宋史

列傳第四十一 李沆 王旦 向敏中

列傳第四十一 李沆 王旦 向敏中

李沆

原文李沆

李沆、字は太初、洺州肥郷の人。曾祖は豊、泰陵令。祖は滔、洺州団練判官。父は炳、邢帥薛懐譲に従って辟召され、観察支使となった。懐譲が同州に転じると、また掌書記となり、邠州・鳳翔判官を歴任し、殿中侍御史・舒州知州に任ぜられた。太祖が金陵を征した時、淮水沿いの供給は舒州が特に甚だしく、その労により侍御史を加えられ、卒した。

原文李沆,字太初,洺州肥鄉人。曾祖豐,泰陵令。祖滔,洺州團練判官。父炳,從邢帥薛懷讓辟,為觀察支使。懷讓徙同州,又為掌書記,歷邠州、鳳翔判官,拜殿中侍御史、知舒州。太祖征金陵,緣淮供億,惟舒尤甚,以勞加侍御史,卒。

李沆は幼少より学を好み、器量は宏遠であった。炳は嘗て人に語って曰く、「この児は異日必ず公輔に至るであろう」と。太平興国五年、進士甲科に挙げられ、将作監丞・潭州通判となり、右賛善大夫に遷り、著作郎に転じた。相府が召して辺将を約束する詔書を試作させたところ、既に奏上すると、太宗は甚だ悦び、直史館を命じた。雍熙三年、右拾遺王化基が上書して自らを推薦した。太宗は宰相に謂いて曰く、「李沆・宋湜は皆、嘉士である」と。即ち中書に命じて化基と共に召し試し、並びに右補闕・知制誥に除した。李沆の位は最も下であったが、特に上に昇らせ、各々銭百万を賜った。また李沆が平素貧しく、人に負う銭が多いため、別に三十万を賜ってこれを償わせた。四年、翰林学士宋白と同知貢挙となった。誹謗の議論は多かったが、李沆に帰咎することはなかった。職方員外郎に遷り、召されて翰林学士となった。

原文沆少好學,器度宏遠,炳嘗語人曰:「此兒異日必至公輔。」太平興國五年,舉進士甲科,為將作監丞、通判潭州,遷右贊善大夫,轉著作郎。相府召試約束邊將詔書,既奏御,太宗甚悅,命直史館。雍熙三年,右拾遺王化基上書自薦,太宗謂宰相曰:「李沆、宋湜,皆嘉士也。」即命中書並化基召試,並除右補闕、知制誥。沆位最下,特升於上,各賜錢百萬。又以沆素貧,多負人錢,別賜三十萬償之。四年,與翰林學士宋白同知貢舉。謗議雖眾,而不歸咎於沆。遷職方員外郎,召入翰林為學士。

淳化二年、吏部銓を判じた。嘗て曲宴に侍した時、太宗は目送して曰く、「李沆の風度は端凝、真に貴人である」と。三年、給事中・参知政事に拝された。四年、本官のまま罷められ、朝請を奉じた。未だ幾ばくもせず、内艱に遭い、起復し、遂に昇州知州として出向した。未だ行かず、河南府知事に改めた。真宗が皇太子となると、礼部侍郎兼太子賓客に遷り、詔して東宮に師傅の礼をもって待遇させた。真宗が即位すると、戸部侍郎・参知政事に遷った。咸平初め、本官のまま平章事となり、国史を監修し、中書侍郎に改めた。

原文淳化二年,判吏部銓。嘗侍曲宴,太宗目送之曰:「李沆風度端凝,真貴人也。」三年,拜給事中、參知政事。四年,以本官罷,奉朝請。未幾,丁內艱,起復,遂出知昇州。未行,改知河南府。真宗升儲,遷禮部侍郎兼太子賓客,詔東宮待以師傅禮。真宗即位,遷戶部侍郎、參知政事。咸平初,以本官平章事,監修國史,改中書侍郎。

時に契丹が辺境を犯し、真宗は北幸し、李沆に留守を命じた。京師は粛然とした。真宗が還ると、李沆は郊外で迎え、座を置き酒を設け、久しく慰労した。累ねて門下侍郎・尚書右僕射を加えられた。真宗が治道において先とすべきことを問うと、李沆は曰く、「浮薄で新進の事を好む者を用いないこと、これが最も先である」と。その人を問うと、曰く、「梅詢・曾致堯などがこれである」と。後に致堯が温仲舒の副使として陝西を安撫した時、閣門で上疏して仲舒と共に事を為すに足らぬと述べ、軽鋭の徒は称快せざるはなく、李沆は喜ばず、因って他人を用いて仲舒の副使とし、致堯を罷免した。帝は嘗て唐人の党を樹てて制し難く、遂に王室を微弱にさせたことに言及し、蓋し奸邪は弁じ難いからであると謂うと、李沆は対して曰く、「佞言は忠に似、奸言は信に似る。至る所、盧杞が徳宗を蒙蔽した如きは、李勉が真の奸邪と為したが如きである」と。真宗は曰く、「奸邪の跡は、難弁と曰えども、然れども久しければ自ら敗れる」。

原文會契丹犯邊,真宗北幸,命沆留守,京師肅然。真宗還,沆迎於郊,命坐置酒,慰勞久之。累加門下侍郎、尚書右僕射。真宗問治道所宜先,沆曰:「不用浮薄新進喜事之人,此最為先。」問其人,曰:「如梅詢、曾致堯等是矣。」後致堯副溫仲舒安撫陝西,於閣門疏言仲舒不足與共事,輕銳之黨無不稱快,沆不喜也,因用他人副仲舒,罷致堯。帝嘗語及唐人樹黨難制,遂使王室微弱,蓋奸邪難辨爾,沆對曰:「佞言似忠,奸言似信,至如盧杞蒙蔽德宗,李勉以為真奸邪是也。」真宗曰:「奸邪之跡,雖曰難辨,然久之自敗。」

ある夜、使者を持たせ手詔を以て劉氏を貴妃にせんと欲した。李沆は使者に対し燭を引き詔を焚き、付して奏して曰く、「只だ臣李沆以て不可と為すと道え」と。その議は遂に止んだ。駙馬都尉石保吉が使相たらんことを求めた。また李沆に問うと、李沆は曰く、「賞典を行うには、須らく由来すべき所有るべし。保吉は戚里に縁り、攻戦の労なく、台席の拝は、恐らく物議を騰らすであろう」と。他日再三これを問うも、執議は初めの如く、遂に止んだ。帝は李沆に密奏無きを以て、之に謂いて曰く、「人皆密啓有り、卿独り無し、何ぞや」と。対して曰く、「臣、宰相に待罪す。公事は則ち公に言う、何ぞ密啓を用いん。夫人臣に密啓有る者は、讒なければ即ち佞なり。臣は常に之を悪む、豈に尤を効すべけんや」。

原文一夕,遣使持手詔欲以劉氏為貴妃,沆對使者引燭焚詔,附奏曰:「但道臣沆以為不可。」其議遂寢。駙馬都尉石保吉求為使相,復問沆,沆曰:「賞典之行,須有所自。保吉因緣戚里,無攻戰之勞,臺席之拜,恐騰物議。」他日再三問之,執議如初,遂止。帝以沆無密奏,謂之曰:「人皆有密啟,卿獨無,何也?」對曰:「臣待罪宰相,公事則公言之,何用密啟?夫人臣有密啟者,非讒即佞,臣常惡之,豈可效尤?」

時に李継遷が久しく叛き、兵衆は日々盛んとなり、朔方を取らんとする意図有り。朝廷は飛輓に困し、中外皆以て霊州は必争の地と為し、苟くも之を失えば、則ち縁辺諸郡皆保つべからずと為した。帝は頗る之に惑い、因って李沆に訪うと、李沆は曰く、「継遷死せずんば、霊州は朝廷の有に非ず。州将を密かに召し、軍民を部分して空壘にして帰らしむるに若かず。此くの如くすれば、則ち関右の民は肩を息うるであろう」と。方に衆議各異なり、未だ即ち李沆の言に従わず、未だ幾ばくもせずして霊州は陥ち、帝は是より益々之を重んじた。

原文時李繼遷久叛,兵眾日盛,有圖取朔方之意。朝廷困於飛輓,中外咸以為靈州乃必爭之地,苟失之,則緣邊諸郡皆不可保。帝頗惑之,因訪於沆,沆曰:「繼遷不死,靈州非朝廷有也。莫若遣使密召州將,使部分軍民空壘而歸,如此,則關右之民息肩矣。」方眾議各異,未即從沆言,未幾而靈州陷,帝由是益重之。

李沆が相と為り、王旦が参政事と為った時、西北の用兵により、或いは日暮れの食事に至ることもあった。旦は歎じて曰く、「我輩安んぞ坐して太平を致し、優遊して事無きを得んや」と。李沆は曰く、「少しく憂勤有るは、足りて警戒と為す。他日四方寧謐たりとも、朝廷必ずしも事無きに非ず」と。後に契丹と和親し、旦は如何と問うと、李沆は曰く、「善けりと雖も、然れども辺患既に息みては、恐らく人主漸く侈心を生ずるのみ」と。旦は未だ然りと為さず。李沆は又日々四方の水旱・盗賊を奏上した。旦は細事として上聴を煩わすに足らずと為した。李沆は曰く、「人主は少年、当に四方の艱難を知らしむべし。然らずんば、血気方に剛く、声色犬馬に留意せざれば、則ち土木・甲兵・禱祠の事起こるであろう。吾は老い、此れを見るに及ばず、此れは参政の他日の憂いである」と。李沆没後、真宗は契丹既に和し、西夏は款を納うるを以て、遂に岱を封じ汾を祠り、大いに宮観を営み、墜典を蒐講し、暇日有ること無し。旦は親しく王欽若・丁謂等の為す所を見、諫めんと欲すれば既に之に同じ、去らんと欲すれば上遇すること厚く、乃ち李沆の先識の遠きを以て、歎じて曰く、「李文靖は真に聖人である」と。当時遂に之を「聖相」と謂った。

原文沆為相,王旦參政事,以西北用兵,或至旰食。旦歎曰:「我輩安能坐致太平,得優遊無事耶?」沆曰:「少有憂勤,足為警戒。他日四方寧謐,朝廷未必無事。」後契丹和親,旦問何如,沆曰:「善則善矣,然邊患既息,恐人主漸生侈心耳。」旦未以為然。沆又日取四方水旱盜賊奏之,旦以為細事不足煩上聽。沆曰:「人主少年,當使知四方艱難。不然,血氣方剛,不留意聲色犬馬,則土木、甲兵、禱祠之事作矣。吾老,不及見此,此參政他日之憂也。」沆沒後,真宗以契丹既和,西夏納款,遂封岱祠汾,大營宮觀,蒐講墜典,靡有暇日。旦親見王欽若、丁謂等所為,欲諫則業已同之,欲去則上遇之厚,乃以沆先識之遠,歎曰:「李文靖真聖人也。」當時遂謂之「聖相」。

寇準は丁謂と善く、屡々謂の才を以て李沆に薦めたが、用いられなかった。準が之を問うと、李沆は曰く、「其の人と為りを顧みるに、之を人上に使うべけんや」と。準は曰く、「謂の如き者を、相公終に之を抑えて人下に使うべけんや」と。李沆は笑って曰く、「他日後悔せんには、当に吾が言を思うべし」と。準は後に謂に傾けられ、始めて李沆の言に服した。

原文寇準與丁謂善,屢以謂才薦於沆,不用。準問之,沆曰:「顧其為人,可使之在人上乎?」準曰:「如謂者,相公終能抑之使在人下乎?」沆笑曰:「他日後悔,當思吾言也。」準後為謂所傾,始伏沆言。

