宋史

列傳第五十四 尹洙 孫甫 謝絳 葉淸臣 楊察

尹洙

尹洙、字は師魯、河南の人である。若くして兄の源とともに儒學をもって知名であった。進士に挙げられ、正平縣主簿に調せられた。河南府戶曹參軍、安國軍節度推官を歴任し、光澤縣知縣となった。書判拔萃に挙げられ、山南東道節度掌書記に改められ、伊陽縣知縣となり、能吏の名があった。大臣の推薦により、召されて試みられ、館閣校勘となり、太子中允に遷った。時に范仲淹が貶せられ、朝堂に敕を掲げ、百官を戒めて朋黨をなすことを禁じた。洙は上奏して言った、「仲淹は忠亮の素より有り、臣は之と義を兼ねて師友たり、則ち是れ仲淹の黨なり。今仲淹、朋黨を以て罪せらる、臣は苟も免るるべからず」。宰相怒り、校勘を落とし、復た掌書記、監唐州酒稅となった。

西北は久しく安んじたが、洙は『敘燕』、『息戍』の二篇を作り、武備弛むべからずと為した。『敘燕』に曰く、

「戰國の世、燕は最も弱し。二漢の叛臣、燕を恃み虜を挟み、自ら固むる能わず、公孫伯珪の強きも、卒に袁氏に制せらる。獨り慕容、石虎の亂に乗じ、乃ち趙を併す。勝敗の術を異にするも、大概其の強弱を論ずれば、燕は趙に加うる能わず。趙・魏一たび合すれば、則ち燕固より敵せず。唐の三盜、連衡すること百餘年、虜未だ嘗て燕を越えて趙・魏を侵さず、是れ燕獨り能く虜を支うるなり。燕契丹に入りてより、勢日熾大なり。顯德の世、三關を復すも、未だ燕南の地を盡さず。國初、始めて之と並合し、勢益張るも、然れども偏師を命じて備禦するに止まる。王師、しょくを伐ち吳を伐つ、泰然として兩河を顧みず、是れ趙・魏以て之を制するに足る明かなり。幷寇既に平ぎ、天下の銳を悉くして專ら契丹に力を盡くすも、尺寸の地を攘う能わず。頃に嘗て百萬の眾を以て趙・魏に駐め、敵退くに訖りて敢へて抗う者莫く、世多く其の戰わざるを咎む。然れども我が眾城に負い、內顧の心有り、戰わば必ずしも勝たず、勝たざれば則ち事亟し、故に戰わざるを未だ嘗て咎めざるなり。

其の弊を原れば、兵分かたざるに在り。兵を三つに設け、爭地に壁し、掎角して其の勢を疑わしめ、覆を設けて其の進を待つ。邊壘素より固く、民を驅りて之を守らしめ、其の兵をして堅城の下に頓せしめ、間を乘じて夾撃すれば、勝たざる無し。蓋し兵分かたざるに六つの弊有り:敵をして勇を蓄えて戰いを待たしめ、他に枝梧無し、一なり;我が眾なれば則ち士怠る、二なり;前世善く兵を將くる者は必ず幾何と問う、今中才を以て盡く之を主とす、三なり;大眾儻い北せば、彼遂に長驅して復た顧忌無し、四なり;重兵一たび屬すれば、根本虚弱にして、纖人も以て幹説し易し、五なり;大柄を委ぬるも、疑貳無きに非ず、復た貴臣を命じて監督せしめ、進退皆中より御す、應變に失う、六なり。兵分かたば則ち盡く其の弊を易う、是れ六つの利有り。

勝敗は兵家の常の勢いなり。内を悉くして外を撃つ、失えば則ち所有を挙げて之を棄つ、苻堅の淝水、哥舒翰の潼關是れなり。是れ則ち敵を制するは謀に在りて眾に在らず。趙・魏・燕南を以てし、山西を益し、民は以て守るに足り、兵は以て戰うに足る。分かちて之を帥し、將は專制を得、仮令ひ偏師挫衄すとも、他の眾尚奮い、豈に國の安危を繫ぐ能わんや。故に師外に覆りて本根動かざるは、善く敗くるなり。昔し六國各々地千里を有し、師秦に敗れ、散じて復た振い、幾百戰も猶其の都に及ばず、國を守るの固きなり。陳勝ちんしょう項梁こうりょう、關東の眾を挙ぐ、朝に敗れて夕に滅ぶ、新たに造るの勢いなり。天下の廣きを以て其の國を謀るも、千里の固きに若かず、而して新たに造るの勢いを襲い、一戰に僥倖せんとす、庸ぞ惑わざらんや。兵既に久しく弭り、士大夫誦習し、百世復た用いられずと謂い、甚だしからざる妄者に非ざれば談ぜず。然れども兵果たして廢すれば則ち已む、儻し後世復た之を用うれば、此を鑒みて少しく以て世主を悟らしめん、故に其の勝敗を跡づく云う」。

『息戍』に曰く、

「國家朔方を割棄し、西師三十年を出でず、而して亭徼千里、重兵を環らして之を戍る。種落屢擾すと雖も、即時に輯定す、然れども屯戍の費、亦已に甚だし。西戎寇を為す、遠く周世よりし、西漢の先零、東漢の燒當、晉の氐・羌、唐の禿髪、歷朝侵軼し、國の劇患と為る。師を興し律を定むるに、皆成功有り、而して中國を勞弊せしむ、東漢尤甚だしく、費用常に億を以て計る。孝安の世、羌叛すること十四年、二百四十億を用う。永和の末、復た七年を經、八十餘億を用う。段紀明に及んで、用いること裁五十四億にして、剪滅殆んど盡く。今西北の涇原・邠寧・秦鳳・鄜延の四帥、戍卒十餘萬。一卒の歲給、慮る無く二萬、騎卒と冗卒、其の中を較ぶれば、總廩給の數、恩賞は其中に在らず、十萬を以て之を較ぶれば、歲用二十億。靈武兵を罷めてより、費を計るに六百餘億、方前世數倍なり。平世の屯戍、且猶是の若く、後他警有ると雖も、一日も輟め去るべからず、是れ十萬の眾、增有りて損期無し。國家厚利を以て商を募り粟を入れ、四方の貨を傾くるも、然れども水漕の運無く、輓致する所亦た邊數郡を被るに過ぎず。歲常に登らず、廩常に給す、頃年亦た嘗て稍匱せり。儻い其れ我が薦饑に乘ぜば、我必ず師を濟い、饋饟當に關中より出づべく、則ち未だ戰わずして西垂已に困す、慮わざるべけんや。

唐の府兵を按ずるに、上府千二百人、中府千人、下府八百人。今の計り為すに、丁民を籍して兵と為し、唐に擬ひて府を置き、頗る其の数を損ずるに若かず。又今邊鄙に鄉兵の制有りと雖も、然れども極塞數郡に止まり、民籍寡少にして、敵に備うるに足らず。京兆西北數郡を料るに、上戶十餘萬、中家其の半ば、兵六七萬を得べし。其の賦を質して他に易えず、賦帛を以て名くる者は五穀に易えず、馬を畜うる者は又其の雜徭を蠲す。民宗を庇うを幸いとし、樂然として籍に隷す。農隙に事を講じ、材武に登る者を什長・隊正と為し、盛秋旬に閱し、常に寇至るが若し。關内・河東の勁兵を以て之に傅え、京師の禁旅を盡く罷め、守帥を慎み簡び、其の統を分かち、其の任を專らにす。統を分かてば則ち兵重からず、任を專らにせば則ち將益勵み、其の守備を堅くし、其の形勢を習い、粟を積み多くし、士を教え銳くし、虜眾をして隙窺う可からしめず、戰わずして懾せしむ。『兵志』の所謂く「其の來らざるを恃む無く、吾れ之を待つ有るを恃む」、其れ廟勝の策ならんか」。

