宋史

列傳第四十三 陳堯佐兄:堯叟 弟:堯咨 從子:漸 宋庠弟:祁

列傳第四十三 陳堯佐兄:堯叟 弟:堯咨 從子:漸 宋庠弟:祁

陳堯佐

原文陳堯佐

陳堯佐、字は希元、その先祖は河朔の人である。高祖こうその翔は、蜀しょくの新井令となり、ここに家を定めたので、閬州閬中人となった。

原文陳堯佐,字希元,其先河朔人。高祖翔,為蜀新井令,因家焉,遂為閬州閬中人。

父の省華、字は善則、孟昶に仕えて西水尉となった。蜀が平定されると、隴城主簿を授かり、累遷して櫟陽令となった。県内の鄭白渠は隣接する邑の豪族に占拠されていたが、省華は堰き止めをすべて取り除き、水利が均等に行き渡るようにし、民は皆これに頼った。楼煩令に転じた。端拱三年、太宗が自ら進士を試した際、長男の堯叟が甲科に及第し、拝謝の辞を述べたが、その言葉は明瞭で弁舌が立っていた。太宗は左右の者を見て「これは誰の子か」と問うた。王沔が省華の子であると答えた。太宗はただちに省華を召し出して太子中允とし、まもなく三司都憑由司を判じ、塩鉄判官に改め、殿中丞に遷った。黄河が鄆州で決壊したので、省華に命じて州事を統轄させた。まもなく京東転運使となり、祠部員外郎・蘇州知州を超拜され、金紫を賜った。時に水災に遭い、省華は数千戸の流民を救済し、餓死者はすべて埋葬したので、詔書で褒め称えられた。戸部・吏部の二員外郎を歴任し、潭州知州に改めた。省華は知略に富み弁舌が立ち、吏務の才幹があり、入朝して左蔵庫を掌り、吏部南曹を判じ、鴻臚少卿に抜擢された。景德初年、吏部銓を判じ、開封府の権知事となり、光祿卿に転じた。旧制では、卿監は朵殿に座るが、太宗は省華が京府を権知しているため、別にその席を設け、両省五品の南に昇らせた。省華は府の事務が煩雑多忙であることを理由に、賓客友人が訪問し合うことを禁じるよう請願し、許された。まもなく、病気のため任の解職を求め、左諫議大夫を拝した。再び上表して致仕を乞うたが、許されず、手詔を下して見舞い、自ら薬方を調べて賜った。三年、卒去。六十八歳。特旨により太子少師を追贈された。

原文父省華,字善則,事孟昶為西水尉。蜀平,授隴城主簿,累遷櫟陽令。縣之鄭白渠為鄰邑強族所據,省華盡去壅遏,水利均及,民皆賴之,徙樓煩令。端拱三年,太宗親試進士,伯子堯叟登甲科,占謝,辭氣明辨,太宗顧左右曰:「此誰子?」王沔以省華對。即召省華為太子中允,俄判三司都憑由司,改鹽鐵判官,遷殿中丞。河決鄆州,命省華領州事。俄為京東轉運使,超拜祠部員外郎、知蘇州,賜金紫。時遇水災,省華復流民數千戶,殍者悉瘞之,詔書褒美。歷戶部、吏部二員外郎,改知潭州。省華智辨有吏干,入掌左藏庫,判吏部南曹,擢鴻臚少卿。景德初,判吏部銓,權知開封府,轉光祿卿。舊制,卿監坐朵殿,太宗以省華權蒞京府,別設其位,升於兩省五品之南。省華以府事繁劇,請禁賓友相過,從之。未幾,因疾求解任,拜左諫議大夫,再表乞骸骨,不許,手詔存問,親閱方藥賜之。三年,卒,年六十八,特贈太子少師。

堯佐は進士に及第し、魏県・中牟の尉を歴任し、『海喻』一篇を著した。人々はその志を奇異に思った。秘書省校書郎の試験を経て朝邑県知事となったが、時に兄の堯叟が陝西に派遣され、宦官の方保吉の罪を暴いたため、保吉はこれを怨み、事をでっち上げて堯佐を誣告し、本県の主簿に降格させた。下邽に転じ、秘書郎・真源県知事、開封府司録参軍事を経て、府推官に遷った。時事について発言して旨に逆らい、潮州通判に降格された。(そこで)孔子廟を修復し、韓吏部(韓愈)の祠を建て、潮州の人々を教化し示した。民の張氏の子が母と共に江で洗濯していると、鰐魚が尾を襲って子を食い、母は救うことができなかった。堯佐はこれを聞いて哀れみ、二人の役人に命じて小船を操り網を持って捕らえに行かせた。鰐は非常に狂暴で、網で捕えることはできないはずであったが、この時、鰐は大人しく網にかかり、(堯佐は)文章を書いて市中に示し、これを煮てしまった。人々は皆驚き怪しんだ。

原文堯佐進士及第,歷魏縣、中牟尉,為《海喻》一篇,人奇其志。以試秘書省校書郎知朝邑縣,會其兄堯叟使陝西,發中人方保吉罪,保吉怨之,誣堯佐以事,降本縣主簿。徙下邽,遷秘書郎、知真源縣,開封府司錄參軍事,遷府推官。坐言事忤旨,降通判潮州。修孔子廟,作韓吏部祠,以風示潮人。民張氏子與其母濯於江,鱷魚尾而食之,母弗能救。堯佐聞而傷之,命二吏拏小舟操網往捕。鱷至暴,非可網得,至是,鱷弭受網,作文示諸市而烹之,人皆驚異。

召還されて直史館・寿州知州となった。年に大飢饉があり、俸禄の米を出して粥を作り飢えた者に食べさせた。役人たちも皆米を献上し、数万人を救済した。廬州に転じ、父の病気のため帰郷を請い、開封府界提点となった。後に両浙転運副使となった。銭塘江では竹籠に石を詰めて堤防を築いていたが、堤防は二年ごとに決壊した。堯佐は柴を沈めて土を実らせれば堅固で長持ちすると請願したが、丁謂はこれを是とせず、(堯佐は)京西転運使に転じた。後に結局堯佐の議の通りとなった。河東路に転じ、土地が寒く民が貧しく、石炭に頼って生計を立てているため、その税を免除するよう上奏した。また、沢州の大広の鉄課を数十万減らした。河北に転じたが、母が老いているため養うことを願い出て、召されて在京刑獄糾察となり、御試編排官となった。等級設定を誤った罪で官を降格され、鄂州茶場を監した。

原文召還,直史館、知壽州。歲大飢,出奉米為糜粥食餓者,吏人悉獻米至,振數萬人。徙廬州,以父疾請歸,提點開封府界事,後為兩浙轉運副使。錢塘江篝石為堤,堤再歲輒壞。堯佐請下薪實土乃堅久,丁謂不以為是,徙京西轉運使,後卒如堯佐議。徙河東路,以地寒民貧,仰石炭以生,奏除其稅。又減澤州大廣冶鐵課數十萬。徙河北,母老祈就養,召糾察在京刑獄,為御試編排官,坐置等誤降官,監鄂州茶場。

天禧年中、黄河が決壊し、滑州知州として起用され、木龍を造って水勢を弱め、また長堤を築いた。人々はこれを「陳公堤」と呼んだ。永定陵の造営が始まると、再び京西転運使に転じ、入朝して三司戸部副使となり、度支に転じ、『真宗実録』を同修した。中書省の試験を受けず、特旨により知制誥兼史館修撰に抜擢され、通進司・銀臺司を管轄した。枢密直学士に進み河南府知事となり、并へい州に転じた。汾水がしばしば暴漲すると州民は憂い騒いだので、堯佐は堤防を築き、数万本の柳を植えて柳溪を作り、民はその恩恵に頼った。

原文天禧中,河決,起知滑州,造木龍以殺水怒,又築長堤,人呼為「陳公堤」。初營永定陵,復徙京西轉運使,入為三司戶部副使,徙度支,同修《真宗實錄》。不試中書,特擢知制誥兼史館修撰,知通進、銀臺司。進樞密密直學士、知河南府,徙幷州。每汾水暴漲,州民輒憂擾,堯佐為築堤,植柳數萬本,作柳溪,民賴其利。

召されて『三朝史』を同修し、弟の堯咨に代わって開封府同知事となり、累遷して右諫議大夫となり、翰林学士となり、ついに枢密副使を拝した。祥符県知事の陳詁の統治が厳しく急峻であったため、役人たちは詁を罪に陥れようと、県を空にして逃げ去った。太后は大いに怒った。しかし詁は呂夷簡の親戚であり、執政は嫌疑を避けて敢えて弁明しなかった。事が枢密院に下ると、堯佐ただ一人が言った。「詁を罪すれば姦吏の思うつぼであり、後で誰が再び役人を糾弾しようか」。詁はこれによって罪を免れた。給事中として参知政事となり、尚書吏部侍郎に遷った。

原文召同修《三朝史》,代弟堯咨同知開封府,累遷右諫議大夫,為翰林學士,遂拜樞密副使。祥符知縣陳詁治嚴急,吏欲罪詁,乃空縣逃去,太后果怒。而詁連呂夷簡親,執政以嫌不敢辨。事下樞密院,堯佐獨曰:「罪詁則姦吏得計,後誰敢復繩吏者?」詁由是得免。以給事中參知政事,遷尚書吏部侍郎。

