孔道輔
孔道輔、字は原魯、初名は延魯、孔子の四十五代孫である。
父の勖は進士に及第し、太平州推官となり、殿中丞として広州を通判した。真宗が東封するに当たり、自ら孔子祠に詣でた。帝が宰相に問うて曰く、「孔氏の中で今名の知れた者は誰か」と。或る者が勖に治績ありと奏したので、即ち召し出して対問し、太常博士・知曲阜県とした。初め、勖が広州に在った時、清廉潔白をもって聞こえ、召し出された時、蕃酋が争って宝貨を持ち献じたが、皆ねぎらって帰した。後に御史臺推直官となり、累遷して秘書監・分司南京となり、祖廟を管勾し、尚書工部侍郎をもって致仕した。後に道輔が卒した時、年八十九であった。
道輔は幼少より端重で、進士に挙げられ、寧州軍事推官となったが、しばしば州将と事を争った。天慶観の真武殿に蛇が現れ、一郡これを神とし、州将は官属を率いて往きてこれを拝み、事を上奏しようとした。道輔はまっすぐに進み出て笏で蛇を撃ち、その頭を砕いた。見る者は初め驚いたが、後には歎服しない者はなかった。大理寺丞に遷り、仙源県知事となり、孔子祠の事を主管した。孔氏には元来放縦な者が多かったが、道輔は一様に法をもってこれを正した。廟の制が低く粗末であると上言し、修復・増築を請うたところ、詔して許可された。再び太常博士に遷った。章献太后が朝政に臨み、左正言に召された。命を受けた日、枢密使曹利用と尚御薬羅崇勳が威柄を窃み弄んでいることを論奏し、早く斥けて去らせ、朝廷を清くすべきであると述べた。立ち向かって刻を称え、太后はその言を認めて退いた。間もなく、直史館・判三司理欠憑由司となった。
契丹に使いとして奉じ、途中で右司諫・龍図閣待制に任ぜられた。契丹が使者を宴する際、俳優が文宣王(孔子)を戯れの題材としたので、道輔は憤然としてまっすぐに出て行った。契丹の主客を司る者が道輔を招き戻して座らせ、かつ謝罪させようとした。道輔は厳しい顔色で言った、「中国と北朝が通好するのは、礼文をもって相接するためである。今、俳優の徒が先聖を侮慢してこれを禁じないのは、北朝の過ちである。道輔が何を謝ろうか」と。契丹の君臣は黙然とし、また大杯を酌んで言った、「ちょうど寒い時節、これを飲めば、和気を致すことができる」と。道輔は言った、「和さなくとも、もとより害はない」。帰還後、言事の者がこれを事を生じさせ、かつ争いの端を開いたとみなした。仁宗がその故を問うと、答えて言った、「契丹は近ごろ黒水に破られ、勢い甚だ窮している。平時、漢の使者が契丹に至ると、しばしば侮られるが、もし較べなければ、ますます中国を侮慢することを恐れる」と。帝はこれを然りとした。吏部流内銓を判じ、在京刑獄を糾察した。事を糾弾して当たらず、鄆州知州として出され、青州に移った。還って流内銓を判じ、尚書兵部員外郎に遷り、再び徐州・許州の二州知州として出され、応天府に移った。
道輔の性質は鯁直で特異に達し、事に遇えば弾劾して避けるところなく、出入りの風采は厳然としており、再び憲職を執ると、権貴はますますこれを忌んだ。初め、道輔はその父と里中で郭贄の旧宅を借りて住んでいたが、帝に言う者があった、「道輔の家は太廟に近く、出入りの伝呼は、神明を尊ぶ所以ではない」と。即ち詔して道輔を他の地に移させた。集賢校理の張宗古が上言した、「漢の内史府は太廟の堧垣の中にあり、国朝以来、廟垣の下には官私の第宅がある。避ける必要はないというべきである」と。帝は宗古を萊州通判として出した。道輔は歎いて言った、「邪な人の言葉が入ったのだ」。
