掌禹錫
河東刑獄提点として出向する。杜衍の推薦により召されて試験を受け、集賢校理となり、直集賢院兼崇文院検討に改める。三司度支判官・判理欠司・同管勾国子監を歴任。司農寺・太常寺の判事を歴任。数回にわたり開封国学の進士試験を担当し、命題はいずれも奇抜で深遠であったため、受験生はこれを恐れ、「難題掌公」とあだ名した。光禄卿に遷り、直秘閣に改める。英宗が即位すると、秘書監から太子賓客に遷る。御史が禹錫が老病で職務に耐えないと弾劾したが、皇帝はその博学で記憶力の強さを憐れみ、中書省に召し出して弾劾文を見せた。禹錫は恐れおののいて自ら退任を請い、ついに尚書工部侍郎の官で致仕し、死去した。
禹錫は慎重で法を畏れ、家にあっては勤勉倹約であり、自ら机を運ぶほどであった。かつて『皇祐方域図志』・『地理新書』の編纂に参与し、皇帝の前で奏対した際、王洙がその考証の労を推賞し、三品の服を賜った。また『類篇』・『神農本草』の校正に当たり、薬石の名称と形状を載せて『図経』とした。命術を好み、自ら生年月日を推算したところ、年は庚寅、日は乙酉、時は壬午で、『易』の『帰妹』・『困』・『震』の初・中・末の三卦に当たる。世応・飛伏・納五甲・行軌・析数の法を用いて推算すると、卦は二十五少分を得、三卦合わせて七十五年半に相当し、禄位と寿命の算数はここで尽きるとした。著書に『郡国手鑑』一卷、『周易集解』十巻。書物を蓄えることを好み、その知識は極めて広博であったが、迂遠で散漫で要領を得なかった。常に駑馬に乗り、衣冠は汚れ、言葉や挙動は笑えることが多く、同僚や部下の中には彼を軽んじ侮る者もいた。里巷を通るとき、人々が指さして戯れの種にしたという。
蘇紳
蘇紳、字は儀甫、泉州晉江の人。進士に及第。宜州・復州・安州の三州推官を歴任し、大理寺丞に改める。母の喪に服し、揚州に寓居した。州将の盛度は文学を以て自負していたが、彼の文章を見て大いに驚き、自ら及ばないと思い、これによって有名となる。再び太常博士に遷り、賢良方正科に挙げられ、尚書祠部員外郎・洪州通判に抜擢され、揚州に移る。帰朝して十議を上奏し、直史館に進み、開封府推官・三司塩鉄判官となる。当時、多くの星が西に流れ、幷州・代州の地で大地震があり、春なのに雷が鳴ったため、詔して直言を求めると、紳は上疏して時事を極言した。
安化蛮の蒙光月が衆を率いて宜州を寇し、官軍を破り、鈐轄の張懷志ら六人を殺害した。紳は上言して言う。
「国家は近年西北の二辺を重視し、南方には再び留意することが少なかったため、今日の患いがあり、誠に考慮せざるを得ません。臣はかつて宜州に従事し、おおよその事情を知っております。安化の地は幅員数百里、兵力を保持する者は三四千人に過ぎません。しかしながら敢えて侵擾をほしいままにするのは、単にその険阻を頼みとするだけでなく、かつての守将が失策し、国家が安易に寛容にしすぎたことにもよるのです。
以前、宜州の吏民の話を聞きましたが、祥符年間、蛮人が騒動を起こした際、朝廷は兵を興して討伐しました。その時、ただ安撫都監の馬玉のみが兵を率いて深く入り、捕獲した者を多く殺しました。桂州知事の曹克明はその功績を妬み、累次にわたり文書を送ってこれを止めたため、玉の志は遂げられませんでした。蛮人はその名を畏れて服し、今なお語る者はこれを惜しんでおります。もし当時、兵を率いる者すべてが玉のようであったならば、蛮人は殄滅され、今日の患いはなかったでしょう。かえって隙に乗じて辺境を蹂躙させ、将吏を屠殺させるに至り、国威を損なうことはこれに過ぎるものはありません。朝廷がもしこの時に兵を加えなければ、将来に対する戒めとなりえず、荒遠の地を震え上がらせることもできません。あの六人の臣下は、統御が上手でなかったために自ら敗亡を招いたとはいえ、冤みを抱き恥辱を負っているのですから、これを雪ぎ除くべきです。