太后が崩御すると、執政の多くが罷免され、(堯佐は)戸部侍郎として永興軍知事となった。鄭州を通りかかった時、郡人の王文吉に変事を告発され、御史中丞范諷に下って弾劾・審理させたが、事は明らかになった。廬州知事に改め、同州に転じ、再び永興軍知事となった。かつて、太后が宦官を遣わして京兆城中に仏塔を建立させた時、前任の知事姜遵は古い碑碣をことごとく破壊して煉瓦の材料に充てた。堯佐は上奏して言った。「唐代の賢臣の墓石は、今や十のうち七、八は失われてしまった。子孫が深く刻み大きく書いて、千年に伝えようとしたものが、一朝にして瓦礫と等しくなってしまうのは、誠に惜しむべきことである。まだ破壊されていないものについては、州県に命じて完全に保護させることを願います」。鄭州に転じた。章恵太后の園陵造営に際し、州の供応が非常に厳重であったため、褒勅の詔書を賜った。まもなく同中書門下平章事・集賢殿大学士を拝した。災異が頻発したため、淮康軍節度使・同中書門下平章事・鄭州判事に罷められた。太子太師として致仕し、卒去した。司空しくう兼侍中を追贈され、諡は文恵。

原文太后崩,執政多罷,以戶部侍郎知永興軍。過鄭,為郡人王文吉以變事告,下御史中丞范諷劾治,而事乃辨。改知廬州,徙同州,復徙永興軍。初,太后遣宦者起浮圖京兆城中,前守姜遵盡毀古碑碣充磚甓用,堯佐奏曰:「唐賢臣墓石,今十亡七八矣。子孫深刻大書,欲傳之千載,乃一旦與瓦礫等,誠可惜也。其未毀者,願敕州縣完護之。」徙鄭州。會作章惠太后園陵,州供張甚嚴,賜書褒諭。既而拜同中書門下平章事、集賢殿大學士。以災異數見,罷為淮康軍節度使、同中書門下平章事、判鄭州。以太子太師致仕,卒,贈司空兼侍中,諡文惠。

堯佐は若くして学問を好み、父が諸子に経書を授けると、兄がまだ習い終わらないうちに、堯佐は盗み聞きしてすでに暗誦していた。初め錦屏山で学び、後に終南山で种放に師事した。貴顕になってからも読書をやめなかった。古隷・八分に優れ、一丈四方の大字を書き、筆力は端正で力強く、老いても衰えなかった。特に詩をよくした。性質は倹約家で、動物を見れば必ず左右の者に殺すなと戒め、器物や衣服が壊れるとすぐに補い、「不完全なものとして捨てさせてはならない」と言った。「知余子」と号した。自らその墓誌に記して言った。「八十二歳の寿命は夭折とは言えず、一品の官位は卑賤とは言えず、使相として俸禄を受けながらも辱めとは言えない。この三つはほぼ、父母の霊魂が宿る地に帰り安息するに足りる」。陳摶がかつてその父に言った。「あなたの三人の息子は皆将相となるが、中男が最も貴くかつ長寿であろう」。後には摶の言う通りとなった。『集』三十巻があり、また『潮陽編』・『野廬編』・『愚丘集』・『遣興集』がある。

原文堯佐少好學,父授諸子經,其兄未卒業,堯佐竊聽已成誦。初肄業錦屏山,後從种放於終南山,及貴,讀書不輟。善古隸八分,為方丈字,筆力端勁,老猶不衰。尤工詩。性儉約,見動物,必戒左右勿殺,器服壞,隨輒補之,曰:「無使不全見棄也。」號「知余子」。自志其墓曰:「壽八十二不為夭,官一品不為賤,使相納祿不為辱,三者粗可歸息於父母棲神之域矣。」陳摶嘗謂其父曰:「君三子皆當將相,惟中子貴且壽。」後如摶言。有《集》三十卷,又有《潮陽編》、《野廬編》、《愚丘集》、《遣興集》。

兄 堯叟

原文兄 堯叟

堯叟、字は唐夫、初官は光禄寺丞・直史館となり、省華と同じ日に緋衣を賜り、秘書丞に遷った。しばらくして、三司河南東道判官を充任した。時に宋・亳・陳・潁の民が飢えたので、堯叟と趙況らに命じて分かれて救済させた。再び工部員外郎・広南西路転運使に遷った。嶺南の風俗では、病人は神に祈って薬を服用しない。堯叟は『集験方』を著し、桂州の駅舎に石碑を刻んだ。また、地気が蒸し暑いため、木を植え井戸を掘り、二十、三十里ごとに亭舎を設け、飲用の器を備えさせ、人が暑さで死ぬのを防いだ。黎桓に恩典を加えることになり、交州国信使となった。かつて、使者は必ず数千緡の贈り物を得ていたが、桓は民に賦斂を課し、しばしばその手や足の指を切断していた。堯叟はこれを知り、桓の子を召し出して朝廷の命令を授け、私的な贈り物は退けた。また、桓の境界内から先に亡命して来た者が多く、匿って送還しなかったため、このため海賊が頻繁に侵入していた。堯叟は亡命者をすべて捕らえて桓に返還した。桓は恩を感じ、海賊も捕らえて謝罪とした。

原文堯叟,字唐夫,解褐光錄寺丞、直史館,與省華同日賜緋,遷秘書丞。久之,充三司河南東道判官。時宋、亳、陳、潁民飢,命堯叟及趙況等分振之。再遷工部員外郎、廣南西路轉運使。嶺南風俗,病者禱神不服藥,堯叟有《集驗方》,刻石桂州驛。又以地氣蒸暑,為植樹鑿井,每三二十里置亭舍,具飲器,人免暍死。會加恩黎桓,為交州國信使。初,將命者必獲贈遺數千緡,桓責賦斂於民,往往斷其手及足趾。堯叟知之,遂奏召桓子,授以朝命,而卻其私覿。又桓界先有亡命來奔者,多匿不遣,因是海賊頻年入寇。堯叟悉捕亡命歸桓,桓感恩,並捕海賊為謝。

先に、毎年雷州・化州・高州・藤州・容州・白州などの諸州の兵士を徴発し、軍糧を運搬させ海を渡って瓊州に供給していた。その兵士は水運に慣れておらず、多くが沈没溺死したので、皆これを苦しんでいた。海の北岸に遞角場があり、ちょうど瓊州と向かい合っており、風の便を待てば一日で到達でき、雷州・化州・高州・太平州の四州の地とは水路で近接している。堯叟はこれにより計画を立て、四州の民の租米を移して遞角場に輸送させ、ただ瓊州に蜑兵を派遣させ船を整えて自ら取りに行かせるようにし、人々は便利であると考えた。

原文先是,歲調雷、化、高、藤、容、白諸州兵,使輦軍糧泛海給瓊州。其兵不習水利,率多沉溺,咸苦之。海北岸有遞角場,正與瓊對,伺風便一日可達,與雷、化、高、太平四州地水路接近。堯叟因規度移四州民租米輸於場,第令瓊州遣蜑兵具舟自取,人以為便。

咸平初年、詔を下して諸路に民に桑や棗を植えさせるよう課したところ、堯叟が上言して言うには、「臣の管轄する諸州は、風土がもともと異なり、田畑には山石が多く、土地には桑や蠶が少ない。かつて八蠶の綿と云われたが、それは五嶺の習俗ではあるまい、その産出を推し量れば、おそらく安南にあるであろう。今その民は水田を耕すほかは、土地の利で広く取れるものは麻苧のみである。麻苧の植え付けは、桑や柘と変わらず、一旦宿根となれば、すぐに新たな幹を伸ばし、枝葉が茂るのを待って刈り取れば、一年の間に三度その苧を収穫できる。また一度根を固めれば、十年衰えない。田畑を離れたその場で、すぐに紡績できる。しかし布が出来上がっても、一端あたりわずか百銭で売られるのみで、これは織る者が多く、買う者が少ないからであり、故に土地には遺された利益があり、民は資金に苦しんでいる。臣は国家の軍需で急務なものは布帛が第一であると考え、これにより管下の民に勧めて広く麻苧を植えさせ、銭や塩で折変して買い上げたところ、二年も経たないうちに、既に三十七万余匹を得た。朝廷が交州・広州を平定して以来、布帛の供給は年間わずか一万に及んでいたが、今得たものと較べれば、何と十倍を超えている。今栽培に携わる民は、互いに競って勧め合い、機織りの仕事は日増しに広まっている。願わくは今後、植えた麻苧の面積を、桑や棗の数に折り換えることを許し、諸県の令や佐が例に従って歴に記録して課とし、民が布を官に売りに出る者は、その算税を免じていただきたい。このようにすれば布帛は上供され、貨幣は下流に流れ、公私ともに互いに助け合い、その利益は甚だ大きい。」詔してこれに従った。任を代えて還ると、刑部員外郎を加えられ、度支判官を充任した。

原文咸平初,詔諸路課民種桑棗,堯叟上言曰:「臣所部諸州,土風本異,田多山石,地少桑蠶。昔云八蠶之綿,諒非五嶺之俗,度其所產,恐在安南。今其民除耕水田外,地利之博者惟麻苧爾。麻苧所種,與桑柘不殊,既成宿根,旋擢新榦,俟枝葉裁茂則刈獲之,周歲之間,三收其苧。復一固其本,十年不衰。始離田疇,即可紡績。然布之出,每端止售百錢,蓋織者眾、市者少,故地有遺利,民艱資金。臣以國家軍須所急,布帛為先,因勸諭部民廣植麻苧,以錢鹽折變收市之,未及二年,已得三十七萬餘匹。自朝廷克平交、廣,布帛之供,歲止及萬,較今所得,何止十倍。今樹藝之民,相率競勸;杼軸之功,日以滋廣。慾望自今許以所種麻苧頃畝,折桑棗之數,諸縣令佐依例書歷為課,民以布赴官賣者,免其算稅。如此則布帛上供,泉貨下流,公私交濟,其利甚博。」詔從之。代還,加刑部員外郎,充度支判官。

