宋史

列傳第四十四 陳執中 劉沆 馮拯 賈昌朝 梁適

列傳第四十四 陳執中 劉沆 馮拯 賈昌朝 梁適

陳執中

原文陳執中

陳執中、字は昭譽、父の恕の任により、秘書省正字となり、累遷して衛尉寺丞・梧州知州となった。『復古要道』三篇を上書し、真宗はこれを奇異として召し出した。帝は病を患い、年齢も高く、大臣の中に皇太子を立てることを敢えて言う者はいなかったが、執中は『演要』三篇を進呈し、早く天下の根本を定めるべきことを論じた。翌日、帝は他の上疏を輔臣に示し、皆が「善し」と称賛した。帝は袖の中を指して言った、「これよりも善きものがある」と。出してみると、それは『演要』であった。そこで便殿に召し出して対面させ、長く慰労し、右正言に抜擢した。一月余りして、皇太子が立てられた。翌年、御試進士の考査で答案に誤りがあったことを理由に、衛尉寺丞・岳州酒務監に貶せられた。やがて殿中丞に復し、撫州通判となり、再び右正言となった。

原文陳執中,字昭譽,以父恕任,為秘書省正字,累遷衛尉寺丞、知梧州。上《復古要道》三篇,真宗異而召之。帝屬疾,春秋高,大臣莫敢言建儲者,執中進《演要》三篇,以蚤定天下根本為說。翌日,帝以他疏示輔臣,皆讚曰 “善”。帝指其袖中曰:“又有善於此者。”出之,乃《演要》也。因召對便殿,勞問久之,擢右正言。逾月,遂立皇太子。明年,坐考禦試進士卷差謬,貶衛尉寺丞、監岳州酒務。稍復殿中丞、通判撫州,復右正言。

曹利用の婿の盧士倫が福建転運使に任ぜられたが、遠方を憚って赴任せず、利用が請うたので、京東路に改任された。執中はかつてこれを弾劾上奏したことがあり、利用は私憤を抱き、執中を出して漢陽軍知軍とした。利用が罪を得ると、召し出されて群牧判官・権三司塩鉄判官・知諫院・提挙諸司庫務となり、尚書工部員外郎を兼ねて御史知雑・同判流内銓に任ぜられ、三司戸部副使に遷った。

原文曹利用婿盧士倫除福建運使,憚遠不行,利用為請,乃改京東。執中嘗劾奏之,利用挾私忿,出執中知漢陽軍。及利用得罪,乃召為群牧判官、權三司鹽鐵判官、知諫院、提舉諸司庫務,以尚書工部員外郎兼御史知雜、同判流內銓,遷三司戶部副使。

明道年間、京東路を安撫し、天章閣待制に進んだ。使節として戻り、応天府知府となり、江寧府・揚州に移り、再び工部郎中に遷り、龍図閣直学士・永興軍知軍に改められ、右諫議大夫・同知枢密院事に拝された。

原文明道中,安撫京東,進天章閣待制。使還,知應天府,徙江寧府、揚州,再遷工部郎中,改龍圖閣直學士、知永興軍,拜右諫議大夫、同知樞密院事。

元昊が延州を侵すと、手詔をもって輔臣に攻守の方略を諮問した。執中はすでに対策を上奏したが、退いた後、再び上疏して奏上した、「元昊は中国が久しく兵を用いないのに乗じ、西辺に窃かに発し、遊兵をもって精兵を困らせ、甘言をもって守臣を悦ばせ、一朝にして連続して亭障を犯し、延安はほとんど保てぬところであった。これは范雍が詭説を容れ、戒厳を失したためであり、劉平が軽躁で、その部衆を喪ったためである。上下は紛擾し、遠近は震駭した。金明の李士彬の一族が破れて以来、辺境の防備はことごとく大いに壊れた。塞門・金明は二百里を距てている。三城を修築して列べ、各城に千人を屯兵させ、弓箭手をさらに募るべきである。寇が大挙して来れば退いて守り、小規模に来れば出て戦う。閣門祗候以上の者を選んで寨主・都監とし、諸司使をもって盧関一路の都巡検とし、二千の兵をこれに属させ、三砦の援けとさせる。熟羌で漢地に久しく居住する者は、辺臣に委ねて慰撫し存続させる。反覆する者は、撃破して追い払う。新たに懐柔した黠羌、例えば涇原の康奴・滅臧・大蟲族などは、久しく内陸に居住し、常に叛心を抱いている。これを剪除しなければ、恐らく終には禍患となろう。今、軍需の出費により、民はすでに愁歎している。さらに河北の制度のように遍く城池を修築し、夏までに完成させようとすれば、神が運んでも恐らくできず、民力はこれに耐えられようか。陝西は地勢が険しく、河北のようではない。ただ涇州・鎮戎軍の地勢がやや平坦である。外の守りを責めずに内の営みを労するのは、上策ではない。辺境に並ぶ城池を修築すべきであり、次いで延州の鄜・同、環慶の邠・寧など、五、七箇所を過ぎず、程よく営繕すれば、賦課は減り、民力は蘇るであろう。今、賊の勢いはまさに盛んである。静かに守ってその志を驕らせ、鋭気を蓄えてその鋒を挫き、土兵を増やして守備に備え、騎卒を省いて転餉を減らすべきである。そうして後に徐々に平定を議し、節度を改張し、さらに主張を要する。将臣の横議が入らなければ、忠臣は節を尽くして身を捐てるであろう」。

原文元昊寇延州,手詔諮訪輔臣攻守方略,執中既上對,退,復奏疏曰:“元昊乘中國久不用兵,竊發西垂,以遊兵困勁卒、甘言悅守臣,一旦連犯亭障,延安幾至不保。此蓋范雍納詭說,失於戒嚴;劉平輕躁,喪其所部。上下紛攘,遠近震駭。自金明李士彬族破,而並邊籬落皆大壞。塞門、金明相距二百里,宜列修三城,城屯兵千人,益募弓箭手。寇大至則退保,小至則出鬥。選閣門祗候以上為寨主、都監,以諸司使為盧關一路都巡檢,以兵二千屬之,使為三砦之援。熟羌居漢地久者,委邊臣拊存之;反覆者,破逐之。至於新拊黠羌,如涇原康奴、滅臧、大蟲族,久居內地,常有叛心,不肆剪除,恐終為患。今軍須之出,民已愁歎,復欲遍修城池如河北之制,及夏須成,使神運之猶恐不能,民力其堪此乎?陝西地險,非如河北,惟涇州、鎮戎軍勢稍平易,若不責外守而勞內營,非策之上也。宜修並邊城池,其次如延州之鄜、同,環慶之邠、寧,不過五七處,量為營葺,則科率減、民力蘇矣。今賊勢方張,宜靜守以驕其志,蓄銳以挫其鋒,增土兵以備守禦,省騎卒以減轉餉。然後徐議蕩平,改張節度,更須主張,將臣橫議不入,則忠臣盡節而捐軀矣。”

やがて土兵を刺配することを議したが、久しく決せず、青州知州に罷免された。また資政殿学士として河南府知府となり、尚書工部侍郎・陝西同経略安撫招討使に改められた。夏竦とともに永興軍知軍となり、辺境の事を議するに多く異同があり、詔して互いに巡辺に出ることを命じた。そこで涇州に屯し、諸部に命じて言った、「寇は我が水草を頼り、辺境を掠めて利を図る。除かねば、また来るであろう」。命じて悉くこれを焼かせた。上表して兵権を解くことを請い、兵は神密を尚び、千里の遠くから命令を承るのは、勝を制する所以ではない、四路に属させて各々その疆域を保たせるべきであると論じた。朝議はこれを善しとし、陝州知州に就き、再び青州に移った。この時、傅海の諸州に城を築くことを請うたが、朝廷は役事を起こすのを重んじ、詔して許さなかった。執中は詔に奉じず、ついにこれを築城した。

原文既而議刺土兵,久不決,罷知青州。又以資政殿學士知河南府,改尚書工部侍郎、陝西同經略安撫招討使。與夏竦同知永興軍,議邊事多異同,詔令互出巡邊,乃屯涇州,令諸部曰:“寇籍吾水草,鈔邊圖利,不除,且復至。”命悉焚之。表解兵柄,以為兵尚神密,千里稟命,非所以制勝,宜屬四路各保疆圉。朝議善之,就知陝州,復徙青州。於是請城傅海諸州,朝廷重興役,有詔不許。執中不奉詔,卒城之。

翌年、沂州の兵卒王倫が叛き、淮南に向かった。執中は巡検の傅永吉を遣わして采石磯まで追撃させ、捕らえて殺させた。召し出されて参知政事に拝された。諫官の孫甫・蔡襄が極論して不可としたが、帝は使者を馳せて敕告を賜った。一年余りして、同中書門下平章事・集賢殿大学士兼枢密使に拝された。西夏が降伏を申し出ると、宰相の賈昌朝とともに枢密使を解くことを請うた。七年の春、旱魃があり、昌朝は罷免され、執中は給事中に降格した。やがて昭文館大学士・監修国史を加えられ、一月余りして官に復した。

原文明年,沂卒王倫叛,趣淮南,執中遣巡檢傅永吉追至采石磯,捕殺之。召拜參知政事。諫官孫甫、蔡襄極論不可,帝遣使馳賜敕告。逾年,拜同中書門下平章事、集賢殿大學士兼樞密使。西夏納款,與宰相賈昌朝請解樞密。七年春,旱,昌朝罷,執中降給事中。已而加昭文館大學士、監修國史,逾月復官。

皇祐初年、足疾を理由に職を辞し、自ら陳べて使相・大学士となることを願わないと述べた。学士の孫抃が制を担当し、遂に尚書左丞として陳州知州とした。宰相の文彦博・宋庠は礼が薄いと考え、帖麻をもって兵部尚書に改めた。吏部尚書・観文殿大学士に遷った。久しくして、集慶軍節度使・同平章事・大名府尹に拝された。黄河が商胡で決壊し、大名府に流れ込んだ。程琳は堤防を築こうとしたが、果たせずして去った。執中は豊年の機に乗じて丁夫を徴発し、二十里を増築して、横流を防ぐ障壁とした。吏部尚書として再び同平章事・昭文館大学士に拝された。毎朝退くごとに、中書省の東便門を閉ざし、漏洩を防いだ。三司勾当公事および監場務官で、権勢によって引き立てられた者は、皆上奏して罷免し、内外はこれによって粛然とした。

原文皇祐初,以足疾辭位,自陳不願為使相、大學士,學士孫抃當制,遂以尚書左丞知陳州。宰相文彥博、宋庠以為禮薄,帖麻改兵部尚書。遷吏部、觀文殿大學士。久之,拜集慶軍節度使、同平章事、判大名府。河決商胡,走大名,程琳欲為堤,不果成而去。執中乘年豐調丁夫增築二十里,以障橫潰。以吏部尚書復拜同平章事、昭文館大學士。每朝退,閉中書東便門,以防漏泄。三司勾當公事及監場務官,權勢所引者,皆奏罷之,內外為之肅然。

ちょうど張貴妃が薨じ、皇儀殿で喪を治め、追冊して皇后とした。王洙・石全彬が非礼をもって帝の意を導こうと努めたが、執中は従って直ちに奉行し、ついには洙を員外翰林学士とし、全彬に観察使を領させ、留後の俸給を与えた。久しくして、寵妾が小婢を笞打ち、外舎に出して死なせた。御史の趙抃が八箇条を列挙して執中を弾劾し、歐陽修もまたこれを言上した。至和三年の春、旱魃があり、諫官の范鎮が言った、「執中が宰相でありながら、病でもないのに家に居る。陛下が災変を消そうとされるなら、速やかに執中を退け、中外の望みを快くすべきである」。やがて御史中丞の孫抃とその属官の郭申錫・毋湜・范師道・趙抃が合班して論奏することを請うた。詔して日を輪番して入対させ、ついに執中を罷めて鎮海軍節度使・同平章事・亳州尹とした。一年余りして節度使を辞し、尚書左僕射・観文殿大学士に改め、英国公に封ぜられ、河南府に移り、また曹州に移ったが、いずれも赴任しなかった。都を過ぎる際、病気により告を賜り、邸宅において司徒しと・岐国公として致仕し、卒した。太師兼侍中を追贈された。

原文會張貴妃薨,治喪皇儀殿,追冊為后。王洙、石全彬務以非禮導帝意,執中隨輒奉行,至以洙為員外翰林學士,全彬領觀察使,給留後奉。久之,嬖妾笞小婢出外舍死,御史趙抃列八事奏劾執中,歐陽修亦言之。至和三年春,旱,諫官范鎮言:“執中為相,不病而家居。陛下欲弭災變,宜速退執中,以快中外之望。”既而御史中丞孫抃與其屬郭申錫、毋湜、範師道、趙抃請合班論奏,詔令輪日入對,卒罷執中為鎮海軍節度使、同平章事、判亳州。逾年辭節,改尚書左僕射、觀文殿大學士,封英國公,徙河南府,又徙曹州,皆不赴。過都,以疾賜告,就第拜司徒、岐國公致仕,卒,贈太師兼侍中。

