韓丕
韓丕、字は太簡、華州鄭の人。父の杲は、晉の開運年間に曲陽主簿となり、契丹が城を攻め陥落した際に戦死した。母は他氏に再嫁した。丕は幼くして孤貧であったが、志操を持ち、驪山・嵩陽で読書し、『周易』・『礼記』に通じ、人に講説した。常に山林に隠棲する志があり、家は甚だ貧しかったが、平然としていた。年長じて初めて文を学んだ。開寶年間、鄭牧が文州の知事となると、彼に従って行き、遂に両川を漫遊した。鄭牧が成都の知事となると、劉熙古が門下に招き置き、書奏を掌らせ、孫娘を妻とした。
丕は純厚で畏慎、言うことができない者のようであった。歴任して州郡を治めたが、吏事に優れていたわけではないが、清介をもって自らを保ち、当時は長者と称されたという。
師頏
張茂直
張茂直、字は林宗、兗州瑕丘の人。父の延昇は、経術をもって郷里で教授した。茂直が弱冠の頃、慕容彦超が州城を占拠し、彼を駆り立てて城壁を守らせた。周の軍が敵を破ると、城を守っていた者は列座させられ、斬られようとした。ある兵卒が刃を挟んで茂直に言った、「汝の髪は甚だ鬒(黒く美しい)、惜しいことに頸の血で汚される、先に断ってやろう」。茂直はそれを許した。刃が髪に及ぶ前に、釈放されることとなった。後に学問に志を励ました。
時に福州の民が田を争訟したので、茂直に命じてこれを審理させようとしたが、出発する際、留めて派遣しなかった。参知政事の李至がその端正実直を称え、益王元傑の府に記室参軍として入るよう命じた。王は好学で、多く詩篇を作り、茂直を甚だ厚く遇した。時折果物の賜り物があっても、分け与えた。王が嘗て使者を遣わして詩を求めると、茂直は筆を取って即座に作り、王は甚だ賞賛した。
梁顥
梁顥、字は太素、鄆州須城の人。曾祖父涓、成武主簿。祖父惟忠、明経を以て使府に佐え、天平軍節度判官に至る。父文度は早世し、顥は叔父に養われる。王禹偁が初めて郷貢を挙げると、顥はこれに依って学び、嘗て疑義を質すも、禹偁は拒んで答えず。顥は発憤して読書し、一ヶ月も経たぬうちに再び質すと、禹偁は大いに賞賛した。初め進士に挙げるも及第せず、闕下に留まる。上疏して曰く、
「臣が歴代の史籍を観ますに、唐氏が天下を治めるや、聖主間に出で、人文闡け耀き、尚お共治を渇望し、広く多くの俊才を求め、科挙の選は四十余等を超えました。当時筆を執る士は彬彬として集い、表れて左右前後を補い、忠良あり、化の源を導き治の本を樹てる者あり、三百年を享くるは、人を得たる由であります。
五代は振るわず、この制度は日に廃れました。国家は儒を興し、三代の風を追います。今、科名を設け、俊造ことごとく至り、筆を執る者は林の如く、選に趨く者は雲の如し。諸侯に貢ぎ、春官に考へ、陛下自ら臨み慎んで選ばれ、必ず至公を尽くされます。然るに取る所は詩賦・策論に出でず、心に適う者は引き抜きて登用し、心に背く者は推し退けて罷め、濫登・枉罷の過ち無からんや。その間、卑陋妄進し、科場に濫り廁する者も、間々あります。
若し陛下が孤寒沈滞の士を恵み、賢否を計らず悉く抜き登用し、一視同仁されると言うならば、臣は確論に非ずと窃かに思います。聖人上に在らば、君子を内にし小人を外にす。若し香草と臭草を同じ器にすれば、甚だ人倫を正し風俗を淳くする所以に非ず。況んや丘園の下に、宏才茂徳の士無からんや。陛下誠に科を設けて異等の士を擢げ、古今の治乱・君臣の得失・生民の休戚・賢愚の用捨を陳べさせれば、治に益あるに庶幾く、単に詩賦・論策の小技を以て有司の求に応ずるのみに非ず。」
疏を上るも、報いず。
