宋史

列傳第四十九 曹利用 孫繼鄴 張耆 楊崇勳 夏守恩 狄靑 張玉 孫節 郭逵

曹利用

曹利用、字は用之、趙州寧晉の人である。父の諫は明経の科第に挙げられ、官は右補闕に至り、武略により崇儀使に改められた。利用は若くして談弁を好み、慷慨として志操があった。諫が卒すると、殿前承旨に補せられ、右班殿直に改め、鄜延路走馬承受公事に遷った。

景德元年、契丹が河北に寇し、真宗は澶州に幸し、契丹の大将撻覧を射殺した。契丹は兵を収めて去らんとし、王継忠を使者として和を議し、契丹に使える者を選んだ。利用は丁度行在に奏事しており、枢密院は利用を選に応ぜしめんとした。帝曰く「これは重事なり、軽々しく人を用いるなかれ」と。翌日、枢密使王継英がまた利用を推薦したので、遂に閤門祗候・崇儀副使を授け、書を奉じて契丹軍に詣らしめた。帝は利用に語りて曰く「契丹南来するは、地を求めざれば則ち賂を邀うるのみ。関南の地は中国に帰すること久しく、許すべからず。漢が玉帛を以て単于に賜うた故事あり」と。利用は契丹に憤り、色平らかならず、対えて曰く「彼若し妄りに求むる所あらば、臣は生還を敢えてせず」と。帝その言を壮とした。

利用馳せて軍中に至る。耶律隆緒の母(蕭太后)が利用を車上に見る。車軛に横板を設け、食器を布き、召して飲食せしめ、その従臣を重行に坐せしむ。飲食畢りて、果たして関南の地を議す。利用これを拒む。その臣韓杞を遣わして命に報ぜしめ、利用再び契丹に使す。契丹の母曰く「晋は我に徳し、我に関南の地を畀う。周の世宗これを取りしが、今宜しく我に還すべし」と。利用曰く「晋人の地を以て契丹に畀うるは、周人のこれを取りしなり。我が朝は知らず。若し歳に金帛を求めて以て軍を佐くれば、尚お帝の意の可否を知らず。地を割くの請は、利用敢えて聞かしむるに足らず」と。その政事舍人高正始遽かに前進みて曰く「我衆を引きて来たり、故地を復せんと図る。若し止だ金帛を得て帰らば、則ち吾が国人を愧じるなり」と。利用曰く「子何ぞ契丹の為に熟計せざる。契丹もし子の言を用いば、兵を連ね釁を結ぶこと恐らくは息むことを得ず。国の利に非ざるなり」と。契丹屈すべからざるを度り、和議遂に定まる。利用約書を奉じて帰る。東上閤門使・忠州刺史に擢げられ、第を京師に賜う。契丹使いを遣わして来聘す。遂に利用を命じてこれを迎労せしむ。

宜州知州劉永規が下を馭すること残酷なり。軍校衆の怨みに乗じ、永規を殺して叛き、柳城県を陥とし、象州を囲み、兵を分かちて広州を掠め、嶺南騒動す。帝輔臣に謂いて曰く「向者司天占候すらく当に兵を用うべしと。朕固より遠方の守将その人に非ざるを憂え、以て辺釁を起す。今果然なり。曹利用は方略に暁け、事に尽心す。これを以て広南安撫使と為せ」と。利用嶺外に至り、賊に武仙県で遇う。賊は健標を持ち、采盾を蒙り、衣甲堅利にして、鋒鏑入る能わず。利用は士に巨斧長刀を持たせて盾を破らしめ、遂に首を斬って以て徇せしむ。嶺南平ぐ。引進使に遷る。客省使・嘉州防禦使を歴て、出でて鄜延路総管と為る。大中祥符七年、枢密副使を拝し、宣徽北院使・同知院事を加えられ、知院事に進み、遂に枢密使・同中書門下平章事を拝す。

利用在位既に久しく、頗る功を恃む。天禧二年、輔臣丁謂・李迪帝前で争論す。迪は謂を奸邪と斥け、因りて利用のこれと朋党を為すを言う。利用曰く「片文を以て主に遇うるは、臣は迪に如かず。躯を捐てて以て不測の虜に入るは、迪臣に逮わず」と。迪は是に坐して免ぜられ、而して利用は検校太師兼太子少保を以て会霊観使と為り、尚書右僕射に進む。

乾興初め、左僕射兼侍中・武寧軍節度使・景霊宮使を加えられ、詔して曹彬の如く公使錢歳万緡を給す。契丹の使者蕭従順桀驁にして、疾と称して館下に留まり、時に発たず。朝廷使いを遣わして問労す。道に相望む。利用一切これを罷めんことを請う。従順乃ち去る。

初め、章献太后朝に臨み、中人と貴戚稍々能く軒輊して禍福を為す。而して利用は勲旧を以て自ら居り、恤れみせず。凡そ内降の恩は、力を持して与えず。左右多く怨む。太后も亦利用を厳しく憚り、侍中と称して名を呼ばず。利用簾前に奏事し、或いは指爪を以て帯鞓を撃つ。左右指して以て太后に示し曰く「利用先帝の時、何ぞ敢えてか爾る」と。太后之に頷く。利用奏して内降の恩を抑え、却くること屡なりとす。亦た已むを得ずこれに従う者あり。人揣みてこれを知る。或いは太后に紿えて曰く「恩を蒙りて内降を得るも輒ち従わず。今利用家のおう陰に臣の請を諾す。其れ必ず得べし」と。これを下して験す。太后始めて其の私を疑い、頗る怒りを銜む。