臣が蛮情を観察しますに、彼らが頼みとするのは地形の険阻で、高きに拠り低きに臨み、大軍が並んで進むのは難しい。しかしその土地は痩せて堅く、物資の蓄えは乏しく、刀耕火種で食糧としています。その情勢は緩やかに図ることはできても、速やかに奪取することはできず、計略で覆すことはできても、武力で争うことはできません。今、広東西の教閲忠敢澄海軍や湖南北の雄武軍などは、皆険阻な地を渡ることに慣れております。また彼らの習熟する兵器は、蛮人のものとほぼ同じです。どうか速やかにこれらを宜州に派遣して策応させ、他の兵でこれを代えるようお願いします。さらに転運使に数年分の軍糧を準備させ、今秋・冬の頃、山嵐の気が止んだら、進軍してその出路を占拠し、糧秣を輸送し兵卒を補充して、長期間にわたる持久の計とします。好機を得次第、直ちに深く入ることを図れば、その巣穴を傾け蕩覆し、通路を杜絶することができます。たとえ林莽に奔り逃げたとしても、その家屋を壊し、蓄積を焼き払い、進んでは略奪による獲物を得られず、退いては攻守の備えもないようにします。その後、国の恩恵を諭し、帰順を許して内郡に移し、その土地を収めて民を募り耕種させれば、将来は外夷を開拓して屏障とすることに十分足ります。
さらに詔を下して近隣の諸蛮に、朝廷が叛逆を討つ旨を諭し、互いに声援してはならないこと、もし首級を獲れば金帛で優れた賞を与えることを伝えます。このような計略を出せば、一年を越えずに、逆寇は必ず殄滅されるでしょう。ましてや広西の溪峒・荊湖・川峡の蛮族部落は非常に多く、大抵は騒動を好みます。この一役によって、必ずや皆震え恐れ、数十年にわたり突発的な擾乱の憂いがなくなるでしょう。」
朝廷はその策を用い、馮伸己を桂州に派遣して経制させたところ、蛮は平定された。また便宜八事を陳述した。
上書が奏上されると、帝はこれを嘉して受け入れた。史館修撰に進み、知制誥に抜擢され、翰林に入って学士となった。さらに尚書礼部郎中に遷った。
王素、歐陽修が諫官となり、しばしば事を言上したので、呉育はこれを忌んだ。折しも京師で雨を祈る事があり、呉育は対面を請い、言った。「『洪範』の五事に、『言うこと従わざる、是れ乂ならざるという。その咎は僭なり。その罰は常暘なり』とある。これは国の号令が上に専らならず、威福の柄が臣下に移り、虚嘩憤乱するが故に、その咎は僭越であるというのである。」また言った。「庶位が節を逾える、これを僭という。刑賞を妄りに加えれば、群陰は附かず、則ち陽気が勝つ。故にその罰は常に暘(日照り)である。今、朝廷の号令に一でないものがあり、庶位に節を逾えて上を陵ぐ者があり、刑賞に妄りに下に加えるものがあり、下人が謀って上を僭する者がある。これを思わなければ、上下の神祇に祈っても、天意には叶わないであろう。」呉育の意は諫官を指していた。諫官もまた、呉育が御史馬端を挙げたのは人を得ていないと上言し、呉育は龍圖閣学士、揚州知州に改められ、後に翰林学士、史館修撰、権判尚書省に復した。
呉育は進取に鋭く、人を中傷することを得意とした。密かに王德用を中傷し、その上疏には「宅が乾岡に枕し、容貌が藝祖に類す」との語句まであった。帝はこれを憎み、その上疏を下さずに隠した。遂に呉育を出し、吏部郎中から侍読学士、集賢殿修撰、河陽知州に改め、河中に移された。赴任せずに病気にかかり、医者の薬の誤りに遭ったが、なお病を押して医者を鞭打ち、間もなく卒した。
呉育は博学で見識が多く、事を言うことを好んだ。かつて連日の視朝を廃し、唐の制度に復して朔望に仗を喚び入閣し、間を置いて便殿を開き、輔臣を引見して対面することを請うた。制挙の科格を寛げて、才傑を収めること。諫員を選命し、御史の職事を侵さないこと。趙元昊が反乱を起こすと、辺帥に詔して討伐の計を立てるよう請い、かつ言った。「十年分の防守の費用を、一年分の攻取の資とせよ。そうでなければ、防守の備えは十年に止まらないであろう。」また言った。「今、辺兵はただ陝西を備えるのみで、賊が不意に出て河東を窺うことを恐れる。即ち麟州、府州は慮らざるを得ず、やや兵を移してこれを備えるべきである。鄜州、延州と原州、鎮戎軍は皆賊の衝要であるが、兵の屯する所に多寡の不均がある。もし賊が原州、鎮戎軍を寇すれば、鄜州、延州は応援できる。陝西の屯卒は余りに多く、永興軍は関中、隴右の根本であるが、戍る者は三千に及ばない。西辺に戍る兵を留め、関中の形勢を壮んにし、緩急の場合に調発を便にすべきである。郡県が盗賊を備えるのに謹んでいないので、尉の員数を増やし、弓手の籍を益すことを請う。」その論ずる利害は甚だ多かった。
呉育と梁適が同じく両禁(中書、枢密院)に在った時、人々は彼らを険詖(邪悪で偏っている)と考えた。故に語り草に「草頭木腳、人を陷れて倒卓す」と言われた。子の頌は、別に伝がある。
王洙
