田錫
今、諫官は朝廷で争うことを聞かず、給事中は封駁することを聞かず、左右史は陛軒に昇り言動を記すことを聞かない。これ豈に聖朝の美事であろうか。また御史は弾奏を敢えてせず、中書舎人は未だ政事を訪ねられず、集賢院には書籍はあるが職官がなく、秘書省には職官はあるが図籍がない。臣は願わくば、陛下は才を択び人を用い、各々その局を司らせられよ。もし職業が修め挙げられれば、威儀は自ずから厳かになる。これが大綱の二つである。
近ごろは県邑は平穏で、京師は富み庶んでいる。軍営や馬監は、ことごとく壮大にされ、仏寺や道宮は、すべて立派である。さらに西苑を開き、御池を広げた。周の霊囿や漢の昆明でさえ、比べるに足りない。しかし尚書省は特に狭隘で、郎曹には本局がなく、尚書には庁事がない。九寺三監は、天街の両廊に仮寓し、貢院は武成王廟に就いている。これが太平の制度であろうか。臣は願わくば、陛下は別に省寺を修築し、職官を配置せられよ。これが大綱の三つである。
獄官令を案ずるに、枷や杻には短長があり、鉗や鎖には軽重があり、尺寸斤両は、ことごとく刑書に記載されているが、鉄をもって枷とすることを聞かない。昔、唐の太宗が『明堂図』を観て、人の五臓は皆背に附いているのを見、徒刑を減じた。まして隆平の時にあって、刑を措いて用いず、法にないものは、これを除いてよい。これが大綱の四つである。」
上疏が奏上されると、優詔で褒め答え、銭五十万を賜った。僚友が田錫に言った。「今日のようなことは稀である。少し晦ますべきで、讒言や猜忌を遠ざけるがよい。」田錫は言った。「君に事える誠は、ただ尽くさないことを恐れるのみ。まして天がその性を植えつけたもの、どうして一つの賞賜のために奪われようか。」時に趙普が宰相となり、役所に命じて群臣の章奏を受ける時は、必ずまず田錫に報告させた。田錫は趙普に書を送り、至公の体を失うとし、趙普は咎を引き受け謝罪した。
六年、河北転運副使となり、駅伝の書で辺境の事を言上した。
「臣は聞く、動静の機は妄りに挙げるべからず、安危の理は軽々しく言うべからず、と。利害は相生じ、変易は定まらず、取捨に惑いなく、思慮は必ず精しくすべし。動静の機が妄りに挙げるべからざるとは、動とは兵を用いることをいい、静とは持重することをいう。応じて動くべき時に静であれば、寇を養って姦を生じさせ、応じて静であるべき時に動けば、時を失って事を敗る。動静が節に中れば、乃ちその宜しきを得る。今、北辺が騒がしいのは、辺境の任に居る者の中に、羊馬の細利を規して功とし、捕斬の小勝を誇って功とする者がおり、怨みを買い仇を結び、戎を興こし寇を致す、これが原因である。前年、辺境が擾乱し、親しく革輅(天子の車)が迂回され、戎騎が既に退いた後、万乗(天子)がようやく帰還された。これらは皆、我が機先を失い、彼の術中に陥り、煩労し消耗したことは、どうして言い尽くせようか。伏して願わくば、将帥を戒め督励し、封守を慎み固くし、小功を尚ばせず、互市を通じることを許し、蕃口を俘獲しても、撫でて還してやられよ。このようにすれば五年を出ずして、河朔の民は農業に務めることができ、亭障の地には軍糧を積むことができる。その後、その乱に乗じてこれを取れば克ち、その衰えに乗じて兵を加えれば降伏し、既に心服して帰ることを忘れれば、力は省かれ功は倍する。
