宋史

列傳第四十八 高瓊 范廷召 葛

高瓊

高瓊は、家柄は燕の人である。祖父は霸、父は乾。五代の時、李景が江南を占拠し、密かに契丹と結び、毎年単独の使者を往来させた。霸は契丹の命を奉じて、乾を使者に従わせて李景のもとへ赴かせた。ちょうど江左に至った時、間諜が北の使者が中夏と隙を構えていると聞き、国境の難を緩和しようとして、ついに霸を殺し、乾を濠州に住まわせ、汴の人に殺されたと声言した。乾は濠州で三人の子を生み、江左が逼迫して弱いのを見て、まもなく一族を率いて中朝に帰順し、田を亳州の蒙城に給され、そこで土着した。

瓊は若い頃勇猛で無頼、盗賊となり、事が露見し、市中で磔にされようとしたが、暑さと雨で傷が爛れ、看守の者が少し油断したのを見て、すぐに釘を引き抜いて逃げた。王審琦に仕え、太宗が京邑の尹であった時、その才勇を知り、召して帳下に置いた。太宗がかつて禁中で宴に侍し、大いに酔い、退出する際、太祖が苑門まで送った。その時、瓊と戴興、王超、李斌、桑讚が従っており、瓊は左手に手綱を執り、右手に鐙を執って、太宗はようやく馬に乗ることができた。太祖は瓊らを見て壮とし、そこで控鶴官の衣帯と器帛を賜り、かつ心を尽くすよう勧めた。

太宗が即位すると、禦龍直指揮使に抜擢された。太原征伐に従い、弓弩両班を押さえることを命じられ、城を包囲して攻撃した。また幽薊を討伐した時、車駕が倍道で帰還することになり、瓊と軍中の鼓吹を留めて殿軍とし、六班の扈従は間に合わなかったが、ただ瓊が真っ先に配下を率いて行在所に参じたので、太宗は大いに喜び、慰労した。太平興国四年、天武都指揮使に遷り、西州刺史を領した。翌年、神衛右廂都指揮使に改め、本州団練使を領した。車駕が大名を巡師した時、瓊と日騎右廂都指揮使朱守節に命じて京城内巡検を分掌させた。事に坐し、許州馬歩軍都指揮使として出された。

ちょうど龍騎の亡命兵数十人がおり、知州臧丙が郊外に出たのに乗じ、その導従を劫略して叛こうと謀った。瓊は聞くやすぐに丙に告げ、急いで城に戻らせ、自ら従卒数十人を率い、弓矢を携え単騎で追捕し、榆林村に至って追いついた。賊は村の後ろの家屋に入り、塀に登って抵抗した。賊の首領で青腳狼という者が弩を構えて瓊を射ようとしたので、瓊は弓を引き一発でこれを斃し、ついにことごとく捕らえて州に送った。丙はその事を上奏した。ちょうど北伐しようとしていたので、召還された。馬歩軍都軍頭を授けられ、薊州刺史、楼船戦棹都指揮使を領し、歩船千艘を率いて雄州に赴いた。また易州を城した。師が帰還すると、天武右廂都指揮使となり、本州団練使を領した。

端拱初年、左廂に遷り、富州団練使を領するよう改めた。この秋、単州防禦使として出され、貝州部署に改めた。その出守に際し、范廷召、王超、孔守正とともに任じられた。数か月後、廷召らは皆再び兵職に補されたが、瓊はやや鬱々としていた。時に王承衍が貝丘を鎮守し、公主がしばしば禁中に入り、上(皇帝)が瓊を厚遇していることをよく知っていたので、承衍はたびたび瓊を慰めた。二年、召還された。故事では、廉察以上の者が入朝して初めて茶薬の賜り物があったが、この時は特に瓊に賜った。三月、朔、易の帥臣を遷任し、制書により瓊に侍衛歩軍都指揮使を授け、帰義軍節度使を領させた。廷召らはようやく観察使を加えられたが、瓊と比べることはできなかった。幷州馬歩軍都部署として出され、時に潘美もまた太原にいた。旧制では、節度使が軍職を領する者は上位にあったが、瓊は美が旧臣であることを理由に、その下に立つことを表請し、許された。戍兵に廩食が陳腐であると嘩言する者がいた。瓊はこれを知り、ある日、諸営を巡視に出た。士卒がちょうど集まって食事をしていたので、その飯を取って自ら食べ、衆に言った。「今、辺境に警報はない。お前たちは甘く豊かなものを飽きるほど食べて座っている。幸いを知るべきである。」衆の言はついに止んだ。鎮州都部署に改めた。至道年中、そのまま保大軍節度使に改め、軍を統率することはもとどおりであった。