李沆が相と為り、賓客に接するに、常に寡言であった。馬亮は李沆と同年の生まれで、又其の弟の維と善く、維に語って曰く、「外議は大兄を以て口無き瓢と為す」と。維は隙に乗じて亮の語を伝えると、李沆は曰く、「吾知らざるに非ず。然れども今の朝士は殿に昇り言事し、封を上り論奏し、了えて壅蔽無く、多くは下して有司にし、皆之を見る。若し邦国の大事、北に契丹有り、西に夏人有り、日暮れに条議して以て備禦の策を為すは、詳究せざるに非ず。薦紳たる李宗諤・趙安仁の如きは、皆時の英秀、之と談じても、猶吾が意を啓発すること能わず。自余の通籍の子は、坐起拜揖に尚周章として次を失い、即席必ず自ら功最を論じ、以て寵奨を希う。此れ何の策有りて之と接語せんや。苟くも意を屈して妄言すれば、即ち世の所謂籠罩である。籠罩の事は、僕は病みて能わず」と。李沆は又嘗て言う、「重位に居るは実に補う無く、惟だ中外の陳ぶる利害を、一切報罷する、此れ少しく以て国に報いるのみ。朝廷の防製は、纖悉備具す。或いは陳請に徇い、一事を施行すれば、即ち傷つく所多し。陸象先が曰く『庸人の之を擾す』とは是れなり。憸人は苟も一時の進を図り、豈に民を厲するを念わんや」と。李沆が相と為り、常に『論語』を読む。或る人之を問うと、李沆は曰く、「沆が宰相と為るは、『論語』の中の『用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす』の如き、未だ能く行うこと能わず。聖人の言は、終身之を誦うべし」と。

原文沆為相,接賓客,常寡言。馬亮與沆同年生,又與其弟維善,語維曰:「外議以大兄為無口匏。」維乘間達亮語,沆曰:「吾非不知也。然今之朝士得升殿言事,上封論奏,了無壅蔽,多下有司,皆見之矣。若邦國大事,北有契丹,西有夏人,日旰條議所以備禦之策,非不詳究。薦紳如李宗諤、趙安仁,皆時之英秀,與之談,猶不能啟發吾意。自餘通籍之子,坐起拜揖,尚周章失次,即席必自論功最,以希寵獎,此有何策而與之接語哉?苟屈意妄言,即世所謂籠罩。籠罩之事,僕病未能也。」沆又嘗言:「居重位實無補,惟中外所陳利害,一切報罷之,此少以報國爾。朝廷防製,纖悉備具,或徇所陳請,施行一事,即所傷多矣,陸象先曰『庸人擾之』是已。憸人苟一時之進,豈念厲民耶?」沆為相,常讀《論語》,或問之,沆曰:「沆為宰相,如《論語》中『節用而愛人,使民以時』,尚未能行。聖人之言,終身誦之可也。」

景德元年七月、李沆は待漏して将に朝せんとし、疾発して帰りしに、詔して太醫に診視せしめ、撫問の使を遣わすこと道に相望みたり。翌日、車駕往きて臨問し、白金五千両を賜う。方に宮に還りて沆薨じ、年五十八。上聞きて驚歎し、駕を促して再び往き、臨哭して慟し、左右に謂いて曰く、「沆は大臣たり、忠良純厚にして始終一なり、豈に遐寿を享けざらんとは意えんや」と。言終りて又涙下る。朝を廃すること五日、太尉・中書令を贈り、諡して文靖と曰う。其の弟國子博士贄を録して虞部員外郎と為し、光祿寺丞源を太子中舍と為し、屯田員外郎直集賢院維を戸部員外郎と為す。子宗簡を大理評事と為す。甥蘇昂・妻兄の子朱濤並びに同進士出身を賜う。乾興元年、仁宗即位し、詔して真宗廟庭に配享せしむ。

原文景德元年七月,沆待漏將朝,疾作而歸,詔太醫診視,撫問之使相望於道。明日,駕往臨問,賜白金五千兩。方還宮而沆薨,年五十八。上聞之驚歎,趣駕再往,臨哭之慟,謂左右曰:「沆為大臣,忠良純厚,始終如一,豈意不享遐壽!」言終又泣下。廢朝五日,贈太尉、中書令,諡文靖。錄其弟國子博士贄為虞部員外郎、光祿寺丞源為太子中舍、屯田員外郎直集賢院維為戶部員外郎;子宗簡為大理評事;甥蘇昂、妻兄之子朱濤並同進士出身。乾興元年,仁宗即位,詔配享真宗廟庭。

沆は性直諒にして、内行修謹、言に枝葉なく、大體を識る。位に居りて慎密、聲譽を求めず、動くに條製に遵い、人私を以て干する能わず。公退して、終日危坐し、未だ嘗て跛倚せず。第を封丘門内に治め、廳事の前僅かに馬を旋らすに容る。或いは其の太だ隘しと謂う。沆笑いて曰く、「居第はまさに子孫に傳うべし、此れ宰相の廳事と為すは誠に隘し、太祝・奉禮の廳事と為すは已に寬し」と。垣頽れ壁損ずるに至りても、以て屑慮とせず。堂前の藥闌壞る。妻守舍の者に戒めて葺くこと勿れとし、以て沆を試みしに、沆朝夕之を見るも、月を經て終に言わず。妻以て沆に語る。沆曰く、「豈に此れを以て吾が一念を動かすべけんや」と。家人居第を治むるを勧むるも、未だ嘗て答えず。弟維因りて語次に之に及ぶ。沆曰く、「身厚祿を食み、時に橫賜有り、囊裝を計るも亦以て第を治むべし。但だ内典に此の世界を缺陷と為すを念い、安んぞ圓滿如意を得て、自ら稱足を求めん。今新宅を市えば、須らく一年繕完すべし。人生朝暮保つべからず、又豈に久しく居らんや。林に巣くう一枝、聊か自ら足るのみ。安んぞ豐屋を事とせん」と。

原文沆性直諒,內行修謹,言無枝葉,識大體。居位慎密,不求聲譽,動遵條製,人莫能干以私。公退,終日危坐,未嘗跛倚。治第封丘門內,廳事前僅容旋馬,或言其太隘,沆笑曰:「居第當傳子孫,此為宰相廳事誠隘,為太祝、奉禮廳事已寬矣。」至於垣頹壁損,不以屑慮。堂前藥闌壞,妻戒守舍者勿葺以試沆,沆朝夕見之,經月終不言。妻以語沆,沆曰:「豈可以此動吾一念哉!」家人勸治居第,未嘗答,弟維因語次及之,沆曰:「身食厚祿,時有橫賜,計囊裝亦可以治第,但念內典以此世界為缺陷,安得圓滿如意,自求稱足?今市新宅,須一年繕完,人生朝暮不可保,又豈能久居?巢林一枝,聊自足耳,安事豐屋哉?」

沆は諸弟と友愛し、特に維を器重す。暇日相對して宴飲清言すれども、未だ嘗て朝政に及ばず、亦未だ嘗て家事を問わず。沆没後、或いは梅詢を用うべしと薦む。真宗曰く、「李沆嘗て其の君子に非ずと言えり」と。其の信倚せらるること此の如し。

原文沆與諸弟友愛,尤器重維,暇日相對宴飲清言,未嘗及朝政,亦未嘗問家事。沆沒後,或薦梅詢可用,真宗曰:「李沆嘗言其非君子。」其為信倚如此。

弟 維

原文弟 維

維、字は仲方、進士に第し、保信軍節度推官と為る。真宗初、『聖德詩』を献じ、召し試みて中書に、擢て直集賢院と為し、沆の相たるを以て、避けて歙州を知る。郡に至り、學舍を興し、歲時鄉射の禮を行ふ。沆没し、入りて戸部員外郎と為る。

原文維,字仲方,第進士,為保信軍節度推官。真宗初,獻《聖德詩》,召試中書,擢直集賢院,以沆相,避知歙州。至郡,興學舍,歲時行鄉射之禮。沆沒,入為戶部員外郎。

契丹和を請う。以て賀正旦使と為す。真宗方に西京に幸す。維還りて行在に詣り、具に其の待遇禮厚きを言い、必ず盟好を保つべしとす。擢て兵部員外郎・知制誥と為す。是より此れ毎に北使至れば、多く維をして之を主たらしむ。擢て翰林學士と為し、累遷して中書舍人、疾を以て辭し、出でて許州を知る。復た入りて翰林に學士承旨と為し、史館修撰を加う。仁宗初、再遷して尚書左丞兼侍讀學士と為り、『真宗實錄』を修するに預かり、工部尚書に遷る。會うに塞下契丹将に盟を絶たんと傳う。復た維を遣わして往かしむ。其の主隆緒維の名を重んじ、館勞禮を加え、使いて『兩朝悠久詩』を賦せしむ。詩成りて大いに喜ぶ。既に還り、帝用て樞密副使と為さんと欲す。或いは維が詩を賦して自ら小臣と稱するを斥く。乃ち寢す。刑部尚書に遷る。拜せずして辭し、李士衡の故事を引き官を換えんことを求む。相州觀察使を除し、諫官劉隨に詆せられ、亳州を知る。本鎮に赴かんことを請い、河陽に改む。久しくして朝に還り、復た出でて陳州を知り、卒す。

原文契丹請和,以為賀正旦使。真宗方幸西京,維還詣行在,具言其待遇禮厚,必保盟好。擢兵部員外郎、知制誥。自是每北使至,多命維主之。擢為翰林學士,累遷中書舍人,以疾辭,出知許州。復入翰林為學士承旨,加史館修撰。仁宗初,再遷為尚書左丞兼侍讀學士,預修《真宗實錄》,遷工部尚書。會塞下傳契丹將絕盟,復遣維往使。其主隆緒重維名,館勞加禮,使賦《兩朝悠久詩》。詩成,大喜。既還,帝欲用為樞密副使,或斥維賦詩自稱小臣,乃寢。遷刑部尚書,辭不拜,引李士衡故事求換官,除相州觀察使,為諫官劉隨所詆,知亳州。請赴本鎮,改河陽。久之還朝,復出知陳州,卒。

維は博學、少くより文章を以て知名、老に至るまで手書を廢せず。景德以後、四方に巡幸し、典章名物、多く維の參定する所なり。嘗て『七經正義』を預定し、『續通典』・『冊府元龜』を修す。性寬易、喜慍色に見えず、後進を獎借し、酒を嗜み謔を善くし、而して詩を好む。常に曰く、「人生觴詠自ら適う、餘何をか營らん」と。既に没し、家に餘貲無し。景祐元年、尚書右僕射を贈る。子師錫、虞部員外郎。公謹、太子中舍。

原文維博學,少以文章知名,至老手不廢書。景德以後,巡幸四方,典章名物,多維所參定。嘗預定《七經正義》,修《續通典》、《冊府元龜》。性寬易,喜慍不見於色,獎借後進,嗜酒善謔,而好為詩。常曰:「人生觴詠自適,餘何營哉?」既沒,家無餘貲。景祐元年,贈尚書右僕射。子師錫,虞部員外郎;公謹,太子中舍。

王旦

原文王旦

王旦、字は子明、大名莘の人。曾祖言、黎陽令。祖徹、左拾遺。父祐、尚書兵部侍郎、文章を以て漢・周の際に顯れ、太祖・太宗に事えて名臣と為る。嘗て杜重威を諭して漢に反すること無からしめ、盧多遜が趙普を害せんの謀を拒ぎ、百口を以て符彥卿の罪無きを明かす。世多く其の陰德を稱す。祐手ずから三槐を庭に植え、曰く、「吾が後世、必ず三公と為る者有らん、此れ其の志す所以なり」と。