誠に願わくば、古道を考え、遠図を務め、万国を綏懐する心を示し、四夷を駕御する策を用いられよ。事は軽々しく発することを戒め、理は深謀を貴ぶ。いわゆる安危の理が軽々しく言うべからざるとは、国家が大綱を務め至治を求めれば安泰であり、近きを捨て遠きを謀り、労して功なければ危うい。君たるには常道があり、臣たるには常職がある、これが大綱を務めることである。上は諫めを拒まず、下は情を隠さない、これが至治を求めることである。漢の武帝が自ら武節を秉り、単于の台に登り、唐の太宗が手ずから雨衣を結び、遼東の国を伐ったのは、これが近きを捨て遠きを謀ることである。沙漠の窮荒は、得ても用いるところなく、これが労して功ないことである。在位の臣で、敢えて言う者は少なく、言って聞き入れられても必ずしも福を蒙らず、言って従われなければ、かえって禍を憂う。どうして下が情を隠さないことが得られようか。どうして大綱を務め至治を求めることがあろうか。
臣はまた、利害が相生じ、変易が定まらないという。『兵書』に曰く、『用兵の害を尽く知らざる者は、則ち用兵の利を尽く知ること能わず』と。およそ事には進むべき時に退けば、害を成す事が至り、退くべき時に進めば、利用する事が去る。速くすべき時に緩やかであれば、利は必ずこれに従って失われ、緩やかでよい時に速ければ、害は必ずこれによって致される。誅すべき時に赦せば、姦宄の心が或いは時に生じて害となり、赦すべき時に誅せば、患勇の人が或いは心なくして国に利せず。賞すべき時に罰すれば、勤労の功を害するものがあり、罰すべき時に賞すれば、僭逾の幸を利するものがある。利害を審らかにすれば、則ち聡明となる。天下の耳をもってこれを聴けば聡く、天下の目をもってこれを見れば明らかである。故に『書経』に曰く、『四目を明らかにし、四聡を達す』とは、これをいうのである。臣はまた、取捨に惑いがあってはならないという。故に曰く、『孟賁の狐疑は、童子の必至に如かず』と。思慮は精しくせざるべからざるという。故に曰く、『毫厘の差は、千里の繆り』と。国家が燕を図って以来、兵を連ねて未だ解けず、財用は消耗せざるを得ず、人心は憂えざるを得ない。願わくば陛下、思慮を精しくし、取捨を決断され、日を曠くし持久し、兵を窮め武を極めることなきように。」
書が奏上されると、上はこれを嘉した。七年、相州知州に移り、右補闕に改められた。再び上章して事を論じた。
翌年、睦州に移る。睦州の民は旧来礼教に疎く、田錫は孔子廟を建て、上表して経籍を諸生に給することを請う。詔して《九経》を賜い、これより人は向学を知る。時に文明殿の災あり、また章を奉り時政を極言す。上嘉納す。起居舍人に転じ、還りて登聞鼓院を判じ、上書して封禅を請う。本官をもって知制誥となり、尋いで兵部員外郎を加う。
真宗位を嗣ぎ、吏部に遷る。秦・隴に出使し、還り、連章して言う、陝西数十州は霊・夏の役に苦しみ、生民重ねて困すと。上之が為に戚然たり。同知審官院兼通進・銀臺・封駁司と為し、金紫を賜う。魏廷式と職を聯ね、議論協わざるを以て罷めを求め、出でて泰州を知る。時に彗星見ゆ。疏を奉り躬を責めて以て天戒に答うるを請う。再び便殿に召見す。及び行くに臨み、中使を降して撫諭し、仍優賜を加う。