「臣聞く、古より用兵の道は、賞罰を明らかにするに在り。然れども賞は独り任すべからず、罰は少しも失うべからず。故に『兵法』に曰く『罰行われざれば、驕子の用い難きが如し』と。又曰く『将たるに善き者は、威敵国に振い、令三軍に行わる。忠を尽くし時に益する者は、仇と雖も必ず賞し、法を犯し事を敗る者は、親と雖も必ず罰す』と。故に孫武は隊長を斬りて兵皆整い、穰苴は監軍を斬りて敵遂に退く。これを以て言えば、兵法正しからざるべからず。
先般、将を命じて師を出し、秋に乗じて塞を備うるに、傅潜は明詔を奉じ重兵を握りながら、逗撓して謀無く、城壁を守りて寇を玩び、精兵を老いさせて用いず。以て蕃馬南牧し、辺塵昼に驚き、河朔の民は流移して所を失い、魏博以北は蹂躙して一空と為る。遂に残妖未だ殄らずして、鑾輿親征せしむるに至る。これ所謂、賊を以て君父に遺す者なり。或いは赦して問わずんば、何を以て横死の民に謝せん。或いは黜して戮さずんば、何を以て用兵の略を恢めん。軍法を以て論ずれば、固より潜を斬りて軍中に徇し、詔を降して天下に示すべし。かくの如くして、初めて前古の典章に協い、後の将帥を戒め、然る後辺臣の用いるべき者を択び、就いて委用すべし。
臣嘗て漢史を読むに、李広の兵を屯し師を行くや、部伍行陣無く、善き水草に就き、人人自便にし、刁斗を撃たずして自衛し、斥候を遠ざけ、未だ害に遇わず、而して広終に名将と為り、士卒用いるを楽しましむ。又唐高祖の北辺を備うるや、勁兵を選びて遊騎と為し、軍糧を齎さず、水草に随い逐い、敵に遇えば則ち殺し、当時策を得たりと為す。願わくは辺将の中より、名位の高卑を以てせず、但だ武勇謀略素より衆の推服する所なる者を択び、十人を取りて、人に騎士五十を付し、器甲完備せしめ、軽く糧糗を齎し、水草に逐って利と為し、往復扞禦せしむ。郡邑に入るを許さず、聚処するを許さず、寇兵有るに遇えば、時に随い掩捕せしむ。仍って烽候相望ましめ、交相救応せしむ。辺縁の州郡の守城兵帥は、即ち堅壁してこれを待たしむ。遊騎城に近づき辺寇を掩殺するに遇えば、内より量りて兵甲を出し援救せしむ。かくの如くすれば、城に乗ずる者は堅く壘門を閉ざさず、勝負を坐観するを免れ、辺を捍ぐ者は苟も郡郭に依らず、寇攘に備うるを行い得ん。良籌に匪ずと雖も、且つ膠柱に殊なるべし。」
当時の論、頗るこれを称す。
王顥は風姿美しく、強力にして疾少く、閨門雍睦たり。人と交わり久しくして改むること無く、士大夫多く之を称す。六月、暴病に卒す、年九十二。上甚だ軫惻し、賜贈を加等す。著する所文集十五巻。
子:王固、王述、王適。王適は仁宗に相たり、別に伝あり。
子 王固
人となり気調俊爽、善く人と交わり、財を疏んじて慷慨、気義を尚び、吏道に明るし。馬元方三司を領するも、事に臨み粗率なり、王固其の曠闕の状を摭い、屡々対を請いて条奏す。嘗て詔して獄を鞠むるに、時に平審と称す。天禧の大礼成り、頌を奏す、甚だ工なり。幾も無くして卒す、年三十三。集十巻あり。
楊徽之
楊徽之、字は仲猷、建州浦城の人。祖の楊郜、閩に仕えて義軍校と為る。家世武を尚ぶも、父の楊澄独り節を折りて儒と為り、終に浦城令に至る。徽之幼く刻苦して学を為し、邑人の江文蔚は賦を善くし、江為は詩を能くす、徽之之と遊従し、遂に之と齊名す。嘗て潯陽の廬山に肄業し、時に李氏江表を拠有す、乃ち潜服して汴・洛に至り、文を以て竇儀・王朴に投じ、深く賞遇せらる。
周の顕徳中、進士に挙げられ、劉溫叟貢部を知り、甲科に中る。同時に第に登る者十六人、世宗命じて覆試せしむるに、惟だ徽之と李覃・何厳・趙鄰幾のみ選に中る。褐を解きて校書郎・集賢校理と為る。宰相范質深く之を器重す。著作佐郎・右拾遺を歴任す。竇儼礼楽書を纂するに、徽之之に預かる。
