宋史

列傳第四十二 王欽若 林特 丁謂 夏竦

列傳第四十二 王欽若 林特 丁謂 夏竦

王欽若

原文王欽若

王欽若、字は定國、臨江軍新喻の人である。父は仲華、祖父の鬱に従って鄂州に官任にあった。時に江水が急に増水し、家を黄鶴樓に移した。漢陽の人々が樓上に光景があるかのように見えた。この夕べ、欽若が生まれた。欽若は早くに孤兒となり、鬱に愛された。太宗が太原を征伐した時、欽若はわずか十八歳で、『平晉賦論』を作って行在所に献上した。鬱が濠州判官であった時、死に臨んで家人に告げて言うには、「私は官を歴任すること五十年余り、刑を用いることに慎み、多くの人を生かしてきた。後必ず興る者があるだろう。それは私の孫であろうか」と。

原文王欽若,字定國,臨江軍新喻人。父仲華,侍祖鬱官鄂州。會。江水暴至,徙家黃鶴樓,漢陽人望見樓上若有光景,是夕,欽若生。欽若早孤,鬱愛之。太宗伐太原時,欽若才十八,作《平晉賦論》獻行在。鬱為濠州判官,將死,告家人曰:「吾曆官逾五十年,慎於用刑,活人多矣,後必有興者,其在吾孫乎!」

欽若は進士甲科に擢でられ、亳州防禦推官となり、秘書省秘書郎に遷り、廬州の税を監んだ。太常丞に改め、三司理欠憑由司を判じた。時に毋賓古が度支判官であったが、嘗て言うには、「天下の逋負は、五代より今に至るまで、理督が止まず、民の苦しみはほとんど耐えられない。私はこれを免除するよう啓上しよう」と。欽若は一晩で吏に命じて数値を校合させ、翌日にこれを上奏した。真宗は大いに驚いて言うには、「先帝は知らなかったのか」と。欽若は徐に言うには、「先帝は固よりこれをご存知でしたが、おそらく陛下のために人心を収めることをお留めになったのでしょう」と。即日に逋負一千余萬を放免し、繫囚三千余人を釈放した。帝はますます欽若を器重し、学士院に召して試み、右正言・知制誥を拝し、翰林学士に召された。蜀しょくの寇賊王均が初めて平定された時、西川安撫使となった。赴任先で繫囚を尋問し、死罪以下から順次減刑し、凡そ便宜を列挙したものは多く施行された。還ると、左諫議大夫・参知政事を授かり、郊祀の恩典により給事中を加えられた。

原文欽若擢進士甲科,為亳州防禦推官,遷秘書省秘書郎,監廬州稅。改太常丞、判三司理欠憑由司。時毋賓古為度支判官,嘗言曰:「天下逋負,自五代迄今,理督未已,民病幾不能勝矣。仆將啟蠲之。」欽若一夕命吏勾校成數,翌日上之。真宗大驚曰:「先帝顧不知邪?」欽若徐曰:「先帝固知之,殆留與陛下收人心爾。」即日放逋負一千餘萬,釋係囚三千餘人。帝益器重欽若,召試學士院,拜右正言、知制誥,召為翰林學士。蜀寇王均始平,為西川安撫使。所至問繫囚,自死罪以下第降之,凡列便宜,多所施行。還,授左諫議大夫、參知政事,以郊祀恩,加給事中。

河陰の民、常德方が、臨津県尉の任懿が欽若に賄賂を贈って及第を得たと訴訟した。事は御史臺に下って劾治された。初め、欽若は咸平年間に嘗て貢挙を掌り、任懿は諸科に挙げられ、僧仁雅の舎に寓居していた。仁雅が知る僧の惠秦は欽若と親しく、任懿は惠秦と約束し、銀三百五十両で欽若に賄賂を贈り、その数を紙に書いて、惠秦に持たせて行かせた。時に欽若は既に入院しており、欽若の客に託してその書いたものを欽若の妻李氏に納めさせた。惠秦は書かれた銀の百両を減らし、自分で取ろうとした。李氏は奴僕の祁睿に任懿の名を臂に書かせ、併せて約束した銀のことを欽若に告げた。任懿が再び第五場の試験に入ると、祁睿がまた湯飲みを持って貢院に至り、欽若は密かに奴僕に銀を索取させたが、任懿は直ちに与えずに登科して去った。仁雅が河陰に馳せて書を送り、初めてこれを返した。德方はその書を得て、御史中丞の趙昌言に告げ、昌言はこれを聞き届けた。既に祁睿等を捕らえ、欽若の属吏を逮えることも請うた。

原文河陰民常德方訟臨津縣尉任懿賂欽若得中第,事下御史臺劾治。初,欽若咸平中嘗知貢舉,懿舉諸科,寓僧仁雅舍。仁雅識僧惠秦者與欽若厚,懿與惠秦約,以銀三百五十兩賂欽若,書其數於紙,令惠秦持去。會欽若已入院,屬欽若客納所書於欽若妻李氏,惠秦減所書銀百兩,欲自取之。李氏令奴祁睿書懿名於臂,並以所約銀告欽若。懿再入試第五場,睿復持湯飲至貢院,欽若密令奴索取銀,懿未即與而登科去。仁雅馳書河陰,始歸之。德方得其書,以告御史中丞趙昌言,昌言以聞。既捕祁睿等,亦請逮欽若屬吏。

祁睿は元来亳州の小吏であり、欽若に従うこと久しいが、名はなお亳州に隷属していた。欽若は乃ち言うには、「以前には祁睿という者はおらず、惠秦も門に及ばなかった」と。帝は欽若を厚く顧みていたので、邢昺・閻承翰等に命じて太常寺で別にこれを鞫かせた。任懿は更に言うには、妻の兄の張駕が知挙官の洪湛を知っており、嘗て共に湛の門を訪れた。初めはただ銀を二僧に託しただけで、主司に達するのが誰であるか知らない、と。昺等は遂に洪湛が任懿の銀を受けたと誣で、洪湛は丁度陝西から使いで帰還したが、獄は既に具わっていた。時に張駕は将に死に、祁睿もまた悉く遁走したので、欽若は祁睿が休役後に初めて家に傭われたと固執し、他の奴僕は多く新たに募った者で、惠秦を知らない、と主張し得た。故に皆証驗が無かった。洪湛は籍を削られ、儋州に流される罪に坐し、欽若は遂に免れた。洪湛が王旦に代わって入り貢挙を掌った時、任懿は既に第三場の試験を受けており、官が洪湛の贓物を収めた時、家には無かった。乃ち洪湛が梁顥から借りた白金器を官に輸納させ、洪湛は遂に貶所で死んだ。人はその冤罪を知っていたが、欽若は勢いに恃み、敢えて言う者はいなかった。

原文祁睿本亳小吏,雖從欽若久,而名猶隸亳州。欽若乃言:「向未有祁睿,惠秦亦不及門。」帝方顧欽若厚,命邢昺、閻承翰等於太常寺別鞫之。懿更雲妻兄張駕識知舉官洪湛,嘗俱造湛門。始但以銀屬二僧,不知達主司為誰。昺等遂誣湛受懿銀,湛適使陝西還,而獄已具。時駕且死,睿又悉遁去,欽若因得固執祁睿休役後始傭於家,它奴使多新募,不識惠秦,故皆無證驗。湛坐削藉、流儋州,而欽若遂免。方湛代王旦入知貢舉,懿已試第三場,及官收湛贓,家無有也,乃以湛假梁顥白金器輸官,湛遂死貶所。人知其冤,而欽若恃勢,人莫敢言者。

景德の初め、契丹が侵入し、帝は澶淵に行幸しようとした。欽若は自ら北行を請い、工部侍郎・参知政事として天雄軍を判じ、河北転運司を提挙し、真宗は親しく宴を設けてこれを遣わした。平素より寇準と協わず、帰還すると、累次上表して政事を解くことを願い、刑部侍郎・資政殿学士に罷められた。尋いで尚書都省を判じ、『冊府元龜』を修した。或いは褒賞が及ぶと、欽若は自ら名を表の首に記して謝し、即ち繆誤があって譴責を問われると、書吏に戒めてただ楊億以下と云わせた。その行うところ多くこの類であった。年中に、兵部に改め、大学士に昇り、通進銀台司を管し兼ねて門下封駁事を領した。初め、欽若が罷められた時、資政殿学士を置いてこれを寵し、寇準はその班を翰林学士の下と定めた。欽若は帝に訴え、再び「大」の字を加え、承旨の上に班じた。尚書左丞として枢密院事を管し、国史を修した。

原文景德初,契丹入寇,帝將幸澶淵。欽若自請北行,以工部侍郎、參知政事判天雄軍、提舉河北轉運司,真宗親宴以遣之。素與寇準不協,及還,累表願解政事,罷為刑部侍郎、資政殿學士。尋判尚書都省,修《冊府元龜》,或褒讚所及,欽若自名表首以謝,即繆誤有所譴問,戒書吏但云楊億以下,其所為多此類也。歲中,改兵部,升大學士、知通進銀台司兼門下封駁事。初,欽若罷,為置資政殿學士以寵之,準定其班在翰林學士下。欽若訴於帝,復加「大」字,班承旨上。以尚書左丞知樞密院事,修國史。