真宗が即位すると、彰信軍節度使を加えられ、太宗の山陵部署を充て、また幷代都部署となった。咸平年中、契丹が塞を侵犯し、その母車帳が狼山大夏に至った。上は親しく河朔を巡り、楊允恭を馳せ往かせ、瓊を召して配下を率いて土門より出で、石保吉と鎮、定で会するよう命じた。やがて傅潛が逗留の罪に坐したので、すぐに瓊を召して代えさせた。兵が罷むと、再び本来の任に戻った。転運使がその政績を言上したので、詔してこれを褒めた。

咸平三年、交代で帰還し、手に傷があり笏を持てないため、詔して梃を持って入謁することを許し、殿前都指揮使を授かった。先に、范廷召、桑讚の率いる辺兵が敵に臨んで退き敗れたので、言事の者がその罪を請うた。瓊に問うと、瓊は答えて言った。「兵が将令に違背すれば、法により誅すべきである。しかし陛下は去歳すでにその罪を赦された。今またこれを行い、かつちょうど諸路に屯している時で、時代が変わるわけでもない。臣は衆心が疑懼することを恐れます。」そこで止めた。

景德年中、車駕が北巡した。時に前軍がすでに敵と接戦しており、上は親しく営壘に臨もうとしたが、ある者は南還を勧めた。瓊は言った。「敵師はすでに老いている。陛下は親しく往き、その成功を督すべきです。」上は喜び、即日進んで澶淵に幸した。翌年、兵を罷めるに当たり、諸班直で十年を経た兵卒を選んで軍校に補出し、年老いた者は本班の剩員に退かせようとした。瓊が進言して言った。「これは激励の道ではありません。宿衛は労しないというわけではありますまい。」これ以来、八年を経た者も皆叙補されることとなった。

馬軍都校葛霸が歩軍司を兼ねたが、ちょうど病気で休暇中であったので、瓊に二司を兼領させた。瓊は従容として上言した。「臣は衰老しております。もしまた犬馬の疾(病気)があれば、則ち一将がこの二職を総べる必要があります。臣が先朝に仕えた時、侍衛都虞候以上は常に十員に至り、職位は相次ぎ、遷改しやすく、かつ軍伍にその名望を熟知させ、辺藩に緩急あれば、また選用することもできました。」上は深くこれを然とした。まもなく、久しい病気のため兵権の解除を求め、検校太尉、忠武軍節度使を授かった。三年の冬、病が重くなり、上は親しく臨問しようとしたが、宰相が不可としたので、止めた。卒す。七十二歳。侍中を贈られた。

瓊は字を識らず、軍政に通暁していたが、やや自任するところがあり、副将と参議することは稀であった。諸子をよく訓育した:継勲、継宣、継忠、継密、継和、継隆、継元。継勲、継宣が最も有名である。

子 継勲

継勲は、字を紹先といい、初め右班殿直に補された。姿形が頎長で偉岸であり、太宗はこれを見て異とし、召してその家世を問うと、瓊の子であると答えた。寄班祗候に抜擢され、累遷して内殿崇班となった。

