宋史

列傳第四十一 李沆 王旦 向敏中

李沆

李沆、字は太初、洺州肥郷の人。曾祖は豊、泰陵令。祖は滔、洺州団練判官。父は炳、邢帥薛懐譲に従って辟召され、観察支使となった。懐譲が同州に転じると、また掌書記となり、邠州・鳳翔判官を歴任し、殿中侍御史・舒州知州に任ぜられた。太祖が金陵を征した時、淮水沿いの供給は舒州が特に甚だしく、その労により侍御史を加えられ、卒した。

李沆は幼少より学を好み、器量は宏遠であった。炳は嘗て人に語って曰く、「この児は異日必ず公輔に至るであろう」と。太平興国五年、進士甲科に挙げられ、将作監丞・潭州通判となり、右賛善大夫に遷り、著作郎に転じた。相府が召して辺将を約束する詔書を試作させたところ、既に奏上すると、太宗は甚だ悦び、直史館を命じた。雍熙三年、右拾遺王化基が上書して自らを推薦した。太宗は宰相に謂いて曰く、「李沆・宋湜は皆、嘉士である」と。即ち中書に命じて化基と共に召し試し、並びに右補闕・知制誥に除した。李沆の位は最も下であったが、特に上に昇らせ、各々銭百万を賜った。また李沆が平素貧しく、人に負う銭が多いため、別に三十万を賜ってこれを償わせた。四年、翰林学士宋白と同知貢挙となった。誹謗の議論は多かったが、李沆に帰咎することはなかった。職方員外郎に遷り、召されて翰林学士となった。

淳化二年、吏部銓を判じた。嘗て曲宴に侍した時、太宗は目送して曰く、「李沆の風度は端凝、真に貴人である」と。三年、給事中・参知政事に拝された。四年、本官のまま罷められ、朝請を奉じた。未だ幾ばくもせず、内艱に遭い、起復し、遂に昇州知州として出向した。未だ行かず、河南府知事に改めた。真宗が皇太子となると、礼部侍郎兼太子賓客に遷り、詔して東宮に師傅の礼をもって待遇させた。真宗が即位すると、戸部侍郎・参知政事に遷った。咸平初め、本官のまま平章事となり、国史を監修し、中書侍郎に改めた。

時に契丹が辺境を犯し、真宗は北幸し、李沆に留守を命じた。京師は粛然とした。真宗が還ると、李沆は郊外で迎え、座を置き酒を設け、久しく慰労した。累ねて門下侍郎・尚書右僕射を加えられた。真宗が治道において先とすべきことを問うと、李沆は曰く、「浮薄で新進の事を好む者を用いないこと、これが最も先である」と。その人を問うと、曰く、「梅詢・曾致堯などがこれである」と。後に致堯が温仲舒の副使として陝西を安撫した時、閣門で上疏して仲舒と共に事を為すに足らぬと述べ、軽鋭の徒は称快せざるはなく、李沆は喜ばず、因って他人を用いて仲舒の副使とし、致堯を罷免した。帝は嘗て唐人の党を樹てて制し難く、遂に王室を微弱にさせたことに言及し、蓋し奸邪は弁じ難いからであると謂うと、李沆は対して曰く、「佞言は忠に似、奸言は信に似る。至る所、盧杞が徳宗を蒙蔽した如きは、李勉が真の奸邪と為したが如きである」と。真宗は曰く、「奸邪の跡は、難弁と曰えども、然れども久しければ自ら敗れる」。

ある夜、使者を持たせ手詔を以て劉氏を貴妃にせんと欲した。李沆は使者に対し燭を引き詔を焚き、付して奏して曰く、「只だ臣李沆以て不可と為すと道え」と。その議は遂に止んだ。駙馬都尉石保吉が使相たらんことを求めた。また李沆に問うと、李沆は曰く、「賞典を行うには、須らく由来すべき所有るべし。保吉は戚里に縁り、攻戦の労なく、台席の拝は、恐らく物議を騰らすであろう」と。他日再三これを問うも、執議は初めの如く、遂に止んだ。帝は李沆に密奏無きを以て、之に謂いて曰く、「人皆密啓有り、卿独り無し、何ぞや」と。対して曰く、「臣、宰相に待罪す。公事は則ち公に言う、何ぞ密啓を用いん。夫人臣に密啓有る者は、讒なければ即ち佞なり。臣は常に之を悪む、豈に尤を効すべけんや」。

時に李継遷が久しく叛き、兵衆は日々盛んとなり、朔方を取らんとする意図有り。朝廷は飛輓に困し、中外皆以て霊州は必争の地と為し、苟くも之を失えば、則ち縁辺諸郡皆保つべからずと為した。帝は頗る之に惑い、因って李沆に訪うと、李沆は曰く、「継遷死せずんば、霊州は朝廷の有に非ず。州将を密かに召し、軍民を部分して空壘にして帰らしむるに若かず。此くの如くすれば、則ち関右の民は肩を息うるであろう」と。方に衆議各異なり、未だ即ち李沆の言に従わず、未だ幾ばくもせずして霊州は陥ち、帝は是より益々之を重んじた。

李沆が相と為り、王旦が参政事と為った時、西北の用兵により、或いは日暮れの食事に至ることもあった。旦は歎じて曰く、「我輩安んぞ坐して太平を致し、優遊して事無きを得んや」と。李沆は曰く、「少しく憂勤有るは、足りて警戒と為す。他日四方寧謐たりとも、朝廷必ずしも事無きに非ず」と。後に契丹と和親し、旦は如何と問うと、李沆は曰く、「善けりと雖も、然れども辺患既に息みては、恐らく人主漸く侈心を生ずるのみ」と。旦は未だ然りと為さず。李沆は又日々四方の水旱・盗賊を奏上した。旦は細事として上聴を煩わすに足らずと為した。李沆は曰く、「人主は少年、当に四方の艱難を知らしむべし。然らずんば、血気方に剛く、声色犬馬に留意せざれば、則ち土木・甲兵・禱祠の事起こるであろう。吾は老い、此れを見るに及ばず、此れは参政の他日の憂いである」と。李沆没後、真宗は契丹既に和し、西夏は款を納うるを以て、遂に岱を封じ汾を祠り、大いに宮観を営み、墜典を蒐講し、暇日有ること無し。旦は親しく王欽若・丁謂等の為す所を見、諫めんと欲すれば既に之に同じ、去らんと欲すれば上遇すること厚く、乃ち李沆の先識の遠きを以て、歎じて曰く、「李文靖は真に聖人である」と。当時遂に之を「聖相」と謂った。

寇準は丁謂と善く、屡々謂の才を以て李沆に薦めたが、用いられなかった。準が之を問うと、李沆は曰く、「其の人と為りを顧みるに、之を人上に使うべけんや」と。準は曰く、「謂の如き者を、相公終に之を抑えて人下に使うべけんや」と。李沆は笑って曰く、「他日後悔せんには、当に吾が言を思うべし」と。準は後に謂に傾けられ、始めて李沆の言に服した。