又た『述享』、『審斷』、『原刑』、『敦學』、『矯察』、『考績』、『廣諫』を作り、凡そ『雜議』合わせて九篇を上之。

趙元昊が反乱を起こすと、大将葛懷敏が彼を経略判官に辟召した。尹洙は葛懷敏の辟召を受けたものの、特に韓琦に深く知られていた。ほどなく、劉平・石元孫が戦いに敗れると、朝廷は夏竦を経略・安撫使とし、范仲淹・韓琦をその副使とし、また尹洙を判官とした。尹洙はたびたび上疏して軍事を論じ、便殿で二府の大臣を召し出して辺境の事を議し、また開宝以前の用兵の先例を研究し、特に英明な決断を下して、辺境の計略を重んじるよう請うた。また柵塁を減らして併合し、土兵を募集し、騎兵を減らして歩兵を増やすよう請うた。また爵位売買の法令を上奏した。時に詔が攻守の計略を問うたので、夏竦は二つの策を具申し、韓琦と尹洙に命じて宮廷に赴かせて奏上させた。帝は攻撃策を採用し、尹洙を集賢校理とした。尹洙はただちに延州へ急いで出兵を謀ったが、范仲淹は反対して認めなかった。慶州に戻ると、任福が好水川で敗れた報せに接し、慶州の部将劉政の精鋭兵数千を発して鎮戎軍へ急行させ救援に向かわせたが、到着する前に賊は退却した。夏竦は尹洙が独断で兵を発したと上奏し、濠州通判に降格された。当時の言論者は任福の敗北は、参軍耿傅が督戦を急ぎすぎたためだとしていた。後に耿傅の手紙が発見されると、それは任福に慎重を期し軽々しく進軍しないよう戒めたものであった。尹洙は耿傅が文官であり、軍事的責任はなくながら戦陣で死に、さらに当時に誣告されたことを思い、そこで『憫忠』『辨誣』の二篇を作った。

まもなく、韓琦が秦州知州となると、尹洙を辟召して州事を通判させ、直集賢院を加えた。上奏して言うには、

「漢の文帝は盛徳の君主であるが、賈誼が当時の情勢を論じて、なお慟哭すべきであると言った。孝武帝は外に四夷を制し、君主の威厳を強めたが、徐楽・厳安はなお陳勝が秦を滅ぼし、六卿が晋をさんさんだつしたことを戒めとした。二帝は危乱滅亡を忌諱としなかったので、子孫が天下を保有すること十余世に及んだ。秦の二世の時、関東に盗賊が起こった。ある者が反乱者のことを報告すると、二世は怒ってその者を官吏に引き渡した。ある者は『追捕は今や尽き、憂うるに足らず』と言い、二世は喜んだ。隋の煬帝の時、四方で兵乱が起こり、左右の近臣は皆賊の数を隠し、実情を報告せず、賊が多いと言う者は、たびたび詰責を受けた。二帝は危乱滅亡を忌諱としたので、秦・隋の宗廟社稷は数年で丘墟と化した。陛下は今日の天下の治を見て、漢の文帝と比べてどうか。威をもって四夷を制することを、漢の武帝と比べてどうか。国家の基本は仁徳にあり、陛下は慈孝で民を愛し、誠に秦・隋よりはるかに優れている。しかし西には臣従せぬ虜があり、北には強大な隣国があり、これは単なる里巷の盗賊の勢いではない。

西夏が叛いてより四年、辺境の塞はたびたびの侵擾に苦しみ、内郡は遠方への輸送に疲弊している。兵は外に久しく駐留し休息の期はなく、ついに弊害に乗じて起こる者がある。『兵法』にいう『智者ありといえども、その後を善くすること能わず』とはこのことである。この時に当たり、陛下は日夜憂懼し、事変を慮り禍源を塞ぐべきである。陛下は辺境の事を広く諮問し、直言を容れられるが、前世の君主の勤労寛大なもので、遠く及ぶものはなかった。しかし宗廟を憂い、危亡を懼れることを聞かない。これが賤臣が憤慨して止まない所以である。なぜか。今、命令はたびたび改まり、恩寵は過度に濫用され、賜与は節度を欠いている。この三つは、戒め慎むべきことは、陛下の行うところにあり、動かし難い情勢ではない。しかし因循して改めず、弊害は日々甚だしくなる。臣が陛下が宗廟を憂い危亡を懼れないと言うのは、このためである。

そもそも命令とは、君主が下に対して信頼を得る手段である。かつて民間では、朝廷が一つの命令を下すと、皆畏敬の目で見た。今はそうではなく、互いにひそかに語り合い、『まもなく改まるだろう』と言い、やがてその通りになる。これは命令が下に対して日々軽んじられることである。命令が軽んじられれば、朝廷は尊ばれない。また群臣が忠謀を献じる者がいると、陛下は初めはよく聞き入れられるが、年を経て一人がそれを阻むと、お心が移ってしまう。忠言を言う者は、信頼が最後まで続かないので、自らその謀を屈して、無益だと思う。これが命令がたびたび改まる弊害である。

爵禄賞与は、陛下が持つ権柄である。近ごろ外戚・内臣および士人で、縁故によって恩沢を求める者がおり、宮中から下されるのを『内降』という。臣は聞く、唐の政権が衰えた時、ある時は母后が専制し、ある時は妃や公主が朝廷を擅にして、私的な恩恵で党派を立て、『斜封』と称した。今陛下は威柄を自ら出される。外戚・内臣で賢能な者は、大臣と公議して進めるべきであり、どうして『斜封』の弊害を襲う必要があろうか。しかも大臣がこれに従えば、陛下の綱紀を壊すことになる。従わなければ、陛下の徳音を阻むことになる。綱紀を壊すことは、忠臣の忍ぶところではない。徳音を阻めば、威柄は上から軽んじられる。また公に尽くして偏らないことが、朝廷が大臣に求めることである。今、自ら私的な寵愛によってこれを撹乱し、大臣が私心を持たないことを責めるのは難しい。これが恩寵が過度に濫用される弊害である。

そもそも賜与とは、国家が功労を励ます手段である。近年、嬪御や伶官・太医の類への賜与が過度に厚い。民間では伝え聞く、内帑の金帛は皆、祖宗が累朝にわたって積み重ねたものであると。陛下はこれを用いるに当たり、あまり愛惜されず、今残っているものはほとんどないと。遠方の者は、確かに内府の豊かさや欠乏の数を知ることはできないが、民から取り立てることが日々煩わしくなるのを見れば、公帑に蓄えられているものが厚くないことを知る。臣もまた、国家が西方に宿兵を置いて以来、費用が次第に広がり、帑蔵の蓄積が必ずしも全て賜与に費やされたわけではないことを知っている。しかし下民には家々戸々に至って説明することはできず、ただ陛下の行われることに感応するのみである。往年、辺将の王珪が力戦して金を賜ったと聞けば、誰もが喜んで服した。あるいは優人が得るものが過度に厚いのを見れば、しばしば憤慨して嘆いた。人情は察知せざるを得ない。これが賜与に節度がない弊害である。

臣が論ずる三つの事柄は、皆人が共に知るところであり、近臣はへつらって言わず、今日に至っている。今、四夷の患いだけではなく、朝政は日々弊害を生じているのに陛下は悟らず、人心は日々危険になっているのに陛下は知らない。故に臣は願う、まず内を正し、それから外を正すことを。そうしてこそ忠謀は次第に進み、綱紀は次第に挙がり、国用は次第に足り、士心は次第に奮い立つ。辺境の患いは、おそらく鎮まるであろう。深く秦・隋が忠言を聞くのを悪んだために滅亡したことを察し、遠く漢の君主が危乱を忌諱しなかったために存続したことを手本とし、日々盛徳に親しみ、民と共に更始されるならば、天下は幸いである。」

仁宗はこれを賞賛して受け入れた。

太常丞に改め、涇州知州となる。右司諫・渭州知州として涇原路経略公事を兼ねる。時に鄭戩が陝西四路都総管となり、劉滬・董士廉を遣わして水洛に城を築き、秦州・渭州の援兵を通じさせようとした。尹洙はこれ以前にたびたび賊に苦しめられたのは、正に城砦が多く兵勢が分散したためであると考え、今さらに城を増やすことはできないとし、奏上してこれを止めさせた。時に鄭戩はすでに四路の職を解かれていたが、劉滬らが引き続き役務を監督していると上奏した。尹洙は不満に思い、人を遣わして再び劉滬を召したが来ず、張忠を派遣して代わらせようとしたが、これも受け入れられなかった。そこで狄青に命じて劉滬・董士廉を拘束し官吏に引き渡させた。鄭戩は上奏して止まず、ついに尹洙を慶州に転任させて水洛に城を築かせた。また晋州に転任し、起居舎人・直龍図閣・潞州知州に遷る。時に董士廉が宮廷に上書して尹洙を訴えたため、詔により御史劉湜が派遣され取り調べたが、他の罪は見つからなかった。しかし尹洙は部将の孫用が軍校から辺境の官に補され、京師で利息付きの借金をして任地に赴き、償う術がなかったことから、その才能を惜しみ、法を犯して罷免されるのを恐れ、かつて公使銭を借りて彼のために返済し、また自ら借りたとされたため、罪に坐して崇信軍節度副使に貶謫され、天下の人は劉湜が文書で罪を捏造したと皆思った。均州酒税監に転任し、病気にかかり、公文書を持って南陽に赴き医者を訪ねたが、死去した。四十七歳。嘉祐年間、宰相韓琦が尹洙のために上言し、そこで旧官を追復し、その子尹構に官職を与えた。

