宋史

列傳第五十  呉育 宋綬 李若谷 王博文 王鬷

吳育

吳育、字は春卿、建安の人である。父の待問は楊億と同州里にあり、毎度億を訪ねると、億は厚く礼遇した。門下の少年たちは多く彼を軽んじたが、億は言った。「彼が他日に享受するものは、お前たちが望むところではない。」累官して光禄卿となり、礼部侍郎をもって致仕した。

育は幼少より奇抜で穎悟博学、進士に挙げられ、礼部の試験で第一、甲科に及第した。大理評事に任じられ、寺丞に遷る。臨安・諸暨・襄城の三県の知県を歴任した。秦悼王が汝に葬られて以後、子孫が従葬し、皆宦官が典護として出向き、歳時の上塚者が往来し、呼び求め索めて州県を擾乱した。育が襄城に在った時、凡そ官が需めるものは、定数を具備し、使者の妄りに索めることを容れず、羊豕は悉く大官より出すよう請うた。これにより民の供費は殆ど半減した。宦官の通り過ぎる者はこれを恨み、或いは夜中に県門を叩き、牛を索めて車を駕すが、育は拒んで応じなかった。後日、宗子が通過する際、鷹犬を放って民田を暴かせたが、襄城の境に入ると、互いに戒め約束し、敢えて放つ者は無かった。

賢良方正に挙げられ、著作郎・直集賢院・蘇州通判に抜擢された。還って太常礼院を知り、礼文を奏定し、『太常新礼慶曆祀儀』と名付けた。右正言に改め、三司塩鉄・戸部の二判官を歴任した。尋いで本官をもって諫職に供する。

元昊が僭号し、出兵して討つことを議した。群臣は言う。「元昊は小醜なり、直ちに誅滅すべし。」育のみが建言する。「元昊は蕃臣と称すれども、その尺賦斗租は県官に入らず、且つ服叛常ならず、これを置き、責むるに足らざるを示すべし。且つ既に輿服を僭する以上、勢い自ら削ぐこと能わず、国初の江南故事を援け、稍々その名を易え、以て順拊してこれを収むべし。」報い無し。再び上言する。「宜しく先ず文誥を以て告諭すべく、尚お賓せざれば、姑く守禦を厳にし、中国の叛臣と同じく急ぎ征討を加うるに足らず。且つ征討は神速を貴び、守禦は持重に利あり。羌人は剽悍にして詐り多く、出没時にあらず、我が師は鋭に乗じ、小利小勝を見れば、必ずや功を貪り軽く進み、往々にして賊の計中に堕つ。ただ厳に約束し、烽候を明らかにし、壁を堅くし野を清くし、以てその鋒を挫くべし。」時に方に討伐に鋭意し、既にして諸将多く軍を覆す者あり、久しく功無く、卒に元昊を夏国主に封じ、育の議の如くせり。

育はまた上言する。「天下久しく安んずるも、務めて因循にして生事を厭い、政令紀綱、辺防機要を置きて復た修めず、一たび辺警あれば、則ち倉皇としてなすべきを知らず、稍々安静に至れば、則ちまた敢えて輒ち言う者無し。若し政令修まり、紀綱粛然とし、財用富み、恩信給し、賞罰明らかで、将帥練習し、士卒精鋭ならば、則ち四夷風を望みて、自ら他志無からん。若し一つ備わらざれば、則ち間を乗じて起らん。」

また曰く。「漢は西域諸国に通じ、匈奴の右臂を断つ。諸戎内附し、桀黠なる者ありと雖も、敢えて独り叛かず。唐の太宗は嘗て回鶻可汗並びにその相手に書を賜い、その貢奉を納れ、厚く金帛を以てす。真宗は潘羅支を命じて李継遷を攻殺せしめ、而して徳明乃ち降る。元昊はただ朝廷が比年西域諸戎と朝貢を通ぜざるを見て、乃ち利を以て隣境を啗い、その巣穴を固め、肘腋の患無きを得たり。跳梁猖獗す、彼は肆にして顧みざるを得たり。士を募り唃廝囉及び他の蕃部を諭し、その党与を離散せしめ、力を併せて攻撃せしめ、而してその恩賜を均しくすべし、これ伐謀の要なり。」因りて真宗の時西域諸蕃に通じたる事跡を録して上る。同修起居注に除し、遂に知制誥となり、翰林学士に進み、累遷して礼部郎中となる。

契丹と元昊が兵を構え、元昊は款を納れんと求む。契丹の使い来たりて元昊を納れざるよう請う。朝廷答うべき所を知らず。育因りて上疏して曰く。「契丹は恩を受けて、日已久し。一たび叛羌を納れ、継世兄弟の歓を失うべからず。今二蕃自ら闘い、闘い久しく解けず、形勢を観、機に乗じて功を立てるべし。万一過計し、急ぎ元昊を納るれば、臣は契丹が趙・魏に兵を窺い、朝廷は元昊の毫髪の助けを得ずして、太行東西に且つ煙塵の警あらんことを恐る。宜しく人をして元昊に諭さしむべし。『契丹は汝が世姻なり、一旦自ら絶ち、力屈して我に帰す、我の疑う所なり、若し他無ければ、当に契丹に順うこと故の如くすべく、然る後に汝の帰款を許すべし。』契丹に告げて曰く。『既に元昊に詔し、若し能く轅門に投謝せば、即ち内附を聴く。若し猶お堅く拒まば、当にこれを討つべし。』かくの如くすれば、則ち彼ら皆我に帰罪すること能わざるべし。」ここにおいて両制を召し、契丹の書を出し、両制をして同じく上対せしむ。育の議を易えず。

尋いで開封府を知る。数日居て、大奸吏一人を発し、嶺外に流す。また巨盗を得、積贓一万九千緡、獄具にして輒ち再び変ず。帝、他の吏を遣わしてこれを按ぜしむ。卒に法に伏す。時に歳饑えて盗多く、育は賞功の法を厳にし、嘗て盗を得て未だ賞せざる者、一切これを賞し、以て欺かざることを明らかにす。

慶暦五年、右諫議大夫・枢密副使に拝す。数ヶ月居て、参知政事に改む。山東に盗起こる。帝、中使を遣わして按視せしむ。還りて奏す。「盗は慮るに足らず。兗州の杜衍・鄆州の富弼、山東の人尊愛す、これ憂うべし。」帝、二人を淮南に徙さんと欲す。育曰く。「盗は誠に慮るに足らざる者なり、小人時を乗じて大臣を傾けんとす、禍幾くんば禦ぐべからず。」事遂に寝す。章献・章懿太后、真宗廟に升祔す。議者恩を覃べ、且つ軍士に優賜せんことを請う。育曰く。「事無くして僥倖を啓く、誰か陛下の為にこの議を建つる者、これを治むるを請う。」已にして外人多く執政者を怨む。帝、以て輔臣に語す。育曰く。「これ必ずや建議者、上聴を動揺せんと欲するなり。臣は身を以て国に許す、何ぞこれを憚らんや。」

