず、蘄州・黄州から買い付けるには三日では届かないと考え、民と改めて期日を約束し、期限を過ぎて納めない者を罰することにした。すると、竹の納入は他の県に先んじた。
盛度が朝廷に推薦し、秘書省著作佐郎・安豊酒税監に改められ、小溪県知県に移った。劉燁が河南府知府となった時、司録参軍事に辟召され、一年余りで留守司通判となった。枢密使曹利用が群牧判官に奏薦したが、辞退して就かず、朝廷が強いて授けた。利用がかつて大臣たちの負う進馬の代価を徴収するよう委任した時、池は言った、「命令が行われないのは、上に立つ者が犯すからです。公ご自身がまだ多く負っておられます。先に納入されなければ、どうして他人を促せましょうか。」利用は驚いて言った、「役人が既に納めたと私を欺いていた。」急いで官に送らせると、数日のうちに負債者たちは皆納入した。利用が貶謫されると、その与党は罪を恐れ、従って彼を誹謗中傷する者が多かったが、池だけは朝廷で公然と言い、利用が冤罪であると称した。朝廷は結局問わなかった。
ちょうど百官が順番に対応するよう詔が下り、池は言った、「唐の制度では、門下省は詔書が出される際、不都合な点があれば封還することができた。今、門下省には封駁の名目はあるが、詔書は一切中書省以下から出ており、過ちを防ぐ方策ではない。」内侍の皇甫継明は章献太后の閣に給事し、兼ねて估馬司を管轄していたが、自ら估馬に余剰の利益があると言い、昇官を乞うた。事は群牧司に下り、調べても余剰の利益はなかった。継明は権勢を振るっており、制置使以下は皆迎合して上奏しようとしたが、池だけは同意しなかった。開封府推官に任じられたが、任命の勅書が閣門に届いた時、継明の与党に阻まれ、耀州知州に左遷された。利州路転運使・鳳翔府知府に抜擢された。
諫院知事に召されたが、上表して懇ろに辞退した。仁宗は宰相に言った、「人は皆進むことを好むのに、池だけは退くことを好む。これもまた得難いことだ。」直史館を加えられ、再び鳳翔府知府となった。疑わしい獄事が上奏されて審議されると、大理寺はすぐに再び下げ戻した。掾属は恐れ慌てて罪を引こうとしたが、池は言った、「長吏たる者は、政事の責任を負うものであり、諸君の過失ではない。」そして独りその罪を引き受け、詔により弾劾されなかった。岐陽鎮巡検が夜、富民の家で酒宴を開き、配下の兵卒が彼を捕らえ、二度と兵卒を監督しないという約束をさせた上で縄を解いた。池は首謀者を捕らえて誅し、巡検もまた罪に坐して免職となった。
累遷して尚書兵部員外郎となり、遂に侍御史知雑事を兼ねた。かつて言った、「陝西での軍事に古参の将軍がいない。劉平は独断専行を好み智謀に乏しい。必ず大事を誤るだろう。」後に劉平は果たして敗北した。戸部度支・塩鉄副使に転じた。任期が満ち、中書省が進名すると、帝は言った、「これはもとより諫官を辞退した者である。」天章閣待制・河中府知府に抜擢され、同州に移り、さらに杭州に移った。
池の性質は質朴で飾り気がなく、駅伝の供応を整えず、煩雑な事務を処理するのは得意ではなく、また呉の風俗を知らなかったため、これが原因で誹謗や嘲笑が朝廷にまで聞こえた。転運使の江鈞・張従革が池の決事が不当なこと十余条及び徳音(恩赦の詔)を滞留させたことを弾劾し、虢州知州に降格された。初め、転運使が池を弾劾した後、役人が官の銀器を盗んだ事件があり、州の獄に繋がれ、自ら江鈞の私的な厨房を管理し、売却した分の過半を支出したと陳述した。また、越州通判が私物を載せて税を免れたが、これは従革の姻戚であり、私的に請託の者があった。ある者は池に報復のためにこれを挙劾できると言ったが、池は「私はそうしない」と言った。人々は彼を長者と称えた。晋州知州に移り、死去した。
子に旦・光がいる。光は別に伝がある。従子に里がいる。
子 旦
旦は、字を伯康という。清廉で正直、機敏で強靱であり、小事でも必ず審しく考え、合わないと判断するまで放さなかった。父の任子により秘書省校書郎となり、鄭県主簿を歴任した。鄭に藺という婦人が他人の田を奪う訴訟を起こし、家に金銭が多く、仲間を買収し役人を買収して、共に奸計を弄し、十年も決着しなかった。旦が案巻を一見すると、真偽がたちどころに明らかになり、役人十数人を罷免し、冤罪の者は正された。また、井元慶という豪族が郷里を欺き、誰も彼をどうすることもできなかったが、旦は捕らえて法に照らし処した。当時旦はまだ若く、上下とも彼を軽んじていたが、これ以来驚いて服した。役人が蝗を捕らえるのに、これに乗じて民を擾乱した。旦は言った、「蝗は民の敵である。自ら捕らえて官に納めるのを許すべきだ。」後にこれは法令として定められた。父母の喪に服し、喪が明けて、饒州永平鑄錢監を監した。祁県知県となった時、天は大旱し、人は食に窮し、群盗が掠奪した。富家の大邸宅では武器で自衛するほどであった。旦は富者を召して禍福を説き明かした。そこで争って粟を出し、価格を下げて売り、なお利益を失わず、飢えた者は救済され、盗賊の患いもまた消えた。