咸平の初め、王均が益州を占拠した。崇儀副使として益州兵馬都監・提挙西川諸州軍巡検公事に任じられた。招安使雷有終が兵五百を継勲に授け、東郭の二門を守らせた。時に賊が弥牟砦を攻撃し、継勲は兵を率いて転戦して嘉州に至り、これを破り、黄傘・金塗槍を獲て還った。有終はさらに精兵を加えて再び二門を攻撃し、これを陥落させ、乃ち旗幟を城上に建てた。諸将は城が陥ちたことを知り、有終は軍を率いて天長門に迫った。賊はまた来て防戦した。時に日暮れとなり、有終は少し休もうとしたが、継勲は言った、「賊は窮している。急ぎ撃て、機会を失うな」と。十数騎を率いて激戦し、身に数カ所の傷を受け、血が甲冑に染みた。馬が死ぬと、馬を換えて進んだ。時に入内都知秦翰が来援し、賊は子城に退いて守り、敢えて出てこなかった。継勲は密かに賊が夜遁しようとしていることを知り、包囲を開いて潰走させ、王均は遂に敗滅した。功により崇儀使に遷った。賊の残党は山中に保ち、時々出没して掠奪した。そこで綿漢剣門路都巡検使に転じた。継勲は悪少年を募って賊の動静を偵察させ、岩穴を追跡し、不意を襲って悉くこれを擒え殺した。

また峡路鈐轄に転じ、朝廷に還り、洛苑使・幷代州鈐轄に遷った。岢嵐軍に駐屯した。契丹が兵五万を集めて草城川に屯した。継勲は高みに登ってこれを望み、軍使賈宗に言った、「彼らは多勢だが陣が整わず、将が才能がない。我が兵は少ないが、奇策で勝を取ることができる。先に伏兵を山下に置け。敵は我が弱きを見れば、必ず急ぎ我を攻めよう。我はこれを南に誘い走らせ、爾は起きてこれを乗ずれば、大いに潰れるであろう」と。転戦して寒光嶺に至り、伏兵が発すると、契丹は果たして敗れ、互いに蹂躙されて死者万余人、馬・牛・駱駝を多く獲た。弓箭庫使に遷り、金帯・錦袍を賜り、栄州刺史を領し、麟・府州鈐轄に転じた。

時に兵を河外に屯し、糧食の輸送が続かなかった。継勲は兔毛川を扼し、軍食を援送して、師はようやく渡河した。環州知州に転じ、また瀛州知州に転じた。時に凶作で飢饉となり、富人が粟を出して貧者に給するよう募った。翌年大いに豊作となり、木に連理が四つ生じた。郡人が善政の様子を上書して留任を請うた。内蔵庫使に遷り、宮苑使として契丹に奉使した。還り、定州知州となり、西上閤門使・昭州団練使に遷り、鄜延路鈐轄に転じたが、馬を買い価を損じた罪で官を失った。後に再び西上閤門使・栄州刺史・冀州知州となり、果州団練使を領した。貝州に転じ、再び瀛州知州となった。

仁宗が即位すると、東上閤門使に改め、真に授かって隴州団練使・雄州知州となった。その冬、契丹が燕薊で狩猟し、斥候が兵が侵入して掠奪したと報じたので、辺境の州は皆警戒した。継勲は言った、「契丹は毎年漢の金帛に頼っている。どうして盟好を損ねようか」と。平然としていたが、後に渤海人が契丹に叛き、両界を掠奪していたことを知った。捧日天武四廂都指揮使・連州防禦使に抜擢され、また瀛州知州となった。歩軍馬軍殿前都虞候・歩軍副都指揮使・邕州観察使・涇原路副都総管兼渭州知州を歴任した。宮中で宿衛し、出て天雄軍都総管となったが、再び辺境を守護したいと願い、しばらく留められて遣わされなかった。後に真定府定州路都総管となり、威武軍節度観察留後に改め、遂に保順軍節度使・馬軍副都指揮使に拝された。

恭謝の礼が成ると、昭信軍節度使に転じ、荘献明粛太后の山陵・荘懿太后の園陵の都総管となり、老病を理由に致仕を乞うた。便殿に召見され、一子に扶掖を許され、拝礼をさせず、管軍の職を辞することを聴された。建雄軍節度使・滑州知州を授かった。黄河の水が暴漲し、堤岸を齧った。継勲は老いていたが、自ら督役し、河上に露坐し、暮夜になっても止めず、水はようやく勢いを殺ぎ、滑州の人々はその徳を慕った。卒去、七十八歳。一日朝政を停め、太尉を贈られた。継勲は性質謙虚で、機略があり、士卒を撫育統御するのが巧みで、臨戦すれば常に勝った。しょくにおいて威名があり、「神将」と号された。