《御覧序》に曰く、「聖人の道は、方冊に布かる。六経は則ち言高く旨遠く、講求討論せざれば、其の淵深を測るべからず。諸史は則ち跡異なり事殊なり、参会して異同せざれば、豈に其の繁雑を記し易からんや。子書は則ち異端の説勝り、文集は則ち宗経の辞寡し。精義を獵りて以て鑒戒と為し、綱要を挙げて以て会通を観ざれば、日覧の書と為し、日新の徳を資くるに、則ち白首と雖も、経を窮むること能わず、況んや王者をや。臣毎に書を読み、思うに以て得る所を以て上り聖聡を補い、座隅に銘すべき者は御屏に書き、常道に用うべき者は《御覧》に録せん。冀くは涓埃の微を以て、上は天地の徳を裨ひ、功業をして堯・舜と崇きを比べしめ、而して生靈も亦仁寿の域に躋らしめん」と。
《御屏風序》に曰く、「古の帝王は、盤盂皆銘有り、几杖戒有り。蓋し起居必ず睹、而して夙夜忘れざるなり。湯の《盤銘》に曰く『苟に日新ならば、日日新たに、又日新たなり』と。武王、几杖に銘して曰く『安きを忘れず危きを忘れず、存するを忘れず亡ぶるを忘れず、熟く惟ふ二者、後必ず凶無からん』と。唐の黄門侍郎趙智、高宗の為に《孝経》を講じ、其の要切なる者を挙げて之を言うに曰く『天子に争臣七人有らば、道無きと雖も其の天下を失わず』と。憲宗《史》《漢》《三国》已来の経済の要を采り、《前代君臣事跡》と号し、屏間に書く。臣毎に経・史・子・集を覧、因りて其の語要を取り、輒ち用て進献し、之を御屏に題し、之を座右に置き、日夕観省せば、則ち聖徳日新たに、湯・武と隆きを比せん」と。
五年、再び銀臺を掌る。天下の奏章を覧るに、民飢え盗起こり及び詔敕不便なるを言う者有れば、悉く其の事を条奏す。上宰相に対し田錫を称して「争臣の体を得たり」と。即日、本官を以て侍御史知雑事を兼ね、右諫議大夫・史館修撰に擢つ。連ねて八疏を上る。皆直言時政の得失。六年冬、病卒す。年六十四。遺表して上を勧めて慈儉を以て位を守り、清浄を以て人を化し、安に居りて危を思い、治に在りて乱を思わしむ。上之を覧みて惻然たり。宰相李沆に謂ひて曰く、「田錫は直臣なり。朝廷少しく闕失有らば、方に思慮に在るに、田錫の章奏已に至る。此の如き諫官も亦得可からず」と。嗟惜すること久し。特に工部侍郎を贈る。其二子を録し、並びに大理評事と為し、奉を給して喪を終わらしむ。
田錫は耿介にして寡合、未だ嘗て権貴の門に趨かず。公庭に居り、危坐終日、懈る容無し。魏徴・李絳の為人を慕ひ、尽規献替を以て己が任と為す。嘗て曰く、「吾が朝に立つ以来、章疏五十有二、皆諫臣職を任するの常言なり。苟くも従はるるを得ば、幸なり。豈に副を蔵めて後を示し、時を謗り直を売らんや」と。悉く命じて之を焚かしむ。然れども性凝執にして、郡を治むるに称する無し。著す所に《咸平集》五十巻有り。
王禹偁
王禹偁、字は元之、済州鉅野の人。世農家と為る。九歳にして文を能くす。畢士安見て之を器とす。太平興国八年進士に擢でられ、成武主簿を授かる。長洲県を知るに徙り、就いて大理評事に改む。同年生の羅処約時に呉県を宰す。日相与に賦詠し、人多く伝誦す。端拱初、太宗其の名を聞き、召して試み、右拾遺・直史館に擢で、緋を賜う。故事に、緋を賜う者は塗金銀帯を給す。上特命して文犀帯を以て之を寵す。即日《端拱箴》を献じて以て規諷を寓す。