在京百万倉の監官に挙げられたが、当時祁県は太原に属しており、太原に留められたため召されなかった。乾州通判となったが、赴任せず、在京雑物庫の監官に挙げられた。宜興県知県となった。その民は喧嘩や訴訟が多く、旦は毎回の獄事で必ず根源を究め、厳しくこれを制裁し、枷をかけて県門に繋いだため、民は次第に誹謗や罵詈を恥じるようになった。市街を貫く大溪に、賈昌朝が造った長橋があったが、壊れて廃れて久しかった。旦は民に修復を勧め、労せずして完成した。
旦は淡泊にして欲なく、養生は苟くも完うすれば足れりとし、人その貴きを見ず。弟の光と特に終始友愛し、人に間然する言なし。光は洛に居り、旦は夏県に居り、皆園池の勝概あり。光は年に一度往きて旦を省み、旦もまた時折洛に至りて光を視る。凡そ光が平時に天下の事を論じたるは、旦の助けあり。光が門下侍郎に召され、固く辞して拝せざるに及び、旦は大義を引きてこれに語りて曰く、「生平堯舜の道を誦し、その君に致さんことを思う。今時に可にして違うは、進退の正しきに非ず」と。光は翻然として位に就く。是の時、天下は光の終に出でざるを懼れ、これを聞きて皆欣然として旦を称し、「長者の言なり」と曰えり。
英宗即位の際、例により親属を以て入賀し官を得る。時に旦は梁山に在り、諸孫で未だ仕えざる者は皆遣わさず、ただその従兄の子稟を遣わすのみ。旦は人と交わるに信義を以てし、その急を周するを喜ぶ。嘗て罪に坐して官を免ぜられ貧しくして存し難き者あり、月ごとに俸を分かちてこれを済し、その人報ゆる所なく、願わくば女を以て妾とせんとす。旦は驚きてこれを謝し、急ぎ妻の嫁入り道具の中より物を出だしてこれを嫁がしむ。旦は丙午の年に生まれ、文彦博・程公珣・席汝言と同年会を為し、詩を賦し像を絵し、世は盛事と為し、唐の九老に比す。三子あり:良は将作監主簿を試み、富永は承議郎・陝州通判、宏は陳留令。宏の子は朴。
従子 里
里は字を昭遠とす。進士として初官につき、威勝軍判官に授かり、大理寺丞に改む。龐籍が鄜延経略使たりし時、鄜州通判に奏す。州将は武人にして法に従わず、里は平素より之と甚だ歓びを共にすれど、事に臨めば正色して力争い、少しも仮借せず。性廉静質直にして、至る所に恵政あり。官を罷むる毎に、京師に至りても、未だ謁見する所あらざりき。審官の公示に久しく欠員ある時、人の取らざる所の官を、乃ち受け取りて去る。後に乾州を知り、太常少卿に至りて卒す。
旦の孫 朴
朴は字を文季とす。幼くして外祖父范純仁に養育さる。紹聖の党事起こり、父宏上書して弁明し罪を得る。純仁は永州に責められ、病みて失明す。客至れば必ず朴に導かせて見えしむ。時に方に七歳、進み揖し応対すること成人の如く、客皆驚歎す。純仁の遺恩により官を得る。宏死し、徒跣にして柩を負い還る。晋寧軍士曹参軍に調ず。通判は法に従わず、転運使王似は朴にその過ちを窺わしめんとほのめかすも、朴は不可とし、「下吏にして長官を陥れるは、ただ常を乱すのみならず、人は且つ吾が余りを食わざらん、死すとも敢えて教えを奉ぜず」と。似は賢としこれを薦む。
靖康初め、入りて虞部・右司員外郎となる。金人が汴京の郊に至るや、朴をして使いせしむ。二人の首長、朴の家世を問う、詳しく告ぐるに、喜びて曰く、「賢者の後なり」と。礼を加えて遇し、乃ち腹心を吐き、急ぎ講和を求むるを諭す。朴復命すれど、事を任ずる者疑いて決せず。都城陥落し、欽宗朴の言を思い、兵部侍郎と為す。二帝北遷せんとす、又書を遺わして趙氏の存立を請う。金人これを憚り、挟みて北へ去り、且つその妻子ことごとく取り去る。開封儀曹の趙鼎、その長子倬を蜀に匿い、故に免るるを得たり。
建炎に登極し、赦書燕に至る。朴は密かにこれを齎らし徽宗に詣らしむるも、人の告ぐる所となり、金主その忠を憐れみこれを釈す。徽宗崩御し、朴は奉使朱弁と燕に在りて共に喪服の制を議す。弁は先ず請わんと欲すれど、朴曰く、「臣子として君父の喪を聞けば、当にその哀を致すべし、尚何ぞ請わん。設い請うて許されざらば、奈何」と。遂に斬衰を服し、朝夕哭し、金人もまた義として問わず。又朱松年を遣わし間道を行かせ、金人の情実を帰らしめて報ぜしむ。宋は王倫の出使に因り、黄金を持たせて朴に賜う。倫還り、金が朴を行臺左丞と為さんと命ずるも、朴辞して止むと言う、益々これを重んず。後に真定にて卒す。訃報聞こえ、詔してその忠節顕著なりと称し、兵部尚書を贈り、諡して「忠潔」と曰う。