尹洙は内に剛直、外に温和で、学識広く識見と度量があり、特に『春秋』に精通していた。唐末から五代を経て、文章の格調は卑俗で弱弱しかった。宋の初めに至り、柳開が古文を始め、尹洙と穆修が再びこれを振興した。その文章は簡潔にして法があり、文集二十七巻がある。元昊が臣礼を取らぬ以来、尹洙は常に軍中に在ったので、西方の事柄には特に習熟していた。その兵制についての論説は、戦守勝敗を述べ、当時の利害を尽くしている。また土兵を訓練して戍卒に代え、辺境の費用を減らし、戎狄を防ぐ長久の策としようとしたが、いずれも施行される前に至らなかった。そして元昊が臣従し、尹洙もまた去って罪を得たのである。

孫甫

孫甫、字は之翰、許州陽翟の人である。若くして学を好み、日に数千言を誦し、孫何の古文を慕った。初め進士に挙げられ、同学究の出身を得て、蔡州汝陽県の主簿となった。再び進士に及第し、華州の推官となった。転運使の李紘がその才能を推薦し、大理寺丞に遷り、絳州翼城県の知事となった。杜衍が永興軍の司録に辟召すると、凡そ吏職の細末なことまで皆、孫甫に依拠して処理させた。孫甫は言った、「私をこのように扱うならば、去ることができる」。杜衍はこれを聞き、以後小事を孫甫に任せなくなった。杜衍が宴席で語りかけると、孫甫は必ず経書を引いて答え、天下の賢俊について、その才能・性格の長所を歴評した。杜衍は言った、「私は属官を辟召して、益友を得た」。諸生も多く孫甫に従って学問した。

永昌県の知事に転じ、益州交子務を監察し、再び太常博士に遷った。蜀では鉄銭を用い、民は輸送・取引の重荷に苦しんだので、紙に文字を書いて銭に代える法を設け、市場取引を便利にした。転運使は、交子の偽造が多く法を犯すため、廃止して用いないようにしようとした。孫甫は言った、「交子は偽造できるが、銭もまた私鋳できる。私鋳があれば法を犯すが、銭を廃止できるか。ただ厳しく取り締まるべきであり、小仁をもって大利を廃すべきではない」。後に結局廃止できなかった。杜衍が枢密副使となって朝廷に推薦し、秘閣校理を授かった。

この年、三館の臣僚に事を言うよう詔があった。孫甫は十二事を進言し、祖宗の故事に照らし、当世の治が及ばないところを校して、論述して諷諫とし、『三聖政範』と名付けた。右正言に改めた。時に河北に赤雪が降り、河東では地震が五六年止まなかった。孫甫は『洪範五行伝』及び前代の変異の験を推究し、上疏して言った、「赤雪とは赤い妖祥であり、人君が緩慢であることの応である。緩慢であれば政事は弛み、賞罰は誤り、百官は職を廃し、それゆえに乱を招くのである。晋の太康年間、河陰に赤雪が降った。時に武帝は政事に怠り、後宮で荒れた宴楽に耽った。臣下に会うたびに、多くは常事を語り、国を治める遠大な計画には及ばなかった。故に赤い妖祥の怪を招き、ついに晋の乱を招いたのである。地震とは陰の盛んなるものである。陰の象は、臣下であり、後宮であり、四夷である。この三者は過度に盛んになってはならず、過度に盛んになれば陰が変じて動くのである。忻州は趙の分野であり、地震が六年続く。震えるたびに雷のような音がする。前代の地震で、これほど長く続いたことはない。ただ唐の高宗は本来晋に封ぜられ、即位すると、晋州で一年中地震が続いた。宰相の張行成が言った、『恐らくは女謁(婦人の請託)が事を行い、大臣が陰謀を企てているのであろう。未然に制すべきである』。その後、武昭儀(則天武后)が専横放恣となり、ほとんど唐の国統を移さんとした。天地の災変は、決して虚しく応じるものではない。陛下が緩慢の失を救おうとされるなら、自ら威福を主とし、時に英断を出して、姦邪を脅かし、天下を粛正されるに如くはない。陰盛の変を救おうとされるなら、外には戎備を謹み、内には後宮を制御されるに如くはない。戎備を謹めば、大臣を厳しく責めて、兵防を予め図らせ、成敗を熟慮させよ。後宮を制御すれば、掖庭で典掌・御幸に預からない者は全て出し、かつその恩寵を削減節制して、過分ならしめぬようにせよ。これが天に応ずる実である」。時に契丹・西夏がやや強勢となり、後宮の張修媛が寵愛され、大臣が専政していたので、孫甫はこれをもって諫めたのである。

また言った、「張修媛が寵愛されて恩を市い、禍の芽は既に萌している。后こそが正嫡であり、その他は皆婢妾に過ぎない。貴賤には等級があり、用いる物は過度に僭上であってはならない。古来、女色を寵愛して、初めに制せず後に制し得なくなった者で、その禍を悔い改め得た者はない」。帝は言った、「用いる物は有司が管轄する。朕は知らなかったことを恨む」。孫甫は言った、「世に諫臣を耳目の官と言うのは、知らぬことを通達させるためである。もし前世の女禍と言われるものは、書史に載っているので、陛下は自ら知ることができるであろう」。

夏国が盟を乞うた。孫甫は一利四害を上奏し、言った、「兵を駐屯させて以来、国家の費用は空しく消耗している。今もし彼らと和約を結べば、辺境の兵は減らせ、賦課徴発は省くことができる。これが利の一つである。初め、契丹は声言して、嘗て使者を遣わして西人(西夏)を諭し、中国に臣従させたと言った。今和議が既に成れば、必ずその功を恃むであろう。去年には割地の請いがあり、朝廷は既に歳幣を増やした。もし更に求められたら、どうやって拒絶しようか。これが害の一つである。承平四十年以来、武事は整わず、辺境に警報があってから、習熟せぬ将、訓練されぬ兵を用いたので、久しく成功がなかった。しかし近頃、辺境の臣の中で才謀勇健な者が、次々と再び現れ、まさに講習訓練に懈怠なく、中国の威を張ろうとしている。一旦、和議によって備えを弛めれば、再び昔日のようになり、緊急時には必ず用をなさないであろう。これが害の二つである。元昊が命に背いて以来、終に関中に深入りできなかったのは、唃厮囉等の族が従わず、後患となることを慮ったからである。今、中国が彼らと和し、歳々の遺贈の厚さを得れば、彼らは必ず全力を以て二蕃(吐蕃・回鶻か)を制圧し、強大な勢いはここから始まるであろう。これが害の三つである。かつ朝廷は久安の勢いに恃み、法令紀綱は弛んで修復されない。西戎に累敗してから、王師はようやく更張を議し、前の弊を救おうとしている。今、戎人が和を請うのを見て、苟くも事なきことを貪れば、将来の患いは救いようがなくなるであろう。これが害の四つである。凡そ利害の機微について、願わくば陛下は熟慮されたい」。

また言った、「張子奭が夏州より使いして戻り、元昊は再び臣と称したが、しかし歳に青塩十万石を売ることを乞い、兼ねて京師で諸物の互市を行いたがり、なお歳給の数を増やすことを求めた。臣は考えるに、西塩数万石の価値は銭十余万緡に下らない。況んや朝廷は既に歳賜二十五万を許している。もしまたその塩売りを許せば、契丹に与える物の数と相当となる。契丹がこれを聞けば、貪得の心が生じるであろう。況むし徳明の時代から、累次青塩の流通許可を乞い、先帝はその法を乱すとして聴かなかった。請いが止まないので、徳明の弟を入質させてから許したのである。これは彼らが従い難い事を以て、その意を杜ぐためであった。そもそも塩は中国の大利であり、また西戎の塩は味が解池の産に勝り、しかも出産は無尽蔵である。その禁を開けば、民間に流れて、堤防する術がなくなる。兼ねて張子奭の言を聞くに、元昊は命に背いて以来、人心を収結し、掠奪して得たものを直ちにその衆に与え、兵力は勝っていても、費用は次第に窮乏しているという。この時に当たっては、特に計略を以て彼らを困窮させるべきであり、どうして急いで和し、曲げてその請いに従うことがあろうか」。