李沆が相と為り、賓客に接するに、常に寡言であった。馬亮は李沆と同年の生まれで、又其の弟の維と善く、維に語って曰く、「外議は大兄を以て口無き瓢と為す」と。維は隙に乗じて亮の語を伝えると、李沆は曰く、「吾知らざるに非ず。然れども今の朝士は殿に昇り言事し、封を上り論奏し、了えて壅蔽無く、多くは下して有司にし、皆之を見る。若し邦国の大事、北に契丹有り、西に夏人有り、日暮れに条議して以て備禦の策を為すは、詳究せざるに非ず。薦紳たる李宗諤・趙安仁の如きは、皆時の英秀、之と談じても、猶吾が意を啓発すること能わず。自余の通籍の子は、坐起拜揖に尚周章として次を失い、即席必ず自ら功最を論じ、以て寵奨を希う。此れ何の策有りて之と接語せんや。苟くも意を屈して妄言すれば、即ち世の所謂籠罩である。籠罩の事は、僕は病みて能わず」と。李沆は又嘗て言う、「重位に居るは実に補う無く、惟だ中外の陳ぶる利害を、一切報罷する、此れ少しく以て国に報いるのみ。朝廷の防製は、纖悉備具す。或いは陳請に徇い、一事を施行すれば、即ち傷つく所多し。陸象先が曰く『庸人の之を擾す』とは是れなり。憸人は苟も一時の進を図り、豈に民を厲するを念わんや」と。李沆が相と為り、常に『論語』を読む。或る人之を問うと、李沆は曰く、「沆が宰相と為るは、『論語』の中の『用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす』の如き、未だ能く行うこと能わず。聖人の言は、終身之を誦うべし」と。

景德元年七月、李沆は待漏して将に朝せんとし、疾発して帰りしに、詔して太醫に診視せしめ、撫問の使を遣わすこと道に相望みたり。翌日、車駕往きて臨問し、白金五千両を賜う。方に宮に還りて沆薨じ、年五十八。上聞きて驚歎し、駕を促して再び往き、臨哭して慟し、左右に謂いて曰く、「沆は大臣たり、忠良純厚にして始終一なり、豈に遐寿を享けざらんとは意えんや」と。言終りて又涙下る。朝を廃すること五日、太尉・中書令を贈り、諡して文靖と曰う。其の弟國子博士贄を録して虞部員外郎と為し、光祿寺丞源を太子中舍と為し、屯田員外郎直集賢院維を戸部員外郎と為す。子宗簡を大理評事と為す。甥蘇昂・妻兄の子朱濤並びに同進士出身を賜う。乾興元年、仁宗即位し、詔して真宗廟庭に配享せしむ。

沆は性直諒にして、内行修謹、言に枝葉なく、大體を識る。位に居りて慎密、聲譽を求めず、動くに條製に遵い、人私を以て干する能わず。公退して、終日危坐し、未だ嘗て跛倚せず。第を封丘門内に治め、廳事の前僅かに馬を旋らすに容る。或いは其の太だ隘しと謂う。沆笑いて曰く、「居第はまさに子孫に傳うべし、此れ宰相の廳事と為すは誠に隘し、太祝・奉禮の廳事と為すは已に寬し」と。垣頽れ壁損ずるに至りても、以て屑慮とせず。堂前の藥闌壞る。妻守舍の者に戒めて葺くこと勿れとし、以て沆を試みしに、沆朝夕之を見るも、月を經て終に言わず。妻以て沆に語る。沆曰く、「豈に此れを以て吾が一念を動かすべけんや」と。家人居第を治むるを勧むるも、未だ嘗て答えず。弟維因りて語次に之に及ぶ。沆曰く、「身厚祿を食み、時に橫賜有り、囊裝を計るも亦以て第を治むべし。但だ内典に此の世界を缺陷と為すを念い、安んぞ圓滿如意を得て、自ら稱足を求めん。今新宅を市えば、須らく一年繕完すべし。人生朝暮保つべからず、又豈に久しく居らんや。林に巣くう一枝、聊か自ら足るのみ。安んぞ豐屋を事とせん」と。

沆は諸弟と友愛し、特に維を器重す。暇日相對して宴飲清言すれども、未だ嘗て朝政に及ばず、亦未だ嘗て家事を問わず。沆没後、或いは梅詢を用うべしと薦む。真宗曰く、「李沆嘗て其の君子に非ずと言えり」と。其の信倚せらるること此の如し。

弟 維

維、字は仲方、進士に第し、保信軍節度推官と為る。真宗初、『聖德詩』を献じ、召し試みて中書に、擢て直集賢院と為し、沆の相たるを以て、避けて歙州を知る。郡に至り、學舍を興し、歲時鄉射の禮を行ふ。沆没し、入りて戸部員外郎と為る。

契丹和を請う。以て賀正旦使と為す。真宗方に西京に幸す。維還りて行在に詣り、具に其の待遇禮厚きを言い、必ず盟好を保つべしとす。擢て兵部員外郎・知制誥と為す。是より此れ毎に北使至れば、多く維をして之を主たらしむ。擢て翰林學士と為し、累遷して中書舍人、疾を以て辭し、出でて許州を知る。復た入りて翰林に學士承旨と為し、史館修撰を加う。仁宗初、再遷して尚書左丞兼侍讀學士と為り、『真宗實錄』を修するに預かり、工部尚書に遷る。會うに塞下契丹将に盟を絶たんと傳う。復た維を遣わして往かしむ。其の主隆緒維の名を重んじ、館勞禮を加え、使いて『兩朝悠久詩』を賦せしむ。詩成りて大いに喜ぶ。既に還り、帝用て樞密副使と為さんと欲す。或いは維が詩を賦して自ら小臣と稱するを斥く。乃ち寢す。刑部尚書に遷る。拜せずして辭し、李士衡の故事を引き官を換えんことを求む。相州觀察使を除し、諫官劉隨に詆せられ、亳州を知る。本鎮に赴かんことを請い、河陽に改む。久しくして朝に還り、復た出でて陳州を知り、卒す。

維は博學、少くより文章を以て知名、老に至るまで手書を廢せず。景德以後、四方に巡幸し、典章名物、多く維の參定する所なり。嘗て『七經正義』を預定し、『續通典』・『冊府元龜』を修す。性寬易、喜慍色に見えず、後進を獎借し、酒を嗜み謔を善くし、而して詩を好む。常に曰く、「人生觴詠自ら適う、餘何をか營らん」と。既に没し、家に餘貲無し。景祐元年、尚書右僕射を贈る。子師錫、虞部員外郎。公謹、太子中舍。

王旦

王旦、字は子明、大名莘の人。曾祖言、黎陽令。祖徹、左拾遺。父祐、尚書兵部侍郎、文章を以て漢・周の際に顯れ、太祖・太宗に事えて名臣と為る。嘗て杜重威を諭して漢に反すること無からしめ、盧多遜が趙普を害せんの謀を拒ぎ、百口を以て符彥卿の罪無きを明かす。世多く其の陰德を稱す。祐手ずから三槐を庭に植え、曰く、「吾が後世、必ず三公と為る者有らん、此れ其の志す所以なり」と。