王洙、字は原叔、應天宋城の人なり。少にして聡悟博學、記問人に過ぐ。初め進士に挙げられ、郭稹と同保す。人ありて稹が祖母の禫を冒すを告ぐ。主司、洙を連坐の法より脱せんと欲し、召して謂ひて曰く、「保たずば、易ふべし」と。洙曰く、「之を保つ、易ふるを願はず」と。遂に稹と俱に罷む。再び挙げられ、甲科に中り、舒城縣尉を補す。縣民鍾元の妻を殺すを覆へして實らず、官を免ぜらる。
後に富川縣主簿に調ず。晏殊、南京を留守す、之を厚く遇ひ、府學教授として薦む。召されて國子監說書と為り、直講に改む。『史記』・『漢書』を校し、史館檢討・同知太常禮院に擢でられ、天章閣侍講と為る。專ら寶訓・要言を邇英閣に讀む。累遷して太常博士・同管勾國子監、『崇文總目』を預り修して成り、尚書工部員外郎に遷る。『國朝會要』を修し、直龍圖閣を加へられ、權同判太常寺と為る。進奏院の賽神に赴き女妓と雜坐するに坐し、御史の劾奏を受け、濠州に知として黜けられ、襄州に徙る。
會に貝卒叛き、州郡皆恟恟たり。襄の佐史、教閱士を罷むるを請ふ、聽かず。又た眞兵を給ふる毋からんことを請ふ。洙曰く、「此れ正に人をして安からしめざるなり」と。庫兵を給ふるを命じ、常日の如く教閱す、人敢へて嘩する者無し。
帝將に明堂を祀らんとす。宋祁言ふ、「明堂の制度久しく講ぜず、洙に『禮』の學あり、願くは俱に其の儀を具ふるを得ん」と。詔して洙を太常に還し、再び兵部員外郎に遷し、『大饗明堂記』を撰するを命ず。史館修撰を除し、知制誥に遷る。詔して諸儒に雅樂を定めしむ、久しく決せず。洙と胡瑗、鍾磬を更に造るも、形制容受の別無し。皇祐五年、南郊に事有り、上を勸めて新樂を用ゐしむ。既にして議者多く之を非とす、遂に復た用ゐず。
夏竦卒す、諡を文獻と賜ふ。洙當に制を草すべく、其の目を封じて還して曰く、「臣下、僖祖と諡を同じくすべからず」と。因りて言ふ、「前に有司、王溥を諡して文獻とし、章得象を文憲とす。字は異なれども音同じく、皆改むべし」と。是に於て太常、更に竦を諡して文莊とし、而して溥・得象皆諡を易ふ。
嘗て契丹に使し、鞾淀に至る。契丹、劉六符をして來りて宴に伴はしめ、且つ言ふ、耶律防畫を善くし、嚮に禮を南朝に持ち、聖容を寫して歸り、持して館中に至らんと欲すと。洙曰く、「此れ瞻拜の地に非ず」と。六符言ふ、未だ其の眞を得ざるを恐れ、防を遣はして再び往きて傳繪せしめんと欲すと。洙力めて之を拒ぐ。
嘗て言ふ、天下の田稅均しからずと。郭諮・孫琳の千步開方法を用ゐ、州縣に頒ちて以て其の稅を均すべしと請ふ。貴妃張氏薨じ、皇儀殿に喪を治め、追冊して溫成皇后とす。洙、非禮を鉤摭し、陰に内侍石全彬と時事に附會す。陳執中・劉沆、中書に在り、其の己を助くるを喜び、洙を擢でて翰林學士と為す。既にして溫成即ち園に廟を立て、且つ樂を用ゐんと欲す。詔して禮院に議せしむ。禮官論未だ一ならず。洙、禮直官に印紙を填せしめ、上議して樂を用ゐるを請ふ。朝廷其の説に從ふ。禮官吳充・鞠直卿、文を開封府に移し、禮直官の擅に印紙を發する罪を治む。知府蔡襄、釋して問はず。而して諫官范鎮、禮院の園陵を議ふる前後一ならざるを疏し、請ふ所以を詰むべしと。御史繼ひて之を論じて已まず。宰相、充等の言者を風する意有り、皆罷斥せらる。
既にして洙、兄の子堯臣參知政事と為るを以て、侍讀學士兼侍講學士に改む。一學士を罷め、二學士に換へ且つ講讀を兼ぬ、此れ以前未だ嘗て有らざるなり。是歲、京東・河北秋大いに稔る。洙言ふ、「近年邊糴、虛價數倍を增し、復た稍々日月の期を延ぶるも、而して終に實錢及び山澤の物を以て償ひ、以て三司財用の蹙しきを致す。請ふ内藏庫の禁錢を借り、時に乘じて京東・河北の粟を和糴し、以て邊食に供へ、坐して便糴の急を紡ぐべし」と。又た言ふ、「近時諫官・御史を選ぶに、凡そ執政の臣嘗て薦する所の者は、皆選與せず。且つ士の身を飭ひ行ひを勵まし、稍々大臣の知る所と為るも、反つて置きて用ゐず、甚だ惜しむべしなり」と。疾を得て月を踰ゆるに及び、帝使を遣はして問ふ、「疾少く間あるか、能く起ちて經席に侍すべけんや」と。時に起つ能はざりき。
洙、傳記を泛覽し、圖緯・方技・陰陽・五行・算數・音律・詁訓・篆隸の學に至るまで、通ぜざる無し。卒するに及び諡を文と賜はらんとす。御史吳中復、官は諡を得べからずと言ふ、乃ち止む。『集韻』・『祖宗故事』・『三朝經武聖略』・『鄉兵制度』を預り修し、『易傳』十卷・雜文千有餘篇を著す。子欽臣。
子 欽臣