時に北庭未だ寧からず。群臣に辺事を訪う。王禹偁《禦戎十策》を献ず。大略漢事を仮りて以て之を明らかにす。「漢十二君、賢明を言うは文・景なり。昏乱を言うは哀・平なり。然れども文・景の世、軍臣単于最も強盛、肆に行い侵掠し、候騎雍に至り、火甘泉を照らす。哀・平の時、呼韓邪単于毎歳来朝し、質を委ね臣と称し、辺烽警を罷む。何ぞや。蓋し漢文は軍臣強盛の時に当たり、而して外は人を任じ内は政を修め、深患を為す能わざらしむるは、徳に由るなり。哀・平は呼韓衰弱の際に当たり、外に良将無く、内に賢臣無しと雖も、而して其の来朝を致すは、時に繫るなり。今国家の広大、漢朝に下らず。陛下の聖明、豈に文帝に譲らんや。契丹の強盛、軍臣単于に及ばず。至て辺を撓へ塞を侵す、豈に候騎雍に至り、而して火甘泉を照らすの患あらんや。亦た外に人を任じ内に徳を修むるに在るのみ。臣愚以為らく、外は則ち兵勢を合して将権を重くし、小臣の辺事を詗邏するを罷め、間諜を行いて其の党を離し、趙保忠・折禦卿を遣わして率いる所の部を以て掎角せしむ。詔を下して辺人を感勵し、燕薊の旧疆を取るは、其の土地を貪るに非ざるを知らしむ。内は則ち官を省して以て経費を寛げ、文士を抑えて以て武夫を激し、大臣を信用して以て其の謀を資け、虚名を貴ばずして以て益無きを戒め、遊惰を禁じて以て民力を厚くす」と。帝深く之を嘉す。又夏侯嘉正・羅処約・杜鎬と表を上り《三史書》を同校するを請い、多く釈正す。
未だ幾ばくもせず、大理寺を判じ、廬州の妖尼道安、徐鉉を誣訟す。道安は反坐に当たるべしと雖も、詔有りて治めず。禹偁抗疏して鉉を雪ぎ、道安の罪を論ずるを請う。坐して商州団練副使に貶せられ、歳余にして解州に移る。四年、召されて左正言に拝す。上其の性剛直にして物を容れざるを以て、命じて宰相に之を戒めしむ。昭文館に直し、外任を丐いて以て奉養に便ならしめ、単州を知ることを得、銭三十万を賜う。郡に至ること十五日、召されて礼部員外郎と為り、再び知制誥を為る。屡々李継遷を討つ便宜を献じ、以て継遷は必ずしも労力を以て誅せずとも、自ら計を用いて取るべしと為す。謂わく、宜しく継遷の罪悪を明らかに数え、蕃漢に曉諭し、賞賜を垂れ立て、官資を高く与うべし。然らば則ち継遷の身首、梟さらずんば即ち擒われんと。其の後潘羅支、継遷を射死し、夏人款附す。卒に禹偁の策の如し。
「一に曰く、辺防を謹み、盟好を通じ、輦運の民をして休息有らしむ。方今北に契丹有り、西に継遷有り。契丹は辺を侵さざると雖も、戍兵豈に減削せんや。継遷は既に命に帰せず、饋餉固より寢停め難し。関輔の民、倒懸尤甚だし。臣愚、以為うらくは宜しく封疆の吏を敕し、書を致して遼臣に俾し、其の主に達せしめ、旧好を尋ね請わしむべし。詔を下して継遷の罪を赦し、復た夏臺を与うべし。彼必ず感恩して内附し、且つ天下をして陛下の己を屈して民の為にするを知らしめん。