執中は中書に在ること八年、人敢えて私を以て干す者なく、四方の問遺門に及ばず、惟だ殿前都指揮使郭承祐のみ数たび其の家に至る。御史の言う所となり、遂に詔して中書・樞密に自今より聚廳に非ざれば賓客を見ること無からしむ。及び諡を議するに、禮官韓維曰く、「執中は公卿の子として、世の承平に遭い、一言に因緣し、遂に貴顯に至る。天子、後宮の喪を以て、葬祭の禮を如何にすべきかを問う。執中、位は上相に在りて、群司を総率して儀典を考正すること能わず、皇儀を治喪するは嬪禦の禮に非ざるを知り、位號を追冊するは宮闈に嫌有り、廟を建て樂を用いるは祖宗の舊制を踰ゆるも、皆白して之を行えり。此れ不忠の大なる者なり。閨門の内、禮分明らかならず、夫人正室は疏薄自ら絀き、庶妾賤人は悍逸制せず、其の家を治むるは言うに足らざる者なり。宰相、道を秉り禮を率い、身を正しく家を齊うる能わず、方に門を杜ぎ深く居り、賓客を謝絶して曰く、『我に私無し、我に黨せず』と。豈に陋しからざらんや。諡法に、『寵祿光大なるを榮と曰い』、『勤めずして名を成すを靈と曰う』と。執中、將相に出入し、一品を以て第に就く、寵祿光大なり。位を得て行政し、賢士大夫述ぶる所無し、勤めずして名を成せり。請う、諡して榮靈と曰わん」と。後に諡を恭襄と改め、詔して諡を恭と曰う。帝其の墓碑に篆して「褒忠之碑」と曰う。

原文執中在中書八年,人莫敢幹以私,四方問遺不及門,惟殿前都指揮使郭承祐數至其家,為御史所言,遂詔中書、樞密自今非聚廳無見賓客。及議諡,禮官韓維曰:“執中以公卿子,遭世承平,因緣一言,遂至貴顯。天子以後宮之喪,問所以葬祭之禮,執中位上相,不能總率群司考正儀典,知治喪皇儀非嬪禦之禮,追冊位號於宮闈有嫌,建廟用樂逾祖宗舊制,皆白而行之,此不忠之大者。閨門之內,禮分不明,夫人正室疏薄自絀,庶妾賤人悍逸不制,其治家無足言者。宰相不能秉道率禮,正身齊家,方杜門深居,謝絕賓客,曰:‘我無私也,我不黨也。’豈不陋哉?諡法:‘寵祿光大曰榮’,‘不勤成名曰靈’。執中出入將相,以一品就第,寵祿光大矣;得位行政,賢士大夫無述焉,不勤成名矣;請諡曰榮靈。”後改諡恭襄,詔諡曰恭。帝篆其墓碑曰“褒忠之碑”。

子世儒、官は國子博士に至る。妻李、群婢と世儒の生母を殺す。世儒之に謀る。皆棄市す。

原文子世儒,官至國子博士,妻李與群婢殺世儒所生母,世儒與謀,皆棄市。

劉沆

原文劉沆

劉沆、字は冲之、吉州永新の人。祖景洪、初め、楊行密江西を得るに、衙將彭玕州を據りて自ら太守を稱し、景洪に兵を屬し、衆を脅して湖南に附せんと欲す。景洪偽り之を許す。復た州を以て行密に歸し、退居して仕えず。及び徐溫國を建つるに、禮を以て之を聘うも起たず、其の子煦を官して殿直都虞候とす。父素、仕えず、財を以て里中に雄たり、賓客を喜ぶ。景洪嘗て人に告げて曰く、「我彭玕に從わず、幾くば萬人を活かさん。後世當に隆る者有らん」と。因りて居る所の北山を名づけて後隆山と曰う。山に牛僧孺の讀書堂有り、即ち故基に臺を築きて聰明台と曰う。沆の母、衣冠の丈夫の夢を見て曰く、牛相公來たる、と。已に來たりて娠有り、乃ち沆を生む。

原文劉沆,字冲之,吉州永新人。祖景洪,始,楊行密得江西,衙將彭玕據州自稱太守,屬景洪以兵,欲脅眾附湖南,景洪偽許之。復以州歸行密,退居不仕。及徐溫建國,以禮聘之,不起,官其子煦為殿直都虞候。父素,不仕,以財雄里中,喜賓客。景洪嘗告人曰:“我不從彭玕,幾活萬人,後世當有隆者。”因名所居北山曰後隆山。山有牛僧孺讀書堂,即故基築台曰聰明台。沆母夢衣冠丈夫曰牛相公來,已來有娠,乃生沆。

長ずるに及び、倜儻として氣を任す。進士に舉げられて中らず、自ら「退士」と稱し、復た出でず。父力めて之を勉む。天聖八年、始めて進士第二を擢げられ、大理評事・舒州通判と為る。大獄有りて歳を歴て決せず、沆数日にして之を決す。章獻太后資聖浮圖を建つ。内侍張懷信詔命を挾み、役を督すること峻嚴、州將遂に疾を移して敢えて出でず。沆奏して懷信を罷む。再び遷りて太常丞・直集賢院、出でて衡州を知る。大姓尹氏、鄰の翁老いて子幼きを欺き、其の田を竊取せんと欲し、乃ち賣券を偽作す。及び鄰の翁死し、遂に奪いて之を有つ。其の子州縣に訴うること二十年、直を得ず。沆至り、復た之を訴う。尹氏積歳の稅鈔を把りて驗と為す。沆曰く、「若し田千頃ならば、歳輸豈に此れに特ならんや。爾が始めて券を為す時、嘗て敕の如く鄰に問いしや。其の人固より多し、訊うべし」と。尹氏遂に罪に伏す。遷りて太常博士、三司度支・戶部判官・同修起居注を歴て、右正言・知制誥・判吏部流内銓を擢げらる。契丹に奉使し、館伴杜防強いて沆に酒を以てす。沆醉に沾い、袖を拂いて起ち、因りて之を罵る。是に坐して出でて潭州を知る。又た降りて和州を知り、右諫議大夫・江州知事に改む。

原文及長,倜儻任氣。舉進士不中,自稱“退士”,不復出,父力勉之。天聖八年,始擢進士第二,為大理評事、通判舒州,有大獄曆歲不決,沆數日決之。章獻太后建資聖浮圖,內侍張懷信挾詔命,督役嚴峻,州將至移疾不敢出,沆奏罷懷信。再遷太常丞、直集賢院,出知衡州。大姓尹氏欺鄰翁老子幼,欲竊取其田,乃偽作賣券,及鄰翁死,遂奪而有之。其子訴於州縣,二十年不得直,沆至,復訴之。尹氏持積歲稅鈔為驗,沆曰:“若田千頃,歲輸豈特此耶?爾始為券時,嘗如敕問鄰乎?其人固多在,可訊也。”尹氏遂伏罪。遷太常博士,曆三司度支、戶部判官、同修起居注,擢右正言、知制誥、判吏部流內銓。奉使契丹,館伴杜防強沆以酒,沆沾醉,拂袖起,因罵之,坐是出知潭州。又降知和州,改右諫議大夫、知江州。

時に湖南の蠻徭数たび出でて寇し、官吏を殺すに至る。沆を以て龍圖閣直學士・潭州知事兼安撫使と為し、便宜に事に従うことを許す。沆大いに兵を發して桂陽に至り、二千餘人を招降し、散居して所部せしむ。而して蠻酋降る者は皆奏して官を以て命ず。又た土兵を募り分かち餘黨を捕え、桃油平・能家源を破り、斬馘甚だ衆し。已にして賊復た出で、裨將胡元を殺す。坐して降りて鄂州を知り、京南に徙し、給事中に遷り、洪州に徙す。還りて審刑院を知り、除して永興軍を知る。頃く之を以て、龍圖閣學士を以て權に開封府を知り、数たび隱伏を發す。明堂を祀り、尚書工部侍郎に遷る。年を踰えて、參知政事を拝す。

原文時湖南蠻徭數出寇,至殺官吏。以沆為龍圖閣直學士、知潭州兼安撫使,許便宜從事。沆大發兵至桂陽,招降二千餘人,使散居所部,而蠻酋降者皆奏命以官。又募土兵分捕餘黨,破桃油平、能家源,斬馘甚眾。已而賊復出,殺裨將胡元,坐降知鄂州,徙京南,遷給事中,徙洪州。還,知審刑院,除知永興軍。頃之,以龍圖閣學士權知開封府,數發隱伏。祀明堂,遷尚書工部侍郎。逾年,拜參知政事。

初め、沆府に在りし時、張彥方と云う者有り、越國夫人曹氏の家に客たり、富民の金を受け、偽りの告敕を為す。既に敗れて獄に繫がる。沆彥方を死に抵す。辭曹氏に及ばず。曹氏は張貴妃の母なり。沆既に用いらる。諫官・御史皆沆が彥方に於いて獨り盡さずと謂い、此を以て進むを疑い、爭い之を論ず。帝聽かず。貴妃薨じ、追冊して皇后と為す。沆監護使と為る。数月、同中書門下平章事・集賢殿大學士を拝し、園陵使に改む。御史中丞孫抃・御史范師道・毋湜言う、宰相贈后の典葬を為すべからず、と。報えず。既に葬り、后閣中の金器数百兩を賜う。力辭し、而して其の子瑾に學士院を試むるを請う。遂に職を帖す。

原文初,沆在府,有張彥方者,客越國夫人曹氏家,受富民金,為偽告敕。既敗繫獄,沆抵彥方死,辭不及曹氏。曹氏,張貴妃母也。沆既用,諫官、御史皆謂沆於彥方獨不盡,疑以此進,爭論之,帝不聽。貴妃薨,追冊皇后,沆為監護使。數月,拜同中書門下平章事、集賢殿大學士,改園陵使。御史中丞孫抃、御史范師道、毋湜言,宰相不當為贈后典葬,不報。既葬,賜后閣中金器數百兩,力辭,而請其子瑾試學士院,遂帖職。

時に中書の可否多く例を用う。人或いは例を援りて以て訟え、而して法行われず。沆三弊を進言して曰く、「近臣の保薦辟請、動かずして数十を踰え、皆浮薄權豪の流れ交相薦舉す。有司之を以て貿易し、而して遂に省・府・台・閣の華資要職、路分・監司邊防の寄任、公選に非ずして授け、多く私門より出づ。又た職掌吏人の遷補常有るも、而るに或いは選を減じて官を出し、資を超えて職を換え、堂除便家、先次差遣の類有り。此れ近臣保薦の弊一なり。審官・吏部銓・三班當に川・廣に入るべくして、乃ち近地を求め、當に近地に入るべくして、又た在京を求め、及び堂除升陟省府・館職・檢討の類有り。此れ近臣陳匄親屬の弊二なり。其の錢穀管庫の勞を敘し、賊を捕え昭雪の賞を敘するに、常格存するも、僥幸猶甚だし。法を以てすれば輕く、例を以てすれば厚し。執政者法を持すること能わず、多く例を以て之に與う。此れ勞を敘し幹進するの弊三なり。願わくは詔して中書・樞密に、凡そ三事例を用いること無からしめ、餘は聽くに舊の如くせよ」と。事既に施行せらるるも、衆頗る悅ばず。尋いで舊の如し。

原文時中書可否多用例,人或援例以訟,而法有不行。沆進言三弊曰:“近臣保薦辟請,動逾數十,皆浮薄權豪之流交相薦舉。有司以之貿易,而遂使省、府、台、閣華資要職,路分、監司邊防寄任,授非公選,多出私門。又職掌吏人遷補有常,而或減選出官、超資換職、堂除便家、先次差遣之類。此近臣保薦之弊一也。審官、吏部銓、三班當入川、廣,乃求近地,當入近地,又求在京,及堂除升陟省府、館職、檢討之類。此近臣陳匄親屬之弊二也。其敘錢穀管庫之勞、捕賊昭雪之賞,常格雖存,僥幸猶甚。以法則輕,以例則厚,執政者不能持法,多以例與之。此敘勞幹進之弊三也。願詔中書、樞密,凡三事毋用例,餘聽如舊。”事既施行,而眾頗不悅,尋如舊。