李及
李及は字を幼幾とす。その先祖は范陽の人、後に鄭州に徙る。父は覃、左拾遺。及は進士に挙げられ、再調して昇州観察推官となる。寇準その才を薦め、大理寺丞・興化軍知事に抜擢す。殿中丞を以て曹州通判となる。州民趙諫なる者、素より無頼にして、郡の短長を握り、ほしいままに奸利を為す。及命を受けし時、諫は京師に在り、乃ち及を謁すれど、及これを見ず、慢罵して去り、匿名の書を投じて及を誣い、因りて朝政を毀る。時に上封の者諫の事を発す、命じて転運使と及にその状を察せしむ。及条上す、諫が前後に行いし不道の事、詔して御史これを劾して実を得、都市に斬る。及はここに由りて知名となる。隴州知事に抜擢さる。
初め、提点刑獄を置くに当たり、内より及と陳綱の二人の名を出だし中書に付す。明日、綱をして河北を使わしめ、及をして陝西を使わしめ、特に一官を遷す。還りて三司磨勘司を判じ、出でて鳳翔府を知り、延州に徙り、三司戸部副使を除かれ、淮南転運使となり、累遷して太常少卿・秦州知事となる。議者及びを謹厚なりとし、辺境を守るの才に非ずとす。及秦州に至るや、州の将吏もまた頗るこれを易しとす。時に禁卒が白昼市にて婦人の金釵を攫うことあり、捕え縛りて来る。及方に坐して書を観る、これを召して前に使し、略々詰問を加うるに、その人服罪す。及急ぎ命じてこれを斬り、書を観ること故の如し。ここに於いて将士皆驚き服す。左司郎中・枢密直学士に改め、右諫議大夫を以て召還され、三班院を勾当し、再遷して尚書工部侍郎となり、杭州・鄆州・応天府・河南府の知事を歴任し、召されて御史中丞に拝す。卒す、年七十。特に礼部尚書を贈り、諡して「恭恵」とす。
及は資質清介にして、治むる所簡厳、下吏を慰め薦むるを喜び、人の善を道うを楽しむ。杭州に在りては、その風俗の軽靡なるを悪み、宴遊を事とせず。一日、雪を冒して郊に出づ。衆は当に酒を置き客を召すべしと謂うに、乃ち独り林逋を訪ねて清談し、暮れに至りて帰る。官に居ること数年、嘗て呉中の物を市わず。去らんとするに比し、ただ『白楽天集』を市うのみ。河南に在りては、杜衍が提点刑獄たりし時、間々衍と会すれど、供え具は甚だ疏薄なり。他日、中貴人で権勢ある者至るも、亦品を加えず。衍その清徳を歎ず。張氏を娶る、性嫉妬悍悪なり。及嘗て子を生むも、外舎にて育てしむ。張固より請うて帰りこれを保養せんとす。乃ち親属を会し、子を以て堂柱に撃ち、その首を砕く。及遂に子無く、弟の子を以て後とす。
燕肅
燕肅は字を穆之とす。青州益都の人。父は峻、慷慨任侠、楊光遠の反する時、その配下を率いて符彦卿を迎え、遂に曹州に家す。肅は少くして孤貧、遊学す。進士に挙げられ、鳳翔府観察推官を補す。寇準が知府事たりし時、薦めて秘書省著作佐郎・臨邛県知事に改む。県民嘗て吏の追擾を苦しむ。肅は木を削りて牘と為し、民の訟えて連逮せらるる者あれば、その姓名を書きて自らこれを召さしむ、皆期の如く至る。考城県を知り、河南府通判となる。召されて監察御史と為る。準方に河南を知る、奏してこれを留む。
殿中侍御史に遷り、広南西路刑獄を提點し、侍御史に遷り、広南東路に移る。還朝して、丁謂に憎まれ、越州知州として出される。明州に移る。俗は軽悍にして闘いを好む。蕭は先に殴打した者を独り罪に処することを命じ、これにより闘う者は止む。直昭文館となり、定王府記室参軍となり、尚書刑部を判ず。建言して曰く、「京師では大辟(死刑)は一度覆奏するが、州郡の獄に疑いあるもの及び情状憫れむべきものは上請するも、多くは法司に駁され、かえって不応奏の罪を得る。京師の如く、死刑は覆奏を許すことを願う。」遂に詔して疑獄及び情状憫れむべきものは上請せしめ、語は『刑法志』に在り。その後大辟で上請するもの多く貸(赦免)を得、議は蕭に始まる。
蕭は詩を作るを喜び、その数数千篇に至る。性精巧にして、能く画き、妙品に入る。山水を図り罨布濃淡し、意象微遠なり。特に古木折竹を善くす。嘗て指南車・記里鼓車二つ及び欹器を造りて献じ、又『蓮花漏法』を上る。詔して司天臺に鍾鼓楼下にて考せしむるに、『崇天暦』と合わずと云う。然れども蕭の至る所、皆石に刻みてその法を記し、州郡これを用いて昏曉を候う。世その精密を推す。明州に在りて、『海潮図』を作り、『海潮論』二篇を著す。子:度、孫:瑛。
子 度
度、字は唐卿。進士第に登り、陳留県を知る。京東に蝗害あり、凶年に盗賊起こる。度は邑の豪族に粟六万を出して民を済わすよう勧め、又保伍法を行い盗賊を察す。善状日々聞こゆ。永興軍を通判し、三司使王堯臣に挙げられて戸部判官となる。伐閲浅きを以て、始めて権発遣を命ぜられ、遂に故事となる。