原文王旦,字子明,大名莘人。曾祖言,黎陽令。祖徹,左拾遺。父祐,尚書兵部侍郎,以文章顯於漢、周之際,事太祖、太宗為名臣。嘗諭杜重威使無反漢,拒盧多遜害趙普之謀,以百口明符彥卿無罪,世多稱其陰德。祐手植三槐於庭,曰:「吾之後世,必有為三公者,此其所以志也。」

旦は幼より沉默、學を好み文有り。祐之を器して曰く、「此の兒當に公相に至るべし」と。太平興國五年、進士及第し、大理評事・平江縣知縣と為る。其の廨舊に物怪憑戾すと傳え、居多く寧ならず。旦将に至らんとする前夜、守吏群鬼嘯呼するを聞く云く、「相君至れり、避き去るべし」と。是より遂に絶つ。就きて将作監丞に改む。趙昌言轉運使と為り、威望を以て自ら任じ、屬吏屏畏す。旦の境に入り、其の善政を稱え、女を以て妻とす。代わり還り、命じて潭州銀場を監せしむ。何承矩郡を典とし、薦めて入り著作佐郎と為り、『文苑英華』・『詩類』の編に預かる。殿中丞・鄭州通判に遷る。表して天下に常平倉を建つるを請い、以て兼並の路を塞ぐ。濠州に徙る。淳化初、王禹偁其の才轉運使に任ずべしと薦む。驛召して京に至らしむ。旦吏職を樂しまず、文を献ず。召し試み、命じて直史館と為す。二年、右正言・知制誥を拜す。

原文旦幼沉默,好學有文,祐器之曰:「此兒當至公相。」太平興國五年,進士及第,為大理評事、知平江縣。其廨舊傳有物怪憑戾,居多不寧。旦將至前夕,守吏聞群鬼嘯呼云:「相君至矣,當避去。」自是遂絕。就改將作監丞。趙昌言為轉運使,以威望自任,屬吏屏畏,入旦境,稱其善政,以女妻之。代還,命監潭州銀場。何承矩典郡,薦入為著作佐郎,預編《文苑英華》、《詩類》。遷殿中丞、通判鄭州。表請天下建常平倉,以塞兼並之路。徙濠州。淳化初,王禹偁薦其才任轉運使,驛召至京,旦不樂吏職,獻文。召試,命直史館。二年,拜右正言、知制誥。

初め、祐は宿名を以て久しく書命を掌る。旦十年を経ずして其の任を継ぐ。時論之を美とす。錢若水人倫の鑒有り、旦を見て曰く、「真に宰相の器なり」と。之と同列し、毎に曰く、「王君は凌霄聳壑、棟梁の材、貴きこと涯無し、吾の及ぶ所に非ず」と。李沆は同年生を以て、亦推重して遠大の器と為す。明年、蘇易簡と同知貢舉し、虞部員外郎・同判吏部流内銓・知考課院を加う。趙昌言機務に參ず。旦嫌を避け、唐の獨孤鬱・權德輿の故事を引き職を辭す。太宗其の體を識るを嘉し、禮部郎中・集賢殿修撰に改む。昌言出でて鳳翔を知る。即日に旦を以て知制誥と為し、仍び修撰・判院事を兼ね、面して金紫を賜い、牯犀帶を擇びて之を寵し、又令して西閣に冠せしむ。至道元年、理檢院を知る。二年、兵部郎中に進む。

原文初,祐以宿名久掌書命,旦不十年繼其任,時論美之。錢若水有人倫鑒,見旦曰:「真宰相器也。」與之同列,每曰:「王君淩霄聳壑,棟梁之材,貴不可涯,非吾所及。」李沆以同年生,亦推重為遠大之器。明年,與蘇易簡同知貢舉,加虞部員外郎、同判吏部流內銓、知考課院。趙昌言參機務,旦避嫌,引唐獨孤鬱、權德輿故事辭職。太宗嘉其識體,改禮部郎中、集賢殿修撰。昌言出知鳳翔,即日以旦知制誥,仍兼修撰、判院事,面賜金紫,擇牯犀帶寵之,又令冠西閣。至道元年,知理檢院。二年,進兵部郎中。

真宗即位し、中書舍人を拜す。数月、翰林學士兼知審官院・通進銀臺封駁司と為る。帝素より旦を賢とす。嘗て奏事退きしに、目送して曰く、「朕が為に太平を致す者は、必ず斯の人なり」と。錢若水樞務を罷む。苑中に対を得、近臣の用うべき者を訪う。若水言う、「旦に德望有り、大事に堪え任ずべし」と。帝曰く、「此れ固より朕が心の屬する所なり」と。咸平三年、又知貢舉し、鎖宿旬日、給事中・同知樞密院事を拜す。年を踰え、工部侍郎参知政事と為る。

原文真宗即位,拜中書舍人,數月,為翰林學士兼知審官院、通進銀臺封駁司。帝素賢旦,嘗奏事退,目送之曰:「為朕致太平者,必斯人也。」錢若水罷樞務,得對苑中,訪近臣之可用者,若水言:「旦有德望,堪任大事。」帝曰:「此固朕心所屬也。」咸平三年,又知貢舉,鎖宿旬日,拜給事中、同知樞密院事。逾年,以工部侍郎參知政事。

契丹が辺境を侵犯した際、王旦は帝に従って澶州へ行幸した。雍王元份が東京の留守を務めていたが、急病に罹ったため、帝は旦を馳せ戻らせ、留守の職務を代行させた。旦は言った、「寇準を召し宣べられたい。臣に申し上げたいことがあります」と。準が到着すると、旦は奏上して言った、「十日以内に捷報がなければ、その時はどうなさいますか」と。帝はしばらく黙った後、言った、「皇太子を立てよう」と。旦が京に到着すると、直ちに禁中に入り、命令は非常に厳しく、人々に伝播させないようにした。帝の還幸の際、旦の子弟や家人は皆郊外で出迎えたが、突然後ろに騶従の声が聞こえ、驚いて見ると、それは旦であった。二年、尚書左丞を加えられた。三年、工部尚書・同中書門下平章事・集賢殿大學士に任じられ、『両朝国史』の監修を務めた。

原文契丹犯邊,從幸澶州。雍王元份留守東京,遇暴疾,命旦馳還,權留守事。旦曰:「願宣寇準,臣有所陳。」準至,旦奏曰:「十日之間未有捷報,時當如何?」帝默然良久,曰:「立皇太子。」旦既至京,直入禁中,下令甚嚴,使人不得傳播。及駕還,旦子弟及家人皆迎於郊,忽聞後有騶訶聲,驚視之,乃旦也。二年,加尚書左丞。三年,拜工部尚書、同中書門下平章事、集賢殿大學士、監修《兩朝國史》。

契丹が和約を受諾した後、寇準はこれを自分の功績と考え、得意げな様子であり、真宗もまた得意であった。王欽若は準を妬み、彼を失脚させようとし、帝に落ち着いて言った、「これは『春秋』にいう城下の盟です。諸侯でさえこれを恥じるのに、陛下が功績とされるのは、臣は私的に取るに足らないと思います」と。帝は憂い顔で言った、「どうすればよいか」と。欽若は帝が戦争を厭っていると推し量り、すぐに偽って言った、「陛下が兵をもって幽燕を奪取されれば、恥を雪ぐことができます」と。帝は言った、「河朔の民衆がようやく兵革を免れたのに、朕がどうしてそんなことができようか。次善の策を考えよ」と。欽若は言った、「ただ泰山で封禅を行うのみが、四海を鎮め服従させ、外国に誇示することができます。しかし、古来より封禅は、天の瑞祥である希世絶倫の事が得られて、初めて可能なのです」と。しばらくしてまた言った、「天瑞など必ず得られるものでしょうか。前代には人力でこれを行った者もおります。ただ君主が深く信じて崇め、天下に明示すれば、天瑞と異なることはありません」と。帝は長く考えた末、承諾したが、王旦を恐れており、言った、「王旦は承諾しないのではないか」と。欽若は言った、「臣が聖意を以て彼に諭せば、宜しく承諾すべきです」と。隙を見て旦に言うと、旦は無理をして従った。帝はなおも躊躇し、これに参画する者がいなかったが、たまたま秘閣に行幸した際、突然杜鎬に問うた、「古にいう河図出で、洛書出づとは、果たして何事か」と。鎬は老儒であり、その意図を測りかね、当たり障りのない返答をした、「これは聖人が神道を以て教えを設けただけです」と。帝はこれによって決意し、遂に旦を召して酒を飲ませ、大いに楽しみ、尊酒を賜って言った、「この酒は極めて佳い。帰って妻子と共にせよ」と。帰宅して開けてみると、中は全て珠であった。これにより、天書や封禅などの事については、旦は異議を唱えなくなった。

原文契丹既受盟,寇準以為功,有自得之色,真宗亦自得也。王欽若惎準,欲傾之,從容言曰:「此《春秋》城下之盟也,諸侯猶恥之,而陛下以為功,臣竊不取。」帝愀然曰:「為之奈何?」欽若度帝厭兵,即謬曰:「陛下以兵取幽燕,乃可滌恥。」帝曰:「河朔生靈始免兵革,朕安能為此?可思其次。」欽若曰:「唯有封禪泰山,可以鎮服四海,誇示外國。然自古封禪,當得天瑞希世絕倫之事,然後可爾。」既而又曰:「天瑞安可必得?前代蓋有以人力為之者,惟人主深信而崇之,以明示天下,則與天瑞無異也。」帝思久之,乃可,而心憚旦,曰:「王旦得無不可乎?」欽若曰:「臣得以聖意喻之,宜無不可。」乘間為旦言,旦黽勉而從。帝猶尤豫,莫與籌之者,會幸秘閣,驟問杜鎬曰:「古所謂河出圖、洛出書,果何事耶?」鎬老儒,不測其旨,漫應之曰:「此聖人以神道設教爾。」帝繇此意決,遂召旦飲,歡甚,賜以尊酒,曰:「此酒極佳,歸與妻孥共之。」既歸發之,皆珠也。由是凡天書、封禪等事,旦不復異議。

大中祥符元年、天書儀仗使となり、泰山封禅に従い、大礼使となって、中書侍郎兼刑部尚書に進んだ。詔を受けて『封祀壇頌』を撰し、兵部尚書を加えられた。四年、汾陰を祀り、また大礼使となり、右僕射・昭文館大学士に遷った。引き続き『祠壇頌』を撰し、さらに官位を進められようとしたが、懇願して辞退し、功臣号を加えるのみで免れた。まもなく門下侍郎・玉清昭応宮使を兼ねた。五年、玉清奉聖像大礼使となった。景霊宮が建立されると、また朝修使となった。七年、天書を刻し、兼ねて刻玉使となり、御厩の馬三頭を選んで賜られた。玉清昭応宮が完成すると、司空しくうに任じられた。京師で賜酺があったが、旦は喪中を理由に参会せず、帝は詩を賜ってその意を導いた。『国史』が完成すると、司空に遷った。旦は天書使として、大礼がある度に天書を奉じて行き、常に憂鬱で楽しくなかった。凡そ権力を握ること十八年、宰相として僅かに一紀であった。