文彥博・富弼復た入りて相と為る。彥博は昭文館大學士と為り、弼は國史を監修す。沆は兵部侍郎に遷り、位は弼の下に在り。論者以て故事に非ずと為し、學士楊察の誤りに由る。乃ち麻を帖して沆を改めて國史を監修せしめ、弼を集賢殿大學士と為す。沆既に言事官を疾み、因りて言う、「慶曆以後、台諫官事を用い、朝廷命令の出づるに、事の當否無く悉く之を論じ、必ず勝ちて後已む。專ら務めて人の陰私辨明し難き事を抉り、以て士大夫を中傷す。執政其の言を畏れ、進擢尤速なり」と。沆遂に御史遷次の格を行い、満二歳なる者に知州を與う。御史范師道・趙抃歳満ちて郡を補わんことを求む。沆格を引きて之を出だす。中丞張升等沆が私を挾みて御史を出すを言う。時に樞密使狄青も亦た御史の言に因り、罷めて陳州を知る。沆奏して曰く、「御史陛下の將相を去け、陛下の爪牙を削ぐ。此の曹の謀る所、臣測る莫し」と。升等益論辨已まず。沆を罷めて觀文殿大學士・工部尚書・應天府知事と為す。刑部尚書に遷り、陳州に徙す。

原文文彥博、富弼復入為相。彥博為昭文館大學士,弼監修國史,沆遷兵部侍郎,位在弼下。論者以為非故事,由學士楊察之誤,乃帖麻改沆監修國史,弼為集賢殿大學士。沆既疾言事官,因言:“自慶曆後,台諫官用事,朝廷命令之出,事無當否悉論之,必勝而後已,專務抉人陰私莫辨之事,以中傷士大夫。執政畏其言,進擢尤速。”沆遂舉行御史遷次之格,滿二歲者與知州。御史范師道、趙抃歲滿求補郡,沆引格出之,中丞張等言沆挾私出御史。時樞密使狄青亦因御史言,罷知陳州,沆奏曰:“御史去陛下將相,削陛下爪牙,此曹所謀,臣莫測也。”升等益論辨不已,罷沆為觀文殿大學士、工部尚書、知應天府。遷刑部尚書,徙陳州。

馮沆は吏事に長じ、性質豪放で率直、儀礼や規矩に疎かった。しかし権謀を好み、権力者や近臣の過失を巧みに探り、密かに握って軽重をつけ事を取ることを得意とし、論者はこの点で彼を軽んじた。卒去し、左僕射兼侍中を追贈された。知制誥張瑰が詔詞を起草して馮沆を誹謗したため、その家は諡号を請うことを敢えてしなかった。帝は墓碑に篆書で「思賢之碑」と書いた。子の馮瑾はかつて天章閣待制となったが、法に坐して免官され、後に功績により復職した。

原文沆長於吏事,性豪率,少儀矩。然任數,善刺探權近過失,陰持之以軒輊取事,論者以此少之。卒,贈左僕射兼侍中。知制誥張瑰草詞詆沆,其家不敢請諡。帝為篆墓碑曰“思賢之碑”。子瑾,嘗為天章閣待制,坐法免,後以功復職。

馮拯

原文馮拯

馮拯は、字を道濟という。父の馮俊は、後漢の湘陰公劉贇に仕えた。劉贇が死ぬと、馮俊は従行した千余人とともに侍衛獄に繋がれたが、周の太祖が赦して出獄させ、検校太子賓客を授け、安遠軍馭馬鎮に戍守するよう命じたが、辞して行かず、河陽に移り住んだ。

原文馮拯,字道濟。父俊,事漢湘陰公劉贇。贇死,俊與從行千餘人繫侍衛獄,周太祖赦出之,授檢校太子賓客,戍安遠軍馭馬鎮,辭不行,因徙居河陽。

馮拯は書生として趙普に謁見し、趙普はその容貌を奇異に思い、「あなたの富貴と長寿は、私に劣らないであろう」と言った。進士に挙げられ、大理評事・峽州通判に補され、権知澤州、坊州に移り、太常丞に遷った。江南が旱魃に見舞われると、命を受けて駅伝で急行し貧乏を救済し、官吏の能力の有無を視察し、還って奏上して旨に叶い、権知石州に任じられ、右正言に抜擢され、一年余りで代わって帰朝した。河北に派遣され、転運使樊知古と辺境の備蓄を計画し、還って三司戸部理欠憑由司を判じ、度支判官となった。

原文拯以書生謁趙普,普奇其狀,曰:“子富貴壽考,宜不下我。”舉進士,補大理評事、通判峽州,權知澤州,徙坊州,遷太常丞。江南旱,命馳傳振貸貧乏,察官吏能否,還奏稱旨,權知石州,擢右正言,歲餘代歸。出使河北,與轉運使樊知古計邊儲,還,判三司戶部理欠憑由司,為度支判官。

淳化年中、封書を奉って皇太子の冊立を請う者がおり、馮拯は尹黄裳・王世則・洪湛とともに閣に伏して許王元僖の冊立を請うた。太宗は怒り、全員を嶺外に貶した。馮拯は端州知州となり、着任すると、上書して使者を派遣して諸路の隠れた丁男を調査し、版籍を改めて新製し、塩法を通商とすることを議するなど、合わせて十余事を請うた。太宗は参知政事として召還しようとしたが、寇準は平素より馮拯を快く思わず、鼎州知州に移した。広州通判に改めた。郊祀が終わり、恩赦が及ぶと、馮拯と通判彭惟節はともに尚書員外郎に遷ったが、惟節は太常博士から屯田員外郎となり、馮拯は左正言から虞部員外郎となった。馮拯の署名は以前は惟節の上にあったが、奏事の順序が従前のままであったため、寇準が厳しく責めた。馮拯は上書して寇準が私意で不公平であると述べ、寇準はこれに坐して罷免された。

原文淳化中,有上封請立皇太子者,拯與尹黃裳、王世則、洪湛伏閣請立許王元僖,太宗怒,悉貶嶺外。拯知端州,既至,上言請遣使括諸路隱丁、更製版籍及議鹽法通商,凡十餘事。太宗欲召還參知政事,寇準素不悅拯,乃徙知鼎州。改通判廣州。郊祀畢,覃恩,拯與通判彭惟節皆遷尚書員外郎,惟節以太常博士為屯田員外,而拯以左正言為虞部員外。拯書名舊在惟節上,及奏事如故,準切責之。拯上書言準阿意不平,準坐此罷。

馮拯は母の喪のために内陸への移転を請い、江州知州に命じられた。真宗が即位すると、比部員外郎に進んだ。御史中丞李惟清が推直官に推薦し、三司度支勾院を判じ、駕部郎中に遷った。咸平初年、開封府の進士試験で賦の題が諷刺・誹謗に及んだことに坐し、馮拯は御史台に下されたが、間もなく釈放された。

原文拯以母喪請內徙,命知江州。真宗即位,進比部員外郎。御史中丞李惟清表為推直官,判三司度支勾院,遷駕部。咸平初,坐試開封進士賦涉譏訕,下拯御史台,未幾,釋之。

翌年、侍御史知雑事を兼ねた。当時西北で戦事があり、王超・傅潛が兵を率いて定州・瀛州の間に出たが、形勢を観望して敵を侮り、馮拯はこれを強く論じたが、聞き入れられなかった。王超らは果たして逗留して軍を覆した。馮拯に傅潛の獄を審理させ、傅潛に罪を科し、流刑に処した。祠部郎中・枢密直学士に抜擢され、権判吏部流内銓となった。審官院と銓法が未整備であるとして、蔭補で京官となる者はすべて一経を試読し、家状を書いて通習した者を合格とし、初めて任官できるよう建議した。同勾当三班院を兼ねた。向敏中が河北・河東を宣撫する際、馮拯と陳堯叟が副使となり、長春殿で宴餞が行われた。

原文明年,兼侍御史知雜事。時西北用兵,王超、傅潛將兵出定、瀛間,觀望玩寇,拯極論之,不報。超等果逗撓覆軍。命拯按傅獄,抵潛罪,竄流之。擢祠部郎中、樞密直學士,權判吏部流內銓。以審官及銓法未備,建請凡蔭補京官,試讀一經,書家狀通習為中格,始得仕。同勾當三班院。向敏中宣撫河北、河東,拯及陳堯叟為副,宴餞長春殿。

翌年、右諫議大夫同知枢密院事となった。帝が綏州を修築しようとし、輔臣に諮ると、馮拯と宰相向敏中らは皆便利であると言い、宰相呂蒙正・参知政事王旦・王欽若は皆放棄して修築すべきでないと言った。帝は洪湛を駅伝で急行させ視察させ、還って七つの利点と二つの害を上奏し、ついに修築を完成させた。当時、封書を奉る者が言うには、「三司には滞留する事務が多く、州郡は疑わしい事柄を請訓し、吏民は冤罪を訴えて理を求めるが、ぐずぐずして決断しないことが数年にも及び、水害や旱害もこれによることがある」と。詔して馮拯に幹練な官吏を選び三司使とともに冗事を裁断し、滞留を監督して挙行させた。そこで判度支勾院孫冕とともに帳簿文書二十一万五千本を省き、併せて冗官十五員を廃した。

原文明年,以右諫議大夫同知樞密院事。帝欲修綏州,謀諸輔臣,拯與宰相向敏中等皆曰便。宰相呂蒙正、參知政事王旦、王欽若皆曰宜棄勿修。帝遣洪湛馳驛往視,還,上七利二害,卒修完之。時上封者言:“三司多滯務,州郡稟疑事,吏民訴理冤獄,依違不決者輒數歲,水旱或由於此。”詔拯選幹強吏同三司使裁冗事、督舉稽留,遂與判度支勾院孫冕省帳牘二十一萬五千本,並廢冗官十五員。

尚書工部侍郎・簽書枢密院事に遷った。手詔を賜り辺境の事を諮問され、馮拯は言った。「辺備の要は、険阻を扼して敵の衝を制さなければ、勝ち易くない。もし保州と威虜軍の間に、徐河・鮑河に依って陣を布けば、その表勢は勝ちを取ることができるであろう。一昨年、王顯は詔に違って要地に向かわず、契丹が初めて国境を圧した時、王師は未だ出動せず、契丹の騎兵は既に侵入して掠奪し、霖雨に頼ってようやく遁走した。近ごろ王超は敵が去ったと奏上したが、東路は敵が今来ようとしていると奏上し、既に軍を中山に集めて望都を救おうとしたが、兵は疲弊し糧食は欠乏し、将臣はほとんど全てが陥没し、王超らは僅かに身一つで免れた。今、防秋に際しては、唐河に増兵して六万に至らせ、定武の北を押さえて大陣とし、邢州に都総管を置いて中陣とし、天雄軍に鈐轄を置いて後陣とし、莫州・狼山の両路の兵を罷めるべきである。」従われた。景德年中、参知政事となり、再び兵部侍郎に遷った。太廟の祭祀を代行した時、役所が帳幔を供え、守奉人が廟室の前で宿直し、喧囂して厳粛でなかったため、馮拯はこれを上聞した。詔して専ら廟享のために帟幕や什器を製作し、宗正寺に蔵め、吏卒が廟の階段に登ることを禁じた。

原文遷尚書工部侍郎、簽書樞密院事。賜手劄訪邊事,拯謂:“備邊之要,不扼險以制敵之衝,未易勝也。若於保州、威虜間,依徐、鮑河為陣,其表勢可取勝矣。前歲王顯違詔不趨要地,契丹初壓境,王師未行,而契丹騎已入鈔,賴霖雨乃遁去。比王超奏敵已去,而東路奏敵方來,既聚軍中山以救望都,而兵困糧匱,將臣陷歿幾盡,超等僅以身免。今防秋,宜於唐河增屯兵至六萬,控定武之北為大陣,邢州置都總管為中陣,天雄軍置鈐轄為後陣,罷莫州狼山兩路兵。”從之。景德中,為參知政事,再遷兵部侍郎。攝事享太廟,有司供帳幔,守奉人宿廟室前,喧囂不肅,拯以聞。詔專為廟享製帟幕什器,藏宗正寺,禁吏卒登廟階。

王済が編敕を上進した。帝はその煩簡が一様でないとして、輔臣に語った。「顕徳の勅は特に煩雑である。これは世宗が厳格で性急で、一時の思いから出たもので、臣下がその過失を言うことを敢えなかったためである。」王旦が進み出て言った。「詔勅は簡潔であるべきで、近ごろも煩雑に陥りつつあります。」馮拯は答えて言った。「開宝年間には、諸州の通判を任命する勅には、刑獄・銭穀についてすべて条列して規定しましたが、今は略されています。」当時契丹と初めて盟約を結んだ。馮拯は辺境が騒動し、武臣がこれを幸いとして利益としていると述べた。帝は言った。「朝廷は信義をもって守るが、しかし戒備は廃してはならない。このほかは、静かに治めて我が民を安んずるべきである。あなたはこれを奉承せよ。」

原文王濟上編敕,帝以其煩簡不一,語輔臣曰:“顯德敕尤煩,蓋世宗嚴急,出於一時之意,臣下不敢言其失也。”王旦進曰:“詔敕宜簡,近亦傷於煩。”拯對曰:“開寶間,除諸州通判敕,刑獄、錢穀悉條列約束,今則略矣。”時契丹始盟,拯言邊方騷動,武臣幸之以為利。帝曰:“朝廷以信為守,然戒備不可廢也,此外,當靜治以安吾民爾。爾其奉承之。”

