宋史

列傳第四十七 任中正 周起 程琳 姜遵 范雍 趙稹 任布 高若訥 孫沔

任中正

任中正、字は慶之、曹州済陰の人。父は載、右拾遺。中正は進士に及第し、池州推官となる。大理評事・邵州通判を歴任し、太府寺丞・濮州通判に改める。翰林学士銭若水の推薦により、秘書省著作佐郎・大名府通判に遷る。

転運使陳緯が陝西に転じる際、中正を挙げて自らの後任とした。太宗曰く、「朕自らこれを知る。」と。召されて秘書丞・江南転運副使となる。中正は躯幹頎長、帝は大笏を選び、内臣に命じて緋衣の長きものを取り賜う。任地に至り、歳は大いに稔り、民の租賦を納め、平糴も皆盈羨す。発運使王子輿は悉くこれを京師に送らんと欲す。中正曰く、「東南は歳に五百余万を輸す、而して江南の出す所は其の半を過ぐ。今歳余り有り、或いは歳少しく欠くれば則ち数登らず、患吾が民に及ばん。」と。乃ち止む。

監察御史・両浙転運使に擢る。民飢う。中正は詔を俟たず、官廩を発してこれを振る。晋州の盛梁の獄を按じ、法の如く論ず。殿中侍御史・判三司憑由司に遷る。既にして梁と善き者有り、密かに之を中る。出でて荊湖転運使となる。左司諫・直史館・知梓州に遷る。枢密直学士に擢り、張詠に代わりて益州を知る。郡に在ること五載、詠の条教に遵い、しょく人これを便とす。審刑院を知り、出でてへい州を知る。給事中・権知開封府に遷る。

大中祥符九年、尚書工部侍郎・枢密副使を拝す。馬知節が密院を知るに及び、同知院事に改む。明年、曹利用が枢密使となり、復た副使と為り、再び兵部侍郎・参知政事に進む。

仁宗東宮に在りし時、右丞を以て賓客を兼ぬ。工部尚書に遷る。帝既に即位し、乃ち兵部尚書を拝す。中正は素より丁謂と善し。謂将に貶せんとし、左右敢えて言う者莫し。中正独り謂を営救す。太子賓客・知鄆州に降る。中正の弟、尚書兵部員外郎・判三司塩鉄勾院中行、右正言中師、皆坐して貶せらる。頃之、母老ゆるを以て曹州に徙し、礼部尚書に遷る。卒す。尚書左僕射を贈られ、諡して康懿と曰う。

初め、中正の母、禁中に入謁し、陳彭年・王曾・張知白の妻と共に真宗に見ゆ。中正の母を班首と為すを命じ、且つ坐を賜う。中正は親に事うること孝なり、平居簡素なるも、飲食極めて豊美なり。

弟 中師

中師、字は祖聖、進士及第し、秘書省校書郎を試み、平陸県を知る。真宗将に汾陰を祀らんとし、陳堯叟に命じて河中府を判せしめ、以て祀事を経制せしむ。辟かれて箋奏を掌り、累遷して著作佐郎となり、千乗・襄邑県を知り歴任し、秘書丞に改む。張知白の推薦により、遂に右正言と為る。中正貶せらるるに及び、中師も亦た太常博士・宿州酒税監に降る。未だ幾ばくもあらず、応天府通判となる。

曹利用辟かれて群牧判官と為り、滑州知州に転じ、入りて開封府判官と為る。累遷して尚書度支郎中・直史館・知澶州となる。太常少卿・直昭文館を以て広州を知る。視事の明日、吏白して故事当に諸祠廟を謁すべしとす。而して廨に淫祠有り。中師遽かに命じて之を撤去せしむ。市舶使を兼ね、市舶に使を置くは此より始まる。

還りて諫議大夫・判尚書刑部と為る。集賢院学士を加えられ、再び澶州を知る。未だ行かず、龍図閣直学士に進み、并州を知り、便宜従事を許さる。枢密直学士に改め、益州を知る。是に先立ち、転運使韓瀆は利を籠むるに急にして、薪芻・蔬果の属より算有り。而して中師尽く奏して之を蠲つ。

康定中、任布河陽を守り、数上書して事を論ず。帝之を用いんと欲す。呂夷簡、中師の才は任布に下らざるを薦む。遂に並び召されて枢密副使と為る。明年、北京を建つ。中師に令して修建を領せしむ。給事中に進み、河東を宣撫す。行かず。郡を補わんことを求め、尚書礼部侍郎・資政殿学士を以て永興軍を知る。内徙を求め、陳州を知るを得る。

一年を逾え、上書して言う、「臣老ゆ。家本より曹の人、願わくは曹を守るを得ん。」と。遂に曹州知州を以てす。戸部侍郎に改む。明年、老を請う。太子少傅を拝して致仕し、少師に進む。卒す。太子太傅を贈られ、諡して安恵と曰う。中師は性楽易、平居自ら奉ずる甚だ儉約、晩年養生の術を知り、号して「大塊翁」と曰う。

周起

周起、字は萬卿、淄州鄒平の人なり。生まれながらにして頤が豊か、父の意は之を異とし、曰く「此の兒必ず吾が門を起すべし」と。因りて名を起とす。幼にして敏慧、成人の如し。意が衛州を知る時、事に坐して官を削らる。起纔に十三、京師に詣でて父の冤を訟ぐ。父乃ち故官に復するを得たり。進士に挙げられ、将作監丞・通判齊州を授かる。著作佐郎・直史館に擢てられ、累遷して戸部・度支判官となる。

真宗北征の時、随軍糧草事を領す。右正言知制誥を以て、権判吏部流内銓と為る。尋いで東京留守判官、判登聞鼓院と為る。泰山を封ずるに当たり、御史中丞・考制度副使を摂り、過ぐる所にて官吏の能否及び民の利病を采訪して以て聞こしめすことを得たり。東封より還り、近臣率ね功德を頌す。起独り居安を戒めと為す。金部員外郎・判集賢院に進む。

初めて糾察刑獄司を置くに当たり、因りて起を命ず。起乃ち請う、諸に已に決して事枉あるもの及び官吏理に非ざる榜掠する者有らば、並びに訴を受くるを聴かんと。之に従う。枢密直学士・権知開封府に擢てらる。起は聴断明審にして、挙げて留まる事無し。真宗嘗て臨幸して労を問う。起請うて曰く「陛下昔し此に龍潜せり。正寝を避け、西廡に居らんことを請う」と。詔して之に従い、其の堂を名づけて「継照」と曰う。