内侍羅崇勳罪を得る。太后利用をして崇勳を召し戒敕せしむ。利用崇勳の冠幘を去り、詬斥すること良久し。崇勳これを恨む。会うに従子の汭が趙州兵馬監押と為り、而して州民趙德崇闕に詣でて汭の不法の事を告ぐ。奏上る。崇勳往きて按治せんことを請う。遂に其の獄を窮探す。汭酒に被りて黄衣を着け、人をして万歳を呼ばしむるに坐し、杖死す。初め、汭の事起こるや、即ち利用の枢密使を罷め、兼侍中を加えて鄧州を判せしむ。及び汭誅せられ、左千牛衛将軍・随州知州に謫せらる。又た景霊宮の銭を私に貸すに坐し、崇信軍節度副使に貶せられ、房州に安置せらる。命じて内侍楊懐敏に護送せしむ。諸子各々二官を奪われ、賜う所の第を没収され、其の資を籍没され、親属十余人を黜せらる。宦者多く利用を悪む。行きて襄陽驛に至る。懐敏前を肯わず。語を以てこれを逼る。利用素より剛なり。遂に繯に投じて絶ゆ。暴卒を以て聞こゆ。

後その家鄧州に居らんことを請う。帝惻然としてこれを許し、其の子の内殿崇班淵を命じて本州の税を監せしむ。明道二年、節度兼侍中を追復し、後に太傅を贈り、諸子の官を還し、諡して襄悼を賜う。学士趙概に命じて神道碑を作らしめ、帝その額に篆して「旌功之碑」と曰う。詔して没せし旧産を帰す。

利用性悍梗にして通ずること少なく、僥幸を力裁す。而して其の親旧或いは因縁を以て進む者あり。故に禍に及ぶ。然れども朝廷に在りては忠藎として守り有り、終始屈せられず。死その罪に非ず。天下これを冤とす。

孫 継鄴 附

孫繼鄴、字は元嗣、その先祖は金陵の人である。祖父の謙は、李昪に仕えて長劍都指揮使となり、南方に閩を討伐したが、援兵が到着せず、戦死した。父の承睿は当時小校であったが、兵を率いる者が期日に遅れたために父が戦死したことを憤り、その将を刺殺して逃亡し、淮・楚の間を転々とした。久しくして、京師に入り、策を太宗に上って左班殿直を授かり、終に左蔵庫使となった。

繼鄴は初め三班奉職として涔陽の酒税を監察した。宜州の陳進が反乱を起こすと、曹利用が彼を召し出して従わせ、前駆として賊を象州の大烏嶺で破った。功により左侍禁・端州兵馬監押に遷った。秦州の永寧砦に移り、洛門に城を築く役を総括し、西頭供奉官に改めた。晁迥が推薦して閤門祗候とし、上に御戎策十数事を献じた。また曹瑋の推薦により、鄜延路兵馬都監となり、環州知州に移り、累遷して崇儀副使となった。洪德砦を修築することになり、総兵者と論事が合わず、冀州兵馬都監に左遷されたが、起用されて保安軍知軍となり、涇州に移った。契丹に使した。

枢密使曹利用が彼を用いようとしたが、繼鄴はその権勢の盛んなことを嫌い、密かに利用が禍いを被ることを知り、たびたび病気を理由に辞退した。そこで左龍武軍統軍として致仕させられた。利用が貶されると、再び崇儀副使となり、供備庫使・石州知州に遷り、保州に移り、恩州刺史を兼ねて雄州知州となった。累遷して西上閤門使となり、抜擢されて龍神衛四廂都指揮使・端州防禦使となった。出向して環慶路副都総管となり、途中で涇原路に改め、渭州知州を兼ねた。建言して言うには、「蕭関の故道は、前方に大川を控え、水草が良く、賊騎の出没する所である。誠に属羌を得て、賜与を与え、その酋領を羈縻し、藩籬とさせれば、西顧の憂い無からしめ得るであろう」。歩軍都虞候となり、真定路に移り、卒した。

張耆

張耆、字は元弼、開封の人である。十一歳の時、真宗の藩邸に給事し、即位すると、西頭供奉官を授かった。かつて石知顒と苑中で射を侍り、連発して的に中て、供備庫副使・帯御器械に抜擢された。

咸平年中、契丹が辺境を侵犯した時、功により南作坊使・昭州刺史・天雄軍兵馬鈐轄に遷った。辺境の兵事が解けず、鎮州行営鈐轄に移り、また定州に移った。契丹が望都を包囲すると、耆は諸将と共に間道を往き救援したが、到着した時には既に城は陥落していた。耆は敵と戦い、身に数カ所の傷を受け、契丹の梟将を殺した。夜明け近くに再び戦ったが、王繼忠が契丹に捕らえられた。耆は還り、天道が先に挙兵する者に利すると言い、大挙して討伐すること、及び出師出境の日を上奏した。帝が輔臣に問うと、不可とされた。昭州団練使・幷代州鈐轄に遷った。翌年、契丹兵が再び侵入し、帝みずから親征しようとした時、耆は辺事十余条を奏上し、多くは兵は持重を貴ぶこと及び勝利を得る方法を論じた。召還されて入対すると、帝は言った、「卿はかつて北伐を請うたが、契丹が塞に入った日は、卿が請うた出師の日と同じであった。卿の策を用いなかったことを悔いる。今、澶州を守らせたいが適任者がいない。どうか」。耆は行くことを請うた。帝は喜び、駕前西面鈐轄に命じ、澶州に至って契丹の遠近を偵察させた。耆は馳せ往き、東面排陣鈐轄に改めた。

事が平らぎ、曹州の趙諫が耆が金を受け取り、人のために礼部への推薦を求めたと告発したため、供備庫使・潞州都監に貶された。久しくして、事が少し明らかになり、官に復して管勾皇城司となった。帝は耆が河東を歴任し、辺事に詳しいことを以て、耆を宣和閣に召し、地里の険易の状況を問うた。耆は言うには、「雲・応・蔚・朔の四郡は、時に人を遣わして文書を幷・代の間に送り、辺境の虚実を窺うか、あるいは道路に慣れようとしている。密かに代州に諭し、雲・応・蔚から来る者は大石谷から入らせ、朔から来る者は土墱から入らせ、その他の間道は全て塞いで険を示すべきである」。景德の和議により兵が罷むと、耆は曹璨・李神祐・岑保正と共に軍籍を閲し、罷癃の者を淘汰するよう請うた。英州防禦使・侍衛親軍馬軍都虞候に遷った。