大中祥符初年、貢挙の糊名法を厳格にした。馮拯は王旦とともに帝の前で選挙について論じ、馮拯は策論も兼ねて考課し、詩賦のみを以て進退を決すべきでないと請うた。帝は言った。「才能識見を見ることができるのは、文章と論策である。」馮拯の論事はこのように多く帝の意に合った。泰山に封禅する際、儀仗使となった。礼が成り、尚書左丞に進んだ。病気で休暇を取っていたが、たびたび罷免を請うた。帝は手詔で諭旨し、また宰相王旦に命じて邸宅に赴き、馮拯を励まして政務に就かせた。

原文大中祥符初,嚴貢舉糊名法。拯與王旦論選舉帝前,拯請兼考策論,不專以詩賦為進退。帝曰:“可以觀才識者,文論也。”拯論事多合帝意如此。封泰山,為儀仗使。禮成,進尚書左丞。以疾在告,數請罷,帝以手詔諭旨,又命宰相王旦就第勸拯起視事。

汾陰に従祀し、儀仗使となり、工部尚書に遷った。再び病気を理由に罷免を求め、刑部尚書・知河南府に任じられ、府の事務を官属に委ねることを許された。七年、御史中丞に任じられたが、また病気を理由に辞し、戸部尚書・知陳州に任じられた。真宗はかつて王旦に言った。「馮拯は固く閑散な州郡を求めるが、なぜか。」王旦は答えて言った。「馬知節がかつて馮拯が富貴を好むと嘲笑しました。馮拯が望んでいるのは節度使です。馮拯は馬知節に見くびられることを恐れ、大藩を請うことを敢えてせず、おそらくこのためです。」再び河南府知事となり、兵部尚書に遷り、入朝して尚書都省を判じ、吏部尚書・検校太傅・同中書門下平章事として枢密使を充任した。その冬、右僕射兼中書侍郎・太子少傅・同平章事・集賢殿大学士に任じられ、左僕射に進んだ。

原文從祀汾陰,為儀仗使,遷工部尚書。復以疾求罷,拜刑部尚書、知河南府,聽以府事委官屬。七年,除御史中丞,又以疾辭,除戶部尚書、知陳州。真宗嘗謂王旦曰:“拯固求閑郡,何邪?”旦對曰:“馬知節嘗譏拯好富貴,所欲節度使爾。拯恐為知節所量,不敢請大藩,殆為此也。”再知河南府,遷兵部尚書,入判尚書都省,以吏部尚書、檢校太傅、同中書門下平章事充樞密使。其冬,拜右僕射兼中書侍郎、太子少傅、同平章事、集賢殿大學士,進左僕射。

乾興元年、魏国公に進封され、司空しくう兼侍中に遷る。輔臣が資善堂に会食し、議事に召されたが、丁謂のみは預からなかった。謂は罪を得たことを知り、甚だ哀願した。錢惟演は急ぎ曰く、「力を尽くすべきであり、大いに憂うるには及ばぬ」と。拯は惟演を熟視し、惟演は踧踖す。承明殿に対すや、太后の怒り甚だしく、語には謂を誅さんと欲す。拯進みて曰く、「謂は固より罪有り、然れども帝新たに即位し、急に大臣を誅せば、天下の耳目を駭かす。謂に豈に逆謀あらんや。第に山陵の事を奏するを失えるのみ」と。太后の怒り稍や解く。謂既に貶せられ、拯は謂に代わりて司徒・玉清昭應宮使・昭文館大學士・監修國史となり、又山陵使となり、真宗の御容を西京に奉安す。尋ち病告にあり、帝は白金五千両を賜い、拯は叩頭して謝す。五度表を上し相を罷めんことを願い、武勝軍節度使・檢校太尉兼侍中・判河南府を拝す。即ち臥内に告身及び旌纛を賜い、内司賓を遣わして撫問す。還りて奏す、其の家は儉陋にして、被服甚だ質素なりと。太后は衾裯錦綺屏を以て賜う、然れども拯の平居自ら奉ずるは侈靡にして、顧みるに禁中これを知らず。既に卒す、太師・中書令を贈られ、諡して文懿と曰う。

原文乾興元年,進封魏國公,遷司空兼侍中。輔臣會食資善堂,召議事,丁謂獨不預。謂知得罪,頗哀請。錢惟演遽曰:“當致力,無大憂也。”拯熟視惟演,惟演踧踖。及對承明殿,太后怒甚,語欲誅謂。拯進曰:“謂固有罪,然帝新即位,亟誅大臣,駭天下耳目。謂豈有逆謀哉?第失奏山陵事耳。”太后怒少解。謂既貶,拯代謂為司徒、玉清昭應宮使、昭文館大學士、監修國史,又為山陵使,奉安真宗御容於西京。尋在病告,帝賜白金五千兩,拯叩頭稱謝。五上表願罷相,拜武勝軍節度使、檢校太尉兼侍中、判河南府。即臥內賜告及旌纛,遣內司賓撫問。還,奏其家儉陋,被服甚質。太后賜以衾裯錦綺屏,然拯平居自奉侈靡,顧禁中不知也。既卒,贈太師、中書令,諡文懿。

拯は気貌厳重、宦者が詔を伝えて中書に至るも、座に延べず。工部尚書林特嘗て第に詣るも、累日通ずるを得ず、事を諮らんと白すも、中書に詣らしむ。既に至るや、又た堂吏を遣わして之に謂いて曰く、「公事何ぞ自ら朝廷に達せざる」と。遂に見えず、特は大いに愧じて去る。錢惟演は入相を営み、拯は太后の姻家を以て力を言い、遂に惟演を河陽に出だす。子に行己・伸己あり。

原文拯氣貌嚴重,宦者傳詔至中書,不延坐。工部尚書林特嘗詣第,累日不得通,白以諮事,使詣中書。既至,又遣堂吏謂之曰:“公事何不自達朝廷?”卒不見,特大愧而去。錢惟演營入相,拯以太后姻家力言之,遂出惟演河陽。子行己、伸己。

子 行己

原文子 行己

行己は字を肅之とし、父の任により右侍禁・涇原路駐泊都監・憲州知州となり、治状により秩を増す。石・保・霸は・冀・莫の五州を歴任し、至る所に能称あり。

原文行己字肅之,以父任為右侍禁、涇原路駐泊都監、知憲州,因治狀增秩。曆石、保、霸、冀、莫五州,所至有能稱。

夏人既に款を納むるや、疆候の言に播く、契丹幽燕に兵を治め、大いに戦具を為すと。議者は西備を解きて北に備えんと欲す。行己言う、「遼・夏は与国たり、元昊の入貢は、詭計を懐くを容る。幽燕の兵を治むるは、或いは虚声たるべく、辺鄙の虞は、恐らく河朔に在らず」と。

原文夏人既納款,疆候播言契丹治兵幽燕,大為戰具,議者欲解西備北,行己言:“遼、夏為與國,元昊入貢,容懷詭計,幽燕治兵,或為虛聲,邊鄙之虞,恐不在河朔也。”

皇祐中、定州知州となり、韓琦に薦められて路鈐轄となる。代州知州に徙り、河東縁辺安撫事を管幹す。夏人が麟州を掠め、蕃部且つ屈野河西の田を盗耕し、官軍の逴邏する者に遇えば、輒ち聚りて射る。詔して行己に之を計らしむ。行己言う、「此れは奸民の忌憚無きなり、君長の過に非ず、細故を以て大釁を啓くべからず、但だ戒戢を加うるに足る」と。

原文皇祐中,知定州,韓琦薦為路鈐轄。徙知代州,管幹河東緣邊安撫事。夏人掠麟州,蕃部且盜耕屈野河西田,遇官軍逴邏者,輒聚射。詔行己計之。行己言:“此奸民無忌憚,非君長過,不宜以細故啟大釁,但加戒戢足矣。”

五台山の寺が廂兵義勇を調べて繕葺す、和糴穀三万を除かんと為す。行己は、歳入の儲を損じて不急の務に事うべからずと謂う。西上閣門使に進み、四遷して客省使となり、更に高陽関・秦鳳・定州・大名府路馬歩総管を歴任し、衛州防禦使を以て致仕し、洛陽らくようの耆英の集に預かる。元祐中、終に金州観察使に至り、年八十四。

原文五台山寺調廂兵義勇繕葺,為除和糴穀三萬,行己謂不可損歲入之儲,以事不急之務。進西上閣門使,四遷客省使,更高陽關、秦鳳、定州、大名府路馬步總管,以衛州防禦使致仕,預洛陽耆英之集。元祐中,終金州觀察使,年八十四。

子 伸己

原文子 伸己

伸己は字を齊賢とし、蔭により右侍禁を補う。累遷して西頭供奉官となり、閣門祗候・桂州兵馬都監を授かる。転運使俞献可に辟かれて廉州知州となる。久しくして、安化蛮辺を擾わし、献可又た薦めて宜州知州と為す。

原文伸己字齊賢,以蔭補右侍禁。累遷西頭供奉官,授閣門祗候、桂州兵馬都監。轉運使俞獻可辟知廉州。久之,安化蠻擾邊,獻可又薦知宜州。

天聖中、桂・宜・融・柳・象沿辺兵馬都監に改め、遂に溪峒の事を専らにす。礼賓使を以て再び宜州知州となる。代わり還るに道すがら、供備庫使・邕州知州に改む。治舍に井有り、相伝えて敢えて飲まず、飲めば輒ち死すと。伸己は日々汲みて自ら供し、終更まで恙無し。旁城数里に金花木有り、土俗に花開けば即ち瘴起ると言う、人敢えて近づかず。伸己は故に花盛りの時に其の下に酣燕し、亦た復た害無し。明道恭謝に際し、東染院使に改め、栄州刺史を領し、梓夔路兵馬鈐轄となり、洛苑使に遷り、桂州知州兼広西鈐轄となる。江陵に道すがら、会うに安化蛮辺を犯し、官軍利あらず、仁宗中人を遣わして伸己を趣して之を討たしむ。伸己は日夜疾馳して宜州に至り、器甲を繕い、丁壮を募り、糧餉を転じ、三路より以て進む。伸己軍に臨み、単騎出でて陣し、酋豪に語りて曰く、「朝廷汝を撫すること甚だ厚し、汝乃ち自ら滅亡を取るか。今我天子の命を奉じて来る、吾が言を聴けば則ち生く、然らずば噍類無からん」と。衆仰ぎて泣き羅拝し曰く、「今日再び馮公を見んとは図らず」と。明日、蛮渠兵械を棄てて衆を率いて軍門に降る。

原文天聖中,改桂、宜、融、柳、象沿邊兵馬都監,遂專溪峒事。以禮賓使復知宜州。代還,道改供備庫使、知邕州。治舍有井,相傳不敢飲,飲輒死。伸己日汲自供,終更無恙。旁城數里,有金花木,土俗言花開即瘴起,人不敢近。伸己故以花盛時酣燕其下,亦復無害。明道恭謝,改東染院使、領榮州刺史、梓夔路兵馬鈐轄,遷洛苑使、知桂州兼廣西鈐轄。道江陵,會安化蠻犯邊,官軍不利,仁宗遣中人趣伸己討之。伸己日夜疾馳至宜州,繕器甲,募丁壯,轉糧餉,由三路以進。伸己臨軍,單騎出陣,語酋豪曰:“朝廷撫汝甚厚,汝乃自取滅亡耶!今我奉天子命來,汝聽吾言則生,不則無噍類矣。”眾仰泣羅拜曰:“不圖今日再見馮公也。” 明日,蠻渠棄兵械率眾降軍門。

初め、部卒将を覆して畏れ匿る。伸己曰く、「紀律明らかならざるは、主将なり、戦士何の罪か」と。朝に請い、其の死を貸す。労により西上閣門使・宜州知州に遷る。楽善蛮武陽を寇す、伸己禍福を諭さんと遣わす、蛮大いに悦び、掠めし所を悉く還す。又た莫世堪は険に負けて強黠、辺戸を抄劫し、疆場の患と為る。伸己伏兵を設けて擒捕し、皆法に置く。果州団練使に遷る。宜に在ること二年、桂州に徙り、右武衛大将軍に改め、本官を守りて西京に分司し、卒す。

原文初,部卒以覆將畏匿,伸己曰:“紀律不明,主將也,戰士何罪?”請於朝,貸其死。以勞遷西上閣門使、知宜州。樂善蠻寇武陽,伸己遣諭禍福,蠻大悅,悉還所掠。又莫世堪負險強黠,抄劫邊戶,為疆場患。伸己設伏擒捕,皆置於法。遷果州團練使。在宜二年,徙桂州,改右武衛大將軍,守本官分司西京,卒。