子 宗翰
宗翰、字は周翰。進士に登第し、仙源県知事となり、治め方に条理があり、族人に遇うには恩をもってし、私事を以て法を曲げることはなかった。王珪・司馬光が皆上章して推薦を論じ、陵州通判から夔峡転運判官となり、京東刑獄を提点し、虔州知事となった。城は章水・貢水の両江に臨み、毎年水に齧られた。宗翰は石を伐って基礎とし、鉄を熔かしてこれを固め、これによって屹然とし、詔書をもって褒め称えられた。陝州・揚州・洪州・兗州を歴任し、皆治績をもって聞こえた。哲宗が初めて立ち言を求めた時、吏民の上書は数千に及び、詔して司馬光に採閲させてその用いるべき者十五人とし、特にそのうち二人を称賛したが、それは宗翰と王鞏であった。
元祐初め、司農少卿に召され、鴻臚卿に遷った。上言して曰く、「孔子の後裔は、漢以来、褒成・奉聖・宗聖の号があり、皆実封または縑帛を賜り、以て先祀を奉じてきた。国朝に至っては、益々礼を崇くしている。真宗が東封し臨幸し、子孫に世襲の公爵を賜ったが、他官を兼領し、故郡に在らず、名において正しからざるものがある。今より襲封の人をして、終身郷里に在らしめるべきである」と。詔して衍聖公を奉聖公に改め、他職を領せず、廟学に田一万亩を与え、国子監の書を賜り、学官を立ててその子弟を教えしめた。刑部侍郎に進み、病に罹り去ることを求め、宝文閣待制・知徐州となったが、拝命せずして卒した。
鞠詠
鞠詠、字は詠之、開封の人。父の励は、尚書膳部員外郎・広南転運使であった。詠は十歳で孤となり、学を好み自立した。進士に挙げられ、秘書省校書郎を試みられ、錢塘県知事となり、著作郎に改められ、山陰県知事となった。
仁宗が即位すると、太常博士として召されて監察御史となった。錢惟演が亳州より朝廷に来て、宰相に入らんと図った。詠は言う、「惟演は邪険にして、かつて丁謂と婚姻を結び、これにより大用された。後に謂の奸状の萌しを知り、禍に連なるを懼れて、ここにおいて力を尽くして謂を攻めた。今もし遂に宰相とならば、必ずや天下の望みを大いに失わん」と。太后は内侍を遣わして奏文を持たせて之を示すと、惟演はなお顧望して行かず。詠は諫官劉隨に語って曰く、「もし惟演を相とせば、白麻を取って廷上で毀たん」と。惟演これを聞き、乃ち急ぎ去った。
大安殿の柱に芝草が生じ、群臣を召して就いて観させた。詠は言う、「陛下新たに即位し、黄河の決壊未だ塞がれず、霖雨禾稼を害す。災変に応ずる所以を思うべし。臣願わくは陛下、忠良を援進し、邪佞を退斥するを国宝と為し、兵農を訓勧し、倉廩を豊積するを天瑞と為さんことを。草木の怪、何ぞ尚ぶに足らんや」と。
時に王欽若が再び宰相となり、詠は欽若の阿諛倚附を嫉み、しばしばその短を睥睨したので、欽若は心に之を忌んだ。会に詠が左巡使を兼ね、率府率崇俊が入朝して儀を失うと、詠は崇俊は少時に辺に在り、今老いたり、此れ罪に足らずと奏した。欽若は詠が朝廷の儀を廃すと奏し、通判信州に出された。又た陳絳の獄を鞫するに実を失うに坐し、邵州に徙された。欽若が卒すると、御史中丞王臻が奏して詠を殿中侍御史に還し、三司塩鉄判官とした。曹利用が貶死すると、利用が嘗て薦擢した者は多く兵を領して辺を守り、朝廷之を罷去せんとしたが、詠は一切治むること毋からんことを請うた。