滑州知州として出る。滑州は黎陽と境を対し、河の堤防は下って魏都に臨み、霖潦暴至し、薪芻続かず。度曰く、「魏は実に河朔の根本、成敗を坐視すべからず。」儲えし茭楗を悉く以てこれを禦ぎ、堤防はこれに頼りて潰れず。再び戸部判官となる。皇祐甲午の歳、益州言う、「歳甲午に在り、蜀再び乱る。今又これに値う、民戚戚たり。」乃ち度を命じて出使し不虞に備えしむ。還奏して慮るに足らずとす。権河北転運副使となり、六塔河決す。坐して秩を貶ぜられ蔡州を知り、福州に移る。閩は故より盗賊多し。度は事権を仮し一道を制摂するを請う。遂に兵馬鈐轄を加う。入朝して戸部副使となり、右諫議大夫を以て潭州を知る。卒す。年七十。
度は心計有り。凡そ六たび大農を佐く。慶暦中、三司河北の塩を専売せんと請う。度言う、「川峡は酒を専売せず、河北は塩を禁ぜず。これ祖宗の民俗に順い、易えざるの制なり。専売するは是れに非ず。」会に張方平もまたこれを論ず。議遂に寝す。
孫 瑛
瑛、字は仁叔、蔭を以て瑕丘尉となる。県人は習いて盗賊となる。瑛榜諭して曰く、「今平民或いは盗賊と呼ばれれば、必ず怒り詞色に見ゆ。顧みて乃ち耕稼の本業を捨て、人の肯て為さざる所を為す。及び罪に陷れば、則ち終身郷閭に歯せられず。尉は是れを以て汝を待つに忍びず。」盗賊感悟し、稍々止む。累遷して太府丞・開封少尹となる。歴て広東転運判官となり、副使に進み、秘閣に進むことを加う。時に方に老氏の教を尚ぶ。瑛言う、「守臣の任満考課は、教法を興崇し、道宮を拯葺するを以て善最と為すを乞う。」これに従う。連ねて直龍図閣に進む。
時に瑛は嶺嶠に七年在り、南海の犀珠・香薬を括り、宰相・内侍に奉る。人これを目して「香燕」と為す。遂に徽猷閣待制・提挙醴泉観を以て、戸部侍郎を拝す。徽宗は書「仁人義士之家」を賜いてこれを表す。蓋し王安石がその曾大父蕭を頌する詩の語を取るなり。開封尹に転じ、進士出身を賜い、侍読を兼ね、且つ将に大用せんとす。後に御史の言う、瑛は煩を撥ち奸吏を戢える能わず、賊殺して辜なき者を致すと。坐して龍図閣直学士に罷めらる。数ヶ月を経ずして、戸部尚書となる。
靖康初め、龍図閣学士を以て河陽を知る。金兵寇に入る。三城兵衝に当たる。瑛至るも、未だ備え及ばずして、兵騎大いに集まり、鋭に乗じて城を攻む。瑛禦ぐ能わず、将に出奔せんとす。乱兵に害せらる。年五十。建炎初め、端明殿学士を賜う。
蔣堂
蔣堂、字は希魯、常州宜興の人。進士第に擢でられ、楚州団練推官となる。満歳し、吏部引対す。真宗試みし判を覧て、これを善しとし、特授して大理寺丞・知臨川県とす。県の富人李甲多く不法を為す。前令能く制すこと莫し。堂戒諭するも悛わず、州に白して兵を以てその家を索め、乗輿の物を僭するを得て、死に置く。
歴て眉・許・吉・楚州を通判し、太常博士を以て泗州を知り、召されて監察御史となる。禁中火災有り。有司請うて起こる所を究め、多く宮人を属吏に引く。堂言う、「火災起こるも跡無し。安んぞ天意に非ざるを知らんや。陛下は宜しく徳を修めて変に応ずべし。有司乃ち宮人に帰咎し、これを属吏せんと欲す。何をか求むるも得ざらん。而して遂にこれを死に賜うは、是れ天譴を重くすなり。」詔してこれを原う。郭皇后の廃すべからざるを論奏し、坐して贖す。再遷して侍御史・判三司度支勾院となり、出でて江南東路転運使となり、淮南に移り、江・淮発運事を兼ぬ。
蘇州に移り、入朝して刑部判官となり、戸部勾院に移り、戸部・度支・塩鉄副使を歴任し、梓夔路を安撫し、天章閣待制・江淮制置発運使に抜擢された。先に、発運使が上計の際、大船数十隻を造り、江・湖の物産を載せて京師の権貴に贈り物をしていたが、蒋堂は言った、「私はどうしてそんなことをしようか、毎年の貢納物は駅伝に託して奉ればよい。」前後五年、一度も京師に至らなかった。そのまま河東路都転運使に任じられたが、赴任せず、洪州知州となった。応天府に改められ、累遷して左司郎中・杭州知州となり、枢密直学士として益州知州となった。
慶暦初年、詔して天下に学を建てさせた。漢の文翁の石室が孔子廟の中にあったので、蒋堂はその舎屋を広げて学宮とし、属官を選んで諸生を教えさせ、士人は一斉にこれを称えた。楊日厳が蜀にいた時、有能な名声があったが、蒋堂はもともと彼を好まなかった。そこで遊宴を節制し、厨伝を減らし、専ら寛容放任を尊び、楊日厳の政治をかなり変えた。また銅壺閣を建てたが、その規模は宏大であったのに、材木をあらかじめ準備せず、工事が半分になった時、蜀の先主劉備の恵陵や江瀆祠の大木を伐採し、さらに后土祠や劉禅祠を壊したので、蜀人は次第に不満を抱き、訴訟がますます多くなった。長く経って、官妓を私したという理由で、河中府に移され、さらに杭州・蘇州に移された。尚書礼部侍郎の官で致仕し、死去すると、特に吏部侍郎を追贈された。