二に曰く、冗兵を減じ、冗吏を併せ、山沢の饒をして稍々下に流れしむ。乾徳・開宝の時に当たり、土地未だ広からず、財賦未だ豊かならざるも、然るに河東を撃ち、北鄙を備え、国用未だ足らずと雖も、兵威亦た強し。其の義安にか在る。蓄うる所の兵鋭にして衆せず、用うる所の将専にして疑わざるが故なり。自ら後、東南の数国を尽く取り、又た河東を平げ、土地財賦、広く且つ豊かなりと謂うべし。而るに兵威振わず、国用転た急なり。其の義安にか在る。蓄うる所の兵冗にして尽く鋭ならず、用うる所の将衆にして自ら専にせざるが故なり。臣愚、以為うらくは宜しく兵賦を経制し、開宝の中の如くせば、則ち高枕して治めんことを得べし。且つ開宝中、官を設くること至って少なし。臣本魯人、籍を済上に占む。第に及ばざる時、一州に止だ刺史一人・司戸一人有るのみ。当時未だ嘗て事を闕かず。自ら後、団練推官一人有り。太平興国中、通判・副使・判官・推官を増置し、而して監酒・榷税算又た四員を増す。曹官の外、更に司理を益す。其の租税を問えば、曩日に減じ、其の人民を問えば、昔時に逃る。一州既に然り、天下知るべし。冗吏は上に耗え、冗兵は下に耗ゆ。此れを以て山沢の利を尽く取るも、而して足らざる所以なり。夫れ山沢の利は、民と之を共にす。漢以来、取りて国用と為す。棄つべからざるなり。然れども亦た尽くすべからず。只だ茶法の如き、古より税無し。唐元和の中、兵を斉・蔡に用うるを以て、始めて茶に税す。『唐史』称するに、是の歳銭四十万貫を得たりと。今則ち数百万なり。民何を以て堪えん。臣故に曰く、冗兵を減じ、冗吏を併せ、山沢の饒をして稍々下に流れしむとは、此れなり。
三に曰く、選挙を艱難にし、官に入るを濫からしめざらん。古者は郷挙里選し、官の為に人を択ぶ。士君子学行家に修めて、然る後に之を朝廷に薦む。歴代沿革有ると雖も、未だ嘗て其の道を遠く去らず。隋・唐に始めて科試有り。太祖の世、毎歳進士三十人を過ぎず、経学五十人。重ねて以て諸侯奏辟することを得ず、士大夫資蔭有ること罕なり。故に終身一第を獲ず、没歯一官を獲ざる者有り。太宗、王藩に徳を毓し、其の此の如きを睹る。臨御の後、備わりを求めず以て人を取り、短を捨て長を用い、十を抜きて五を得たり。在位将に二紀を踰え、登第殆んど万人に近し。俊傑の才も有れども、亦た容易にして得る者有り。臣愚、以為うらくは、数百年の艱難なるを以て、故に先帝之を済うすに泛取を以てし、二十載の霈澤なるを以て、陛下宜しく之を糾すに旧章を以てすべし。挙場を以て有司に還し、故事の如くせんことを望む。吏部の官を銓するに至りては、亦た帝王の躬親する事に非ず。自らい五品已下、之を旨授官と謂う。今は幕職・州県のみ。京官は選限有ると雖も、多く施行せず。臣愚、以為うらくは宜しく吏部を以て有司に還し、格敕に依り注擬するも可なり。
四に曰く、僧尼を沙汰し、疲民をして耗無からしむ。夫れ古者は唯だ四民有り、兵は其の数に在らず。蓋し古者は井田の法、農即ち兵なり。秦以来、戦士農業に服せず。是れ四民の外、又た一民を生ず。故に農益々困す。然れども干戈を執り社稷を衛うは、理として去るべからず。漢明の後、仏法中国に流入し、人を度し寺を修す。歴代増加す。蚕せずして衣し、耕さずして食す。是れ五民の外、又た一を益して六と為す。仮使天下に万僧有り、日米一升を食し、歳絹一匹を用うとす。是れ至儉なりと雖も、猶月に三千斛を費し、歳に万縑を用う。況んや五七万輩においてをや。民蠹と曰わざらんや。臣愚、以為うらくは、国家人の度すること衆く、寺を造ること多し。其の費耗を計れば、何啻億万ならん。先朝豫せず、捨施又多し。仏若し霊有らば、豈に福を蒙らざらん。事仏効無しは、断じて知るべし。願わくは陛下深く治本を鑒み、亟に沙汰を行い、若し嗣位の初め、未だ此の輩を驚駭せしむるを欲せざれば、且つ二十載を以て、人を度し寺を修さず、自ら銷鑠せしむるも、亦た弊を救うの一端なり。