起嘗て殿中にて事を奏す。適に仁宗始めて生まる。帝曰く「卿朕の喜ぶを知るか。宜しく我が子有るを賀すべし」と。即ち禁中に入り、金銭を懐にして出で、探りて以て起に賜う。勾当三班院兼判登聞検院に改む。汾陰に従祀し、貿に権知河中府と為り、永興・天雄軍に徙る。至る所に風烈有り、数たび書を賜いて褒諭す。三たび遷りて右諫議大夫・知幷州と為る。給事中・同知枢密院事を拝す。礼部侍郎に進み、枢密副使と為る。嘗て寇準と共に同列の曹瑋が家に過ぎて酒を飲む。既にして客多く引き去る者有り。独り起と寇準は尽く酔い、夜漏上るに及びて乃ち帰る。明日入見し、咎を引いて伏して謝す。真宗笑いて曰く「天下事無く、大臣相与に酒を飲む、何の過ちか有らん」と。

起は素より寇準に善し。準将に貶せられんとす。起も亦た罷められて戸部郎中・知青州と為り、又た降って太常少卿・知光州と為る。稍く遷りて秘書監、揚・杭二州に徙り、又た応天府に徙る。復た礼部侍郎・判登聞鼓院と為る。疾を以て潁州を知ることを請い、陳州・汝州に徙る。卒す。礼部尚書を贈られ、諡して安恵と曰う。

起は性周密にして、凡そ事を奏し及び禁中の語に答うるに、随って直ちに草を焚く。故に其の言、外人知る者無し。家に蔵する書万餘巻に至る。起は能く書す。弟の超も亦た能く書す。古今人の書並びに更めし体法を集め、『書苑』十巻と為す。累官して主客郎中に至る。起の子、延荷は孝友を以て聞こえ、官は殿中丞。延雋は頗る雅厚にして、官は太常少卿。

程琳

程琳、字は天球、永寧軍博野の人なり。服勤辞学科に挙げられ、泰寧軍節度推官を補う。秘書省著作佐郎・知寿陽県に改め、左蔵庫を監す。召し試みられ、直集賢院と為る。太常博士・権三司戸部判官、契丹館伴使に改む。契丹の使者琳に謂いて曰く「先皇帝嘗て承天に使を通ぜしも、太后独り使無し、何ぞや」と。琳曰く「南北は兄弟なり。先皇帝は承天を従母の如く視る、故に嫌無し。今の皇太后は乃ち嫂なり、礼として問を通ぜず」と。契丹の使者語屈す。後に『真宗実録』を修す。而して大中祥符以来の起居注闕く。琳追述して之を上す。遂に起居注を修め、在京諸司庫務を提挙し、知制誥・判吏部流内銓と為る。

権三司使范雍、契丹に使す。琳を命じて三司使を発遣せしむ。太倉の軍を贍う粟陳腐して食すべからず。歳将に饑えんとす。琳尽く発して以て民に貸す。凡そ六十万斛。饑民之に頼りて全活し、而して軍は善粟を得たり。塩鉄官の任布、大銭を鋳造し一を以て十に当つることを請う。度支判官の許申、銅鉄を雑えて鋳ることを以て請う。其の議を下す。琳曰く「第五琦大銭を用うるも、法卒に行わる可からず。申に令して之を試みしめんことを乞う」と。鋳造卒に就かず。

契丹、蕭蘊・杜防を遣わして来る。蘊位を出でて図を示し琳に曰く「中国の使者は殿上の高位に坐す。今我が位は乃ち下り、之を升さんことを請う」と。琳曰く「此れ真宗の定むる所、易うべからず」と。防曰く「大国の卿は以て小国の君に当つべし」と。琳曰く「南北は両朝と雖も、小大の異無し。卿嘗て我が殿上に坐す。我顧みて小国ならんや」と。防以て対する無し。宰相将に之を許さんとす。琳曰く「其の小を許せば必ず其の大を啓かん」と。

右諫議大夫を以て権御史中丞と為る。宰相張知白尤も之を器とす。除命に当たり喜びて曰く「吾が筆を辱しめず」と。時に歳饑う。上疏して諸の土木営造を罷め、災を被れる郡県の租賦を蠲さんことを請う。枢密直学士・知益州に改む。上元に灯を張る。州人夜に聚り遊嬉す。琳戒めて曰く「火有らば則ち随って之を救え。白する毋れ」と。已にして果たして火有り。終宴するまで人知る者無し。或る者振武軍の変を告ぐ。琳曰く「軍中の動静は我自ら之を知る。苟くも謀有らば、告ぐを待たず」と。

給事中・権知開封府に遷る。王蒙正の子斉雄、老卒を捶ちて死なしむ。妻子に貸して病を以て告げしむ。琳其の色辞の異なるを察し、有司をして験せしめて捶死の状を得しむ。蒙正は章献太后の家に姻を連ぬ。太后琳に謂いて曰く「斉雄は人を殺す者に非ず。乃ち其の奴嘗て之を捶てり」と。琳曰く「奴に自ら専らにする理無く、且つ令するは己が犯すと同じ」と。太后嘿然たり。遂に法の如く論ず。外戚の呉氏其の夫を離れて其の女を挈きて帰る。夫府に訴う。琳命じて女を還す。呉氏曰く「已に宮中に納れり」と。琳帝に請いて曰く「臣天下の人陛下が人の妻女を奪うと窃に議する者有らんことを恐る」と。帝亟に命じて之を出ださしむ。笞して其の妻を帰す。

工部侍郎・龍図閣学士に遷り、復た御史中丞と為る。拝せず。翰林侍読学士兼龍図閣学士を以て再び開封府を知る。三司使に改む。出納尤も謹み、禁中に取る所有らば、輒ち奏して之を罷む。内侍琳の専なるを言う。琳曰く「三司の財賦は皆朝廷の有する所なり。臣陛下の為に惜しむ。臣に於いて何か有らん」と。帝之を然りとす。或る者天下の農田税物の名を併せんことを請う。琳曰く「合して一と為し、勾校に易きは可なり。後に利を興すの臣有りて、復た旧名を用いて之を増さば、是れ民を重ねて困しむるなり。已む時無からん」と。再び吏部侍郎に遷り、遂に参知政事と為り、尚書左丞に遷る。