時に陝西経略招討副使の韓琦、判官の尹洙が朝廷に還った。孫甫は建議して韓琦等に詔し、四路の将官の能否を条陳させ、上・中・下三等とし、最も下等の者を罷免するよう請うた。保州の兵変の前に、告げる者があったが、大臣は時に応じて発動しなかった。孫甫はこれにより枢密使・副使が罪を得るべきであると言った。使はすなわち杜衍である。辺将の劉滬が渭州に水洛城を築いた。総管の尹洙は劉滬が節度に違背したとして、斬ろうとした。大臣はやや尹洙の議を支持した。孫甫は、「水洛は秦・渭に通じ、国家にとって利である。劉滬を罪すべきではない」と言った。これにより尹洙を罷免し劉滬を釈放した。杜衍はたびたび孫甫を推薦し、尹洙は孫甫と平素親善であったが、孫甫は少しも仮借せず、その剛直で私心のないことはこのようであった。

孫甫はかつて参知政事陳執中が学問がなく術策もないので用いるべからずと述べた。帝はこれを難しく思い、これにより孫甫は外補を求めたが、許されなかった。その後、丁度が対面の際に進用を求めたと奏上すると、帝は「丁度は請うたことはない」と言った。丁度は孫甫と弁明を求め、かつ孫甫を宰相杜衍の門人であると指摘した。そこで右司諫として出向し鄧州知州となり、安州に移り、江東・両浙転運使を歴任した。

范仲淹が杭州知州であった時、多くは便宜によって事を処した。孫甫は「范公は大臣である。我がここで屈すれば、彼において伸ばすことができぬ」と言った。一切を法によって律したが、退いて後はその賢を称えなかったことはなかった。再び尚書兵部員外郎に遷り、直史館に改め陝州知州となり、晋州に移った。河東転運使・三司度支副使となり、刑部郎中・天章閣待制・河北都転運使に遷り、留まって侍読となった。卒去し、特に右諫議大夫を贈られた。

孫甫の性格は勁直果断で、議論をよく持ち、文集七巻があり、『唐史記しき』七十五巻を著した。しばしば唐の君臣の行いを述べ、当時の治乱を推し見ることは、あたかも自らその間に身を置いたかのようであり、聞く者は明らかにして、目の当たりに見るが如くであった。当時の人は「終日史を読むも、一日孫の論を聴くに如かず」と言った。『唐史』は秘閣に蔵された。

謝絳

謝絳は字を希深といい、その先祖は陽夏の人である。祖父の懿文は杭州塩官県令となり、富陽に葬られたので、ついに富陽の人となった。父の濤は文行をもって称され、進士より起家し、梓州榷塩院判官となった。李順が成都で反乱を起こし、州県を攻め陥れた時、濤は守禦の計を画策した。賊が平定されると、功により観察推官に遷り、権知華陽県となった。乱亡の後、田廬は荒廃し、詔して田を占めて倍の租を納める者にこれを与えると、これにより肥沃な田はすべて豪右に占められ、流民は帰る所なく至った。濤は詔書を収め、すべて田を元の主に返した。秘書省著作佐郎・知興国軍に改めた。還り、治行をもって長春殿に召対され、学士院を試すことを命じられた。契丹が侵入した時、真宗は親征を議し、当時曹州・濮州に盗賊が多く、契丹は斉・鄆に向かうと声言したので、濤を以て曹州知州とした。属県の賦税は多く睢陽に輸送して兵糧を助けたが、この年は霖雨が続き、百姓は転送に苦しんだので、濤はすべて留めて送らなかった。奏上して言うには「江・淮の漕運は日々睢陽を過ぎるので、これを取って軍に餉ぐことができる。願わくは曹州の賦を留め、広済河によって京師に饋送せしめられたい」と。転運使は不可と論じたが、詔して濤の奏に従った。かつて蜀に使いして還り、配下の官三十余人を挙薦した。宰相は多しと疑ったが、濤は「罪あれば、連座を願う」と言った。奉使が官を挙げて連座するのは濤に始まる。久しくして、馮拯の推薦により、再び召し試され、尚書兵部員外郎直史館となり、ついに侍御史知雑事を兼ねた。真宗山陵の霊駕が経由する道路について、有司は城門・廬舎を悉く壊して、車輿象物を通すよう請うた。濤は言うには「先帝の車駕が封祀された時、儀物は大いに備わっていたが、なお毀撤したと聞かない。かつ遺詔は倹薄に従うとある。今、有司が明器を治めて侈大にし、州県を労するのは先帝の意ではなく、願わくは少府に下してこれを裁損せしめられたい」と。直昭文館に進み、累官して太子賓客に至った。

謝絳は父の任子により秘書省校書郎を試み、進士に挙げられ甲科に及第し、太常寺奉礼郎・知汝陰県を授かった。議論を善くし、時事を談ずることを好み、かつて四民の失業を論じて数千言を累ねた。天禧年中、上疏して宋は土徳をもって天下に王たるべきと述べた。当時、大理寺丞董行父は天を統とし、金を徳とするよう請うた。詔して両制に議させたが、皆言うには「土徳を用いるならば、唐を越えて隋に承くべきであり、金徳を用いるならば、五代を越えて唐を継ぐべきである。しかるに太祖は実に周室より受終したのであって、どうして伝継の序を遵ばないことができようか」と。謝絳・行父の議はともに退けられ用いられなかった。

楊億が謝絳の文章を推薦し、召し試され、秘閣校理・同判太常礼院に抜擢された。母の憂に服し、喪が明けて、仁宗が即位すると、太常博士に遷った。鄭氏の『経』・唐の故事を用いて、宣祖は受命の祖ではないので感生帝に配享すべからずと議し、真宗を以てこれに配するよう請うた。翰林学士承旨李維は不可とした。まもなく出て常州通判となった。天聖年中、天下に水旱・蝗害が起こり、黄河が滑州で決壊すると、謝絳は上疏して言った。

「去年、京師は大水に見舞われ、民の廬舎を破壊し、河渠は暴溢して、ほとんど城郭を冒さんとした。今年は旱魃に苦しみ、百姓は疫病で死に、田穀は焦げ枯れ、秋の収穫は絶望的である。これらは皆、大いなる異変である。『洪範』・京房『易伝』を按ずるに、皆、祭祀を簡略にし、天時に逆らえば、水は順下せず、政令が時に逆らい、水がその性を失えば、国邑を壊し、稼穡を傷つけ、事を専らにする者が知り、誅罰が理を絶てば、大水が人を殺し、徳を用いようと欲するも用いられざる、これを張と謂い、その災いは荒であり、上下ともに蔽われる、これを隔と謂い、その咎は旱であるとしている。天道は類を指して戒めを示す。その大要はこのようである。陛下は夙夜勤苦して、時変を塞ぐ方策を考えておられる。固より殃咎を策告し、理化を変更し、罪己の詔を下し、順時の令を修め、群言を宣べて壅塞を導き、近幸を斥けて陰を損ずべきである。しかるに聖心は優柔で、改作に重きを置き、発する号令には、天心に当たるものがあるとは聞かない。

風雨・寒暑は天時にとって大いなる信である。信が物に及ばず、沢が下に究まらなければ、水旱が災いとなる。近日の制命には、二晩で改まり、適に行われて急に止むものがあり、これで風雨が信であることを望むことができるだろうか。天下は広く、万機は多く、房闥を出ずしてどうしてことごとく知ることができようか。朝廷の臣で、数刻の召しを受け、片言の善を吐いたと聞かず、朝夕左右にいるのは恩沢を受けた者か佞幸である。上下ともに蔽われている。その応は虚ではない。