天聖六年夏、大星昼に隕ち、声雷の如し。詠は五事を条上した。因って言う、「太子少保致仕の晁迥は、老いても器識有り、宜しく訪対を蒙るべし、其れ必ず補有らん」と。又た言う、「三司使胡則は、丁謂の党なり、性貪巧にして、利権に任ずべからず」と。河北・京師旱饑す。奏して太倉米十万石を出して饑民を振うことを請う。江・淮制置使鍾離瑾が奏計に因り、多く東南の物を致して権貴に賂る。詠は御史台に劾状を請う。帝は面諭して瑾に亟に所属に還らしむ。尚書礼部員外郎兼侍御史知雑事・権同判吏部流内銓を以て、三司塩鉄副使となる。
八年、特ちに天章閣待制を置き、詠及び范諷を以て之と為す。登聞検院を判ず。定国軍節度使張士遜が入覲し、再び用いられんことを冀う。詠奏して曰く、「曹利用は威福を擅にし、士遜之と共事し、相親厚にして、援薦して以て相位に至る。陛下は東宮僚属を以て之を用う。臣願わくは旧恩を割き、公義を伸べ、之をして藩に赴かしめん」と。士遜乃ち鎮に赴く。明年詠卒す。嘗て『道釈雑言』数十篇を著し、別に浄室を構えて居り、自ら「深寧子」と号す。
劉隨
劉隨、字は仲豫、開封考城の人。進士に及第し、永康軍判官となる。軍に城堞無く、毎に巨木を伐って柵と為し、壊るれば輒ち他木を以て之に易え、頗る民力を用う。隨は因って令し、環らに楊柳数十万株を植え、相連属せしめて以て限界と為し、民遂に擾されざるを得たり。属県の令は賕を受けて獄を鬻ぐ。転運使李士衡は令を隨に託すも、従わず。士衡憤怒し、乃ち隨が苛刻にして、従政に堪えずと奏し、罷めて帰し、調を得ず。初め、西南夷は馬を市して官に入るるに、吏の誅索を苦しむ。隨之が為に按ず。既に罷むると、夷人数百、転運使に訴えて曰く、「吾が父は何くにか在る」と。事聞こえ、乃ち調を得たり。
後に大理寺丞に改め、詳断官となる。李溥は贓に敗れ、事権貴に連なる。有司は旨に希い窮治せず。隨は再び之を劾するを請い、遂に溥を罪に抵す。晁迥が益州通判に薦む。呂夷簡が川峡を安撫し、又た其の材を言う。太常博士を以て右正言に改む。数月、嘗て開封府発解巡捕官たりしに坐し、挙人を察せず、私に策辞を相授けたるにより、監済州税に降じ、稍々晋州通判に徙す。
朝に還り、右司諫に遷り、三司戸部判官となる。隨は諫職に在りて数事を言う。嘗て言う、「今の切なる所は、諫を納るるに在り、其の余は常を守り安靖なるのみ」と。又た奏す、「頻年水旱、咎は執事大臣の忿争和せざるに在り。王欽若等の争う所を察し、曲直を弁ぜんことを請う」と。又た星変に因りて言う、「国家本支蕃衍すれども、定王の外、封策未だ行はれず。賢を択び、唐の故事を用い、嗣王・郡王の封を増広し、以て祖宗の意を慰めんことを望む」と。時に詔を蜀中に下し、優人を選び教坊に補す。隨は賤工は詔書を辱しむるに足らずと為す。又た江・淮発運使鍾離瑾が奇花怪石数十艘を載せ、禁中に納め権貴に賂るを劾奏す。累疏して丁謂の姦邪を論じ、内地に還すべからずとす。胡則は謂の党、既に罪を以て陳州に出されしに、職を復すべからず。王欽若既に死し、詔して其の像を茅山に塑し、仙官に列す。隨言う、「欽若は贓汙憚る所無く、其の行を考うれば、豈に神仙ならんや。其の妄を察すべし」と。又た言う、「李維は詞臣を以て武職に換えんことを求む、是れ廉節を励ます所以に非ず」と。前後論ずる所甚だ衆し。