初め、安化蛮叛き、区希範応募して賊を撃つ。賊平ぎ、希範闕に詣で、自ら其の功を言う。朝廷宜州に下す、伸己は希範功無くして妄りに賞を要すと謂い、遂に全州に編管す。其の後希範遁れ帰り、乱を謀りて伸己を殺さんと欲す、嶺外騒然たり、議者皆伸己を罪す。

原文始,安化蠻叛,區希範應募擊賊。賊平,希範詣闕,自言其功。朝廷下宜州,伸己謂希範無功妄要賞,遂編管全州。其後希範遁歸,謀為亂,欲殺伸己,嶺外騷然,議者皆罪伸己焉。

賈昌朝

原文賈昌朝

賈昌朝、字は子明、真定獲鹿の人。晋の史官緯の曾孫なり。天禧初、真宗嘗て南郊に穀を祈り、昌朝頌を道左に献ず、召して試み、同進士出身を賜い、晋陵の主簿と為す。便殿に対するを賜い、国子監説書を除く。孫奭監を判ず、独り昌朝の講説に師法有りと称す。他日路随・韋処厚の伝を書して昌朝に示し曰く、「君は経術を以て進むべし、二公の如く」と。潁川郡王院伴読と為る。再遷して殿中丞となり、宜興・東明県知県を歴任す。奭禁中に侍読し、老を以て辞し、昌朝を薦めて自らに代えしむ。召して中書に試み、尋ち国子監説書に復す。上言す、「礼に、母の諱は宮より出でず。今章献太后易月の制除くも、猶ほ父の名を諱むは、宗廟を尊ぶに非ず」と。詔して之に従う。景祐中、崇政殿説書を置き、以て昌朝に授く。誦説明白、帝多く質問す、昌朝記録して進めんことを請い、名を《邇英延義記注》と賜い、直集賢院を加う。

原文賈昌朝,字子明,真定獲鹿人。晉史官緯之曾孫也。天禧初,真宗嘗祈穀南郊,昌朝獻頌道左,召試,賜同進士出身,主晉陵簿。賜對便殿,除國子監說書。孫奭判監,獨稱昌朝講說有師法。他日書路隨、韋處厚傳示昌朝曰:“君當以經術進,如二公。”為潁川郡王院伴讀。再遷殿中丞,曆知宜興、東明縣。奭侍讀禁中,以老辭,薦昌朝自代,召試中書,尋復國子監說書。上言:“禮,母之諱不出於宮。今章獻太后易月製除,猶諱父名,非尊宗廟也。”詔從之。景祐中,置崇政殿說書,以授昌朝。誦說明白,帝多所質問,昌朝請記錄以進,賜名《邇英延義記注》,加直集賢院。

太平興国寺災有り、是の夕、大雨震雷す。朝廷修復を議す、昌朝上言す、「《易・震》の象に曰く、『洊雷震、君子以て恐懼修省す』と。近年寺観屡災す、此れ殆ど天の警告を示すなり、繕治せずして、以て天を畏れ人を愛するの意を示すべし」と。西域の僧仏骨・銅像を献ず、昌朝賜いを加えて遣還し、献ずる所を以て中外に示すこと無からんことを請う。悉く其の言を行う。天章閣に侍講を置くも、亦た首に昌朝を命ず。累遷して尚書礼部郎中・史館修撰となる。

原文太平興國寺災,是夕,大雨震雷。朝廷議修復,昌朝上言:“《易·震》之象曰:‘洊雷震,君子以恐懼修省。’近年寺觀屢災,此殆天示警告,可勿繕治,以示畏天愛人之意。”西域僧獻佛骨、銅像,昌朝請加賜遣還,毋以所獻示中外。悉行其言。天章閣置侍講,亦首命昌朝。累遷尚書禮部郎中、史館修撰。

劉平が元昊に捕らえられ、辺境の官吏が劉平が賊に降ったと誣告したため、その家族を収監しようという議論があった。昌朝は言った、「漢が李陵の家族を誅殺したので、李陵は帰ることができず、漢はこれを後悔した。先帝は王継忠の家を厚く慰撫され、ついに継忠を用いることができた。劉平の事は未だ明らかでない。もしその一族を収監すれば、たとえ劉平が生きていても、帰還することはできぬであろう。」これにより収監されずに済んだ。知制誥・権判吏部流内銓兼侍講に抜擢された。当初、銓法では、県令の俸給が一万二千に満たなければ、県令に推挙されなかった。昌朝は言った、「法がこのようでは、小県はついに良い県令を得られない。」県令は一律に推挙し、大県と同様の俸給を与えるよう請うた。

原文劉平為元昊所執,邊吏誣平降賊,議收其家。昌朝曰:“漢族殺李陵,陵不得歸,而漢悔之。先帝厚撫王繼忠家,終得繼忠用。平事未可知,使收其族,雖平在,亦不得還矣。”乃得不收。擢知制誥、權判吏部流內銓兼侍講。初,銓法,縣令奉錢滿萬二千,乃舉令。昌朝曰:“法如此,則小縣終不得善令。”請概舉令,而與之奉如大縣。”

龍図閣直学士・権知開封府に進み、右諫議大夫・権御史中丞兼判国子監に転じた。議者が金帛で契丹を誘い、元昊を攻撃させようとしたが、昌朝は言った、「契丹がもし功績を立てれば、その報酬を際限なく要求するであろう。」と強く制止した。そこで上言して言った、「太祖が天下を有する初め、唐末五代の節度使・武臣・土兵・牙校の勢威を監視し、その威権をことごとく収められた。当時はこれを万世の利と為した。太宗の時には、将帥は多く旧人であり、なお威霊を仗り、成算を稟けて、出師して寇を防ぎ、向かうところ功績を挙げた。近年の恩幸の子弟は、供応を飾り、名誉を釣り、多くは勲労によらず、坐して武爵を取り、衝を折り攻守することを、彼らはどうして知ることがあろうか。しかし辺境に事がなければ、なお自ら容れることができた。西羌の叛く以来、兵士は訓練せず、将は適材を得ず、たびたび交代する将で訓練されぬ兵士を統御するので、戦えば必ず敗れる。これは方鎮の権力を削りすぎた弊害である。ましてや親旧・恩幸の者が、出でて即ち将となり、平素より兵事を知らず、一朝にして千万人の命を付託するのは、彼らを死地に駆り立てるようなものである。これは親旧・恩幸を用いる弊害である。今、楊崇勲・李昭亮がなお辺境の任にある。速やかに士人を選んで代えることを望む。方鎮の守臣は数え切れぬほどに更易せず、刺史以上は、授けるところを慎み、功績ある者を待つべきである。これは弊害を救う一端である。」また辺備六事を上奏した。

原文進龍圖閣直學士、權知開封府,遷右諫議大夫、權御史中丞兼判國子監。議者欲以金繒啖契丹使攻元昊,昌朝曰:“契丹許我有功,則責報無窮矣。”力止之。乃上言曰:“太祖初有天下,監唐末五代方鎮武臣、土兵牙校之盛,盡收其威權,當時以為萬世之利。及太宗時,將帥率多舊人,猶能仗威靈,稟成算,出師禦寇,所向有功。近歲恩幸子弟,飾廚傳,釣名譽,多非勳勞,坐取武爵,折衝攻守,彼何自而知哉?然邊鄙無事,尚得自容。自西羌之叛,士不練習,將不得人,以屢易之將馭不練之士,故戰則必敗。此削方鎮太過之弊也。況親舊、恩幸,出即為將,素不知兵,一旦付以千萬人之命,是驅之死地矣。此用親舊、恩幸之弊也。今楊崇勳、李昭亮尚任邊鄙,望速選士代之。方鎮守臣無數更易,刺史以上,宜慎所授,以待有功。此救弊之一端也。”又上備邊六事:

その一は将帥を統御すること。古来の帝王は、恩威をもって将帥を統御し、賞罰をもって士卒を統御し、命令に従えば軍政が行われて戦功が集まった。太祖は裘帽を脱いで王全斌に賜り、「今日この帷幄に居るも、なお寒くて耐えられぬ。ましてや蜀しょくを伐つ将士においておや。」と言われた。これは恩をもって統御したのである。曹彬・李漢瓊が江南を討つ時、太祖は彬を前に召し出し、漢瓊らを後ろに立たせ、剣を授けて言われた、「副将以下、命令に従わぬ者は専断して誅戮せよ。」漢瓊らは股が震えて退いた。これは威をもって統御したのである。太祖は武臣の権力を削ったが、一時の賞罰や財を用いて事を成すことについては、皆その専断に任せ、功あれば賞し、敗れれば誅した。今、将帥を命ずるごとに、必ず疑いと不信を先にし、近幸でなければ信ぜず、姻旧でなければ委任しない。今、陝西四路では、総管以下、鈐轄・都監・巡検の類が、悉く軍政に参与し、謀りごとが未だ成らぬうちに、事は先に漏れ、甲は可とし乙は否とし、上は行い下は背き、主将は号令を専断できず、ゆえに動けば必ず敗れる。請う、今より将を命ずるには、疑いを去り、恩恵を推し、大いなる効果を責めることに務め、一切の便宜を以て事に従うことを得させよ。偏裨に命令を聴かぬ者あれば、軍法をもって論ずる。これが将帥を統御する道である。

原文其一曰馭將帥。自古帝王,以恩威馭將帥,賞罰馭士卒,用命則軍政行而戰功集。太祖脫裘帽賜王全斌曰:“今日居此幄,尚寒不可禦,況伐蜀將士乎?”此馭之以恩也。曹彬、李漢瓊討江南,太祖召彬至前,立漢瓊等於後,授以劍曰:“副將以下,不用命者得專戮之。”漢瓊等股栗而退,此馭之以威也。太祖雖削武臣之權,然一時賞罰及用財集事,皆聽其專,有功則賞,有敗則誅。今每命將帥,必先疑貳,非近幸不信,非姻舊不委。今陝西四路,總管而下,鈐轄、都監、巡檢之屬,悉參軍政,謀之未成,事已先漏,甲可乙否,上行下戾,主將不專號令,故動則必敗。請自今命將,去疑貳,推恩惠,務責以大效,得一切便宜從事。偏裨有不聽令者,以軍法論,此馭將之道也。

その二は土兵を復活させること。今の河北・河東の強壮、陝西の弓箭手の類は、土兵の遺法である。河北の郷兵は、その廃れて久しく、陝西の土兵は、たびたび賊に破られ、存する者は僅かである。臣は考えるに、河北・河東の強壮については、既に近臣を召して法製を詳定させ、毎郷を軍と為す。その才能が群を抜く者は、その姓名を籍に記して順次補う。陝西の蕃落弓箭手は、召募の銭物を貪り、月々の糧俸の利に就き、多くは黥げい涅して営兵となる。宜しく田畑を優遇して回復させ、力を耕し死を以て戦わせ、代々辺境の用に供し、これにより屯戍を減らし、供饋を省くことができる。内地の州県では、弓手を増置し、郷軍の法の如くしてこれを閲試すべきである。

原文其二曰復土兵。今河北河東強壯、陝西弓箭手之類,土兵遺法也。河北鄉兵,其廢已久,陝西土兵,數為賊破,存者無幾。臣以謂河北、河東強壯,已召近臣詳定法製,每鄉為軍。其材能絕類者,籍其姓名遞補之。陝西蕃落弓箭手,貪召募錢物,利月入糧奉,多就黥涅為營兵。宜優復田疇,使力耕死戰,世為邊用,可以減屯戍、省供饋矣。內地州縣,增置弓手,如鄉軍之法而閱試之。

その三は営卒を訓練すること。太祖の朝には、諸軍に肉を食い帛を衣ることを得させず、営舎に粥・酒・肴があれば追い払い、士卒に繒彩を服する者あれば笞打って責めた。かつて鎧甲を着け、霜露を冒し、戦に勝ち地を攻め取ったのは、皆この輩であった。今の営卒は驕り惰んで、敵に臨んで勇気がない。旧例では三年ごとに転員し、これを落権正授と称した。この制度を改めることはできぬとしても、必ずしも一律に総管・鈐轄にさせる必要はなく、才勇あり将帥に任じうる者を選んでこれを授けるべきである。況んや今の兵仗の製造は、甚だ用に適さない。八陣・五兵の法に照らし、時に応じて教習すべきである。進退に次序あり、左右に形勢あり、前は退き後は附き、上下相い援け合うようにさせ、これに令して曰く、「隊長を一人失えば、一隊を斬る。」と。どうして衆が用いられぬことを憂えようか。

原文其三曰訓營卒。太祖朝,令諸軍毋得食肉衣帛,營舍有粥酒肴則逐去,士卒有服繒彩者笞責之。異時被鎧甲、冒霜露,戰勝攻取,皆此曹也。今營卒驕惰,臨敵無勇。舊例三年轉員,謂之落權正授,雖未能易此製,即不必一例使為總管、鈐轄,擇有才勇可任將帥者授之。況今之兵仗製造,殊不適用。宜按八陣、五兵之法,以時教習。使啟殿有次序、左右有形勢,前卻相附,上下相援,令之曰:“失一隊長,則斬一隊。”何慮眾不為用乎?