臣愚、また以て為すに、今の急務は先ず兵を議し、衆寡を其の宜しきを得させ、措置を其の道を得させ、然る後に吏を議し、清濁を殊塗ならしめ、品流を雑ぜず、然る後に選挙を厳にして其の源を塞ぎ、僧尼を禁じて其の消耗を去らしむれば、自然と国用足りて王道行わるべし。
疏が奏上されると、召還されて、再び知制誥に任ぜられた。
咸平初年、『太祖実録』の編修に預かり、事を直筆した。時に宰相の張齊賢と李沆が不和で、禹偁の議論が其の間に軽重を加えたと疑った。黄州知州として出され、嘗て『三黜賦』を作って志を示した。其の卒章に云う、「身は屈すれども道に屈せず、百たび謫せられど何ぞ虧けん」と。
四年、州境内で二頭の虎が闘い、其の一頭が死に、殆ど半ばを食われた。群鶏が夜鳴きし、一月を経て止まぬ。冬に雷が暴かに作る。禹偁は手疏を以て『洪範伝』を引きて戒めを陳べ、且つ自ら劾した。上は内侍を遣わし駅伝を乗りて労問し、醮禳を行わせ、日官に詢ねた。曰く、「守土の者其の咎に当たるべし」と。上は禹偁の才を惜しみ、是の日、蘄州に徙すことを命じた。禹偁は上表して謝し、「宣室の鬼神の問、生還を望まず、茂陵の封禅の書、身後を期すのみ」との語有り。上は之を異とし、果たして郡に到りて一月を踰えずして卒す。年四十八。訃報を聞き、甚だ悼み、其の家に厚く賻を与えた。一子に出身を賜う。
禹偁は詞学に敏贍で、事に遇いて敢えて言い、人物を臧否するを喜び、直躬行道を以て己が任と為した。嘗て云う、「吾れ若し元和の時に生まれ、李絳・崔群の間に従事せば、斯に愧じること無からん」と。其の文を為し書を著すや、多く規諷に渉り、是を以て頗る流俗に容れられず、故に屡く擯斥を見る。交遊する者は必ず儒雅にし、後進に詞芸有る者は、極意して之を称揚した。孫何・丁謂の輩の如き、多く其の門に遊ぶ。『小畜集』二十巻、『承明集』十巻、『集議』十巻、詩三巻有り。子の嘉祐・嘉言、倶に知名。
嘉祐は館職に在りし時、寇準が曰く、「吾が京尹たるを、外議は如何」と。対えて曰く、「人言う、丈人将に相に入らんと」と。準曰く、「吾が子の意には如何」と。嘉祐曰く、「愚観するに、相と為さざるの善きに若かず。相と為れば則ち誉望損ず。古よりの賢相、其の能く功業を建て生民を潤す所以は、其の君臣相得て、魚の水有るが若き故に、言は聴かれ計は従われ、臣主倶に栄ゆ。今、丈人は天下の重望を負い、中外に太平の責め有り。丈人の明主に於けるや、能く魚の水有るが若くせんや」と。準は大いに喜び、其の手を執りて曰く、「元之(禹偁)は文章天下に冠たれど、深識遠慮に至っては、或いは吾が子に逮ばざるか」と。嘉祐の官は顕れず。
嘉言は進士第を以て江都簿と為り、真宗が嘗て禹偁の奏章を観て、其の切直なるを嗟美し、因りて其の後を訪ねた。宰相が嘉言を以て聞こえさせた。即ち召し対せしめ、大理評事に擢げ、殿中侍御史に至る。曾孫の汾は進士甲科に挙がり、工部侍郎に仕え、元祐党籍に入る。