帝既に益々天下の事に習熟すれども、太后未だ政を帰さず。隨は軍国の常務は専ら帝の旨に稟るべく、又た太后数たび外家に幸すべからざるを諫む。太后悦ばず。会に隨が外を請う、知済州に出され、起居郎に改む。久しくして、尚書刑部員外郎に遷り、入りて兼侍御史知雑事となる。上言す、「比年庶官僥倖請託し、或いは対見の際、涕泗して恩を祈り、或いは績效甚だ微にして、衒鬻して賞を要す。亦た藩翰の臣有りて、位尊く職重きも、表章遜らず、請求厭くこと無し。按察の司は、燕安顧望し、奸を容るるを大體と為し、職を挙ぐるを近名と為し、巧詐を賢と為し、恬退を拙と為す。以て貪残の者は貨財に瀆り、老疾の者は止足を知らざるに至る。申儆の法を行わんことを請う」と。朝廷為に詔を下し中外を戒む。
未だ幾ばくもあらず、権同判吏部流内銓と為り、長定格に従事し、吏奸を為すを得ず。三司塩鉄副使に改む。契丹に使いしに、足の痺れる病を以て、拝すること能わずと辞す。還りて、有司に劾奏せられ、一官を奪われ、知信州に出され、宜州に徙し、再び工部郎中・知応天府に遷る。召されて戸部副使と為り、天章閣待制に改む。旬日ならずして卒す。
隨は孔道輔・曹修古と同時に言事官と為り、皆清直を以て聞こゆ。隨は事に臨み明鋭敢行、蜀に在りて、人「水晶燈籠」と号す。初め、契丹に使いして還り、会に貶せられ、官其の得たる馬十五乗を収む。既に卒すと、帝其の家貧なるを憐み、銭六十万を賜う。
曹修古
曹修古、字は述之、建州建安の人。進士より起家し、累遷して秘書丞・同判饒州となる。宋綬其の材を薦め、召し還され、太常博士を以て監察御史となる。四事を上る。曰く法令を行い、故事を審にし、材力を惜しみ、忠邪を弁ずと。辞甚だ切至なり。又た奏す、「唐の貞観中、嘗て詔を下して致仕官の班を本品見任の上にせしめ、其の恥を知りて勇退せんことを欲せり。比年に年八十余りなる有りて、尚ほ班行に任ず。心力既に衰え、官事何の補かあらん。請う有司に下し、文武官年七十に及びし者は、上書自ら言わしめ、特ちに官を遷し致仕せしめ、仍って貞観の旧制に従い、即ち宿徳勲賢は、自ら故事の如くせしめん」と。因って令と為す。
修古は嘗て三院の御史十二人と共に朝に参じ、将に朝堂に至らんとする時、黄門二人が行馬を避けず、呵す者がこれを止めると、却って罵られるに至った。修古は奏上して言う、「前史に称するに、御史台が尊ければ、則ち天子尊しと。故事に、三院同行は知雑事と同じくす。今黄門の侮慢此の如きは、請う所司に付して劾治せしめん」と。帝は聞き、直ちに命じてこれを笞かしめた。晏殊が笏を以て人を撃ち歯を折る。修古は奏上して言う、「殊は身として輔弼を任じ、百僚の法とすべきに、而して忿躁にして大臣の体を失う。古より、三公は吏を按ぜず、先朝に陳恕が中書に於いて人を榜るや、即時に罷黜せり。請う典刑を正し、以て公議に允ならしめん」と。
司天監主簿苗舜臣等が嘗て言う、土宿参宿に留まり、太白昼に見ゆと。詔して日官に同考定せしむ。奏上するに及んで、以て謂う、土宿参宿に留まるは、順にして相犯さず、太白昼に見ゆるは、日未だ午を過ぎずと。舜臣等は妄りに災変を言うに坐して罰せらる。修古は奏言して曰く、「日官の定むる所は、旨に希い上を悦ばしむるのみ、未だ信ずるに足らず。今舜臣等を罰するは、其事甚だ小なり、然れども恐らくは人人此より畏避し、佞媚して容を取らんとし、災を以て福と為し、天変を告げず、損なう所至って大なるを」と。禁中に翡翠の羽を以て服玩と為す。詔して南越に市わしむ。修古は以て謂う、物命を重ねて傷つけ、且つ真宗の時に嘗て狨毛を采るを禁ぜしめ、故事遠からずと。命じてこれを罷む。時に頗る塔廟を崇建し、金閣を営せんと議し、費算すべからず。修古は極めて其の不可を陳ぶ。