時に元昊反す。猶も使を遣わして来朝す。衆請うて按じて之を誅せんとす。琳曰く「使を遣わすは常事なり。之を殺すは祥ならず」と。後使者益々驕横なり。大臣之を患う。琳曰く「始め殺さざるは罪無きなり。今既に驕横なれば、其の悪を暴して之を誅すは国法なり。又何ぞ患えんや」と。又た議して重く唃廝囉に賂して賊を討たしめ、地を得れば即ち之に与えんとす。琳曰く「唃廝囉をして地を得しむるは是れ復た一元昊を生ずるなり。間を用いて二羌の勢を合わざらしむるに若かず。中国の利なり」と。

故枢密副使張遜の邸宅は武成坊にあり、その曾孫の偕はわずか七歳、宗室の女子の子であるが、貧しく自らを養えなかった。乳母が勝手に証文を出して邸宅を売ろうとしたので、琳はこれを手に入れようとし、開封府の役人に密かに乳母を諭させ、偕が幼いので、御璽の許可を得て売却すべきであると言わせた。乳母は宗室の女子の縁故で、宮中に入り章恵太后に会った。御璽を得た後、琳はこれを買い取った。また役人に材木を買わせ、婦女を買わせた。やがて役人が贓物で捕らえられ、御史が取り調べて実状を得たため、光禄卿に降格され、潁州知州となった。

まもなく、戸部侍郎となり、間もなく再び吏部侍郎となり、天雄軍知軍となった。また左丞として資政殿学士となった。天雄軍を北京として建てる際、内侍の皇甫継明が宮室の営造を主管し、壮大にして賞を得ようとした。琳は辺境の有事に際し、さらに土木工事で民を困らせることはできないと考えた。やがて継明がたびたび上奏したので、帝は御史の魚周詢を派遣して視察させ、ついに継明を罷免し、琳に単独で主管させた。工部尚書に昇進し、大学士・河北安撫使を加えられた。武昌軍節度使に改められ、永興軍知軍・陝西安撫使となった。宣徽北院使として延州を判り、引き続き陝西安撫使となった。

元昊が死に、諒祚が立ち、まだ幼く、三大将がその国を分治した。議論する者はこの時機に、節度使の官位で三将を誘い、それぞれに領分を与えてその勢力を弱め、戦わずして屈服させることができると言った。琳は言った、「人の喪に乗ずるのは、遠人を懐柔する道ではなく、むしろこれに乗じて慰撫すべきである。」議論する者は機会を失ったことを惜しんだ。

やがて使者を派遣して冊命を行うと、夏人はちょうど慶陽を包囲していた。琳は言った、「彼らがこれを欲しがれば、慶州の難を緩和できるであろう。」礼と賜与の品目の数を整えて通報すると、果たして喜び、即日に冊使を迎え、慶陽の包囲も解かれた。かつて戎の首領を捕らえたが、殺さずに戒めて帰したので、夏人も互いに漢民を捕らえるなと告げた。久しくして、五百戸が牛羊を追って辺境に来て降伏を請い、かつ「契丹の兵が衙頭に至り、国中が乱れ、自ら帰順したい」と言った。琳は言った、「彼らは偽りである。契丹が帳下に至れば、挙国してこれを取るはずで、どうして降伏して来る者があろうか。聞くところでは夏人がちょうど反逆者を捕らえているという、これがそれであろうか。そうでなければ、我々を誘い出すのである。」受け入れなかった。やがて賊は果たして騎兵三万を率いて国境に臨み、降伏者を捕らえることを口実とした。琳は間者でこれを知り、城門を閉ざし旗を倒し、諸将に動くなと戒めたので、賊は備えがあると疑い、ついに引き上げた。

同中書門下平章事・大名府判に任ぜられた。琳は重厚で騒がず、前後十年にわたり魏を守り、要害を測り、壁塁を修繕し、守備の備えを増した。雑木を数万本植え、「いずれ楼櫓の材料は、民から出さなくても済むであろう」と言った。人々は彼を愛し、生前に祠を建てた。武勝軍に改められ、また鎮安軍節度使に転じた。上書して言った、「臣は老いてはいるが、なお国境を守ることができる。」返答がないうちに、病気を得て死去した。中書令を追贈され、文簡と諡された。

琳は人となり敏捷で厳格、政事に長け、議論をひとたび出すと、人に譲ろうとしなかった。しかし性分として財に吝嗇で、自らの養生には厚くした。章献太后の時、かつて『武后臨朝図』を献上したので、人々はこれをもって彼を軽んじた。

姜遵

姜遵、字は従式、淄州長山の人。進士に及第し、蓬莱尉となり、登州司理参軍に辟召され、開封府右軍巡判官となった。疑わしい獄事があり、死罪に処せられようとしていたが、遵は弁明してこれを救い出した。太常博士に昇進し、王曾に推薦されて監察御史、殿中侍御史、開封府判官となった。吉州知州の高恵連は遵と不和があり、遵が廬陵にいた時の贓罪を発覚させたが、取り調べて証拠がなく、なお通判延州に降格された。再び入朝して侍御史・判戸部勾院となった。利州路が飢饉となったので、遵を体量安撫使とし、邢州知州に昇進した。

仁宗が即位すると、滑州に転じ、京東転運使となり、京西に転じた。まもなく、刑部郎中兼侍御史知雑事となった。三司と開封府が毎日賓客に接して政事を廃する、と建言し、詔によって禁止された。三司副使を歴任し、再び右諫議大夫・知永興軍に昇進した。咸陽の富民元氏の歳貢の梨を廃止するよう上奏した。召されて枢密副使に任ぜられ、給事中に昇進し、死去した。吏部侍郎を追贈された。

遵は吏事に長け、治めるときは厳猛を尊び、誅殺・残害した者は甚だ多かった。永興にいた時、太后がかつて浮屠の建立を詔したが、遵は漢・唐の碑碣を壊して煉瓦の代わりにし、完成すると、召し出されて任用された。