張詠
張詠、字は復之、濮州鄄城の人。少より気を任せ、小節に拘わらず、貧賤にして客遊すと雖も、未だ人に下らざりき。太平興国五年、郡が進士を挙ぐるに、詠を首薦とするを議す。夙儒の張覃と云う者未だ第せず、詠は寇準と共に郡将に書を致し、覃を首と為すを薦め、衆其の譲る能くするを許す。是の歳、詠は進士乙科に登り、大理評事・鄂州崇陽県知事と為る。再び著作佐郎に遷る。蘇易簡の薦めにより、入りて太子中允と為り、秘書丞に遷り、麟・相二州を通判し、養いを便にする為に濮州市征を掌ることを乞う。俄かに召還され、緋魚を賜い、浚儀県知事と為る。李沆・宋湜・寇準が連ねて其の才を薦むるに会い、荊湖北路転運使と為し、帰・峽二州の水遞夫を奏して罷め、就いて太常博士に転ず。
太宗はその強幹なるを聞き、召し還し、虞部郎中を超拝し、金紫を賜う。旬日のうちに、向敏中と並び擢てられて樞密直學士・同知銀臺通進封駁司兼掌三班院となる。張永德が幷代部署たりし時、小校法を犯し、これを笞ちて死に至らしむ。詔して其の罪を案ぜしむ。詠詔書を封じて還し、且つ言う、「陛下方に永德に邊任を委ぬ。若し一部校の故を以て、主帥を推辱せば、臣下に上を軽んずるの心あるを恐る。」と。太宗従わず。未だ幾ばくもせず、果たして營兵軍校を脅訴する者有り。詠前事を引きて言と為す。太宗容を改めて之を労う。
出でて益州を知る。時に李順乱を構え、王繼恩・上官正兵を総べて攻討すれども、師を頓して進まず。詠言を以て正を激し、其の親行を勉め、仍って盛んに供帳を為して之を餞る。酒酣なるに及び、爵を挙げて軍校に属し曰く、「汝曹國の厚恩を蒙るも、以て責めを塞ぐこと無し。此の行当に寇壘に直抵し、醜類を平蕩すべし。若し老師曠日せば、即ち此の地還って爾が死する所と為らん。」と。正是に由りて決行深入し、大いに克捷す。繼恩帳下の卒城を縋りて夜遁す。吏執えて以て告ぐ。詠繼恩と歓を失わんと欲せず、即ち命じて縶し眢井に投ぜしむ。人知る者無し。時に寇略の際、民多く脅従す。詠文を移して以て朝廷の恩信を諭し、各々田里に帰らしむ。且つ曰く、「前日李順民を脅して賊と為し、今日吾賊を化して民と為す。亦た可ならずや。」と。時に民間訛言有り、白頭翁午後に人児女を食うと。一郡囂然たり。暮に至りて路行人無し。既にして訛を造る者を得て之を戮す。民遂に帖息す。詠曰く、「妖訛の興るは、沴気之に乗ず。妖は則ち形有り、訛は則ち声有り。訛を止むるの術は、識断に在りて、厭勝に在らず。」と。
初め、蜀の士向学を知るも、仕宦を楽しまず。詠郡人張及・李畋・張逵の者皆学行有り、郷里に称せらるるを察し、遂に敦勉して挙に就かしむ。而して三人の者悉く科に登る。士是に由りて勧めを知る。民諜訴する者有れば、詠情偽を灼見し、立ちどころに判決を為す。人皆厭服す。好事者其の辞を編集し、板を鏤りて伝布す。詠嘗て曰く、「君子に詢えば君子を得、小人に詢えば小人を得。各々其の党に就きて之を詢わば、則ち審からざること無からん。」と。其の政を為すに、恩威並び用い、蜀民畏れて之を愛す。外艱に遭い、起復し、兵部郎中に改む。詔有りて川・陝諸州銅鉄錢を参用せしむ。毎に銅錢一、鉄錢十に当つ。詠上言す、「昨利州を経るに、銅錢一を以て鉄錢五と換え、綿州にては銅錢一鉄錢六と換え、益州にては銅錢一鉄錢八と換う。若し一に其の法を為さば、公私便ならず。旬估に依りて銅錢を折納せんことを望む。」と。