向綬、永静軍を知り、不法を為し、通判江中立がその陰事を発するを疑い、因りて獄を構えて危法を以てこれを中つ。中立自経して死す。綬は宰相の子、大臣に営助する者あり、軽法を傅えんと欲す。育曰く。「綬を殺さざれば、以て天下に示すこと無し。」卒に死罪一等を減じ、南方に流す。御史唐詢、制科を罷むるを請う。帝、その名を刊して中書に付す。育、奏疏をして駁議す。帝、因りて輔臣に諭して曰く。「彼上言する者、内批より行下するを乞う、今乃ち欺罔なるを知る。」育曰く。「睿聴の昭察に非ざれば、則ち邪を挟み国を蠹し、為さざる所無からん。願わくは姓名を出だし按劾し、以て国法を明らかにせん。」

育が政府にあっては、事に遇うごとに敢えて言い、宰相の賈昌朝と数度にわたり帝の前で争議し、左右の者は皆顔色を失ったが、育は論弁を止めず、ついに請うて曰く、「臣の弁ずる所は、職分である。顧みるに力及ばず、願わくは臣の職を罷められよ」と。そこでまた枢密副使とした。翌年大旱があり、御史中丞の高若訥が言うには、「大臣が喧嘩争うことが不粛であるため、雨が時に順わないのである」と。そこで昌朝を罷め、育は給事中の班に帰した。間もなく、許州の知州として出向し、蔡州に移った。伍保の法を設け、盗賊を検制した。時に京師に、妖人が千数人確山に集まっていると告げる者がおり、詔して中使を遣わし、召捕する者十人を派遣した。到着すると、巡検の兵を率いて索めに行こうとしたが、育は言った、「使者は妖人を得て還り報告したいのか」と。曰く、「然り」と。曰く、「育ここにあり、不敏ながらも、千人が境内に集まることは、知らぬわけにはいかない。これはただ郷民が浮屠の法を用いて集まり、銭財の利を図っているだけである。弓手一人を召してやれば、来させることもできよう。今兵を率いて行けば、人々は驚き疑い、どうか留まって行かないでほしい」と。中使はこれを然りとした。しばらくして、十人を召し寄せ、枷をはめて闕下に送ると、皆無罪で釈放した。そして告げた者は罪に伏した。

まもなく資政殿学士として河南府の知府となり、陝州に移った。詔獄について上書して論じて曰く、「先王は旒を凝らし纊を黈し、人の過失を聞き見ることを欲しなかった。もし罪があれば、すなわちこれを有司に属した。楊儀はかつて三司判官であったが、近ごろ御史台から都亭驛に移されて弾劾され、枷をはめ縛られて市中を通り、人々は測り知れず、いかなる大獄かと思った。そして案が整ったと聞くと、ただ常事を請求しただけであった。道路の衆口が紛紛と窃かに議論し、朝廷の士は、人皆自ら危うくする。これで廉恥を養い、敦厚の道を示すことになろうか」と。

礼部侍郎に遷り、永興軍の知軍となり、召されて翰林侍読学士を兼ねた。病気を理由に辞し、かつ便郡を請うた。帝は大臣に語って曰く、「呉育は剛正で用いることができるが、ただ悪を嫉むことがあまりに過ぎるのみ」と。そこで汝州の知州とし、内侍を遣わして禁中の良薬を賜った。病気が癒えず、また散地に居ることを請うたため、集賢院学士として西京留司御史台を判じた。外台は旧来民事を領さなかったが、時に張堯佐が河陽の知府であり、民の訴訟が長く決せず、多く育の所に訴え出た。育は曲直を弁じ、判書を状尾に書き、堯佐は畏れてこれに奉行した。再び資政殿学士兼翰林侍読学士となり、陝州の知州となり、資政殿大学士に進んだ。召還されて、尚書都省を判じた。

ある日、禁中で侍読していた時、帝はついでに「臣下の毀誉は、多く愛憎から出る。卿の慎むべきところである」と語った。育は曰く、「知って言葉に表すよりも、察して事を行なうに如かず。聖主の行いは、日月の明の如し。一人を進めれば、人皆その善を知らしめ、一人を出せば、人皆その悪を明らかにする。そうすれば陰邪は害を構えることができず、公正は自ら立つことができる。これが百王の要道である」と。帝は数度大用しようとしたが、諫官の劉元瑜が育が河南でかつて民に貸して利息銭を取ったと誣奏した。久しくして、宣徽南院使・鄜延路経略安撫使・延州判に除かれた。

夏人は既に臣と称していたが、辺境の種落がしばしば侵耕して患いとなった。龐籍が幷州を守り、堡を築いて備えようとした。育は言うには、「要契が明らかでないのに急いで城を築けば、羌人は必ず争い、争って患いを受けるのは必ず麟府であろう」と。河東に移文し、また籍に手書と疏を朝廷に送ったが、返答がなかった。既にして夏人は果たして河外を犯し、ぎょう将の郭恩を陥れ、太原の将佐は皆罪を得て去った。病気が再発し、辺事を任せられないと辞し、宣徽使の解任を求め、再び資政殿大学士・尚書左丞・河中府の知府とし、河南に移した。病が重篤になっても、政務を視ることは平素の如くであり、囚人を閲して罪なき者を弁じ、文書を弄ぶ吏二人を流した。やがて卒去した。年五十五。吏部尚書を贈られ、諡は「正肅」といった。

育の性質は明敏果断であり、赴任した先では条教を作り、簡素で分かりやすく実行しがたく、犯すことができなかった。事に遇っても妄りに発することなく、発すれば人は撓ることができなかった。弁論は明白で、人をして疑うことなく聴かしめた。

初め開封府尹であった時、范仲淹が政府にあり、事により仲淹と意見が合わなかった。既にして仲淹が河東を安撫し、奏請があったが、多くは任事者に沮まれた。育は実行可能なものを取って固くこれを行なった。二府に在った時、待問が列卿として朝請に奉じていたが、育は自ら安んぜず、罷去を請うたが、聴かれなかった。永興に出帥した時、時に待問はまだ無恙で、肩輿で迎え侍らせ、時人はこれを栄とした。晚年は西台に在り、宋庠と相唱和し、裴・白の遺事を追って数百篇に及んだ。体質は元来弱く、少時力学して心疾を得た。後に古方を得て、丹砂を和してこれを服したところ、大いに酔い、一晩で癒えた。後数度発作し、毎回発すると数十日でやんだ。文集五十巻がある。弟の充は宰相となり、別に伝がある。

宋綬

宋綬、字は公垂、趙州平棘の人。父の皋は、尚書度支員外郎・直集賢院であった。綬は幼くして聡明で警戒心が強く、額に奇骨があり、外祖父の楊徽之に器重され愛された。徽之には子がなく、家蔵の書を全て綬に与えた。綬の母も書をよく知り、常に自ら訓教したため、博く経史百家に通じ、文章は一時の尚ぶところとなった。

初め、徽之が卒去した時、遺奏により太常寺太祝に補された。年十五で、召されて中書で試され、真宗はその文を愛し、大理評事に遷し、秘閣で読書することを許した。大中祥符元年、再び学士院で試され、集賢校理となり、父の皋と同職となった。後に同進士出身を賜り、大理寺丞に遷った。汾陰を祀る時、行在所に召し赴き、銭易・陳越・劉筠と共に、過ぎた地の地誌・風物・故実を集め、毎回宿舎に止まるごとに奏上した。亳州太清宮を祠ろうとする時、簽書亳州判官事とし、入朝して左正言・同判太常礼院となった。久しくして、三司憑由司を判じた。建言して曰く、「近年赦令を下して逋負を釈放しているが、後期になって未だ報告のない州が六十八ある。諸路に官を選んで考核させ、半月を期して報告させることを請う」と。これにより枷をはめ拘束されていた三千二百人を脱し、積もった負債数百万を蠲免した。