帝に従って東封し、絳州防禦使・殿前都虞候に遷った。時に玉清宮を建てようとしたが、耆は上疏して国財力を尽くすことは天意を奉ずるに非ずと奏した。相州観察使・馬軍副都指揮使に遷った。汾陰の祀りに従い、威塞軍節度使を授かり、宣徽南院使兼枢密副使に進んだ。罷免され、河陽を判した。父母の喪に遭い、起復し、武寧軍節度使に移り、同中書門下平章事・陳州判に拝された。累遷して鎮安軍・淮南節度使・寿州判となった。中書舎人張師徳を遣わして告敕を賜った。まもなく召されて枢密使兼群牧制置使・会霊観使となった。

初め名は旻といったが、この時に上表して名を耆と改めた。尚書左僕射を加え、河陽・泰寧・山南東道・昭徳軍節度使を歴任し、侍中を兼ねて進み、鄧国公に封ぜられた。章献太后が崩ずると、左僕射・護国軍節度使として出向し許州を判し、襄・鄧・孟・許・陳・寿の六州に移り、徐国公に封ぜられた。

耆は人となり重密で、智数があり、真宗が東宮にいた時、『論語』・『左氏春秋』を授けるよう命じ、後にまた『宸戒』二十条及び『聖政記』・『冊府元亀』を賜ったので、頗る伝記及び術数の学を知り、象緯を言えば必ず中った。章献太后が微賤の時、その家に寓居したことがあり、耆は甚だ謹んで事えた。太后が政に預かると、寵遇最も厚く、第宅を尚書省の西に賜い、凡そ七百楹に及び、安逸富盛四十年を超えた。家に居ては曲闌を設け、その中に百貨を積み、群婢と相貿易した。病める者があれば自ら診切し、薬を売って、銭を出さずに済ませようとした。歴任した藩鎮では、人は頗る煩わしいと思った。しかし諸子を厳しく統御し、一日一度会うと、すぐに外舎に出て行かせたので、論者もこれを以て彼を称えた。太子太師で致仕し、卒し、太師兼侍中を贈られ、諡して栄僖といった。

子は二十四人。得一は、慶暦年中に貝州を守り、妖人王則が乱を起こした時、死せず、また彼と礼儀の草案を作り、誅殺された。可一は、群婢と共に妻を賊殺した罪で、棄市に処せられた。利一は、団練使。誠一は、客省使・枢密都承旨。

子 希一

希一、字は簡翁、父耆の蔭により、累官して引進使となり、冀・邢等九州の知州を歴任した。貝州が叛くと、希一は先に兵を率いて至り、その水門を得た。なお兄得一の連累に絓がり、洪州塩を監した。再び河北縁辺安撫副使となった。辺兵を内郡に移して糴費を軽減すること、各州が毎年市平を以て辺穀を糴い、人がその価格を上下できなくすること、戍卒の妻子に糧を与えるのは軍士より一日早くし、その家を伍保とし、逃亡の連累に坐させること、を請い、皆法として定められた。成都利州路鈐轄・真定府路総管に移った。

たびたび遼に使いし、また館客を務め、遼人はかつて雄州が界河での漁を禁ずる不当、及び白溝の両属民を役使することについて言った。希一は言う、「界河の禁令は、貴国(遼)の統和年間に始まり、今も文書が残っている。白溝は本来中国に田租を納めていたが、我が太宗が特にこれを除いた。その後、貴国が侵牟して税を立てたので、両属と呼ばれるのであり、どうして中国が役使しない道理があろうか」。遼人は言葉に詰まった。均州防禦使として集禧観を提挙し、卒した。弟に利一。

子 利一

利一、字は和叔。蔭補により供奉官・光州都監に補せられる。京東・淮南刑獄を提點し、莫・冀二州を知り、河北縁辺安撫都監兼閤門通事舍人・広信軍知軍となる。

諜者が遼人宋元の辺境侵犯を告げると、利一は譙門で酒宴を大いに開き、宋元は衆を率いて遁走した。保州・雄州知州に転じ、累遷して西上閤門使・嘉州団練使となる。遼人が両属民を徴兵すると、民はその辱めに耐えられず、利一はこれを慰撫して帰順させた。大姓が一族挙げて南遷し、慕って来る者が二万に至った。利一は倉を開いて救恤し、かつ涿州に詰問状を送り、これ以後再び徴兵することはなくなった。

巡検趙用が罪を得た際、不察挙の罪に坐し、衛州鈐轄に改められる。久しくして定州路鈐轄となり、馬歩軍総管に進み、真定・大名府路に転ずる。代・滄・澶・鄭・相州を知り、終に雄州団練使となる。

楊崇勳

楊崇勳、字は寶臣、薊州の人。祖父守斌は、太祖に事えて龍捷指揮使となる。父全美は、太宗に事えて殿前指揮使となる。崇勳は父の蔭により東西班承旨となり、東宮において真宗に事える。帝嘗て曰く、「聞くところ汝は学を好むと、吾汝に書を授けん」と。崇勳はここより稍々兵法及び前代の興廃の事に通ずる。真宗即位すると、左侍禁・西頭供奉官・寄班祗候に遷る。

雷有終が王均を討つに当たり、崇勳は公事を承受し、捷報を奏上した功により内殿崇班に抜擢される。累遷して西上閤門使・群牧都監となり、副使に改め、左衛大将軍・恩州刺史として枢密都承旨となり、尋いで枢密諸房を提挙し、通進銀臺司事を兼ねる。英州防禦使として馬軍都虞候・へい代州馬歩軍副都総管となり、留まって客省使・群牧使を領す。