旦は幼より沉默、學を好み文有り。祐之を器して曰く、「此の兒當に公相に至るべし」と。太平興國五年、進士及第し、大理評事・平江縣知縣と為る。其の廨舊に物怪憑戾すと傳え、居多く寧ならず。旦将に至らんとする前夜、守吏群鬼嘯呼するを聞く云く、「相君至れり、避き去るべし」と。是より遂に絶つ。就きて将作監丞に改む。趙昌言轉運使と為り、威望を以て自ら任じ、屬吏屏畏す。旦の境に入り、其の善政を稱え、女を以て妻とす。代わり還り、命じて潭州銀場を監せしむ。何承矩郡を典とし、薦めて入り著作佐郎と為り、『文苑英華』・『詩類』の編に預かる。殿中丞・鄭州通判に遷る。表して天下に常平倉を建つるを請い、以て兼並の路を塞ぐ。濠州に徙る。淳化初、王禹偁其の才轉運使に任ずべしと薦む。驛召して京に至らしむ。旦吏職を樂しまず、文を献ず。召し試み、命じて直史館と為す。二年、右正言・知制誥を拜す。

初め、祐は宿名を以て久しく書命を掌る。旦十年を経ずして其の任を継ぐ。時論之を美とす。錢若水人倫の鑒有り、旦を見て曰く、「真に宰相の器なり」と。之と同列し、毎に曰く、「王君は凌霄聳壑、棟梁の材、貴きこと涯無し、吾の及ぶ所に非ず」と。李沆は同年生を以て、亦推重して遠大の器と為す。明年、蘇易簡と同知貢舉し、虞部員外郎・同判吏部流内銓・知考課院を加う。趙昌言機務に參ず。旦嫌を避け、唐の獨孤鬱・權德輿の故事を引き職を辭す。太宗其の體を識るを嘉し、禮部郎中・集賢殿修撰に改む。昌言出でて鳳翔を知る。即日に旦を以て知制誥と為し、仍び修撰・判院事を兼ね、面して金紫を賜い、牯犀帶を擇びて之を寵し、又令して西閣に冠せしむ。至道元年、理檢院を知る。二年、兵部郎中に進む。

真宗即位し、中書舍人を拜す。数月、翰林學士兼知審官院・通進銀臺封駁司と為る。帝素より旦を賢とす。嘗て奏事退きしに、目送して曰く、「朕が為に太平を致す者は、必ず斯の人なり」と。錢若水樞務を罷む。苑中に対を得、近臣の用うべき者を訪う。若水言う、「旦に德望有り、大事に堪え任ずべし」と。帝曰く、「此れ固より朕が心の屬する所なり」と。咸平三年、又知貢舉し、鎖宿旬日、給事中・同知樞密院事を拜す。年を踰え、工部侍郎参知政事と為る。

契丹が辺境を侵犯した際、王旦は帝に従って澶州へ行幸した。雍王元份が東京の留守を務めていたが、急病に罹ったため、帝は旦を馳せ戻らせ、留守の職務を代行させた。旦は言った、「寇準を召し宣べられたい。臣に申し上げたいことがあります」と。準が到着すると、旦は奏上して言った、「十日以内に捷報がなければ、その時はどうなさいますか」と。帝はしばらく黙った後、言った、「皇太子を立てよう」と。旦が京に到着すると、直ちに禁中に入り、命令は非常に厳しく、人々に伝播させないようにした。帝の還幸の際、旦の子弟や家人は皆郊外で出迎えたが、突然後ろに騶従の声が聞こえ、驚いて見ると、それは旦であった。二年、尚書左丞を加えられた。三年、工部尚書・同中書門下平章事・集賢殿大學士に任じられ、『両朝国史』の監修を務めた。

契丹が和約を受諾した後、寇準はこれを自分の功績と考え、得意げな様子であり、真宗もまた得意であった。王欽若は準を妬み、彼を失脚させようとし、帝に落ち着いて言った、「これは『春秋』にいう城下の盟です。諸侯でさえこれを恥じるのに、陛下が功績とされるのは、臣は私的に取るに足らないと思います」と。帝は憂い顔で言った、「どうすればよいか」と。欽若は帝が戦争を厭っていると推し量り、すぐに偽って言った、「陛下が兵をもって幽燕を奪取されれば、恥を雪ぐことができます」と。帝は言った、「河朔の民衆がようやく兵革を免れたのに、朕がどうしてそんなことができようか。次善の策を考えよ」と。欽若は言った、「ただ泰山で封禅を行うのみが、四海を鎮め服従させ、外国に誇示することができます。しかし、古来より封禅は、天の瑞祥である希世絶倫の事が得られて、初めて可能なのです」と。しばらくしてまた言った、「天瑞など必ず得られるものでしょうか。前代には人力でこれを行った者もおります。ただ君主が深く信じて崇め、天下に明示すれば、天瑞と異なることはありません」と。帝は長く考えた末、承諾したが、王旦を恐れており、言った、「王旦は承諾しないのではないか」と。欽若は言った、「臣が聖意を以て彼に諭せば、宜しく承諾すべきです」と。隙を見て旦に言うと、旦は無理をして従った。帝はなおも躊躇し、これに参画する者がいなかったが、たまたま秘閣に行幸した際、突然杜鎬に問うた、「古にいう河図出で、洛書出づとは、果たして何事か」と。鎬は老儒であり、その意図を測りかね、当たり障りのない返答をした、「これは聖人が神道を以て教えを設けただけです」と。帝はこれによって決意し、遂に旦を召して酒を飲ませ、大いに楽しみ、尊酒を賜って言った、「この酒は極めて佳い。帰って妻子と共にせよ」と。帰宅して開けてみると、中は全て珠であった。これにより、天書や封禅などの事については、旦は異議を唱えなくなった。

大中祥符元年、天書儀仗使となり、泰山封禅に従い、大礼使となって、中書侍郎兼刑部尚書に進んだ。詔を受けて『封祀壇頌』を撰し、兵部尚書を加えられた。四年、汾陰を祀り、また大礼使となり、右僕射・昭文館大学士に遷った。引き続き『祠壇頌』を撰し、さらに官位を進められようとしたが、懇願して辞退し、功臣号を加えるのみで免れた。まもなく門下侍郎・玉清昭応宮使を兼ねた。五年、玉清奉聖像大礼使となった。景霊宮が建立されると、また朝修使となった。七年、天書を刻し、兼ねて刻玉使となり、御厩の馬三頭を選んで賜られた。玉清昭応宮が完成すると、司空しくうに任じられた。京師で賜酺があったが、旦は喪中を理由に参会せず、帝は詩を賜ってその意を導いた。『国史』が完成すると、司空に遷った。旦は天書使として、大礼がある度に天書を奉じて行き、常に憂鬱で楽しくなかった。凡そ権力を握ること十八年、宰相として僅かに一紀であった。