乾徳初め、鄭玘と並び出でて天興令と為り、府帥王彦超素より其の名を知り、賓礼を以て待つ。蜀平らぎ、峨眉令に移る。時に宋白玉津を宰す、多く吟詠を以て酬答す。復た著作佐郎・知全州と為り、就いて左拾遺・右補闕に遷る。太平興国初め、代わりて還る。太宗素より其の詩名を聞き、因りて著する所を索む。徽之数百篇を以て奏御し、且つ詩を献じて謝と為す、其の卒章に「十年流落今何幸、叨遇君王問姓名」の語あり。太宗之を覧みて称賞し、是より聖製多く別本を以て賜う。侍御史に遷り、権判刑部。嘗て疾に属す、尚医を遣わして診療せしめ、銭三十万を賜う。庫部員外郎に転じ、金紫を賜い、判南曹、同知京朝官差遣。会に詔して李昉等に前代の文字を采緝せしめ、類して『文苑英華』と為すに、徽之の風雅に精なるを以て、命を分かち詩を編ましめ、百八十巻と為す。刑部・兵部二郎中を歴遷す。『雍熙詞』を献じ、上其の韻を賡じて以て賜う。
端拱初め、左諫議大夫を拝し、出でて許州を知る。入りて判史館事と為り、修撰を加う。因りて次対に上言して曰く、「陛下鴻図を嗣ぎ統べてより、文治を闡揚し、廃墜を修挙し、儒学響臻す、乃ち周の岩野に至りて以て隠淪を聘し、科選を盛んにして以て才彦を来たす、士を取るの道、亦已に至れり。然れども文章を擅にする者は多く超遷し、経業に明るき者は罕に殊用あり、向ひて振挙せずんば、何を以て専勤を勧めん、師法伝わらず、祖述安くにか在らんや。且つ京師は四方の会、太学は首善の地なり。今五経博士、並びに其の員を闕く、是れ教化を崇め、人材を奨め、内より外に及ぼすの道に非ざるなり。伏して明詔を浚発し、博く通経の士を求め、之を朝著に簡び、草萊より抜き、員数を増置し、胄子を分かち教え、其の業に随い、本官を以て授け、廩稍且く優にし、旌別斯に在らしむ。淹貫の士、既に厚賞を蒙らば、則ち天下の善類知る所の勧むる有り、唐・漢をして専ら人を得たりと称せしむること無からん。」太宗嘉納し、顧みて宰相に謂いて曰く、「徽之儒雅、操履玷無く、館閣に置く宜し。」未だ幾もあらず、判集賢院に改む。嘗て詔して乾元楼に観燈するに預かり、上其の精力衰えざるを嘉す。
時に劉昌言下位より抜擢され、時を踰えずして機務に参掌す、人望を厭うすべき無きを懼れ、常に自安の計を求む。董儼右計使と為り、昌言を傾けて之に代わらんと欲し、嘗て徽之に謂いて曰く、「上張洎・銭若水に遇うこと甚だ厚く、旦夕将に大用せんとす。」直史館銭熙なる者あり、昌言と厚く善し、徽之に詣る、徽之語の次に之に及ぶ。熙遽ち以て昌言に告ぐ、昌言以て洎に告ぐ。洎方に寵を固めんとし、徽之熙を遣わして飛語を構え己を中傷すと謂い、遂に上に白す。上怒り、昌言を召して其の語を質す。徽之を出して山南東道行軍司馬と為し、熙職を落として朗州通判と為す。徽之未だ行かず、鎮安軍行軍司馬に改む。
未だ幾もあらず、足疾を以て告を請い、上名薬を取って以て賜う。郊祀に扈従に及ばず、錫齎は侍祠の例の如し。車駕北巡するに、徽之力疾して苑中に辞す。上顧みて謂いて曰く、「卿医薬を勉めて進めよ、比に見ん、当に久しからず。」及び大名に駐蹕し、特ち手詔を降して存諭す。明年春正月、車駕還り、又使いを遣わして臨問す。卒す、年八十。兵部尚書を贈り、其の家に銭五十万、絹五百匹を賜う。其の外孫宋綬を録して太常寺太祝と為し、侄孫の楊偃・楊集並びに同学究出身を賜う。