大中祥符の初め、封禅経度制置使となり兼ねて兗州を判じ、天書儀衛副使となった。先に、真宗は嘗て神人の夢を見て「泰山に天書を賜う」と言い、即ち密かに欽若に諭した。欽若は因って言うには、六月甲午、木工の董祚が醴泉亭の北で黄素が草の上に曳かれているのを見、字があるが識別できず、皇城吏の王居正がその上に御名があるのを見て、告げた、と。欽若は既にこれを得ると、威儀を具えて奉導して社首に至り、跪いて中使に授け、馳せて奉じて進上させた。真宗は含芳園に至って奉迎し、上った『天書再降祥瑞図』を出して百官に示した。欽若はまた言うには、嶽の下に至って二度神人の夢を見、廟庭の増建を願った、と。威雄将軍廟に至ると、その神像は夢に見た通りであり、因って廟中に亭を構えることを請うた。封禅の礼が成ると、礼部尚書に遷り、『社首頌』を作ることを命じられ、戸部尚書に遷った。汾陰に従祀し、再び天書儀衛副使となり、吏部尚書に遷った。明年、枢密使・検校太傅・同中書門下平章事となった。初め、学士の晁迥が制を草した時、誤って官を削ぎ去り、詔があり仍って吏部尚書を帯びさせた。聖祖が降臨すると、検校太尉を加えられた。欽若の居第は太廟の後壖にあり、出入りの呵導が不安であると自ら言い、因って安定坊に官第を賜わるよう換えた。七年、同天書刻玉使となった。

原文大中祥符初,為封禪經度制置使兼判兗州,為天書儀衛副使。先是,真宗嘗夢神人言「賜天書於泰山」,即密諭欽若。欽若因言,六月甲午,木工董祚於醴泉亭北見黃素曳草上,有字不能識,皇城吏王居正見其上有御名,以告。欽若既得之,具威儀奉導至社首,跪授中使,馳奉以進。真宗至含芳園奉迎,出所上《天書再降祥瑞圖》示百僚。欽若又言至嶽下兩夢神人,願增建廟庭。及至威雄將軍廟,其神像如夢中所見,因請構亭廟中。封禪禮成,遷禮部尚書,命作《社首頌》,遷戶部尚書。從祀汾陰,復為天書儀衛副使,遷吏部尚書。明年,為樞密使、檢校太傅、同中書門下平章事。初,學士晁迥草制,誤削去官,有詔仍帶吏部尚書。聖祖降,加檢校太尉。欽若居第在太廟後壖,自言出入訶導不自安,因易賜官第於安定坊。七年,為同天書刻玉使。

馬知節が同じく枢密に在り、平素より欽若を悪み、議論が相容れなかった。時に瀘州都巡検の王懷信等が蛮平定の功績を上奏したが、欽若は久しく決せず、知節は因って面と向かってその短所を詆毀し、帝の前で争った。賞を論ずることを促すと、欽若は遂に擅に王懷信等の官を除し、これに坐して、枢密使を罷められ、奉朝請となった。刻玉副使に改め、通進銀台司を管した。再び枢密使・同平章事を拝した。玉皇の尊号を上り、尚書右僕射に遷り、礼儀院を判じ、会霊観使となった。亀と蛇が拱聖営に現れ、その地により詳源観を建て、欽若に命じてこれを総領させた。尋いで左僕射兼中書侍郎・同平章事を拝した。明年、景霊使となり、『道蔵』を閲し、趙氏の神仙事跡四十人を得て、廊廡に絵を描かせた。又明年、商州が道士の譙文易を捕え、禁書を蓄え、術をもって六丁六甲の神を使うことができ、自ら嘗て欽若の家に出入りし、欽若の遺した詩を得たと言った。帝が欽若に問うと、省みずと謝し、遂に太子太保として出向し杭州を判じた。

原文馬知節同在樞密,素惡欽若,議論不相下。會瀘州都巡檢王懷信等上平蠻功,欽若久不決,知節因面詆其短,爭於帝前。及趣論賞,欽若遂擅除懷信等官,坐是,罷樞密使,奉朝請。改刻玉副使、知通進銀台司。復拜樞密使、同平章事。上玉皇尊號,遷尚書右僕射、判禮儀院,為會靈觀使。有龜蛇見拱聖營,因其地建詳源觀,命欽若總領之。尋拜左僕射兼中書侍郎、同平章事。明年,為景靈使,閱《道藏》,得趙氏神仙事跡四十人,繪於廊廡。又明年,商州捕得道士譙文易,畜禁書,能以術使六丁六甲神,自言嘗出入欽若家,得欽若所遺詩。帝以問欽若,謝不省,遂以太子太保出判杭州。

仁宗が皇太子であった時、自ら東宮の師保として帰朝を請い、再び資政大学士となった。詔して日に資善堂に赴き皇太子に侍講せしめた。時に輔臣が三少を兼領することとなり、欽若は品が高いことを以って秩を換えることを求め、司空しくうを拝し、尋いで山南道節度使・同平章事・河南府を判することを除された。宰相の丁謂と相悦ばず、病気を理由に京師で就医を請うたが、報せがなかった。その子の従益に命じて河南府に移文し、輿に乗って病を抱えて帰った。丁謂は欽若が擅に官守を去ったと言い、御史中丞の薛映に命じてその第に就いて按問させた。欽若は惶恐して罪に伏し、司農卿に降格され、南京に分司し、従益の一官を奪われた。

原文仁宗為皇太子,自以東宮師保請歸朝,復為資政大學士。詔日赴資善堂侍講皇太子。會輔臣兼領三少,欽若以品高求換秩,拜司空,尋除山南道節度使、同平章事、判河南府。與宰相丁謂不相悅,以疾請就醫京師,不報。令其子從益移文河南府,輿疾而歸。謂言欽若擅去官守,命御史中丞薛映就第按問。欽若惶恐伏罪,降司農卿、分司南京,奪從益一官。

仁宗が即位すると、秘書監に改められ、太常卿・知濠州として起用され、刑部尚書として江寧府を治めた。仁宗がかつて飛白書を揮毫した際、ちょうど欽若の上奏が届いたので、大書して「王欽若」の字を書いた。この時、馮拯が病んでおり、太后には欽若を再び宰相にしようとする意向があったので、その字を封じて湯薬の箱に入れ、宦官に持たせて賜り、かつ口宣をもって召し出した。都の城門に至るまで、人々はまだ知る者がなかった。朝見した後、再び司空・門下侍郎・同平章事・玉清昭應宮使・昭文館大學士に任じられ、國史の監修を務めた。

原文仁宗即位,改秘書監,起為太常卿、知濠州,以刑部尚書知江寧府。仁宗嘗為飛白書,適欽若有奏至,因大書「王欽若」字。是時,馮拯病,太后有再相欽若意,即取字緘置湯藥合,遣中人齎以賜,且口宣召之。至國門而人未有知者。既朝,復拜司空、門下侍郎、同平章事、玉清昭應宮使、昭文館大學士,監修國史。

帝が初めて政務を執ると、欽若は平時の百官の序列と昇進にはすべて常法があるとして、『遷敘圖』を作って献上した。『真宗實錄』が完成すると、司徒しとに進み、郊祀の恩典により冀國公に封ぜられた。知邵武軍の呉植が病を患い、外任を求めたが、殿中丞の余諤を通じて黄金を欽若に贈った。届かないうちに、植はまた牙吏を欽若の邸に遣わして問わせた。欽若はこれを捕らえて官に送り、植と諤はともに罪に坐して貶官された。初め、欽若が西川を安撫した時、植は新繁県尉であり、かつて推薦したことがあった。この時、失挙の罪に当たるはずであったが、詔して問わないこととした。兼ねて訳経使となり、初めて伝法院に赴いたが、急病を感じて帰宅した。帝は見舞いに臨み、白金五千両を賜った。没後、太師・中書令を追贈され、諡は文穆、親族及び親信二十余人が録用された。国朝以来、宰相に対する恩恤は欽若に比するものはなかった。

原文帝初臨政,欽若謂平時百官敘進,皆有常法,為《遷敘圖》以獻。《真宗實錄》成,進司徒,以郊祀恩,封冀國公。知邵武軍吳植病,求外徙,因殿中丞餘諤以黃金遺欽若,未至,而植復遣牙吏至欽若第問之。欽若執以送官,植、諤皆坐貶。初,欽若安撫西川,植為新繁縣尉,嘗嘗薦舉之。至是,亦當以失舉坐罪,詔勿問。兼譯經使,始赴傳法院,感疾亟歸。帝臨問,賜白金五千兩。既卒,贈太師、中書令,諡文穆,錄親屬及所親信二十餘人。國朝以來宰相恤恩,未有欽若比者。

欽若はかつて言ったことがある。「若い時、圃田を通りかかり、夜中に起きて天中を仰ぐと、赤い文字が『紫微』の字を成していた。後に蜀に使いした時、褒城の道中で異人に遇い、将来宰相の位に至ると告げられた。去った後、その名刺の字を見ると、それは唐の宰相裴度であった。」貴顕に及んでからは、神仙の事を好み、常に道家の科儀を用いて壇場を建てて神を礼し、朱書で「紫微」の二字を壇上に陳列した。圃田に裴度の祠を修築するよう上表し、その裔孫に官職を与え、自ら文を撰してその事を記した。

原文欽若嘗言:「少時過圃田,夜起視天中,赤文成『紫微』字。後使蜀,至褒城道中,遇異人,告以他日位至宰相。既去,視其刺字,則唐相裴度也。」及貴,遂好神仙之事,常用道家科儀建壇場以禮神,朱書「紫微」二字陳於壇上。表修裴度祠於圃田,官其裔孫,自撰文以紀其事。