蒋堂は人となり清く修め純粋に謹み深く、事に遇えば毅然として屈せず、貧しいながらも施しを楽しんだ。学問を好み、文章に巧みで、後進を引き立て名声を広め、老いるまで倦むことがなく、特に詩を作ることを好み、『呉門集』二十巻があった。
劉夔
劉夔、字は道元、建州崇安の人である。進士に及第し、広徳軍判官に補され、累遷して尚書屯田員外郎となり、侍御史を権任した。李照が大楽の鐘磬の制度を改めた時、劉夔は「楽の根本は、政教と通じるものであり、その器を軽々しく変えるべきではない。博学の士を選んで卿・丞を補い、四方から妄りに説を献じて進用を求める者は、一切これを罷めるよう請う。」と言った。帝はその言葉を良しとした。
三司戸部判官を歴任し、度支勾院を判じ、江西・両浙・淮南転運使となり、直史館を加えられ陝州知州となり、太常少卿に改められ広州知州となった。赴任した所には清廉の名声があった。三司度支副使を権任した。桂陽監の蛮唐和が辺境を寇したので、右諫議大夫・龍図閣直学士として潭州知州となり、湖南安撫使を兼ねた。初めて着任すると、人を遣わして蛮の酋長を諭して降伏させようとしたが、従わないので、兵を挙げて銀江源で唐和を撃破し、さらにその巣窟を破り、蛮は逃げ去って遠くに去った。以前の将帥は帛で蛮の首領の首を買っていたが、この時になって首を持って賞金を受け取ろうとする者がいたので、取り調べると、実は平民を殺したものであったため、これを誅して賞金取り立てをやめさせ、州内は安寧を得た。帰還し、吏部流内銓を権判し、審刑院知事となった。
河北で大水があり、民が流亡して京東で盗賊となったので、詔して京東の守備を増強させた。帝が誰を鄆州の守りとすべきかと問うと、宰相が劉夔を推挙したので、給事中・枢密直学士に進めて派遣した。鄆州に至ると、倉を開いて飢えを救い、民が頼って全活する者が非常に多く、盗賊は衰え止んだので、詔書を賜って褒め諭された。大臣が議して黄河の旧河道を修復しようとしたが、劉夔は極力その不可を言ったので、遂に罷められた。工部侍郎に遷り福州知州となった。官を解いて武夷山に入り道士となることを請うたが、許されなかった。建州知州となり、間もなく老齢を理由に退き、戸部侍郎の官で致仕した。英宗が即位すると、吏部侍郎に遷った。死去、八十三歳。
劉夔はかつて江東を訪れた時、二人の囚人が数年も繋がれているのを見て、尋ねると、「以前に吉州の掾徐咸を殺した事件で、この二人を疑っている。」と言った。劉夔が朝廷に言上したので、釈放され、後になって真犯人が捕まった。かつて隠者に会い、養生の術を得たので、蔬食と独居を始め、一つの閣に退いて隠居し、家族もめったにその顔を見ることがなかった。老いても手足耳目が強健で、若壮の時と同じであった。財産を治めず、私田で収穫した余剰の穀物は、郷里の貧しい人を救済した。死ぬ数日前、自ら遺表を作り、俸禄と賜物の残りを親族に分け与えた。家族に告げて「ある日、私は死ぬ。」と言い、期日通りに死去した。子がなかった。
馬亮
馬亮、字は叔明、廬州合肥の人である。進士に挙げられ、大理評事・蕪湖県知県となり、再遷して殿中丞・常州通判となった。官吏や民で官銭を亡失した縁故で、その財産を没収しても償いきれず、妻子が連座して捕らえられた者が数百人に及んだ。馬亮は彼らを解放し、期限を緩やかに与えたところ、一ヶ月も経たないうちに、負っているものを全て納めた。羅処約が江東に派遣された時、馬亮の治績を聞き、濮州知州に抜擢した。
諸路転運司に糾察刑獄官が置かれると、福建路を馬亮に命じ、冤罪を再審し、全活した者が数十人いた。太常博士に遷り福州知州となった。蘇易簡が馬亮の才能は煩雑な職務に堪えると推薦したので、召還され、三司都勾院・磨勘憑由司の同提点となった。長く経って、饒州知州として出向した。州の豪族白氏はしばしば官吏の欠点を握っており、かつて人を殺したが、赦免されて、ますます傲慢横暴になり、里巷の禍患となっていたので、馬亮はその奸悪を暴き、誅殺したので、管内は畏れ慴した。州に鋳銭監があり、工匠が多いのに銅錫が供給不足であったので、馬亮はその工員の半分を分け、別に池州に監を置くことを請い、毎年緡銭十万を増鋳させた。殿中侍御史に遷った。
真宗が即位すると、上書して言った、「陛下の新政にあたり、軍功の賞は速やかにすべきですが、所在で時を移さずに支給しないので、使者を分遣して監督させるよう請います。また赦書で州県の滞納を免除したのに、役所が督促責め立てをますます急にしていますので、赦に従って恩を推し広め民を寛大に扱うべきです。故事では、親王が開封府尹となり、地位が高く勢力が重いため、猜疑の隙が生じやすいので、その由来を鑑み、親愛を保全する道を示されるよう願います。契丹が毎年のように南侵し、河朔は寂寥としておりますので、和好を修めて辺境の民を休ませてください。」帝はその言葉を良しとし、馬亮を用いるに足るとした。
