宋史

列傳第四十  呂端 畢士安曾孫:仲衍 仲游 寇準

列傳第四十  呂端 畢士安曾孫:仲衍 仲游 寇準

呂端

原文呂端

呂端、字は易直、幽州安次の人である。父の琦は、晉の兵部侍郎であった。端は幼少より聡明で悟りが良く学問を好み、蔭補により千牛備身となった。国子主簿・太僕寺丞・秘書郎・直弘文館を歴任し、著作佐郎・直史館に換官した。太祖が即位すると、太常丞に遷り浚儀県知事となり、判定州を兼ねた。開宝年間、西上閤門使郝崇信が契丹に使いするに当たり、端は太常少卿を仮としてその副使となった。八年、洪州知事に任じられたが、赴任前に改めて司門員外郎・成都府知事となり、金紫を賜った。政務は清廉簡素で、遠方の民もこれを便利とした。

原文呂端,字易直,幽州安次人。父琦,晉兵部侍郎。端少敏悟好學,以蔭補千牛備身。歷國子主簿、太僕寺丞、秘書郎、直弘文館,換著作佐郎、直史館。太祖即位,遷太常丞、知浚儀縣,同判定州。開寶中,西上閤門使郝崇信使契丹,以端假太常少卿為副。八年,知洪州,未上,改司門員外郎、知成都府,賜金紫。為政清簡,遠人便之。

折しも秦王廷美が京尹となった際、召されて考功員外郎に任じられ、開封府判官を充てられた。太宗が河東に征伐した時、廷美に留守の任が下されようとしたが、端は廷美に言上した。「主上は風雨を櫛沐して、討伐の義を貫かれる。王は親賢の地にあり、率先して扈従すべきである。今、留守の任に留まるのは、適切ではありません」。廷美はこれにより懇願して従軍した。まもなく、王府の親しい役人が詔に背いて竹木を買い付けるよう執事者に依頼した事件に連座し、商州司戸参軍に貶謫された。汝州に移され、再び太常丞・判寺事となった。蔡州知事として出向し、善政により官吏と民衆が列をなして留任を願い出た。祠部員外郎・開封県知事に改められ、考功員外郎兼侍御史知雑事に遷った。高麗に使いした際、暴風で帆柱が折れ、船人は恐怖したが、端は書を読んでまるで書斎にいる時と変わらなかった。戸部郎中・判太常寺兼礼院に遷り、選ばれて大理少卿となり、まもなく右諫議大夫に任じられた。

原文會秦王廷美尹京,召拜考功員外郎,充開封府判官。太宗征河東,廷美將有居留之命,端白廷美曰:「主上櫛風沐雨,以申吊伐,王地處親賢,當表率扈從。今主留務,非所宜也。」廷美由是懇請從行。尋坐王府親吏請托執事者違詔市竹木,貶商州司戶參軍。移汝州,復為太常丞、判寺事。出知蔡州,以善政,吏民列奏借留。改祠部員外郎、知開封縣,遷考功員外郎兼侍御史知雜事。使高麗,暴風折檣,舟人怖恐,端讀書若在齋閣時。遷戶部郎中、判太常寺兼禮院,選為大理少卿,俄拜右諫議大夫。

許王元僖が開封尹となると、また判官となった。王が薨去した後、その密事を暴く者がおり、補佐に功績がなかった罪で、御史武元穎と内侍王継恩が府に出向いて審問することとなった。端はちょうど政務を裁断していたが、ゆっくりと立ち上がって二人の使者を待った。二人の使者は言った。「詔があり、君を推問する」。端は神色自若として、従者を顧みて言った。「帽子を取って来い」。二人の使者が「どうして急にそこまでするのか」と言うと、端は言った。「天子に制問を受ければ、即ち罪人である。どうして堂上で制使に対することができようか」。即座に堂を下り、問いに従って答えた。衛尉少卿に左遷された。折しも考課院が設置され、譴責を受けて閑職に置かれていた群官が引見され、皆が涙を流して飢えと寒さを訴えた。端の番になると、即座に奏上した。「臣は以前秦邸を補佐し、府吏を監督せず、商州の属官に貶謫されましたが、陛下は再び官籍に辱めを受けながらも用いてくださいました。今、許王が急逝し、臣は補佐に功績がなく、陛下はまた重く譴責せず、少列の次官とされました。臣の罪は大きく、幸いは深いのです。今、有司が善悪を進退させるにあたり、もし潁州副使を得られれば、臣の願いです」。太宗は言った。「朕は卿を知っている」。間もなく、元の官に復し、枢密直学士となり、一ヶ月余りで参知政事に任じられた。