真宗が久しく御不となり、寇準が罷免される。入内副都知周懷政は、帝を太上皇とし、太子に位を伝え、再び寇準を宰相にしようと謀る。嘗てその謀りごとを崇勳に諮問し、崇勳は変事として告発した。丁謂はその言葉を得て、夜曹利用を訪ね、共に発覚させることを議す。翌日、懷政を誅し、崇勳を鄧州観察使に抜擢するが、拝受せず、乃ち内客省使として桂州観察使を領し、再び群牧使を兼ねる。初め、群牧使は皆文臣がこれを領したが、崇勳は曰く、「馬は戦備なり、事なきといえども、去るべけんや」と。

仁宗即位すると、彰徳軍節度観察留後として陳州を知り、殿前都虞候・真定府定州路副都総管・定州知州を授かり、馬軍副都指揮使・殿前都指揮使・振武軍節度使を歴任し、宣徽南院使兼枢密副使を拝す。宮中に火災あり、修葺副使となる。又、鎮南・定武軍・山南東道節度使を歴任す。

章献太后が仁宗に言うに、先帝は最も崇勳の質実信義を称え、大事を任すべしと、乃ち枢密使に進める。百官が洪福院に詣でて章懿皇后の冊を上り、退いて立班して奉慰するに、宰相張士遜が崇勳の園に過ぎて飲み、日中の刻に至らず。御史中丞范諷が劾奏し、士遜と共に罷免され、同平章事・河陽三城節度使として許州を判ず。翌日、陳州に改む。景祐初め、懷政の家人が冤罪を訟う、遂に同平章事を罷め、寿州を知り、亳州に転じ、再び陳州を知る。

契丹が盟約を破らんとす、朝廷は将を選び辺備す、崇勳は行くことを請い、再び同平章事・定州判を拝す。既にして老いて事に任じず、成徳軍に転じ、又鄭州に転ず。子の宗誨が賄賂を受け法を枉ぐるに坐し、左衛上将軍として致仕し、太子太保に改め、卒す。太尉を贈られ、諡して恭密とし、尋いで諡を恭毅と改む。

崇勳は性貪婪にして卑陋、久しく軍職に任ず。真宗の時に当たり、毎に対すると、輒ち中外の事を肆に言い、人を中傷するを喜び、人は以てこれを畏る。藩鎮に在る日、嘗て兵を役し木偶の戯人を作り、丹白を塗り、舟に載せて京師に売る。

夏守恩

夏守恩、字は君殊、并州榆次の人。父遇は、武騎軍校となり、契丹と戦い、歿す。時に守恩わずか六歳。下班殿侍に補せられ、襄王宮に給事し、累遷して西頭供奉官となる。

真宗即位すると、四遷して北作坊使・普州刺史に至る。帝澶淵に幸すに、守恩従行し、数え見任使せらる。博州刺史に遷り、龍神衛・捧日天武四廂都指揮使、泰州防禦使を歴任す。帝不豫となり、中宮政に預かるに、守恩に親兵を領せしめ、これを倚用す。殿前都虞候に抜擢し、安遠軍節度使観察留後として殿前馬歩軍都指揮使事を管勾す。

天聖初め、歩軍副都指揮使・威塞軍節度使を加えられ、永定陵総管となる。雷允恭・邢中和が皇堂を移すに、地を穿ちて水泉を得、土石相半ばし、人疫い、功成らず。守恩これを聞かせ、允恭等誅せらる。河陽三城に節度使を転じ、本鎮に帰り、澶・相・曹三州を知り、并代路馬歩軍都総管となり、天雄・泰寧・武寧節度使を歴任し、真定府定州路都総管となる。

守恩の赴任先において、寵愛を恃んで驕り恣に法に背いた。その子元吉は賄賂を贈り通じ、物品を買っても多くは代価を支払わなかった。定州通判李参がその贓物を発覚させ、侍御史趙及と大名府通判李鉞に命じて審問させ実情を得たところ、法に照らせば死罪に当たるが、帝はこれを許し、官籍を削除して連州に編管し、ついに貶所で没した。

弟に守贇あり。

守贇は字を子美という。初め、守恩が襄王の邸に給事していた時、王がその兄弟のことを尋ねると、守恩は守贇が四歳で孤児となり、日々王邸に侍っており、時を定めて養育することができないので、心に常に思いを寄せていると述べた。王はこれに心を動かされ、即日に召し入れて宮中に入れたが、その幼さを憐れみ、外舎に就くことを許した。二年後、再び召し入れると、王の乳母である齊國夫人が傅婢に命じてこれを養育看護させた。

やや成長すると、文字に通じるようになった。王が太子となると、守贇は工作事を主管した。即位すると、右侍禁を授けられた。李継遷が叛くと、綏州・夏州に使いして辺境の隙を窺わせ、西頭供奉官・寄班祗候に遷った。帝が大名に行幸した時、駕前走馬承受となった。康保裔が賊と戦って戦死したが、配下の兵士は誅罰を恐れ、保裔が賊に降ったと声高に言い立てた。密詔により守贇がこれを察しに行った。守贇は服装を変えて営中に入り、尋問して実情を得て、還奏して上意に適った。詔して保裔の家を恤い、守贇を真定路走馬承受公事とした。

帝が澶淵に行幸し、また汾陰を祀った時、いずれも駕前巡検となり、累遷して東綾錦副使となった。亳州への行幸に従い、行宮の修築を命じられた。崇儀使・提挙倉草場に転じた。帝は彼を非常に親信し、中使を遣わして守贇に「軍を管轄したいか、それとも横行使になりたいか」と問わせた。守贇は「臣は日々冕旒(天子)に近侍できればそれで十分です」と答えた。まもなく西上閤門使・提挙諸司庫務に遷り、右千牛衛大将軍・昭州刺史として枢密都承旨となり、三班院を兼領した。

契丹の使者が来るたびに、楊崇勳と交替で館伴副使を務め、凡そ十余年に及んだ。侍衛親軍歩軍都虞候に抜擢され、馬軍・幷代州都総管に改めた。累遷して歩軍・馬軍殿前副都指揮使、建武・鎮東・保大軍節度使となった。俄かに大内修築の功労により、殿前都指揮使に任じられ、定国軍節度使に転じた。