間もなく、撫水蠻の酋長蒙令國が使臣を殺害して騒動を起こしたため、堯叟を広南東路・広南西路の両路安撫使とし、金印紫綬を賜って派遣した。事態が平定すると、兵部に転じ、主客郎中・樞密直學士・三班を管轄し銀臺通進封駁司・制置群牧使を兼ねた。

原文未幾,會撫水蠻酋蒙令國殺使臣擾動,命堯叟為廣南東、西兩路安撫使,賜金紫遣之。事平,遷兵部,拜主客郎中、樞密直學士、知三班兼銀臺通進封駁司、制置群牧使。

黄河が澶州の王陵口で決壊したため、詔を下してこれを護岸修復に向かわせ、馮拯とともに河北・河東の安撫副使となった。当時、朝廷内外から封事を上奏する者が非常に多かったため、堯叟と拯に利害を詳しく定めさせ、また三司とともに冗事を減らすことを議させた。まもなく拯とともに右諫議大夫・同知樞密院事に任じられた。三司の官吏には依違(いい加減)の悪習が積もり、文書に五、七年経っても決裁されないものがあるという意見があり、官吏や民衆が抑圧され、水害や旱害などの災害も多くはこれに起因するとされた。各部の判官に委ねて検査判決させ、もし再び滞るようなら、当該路の転運使に上奏を許し、命官に推問させて、怠慢を戒めよとの請願があった。そこで詔して堯叟と拯に常参官で有能敏速な者を推薦させ、三司使とともに煩雑冗長な事務を減らすことを議させ、滞った事務を参決させた。堯叟は秘書丞直史館の孫冕にこれを共同で担当させるよう請い、合わせて煩雑な文書帳簿二十一万五千余通を省き、また河北の冗官七十五員を削減した。

原文河決澶州王陵口,詔往護塞之,遂與馮拯同為河北、河東安撫副使。時中外上封奏者甚眾,命與拯詳定利害,及與三司議減冗事。俄與拯並拜右諫議大夫、同知樞密院事。有言三司官吏積習依違,文牒有經五七歲不決者,吏民抑塞,水旱災沴,多由此致。請委逐部判官檢覆判決,如復稽滯,許本路轉運使聞奏,命官推鞫,以警弛慢。乃詔堯叟與拯舉常參官幹敏者,同三司使議減煩冗,參決滯務。堯叟請以秘書丞直史館孫冕同領其事,凡省去煩冗文帳二十一萬五千餘道,又減河北冗官七十五員。

五年、郊祀が行われ、給事中に進んだ。王継英が樞密使となった際、堯叟を簽署院事とし、俸禄や恩典の扱いは全て副使と同様とし、工部侍郎に遷った。真宗が澶淵に行幸した際、駅伝に乗って先に北砦へ赴き軍事を視察するよう命じ、便宜を許された。景德年間、刑部侍郎・兵部侍郎の二つの侍郎に遷り、王欽若とともに樞密院事を知った。真宗が陵墓に参拝した際、東京留守を権任した。常に刑罰や禁令を裁断し、死刑であっても面と向かって供述を取るのみで、速やかに判決して送り出したため、獄に囚人が繫がれることがなかった。真宗は「堯叟は元来裁断力があるが、重大な事案は有司に付して審問させ詳しく調査すべきである」と言い、密かに詔を下して諭した。まもなく群牧制置使を兼ねた。初めてこの使職を設置した時、堯叟をこれに任じたが、樞密を掌るとその任を罷免していた。この時、国馬は軍事の根本であり、大臣が総領すべきであるとして、故に再び堯叟に委ねたのである。これ以降多く条約を定めた。また『監牧議』を著し、馬政の重要性を述べた。国史の編纂に預かった。

原文五年,郊祀,進給事中。會王繼英為樞密使,以堯叟簽署院事,奉秩恩例悉同副使,遷工部侍郎。真宗幸澶淵,命乘傳先赴北砦按視戎事,許以便宜。景德中,遷刑部、兵部二侍郎,與王欽若並知樞密院事。真宗朝陵,權東京留守。每裁剸刑禁,雖大辟亦止面取狀,亟決遣之,以故獄無繫囚。真宗曰:「堯叟素有裁斷,然重事宜付有司按鞫而詳察之。」因密加詔諭。俄兼群牧制置使。始置使,即以堯叟為之,及掌樞密,即罷其任。至是,以國馬戎事之本,宜得大臣總領,故又委堯叟焉。自是多立條約。又著《監牧議》,述馬政之重。預修國史。

大中祥符初年、東封が行われ、尚書左丞を加えられた。詔を下して『朝覲壇碑』を撰述させ、工部尚書に進み、『封禪聖制頌』を献上すると、帝は歌を作って答えた。汾陰を祀る際、経度制置使・判河中府となった。礼が成ると、戸部尚書に進んだ。当時、王欽若に『朝覲壇頌』を撰述させる詔が下ったが、欽若は表を上って堯叟に譲ったが、許されなかった。別に堯叟に『親謁太寧廟頌』を撰述させ、特進を加えられ、功臣号を賜った。また堯叟が草書や隷書に優れていたため、詔を下して行幸途上の御製歌詩を書き写して石碑に刻ませた。

原文大中祥符初,東封,加尚書左丞。詔撰《朝覲壇碑》,進工部尚書,獻《封禪聖制頌》,帝作歌答之。祀汾陰,為經度制置使、判河中府。禮成,進戶部尚書。時詔王欽若為《朝覲壇頌》,表讓堯叟,不許。別命堯叟撰《親謁太寧廟頌》,加特進,賜功臣。又以堯叟善草隸,詔寫途中御制歌詩刻石。

五年、欽若とともに本官のまま檢校太傅・同平章事に任じられ、樞密使を充任し、檢校太尉を加えられた。太清宮への行幸に従い、開府儀同三司を加えられた。間もなく、欽若とともに本官を守って罷免されたが、依然として群牧を領した。翌年、再び欽若とともに本官のまま檢校太尉・同平章事に任じられ、樞密使を充任した。堯叟は元来足の病を患っており、たびたび休暇を請うた。九年の夏、帝が臨問し、労をねぎらい賜物を加等した。病が重くなると、表を上って退位を求め、閤門使の楊崇勳を邸に遣わして慰撫し、その意向を尋ねさせた。堯叟の言葉と志は甚だ確固としており、優遇して右僕射・知河陽に任じた。轎に乗って入朝して辞し、便殿に至ると、三人の子に支えさせて殿上に昇ることを許し、詩を賜って送別し、また次男の希古に緋服を賜った。

原文五年,與欽若並以本官檢校太傅、同平章事,充樞密使,加檢校太尉。從幸太清宮,加開府儀同三司。未幾,與欽若罷守本官,仍領群牧。明年,復與欽若以本官檢校太尉、同平章事,充樞密使。堯叟素有足疾,屢請告。九年夏,帝臨問,勞賜加等。疾甚,表求避位,遣閤門使楊崇勳至第撫慰,以詢其意。堯叟詞志頗確,優拜右僕射、知河陽。肩輿入辭,至便坐,許三子扶掖升殿,賜詩為餞,又賜仲子希古緋服。

天禧初年、病が重篤になると、その子を召し寄せ筆を執らせ、口述で奏章を作り、都に戻ることを求めたので、詔してこれを許した。轎で京師に至り、卒去した。五十七歳であった。二日間朝政を停止し、侍中を追贈し、諡して文忠とし、その孫の知言・知章を将作監主簿に任用した。長子の師古は進士出身を賜り、後に都官員外郎となった。希古は太子中舍に至ったが、事に坐して官籍を削除された。

原文天禧初,病亟,召其子執筆,口占奏章,求還輦下,詔許之。肩輿至京師,卒,年五十七。廢朝二日,贈侍中,諡曰文忠,錄其孫知言、知章為將作監主簿。長子師古賜進士出身,後為都官員外郎。希古至太子中舍,坐事除籍。

堯叟は姿形が立派で、力強く、奏上や応対は明瞭弁別であり、多くは数に通暁していた。長く機密を司り、軍馬の帳簿は全て詳細に記憶できた。著書に『請盟録』三集二十巻がある。

原文堯叟偉姿貌,強力,奏對明辨,多任知數。久典機密,軍馬之籍,悉能周記。所著《請盟錄》三集二十卷。

母の馮氏は、性質が厳格であった。堯叟は親に仕えることに孝順謹直で、穏やかな声で側に侍り、貴ぶことを以て自らに処することはなかった。家は元来富裕で、俸禄や賜物も厚かったが、馮氏は諸子に華美奢侈を事とさせることを許さなかった。景德年間、堯叟は樞機を掌り、弟の堯佐は直史館、堯咨は知制誥であり、父の省華とともに北省(中書省)に在り、諸孫で官に任じている者は十数人、宗族親戚で科挙に合格した者も数人おり、栄華盛んなこと比類がなかった。賓客が来ると、堯叟兄弟は省華の側に侍立したので、客は居心地が悪く感じ、多くは立ち去った。旧制では樞密院の高官に登ると、母や妻は即座に郡夫人に封じられた。堯叟は父が朝廷に在ったため、母は父の封に従うのみとして、遂に妻への封を表に記して母に譲ろうとしたが、朝廷は制度を引き合いに出して許さなかった。父が既に卒去すると、帝はその母を褒め封じようと、王旦に問うた。旦は「私門の礼制には欠けていませんが、公朝から命を降すことも差し支えありません」と言った。そこで上黨郡太夫人に封じ、滕国夫人に進封した。八十余歳で病なく、堯叟の数年後に卒去した。