子の遵甫は、官は北作坊副使に至った。嘉祐八年、遵甫の女が皇后に正位し、神宗が即位すると、皇太后に冊立された。累贈して継勲に太師・尚書令しょうしょれい兼中書令を贈り、康王に追封し、諡して穆武とした。熙寧九年、帝は宰相王珪に命じて神道碑を作らせ、御筆で碑首に「克勤敏功鍾慶之碑」と篆した。遵甫にも太師・尚書令兼中書令を贈り、楚王に追封した。

子に継宣あり。

継宣、字は舜挙。幼より騎射に優れ、筆札をよくし、読書を知った。恩蔭により西頭供奉官・惠民河巡督漕船に補された。時に凶作で盗賊多く、兼ねて沿河巡検捉賊となり、閤門祗候・邠州兵馬都監に遷った。曹瑋が邠州を守り、しばしば兵事について語り、その可用を推薦した。

乾興の初め、内殿崇班として益州都監となった。蜀人は富み奢侈で、元宵に大いに灯りを張った。知府薛奎は盗賊に備えるよう戒めたが、継勲は悪少年を登録して飲み食いで労い、夜中に密かに盗賊の背中に印をつけさせ、翌日皆捕らえた。磁・相・邢・洺都巡検使を歴任し、安粛軍知軍となり、保州に転じた。累遷して礼賓使・益州路兵馬鈐轄となった。還朝し、西上閤門使・涇原路鈐轄兼安撫使・渭州知州となり、四方館使・昭州刺史・雄州知州に遷った。

初め、元昊が反乱し、関隴に侵すと声言した。継勲は麟府の守備を請うた。間もなく、羌兵が果たして河外に侵入し、豊州を陥落させた。捧日天武四廂都指揮使・恩州団練使・幷州知州に抜擢された。俄かに麟府を寇し、継勲は兵を率いて陵井に営し、天門関に至った。この夜大雨となり、河に及ぶと、師の半ばが渡った時、黒い氷塊が突然合して、舟が進めなくなった。そこで犠牲と酒を備え文を作って祈った。やがて氷が解け、師は渡河し、進んで府谷に屯し、隙を見て勇士を遣わし夜に賊の営を乱した。またげい面の配流兵(廂軍)を募り、二千余人を得て、清辺軍と号し、偏将の王凱にこれを主させた。軍が三松嶺に駐屯すると、賊数万がこれを包囲した。清辺軍が奮起し、千余級を斬首した。その互いに蹂躙されて死んだ者は数え切れなかった。寧遠砦を築き、地脈を相視し、石を穿って泉を出した。やがて五つの砦を城し、眉州防禦使に遷り、卒去した。

范廷召

范廷召、冀州棗強の人。父の鐸は、里中の悪少年に害された。廷召十八歳の時、自ら父の仇を刃にかけ、その心臓を剖き取って父の墓に祭った。弱冠にして、身長七尺余、膂力があった。かつて盗賊となり、勇壮をもって聞こえた。周の広順初め、募に応じて北面招收指揮使となった。世宗が即位すると、入って衛士に補された。高平征伐に従い、戦いに疾く力を尽くし、殿前指揮使に遷った。淮南征伐に従い、紫金山で戦い、流れ矢が左股に当たった。

宋の初め、李筠・李重進平定に従い、本班都知に転じた。また太原征伐に従い、再転して散都頭・都虞候となり、費州刺史を領した。太平興国年中、日騎軍都指揮使として太原平定に従い、范陽を征伐した。秦王廷美がかつて親吏の閻懐忠・趙瓊を遣わして禁軍の列校を犒労したが、廷召もこれに預かり、罪に坐して唐州馬歩軍都指揮使に出された。

雍熙三年、北征を議し、召し入れて馬歩軍都軍頭・平州刺史を領し、幽州道前軍先鋒都指揮使と為す。賊と固安の南に遇い、その衆三千を破り、首級千余を斬り、固安・新城の二県を克ち、勝に乗じて涿州を下す。廷召また賊と戦い、流れ矢に中り、血甲縷に漬くも、神色自若、戦いを督すること益々急なり、詔してこれを褒む。師還り、日騎右廂都指揮使に遷り本州団練使を領し、また左廂に遷り、高州を移領す。端拱初め、出でて斉州防禦使と為り、数月、捧日天武四廂都指揮使を授かり澄州防禦使を領す。二年、転じて殿前都虞候・涼州観察使を領し、鎮州副都部署と為る。徐河において契丹の三万の衆を大破し、首級数千を斬る。