守恩が贓罪で廃されると、守贇も鎮海軍節度使として軍の管轄を罷められ、本鎮に赴いた。一年余り後、定州路都総管に転じ、枢密院事を知るよう召された。入見すると、帝が西方の事を問うと、守贇は言った。「平時の小さな障塞には兵馬が千余に満たず、賊兵が大挙して来れば、固守する暇もなく、どうして門を出られましょうか。その兵を併せて衝要の地を占拠し、機会を窺って邀撃すれば、功績を挙げられるかもしれません。」帝はこれをよしとした。

劉平・石元孫が敗れると、降賊したと誣告する者がいた。守贇はその冤罪をかなり弁明し、康保裔の事を引き合いに出して証とし、自ら兵を率いて賊を撃つことを請うた。宣徽南院使・陝西馬歩軍都総管兼経略・安撫・縁辺招討使に換えられ、勾当御薬院の張徳明・黎用信に命じて御剣を掌らせてこれに従わせた。しかし守贇の性質は凡庸で臆病であり、方略に乏しく、士卒に服されなかった。

まもなく詔して河中に駐軍させ、数ヶ月居て、鄜州に転屯した。その子の随が陝西縁辺招討副使となった。時に晏殊・宋綬が枢密院事を知り、また守贇を召して同知院事とした。随が卒すると、守贇は罷免を請い、宣徽南院使・天平軍節度使として澶州を判じ、病気のため相州に転じた。病気がやや平癒すると、再び真定府定州等路都総管となったが、着任せず、高陽関に転じ、瀛州を判することになった。卒し、太尉を贈られ、諡して忠僖といった。

子に随あり。

随は字を君正といい、儒術を好み、多く士大夫と交遊した。父の蔭により茶酒班殿侍となり、右班殿直に遷った。仁宗が東宮にいた時、率府副率兼春坊謁者となった。即位すると、内殿承制・閤門祗候に任じられ、累遷して西上閤門使となり、出て天雄軍兵馬鈐轄となった。母の病気により召還され、三班院を領し、再遷して四方館使・営州刺史となった。出て衛州知州となり、真に韶州団練使を拝した。邠州に転じ、泰州防禦使に遷った。

元昊が反すると、鄜延路副都総管となった。随は本名を元亨といったが、元昊と諱を同じくするのを嫌い、奏上して改めたのである。まもなく環慶路に転じ、間もなく、再び鄜延に還った。元昊が書状及び錦袍・銀帯を境上に投げ入れ、金明の李士彬に贈り、かつともに叛くことを約した。斥候がこれを得ると、諸将は皆士彬を疑ったが、随だけが言った。「これは離間の計である。士彬は羌と代々仇敵であり、もし私かに約束があって贈り物を通じるなら、どうして衆人に知らせようか。」そこで士彬を召し出して酒を飲み、手厚く慰撫した。士彬は感激して泣き、数日後、果たして賊を撃ち、首級を斬り羊馬を獲るなどして自ら忠節を示した。

守贇が枢密院事を知ると、耀州観察使・亳州知州に任じられた。劉平・石元孫が敗れると、随を河中府知府とした。守贇が陝西を経略安撫する時、留めて会霊観事を領させた。守贇が還ると、再び陝西副都総管兼縁辺招討副使となった。帝は言った。「朝廷は今まさに辺境の事を卿に委ねようとしている。卿は父が機密にいることを嫌ってはならない。」時に随は既に病んでおり、陝州に次いで、卒した。昭信軍節度使を贈られ、諡して荘恪といった。随は辺境において多くの戦功はなかったが、慎重で過ちが少なかった。

論じて曰く、曹利用は不測の淵に身を投じ、口舌をもって契丹を啖い、河北に七十年の間鋒鏑の憂い無からしめた。勲業は確かに偉大である。嶺南の戦いも、またどうして軽んじられようか。功を恃み寵を頼んで、禍が萌芽しても悟らず、悲しいことである。耆・崇勳の二夏は奮闘して闒茸(卑賤)より出で、将相の位に至ったが、皆驕り侈り貪り吝んで、私恩を恃み、清議に背き、君子の取るところではない。

狄青

狄青、字は漢臣、汾州西河の人なり。騎射に長ず。初め騎御馬直に隷し、散直に選ばる。宝元初め、趙元昊反す。詔して衛士を選びて辺に従わしむ。青を以て三班差使・殿侍・延州指使と為す。時に偏将屡々賊に敗れ、士卒多く畏怯す。青行くに常に先鋒と為る。凡そ四年、前後大小二十五戦、流矢に中る者八たび。金湯城を破り、宥州を略し、隆密・歳香・毛奴・尚羅・慶七・家口等の族を屠り、積聚数万を燔き、其の帳二千三百を収め、生口五千七百を得たり。又橋子穀に城し、招安・豊林・新砦・大郎等の堡を築き、皆賊の要害を扼せり。嘗て安遠に戦い、創を被ること甚だし。寇の至るを聞き、即ち挺ち起ちて馳せ赴く。衆争ひ前みて用いらる。敵に臨みて発を被り、銅の面具を帯び、賊中に出入す。皆披靡して敢へて当る者なし。

尹洙、経略判官と為る。青、指使を以て見ゆ。洙、之と兵を談じ、之を善しとし、経略使韓琦・范仲淹に薦めて曰く、「此れ良将の材なり」と。二人一見して之を奇とし、待遇甚だ厚し。仲淹、『左氏春秋』を以て之に授けて曰く、「将古今を知らずんば、匹夫の勇爾」と。青、節を折りて書を読み、悉く秦・漢以来の将帥の兵法に通ず。是に由りて益々名を知らる。功を以て累遷して西上閤門副使に至り、秦州刺史・涇原路副都総管・経略招討副使に擢でられ、又捧日天武四廂都指揮使・惠州団練使を加えらる。