原文許王元僖尹開封,又為判官。王薨,有發其陰事者,坐裨贊無狀,遣御史武元穎、內侍王繼恩就鞫於府。端方決事,徐起候之,二使曰:「有詔推君。」端神色自若,顧從者曰:「取帽來。」二使曰:「何遽至此?」端曰:「天子有制問,即罪人矣,安可在堂上對制使?」即下堂,隨問而答。左遷衛尉少卿。會置考課院,群官有負譴置散秩者,引對,皆泣涕,以饑寒為請。至端,即奏曰:「臣前佐秦邸,以不檢府吏,謫掾商州,陛下復擢官籍辱用。今許王暴薨,臣輔佐無狀,陛下又不重譴,俾亞少列,臣罪大而幸深矣!今有司進退善否,苟得潁州副使,臣之願也。」太宗曰:「朕自知卿。」無何,復舊官,為樞密直學士,逾月,拜參知政事。

当時趙普が中書におり、かつて言った。「私は呂公の奏事ぶりを見るに、褒賞を得ても喜ばず、抑圧挫折にあっても恐れず、また言葉にも表さない。真に宰相の器である」。一年余り後、左諫議大夫寇準も参知政事に任じられた。端は準の下に立つことを請うたが、太宗は即座に端を左諫議大夫とし、準の上に立たせた。たびたび単独で便殿に召され、語り合うこと必ず日時を移した。戸部侍郎・平章事に抜擢任官された。

原文時趙普在中書,嘗曰:「吾觀呂公奏事,得嘉賞未嘗喜,遇抑挫未嘗懼,亦不形於言,真台輔之器也。」歲餘,左諫議大夫寇準亦拜參知政事。端請居準下,太宗即以端為左諫議大夫,立準上。每獨召便殿,語必移晷。擢拜戶部侍郎、平章事。

当時呂蒙正が宰相であったが、太宗は端を宰相にしようと考えた。ある者が言った。「端は人となりが糊塗(いい加減)です」。太宗は言った。「端は小事には糊塗だが、大事には糊塗しない」。決意して彼を宰相にしようとした。折しも後苑で私的な宴が開かれ、太宗が『釣魚詩』を作り、中に「欲餌金鉤深未達、磻溪須問釣魚人」とあった。その意は端に属するものであった。数日後、蒙正を罷免して端を宰相とした。初め、端の兄餘慶は、建隆年間に藩府の旧僚として大政に参画し、端が再び相位に就いたので、当時の論評はこれを栄誉とした。端は歴任して僅か四十年、この時急に褒賞抜擢され、太宗はなお任用が遅かったことを悔やんだ。端が宰相として持重し、大體を識り、清簡を務めとした。寇準と同列となることを慮り、自分が先に相位に居るので、準が不平を抱くことを恐れ、参知政事と宰相が日を分けて押班し印を知ることを請うた。共に政事堂に登ることで、太宗はこれに従った。当時、同列の奏対には異議が多い中、ただ端はほとんど建議しなかった。ある日、内より手札を下し戒諭した。「今後、中書の事は必ず呂端が詳しく斟酌してから、初めて奏聞することができる」。端はますます謙譲して自ら引き受けないようになった。

原文時呂蒙正為相,太宗欲相端,或曰:「端為人糊塗。」太宗曰:「端小事糊塗,大事不糊塗。」決意相之。會曲宴後苑,太宗作《釣魚詩》,有云:「欲餌金鉤深未達,磻溪須問釣魚人。」意以屬端。後數日,罷蒙正而相端焉。初,端兄餘慶,建隆中以藩府舊僚參預大政,端復居相位,時論榮之。端歷官僅四十年,至是驟被獎擢,太宗猶恨任用之晚。端為相持重,識大體,以清簡為務。慮與寇準同列,先居相位,恐準不平,乃請參知政事與宰相分日押班知印,同升政事堂,太宗從之。時同列奏對多有異議,惟端罕所建明。一日,內出手札戒諭:「自今中書事必經呂端詳酌,乃得聞奏。」端愈謙讓不自當。