王均が反乱した時、西川転運副使に任じられた。賊が平定された後、主将が功を求めて、誅殺が止まなかったが、馬亮は千余人を全活させた。城中で米一斗が千銭になったので、馬亮は倉米を出して価格を抑え、人々はこれによって救われた。召されて蜀の事情を問われると、ちょうど賊に誤って連座した者八十九人が械につながれて宮闕に送られてきたので、執政は皆誅殺しようとした。馬亮は言った、「愚民が脅迫されて従ったのであり、これは特に百分の一、二に過ぎず、残りは山林に逃げ隠れている者が多い。今これを赦さなければ、不安を抱く者が、風聞して疑い恐れ、一度呼びかけられれば再び立ち上がり、これは一つの王均を滅ぼしてまた一つの王均を生むことになります。」帝は悟り、皆これを赦した。直史館を加えられ、再び部に派遣されて戻った。
当時諸州の塩井は、年が経って泉が涸れていたが、官は負っている課税を督め、捕らえ繋がれた者が州に数百人いた。馬亮は繋がれた者を全て釈放し、その井戸を廃止するよう上奏し、さらに所属部内の旧来の官物滞納二百余万を免除した。帰還して潭州知州となった。属県に逃亡兵卒が略奪攻撃し、郷里の禍患となっていたので、人々が共謀してこれを殺した。事が発覚し、法に照らせば四人が死罪にあたったが、馬亮は皆これを赦して言った、「民のために害を除いたのに、かえって死罪に処するのは、法の趣旨ではない。」昇州に移り、赴任途中江州に至ると、その年旱魃で民が飢えていたので、湖湘からの漕米数十舟がちょうど到着したので、馬亮は文書を守将に移し、これを発して貧民を救済させた。そこで上奏した、「長江沿いの諸郡は皆大いに凶作ですが、役人がこれを救わないので、官による買い上げを止め、民に粟を転送させて互いに救済させるよう願います。」
右諫議大夫として広州知州となった。当時宜州の陳進が初めて平定されたが、澄海軍で陳進に従って反乱した兵士の家族二百余人は、法に照らせば配流・隷属させるべきであったが、馬亮は全てこれを問わずに置いた。塩戸が課税を滞納し、妻子を富家に質入れしていたのを、全て取り戻してその家に返した。海船が長く来なかったので、招き寄せさせたところ、翌年、来航した船は初めの倍になり、珍貨が大いに集まり、朝廷は中使を遣わして賜宴し、これを労った。この年、東の泰山で封禅が行われたので、馬亮は大食の陀婆離・蒲含沙に敦諭して泰山の下に方物を貢進させた。
虔州・洪州の二州、江陵府を歴任して知事となり、再び尚書工部侍郎に遷り、また昇州の知事となり、杭州に移り、集賢院學士を加えられた。先に、江の濤が大いに溢れ、兵を調発して堤を築いたが工事は未だ成らず、詔を下して江を防ぐ策を問うた。亮は詔を奉じて伍員の祠の下で祈り、明日、潮はそのために退き、横沙を数里出て、堤は遂に成った。入朝して御史中丞となった。建言して言う、「士民が父祖を未だ葬らずして分居する、請う、今より未だ葬らざる者は、みだりに分かつことを得ざらしむ。」と。明年、兵部侍郎に改め、廬州の知事となり、江陵に移り、また江寧府に移った。仁宗の初め、尚書右丞を拝し、また廬州の知事となり、召されて尚書都省を判じ兼ねて審刑院を知り、工部尚書に遷り、亳州の知事となり、また江寧府に遷り、太子少保をもって致仕し、卒し、尚書右僕射を贈られた。
亮は智略あり、政事に敏であったが、然しその至るところに廉潔の称はなかった。呂夷簡が少時、その父蒙亨に従って福州の県令となった時、亮はこれを見て奇とし、女を妻とした。妻の劉は怒って言う、「女を嫁がせるには県令の子とすべきか?」と。亮は言う、「お前の知るところではない。」と。陳執中・梁適が京官となり、田況・宋庠およびその弟の祁が童子であった時、亮は皆厚くこれらを遇し、言う、「これらは後に必ず大いに顕れる。」と。世は亮をもって人を知る者と為した。亮が卒した時、夷簡は相位に在り、有司は諡して「忠肅」と為したが、人は是と為さなかった。
子:仲甫、天章閣待制となる。
陳希亮
陳希亮、字は公弼。その先祖は京兆の人、唐の広明年中、難を避けて眉州青神の東山に遷る。希亮は幼くして孤となり学を好み、年十六、師に従わんとし、その兄はこれを難じ、銭の利息三十余万を治めさせた。希亮は悉く銭を取る者を召し、その券を焼いて去った。業成り、乃ち兄の子庸を召し、学ばしむるを諭し、遂に共に天聖八年の進士第に中り、里人はその閭に表して「三俊」と曰う。