仁宗、青の数たび戦功有るを以て、召し見て方略を問はんと欲す。会に賊渭州を寇す。命じて形を図りて進めしむ。元昊臣と称す。真定路副都総管に徙し、侍衛歩軍殿前都虞候・眉州防禦使を歴て、歩軍副都指揮使・保大安遠二軍節度観察留後に遷り、又馬軍副都指揮使に遷る。

青、行伍より奮い起こり、十余年にして貴し。是の時、面の涅猶ほ存す。帝嘗て青に勅して薬を傅へ字を除かしむ。青其の面を指して曰く、「陛下功を以て臣を擢で、門地を問はず。臣所以に今日有るは、此の涅に由る爾。臣願くは留めて以て軍中を勧め、敢へて詔を奉ぜず」と。彰化軍節度使として延州を知り、枢密副使に擢でらる。

皇祐中、広源州蛮儂智高反し、邕州を陥し、又沿江の九州を破り、広州を囲み、嶺外騒動す。楊畋等蛮事を安撫経制すれども、師久しく功無し。又孫沔・余靖を安撫使と為し賊を討たしむ。仁宗猶ほ以て憂ひと為す。青上表して行くを請ふ。翌日入対し、自ら言ふ、「臣行伍より起り、戦伐に非ざれば以て国に報ゆる無し。願くは蕃落騎数百を得、禁兵を益し以て、賊の首を羈し闕下に致さん」と。帝其の言を壮とし、遂に宣徽南院使・荊湖南北路宣撫・広南盗賊事経制を除し、酒を垂拱殿に置きて以て之を遣る。時に智高還りて邕州に拠る。青孫沔・余靖の兵を合して賓州に次す。

是に先立ち、蔣偕・張忠皆軽敵して敗死し、軍声大いに沮む。青諸将に戒めて妄りに賊と闘ふこと無からしめ、吾が為す所を聴かしむ。広西鈐轄陳曙、青未だ至らざるに乗じ、輒ち歩卒八千を以て賊を犯し、崑崙関に潰る。殿直袁用等皆遁す。青曰く、「令の斉しからざるは、兵の敗るる所以なり」と。晨に諸将を堂上に会し、曙を揖して起たしめ、並びに用等三十人を召し、敗亡の状を按じて、軍門を出だして之を斬る。沔・靖相顧みて愕眙し、諸将股慄す。

已にして甲を頓へ、軍中に令して十日を休ます。覘者還りて、以て軍未だ即ち進まずと為す。青明日乃ち軍騎を整へ、一昼夜昆侖関を絶ち、帰仁鋪に出でて陣と為す。賊既に険を失ひ、悉く出でて逆戦す。前鋒孫節、賊と搏ち山下に死す。賊気鋭きこと甚だし。沔等懼れて色を失ふ。青白旗を執りて騎兵を麾ひ、左右翼を縦し、賊の意に出でず、大いに之を敗り、奔るを追ふこと五十里、首数千級を斬り、其の党黄師宓・儂建中智中及び偽の官属死する者五十七人、賊五百余人を生擒す。智高夜火を放ち城を焼きて遁去す。遅明、青兵を按じて城に入り、金帛巨万・雑畜数千を獲、老壮七千二百嘗て賊の俘脅せられし者を招き復して、慰め遣はす。黄師宓等を梟して邕州城下にし、屍を斂めて京観を城北隅に築く。時に賊屍に金龍衣を衣る者有り。衆智高既に死せりと謂ひ、以て上聞せんと欲す。青曰く、「安んぞ詐に非ざるを知らんや。寧ろ智高を失ふとも、敢へて朝廷を誣ひて功を貪らざらん」と。初め、青の邕に至るや、会に瘴霧昏塞す。或は賊水上流を毒すと謂ふ。士飲む者多く死す。青之を殊に憂ふ。一夕、泉砦下に湧く有り。之を汲めば甘し。衆遂に以て済ふ。

復た枢密副使と為り、護国軍節度使・河中尹に遷る。還りて京師に至る。帝其の功を嘉し、枢密使を拝し、第を敦教坊に賜ひ、諸子の官秩を優進す。初め、青既に行く。帝毎之を憂ひて曰く、「青威名有り。賊其の来るを畏るべし。左右使令は、青の親信に非ざれば不可。飲食臥起と雖も、皆窃発を防ぐに宜し」と。乃ち使を馳せて之を戒む。青既に賊を破りしを聞くに及び、宰相を顧みて曰く、「速に賞を議せよ。緩なれば則ち以て勧むるに足らず」と。

始め、交阯出兵して智高を助討せんと願ふ。余靖其の信ず可きを言ひ、万人の糧を邕・欽に具へて之を待つ。詔して緡銭三万を以て交阯に賜ひ兵費と為し、賊平らば厚く之を賞すべしと許す。青既に至り、余靖に檄して使を通はし兵を仮る無からしむ。即ち上奏して曰く、「李徳政声言して将に歩兵五万・騎一千を将ひて赴援せんとす。其の情実に非ず。且つ外に兵を仮りて以て内寇を除かんは、我が利に非ず。一智高を以て横に二広を蹂躙し、力を討つに能はず、乃ち蛮夷に兵を仮る。蛮夷貪りて得て義を忘れ、因りて乱を啓かば、何を以て之を禦がん。請ふ交阯の助兵を罷めん」と。之に従ふ。賊平らぐ。人其の遠略有るを服す。

青枢密に在ること四年。出づる毎に、士卒輒ち指目して以て相矜誇す。又言者青が家の狗角を生じ、且つ数たび光怪有りとし、青を外に出だして以て之を保全せんことを請ふ。報へず。嘉祐中、京師大水す。青水を避けて家を相国寺に徙し、行止殿上す。人情頗る疑ふ。乃ち青を罷めて同中書門下平章事と為し、出でて陳州を判す。明年二月、疽髭に発し、卒す。帝哀を発し、中書令を贈り、武襄と諡す。