初め、李継遷が西辺を擾乱し、保安軍がその母を捕らえたと奏上した。この時、太宗は彼女を誅殺しようと考え、寇準が枢密副使に在ったので、単独で召して謀った。準が退出し、宰相の幕舎の前を通りかかると、端は大事を謀っていると疑い、招き寄せて準に言った。「上は君に端に言うなと戒めたか」。準は言った。「いいえ」。端は言った。「辺境の常事なら、端は必ずしも知る必要はない。もし軍国の大計なら、端は宰相の位を備えているので、知らないわけにはいかない」。準はそこでその経緯を告げた。端は言った。「どう処置するのか」。準は言った。「保安軍の北門外で斬り、凶逆を戒めようとする」。端は言った。「もし必ずそうするなら、計略を得たものではない。少しこれを緩めることを願う。端が覆奏しよう」。入朝して言った。「昔、項羽こううが太公たいこうを得て、煮殺そうとした時、高祖こうそは言った。『我に一杯の羹を分け与えよ』と。大事を挙げる者はその親を顧みない。ましてや継遷のような悖逆の者においておや。陛下が今日これを殺せば、明日に継遷を擒にすることができましょうか。もしそうでなければ、徒らに怨仇を結び、ますますその叛心を堅くするだけです」。太宗は言った。「ではどうすればよいか」。端は言った。「臣の愚見では、延州に置き、よく養生させて監視し、もって継遷を招来すべきです。すぐに降伏できなくとも、終にはその心を繋ぎ止めることができ、母の生死の命は我に在ることになります」。太宗は腿を叩いて善しと称え言った。「卿がいなければ、ほとんど我が事を誤るところであった」。即座にその策を用いた。その母は後に延州で病死し、継遷もまもなく死んだ。継遷の子はついに帰順して命を請うたが、これは端の力によるものであった。門下侍郎兼兵部尚書に進んだ。

原文初,李繼遷擾西鄙,保安軍奏獲其母。至是,太宗欲誅之,以寇準居樞密副使,獨召與謀。準退,過相幕,端疑謀大事,邀謂準曰:「上戒君勿言於端乎?」準曰:「否。」端曰:「邊鄙常事,端不必與知,若軍國大計,端備位宰相,不可不知也。」準遂告其故,端曰:「何以處之?」準曰:「欲斬於保安軍北門外,以戒凶逆。」端曰:「必若此,非計之得也,願少緩之,端將覆奏。」入曰:「昔項羽得太公,欲烹之,高祖曰:『願分我一杯羹。』夫舉大事不顧其親,況繼遷悖逆之人乎?陛下今日殺之,明日繼遷可擒乎?若其不然,徒結怨仇,愈堅其叛心爾。」太宗曰:「然則何如?」端曰:「以臣之愚,宜置於延州,使善養視之,以招來繼遷。雖不能即降,終可以繫其心,而母死生之命在我矣。」太宗撫髀稱善曰:「微卿,幾誤我事。」即用其策。其母後病死延州,繼遷尋亦死,繼遷子竟納款請命,端之力也。進門下侍郎兼兵部尚書。

太宗が病に伏せると、真宗が皇太子となり、端は日々太子と共に起居を問うた。病が重篤に及んだ時、内侍王継恩は太子の英明を忌み、密かに参知政事李昌齢・殿前都指揮使李継勳・知制誥胡旦と謀り、故楚王元佐を立てようとした。太宗が崩御すると、李皇后は継恩に命じて端を召した。端は変事があると知り、継恩を閣内に鎖し、人をして守らせて中に入った。皇后は言った。「宮車は既に晏駕した。嗣を立てるには長子を以てするのが順である。今、どうするつもりか」。端は言った。「先帝が太子を立てられたのは正に今日のためである。今、初めて天下を棄てられたのに、どうして急に命に背き異議があろうか」。そこで太子を奉じて福寧殿の庭中に至った。真宗が即位すると、簾を垂れて群臣を引見した。端は平然と殿下に立ち拝礼せず、簾を巻くことを請うた。昇殿して仔細に視察し、その後階を降り、群臣を率いて万歳を拝呼した。継勳は使相として陳州に赴かせた。昌齢を忠武軍司馬に貶し、継恩は右監門衛将軍・均州安置とし、旦は除名して潯州に流し、その家財を没収した。