知制誥・判吏部流内銓兼史館修撰・玉清昭応宮判官に抜擢された。累遷して戸部郎中・権直学士院となり、『真宗実録』を同修し、左司郎中に進み、ついに翰林学士兼侍読学士・勾当三班院となった。初めて唐史を読むことを詔され、固く三班院の職を解いて専ら進講に当たることを請うた。国史を同修し、中書舎人に遷った。昭応宮が火災に遭い、二学士の職を罷められた。一年余りして、再び翰林学士となった。史書が完成し、尚書工部侍郎兼侍読学士に遷った。

時に太后はなお称制し、五日ごとに承明殿に御し、簾を垂れて事を決し、仁宗は未だ群臣と独り対したことがなかった。綬は奏上して言うには、「唐の先天年中、睿宗が太上皇となり、五日ごとに一朝を受け、軍国の重務を処分し、三品以下の官を除き、徒刑を決した。宜しく先天の制度に倣い、群臣を前殿に対せしめ、軍国大事でないもの、除拜は皆前殿で旨を取るべきである」と。上書して、太后の意に忤り、龍図閣学士に改められ、応天府の知府として出された。太后が崩御すると、帝は綬の言を思い、召還して大用しようとしたが、宰相の張士遜が沮み止めたため、再び翰林侍読学士を加えられた。章献明肅・章懿太后の祔廟の礼を定めることを詔され、綬は『春秋』の考仲子之宮、唐の坤儀廟の故事を援用し、別に宮を築いて奉慈廟と称し、神主を安ずることを請うた。事の多くは採用された。

端明殿学士を初めて置き、綬を任命せんとしたが、綬は固辞した。また言上して、「帝王が天下を治めるには、威権を総覧することにあります。しかしここ一紀(十二年)以来、命令は簾帷(垂れ幕の内、すなわち太后)から出ておりました。陛下がみずから万機を親裁されるようになってからは、内外が首を長くして、聖政の現れるのを待ち望んでおります。よって過ちを懲らし弊害を改め、百姓の耳目を新たにすべきです。しかし賞罰号令は、前の日々より優れたものがあるとは言えず、これは三事(三公)の大臣が誠意を尽くして力を入れ、陛下の治世を補佐していないからではないでしょうか。近ごろ太后の朝では、官職の任命を吝しむことが多く、邪悪な幸臣が直接昇進を手にすることがありました。議する者は、恩恵が太后から出ていると言いました。今、恩賞は行われていますが、また大臣から出ていると言われております。大臣が朋党を組んで上を欺いていないなら、どうしてこのようなことが起こり得ましょうか。朋党が朝廷の患いとなることは、古今同じです。ある者は帝のご意向を窺い測り、密かに上奏させ、ある者は自分の意に合わせて、人の進退を図ります。大官は恩を売って権力を招き、小人は利に趨って昇進を売り込みます。この風潮が次第に長じれば、国家の政治を蝕むことになります。太宗はかつて、『国家に外憂がなければ必ず内患がある。外憂は辺境の事に過ぎず、皆予防できる。奸邪の者が共に結託するのが内患であり、深く懼れるべきである』とおっしゃいました。真宗もまた、『唐では朋党が特に盛んで、王室は遂に衰えた』とおっしゃっています。願わくは陛下、祖宗の訓戒を思い、王業の艱難を念い、綱紀を整え正すことを、まさに今日行ってください」と。張士遜が罷免されると、綬は参知政事に任ぜられた。

初め、寺観の修築を罷める詔が出ていたが、章恵太后が旧宅を道観としようとしたので、諫官や御史がこれを諫めた。帝は、「これは太后の嫁入り道具の中の物である。諫官や御史は名を求めようとしているのか」と言った。綬が進み出て言った、「彼らは太后のなさったことを知っているわけではございません。ただ土木を興して近ごろの詔に違背しているのを見て、即座に論奏したまでです。しかも事柄には疑わしい点があり、彼らはなお過ちとして指摘しております。あるいは陛下に大きな欠失があれば、近臣はたとえ言わなくとも、四方に伝聞され、聖政の累いとなります。どうして軽んじることができましょうか。太祖はかつて、唐の太宗が諫官に誹謗されても、それを恥じなかったとおっしゃいました。どうして過ちのない行動を起こし、彼らに言うところを与えないようになさらないのですか」と。

郭皇后が廃されると、帝は綬に詔を作るよう命じ、「徳望ある家柄を求め、坤儀(皇后)に相応しい者とせよ」と言った。しばらくして左右の者が富人の陳氏の娘を宮中に引き入れた。綬は言った、「陛下は賤しい者を中宮に正位させようとなさるのですか。前日の詔の言葉と矛盾するのではありませんか」。数日後、王曾が入対し、またこれを論奏した。帝は、「宋綬もこのように言った」と言った。その時、大臣たちが引き続き論じる者がおり、ついに(陳氏女の入内は)取りやめとなった。

帝は年が若く、天下は久しく平穏で事がなかったので、綬は宴楽が次第に増えることを憂慮し、言上した、「人心は久しい安泰によって安逸に流れ、患害は軽んじられる所から生じます。故に事なき時に防備を立て、未だ萌さないうちに変事を消すのです。事が起こってから対応するのでは、危うくはないでしょうか。臣は願わくは、諸司を戒め励まし、太平の世を理由に自ら怠ることのないようにさせたいと思います」。また上奏して、「下を統御する道に三つあります。事に臨んでは守ることを尚び、機に当たっては断ずることを貴び、謀りごとを兆すには密であることを先とします。よく守れば奸臣も動かすことができず、よく断じれば邪な者も惑わすことができず、よく密にすれば事も阻害することができません。願わくは陛下、これをご念頭に置かれますように。さらに深く宮中に閑居される時には、声と味で六気を調和し、節度と発散で四時に順い、聖体を保養されることが、宗廟社稷の慶事であります」と。再び吏部侍郎に遷った。

当時、宰相の呂夷簡と王曾は議論がしばしば合わなかった。綬は多く夷簡に賛同し、参知政事の蔡齊は時折異なる意見を持ったため、政事はこれによって依違して決まらず、ついに四人は皆罷免された。綬は尚書左丞・資政殿学士として留められ侍講筵に侍し、権判尚書都省を兼ねた。一年余りして、資政殿大学士を加えられ、礼部尚書として河南府の知事となった。

元昊が反乱を起こし、劉平と石元孫が敗れて戦死した。帝は外任にある大臣に手詔を賜い、攻守の策を諮問した。綬は十箇条の策を図上して献上した。再び召されて知枢密院事となり、兵部尚書・参知政事に遷った。当時、綬の母はまだ存命であった。綬は病を得た後、政務を見ず、なお起居は自力で行い、後事を区処した。まもなく卒去し、司徒しと兼侍中を追贈され、諡は「宣献」とされた。

綬は性質孝謹で清く廉直であり、言動に常軌があった。子供の時、手に銭を執らなかった。家に蔵書一万余巻あり、みずから校勘し、経史百家に広く通じ、その筆跡は特に精妙であった。朝廷の大議論は、多く綬によって裁定された。楊億はその文章を沈着雄壮で純粋麗沢であると称し、「私はおよばない」と言った。死後、帝はその書いた字を多く取り、禁中に蔵した。初め、郊祀の際、綬が太僕卿を代行した。帝が儀礼の器物や典故を問うと、占い対えて弁え明らかであり、そこで撰した『鹵簿図』十巻を上呈した。子に敏求がいる。