真宗が泰山に封禅し、汾陰を祀ると、天下は符瑞を争って言い立てたが、皆欽若と丁謂が唱導したものであった。かつて躬って元徳皇太后の別廟に謁し、荘穆皇后のために期服を行なうよう建議した。議者は天子は傍期を絶つべきであるとし、欽若の言うことは礼に合わないとした。また先蚕と寿星の祠を置くことを請い、天皇北極帝坐を郊壇の第一龕に昇格させ、執法・孫星の位を増やし、別に王公以下の車輅・鼓吹を製し、官を拝し、婚葬を行うのに備えた。著した書に『鹵簿記』、『彤管懿範』、『天書儀製』、『聖祖事跡』、『翊聖真君傳』、『五嶽廣聞記』、『列宿萬靈朝真圖』、『羅天大醮儀』がある。欽若は自ら道教に精通していると考え、多くの建議を行い、道書の校訂を領し、合わせて六百余巻を増補した。

原文真宗封泰山、祀汾陰,而天下爭言符瑞,皆欽若與丁謂倡之。嘗建議躬謁元德皇太后別廟,為莊穆皇后行期服。議者以謂天子當絕傍期,欽若所言不合禮。又請置先蠶並壽星祠,升天皇北極帝坐於郊壇第一龕,增執法、孫星位,別製王公以下車輅、鼓吹,以備拜官、婚葬。所著書有《鹵簿記》、《彤管懿範》、《天書儀製》、《聖祖事跡》、《翊聖真君傳》、《五嶽廣聞記》、《列宿萬靈朝真圖》、《羅天大醮儀》。欽若自以深達道教,多所建明,領校道書,凡增六百餘卷。

欽若は容貌が小さく、項に附疣があったので、当時の人は「癭相」と見なした。しかし智略は人に優れ、朝廷に何か造営がある度に、委曲を尽くして遷就し、帝の意に中った。また性来、傾巧で、敢えて虚偽を矯め、大言を吐いた。馬知節はかつてその奸状を斥けたが、帝も彼を罪に問わなかった。その後、仁宗は輔臣に言ったことがある。「欽若は久しく政府に在ったが、その行いを見ると、真に奸邪である。」王曾が答えて言った。「欽若と丁謂・林特・陳彭年・劉承珪は、当時『五鬼』と呼ばれました。奸邪で険しく偽り、誠に聖諭の通りです。」

原文欽若狀貌短小,項有附疣,時人目為「癭相」。然智數過人,每朝廷有所興造,委曲遷就,以中帝意。又性傾巧,敢為矯誕。馬知節嘗斥其奸狀,帝亦不之罪。其後仁宗嘗謂輔臣曰:「欽若久在政府,觀其所為,真奸邪也。」王曾對曰:「欽若與丁謂、林特、陳彭年、劉承珪,時謂之『五鬼』。奸邪險偽,誠如聖諭。」

欽若の子の従益は、終に賛善大夫に至り、追賜で進士及第となった。後に子がなく、叔父の子を後嗣とした。

原文欽若子從益,終讚善大夫,追賜進士及第。後無子,以叔之子為後。

附 林特

原文附 林特

林特は字を士奇という。祖父の揆は、閩に仕えて南剣州順昌県令となり、順昌に家を定めた。特は幼少より穎悟で、十歳の時、江南の李景に謁し、自らの文章を献じた。景はこれを奇とし、賦を作るよう命じると、しばらくして完成したので、蘭台校書郎に任じた。江南が平定されると、偽官は皆入朝して拝謁したが、特は袖に文章を入れて進めた。太宗は長葛県尉とし、遂州録事参軍に改めた。代わって帰還すると、中書に命じて引見させ、大理寺丞・隴州通判に任じ、治績があった。田重進が永興を鎮守した時、太宗は重進が武人であるため、特と楊覃を選んでともに通判とし、人々に白金二百両を賜り、実俸を与えた。五路を出兵して李継遷を討つこととなり、所属部門の芻粟の輸送を監督し、期限より先に完遂した。呂蒙正が西京留守事の通判に辟召した。蒙正が宰相に入ると、彼を推薦し、入朝して三司戸部勾院を判じた。

原文林特字士奇。祖揆,仕閩為南劍州順昌令,因家順昌。特少穎悟,十歲,謁江南李景,獻所為文,景奇之,命作賦,有頃而成,授蘭台校書郎。江南平,偽官皆入見,特袖文以進。太宗以為長葛尉,改遂州錄事參軍。代還,命中書引對,授大理寺丞、通判隴州,有治狀。田重進鎮永興,太宗以重進武人,選特與楊覃並為通判,人賜白金二百兩,給實奉。會出兵五路討李繼遷,督所部轉芻粟,先期以辦。呂蒙正辟通判西京留守事。蒙正入相,薦之,入判三司戶部勾院。

梁鼎が陝西の青白塩を制置したが、前後して上奏した議論が異同したので、真宗は特と知永興軍の張詠を選んで利害をともに協議させ、上奏した内容は旨に合った。累進して尚書祠部員外郎となり、戸部副使となり、詔して内朝に参じさせた。三司副使が内朝に預かるのは、特から始まった。塩鉄副使に転じた。

原文梁鼎制置陝西青白鹽,前後上議異同,真宗選特與知永興軍張詠同商利害,所奏合旨。累遷尚書祠部員外郎,為戶部副使,詔赴內朝。三司副使預內朝,自特始。徙鹽鐵副使。

真宗が北征すると、同知留司三司公事を命じられ、司封員外郎に遷った。車駕が陵を謁する時は、行在三司副使となり、詔して劉承珪・李溥と江淮の茶法を比較検討した。これにより新制を裁定し、歳課を百余万増やし、特は祠部郎中に遷った。泰山封禅、汾陰祭祀では、ともに行在三司副使となった。右諫議大夫をもって三司使を権知し、修玉清昭応宮副使となった。太清宮を祀ろうとする時は、特を遣わして供具を準備させ、行在三司使とした。礼が成ると、給事中に進み、修景霊宮副使兼修兗州景霊宮・太極観となった。昭応宮が完成すると、尚書工部侍郎に遷り、真に三司使に任じられた。枢密使の寇準が特は奸邪であると言い、またしばしば事を争ったので、帝は準を出させ、特は職に留まった。後に三司を罷免され、戸部侍郎をもって同玉清昭応宮副使となった。兗州の宮観が完成すると、吏部侍郎に遷った。天禧元年、修上『聖祖宝冊』副使となり、尚書右丞に転じた。

原文真宗北征,命同知留司三司公事,遷司封員外郎。車駕謁陵,為行在三司副使,詔與劉承珪、李溥比較江淮茶法。因裁定新製,歲增課百餘萬,特遷祠部郎中。封泰山,祀汾陰,皆為行在三司副使。以右諫議大夫權三司使、修玉清昭應宮副使。將祀太清宮,遣特儲供具,為行在三司使。禮成,進給事中,為修景靈宮副使兼修兗州景靈宮、太極觀。昭應宮成,遷尚書工部侍郎,真拜三司使。樞密使寇準言特奸邪,又數與爭事,帝為出準,特在職如故。後罷三司,以戶部侍郎同玉清昭應宮副使。兗州宮觀成,遷吏部侍郎。天禧元年,為修上《聖祖寶冊》副使,轉尚書右丞。

当時、天下は富み完備しており、丁謂は符瑞や土木で帝の意を迎え、特に心計があるとして、財利を管轄させてこれを補佐させた。しかし特もまた天性邪険で、よく附会したので、謂は終始特を善しとし、当時陳彭年らとともに「五鬼」と号された。その話は『王欽若伝』にある。

原文時天下完富,丁謂以符瑞、土木迎帝意,而以特有心計,使幹財利佐之。然特亦天性邪險,善附會,故謂始終善特,當時與陳彭年等號「五鬼」,語在《王欽若傳》。

仁宗が東宮にいた時、工部尚書を兼ねて太子賓客となり、詹事に改めた。丁謂は彼を枢密副使に引き入れようとしたが、李迪が執って許さなかった。仁宗が即位すると、刑部尚書・翰林侍読学士に進んだ。謂が貶官されると、特もまた落職して許州知州となった。朝廷に還ると、戸部尚書をもって通進銀台司を管轄し、尚書都省を判じ、三班院を勾当した。特は体質が元来弱かったが、一日も休暇を取ったことがなく、病を得てからは、わずか五日で卒した。尚書左僕射を追贈された。太后は中使を遣わして祀奠した。

原文仁宗在東宮,以工部尚書兼太子賓客,改詹事。丁謂欲引為樞密副使,而李迪執不可。仁宗即位,進刑部尚書、翰林侍讀學士。謂貶,特亦落職知許州。還朝,以戶部尚書知通進銀台司、判尚書都省、勾當三班院。特體素羸,然未嘗一日謁告,及得疾,才五日而卒。贈尚書左僕射。太后遣中使祀奠。

特は精敏で、吏職を好み、机に向かって終日倦むことがなかった。真宗はしばしば朝廷の大事について彼に諮問したが、特はそれによって中傷することがあり、人々はこれを憚った。詔を奉じて『会計録』三十巻を撰した。また『東封西祀朝謁太清宮慶賜総例』三十六巻を作った。

原文特精敏,喜吏職,據案終日不倦。真宗數訪以朝廷大事,特因有所中傷,人以此憚焉。奉詔撰《會計錄》三十卷。又為《東封西祀朝謁太清宮慶賜總例》三十六卷。

子に濰・洙がいた。濰もまた吏能があり、歴官して三司塩鉄副使に至り、秘書監で致仕し、卒した。洙は官は司農卿・知寿州に至ったが、事に臨んで苛急であり、鼓角将が夜に州廨に入り、堂の檻の鉄鉤を抜いて彼を撃殺した。