原文大中祥符初,為天書儀仗使,從封泰山,為大禮使,進中書侍郎兼刑部尚書。受詔撰《封祀壇頌》,加兵部尚書。四年,祀汾陰,又為大禮使,遷右僕射、昭文館大學士。仍撰《祠壇頌》,將復進秩,懇辭得免,止加功臣。俄兼門下侍郎、玉清昭應宮使。五年,為玉清奉聖像大禮使。景靈宮建,又為朝修使。七年,刻天書,兼刻玉使,選御廄三馬賜之。玉清昭應宮成,拜司空。京師賜酺,旦以慘恤不赴會,帝賜詩導意焉。《國史》成,遷司空。旦為天書使,每有大禮,輒奉天書以行,恒邑邑不樂。凡柄用十八年,為相僅一紀。

契丹が和を修め、西夏が故地を守ることを誓ったため、両辺境の兵は用いられなくなり、真宗は事なきをもって天下を治めた。旦は祖宗の法が全て揃っていると考え、故事を実行することを務め、変改は慎重に行った。帝は久しくしてますます彼を信じ、言うことは全て聞き入れ、大臣が何か請う時は必ず、「王旦はどう思うか」と言った。旦は人と話したり笑ったりすることが少なく、終日黙って坐っていたが、奏事の際、群臣の意見が分かれると、旦がゆっくり一言で決めた。帰宅すると、冠帯を脱がずに静室に入り独坐し、家人も敢えて会おうとしなかった。旦の弟が趙安仁に尋ねると、安仁は言った、「今まさに事を議している。公は実行したくないが決まっていない。これは必ず朝廷を憂えているのだ」と。

原文會契丹修和,西夏誓守故地,二邊兵罷不用,真宗以無事治天下。旦謂祖宗之法具在,務行故事,慎所變改。帝久益信之,言無不聽,凡大臣有所請,必曰:「王旦以為如何?」旦與人寡言笑,默坐終日,及奏事,群臣異同,旦徐一言以定。歸家,或不去冠帶,入靜室獨坐,家人莫敢見之。旦弟以問趙安仁,安仁曰:「方議事,公不欲行而未決,此必憂朝廷矣。」

帝がかつて二府に『喜雨詩』を示した時、旦は袖にしまって帰り言った、「上の詩に一字誤って書かれた箇所がある。進上して改めさせないか」と。王欽若は言った、「これも害はない」と言いながら、密かにこれを奏上した。帝は怒り、旦に言った、「昨日の詩に誤字があったのに、なぜ奏上しなかったのか」と。旦は言った、「臣は詩を頂戴し、再び閲覧する暇がなく、上奏することを失いました」と。恐れおののき再拝して謝罪し、諸臣も皆拝したが、ただ枢密の馬知節だけは拝せず、全て実情を奏上し、かつ言った、「王旦は少しも弁明せず、真の宰相の器です」と。帝は旦を見て笑った。天下に大蝗害があり、人が野原で死んだ蝗を得て、帝は大臣たちに見せた。翌日、執政は袖に死んだ蝗を入れて進み出て言った、「蝗は確かに死んでおります。朝廷に示し、百官を率いて賀したい」と。旦だけは認めなかった。数日後、ちょうど奏事をしている時、飛蝗が天を蔽った。帝は旦を見て言った、「もし百官が賀しようとしていた時に、蝗がこのようであったなら、天下の笑いものにならなかっただろうか」と。

原文帝嘗示二府《喜雨詩》,旦袖歸曰:「上詩有一字誤寫,莫進入改卻否?」王欽若曰:「此亦無害。」而密奏之,帝慍,謂旦曰:「昨日詩有誤字,何不來奏?」旦曰:「臣得詩未暇再閱,有失上陳。」惶懼再拜謝,諸臣皆拜,獨樞密馬知節不拜,具以實奏,且曰:「王旦略不辨,真宰相器也。」帝顧旦而笑焉。天下大蝗,使人於野得死蝗,帝以示大臣。明日,執政遂袖死蝗進曰:「蝗實死矣,請示於朝,率百官賀。」旦獨不可。後數日,方奏事,飛蝗蔽天,帝顧旦曰:「使百官方賀,而蝗如此,豈不為天下笑耶?”」

宮中で火災が起こり、旦は馳せ参じた。帝は言った、「両朝の蓄積を、朕は妄りに費やすことなく、一朝にして殆ど尽きてしまった。誠に惜しい」と。旦は答えて言った、「陛下は天下を富有されておられます。財帛は憂うるに足りません。慮るべきは政令賞罰の不当です。臣が宰府の位に備わりながら、天災がこのようである以上、臣は罷免されるべきです」と。続いて上表して罪を待った。帝はそこで詔を下して自らを責め、内外に封事を許して得失を言わせた。後に、栄王宮の火が延焼したものであり、天災ではないと言う者がおり、獄を置いて糾弾するよう請い、死罪に当たる者が百余人いた。旦だけが請うて言った、「火事が始まった時、陛下は既に罪己の詔を天下に下され、臣等も皆上章して罪を待ちました。今になって反って人に咎を帰するのは、どうして信を示せましょうか。かつ火には跡があるとはいえ、どうして天の譴責でないと知れましょうか」と。死罪に当たる者は皆免じられた。

原文宮禁火災,旦馳入,帝曰:「兩朝所積,朕不妄費,一朝殆盡,誠可惜也。」旦對曰:「陛下富有天下,財帛不足憂,所慮者政令賞罰之不當。臣備位宰府,天災如此,臣當罷免。」繼上表待罪,帝乃降詔罪己,許中外封事言得失。後有言榮王宮火所延,非天災,請置獄劾,當坐死者百餘人。旦獨請曰:「始火時,陛下已罪己詔天下,臣等皆上章待罪。今反歸咎於人,何以示信?且火雖有跡,寧知非天譴耶?」當坐者皆免。

占い師が上書して宮中の事を言い、誅殺に坐し、その家を没収したところ、朝士が彼と往来し吉凶を占問した文書が見つかった。帝は怒り、御史に付して状況を問おうとした。旦は言った、「これは人の常情であり、かつ言葉が朝廷に及んでいません。罪に足りません」と。真宗の怒りは解けず、旦はそこで自らかつて占問した書物を取って進めて言った、「臣が若く賤しい時、免れずにこれをしました。必ずや罪とされるなら、願わくは臣も一緒に獄に付してください」と。真宗は言った、「この事は既に発覚した。どうして免じられようか」と。旦は言った、「臣は宰相として国法を執ります。どうして自らこれを行いながら、発覚せずに幸い、他人を罪にすることができましょうか」と。帝の怒りは解けた。旦が中書に至ると、得た書物を全て焼いた。しばらくして後悔し、馳せて取りに戻ったが、既に焼かれてしまっていた。これによって皆免じられた。仁宗が皇太子であった時、太子諭徳が旦に会い、太子が書を学ぶのに法があると称えた。旦は言った、「諭徳の職は、ただこれだけのことか」と。張士遜がまた太子の書を称えると、旦は言った、「太子は科挙を受けるわけではない。学士を選ぶのに書を学ぶことではない」と。

原文日者上書言宮禁事,坐誅,籍其家,得朝士所與往還占問吉凶之說。帝怒,欲付御史問狀,旦曰:「此人之常情,且語不及朝廷,不足罪。」真宗怒不解,旦因自取嘗所占問之書進曰:「臣少賤時,不免為此。必以為罪,願並臣付獄。」真宗曰:「此事已發,何可免?」旦曰:「臣為宰相執國法,豈可自為之,幸於不發而以罪人。」帝意解。旦至中書,悉焚所得書。既而復悔,馳取之,而已焚之矣,由是皆免。仁宗為皇太子,太子諭德見旦,稱太子學書有法。旦曰:「諭德之職,止於是耶?」張士遜又稱太子書,旦曰:「太子不在應舉,選學士不在學書。」

契丹が歳給の他に別に銭幣を借りるよう奏請してきた。旦は言った、「東封が間近く、車駕が出ようとしています。彼らはこれで朝廷の意向を探っているのです」と。帝は言った、「どう答えるか」と。旦は言った、「ただ微物を以て軽んじるべきです」と。そこで歳給三十万の物の中からそれぞれ三万を借り与え、なおかつ翌年の額の中から除くことを諭した。契丹はこれを受け、大いに慚じた。翌年、また有司に下して、「契丹が借りた金幣六万は、事は微末に属する。今なお常数に依ってこれを与え、後は例としない」とした。西夏の趙徳明が民が飢えていると言い、百万斛の糧を求めてきた。大臣は皆言った、「徳明は新たに誓を納めたばかりで敢えて違える。詔を以て責めるよう請う」と。帝が旦に問うと、旦は有司に命じて京師に粟百万を備えさせ、詔を下して徳明に取りに来させよと請うた。徳明は詔を得て、慚じかつ拝して言った、「朝廷には人がいる」と。

原文契丹奏請歲給外別假錢幣。旦曰:「東封甚近,車駕將出,彼以此探朝廷之意耳。」帝曰:「何以答之?」旦曰:「止當以微物而輕之。」乃以歲給三十萬物內各借三萬,仍諭次年額內除之。契丹得之,大慚。次年,復下有司:「契丹所借金幣六萬,事屬微末,今仍依常數與之,後不為比。」西夏趙德明言民饑,求糧百萬斛,大臣皆曰:「德明新納誓而敢違,請以詔責之。」帝以問旦,旦請敕有司具粟百萬於京師,而詔德明來取之。德明得詔,慚且拜曰:「朝廷有人。」

寇準はしばしば王旦の短所を言ったが、王旦はひたすら寇準を称賛した。帝が王旦に言うには、「卿は彼の美点を称えるが、彼は専ら卿の悪口を言う」と。王旦は言った、「道理として当然でございます。臣が宰相の位に長くあり、政事の欠落は必ず多い。寇準が陛下に対して隠すところなく言うのは、かえってその忠直さが見えることであり、これが臣が寇準を重んずる所以でございます」。帝はこれによってますます王旦を賢臣と認めた。中書省から密院に送った文書が詔の格式に違反した。寇準は密院におり、このことを上奏して報告した。王旦は責められ、ただ拝礼して謝罪し、中書省の官吏は皆罰せられた。一ヶ月も経たぬうちに、密院から中書省に送った文書も詔の格式に違反した。中書省の官吏は喜んで王旦に呈したが、王旦は密院に送り返すよう命じた。寇準は大いに恥じ、王旦に会って言った、「同年(同榜の進士)、どうしてこれほど大きな度量をお持ちなのですか」。王旦は答えなかった。寇準が枢密使を罷免されたとき、人に頼んで密かに使相(節度使兼同平章事)になることを求めた。王旦は驚いて言った、「将相の任は、どうして求められようか。私は私的な請託を受けない」。寇準はこれを深く恨んだ。やがて寇準は武勝軍節度使・同中書門下平章事に任じられた。寇準が入朝して拝謁し、謝して言った、「陛下が臣を知っておられなければ、どうしてこの地位に至れましょうか」。帝は王旦が推薦した次第をことごとく話した。寇準は恥じて嘆息し、王旦には及ばないと思った。寇準が藩鎮にいたとき、誕生日に山棚を造って大宴会を開き、また服飾・器物が分を越えて奢侈であったため、人から奏上された。帝は怒り、王旦に言った、「寇準は何事も朕のまねをしたがるが、それでよいのか」。王旦はゆっくりと答えて言った、「寇準は確かに賢能ですが、愚かであることはどうしようもありません」。真宗の怒りはすぐに解け、言った、「そうだ、これはまさに愚かというだけだ」。そこで追及しなかった。