子 敏求

敏求は、字を次道といい、進士及第を賜り、館閣校勘となった。蘇舜欽の進奏院の会に預かり、出されて簽書集慶軍判官となった。王堯臣が『唐書』を修めるに当たり、敏求が唐の事に習熟しているので、編修官に奏薦した。祖母の喪に服し、詔により家に居て書を修めることを命ぜられた。喪が終わると、同知太常礼院となった。

石中立が薨じ、その子の継が死に、他の子がいなかった。その孫の祖仁が服すべき喪服について疑い、礼官に下して議させた。敏求は、三年の喪に服すべきであり、官を解き、斬衰を着るべきであると主張した。同僚の援引する根拠は一致せず、判寺の宋祁がその議論を是としたので、ついに令として定められた。集賢校理を加えられた。宋庠に辟かれて従い、西京の通判となった。群牧度支判官となった。落馬して足を傷め、出て亳州知州となった。治平年間、召されて『仁宗実録』検討官となり、同修起居注・知制誥・判太常寺を兼ねた。

英宗が殯宮にある時、宗室で疏服(軽い喪服)の者は嫁娶できるという意見があった。敏求は、大行皇帝(英宗)が未だ発引していないので、できないと考えた。一年後、またそのような意見が出た。敏求は、宗室は義服(本来の服ではない服)であり、服が降格して練祭(十三月の祭)を過ぎれば、嫁娶できると述べた。前後の議論が異なることに坐し、位階を貶められて絳州知州となった。王珪と范鎮が留めるよう乞うたので、『実録』を完成させた。神宗は、「典礼は国の重んずる所であり、このように誤謬があっては、責めがないわけにはいかない」と言った。しかし敏求の議論は初めから誤っておらず、曾公亮が礼院の劉瑾が敏求に附いて説をなすのを嫌ったので、このことを因として去らせたのである。この年、すぐに詔して還された。

徐国公主が夫の兄を自分の甥として奏官しようとした。敏求はそれが天倫を乱すものと疏して、正しい道理を執り行った。王安石は呂公著を憎み、韓琦が人心に乗じ、趙鞅が晋陽の甲を興して君側の悪を逐ったように、悪を逐おうとしているという言葉を公著が言ったと誣告し、潁州に出した。敏求が制誥を起草すべきところ、安石は旨を諭して罪状を明記させようとしたが、敏求はただ「事実を失したことを述べた」と言っただけだった。安石は怒って帝に白上し、陳升之にその言葉を改めさせた。敏求は職の解除を請うたが、聞き入れられなかった。

折しも李定が秀州判官から御史に除せられた時、敏求が詞頭(任命書の草案)を封じて返上したので、ついに本官の右諫議大夫のまま奉朝請となった。賢良方正科の策試で、孔文仲の対語が切直であったので、優等に抜擢したが、安石はますます怒り、文仲を罷免した。人々は敏求を懼れたが、帝だけは彼を全うし護り、史館修撰・集賢院学士に任じた。鄧潤甫が帝に言った、「近ごろ群臣は多く告訴を尚びますが、これは国家の美事ではなく、敦厚な士を登用して、薄俗を変えるべきです」と。そこで敏求に龍図閣直学士を加え、『両朝正史』を修めさせ、均国公の箋奏を掌らせた。元豊二年、卒去。六十一歳。特別に礼部侍郎を追贈された。

敏求の家には蔵書三万巻あり、皆ほぼ誦習し、朝廷の典故に熟達しており、士大夫が疑義があれば、必ず彼に正しを求めた。唐の武宗以下六代の『実録』百四十八巻を補い、その他の著書も多く、学者は多く彼に諮問した。かつて建言して、「河北・陝西・河東の挙子は、性質は朴茂であるが、辞藻に巧みでないので、登第する者が少ない。どうか転運使に命じて、行いと芸能・材武のある者を選んで推薦し、特別に官職を与え、人材を参用させ、士に進む道を与えてください。また州郡には学舎はあるが学官がおらず、故に士は師を求めて郷里を軽んじて去ります。どうか学官を置いてください」と。後、かなり施行された。族弟に昌言がいる。

族子 昌言

昌言、字は仲謨、蔭により沢州司理参軍となる。州に殺人の獄あり、昌言はその冤罪を疑い、堅く跡を追って捕らえることを請う、果たして真の犯人を得たり。稍々遷りて河陰発運判官となる。済源より官に赴くに、道上に棄てられた屍が剮剝の状をなすもの甚だ衆しきを見て、窃かに郡県の治まらざるを歎く。既に河陰に至り、凶盗六輩を得たり、人を殺してこれを鬻ぎ、かくの如きこと十余年、その家を掩えば、なお縛られて未だ殺されざる者七人を得たり。県吏と市井の少年と共に胠橐を為す、昌言はその淵藪を窮治し、皆法外に行い、その家人を流す。都水監丞に擢でられる。

熙寧初め、河が棗彊に決して北に流る。昌言は建議し、二股河口西岸の新灘に於いて、土約を立てて水を障り、これを東流せしめんと欲す。稍々深くなるを俟ち、即ち北流を断ち、葫蘆の下流に縦に出だし、以て恩・冀・深・瀛の水患を除かんとす。詔してこれに従う。提挙河渠の王亞は以て成すべからずと為し、生堤を修めるに如かずとす。朝廷は翰林学士司馬光を遣わして往きて視せしむ、昌言の策の如し。両月ならずして、決口塞がる。光は奏して昌言独り功有り、もし同列と均しく賞を受くれば、恐らく以て勧むるに足らずと。詔して提点刑獄の資序を理め、開封府推官・同判都水監に遷る。汴水漲る、昌言は訾家口を塞ぐことを請う。已にして汴流絶ゆ、監丞侯叔献は昌言の罪を唱う、昌言懼れ、陝州を知ることを求む。歴て濮・冀二州に及ぶ。河が曹村に決す、召されて都水監を判じ、往きて河堤を護る。霊平の埽成る、少府監に転ず。卒す、絹二百匹を贈られる。

李若谷

李若谷、字は子淵、徐州豊の人。少くして孤となり遊学し、姻家の趙況に依りて洛下にあり、遂に父母を緱氏に葬る。進士に挙げられ、長社県尉を補す。州兵営を葺き、民に課して木を輸せしむ、尉に檄してこれを受けしむ、而して吏は程に中らざるを以て、多く退け斥け、輸する者を苛苦せんと欲し、因りて賕を取らんとす;若谷は財を度り、その長短・大小を別けて程と為し、庭中に置き、民をして自ら輸せしむ。

大理寺丞に改め、宜興県を知る。官は湖洑の茶を市す、歳ごとに戸税を約して多少と為し、率ね貧下に取りて足れりとす、若谷始めて籍を置きて勾検に備う。茶の悪き者は旧より官に没す、若谷は民に帰せしめ、転貿を許してその数を償わしむ。連州を知る。真宗将に太清宮に朝謁せんとす、選ばれて亳州を通判す。累遷して度支員外郎・権三司戸部判官となり、出でて京東転運使と為る。会に河が白馬に決す、芻楗を調取す、同列の盧士倫は三司の意に協い、趣いて刻みて州県を擾わす、而して若谷はこれを寛くす。士倫悦ばず、朝に構う、徙めて陝州を知る。盗賊青灰山に聚まり久しく散ぜず、牙吏を遣わし榜を持ちて招諭す、盗賊その党与を殺して自ら帰す。梓州に改む。