原文母馮氏,性嚴。堯叟事親孝謹,怡聲侍側,不敢以貴自處。家本富,祿賜且厚,馮氏不許諸子事華侈。景德中,堯叟掌樞機,弟堯佐直史館,堯咨知制誥,與省華同在北省,諸孫任官者十數人,宗親登科者又數人,榮盛無比。賓客至,堯叟兄弟侍立省華側,客不自安,多引去。舊制登樞近者,母妻即封郡夫人。堯叟以父在朝,母止從父封,遂以妻封表讓於母,朝廷援制不許。父既卒,帝欲褒封其母,以問王旦。旦曰:「雖私門禮制未闕,公朝降命亦無嫌也。」乃封上黨郡太夫人,進封滕國,年八十餘無恙,後堯叟數年卒。

弟 堯咨

原文弟 堯咨

堯咨は、字を嘉謨といい、進士の第一に挙げられ、将作監丞・済州通判を授かり、召されて秘書省著作郎・直史館・判三司度支勾院となり、初めて三つの勾院を合わせて兼ねて総管した。右正言・知制誥に抜擢された。崇政殿で進士の試験が行われたとき、堯咨が考官となり、三司使劉師道が弟の幾道に命じて試巻に目印をつけさせた事件に連座し、単州団練副使に貶官された。再び著作郎となり、光州知州となった。まもなく右正言・知制誥を復し、荊南知州となった。起居舎人に改め、同判吏部流内銓となった。旧制では、選人は推薦者の数によって官を遷すが、寒門の士は進む道がなかった。堯咨は抜擢すべき者を進言し、皇帝は特に彼らを昇進させた。右諫議大夫・集賢院学士に改め、龍図閣直学士・尚書工部郎中として永興軍知軍となった。長安ちょうあんの土地は塩分を含み、良質の水がなかったので、堯咨は龍首渠を疏浚して城中に引き入れ、民はその利益を得た。しかし豪奢で法度に従わず、武庫を広げ、視草堂を建て、三つの門を開き、甬道を築き、出入りには禁兵を列ねて自衛した。刑罰は残酷で峻急であり、杖で死ぬ者がしばしばあった。かつて気勢で転運使楽黄目を凌ぎ、黄目は耐えられず、解任を求めて去ったため、堯咨は河南府知府に転じた。その後、堯咨が長安を守っていたときの不法行為を告発する者が現れたが、皇帝は徹底的に追及することを望まず、官職を削って鄧州に移しただけで、わずか数か月で、再び知制誥となった。

原文堯咨,字嘉謨,舉進士第一,授將作監丞、通判濟州,召為秘書省著作郎、直史館、判三司度支勾院,始合三部勾院兼總之。擢右正言、知制誥。崇政殿試進士,堯咨為考官,三司使劉師道屬弟幾道以試卷為識驗,坐貶單州團練副使。復著作郎、知光州。尋復右正言、知制誥,知荊南。改起居舍人,同判吏部流內銓。舊格,選人用舉者數遷官,而寒士無以進,堯咨進其可擢者,帝特遷之。改右諫議大夫、集賢院學士,以龍圖閣直學士、尚書工部郎中知永興軍。長安地斥鹵,無甘泉,堯咨疏龍首渠注城中,民利之。然豪侈不循法度,敞武庫,建視草堂,開三門,築甬道,出入列禁兵自衛。用刑慘急,數有仗死者。嘗以氣凌轉運使樂黃目,黃目不能堪,求解去,遂徙堯咨知河南府。既而有發堯咨守長安不法者,帝不欲窮治,止削職徙鄧州,才數月,復知制誥。

堯咨の性質は剛直で強情であり、たびたび挫折し、憂鬱で自ら楽しむことができなかった。兄の堯叟が進見したとき、皇帝が尋ねると、堯叟は答えて言った。「堯咨は、陛下の恩恵がご加護くださる所以を知る由もなく、讒言に遭ったためにこうなったと思っているだけです。」皇帝は詔を下してその事柄を列挙し厳しく責めると、ようやく恐れ入って謝罪した。帰還後、登聞検院を判じ、再び龍図閣直学士となった。推薦の過ちに連座し、兵部員外郎に降格された。母の喪に服した後、工部郎中・龍図閣直学士・会霊観副使として復職した。辺境の臣から飛駅で奏上があり、唃廝囉が文法を立てて蕃部を召集し辺境を侵そうとしているというので、陝西縁辺安撫使に任じられた。再び右諫議大夫に遷り、秦州知州となり、同州に移り、尚書工部侍郎として開封府の権知となった。入朝して翰林学士となり、先朝の初めての科挙の甲科であったため、特に詔して旧学士蔡斉の上に班列させた。

原文堯咨性剛戾,數被挫,忽忽不自樂。堯叟進見,帝問之,對曰:「堯咨豈知上恩所以保佑者,自謂遭讒以至此爾!」帝賜詔條其事切責,乃皇恐稱謝。還,判登聞檢院,復龍圖閣直學士。坐失舉,降兵部員外郎。喪母,起復工部郎中、龍圖閣直學士、會靈觀副使。邊臣飛奏唃廝囉立文法召蕃部欲侵邊,以為陝西緣邊安撫使。再遷右諫議大夫、知秦州,徙同州,以尚書工部侍郎權知開封府。入為翰林學士,以先朝初榜甲科,特詔班舊學士蔡齊之上。

宿州観察使に換えられ、天雄軍知軍となり、その位は丞郎の上にあった。堯咨は内心不平で、上章して固辞したが、皇太后が特に隻日に召見し、諭して説得したので、やむを得ず拝命した。契丹が和好を修めて以来、城壁や器械は長らく整備されていなかったが、堯咨はこれを修繕完成させた。しかし物資の徴発は煩わしく、しばしば激怒し、軍士に大棒を持たせて前に侍らせ、吏民の言葉が気に入らなければ、すぐに打ち据えて倒した。安国軍節度観察留後として鄆州知州となった。新河を浚渫し、魚山から下杷まで水害を導くことを上奏して請願した。武信軍節度使・河陽知州を拝命し、澶州に移り、また天雄軍に移った。住居の棟が崩れ、大きな星が庭に落ち、白気となって散った。まもなく卒去し、太尉を追贈され、諡は康肅といった。

原文換宿州觀察使、知天雄軍,位丞郎上。堯咨內不平,上章固辭,皇太后特以隻日召見,敦諭之,不得已,拜命。自契丹修好,城壁器械久不治,堯咨葺完之。然須索煩擾,多暴怒,列軍士持大梃侍前,吏民語不中意,立至困仆。以安國軍節度觀察留後知鄆州。建請浚新河,自魚山至下杷以導積水。拜武信軍節度使、知河陽,徙澶州,又徙天雄軍。所居棟摧,大星霣於庭,散為白氣。已而卒,贈太尉,諡曰康肅。

堯咨は兄弟の中で最も文才に乏しかったが、気節を以て自ら任じた。隷書をよくした。射術に優れ、かつて銭を的にして、一発でその穴を貫いた。兄弟が同時に貴顕となり、当時は盛んな一族と推された。子の述古は、太子賓客で致仕した。博古は、学問に篤実で文才があり、館閣校勘となったが、早世した。

原文堯咨於兄弟中最為少文,然以氣節自任。工隸書。善射,嘗以錢為的,一發貫其中。兄弟同時貴顯,時推為盛族。子述古,太子賓客致仕;博古,篤學能文,為館閣校勘,早卒。

従子に漸がいる。

原文從子 漸

従子の漸は、字を鴻漸といい、若くして文才で蜀に知られた。淳化年間、父の堯封とともに進士として廷試を受けたが、太宗が漸を及第させようとすると、すぐに辞退して受けず、父を抜擢することを願い、許された。咸平初年に至り、漸は初めて仕官し、天水県尉となった。当時、学者で揚雄の『太玄経』に通じる者は稀であったが、漸はただこれを好み、十五篇の書を著して『演玄』と号し、奏上した。学士院に召されて試みられ、儀州軍事推官を授かった。賢良方正科に挙げられたが及第せず、再び隴西防禦推官に任じられたが、法に連座して免官され帰郷し、再び仕進の意思はなく、蜀中の学者多くが彼と交遊した。堯咨は学ばず、漸は内心で軽蔑した。堯咨が後に貴顕となると、漸との違いはますます大きくなり、漸を罪ある者として、徒党を集めすぎているから遠方に長く留めるべきではないと言った。すぐに漸を京師に召し、潁州長史を授けた。丁謂らは彼に他意のないことを知り、鳳州団練推官に改めることを得て、耀州節度推官に遷った。卒去し、文集十五巻があり、自ら「金亀子」と号した。

原文從子漸,字鴻漸,少以文學知名於蜀。淳化中,與其父堯封皆以進士試廷中,太宗擢漸第,輒辭不就,願擢其父,許之。至咸平初,漸始仕,為天水縣尉。時學者罕通揚雄《太玄經》,漸獨好之,著書十五篇,號《演玄》,奏之。召試學士院,授儀州軍事推官。舉賢良方正科,不中,復調隴西防禦推官,坐法免歸,不復有仕進意,蜀中學者多從之游。堯咨不學,漸心薄之。堯咨後貴顯,與漸益不同,因言漸罪戾之人,聚徒太盛,不宜久留遠方。即召漸至京師,授潁州長史。丁謂等知其無他,得改鳳州團練推官,遷耀州節度推官。卒,有文集十五卷,自號「金龜子」。

宋庠

原文宋庠

宋庠は、字を公序といい、安州安陸の人であるが、後に開封の雍丘に移った。父の杞は、かつて九江の掾となり、妻の鐘とともに廬阜で祈願した。鐘は道士が書物を授けて「これを汝の子に与えよ」と言う夢を見た。見ると『小戴礼』であり、まもなく庠が生まれた。後に許真君の像を見ると、それは夢の中で見た者であった。