原文寇準數短旦,旦專稱準。帝謂旦曰:「卿雖稱其美,彼專談卿惡。」旦曰:「理固當然。臣在相位久,政事闕失必多。準對陛下無所隱,益見其忠直,此臣所以重準也。」帝以是愈賢旦。中書有事送密院,違詔格,準在密院,以事上聞。旦被責,第拜謝,堂吏皆見罰。不逾月,密院有事送中書,亦違詔格,堂吏欣然呈旦,旦令送還密院。準大慚,見旦曰:「同年,甚得許大度量?」 旦不答。寇準罷樞密使,託人私求為使相,旦驚曰:「將相之任,豈可求耶!吾不受私請。」準深憾之。已而除準武勝軍節度使、同中書門下平章事。準入見,謝曰:「非陛下知臣,安能至此?」帝具道旦所以薦者,準愧歎,以為不可及。準在藩鎮,生辰,造山棚大宴,又服用僭侈,為人所奏。帝怒,謂旦曰:「寇準每事欲效朕,可乎?」旦徐對曰:「準誠賢能,無如騃何。」真宗意遂解,曰:「然,此正是騃爾。」遂不問。

翰林学士の陳彭年が政府(中書省)に科挙の条目を呈した。王旦はそれを地に投げつけて言った、「内翰(翰林学士)は官について幾日だというのに、天下の進士を隔て遮断しようとするのか」。陳彭年は恐れおののいて退いた。時に向敏中が同じく中書省におり、陳彭年が置いていった文書を取り出した。王旦は目を閉じて紙を取り、それを封じた。向敏中が一覧したいと請うと、王旦は言った、「符瑞の図を進上しようというだけのことだ」。後に陳彭年は王曾・張知白と共に政事に参与し、一緒に王旦に言った、「毎度奏上する事柄の中で、陛下がご覧にならないものがありますが、公がご旨を批して実行なさいますのは、人が言って不可とすることになるのを恐れます」。王旦はただ謙遜して謝るだけであった。ある日、奏対が終わり、王旦が退いた後、王曾らが少し留まった。帝は驚いて言った、「何事かあって王旦と一緒に来なかったのか」。皆が先のことを答えた。帝は言った、「王旦は朕の側に多年おり、朕が察するに微塵の私心もない。東封(泰山封禅)の後から、朕は小事については一任して実行するよう諭している。卿らは謹んでこれに従え」。王曾らは退いて恥じ謝った。王旦は言った、「まさに諸公の規諫と補益に頼っているのです」。少しも気に留めなかった。

原文翰林學士陳彭年呈政府科場條目,旦投之地曰:「內翰得官幾日,乃欲隔截天下進士耶?」彭年皇恐而退。時向敏中同在中書,出彭年所留文字,旦瞑目取紙封之。敏中請一覽,旦曰:「不過興建符瑞圖進爾。」後彭年與王曾、張知白參預政事,同謂旦曰:「每奏事,其間有不經上覽者,公批旨奉行,恐人言之以為不可。」旦遜謝而已。一日奏對,旦退,曾等稍留,帝驚曰:「有何事不與王旦來?」皆以前事對。帝曰:「旦在朕左右多年,朕察之無毫髮私。自東封後,朕諭以小事一面奉行,卿等謹奉之。」曾等退而愧謝,旦曰:「正賴諸公規益。」略不介意。

帝は王欽若を宰相にしようとした。王旦は言った、「王欽若は陛下に遇い、恩礼は既に厚い。しばらく枢密院に留め置かれ、両府(中書・枢密院)の均衡も保たれます。臣の見るところ、祖宗の朝以来、南人が国政を執ったことはありません。古くは賢を立てるに方なしと称しますが、それでも賢士でなければなりません。臣が宰相として、人を沮み抑えることは致しませんが、これも公議でございます」。真宗はそこでやめた。王旦が没した後、王欽若はようやく大用され、人に言った、「王公が私の宰相就任を十年遅らせたのだ」。王欽若は陳堯叟・馬知節と共に枢密院におり、奏事の際に憤って争った。真宗は王旦を召し出したが、王欽若はなお騒ぎ止まなかった。馬知節は涙を流して言った、「王欽若と共に御史台に下ることを願います」。王旦は王欽若を叱って退かせた。帝は大いに怒り、獄に付すよう命じた。王旦は従容として言った、「王欽若らは陛下の厚いご眷顧を恃み、上を煩わせて譴責を受け、朝典を行うべきです。願わくは暫く内裏にお戻りになり、明日に改めてご裁断を仰がれます」。翌日、王旦を召して前に問うた。王旦は言った、「王欽若らは罷免すべきですが、何の罪に坐させるか分かりません」。帝は言った、「憤争無礼の罪に坐せる」。王旦は言った、「陛下は天下を有しておられ、大臣を憤争無礼の罪に坐せられますと、もし外国に聞こえたなら、遠方を威服させることにならない恐れがあります」。帝は言った、「卿の考えはどうか」。王旦は言った、「中書省に至り、王欽若らを召して陛下の包容の御心をお示しになり、かつ戒め約束させたいと思います。少し時を置いて、罷免しても遅くはありません」。帝は言った、「卿の言葉でなければ、朕は我慢できなかったであろう」。一ヶ月余り後、王欽若らは皆罷免された。

原文帝欲相王欽若,旦曰:「欽若遭逢陛下,恩禮已隆,且乞留之樞密,兩府亦均。臣見祖宗朝未嘗有南人當國者,雖古稱立賢無方,然須賢士乃可。臣為宰相,不敢沮抑人,此亦公議也。」真宗遂止。旦沒後,欽若始大用,語人曰:「為王公遲我十年作宰相。」欽若與陳堯叟、馬知節同在樞府,因奏事忿爭。真宗召旦至,欽若猶嘩不已,知節流涕曰:「願與欽若同下御史府。」旦叱欽若使退。帝大怒,命付獄。旦從容曰:「欽若等恃陛下厚顧,上煩譴訶,當行朝典。願且還內,來日取旨。」明日,召旦前問之,旦曰:「欽若等當黜,未知坐以何罪?」帝曰:「坐忿爭無禮。」旦曰:「陛下奄有天下,使大臣坐忿爭無禮之罪,或聞外國,恐無以威遠。」帝曰:「卿意如何?」旦曰:「願至中書,召欽若等宣示陛下含容之意,且戒約之。俟少間,罷之未晚也。」帝曰:「非卿之言,朕固難忍。」後月餘,欽若等皆罷。

王旦はかつて楊億と人物を評定していた。楊億が言った、「丁謂は長い目で見てどうでしょうか」。王旦は言った、「才能は才能だが、道を語るには至らない。他日上位にあって、徳のある者がこれを助ければ、おそらく終わり吉とすることができるだろう。もし独りで権力を握れば、必ず身の累いとなるであろう」。後に丁謂は果たしてその言葉の通りになった。

原文旦嘗與楊億評品人物,億曰:「丁謂久遠當何如?」旦曰:「才則才矣,語道則未。他日在上位,使有德者助之,庶得終吉;若獨當權,必為身累爾。」後謂果如言。

王旦が兗州景霊宮朝修使となったとき、宦官の周懐政が同行した。ある時、周懐政が隙をうかがって私的に面会を請うたが、王旦は必ず従者が皆揃うのを待ち、冠帯を整えて堂皇たる場所で出会い、用件を述べて退いた。後に周懐政が事を起こして敗れたとき、初めて王旦の遠慮を知った。宦官の劉承規は忠謹をもって寵愛を受け、病が重く死に際して、節度使になることを求めた。帝が王旦に言うには、「承規はこれ(節度使)をもって瞑目したいのだ」。王旦は固執して認めず、言った、「他日、枢密使を求める者が出てきたら、どうなさいますか」。遂に取りやめさせた。これ以降、宦官の官位は留後を超えることはなかった。

原文旦為兗州景靈宮朝修使,內臣周懷政偕行,或乘間請見,旦必俟從者盡至,冠帶出見於堂皇,白事而退。後懷政以事敗,方知旦遠慮。內臣劉承規以忠謹得幸,病且死,求為節度使。帝語旦曰:「承規待此以瞑目。」旦執不可,曰:「他日將有求為樞密使者,奈何?」遂止。自是內臣官不過留後。

王旦が宰相の時、賓客は堂に満ちたが、私事を請う者はなかった。語るに足る者や平素から名の知られた者を観察し、数ヶ月後に召して語り、四方の利害を諮問し、あるいはその言葉を書き記して献上させた。才能の長所を観て、密かにその名を記録し、その人が再び来ても会わなかった。役職の任命がある度ごとに、先ず密かに三、四人の姓名を書き記して請い、任用する者を帝が筆で点じた。同僚は知らず、任用を争ったが、王旦が任用を奏上した者は、帝が認めないことはなかった。丁謂はこのことでしばしば王旦を誹謗したが、帝はますます王旦を厚遇した。故参知政事李穆の子の行簡は、将作監丞の官で家に居り、賢い行いがあった。太子中允に昇進したが、使者がその宅を知らなかった。真宗は中書省で王旦に問わせたので、人々は初めて李行簡が王旦に推薦されたことを知った。王旦が推薦した者はすべて、人が知らない者ばかりであった。王旦の没後、史官が『真宗実録』を編修する際、内廷から出た奏章を得て、初めて朝士の多くが王旦に推薦されたことを知ったという。諫議大夫の張師徳は二度王旦の門を訪れたが、会うことができず、人が誹謗したのだと思い、向敏中に告げて、間をとりもって明らかにしてくれるよう頼んだ。知制誥の人事を議する際、王旦は言った、「張師徳が惜しい」。向敏中がその理由を問うと、王旦は言った、「しばしば上(帝)の前で、師徳は名家の子で士人の行いがあると言ってきたが、思いがけず二度も我が門に及んだ。状元で及第し、栄進は元より定まっているのだから、ただ静かに待つべきである。もしまた奔走競争するなら、階梯のない者がどうすればよいというのか」。向敏中が張師徳の気持ちを伝えると、王旦は言った、「王旦のところでどうして人が軽々しく人を誹謗できようか。ただ師徳は後進であり、私を軽んじただけだ」。向敏中は固く、「丁度欠員がありますので、公がお見捨てになりませんよう願います」と言った。王旦は言った、「暫くこれを緩めよ。師徳に知らせて、貪って進むことを戒め、薄俗を激しくする手立てとしよう」。

原文旦為相,賓客滿堂,無敢以私請。察可與言及素知名者,數月後,召與語,詢訪四方利病,或使疏其言而獻之。觀才之所長,密籍其名,其人復來,不見也。每有差除,先密疏四三人姓名以請,所用者帝以筆點之。同列不知,爭有所用,惟旦所用,奏入無不可。丁謂以是數毀旦,帝益厚之。故參政李穆子行簡,以將作監丞家居,有賢行,遷太子中允。使者不知其宅,真宗命就中書問旦,人始知行簡為旦所薦。旦凡所薦,皆人未嘗知。旦沒後,史官修《真宗實錄》,得內出奏章,始知朝士多旦所薦云。諫議大夫張師德兩詣旦門,不得見,意為人所毀,以告向敏中,為從容明之。及議知制誥,旦曰:「可惜張師德。」敏中問之,旦曰:「累於上前言師德名家子,有士行,不意兩及吾門。狀元及第,榮進素定,但當靜以待之爾。若復奔競,使無階而入者當如何也。」敏中啟以師德之意,旦曰:「旦處安得有人敢輕毀人,但師德後進,待我薄爾。」敏中固稱:「適有闕,望公弗遺。」旦曰:「第緩之,使師德知,聊以戒貪進、激薄俗也。」