天聖初め、三司戸部勾院を判ず。契丹に使いし、陛辞に、垂簾を俟たずして請対せんと、乃ち遽かに長春殿に詣りて奏事す、罷められて荊南を知る。士族の元甲は蔭に恃みて屡々法を犯す、若谷これを杖ちて曰く、「吾は若が父兄に代わってこれを訓うるのみ。」王蒙正は駐泊都監と為り、太后の姻を挟みて横肆す、若谷法を以てこれを縄す。監司は蒙正を右し、奏して若谷を潭州に徙む。

洞庭の賊数々商人の船を邀え、人を殺して輒ち屍を水中に投ず。嘗て捕獲すれども、屍験無きを以て、毎たび死を貸し、他州に隷す。既にして逃れて帰り、復た劫を功む、若谷これを擒えて致し、市に磔く。ここより寇稍々息む。累遷して太常少卿・集賢殿修撰・滑州知州となる。河韓村の堤を齧む、夜馳せ往き、兵を督して大埽を為し、旦に至りて堤完し。右諫議大夫を以て延州を知る。州に東西両城あり河を夾み、秋・夏水溢れば、岸輒ち圮ち、役費勝え紀すべからず。若谷乃ち石版を製して岸と為し、巨木を以て押え、後暴水有りと雖も、復た壞さず。官倉は山に依りて穀を貯すれども少く、若谷して露囤を作らしむ、囤は二万斛を貯すべく、他郡多く法を取りて焉。遷りて給事中・寿州知州となる。豪右多く芍陂を分占す、陂は皆美田なり、夏雨溢れて田を壞せば、輒ち盗み決す。若谷冒して田を占むる者を摘ましめてこれを逐い、毎たび決すれば、輒ち陂に瀕する諸豪を調し、して堤を塞がしめ、盗決すれども乃ち止む。

集賢院学士を加えられ、江寧府知府となる。卒して舟を挽きて境を過ぐる者、寒瘠甚だしきは、留め養い視て、春温を須ちて遣り去らしむ。道に於いて丐う民は、以て分ちて諸僧寺に隷せしめ、舂爨を助け給す。還りて、三班院を勾当し、進みて龍図閣直学士・河南府知府となる。貴人多く洛陽らくように葬る、勅使須索煩擾す、若谷奏して鴻臚に預め約して調する所を府に移し、逆に営弁せしむ。枢密直学士に改め、へい州知州となる。民貧しくして婚姻を失う者は、若谷私錢を出だしてその嫁娶を助く。贅婿・亡頼妻を委ねて去る者は、期を立て、還らざれば、更に嫁ぐことを許す。并には降人多く、窃盗を喜び、累犯する者を籍し、三人を以て保と為し、犯有れば、並びにこれを坐し、悛う者は籍名を削り去る。

進みて尚書工部侍郎・龍図閣直学士・開封府知府となり、参知政事に拝される。建言す、「風俗悪しきは、媺は上之人に在りて作し新たにす。君子小人、各々其の類有り、今一目して朋党を以てす、恐らくは正人自立する無からん。」帝悟り、為に詔を下して中外に諭す。耳疾を以て、累ねて章を上りて位を辞し、罷められて資政殿大学士・吏部侍郎・会霊観事提挙と為る。太子少傅を以て致仕し、卒す、年八十。太子太傅を贈られ、諡して康靖と曰う。

若谷性質端重、政府に在りて、論議常に寛厚に近し。民を治むるに多智慮、愷悌人を愛し、その去るや、多く思われ見ゆ。少時韓億と友と為り、貴顕に及びて、婚姻絶えず。子に淑有り。

子 淑

淑、字は献臣、年十二、真宗亳に幸す、行在所に文を献ず。真宗これを奇とし、命じて詩を賦せしめ、童子出身を賜う。秘書省校書郎を試み、寇準これを薦む、校書郎・館閣校勘を授かる。

乾興初め、遷りて大理評事となる。『真宗実録』を修め、検討官と為る。書成り、光禄寺丞・集賢校理に改め、国史院編修官と為る。召し試みられ、進士及第を賜い、秘書郎に改め、進みて太常丞・直集賢院・同判太常寺となり、擢でられて史館修撰、再遷して尚書礼部員外郎、時政十議を上る。知制誥・勾当三班院に改め、翰林学士と為り、進みて吏部員外郎となる。会に若谷参知政事と為る、侍読学士に改め、端明殿学士を加う。若谷罷む、進みて本曹郎中、王府章奏を典む。

右諫議大夫を以て許州を知る。歳饑う、民の食する所の五種を取りて上る、帝惻然たり、為にその賦を蠲す。権知開封府、復た翰林学士・中書舎人と為る。言者その開封に在りて多く褻近の吏人を指す、給事中・鄭州知州に改む。河陽に徙め、転じて尚書礼部侍郎、復た翰林学士と為る。端明殿学士を罷め、流内銓を判じ、復た端明殿学士を加う。

初め、鄭州に在りし時、『周陵詩』を作る。国子博士陳求古、私隙を以て其の議が朝廷を誹謗するを訟え、龍図閣学士を除かれ、出でて応天府を治む。累表を上りて弁明すれども、報いず、乃ち侍養を請う。明年、復た端明・侍読の二学士となり、太常寺を判ず。父喪に免官し、喪終りて起復し、再び翰林学士となる。諫官包拯・呉奎等、淑の性奸邪なりと言い、又嘗て父の侍養を請いで其の母に及ばざりしを以て、翰林学士を罷め、端明・龍図閣学士を以て朝請に奉ず。母憂に遭い、服除けて、端明・侍読の二学士となる。戸部侍郎に遷り、復た翰林学士となれども、御史中丞張昇等又之を論奏し、拝せず、兼龍図閣学士を除かる。是より壱鬱として志を得ず、出でて河中府を治め、暴に風眩を感じ、卒す。尚書右丞を贈られる。

淑は警慧人に過ぎ、諸書に博習し、朝廷の典故に詳練にして、凡そ沿革有るごとに、帝多く諮訪す。誥命を制作し、時に称せらる。其他の文は多く古語を裁取し、務めて奇険を為し、時人は之を許さず。

初め、宋郊は学行有り、淑は其の先に用いられんことを恐れ、密かに言いて曰く「『宋』は国姓なり、而して『郊』は交なり、善き応ひに非ず」と。又、宋祁が『張貴妃制』を作りしに、故事に、妃は冊命すべし、祁は告身を進むるは是に非ずと疑い、淑の典故に明るきを以て之を問う。淑は心に其の誤りを知り、祁に謂ひて曰く「君第に進め、何ぞ疑はんや」と。祁遂に罪を得て去る。其の傾側険陂、此の類なり。嘗て『国朝会要』・『三朝訓鑑図』・『閣門儀制』・『康定行軍賞罰格』を修め、又『繫訓』三篇を献じ、著す所の別集百余巻。子に寿朋・復圭有り。