原文宋庠,字公序,安州安陸人,後徙開封之雍丘。父杞,嘗為九江掾,與其妻鐘禱於廬阜。鐘夢道士授以書曰:「以遺爾子。」視之,《小戴禮》也,已而庠生。他日見許真君像,即夢中見者。

庠は天聖初年に進士に挙げられ、開封府試・礼部試ともに第一となり、大理評事・同判襄州に抜擢された。召されて試みられ、太子中允・直史館に遷り、三司戸部判官を歴任し、同修起居注となり、再び左正言に遷った。郭皇后が廃されたとき、庠は御史とともに閣に伏して争論し、罰金に処せられた。久しくして、知制誥となった。当時、賢良・茂才などの科を親策したが、武挙人と雑然と視察するよう命じた。庠は言った。「天下の士を待遇する道ではありません。本朝の故事のように、役所に命じて席を設け飲食を備えさせ、武挙人は斥けて別に試験させるべきです。」詔してこれに従った。

原文庠天聖初舉進士,開封試、禮部皆第一,擢大理評事、同判襄州。召試,遷太子中允、直史館,歷三司戶部判官,同修起居注,再遷左正言。郭皇后廢,庠與御史伏閣爭論,坐罰金。久之,知制誥。時親策賢良、茂才等科,而命與武舉人雜視。庠言:「非所以待天下士,宜如本朝故事,命有司設次具飲膳,斥武舉人令別試。」詔從之。

史館修撰を兼ね、審刑院知院事となった。密州の豪族王澥が私的に酒を醸造し、隣人が捕らえに行くと、澥は奴隷を欺いて「賊だ」と言い、その父子四人を皆殺しにさせた。州は奴隷を法によって論じたが、澥だけは死罪にならなかった。宰相陳堯佐が澥を擁護したが、庠は力爭し、ついに澥を死罪に処した。権判吏部流内銓に改め、尚書刑部員外郎に遷った。仁宗は彼を右諫議大夫・同知枢密院事にしようとしたが、中書が故事に自知制誥から執政に除する例はないと言ったので、詔して翰林学士とした。帝は庠を厚遇し、やがて大用しようとした。

原文兼史館修撰、知審刑院。密州豪王澥私釀酒,鄰人往捕之,澥紿奴曰:「盜也。」盡使殺其父子四人。州論奴以法,澥獨不死。宰相陳堯佐右澥,庠力爭,卒抵澥死。改權判吏部流內銓,遷尚書刑部員外郎。仁宗欲以為右諫議大夫、同知樞密院事,中書言故事無自知制誥除執政者,乃詔為翰林學士。帝遇庠厚,行且大用矣。

庠は初め郊と名乗っていたが、李淑は彼が自分より先になることを恐れ、奇異な解釈で中傷し、言った。「宋は、天命を受けた号である。郊は、交わることである。姓名を合わせて言うのは不祥です。」帝は気に留めなかったが、ある日これを庠に告げたので、名を庠と改めた。宝元年間、右諫議大夫として参知政事となった。庠は宰相として儒雅であり、故事に通暁し、執政になってからは、事に遇うごとに是非を分別した。かつてゆったりと唐の入閣の儀礼について論じたことがあり、庠は退いて上奏した。

原文庠初名郊,李淑恐其先己,以奇中之,言曰:「宋,受命之號;郊,交也。合姓名言之為不祥。」帝弗為意,他日以諭之,因改名庠。寶元中,以右諫議大夫參知政事。庠為相儒雅,練習故事,自執政,遇事輒分別是非。嘗從容論及唐入閣儀,庠退而上奏曰:

「入閣とは、唐の隻日に紫宸殿で常朝を受ける儀礼である。唐には大内があり、また大明宮があり、宮は大内の東北にあり、世に東内といい、高宗以後、天子は多くここにいた。大明宮の正南門を丹鳳門といい、門内の第一殿を含元殿といい、大朝会にはここに御する。第二殿を宣政殿といい、正衙といい、朔望や大冊拜にはここに御する。第三殿を紫宸殿といい、上閣といい、また内衙といい、隻日の常朝にはここに御する。天子が朝に坐するには、正衙殿に立伏しなければならず、あるいは乗輿で紫宸に止まるならば、仗を喚んで宣政殿の両門から入らせる。これを東・西上閣門という。

原文「入閣,乃有唐隻日於紫宸殿受常朝之儀也。唐有大內,又有大明宮,宮在大內之東北,世謂之東內,高宗以後,天子多在。大明宮之正南門曰丹鳳門,門內第一殿曰含元殿,大朝會則御之;第二殿曰宣政殿,謂之正衙,朔望大冊拜則御之;第三殿曰紫宸殿,謂之上閣,亦曰內衙,隻日常朝則御之。天子坐朝,須立伏於正衙殿,或乘輿止御紫宸,即喚仗自宣政殿兩門入,是謂東、西上閣門也。

本朝の宮殿を唐の宮殿に見立てると、宣徳門は唐の丹鳳門であり、大慶殿は唐の含元殿であり、文徳殿は唐の宣政殿であり、紫宸殿は唐の紫宸殿である。今、入閣の本来の意味を求め、儀典に施そうとするならば、まず文徳殿の庭に儀仗を立てるべきであり、天子が紫宸殿にのみ御する時は、儀仗を東・西の閣門から呼び入れるべきである。このようにすれば、旧儀とほぼ合致する。ただ、現在の諸殿は、唐の制度に比べて南北が相対していないだけである。また、唐の中葉以降を調べると、双日および臨時に大臣が奏事する際は、別に延英殿を開いた。これは、今の休日に崇政殿や延和殿に御するのと同じである。ここから知るに、唐の制度では、坐朝の日があるごとに、すなわち入閣としていた。その後、正衙での儀仗立がそれによって遂に廃れ、甚だ礼に非ざるものであった。」

原文以本朝宮殿視之:宣德門,唐丹鳳門也;大慶殿,唐含元殿也;文德殿,唐宣政殿也;紫宸殿,唐紫宸殿也。今欲求入閣本意,施於儀典,須先立仗文德庭,如天子止御紫宸,即喚仗自東、西閣門入,如此則差與舊儀合。但今之諸殿,比於唐制南北不相對爾。又按唐自中葉以還,雙日及非時大臣奏事,別開延英殿,若今假日御崇政、延和是也。乃知唐制每遇坐朝日,即為入閣,其後正衙立仗因而遂廢,甚非禮也。」

宋庠は宰相の呂夷簡と議論がしばしば合わず、宋庠と親しい者はすべて、呂夷簡によって朋党と指弾され、鄭戩や葉清臣らは皆、外任に出された。そこで宋庠は揚州知州に任じられた。間もなく、資政殿学士として鄆州に移り、給事中に進んだ。参知政事范仲淹が去職すると、帝は宰相の章得象に、誰が仲淹の代わりを務められるかと問うた。得象は宋祁を推薦した。帝はもともと宋庠を意に留めており、再び召して参知政事とした。慶暦七年春の旱魃に際し、漢代の災異により三公を策免する故事を用い、宰相の賈昌朝を罷免し、輔臣は皆一官を削られた。宋庠は右諫議大夫となった。帝がかつて二府を資政殿に召して対面させ、手詔を出して時事について策問した時、宋庠は言った。「両漢の対策は、本来、岩穴や草萊の士を招くものでした。今、政府に備えている者が諸生と同列にされるのは、朝廷を尊ぶことにはなりません。中書に至り合議して条奏することを請います。」当時、陳執中が宰相であったが、学がなく文才に乏しかったため、夏竦が帝にこの謀を授け、執中を困らせようとしたのである。論者は宋庠を体(礼の本質)を知る者とした。

原文庠與宰相呂夷簡論數不同,凡庠與善者,夷簡皆指為朋黨,如鄭戩、葉清臣等悉出之,乃以庠知揚州。未幾,以資政殿學士徙鄆州,進給事中。參知政事范仲淹去位,帝問宰相章得象,誰可代仲淹者,得象薦宋祁。帝雅意在庠,復召為參知政事。慶歷七年春旱,用漢災異策免三公故事,罷宰相賈昌朝,輔臣皆削一官,以庠為右諫議大夫。帝嘗召二府對資政殿,出手詔策以時事,庠曰:「兩漢對策,本延岩穴草萊之士,今備位政府而比諸生,非所以尊朝廷,請至中書合議條奏。」時陳執中為相,不學少文,故夏竦為帝畫此謀,意欲困執中也。論者以庠為知體。

翌年、尚書工部侍郎を除され、枢密使を充任した。皇祐年間、兵部侍郎・同中書門下平章事・集賢殿大学士に拝された。明堂の祭祀を行い、工部尚書に遷った。かつて群臣の家廟を復活させるよう請い、言った。「慶暦元年の赦書は、文武官に家廟を立てることを許しました。しかし、有司は終に先典を推し述べることができず、因循して顧みるばかりで、王公の祭祀が巷の庶民と同じになり、衣冠の昭穆が家人と雑用されるに至り、便宜的に襲う弊害は、甚だ嘆かわしいものです。有司に論定施行を下すよう請います。」しかし、議論は一致せず、結局復活しなかった。

原文明年,除尚書工部侍郎,充樞密使。皇祐中,拜兵部侍郎、同中書門下平章事、集賢殿大學士。享明堂,遷工部尚書。嘗請復群臣家廟,曰:「慶歷元年赦書,許文武官立家廟,而有司終不能推述先典,因循顧望,使王公薦享,下同委巷,衣冠昭穆,雜用家人,緣偷襲弊,甚可嗟也。請下有司論定施行。」而議者不一,卒不果復。