石普が許州の知事として不法を働いたので、朝廷の議論はその場で弾劾しようとした。王旦は言った、「石普は武人であり、典憲を理解せず、わずかな功績を頼みに、みだりに事を起こすことを恐れます。必ず重く処分すべきですが、召還して獄に下すことを乞います」と。そこで御史に命じてこれを取り調べさせ、一日で獄が整った。議論する者は、国法を曲げずに武臣を保全したのは、まさに国の体面であると考えた。薛奎が江淮発運使となったとき、王旦に別れを告げると、王旦は他の言葉はなく、ただ「東南の民力は尽きた」と言った。薛奎は退出して言った、「まさに宰相の言葉である」と。張士遜が江西転運使となり、別れに王旦に教えを求めた。王旦は言った、「朝廷の専売の利益は極みに達した」と。張士遜はこの職を繰り返し務めたが、王旦の言葉を思い出し、一度も利益を求めなかった。識者は言った、「この運使は大筋をわきまえている」と。張詠が成都の知事であったが、召還され、任中正が代わりに任じられた。言論者はこれを不可とした。帝が王旦に問うと、答えて言った、「任中正でなければ張詠の規矩を守れません。他の者が行けば、みだりに変更を加えるでしょう」と。李迪と賀辺は当時名声があり、進士に挙げられたが、李迪は賦で韻を踏み違え、賀辺は『当仁不譲於師論』で「師」を「衆」と解し、注疏と異なったため、ともに及第しなかった。試験官が奏上して収めて試験させることを乞うた。王旦は言った、「李迪は不考に犯したとはいえ、それは不意によるものであり、その過ちは大目に見られます。賀辺は特に異説を立て、後進に穿鑿を務めさせることになり、その風潮を長じさせてはなりません」と。そこで李迪を収め、賀辺を退けた。

原文石普知許州不法,朝議欲就劾。旦曰:「普武人,不明典憲,恐恃薄效,妄有生事。必須重行,乞召歸置獄。」乃下御史按之,一日而獄具。議者以為不屈國法而保全武臣,真國體也。薛奎為江淮發運使,辭旦,旦無他語,但云:「東南民力竭矣。」奎退而曰:「真宰相之言也。」張士遜為江西轉運使,辭旦求教,旦曰:「朝廷榷利至矣。」士遜迭更是職,思旦之言,未嘗求利,識者曰:「此運使識大體。」張詠知成都,召還,以任中正代之,言者以為不可。帝問旦,對曰:「非中正不能守詠之規。他人往,妄有變更矣。」李迪、賀邊有時名,舉進士,迪以賦落韻,邊以《當仁不讓於師論》以「師」為「眾」,與注疏異,皆不預。主文奏乞收試,旦曰:「迪雖犯不考,然出於不意,其過可略。邊特立異說,將令後生務為穿鑿,漸不可長。」遂收迪而黜邊。

王旦は職務に長く従事したので、人々が彼を誹謗する者がいると、すぐに自ら責を負って弁明しなかった。人が過失を犯したときには、たとえ君主が激怒していても、弁明できるものは弁明し、必ず理解を得てからやめた。もともと虚弱で病気がちであり、東魯からの復命以来、連年して辞任を願い出たが、優れた詔書で褒められ返答され、続いて面と向かって諭され、委任に二心はなかった。天禧初年、位を進めて太保となり、兗州太極観奉上宝冊使となり、さらに太尉兼侍中を加えられ、五日に一度起居に赴き、中書に入り、軍国の重事に遇えば、時日を限らず参入して決断に加わった。王旦はますます畏れて避け、上疏して懇願して辞し、また同僚に頼んで奏上させた。帝はその意向に逆らうことを重んじ、ただ封邑を加えるにとどめた。ある日、滋福殿で単独で応対したとき、帝は言った、「朕はまさに大事を卿に託そうとしているのに、卿の病気がこのようである」と。そこで皇太子を出して拝ませると、王旦は恐れ慌てて走って避けたが、太子はついて彼を拝した。王旦は言った、「太子は盛徳であり、必ずや陛下の事を任せられます」と。そこで大臣となれる者十余人を推薦した。その後、宰相に至らなかったのは李及と凌策の二人だけで、彼らも名臣となった。王旦はまた位を避けることを求めた。帝はその姿が憔悴しているのを見て、哀れに思い許した。太尉として玉清昭応宮使を兼ね、宰相の半俸を与えられた。

原文旦任事久,人有謗之者,輒引咎不辨。至人有過失,雖人主盛怒,可辨者辨之,必得而後已。素羸多疾,自東魯復命,連歲求解,優詔褒答,繼以面諭,委任無貳。天禧初,進位太保,為兗州太極觀奉上寶冊使,復加太尉兼侍中,五日一赴起居,入中書,遇軍國重事,不限時日入預參決。旦愈畏避,上疏懇辭,又托同列奏白。帝重違其意,止加封邑。一日,獨對滋福殿,帝曰:「朕方以大事託卿,而卿疾如此。」因命皇太子出拜,旦皇恐走避,太子隨而拜之。旦言:「太子盛德,必任陛下事。」因薦可為大臣者十餘人,其後不至宰相惟李及、淩策二人,亦為名臣。旦復求避位,帝睹其形瘁,憫然許之。以太尉領玉清昭應宮使,給宰相半俸。

初め、王旦は宰相として使職を兼ねていたが、今宰相を罷めても、使職は依然として兼ねており、専ら使職を置くことは王旦から始まったのである。まもなくまた肩輿で禁中に入ることを命じられ、子の王雍と直省の吏に挟み扶けられ、延和殿で謁見した。帝は言った、「卿は今病気が重いが、万一不測の事があれば、朕は天下の事を誰に託せばよいのか」と。王旦は言った、「臣を知るは君に若くはなく、ただ明主がお選びになります」と。再三問うても答えなかった。当時、張詠と馬亮はともに尚書であった。帝は二人について順に問うたが、やはり答えなかった。そこで言った、「試みに卿の考えで言ってみよ」と。王旦は強いて起き上がって笏を挙げて言った、「臣の愚かさをもってすれば、寇準に如く者はありません」と。帝は言った、「寇準は性質が剛直で偏狭である。卿はさらに次の者を考えよ」と。王旦は言った、「他の者は、臣の知るところではありません。臣は病に苦しみ、長く侍ることができません」と。そこで辞して退出した。後に王旦が没して一年余りして、ついに寇準を宰相に用いた。

原文初,旦以宰相兼使,今罷相,使猶領之,其專置使自旦始焉。尋又命肩輿入禁,使子雍與直省吏挾扶,見於延和殿。帝曰:「卿今疾亟,萬一有不諱,使朕以天下事付之誰乎?」旦曰:「知臣莫若君,惟明主擇之。」再三問,不對。時張詠、馬亮皆為尚書,帝歷問二人,亦不對,因曰:「試以卿意言之。」旦強起舉笏曰:「以臣之愚,莫如寇準。」帝曰:「準性剛褊,卿更思其次。」旦曰:「他人,臣所不知也。臣病困,不能久侍。」遂辭退。後旦沒歲餘,竟用準為相。

王旦の病が甚だしくなると、内侍を遣わして問う者は日に三四度に及び、帝は自ら手を下して薬を調合し、薯蕷粥を賜った。王旦は楊億と平素から親厚であり、臥内に招き、遺表の作成を請うた。そして言った、「辱くも宰輔を務め、尽きんとする言葉をもって、宗族や親族に官を求めることはできません。ただ平生の遭遇を述べ、日々庶政に親しみ、賢士を進用し、焦労の念を少しでも減らされることを願うのみです」と。なお子弟に戒めて言った、「我が家は盛名と清徳がある。倹約質素に務め、門風を保ち守り、奢侈に事を構えてはならず、厚葬して金宝を棺の中に置いてはならない」と。表が上ると、真宗はそれを嘆賞し、そこでその邸に臨幸し、白金五千両を賜った。王旦は奏上を作ってこれを辞し、草稿の末尾に自ら四句を加えた、「蔵むること多きを益々懼れ、況んや用ふる所無きをや、散施せんと欲するを見るは、以て咎殃を息めんとす」と。すぐに輿で内門まで運ばせたが、詔によって許されなかった。戻って門に至ると、王旦は既に薨去していた。六十一歳であった。帝はその喪に臨んで慟哭し、三日間朝政を停め、太師・尚書令しょうしょれい・魏国公を追贈し、諡して文正とし、また別に発哀の礼を挙げた。数日後、張旻が河陽の鎮守に赴くことになり、例によって餞別の宴を挙げるべきであったが、王旦の故をもって、音楽を挙げなかった。その子・弟・甥・外孫・門客・常従を記録し、官を授かった者は十数人に及んだ。諸子が喪服を除くと、またそれぞれ一官を進めた。後に王旦が奏稿に自ら四句を加えたことを聞き、取って見て、久しく涙を流した。王旦に文集二十巻がある。乾興初年、詔して真宗の廟廷に配享させた。碑を建てるとき、仁宗がその頭に篆書で「全徳元老之碑」と記した。

原文旦疾甚,遣內侍問者日或三四,帝手自和藥,並薯蕷粥賜之。旦與楊億素厚,延至臥內,請撰遺表。且言:「忝為宰輔,不可以將盡之言,為宗親求官,止敘生平遭遇,願日親庶政,進用賢士,少減焦勞之意。」仍戒子弟:「我家盛名清德,當務儉素,保守門風,不得事於泰侈,勿為厚葬以金寶置柩中。」表上,真宗歎之,遂幸其第,賜白金五千兩。旦作奏辭之,槁末,自益四句云:「益懼多藏,況無所用,見欲散施,以息咎殃。」即舁至內闥,詔不許。還至門,旦已薨,年六十一。帝臨其喪慟,廢朝三日,贈太師、尚書令、魏國公,諡文正,又別次發哀。後數日,張旻赴鎮河陽,例宜飲餞,以旦故,不舉樂。錄其子、弟、侄、外孫、門客、常從,授官者十數人。諸子服除,又各進一官。已而聞旦奏槁自益四句,取視,泣下久之。旦有文集二十卷。乾興初,詔配享真宗廟廷。及建碑,仁宗篆其首曰「全德元老之碑」。

王旦は寡婦の嫂に礼をもって事え、弟の王旭とは非常に篤く友愛した。婚姻に門閥を求めなかった。衣服は質素であり、家人が氈席を繻錦で飾ろうとしたが、許さなかった。玉帯を売る者がいて、弟は良いと思い、王旦に呈した。王旦は命じてそれを締めさせ、「まだ良いと見えるか」と問うた。弟は言った、「締めているのでどうして自分で見られましょうか」と。王旦は言った、「自ら重いものを負って、見る者に良しと言わせるのは、無駄な労力ではないか」と。すぐに返した。故に身に着けるものは賜られた帯に限った。家人は彼が怒るのを見たことがなく、飲食が精潔でなくても、ただ食べないだけだった。かつて少しの埃墨を羹の中に入れて試したことがある。王旦はただ飯を食べ、なぜ羹を啜らないのかと問うと、言った、「私はたまたま肉が好きではない」と。後でまた飯に墨を入れると、言った、「私は今日は飯が好きではない。別に粥を用意せよ」と。王旦は田宅を購置せず、言った、「子孫はそれぞれ自立を考えるべきであり、どうして田宅が必要だろうか。ただ争って財を奪い合い不義を行うだけである」と。真宗はその住居が粗末なのを、修繕しようとしたが、王旦は先祖伝来の旧宅であることを理由に辞したので、やめた。宅門が壊れたので、主管者が新しく建て直し、しばらく廡下の側門を開けて出入りした。王旦は側門に至ると、鞍に寄りかかって身をかがめて通り過ぎ、門が完成してもまたそこから通ったが、いずれも問うことはなかった。三人の子がいた。王雍は国子博士、王冲は左賛善大夫、王素は別に伝がある。