欽臣、字は仲至、清亮にして志操有り、文を以て歐陽修に贄り、修之を器重す。蔭を以て官に入り、文彥博薦めて學士院に試みしめ、進士及第を賜ふ。歷て陝西轉運副使。元祐初、工部員外郎と為る。高麗に奉使し、還りて、太僕少卿に進み、秘書少監に遷る。開封尹錢勰入對す。哲宗言ふ、「比に書詔を閱すれども、殊に人の意に満たず、誰か學士と為るべき者ぞ」と。勰、欽臣を以て對ふ。哲宗曰く、「章惇喜ばず」と。乃ち勰を學士と為し、欽臣開封を領せしむ。集賢殿修撰に改め、和州を知る。饒州に徙り、斥けられて太平觀を提舉す。徽宗立ち、復た待制・成德軍を知る。卒す、年六十七。
欽臣平生文を為ること至つて多し、交はる所盡く名士、性古を嗜み、藏書數萬卷、手自ら讎正し、世善本と稱す。
胥偃
胥偃、字は安道、潭州長沙の人なり。少にして力學す。河東の柳開其の為す所の文を見て曰く、「異日必ず名を天下に得ん」と。進士甲科に挙げられ、大理評事・湖舒二州を通判し、直集賢院・同判吏部南曹・太常禮院を知り、再び太常丞に遷り、開封縣を知る。
御史高升と共に府進士を試験し、答案の表紙を密封した後、すぐに開封して見て、名のある者を上位に置いた。秘書省著作佐郎・監光化軍酒に降格された。起用されて鄧州通判となり、太常丞に復した。林特が許州知州となると、州事通判に辟召され、漢陽軍知軍に転じた。還って三司度支勾院を判じ、起居注を修めた。累遷して尚書刑部員外郎となり、ついに知制誥に至り、工部郎中に遷り、翰林院に入って学士となり、権知開封府を務めた。
忻州で地震があり、王偃は「地震は陰の盛んなるによる。今、朝廷の政令は専ら上より出ず、後宮・外戚の恩沢は日に日に繁くなっている。これは陽が陰に勝たぬ効験である。将を選び師を練り、辺塞を防ぐべきである」と考えた。趙元昊が朝貢せず、偃は「急に討つのはあまりに暴である。使者を遣わして臣に非ざる状を問い、その言い分が屈してから兵を加えるべきである。そうすれば理の直らざるは彼にあり、王師の出ずるに名有りとなろう」と言った。また「戍兵が交代で還る時は、祖宗の制の如く、その技芸を閲した後、殿次に従って進めるべきである」と奏上した。
時に衛卒が庫吏に賄賂して冬衣の選抜を求める事件があり、連座して捕らえられた者が三十余人いた。時は八月で、霜雪が突然降った。偃は『洪範』の「急ならば恒に寒き若し」の咎を推し、末減に従うよう請い、奏聞は許された。西塞で用兵があり、士卒の妻子で京師に留まる者が、法を犯して死に当たった。帝は刑を用いるに忍びず、ある者は毒を飲食の中に置き、善く死なせようとした。偃はその不可を極言し、帝もまた悔いて止めた。宦官の程智誠と三班使臣の馮文顯ら八人が罪に当たり、帝は智誠ら三人を赦そうとしたが、文顯ら五人は法の如く処されようとした。偃は「近きを恤いて遠きを遺るは政に非ず、況んや同罪にして罰を異にするをや」と言った。詔して併せて釈放した。未だ幾ばくもせず、卒した。
偃は未だ仕えざる時、家に良田数十頃有り、貴くなって後、悉く族人に与えた。初め、天下の職田には日月の制限が無く、官に赴く者は多く前後を以て断じていた。偃は水陸の田それぞれ月を以て限るよう請い、因って令として定められた。嘗て謝絳と共に詔を受けて中書の吏を試験した時、大臣より偃に私信を託す者が有ったが、偃は敢えて開封して見ず、急いで焼き捨てた。欧陽修が初めて偃に会った時、偃はその文を愛し、門下に召し置き、娘を妻とさせた。偃が刑獄を糾察した時、范仲淹が京尹であったが、偃は数々にその法に循わず異を立てる者を糾弾した。修は丁度仲淹と親善であったため、偃と隙を生じた。
子の元衡は学行有り、能く自立し、尚書都官員外郎となったが、その子茂諶と共に早く卒した。偃の妻は直史館刁約の妹である。元衡の妻韓氏、茂諶の妻謝氏と共に寡居して丹陽に住み、閨門に法有り、江・淮の人々は今に至るまでこれを称えている。
柳植
柳植、字は子春、真州の人。少時貧しく、自ら奮励して学び、従祖父の柳開に大いに器重された。進士甲科に挙げられ、大理評事・滁州通判となった。著作郎・直集賢院・秀州知州に遷る。三司度支判官を除され、宣州知州として出向した。修起居注・知制誥に抜擢された。蘇州知事を求めて出、杭州に転じ、累遷して尚書工部員外郎・郎中となった。召還されて翰林学士となり、諫議大夫・御史中丞に遷った。既にして病を理由に辞し、侍読学士・鄧州知州に改められた。給事中に遷り、潁州に移った。