孫 寿朋

寿朋、字は延老。慶暦初め、弟復圭と同く学士院に試み、進士出身を賜わり、吏部南曹を判ず。諸陵を行き、奏言して曰く「昭憲皇后は二聖を誕育し、国の文母と為れども、独り合葬安陵を以て、時に祭に及ばず。請ふらくは其の礼を更めよ」と。之に従ふ。群牧判官に遷り、撃断甚だ敏なり。皇城卒其の遊を縦にして度無きを邏し、出でて汝州を治む。職田の入を尽く推して前守楊畋に帰す。畋死し、又其の家を經理す。饑歳を以て、州廨を営みて民を労するに、降りて荊門軍と為る。

開封府推官・戸部判官・鳳翔府滄州知事を歴任す。滄州地震し、城郭帑庾を壊す。寿朋は席を以て屋と為し、吏寀を督して繕葺せしめ、数月に未だならずして其の旧に復す。蕪田三万頃を括り、民をして耕さしめ、其の壮なる者を択びて兵を習はしむ。河方に北に湧くに、随ひて之を塞ぐ。故道狭く、寿朋は必ず東に潰けんと度り、居人を諭して徙避せしむ。後、三県四鎮果たして墊む。司馬光出使し、其の能を薦め、直史館を加ふ。入りて直舎人院・同修起居注に直し、戸部・塩鉄副使に進む。性疏雋にして任侠を好み、西太一宮に奉祠し、飲酒食肉常の如くし、暴に疾を得て卒す。詔して中使其の孥を撫し、白金三百両を賜ふ。

孫 復圭

復圭、字は審言。澶州を通判す。北使澶を道とす。民駅を主る者率ね困憊す。豪杜氏十八家、詭りて唐の相如晦の後と称し、毎に吏を賕ひて免れしむ。復圭は籍に按じて之を役す。滑州を知る。兵匠相忿鬩き、執する所の鉄椎を揮ひ、争ふ者を庁事に於いて椎殺す。立って之を斬る。相州知事に徙る。

太宗の時より、夏人の降る者を五指揮に聚め、「庁子馬」と号し、子弟相承け、百年他役無し。復圭は格に如かざる者を斥け、能く騎射する士を選びて之を補ふ。度支判官・涇州知事と為る。初め二税の入るや、三司移折已に重く、転運使又之を覆折す。復圭為に奏して免れしめ、民生祠を立つ。湖北・両浙・淮南・河東・陝西・成都の六転運使を歴任す。浙の民は衙前役を給するを以て、多く破産す。復圭悉く罷め遣りて農に帰し、令して出銭して長名人の承募を助けしめ、民之に便す。海に瀕する人は蛤沙地を以て生を頼む。豪家量りて官に税を受けて占めて己が有と為す。復圭奏して其の税を蠲め、分ちて民に予ふ。

熙寧初め、直龍図閣に進み、慶州を知る。夏人其の境に壘を築くも、漢地を犯さず。復圭は辺功を貪り、大将李信に兵三千を帥ひしめ、陳図を信に授け、自ら荔原堡より夜出して襲撃せしむ。敗れて還る。復圭は信を斬りて自ら解く。又前の恥を澡はんと欲し、別将を遣はして其の金湯・白豹・西和市を破り、首級数千を斬る。後七日、秉常挙国して入寇す。御史謝景温、復圭の擅興を劾し、士卒の死傷を致し、辺民の流離せしむるを以て、保静軍節度副使に謫す。歳余り、光化軍を知る。張商英言ふ「夏人の塞を犯さんと謀る日久し。金湯を破るに適ひて相値ふ。復圭の事を生ずるに非ず」と。乃ち召して吏部流内銓を判じ、曹・蔡・滄州を知り、還りて塩鉄副使と為り、集賢殿修撰を以て荊南を知り、卒す。

復圭は事に臨みて敏決、健吏と称せられ、人と交はるに利害を以て避けず。然れども軽率躁急にして威重無く、語を以て人を侵すを喜ぶ。独り王安石に知られ、故に既に廃せられて即ち起つ。

王博文

王博文、字は仲明、曹州済陰の人。祖諫、太宗の藩邸に給事し、西京作坊副使と為る。博文年十六、善く属文し、進士に挙げられ開封府にて、回文詩百篇を以て公巻と為し、人これを「王回文」と謂ふ。淳化三年、太宗親しく進士を試み、年少を以て帰らしむ。後、諫廬州に官卒す。州守劉蒙叟為に言ひ、召して舎人院に試み、安豊主簿と為り、南豊尉を歴任し、能名有り。南剣州軍事推官に調じ、大理寺丞に改め、荊南榷貨務を監し、殿中丞に遷る。陳堯諮之を薦め、中書に試み、進士第を賜はり、擢でて濠州を知り、真州を歴任す。真宗亳に幸す。権めて江淮制置司事と為る。監察御史・梓州路転運使に改む。疾を以て、出でて海州を知るを請ひ、密州に徙る。海に負ふに塩場有り。歳饑え、民多く盗み鬻ぐ。吏之を捕へれば輒ち死に抵る。博文は塩禁を弛め、歳豊かなるを俟ちて乃ち復すを請ひ、之に従ふ。殿中侍御史を除く。

天禧中、朱能・王先長安ちょうあんに在りて偽りて『乾祐天書』を為る。事覚め、能既に敗死し、先と其の徒就禽す。詔して博文に駅を乗りて按劾せしむ。博文は唯だ首悪を治め、脅従する者七人、減論を得ることを以てす。還りて開封府判官と為り、母憂に遭ふ。

初め、博文幼くして父を喪ひ、其の母張氏韓氏に改適す。博文朝に在るに及び、子は母を絶つ礼無しと謂ひ、恩を以て之を封ずることを得んことを請ふ。母死し、又古の父後と為る者は出母に服せずと謂ふ、宗廟の祭を廃するを以てなり。今喪する者は皆祭す、行服に害無しと。乃ち官を解きて服を持つを請ふ。然れども議者は喪して祭するは礼に非ずとす。服除けて、三司戸部判官と為る。出でて河北転運使と為り、侍御史・陝西転運使に遷る。

羌族の撒逋渴が部族数千帳を率いて叛き、さらに原州柳泉鎮・環州鵓鴿泉砦を寇掠し、梧州刺史杜澄・内殿崇班趙世隆が戦死した。博文は内侍都知周文質・押班王懷信が涇原・環慶両路鈐轄として重兵を率いて大抜砦に駐屯しながら、敵を侮り逗留し、辺境の費用を消耗したと弾劾上奏し、曹瑋・田敏を代わりに任用するよう請うた。やがて文質・懷信は法に坐し、ついに瑋を永興軍知軍とし、辺境の事を節制させた。ちょうど瑋が病で赴任できず、また敏を涇原路総管に任用すると、寇はついに平定された。

尚書兵部員外郎に遷り、三司戸部副使となり、さらに戸部郎中・龍図閣待制・判吏部流内銓・権発遣三司使事に遷った。監察御史崔曁・内侍羅崇勳とともに真定府曹汭の獄を審理した。帰還すると、権知開封府となり、龍図閣直学士・知秦州に進んだ。走馬承受賈徳昌に誹謗され、鳳翔府に移り、さらに永興軍に移った。翌年、徳昌が贓罪で失脚すると、枢密直学士に改め、再び知秦州となった。

当初、辺境の軍民で逃亡する者は必ず熟戸の牧畜に従事し、あるいは遠方の羌に売り渡して羊馬と交換したため、常に数百人が没していた。生羌を捕らえると、錦袍・銀帯・茶絹でこれを賞した。たまに自ら帰還する者がいても、途中で夏人に捕らえられると、弁別できず、法に坐して皆斬罪となった。博文は辺境の事情に通じた者を遣わし、密かに信紙を持たせて招致させると、至ればその罪を悉く赦免した。これにより毎年死刑が大いに減った。朝廷はその法を他の路にも下した。