原文旦事寡嫂有禮,與弟旭友愛甚篤。婚姻不求門閥。被服質素,家人欲以繒錦飾氈席,不許。有貨玉帶者,弟以為佳,呈旦,旦命係之,曰:「還見佳否?」弟曰:「係之安得自見?」旦曰:「自負重而使觀者稱好,無乃勞乎!」亟還之。故所服止於賜帶。家人未嘗見其怒,飲食不精潔,但不食而已。嘗試以少埃墨投羹中,旦惟啖飯,問何不啜羹,則曰:「我偶不喜肉。」後又墨其飯,則曰:「吾今日不喜飯,可別具粥。」旦不置田宅,曰:「子孫當各念自立,何必田宅,徒使爭財為不義爾。」真宗以其所居陋,欲治之,旦辭以先人舊廬,乃止。宅門壞,主者徹新之,暫於廡下啟側門出入。旦至側門,據鞍俯過,門成復由之,皆不問焉。三子:雍,國子博士;冲,左贊善大夫;素,別有傳。

向敏中

原文向敏中

向敏中、字は常之、開封の人である。父の向瑀は、後漢に仕えて符離県令となった。性質は厳格で、向敏中ただ一人の子として、自ら教え督し、顔色を和らげなかった。かつてその母に言った、「我が門を大きくする者は、この児である」と。向敏中は向瑀に従って京師に赴き官職を求めたとき、ある書生が門前を通り過ぎ、向敏中を見て、隣の母に言った、「この児は風骨が秀で異なり、貴くかつ長寿である」と。隣の母が入ってその家に告げたが、出てみると、既に見えなくなっていた。冠礼を迎えると、続いて父母の喪に遭ったが、刻苦して自ら立ち、大志を持ち、貧しさを屑としなかった。

原文向敏中,字常之,開封人。父瑀,仕漢符離令。性嚴毅,惟敏中一子,躬自教督,不假顏色。嘗謂其母曰:「大吾門者,此兒也。」敏中隨瑀赴調京師,有書生過門,見敏中,謂鄰母曰:「此兒風骨秀異,貴且壽。」鄰母入告其家,比出,已不見矣。及冠,繼丁內外憂,能刻厲自立,有大志,不屑貧窶。

太平興国五年に進士となり、初官として将作監丞・吉州通判に任じられ、そのまま右賛善大夫に改めた。転運使張斉賢がその才能を推薦し、代わって還朝し、著作郎となった。便殿に召し出されて応対すると、明快で流暢であったので、太宗はこれを良しとし、戸部推官に命じ、出向して淮南転運副使となった。当時、地方の財政を管轄する者は、皆権勢と寵愛を頼みに自ら尊大に振る舞い、赴任先で畏れ憚られたが、向敏中は威圧的な監察を尊ばず、僚属を礼をもって遇し、勧奨に勤め、職務はよく行われた。ある者が彼に武幹があると推薦し、召し入れて諸司副使を授けようとした。向敏中は懇願して辞し、なお自らの著作した文章を献上したので、直史館を加えられ、任地に戻された。籍田の恩典により、左司諫に超擢され、入朝して戸部判官・知制誥となった。まもなく、権判大理寺となった。

原文太平興國五年進士,解褐將作監丞、通判吉州,就改右讚善大夫。轉運使張齊賢薦其材,代還,為著作郎。召見便殿,占對明暢,太宗善之,命為戶部推官,出為淮南轉運副使。時領外計者,皆以權寵自尊,所至畏憚,敏中不尚威察,待僚屬有禮,勤於勸勖,職務修舉。或薦其有武幹者,召入,將授諸司副使。敏中懇辭,仍獻所著文,加直史館,遣還任。以耕籍恩,超左司諫,入為戶部判官、知制誥。未幾,權判大理寺。

時に祖吉の贓錢を沒収し、法吏に分け賜うと、敏中は鍾離意の珠を委ねた故事を引き、獨り受けず。妖尼道安が獄を構へ、事は開封判官張去華に連なり、敏中の妻の父なるを以て、故を得て請ひ決讞に預からず。既にして法官皆貶せられ、猶ほ親累を以て職を落とし、廣州知州として出でる。入朝して辭し、面して其の事を敘べ、太宗之に感動し、三歳を待たず召還すべしと許す。翌日、職方員外郎に遷し、之を遣る。是の州は市舶を兼ね掌るも、前の守は多く譏議に涉る。敏中荊南に至り、藥物を市ひて往くに預かり、在任中に須ふ所無く、清廉を以て聞こゆ。就て廣南東路轉運使に擢げられ、召されて工部郎中となる。太宗飛白にて敏中及び張詠の二名を書し中書に付し、曰く「此の二人は名臣なり、朕將に之を用ひん」と。左右其の材を稱し、並びに樞密直學士と命ぜらる。

原文時沒入祖吉贓錢,分賜法吏,敏中引鍾離意委珠事,獨不受。妖尼道安構獄,事連開封判官張去華,敏中妻父也,以故得請不預決讞。既而法官皆貶,猶以親累落職,出知廣州。入辭,面敘其事,太宗為之感動,許以不三歲召還。翌日,遷職方員外郎,遣之。是州兼掌市舶,前守多涉譏議。敏中至荊南,預市藥物以往,在任無所須,以清廉聞。就擢廣南東路轉運使,召為工部郎中。太宗飛白書敏中洎張詠二名付中書,曰:「此二人,名臣也,朕將用之。」左右因稱其材,並命為樞密直學士。

時に通進銀臺司は書奏の出納を主り、樞密院に領せられ、頗る壅遏多く、或は漏失に至る。敏中具さに其の事を奏し、遠方に事機を失ふを恐れ、別に局を置き、官を命じて專ら蒞り、其の簿籍を校せしむるを請ふ。詔して敏中と詠に其の局を領せしむ。太宗敏中を大任せんと欲すれど、當途者之を忌む。會に敏中が法寺に在りし時、皇甫侃無爲軍の榷務を監り、賄を以て敗れ、書を發して歷に朝貴に詣り末減を求むるに、敏中も亦之を受くとの言有り。事御史に下り、按ずるに實に嘗て書有りて門に及び、敏中其の名を睹し、封を啓かずして遣り去る。俄に侃の私僮を捕へて之を詰むるに、云ふ其の書は尋で筒中に納れ、臨江の傳舍に瘞すと。驛を馳せて掘り得るに、封題舊の如し。太宗大いに驚異し、召見し、慰諭賞激し、遂に登用を決す。未だ幾ばくもせず、右諫議大夫・同知樞密院事を拜す。郎中より是に至るまで百餘日、超擢此の如し。時に西北兵を用ふるに、樞機の任は專ら謀議を主り、敏中明辨にして才略有り、事に遇ひて敏速、凡そ二邊の道路・斥堠・走集の所、周知せざる莫し。至道初め、給事中に遷る。

原文時通進銀臺司主出納書奏,領於樞密院,頗多壅遏,或至漏失。敏中具奏其事,恐遠方有失事機,請別置局,命官專蒞,校其簿籍,詔命敏中與詠領其局。太宗欲大任敏中,當途者忌之。會有言敏中在法寺時,皇甫侃監無為軍榷務,以賄敗,發書歷詣朝貴求為末減,敏中亦受之。事下御史,按實嘗有書及門,敏中睹其名,不啟封遣去。俄捕得侃私僮詰之,云其書尋納筒中,瘞臨江傳舍。馳驛掘得,封題如故。太宗大驚異,召見,慰諭賞激,遂決於登用。未幾,拜右諫議大夫、同知樞密院事。自郎中至是百餘日,超擢如此。時西北用兵,樞機之任,專主謀議,敏中明辨有才略,遇事敏速,凡二邊道路、斥堠、走集之所,莫不周知。至道初,遷給事中。

真宗即位の時、敏中恰も疾告に在りしが、力を起して東序に見え、即ち視事を遣らしむ。戶部侍郎に進む。會に曹彬樞密使となるに及び、副使に改む。咸平初め、兵部侍郎・參知政事を拜す。大名に從幸し、屬に宋湜病み、代はりて樞密院事を知るを兼ぬ。時に大兵の後、重臣を遣はして邊郡を慰撫せしむるを議し、河北・河東安撫大使と命じ、陳堯叟・馮拯を副とし、禁兵萬人を發して翼從せしむ。至る所民の疾苦を訪ひ、官吏を宴犒し、感悅せざる莫し。四年、本官を以て同平章事とし、集賢殿大學士を充てる。

原文真宗即位,敏中適在疾告,力起,見於東序,即遣視事。進戶部侍郎。會曹彬為樞密使,改為副使。咸平初,拜兵部侍郎、參知政事。從幸大名,屬宋湜病,代兼知樞密院事。時大兵之後,議遣重臣慰撫邊郡,命為河北、河東安撫大使,以陳堯叟、馮拯為副,發禁兵萬人翼從。所至訪民疾苦,宴犒官吏,莫不感悅。四年,以本官同平章事,充集賢殿大學士。

故相薛居正の孫安上不肖にして、其の居第は貿易すべからざるの詔有りしが、敏中詔に違ひて之を質す。會に居正の子惟吉の嫠婦柴將に貲産を攜へて張齊賢に適せんとし、安上其の事を訴ふるに及び、柴遂に敏中嘗て己に娶らんことを求むれども許さず、是を以て陰に安上を庇ふと言ふ。真宗敏中に問ふに、敏中言ふ近く妻を喪ひて復た婚を議せず、未だ嘗て柴に求婚せずと。真宗因りて復た問はず。柴又鼓を伐ち、訟益〻急なり、遂に御史臺に下り、並びに敏中の宅を質せる狀を得る。時に王嗣宗鹽鐵使たり、素より敏中を忌み、因りて對し、言ふ敏中王承衍の女弟を娶らんことを議し、密約已に定まりて未だ納采せずと。真宗王氏に詢ふるに、其の實を得、敏中の前言を妄りと爲し、戶部侍郎に罷め、永興軍知軍として出づ。

原文故相薛居正孫安上不肖,其居第有詔無得貿易,敏中違詔質之。會居正子惟吉嫠婦柴將攜貲產適張齊賢,安上訴其事,柴遂言敏中嘗求娶己,不許,以是陰庇安上。真宗以問敏中,敏中言近喪妻不復議婚,未嘗求婚於柴,真宗因不復問。柴又伐鼓,訟益急,遂下御史臺,並得敏中質宅之狀。時王嗣宗為鹽鐵使,素忌敏中,因對,言敏中議娶王承衍女弟,密約已定而未納采。真宗詢於王氏,得其實,以敏中前言為妄,罷為戶部侍郎,出知永興軍。

景德初め、復た兵部侍郎となる。夏州の李繼遷兵敗れ、潘羅支に射傷つけられ、自ら孤危且つ死すべしと度り、其の子德明に屬して必ず宋に歸らしめ、曰く「一表聽かれざれば則ち再請し、百表を累ぬると雖も、得ざれば請ふこと止むること勿れ」と。繼遷卒し、德明款を納るるに及び、就て敏中を鄜延路緣邊安撫使と命じ、俄に京兆に還る。

原文景德初,復兵部侍郎。夏州李繼遷兵敗,為潘羅支射傷,自度孤危且死,屬其子德明必歸宋,曰:「一表不聽則再請,雖累百表,不得,請勿止也。」繼遷卒,德明納款,就命敏中為鄜延路緣邊安撫使,俄還京兆。