昔、両漢では日食・地震・水旱の変があると、三公を策免して戒懼を示した。陛下は丞弼を進用され、一時の選りすぐりを極めておられるが、政道はまだ盛んでなく、天時はまだ順わない。これは大臣の輔佐が明らかでないのか。陛下の信任が篤くないのか。もし必ずこれを用いるならば、推心して責成し、その効果を極めるべきである。そうでないというならば、さらに賢者を選ぶべきである。近ごろは奸邪な者が進みやすく、道を守る者はしばしば窮し、政は多門より出で、俗は径によることを喜ぶ。聖心は固より天下の賢能をことごとく得て、職を分け業を受けることを欲しておられるが、宰相は方々賢を考課し吏を進めるだけで、敢えて建白する者はない。徳を用いようと欲するも用いられざるという応は、またここに験することができる。

今、陽気は驕って解けず、蟲孽は次第に熾んになり、河水は妄りに行く。依違の跡に循い、尋常の政を行えば、臣は霊意を回らし至戒を塞ぐに足らぬことを恐れる。古くは、穀が登らなければ膳を減らし、災いが屡く至れば服を降し、凶年には塈を塗らなかった。願わくは詔を下して咎を引き、太官の膳を損じ、路寝の朝を避け、士大夫に斥諫して上聞することを許し、時病を譏切せしめられたい。不急の役を罷め、無名の斂を省き、私恩を崇めず、さらに直道を進め、徳を宣べて化を流し、天下を休息せしめられたい。至誠が上に動き、大恵が下に洽えば、どうして時沢の艱難があろうか。」

仁宗はこれを嘉納した。

国史編修の事業が行われた際、張絳は編修官に任ぜられ、史書が完成すると、祠部員外郎・直集賢院に昇進した。当時、父の張濤は西京に官職にあり、かつ老齢であったため、張絳は近くで養うことを願い出て、河南府通判となった。また論じて言うには、「唐の朝廷では麗正殿・史官の役所が、ともに大明宮・華清宮内にあった。太宗皇帝が三館(昭文館・史館・集賢院)を創建し、さらに昇龍門の左に秘閣を設け、自ら飛白体で扁額を書き、賛文を作って閣の下に刻石された。景德年間(1004-1007)には、図書が次第に増え、真宗皇帝はさらに内帑の四庫を加えられた。二聖(太宗・真宗)はしばしば臨幸され、自ら労をねぎらい問われ、広内に宿直する者には、時を定めない召し出しがあった。人々はみな道術を勉め、芸文を究め、天子が礼を尊び勤勉であることを知り、名臣や高位の者は、ここから選ばれたのである。かつて火災に遭い、修復する暇がなく、ある者は両省(中書省・門下省)の故事を引き、別に外館を建てたが、直舎は低く喧騒で、民家の軒が密集して接していた。太官や衛尉の供給はますます削減され、体面を損ない風紀を傷つけること、これほど甚だしいものはない。陛下は未だ翠華を迂らせ玉趾を降されることなく、寂寥たる冊府には、車馬の音も聞こえず、長い日が経っている。議論する者は、道を慕うことが古に篤くなく、士を待つことが以前より損なわれているという。士には訪問を延ばす勤めがなく、因循として互いに尊び、自ら奮起策励せず、文雅が次第に弊害をきたしている。ひそかに聖朝のため惜しむ。内館を開設され、景德の制度を恢弘されることを願う。」詔して許可された。

張絳は外任にあっても、なおしばしば時事を論じた。上奏して言うには、「近年、不逞の輩が、数術を口実とし、先生・処士を自称し、禿巾に短褐を着て、内には権幸と結び、外には州邑を走り回り、甚だしい者は詔書を偽り、官吏を傲慢に軽んじる。厳重に禁止を請う。かつて墨敕(皇帝直筆の勅書)で封号を賜った者は、追還すべきである。」

開封府判官に還任され、上言した。

「蝗害が田野に横たわり、城郭に押し寄せ、官寺に跳ね回り、井戸や厠も満ちている。魯の史書が三度螟(稲の害虫)を記したのは、『穀梁伝』によれば哀公が田賦を用いて民から虐取したためである。朝廷の徴収緩急の法は、廉平に近いが、臣の愚かな聞くところでは、官吏が甚だしく称職せず、その変異を招いたようである。およそ今、城を治め民を牧する者は、一方を専断する勢いがある。有能な者は功を掠め名を取り、厳急を術とし、あるいは偽りを弁じて実がなく、しばしば褒賞記録を受ける。愚かな者は期日や簿書に拘り、首尾を畏れる。両者の政は異なるが、弊害に帰することは同じである。

国を治めるのは民を養うことにあり、民を養うのは吏を択ぶことにある。吏が循良であれば民は安らぎ、気が和すれば災害は止む。まず数十から百の大州邑を取り上げ、公卿以下に詔して、州守に任ずる者を推挙させ、自ら属県の令長を辟召することを許し、術略を求めることに務め、資歴や考課に制限しないようにせよ。その後、制約を緩め、便宜を以て事に従うことを許せ。一年後に条理を上申して治績を述べ、転任か留任か、必ず功績と教化の風跡があり、有司が資歴によって任用する者とは異なるであろう。漢の時、詔して京房に災異を止める術を問うと、房は考功課吏(官吏の考課)をもって答えた。臣は願わくば陛下が理官(司法官)に広く訪ね、煩苛な命令を除き、計臣(財政官)に申し諭して、聚斂の役を減らされんことを。大獄を起こさず、躁急な人を用いず、静安を務め、淵黙を守られよ。『伝』に曰く、『大侵(大凶作)の礼は、百官備わるも制せず』と。事を省くことを言うのである。このようにして災いの気が消えず、嘉祥が至らなければ、それは霊意が誣罔であり、聖言が惑わされないということなのか。」

ちょうど郭皇后が廃された際、張絳は『詩経』の「白華」を引き、申后や褒姒の故事を伸べて諷諫し、言葉は甚だ切実であった。三司度支判官に転じ、さらに兵部員外郎に昇進した。上言して言うには、「近来、物資の使用がますます奢侈になり、賜与が制度を過ぎ、禁中の需要は、去年の計算で緡銭四十五万に及んだ。今年の春から四月までに、既に二十万余に達している。先ごろ費用を削減する詔があったが、有司が移す文書は、ただ咸平・景德年間の簿書を求めている。簿書が存在しなければ、措置のしようがない。臣は思うに、近きを推し及ぼして遠きに及び、逐年の費用を順次考査して削減するのがよく、必ずしも咸平・景德を基準とすべきではない。」

初め、密花透背(緻密な模様の織物)の織造を罷め、服用を禁じ、かつ掖庭(後宮)から始めると詔された。既にして内人に衣服を賜るのに、また有司から取り立てた。また後苑作が玳瑁器を製作し、市場に亀筒を求めた。亀筒は禁物であり、民間が所有すべきでないのに、求めやまない。張絳はこれらをすべて論じて罷めさせた。また言うには、「号令が数変すれば国体を損ない、利害を偏聴すれば聡明を惑わす。請う者は互いに各行わんと務め、守る者は統一されないことを患う。内降(皇帝の直接命令)を罷め、凡そ詔令は皆、中書・枢密を経てから施行すべきである。」ここにおいて『聖治箴』五篇を進呈した。

父の喪に服して職を去り、喪が明けると、知制誥に抜擢され、吏部流内銓・太常礼院を判った。吏部が官職を擬する際、旧来は職田の有無を見て、多少を問わず、これによって不均等であった。張絳はその実を核査し、多少によって差等をつけ、名ばかりで実のない者はすべて用いず、人々は便利とした。初めて礼院を判ることを知礼儀事と改めたのは、張絳の建議によるものであった。

契丹に使いし、帰還後、鄧州知事を請うた。州から百二十里のところに美陽堰があり、湍水を引いて公田を灌漑していた。水の来る所は遠くて少なく、民に利益が及ばない。堰のほとりに新たな土を築いて防ぎ、俗に墩と呼ぶものは、大小また十数あり、毎年しばしば壊れ、そのたびに民を徴発して増築した。奸人が薪やまぐさを蓄え、その急を待ち、しばしば堰や墩を盗み決壊させ、百姓はこれを苦しんだ。張絳は召信臣の六門堰の旧跡を調査し、城から三里のところで水を堰き止めて鉗廬陂に注ぎ、灌漑する田は三万頃に及んだ。これを再修することを請い、州民の歳役を罷め、水を民に与えることができたが、完成せずに卒去した。享年四十六。