先に、張海・郭邈山が京西で叛き、県鎮を攻掠し、光化の卒邵興もまたその徒を率いて乱を起こし、官吏を逐い、庫の兵器を取って去った。時に植は京西安撫使を兼ねており、賊が管轄内で発生したのを察知できなかった罪により、右諫議大夫・黄州知州に降格された。久しくして、その官を復した。張得一を推薦した罪で落職したが、未だ幾ばくもせず、その職を復した如く元に戻った。歴任して寿・亳・蔡・揚の四州知州を務め、西京に分司し、遂に致仕した。累遷して吏部侍郎となり、卒した。
植は平素畏慎であり、寡言笑で、赴任した官舎では、野菜や果物をむやみに採らず、家に余分な物が無く、当時その廉潔を称えられた。
聶冠卿
聶冠卿、字は長孺、歙州新安の人。五世の祖師道は、楊行密より版奏され、問政先生と号し、鴻臚卿となった。冠卿は進士に挙げられ、連州軍事推官を授かった。楊億がその文章を愛し、そこで大臣が交えて推薦し、学士院に召し試され、館閣書籍の校勘を務めた。大理寺丞に遷り、集賢校理・蘄州通判となった。嘗て『十代興亡論』を校した際の謬誤の罪で落職した。
再び太常博士に遷り、集賢校理に復した。「天下の旬奏の獄は、笞・杖罪は共に覆奏するが、徒・流罪で獄に繋がれぬ者は奏聞せず、これは刑罰を謹み慎う意に非ず。請う、今より笞・杖罪の覆奏を止め、徒罪以上は獄に繋がれずとも、奏覆すべし」と上言した。従われた。登聞鼓院を判じ、開封府判官・三司塩鉄度支判官を歴任し、同修起居注となった。累遷して尚書工部郎中となった。
初め、翰林侍講学士馮元が大楽を修めるに当たり、冠卿に事跡の検閲を命じた。また『景祐広楽記』の撰修に預かり、特に刑部郎中・直集賢院に遷った。兵部郎中・知制誥として太常礼院を判じ、刑獄を糾察した。契丹に使いし、その主が「君が家の先世は道を奉じ、子孫固より昌なる者有り」と言った。嘗て著わした『蘄春集』を観て、詞極めて清麗であるため、自ら球を撃ち縦飲し、冠卿に詩を賦させ、礼遇甚だ厚かった。還って、同知通進銀台司・審刑院となり、翰林院に入って学士となった。母が亡くなり、起復して昭文館を判じた。未だ幾ばくもせず、兼侍読学士となった。
冠卿は毎度『左氏春秋』を進読するに当たり、必ず尊王黜覇の義を引いて諷した。一日、笏を御前に墜とし、帝は冠卿が喪に毀えて羸瘠せるを憫れみ、退いた後、禁中の湯薬を賜った。未だ幾ばくもせず、親の葬儀のため帰省を告げ、揚州に至って卒した。詔してその弟の太常博士世卿を通判宣州とした。初め、世卿が延豊倉を監る時、地を掘って古い磚を得、隷書の字有り、半ば漫滅していた。その辨え得るものに「公の先世は霞を餌とし雲に棲み、高尚にして仕えず、江濱に石を累ねたり」と云い、また「昭王大丞相聶」と云い、また「水龍夜に号し、夕鶏駭きて飛ぶ。其の年九月十二日卒す、年五十有五」とあった。冠卿は初めてこれを見て悪んだが、この時、卒した歳月とその享年を校べると、少しも異なる所が無かった。
冠卿は学を嗜み古を好み、手は未だ巻を釈かず、特に詩に工み、『蘄春集』十巻有り。
論ずるに曰く、学士大夫の衆人に異なる所以は、操行を修むるに在り。『詩』に曰く、「初め有らざるは莫し、終りを克くするは鮮なし」と。君子は慎まざるべからざるなり。禹錫は迂闊にして、止足の戒めを知らず、当世の譏りを取る。紳は急進にして傾くを喜ぶ。洙は阿諛附会し、晩節汚変し、卒に平生の学を忘る。偃の恬正、植の廉介、冠卿の雅尚、其れ侍従に列する、庶幾く愧じざるに亡からんか。
馮元
馮元、字は道宗。高祖禧は、唐末に広州に官し、術数を以て劉氏に仕う。三世を伝えて父邴に至り、広南平らぎ、朝に入りて保章正と為る。元幼くより崔頤正・孫奭に従い『五経』の大義を為し、楽安の孫質・呉の陸参・譙の夏侯圭と善くし、群居して講学し、或いは達旦して寝ず、号して「四友」と曰う。進士に中第し、江陰尉を授かる。
時に詔して流内銓に明経の者を取りて学官に補せしむ。元自ら薦めて『五経』に通ずとす。謝泌笑いて曰く、「古えは一経を治むるも、或いは皓首に至る。子尚ほ少く、能く尽く通ぜんや」と。対えて曰く、「達する者は一を以て之を貫く」と。更に疑義を問うに、弁析滞ること無し。国子監講書を補し、大理評事に遷り、崇文院検討兼国子監直講を擢てる。王旦其の名を聞き、嘗て令して『論語』・『老子』を説かしめ、群子弟侍聴せしむ。因りて之を薦む。
真宗進士を殿中に試み、元を召して『易』を講ぜしむ。元進説して曰く、「地天『泰』と為るは、天地の気の交わるを以てす。君道は至れり尊く、臣道は至れり卑し。惟れ上下相与る有れば、則ち以て天地を輔相し、万化を財成すべし」と。帝悦ぶ。未だ幾ばず、太子中允・直龍図閣に遷り、詔して内朝に預からしむ。直龍図閣の内朝に預かるは此より始まる。