原文子濰、洙。濰亦有吏能,曆官至三司鹽鐵副使,以秘書監致仕,卒。洙,官至司農卿、知壽州,臨事苛急,鼓角將夜入州廨,拔堂檻鐵鉤擊殺之。

丁謂

原文丁謂

丁謂は、字を謂之といい、後に改めて公言と称し、蘇州長洲の人である。若くして孫何と親しく交わり、共に袖に文章を隠して王禹偁に謁見し、禹偁は大いに驚き重んじ、唐の韓愈・柳宗元以来二百年にして初めてこのような作品があると評した。世間では「孫丁」と称された。淳化三年、進士甲科に及第し、大理評事・饒州通判となった。一年余りして直史館に任じられ、太子中允として福建路采訪となった。帰還後、茶塩の利害について上奏し、転運使に任ぜられ、三司戸部判官を兼ねた。峡路の蛮が辺境を侵したため、派遣されて実情を調査した。帰還して奏上したところ、帝の意に適い、峡路転運使を領し、累進して尚書工部員外郎となった。ちょうど川峡を四路に分割することとなり、夔州路に改任された。

原文丁謂,字謂之,後更字公言,蘇州長洲人。少與孫何友善,同袖文謁王禹偁,禹偁大驚重之,以為自唐韓愈、柳宗元後,二百年始有此作。世謂之「 孫丁」。淳化三年,登進士甲科,為大理評事、通判饒州。逾年,直史館,以太子中允為福建路采訪。還,上茶鹽利害,遂為轉運使,除三司戶部判官。峽路蠻擾邊,命往體量。還奏稱旨,領峽路轉運使,累遷尚書工部員外郎,會分川峽為四路,改夔州路。

初め、王均が反乱した際、朝廷は施・黔・高・溪州の蛮族の子弟を徴発して賊を防がせたが、後に逆に寇掠するようになった。丁謂が到着すると、その種族の酋長を召して諭し、かつ詔勅により殺さずに赦すと伝えた。酋長は感激して涙を流し、代々貢献することを誓った。そこで誓約を刻んだ石柱を作り、境界に立てた。蛮地は粟に富むが常に塩が不足していたため、丁謂は粟と塩の交換を許し、蛮人は大いに喜んだ。以前は、施州に駐屯する兵士に夔州・万州の粟を送って糧食としていたが、この時より民は糧秣輸送の労苦から解放され、施州の諸砦の蓄積もすべて賄えるようになった。特に刑部員外郎に昇進し、白金三百両を賜った。時に溪蛮の別種が侵入したため、丁謂は高・溪の酋長にその配下を率いて討伐させ、出兵して援護し、生きた蛮人六百六十人を捕らえ、掠われた漢人四百余人を奪還した。さらに上奏して言うには、黔南の蛮族は良馬を多く産するので、館駅を設け、緡帛で犒賞し、毎年買い上げることを請うた。その後、夔州城砦に移転設置したことは、すべて丁謂の計画によるものであった。在任五年、交代がなく、ついに自らの後任を推挙するよう詔があり、そこで入朝して権三司塩鉄副使となった。間もなく、知制誥に抜擢され、吏部流内銓を判った。

原文初,王均叛,朝廷調施、黔、高、溪州蠻子弟以捍賊,既而反為寇。謂至,召其種酋開諭之,且言有詔赦不殺。酋感泣,願世奉貢。乃作誓刻石柱,立境上。蠻地饒粟而常乏鹽,謂聽以粟易鹽,蠻人大悅。先時,屯兵施州而饋以夔、萬州粟。至是,民無轉餉之勞,施之諸砦,積聚皆可給。特遷刑部員外郎,賜白金三百兩。時溪蠻別種有入寇者,謂遣高、溪酋帥其徒討擊,出兵援之,擒生蠻六百六十,得所掠漢口四百餘人。復上言:黔南蠻族多善馬,請致館,犒給緡帛,歲收市之。其後徙置夔州城砦,皆謂所經畫也。居五年,不得代,乃詔舉自代者,於是入權三司鹽鐵副使。未幾,擢知制誥,判吏部流內銓。

景德四年、契丹が河北を侵犯し、真宗は澶淵に行幸した。丁謂を鄆州知州兼斉・濮等州安撫使とし、転運兵馬巡検事を提挙させた。契丹が深く侵入したため、民は驚き騒ぎ、争って楊劉の渡しに向かったが、舟人は利益を求めて、すぐには渡さなかった。丁謂は死罪人を捕らえて舟人と偽り、河畔で斬首した。舟人は恐れ、民はことごとく渡河できた。そこで部署を定め、河沿いに旗幟を持たせ、刁斗を打ち鳴らし、叫び声を百余里に聞こえさせたので、契丹はついに退却した。翌年、召されて右諫議大夫・権三司使となった。『会計録』を上呈し、景德四年の民賦戸口の籍を、咸平六年の数と比較し、詳細を史館に上申し、今後は咸平の籍を基準とし、毎年その数を比較して奏上するよう請うた。詔により褒賞された。まもなく枢密直学士を加えられた。

原文景德四年,契丹犯河北,真宗幸澶淵,以謂知鄆州兼齊、濮等州安撫使,提舉轉運兵馬巡檢事。契丹深入,民驚擾,爭趣楊劉渡,而舟人邀利,不時濟。謂取死罪紿為舟人,斬河上,舟人懼,民得悉渡。遂立部分,使並河執旗幟,擊刁斗,呼聲聞百餘里,契丹遂引去。明年,召為右諫議大夫、權三司使。上《會計錄》,以景德四年民賦戶口之籍,較咸平六年之數,具上史館,請自今以咸平籍為額,歲較其數以聞,詔獎之。尋加樞密直學士。

大中祥符初年、封禅の議が起こったが、決まらなかった。帝が経費について問うと、丁謂は「大計には余裕あり」と答えたので、議論は決した。そこで丁謂を計度泰山路糧草使に任ずる詔が出た。初め、宮城内の乾地に玉清昭応宮を営むことが議論され、左右に諫める者がいた。帝が丁謂に問うと、丁謂は答えて言った、「陛下は天下の富をお持ちです。一つの宮殿を建てて上帝に奉り、皇嗣を祈られるのです。群臣で陛下を沮む者がおりますなら、この論をもってなさるがよいでしょう」。王旦が密かに上疏して諫めたが、帝は丁謂の答えた言葉を告げたので、王旦は再び敢えて言わなかった。そこで丁謂を修玉清昭応宮使とし、さらに天書扶侍使とし、給事中に昇進し、正式に三司使となった。汾陰に祀りを行った時は、行在三司使となった。会霊観を建立するに当たり、丁謂は再び総領した。尚書礼部侍郎に昇進し、さらに戸部に進み、参知政事となった。建安軍で玉皇像を鋳造する際は、迎奉使となった。太清宮に朝謁する際は、奉祀経度制置使・亳州判となった。帝は宴を賜い詩を賦してその行を寵し、権管勾駕前兵馬事を命じた。丁謂は白鹿と霊芝九万五千本を献上した。帰還後、礼儀院を判り、さらに修景霊宮使となり、天書を模写して玉笈に刻み、玉清昭応宮副使となった。大内が火災に遭うと、修葺使となった。工・刑・兵の三部尚書を歴任し、再び天書儀衛副使となり、平江軍節度使・昇州知州に任ぜられた。

原文大中祥符初,議封禪,未決,帝問以經費,謂對「大計有餘」,議乃決。因詔謂為計度泰山路糧草使。初,議即宮城乾地營玉清昭應宮,左右有諫者。帝召問,謂對曰:「陛下有天下之富,建一宮奉上帝,且所以祈皇嗣也。群臣有沮陛下者,願以此論之。」王旦密疏諫,帝如謂所對告之,旦不復敢言。乃以謂為修玉清昭應宮使,復為天書扶侍使,遷給事中,真拜三司使。祀汾陰,為行在三司使。建會靈觀,謂復總領之。遷尚書禮部侍郎,進戶部,參知政事。建安軍鑄玉皇像,為迎奉使。朝謁太清宮,為奉祀經度制置使、判亳州。帝賜宴賦詩以寵其行,命權管勾駕前兵馬事。謂獻白鹿並靈芝九萬五千本。還,判禮儀院,又為修景靈宮使,摹寫天書刻玉笈,玉清昭應宮副使。大內火,為修葺使。歷工、刑、兵三部尚書,再為天書儀衛副使,拜平江軍節度使、知昇州。

天禧初年、保信軍節度使に転じた。三年、吏部尚書として再び参知政事となった。この年、南郊で祀りを行い、輔臣は皆進官した。故事によれば、かつて宰相でありながら枢密使に任ぜられた者は、初めて僕射に昇進できるものであったが、ここに丁謂を検校太尉兼本官として枢密使とした。時に寇準が宰相であったが、特に丁謂を憎み、丁謂は寇準の過失を捏造し、ついに寇準を宰相から罷免させた。まもなく丁謂を同中書門下平章事・昭文館大学士・監修国史・玉清昭応宮使に任じた。周懐政の事が敗露し、再び寇準を貶す議論が起こった。帝は寇準を江・淮の地に貶そうと考えたが、丁謂が退出後、道州司馬に任じた。同列の者は敢えて言わなかったが、ただ王曾だけが帝の言葉を質した。丁謂は顧みて言った、「居停主人はもう言うな」。これは王曾が邸宅を寇準に貸していたことを指すものであった。