契丹が和を修め、西夏が故地を守ることを誓ったため、両辺境の兵は用いられなくなり、真宗は事なきをもって天下を治めた。旦は祖宗の法が全て揃っていると考え、故事を実行することを務め、変改は慎重に行った。帝は久しくしてますます彼を信じ、言うことは全て聞き入れ、大臣が何か請う時は必ず、「王旦はどう思うか」と言った。旦は人と話したり笑ったりすることが少なく、終日黙って坐っていたが、奏事の際、群臣の意見が分かれると、旦がゆっくり一言で決めた。帰宅すると、冠帯を脱がずに静室に入り独坐し、家人も敢えて会おうとしなかった。旦の弟が趙安仁に尋ねると、安仁は言った、「今まさに事を議している。公は実行したくないが決まっていない。これは必ず朝廷を憂えているのだ」と。

帝がかつて二府に『喜雨詩』を示した時、旦は袖にしまって帰り言った、「上の詩に一字誤って書かれた箇所がある。進上して改めさせないか」と。王欽若は言った、「これも害はない」と言いながら、密かにこれを奏上した。帝は怒り、旦に言った、「昨日の詩に誤字があったのに、なぜ奏上しなかったのか」と。旦は言った、「臣は詩を頂戴し、再び閲覧する暇がなく、上奏することを失いました」と。恐れおののき再拝して謝罪し、諸臣も皆拝したが、ただ枢密の馬知節だけは拝せず、全て実情を奏上し、かつ言った、「王旦は少しも弁明せず、真の宰相の器です」と。帝は旦を見て笑った。天下に大蝗害があり、人が野原で死んだ蝗を得て、帝は大臣たちに見せた。翌日、執政は袖に死んだ蝗を入れて進み出て言った、「蝗は確かに死んでおります。朝廷に示し、百官を率いて賀したい」と。旦だけは認めなかった。数日後、ちょうど奏事をしている時、飛蝗が天を蔽った。帝は旦を見て言った、「もし百官が賀しようとしていた時に、蝗がこのようであったなら、天下の笑いものにならなかっただろうか」と。

宮中で火災が起こり、旦は馳せ参じた。帝は言った、「両朝の蓄積を、朕は妄りに費やすことなく、一朝にして殆ど尽きてしまった。誠に惜しい」と。旦は答えて言った、「陛下は天下を富有されておられます。財帛は憂うるに足りません。慮るべきは政令賞罰の不当です。臣が宰府の位に備わりながら、天災がこのようである以上、臣は罷免されるべきです」と。続いて上表して罪を待った。帝はそこで詔を下して自らを責め、内外に封事を許して得失を言わせた。後に、栄王宮の火が延焼したものであり、天災ではないと言う者がおり、獄を置いて糾弾するよう請い、死罪に当たる者が百余人いた。旦だけが請うて言った、「火事が始まった時、陛下は既に罪己の詔を天下に下され、臣等も皆上章して罪を待ちました。今になって反って人に咎を帰するのは、どうして信を示せましょうか。かつ火には跡があるとはいえ、どうして天の譴責でないと知れましょうか」と。死罪に当たる者は皆免じられた。

占い師が上書して宮中の事を言い、誅殺に坐し、その家を没収したところ、朝士が彼と往来し吉凶を占問した文書が見つかった。帝は怒り、御史に付して状況を問おうとした。旦は言った、「これは人の常情であり、かつ言葉が朝廷に及んでいません。罪に足りません」と。真宗の怒りは解けず、旦はそこで自らかつて占問した書物を取って進めて言った、「臣が若く賤しい時、免れずにこれをしました。必ずや罪とされるなら、願わくは臣も一緒に獄に付してください」と。真宗は言った、「この事は既に発覚した。どうして免じられようか」と。旦は言った、「臣は宰相として国法を執ります。どうして自らこれを行いながら、発覚せずに幸い、他人を罪にすることができましょうか」と。帝の怒りは解けた。旦が中書に至ると、得た書物を全て焼いた。しばらくして後悔し、馳せて取りに戻ったが、既に焼かれてしまっていた。これによって皆免じられた。仁宗が皇太子であった時、太子諭徳が旦に会い、太子が書を学ぶのに法があると称えた。旦は言った、「諭徳の職は、ただこれだけのことか」と。張士遜がまた太子の書を称えると、旦は言った、「太子は科挙を受けるわけではない。学士を選ぶのに書を学ぶことではない」と。

契丹が歳給の他に別に銭幣を借りるよう奏請してきた。旦は言った、「東封が間近く、車駕が出ようとしています。彼らはこれで朝廷の意向を探っているのです」と。帝は言った、「どう答えるか」と。旦は言った、「ただ微物を以て軽んじるべきです」と。そこで歳給三十万の物の中からそれぞれ三万を借り与え、なおかつ翌年の額の中から除くことを諭した。契丹はこれを受け、大いに慚じた。翌年、また有司に下して、「契丹が借りた金幣六万は、事は微末に属する。今なお常数に依ってこれを与え、後は例としない」とした。西夏の趙徳明が民が飢えていると言い、百万斛の糧を求めてきた。大臣は皆言った、「徳明は新たに誓を納めたばかりで敢えて違える。詔を以て責めるよう請う」と。帝が旦に問うと、旦は有司に命じて京師に粟百万を備えさせ、詔を下して徳明に取りに来させよと請うた。徳明は詔を得て、慚じかつ拝して言った、「朝廷には人がいる」と。

寇準はしばしば王旦の短所を言ったが、王旦はひたすら寇準を称賛した。帝が王旦に言うには、「卿は彼の美点を称えるが、彼は専ら卿の悪口を言う」と。王旦は言った、「道理として当然でございます。臣が宰相の位に長くあり、政事の欠落は必ず多い。寇準が陛下に対して隠すところなく言うのは、かえってその忠直さが見えることであり、これが臣が寇準を重んずる所以でございます」。帝はこれによってますます王旦を賢臣と認めた。中書省から密院に送った文書が詔の格式に違反した。寇準は密院におり、このことを上奏して報告した。王旦は責められ、ただ拝礼して謝罪し、中書省の官吏は皆罰せられた。一ヶ月も経たぬうちに、密院から中書省に送った文書も詔の格式に違反した。中書省の官吏は喜んで王旦に呈したが、王旦は密院に送り返すよう命じた。寇準は大いに恥じ、王旦に会って言った、「同年(同榜の進士)、どうしてこれほど大きな度量をお持ちなのですか」。王旦は答えなかった。寇準が枢密使を罷免されたとき、人に頼んで密かに使相(節度使兼同平章事)になることを求めた。王旦は驚いて言った、「将相の任は、どうして求められようか。私は私的な請託を受けない」。寇準はこれを深く恨んだ。やがて寇準は武勝軍節度使・同中書門下平章事に任じられた。寇準が入朝して拝謁し、謝して言った、「陛下が臣を知っておられなければ、どうしてこの地位に至れましょうか」。帝は王旦が推薦した次第をことごとく話した。寇準は恥じて嘆息し、王旦には及ばないと思った。寇準が藩鎮にいたとき、誕生日に山棚を造って大宴会を開き、また服飾・器物が分を越えて奢侈であったため、人から奏上された。帝は怒り、王旦に言った、「寇準は何事も朕のまねをしたがるが、それでよいのか」。王旦はゆっくりと答えて言った、「寇準は確かに賢能ですが、愚かであることはどうしようもありません」。真宗の怒りはすぐに解け、言った、「そうだ、これはまさに愚かというだけだ」。そこで追及しなかった。