范雍

范雍、字は伯純、代々太原に住んだ。曾祖父の仁恕は蜀に仕えて宰相となった。祖父の従亀は刑部侍郎となり、朝廷に入り、右屯衛将軍に改められ、後に河南に葬られたので、ついに河南の人となった。雍は進士に及第し、洛陽らくよう県主簿となった。累官して殿中丞・端州知州となった。太常博士に昇進した。寇準が辟召して河南通判とし、還朝して三司開拆司を判った。黄河が滑州で決壊したので、選ばれて京東転運副使となった。河北・陝西転運使を歴任し、入朝して三司戸部副使となり、また度支副使に転じた。尚書工部郎中として龍図閣待制・陝西都転運使となった。還朝して諸司庫務を提挙し、三班院を勾当した。

環州・原州の属羌が辺境をかき乱したので、雍を安撫使とした。建言して言った、「属羌で罪により羊を罰せられる者は、以前は銭を納めていたが、近年は羊を出すよう求められ、羌人は甚だ憂えとしている。旧例のように銭を納めさせ、罪の軽い者は漢法により贖金とすべきである。」従われた。右諫議大夫・権三司使に昇進した。

雍が京東にいた時、滑州の水害を平定した。功労により龍図閣直学士を加えられた。翌年、枢密副使に任ぜられた。母の喪に服したが、起復し、給事中に昇進した。玉清昭応宮が火災に遭い、章献太后は大臣に対し泣いて言った、「先帝は力を尽くしてこの宮を成し、一晩で燃え広がってほとんど尽き、ただ一二の小殿が残るのみである。」雍は抗言して言った、「むしろすべて焼き払うのがよい。先朝はこれに天下の力を尽くし、急に灰燼かいじんとなったのは、人の意に出ずるものではない。もし残っているものによって、またこれを修繕すれば、民は命に堪えず、天戒を畏れる道ではない。」時に王曾もまたこれを止めたので、ついに修繕しないよう詔された。尚書礼部侍郎に昇進した。

太后が崩御すると、罷免されて戸部侍郎・陝州知州となり、永興軍知軍に改められた。この年は飢饉と疫病が起こり、関中が最も甚だしく、雍は救済した。病気のため、近い州を請い、ついに河陽知州となった。吏部侍郎に進み、応天府に転じ、また河南府に改められ、資政殿学士に進んだ。辺境防備の六事を上陳し、また天雄軍に甲兵を集めて河北に備え、永興軍・河中府でさらに土兵を募って陝西に備え、もし涇原・環慶に警報があれば、河中府がこれを救援するよう請うた。

やがて元昊が反乱を起こすと、振武軍節度使・延州知州に任ぜられた。そこで上奏して言うには、「延州は最も賊の衝に当たり、土地が広くて砦柵が疎らであり、近いもので百里、遠いものは二百里もあり、土兵は寡弱で、また宿将も用いるに足らず、しかるに賊はここを出入りする。兵を増やすことを請う」と。返答はなかった。元昊は先に人を遣わして趙雍に和睦を申し入れた。趙雍はこれを信じ、防備をしなかった。ある日、数万の兵を率いて金明砦を破り、勝ちに乗じて城下に至った。時に大将石元孫が兵を率いて境外に出ており、城を守る者はわずか数百人であった。趙雍は慶州の劉平を召し寄せた。劉平は師を率いて来援し、石元孫の兵と合流して賊と三川口で夜戦し、大敗した。劉平・石元孫はともに賊に捕らえられた。趙雍は城門を閉じて堅く守った。時に夜になって大雪が降り、賊は解囲して去ったので、城は陥落を免れた。左遷されて戸部侍郎・安州知州となった。一年ほどして、再び吏部侍郎・河中府知府となった。

また資政殿学士・永興軍知軍兼転運司事となり、尚書左丞に遷り、大学士を加えられた。初め、永興城の修築を完成させたが、ある者がその不便を言上したため、詔でその工事を止めさせた。趙雍は詔を隠して急ぎ完成させた。翌年、賊が定川を侵犯し、邠・岐の間は皆恐れたが、永興だけは寇を憂えなかった。再び河南府に移り、また礼部尚書に遷り、卒した。太子太師を追贈され、諡は忠献といった。

趙雍は政治を行うのに寛恕を尊び、謀を好んだが成就することは少なかった。陝西において、かつて商・虢に監を置いて鉄銭を鋳造することを請うたが、後に行えなくなった。また諸路の牛を徴発して営田を興そうとしたが、これもまた廃された。人を知ることに長け、士を推薦することを喜び、後に公卿に至る者が多かった。狄青が小校であった時、法に坐して斬に当たったが、趙雍はこれを赦した。

子の宗傑は、兵部員外郎・直史館となり、陝西転運使を歴任し、趙雍に先立って卒した。宗傑の子は子奇である。

孫 子奇

子奇は字を中済といい、祖父趙雍の蔭により階を授かり、幷州判官に簽書した。唐介の推薦により、神宗が対面を賜い、在京倉の修築を提挙した。三司使もまた推薦し、営繕を査察覆勘したところ、工匠の吏が積もって欺瞞をなしていたため、罪を恐れて流言飛語を造り彼を離間した。神宗は大宦官張茂則を遣わしてその私心なきを察し、労って言った、「吏たる者はかくあるべきで、人の言を気にすることなかれ」と。戸部判官を授かり、湖南転運副使となった。建議して言うには、「梅山蛮は険を恃んで辺患となっている。これを拓取すべきである」と。後に章惇が五溪を開いたが、議はここから起こった。

入朝して将作監を判じた。遼に使し、先導者が道を迂遠に改めた。子奇はこれに言った、「ここから雲中へは直道があり、十日で至ることができる。なぜこの道を出るのか」と。先導者はまた子奇を館門の外で下馬させようとした。子奇は言った、「以前は中門で下馬した。今なぜ勝手に変えるのか」と。先導者は計窮した。河東・陝西・河北・京東四路転運使を歴任し、工部・左司の二郎中となり、直龍図閣を加えられ、河北に使した。諸郡はなお塩を専売していたが、上奏してこれを罷めた。

元祐初め、将作監・司農卿となり、再び陝西に使し、病により解任された。起用されて鄭州知州となり、集賢殿修撰を加えられ、河陽知府となった。召されて権戸部侍郎となった。酒戸の苛酷な禁令及び奴婢が主人を告発して賞を与える法を削除した。間もなく、出て慶州知州となり、蓄積を広め、城柵を修繕し、守備を厳しくし、狡猾な羌を羈縻し、誠意を推して下に接したので、人は喜んで用いられた。入朝して吏部侍郎となり、待制のまま致仕し、卒した。年六十三。子は趙坦である。