原文太宗不豫,真宗為皇太子,端日與太子問起居。及疾大漸,內侍王繼恩忌太子英明,陰與參知政事李昌齡、殿前都指揮使李繼勳、知制誥胡旦謀立故楚王元佐。太宗崩,李皇后命繼恩召端,端知有變,鎖繼恩於閣內,使人守之而入。皇后曰:「宮車已晏駕,立嗣以長,順也,今將如何?」端曰:「先帝立太子正為今日,今始棄天下,豈可遽違命有異議邪?」乃奉太子至福寧庭中。真宗既立,垂簾引見群臣,端平立殿下不拜,請卷簾,升殿審視,然後降階,率群臣拜呼萬歲。以繼勳為使相,赴陳州。貶昌齡忠武軍司馬,繼恩右監門衛將軍、均州安置,旦除名流潯州,籍其家貲。

真宗は輔臣が入対するたびに、呂端に対してのみ端厳に拱手揖礼し、名を呼ばなかった。また呂端の体躯が大きいため、宮廷の階段がやや峻険であることを慮り、特に梓人に命じて納陛を造らせた。便殿に召して対し、軍国大事の経久之制を訪ねると、呂端は当世の急務を陳べ、いずれも条理があり、真宗は嘉納した。右僕射を加え、国史監修を命じた。翌年の夏、病に罹り、詔して常参を免じ、中書に就いて視事させた。上疏して職務の解除を請うたが、許されなかった。十月、太子太保を以て罷免された。在告三百日に及び、有司が俸給を罷めるべきと上言したが、詔して従前の如く賜うことを命じた。車駕が臨問し、呂端は起き上がれなかったが、撫慰は極めて厚かった。卒す、年六十六、司空しくうを贈られ、諡して正恵とし、妻李氏を涇国夫人に追封し、その子の呂藩を太子中舎、呂荀を大理評事、呂蔚を千牛備身、呂藹を殿中省進馬とした。

原文真宗每見輔臣入對,惟於端肅然拱揖,不以名呼。又以端軀體洪大,宮庭階戺稍峻,特令梓人為納陛。嘗召對便殿,訪軍國大事經久之制,端陳當世急務,皆有條理,真宗嘉納。加右僕射,監修國史。明年夏,被疾,詔免常參,就中書視事。上疏求解,不許。十月,以太子太保罷。在告三百日,有司言當罷奉,詔賜如故。車駕臨問,端不能興,撫慰甚至。卒,年六十六,贈司空,諡正惠,追封妻李氏涇國夫人,以其子藩為太子中舍,荀大理評事,蔚千牛備身,藹殿中省進馬。

呂端は姿儀が瑰秀で、器量があり、寛厚で恕多く、談謔を善くし、意豁如たり。たとえ屡々擯退されても、得失を介懷したことはなかった。人と交わることを善くし、財を軽んじて施しを好み、家事を問うたことはなかった。李惟清が枢密使から御史中丞に転じた際、呂端が己を抑えたと思い、呂端が朝謁を免ぜられると、常参官で病気告げが一年を超えて俸を受けている者を弾劾し、また人を唆して堂吏の過失を訟えさせ、呂端を中傷しようとした。呂端は「吾は直道を行い、愧畏すべきところなく、風波の言は慮るに足らぬ」と言った。

原文端姿儀瑰秀,有器量,寬厚多恕,善談謔,意豁如也。雖屢經擯退,未嘗以得喪介懷。善與人交,輕財好施,未嘗問家事。李惟清自知樞密改御史中丞,意端抑己,及端免朝謁,乃彈奏常參官疾告逾年受奉者,又構人訟堂吏過失,欲以中端。端曰:「吾直道而行,無所愧畏,風波之言不足慮也。」