久しくして、出でて歙州を知り、南剣州に徙り、復た開封府判官と為る。殿中侍御史を歴て、尚書刑部員外郎・知雑司事・権同判吏部流内銓に擢でらる。月を踰えず、会に太后の兄の子劉従徳死す。其の姻戚を録して厮役に至るまで幾八十人、龍図閣直学士馬季良・集賢校理銭曖、皆遺奏に縁りて官秩を超授せらる。修古は楊偕・郭勧・段少連と交章して論列す。太后怒り、其の章を中書に下す。大臣請う、修古を黜して衢州を知らしめ、余は次第に貶せんと。太后は以て責軽しと為し、命じて皆一官を削り、修古を以て工部員外郎・同判杭州と為す。行かず、改めて興化軍を知る。会に赦ありて官を復す。卒す。
修古は朝に立ちて、慷慨として風節あり。当に太后の朝に臨み、権幸事を用うる時、人人顧望して畏忌す。而して修古は事に遇うて輒ち言い、回撓する所無し。既に没し、人多く之を惜しむ。家貧しく、帰葬すること能わず、賓佐賻銭五十万。季女泣きて其の母に白して曰く、「奈何ぞ是を以て吾が先人を累わすや」と。卒に拒みて納れず。太后崩じ、帝は修古の忠を思い、特に右諫議大夫を贈り、其の家に銭二十万を賜い、其の婿劉勲を録して試将作監主簿と為す。修古に子無く、兄の子覲を以て後と為す。
覲は封州を知り、儂智高の乱に、之に死す。『忠義伝』に見ゆ。弟修睦は、性廉介にして自立し、修古と同時に進士に挙げられ、郷里に声あり。累官して尚書都官員外郎・邵武軍知軍。御史中丞杜衍、薦めて以て侍御史と為さんとす。歳余り、司封員外郎に改め、出でて寿州を知り、泉州に徙る。挙を失うに坐し、一官を奪われて罷め去る。後に吉州を知らしめられしも、行かず、上書して老を請う。聴かず、南京に分司し、未だ幾ばくもせずして致仕す。年五十一。章得象其の高を表し、詔して奪いし官を還し、卒す。
曹氏は修古より直諒を以て聞こえ、其の女子も亦た利に累わされず、覲に至りては、又た能く其の官に死し、而して修睦も亦た仕進に恬として、老を待たずして帰る。世は是を以て之を賢とす。
郭勧
郭勧、字は仲褒、鄆州須城の人。進士に挙げられ、寧化軍判官を授かり、累遷して太常博士・密州通判。特遷して尚書屯田員外郎・梓州路転運判官。母老を以て固く辞し、復た博士・萊州通判と為る。州民霍亮、仇人のために罪を誣えられて死せんとす。吏賄を受け傅致す。勧之が為に弁理して免る。擢でられて殿中侍御史。
時に宋綬は出でて応天府を知り、杜衍は荊南に在り。勧言う、綬は辞学あり、衍は清直なり、外に処すべからずと。又言う、武勝軍節度使銭惟演は陳州に赴くことを遷延し、相位を覬望す。弟惟済は観察使・定州総管に任じ、自ら就きて留後に遷らんことを請う。胡則は罪を以て三司使を罷めらるるも、乃ち工部侍郎・集賢院学士に遷る。請う惟演を趣して上道せしめ、惟済の兵権を罷め、則の除命を追わんと。又た劉従徳遺奏の恩濫を論じ、太常博士・濰州税監に貶せらる。
祠部員外郎・萊州知州に改む。月余り、復た侍御史・判三司塩鉄勾院と為る。郭皇后廃せられ、議して陳氏を選納せんとす。勧進みて諫めて曰く、「家を正すは以て天下を正す、后妃より始まる。郭氏は大故有ること非ざれば、当に廃すべからず。陳氏は世閥に非ざれば、以て宸極に儷すべからず」と。疏入るも、后は既に廃せられ、而して陳氏の議遂に寝す。