天禧初、数たび査道・李虚己・李行簡と共に宣和門北閣にて『易』を講ず。太常丞兼判礼部・吏部南曹に遷る。皇子寿春郡王と為る。王旦又た元を薦めて宜しく経を資善堂に講ずべしとす。帝元の少きを以てし、更に崔遵度を用う。会に遵度卒す。左正言兼太子右諭徳を擢つ。
仁宗即位し、戸部員外郎に遷り、直学士兼侍講と為る。孫奭と経術を以て並びに進み講論し、是より仁宗益々学に嚮う。歴て会霊観副使・知通進銀台司・判登聞検院・同判国子監と為る。故事、国子監は多く宿儒典領す。後頗る公卿子弟を用い、均しく管庫を任ず。奭・元並びに命ぜらるるに及び、士議悦服す。同知貢挙し、龍図閣学士に進み、『三朝正史』の修撰に預かる。翰林学士・判都省三班院・史館修撰・判流内銓兼群牧使と為り、四たび遷り給事中に至る。
元性簡厚にして、声名を治めず。慶弔に非ざれば嘗て二府を過謁せず。親喪に執り、括髪より祥練に至るまで、皆礼に案じて服を変え、世俗の斎薦を為さず。祭日に遇えば、門生と対坐し、誦説するに『孝経』のみ。古今の台閣品式の事を多く識り、尤も『易』に精し。
初め、七歳、方に『易』を読む。毎夜異人を夢み、紺蓮華を以て元に与えて之を吞ましめ、且つ曰く、「善く此を読め、後必ず貴顕せん」と。元且つ老ゆるも、率ね三日に一たび『易』を誦す。子無し。兄の子譓を以て後と為す。
趙師民
趙師民、字は周翰、青州臨淄の人。九歳にして能く文を属す。進士に挙げ第し、孫奭辟して兗州説書と為し、諸城主簿を領す。師民学問精博、奭自ら以て及ばずと為す。夏竦尤も奇重し、「盛徳君子」と称し、其の文行を論じ、願わくは両子の恩を回らし、京秩を授けんとす。除いて斉州推官・青州教授と為し、更めて天平軍節度推官と為る。
年五十にして京師に来る。近臣張観・宋郊・王堯臣・龐籍・韓琦・明鎬列薦し、国子監直講と為し、潤・冀二王宮教授を兼ぬ。著作佐郎・宗正寺主簿に改め、崇文院検討・崇政殿説書を加え、宗正丞に遷る。
会に趙元昊反す。進講を罷む。師民上書して十五事を陳ず。一に曰く輔相に諮り、二に曰く将帥を命じ、三に曰く侍従を柬にし、四に曰く守宰を択び、五に曰く軍旅を治め、六に曰く辺防を修め、七に曰く諫諍を求め、八に曰く講誦を延べ、九に曰く貢挙を革め、十に曰く官政を久しくし、十一に曰く財用を謹み、十二に曰く年を遺さず、十三に曰く誹謗を容れ、十四に曰く忌諱を除き、十五に曰く出令を慎む。因りて『勧講箴』を献ず。明年春、帝遂に迎陽門に御し、近臣を召して図画を観せしめ、復た命じて経史を講読せしむ。師民朝廷の兵を厭い、意を屈して以て元昊を招くを見て、内に平らかならず。乃ち上言して方面を任じ、以て報效を図らんことを請う。天章閣侍講・同知貢挙に遷り、待制・同判宗正寺に進む。
嘗て『詩』の「彼の泉流の如し」を講じて曰く、「水の初めに出づるは、王政の発するを喩ふ。順行すれば則ち通じ、通ずる故に清潔なり。逆乱すれば則ち壅ぎ、壅ぐる故に濁敗す。賢人用いられば、則ち王政通じて世清平なり。邪人進まば、則ち王沢壅ぎて世濁敗す。幽王道を失い、邪を用いて正を絀く。正邪に勝たず。善人有りと雖も、能く治めを為すこと能わず。亦た将に相牽いて汚濁に淪らんとす」と。帝曰く、「水何を以て政を喩ふるや」と。対えて曰く、「水は順行して下を潤し、万物を利する。故に以て政を喩ふ。此れ比興に於て、義最大なり」と。
後に『論語』を講じ、「文徳を修むる」と問うと、師民は言った、「文とは、天を経とし地を緯とする総称である。人君たる者の道は、仁をもって撫で、義をもって制し、礼をもって接し、信をもって講ずる、これら全てが文である。」帝が言った、「そうではあるが、その中で先んずべきは、信に如くはない。」師民は言った、「信は天下の大本であり、仁義礼楽は皆必ずこれに由る。これは実に至道の要である。」また「鑽燧改火」を問うと、言った、「古の聖王は、挙動必ず天時に順い、それ故に四時が変じれば、火も木の色に従って改まる。近世は次第に苟簡を務め、これを治具にあらずとして遂に廃したため、万事皆古に及ばない。」また問うた、「子夏と子張の言うところの交わり道は、どちらが勝っているか。」言った、「聖哲の道は、覆い含むところ広大で、天地と参わる。善者はこれによって徳を進め、悪者はこれによって行いを改めさせる。子張の言が優れている。」