呂端の祖父の呂兗は、滄州節度使劉守文に仕えて判官を務めた。劉守文の乱の際、呂兗は一族挙げて害された。時に父の呂琦は幼く、同郡の趙玉が鋒刃を冒して監視者を欺き、「これは私の弟で、呂氏の子ではない」と言ったため、免れることができた。趙玉の子の趙文度が耀州の帥となったが、趙文度の孫の趙紹宗が十余歳の時、呂端は己が子の如く視て、上表して推薦し、出身を賜わらせた。故相の馮道は郷里の世旧であり、馮道の子の馮正之が病で廃していたため、呂端は俸を分けて与えた。呂端は二度絶域に使いし、その国で歎重され、後に使者が往く者があるたびに、毎度呂端が宰相かと問うたという、その名声はかくの如く顕著であった。

原文端祖兗,嘗事滄州節度劉守文為判官。守文之亂,兗舉族被害。時父琦方幼,同郡趙玉冒鋒刃紿監者曰:「此予之弟,非呂氏子也。」遂得免。玉子文度為耀帥,文度孫紹宗十餘歲,端視如己子,表薦賜出身。故相馮道,鄉里世舊,道子正之病廢,端分奉給之。端兩使絕域,其國歎重之,後有使往者,每問端為宰相否,其名顯如此。

景德二年、真宗は呂端の後嗣が振るわないと聞き、また呂蔚を奉礼郎に録用した。呂藩は後に足を病み、朝謁に堪えられず、累年告暇を請うた。有司がその俸給を罷めるよう奏上したが、真宗は特に旧官に復し、西京に分司させ、俸給を与えて家に居り養病させた。呂端は資産を蓄えず、呂藩兄弟は貧窮し、また婚嫁に迫られていたため、その居第を質入れした。真宗の時、内府の銭五百万を出してこれを贖い戻した。また別に金帛を賜い、以て旧債を償わせ、使者を遣わして家事を検校させた。呂藩、呂荀はともに国子博士に至り、呂蔚は太子中舎に至った。

原文景德二年,真宗聞端後嗣不振,又錄蔚為奉禮郎。藩後病足,不任朝謁,請告累年,有司奏罷其奉,真宗特令復舊官,分司西京,給奉家居養病。端不蓄貲產,藩兄弟貧匱,又迫婚嫁,因質其居第。真宗時,出內府錢五百萬贖還之。又別賜金帛,俾償宿負,遣使檢校家事。藩、荀皆至國子博士,蔚至太子中舍。

畢士安

原文畢士安

畢士安、字は仁叟、代州雲中の人。曾祖の畢宗昱は本県の令。祖の畢球は本州の別駕。父の畢乂林は累次使府に辟召され、終に観城令となり、ここに家を定めた。士安は少くして学を好み、継母の祝氏に事えて孝で知られた。祝氏は「学ぶには必ず良師友を求めよ」と言い、乃ち共に宋に赴き、また鄭に赴き、楊璞・韓丕・劉錫を友と得たため、鄭の人となった。

原文畢士安,字仁叟,代州雲中人。曾祖宗昱,本縣令。祖球,本州別駕。父乂林,累辟使府,終觀城令,因家焉。士安少好學,事繼母祝氏以孝聞。祝氏曰:「學必求良師友。」乃與如宋,又如鄭,得楊璞、韓丕、劉錫為友,因為鄭人。

乾徳四年、進士に挙げられた。邠州の帥楊廷璋が幕府に辟し、書奏を掌らせた。開宝四年、済州団練推官を歴任し、専ら筦榷を掌り、歳課が増羨した。兗州観察推官に改めた。太平興国初年、大理寺丞となり、三門発運事を領した。呉越の銭俶が土地を納めた際、台州知州に選ばれ、「銭氏が図籍を上進したが、有司は皆賦数を誇張している。今、湖海の新民が始めて天子の命吏を得たのであれば、安輯すべきであり、願わくは一様に旧籍を用いよ」と上言した。詔してこれに従った。翌年、左賛善大夫に遷り、饒州に転じ、殿中丞に改めた。召還されて監察御史となった。再び出て乾州知州となり、母が老いているため任を降格して養いたいと願い、汝州稻田務の監に改めた。