三年、宋祁の子が越国夫人曹氏の客である張彦方と交遊した。ところが彦方が敕牒を偽造し、人のために官を補任し、死罪に論じられた。諫官の包拯が、宋庠が子弟をよく統制せず、また宋庠が政府にあって何ら建明するところがないと奏上した。宋庠もまた去職を請うた。そこで刑部尚書・観文殿大学士として河南府知事となり、後に許州に移り、また河陽に移り、再び兵部尚書に遷った。入朝して拝謁すると、詔により中書門下の班列に加えられ、出入りの儀仗・器物はその格式に従った。検校太尉・同平章事として枢密使を充任し、莒国公に封じられた。しばしば言った。「国家は根本を慎み固くすべきであり、畿輔の宿兵は常に四十万を満たし、余剰があれば出して更戍を補う。これは祖宗の当初の謀であり、軽々しく改めるべきではない。」やがて副使の程戡と不協和音を生じ、戡が罷免されると、御史が宋庠は昏惰であると上言した。そこで河陽三城節度使・同平章事として鄭州を判し、相州に移った。病気のため召還された。

原文三年,祁子與越國夫人曹氏客張彥方游。而彥方偽造敕牒,為人補官,論死。諫官包拯奏庠不戢子弟,又言庠在政府無所建明,庠亦請去。乃以刑部尚書、觀文殿大學士知河南府,後徙許州,又徙河陽,再遷兵部尚書。入覲,詔綴中書門下班,出入視其儀物。以檢校太尉、同平章事充樞密使,封莒國公。數言:「國家當慎固根本,畿輔宿兵常盈四十萬,羡則出補更戍,祖宗初謀也,不苟輕改。」既而與副使程戡不協,戡罷,而御史言庠昏惰,乃以河陽三城節度、同平章事判鄭州,徙相州。以疾召還。

英宗が即位すると、武寧軍節度使に移鎮し、鄭国公に改封された。宋庠は相州にいた時から既に上章して老齢を理由に退職を請うており、この時になっても請うのをやめなかった。帝は大臣であることを理由に、急には従うに忍びず、判亳州として出させた。宋庠は前後して赴任した地では、慎み静かに治め、再び登用されてからは、沈浮に自ら安んじた。晚年は末子を溺愛し信頼し、多く小人と交遊したため、謹厳ではなかった。御史の呂晦が、宋庠が二人の子を随行させないよう敕すべきと請うたが、帝は言った。「宋庠は老いた。どうしてその子を行かせないことがあろうか。」亳州に至り、老齢を理由に退職を請うことが一層強くなり、司空として致仕した。卒去すると、太尉兼侍中を追贈され、諡は元献とされた。帝はその墓碑に「忠規徳範之碑」と篆書した。

原文英宗即位,移鎮武寧軍,改封鄭國公。庠在相州,即上章請老,至是請猶未已。帝以大臣故,未忍遽從,乃出判亳州。庠前後所至,以慎靜為治,及再登用,遂沉浮自安。晚愛信幼子,多與小人游,不謹。御史呂晦請敕庠不得以二子隨,帝曰:「庠老矣,奈何不使其子從之。」至亳,請老益堅,以司空致仕。卒,贈太尉兼侍中,諡元獻。帝為篆其墓碑曰「忠規德范之碑」。

宋庠は応挙の時から、宋祁とともに文学の名をもって天下に擅り、倹約で声色を好まず、読書は老いるまで倦むことがなかった。誤謬を正すことを善くし、かつて『国語』を校定し、『補音』三巻を撰した。また『紀年通譜』を輯め、正統と閏統を区別して十二巻とした。『掖垣叢志』三巻、『尊号録』一巻、別集四十巻がある。天資は忠厚で、かつて言った。「逆詐して明を恃み、人を残して才を矜ることは、私は終身行わない。」沈邈がかつて京東転運使を務め、しばしば事を以て宋庠を侵したことがあった。宋庠が洛陽らくようにいた時、沈邈の子が杯麴院を監んでおり、県人の負債を出し借りしたため、これを杖打ちし、道中で死んだが、実際は他の病気によるものだった。しかし沈邈の子は府の属官に憎まれており、法を以て痛く治めようとしたが、宋庠だけは肯わず、言った。「これはどうして罪に足りようか!」人々はこれによって一層その長者ぶりを称えた。弟に宋祁がいる。

原文庠自應舉時,與祁俱以文學名擅天下,儉約不好聲色,讀書至老不倦。善正訛謬,嘗校定《國語》,撰《補音》三卷。又輯《紀年通譜》,區別正閏,為十二卷。《掖垣叢志》三卷,《尊號錄》一卷,別集四十卷。天資忠厚,嘗曰:「逆詐恃明,殘人矜才,吾終身不為也。」沈邈嘗為京東轉運使,數以事侵庠。及庠在洛,邈子監杯麴院,因出借縣人負物,杖之,道死實以他疾。而邈子為府屬所惡,欲痛治之以法,庠獨不肯,曰:「是安足罪也!」人以此益稱其長者。弟祁。

弟 宋祁

原文弟 祁

宋祁、字は子京、兄の宋庠と同時に進士に挙げられ、礼部は宋祁を第一、宋庠を第三と奏上した。章献太后は弟が兄より先になることを望まず、宋庠を第一に抜擢し、宋祁を第十位とした。人々は「二宋」と呼び、大小で区別した。初官は復州軍事推官。孫奭に推薦され、大理寺丞・国子監直講に改めた。召されて試験を受け、直史館を授かり、再び太常博士・同知礼儀院に遷った。有司が太常の旧楽は数回増減され、その音が調和しないと上言した。詔により宋祁がともに按試した。李照が新楽を定め、胡瑗が鐘磬を鋳造する際、宋祁はいずれもこれを主管し、事は『楽志』に見える。『広業記』の編纂に預かり完成すると、尚書工部員外郎・同修起居注・権三司度支判官に遷った。ちょうど陝西で戦争が行われ、調度費が日々逼迫していた時、上疏して言った。

原文祁,字子京,與兄庠同時舉進士,禮部奏祁第一,庠第三。章獻太后不欲以弟先兄,乃擢庠第一,而置祁第十。人呼曰「二宋」,以大小別之。釋褐復州軍事推官。孫奭薦之,改大理寺丞、國子監直講。召試,授直史館,再遷太常博士、同知禮儀院。有司言太常舊樂數增損,其聲不和。詔祁同按試。李照定新樂,胡瑗鑄鐘磬,祁皆典之,事見《樂志》。預修《廣業記》成,遷尚書工部員外郎、同修起居注、權三司度支判官。方陝西用兵,調費日蹙,上疏曰:

「兵は食を本とし、食は貨を資とす。これは聖人が天下を一つにするための具である。今、左蔵には積年の銭がなく、太倉には三年分の粟がなく、尚方の銅は乏しくて発行されない。太平の世がこのようでは、既に凋弊困窮しており、良くは取ることも尽き、用いることも度を失っているからである。朝廷には大なる三冗があり、小なる三費があり、もって天下の財を困窮させている。財は窮し用は狭く、しかるに師を興して遠方を事とそうとするのは、誠に謀略がない。三冗を去り、三費を節し、専ら西北の屯戍に備えれば、曠然として高枕することができよう。

原文「兵以食為本,食以貨為資,聖人一天下之具也。今左藏無積年之鏹,太倉無三歲之粟,尚方冶銅匱而不發。承平如此,已自凋困,良由取之既殫、用之無度也。朝廷大有三冗,小有三費,以困天下之財。財窮用褊,而欲興師遠事,誠無謀矣。能去三冗、節三費,專備西北之屯,可曠然高枕矣。

三冗とは何か。天下に定員のある官に限員がないこと、これが第一の冗である。天下の廂軍が戦に任ぜずに衣食を消耗すること、これが第二の冗である。僧道が日増しに多くなり定数がないこと、これが第三の冗である。三冗が去らなければ、国と為すことはできない。今より断行することを請う。僧道で既に戒具を受けた者は暫く旧のままとするが、その他は悉く罷めて民に還し、五十余万人の耕夫織婦を得ることができよう。これで一冗が去る。天下の廂軍は、弱小な者を選ばずに悉く刺字し、ただ役務を供するだけを図り、本来兵事を知らず、かつ月ごとに廩糧を支給され、年ごとに庫帛を費やす。数口の家も自ら庇うことができず、多く去って盗賊となる。広く募っても益はない。既に籍にある者は論じないとして、その他は悉く南畝に駆り立てれば、また数十万の力耕者を得ることができよう。これで二冗が去る。国家の郡県には、元来定官があり、譬えば十人を定員とし、常に十二人を加えている。すなわち遷代・罪謫に随い、これを取って充てるのである。今、一官の欠員もないのに、群をなしてこれを逐う。州県は以前より広くはないのに、官は旧の五倍である。吏はどうして苟もに進まず、官はどうして濫りに除かれないことがあろうか。三班・審官院・内諸司・流内銓に詔して、明らかに限員を立て、定法とすることを請う。門蔭・流外・貢挙などの科は、実際に選限を設け、少しでも人を選ぶことに務め、官に欠員があるのを待って、員数を計って吏を補う。これで三冗が去る。

原文何謂三冗?天下有定官無限員,一冗也;天下廂軍不任戰而耗衣食,二冗也;僧道日益多而無定數,三冗也。三冗不去,不可為國。請斷自今,僧道已受戒具者姑如舊,其他悉罷還為民,可得耕夫織婦五十餘萬人,一冗去矣。天下廂軍不擇孱小尪弱而悉刺之,才圖供役,本不知兵,又且月支廩糧,歲費庫帛,數口之家,不能自庇,多去而為盜賊,雖廣募之,無益也。其已在籍者請勿論,其他悉驅之南畝,又得力耕者數十萬,二冗去矣。國家郡縣,素有定官,譬以十人為額,常以十二加之,即遷代、罪謫,隨取之而有。今一官未闕,群起而逐之,州縣不廣於前,而官五倍於舊,吏何得不苟進,官何得不濫除?請詔三班審官院內諸司、流內銓明立限員,以為定法。其門蔭、流外、貢舉等科,實置選限,稍務擇人,俟有闕官,計員補吏,三冗去矣。