翰林学士の陳彭年が政府(中書省)に科挙の条目を呈した。王旦はそれを地に投げつけて言った、「内翰(翰林学士)は官について幾日だというのに、天下の進士を隔て遮断しようとするのか」。陳彭年は恐れおののいて退いた。時に向敏中が同じく中書省におり、陳彭年が置いていった文書を取り出した。王旦は目を閉じて紙を取り、それを封じた。向敏中が一覧したいと請うと、王旦は言った、「符瑞の図を進上しようというだけのことだ」。後に陳彭年は王曾・張知白と共に政事に参与し、一緒に王旦に言った、「毎度奏上する事柄の中で、陛下がご覧にならないものがありますが、公がご旨を批して実行なさいますのは、人が言って不可とすることになるのを恐れます」。王旦はただ謙遜して謝るだけであった。ある日、奏対が終わり、王旦が退いた後、王曾らが少し留まった。帝は驚いて言った、「何事かあって王旦と一緒に来なかったのか」。皆が先のことを答えた。帝は言った、「王旦は朕の側に多年おり、朕が察するに微塵の私心もない。東封(泰山封禅)の後から、朕は小事については一任して実行するよう諭している。卿らは謹んでこれに従え」。王曾らは退いて恥じ謝った。王旦は言った、「まさに諸公の規諫と補益に頼っているのです」。少しも気に留めなかった。

帝は王欽若を宰相にしようとした。王旦は言った、「王欽若は陛下に遇い、恩礼は既に厚い。しばらく枢密院に留め置かれ、両府(中書・枢密院)の均衡も保たれます。臣の見るところ、祖宗の朝以来、南人が国政を執ったことはありません。古くは賢を立てるに方なしと称しますが、それでも賢士でなければなりません。臣が宰相として、人を沮み抑えることは致しませんが、これも公議でございます」。真宗はそこでやめた。王旦が没した後、王欽若はようやく大用され、人に言った、「王公が私の宰相就任を十年遅らせたのだ」。王欽若は陳堯叟・馬知節と共に枢密院におり、奏事の際に憤って争った。真宗は王旦を召し出したが、王欽若はなお騒ぎ止まなかった。馬知節は涙を流して言った、「王欽若と共に御史台に下ることを願います」。王旦は王欽若を叱って退かせた。帝は大いに怒り、獄に付すよう命じた。王旦は従容として言った、「王欽若らは陛下の厚いご眷顧を恃み、上を煩わせて譴責を受け、朝典を行うべきです。願わくは暫く内裏にお戻りになり、明日に改めてご裁断を仰がれます」。翌日、王旦を召して前に問うた。王旦は言った、「王欽若らは罷免すべきですが、何の罪に坐させるか分かりません」。帝は言った、「憤争無礼の罪に坐せる」。王旦は言った、「陛下は天下を有しておられ、大臣を憤争無礼の罪に坐せられますと、もし外国に聞こえたなら、遠方を威服させることにならない恐れがあります」。帝は言った、「卿の考えはどうか」。王旦は言った、「中書省に至り、王欽若らを召して陛下の包容の御心をお示しになり、かつ戒め約束させたいと思います。少し時を置いて、罷免しても遅くはありません」。帝は言った、「卿の言葉でなければ、朕は我慢できなかったであろう」。一ヶ月余り後、王欽若らは皆罷免された。

王旦はかつて楊億と人物を評定していた。楊億が言った、「丁謂は長い目で見てどうでしょうか」。王旦は言った、「才能は才能だが、道を語るには至らない。他日上位にあって、徳のある者がこれを助ければ、おそらく終わり吉とすることができるだろう。もし独りで権力を握れば、必ず身の累いとなるであろう」。後に丁謂は果たしてその言葉の通りになった。

王旦が兗州景霊宮朝修使となったとき、宦官の周懐政が同行した。ある時、周懐政が隙をうかがって私的に面会を請うたが、王旦は必ず従者が皆揃うのを待ち、冠帯を整えて堂皇たる場所で出会い、用件を述べて退いた。後に周懐政が事を起こして敗れたとき、初めて王旦の遠慮を知った。宦官の劉承規は忠謹をもって寵愛を受け、病が重く死に際して、節度使になることを求めた。帝が王旦に言うには、「承規はこれ(節度使)をもって瞑目したいのだ」。王旦は固執して認めず、言った、「他日、枢密使を求める者が出てきたら、どうなさいますか」。遂に取りやめさせた。これ以降、宦官の官位は留後を超えることはなかった。

王旦が宰相の時、賓客は堂に満ちたが、私事を請う者はなかった。語るに足る者や平素から名の知られた者を観察し、数ヶ月後に召して語り、四方の利害を諮問し、あるいはその言葉を書き記して献上させた。才能の長所を観て、密かにその名を記録し、その人が再び来ても会わなかった。役職の任命がある度ごとに、先ず密かに三、四人の姓名を書き記して請い、任用する者を帝が筆で点じた。同僚は知らず、任用を争ったが、王旦が任用を奏上した者は、帝が認めないことはなかった。丁謂はこのことでしばしば王旦を誹謗したが、帝はますます王旦を厚遇した。故参知政事李穆の子の行簡は、将作監丞の官で家に居り、賢い行いがあった。太子中允に昇進したが、使者がその宅を知らなかった。真宗は中書省で王旦に問わせたので、人々は初めて李行簡が王旦に推薦されたことを知った。王旦が推薦した者はすべて、人が知らない者ばかりであった。王旦の没後、史官が『真宗実録』を編修する際、内廷から出た奏章を得て、初めて朝士の多くが王旦に推薦されたことを知ったという。諫議大夫の張師徳は二度王旦の門を訪れたが、会うことができず、人が誹謗したのだと思い、向敏中に告げて、間をとりもって明らかにしてくれるよう頼んだ。知制誥の人事を議する際、王旦は言った、「張師徳が惜しい」。向敏中がその理由を問うと、王旦は言った、「しばしば上(帝)の前で、師徳は名家の子で士人の行いがあると言ってきたが、思いがけず二度も我が門に及んだ。状元で及第し、栄進は元より定まっているのだから、ただ静かに待つべきである。もしまた奔走競争するなら、階梯のない者がどうすればよいというのか」。向敏中が張師徳の気持ちを伝えると、王旦は言った、「王旦のところでどうして人が軽々しく人を誹謗できようか。ただ師徳は後進であり、私を軽んじただけだ」。向敏中は固く、「丁度欠員がありますので、公がお見捨てになりませんよう願います」と言った。王旦は言った、「暫くこれを緩めよ。師徳に知らせて、貪って進むことを戒め、薄俗を激しくする手立てとしよう」。