徽之純厚清介、規矩を守り、名教を尚び、尤も道に非ざるを以て進を幹く者を疾む。嘗て言う、「温仲舒・寇準は搏撃を用いて貴位を取り、後輩をして務めて習い趨競せしめ、礼俗浸く薄し。」世其の言を知ると謂う。徽之俗に諧うこと寡く、唯だ李昉・王祐の深く推服する所と為り、石熙載・李穆・賈黄中と文義の友と為る。郎官・御史を自ら為るより、朝廷即ち旧徳を以て待つ。談論を善くし、多く典故を識り、唐室以来の士族人物、悉く能く詳記す。酷く吟詠を好み、毎度客に対し詩を論じ、終日倦ることを忘る。既に没し、集二十巻家に留まる有り、上夏侯嶠に命じて之を取りて進ましむ。徽之子無し。後徽之の妻王氏卒し、及び葬るに、復た緡帛を以て其の家に賜う。
楊澈
澈は字を晏如といい、楊徽之の同族である。代々建陽に住み、家を構えた。父の思進は、晋の天福年間に海を北に渡り、青州の北海に家を定め、累次、使府の幕僚を補佐した。澈は幼くして聡明で機敏であり、七歳で『春秋左氏伝』を読み、すなわち大義を理解した。周の宰相李穀が召して暗誦させたところ、一字一句の誤りもなく、穀は大いに異とした。十六歳の時、思進が鎮趙の従事となったが、ちょうど昭慶県令が欠員となったため、使府は命じて澈にその任を代行させた。時に黄河が隣郡で決壊し、府は工事の監督を急がせた。澈は数千人の人夫を率い、大沢の中を直行したが、そこは葦が多く生えていた。そこで葦を刈り取って筏を作り、流れに乗せて下らせた。到着すると、担当者は遅れたことを訝しんだが、やがて葦の筏が続々と到着したので、驚いて問うた。澈が状況を答えると、かえって賞賛した。
建隆の初め、進士に挙げられた。時に竇儀が貢挙を管轄し、澈の文辞が敏速であるとして、書簡・檄文の任に当たるに足るとした。補任されて河内主簿となり、再び転じて青州司戸参軍となった。知州の張全操は不法が多かったが、澈は裁判を公平適切に行い、へつらうことも恐れることもなかった。太祖はその名を知り、禁中で試問し、著作佐郎に改め、渠州知州として出向させた。江南が平定されると、通判虔州に改め、大将曹彬の下で兵を分けて赴任するよう命じた。国境に入ると、偽の将帥郭再興が兵を擁して自らを固守していた。澈は単騎で直ちにその陣営に馳せつけ、朝廷の威信をもって諭すと、再興はただちに兵符を奉じて交代した。澈は城中の軍士のうち勇壮な者をすべて選び、およそ五百人を一綱として、部下に命じて京師に送らせた。土豪の黎・羅の二姓が、徒党を集めて山に依り謀反を企てたので、澈は兵を率いてこれを平定し、二豪を捕らえ、枷をはめて京師に送った。
右賛善大夫に遷り、淄州知州となった。親に仕えること孝行で知られ、便養を求めたため、同判青州に転じた。三度転じて祠部員外郎となり、再び淄州知州となり、また舒州知州となり、累進して祠部郎中となった。咸平の初め、王府の僚佐を選抜するにあたり、澈を雍王府記室参軍とし、金紫を賜い、度支郎中を加えた。
景德の初め、皇帝が澶淵に行幸した際、雍王が東京留守となったので、澈は兵部郎中に遷り、留守判官を充任した。軍巡の囚人が逃亡し、王は驚いて病気にかかり、薨去した後、また閨門内の残忍な様子が明らかになったため、輔導が良くなかったことを咎められて官を免じられた。まもなく、祠部郎中として起用された。卒去、七十四歳。子の巒は、淳化年間の進士で、職方員外郎となった。
呂文仲
呂文仲は、字を子臧といい、歙州新安の人である。父の裕は、偽唐の歙州録事参軍であった。文仲は江左において、進士に挙げられ、補任されて臨川尉となり、再び転じて大理評事となり、宗室の書奏を掌った。朝廷に入り、太常寺太祝に任じられ、次第に少府監丞に遷った。太平『御覧』・『広記』・『文苑英華』の編纂に参与し、著作佐郎に改められた。太平興国年間、皇帝はしばしば便殿で古碑刻を観覧し、その都度文仲と舒雅・杜鎬・吳淑を召して読ませた。かつて文仲に『文選』を読ませ、続いて『江海賦』を読ませ、いずれも賜物を与えた。本官のまま翰林侍読を充任し、御書院に寓直し、侍書の王著と交代で宿直した。時に書学の葛湍も禁中に直していた。太宗は暇な日には、しばしばゆったりと文仲に書史を、王著に筆法を、葛湍に字学を問うた。雍熙の初め、文仲は著作佐郎に遷り、王著の副使として高麗に赴いた。帰朝して復命すると左正言に改められ、福建を巡撫した。まもなく、金紫を賜い、左諫議大夫を加えられた。