兵部員外郎兼起居舎人・同知諫院に遷る。馬季良自ら貶所より致仕を求む。朝廷之に従う。勧言う、「致仕は以て賢者を待つ、豈に罪を負い貶黜の人の得る所ならんや。請う敕誥を追還せん」と。又言う、「発運使劉承徳、輪扇浴器を献ず。大率以て上を媚ぶるなり。請う外に付して毀ち、以て邪佞を戒めん」と。
趙元昊父の位を襲ぐ。勧を以て官告使と為す。遺す所百万、悉く拒みて受けず。還りて、兼侍御史知雑事・権判流内銓、工部郎中・度支副使に遷り、天章閣待制・延州知州を拝す。元昊の将山遇其の族を率いて来帰し、且つ元昊将に反せんとすと言う。勧は兵馬鈐轄李渭と議し、徳明貢を納れて四十年、内附する者未だ嘗て留めず、乃ち奏してこれを却く。是の冬、元昊果たして反し、其の使を遣わして偽官を称して来る。勧其の表函を見るに猶臣を称す。因りて上奏して曰く、「元昊は雖も中国の名号を僭すと雖も、然れども尚ほ臣を称す。漸く礼を以て之を屈すべし。願わくは大臣と熟議せん」と。遂に職を落として斉州知州と為り、淄州に改め、数月、磁州に移す。元昊益々辺を侵し、関陥擾攘す。言者猶勧の山遇の事を絶つこと当たらずと指し、又た兵部員外郎に降す。母憂に丁し、起復して鳳翔府知府、尋いて復た待制。
衛士に相悪む者有り、陰に刃を衣篋中に置き、勾当皇城司楊景宗に従って禁門に入る。既にして閽者の得る所と為る。景宗輒ち隠して以て聞かさず。勧請う先ず景宗の罪を治めんとす。章再上すも聴かず、又た廷に累日争い、卒に景宗を貶す。明堂を祀り、将に中外の官に恩を加えんとす。勧は斎次に就き、群御史を帥いて対を求む。許さず、又た極めて之を論ず。是の年、復た侍読学士・同知通進銀台司と為る。
子の源明は、治平年間に太常博士となった。時に御史知雑事の呂誨らが中書の濮安懿王追崇典礼の議が誤りであると弾劾して罷免され、源明が監察御史裏行に補された。源明は任命を免除され、呂誨らを追い戻すよう請い、これに従って免じられた。後に職方員外郎として単州知州となり、卒した。
段少連
段少連、字は希逸、開封の人である。その母はかつて鳳凰が庭に集まる夢を見、目覚めて少連を生んだ。成長すると、姿形美しく、倜儻として識見と度量があった。服勤詞学科に挙げられ、試秘書省校書郎・崇陽県知事となった。崇陽は繁劇な県で、張詠が県令として治績を上げて以来、その後は少連のみがその風跡を継ぐことができた。権杭州観察判官を務めた。『道経』の校訂に預かり、秘書省著作佐郎に改められ、蒙城・名山・金華の三県知事を歴任し、本省の丞をもって審刑院詳議官となった。張士遜が江寧を守る時、通判府事に辟召され、還って御史台推直官となり、太常博士に遷った。劉従德の遺奏による恩典が濫りであると論じ、秘書丞・監漣水軍酒税に降格された。再び博士となり、天雄軍通判を務めた。