張絳は文学をもって一時に知名であり、人となりは修潔で醞藉(含蓄)があり、赴任地ごとに大いに学舎を興し、かつ諸郡に学を立てることを請うた。河南では国子学を修築し、諸生を教え、遠方から来る者数百人に及んだ。宗族に施すことを好み、賓客を喜び、この故に、卒去の日、家に余財がなかった。文集五十巻がある。子に景初・景温・景平・景回がいる。景平は学を好み、詩書伝説数十篇を著し、秘書丞で終わった。景回は早世した。

子 景温

景温、字は師直。進士に及第し、汝州・莫州の通判、江東転運判官を歴任した。宣城の百丈圩を興築したが、議者が罪とみなしたため、通判に降格され、漣水軍知軍となった。神宗の初め、知諫院邵亢がその前事を是正し、真州に転じ、江西刑獄提点となった。京西・淮南転運使を歴任した。

景温は平生、中央朝廷に仕えたことがなかったが、王安石と親しく、また景温の妹がその弟の安礼に嫁いだため、急に侍御史知雑事に抜擢された。王安石がちょうど蘇軾を憎んでいた時、景温は蘇軾がかつて喪に服して蜀に帰る際、舟に乗って商販したと弾劾した。朝廷は六路に下って篙工・水師を捕らえて事を窮めたが、ついに一つとして事実はなかった。蘇頌らが李定が母の喪服を着ないことを論じると、景温は王安石の意向を察し、彼の面前で弁護した。やがて事が御史台に下ると、景温は衆議に逆らい難く、初めて李定は追服すべきと言い出した。また薛向が侍従を得るに当たらないと言い、王韶の辺境に関する上奏が誣罔であると言い、次第に王安石の意にそむいたが、それでもかつて自分を助けたことを以て、ただ直史館兼侍読に改めた。敢えて拝命せず、鄧州知事として出た。

一年余りして、陝西都転運使に進んだが、司農寺の制約に従わなかったため、鄧州・襄州・澶州の知事に改められ、直龍図閣を加えられ、将作監を判った。右諫議大夫に転じ、潭州知事となった。章惇が五溪を開拓した際、景温は協力して拡張築造し、功績を論じて官位を進められ、召されて礼部侍郎に拝された。再び出て洪州・応天府・瀛州の知事となった。

元祐初年、宝文閣直学士に進み、開封府知事となった。満たぬ一年のうちに、御史中丞劉摯が彼は煩雑な吏務を処理する者ではないと上言した。右司諫王覿が言うには、「瀛州の妖婦李は九仙聖母に仕えると自称し、人と言葉を通じさせ、禍福を語ることができる。景温は郡においてこれに惑わされ、礼と贈り物を厚くし、十人の兵士に彼女を連れて都に入らせた。たびたび子の慥をその場所に遣わし、李の婿を小史に補任して官府に出入りさせ、その勢威を大きくし、ついには寵妾の弟を放任して、酔って市人を殴打させた。このような政治を行う者が、どうして惜しんで譴責を加えないことがあろうか。」そこで蔡州知州に左遷された。

三年の初め、権六曹尚書を置き、彼を刑部尚書とした。劉安世が再びこれを論難し、鄆州知州に改められ、さらに永興軍を歴任した。時に章惇が宰相となり、景温は元祐の大臣が先帝の政を改め、また西夏人が傲慢で結局は命令に従わないと述べ、分画をやめ、馬の足跡の及ぶところを境とすべきだと主張した。惇はその説を用い、河陽知州に転任させ、死去した。享年七十七。

葉清臣

葉清臣、字は道卿、蘇州長洲の人。父の参は、光禄卿で終わった。清臣は幼少より聡明で異なり、学問を好み文章をよくした。天聖二年、進士に挙げられ、知貢挙の劉筠は彼の対策を奇として、第二に抜擢した。宋の進士が策問によって高第に抜擢されるのは、清臣から始まった。太常寺奉礼郎・簽書蘇州観察判官事を授けられた。還って光禄寺丞・集賢校理となり、太平州通判・秀州知州を歴任した。入朝して三司戸部勾院を判じ、塩鉄判官に改められた。

九つの事柄を上言した。すなわち、使者を遣わして天下を巡行させ、民の苦しみを知り、官吏の能力の有無を察すること。太学を興し、博士を選任し、公卿大臣の子弟を学生に補うことを許すこと。県令を重んじること。諸科挙人は大義を取って名とし、策問をもって責めること。流外官を減らし、仕官させないこと。武臣に三年の喪に服することを許すこと。度僧をやめること。読経という一業を廃すること。兵を訓練し将を練り、命令を出すことを慎み、条約を簡略にすること。多くは載せない。宣州知州として出され、累遷して太常丞となり、同修起居注を兼ね、三司塩鉄勾院を判じ、直史館に進んだ。

この冬、京師で地震があり、上疏して言った。「天は陽をもって動く、これ君の道なり。地は陰をもって静まる、これ臣の道なり。天動き地静まれば、主尊く臣卑し。これを易えれば乱れ、地これがために震う。すなわち十二月二日の丙夜、京師地震し、しばらくして止む。定襄同日に震い、五日に至っても止まず、廬寺を壊し、人畜を殺すこと凡そ十の六。大河の東、千五百里に満ちて都下に及び、誠に大いなる異なり。近来熒惑が南斗を犯し、暦を治める者は顔を見合わせて驚いた。陛下は万政に憂勤し、今夏ようやく泰寧であるのに、一年のうちに災変がなお現れる。必ず下は民望を失い、上は天意に背く者があるから、戒めを垂れて清らかな心を啓発されるのである。しかるに陛下は泰然として異とせず、ただ内侍を四方に走らせ、仏事を修め、道科を行わせるのみで、いわゆる災いを消し回復させる実ではない。近ごろ范仲淹・余靖が言事をもって貶黜され、天下の人、舌を噛んで朝政を議することを敢えず、行くこと二年にならんとしている。願わくは陛下深く自ら咎責し、忠直敢言の士の登用を許し、ほとんど明威が降りて照覧し、善い応えが来り集まるようにせられよ。」書が奏上されて数日後、仲淹らは皆近くに移された。

詔して直言を求めるに会い、清臣は再び上疏して大臣の専政を論じ、仁宗はこれを嘉納した。清臣は外任を請い、両浙転運副使となった。太湖に沿って民田があり、豪族が上流を占拠し、水が流れ出ず、民は訴えることを敢えなかった。かつて盤龍彙・滬瀆港を疏浚して海に通ずることを建議し、民はその利益を頼った。右正言知制誥となり、審官院知事を兼ね、国子監を判じた。

時に陝西で戦争があり、上言した。「当今、将は平素から蓄えず、兵は平素から練らず、財は久しく積まず。少しでも辺境に警報があれば、外にはぎょう将なく、内には重兵なし。西北の二辺を挙げて見れば、大なる瓢箪のようで、外は雄壮を示すが、その中は空洞で、まったく一物もない。もし不幸にも戎馬が猖獗に突進すれば、腹内の諸城は、計術をもって守るべからざるものなり。元昊が僭窃して以来、延州の寇に至るまで因循して、中間一年になる。しかるに屯戍に術なく、資糧充たず、一年中兵を養ってもまったく用に足らず、監牧の馬を連ねても、間もなくすでに虚しくなる。無知な民が頼るものなく安んじることを得ざるは、これ臣が孜々として大なる瓢箪の穿たれることを憂うる所以なり。今、羌戎は少し退くも、変詐窮まりなし。どうして即時の小安に乗じ、前日の大辱を忘れるべきであろうか。また泰然として自ら処すれば、後日今を見るは、今の前日を見るがごとくなるであろう。」