ある日『漢記』を読み、長安城について問うたが、誰も知らず、皆が師民を推した。そこで古来より雍(長安)に都した年数や旧址の所在を述べると、掌を描くが如くであった。帝は喜んで言った、「何とその記憶はこのようであることか!」経筵に在ること十余年、甚だ器重された。嘗て盛夏に病を得て家居していた時、帝が飛白体で団扇に「和平」の字を書いて賜り、意を寄せられた。
累次郡守への補任を請い、龍図閣直学士・知耀州に除せられた。帝は自ら詩を書いて送別の栄を施し、「儒林旧徳」と称された。将に行かんとして、上疏して言った。
「近く正朔(正月一日)に日食を見る。これは陰陽の事ではあるが、また天意が聖心を感動させんと欲するものかと慮る。臣は瞽史(天文官)ではなく、天道を知らないが、ただ愚意を率いて言う。その月は亥にあり、亥は水であり、水は正陰である。その日は丙にあり、丙は正陽である。月が日を掩うは、陰が陽を侵し、下が上を蔽う象である。『詩』に曰く、『十月の交わり、朔日辛卯』。また曰く、『彼の月は微み、此の日は微む』。陰が陽を奸し、その序を失うを謂う。また曰く、『百川沸騰し、山塚崒崩す。高岸は谷と為り、深谷は陵と為る』。下が上を陵ぎ、その権を侵すを謂う。また曰く、『皇父卿士、番惟司徒。家伯維宰、中允膳夫。聚子内史、蹶維趣馬、楀維師氏』。大小の臣に、その人を得ざる者あるを謂う。宗周の間、時の王は徳を失った。今これを引喩するは、事に譬えるところあるが故で、固より諱むべきではない。
凡そ天が象を示すは、人君に失あるによる。そうでなければ、下がその上を蔽うのである。古人君の失は、暴虐怠慢、奢侈縦放、古始に師わざるに過ぎない。これを捨てて、何の失道があろうか。今、聖心は慈仁恭勤、倹約自らを検み、動くこと典礼に循う。このようにして自ら下が上を蒙い、邪が正を撓めて主恩を下に究めさせないならば、誰の咎であろうか。願わくは陛下、朝夕に丞弼心膂の臣及び左右近侍耳目の官に諮問され、その忠にして純なる者と共に内外百執事及び州県牧宰を慎み選び、主恩を下に究めさせ、群邪に蔽塞されざらしめられんことを。これこそ億兆の幸いである。」
三たび遷って刑部郎中となり、再び宗正を領し、卒した。
師民は淳静剛敏で、挙止は凝重であった。幼くして父を喪い、哀感のあまり婢妾を蓄えず、四十四歳にして初めて婚した。志尚は清遠で、専ら読書を事とした。性極めて慈恕で、吏治に勤め、政に恵愛があった。嘗て陝西の旱魃による租税免除を奏請した。また専売酒の諸弊を論じようとしたが、仁宗の不豫に遭って止んだ。常に近世の官がその職守を失うことを患い、『正官名』を著したが、議論は多く載せられていない。文集三十巻あり。子の彦若は、試中書舎人となった。
張錫
張錫、字は貺之、その先祖は京兆の人。曾祖父の山甫は、嘗て唐の僖宗に従って蜀に入り、蜀が平定されると、漢陽に家を移した。錫は進士甲科に及第し、試秘書省校書郎・知南昌県となった。著作郎・知新州に遷る。初めて州に学を建て、これより人は始めて学を知った。再び太常博士・監染院に遷る。詔して能吏を選び畿県を治めさせると、錫を以て知東明とした。到着早々、その下に令して言った、「我が治める所は三つ、力を恃む者、富を恃む者、贖(賄賂)を恃む者、これらを我は先にする。」年中に治跡を以て聞こえた。枢密直学士李及が監察御史に推薦した。丁謂が崖州に貶せられた時、内地に還す議論があった。錫は疏して謂う、「奸邪が国を弄んだ者は、本来天下と共にこれを棄てるべきである。今また還すのは、天下の意に違う。」これによって雷州に移すのみで止まった。
玉清昭応宮が火災に遭い、連座する者が甚だ多かった。錫は言った、「天災を以て却って罪人とすることは、恐らく天の怒りを重くする。願わくは徳を修めてこれに応ぜられんことを。」議論する者が多かったため、獄は遂に解かれた。殿中侍御史に遷り、権三司塩鉄判官となり、出て荊湖北路転運使となり、尚書兵部員外郎に改め、還って判度支勾院となり、京東転運使となった。淄・青・齊・濮・鄆諸州の民が河壖(河川敷)の地を冒耕し、数度争訟が起きた。錫は命じてその地を籍り、租絹を収めること年二十余万とし、訟める者もまた止んだ。判塩鉄勾院となり、河北転運使となり、江・淮制置発運使に改め、召されて兼侍御史知雑事・判大理寺・権知諫院となり、利・夔路を安撫した。度支・塩鉄副使を歴任した。母に喪し、起復して、天章閣待制・知河中府に擢られ、累遷して右司郎中となり、龍図閣直学士として知滑州となり、右諫議大夫・知審官院に遷った。翰林侍読学士・判太常寺・国子監に進んだ。卒し、尚書工部侍郎を贈られた。