その四は遠人を制すること。今、四夷は蕩然として中国と通じ、北では契丹に臣従し、西では元昊に臣従している。二国が合従すれば、中国を掎角する勢いがある。仮に歳幣をもってこれを羈縻するとしても、臣は計り知れぬことを恐れる。古の辺備は、西に金城・上郡、北には雲中・雁門があった。今、滄州から秦州に至るまで、綿々と数千里にわたり、山河の険阻なく、ただ州県の鎮戍を恃むのみである。歳に供給贍養するもの、また数千万に下らず、一たび穀物が実らなければ、狼狽に至る。契丹は近年、燕人を兼用して国を治め、官を建てることは中夏と同じである。元昊は河南の列郡を拠り、賞罰を行っている。これが中国の患いである。宜しく西方の諸国、沙州・唃廝囉・明珠・滅臧の族の如き、近北の黒水女真・高麗・新羅の属の如き、旧く中国に通じた者を、人を募って使いに往かせ、誘って我が方に帰順させれば、勢いは分かれて隙が生じ、体は解けて瓦礫の如くに裂けよう。

原文其四曰制遠人。今四夷蕩然與中國通,在北則臣契丹,其西則臣元昊,二國合從,有掎角中國之勢。借使以歲幣羈縻之,臣恐不可勝算。古之備邊,西有金城、上郡,北則雲中、雁門。今自滄之秦,綿亙數千里,無山河之阻,獨恃州縣鎮戍爾。歲所供贍,又不下數千萬,一穀不熟,或至狼狽。契丹近歲兼用燕人治國,建官一同中夏。元昊據河南列郡而行賞罰,此中國患也。宜度西方諸國如沙州、唃廝、明珠、滅臧之族,近北如黑水女真、高麗、新羅之屬,舊通中國,募人往使,誘之使歸我,則勢分而釁生,體解而瓦裂矣。

その五は蕃部を安撫すること。属戸は、辺境の屏翰である。延州には金明、府州には豊州があり、皆、戎人が内附した地である。朝廷の恩威が立たず、強敵に迫られれば、塞上の諸州は、藐焉として孤塁となり、蕃部が既に壊れれば、土兵もまた衰え、敵を破る日は、未だ期しがたい。臣は請う、陝西の辺境に沿う諸路の守臣は、皆「安撫蕃部」の名を帯び、その族の大きく功労ある者を酋帥とし、河東の折氏の比の如くすれば、おそらく我が藩籬の固きものと為し得よう。

原文其五曰綏蕃部。屬戶者,邊垂之屏翰也。延有金明,府有豐州,皆戎人內附之地。朝廷恩威不立,強敵迫之,塞上諸州,藐焉孤壘,蕃部既壞,土兵亦衰,破敵之日,未可期也。臣請陝西緣邊諸路,守臣皆帶“安撫蕃部”之名,擇其族大有勞者為酋帥,如河東折氏之比,庶可為吾藩籬之固也。

その六は偵察を厳重にすること。古くは封疆を守り、師旅を出すに、平時には行人が国を偵察し、戦時には前茅が不慮を慮り、その謹みはこのようであった。太祖は李漢超に関南を鎮守させ、馬仁瑀に瀛州を守らせ、韓令坤に常山を鎮守させ、賀惟忠に易州を守らせ、何継筠に棣州を領させ、郭進に山西を控えさせ、武守琪に晉陽を戍守させ、李謙溥に隰州を守らせ、董遵誨に環州に屯させ、王彦升に原州を守らせ、馮継業に霊武を鎮守させた。専売の利益は、悉く軍中に輸送し、その貿易を聴許し、その征稅を免じた。辺臣は財に富み、間諜を用いることができ、羌夷の情状は、予め知らぬことがなかった。二十年の間、外顧の憂いがなかった。今日、西辺で辺事を任ずる者は、敵の情状や山川・道路の険易の勢いを、全く通暁せず、測り知れぬ淵に踏み込み、万死の地に入り、肝脳を地に塗れ、狼狽して相い枕し、どうして敵を破り勝を制することができようか。願わくは、芸祖(太祖)が将帥を任用された制度を鑑み、辺城の財用を悉くこれに委ねよ。敢勇の士を募って爪牙と為し、陣に臨んで自らを衛れば、将を殺される辱めはない。死力を尽くす者を募って偵察と為し、敵を望んで来襲を知れば、兵を陥れる恥はない。

原文其六曰謹覘候。古者守封疆,出師旅,居則有行人之覘國,戰則有前茅之慮無,其謹如此。太祖命李漢超鎮關南,馬仁瑀守瀛州,韓令坤鎮常山,賀惟忠守易州,何繼筠領棣州,郭進控山西,武守琪戍晉陽,李謙溥守隰州,董遵誨屯環州,王彥升守原州,馮繼業鎮靈武。筦榷之利,悉輸之軍中,聽其貿易,而免其征稅。邊臣富於財,得以為間諜,羌夷情狀,無不預知。二十年間,無外顧之憂。今日西鄙任邊事者,敵之情狀與山川、道路險易之勢,絕不通曉。使蹈不測之淵,入萬死之地,肝腦塗地,狼狽相藉,何以破敵制勝耶?願監藝祖任將帥之制,邊城財用悉以委之。募敢勇之士為爪牙,臨陣自衛,無殺將之辱;募死力為覘候,而望敵知來,無陷兵之恥。

上書が奏上され、多くが施行された。

原文書奏,多施行之。

昌朝は経費を計量し、不急の事業を廃止するよう請うた。詔して三司と合議させ、毎年節約される緡銭は百万に及んだ。また言上して、「朝臣で七十歳に達し、筋力が衰えた者は、典故に依って致仕すべきであり、功績の顕著な者は留任させても構わない」と。そこで耄昏にして職務に堪えぬ者八人を列挙し、致仕させた。慶暦三年、参知政事に拝された。上言して、「用兵以来、天下の民力は甚だ疲弊している。諸路の転運使に詔し、慣例に従って折変・科率を行わせず、科率・折変が必要な場合は全て奏聞して裁断を仰ぐべきである。たとえ聖旨や三司の文書があっても、民に不便なものは上聞に及ぶべきである」と。

原文昌朝請度經費,罷不急。詔與三司合議,歲所省緡錢百萬。又言:“朝臣七十,筋力衰者,宜依典故致仕,有功狀可留者勿拘。”因疏耄昏不任事者八人,令致仕。慶曆三年,拜參知政事。上言:“用兵以來,天下民力頗困。請詔諸路轉運使,毋得承例折變科率,須科折者,悉聽奏裁。雖奉旨及三司文移,於民不便者,亦以上聞。”

工部侍郎を以て枢密使を充任し、まもなく同中書門下平章事・集賢殿大学士に拝され、なお枢密使を兼ねた。二ヶ月後に、昭文館大学士に拝され、国史監修を命じられた。元昊が石元孫を帰還させた際、賜死を議する者があった。昌朝のみが言うには、「古来、将帥が捕虜となり帰還した者は、多くは死罪にされなかった」と。元孫はこれによって死を免れた。詔して有司に奉慈廟の三后を升祔することを議させたが、有司の論は一致しなかった。昌朝は言うには、「章献皇后は天下の母儀たり、章懿皇后は聖躬を誕育され、詳符年間に元徳皇后を升祔した故事の如くすべきである。章恵皇后は陛下に対し慈保の恩があり、別に従前の如く奉慈廟に享すべきである」と。そこで二后の神主を奉じて、真宗廟に升祔した。密詔して内外の官を一等昇進させ、諸軍に優厚な賜与を行おうとしたが、昌朝は同列と力を合わせて上疏し、やめさせた。また二府の官を昇進させようとする詔に対し、さらに固く辞した。元昊が帰順を請うてからは、宰相が枢密使を兼ねるのをやめるよう請うた。

原文以工部侍郎充樞密使,尋拜同中書門下平章事、集賢殿大學士,仍兼樞密使。居兩月,拜昭文館大學士,監修國史。元昊歸石元孫,議賜死。昌朝獨曰:“自古將帥被執,歸者多不死。”元孫由是得免。詔有司議升祔奉慈廟三后,有司論不一。昌朝曰:“章獻母儀天下,章懿誕育聖躬,宜如詳符升祔元德皇后故事。章惠於陛下有慈保之恩,當別享奉慈廟如故。”乃奉二后神主,升祔真宗廟。密詔遷中外官一等,優賜諸軍,昌朝與同列力疏,乃止。又詔遷二府官,益固辭。元昊既款附,請宰相罷兼樞密使。

六年、日食があった。帝は昌朝らに言った、「天に譴責が現れた。願わくは罪を朕一人に帰せよ。卿らは民の疾苦を究め、これを利安する方策を考えよ」と。昌朝は対えて言った、「陛下のこの言葉は、以て天変を消し去るに足ります。臣、敢えて夙夜孜々として陛下に奉じませんや」と。帝はまた言った、「人主が天を畏れて徳を修めるのは、人臣が法を畏れて自ら新たにするようなものである」。昌朝は因って頓首して謝した。翌年の春、旱魃があり、帝は正寝を避け、膳を減らした。昌朝は漢代の災異により三公を冊免した故事を引き、上表して罷免を乞うた。

原文六年,日食。帝謂昌朝等曰:“謫見於天,願歸罪朕躬。卿宜究民疾苦,思所以利安之。”昌朝對曰:“陛下此言,足以弭天變,臣敢不夙夜孜孜以奉陛下。”帝又曰:“人主懼天而修德,猶人臣畏法而自新也。”昌朝因頓首謝。明年春,旱,帝避正寢,減膳。昌朝引漢災異冊免三公故事,上表乞罷。

参知政事の呉育がしばしば昌朝と帝前で争議し、論者は多く昌朝を正しとしなかった。向綬という者が永静軍の知軍となり、通判が自分を讒言したと疑い、事を捏造して自殺に迫った。高若訥が審刑院知院事となり、昌朝の意見に附し、軽い処罰に従おうとした。呉育が力爭し、綬はついに死罪一等を減ぜられた。まもなく、若訥が御史中丞となり、大臣が朝廷で爭い肅まらぬため、雨が時に順わぬと上言し、ついに育を罷免し、昌朝を武勝軍節度使・検校太傅・同中書門下平章事・大名府判・北京留守司兼・河北安撫使に除した。帝は銀飾の肩輿を賜った。まもなく貝州の賊討伐に功があり、山南東道節度使に移った。楊偕が、賊が昌朝の管轄内で発生したのだから賞すべきでないと上言したが、聞き入れられなかった。

原文參知政事吳育數與昌朝爭議上前,論者多不直昌朝。有向綬者知永靜軍,疑通判譖己,誣以事,迫令自殺。高若訥知審刑院,附昌朝議,欲從輕坐。吳育力爭,綬卒減死一等。未幾,若訥為御史中丞,言大臣廷爭不肅,故雨不時若,遂罷育,而除昌朝武勝軍節度使、檢校太傅、同中書門下平章事、判大名府兼北京留守司、河北安撫使。帝賜銀飾肩輿。尋以討貝州賊有功,移山南東道節度使。楊偕言賊發昌朝部中,不當賞。弗從。

契丹は逃亡兵卒の勇猛な者を集め、「投来南軍」と号した。辺境の法では、兵卒が逃亡して自ら帰還した者は死罪であった。昌朝はその法を廃し、帰還した者にはすぐに昇進・補任した。そこで来る者が次第に多くなり、それによって契丹の事情を探知した。契丹はついに逃亡兵卒を拒絶し、南軍を用いなくなった。辺境の民が土地を外に質入れすると、契丹は故意に境界を侵すようになった。昌朝は法を定め、土地を質に入れて主が時に贖わなければ、他人が贖って所有できるようにした。一年余りで、土地は全て回復した。

原文契丹聚亡卒勇伉者,號“投來南軍”。邊法,卒亡自歸者死。昌朝除其法,歸者輒遷補,於是來者稍眾,因廉知契丹事。契丹遂拒亡卒,黜南軍不用。邊人以地外質,契丹故稍侵邊界。昌朝為立法,質地而主不時贖,人得贖而有之,歲餘,地悉復。

三司使の葉清臣が河北の庫銭を流用しようとしたが、昌朝は詔を阻んで与えず、清臣が論列を止めなかったので、ついに清臣を河陽に出し、昌朝を鄭州判に移した。闕下を過ぎて入覲し、留められて祥源観使となり、尚書右僕射・観文殿大学士・尚書都省判に拝され、朝会の班次は中書門下と同列とし、その儀物も同じとした。年中に外任を求め、再び山南東道節度使・右僕射・検校太師兼侍中・鄭州判に除された。僕射・侍中を固辞し、同中書門下平章事に改めた。中謝を賜うのは、昌朝から始まったのである。