文仲は長く禁中近くに仕え、非常に細やかで慎重であった。ある日の早朝、突然風疾にかかり、百日を超えて休暇を請うたが、詔により俸給を継続させた。翌年、刑部侍郎に改め、集賢院学士を充任したが、まもなく卒去した。その子の永を奉礼郎に任じた。
文仲は詞学に富み、器量・風韻が広く雅やかであった。高麗に使した際、応対に優れ、清く静かで求めるところがなく、遠方の俗人を喜ばせた。後に高麗に使する者は、必ずその出処を尋ねた。しかし性格はやや卑小で、当時の論評に認められなかった。文集十巻がある。
王著
太宗は政務の暇に、書を観ることと筆法を心がけ、諸家の字体に通じ、精妙の極みに達した。かつて中使の王仁睿に命じて自筆の書を持たせ、著に見せた。著は言った、「まだ十分に善くはありません」。太宗は学びに臨むことますます勤勉になり、また見せたが、著の答えは前と同じであった。仁睿がその理由を詰問すると、著は言った、「帝王が初めて書を学ばれる時、もし急に善いと称賛すれば、もはや心を留めなくなるでしょう」。しばらくして、また見せた。著は言った、「功は既に至っております。臣の及ぶところではありません」。その後、真宗はかつて宰相に対しこの事を語り、かつ著が規諫して益することを善くしたことを称賛し、侍書待詔の中でも比類なき者であるとした。
呂祐之
呂祐之、字は元吉、濟州鉅野の人。父は文賛、本州の錄事參軍。祐之は太平興國の初め、進士に挙げられ、初めて官に就き大理評事・洋州通判となった。右贊善大夫に改められ、出て泰寧軍節度判官となり、天雄軍に移った。召されて殿中侍御史に任じられ、西蜀で獄を決した。還って貝州知州となり、右補闕・直史館・同判吏部南曹に換えられ、起居舍人に遷った。
端拱年中、呂端に副えて高麗に使いし、内庫の銭五十万を借りて装いを整えた。帰還の途次、風濤に遇い、舟覆かんとす、祐之は得た貨物を悉く取り出して沈めると、即座に止んだ。また『海外覃皇澤詩』十九首を献じ、太宗これを嘉し、なおその借りしものを免除した。淳化の初め、戸部勾院を判じ、時に三館の職を分けて備えるに当たり、祐之を趙昂・安德裕と並び直昭文館とせしめた。まもなく本官のまま知制誥となり、金紫を賜わり、同知貢挙となった。
東野日宣という者あり、祐之は妻の一族ゆえ嘗てこれを推薦したが、陳州にて獄を鞫すること実ならざる罪に坐し、官を貶せられ、祐之もまた殿中丞に降授され、再び直史館となった。未だ幾ばくもせず、再び知制誥となった。太宗嘗て班簿を閲覧し、近臣に官を挙げさせしに、祐之の姓名を目にし、宰相因りてその前に挙状無きに坐せしことを言上す。上曰く「此れ正に過ちを贖わしむべし」と。即ち祐之を取る。
至道の初め、右諫議大夫に拝し、金紫を賜わり、審官院を知った。出て襄州知州となり、寿州に移った。真宗即位し、給事中に転じ、再び襄州を知り、升州に移った。歳余りして、また襄陽を典した。帰朝し、吏部選事を掌り、通進・銀臺司を知り、呂文仲と並び工部侍郎・翰林侍読学士に拝した。侍読・侍講を置くより以来、その選は甚だ艱しく、ここに至って裁くに七人とす。祐之その名氏を第し、石に刻して秘閣に置く。