淳化二年、平虜橋砦都部署と為り、幷代・環慶の両路副部署を歴任す。至道中、将を遣わし五路より李継遷を討たしめ、廷召に命じて李継隆を副い環慶霊都部署と為す。廷召は延州路より出で、賊と白池に遇い、米募軍主吃囉等の兵器・鎧甲数万を獲たり。この役、諸将期に失すも、独り廷召と王超は大小数十戦し、屡々克捷す、上これを嘉す。俄にまた幷代両路都部署と為る。三年、侍衛馬軍都指揮使に遷り河西軍節度を領し、定州行営都部署と為る。

咸平二年、契丹塞に入り、車駕北巡す。廷召は瀛州の西において戦い、首級二万を斬り、北に逐って莫州の東三十里に至り、また首級万余を斬り、その掠めし老幼数万口を奪い、契遁去す。師還り、功を録し検校太傅を加え、賦邑を益し、また殿前都指揮使に改む。四年正月疾に被り、車駕臨問す、卒す、年七十五、侍中を贈る。

廷召は軍に在ること四十余年、顕徳以来、凡そ親征するも、未だ従わざるはあらず。騎射を善くし、嘗て出でて獵す、群鳥飛び過ぐる有り、廷召矢を発し、並びにその三を貫く、観者駭異す。性飛禽を悪み、至る所にて弾射し殆ど絶やす。尤も驢の鳴くことを喜ばず、聞けば必ずこれを撃殺す。

子守均は、散員都虞候・演州刺史に至る。守信は、内殿承製・閤門祗候。守宣は、内殿崇班。守慶は名を珪と改め、後に西京作坊副使・淮南江浙荊湖制置発運副使と為る。

葛霸

葛霸は、真定の人なり。姿表雄毅、撃刺騎射に善し。始め太宗に藩邸に事え、践祚し、殿前指揮使を補し、稍々本班都知に遷り、三遷して散員都虞候に至る。雍熙中、幽州の師律を失い、大いに軍校を補し、霸を以てぎょう騎軍都指揮使・檀州刺史を領せしめ、定州に戍す。嘗て敵に唐河に遇い、戦い、これを敗走せしめ、斬獲甚だ衆し。俄に召されて御前忠佐馬歩軍都軍頭と為る。端拱初め、出でて博州団練使と為り、潞・代二州部署を歴任す。淳化元年、擢て殿前都虞候・潘州観察使を領し、高陽関副都部署と為り、都部署に進む。凡そ七戦す。召還され、制を以て保順軍節度を授け、軍を典すること旧の如し。出でて鎮州都部署と為り、天雄軍に徙す。

咸平三年、車駕大名において師を労す、霸は石保吉と同来覲す。時に康保裔河間に没す、即日に霸を以て貝・冀・高陽関前軍行営都部署と為す。二月、就いて副都指揮使に遷す。未だ幾ばくもあらざるに、邠寧・涇原・環慶三路都部署に改む。四年、侍衛馬軍都指揮使に遷り、感徳軍節度を領す。

景德元年、河澶州横壟埽に決す、命じて修河都部署と為す。未だ行かざるに、北辺に警有るに属し、真宗親征を議し、霸を以て駕前西面邢洺路都部署と為し、また李継隆を副い駕前東面排陣使と為し、澶州に駐す。明年召還され、功を以て特に封邑を加う。上言す朝廷明徳の心喪に居り、尚お音楽を遏す、迎授の制を停むるを請う、奏可さる。是の年冬、霸の久しく兵を典し、年将に老ゆるを以て、軍職を罷め、昭徳軍節度・幷代都部署を授く。時に廷臣麾下に隷する者有り、頗る軍民を擾す、霸昏耄、その罔らるる所と為り、真宗これを知る、故に是の召有り。

四年夏、耀州知事に徙す。霸は懦きと雖も、然れども能く謹直自ら持す。会に東封す、表して扈蹕を求む。既に疾を以て従う能わず、車駕還り衛南に次す、疾少しく間有り、行在に迎謁す。上その意を嘉し、久しく労問す。未だ幾ばくもあらざるに卒す、年七十五、太尉を贈る。