青人と為り慎密寡言、其の事を計るには必ず機会を審らかに中て而して後発す。師を行くには先づ部伍を正し、賞罰を明らかにし、士と饑寒労苦を同じくす。敵猝然之を犯すと雖も、一士敢へて後先する者無し。故に其の出づる常に功有り。尤も功を将佐に推すことを喜ぶ。始め、孫沔と賊を破る。謀は一に青に出づ。賊既に平らぐ。経制の余事は、悉く以て沔に諉す。退きて意を用ひざるが若し。沔始め其の勇を歎じ、既にして其の人と為るを服し、自ら以て如かずと為す。尹洙貶せられて死す。青其の家事を賙ふるに力を尽す。子諮・詠、並びに閤門使と為る。詠数たび戦功有り。

熙寧元年、神宗近世の将帥を考次し、青行伍より起りて名夷夏に動き、深沈智略有り、能く畏慎を以て終始を保全するを以て、慨然之を思ひ、命じて青の画像を取らしめ禁中に入れ、御製の祭文を遣し、使をして中牢を齎らしめて其の家を祠らしむ。

附 張玉 孫節

張玉、字は寶臣、保定の人。六班散直として狄青の麾下に隷し、青澗・招安の砦を築いた。夏兵三万に遇い、鉄騎を馳せて挑戦する者あり、玉は単身鉄簡を持ち出でて闘い、その首級と馬を取る。軍中これにより張鉄簡と号す。状を以て聞く。仁宗曰く、「真の勇将なり」と。本路同巡檢となす。儂智高征討に従い、帰仁驛に至る。賊は三つの鋭陣を列ねて官軍に逆らい、軍は小しく退く。玉は右廂の突騎を率い、横に賊の堡壘を貫き、賊は大いに潰える。帝は召見し、殿廷の下に鋭陣を作らせ、賊を破る勢いを観る。広西鈐轄に擢てられ、大名に移り、龍・神四廂都指揮使に進み、副都総管となる。

諒祚、大順城を攻む。玉は兵三千を以て夜撃し、驚潰して去らしむ。累遷して昭州防禦使となり、涇原に移る。熙寧年中、慶州の卒叛く。玉は石門にて襲逐し、卒は窮蹙して降を請う。玉は二百人を斬る。職を奪わる罪に坐し、陵州團練使に降とされ、数ヶ月居て、復す。

王韶、熙河を開く。玉は宣州觀察使に遷り、副都総管となる。河北に三十七将を置き、玉を以て第一将とす。入りて馬歩軍都虞候となり、卒す。建雄留後を贈られる。

孫節、開封の人。少く軍籍に隷し、才勇を以て右侍禁に補わる。狄青と共に延州に在り、数え敵の砦を攻破し功あり、累遷して西京左蔵庫副使となる。青の智高討伐に及び、麾下に隷するを辟く。帰仁鋪に至り、節は前鋒たり、直ちに前に進み戦いを搏つ。賊の勢い甚だ鋭く、節は山下に鏖戦し、俄に槍に中りて没す。特ち忠武軍節度留後を贈り、その妻を仁壽郡君に封じ、その子二人・從子三人に官し、諸司副使の俸を給し、その喪の終わるまでとす。

郭逵

郭逵、字は仲通、その先祖は邢より洛に徙る。康定年中、兄の遵、敵に死す。逵を録して三班奉職とし、陝西の范仲淹の麾下に隷す。仲淹、学問を勉むるを以て勧む。延安の清剛社が兵を募りて誤って熟羌を殺す。死を論ぜんとす。逵は請いてこれを免し、壮士十三人を活かす。霊武を取らんと議する方なり。逵曰く、「地遠くして食継がず、城大にして兵多からず、その利を見ず」と。未だ幾ばくもせず、涇原の任福、全軍を以て没す。人その先見に服す。

陳執中、京東を安撫し、奏して駐泊将とす。執中、賓佐と当時の名将を論じ、共に葛懷敏を推す。逵曰く、「懷敏は易与なり、他日必ず朝廷の事を敗らん」と。執中始め怒る。数日居て問うて曰く、「君何を以て葛懷敏が名将に非ずして事を敗るを知るや」と。曰く、「功を喜び幸を徼り、徒らに勇にして謀無く、禽らるべし」と。執中歎じて曰く、「君は真に兵を知る。懷敏は既に師を覆せり」と。真定兵馬監押となる。

保州の卒叛く。田況、逵を遣わして往きてこれを招かしむ。逵と乱者たる侍其臻は嘗て范仲淹に同事す。馳せて城下に至り、旧き佩びし紫囊を示す。臻これ識り、即ちその党の韋貴・史克順と皆再拝し、逵を邀えて城に登らしむ。既に見え、禍福を諭す。衆或いは疑いて即ち下らず、曰く、「若し降らば、免れざるを恐る」と。逵は身を以て質と為さんことを請う。ここに於いて城を開き降る。功を論じて閤門祗候・環慶兵馬都監を加う。母憂に遭う。官を解くを得ず、凡そ三たび請いて乃ち許さる。慶帥の杜杞、錢四十万を以て贐す。謝して受けず。喪に卒え、涇原都監となる。古渭城を抜き、通事舍人に転じ、河北縁邊安撫都監に徙る。呉奎に副い契丹に使いし、その主の尊号を受くるに値い、観礼に入る。使い還り、黜せられて汾州都監となる。

龐籍、河東を鎮む。俾ち忻州を権む。契丹来たりて天池廟の地を求む。籍決すること能わず、以て逵に諉す。逵訪い得て太平興國中の故牘、王土たるを証し、檄を以てこれに報ず。契丹愧伏す。

湖北の溪蠻彭仕羲叛く。帯禦器械を加えられ、路鈐轄兼澧州知事となる。蠻の親信を得て郷導と為し、諸隘を尽く平らげ、遂にその居る桃花州を破る。仕羲城を棄てて走り、衆悉く降る。礼賓使に遷り、南路鈐轄・邵州知事に徙る。武岡蠻反す。逵これを討平す。累遷して容州觀察使となる。仁宗の山陵に、逵を以て宿衛を掌らしむ。殿前都虞候に遷り、出でて涇原路副都部署となる。