原文天禧初,徙保信軍節度使。三年,以吏部尚書復參知政事。是歲,祀南郊,輔臣俱進官。故事,嘗為宰相而除樞密使,始得遷僕射,乃以謂檢校太尉兼本官為樞密使。時寇準為相,尤惡謂,謂媒蘖其過,遂罷準相。既而拜謂同中書門下平章事、昭文館大學士、監修國史、玉清昭應宮使。周懷政事敗,議再貶準,帝意欲謫準江、淮間,謂退,除道州司馬。同列不敢言,獨王曾以帝語質之,謂顧曰:「居停主人勿復言。」蓋指曾以第舍假準也。

その後、皇太子に聴政させ、皇后が内で裁決するという詔が出た。二府が東宮官を兼ねることとなり、丁謂に門下侍郎兼太子少傅を加えた。しかし李迪が先に少傅を兼ねていたため、今度は中書侍郎兼尚書左丞を加えた。故事では、左・右丞は両省侍郎が兼ねるものではなかったが、丁謂の意は特に李迪を抑えることにあった。丁謂と親しい林特は、賓客から詹事に改任されたが、丁謂は彼を枢密副使兼賓客に引き上げようとした。李迪が固執して許さず、ついに大いに罵った。内対に入った後、李迪は丁謂の奸邪不法な事を指弾し、共に御史に付して審理させることを願い出た。その言葉は『李迪伝』にある。帝は前の制書を留め置いて下さず、ついに丁謂を戸部尚書に、李迪を戸部侍郎に罷免した。まもなく丁謂を河南府知事に、李迪を鄆州知事とした。翌日、入朝して謝すると、帝は争った様子を詰問した。丁謂は答えて言った、「臣が敢えて争ったのではなく、李迪が憤って臣を罵ったのです。どうか再び留めてください」。そこで座を賜った。左右が墩を設けようとすると、丁謂は顧みて言った、「詔により平章事に復する」。そこで杌に替えて進めさせ、即座に中書に入り、従前通り政務を執った。なお尚書左僕射・門下侍郎・平章事兼太子少師に進んだ。天章閣が完成すると、司空に任ぜられた。乾興元年、晋国公に封ぜられた。

原文其後詔皇太子聽政,皇后裁制於內,以二府兼東宮官,遂加謂門下侍郎兼太子少傅,而李迪先兼少傅,乃加中書侍郎兼尚書左丞。故事,左、右丞非兩省侍郎所兼,而謂意特以抑迪也。謂所善林特,自賓客改詹事,謂欲引為樞密副使兼賓客,迪執不可,因大詬之。既入對,斥謂奸邪不法事,願與俱付御史雜治,語在《迪傳》。帝因格前制不下,乃罷謂為戶部尚書,迪為戶部侍郎;尋以謂知河南府,迪知鄆州。明日,入謝,帝詰所爭狀,謂對曰:「非臣敢爭,乃迪忿詈臣爾,願復留。」遂賜坐。左右欲設墩,謂顧曰:「 有旨復平章事。」乃更以杌進,即入中書視事如故。仍進尚書左僕射、門下侍郎、平章事兼太子少師。天章閣成,拜司空。乾興元年,封晉國公。

仁宗が即位すると、司徒兼侍中に進み、山陵使となった。寇準・李迪が再び貶謫された際、丁謂は詔書の草稿を取って「醜徒が紀を干す際に当たり、先王が違豫よの初めに属し、この震驚に罹り、遂に沈劇に至る」と改めた。寇準と親しい者はすべて追放した。この時、二府が協議を定め、太后と帝が五日ごとに便殿に出て聴政することとした。既に旨を得たが、丁謂はひそかに内侍の雷允恭と結び、密かに太后に手書を下し、軍国事に進んで印画するよう請わせた。学士が詔書の文辞を起草すると、允恭は先に持って丁謂に見せ、閲覧してから進上した。これは丁謂が允恭にのみ中旨の伝達を任せ、同列の者に機密政事に関与させたくないためであった。允恭は丁謂の勢力を頼み、ますます横暴で憚るところがなくなった。

原文仁宗即位,進司徒兼侍中,為山陵使。寇準、李迪再貶,謂取制草改曰:「當醜徒幹紀之際,屬先王違豫之初,罹此震驚,遂至沈劇。」凡與準善者,盡逐之。是時二府定議,太后與帝五日一御便殿聽政。既得旨,而謂潛結內侍雷允恭,令密請太后降手書,軍國事進入印畫。學士草制辭,允恭先持示謂,閱訖乃進。蓋謂欲獨任允恭傳達中旨,而不欲同列與聞機政也。允恭倚謂勢,益橫無所憚。

允恭はちょうど山陵都監となっており、判司天監の邢中和と共に皇堂の地を擅かに変更した。夏守恩が工徒数万を率いて地を穿ったが、土と石が半ばし、衆議は日に日に喧しく、成功できないことを恐れ、途中で中止し、命令を待つよう奏請した。丁謂は允恭を庇い、態度を曖昧にして決断しなかった。内侍の毛昌達が陵所から戻り、その事を奏上した。詔により丁謂に問うと、丁謂は初めて使者を派遣して視察するよう請うた。まもなく皆が旧地を用いるべきだと主張したため、馮拯・曹利用らを丁謂の邸宅に遣わして協議させ、王曾を派遣して再視察させ、ついに允恭を誅殺した。

原文允恭方為山陵都監,與判司天監邢中和擅易皇堂地。夏守恩領工徒數萬穿地,土石相半,眾議日喧,懼不能成功,中作而罷,奏請待命。謂庇允恭,依違不決。內侍毛昌達自陵下還,以其事奏,詔問謂,謂始請遣使按視。既而咸謂復用舊地,乃詔馮拯、曹利用等就謂第議,遣王曾覆視,遂誅允恭。

数日後、太后と帝は承明殿に座し、王拯・曹利用らを召して諭して曰く、「丁謂は宰輔たりながら、宦官と交通せり」と。

原文後數日,太后與帝坐承明殿,召拯、利用等諭曰:「丁謂為宰輔,乃與宦官交通。」因出謂嘗托允恭令後苑匠所造金酒器示之,又出允恭嘗幹謂求管勾皇城司及三司衙司狀,因曰:「謂前附允恭奏事,皆言已與卿等議定,故皆可其奏;且營奉先帝陵寢,而擅有遷易,幾誤大事。」拯等奏曰:「自先帝登遐,政事皆謂與允恭同議,稱得旨禁中。臣等莫辨虛實,賴聖神察其奸,此宗社之福也。」乃降謂太子少保、分司西京。故事,黜宰相皆降制,時欲亟行,止令拯等即殿廬召舍人草詞,仍榜朝堂,布諭天下。追其子珙、珝、玘、武一官,落珙館職。

そこで丁謂がかつて雷允恭に託して後苑の工匠所に造らせた金酒器を示し、また允恭がかつて丁謂に管勾皇城司及び三司衙司を求めて請うた状を出し、因って曰く、「謂は以前允恭に附して奏事するとき、皆すでに卿らと議定せりと言い、故にその奏を皆可とした。

原文先是,女道士劉德妙者,嘗以巫師出入謂家。謂敗,逮繫德妙,內侍鞫之。德妙通款,謂嘗教言:「若所為不過巫事,不若托言老君言禍福,足以動人。」於是即謂家設神像,夜醮於園中,允恭數至請禱。及帝崩,引入禁中。又因穿地得龜蛇,令德妙持入內,紿言出其家山洞中。仍復教云:「上即問若,所事何知為老君,第云『相公非凡人,當知之』。」謂又作頌,題曰「混元皇帝賜德妙」,語涉妖誕。遂貶崖州司戶參軍。諸子並勒停。玘又坐與德妙奸,除名,配隸復州。籍其家,得四方賂遺,不可勝紀。其弟誦、說、諫悉降黜。坐謂罷者,自參知政事任中正而下十數人。在崖州逾三年,徙雷州,又五年,徙道州。明道中,授秘書監致仕,居光州,卒。詔賜錢十萬、絹百匹。

拯ら奏して曰く、「先帝登遐より以来、政事は皆謂と允恭が同議し、禁中より旨を得たりと称した。

原文謂機敏有智謀,憸狡過人,文字累數千百言,一覽輒誦。在三司,案牘繁委,吏久難解者,一言判之,眾皆釋然。善談笑,尤喜為詩,至於圖畫、博奕、音律,無不洞曉。每休沐會賓客,盡陳之,聽人人自便,而謂從容應接於其間,莫能出其意者。

乃ち謂を太子少保・分司西京に降す。

原文真宗朝營造宮觀,奏祥異之事,多謂與王欽若發之。初,議營昭應宮,料功須二十五年,謂令以夜繼晝,每繪一壁給二燭,七年乃成。真宗崩,議草遺制,軍國事兼取皇太后處分,謂乃增以「權」字。及太后稱制,又議月進錢充宮掖之用,由是太后深惡之,因雷允恭遂並錄謂前後欺罔事竄之。

先に、女道士劉徳妙なる者は、嘗て巫師として謂の家に出入りせり。

原文在貶所,專事浮屠因果之說,其所著詩並文亦數萬言。家寓洛陽,嘗為書自克責,敘國厚恩,戒家人毋輒怨望,遣人致於洛守劉燁,祈付其家。戒使者伺燁會眾僚時達之,燁得書不敢私,即以聞。帝見感惻,遂徙雷州,亦出於揣摩也。謂初通判饒州,遇異人曰:「君貌類李讚皇。」既而曰:「讚皇不及也。」