石普が許州の知事として不法を働いたので、朝廷の議論はその場で弾劾しようとした。王旦は言った、「石普は武人であり、典憲を理解せず、わずかな功績を頼みに、みだりに事を起こすことを恐れます。必ず重く処分すべきですが、召還して獄に下すことを乞います」と。そこで御史に命じてこれを取り調べさせ、一日で獄が整った。議論する者は、国法を曲げずに武臣を保全したのは、まさに国の体面であると考えた。薛奎が江淮発運使となったとき、王旦に別れを告げると、王旦は他の言葉はなく、ただ「東南の民力は尽きた」と言った。薛奎は退出して言った、「まさに宰相の言葉である」と。張士遜が江西転運使となり、別れに王旦に教えを求めた。王旦は言った、「朝廷の専売の利益は極みに達した」と。張士遜はこの職を繰り返し務めたが、王旦の言葉を思い出し、一度も利益を求めなかった。識者は言った、「この運使は大筋をわきまえている」と。張詠が成都の知事であったが、召還され、任中正が代わりに任じられた。言論者はこれを不可とした。帝が王旦に問うと、答えて言った、「任中正でなければ張詠の規矩を守れません。他の者が行けば、みだりに変更を加えるでしょう」と。李迪と賀辺は当時名声があり、進士に挙げられたが、李迪は賦で韻を踏み違え、賀辺は『当仁不譲於師論』で「師」を「衆」と解し、注疏と異なったため、ともに及第しなかった。試験官が奏上して収めて試験させることを乞うた。王旦は言った、「李迪は不考に犯したとはいえ、それは不意によるものであり、その過ちは大目に見られます。賀辺は特に異説を立て、後進に穿鑿を務めさせることになり、その風潮を長じさせてはなりません」と。そこで李迪を収め、賀辺を退けた。

王旦は職務に長く従事したので、人々が彼を誹謗する者がいると、すぐに自ら責を負って弁明しなかった。人が過失を犯したときには、たとえ君主が激怒していても、弁明できるものは弁明し、必ず理解を得てからやめた。もともと虚弱で病気がちであり、東魯からの復命以来、連年して辞任を願い出たが、優れた詔書で褒められ返答され、続いて面と向かって諭され、委任に二心はなかった。天禧初年、位を進めて太保となり、兗州太極観奉上宝冊使となり、さらに太尉兼侍中を加えられ、五日に一度起居に赴き、中書に入り、軍国の重事に遇えば、時日を限らず参入して決断に加わった。王旦はますます畏れて避け、上疏して懇願して辞し、また同僚に頼んで奏上させた。帝はその意向に逆らうことを重んじ、ただ封邑を加えるにとどめた。ある日、滋福殿で単独で応対したとき、帝は言った、「朕はまさに大事を卿に託そうとしているのに、卿の病気がこのようである」と。そこで皇太子を出して拝ませると、王旦は恐れ慌てて走って避けたが、太子はついて彼を拝した。王旦は言った、「太子は盛徳であり、必ずや陛下の事を任せられます」と。そこで大臣となれる者十余人を推薦した。その後、宰相に至らなかったのは李及と凌策の二人だけで、彼らも名臣となった。王旦はまた位を避けることを求めた。帝はその姿が憔悴しているのを見て、哀れに思い許した。太尉として玉清昭応宮使を兼ね、宰相の半俸を与えられた。

初め、王旦は宰相として使職を兼ねていたが、今宰相を罷めても、使職は依然として兼ねており、専ら使職を置くことは王旦から始まったのである。まもなくまた肩輿で禁中に入ることを命じられ、子の王雍と直省の吏に挟み扶けられ、延和殿で謁見した。帝は言った、「卿は今病気が重いが、万一不測の事があれば、朕は天下の事を誰に託せばよいのか」と。王旦は言った、「臣を知るは君に若くはなく、ただ明主がお選びになります」と。再三問うても答えなかった。当時、張詠と馬亮はともに尚書であった。帝は二人について順に問うたが、やはり答えなかった。そこで言った、「試みに卿の考えで言ってみよ」と。王旦は強いて起き上がって笏を挙げて言った、「臣の愚かさをもってすれば、寇準に如く者はありません」と。帝は言った、「寇準は性質が剛直で偏狭である。卿はさらに次の者を考えよ」と。王旦は言った、「他の者は、臣の知るところではありません。臣は病に苦しみ、長く侍ることができません」と。そこで辞して退出した。後に王旦が没して一年余りして、ついに寇準を宰相に用いた。

王旦の病が甚だしくなると、内侍を遣わして問う者は日に三四度に及び、帝は自ら手を下して薬を調合し、薯蕷粥を賜った。王旦は楊億と平素から親厚であり、臥内に招き、遺表の作成を請うた。そして言った、「辱くも宰輔を務め、尽きんとする言葉をもって、宗族や親族に官を求めることはできません。ただ平生の遭遇を述べ、日々庶政に親しみ、賢士を進用し、焦労の念を少しでも減らされることを願うのみです」と。なお子弟に戒めて言った、「我が家は盛名と清徳がある。倹約質素に務め、門風を保ち守り、奢侈に事を構えてはならず、厚葬して金宝を棺の中に置いてはならない」と。表が上ると、真宗はそれを嘆賞し、そこでその邸に臨幸し、白金五千両を賜った。王旦は奏上を作ってこれを辞し、草稿の末尾に自ら四句を加えた、「蔵むること多きを益々懼れ、況んや用ふる所無きをや、散施せんと欲するを見るは、以て咎殃を息めんとす」と。すぐに輿で内門まで運ばせたが、詔によって許されなかった。戻って門に至ると、王旦は既に薨去していた。六十一歳であった。帝はその喪に臨んで慟哭し、三日間朝政を停め、太師・尚書令しょうしょれい・魏国公を追贈し、諡して文正とし、また別に発哀の礼を挙げた。数日後、張旻が河陽の鎮守に赴くことになり、例によって餞別の宴を挙げるべきであったが、王旦の故をもって、音楽を挙げなかった。その子・弟・甥・外孫・門客・常従を記録し、官を授かった者は十数人に及んだ。諸子が喪服を除くと、またそれぞれ一官を進めた。後に王旦が奏稿に自ら四句を加えたことを聞き、取って見て、久しく涙を流した。王旦に文集二十巻がある。乾興初年、詔して真宗の廟廷に配享させた。碑を建てるとき、仁宗がその頭に篆書で「全徳元老之碑」と記した。