初め大理評事・長沙県知事となる。僧の海印国師あり、章献皇后の家に出入りし、諸貴人と交わり、勢いに恃んで民地を占拠し、人敢えて正視する者なし、希亮は捕らえてこれを法に置き、一県大いに聳動す。郴州の竹場に券を偽って輸戸に送官する者あり、事覚え、輸戸は死に当たる、希亮はその辜ならざるを察し、これを出し、已にして果たしてその偽りを造る者を得たり。再び殿中丞に遷り、鄠県知事に移る。老吏の曹腆は法を侮り、希亮の年少なるを以て、これを易しむ。希亮が視事するや、まずその罪を得たり。腆は頭を叩いて血を出し、自ら新たにせんことを願う、希亮は戒めてこれを捨て、遂に善吏となる。巫覡は歳ごとに民財を斂めて鬼を祭り、これを春斎と謂い、然らざれば火災あり;民は緋衣の三老人が火を行くとの訛言あり。希亮はこれを禁じ、民敢えて犯さず、火もまた作さず。淫祠数百区を毀ち、巫を勒して農と為す者七十余家。罷去するに及び、父老はこれを送って境外に出で、泣いて言う、「公我を去り、緋衣の老人復た出でん。」と。太常博士に遷る。郴州の獄において人の死罪を活かしたとの言あり、五品服を賜う。
初め、蜀人が蜀に官す、州事を通判することを得ず。希亮は母老いたるを以て、資を折って県として親に侍らんことを願い、ここに臨津県知事となる。母終わり、服除け、開封府司録司事となる。福勝塔火災、官は更に造らんとし、用いる銭三万を度る、希亮は言う、「陝西に兵を用う、願わくはこれをもって軍に饋せん。」と。詔してこれを罷む。青州の民趙禹上書し、趙元昊必ず反すと言う、宰相は禹の狂言を以て、建州に徙す、元昊果たして反す。禹はその部を訟う、受けず、亡れて京に至り自ら理す、宰相怒り、開封の獄に下す、希亮は言う禹は賞すべく罪すべからず、争い已まず。上は禹を釈し、徐州推官として賞し、且つ希亮を以て御史とせんと欲す、時に外戚の沈元吉が奸盗をもって人を殺す、希亮一問して実を得、自ら驚き仆して死す、沈氏これを訴う、詔して御史に希亮および諸掾吏を劾せしむ。希亮は言う、「この賊を殺す者は我独りなり。」と。ここに罪を引き坐して廃せらる。
一年、盗賊京西に起こり、守令を殺す、富弼は希亮の用いるべきを薦め、起して房州知事とす。州は素より兵備なく、民は凜凜として亡去せんと欲す、希亮は牢城の卒を山河の戸に雑え、数百人を得、日夜部勒し、声山南に振るい、民はこれに恃んで安んず。殿侍の雷甲が兵百余りをもって盗賊を竹山に逐う、甲はこれを戢えること能わず、至るところ暴を為す。或いは盗賊と疑い、希亮に盗賊境に入り、且つ門に及ぶと告ぐ、希亮は即ち兵を勒し水を阻んでこれを拒ぎ、満を持して発することなきを命じ、士は皆植立して偶人の如し。甲これに射る、動かず、ここに馬を下りて拝し死を請う、言う、「初め公が官軍なるを知らず。」と。吏士は皆甲を斬って徇せんと欲す、希亮は独り暴を為す者十余人を治め、甲をして捕盗をもって自ら贖わしむ。
時に劇賊の党軍子方に張り、転運使は供奉官の崔徳贇をしてこれを捕えしむ。徳贇は既に党軍子を失い、ここに竹山の民を囲み、賊の嘗て舎したる者、向氏と曰う、父子三人を殺し、首を南陽市に梟す。言う、「これ党軍子なり。」と。希亮はその冤なるを察し、徳贇を獄に下す、服せず。党軍子は商州において獲られ、詔して向氏に帛を賜い、その家を復し、徳贇を通州に流す。或いは言う華陰の人張元夏州に走り、元昊の謀臣と為ると。詔してその族百余口を房州に徙し、出入りを幾察し、饑寒にして将に死せんとす。希亮は言う、「元の事の虚実知るべからず、仮に誠にこれ有らば、国を為す者は終に家を顧みず、徒らにその賊と為るを堅くするのみ。これら又皆その疏属、罪なし。」と。ここに密かに以て聞こえ、詔してこれを釈す。老幼は希亮の庭下に哭して言う、「今故郷に還るべし、然れども奈何ぞ父母を去らんや?」と。ここに希亮の像を画いて祠す。
代わりて還り、執政は以て大理少卿とせんと欲す、希亮は言う、「法吏は文を守る、願うところに非ず、願わくは一郡を得て以て自ら効せん。」と。ここに宿州と為す。州は汴を跨いで橋と為し、水と橋と争い、常に舟を壊す。希亮は始めて飛橋を作り、柱なく、以て往来を便にす。詔して縑を賜いてこれを褒め、仍ってその法を下し、畿邑より泗州に至るまで、皆飛橋と為す。
淮南饑饉、安撫・転運使は皆言う寿春守の王正民職に任ぜずと、正民坐して免ぜられ、詔して希亮に伝に乗じてこれを代わらしむ。転運使は里胥の米を調えてその役を蠲し、凡そ十三万石、これを折役米と謂う。米翔貴し、民益々饑う。希亮至り、これを除き、且つその事を表し、旁郡皆除かるるを得たり。又言う正民罪なく、職事は治むと。詔して復た正民を以て鄂州と為す。