また河西回鶻の多くが互市に縁り秦・隴の間に家を構えていると上言し、悉く境外に遣送し、守臣に警戒監察させるよう戒めるよう請うた。右諫議大夫に再遷し、龍図閣学士として再び知開封府となった。都城の豪族権門の邸宅が大通りを侵していたので、博文は表木を作り籍帳に照らし、左右判官に分かれて撤去させ、一ヶ月余りで完了した。大名府に出知し、給事中に遷った。召されて権三司使となり、ついに同知枢密院事となったが、一ヶ月余りで卒去した。帝は臨奠し、尚書吏部侍郎を贈られた。

博文は吏事によって進み、多く繁劇な職を任され、政務は平恕を務めた。常に諸子に語って言うには、「我が平生、罪を決するに流刑に至っては、必ず陰に善き水土の処を択んだ。汝らこれを志せ。」と。しかし曹汭の獄を治めたことについて、議者は多く博文が太后の意を迎え、崇勳にその罪を構成させたと謂う。子に疇がいる。

子 疇

疇は字を景彝といい、父の蔭により将作監主簿に補せられた。進士第に及第し、累遷して太常博士となった。翰林学士宋祁が諸司庫務を提挙し、疇を勾当公事に推薦した。時に宦官が同提挙としており、疇は中書に辞して言うには、「翰林は先進です。疇は事に当たれないことを恐れます。また朝士大夫たる者が閹人に指使されるのは、疇は実にこれを恥じます。」と。

賈昌朝の推薦により、編修『唐書』に改められた。仁宗が近郊で狩猟すると、疇は十事を引いて諫めた。皇祐年間、手詔で貴戚近習の私謁を禁じると、疇は『聖政惟公頌』を献上した。召されて試験を受け、直秘閣となり、開封府推官となった。宦官李允良がその叔父の死を訴え、仇家に毒殺された疑いがあるとして、棺を発いて検視することを請うた。衆は許そうとしたが、疇のみが不可とした。曰く、「もし事実がなければ、これは故なく屍を暴くことになる。また允良に奸計があるかも知れぬ。」と。徹底的に審理すると、果たしてその叔父の家と怨みがあった。三司度支判官・修起居注・知制誥・権判吏部流内銓を歴任し、右諫議大夫として権御史中丞となった。

時に陳升之が枢密副使に拝せられると、諫官・御史唐介らが升之の大用は不当であると奏上して弾劾した。朝廷はこれを押し留めて行わず、介らが数ヶ月にわたり争い止まなかったので、ついに両者を罷免した。しかし論者は介らが衆人の遊談に誤らされたと謂う。疇は上疏して言うには、「浮華険薄の徒が、往来して諫官・御史の家に至り、人の罪を掎摭し、次第に俗となる。詔を出して戒励せられんことを請う。」と。従われた。給事中に遷った。

英宗が即位すると、病に罹り、皇太后が垂簾聴政した。その後、帝の病は平癒したが、なお正殿に御せず、疇は上疏して朝に御し政を聴くよう請うた。永昭陵の復土に及び、集英殿で仁宗の虞主を祭るに、宗正卿が事を摂行した。疇は奏上して言うには、「人子がその親を葬るには、形を送り往き、神を迎えて返る。故に虞祭は神を安んずる所以である。位尊ければ礼重く、礼重ければ祭多く、故に天子の虞は数えて九に至る。今、山陵に嗣君自ら往くを得ず、則ち道路の五虞は、理に宗正に事を摂せしむるべし。若し神主既に至れば、則ち四虞の祭は、たとえ聖躬未だ寧からずとも、また宜しく勉彊すべし。況んや陛下は藩邸に在りし時、好古知礼・仁孝聰明をもって中外に聞こえ、これ先帝が天下を託された所以である。臣は終始令徳を全うし、以て美名を全うせられんことを願う。」と。

帝は前後殿に視朝したが、政事を聴くことについてはなお謙抑を保った。疇は再び上疏して言うには、「廟社が陛下を擁佑し、起居安平にて、時に臨朝すること、僅かに半載を逾ゆるも、未だ聴断を開発し、徳音を通さず、人情缺然たり。伏して願わくは、太祖・太宗の艱難して天下を取られた労、真宗・仁宗の憂勤して太平を守られた力を思い、大政を聴決することに勉め、以て母后の慈を慰められんことを。疑貳謙抑すること勿れ、自ら盛徳を闇然として光らしめざるに至ることなかれ。」と。

未だ幾もなく、また上疏して言うには、

「董仲舒が武帝に天人の際を言うに曰く、『事は勉彊に在るのみ。勉彊して学問すれば、則ち聞見広くして智益々明らかになり、勉彊して道を行えば、則ち徳日より起きて大いなる功有り』と。陛下は列邸より起こり、天命を光有せられた。然れども祖宗の基業の重き、天人の顧享の際、心を操り身を治め、家を正しく国を保つ所以のものは、尤も勉彊力行に在る。陛下昔し宗藩に在りし時、既に徳を務め学を好み、言語挙動未だ嘗て礼を越えず、これは天性に聖賢の資有り。疾平より以来、茲に半歳に及ぶも、臨朝して高拱し、可否する所無し。群臣軍国の政を関白する者日増しに至り、その人主の裁決を請う者日増しに多し。然れども猶聖心盤桓し、是非する所無きは、何ぞや。初めて大統を継ぎ、或いは朝廷の事を未だ究めざるを慮うが故に、謙抑して未皇なるか。或いは聖躬未だ寧からずして、自ら煩わすを欲せざるか。抑また畏忌する所有りて言わざるか。苟も謙抑して未皇ならば、則ち国家の万務、日曠月廃し、その勢将に禍乱に趨ることは疑い無し。若し聖躬未だ寧からずば、則ち天下の名医良工、日に前に召すべし。而るに方技試みず、薬石進まず、疾を身に養い、坐して歳月を俟つは、全きを求むるの道に非ず。苟も畏忌する所有りて言わざれば、則ちまた過計の甚だしきなり。

今、朝廷内外の事に疑懼すべきはなく、臣はかつて陛下に力説したことがある。陛下は何故心を開き誠を布き、広く明るく天下を照らし、外では執政大臣と共に治体を講究し、内では母后に未だ至らぬ点を請い、賢俊を礼遇し、忠直を諮問し、未だ見ざる所を広め、未だ聞かざる所を通達せられぬのか。もし陛下が朝に行えば、則ち衆心は夕に安んずるであろう。況や陛下が以前藩邸に居られた時、朝夕側に在った者は、ただ一二の講学の師と左右の給使の者のみであった。身を修め己を行い、徳業は日に新たなりしに、知る者は幾人もなく、是れ善を為すこと多くして名を得ること常に少なかったのである。然るに終に能く徳を成し行い尊く、美名遠く聞こえ、これが先帝が心を属された所以である。今、億兆の上に処し、一言動すれば則ち天下これを知り、簡冊にこれを記す。昔に比べれば、是れ善行は顕れ易く美名は成り易いのである。然るに尚これを聞かざるは、是れ為さざるのみ、能わざるに非ざるなり。始め有り終わり有るは、聖賢の能事にして、陛下の勉彊に在るのみである。