王旦は寡婦の嫂に礼をもって事え、弟の王旭とは非常に篤く友愛した。婚姻に門閥を求めなかった。衣服は質素であり、家人が氈席を繻錦で飾ろうとしたが、許さなかった。玉帯を売る者がいて、弟は良いと思い、王旦に呈した。王旦は命じてそれを締めさせ、「まだ良いと見えるか」と問うた。弟は言った、「締めているのでどうして自分で見られましょうか」と。王旦は言った、「自ら重いものを負って、見る者に良しと言わせるのは、無駄な労力ではないか」と。すぐに返した。故に身に着けるものは賜られた帯に限った。家人は彼が怒るのを見たことがなく、飲食が精潔でなくても、ただ食べないだけだった。かつて少しの埃墨を羹の中に入れて試したことがある。王旦はただ飯を食べ、なぜ羹を啜らないのかと問うと、言った、「私はたまたま肉が好きではない」と。後でまた飯に墨を入れると、言った、「私は今日は飯が好きではない。別に粥を用意せよ」と。王旦は田宅を購置せず、言った、「子孫はそれぞれ自立を考えるべきであり、どうして田宅が必要だろうか。ただ争って財を奪い合い不義を行うだけである」と。真宗はその住居が粗末なのを、修繕しようとしたが、王旦は先祖伝来の旧宅であることを理由に辞したので、やめた。宅門が壊れたので、主管者が新しく建て直し、しばらく廡下の側門を開けて出入りした。王旦は側門に至ると、鞍に寄りかかって身をかがめて通り過ぎ、門が完成してもまたそこから通ったが、いずれも問うことはなかった。三人の子がいた。王雍は国子博士、王冲は左賛善大夫、王素は別に伝がある。

向敏中

向敏中、字は常之、開封の人である。父の向瑀は、後漢に仕えて符離県令となった。性質は厳格で、向敏中ただ一人の子として、自ら教え督し、顔色を和らげなかった。かつてその母に言った、「我が門を大きくする者は、この児である」と。向敏中は向瑀に従って京師に赴き官職を求めたとき、ある書生が門前を通り過ぎ、向敏中を見て、隣の母に言った、「この児は風骨が秀で異なり、貴くかつ長寿である」と。隣の母が入ってその家に告げたが、出てみると、既に見えなくなっていた。冠礼を迎えると、続いて父母の喪に遭ったが、刻苦して自ら立ち、大志を持ち、貧しさを屑としなかった。

太平興国五年に進士となり、初官として将作監丞・吉州通判に任じられ、そのまま右賛善大夫に改めた。転運使張斉賢がその才能を推薦し、代わって還朝し、著作郎となった。便殿に召し出されて応対すると、明快で流暢であったので、太宗はこれを良しとし、戸部推官に命じ、出向して淮南転運副使となった。当時、地方の財政を管轄する者は、皆権勢と寵愛を頼みに自ら尊大に振る舞い、赴任先で畏れ憚られたが、向敏中は威圧的な監察を尊ばず、僚属を礼をもって遇し、勧奨に勤め、職務はよく行われた。ある者が彼に武幹があると推薦し、召し入れて諸司副使を授けようとした。向敏中は懇願して辞し、なお自らの著作した文章を献上したので、直史館を加えられ、任地に戻された。籍田の恩典により、左司諫に超擢され、入朝して戸部判官・知制誥となった。まもなく、権判大理寺となった。

時に祖吉の贓錢を沒収し、法吏に分け賜うと、敏中は鍾離意の珠を委ねた故事を引き、獨り受けず。妖尼道安が獄を構へ、事は開封判官張去華に連なり、敏中の妻の父なるを以て、故を得て請ひ決讞に預からず。既にして法官皆貶せられ、猶ほ親累を以て職を落とし、廣州知州として出でる。入朝して辭し、面して其の事を敘べ、太宗之に感動し、三歳を待たず召還すべしと許す。翌日、職方員外郎に遷し、之を遣る。是の州は市舶を兼ね掌るも、前の守は多く譏議に涉る。敏中荊南に至り、藥物を市ひて往くに預かり、在任中に須ふ所無く、清廉を以て聞こゆ。就て廣南東路轉運使に擢げられ、召されて工部郎中となる。太宗飛白にて敏中及び張詠の二名を書し中書に付し、曰く「此の二人は名臣なり、朕將に之を用ひん」と。左右其の材を稱し、並びに樞密直學士と命ぜらる。

時に通進銀臺司は書奏の出納を主り、樞密院に領せられ、頗る壅遏多く、或は漏失に至る。敏中具さに其の事を奏し、遠方に事機を失ふを恐れ、別に局を置き、官を命じて專ら蒞り、其の簿籍を校せしむるを請ふ。詔して敏中と詠に其の局を領せしむ。太宗敏中を大任せんと欲すれど、當途者之を忌む。會に敏中が法寺に在りし時、皇甫侃無爲軍の榷務を監り、賄を以て敗れ、書を發して歷に朝貴に詣り末減を求むるに、敏中も亦之を受くとの言有り。事御史に下り、按ずるに實に嘗て書有りて門に及び、敏中其の名を睹し、封を啓かずして遣り去る。俄に侃の私僮を捕へて之を詰むるに、云ふ其の書は尋で筒中に納れ、臨江の傳舍に瘞すと。驛を馳せて掘り得るに、封題舊の如し。太宗大いに驚異し、召見し、慰諭賞激し、遂に登用を決す。未だ幾ばくもせず、右諫議大夫・同知樞密院事を拜す。郎中より是に至るまで百餘日、超擢此の如し。時に西北兵を用ふるに、樞機の任は專ら謀議を主り、敏中明辨にして才略有り、事に遇ひて敏速、凡そ二邊の道路・斥堠・走集の所、周知せざる莫し。至道初め、給事中に遷る。

真宗即位の時、敏中恰も疾告に在りしが、力を起して東序に見え、即ち視事を遣らしむ。戶部侍郎に進む。會に曹彬樞密使となるに及び、副使に改む。咸平初め、兵部侍郎・參知政事を拜す。大名に從幸し、屬に宋湜病み、代はりて樞密院事を知るを兼ぬ。時に大兵の後、重臣を遣はして邊郡を慰撫せしむるを議し、河北・河東安撫大使と命じ、陳堯叟・馮拯を副とし、禁兵萬人を發して翼從せしむ。至る所民の疾苦を訪ひ、官吏を宴犒し、感悅せざる莫し。四年、本官を以て同平章事とし、集賢殿大學士を充てる。

故相薛居正の孫安上不肖にして、其の居第は貿易すべからざるの詔有りしが、敏中詔に違ひて之を質す。會に居正の子惟吉の嫠婦柴將に貲産を攜へて張齊賢に適せんとし、安上其の事を訴ふるに及び、柴遂に敏中嘗て己に娶らんことを求むれども許さず、是を以て陰に安上を庇ふと言ふ。真宗敏中に問ふに、敏中言ふ近く妻を喪ひて復た婚を議せず、未だ嘗て柴に求婚せずと。真宗因りて復た問はず。柴又鼓を伐ち、訟益〻急なり、遂に御史臺に下り、並びに敏中の宅を質せる狀を得る。時に王嗣宗鹽鐵使たり、素より敏中を忌み、因りて對し、言ふ敏中王承衍の女弟を娶らんことを議し、密約已に定まりて未だ納采せずと。真宗王氏に詢ふるに、其の實を得、敏中の前言を妄りと爲し、戶部侍郎に罷め、永興軍知軍として出づ。

景德初め、復た兵部侍郎となる。夏州の李繼遷兵敗れ、潘羅支に射傷つけられ、自ら孤危且つ死すべしと度り、其の子德明に屬して必ず宋に歸らしめ、曰く「一表聽かれざれば則ち再請し、百表を累ぬると雖も、得ざれば請ふこと止むること勿れ」と。繼遷卒し、德明款を納るるに及び、就て敏中を鄜延路緣邊安撫使と命じ、俄に京兆に還る。