原文乾德四年,舉進士。邠帥楊廷璋辟幕府,掌書奏。開寶四年,歷濟州團練推官,專掌筦榷,歲課增羡。改兗州觀察推官。太平興國初,為大理寺丞,領三門發運事。吳越錢俶納土,選知台州,言:「錢氏上圖籍,有司皆張侈賦數,今湖海新民始得天子命吏,宜有安輯,願一用舊籍。」詔從之。明年,遷左贊善大夫,徙饒州,改殿中丞。召還,為監察御史。復出知乾州,以母老願降任就養,改監汝州稻田務。

雍熙二年、諸王が出閤するに当たり、僚属を慎選した。虞部郎中王亀従を兼ねて陳王府記室参軍とし、水部員外郎王素を兼ねて韓王府記室参軍とし、秘書丞張茂直を兼ねて益王府記室参軍とし、士安は左拾遺に遷り兼ねて冀王府記室参軍とした。太宗は召して言った、「諸子は宮庭に生長し、外事に慣れず、年漸く成人するに及び、必ず良士の資りて贊導せしめ、日に忠孝の道を聞かしむべきである。卿等は勉めよ」と。襲衣・銀帯・鞍勒馬を賜った。

原文雍熙二年,諸王出閤,慎擇僚屬。以虞部郎中王龜從兼陳王府記室參軍,水部員外郎王素兼韓王府記室參軍,秘書丞張茂直兼益王府記室參軍,士安遷左拾遺兼冀王府記室參軍。太宗召謂曰:「諸子生長宮庭,未閒外事,年漸成人,必資良士贊導,使日聞忠孝之道,卿等勉之。」賜襲衣、銀帶、鞍勒馬。

士安は本名を士元といったが、「元」が王の諱に犯すため、遂に改めた。考功員外郎に遷った。端拱年中、詔して王府の僚属が各々著した文を献上させた。太宗は累日閲視し、近臣に問うて「その才は既に見えた。その行い孰れか優れるか」と。或る者が士安を以て対えた。上は「正に朕が意に協う」と言った。俄かに本官のまま知制誥となった。王が対して府邸に留めんことを願ったが、許されなかった。淳化二年、翰林学士として召し入れられた。大臣が張洎を推薦したが、太宗は「張洎が畢士安を見るに、詞芸と履歴は確かに減ずる所ないが、履行は遠く下にある」と言った。士安は父の名が乂林であることを以て抗章して引避したが、朝議は二名は偏諱せずとし、聴かなかった。

原文士安本名士元,以「元」犯王諱,遂改焉。遷考功員外郎。端拱中,詔王府僚屬各獻所著文,太宗閱視累日,問近臣曰:「其才已見矣,其行孰優?」或以士安對。上曰:「正協朕意。」俄以本官知制誥,王請對願留府邸,不許。淳化二年,召入翰林為學士。大臣以張洎薦,太宗曰:「洎視畢士安詞藝踐歷固不減,但履行遠在下爾。」士安以父名乂林抗章引避,朝議謂二名不偏諱,不聽。

三年、蘇易簡と同知貢挙となり、主客郎中を加えられた。病気を理由に外任を請い、右諫議大夫・潁州知州に改めた。真宗が寿王として開封府尹となった時、判官に召された。皇太子となると、兼右庶子として給事中に遷った。即位すると、権知開封府事を命じ、工部侍郎・枢密直学士を拝した。時に近臣に勢いに恃んで民間の定婚の女を強取する者がおり、その家が府に訴えた。士安は対奏の機に因んでこれを奏上し、女を返還させた。宮府の常従で廷職に就く者で、外任を受ける時は、必ず士安に戒勖させた。

原文三年,與蘇易簡同知貢舉,加主客郎中。以疾請外,改右諫議大夫、知潁州。真宗以壽王尹開封府,召為判官。及為皇太子,以兼右庶子遷給事中。登位,命權知開封府事,拜工部侍郎、樞密直學士。時近臣有怙勢強取民間定婚女,其家訴於府,士安因對奏,還之。宮府常從為廷職者,每授任於外,必令士安戒勖。