原文三司使葉清臣移用河北庫錢,昌朝格詔不與,清臣論列不已,遂出清臣河陽,徙昌朝判鄭州。過闕入覲,留為祥源觀使,拜尚書右僕射、觀文殿大學士、判尚書都省,朝會班中書門下,視其儀物。歲中求外,復除山南東道節度使、右僕射、檢校太師兼侍中、判鄭州。固辭僕射、侍中,改同中書門下平章事。賜中謝,自昌朝始也。

母の喪のため職を去り、喪服を除くと、許州判に任じられた。邇英閣に召されて対し、帝が『乾卦』について問うと、昌朝は上奏して言った、「『乾』の上九に『亢龍悔あり』と称する。悔とは凶災の萌しであり、爻が亢極にあれば必ず凶災がある。凶と言わずに悔と言うのは、悔には凶とも吉ともなり得る意味があり、徳を修めれば悔を免れて吉を得るからである。『九を用いて、群龍首無きを見れば吉なり』。聖人は剛健の徳を用いて、万機を決すべきである。天下が久しく盛んなれば、柔をもっては済ますことができず、しかし亢して過剛であればまた久しく続かない。ただ聖人のみが、外には剛健をもって事を決し、内には謙恭をもって物に応じ、敢えて自ら矜って天下の首とならず、これが吉なのである」と。手詔を以て優しく答えた。また言上して、「漢・唐は雍に都し、三輔を置いて内より京師を翼護した。朝廷は汴に都するが、近京の諸郡は皆他の道に属し、制度が王畿に相応しくない。京東の曹州、京西の陳・許・滑・鄭を分割し、皆開封府に隷属させ、四十二県を以て京畿とすべきである」と。帝はこれを容れた。出発に際し、講読官に命じて資善堂で餞別させた。再び大名府判兼河北安撫使に任じられた。時に黄河が商胡で決壊し、昌朝は故道を復するよう請うたが、聞き入れられなかった。詳細は『河渠志』にある。六塔の工事が失敗し、濱・棣・徳・博の民は多く水死したが、昌朝はこれを救済すること甚だ力を入れた。内侍の劉恢が視察に行き、帰還して言うには、黄河が趙征村で決壊したのは、帝の名(禎)と音が通じ不祥であると。当時は皆、昌朝が当国者を動揺させるためにさせたのだと言った。嘉祐元年、許国公に進封され、また侍中を兼ね、まもなく同中書門下平章事を以て枢密使となった。

原文母喪去位,服除,判許州。召對邇英閣,帝問《乾卦》,昌朝上奏曰:“《乾》之上九稱:‘亢龍有悔。’悔者,凶災之萌,爻在亢極,必有凶災。不言凶而言悔者,以悔有可凶可吉之義,修德則免悔而獲吉矣。‘用九,見群龍無首,吉’。聖人用剛健之德,乃可決萬機。天下久盛,柔不可以濟,然亢而過剛又不能久。獨聖人外以剛健決事,內以謙恭應物,不敢自矜為天下首,乃吉也。”手詔優答。又言:“漢、唐都雍,置三輔內翼京師,朝廷都汴,而近京諸郡皆屬他道,制度不稱王畿。請析京東之曹州,京西之陳、許、滑、鄭,皆隸開封府,以四十二縣為京畿。”帝納之。將行,命講讀官餞於資善堂。復判大名府兼河北安撫使。時河決商胡,昌朝請復故道,不從。語在《河渠志》。六塔功敗,濱、棣、德、博民多水死,昌朝振救之甚力。內侍劉恢往視,還,言河決趙征村,與帝名嫌為不祥,時皆謂昌朝使之以搖當國者。嘉祐元年,進封許國公,又兼侍中,尋以同中書門下平章事為樞密使。

三年、宰相の文彦博が罷免を請うた。諫官・御史は昌朝が彦博に代わることを恐れ、相ともに昌朝が大邸宅を建て、別に客位を設けて宦官をもてなし、詔を矯制した宦官がいるのに枢密院が釈放して処罰しなかったと上言した。そこで鎮安軍節度使・右僕射・検校太師・侍中兼充景霊宮使を以て、出して許州判に任じた。また保平軍節度・陝州大都督ととく府長史を以て大名府兼安撫使に移った。英宗が即位すると、鳳翔節度使に移り、左僕射・鳳翔尹を加えられ、魏国公に進封された。治平元年、侍中を以て許州を守ったが、力辞して許されなかった。翌年、病気のため京師に留まり、左僕射・観文殿大学士を以て尚書都省判に任じられ、卒去した。享年六十八。諡して文元といった。御書の墓碑に「大儒元老之碑」とあった。著書に『群経音弁』・『通紀』・『時令』・『奏議』・『文集』百二十二巻がある。

原文三年,宰相文彥博請罷,諫官、御史恐昌朝代彥博,乃相與言昌朝建大第,別創客位以待宦官,宦官有矯制者,樞密院釋不治。遂以鎮安軍節度使、右僕射、檢校太師、侍中兼充景靈宮使,出判許州。又以保平軍節度、陝州大都督府長史移大名府兼安撫使。英宗即位,徙鳳翔節度使,加左僕射、鳳翔尹,進封魏國公。治平元年,以侍中守許州,力辭弗許。明年,以疾留京師,乃以左僕射、觀文殿大學士判尚書都省,卒,年六十八,諡曰文元。御書墓碑曰“大儒元老之碑”。所著《群經音辨》、《通紀》、《時令》、《奏議》、《文集》百二十二卷。

昌朝は侍従の時は、多く名誉を得た。及んで執政に至ると、正人からは与されず、しばしば宦官・宮人と結託していると攻撃された。初め、昌朝が侍講の時、王宗道とともに資善堂書籍を編修したが、実際は内侍を教授しており、諫官の呉育が上奏してこれを罷めさせた。後に張方平が唐詢を留任させ、詢が育を讒言したが、世間は昌朝の指図だと思った。しかし言う者によれば、昌朝が宦官の矯制を釈放したというのは、後日尋問しても事実無根であったという。

原文昌朝在侍從,多得名譽。及執政,乃不為正人所與,而數有攻其結宦官、宮人者。初,昌朝侍講時,同王宗道編修資善堂書籍,其實教授內侍,諫官吳育奏罷之。及張方平留唐詢,而詢譖育,世以為昌朝指也。然言者謂昌朝釋宦官矯制,後驗問無事實云。

子の章は、館閣校勘となり、早世した。青は、朝請大夫となった。弟に昌衡がいる。

原文子章,館閣校勘,蚤世。青,朝請大夫。弟昌衡。

弟 昌衡

原文弟 昌衡

昌衡は字を子平という。進士に挙げられ、梓州路転運判官となった。商人が富順井の塩を請うと、吏は賄賂の多寡によって先後をつけたが、昌衡は全て月日に随って与えた。瀘州は辺境で夷蛮と接し、従来は武吏を以て守らせていたが、昌衡は東銓から調選するよう請うた。蛮が馬を駆って来市すると、官はその良駑を二等に分け、上等は秦州に送り、下等は軽く評価して抑買したが、昌衡はこれを厳禁するよう請うた。提点淮南刑獄・広東転運使に移り、さらに両浙路に移った。

原文昌衡字子平。舉進士,為梓州路轉運判官。賈人請富順井鹽,吏視賄多寡為先後,昌衡一隨月日給之。瀘州邊夷蠻,故時守以武吏,昌衡請由東銓調選。蠻驅馬來市,官第其良駑為二等,上者送秦州,下者輒輕估直而抑買,昌衡請嚴禁之。徙提點淮南刑獄、廣東轉運使,徙兩浙路。

熙寧年間に法度を改め、吏治を検覈するに当たり、昌衡はしばしば利害を奏聞し、神宗はその論奏が忠益であると褒めた。召されて戸部副使・提挙市易司となり、課税の余剰を上げ、官秩を増して右諫議大夫とし、集賢殿修撰を加えられ、河南府知府に転じ、陳州・鄆州・応天府・鄧州を歴任した。正議大夫のまま致仕し、卒した。従子に炎がいる。

原文熙寧更法度,核吏治,昌衡數以利害聞,神宗獎其論奏忠益。召為戶部副使、提舉市易司,課羨,增秩右諫議大夫,加集賢殿修撰、知河南府,曆陳、鄆、應天府、鄧州。以正議大夫致仕,卒。從子炎。

従子 炎

原文從子 炎

炎は字を長卿といい、昌朝の蔭官により、倉庫管理の職を歴任し、累遷して工部侍郎に至った。政和年間、顕謨閣待制として応天府知府となり、鄆州・永興軍に転じた。初め、陝西で鉄銭が長く行用され、貨幣価値がますます下落した。蔡京が方策を設けてこれを全て収斂し、夾錫銭を改鋳すると、貨幣価値はやや上昇した。蔡京が宰相を去ると、転運使の李譓・陳敦復は収斂した銭が既に多いのを見て、急いで鋳造停止を請うた。鉄銭が再び行用されると、その価値下落は初めよりも甚だしく、関以西では皆市が廃れ、民は生活の道を失った。炎のみは一切禁令を緩め、その便に任せた。その後、宣徽使の童貫がまた両者の価値の高低を比較し、遂に夾錫銭を全て廃して用いることを許さず、民はますます苦しみとした。炎は延安知府に転じ、そこで上表して言うには、「銭法が屡々変わり、人心はますます惑う。今、人々が利益と見做すものを、臣はその害を見る。正しいと見做すものを、臣はその誤りを見る。中産の家は、夾錫銭を一二万蓄えるに過ぎず、既に棄てて用いられなければ、ただ銭を守って死ぬのみである。辺境の民は生計が蕭条としており、官がまた一再に法を変える。鄜延は敵に近く、民は甚だ不安である。民が安んじなければ辺境は守れない。内郡を得て母を養いたい。」そこで潁州知州に任じられたが、赴任せず、また留められた。また童貫と辺境の事をめぐり意見が合わず、童貫に沮まれて河陽府に改められ、また鄧州に改められた。直学士を加えられ、永興軍知府となった。入朝して対し、留められて工部侍郎となった。童貫が枢密院河西・北両房の簽書となった時、侍従たちが炎を誘って共に祝賀に行こうとしたが、炎は言った、「故事に簽書両房という者はない。彼は執政ではない、何を祝賀しようというのか。」ちょうど病気で卒した。享年五十八。銀青光禄大夫を追贈された。

原文炎字長卿,以昌朝蔭,更曆筦庫,積遷至工部侍郎。政和中,以顯謨閣待制知應天府,徙鄆州、永興。初,陝西行鐵錢久,幣益輕。蔡京設法盡斂之,更鑄夾錫錢,幣稍重。京去相,轉運使李譓、陳敦復見所斂已多,遽請罷鑄。鐵錢既復行,其輕加初,自關以西皆罷市,民不聊生。炎獨一切弛禁,聽從其便。其後,宣徽使童貫又以兩者重輕相形,遂盡廢夾錫不得用,民益以為苦。炎徙知延安,因表言:“錢法屢變,人心愈惑。今人以為利者,臣見其害;以為是者,臣見其非。中產之家,不過畜夾錫錢一二萬,既棄不用,則惟有守錢而死耳。邊氓生理蕭條,官又一再變法,鄜延去敵迫近,民殊不安。民不安則邊不可守,願得內郡以養母。”乃命為潁州,未行,復留。又與貫製疆事不合,貫沮之,改河陽,又改鄧州。加直學士、知永興。入對,留為工部侍郎。貫簽書樞密院河西、北兩房,侍從邀炎俱往賀,炎曰:“故事無簽書兩房者,彼非執政,何賀為?”會以疾卒,年五十八。贈銀青光祿大夫。

伯祖父 琰

原文伯祖父 琰

昌朝の伯祖父は琰である。琰は字を季華といい、晋の中書舎人・給事中である緯の子である。蔭官により臨淄・雍丘の主簿に授けられ、澧州通判を歴任した。太宗が京尹であった時、上奏して開封府推官とし、左賛善大夫を加えられた。即位すると、超拜して左正議大夫・枢密直学士となった。間もなく、三司副使に抜擢された。太平興国二年、卒した。

原文昌朝伯祖父琰。琰字季華,晉中書舍人、給事中緯之子也。以蔭授臨淄、雍丘主簿,曆通判澧州。太宗尹京,奏以為開封府推官,加左讚善大夫。及即位,超拜左正議大夫、樞密直學士。未幾,擢三司副使。太平興國二年,卒。

琰は風神が峻厳で整っており、吏才があり、太宗の幕府に仕えて凡そ五年、職務に勤勉であった。兄弟五人で、琰は最も末弟であり、琰が官を歴任する間に諸兄が相次いで死んだ。琰は孤児や幼い者を慰撫し、一族凡そ百口を集め、衣食を分け与え、家庭内に不和の言葉がなく、士大夫はこれをもって彼を称えた。