元昊が延州を包囲し、すでに解いて去ると、鈐轄内侍の盧守懃と通判の計用章が朝廷に互いに訴えた。時に内侍で権勢ある者は、多く守懃のために遊説し、朝廷は守懃の罪を軽く議し、用章を嶺南に流罪とした。清臣が上疏して言った。「臣が衆議を聞くに、延州の包囲において、盧守懃はまず范雍に対し号泣し、李康伯を遣わして元昊に会わせ、偷生の計を謀った。計用章は事急なれば、退いて鄜州を保つに如かずとし、李康伯は遂に『死難すべく、城を出て賊に会うべからず』と言った。元昊が退いて以来、守懃は金明の失陥と二将の戦死を恐れ、朝廷が辺将に罪を帰することを思い、また倉卒の言葉が一旦人の発するところとなれば、禍は測るべからざることを思って、遂に前議を覆し、過ちを人に移し、先んじて奏陳し、信を取らんことを冀望した。まさに黄徳和が劉平を誣奏し、退走の罪を免れんとしたがごとし。尋いで聞くに、計用章もまた守懃の事状を疏して斥け、詔して文彦博に置いて劾させたが、曲直未だ分からぬうちに、急いで用章・康伯を罪し、特に守懃を赦した。これには必ず議者が中人と結び、聖聴を惑わし、方に辺陲に師を用いんとするとき、軽々しく大獄を起こすべからずと為したのであろう。臣が前史を観るに、魏尚・陳湯は功ありといえども、なお爵を削られることを免れず、吏士を案験することを罰せられた。ましてや兵を擁して自ら固め、傍観して出でず、羌賊を恣に縦して、一県を破り、二将を擒える。大罪未だ戮せられず、また自らその過ちを蔽い、上奏を矯誣する。これを按じなければ、何の罪か容れられざらん。仮に用章に退保の言ありとせば、ただ畏懦に坐するのみ。しかるに守懃の賊に会わんと謀った行いは、これ帰款である。二者の責、孰れか重く孰れか軽きや。彦博に詔してその獄を鞫正せしめられたい。もし用章の状果たして虚しく、守懃の罪果たして明白ならば、用章をさらに重科に置いても、世論もまた允当であろう。偏って一辞を聴き、王道無党の義を虧くことを容れてはならない。」その後、獄が決し、守懃はわずかに湖北兵馬都監に降格された。

時に西方の軍旅未だ解けず、経費に急であり、中書が三司使を擬進したが、清臣は初め選中になかった。帝が言った。「葉清臣の才は用いることができる。」起居舎人・龍図閣学士・権三司使公事に抜擢した。初めて前後の詔勅を編纂して奏上し、吏が欺くことができないようにし、煩雑な簿帳は一切削除した。内東門・御厨は皆内侍が管轄し、凡そ求めるところは、有司が問うことを敢えなかったが、合同を作ってその出入りを検査した。清臣は宋庠・鄭戩と親しく交わり、呂夷簡に憎まれて、江寧府知事として出された。一年余りして、翰林学士に入り、通進銀台司知事・勾当三班院を兼ねた。父の喪に服し、言者が清臣は兵事に通じているとして、起用して辺境を守らせることを請うた。喪が明けた時、宰相の陳執中は平素から彼を快く思わず、即座に翰林侍読学士・邠州知州に除した。道すがら京師により、対面を請い、澶州知州に改められ、尚書戸部郎中に進み、青州知事となった。永興軍知事に転じ、三白渠を浚渫し、六千余頃の田を灌漑した。

仁宗が天章閣に臨み、公卿を召して、手詔を出して当世の急務を問うた。清臣はこれを聞き、条に対し、時政の欠失を極論し、その言は多く権貴を痛切に批判した。かつ曰く、「陛下は奔競を止めようとされるが、これは中書に係る。もし宰相が奔競の流れを抑えれば、風俗は敦厚となり、人は止足を知る。宰相が邪佞の士を用いれば、貪栄冒進し、渾波を激成する。かつて管庫の職にありながら、日々時相の門に趨走する者がいた。入れば街談巷言を取って耳目を資し、出れば廟謨朝論を窃みて流輩を驚かす。一朝にして皆職司に擢げられ、その任に酬いた。近ごろ人士は競ってこの風に踵を接し、権要の家に出入りし、時に『三屍』『五鬼』の号がある。しかるに館職に列し、あるいは省曹に置く。かつ台諫官は天子の耳目たるべきなのに、今はそうではなく、ことごとく宰相の肘腋となっている。宰相が憎む者には微瑕を捃えて公行して撃搏し、宰相が善しとする者には従って唱和し、その先容を為す。中書の政令が平らかでなく、賞罰が当たらなければ、箝口結舌して敢えて言わない。人主の微細な過差や宮闈の小事には、即ち極言して過当にし、訐直として用いる。供職が一年を過ぎずとも、遷擢は常等を加えている。宋禧が御史として、陛下に宮中で犬を飼い棘を設けて守衛とすべきと勧めた。朝体を弱め、四夷に笑われたのに、呵譚せず、諫官に擢げた。王達は二度湖南・江西の転運使となり、至る所で苛虐を極め、百姓を誅剝し、無辜を徒配したが、ただ宰相の故旧であるゆえに、次を超えて抜擢し、遂に河北の行きを得た。このようにしては、奔競を長じさせることになる。」その他に列挙した利害は甚だ多かった。

時に河が商胡で決壊し、北道が食糧に苦しんだため、再び翰林学士・権三司使とした。旧制では、三司使・権使公事があったが、清臣が除されたのはただ「権使」と言うのみで、これより三等に分かれた。戸部副使の向伝式が職務を果たさないとして、奏請してこれを出した。皇祐元年春、帝が便殿に臨み、近臣に備辺の策を訪ねた。清臣が上対し、おおよそ次のように述べた。

「陛下が天下に臨御されて二十八年、一日も自ら暇を取らず安逸を貪られたことはない。それなのに西夏・契丹が頻年にして患いを為すのは、将相大臣がその人を得ず、陛下のために威徳を張り四夷を攘うことができないからではないか。昔、王商が朝廷にいれば、単于は仰視することを敢えず、郅都が代に臨めば、匈奴は辺を犯すことを敢えなかった。今、内では輔相に謀略が乏しく、綱紀が振わず、外では兵は平素から練らず、将は平素から蓄えられていない。これが外寇が内侮を為し得る所以である。慶曆の時、劉六符が来たが、執政に術略がなく、樽俎の間で折衝してその謀を破ることができなかった。六符も初めは大国に人がいるかと疑い、奸計を蔵して発しなかった。表裏を見るに及んで、遂に陸梁を肆にした。ただ一介の使を煩わすだけで、坐して二十万の物を得、永く膏血を匱して腥膻に奉じている。これが有識の士が国のために長太息する所以である。

今、詔問に『北使が闕に詣り、西戎を伐つことを名として、即ち邀求があれば、何をもってこれに答えるか』とある。臣は誓書に載せられたところ、彼此に求むることなしと聞く。況んや元昊が辺に叛き、累年討伐を致しているのに、契丹は坐して金鼓の出るのを観るだけで、毫髪の助けがあろうか。今、彼の国が出師し、輒ち我が助けを求めるのは、盟に奸み約に違うこと、甚だしきではないか。もし弁捷の人をしてその曲直を判じさせ、要するに一戦してその謀を破れば、我は直く彼は曲く、豈に憚服しないことがあろう。もし咎を知らず、あるいは侵陵を肆にすれば、方に河朔が災傷の余りで、野に廬舎なく、我は堅壁自守し、仮令深入させても、その久居し得るであろうか。既に因るべき糧がなければ、則ち亟に遁去すべきである。然る後に驍勇を選択し、帰師を遏絶し、伏を設け奇を出し、首尾を邀撃すれば、もし禽に就かずとも、また大敗させることができよう。

詔問に『輔翊の能、方面の才、及び夫れ帥領偏裨、当今誰かこれに任ずべき者』とある。臣は人無きを患えず、人ありて用いられざるを患うると思う。今、輔翊の臣で忠義の深きを抱く者は、富弼に如くはない。社稷の固きを為す者は、范仲淹を知るに如くはない。古今の故事に諳んずる者は、夏竦に如くはない。議論の敏なる者は、鄭戩に如くはない。方面の才で、厳重にして紀律ある者は、韓琦に如くはない。大事に臨み能く断ずる者は、田況に如くはない。剛果にして顧避なき者は、劉渙に如くはない。宏達にして方略ある者は、孫沔に如くはない。帥領偏裨に至っては、貴ぶべきは坐して籌策を運べることで、必ずしも親しく矢石に当たらなくともよく、王德用は素より威名あり、范仲淹は軍政に深練し、龐籍は久しく辺任を経て、皆その選である。狄青・范全は頗る衆を馭する能く、蔣偕は沈毅にして術略あり、張亢は倜儻にして胆勇あり、劉貽孫は材武剛断、王德基は純愨勁勇、これらは偏裨を補うべき者である。