曾孫 坦

坦は字を伯履といい、父の蔭により開封府推官・金部員外郎・大理少卿となり、左司員外郎に改めた。夏国使を押伴し、応対が旨に合ったので、進士第を賜り、権起居舎人となった。遼に使し、復命して、詳細な語録を献上した。徽宗はこれを見て善しとし、鴻臚に付し、以後奉使者にこれを式とすべしと命じた。殿中監に遷り、開封府知府となり、再び遼に使することを命じられた。時に辺境の議論が起こり、時に非ずして使を遣わして隙を窺おうとしたが、趙坦は禍を始めるべきでないとして、その行を辞した。徽宗は怒り、舒州団練副使に責められたが、やがて集賢殿修撰に復し、江寧府・洪揚二州の知府となった。

召されて戸部侍郎となり、当十銭及び夾錫銭の弊害を論じた。親を便ずるため外任を請い、河陽知府となった。入朝して辞する際、徽宗は言った、「夾錫銭の害は当十銭より甚だしい。速やかにこれを正し、一道の模範とせよ」と。趙坦が到着すると、即座に上奏してこれを罷めた。政和初め、再び戸部となり、遂に当十銭を当三銭に改めた。淮塩が東北に入ることを罷め、諸州の公田を売却して常平を充実させた。また上疏して言った、「戸部の歳入は有限であるが、用いるときは無限である。今、節度使八十員、留後から刺史に至るまで数千員おり、軍功によって得たのでなければ、その半俸を減ずべきである。及び他の工技末作は一切削減すべきである」と。時に当を得ているとされた。

時に張商英が宰相であったが、趙坦は多くこれと合致した。張商英が去ると、言事者が趙坦が財用枯渇の説を助け、衆聴を動揺させたと論じ、また趙坦が田を売却し、常平法を改め、元符の令を廃し、夾錫銭を罷めた罪を建議したと論じ、黄州団練副使に貶され、韶州に安置された。赦により、徽猷閣待制に復し、卒した。年六十二。

趙稹

趙稹は字を表微という。その先祖は単父の人であったが、後に宣城に移った。人となり誠実質朴で寛厚であり、若くして学を好んだ。呉の太府卿田霖が郡中に退居し、風鑒の名があったので、娘を趙稹に嫁がせた。進士第に擢でられ、平定軍判官・台州推官を歴任した。大理寺丞に改め、昆山県知県となり、楚州通判となった。殿中丞に遷り、通州知州となった。召還されて同判宗正寺となり、枢密直学士李浚が推薦して監察御史とし、再遷して侍御史・判登聞鼓院・開封府判官となり、三司開拆・憑由司に移った。帝が汾陰を祀った時、留守推官となった。

尚書兵部員外郎・益州路転運使に遷った。真宗は諭して言った、「蜀は遠くしてしばしば乱がある。その利害は朕の聞きたいところである。卿が至ったら、悉く条上せよ。ただ常奏に附するだけで、姓名を著すな」と。趙稹が到着すると、しばしば部中の事を言上し、一日に数度上奏することもあった。蒲江県が劫盗を捕らえられず、反って平民を逮捕拘束し、拷打して誣服させた。趙稹がちょうど部内を巡行し、その冤罪を疑い、馳せて県の獄に入り、事情を問いて得て、悉くこれを放免した。工部郎中に遷った。

召されて侍御史知雑事となり、同判吏部流内銓を兼ね、在京刑獄を糾察した。慎従吉が開封府知府となった時、その子の鈞と鋭が賄賂を受け取り、事は銭惟演に連座した。稹は王曾と共にその奸状を上奏し、従吉は罪に坐して免官となり、惟演もまた罷免されて去った。

三司塩鉄副使に改められ、右諫議大夫・集賢院学士・益州知州に抜擢された。度支が錦六千匹を購入しようとした時、工匠を召して計算させると年間千余匹しか織れず、ただその年に織れる数を上供した。久しくして、ある者が稹は民情に通ぜず、尊大を好むと上言したため、同州知州に降格され、鳳翔府・京兆府に転任し、三度転じて工部侍郎となり、再び在京刑獄を糾察した。枢密直学士を加えられて幷州知州となり、代わって帰還すると、刑部侍郎に昇進した。

天聖八年、枢密副使に抜擢され、吏部侍郎に昇進した。当時、権力は宮中(后妃側)から出ており、稹は劉美人の家の婢に厚く取り入ったため、政府(枢密院)の地位に至った。任命がまだ出されないうちに、人が馳せて稹に告げると、稹は「東頭か?西頭か?」と問うた。これは中書(政事堂)を意味していたのである。聞いた者は皆これを笑いとした。章献太后が崩御すると、尚書左丞・河中府知府に左遷され、礼部尚書に転じた。病に伏せると、骸骨を乞い、太子少傅として致仕した。卒すると、太子太保を追贈され、諡は僖質といった。

任布

任布は、字を応之といい、河南の人である。後唐の宰相任圜の四世の孫である。学問に励み、家は貧しく、かつて人から書物を借りて読んだ。進士に及第し、安粛軍判官に補され、すぐに契丹の内情を探り問い、上疏して辺境の守備を整えるよう請い、さらに河北の利害を奏上した。後に契丹が澶淵に至った時、真宗はその名を知り、特に大理寺丞・安陽県知県に改めた。嘉州通判となり、帰還して開封府司録事、大名府通判を歴任した。初めて提点刑獄が設置されると、任布が選ばれて荊湖南路を管轄した。

入朝して権三司塩鉄判官となり、判度支勾院を兼ねた。京城の東南に泉が湧き出し、祥源観が築かれると、男女が裸足で奔走して拝み見た。任布はこれを論じて言った。「聖明の朝は神怪をもって愚俗を眩惑すべきではない。」これにより宰相の意に逆らった。また徐奭・麻温其と共に開封府の進士を試験したが、徐奭が密かに封を開いて答案を見た。鄧州税監に降格され、宿州知州に転任した。