徳妙が供述して、謂が嘗て教えて言うには、「汝の為すところは巫事に過ぎず、老君が禍福を言うと托するに若かず、以て人を動かすに足る」と。

原文夏竦

及んで帝崩ずると、禁中に引き入れた。

原文夏竦,字子喬,江州德安人。父承皓,太平興國初,上《平晉策》,補右侍禁,隸大名府。契丹內寇,承皓繇間道發兵,夜與契丹遇,力戰死之,贈崇儀使,錄竦為潤州丹陽縣主簿。

謂はまた頌を作り、題して「混元皇帝賜徳妙」とし、語は妖誕に渉る。

原文竦資性明敏,好學,自經史、百家、陰陽、律曆,外至佛老之書,無不通曉。為文章,典雅藻麗。舉賢良方正,擢光祿寺丞、通判台州。召直集賢院,為國史編修官、判三司都磨勘司,累遷右正言。帝幸亳州,為東京留守推官。仁宗初封慶國公,王旦數言竦材,命教書資善堂。未幾,同修起居注,為玉清昭應宮判官兼領景靈宮、會真觀事,遷尚書禮部員外郎、知制誥。史成,遷戶部。景靈宮成,遷禮部郎中。

その弟誦・説・諫は悉く降黜せらる。

原文竦娶楊氏,楊亦工筆劄,有鉤距。及竦顯,多內寵,浸與楊不諧,楊悍妒,即與弟胃疏竦陰事,竊出訟之,又竦母與楊母相詬詈,偕訴開封府,府以事聞,下御史臺置劾,左遷職方員外郎、知黃州。後二年,徙鄧州,又徙襄州。屬歲饑,大發公廩,不足,竦又勸率州大姓,使出粟,得二萬斛,用全活者四十餘萬人。仁宗即位,遷戶部郎中,徙壽、安、洪三州。洪俗尚鬼,多巫覡惑民,竦索部中得千餘家,敕還農業,毀其淫祠以聞。詔江、浙以南悉禁絕之。

謂は機敏にして智謀あり、憸狡人に過ぎ、文字累数千百言も、一覧すれば輒ち誦す。

原文竦材術過人,急於進取,喜交結,任數術,傾側反覆,世以為奸邪。當太后臨朝,嘗上疏乞與修《真宗實錄》,不報。既而丁母憂,潛至京師,依中人張懷德為內助,宰相王欽若雅善竦,因左右之,遂起復知制誥,為景靈判官、判集賢院,以左司郎中為翰林學士、勾當三班院兼侍讀學士、龍圖閣學士,又兼譯經潤文官。遷諫議大夫,為樞密副使、修國史,遷給事中。初,武臣賞罰無法,吏得高下為奸,竦為集前比,著為定例,事皆按比而行。改參知政事、祥源觀使。增設賢良等六科,復百官轉對,置理檢使,皆竦所發。與宰相呂夷簡不相能,復為樞密副使,遷刑部侍郎。史成,進兵部,尋進尚書左丞。

真宗朝に宮観を営造し、祥異の事を奏するは、多く謂と王欽若がこれを発せり。

原文太后崩,罷為禮部尚書、知襄州,改潁州。京東薦饑,徙青州兼安撫使。逾年,罷安撫,遷刑部尚書、徙應天府。寶元初,以戶部尚書入為三司使。趙元昊反,拜奉寧軍節度使、知永興軍,聽便宜行事。徙忠武軍節度使、知涇州。還,判永興軍兼陝西經略安撫招討,進宣徽南院使。與陳執中論兵事不合,詔徙屯鄜州。

夏竦

原文初,竦在涇州,朝廷遣龐籍就計事。竦上奏曰:

かつて李継遷が背き、しばしば朔方を寇掠した。至道の初め、洛苑使白守栄らが重兵を率いて糧食四十万を護送し、浦洛河で賊に遭遇し、糧食と兵卒はともに没し、守栄はただ一身を免れたのみであった。呂端は初め兵を発し、麟府・鄜延・環慶の三路より平夏に趣き、その巣穴を襲おうとしたが、太宗はこれを難事とした。後に李継隆・丁罕・範廷召・王超・張守恩の五路に命じて討伐に入らせた。継隆と丁罕は合兵し、十日間行軍したが、賊を見ず。守恩は賊を見たが撃たず。超と廷召は烏白池に至ったが、諸将が期に失したため、士卒は困弊し、相次いで引き揚げた。時に継遷は継捧の入朝の後、曹光実の掩襲の余り、遁逃窮蹙していたが、なお数年にわたって剿滅できなかった。先皇帝は追討の弊を鑑み、辺境の官吏に烽候を謹み、卒乗を厳にし、来れば即ちこれを駆逐し、去れば追捕しないことを戒めた。

原文「頃者繼遷逃背,屢寇朔方。至道初,洛苑使白守榮等率重兵護糧四十萬,遇寇浦洛河,糧卒並沒,守榮僅以身免。呂端始欲發兵,由麟府、鄜延、環慶三路趣平夏,襲其巢穴,太宗難之。後命李繼隆、丁罕、範廷召、王超、張守恩五路入討。繼隆與罕合兵,行旬日,不見賊;守恩見賊不擊;超及廷召至烏白池,以諸將失期,士卒困敝,相繼引還。時繼遷當繼捧入朝之後,曹光實掩襲之餘,遁逃窮蹙,而猶累歲不能剿滅。先皇帝鑒追討之敝,戒疆吏謹烽候、嚴卒乘,來即驅逐之,去無追捕也。

しかし拓跋の境域は、霊武が陥落した後、銀・綏が割棄されて以来、朝廷の威霊を仮り、その役属する者は河外の小羌に過ぎない。況や徳明・元昊が相継いで猖獗し、継遷の窮蹙を以て元昊の富実に比すれば、その勢いは知るべし。先朝の累勝の士を以て、当今の関東の兵に較べれば、勇怯は知るべし。興国の習戦の帥を以て、沿辺の未だ試みられざる将に方すれば、工拙は知るべし。継遷は平夏に竄伏し、元昊は河外に窟穴す、地勢は知るべし。もし兵を分けて深入すれば、糗糧は支えず、師は賊境を行くは、速戦に利あり。もし進めば賊はその鋒を避け、退けば敵はその後に躡う、師老いて糧を費やすは、深く虞るべし。もしその巣穴を窮めんとすれば、必ず大河を渉らねばならず、長舟巨艦は、倉卒に具えるべからず。もし浮嚢挽梗を以て、連絡して進まば、我が師半ば渡るに、賊は勢いに乗じて掩撃す、何の謀をもって捍禦すべきか知らず。臣は主客の利を較べず、攻守の便を計らずして、追討を議するは、良策に非ざると思料す。

原文然拓跋之境,自靈武陷沒之後,銀、綏割棄已來,假朝廷威靈,其所役屬者不過河外小羌爾。況德明、元昊相繼猖獗,以繼遷窮蹙,比元昊富實,勢可知也。以先朝累勝之士,較當今關東之兵,勇怯可知也。以興國習戰之帥,方沿邊未試之將,工拙可知也。繼遷竄伏平夏,元昊窟穴河外,地勢可知也。若分兵深入,糗糧不支,師行賊境,利於速戰。儻進則賊避其鋒,退則敵躡其後,老師費糧,深可虞也。若窮其巢穴,須涉大河,長舟巨艦,非倉卒可具也。若浮囊挽梗,聯絡而進,我師半渡,賊乘勢掩擊,未知何謀可以捍禦?臣以為不較主客之利,不計攻守之便,而議追討者,非良策也。」

ここに十箇条の事を条上す。時に辺臣多く征討を議し、朝廷これに傾いたが、夏竦は出師の便ならざるを言う。既に詔して涇原・鄜延の両路の兵を以て進討せしめんとし、会に元昊が稍々納款を求めたため、范仲淹が鄜延の兵を留めることを請うた。これにより涇原の兵もまた行われず。中国の師は、ついに塞を出ず。

原文因條上十事。時邊臣多議征討,朝廷鄉之,而竦言出師非便。既而詔以涇原、鄜延兩路兵進討,會元昊稍求納款,范仲淹請留鄜延兵,由是涇原兵亦不行。中國之師,卒不出塞。

竦が上奏した十事は、一、強弩を教習して奇兵となす。二、属羌を羈縻して藩籬となす。三、唃廝囉父子に詔して力を併せて賊を破らしむ。四、地形の険易遠近・砦柵の多少・軍士の勇怯を度り、屯兵を増減す。五、諸路に詔して互いに応援せしむ。六、土人を募って兵とし、州ごとに一、二千人とし、以て東兵に代えしむ。七、弓手・壮丁・獵戸を増置して城守に備う。八、辺境に並ぶ小砦には、芻糧を積まず、賊の攻撃急なれば、則ち小砦を棄てて大砦に入り保ち、以て兵力を完うす。九、関中の民で累に坐し、若しくは過誤ある者は、人をして粟を入れて罪を贖わしむることを許し、銅一斤を粟五斗となし、以て辺計を贍う。十、辺境に並ぶ冗兵・冗官及び騎軍を損減し、以て饋運を舒にする。当時、これを採用すること頗る多し。