原文琰風神峻整,有吏幹,佐太宗居幕府凡五年,勤於所職。昆弟五人,琰最幼,及琰曆官而諸兄相繼死。琰拊循孤幼,聚族凡百口,分給衣食,庭無間言,士大夫以此稱之。

琰の子は湜・汾である。湜は軍器庫使に至った。交阯の黎桓が丁璿を簒さん奪さんだつした時、朝廷は孫全興に兵を率いて討伐させた。湜は王僎と共に軍事を掌ったが、黎桓が偽って降伏し、全興がこれを信じたため、軍は遂に敗北し、湜と僎は共に軍律を失った罪で誅殺された。汾は殿中丞に至った。湜の子の昌符は、同学究出身を賜った。汾の子の昌齢は進士に及第し、屯田員外郎となった。

原文琰子湜、汾。湜至軍器庫使。交阯黎桓之篡丁璿也,朝廷以孫全興將兵討焉。湜與王僎同掌軍事,黎桓偽降,全興信之,軍遂北,湜、僎並坐失律誅。汾至殿中丞。湜子昌符,賜同學究出身。汾子昌齡,第進士,為屯田員外郎。

梁適

原文梁適

梁適は、字を仲賢といい、東平の人で、翰林学士の顥の子である。幼くして孤となり、嘗て父の遺文と自ら著したものを輯めて進上したところ、真宗は「梁顥には子がある」と言った。秘書省正字に授けられた。開封府工曹となり、昆山県知県となった。梧州に転じ、南漢の時に民間で行われていた折税を廃止するよう上奏した。更に進士に挙げられ、淮陽軍知軍となり、また京東路の預買絹百三十万を減らすよう上奏した。景祐の赦書が朱梁の後裔を録すべきでないと論じ、仁宗はその名を記憶し、間もなく召して審刑詳議官とした。

原文梁適,字仲賢,東平人,翰林學士顥之子也。少孤,嘗輯父遺文及所自著以進,真宗曰:“梁顥有子矣。”授秘書省正字。為開封工曹,知昆山縣。徙梧州,奏罷南漢時民間折稅。更舉進士,知淮陽軍,又奏減京東預買〓百三十萬。論景祐赦書不當錄朱梁後,仁宗記其名,尋召為審刑詳議官。

梓州の妖人白彦歓が鬼神に依り詛呪して人を殺し、獄が具わったが、傷がないとして減刑の議を上った。適は駁して言った、「刃で人を殺すのは或いは拒げるが、詛呪は拒げるか。これは刃よりも甚だしい。」遂に死罪と論じた。鶴に似た鳥が端門に集まり、次第に降りて庭中に入った。大臣の中には瑞祥であると唱える者もいたが、適は「これは野鳥が宮庭に入っただけであり、何の瑞祥と言えようか」と言った。

原文梓州妖人白彥歡依鬼神以詛殺人,獄具,以無傷讞。適駁曰:“殺人以刃或可拒,而詛可拒乎?是甚於刃也。”卒論死。有鳥似鶴集端門,稍下及庭中,大臣或倡以為瑞,適曰“此野鳥入宮庭耳,何瑞之云?”

嘗て同院の燕肅と共に何次公の案を奏上した時、帝が顧みて「次公は漢代の人の字のようだ」と言うと、肅は答えられなかった。適が進み出て言った、「蓋寛饒・黄霸はいずれも字が次公です。」帝は喜び、そこで適の家世を尋ね、ますます器重した。他日、宰相が適を提点刑獄に擬すると、帝は「暫く留めておけ。諫官に欠員が出たら用いるがよい。」と言い、遂に右正言に拝した。

原文嘗與同院燕肅奏何次公案,帝顧曰:“次公似是漢時人字。”肅不能對,適進曰:“蓋寬饒、黃霸皆字次公。”帝悅,因詢適家世,益器之。他日宰相擬適提點刑獄,帝曰:“姑留之,俟諫官有闕,可用也。”遂拜右正言。

林瑀が中旨により天章閣侍講となった時、適はその過失を上疏した。また言った、「夏守贇は将として功績がなく、再び枢密を典すべきではない。」ちょうど姻族の任中師が執政となったため、嫌疑を避けて直史館に改められ、起居注を修した。陝西に奉使し、范仲淹と共に辺境の機要事十余条を条奏した。知制誥に進み、権発遣開封府事となった。一年余りで出て兗州知州となった。萊蕪の鉄冶が民の苦しみとなっており、当該の役に就く者は大抵破産して償った。適は人を募ってこれを行わせ、これより民は冶戸を憂えず、鉄の生産は毎年増加した。再遷して枢密直学士・延州知州となった。葬儀のため帰郷を告げ、京師を過ぎた時、入見を得て、以前朋党に排擠されて追放されたと自ら言い、留められて翰林学士となった。御史が相次いでこれを弾劾したため、侍読学士として澶州知州となり、秦州に転じた。入朝して審刑院知院事となり、枢密副使に抜擢された。

原文林瑀由中旨侍講天章閣,適疏其過。又言:“夏守贇為將無功,不宜復典宥密。”會婦黨任中師執政,以嫌改直史館,修起居注。奉使陝西,與范仲淹條邊機十餘事。進知制誥、權發遣開封府。歲餘,出知兗州。萊蕪冶鐵為民病,當役者率破產以償,適募人為之,自是民不憂冶戶,而鐵歲溢。再遷樞密直學士、知延州。告歸治葬,過京師,得入見,自言前為朋黨擠逐,留為翰林學士。御史交劾之,以侍讀學士知澶州,徙秦州。入知審刑院,擢樞密副使。

張堯佐が一日に四使を除された時、言官が激しく争い、帝は頗る怒った。適は言った、「台諫が事を論ずるのは職分です。堯佐の恩典は実に過分で、恐らく彼を全うする道ではないでしょう。」そこで二使を奪った。儂智高が侵入し、侮慢な書を送って邕州・桂州節度使を求めると、帝はその降伏を受け入れようとした。適は言った、「もしそうすれば、嶺外は朝廷の所有ではなくなります。」そこで狄青を派遣して討伐させた。賊が平定されると、帝は言った、「以前適の言がなければ、南方の安危は未だ知るべからざるものだった。」参知政事に遷った。契丹が国書を改めて南北朝と称しようとした時、適は言った、「宋が宋であるのは、天より受けたものであり、改めることはできない。契丹もまたその国名であり、古より名なき国があろうか。」そこで止んだ。同中書門下平章事・集賢殿大学士に進んだ。大璫の王守忠が節度使を求めたが、適は認めなかった。張貴妃の喪を皇儀殿で治めようとしたが、また認めないとした。適を園陵使にしようとしたが、適は国朝以来この制度がないと言い、これより次第に陳執中と合わなくなった。

原文張堯佐一日除四使,言者爭之力,帝頗怒。適曰:“台諫論事,職耳。堯佐恩實過,恐非所以全之。”遂奪二使。儂智高入寇,移嫚書求邕、桂節度,帝將受其降。適曰:“若爾,嶺外非朝廷有矣。”乃遣狄青討之。賊平,帝曰:“向非適言,南方安危,未可知也。”遷參知政事。契丹欲易國書稱南北朝,適曰:“宋之為宋,受之於天,不可改也。契丹亦其國名,自古豈有無名之國哉?”遂止。進同中書門下平章事、集賢殿大學士。大璫王守忠求為節度使,適持不可;張貴妃治喪皇儀殿,又以為不可。將以適為園陵使,適言國朝以來無此制,由是浸與陳執中不合。

適は法令に通暁し、事に臨んで胆力があったが、多く智数に頼り、清議からは認められなかった。御史の馬遵・吳中復がその貪黷と権勢を恃むことを極論し、罷免されて鄭州知州となった。京師の茶商が公銭四十万緡を負っていたが、塩鉄判官の李虞卿が急いで取り調べたため、商人は恐れて吏と取引し、適の子弟と内通した。適は虞卿を出して提点陝西刑獄とした。適が罷免されると、帝は即座に虞卿を三司に還した。再び観文殿大学士を加えられ、秦州知州となった。古渭に初めて砦を築いた時、時に属羌に掠奪され、兵を増やして防衛したため、羌はまた驚疑した。適は牛酒を備え、その種族の人々を召して諭し、かつ増やした兵を罷めると、羌は禍患とならなかった。永興軍に転じた。夏人が屈野河西部の田を累年盗み耕し、朝廷は封疆を正そうとして、適を定国軍節度使・并へい州知州とし、着任すると侵された地六百里を悉く回復した。還って河陽府知府となり、忠武・昭徳二鎮を領し、検校太師となり、再び観文殿大学士となり、太子太保のまま致仕し、太傅に進んだ。熙寧三年、卒した。享年七十。司空兼侍中を追贈され、諡は莊肅といった。

原文適曉暢法令,臨事有膽力,而多挾智數,不為清議所許。御史馬遵、吳中復極論其貪黷怙權,罷知鄭州。京師茶賈負公錢四十萬緡,鹽鐵判官李虞卿案之急,賈懼,與吏為市,內交於適子弟,適出虞卿提點陝西刑獄。及罷,帝即還虞卿三司。復加觀文殿大學士、知秦州。古渭初建砦,間為屬羌所鈔,益兵拒守,羌復驚疑。適具牛酒,召諭其種人,且罷所益兵,羌不為患。徙永興軍。夏人盜耕屈野河西田累年,朝廷欲正封,以適為定國軍節度使、知并州,至則悉復侵地六百里。還,知河陽,領忠武、昭德二鎮、檢校太師,復為觀文殿大學士,以太子太保致仕,進太傅。熙寧三年,卒,年七十。贈司空兼侍中,諡曰莊肅。

孫 子美

原文孫 子美

孫子美は、紹聖年間に湖南常平を提挙した。時に新たに役法が復活し、子美は諸路に先んじて役書を完成させ、そのまま提点刑獄に遷任した。建中靖国初年、尚書郎中に除せられたが、中書舎人鄒浩がこれを封還したため、京西転運副使に改めた。諫議大夫陳次升もまた言上した、「子美は章惇の姻戚である縁故により、湖外の使職を連ね、その旨意を承け迎えて、一時の逐臣でその管轄区域内にあった者は、多くその虐げを受けた。近畿に在らせるのは適さない」と。成都路に転じた後、累遷して直龍図閣・河北都転運使となり、漕運の財計を傾けて上に奉り、ついに緡銭三百万を投じて北珠を買い求め進上した。崇寧年間、諸路の漕臣が羨余を進上するのは、子美に始まる。北珠は女真の産出であるが、子美は契丹からこれを買い求めた。契丹はその利を貪り、女真を虐げて海東青を捕らえさせ珠を求めた。両国の禍は蓋しこれに基づく。子美はこれによって光顕の位に至った。

原文孫子美,紹聖中,提舉湖南常平。時新復役法,子美先諸路成役書,就遷提點刑獄。建中靖國初,除尚書郎中,中書舍人鄒浩封還之,改京西轉運副使。諫議大夫陳次升又言:“子美緣章惇姻家,連使湖外,承迎其旨意,一時逐臣在封部者,多被其虐,不宜使在近畿。”及徙成都路,累遷直龍圖閣、河北都轉運使,傾漕計以奉上,至捐緡錢三百萬市北珠以進。崇寧間,諸路漕臣進羨餘,自子美始。北珠出女真,子美市於契丹,契丹嗜其利,虐女真捕海東青以求珠。兩國之禍蓋基於此,子美用是致位光顯。

宣和四年、病を以て罷められ開府儀同三司・提挙嵩山崇福宮と為り、卒し、少保を贈られた。子美は郡を治めるに、奢侈を恣にし残虐であったが、然し幹才有り、至る所で事を弁治したという。

原文宣和四年,以疾罷為開府儀同三司、提舉嵩山崇福宮,卒,贈少保。子美為郡,縱侈殘虐,然有幹才,所至辦治雲。

論じて曰く、此の五人(陳執中・劉沆・馮拯・賈昌朝・梁適)は、皆文吏として宰相と為った。執中の儲君を立てる一言は、恰も上意に合致し、然らずんば、何ぞ超遷の驟なるや。然れども劉沆と共に学寡く文少なく、世に迎合して事を用いた。馮拯の議論は多く王の意に迎合し、昌朝は経術に明るくして尚お私に阿ることを尚び、梁適は法令に通暁して智術を挟んだ。斯れ君子の与せざる所なり。若し執中の私謁を受けざるは、沆の事に臨みて強果なるは、拯の従容たる一言が謂を誅死より免れしめたるは、此れ又た称するに足る者なり。

原文論曰:此五人者,皆以文吏為宰相。執中建儲一言,適契上意,不然,何超遷之驟也。然與劉沆皆寡學少文,希世用事。馮拯議論多迎合王意,昌朝明經術而尚阿私,梁適曉法令而挾智術,斯君子所不與也。若執中不受私謁,沆臨事強果,拯從容一言免謂於誅死,此又足稱者焉。