太后が崩御すると、召されて殿中侍御史となり、孔道輔らと共に閤に伏して郭皇后を廃すべきでないと上言し、少連は贖銅に処された。さらに上疏して言った、「陛下が親政されて以来、直臣を進用し、言路を開き、天下は皆歓欣している。一度、諫官・御史が閤に伏して諫言したことで、急に黜責を行えば、中外皆が陛下の本意ではないと思うであろう。これは執政大臣が、天威を借りて道輔・仲淹を追い出し、後続の者の言論を断とうとしているのである。戒諭を拝見するに、『今後上奏するには、故事の如く密に上るべく、群をなして殿門に詣でて請対してはならない』とある。そもそも閤に伏して上疏することは、故事ではなかったか。今これを急に絶つならば、国家に再び大事があれば、誰が敢えて共に進んで言う者があろうか。昔、唐の陽城・王仲舒が閤に伏して陸贄を雪冤し、崔元亮が殿陛を叩いて宋申錫を弁護したことは、前史が美事としている。今、陛下は皇后を廃黜するに忍びず、両府が状を列ねて妃に降格することを議しているが、諫官・御史はどうして黙していられようか。陛下は深く考えられるが、道輔らの言うことは阿党か、忠亮か」。疏が入っても返答はなかった。
さらに上疏して言った、
「高明で純粋清らかであり、徳を凝らして累わさないのは、天の道である。気が蔽い翳らせ、明暗が偶々に差し違うのは、陰陽の災いである。天徳に象るのは、君主の本体である。陰陽を治めるのは、臣下の職務である。陛下は一徳を秉り、万方に臨み、生きとし生けるものは、皆その徳沢に浸潤している。しかるに気が蔽い翳らせ、明暗が偶々に差し違って聖徳を累わすのは、大臣が禄を懐いて諫めず、小臣が罪を畏れて言わないからである。臣は独り何者ぞ、敢えて狂瞽を貢す。窃かに痛むのは、陛下が仁聖の美を具えながら、骨鯁の良輔に乏しく、これにより不忍の忿りを成し、また遠からざる復(反省)を稽えていることである。臣はここに肝胆を瀝し、情愫を披き、陛下のために気が蔽い翳らせる累を廓清しようとする。
『易』に曰く、『夫夫婦婦にして家道正し、家正しければ天下定まる』と。『詩』に云う、『寡妻に刑し、以て家邦に御す』と。もしそうならば、天下を君たる者が化の本を修めるには、内より外を正すことから始まる。ましてや入道降妃の議が臣下から出たと聞く。そもそも后妃に罪があれば、黜出して宗廟に告げ、廃すれば庶人とする。どうして天下に示さず、祖宗に告げず、ひそかに臣下の議を行うことがあろうか。かつ皇后が小過をもって妃に降格されるならば、臣下の婦に小過ある者も、また妾に降格すべきであろう。先に抗章して請対したが、召しを賜わらなかった。これは奸邪の臣が陛下を離間しているのではあるまいか。臣らが中書に赴いた時、執政の臣は、皇后に妒忌の行いがあったので、初めは入道を議し、終には妃に降格すると言った。また上封する者がおり、皇后が聖躬に不利であることを慮り、高い垣を築き、別館に置いたとも云う。臣らは中外の議論を詳しく述べ、未だ可ならざることを言った。速やかに明詔を降し、中宮の位号を復して民心を安んじられたい。翌日詔が出たが、『中宮に過ちあり、掖庭に具に知る。特に涵容を示し、未だ急に黜せず、別館に置き、自ら省修せしめ、供給の間は一切旧の如し』とある。臣は審らかにせず、黜して別館に置くのは、后とするか妃とするか。詔書に言わなければ、何を取って信じようか。況や皇后は陛下に事えて十余年、輔臣が倉卒に降黜の議を以て宸聴を惑わし、搢紳は黙して従い、敢えて陛下に言う者がない。臣が言う気が蔽い翳らせて聖徳を累わすとは、臣の職務に欠けるところがあるからである。