原文竦上十事:一、教習強弩以為奇兵;二、羈縻屬羌以為藩籬;三、詔唃廝囉父子並力破賊;四、度地形險易遠近、砦柵多少、軍士勇怯,而增減屯兵;五、詔諸路互相應援;六、募土人為兵,州各一二千人,以代東兵;七、增置弓手、壯丁、獵戶以備城守;八、並邊小砦,毋積芻糧,賊攻急,則棄小砦入保大砦,以完兵力;九、關中民坐累若過誤者,許人入粟贖罪,銅一斤為粟五斗,以贍邊計;十、損並邊冗兵、冗官及減騎軍,以舒饋運。當時頗采用之。

その土人を募って兵とすること、令が下って楊偕が奏言して曰く、「西兵は継遷の時に比べて十増七八し、県官は供億に困る。今また州ごとに一、二千人を益せば、則ち歳費は計り知れず。もし士卒を訓習してこれを精鋭とし、将帥を選任して方略を求めれば、自然に寡を以て衆を撃ち、一を以て百に当たるべし。竦が云う『土兵訓練して東兵に代え得る』は、虚言なり。徳明が納款して以来、東兵すら代え得ず、況んや今日においてをや。」朝廷、竦に下して議せしむ。竦、奏して曰く、「陝西の防秋の弊は、東兵に甚だしきはなく、登陟に慣れず、寒暑に耐えず、驕懦相習い、廩給は至って厚し。土兵は便習にして、各々郷土を護り、山川道路は彼ら皆素より知り、歳に芻糧を省くこと鉅万。且つ小民を収聚し、飢餓して盗となるを免れしめ、兵を代えて東に帰らしめ、以て京師を衛わしむれば、万世の利なり。偕が寡を以て衆を撃たんと欲するは、殆ど虚言なり。」

原文其募土人為兵,令下而楊偕奏言:「西兵比繼遷時十增七八,縣官困於供億,今州復益一二千人,則歲費不貲。若訓習士卒,使之精銳,選任將帥,求之方略,自然以寡擊眾,以一當百矣。竦云「土兵訓練可代東兵」,此虛言也。自德明納款以來,東兵猶不可代,況今日乎?」朝廷下竦議,竦奏:「陝西防秋之敝,無甚東兵,不慣登陟,不耐寒暑,驕懦相習,廩給至厚。土兵便習,各護鄉土,山川道路,彼皆素知,歲省芻糧鉅萬。且收聚小民,免饑餓為盜,代兵東歸,以衛京師,萬世利也。偕欲以寡擊眾,殆虛言也。」

偕、また奏して云く、「古より将帥が殊庭に深入するは、霍去病はただ軽騎八百を将い、直ちに大将軍を棄てて数百里を赴き利を求め、斬捕過当たり。また万騎を将いて烏盭を踰え、遫仆を討ち、狐奴に渉り、五王国を歴、焉支山を過ること千有余里、兵を合して皋蘭の下に鏖し、折蘭王・盧侯王を殺し、昆邪王子を執り、休屠の祭天金人を収む。趙充国もまた万騎を以て先零を破る。李靖は驍ぎょう騎三千を以て突厥を破り、また精騎一万を以て陰山に至り、首級千余を斬り、男女十余万を俘え、頡利を擒えて献ず。漢以来、少を以て衆を撃つこと、数え勝えず。竦は涇原において城壘を守り、険阻に拠り、来れば則ちこれを禦ぎ、去れば則ちこれを釈す、出師するを聞かず。竦は戦いに或いは敗衄するを懼れ、兵少を以て辞と托すのみ。

原文偕復奏云:「自古將帥深入殊庭,霍去病止將輕騎八百,直棄大將軍數百里赴利,斬捕過當;又將萬騎逾烏盭,討遫仆,涉狐奴,曆五王國,過焉支山千有餘里,合兵鏖皋蘭下,殺折蘭王、盧侯王,執昆邪王子,收休屠祭天金人。趙充國亦以萬騎破先零。李靖以驍騎三千破突厥,又以精騎一萬至陰山,斬首千餘級,俘男女十餘萬,擒頡利以獻。自漢以來,用少擊眾,不可勝數。竦在涇原守城壘,據險阻,來則禦之,去則釋之,不聞出師也。竦懼戰或敗衄,托以兵少為辭爾。

竦が土兵は各々郷土を護ると言う。古より兵に九地あり、士卒が家に近きを散地と謂い、その離散し易きを言う。ただ近事を以てこれを言えば、閣門祗候王文恩が出師して敗北し、土兵は皆竄走し、ただ東兵のみ二百人ばかり、敵兵を殺すこと甚だ衆し。これにより兵の強弱は東西に係らず、将に謀有るか無きかに在るを知る。今辺郡は東兵・土兵を参用す。もし東兵を尽く罷むれば、また計に非ず。古人に言有り、『隴西の民に勇怯有るに非ず、乃ち将吏の制の巧拙異なるなり』と。今辺防の東兵は、人月に米七斗五升を受け、土兵は二石五斗なり。而るに竦は乃ち東兵の廩給至って厚しと言う、また甚だ知らざるなり。竦はまた土兵を募り訓練して以て東兵に代えよと言う。且つ土兵数万は、募り足して訓練するを須う。三二年と雖も未だ成效を得ず。兵精なるとも猶ほ奔北を恐る。豈に驟に訓練を加えて能く勝を取るを得んや。」竦の議、遂に屈す。

原文竦言土兵各護鄉土,自古兵有九地,士卒近家,謂之散地,言其易離散也。第以近事言之,閣門祗候王文恩出師敗北,而土兵皆竄走,惟東兵僅二百人,殺敵兵甚眾。以此知兵之強弱,不係東西,在將有謀與無謀爾。今邊郡參用東兵、土兵,若盡罷東兵,亦非計也。古人有言:『非隴西之民有勇怯,乃將吏之制巧拙異也。』今防邊東兵,人月受米七斗五升,土兵二石五斗,而竦乃言東兵廩給至厚,又不知之甚也。竦又言募土兵訓練以代東兵,且土兵數萬,須募足訓練,雖三二歲未得成效,兵精猶恐奔北,豈有驟加訓練而能取勝哉?」竦議遂屈。

竦は雅に朝廷に在るを意とし、西事を任ぜられてより、頗る依違顧避し、また数え兵柄を解かんことを請う。判河中府に改め、蔡州に徙す。慶曆年中、召されて枢密使と為る。諫官・御史、章を交えて論ず、「竦は陝西において畏懦して肯って尽力せず、毎に辺事を論ずるに、ただ衆人の言を列するのみ。敕使を遣わして臨督するに至りて、始めて十策を陳ず。嘗て辺境を巡り出で、侍婢を中軍帳下に置き、幾くんか軍変を致さんとす。元昊は嘗て竦の首を得る者に銭三千を与うるを募り、賊に軽侮されること此の如し。今またこれを用いれば、辺将は体解す。且つ竦は詐を挟み数に任せ、奸邪傾険にして、呂夷簡と能わず。夷簡はその人たるを畏れ、肯って同列に引かず。既に退きて、乃ちこれを薦めて以て宿憾を釈す。陛下は孜孜として政事に励み、首に詐を懐き忠ならざるの臣を用い、何を以て治を求めん。」会に竦すでに国門に至る。言者論じて已まず、入見せしめざることを請う。諫官余靖また言う、「竦は累表して疾を引き、及び召用を聞くや、即ち駅を兼ねて馳す。若し早く決せざれば、竦は必ず堅く面對を求め、恩を叙し感泣し、復た左右これが地と為らば、則ち聖聴惑わされん。」章累上す。即日、詔して竦を帰鎮せしむ。竦もまた自ら節を還すことを請う。亳州知州に徙し、吏部尚書に改めて授く。歳中、資政殿学士を加う。

原文竦雅意在朝廷,及任以西事,頗依違顧避,又數請解兵柄。改判河中府,徙蔡州。慶曆中,召為樞密使。諫官、御史交章論:「竦在陝西畏懦不肯盡力,每論邊事,但列眾人之言,至遣敕使臨督,始陳十策。嘗出巡邊,置侍婢中軍帳下,幾致軍變。元昊嘗募得竦首者與錢三千,為賊輕侮如此。今復用之,邊將體解矣。且竦挾詐任數,奸邪傾險,與呂夷簡不相能。夷簡畏其為人,不肯引為同列,既退,乃薦之以釋宿憾。陛下孜孜政事,首用懷詐不忠之臣,何以求治?」會竦已至國門,言者論不已,請不令入見。諫官余靖又言:「竦累表引疾,及聞召用,即兼驛而馳。若不早決,竦必堅求面對,敘恩感泣,復有左右為之地,則聖聽惑矣。」章累上,即日詔竦歸鎮,竦亦自請還節。徙知亳州,改授吏部尚書。歲中,加資政殿學士。

竦が国都の城門に至ると、帝は弾劾の上疏を封じて示した。既に亳州に到着した後、万言の上書を奉って自ら弁明した。再び宣徽南院使・河陽三城節度使に拝され、幷州を判した。宦官を走馬承受に復置することを請うた。翌年、同中書門下平章事に拝され、大名府を判した。また翌年、召されて入朝し宰相とならんとした。任命の制書が下ったが、諫官・御史がまた言上して、「大臣が和すれば政事は修まる。竦は以前関中におり、執中と議論が合わなかった。共に事を為させるべからず」と言った。遂に枢密使に改められ、英国公に封ぜられた。