祐之は純謹なる長者にして、趨競を喜ばず、至る所に顕著なる誉れ無く、顧問に備わるも、啓発する所あらしむること能わず。時に文仲疾を以て近職を罷むるに会し、祐之もまた出て集賢院学士となり、なお並びに刑部侍郎に遷った。景德四年、卒す。年六十一。集三十巻あり。
潘慎修
潘慎修、字は成徳、泉州莆田県の人。父は承祐、閩に仕え、後に江南に帰り、李景に仕えて、刑部尚書に至り致仕す。慎修は少にして父の任により秘書省正字となり、累遷して水部郎中兼起居舎人に至る。
開宝末、王師江南を征し、李煜はその弟従鎰に随って入貢し買宴銭を献じ、兵を緩めんことを求めしめ、館を留めて懐信駅に置く。旦夕に捷書至り、邸吏従鎰を督めて入賀せしむ。慎修は国将に亡ぼんとす、罪を待つべし、何ぞ賀せんやと以為う。是より毎に群臣賀称するに、従鎰は即ち表を奉じて罪を請う。太祖その礼を得たるを嘉し、中使を遣わして慰諭し、供帳牢餼悉く優給を加う。煜朝に帰し、慎修を以て太子右賛善大夫とす。煜表して慎修に記室を掌らしむるを求め、許す。煜卒し、太常博士に改む。膳部・倉部・考功の三員外を歴任し、寿州通判、開封県知県、また湖・梓二州知州となる。
淳化中、秘書監李至これを推薦し、本官のまま直秘閣を知らしむるを命ず。慎修は囲碁を善くし、太宗屡々召して対局せしめ、因りて『棋説』を作りて献ず。大略に謂う「棋の道は恬黙に在り、而して取捨を急とす。仁なれば則ち能く全うし、義なれば則ち能く守り、礼なれば則ち能く変じ、智なれば則ち能く兼ね、信なれば則ち能く克つ。君子此の五者を知れば、庶幾くは以て棋を言うべし」と。因りて十要を挙げてその義を明らかにす。太宗覧めて善しと称す。まもなく直昭文館韓援と淮南巡撫使となり、累遷して倉部・考功二部郎中となる。咸平中、また邢昺に副えて両浙巡撫使となり、まもなく同修起居注となる。景德初、衰老を言上し、外任を求む。真宗は儒雅なるを以て秘府に留むるに宜しとし、ただ記注の職を解くことを聴くのみ。数月、右諫議大夫・翰林侍読学士に擢でられる。澶州に従幸し、寒疾に遭い、詔して肩輿にて先に帰らしむ。明年正月、卒す。年六十九。賻銭二十万、絹一百匹。
慎修の疾は雖も亟なり、精爽乱れず、陳彭年に託して遺奏を草せしめ、諸子の為に恩沢を干すことせず、ただ主恩未だ報いざるを恨みとす。上これを憫み、その子汝士を録して大理評事とし、汝礪を奉礼郎とす。有司に命じて舟を与えその柩を載せて洪州に帰らしむ。
慎修は風度醞藉にして、文史に博く渉り、多く道書を読み、清談を善くす。先に、江南の旧臣多く李煜の暗懦を言い、事多く実を過ぐ。真宗一日これを以て慎修に問う。対えて曰く「煜或いは理に懵くこと此の如くせば、何を以て国を享くること十余年ならん」と。他日、宰相に対し語これに及び、且つ慎修の温雅にして本を忘れず、臣子の操を得たるを言い、深く嘉奨す。当時士大夫これと遊ぶ者、皆その素尚を推す。然れども頗る先輩を恃み、後進に倨慢に待ち、人此を以てこれを少くす。集五巻あり。
汝士は工部員外郎・直集賢院に至る。
杜鎬
杜鎬、字は文周、常州無錫の人。父は昌業、南唐の虞部員外郎。鎬は幼より学を好み、経史に博く貫通す。兄は法官たり、嘗て子が父の画像を毀つことあり、傍親に訟えられ、その法を疑いて決すること能わず。鎬曰く「僧道の天尊・仏像を毀つに比すべし」と。兄甚だこれを奇とす。明経に挙げられ、初めて官に就き集賢校理となり、入って澄心堂に直る。