当時越州の長官が欠員となり、寇準が言った。「越州には職分田があり、歳入が豊かである。今、争う者が多いので、廉潔な士でなければ与えることはできない。」そこで任布を越州に転任させた。ある祖父が孫を訴えて「酒に酔って私を罵った」と言ったが、後に後悔し、庭で毎日泣いて言った。「私は老いて子がおらず、この孫を頼りに命をつないでいるのだ。」任布はこれを聞き、その死罪を赦し、上書して自らを弾劾したが、朝廷もまた彼を責めなかった。

寇準が貶謫されると、任布もまた建州に転任し、累進して尚書職方員外郎となった。丁謂が追放されると、次第に任用されて白波発運使となった。一年余りして、三司開拆司を判じ、出向して梓州路転運使となった。富順監の塩井は、歳月が経って鹵(塩分)が薄くなったが課税はそのままであり、主管者は破産に至り、あるいは子孫を売っても償えない者がいた。任布はこれを免除するよう上奏した。祠部郎中・権戸部判官に昇進し、江・淮制置発運使に抜擢された。前任の使者は多く山海の珍異の物を集めて権力者に贈ったが、任布は一切これを廃止した。

召されて三司度支副使となり、契丹に奉使した。帰還し、直史館を加えられて荊南知府となった。塩鉄副使として、契丹使の管伴を命じられた。兵部・刑部郎中を歴任し、右諫議大夫・真定府知府に任じられた。ある者が河北の兵を削減しようとしたが、任布は言った。「契丹・西夏がまさに中国を窺っているのであり、守備を緩めることはできない。」甬道を築いて滹沱河に連ね、泥濘を跨いで遮断した。滑州に転任し、天雄軍に改めた。給事中・集賢院学士・許州知州に昇進した。間もなく、龍図閣直学士となり、澶州に転任した。黄徳和が劉平が賊に降ったと誣告し、劉平の家族を捕らえようとしたが、任布は劉平が降った者ではないと力説した。再び真定に転任し、また河南府に転任したが、着任前に召されて枢密副使となった。

任布は純朴で質素な生活を守り、政務を執ってからも、特に建樹はなかった。子の任遜がかつて上書し、大臣及び任布を皆不才であると誹謗した。御史の魚周詢はこれにより上疏して言った。「任布が不才であることは、その子がよく知っている。」そこで尚書工部侍郎として罷免され河陽知府となった。議論する者は、周詢が遜の言葉を引き用いてその父を追放したことを、体(道理)を知らないとした。蔡州に転任し、太子少保で致仕し、少傅に進んだ。皇祐年間、詔により明堂の陪祀を命じられたが、病気と称して赴かなかった。一子に進士出身を賜り、少師に進んだ。

初め、任布が洛中に帰った時、「五知堂」を作り、恩を知り、道を知り、命を知り、足るを知り、幸いを知ることを説いた。卒すると、太子太傅を追贈され、諡は恭恵といった。子の任達は、性格もまた恬淡で遠大を好み、仏教の学問を尊び、歴官して司封郎中となった。

高若訥

高若訥は、字を敏之といい、本来は幷州榆次県の人であったが、衛州に移り住んだ。進士に及第し、彰徳軍節度推官に補され、秘書省著作佐郎に改められ、再び太常博士・商河県知県に昇進した。県には職分田があったが、牛と種子は全て民から借りており、若訥だけは耕作を廃止した。

御史知雑の楊偕が推薦して監察御史裏行とし、尚書主客員外郎・殿中侍御史裏行に昇進した。左司諫・同管勾国子監に改められ、起居舎人・知諫院に昇進した。当時、范仲淹が時事を論じた罪で職を奪われ睦州知州となると、余靖・尹洙が仲淹を救おうと論じ、相次いで貶斥された。欧陽修はそこで書簡を送って若訥を責めて言った。「仲淹は剛直で正しく、古今に通じ、朝臣の中に比類がない。無実の罪で追放されたのに、君が諫官でありながら弁明できず、なおも面目をもって士大夫に会い、朝廷に出入りするとは、これぞまさに人間に羞恥の事があるのを知らないということだ!今より後、決して君が君子ではないと知った。」若訥は憤慨し、その書簡を上奏したため、欧陽修は夷陵県令に貶謫された。間もなく、直史館を加えられ、刑部員外郎兼侍御史知雑事となった。

王蒙正が蔡州知州となろうとした時、若訥は言った。「蒙正は行商人から身を起こし、縁故によって戚里(外戚)から官を得た。以前に郴州に転任した時も、世論はなおも不満であった。今、大州を与えるのは、よろしいか。」詔によりその任命は留保された。大慶殿に祈福の道場が設けられると、若訥は上奏して言った。「大慶殿は礼を行わなければ用いず、法服でなければ座らず、国の正殿である。どうして老・釈(道士・僧侶)を集めて瀆慢とすることができようか。」閻文応が入内都知となると、若訥はその横暴で法に従わないことを言い、出させるよう請うた。そこで文応は相州兵馬鈐轄に出された。また上奏して言った。三公は座って道を論ずるものである。今、二府(中書・枢密院)の対面はわずか数刻である。どうして万機を尽くすことができようか。座を賜って従容とすべきであり、唐の延英殿の故事のようである。

天章閣待制に抜擢され、永興軍の知事となり、留まって吏部流内銓を判じ、出て河東路都轉運使となった。召還されて、侍讀を兼ね、尚書刑部を權判した。母の喪に服し、初めて服喪が許され、実俸が喪終わるまで給された。喪が明けて、龍圖閣直學士・史館修撰を加えられ、右諫議大夫をもって權御史中丞となった。時に宰相賈昌朝と參知政事吳育がしばしば帝の前で事を争った。翌年の春、大旱があり、帝がその原因を問うと、若訥は言った、「陰陽が和せず、責は宰相にあり。《洪範》に、大臣が肅しからざれば、雨時に若かずとある。」ここにおいて昌朝及び育は皆罷免され、若訥は遂に育に代わって樞密副使となった。

王則が貝州を占拠し、これを討ったが、一月を過ぎても陥落しなかった。或いは降伏を勧める議論があったが、若訥は言った、「河朔は重兵の蓄積する所、今これを討たずに放っておけば、後々乱の端を開くことになろう。」城が破られると、知州張得一は御史臺に送られて弾劾・処分を受け、賊に臣従した様子があった。朝廷は死罪を赦そうと議したが、若訥は言った、「守臣が死なず、自ら誅されるべきなのに、まして賊に屈服したとなれば。」得一は遂に棄市に処せられた。