三費とは何を指すか。第一は道場の斎醮であり、空き日なく、しかも百官の供給は、数え切れぬほどに至る。それらは皆、帝の寿命を祝い、先烈を奉り、民の福を祈ることを名目とするが、臣の愚見では、これは主たる者が欺瞞と窃盗の計略を為すのみである。陛下が天地・宗廟・社稷・百神に事え、犠牲と玉帛を以てし、役人に端正に奉らせ、歳時にこれを薦めることは、明徳を高め、多福を助けるに足りる。何ぞ屑々たる報いを希求せんや。これにより一費は節減されよう。

原文何謂三費?一曰道場齋醮,無有虛日,且百司供億,至不可貲計。彼皆以祝帝壽、奉先烈、祈民福為名,臣愚以為此主者為欺盜之計爾。陛下事天地、宗廟、社稷、百神,犧牲玉帛,使有司端委奉之、歲時薦之,足以竦明德、介多福矣,何必希屑屑之報哉?則一費節矣。二曰京師寺觀,或多設徒卒,添置官府,衣糧率三倍他處。居大屋高廡,不徭不役,坐蠹齊民,其尤者也。而又自募民財,營建祠廟,雖曰不費官帑,然國與民一也,舍國取民,其傷一焉,請罷去之,則二費節矣。三曰使相節度,不隸藩要。夫節相之建,或當邊鎮,或臨師屯,公用之設,勞眾而饗賓也。今大臣罷黜,率叨恩除,坐靡邦用,莫此為甚。請自今地非邊要、州無師屯者,不得建節度;已帶節度,不得留近藩及京師,則三費節矣。

第二は、京師の寺観が、多く徒卒を設け、官府を添置し、衣糧は概ね他処の三倍に及ぶことである。大屋高廡に居り、徭役せず、坐して斉民を食い潰すは、その甚だしきものなり。また自ら民財を募り、祠廟を営建するは、官帑を費やさずと雖も、然れども国と民は一体なり。国を捨てて民を取れば、その傷みは同じである。これを罷去することを請う。これにより二費は節減されよう。

原文臣又聞之,人不率則不從,身不先則不信。陛下能躬服至儉,風示四方,衣服起居,無逾舊規,後宮錦繡珠玉,不得妄費,則天下響應,民業日豐,人心不搖,師役可舉,風行電照,飲馬西河。蠢爾戎首,在吾掌中矣!」

第三は、使相節度が藩鎮の要地に隷属せざることである。夫れ節度使相の設置は、或いは辺鎮に当たり、或いは師屯に臨み、公用の設けは、衆を労して賓を饗するためなり。今、大臣が罷黜されると、概ね恩除を叨り、坐して邦用を靡かすは、これより甚だしきは莫し。請う、今より地は辺要に非ず、州に師屯無き者は、節度を建つるを得ず。既に節度を帯びる者は、近藩及び京師に留まるを得ず。これにより三費は節減されよう。

原文徙判鹽鐵勾院,同修禮書。次當知制誥,而庠方參知政事,乃以為天章閣待制,判太常禮院、國子監,改判太常寺。庠罷,祁亦出知壽州,徙陳州。還,知制誥、權同判流內銓,以龍圖閣直學士知杭州,留為翰林學士。提舉諸司庫務,數釐正弊事,增置勾當公事官,其屬言利害者,皆使先稟度可否,而後議於三司,遂著為令。徙知審官院兼侍讀學士。庠復知政事,罷祁翰林學士,改龍圖學士、史館修撰,修《唐書》。累遷右諫議大夫,充群牧使。庠為樞密使,祁復為翰林學士。

臣また聞く、人は率いられねば従わず、身が先んじねば信じられぬと。陛下が至儉を躬行し、四方に風範を示し、衣服起居において旧規を逾えず、後宮の錦繡珠玉を妄りに費やさざれば、天下は応じ、民業は日に豊かになり、人心は揺るがず、師役を挙行し、風の如く行き電の如く照らし、西河に馬を飲ません。蠢く戎の首も、吾が掌中にあらん。

原文景祐中,詔求直言,祁奏:「人主不斷是名亂。《春秋》書:『殞霜,不殺菽。』天威暫廢,不能殺小草,猶人主不斷,不能制臣下。」又謂:「與賢人謀而與不肖者斷,重選大臣而輕任之,大事不圖而小事急,是謂三患。」其意主於強君威,別邪正,急先務,皆切中時病。

判塩鉄勾院に転じ、礼書を同修す。次いで知制誥に当たるべきところ、宋庠が参知政事に在ったため、天章閣待制とし、太常礼院・国子監を判じ、後に太常寺判に改む。庠が罷められると、祁もまた出て寿州知州となり、陳州に転ず。還り、知制誥・権同判流内銓となり、龍図閣直学士として杭州知州となり、留められて翰林学士となる。諸司庫務を提挙し、数々の弊事を厘正し、勾当公事官を増置し、その属が利害を言う者は、皆まず可否を稟度せしめ、然る後に三司に議せしめ、遂に令として著す。審官院知事兼侍読学士に転ず。庠が再び政事を知ると、祁の翰林学士を罷め、龍図学士・史館修撰に改め、『唐書』を修す。累遷して右諫議大夫となり、群牧使を充てる。庠が枢密使となると、祁は再び翰林学士となる。

原文會進溫成皇后為貴妃。故事,命妃皆發冊,妃辭則罷冊禮。然告在有司,必俟旨而後進。又凡制詞,既授閣門宣讀,學士院受而書之,送中書,結三少銜,官告院用印,乃進內。祁適當制,不俟旨,寫誥不送中書,徑取官告院印用之,亟封以進。后方愛幸,覬行冊禮,得告大怒,擲於地。祁坐是出知許州。甫數月,復召為侍讀學士、史館修撰。祀明堂,遷給事中兼龍圖閣學士。坐其子從張彥方游,出知亳州。兼集賢殿修撰。

景祐年中、直言を求める詔が下り、祁は奏上す。「人主が断ぜざるは、これ乱と名づく。『春秋』に『霜隕りて菽を殺さず』と書く。天威暫く廃れば、小草を殺す能わざるは、猶お人主が断ぜざれば、臣下を制する能わざるが如し。」また謂う。「賢人と謀りて不肖なる者と断じ、大臣を重く選びて軽くこれを用い、大事は図らずして小事を急ぐ、これを三患と謂う。」その意は君威を強め、邪正を別ち、先務を急ぐことを主とし、皆時病に切中す。

原文歲餘,徙知成德軍,遷尚書禮部侍郎。請弛河東、陝西馬禁,又請復唐馱幕之制。居三月,徙定州,又上言:

時に温成皇后を貴妃に進めることとなる。故事によれば、妃を命ずるには皆冊を発し、妃が辞すれば冊礼を罷む。然れども告身は役所に在り、必ず旨を俟って後進める。また凡そ制詞は、既に閣門に授けて宣読せしめ、学士院がこれを受けて書き、中書に送り、三少の官銜を結び、官告院で印を用いて、乃ち内に進む。祁は丁度制を当て、旨を俟たず、誥を書き中書に送らず、直ちに官告院の印を取って用い、急ぎ封じて進む。后は当時寵愛盛んで、冊礼を行わんことを覬い、告身を得て大いに怒り、地に擲つ。祁はこれに坐して許州知州に出される。数ヶ月を経ず、再び召されて侍読学士・史館修撰となる。明堂を祀り、給事中兼龍図閣学士に遷る。その子が張彦方と交遊したことに坐し、亳州知州に出される。集賢殿修撰を兼ぬ。

原文「天下根本在河北,河北根本在鎮、定,以其扼賊沖,為國門戶也。且契丹搖尾五十年,狼態猘心,不能無動。今垂涎定、鎮,二軍不戰,則薄深、趙、邢、洺,直搗其虛,血吻婪進,無所顧藉。臣竊慮欲兵之強,莫如多穀與財;欲士訓練,莫如善擇將帥;欲人樂鬪,莫如賞重罰嚴;欲賊顧望不敢前,莫如使鎮重而定強。夫恥怯尚勇,好論事,甘得而忘死:河北之人,殆天性然。陛下少勵之,不憂不戰。以欲戰之士,不得善將,雖鬪猶負。無穀與財,雖金城湯池,其勢必輕。

歳余りして、成徳軍知事に転じ、尚書礼部侍郎に遷る。河東・陝西の馬禁を弛めることを請い、また唐の馱幕の制を復することを請う。三月居りて、定州に転じ、また上言す。

原文今朝廷擇將練卒,制財積糧,乃以陝西、河東為先,河北為後,非策也。西賊兵銳士寡,不能深入,河東天險,彼憚為寇。若河北不然,自薊直視,勢同建瓴,賊鼓而前,如行莞衽。故謀契丹者當先河北,謀河北者舍鎮、定無議矣。臣願先入穀鎮、定,鎮、定既充,可入穀餘州。列將在陝西、河東有功狀者,得遷鎮、定,則鎮、定重。天下久平,馬益少,臣請多用步兵。夫雲奔飈馳,抄後掠前,馬之長也;強弩巨梃,長槍利刀,什伍相聯,大呼薄戰,步之長也。臣料朝廷與敵相攻,必不深入窮追,毆而去之,及境則止,此不特馬而步可用矣。臣請損馬益步,故馬少則騎精,步多則鬪健,我能用步所長,雖契丹多馬,無所用之。