子に懷信・懷正・懷敏・懷煦有り。懷信は如京副使に至る。懷煦は、内殿承制。懷正は、博州団練使・滄・莫二州知事。

子 懷敏

懷敏は蔭を以て西頭供奉官を授かり、閤門祗候を加う。同提点益州路刑獄・襄鄧都巡検を歴任す。契丹に使い、隰・莫・保の三州を知り、累遷して東染院使・康州刺史・雄州知事に至り、就いて西上閤門使に遷す。『平燕策』を上る。会に歳旱し、塘水涸る、懷敏契丹の使至りてその広深を測知するを慮り、乃ち界河水を擁してこれを注ぎ、塘復た旧の如し。辺事に対し召され、また雄州に還り、萊州団練使に改む。濁流砦の兵叛き、官吏を殺し潰走す、懷敏兵を発し掩襲し、その党を尽く誅す。雄州に在ること五年、滄州に徙す。

懷敏は王徳用の妹婿なり、徳用貶せられ、また絳知滁州と為る。陝西兵を用う、起して涇原路馬歩軍副総管兼涇原秦鳳両路経略・安撫副使と為す。既に対入し、曹瑋嘗て被る所の介冑を以てこれを賜い、鄜延・環慶両路の存廃砦柵を制置せしむ。擢て龍神衛四廂都指揮・眉州防禦使・本路副都総管・涇原知事と為す。捧日天武四廂都指揮使・鄜延路副都総管に遷す。進みて殿前都虞候・延州知事と為る。范仲淹その猾懦にして兵を知らざるを言い、また涇原路兼招討・経略・安撫副使に徙す。

慶曆二年、元昊鎮戎軍を寇す、懷敏は瓦亭砦より出で、砦主都監許思純・環慶路都監劉賀・天聖砦主張貴、及び縁辺都巡検使向進・劉湛・趙瑜等を督し敵を禦ぐ。軍安辺砦に次す、芻秣を給する未だ絶えざるに、懷敏輒ち軍を離れ、夜開遠堡の北一里に至りて舍す。既にして鎮戎軍の西南より、また先ず従騎百余を引きて以て前に進む、承受趙正曰く「敵近し、軽く進むべからず」と。懷敏乃ち少しく止む。日暮れ養馬城に趨り、鎮戎軍知事曹英及び涇原路都監李知和王保王文・鎮戎軍都監李嶽・西路都巡検使趙璘等と会兵す。元昊軍を新壕の外に徙すを聞き、懷敏質明にこれを襲わんことを議し、乃ち諸将に命じ四路に分かれて定川砦に趣かしむ:劉湛・向進は西水口より出で、涇原路都監趙珣は蓮華堡より出で、曹英・李知和は劉璠堡より出で、懷敏は定西堡より出づ。知和と英は軍を督し夜発す。翌日、湛・進は趙福堡に次し、敵に遇い、戦い勝たず、向家峽に保つ、懷敏は珣・英及び鎮戎軍西路巡検李良臣・孟淵をしてこれを援けしむ。

俄かに報ずるに、敵は既に柵を抜き辺壕を越え、懐敏は保定川砦に入る。敵は板橋を毀ち、その帰路を断ち、別に二十四道を以て軍を過ぎ、之を環囲す。又た定川の水泉上流を絶ち、以て其の衆を饑渇せしむ。劉賀は蕃兵を率いて河西に門し、勝たず、余衆は潰去す。懐敏は中軍と為り塞門の東偏に屯し、英等は東北隅に陣す。敵は褊江・三・葉燮会より出で、四面之を環す。先ず鋭兵を以て中軍を衝くも動かず、回して英軍を撃つ。会して黒風東北より起こり、部伍相失い、陣遂に擾る。士卒は城堞に攀じ争いて入り、英は面に流矢を受け、壕中に仆す。懐敏の部兵之を見て亦奔駭す。懐敏は衆に蹂躙せられ幾くも死せんとし、輿に致して甕城に至り、久しうして乃ち蘇る。復た士を選び門橋に拠り、手刃を揮って城に入らんとする者を拒ぐ。趙珣等は騎軍を以て四合し敵を禦ぎ、敵衆稍く却くも、然れども大軍に闘志無し。珣馳せ入り、懐敏を勧めて軍中に還らしむ。