疇はまた上疏して、車駕を行幸させ、以て人心を安んずることを欲した。時に大臣もまた請う有り、帝は乃ち出でて雨を祈り、都人は瞻望して歓呼した。数日後、皇太后は政を還し、疇はまた上疏して言う、「二府の大臣に詔して、母后を尊崇する礼を講求せしめよ。朝廷の厳奉の体と、歳時朔望の儀、車服承衛の等威、百司の拱擬の制度、他時の尊称の美号、外家の延賞の恩典、凡そ親を奉ずるの意に称するものは、皆宜しく優異に章大にして、以て母后の功烈を発揚すべし。然らば則ち孝徳は天下に昭らかならん」。

時に詔して近臣に仁宗の配祭を議せしむ。故事に依れば、冬至・夏至に昊天上帝・皇地祇を祀り、太祖を以て配す。正月上辛に祈穀し、孟夏に雩祀し、孟冬に神州地祇を祀り、太宗を以て配す。正月上辛に感生帝を祀り、宣祖を以て配す。季秋に明堂を大饗し、昊天上帝を祀り、真宗を以て配す。而して学士王珪等と礼官が上議して、季秋の大饗は宜しく仁宗を以て配し、厳父の道と為すべしと謂う。知制誥の錢公輔は独り仁宗は配祭すべからずと謂う。疇は以て、珪等の議は真宗を遺して配せず、公輔の議は宣祖・真宗・仁宗を遺して倶に配せず、礼意に於いて未だ安からずと謂う。乃ち議を献じて曰く、「王珪等の議に依り、仁宗を奉じて明堂に配饗し、以て『大易』の配考の説・『孝経』の厳父の礼に符せよ。真宗を奉遷して孟夏の雩祀に配し、以て唐の貞観・顕慶の故事に倣え。太宗は旧に依りて正月上辛の祈穀・孟冬の神州祇の祀に配し、余は本朝の故事に依れ。此くの如くせば、則ち列聖並びに侑し、昊穹に対越し、厚沢流光し、裕を万祀に垂れん。必ずや公輔の議の如くせば、則ち四聖を陥れて失礼と為し、陛下を導いて不孝と為し、経に違ひ古に戾り、此れより甚しきは莫し」。此より公輔は悦ばず、而して朝廷は疇の論事補う有りとし、帝と執政大臣は皆器異した。

翰林学士・尚書礼部侍郎・同提挙諸司庫務に遷る。数月後、枢密副使を拝す。ここに於いて公輔、疇は望軽く資浅く、台に素餐し、大用すべからずと言い、又頗る近臣を薦引して輔弼と為すべき者ありとす。公輔は坐して貶せらる。疇は位に在ること五十五日、卒す。帝は甚だ悼惜し、臨哭し、白金三千両を賜い、兵部尚書を贈り、諡して「忠簡」と曰う。

疇は名臣の子、性介特にして、風操を厲し、朝廷の事を言うを喜ぶ。容服を治むるを好み、坐立嶷然として、言必ず文あり、未だ嘗て慢戯せず、吏治は審密にして、文辞は厳麗なり。其の執政未だ久しからず、終に位に及び、享けたる寿、其の父に類す。

王鬷

王鬷は、字は総之、趙州臨城の人。七歳で父を喪い、哀毀人に過ぐ。既に長ずるに及び、状貌奇偉なり。進士に挙げられ、婺州観察推官を授かる。代わりて還り、真宗見て之を異とし、特に秘書省著作佐郎・祁県知事に遷し、湖州通判を兼ねる。再び太常博士・提点梓州路刑獄に遷り、権三司戸部判官を兼ねる。契丹に使いして還り、都磨勘司を判ず。尚書度支員外郎を以て侍御史知雑事を兼ねる。上言して曰く、「方に兵を調べて決河を塞がんとし、而して近郡災歉し、民力凋敝す。土木の不急なるものを罷めんことを請う」。三司戸部副使に改む。枢密使曹利用罪を得、鬷は同里を以て利用に厚くせられ、出でて湖州知事となり、蘇州に徙る。還りて三司塩鉄副使と為る。

時に龍図閣待制馬季良方に用いられ事を行い、京師の賈人は常に賎価を以て茶塩交引を居すと建言し、官に務を置きて之を収市せんことを請う。季良は章献の姻家を挟み、衆敢えて其の意に迕う者莫く、鬷独り不可とし、曰く、「民と利を競う、豈に国体たるや」。天章閣待制・判大理寺・提挙在京諸司庫務に擢げられ、淮南を安撫し、権判吏部流内銓を兼ね、累遷して刑部に至る。

益・利路旱饑し、安撫使と為り、左司郎中・枢密直学士を以て益州知事となる。戍卒に夜営を焚き、馬を殺し、軍校を脅して乱を為す者有り、鬷潜かに兵を遣わして営を環らし、令を下して曰く、「乱さざる者は手を斂めて門を出よ、問う所無し」。ここに於いて衆皆出で、軍校に命じて乱者を指さしめ、十余人を得て、即ち之を戮す。旦に及び、人知る者莫し。其の政を為すに大體有り、苛察を為さず、しょく人は之を愛す。右諫議大夫・同知枢密院事を拝す。景祐五年、参知政事となる。明年、尚書工部侍郎・知枢密院事に遷る。

天聖中、鬷嘗て河北に使いし、真定を過ぎ、曹瑋を見て、之に謂いて曰く、「君異日に当に柄用せられん、辺防に留意せんことを願う」。鬷曰く、「何を以て之を教うる」。瑋曰く、「吾聞く、趙徳明嘗て人を使わして馬榷を以て漢の物を易えしも、意に如かず、之を殺さんと欲す。少子元昊方に十余歳、諫めて曰く、『我れ戎人、本鞍馬に事とし、而して資を以て鄰国に易え不急の物、已に策に非ず、又従って之を斬らば、衆心を失わん』。徳明之に従う。吾嘗て人を使わして元昊を覘わしむ、状貌異常、他日必ず辺患と為らん」。鬷殊に未だ以て然りとせず。比に再び枢密に入るに及び、元昊反し、帝数たび辺事を問うも、鬷対うる能わず。西征の利あらずに及び、郷兵を刺すを議し、又久しく未だ決せず。帝怒り、鬷は陳執中・張観と同日に罷められ、鬷は出でて河南府知事となり、始めて瑋の明識を歎ず。未だ幾ばくもせず、暴疾を得て卒す。戸部尚書を贈り、諡して忠穆と曰う。

鬷少時、礼部尚書王化基の門に館し、枢密副使宋湜見て以て女を妻とす。宋氏の親族或いは侮易す、化基曰く、「後三十年、鬷富貴せん」。果たして言う如し。

論じて曰く、呉育は剛毅撓まず、而して施設聞こえず、其の才志に逮ばざる者か。宋綬は博洽明敏、若谷は務めて長厚、博文は吏事に習い、仁宗の時に当たり、先後に政与り、僅かに恭慎にして過ち寡く、祿位を保ち、後嗣に施す。敏求・淑は倶に典故に練達し、文采を以て傅う、而して淑は傾險を以て徳を敗り、疇の介特、数たび忠謀を建つるを視れば、則ち賢不肖の相去ること遠し。王鬷は曹瑋の言に留意せず、卒に辺事に昧きを以て見黜せらる、宜なるかな。