「天下の根本は河北に在り、河北の根本は鎮州・定州に在り、其れ賊の衝を扼し、国の門戸と為すが故なり。且つ契丹は五十年尾を振り、狼の態・猘の心、動かざるを得ず。今定・鎮に垂涎し、二軍が戦わざれば、則ち深州・趙州・邢州・洺州に迫り、直ちに其の虚を搗き、血吻婪進し、顧藉する所無し。臣窃かに慮るに、兵を強くせんと欲すれば、穀と財を多くするに如くは莫し。士を訓練せんと欲すれば、将帥を善く択ぶに如くは莫し。人を戦闘に喜ばしめんと欲すれば、賞を重くし罰を厳しくするに如くは莫し。賊を顧望せしめて敢えて前進せざらしめんと欲すれば、鎮を重くし定を強くするに如くは莫し。夫れ怯を恥じ勇を尚び、事を論ずるを好み、得るを甘んじて死を忘るるは、河北の人、殆ど天性然り。陛下少しく之を励まさば、戦わざるを憂えず。戦わんと欲するの士を以てして、善き将を得ざれば、戦うと雖も猶お負けん。穀と財無ければ、金城湯池と雖も、其の勢必ず軽し。

原文夫鎮、定一體也,自先帝以來為一道,帥專而兵不分,故定揕其胸,則鎮搗其肋,勢自然耳。今判而為二,其顯顯有害者,屯砦山川要險之地裂而有之,平時號令文移不能一,賊脫叩營壘,則彼此不相謀,尚肯任此責邪!請合鎮、定為一路,以將相大臣領之,無事時以鎮為治所,有事則遷治定,指授諸將,權一而責有歸,策之上也。陛下當居安思危,熟計所長,必待事至而後圖之,殆矣。

今朝廷、将を択び卒を練り、財を制し糧を積むは、乃ち陝西・河東を先とし、河北を後とす。是れ策に非ず。西賊は兵鋭くして士寡く、深く入る能わず。河東は天険、彼は寇と為るを憚る。若し河北は然らず、薊より直視すれば、勢は建瓴の如く、賊鼓して前進すれば、莞衽を行くが如し。故に契丹を謀る者は当に先ず河北を謀るべく、河北を謀る者は鎮・定を捨てて議うること無し。臣願わくは先ず鎮・定に穀を入れ、鎮・定既に充てば、余州に穀を入るることを得ん。列将で陝西・河東に功状有る者は、鎮・定に遷ることを得しめよ。然らば則ち鎮・定は重し。天下久しく平らぎ、馬益々少なく、臣請う多く歩兵を用いん。夫れ雲の奔るる如く飈の馳せる如く、後を抄り前を掠むるは、馬の長なり。強弩巨梃、長槍利刀、什伍相聯り、大呼して薄戦するは、歩の長なり。臣料るに朝廷が敵と相攻むるは、必ず深く入り窮追せず、毆りて之を去らしめ、境に及べば則ち止まん。此れ馬に特せずして歩を用うる可し。臣請う馬を損じ歩を益さん。故に馬少なければ則ち騎精しく、歩多ければ則ち戦い健なり。我が歩の長を用うる能えば、契丹馬多しと雖も、用うる所無からん。

原文河東馬強,士習善馳突,與鎮、定若表裡,然東下井陘,不百里入鎮、定矣。賊若深入,以河東健馬佐鎮、定兵,掩其惰若歸者,萬出萬全,此一奇也。臣聞事切於用者,不可以文陳,臣所論件目繁碎,要待刀筆吏委曲可曉,臣已便俗言之,輒別上擇將畜財一封,乞下樞密院、三司裁製之。」

また『御戎論』七篇を上進した。端明殿學士を加えられ、特に吏部侍郎・知益州に遷任した。まもなく三司使に除せられた。右司諫の吳及がかつて、祁が定州において治績なく、家人に公使錢数千緡を貸し与えたこと、蜀において奢侈過度であったことを言上した。その後、御史中丞の包拯もまた、祁が益部において遊燕多く、かつその兄がまさに執政しているので、三司を任せてはならないと上言した。そこで龍圖閣學士を加えられ、知鄭州となった。『唐書』が完成すると、左丞に遷り、工部尚書に進んだ。羸弱の病を理由に、医薬の便を請い、入って尚書都省を判した。一ヶ月余りして、翰林學士承旨を拝し、詔して入直の際には、一子に湯薬を主らしめることを許された。ふたたび群牧使となり、まもなく卒した。遺奏に曰く、「陛下は国を享有すること四十年、東宮は虚位にして、天下は係望し、人心未だ安からず。社稷の深計と為すには、宗室の賢材を択び、親王に爵を進めて、匕鬯の主と為すに若くはありません。もし六宮に就館の慶(皇子出産)あらば、聖嗣蕃衍し、宗子は郡王に降封して、正嫡を避けさせます。これこそ人心を定め、禍患を防ぐ大計であります」。

原文又上《御戎論》七篇。加端明殿學士,特遷吏部侍郎、知益州。尋除三司使。右司諫吳及嘗言祁在定州不治,縱家人貸公使錢數千緡,在蜀奢侈過度。既而御史中丞包拯亦言祁益部多游燕,且其兄方執政,不可任三司。乃加龍圖閣學士、知鄭州。《唐書》成,遷左丞,進工部尚書。以羸疾,請便醫藥,入判尚書都省。逾月,拜翰林學士承旨,詔遇入直,許一子主湯藥。復為群牧使,尋卒。遺奏曰:「陛下享國四十年,東宮虛位,天下係望,人心未安。為社稷深計,莫若擇宗室賢材,進爵親王,為匕鬯之主。若六宮有就館之慶,聖嗣蕃衍,則宗子降封郡王,以避正嫡,此定人心、防禍患之大計也。」

また自ら志銘及び『治戒』を作り、その子に授けて曰く、「三日で斂(納棺)、三月で葬る。慎んで流俗の陰陽拘忌に為らざるべし。棺は雑木を用い、その四会(接合部)を漆し、三塗(三度塗り)にして止め、数十年を以てわが骸を臘(乾か)し、衣巾を朽たすに足るのみとせよ。金銅雑物を以て冢中に置くことなかれ。かつわが学は名家と成らず、文章は僅かに中人に及ぶのみで、後世に垂れるに足らず。吏としての治績は良二千石の下にあり、諡を請うことなく、贈典を受くることなかれ。冢上に五株の柏を植え、墳の高さ三尺とし、石の翁仲や他の獣形を用いるべからず。汝ら命に違うべからず。汝ら兄弟十四人、ただ二孺児(幼い子)未だ仕えず、これを以て莒公(兄の宋庠)に託す。莒公在りては、汝ら孤ならず」。後に尚書を贈られた。

原文又自為志銘及《治戒》以授其子:「三日斂,三月葬,慎無為流俗陰陽拘忌也。棺用雜木,漆其四會,三塗即止,使數十年足以臘吾骸、朽衣巾而已。毋以金銅雜物置冢中。且吾學不名家,文章僅及中人,不足垂後。為吏在良二千石下,勿請諡,勿受贈典。冢上植五株柏,墳高三尺,石翁仲他獸不得用。若等不可違命。若等兄弟十四人,惟二孺兒未仕,以此諉莒公。莒公在,若等不孤矣。」後贈尚書。

祁兄弟は皆文学を以て顕れ、而して祁は特に文を能くし、議論を善くした。然れども清約にして莊重なることは庠に及ばず、論者は祁が公輔(宰相)に至らなかったのも、この点によるものと云う。『唐書』を修すること十余年、亳州を守ってより、内外に出入するにも常に原稿を携え、列伝百五十巻を為した。『籍田記』・『集韻』の編修に預かる。また『大樂圖』二巻を撰し、文集百巻あり。祁の至る所、治事は明峻にして、条教を作ることを好んだ。その子は『治戒』に遵い諡を請わず、久しくして、學士承旨の張方平が祁は法に応じて諡を得るべきと上言し、諡して景文と曰う。

原文祁兄弟皆以文學顯,而祁尤能文,善議論,然清約莊重不及庠,論者以祁不至公輔,亦以此云。修《唐書》十餘年,自守亳州,出入內外嘗以稿自隨,為列傳百五十卷。預修《籍田記》、《集韻》。又撰《大樂圖》二卷,文集百卷。祁所至,治事明峻,好作條教。其子遵《治戒》不請諡,久之,學士承旨張方平言祁法應得諡,諡曰景文。

論じて曰く、咸平・天聖の間、父子兄弟功名を以て時に聞こえたる者は、陳堯佐・宋庠に見る。省華の声聞は、諸子によって益々著し。堯佐の相業は多く見られざるも、世は寛厚の長者と称す。堯叟は出て方州を典し、入って侍従と為り、布帛を課し、馬政を修め、冗官を減ずる、称すべきこと足りる。庠は故実に明練にして、文藻は祁に逮ばざるも、孤風雅操は祁より遠く勝る。君子以為う、陳の家法、宋の友愛は、宋以来多く見ざる所なりと、嗚呼賢なるかな。

原文論曰:咸平、天聖間,父子兄弟以功名著聞於時者,於陳堯佐、宋庠見之。省華聲聞,由諸子而益著。堯佐相業雖不多見,世以寬厚長者稱之。堯叟出典方州,入為侍從,課布帛,修馬政,減冗官,有足稱者。庠明練故實,文藻雖不逮祁,孤風雅操,過祁遠矣。君子以為陳之家法,宋之友愛,有宋以來不多見也,嗚呼賢哉!