江南が平定されると、千乗県主簿に任ぜられた。太宗が即位すると、江左の旧儒たちが多くその才能を推薦し、国子監丞・崇文院検討に改めた。ちょうど南郊の祭祀を行おうとしたところ、彗星が現れた。宰相趙普が杜鎬を召してこれを問うた。杜鎬は言った、「祭祀の時に日食があれば、なお廃止する。ましてやこのような天譴が現れた場合、どうであろうか」。趙普が上奏すると、すぐにその礼を中止した。翌日、著作佐郎に遷り、太子左賛善大夫に改め、緋魚袋を賜った。殿中丞・国子博士を歴任し、秘閣校理を加えられた。太宗が秘閣で書物を閲覧し、杜鎬に経義を問うと、進み出て答えることが意に適い、即日に虞部員外郎に改め、金帛を加えて賜った。また問うた、「西漢では賜与にすべて黄金を用いたが、近代では得難い貨物となっている。これはなぜか」。杜鎬は言った、「あの時代は、仏事がまだ興っていなかったので、金の価格が非常に安かったのです」。またかつて天宝の梨園のことを召して問うと、詳しく奏上した。再び駕部員外郎に遷り、太常礼院を判じ、朱昂・劉承珪とともに館閣の書籍を編纂し、虞部郎中となった。事が終わると、金紫を賜り、直秘閣に改めた。『太祖実録』を修めることになり、杜鎬に故事を検討させ、訪問に備えさせた。
景德の初め、龍図閣待制を置き、これにより杜鎬に命じ、都官郎中を加えた。澶淵に従駕し、懿徳皇后の忌日に当たり、軍中の鼓吹の礼について疑義が生じた。当時杜鎬は先に儀仗を整えるため帰還しており、騎馬を馳せて問わせた。杜鎬は、武王が木主を載せて紂を伐ち、前には歌い後ろには舞った故事をもって答えた。『冊府元亀』の編纂に参与し、司封郎中に改めた。四年、右諫議大夫・龍図閣直学士に拝し、襲衣・金帯を賜り、班位は枢密直学士の下とした。当時この職を特に置き、儒者はこれを栄誉とした。
杜鎬は博聞強記で、凡そ検閲する際は必ず書吏に戒めて言った、「某の事は、某の書の某巻、何行にある」と。覆して確かめると、少しも誤りがなかった。異書を得るたびに、多く召して問うと、杜鎬は必ず手ずからその本末を書き記して奏上し、待遇は非常に厚かった。士大夫で著述する者が、多く古事について訪ねると、たとえ晩輩や卑品の者が教えを請うても、応答に倦むことがなかった。五十歳を過ぎても、なお日に経史数十巻を読み、あるいは館中に宿直する時は、四鼓(午前二時頃)になると起きて『春秋』を誦した。住まいは僻陋で、風雨をしのぐのみであったが、そこに二十年間住み、移らなかった。閑居の暇日には、多く酒肴を携えて賓客を待った。性質は温和で、清素にして美しい行いがあり、士類は推重した。
査道
査道は、字を湛然といい、歙州休寧の人である。祖父の査文徽は、南唐に仕えて工部尚書に至った。父の査元方は、また李煜に仕え、建州観察判官となった。王師が金陵を平定した時、盧絳が歙州を占拠し、使者を遣わして檄文を郡に伝えさせたが、査元方はその使者を斬った。盧絳が捕らえられると、太祖は査元方の行いを聞き、優れて褒め称えた。殿中侍御史・泉州知事に拝し、卒去した。
査道は幼い頃から沈着で聡明、群を抜き、めったに笑わず、筆硯を親しむことを好み、祖父の文徽は特にこれを愛した。元服前から、詞章の業で称えられた。母に侍して江を渡り、孝養をもって知られた。母がかつて病にかかり、鱖(ケツギョ)の羹を欲しがった。ちょうど冬の厳寒で、市で手に入らなかった。査道は河で泣きながら祈り、氷を割ってこれを取り、一尺ほどの鱖を得て母に食べさせた。また臂の血を刺して仏経を書き、母の病はまもなく癒えた。後数年して母が亡くなると、名利や官途に意を絶ち、五台山に遊び、髪を落として僧となろうとした。ある夜、激しい雷が柱を破ったが、査道はその下に坐り、少しも恐れる色がなかった。寺僧はこれを異とし、皆仕官するよう勧めた。