張揆
張揆、字は貫之、その先祖は范陽の人、後に齊州に徙った。進士第に擢られ、北海県尉を歴任し、大理寺丞に改めた。病を以て官を解き、十年戸を出ず。『易』を読み、因って揚雄の『太玄経』を通じた。陳執中が京東を安撫した時、揆が経に明らかで行い淳なることを薦め、召されて国子監直講とし、諸王府侍講に徙った。尚書度支員外郎直史館・荊王府記室参軍となった。府が罷むと、権三司戸部判官となった。著した『太玄集解』数万言を上った。詔して邇英閣に対し、耆(筮竹)を揲ることを命じ、断首を得た。そして言った、「断首は『易』の『夬』に準じ、陽剛が陰柔を決する、君子進み小人退く象である。」仁宗は喜んだ。天章閣待制兼侍読に擢られ、累遷して右諫議大夫となり、龍図閣直学士・給事中・判太常寺に進んだ。ある日、漢の『馬后伝』を進読し、大練(粗布)の服を着て外家を抑止したところまで至ると、因って言った、「今、妃族が太盛である。裁損せざるべからず、その家を保たしめんことを。」帝は嘉納した。詔して王溥の諡を改めようとし、「文忠」と為さんとする議論があったが、揆は言った、「溥は周の宰相であり、国亡びても死せず、どうして忠と為し得ようか。」乃ち「文康」と諡した。翰林侍読学士を加え、知審刑院となり、出て知齊州となった。卒し、尚書礼部侍郎を贈られた。
揆は性剛狷で容すところ少なく、世務に闊かったが、然し読書を好み、老いて倦まなかった。弟の掞と相友愛し、掞は龍図閣直学士となった。
楊安国
楊安國は、字を君倚といい、密州安丘の人である。父の光輔は馬耆山に住み、学者多く経を受けるに従い、州守の王博文が太学助教に推薦した。孫奭が兗州を知ると、また太常寺奉禮郎・州学講書に推薦した。やがて孫奭と馮元が安國を國子監直講に推薦し、併せて光輔を召し寄せた。仁宗が『尚書』を講ぜしめると、光輔は言う、「堯・舜の事は遠くして行い易からず、願わくは『無逸』一篇を講ぜん」と。時に年七十余りであったが、論説は明暢であった。帝は喜び、学官として留めんとしたが、固く辞し、國子監丞として家に老いた。
安國は『五経』に及第し、枝江県尉となり、後に大理寺丞に遷った。光輔が兗州で教授すると、兗州酒税を監することを請い、益州糧料院を監することに移り、入朝して國子監直講となった。景祐初め、崇政殿説書を置くと、安國は國子博士として選に預かった。久しくして、天章閣侍講・直龍圖閣に進み、遂に天章閣待制・龍圖閣直學士となり、皆侍講を兼ねた。翰林侍講學士に進み、判尚書刑部・太常寺を歴任し、在京刑獄を糾察し、累遷して給事中となった。年七十余りで卒し、尚書禮部侍郎を贈られた。
安國の講説は、一に注疏を主とし、他に発明するところなく、引喩は鄙俚で、世に或いは伝えて笑いと為す。特に緯書及び注疏の引く緯書を喜び、則ちこれを尊んで経と等しゅうす。経筵に在ること二十七年、仁宗はその行義淳質を称し、先朝の崔遵度に比した。
嘗て『易』を講じて『鼎卦』に至り、帝が問う、「九四の象は如何」と。安國が対えて言う、「九四は上に至尊を承け、上は初爻に応ずるも、行い重くして拠るに非ず、故に足を折り餗を覆す。亦た猶お人を得て任ずれば、則ち重きと雖も勝つべく、其の人に非ざれば、必ず顛覆の患い有らん」と。帝は善しと称した。又嘗て『周官』を講じて「大荒大劄有れば、則ち征を薄くし刑を緩む」に至り、因りて進言して曰く、「古の所謂緩刑は、乃ち過誤の民を赦すのみ。今衆が兵仗を持ち民の廩食を取るを、一切これを寛ゆるは、恐らくは姦を禁ずる所以無からん」と。帝曰く、「然らず、天下皆吾が赤子なり、餓莩に迫られて、至って盗を為すに起つ。州県既に振恤すること能わず、乃ち捕えて之を殺す。亦た甚だしからずや」と。嘗て『無逸篇』を邇英閣の後屏に書くことを請うたが、帝曰く、「朕は聖人の言に背かんと欲せず」と。蔡襄に『無逸』を書かしめ、王洙に『孝経』四章を書かしめて左右に列置せしめた。
論じて曰く、馮元は質直博雅にして、古の君子の風有り、歐陽修は師民を醇儒碩学と称し、仁宗の時に在りて、並びに宿望より出で、先後経を執り講を勧め、庶幾くは補益有らんとす。張錫は清慎斂晦にして、晩く始めて知られたり。揆及び安國父子俱に経幄に侍し、其の説を考求するも、人を過ぐる者は亡し。夫れ博習修潔の士、潜德隠行にして、世に聞こえざる者多し。是に由りて之を言えば、士の遇うるや遇わざるや、豈に命に非ざらんや。