詔に『朔方災傷、軍儲缺乏』と謂う。これは三司が計置を失い、転運使が職を挙げないためで、固より一日のことではない。既往は固より咎めず、来者また復た追わず、臣はその可なるを見ない。且つ施昌言が久弊の政を承け、方に思慮を竭くし職事を弁えようとしたのに、一たび賈昌朝と違戾したため、遂に移徙され、軍儲何ぞ乏しからざらん。去年秋八月より計度市糴したが、昌朝が異議を執り、仲春になっても未だ与奪せず、財賦何ぞ豊かになる縁あらん。先朝が内帑を置いたのは、本より非常を備えるためである。今、主者の吝嗇のため、自ら彼我を分かち、緩急に備えとせず、則ち臣はその為すところを知らない。粒食の重きに至っては、転徙が難しければ、爵等を重ねて立て、万数を少しく均し、豪民の詿誤をして粟を入れさせ、杖笞を免れしめれば、必ず速やかに弁じ得る。儉嗇して費を省いていけば、漸く従容に致すことができる。徳音ここに及べば、天下の福である。近ごろ多くは卑官が厚奉を躐請し、あるいは身は内供奉にして遙刺の給あり、あるいは観察使にして便ち留後の封を占め、幸門日々に開き、賜与に藝なし。もし有司に執守せしめ、率いて旧規に循わせれば、庶幾く物力もまた寛弛を得るであろう。

詔問に『戦馬乏絶、何の策を以てか足用ならしむるを得る』とある。臣が前に三司にいた時、嘗て監牧の弊を陳じた。良田九万余頃を占め、歳に銭百万緡を費やす。天閑の数はわずか三四万で、急に征調があれば、一つとして用いるに足らない。今、費やさずして馬を立弁せんと欲すれば、河北・河東・陝西・京東西の五路に馬を賦するに如くはない。上戸は一馬、中戸は二戸で一馬とし、馬を養う者はその一丁を復する。このようにすれば、坐して戦馬二十万匹を得ることも難しくない。」

時に清臣は河北が兵食に乏しいため、汴から漕いだ米を河陰より北道に輸送すること七十余万石を請い、また大名庫の銭を発して辺糴を助けることを請うた。しかし安撫使の賈昌朝が詔を格して従わず、清臣は固く争い、かつその跋扈不臣を疏した。宰相は方に両者を中せんと欲し、乃ち昌朝を鄭州に徙し、清臣を侍読学士・河陽知事に罷めた。卒し、左諫議大夫を贈られた。

清臣は天資爽邁で、事に遇えば敢行し、奏対に屈することなかった。郭承祐の妻は舒王元偁の女で、郡主に封じられ給奉を受けていた。承祐が殿前副都指揮使となると、妻が加封されないことを理由に月給の増加を請うたが、清臣は執奏して不可とした。仁宗が「承祐は管軍であり、妻はまた諸王の女である。優遇すべきだ」と言うと、清臣は「これは終に僥倖となる」と言い、遂にその奏を巻いて懐中に置き、行わなかった。数度天下の事を論じる書を上し、九議・十要・五利を陳べ、皆当世に実行可能なものであった。文集一百六十巻あり。子の均は集賢校理となった。

楊察

楊察は、字を隱甫という。その先祖は晉の人で、唐の僖宗に従って蜀に入り、成都に家を定めた。その祖父の鈞に至り、初めて孟昶に従って朝廷に帰順した。鈞は居簡を生み、真宗の時に仕えて、尚書都官員外郎に至り、かつて廬州に官し、そこで合肥の人となった。居簡は察を生んだ。景祐元年、進士甲科に挙げられ、将作監丞・宿州通判に除された。秘書省著作郎・直集賢院に遷り、潁州・壽州の二州の知州として出向し、開封府推官として入朝し、三司鹽鐵・度支勾院を判じ、起居注を修し、江南東路轉運使を歴任した。配下の官吏は察が年少であるとして、軽んじた。巡察に出ると、しばしば奸悪隠れた事を摘発し、衆は初めて畏服した。察は管轄内において、専ら官人の推挙を急務とした。或る人がこれを非議すると、察は言った、「これは按察の職務である。もし余剰を摘発するだけなら、それは俗吏の能事であって、何ぞ必ずしも我である必要があろうか」と。召されて右正言・知制誥となり、権判禮部貢院を兼ねた。時に上封する者が、有司の糊名による士人の考査を廃し、また文体を変えて、奔放なものとし唐の体を模倣するよう請うた。察は、「防禁が一度崩れれば、奔走競争が再び起こるであろう。また文章に古今の別はなく、ただ体要を旨とするのみである。もしその漫然たるものを放任すれば、これもまた唐の科挙選抜の法ではない」と論じた。先の議は遂に止んだ。

晏殊が執政となると、妻の父という嫌疑により、龍圖閣待制に換えられた。母の喪により職を去り、喪が明けて、再び知制誥となり、翰林學士・權知開封府に拜され、右諫議大夫・權御史中丞に擢げられた。事を論ずるに避けるところがなかった。詔が御史を推挙するに当たり、建言して言った、「臺属は殿中に供奉し、不法を巡り糾すものであるから、必ずや古今の治乱に通じた良直の臣を得ねばならない。今の推挙基準はあまりに細かく、公務上の些細な過失でも、皆取り上げないこととしている。恐らくは英偉の士が、或いは遺漏されるであろう」と。御史の何郯が、論事が事実に合わないとして、中書から事情を問われた。察はまた言った、「御史は、故事により風聞を許されている。仮に言うところが当たらなくとも、朝廷が採択するかどうかにかかっている。今、疑わしいというだけで、急に詰問を受けるならば、臣は臺諫官が罪を畏れて黙することを恐れる。言路を広げる方策ではない」と。

またしばしば言事によって宰相の陳執中に逆らった。間もなく、三司戶部判官の楊儀が請託により官を貶せられ、察は以前に開封府在任時に笞刑の罪を軽くしすぎたことに連座し、既に官を去っていたが、なお信州知州を罷免された。揚州に移り、再び翰林侍讀學士となり、また龍圖閣學士・永興軍知軍を兼ね、端明殿學士・益州知州を加えられた。再び禮部侍郎に遷り、再び權知開封府となり、再び翰林學士・權三司使を兼ねた。

内侍の楊永德が帝の前で察を誹謗した。三司に獄事があり、供述が衛士に及び、皇城司が直ちに遣わさなかったところ、詔があって開封府に移して審理させた。察はこれにより三司使の罷免を請い、戸部侍郎兼三學士に遷り、集禧觀提舉となり、承旨に進んだ。一年余りして、再び本官をもって三司使を充任した。鍾乳石の薬剤を過剰に服用し、癰の病で卒した。禮部尚書を贈られ、諡は宣懿といった。

察は風采が優れていた。幼くして孤となり、七歳にして初めて言葉を話せるようになった。母は少し書物を知り、自ら教えた。文章を作るのに敏速で、その制誥を作るのは、初めは意を用いていないようであったが、稿が成ると、皆雅致があり体裁を備え、当世に称えられた。事に遇えば明快に決断し、吏職に勤勉で、多くを益すことを喜び厭わなかった。癰がまさに発している時も、なお入朝して対し、財利のことを相談し計画し、帰って大いに疲弊し、人々は精神を使い果たしたのだと言った。文集二十巻がある。子がなく、兄の子の庶を嗣とした。

弟の寘は、進士第一に挙げられ、潤州通判となったが、母の喪により赴任せず、哀毀瘠せて卒した。当時の人はこれを哀しんだ。

論じて言う。仁宗の在位の時、宋の興ってよりほぼ百年、海内は嘉く平穏で、上下安佚していた。然るに法制は日に弛み、僥倖の弊が多かった。西陲で用兵があり、関中は困擾し、天子は元元(民)の労苦を憫み、奮然として群材を用いて内外の治めを改めようとし、この時に俊傑が輩出した。尹洙は兵馬の間に崎嶇し、また頗る天下の事を論じた。孫甫は言路に馳騁し、皆文学・方正をもって知られた。絳の文詞議論は、特に儒林の宗とされた。朝廷はまさにこれらを倚用しようとしたが、不幸にして死んだ。最後に、清臣・察は進士の高等より、数年もせずして侍従の位に至り、朝廷に立ちて謇謇として直言し、付和雷同することなく、一時の名臣となった。豈に、上(天子)の自ら擢げられたところより出でたる故に、奮励して撓まず、以て報いんと図ったからではあるまいか。