是の冬、真宗澶淵に幸し、敏中に密詔を賜ひ、西鄙を盡く付し、便宜に事を行ふを許す。敏中詔を得て之を藏し、政を視ること常日の如し。會に大儺有り、禁卒儺に倚りて亂を爲さんと欲すと告ぐる者有り、敏中密かに麾兵をして甲を被り廡下の幕中に伏せしむ。明日、賓僚兵官を盡く召し、酒を置きて縱に閱し、一人も預め知る者無し。儺を命じて入らしめ、先づ中門外に馳騁せしめ、後階に召し至らしむ。敏中振袂一揮し、伏兵出で、盡く之を擒へ、果たして各〻短刃を懷けり。即席にて斬る。既に其の屍を屏ひ、灰沙を以て庭を掃ひ、樂を張り宴飲す。坐客皆股慄し、邊藩遂に安んず。時に舊相鎮に出づるも、軍事を意とせず。寇準重名有りと雖も、至る所終日遊宴し、則ち愛する伶人を或は富室に付すれば、輒ち厚く得る所有り。張齊賢倜儻として情に任せ、劫盜を獲るも或は縱遣に至る。帝之を聞き、敏中を稱して曰く「大臣四方に臨むに、惟だ敏中のみ民事に盡心す」と。是に於て復用の意有り。二年、又德明の誓約未だ定まらざるを以て、敏中を鄜延路都部署兼延州知州に徙し、經略を委ね、河南府知事兼西京留守に改む。

大中祥符初め、泰山を封ずるを議し、敏中舊德にして人望有るを以て、召し入れて權東京留守とす。禮成りて、尚書右丞を拜す。

時に吏部の選人多く稽滯する者有り、敏中と溫仲舒に其の事を領せしむ。俄に秘書監を兼ね、又工部尚書を領し、資政殿大學士を充て、御詩を賜ひ褒寵す。汾陰を祀り、復た留守となる。敏中厚重鎮靜を以て、人情帖然たり。帝詩を作り使を遣はし馳せて之を賜ふ。刑部尚書を拜す。五年、復た同平章事を拜し、集賢殿大學士を充て、中書侍郎を加ふ。尋で景靈宮使を充て、宮成りて兵部尚書に進み、兗州景靈宮慶成使となる。

天禧初め、吏部尚書を加へ、又應天院奉安太祖聖容禮儀使となる。右僕射兼門下侍郎に進み、國史を監修す。是の日、翰林學士李宗諤對すべく當るに、帝曰く「朕即位より以來、未だ嘗て僕射を除かず、今敏中を命ず、此れ殊命なり、敏中應に甚だ喜ぶべし」と。又曰く「敏中今日賀客必ず多からん、卿往きて之を觀よ、朕が意を言ふこと勿れ」と。宗諤既に至るも、敏中客を謝し、門闌寂然たり。宗諤其の親と徑に入り、徐に賀して曰く「今日麻の降るを聞く、士大夫歡慰相慶せざる莫し」と。敏中但だ唯唯す。又曰く「上即位より以來、未だ嘗て端揆を除かず、勳德隆重ならずして、眷倚殊越せば、何を以て此に至らん」と。敏中復た唯唯す。又歷に前世僕射たる者の勳德禮命の重きを陳ぶるも、敏中亦唯唯す、卒に一言も無し。既に退きて、人をして庖中に問はしむるに、今日親賓の飲宴有るや否やと、亦一人も無し。明日、具さに所見を以て對ふ。帝曰く「向敏中大に官職に耐ふ」と。玉清昭應宮使に徙す。年老ひたるを以て、累りて致政を請ふも、優詔して許さず。三年重陽、苑中に宴し、暮れ歸りて中風眩し、郊祀に陪從に任ぜず。左僕射・昭文館大學士に進み、表を奉り懇りて讓り、又表を上りて解くを請ふも、皆許さず。明年三月卒す、年七十二。帝親臨し、之を哭すること慟し、朝を廢すること三日、太尉・中書令を贈り、諡して文簡と曰ふ。五子・諸婿並びに官を遷し、親校又數人を官す。

敏中は姿形が魁偉で、威儀と規矩を備え、性質は端正で温厚、聡明であり、民政に通暁し、繁雑な政務を巧みに処理し、人材の抜擢には慎重であった。大任に居ること三十年、当時は重徳の人と目され、君主の優遇を受けたため、たとえ老衰病弱であっても、ついに辞任することができなかった。追贈の制命が入ると、帝は特に批を下して「敏中は淳朴で謹厳、温和で善良である。この意をさらに加えるべし」と言われた。その恩顧はこのようなものであった。文集十五巻がある。

子に傳正(国子博士)、傳式(龍圖閣直學士)、傳亮(駕部員外郎)、傳師(殿中丞)、傳範(南陽郡王惟吉の娘安福縣主を娶り、密州觀察使となり、諡は惠節)がいる。

傳亮の子の經は、定國軍留後となり、諡は康懿である。經の娘はすなわち欽聖憲肅皇后であり、后族として敏中に燕王、傳亮に周王、經に吳王を追贈した。敏中のその他の孫の繹・絳は、ともに太子中書に任官した。

論ずるに、宋は真宗の世に至り、盛治と称され、また人材を得ることも多かった。李沆が宰相となって、正大光明であり、封妃の詔書を焼いて君主の私心を正し、霊州の民を遷すことを請うて西夏の謀略を奪ったことは、宰相の任に愧じない。沆はかつて王旦に、辺境の患いが既に収まれば、君主の奢侈の心が必ず生じ、声楽女色・土木工事・神仙祠禱の事が起こるだろうと言い、後に王欽若・丁謂の徒が果たしてその佞を売った。また真宗に、新進の事を好む者を用いるべからずと告げ、朝廷内外から陳述される利害の事はすべて却下したが、後に神宗が王安石の変革の言を信用し、ついに混乱に至った。世に沆を「聖相」と称するが、その言葉は過ぎているとしても、誠に先見の明があったと言えようか。王旦は国政を執ること最も久しく、事が至っても固執せず、誹謗があっても気にせず、賢者を推薦しても恩を売らず、罪を救う時はすぐに赦して言葉を費やさなかった。澶淵の役には、真宗に「十日で勝たなければ、どうなさいますか」と請うと、真宗は「太子を立てる」と答えられた。契丹が年限を過ぎて幣を借り、西夏が民の飢えを告げて糧を借りる時も、皆一言で決めた。偉なるかな宰相の才である。ただ王欽若の説を受け入れて、天書の妄を成就させたことは、李沆に及ばない点である。向敏中は贓物の賜り物を受けることを恥じてその汚れを遠ざけ、市舶の嫌疑を予め避けてその廉潔を全うし、皇甫侃の書簡を堅く拒んでその累を免れ、任免の際には喜びも怒りも顔に表さず、これもまた宰相の風格があると言えよう。