工部侍郎・參知政事をもって樞密使となった。内降の恩命は、若訥が多く覆奏して施行させなかった。入内都知王守忠が節度使を得ようとしたが、固執して不可とした。若訥は畏れ慎んで過ちが少なかったが、前駆の騶が路人を駆り立ててついに死に至らしめ、御史がこれを弾劾した。皇祐五年、観文殿學士兼翰林侍讀學士・尚書左丞・同群牧制置使・判尚書都省に罷められ、ただ命じて舍人に詞を草させた。卒し、右僕射を贈られ、諡して文莊といった。

若訥は学に強く記憶がよく、秦・漢以来の諸伝記に通じないものはなく、特に申不害・韓非・管子の書を好み、暦学にかなり明るかった。母の病いにより、医書にも兼ね通じ、国医といえども皆屈服した。張仲景の『傷寒論訣』、孫思邈の『方書』及び『外台秘要』は久しく伝わらなかったが、悉く校勘して誤謬を正し施行したので、世は初めてこれらの書があることを知った。名医は多く衛州から出たが、皆高氏の学を本としていた。

皇祐年間、詔して累黍によって尺を定めて鐘律を製したが、論争が連年決しなかった。若訥は漢の貨泉をもって一寸を度り、『隋書』に依って尺十五種を定めて上進した。併せて祠祭の服器を損益し、悉く施行された。文集二十巻がある。

孫沔

孫沔、字は元規、越州會稽の人である。進士に及第し、趙州司理參軍に補せられた。跌蕩として自ら放縦し、士節を守らなかったが、材幹猛鋭は人に過ぎた。後に秘書丞をもって監察御史裏行となった。

景祐元年、礼院が冬至の日に皇后を冊立するよう奏上したが、沔は奏して言った、「喪が祥禫を経ずして嘉礼を行うのは、制度に非ざるなり。」同安県尉李安世が上書して朝政を指摘したが、弾劾され、沔は奏して言った、「安世に罪を加えれば、天下の言う者を杜塞する恐れあり、治めないよう請う。」衡山県知事に貶黜された。道中で上書して時事を言い、再び永州監酒に貶められた。潭州通判・処州知事に移った。再び監察御史となり、再び楚州知事となった。所在する所皆よく能績を著した。召されて左正言となり、事を論ずるに益々直名があった。尚書工部員外郎に遷り、兩浙刑獄を提挙し、遂に起居舍人をもって陝西轉運使となった。

時に宰相呂夷簡が罷免を求め、仁宗は優詔して許さなかった。沔が上書して言った、「夷簡が国政を執って以来、忠言を退け、直道を廃し、使相として許昌に出鎮するに及んで、乃ち王隨・陳堯叟を推薦して己に代えさせた。才庸にして重きを負い、謀議協わず、中堂で忿争し、多士の笑いを取って、政事は漸く廃れた。また張士遜を台席の冠とし、士遜は元より遠識に乏しく、国事を隳すに至った。夷簡は賢を進めて社稷の遠図とせず、ただ己に及ばぬ者を引いて自らを固める計らいとし、陛下に輔相の位は己でなければならぬことを知らしめ、再び己を思い出して召用されることを冀ったのである。陛下は果たして夷簡を召還し、大名より入朝して朝政を執らせ、ここに三年、一事も改めず。姑息を以て安とし、謗を避けるを以て智とした。西州の将帥は累ねて敗報を聞かせ、契丹は飽くことなく、これに乗じて賂を求めた。兵は殲え貨は悖り、天下は空竭し、刺史牧守、十に一を得ず。法令は変易し、士民は怨嗟し、隆盛の基、忽ちここに至った。今夷簡は病を以て退を求め、陛下は手ずから御薬を和し、親しく徳音を書き、乃ち『卿の疾を朕が身に移すことを恨む』と言われた。四方の義士、詔の言葉を伝え聞き、涙を流す者あり。夷簡は中書に二十年、三たび輔相の冠たり、言うところ聴かれざるなく、請うところ行われざるなく、有宋において君を得たる者は、一人のみ、何を以て陛下に報いんとするか知らざるなり。天下皆賢と称して陛下用いざる者は、左右これを毀るなり。皆憸邪と謂いて陛下知らざる者は、朋党これを蔽うなり。近ごろ契丹は再び盟し、西夏は塞に款き、公卿忻忻として、日々和平を望む。もしこれによって紀綱を振い、廃墜を修め、賢を選び能に任じ、用を節し兵を養えば、則ち景德・祥符の風、今に復見えん。もし恬然として顧みず、遂に以て安しと為せば、臣は土崩瓦解して復た救うべからざるを恐る。而して夷簡は四方既に寧んじ、百度既に正しと意謂し、病に因って黙黙として去らんと欲し、一言も上心を啓沃し、賢不肖を別白せず、南山の竹を尽くすも、その罪を書くに足らざるべし。」

上書が聞き届けられ、帝はこれを罪とせず、議者はその謇切を喜んだ。二ヶ月居て、天章閣待制をもって都轉運使となり、また礼部郎中に遷り、環慶路都總管・安撫經略使・慶州知事となった。元昊が死ぬと、諸将はその隙に乗じ、大挙してこれを滅ぼそうとした。沔は言った、「危に乗じて喪を伐つは、中国の体に非ざるなり。」三司の給する特支は、物が悪くて評価が高く、軍士に不平の言葉があり、優人が芝居の中でこれに及んだ。沔は言った、「これは朝廷の特賜、どうして妄りに言って衆を動かすことを敢えてするか。」命じてこれを斬って示しめした。将佐が争って言った、「これはただの芝居です、深く罪するに足りません。」沔は徐に呼び戻し、脊杖を加えて嶺南に配流し、これに謂って言った、「汝は芝居を頼みて我が前にあれば、即ち私議して衆を動かし、汝は必ず死に、告げる者は超遷するであろう。」翌日、特支を給するに、士卒に敢えて歓声を上げる者無し。

陝州知事・河東都轉運使を歴任し、また慶州知事となり、戦死した者の遺骸を集めて葬り祭り、軍中は感泣した。合わせて三度慶州を知り、辺人はその能を服した。龍圖閣直學士に遷り、また樞密直學士・成都府知事に遷ったが、未だ到着せず、母の喪により罷免された。喪が明けて、陝西都轉運使となった。明州知事を求めたが、時に京東に盗賊多く、乃ち徐州知事となり、賞を明らかに購い、誅罰を厳しくし、盗賊は遂に止んだ。