是の冬、真宗澶淵に幸し、敏中に密詔を賜ひ、西鄙を盡く付し、便宜に事を行ふを許す。敏中詔を得て之を藏し、政を視ること常日の如し。會に大儺有り、禁卒儺に倚りて亂を爲さんと欲すと告ぐる者有り、敏中密かに麾兵をして甲を被り廡下の幕中に伏せしむ。明日、賓僚兵官を盡く召し、酒を置きて縱に閱し、一人も預め知る者無し。儺を命じて入らしめ、先づ中門外に馳騁せしめ、後階に召し至らしむ。敏中振袂一揮し、伏兵出で、盡く之を擒へ、果たして各〻短刃を懷けり。即席にて斬る。既に其の屍を屏ひ、灰沙を以て庭を掃ひ、樂を張り宴飲す。坐客皆股慄し、邊藩遂に安んず。時に舊相鎮に出づるも、軍事を意とせず。寇準重名有りと雖も、至る所終日遊宴し、則ち愛する伶人を或は富室に付すれば、輒ち厚く得る所有り。張齊賢倜儻として情に任せ、劫盜を獲るも或は縱遣に至る。帝之を聞き、敏中を稱して曰く「大臣四方に臨むに、惟だ敏中のみ民事に盡心す」と。是に於て復用の意有り。二年、又德明の誓約未だ定まらざるを以て、敏中を鄜延路都部署兼延州知州に徙し、經略を委ね、河南府知事兼西京留守に改む。

原文是冬,真宗幸澶淵,賜敏中密詔,盡付西鄙,許便宜從事。敏中得詔藏之,視政如常日。會大儺,有告禁卒欲倚儺為亂者,敏中密使麾兵被甲伏廡下幕中。明日,盡召賓僚兵官,置酒縱閱,無一人預知者。命儺入,先馳騁於中門外,後召至階,敏中振袂一揮,伏出,盡擒之,果各懷短刃,即席斬焉。既屏其屍,以灰沙掃庭,張樂宴飲,坐客皆股慄,邊藩遂安。時舊相出鎮,不以軍事為意。寇準雖有重名,所至終日遊宴,則以所愛伶人或付富室,輒厚有得。張齊賢倜儻任情,獲劫盜或至縱遣。帝聞之,稱敏中曰:「大臣出臨四方,惟敏中盡心於民事爾。」於是有復用之意。二年,又以德明誓約未定,徙敏中為鄜延路都部署兼知延州,委以經略,改知河南府兼西京留守。

大中祥符初め、泰山を封ずるを議し、敏中舊德にして人望有るを以て、召し入れて權東京留守とす。禮成りて、尚書右丞を拜す。

原文大中祥符初,議封泰山,以敏中舊德有人望,召入,權東京留守。禮成,拜尚書右丞。

時に吏部の選人多く稽滯する者有り、敏中と溫仲舒に其の事を領せしむ。俄に秘書監を兼ね、又工部尚書を領し、資政殿大學士を充て、御詩を賜ひ褒寵す。汾陰を祀り、復た留守となる。敏中厚重鎮靜を以て、人情帖然たり。帝詩を作り使を遣はし馳せて之を賜ふ。刑部尚書を拜す。五年、復た同平章事を拜し、集賢殿大學士を充て、中書侍郎を加ふ。尋で景靈宮使を充て、宮成りて兵部尚書に進み、兗州景靈宮慶成使となる。

原文時吏部選人多稽滯者,命敏中與溫仲舒領其事。俄兼秘書監,又領工部尚書,充資政殿大學士,賜御詩褒寵。祀汾陰,復為留守。敏中以厚重鎮靜,人情帖然,帝作詩遣使馳賜之。拜刑部尚書。五年,復拜同平章事,充集賢殿大學士,加中書侍郎。尋充景靈宮使,宮成,進兵部尚書,為兗州景靈宮慶成使。

天禧初め、吏部尚書を加へ、又應天院奉安太祖聖容禮儀使となる。右僕射兼門下侍郎に進み、國史を監修す。是の日、翰林學士李宗諤對すべく當るに、帝曰く「朕即位より以來、未だ嘗て僕射を除かず、今敏中を命ず、此れ殊命なり、敏中應に甚だ喜ぶべし」と。又曰く「敏中今日賀客必ず多からん、卿往きて之を觀よ、朕が意を言ふこと勿れ」と。宗諤既に至るも、敏中客を謝し、門闌寂然たり。宗諤其の親と徑に入り、徐に賀して曰く「今日麻の降るを聞く、士大夫歡慰相慶せざる莫し」と。敏中但だ唯唯す。又曰く「上即位より以來、未だ嘗て端揆を除かず、勳德隆重ならずして、眷倚殊越せば、何を以て此に至らん」と。敏中復た唯唯す。又歷に前世僕射たる者の勳德禮命の重きを陳ぶるも、敏中亦唯唯す、卒に一言も無し。既に退きて、人をして庖中に問はしむるに、今日親賓の飲宴有るや否やと、亦一人も無し。明日、具さに所見を以て對ふ。帝曰く「向敏中大に官職に耐ふ」と。玉清昭應宮使に徙す。年老ひたるを以て、累りて致政を請ふも、優詔して許さず。三年重陽、苑中に宴し、暮れ歸りて中風眩し、郊祀に陪從に任ぜず。左僕射・昭文館大學士に進み、表を奉り懇りて讓り、又表を上りて解くを請ふも、皆許さず。明年三月卒す、年七十二。帝親臨し、之を哭すること慟し、朝を廢すること三日、太尉・中書令を贈り、諡して文簡と曰ふ。五子・諸婿並びに官を遷し、親校又數人を官す。

原文天禧初,加吏部尚書,又為應天院奉安太祖聖容禮儀使。進右僕射兼門下侍郎,監修國史。是日,翰林學士李宗諤當對,帝曰:「朕自即位,未嘗除僕射,今命敏中,此殊命也,敏中應甚喜。」又曰:「敏中今日賀客必多,卿往觀之,勿言朕意也。」宗諤既至,敏中謝客,門闌寂然。宗諤與其親徑入,徐賀曰:「今日聞降麻,士大夫莫不歡慰相慶。」敏中但唯唯。又曰:「自上即位,未嘗除端揆,非勳德隆重,眷倚殊越,何以至此。」敏中復唯唯。又歷陳前世為僕射者勳德禮命之重,敏中亦唯唯,卒無一言。既退,使人問庖中,今日有親賓飲宴否,亦無一人。明日,具以所見對。帝曰:「向敏中大耐官職。」徙玉清昭應宮使。以年老,累請致政,優詔不許。三年重陽,宴苑中,暮歸中風眩,郊祀不任陪從。進左僕射、昭文館大學士,奉表懇讓,又表求解,皆不許。明年三月卒,年七十二。帝親臨,哭之慟,廢朝三日,贈太尉、中書令,諡文簡。五子、諸婿並遷官,親校又官數人。

敏中は姿形が魁偉で、威儀と規矩を備え、性質は端正で温厚、聡明であり、民政に通暁し、繁雑な政務を巧みに処理し、人材の抜擢には慎重であった。大任に居ること三十年、当時は重徳の人と目され、君主の優遇を受けたため、たとえ老衰病弱であっても、ついに辞任することができなかった。追贈の制命が入ると、帝は特に批を下して「敏中は淳朴で謹厳、温和で善良である。この意をさらに加えるべし」と言われた。その恩顧はこのようなものであった。文集十五巻がある。

原文敏中姿表瑰碩,有儀矩,性端厚愷悌,多智,曉民政,善處繁劇,慎於采拔。居大任三十年,時以重德目之,為人主所優禮,故雖衰疾,終不得謝。及追命制入,帝特批曰:「敏中淳謹溫良,宜益此意。」其恩顧如此。有文集十五卷。

子に傳正(国子博士)、傳式(龍圖閣直學士)、傳亮(駕部員外郎)、傳師(殿中丞)、傳範(南陽郡王惟吉の娘安福縣主を娶り、密州觀察使となり、諡は惠節)がいる。

原文子:傳正,國子博士;傳式,龍圖閣直學士;傳亮,駕部員外郎;傳師,殿中丞;傳範,娶南陽郡王惟吉女安福縣主,為密州觀察使,諡惠節。

傳亮の子の經は、定國軍留後となり、諡は康懿である。經の娘はすなわち欽聖憲肅皇后であり、后族として敏中に燕王、傳亮に周王、經に吳王を追贈した。敏中のその他の孫の繹・絳は、ともに太子中書に任官した。

原文傳亮子經,定國軍留後,諡康懿。經女即欽聖憲肅皇后也,以后族贈敏中燕王、傳亮周王、經吳王。敏中餘孫繹、絳,並官太子中書。

論ずるに、宋は真宗の世に至り、盛治と称され、また人材を得ることも多かった。李沆が宰相となって、正大光明であり、封妃の詔書を焼いて君主の私心を正し、霊州の民を遷すことを請うて西夏の謀略を奪ったことは、宰相の任に愧じない。沆はかつて王旦に、辺境の患いが既に収まれば、君主の奢侈の心が必ず生じ、声楽女色・土木工事・神仙祠禱の事が起こるだろうと言い、後に王欽若・丁謂の徒が果たしてその佞を売った。また真宗に、新進の事を好む者を用いるべからずと告げ、朝廷内外から陳述される利害の事はすべて却下したが、後に神宗が王安石の変革の言を信用し、ついに混乱に至った。世に沆を「聖相」と称するが、その言葉は過ぎているとしても、誠に先見の明があったと言えようか。王旦は国政を執ること最も久しく、事が至っても固執せず、誹謗があっても気にせず、賢者を推薦しても恩を売らず、罪を救う時はすぐに赦して言葉を費やさなかった。澶淵の役には、真宗に「十日で勝たなければ、どうなさいますか」と請うと、真宗は「太子を立てる」と答えられた。契丹が年限を過ぎて幣を借り、西夏が民の飢えを告げて糧を借りる時も、皆一言で決めた。偉なるかな宰相の才である。ただ王欽若の説を受け入れて、天書の妄を成就させたことは、李沆に及ばない点である。向敏中は贓物の賜り物を受けることを恥じてその汚れを遠ざけ、市舶の嫌疑を予め避けてその廉潔を全うし、皇甫侃の書簡を堅く拒んでその累を免れ、任免の際には喜びも怒りも顔に表さず、これもまた宰相の風格があると言えよう。

原文論曰:宋至真宗之世,號為盛治,而得人亦多。李沆為相,正大光明,其焚封妃之詔以格人主之私,請遷靈州之民以奪西夏之謀,無愧宰相之任矣。沆嘗謂王旦,邊患既息,人主侈心必生,而聲色、土木、神仙祠禱之事將作,後王欽若、丁謂之徒果售其佞。又告真宗不可用新進喜事之人,中外所陳利害皆報罷之,後神宗信用安石變更之言,馴至棼擾。世稱沆為「聖相」,其言雖過,誠有先知者乎!王旦當國最久,事至不膠,有謗不校,薦賢而不市恩,救罪輒宥而不費辭。澶淵之役,請於真宗曰:「十日不捷,何以處之?」真宗答之曰:「立太子。」契丹逾歲給而借幣,西夏告民饑而假糧,皆一語定之,偉哉宰相才也。惟受王欽若之說,以遂天書之妄,斯則不及李沆爾。向敏中恥受贓物之賜以遠其汙,預避市舶之嫌以全其廉,堅拒皇甫侃之書以免其累,拜罷之際,喜慍不形,亦可謂有宰相之風焉。