是の夕、敵は火を聚めて城の四隅を囲み、西北に臨みて呼びて曰く、「爾は総管庁の点陣図者に非ざるか。爾固より能く軍す、乃ち我が囲中に入る、今復た何れにか往かん」と。夜四鼓、懐敏は曹英・趙珣・李知和・王保・王文・許思純・劉賀・李良臣・趙瑜を召して計議すれども、出づる所を知る莫く、遂に陣を結びて鎮戎軍に走らんと謀る。鶏鳴、懐敏自ら諭して曰く、「親軍左右及び在後なる者は皆動くこと毋かれ。平明、吾に従いて安西堡に往かん。英・珣を以て先鋒と為し、賀・思純を以て左右翼と為し、知和を以て殿と為し、中軍の鼓を聴きて乃ち行くを得」と。卯時に至るも、鼓未だ作さず、懐敏先ず馬に上るも、大軍は按堵して未だ動かず。懐敏周麾すること再びし、将に径去せんとす。鞚を執る者有りて不可を勧むるも、懐敏已むを得ずして還る。参謀郭京等をして城中に芻を取らしむるも、未だ至らざるに、懐敏復た馬に上り、轡を執る者を叱して去らしめんとすれども聴かず、剣を抜きて且つ之を撃たんとす。士遂に散ず。懐敏は馬を駆って東南に馳すること二百里、長城壕に至るも、路已に断たれ、敵之を囲繞す。遂に諸将と皆遇害す。余軍九千四百余人、馬六百余匹、敵に断たるる所と為る。其の子宗晟は趙正・郭京・承受王昭明等と保定川に還る。

初め、懐敏は軍中に令して歩兵は動くこと毋からしむ。前陣の已に去るに及び、後軍多く知る者無し。故に皆存するを得たり。時に韓質・郝従政・胡息は兵六千を以て蓮華堡を保ち、劉湛・向進は兵一千を以て向家峽を保つ。皆赴援せず。ここに於いて敵は長駆して渭州に抵り、幅員六七百里、廬舎を焚蕩し、民畜を屠掠して去る。奏至るに、帝嗟悼すること久しく、懐敏に鎮戎軍節度使兼太尉を贈り、英・知和・珣・保・文・質・嶽・貴・璘・思純・良臣及び同時に戦没する者、及び涇原巡検楊遵・籠竿城巡検姚奭・涇原都巡検司監押董謙・同巡検唐斌・指使霍達に、皆官を贈ること差有り。復た向進等の官を降し、郝従政・趙瑜の職を落とす。

懐敏は時事に通じ、善く人情に候う。故に多く才を以て之を薦む。将と為るに用いらるるに及びて、軽率にして応変に昧く、遂に軍を覆すに至る。帝之を念い、諡して忠隠を賜う。子宗晟・宗寿・宗礼・宗師、皆官を遷す。

論ずるに曰く、真宗の澶淵の役、高瓊の功亦盛んなり。范廷召は年十八、能く手ずから父の仇を刃す。瓊は将に市に磔せられんとすれども、幸いに以て逃免す。葛霸は善く撃刺馬射し、藩邸に給事す。皆素より韜略を習うに非ざる者なり。其の身を戎行に出し、迭りに節鎮に居るに及びて、卓として観る可き有り。遇う所の其の時を得るに由るなり。或いは謂う、瓊は頗る自用し、謀議参佐に及ばずと。然れども軍政に洞曉す。霸は巽懦に失うと雖も、能く謹直自ら持す。廷召は性癖有りと雖も、軍中に在ること四十年、累ね征討に従い、至る所功有り。皆其の驍果たるを害せず。廷召の諸子、珪は最も賢なり。霸の子懐敏は戦死す。固に皆称するに足る。若し継宣・継勲の将業は、則ち其の父を過ぐること遠く甚だし。此れ「克勤敏功鍾慶之碑」の由って以て立つ所か。夫れ三子の自ら樹つること此の如くにして、狄青・郭逵と同日に論ぜられざるは、豈に拳勇の余り有りて、器識の足らざるに非ずや。