秦州に移されたが、時に儂智高が反乱を起こし、沔が入朝して謁見すると、帝は秦州のことを以て彼を励ました。対えて曰く、「臣は老いてはおりますが、秦州のことは聖慮を煩わすに足りません。陛下は嶺南を憂うべきです。臣は賊の勢いが今まさに盛んなのを見ており、官軍は朝夕のうちに敗戦の奏上があるでしょう」と。翌日、蔣偕の死を聞き、帝は執政に諭して曰く、「南方の事態は誠に沔の予想した通りである」と。宰相龐籍が沔を派遣するよう奏上し、湖南・江西路安撫使とし、便宜を以て事を行わせ、広南東・西路安撫使を加えた。沔は騎兵の増派を請い、さらに偏将・裨将二十八人を選び増員し、武庫の精鋭な鎧五千を求めた。参知政事梁適がこれを諫めて曰く、「大げさにするな」と。沔曰く、「先日は備えがなかったからこそ、ここに至ったのです。今は期日を定めて賊を滅ぼそうとしているのであって、僥倖で勝てるものではありません。それなのに、鎮静を示そうというのですか。実質的な備えが至らずに、外見だけ鎮静を装うのは、危亡の道です」と。二日後、出発を促され、兵はわずか七百しか与えられなかった。沔は賊が嶺を越えて北上することを憂い、湖南・湖北に檄を飛ばして曰く、「大兵がまさに至らんとしている。その営塁を修繕整備し、宴席と犒労の品を多く備えよ」と。賊は疑って北上侵攻を敢えなかった。時に狄青が宣撫使として派遣され、沔は青と会合した。青が智高と帰仁鋪で遭遇して戦い、智高は敗走した。青が帰還すると、沔は留まって後事を処理し、給事中に遷った。帰還すると、帝が労を問い、御帯を解いて賜い、杭州知州に任じた。南京に至った時、召されて枢密副使となった。

張貴妃が薨じ、追冊して皇后とし、沔に冊文を読ませるよう命じた。故事によれば、正后の場合は翰林学士が冊を読む。沔は既に宰相を護葬に用いるべきでないと陳述していたが、さらに曰く、「陛下が臣沔に読ませるというのであればよいが、枢密副使として読ませるというのはなりません」と。遂に職を辞することを求めた。資政殿学士・杭州知州となる。大学士に遷り、青州知州に移された。また観文殿学士・幷州知州に遷った。ところが諫官呉及と御史沈起が沔は淫蕩で放縦で行いを慎まず、杭州及び幷州での行いが法に背くと奏上したため、寿州に移された。

詔してその行跡を調査させたところ、使者が奏上したには、「沔は処州にいた時、遊人のうち白牡丹という者を見て、遂に誘って姦淫した。また杭州にいた時、かつて蕭山の民鄭旻から紗を買ったが、旻がその価格を高くしたので、沔は恨んだ。時に旻が紗を売買する際に隠して税を納めないことがあり、事が発覚すると、沔はその家の簿記を取り上げ、積算して税を納めなかったものが数万端に上るとし、旻を他州に配流した。州人許明は大きな珠を百個持っていたが、沔の妻の弟辺珣が銭三万三千で強引に買い取った。沔は明が所蔵する郭虔暉の画『鷹図』を愛で、明はこれを献上しなかった。初め、明の父が水仙大王廟に祈って明が生まれたので、幼名を『大王児』といった。沔は即座に明を捕らえて王を僭称したと弾劾し、その画の鷹を奪い取り、刺配に処した。沔が罷免されて去った後、明は提点刑獄に赴き、自ら一臂を断って訴訟し、ようやく釈放された。杭州の金氏の娘を、沔は白昼、吏卒に輿で連行させて乱した。趙氏の娘は既に莘旦に許嫁されていたが、沔が西湖で見かけると、遂に計略を設けて趙女を州の官舎に取り寄せ、飲食を共にし起居を共にした。刺配に処した者は数百人に及び、罷免される時、その判決記録を盗み去ったため、後に冤罪を訴える者も多くは記録がなく、自らを弁明できなかった。幷州では、私的に吏卒を役使し、青州・麟州を往来して紗・絹・綿・紙・薬物を売買した。官庭に大きな棍棒を並べ、時に激怒して訴事者を殴打し、かつて盗賊の足の後ろの筋を剔き取って切断した」と。奏上が届くと、寧国節度副使に責授され、監司は失察の罪に坐して皆罷免された。その後、光禄卿に復し、南京に分司し、宿州に居住した。恩赦に会い、濠州知州となり、尚書礼部侍郎の官で致仕した。

英宗が即位すると、戸部侍郎に遷った。帝が執政と守辺の者について議論し、適任者に難渋すると、参知政事欧陽修が奏上した、「孫沔はかつて環慶を守り、士卒を養成訓練し、蕃夷を招撫して、恩信最も著しい。今は七十ではあるが、心力衰えず、その間に罪を以て廃されたこともあったが、瑕を棄てて過ちを使うべきである」と。遂に資政殿学士・河中府知府として起用され、また観文殿学士・慶州知州とされ、延州に移されたが、赴任途中で卒去した。

沔は官に在って才力をもって知られ、強直で憚る所少なかったが、宴遊と女色を好んだため、その間に罪に坐して廃された。妻の辺氏は悍ましく嫉妬深く、一時世に伝えられた。初め、陝西で戦争があった時、朝廷は多く辺境の将帥に権限を委ねて事を成し遂げさせようとしたため、近臣が出帥すると驕恣で法を越える者がいた。沔が廃された後、真定路安撫使呂溱が続いて罪を得て、これより守帥の権限は次第に小さくなった。

論じて曰く、君子はただ身を立ててこそ、後に国を輔佐することができる。中正・起は自ら朋党に陥り、遵・稹は邪佞であり、沔は兵事に通じていたが汚職で身を敗った。琳は才器があり、大事を断ずることができたが、章献太后に『武后臨朝図』を献上したことは、君子がこれを卑しむ。雍は辺境の任に当たって軍を覆し将を敗り、ほとんど自らを保てなかった。若訥は申不害・韓非・管子の書を好み、中師・布は建てて明らかにした所少なく、これまた議するに足りないであろう。