臣は窃かに恐れる、奸邪の人が漢の武帝が陳皇后を幽閉した故事を引き、諂って陛下を惑わすことを。そもそも漢の武帝は驕奢淫縱の主であり、固よりその行いを踵ぐに足りない。人臣たる者は、君を堯・舜の如くに致そうと考えるべきで、どうして君を漢の武帝の如くに致そうとするのか。今、皇后を別館に置けば、必ず恐懼して修省するであろう。陛下の仁恕の徳は天下に施されているのに、独り中宮に加えないのは何故か。願わくは詔して中宮の位号を復し、非間を杜絶し、初めの如く待遇されたい。天地正しく、陰陽和し、人神共に歓び、美ならずや。陛下もし邪臣に蔽われ、省察を加えられなければ、臣は恐れる、高宗の王后の枉(冤罪)が必ず他日に現れ、宮闈不正の乱が将来に測り知れぬことを。惟に聖神、慮られんことを」。
未だ幾ばくもせず、開封府判官に除され、尚書刑部員外郎・直集賢院に改められ、三司度支判官となり、出て両浙転運副使となった。旧来、使者が郡県に至ると、簿書を求め、暇を尽くして閲せず、往々にして吏胥に委ね、吏胥はこれを持って財貨とした。少連は郡県に命じて上る簿書を全て封印し、事あるごとに一二を指し取って自ら閲し、その誤りを摘発して按じ、その他閲せないものは、全て封印して返した。これにより吏は奸を行うことができず、州県の簿書は敢えて治めないものはなくなった。部内の吏に過ちがあれば、召し詰めて言った、「聞くところ、お前の行いがかくの如しというが、あるか。あれば我に告げよ、我は汝が自新することを許そう。もし無いというなら、我は善人が謗られることをさせず、即ち汝のために弁明しよう」。吏は欺くことを敢えず、皆実を以て答えた。少連は毎度その実情を得ると、諄々と戒飭して去らせ、後に能く自ら過ちを改める者があれば、猶保任した。秀州で無罪の人が獄死した。時に少連は杭州におり、吏は畏恐して謀り集まり、偽って死者の服罪した款状を作ったが、未だ綴じ終わらぬうちに、少連が既に舟で城に入り、獄吏を訊問すると、具に服して請罪し、神明の如しと思った。この時、鄭向が杭州を守っていたが、治才がなかった。訴訟する者が服せず、往々にして州を出て、径ちに少連の下へ赴いた。少連は一言で処決し、理を尽くさないことはなかった。
淮南に転使し、発運司事を兼ね、兵部員外郎を加えられた。また陝西に転じた。駙馬都尉の柴宗慶が陝州知州となり、その下をして民を撓乱させたので、少連が入境すると、これを弾劾上奏した。入朝して侍御史知雑事を兼ね、一月余りして、三司度支副使となった。河東で地震があり、奉使として安撫に赴いた。還り、工部郎中・天章閣待制・広州知事に抜擢された。時に元昊が反乱し、范仲淹が少連の才は将帥に堪えると推薦し、龍図閣直学士・涇州知事に遷り、渭州知事に改められたが、命が届かぬうちに卒した。少連は通敏にして才があり、事の大小に遇うも、決遣流るるが如く、権勢に屈しなかった。卒すると、仁宗は歎惜した。
論ずるに、古人有言へらく、「山に猛獣有れば、藜藿之が為に採らざるなり」と。天聖・明道の間、天子春秋に富み、母后制を称し、而して内外肅然たり、紀綱挙げ具はり、朝政大なる闕失亡く、奸人自ら肆たるを得ざるは、言路人を得たるに繋る故なり。是の時、孔道輔・鞠詠・劉隨・曹修古迭て諫官・御史と為り、郭勸・段少連之に継ぎ、皆侃侃として正色、事に遇ひて輒ち言ひ、斥逐せられ、其の守を更へず。及て帝既に親政し、道輔・勸・少連復た言責に任じ、郭后の廢せらるるや、議を引き慷慨、人主を犯し、大臣を責む、其の気益々壮なり、遺風餘烈、天下今に至るまで之を称す。『詩』に所謂「邦の司直」とは、其れ庶幾からんか。