原文竦之及國門也,帝封彈疏示之,既至亳州,上書萬言自辨。復拜宣徽南院使、河陽三城節度使、判幷州。請復置宦者為走馬承受。明年,拜同中書門下平章事、判大名府。又明年,召入為宰相。制下,而諫官、御史復言:「大臣和則政事修,竦前在關中,與執中論議不合,不可使共事。」遂改樞密使,封英國公。

河北を四路に分割することを請うた。親事官が夜禁中に入り、乱を為さんとした。皇城司を領する者は皆連座して追放されたが、楊懐敏だけは降官し、入内都知を領するは元の如くであった。言事者は竦が懐敏と結び曲げてこれを庇ったと為した。時に京師で同日に雲無くして五度震動する事があった。帝が便殿に坐していた時、翰林学士張方平を急ぎ召し至らせて言った、「夏竦は奸邪である。以て天変がこの如きに至った。出だすべきである」と。河南府知事に罷められ、未だ幾ばくもなく、本鎮に赴き、兼侍中を加えられた。明堂を饗し、武寧軍節度使に移り、鄭国公に進み、賜賚は輔臣と等しかった。将相が外に居て、大礼に遇い賜う有るは、竦より始まった。尋いで病を以て帰り、卒した。太師・中書令を贈られた。諡を文正と賜うたが、劉敞が言う、「世は竦を奸邪と謂う。而るに諡を正と為すは、不可である」と。諡を文庄に改めた。

原文請析河北為四路。親事官夜入禁中,欲為亂,領皇城司者皆坐逐,獨楊懷敏降官,領入內都知如故。言者以為竦結懷敏而曲庇之。會京師同日無雲而震者五,帝方坐便殿,趣召翰林學士張方平至,謂曰:「夏竦奸邪,以致天變如此,宜出之。」罷知河南府,未幾,赴本鎮,加兼侍中。饗明堂,徙武寧軍節度使,進鄭國公,錫賚與輔臣等。將相居外,遇大禮有賜,自竦始。尋以病歸,卒。贈太師、中書令。賜諡文正,劉敞言:「世謂竦奸邪,而諡為正,不可。」改諡文莊。

竦は文学を以て起家し、一時に有名となり、朝廷の大典策は屡々これを属した。古文を多く識り、奇字を学び、夜に至っては指を以て膚に画した。文集一百巻。郡を治むるに治績有り、条教を作るを喜び、閭里に保伍の法を立て、盗賊発するを敢えざるに至った。然れども人は煩擾を苦しんだ。軍を治むるは特に厳しく、敢えて誅殺し、即ち疾病死喪に際しては、拊循甚だ至った。嘗て龍騎卒が辺に戍り、群をなして剽掠し、州郡これを止むる能わず、或いは密かに以て竦に告げた。時に竦は関中におり、その至るを俟ち、召して詰め、誅斬殆んど尽くし、軍中大いに震えた。その威略多く此の類いである。然れども性貪にして、数たび部中で商販した。幷州においては、その僕をして貿易せしめ、侵盗せられるに至り、遂に杖殺した。家財を積み累ねて巨万に及び、自ら奉ずるは特に侈で、声伎を畜うこと甚だ衆かった。所在に陰かに僚属を間し、相い猜阻せしめ、以てその事を鉤致し、家人に遇うも亦然り。

原文竦以文學起家,有名一時,朝廷大典策屢以屬之。多識古文,學奇字,至夜以指畫膚。文集一百卷。其為郡有治績,喜作條教,於閭里立保伍之法,至盜賊不敢發,然人苦煩擾。治軍尤嚴,敢誅殺,即疾病死喪,拊循甚至。嘗有龍騎卒戍邊,群剽,州郡莫能止,或密以告竦。時竦在關中,俟其至,召詰之,誅斬殆盡,軍中大震。其威略多類此。然性貪,數商販部中。在幷州,使其僕貿易,為所侵盜,至杖殺之。積家財累鉅萬,自奉尤侈,畜聲伎甚眾。所在陰間僚屬,使相猜阻,以鉤致其事,遇家人亦然。

子 安期

原文子 安期

子安期、字は清卿、父の任により将作監主簿となり、召されて試みられ、進士出身を賜うた。累遷して太常博士となり、提点荊湖南道刑獄に擢でられた。開封府推官を除され、判官に移り、三司塩鉄勾院を判し、出でて京西転運使となった。盗賊が部中に起こり、州県を剽劫し、而して光化軍の戍卒相継いで叛き、勢い将に相合わんとした。安期は将吏を督して捕斬殆んど尽くした。河東転運使に移り、累遷して尚書工部郎中となり、江・淮発運使に移り、入朝して三司戸部副使となった。時に元昊が款を納れ、西辺兵を罷むるに及び、命じて陝西に往かしめ、諸路の経略安撫司と辺費を損ずるを議せしめ、吏員を省き及び辺兵の役に任じざる者五万人を汰するを奏して頗る省いた。天章閣待制に擢でられ、遂に陝西都転運使となった。河北に移り、兵部郎中に進んだ。

原文子安期,字清卿,以父任為將作監主簿,召試,賜進士出身。累遷太常博士,擢提點荊湖南道刑獄。除開封府推官,徙判官,判三司鹽鐵勾院,出為京西轉運使。盜起部中,剽劫州縣,而光化軍戍卒相繼叛,勢且相合,安期督將吏捕斬殆盡。徙河東轉運使,累遷尚書工部郎中,徙江、淮發運使,入為三司戶部副使。會元昊納款,西邊罷兵,命往陝西與諸路經略安撫司議損邊費,頗奏省吏員及汰邊兵之不任役者五萬人。擢天章閣待制,遂為陝西都轉運使。徙河北,進兵部郎中。

時に竦が枢密使であったので、遷した官を還すことを請い、淮・浙の一郡を乞うた。再び工部郎中・江淮発運使と為され、永興軍知事に移った。龍図閣直学士・吏部郎中に進み、渭州知事となった。弓箭手を簡選し、驍勇なる者万人を得て歩兵と為し、騎兵はまたその半ばとし、戦陣の法を教え、これにより土兵は他の路に勝った。また塞下の閑田を籍し、人を募りて耕種せしめ、歳に穀数万斛を得、以て振発に備え、貸倉と名付けた。

原文時竦為樞密使,為請還所遷官,丐淮、浙一郡。復以為工部郎中、江淮發運使,徙知永興軍。進龍圖閣直學士、吏部郎中、知渭州。簡弓箭手,得驍勇萬人為步兵,騎又半之,教以戰陣法,繇是土兵勝他路。又籍塞下閑田,募人耕種,歲得穀數萬斛,以備振發,名曰貸倉。

右諫議大夫に遷り、枢密直学士に進み、延州に移った。未だ至らざるに、父の憂に服した。服除け、進めた職を辞し、再び龍図閣直学士兼侍読となり、集禧観を提挙した。学士を以て再び延州知事となり、州の東北は山に阻まれ、城郭無く、虜騎嘗てこれに乗じた。安期至るや、即ち大いに城を築いた。時に方に暑く、士卒に怨言有り、安期は益々広袤数百歩を計らしめ、その下に令して曰く、「敢えて言う者は斬る」と。躬自ら役を督し、一月を逾えずして成った。元昊が疆界を画するを請うた。朝廷使を遣わさんと欲し、以て安期に問うた。安期対えて曰く、「此れ王人を煩わすに足らず、衙校にて弁ず可きなり」と。議遂に決した。暴に疾を得、卒した。詔して中使を遣わしその喪を護って帰らしめた。

原文遷右諫議大夫,進樞密直學士,徙延州。未至,丁父憂。服除,辭所進職,復為龍圖閣直學士兼侍讀,提舉集禧觀。以學士復知延州,州東北阻山,無城郭,虜騎嘗乘之。安期至,即大築城。時方暑,士卒有怨言,安期益令廣袤計數百步,令其下曰:「敢言者斬。」躬自督役,不逾月而就。元昊請畫疆界,朝廷欲遣使,以問安期。安期對曰:「此不足煩王人,衙校可辦也。」議遂決。暴得疾,卒,詔遣中使護其喪以歸。

安期は世資に乗ずるも、頗る才を以て自ら励み、朝廷数たびこれを器使した。然れども学術無くして、侍経筵に入るを求め、世に譏られた。その声伎を奉養すること、その父に減ぜざるが如し。

原文安期雖乘世資,頗以才自厲,朝廷數器使之,然無學術,而求入侍經筵,為世所譏。其奉養聲伎,不減其父云。

論じて曰く、王欽若・丁謂・夏竦、世皆奸邪と指す。真宗の時、海内乂安し、文治洽和し、群臣将順に暇あらず。而るに封禅の議は謂に成り、天書の誣は欽若に造端す。道を以て君に事うる者と謂う、固より是の如きか。竦は陰謀猜阻し、鉤致して事を成し、一たび政府に居れば、排斥相踵ぎ、何ぞ其れ患得患失の甚だしきや。欽若は贓賄を以て吏議を幹し、その免るるを得たるは幸いなり。然れども悪に党し正を醜し、幾くんか国家を敗らんとす。謂う、その尤なる者かな、と。

原文論曰:王欽若、丁謂、夏竦,世皆指為奸邪。真宗時,海內乂安,文治洽和,群臣將順不暇,而封禪之議成於謂,天書之誣造端於欽若,所謂以道事君者,固如是耶?竦陰謀猜阻,鉤致成事,一居政府,排斥相踵,何其患得患失也!欽若以贓賄幹吏議,其得免者幸矣。然而黨惡醜正,幾敗國家,謂其尤者哉。