当時、賊党にはなお岩谷に潜伏し険阻を頼りに柵を構える者がおり、その首領の何彦忠はその徒二百余人を集め、西充の大木槽に留まり、弓を引き刃を露わにしていた。詔書で招諭したが、降伏せず、皆兵を発して殲滅するよう請うた。査道は言った、「彼らは愚かな者で、罪を恐れ、わずかな命を延ばそうとしているだけだ。その党の中に、まちがって巻き込まれた者がないと言えようか」。そこで微服で単騎、数人の従者を連れ、一尺の刃も持たず、山林渓谷を百里ほど行き、直ちに賊の所へ向かった。初めは皆驚き恐れ、弓を引き絞って外に向けた。査道は神色自若として胡床に坐り、詔の意を諭した。ある者が彼を識って言った、「郡守だ。その仁を聞いたことがある。これは我々を害する者ではあるまい」。すぐに相率いて投降し、羅列して拝礼し、号呼して罪を請い、全て証券を与えて帰農させた。袍帯を加えて賜り、駅伝で奏上し、璽書で褒め諭した。
査道は儒雅で迂遠緩慢であり、煩劇な政務を治めるのは得意ではなかった。卞袞が塩鉄副使であった時、査道と共に対面を待ち、殿に昇ろうとした際、急ぎ奏牘を取り出して査道に同署を求めた。上から事の根本を問われた時、査道は平素から目を通しておらず、答えることができず、もって本官のまま罷免され、襄州知事として出向した。終に自ら弁明することができなかったが、また慍りの色もなかった。
道は性質淳厚にして、犯す者あっても較べず、至る所寛恕を務め、胥吏に過ちあっても未だ笞罰せず、民の訟で逋負する者あれば、或いは己が銭を出してこれを償い、以て是頗る治まらず。嘗て出でて部を按ずるに、路傍に佳き棗あり、従者これを摘みて献ずれば、道は即ち直を計りて銭を樹に掛けて去る。児時に嘗て戯れに地に大第を画きて曰く、「此れ孤遺を分贍すべし」と。京師に居るに及び、家甚だ貧しく、親族の煢独なる者を多く聚め、祿賜の得る所、散施して随って尽き、以て屑意せず。人と交わるに、情公切至にして、廢棄孤露の者を待つに愈よ厚く、多く周給す。
初め、挙に赴くに、貧しくして上ること能わず、親族銭三万を裒めてこれを遺う。道滑臺を出で、父の友呂翁の家を過ぐ。翁喪し、貧窶にして以て葬る無く、其の母兄将に女を鬻ぎて以て事を襄ぜんとす。道褚中の銭を傾けてこれに与え、且つ其の女の為に婿を択び、別に資遣を加う。又故人卒し、貧甚だしく、女婢を人に質す。道これを贖い、士族に嫁す。搢紳其の履行を服す。学を好み、弈棋を嗜み、内典を深く信ず。平居多く蔬を茹い、或いは一食に止まり、默坐して終日し、服玩極めて卑儉に在り。嘗て神人の謂うを夢みて曰く、「汝位正郎に至り、寿五十七」と。而して享年六十四、論者積善の延ばす所と為す。集二十巻有り、従兄は陶。
従兄 陶
論じて曰く、典誥命する者は、詞章典雅を以て先と為し;講読に侍る者は、道德洽聞を以て貴しと為す。昔より皆其の人を難しとし、宋に至り尤も其の選を重んず。太宗儒術を崇尚し、政を聴くの暇を以て、書を観るを楽と為し、翰林侍読学士を置きて以て顧問に備う。真宗先志を克紹し、兼ねて侍講学士を置き、且つ内閣に因りて以て職名を設け、鴻碩の士をして更直迭宿せしめ、相与に従容講論せしむ。丕の清介、頑の和豫、顥の明敏、茂直の淳厚を以て、詞職を領せしむるは、固より忝かず。若し文仲の器韻淹雅、慎修の醞藉該貫、杜鎬の博聞強識、査道の純孝篤義、諸れを左右に置き、啓沃尤も多きは、豈に直に講論文義のみならんや。若し祐之の趨競を喜ばざる、徽之の幸進を深く疾む、風采凝峻なるは、又其の卓然たる者なり。徽之嘗て謂う、「温仲舒・寇準は搏撃を以て貴位を取り、後輩をして務めて趨競を習わしめ、礼俗浸く薄し」と。君子以て名言と為す云う。