治平二年、検校太保同簽書樞密院事を以てす。旋いて出でて陝西宣撫使を領し、渭州を判す。逵は軍功を立てながらも、驟ちに政地に躋り、議者厭わず。諫官・御史交えてこれを論ず。聴かず。神宗即位し、静難軍留後に遷り、召還さる。言者復た力を争う。乃ち宣徽南院使・鄆州判に改む。鄆に至ること七日、鎮を徙めて鄜延とす。

种諤、嵬名山の降を受け、綏州を取り、夏人は遂に楊定を殺す。朝論は邊釁方に起こるを以て、綏を棄てんと欲す。逵曰く、「虜は既に王官を殺し、而して又綏を棄てて守らずば、弱きを見すること已に甚だし。且つ名山は挙族来帰す、当に何を以てか処せん」と。既にして夏人は塞門・安遠の二砦を以て来たりて易えんと欲す。朝廷これを許す。逵曰く、「此れ正に商於六百里の策なり。先ず二砦を交えずんば、与うべからず」と。その属の趙禼・薛昌朝を遣わし夏使と議せしむ。唯だ砦の基を言う。禼曰く、「二砦の北、旧に三十六堡有り、且つ長城嶺を以て界と為す。西平王の祥符に移したる書固より在り」と。虜使驚きて対すること能わず、乃ちその請いを寝す。初め、詔して綏州を焚棄せしむ。逵匿して下さず。是に至り、帝大臣に問う。皆知らず。逵始めて向者の詔旨に違える罪を自ら劾す。帝手詔を下し褒答す。

夏人は又亡命の景詢を以て名山と易えんことを求む。逵曰く、「詢は庸人なり、事に於いて何の軽重かあらん。これを受くれば則ち名山を還さざるを得ず。恐らく是より蕃酋復た敢えて向化する者無からん」と。逵、楊定を殺す者の首領姓名を詗い得、諜を以て境に斬りて以て罪に謝せんと告ぐ。逵曰く、「是れ将に死囚を梟して以て我を紿かんとす」と。報じて曰く、「必ず李崇貴・韓道喜を執えて来たれ」と。夏人言う、「これを殺せり」と。逵は命じて二人の状貌物色を以て虜に詰問せしむ。情を得て、乃ち執えてこれを献ず。検校太尉・雄武軍留後を加う。

韓絳、种諤の計を主とし横山を図り、逵と出兵を議す。逵曰く、「諤は狂生なるのみ。朝廷徒に家世を以てこれを用うれば、必ず大事を誤らん」と。絳怒り、沮撓と為し、奏して逵を召還せしむ。明年、慶州乱る。出でて永興を判し、秦州に徙る。王韶、熙河を開く。逵その不法を案ず。朝廷蔡確を遣わしてこれを鞫せしむ。逵の誣罔を謂い、宣徽使を落とし潞州知事とす。太原に徙り、宣徽使を復す。

交阯の李乾德が邕管を陥落させたため、召されて安南行營經略招討使兼荊湖・廣南宣撫使となり、鄜延・河東の旧吏士を従えることを請うた。出発に際し、便殿で宴を賜り、中軍の旗章・剣・甲を賜って寵遇を示された。長沙に至り、先に将を遣わして邕州・廉州を回復させ、廣西に到着すると、廣源州を討ち抜き、守将の劉応紀を降した。また決裏隘を抜き、勝に乗じて桄榔・門州を取り、富良江で大戦し、偽王子の洪真を斬った。乾德は窮迫し、表を奉じて帰順した。時に兵夫三十万人が暑気を冒し瘴地を渡り、死者は過半に及んだ。ここに至り、賊と一水を隔てて進むことができず、ついに軍を返した。これにより左衛将軍に貶せられ、西京に安置され、十年間隠棲した。哲宗が立つと、左屯衛大將軍として致仕に復し、潞州知州に起用され、廣州觀察使・河中府知事に進んだ。洛陽らくように帰ることを請い、左武衛上將軍・提挙崇福宮に改められ、卒した。一日朝儀を停め、雄武軍節度使を追贈された。

逵は慷慨にして兵学を好み、神宗が八陣の遺法を訪ねた時、対えて曰く、「兵に常形はなく、これはただ奇正相生の一法に過ぎません」と。そこで帝のためにその詳細を論じた。延安において、兵に教えさせたが、長く成らなかった。逵は金鼓屯営に習熟した諸校六十四人を選び、一人に一隊を教えさせると、たちまちにして成った。特に偏裨を用いることを善くし、その配下に至る毎に、人に自らの能うところを言わせ、暇日にこれを閲して按じたので、臨陣には皆その技を尽くした。

李復圭が慶州の敗北を処理するに当たり、李信・劉甫を斬った後、さらに鄜延都巡検使の白玉を罪にしようとした。玉は逵に会い後事を託し、泣いて母を終養できぬことを言った。逵はこれを哀れみ、派遣せず、力を尽くして救済を申し立て、免れることができた。後に玉は新砦で大勝し、神宗は逵に言った、「白玉が功をもって過ちを補うことができたのは、卿の力である」と。戦う毎に、まず招き懐けて後に戦闘し、士卒を愛惜し、妄りに誅戮を加えなかった。賊の婦女・老幼を殺した者は、皆賞を与えなかった。征南に功なく久しく廃されていたが、なお隠然として一時の宿将と為された。

論じて曰く、宋が仁宗の時に至り、太平百年を承け、武夫鷙卒が時に遭って位に至った者はあれども、健卒から政府に至り、隠然として時の名将と為ったのは、ただ狄青と郭逵の二人のみである。青は辺境において凡そ二十五戦し、大勝なく、また大敗もなく、最後の崑崙の一挙は、頗る奇雋を著わした。その識量を考うるに、また人を遠く過ぎていた。逵は葛懷敏の敗北を料るに、燭を照らし亀を卜するが如く、一時最も兵を知る者であった。南征に功なくとも、その長を用いるに違えり、また何ぞ尤めんや。