五年、馬知節益より延州に徙る。朝議代わるべき者を択ぶ。真宗詠の前に蜀に在りて治行優異なるを以て、復た命じて益州を知らしめ、仍って刑部侍郎・樞密直學士を加え、就いて吏部侍郎に遷す。転運使黄観其の治状を上る。詔有りて褒美す。謝濤を遣わして西蜀を巡撫せしむるに会い、上因りて令して詠に伝諭せしむ、「卿の蜀に在るを得れば、朕西顧の憂い無し。」と。朝に帰り、復た三班を掌り、登聞檢院を領す。
初め、詠青州の傅霖と少く同学す。霖隠れて仕えず。詠既に顕るる後、霖を求むること三十年得ず。是に至りて来謁す。閽吏傅霖請見すと白す。詠之を責めて曰く、「傅先生は天下の賢士なり。吾尚お友と為ることを得ず。汝何人ぞ、敢えて之を名づくや。」と。霖笑いて曰く、「子と別るること一世尚お爾りや。是れ豈に世間に傅霖有るを知らんや。」と。詠問う、「昔何ぞ隠れ、今何ぞ出づる。」と。霖曰く、「子将に去らんとす。来たりて子に報ずる爾り。」と。詠曰く、「詠亦た自ら之を知る。」と。霖曰く、「知りて復た何をか言わん。」と。翌日別れて去る。後一月にして詠卒す。年七十。左僕射を贈り、諡して忠定と曰う。
詠剛方自ら任じ、治を為すに厳猛を尚ぶ。嘗て小吏詠に忤う有り。詠其の頸を械す。吏恚みて曰く、「某を斬らざれば、此の枷終に脱せず。」と。詠其の悖りを怒り、即ち之を斬る。少く撃剣を学び、慷慨大言を好み、奇節を為すを楽む。士人遠郡に遊宦し、僕夫に持せられ、且つ其の女を得て妻と為さんと欲す。士人者制すること能わず。詠伝舎にて之に遇い、其の事を知り、即ち陽りに此の僕を仮りて馭と為し、単騎近郊に出で、林麓の中に至り、之を斬って還る。嘗て其の友人に謂いて曰く、「張詠幸いに明時に生まれ、典墳を読んで以て自ら律す。爾らずんば、則ち何人と為らんや。」と。故に其の言う、「君に事うる者は、廉にして貧しきを言わず、勤めて苦しきを言わず、忠にして己が効を言わず、公にして己が能を言わず。斯れ以て君に事うべし。」と。性躁果卞急、病創甚だしく、飲食すれば則ち痛楚増劇す。下を御するに益々峻しく、尤も人の拜跪を喜ばず。典客に命じて預め戒め止めしむ。違う者有れば、詠即ち連拜止まず、或いは倨坐して之を罵る。真宗嘗て其の材将帥に任ずべしと称すれども、疾を以て其の用を尽くさず。自ら「乖崖」と号す。以て「乖」は則ち衆に違い、「崖」は則ち物に利せずと為す。集十巻有り。弟詵、虞部員外郎と為る。
論ずるに、《伝》に云う、「邦に道あれば、言を危くし行いを危くす」と。三人の者は、骨鯁蹇諤の節を躬行し、蔚然として名臣たり、遇うところの時然り。禹偁の戎を制するの策は、その後果たしてその言に符し、而して醇文奥学、世の宗仰する所となる。錫は身没の後、特ちに褒命を降し、以て直操を賁う、夫の容容嘿嘿として、以て禄を保ち位を固うる者と異なり。詠の至る所、政績を以て聞こゆ。天子嘗て曰く、「詠蜀に在りて、吾西顧の憂い無し」と。その褒められしことかくの如し。然れども皆な骯髒として自ら信じ、道諧わず偶わず、故に用いられること極まれずと云う。