久しくして、廬州の知事に転じた。虎翼軍の兵士で壽春に駐屯していた者が、謀反を企てて誅殺され、その他の謀反に加わらなかった数百人が廬州に移されたが、皆自ら疑い不安であった。ある日、ひそかに府舎に入り、害をなそうとする者があった。希亮は笑って言った、「これは必ず酔ったのだろう。」罪を許して流罪とし、残りの者をすべて左右に配して使役させ、また倉庫を守らせた。人は彼のために恐れたが、希亮はますます親しく信頼し、皆その恩徳に感じ、心を指して誓って希亮のために死すべしとした。提点刑獄江東に改め、度支郎中に遷り、河北に転じた。
契丹使の接伴を終えて帰還した折、自ら外補を請うたので、京西轉運使とし、三品の服を賜った。石塘河の役兵が叛き、その首領周元は自ら「周大王」と称し、汝州・洛陽の間を震動させた。希亮はこれを聞くと、即日軽騎で出向いて巡察し、吏は兵を従えるよう請うたが、希亮は許さなかった。その賊二十四人が道で希亮に出会い、希亮が軽装で出たこと、顔色が閑和なのを見て、測りかね、遂に互いに道端に並んで訴えた。希亮はゆるやかに彼らの苦しみを問い、一人の老兵に彼らを押送させ、「これを以て葉縣に付し、我が命を待て」と言った。到着すると、命じて言った、「お前たちは自首したので、皆罪はないが、必ず首謀者がいるはずだ。」衆は隠すことができず、そこで周元を斬って示し、軍校一人を流罪とし、残りはすべて当初のように役務に赴かせた。
京東轉運使に遷った。濰州参軍王康が任地に赴く途中、博平を通りかかると、大悪党で「截道虎」と号する者がおり、王康とその娘を殴りほとんど死に至らしめたが、吏は問うことを敢えなかった。希亮は捕縛を急ぎ移文し、ついに海島に流罪とした。また吏が故意に放置したことを弾劾し、免官に坐した者が数人あった。徐州の太守は暴虐で苛酷であり、些細な過失で数十家の民産を没収し、小盗を捕らえると、必ず自白させて死罪に当てた。希亮がその状況を言上すると、ついに罷免されて去った。
英宗が即位すると、太常少卿に遷った。獄に盗賊がおり、法は死罪に当たったが、僚官が反対を主張した。久しくして、盗賊は守吏を殺して逃げ去った。希亮は以前の議論を朝廷に審議させたところ、希亮の議論が正しく、僚官は恐れ、事を構えて希亮を陥れようとしたが、希亮は自ら顧みてそのような事実はなかった。初め、州郡が酒を贈り物として送る慣例は、皆私的に所有していたが、法は許さなかった。希亮は貧しい遊士に与えたが、後に言った、「これも私的なことだ。」と。家財をもって償った。そこでこのことを借りて上書し自らを弾劾し、去ることを求めやまず、これに坐して西京分司となった。まもなく致仕し、卒去した。享年六十四。希亮はかつて異人が図を指して寿命を告げる夢を見たが、この時まさにその通りとなった。工部侍郎を追贈された。
希亮は人となり清く剛直で寡欲、人に媚びる色を見せず、王公貴人からも、皆厳しく畏れられた。義を見れば勇んで発し、禍福を計らなかった。赴任する所では、奸民や狡猾な吏は心を改め行いを正し、改めない者は必ず誅した。しかし仁恕から出たものであったので、厳しくしても残虐ではなかった。若い時、蜀人の宋輔と交遊し、宋輔が京で卒すると、母は老いており、子の端平は幼かった。希亮はその母を終生養い、娘を端平に娶せ、諸子と共に学ばせ、ついに進士に及第させた。
四人の子があった。忱は度支郎中、恪は滑州推官、恂は大理寺丞、慥は字を季常といい、若い時は酒を振る舞い剣を好み、財を用いること糞土の如く、朱家・郭解の為人を慕い、里巷の侠客は皆彼を宗とした。岐山の下で、かつて二騎を従え二矢を挟んで蘇軾と西山に遊び、鵲が前に飛び立つと、騎に追わせて射させたが、獲られなかった。そこで怒った馬に独りで出て、一発でこれを得た。そこで蘇軾と馬上で用兵及び古今の成敗を論じ、自ら一世の豪士と称した。やや壮年になると、節を折り曲げて読書に励み、これをもって当世に馳騁せんとしたが、ついに遇わなかった。洛陽の園宅は壮麗で公侯に等しく、河北に田があり毎年帛千匹を得たが、晚年には皆棄てて取らず、光州・黄州の間、岐亭に遁世した。庵に住み粗食し、徒歩で山中を往来し、妻子奴婢も皆自得の意があり、世と通じず、人も識る者はなかった。彼の被る帽が方形で高かったのを見て、「これはまさに古の方山冠の遺制ではあるまいか」と言い、そこで彼を「方山子」と呼んだ。蘇軾が黄州に謫された時、岐亭を通り、彼を見知り、人は初めて慥であることを知ったという。
論じて言う。乗雅は恬淡で退き、潁は貴戚に阿らず、儒者の風があった。摯は淳朴で静かでありながら矯わず、池は質朴で率直ながら長厚であり、肅は法を議するに平恕であり、及・堂・夔は清く修めて自ら守り、まさに侍従の選であった。希亮は政を行うに厳しくして残虐でなく、それは良吏であろう。馬亮は才智に富むが廉潔の称が少なく、士論はこれを以て惜しんだ。