咸平初年、府職を辞し、礼部侍郎を拝し、再び翰林学士となった。詔して官を選び『三国志』・『晋書』・『唐書』を校勘させた。或る者が両晋の事は鄙悪多く流行すべからずと言った。真宗が宰相に語ると、士安は「悪は以て世を戒め、善は以て後を勧む。善悪の事は『春秋』に備載されている」と言った。真宗は然りとし、遂に刊刻を命じた。士安は目疾を理由に職務解除を請い、兵部侍郎に改め、潞州知州として出向し、特に月給の数を加えられた。入朝して翰林侍読学士となった。景德初年、秘書監を兼ねた。契丹が境を侵す謀りをすると、士安は真っ先に五事を上疏して詔に応え、将を選び、兵に餉し、財を理むるの策を陳べ、真宗は嘉納した。

原文咸平初,辭府職,拜禮部侍郎,復為翰林學士。詔選官校勘《三國志》、《晉》、《唐書》。或有言兩晉事多鄙惡不可流行者。真宗以語宰相,士安曰:「惡以戒世,善以勸後。善惡之事,《春秋》備載。」真宗然之,遂命刊刻。士安以目疾求解,改兵部侍郎,出知潞州,特加月給之數。入為翰林侍讀學士。景德初,兼秘書監。契丹謀入境,士安首疏五事應詔,陳選將、餉兵、理財之策,真宗嘉納。

李沆が卒すると、畢士安を吏部侍郎・参知政事に進めた。入謝すると、真宗は「未だならず、行くところ卿を相とせん」と言った。士安は頓首した。真宗は「朕は卿を輔相として倚る。豈に今日のみならんや。然れども時方に多事、卿と同進する者を求むるに、其れ誰か可ならん」と問うた。対えて「宰相たる者は、必ず其の器有りて、乃ち其の位に居るべし。臣は駑朽、実に勝任に足らず。寇準は忠義を兼ね備え、大事を断ずるに善く、此れ宰相の才なり」と言った。真宗は「聞くに其れ剛を好み気を使うと」と言うと、又対えて「寇準は方正慷慨にして大節有り、身を忘れて国に徇い、道を秉りて邪を疾む。此れ其の素より蓄積する所、朝臣に其の右に出づる者は稀なり。但だ流俗に喜ばれざるのみ。今天下の民は休徳に蒙り、涵養安佚すと雖も、西北跳梁して辺境の患いとなる。寇準の如き者は正に用うる所に宜しき者なり」と言った。真宗は「然り。当に卿の宿徳を藉りて之を鎮めん」と言った。一月を閲せず、本官のまま寇準と共に平章事を拝した。士安は国史監修を兼ね、寇準の上に居った。

原文李沆卒,進士安吏部侍郎、參知政事。入謝,真宗曰:「未也,行且相卿。」士安頓首。真宗曰:「朕倚卿以輔相,豈特今日。然時方多事,求與卿同進者,其誰可?」對曰:「宰相者,必有其器,乃可居其位,臣駑朽,實不足以勝任。寇準兼資忠義,善斷大事,此宰相才也。」真宗曰:「聞其好剛使氣。」又對曰:「準方正慷慨有大節,忘身徇國,秉道疾邪,此其素所蓄積,朝臣罕出其右者,第不為流俗所喜。今天下之民雖蒙休德,涵養安佚,而西北跳梁為邊境患,若準者正所宜用也。」真宗曰:「然,當藉卿宿德鎮之。」未閱月,以本官與準同拜平章事。士安兼監修國史,居準上。

寇準が相となると、正を守り悪を嫉み、小人は日々彼を傾けんと謀った。布衣の申宗古が寇準が安王元傑と交通していると告発した。寇準は惶恐し、自ら明かす術を知らなかった。士安は力んで其の誣りを弁じ、申宗古を吏に下し、姦罔の事を悉く得て、之を斬り、寇準は乃ち安んじた。

原文準為相,守正嫉惡,小人日思所以傾之。有布衣申宗古告準交通安王元傑,準皇恐,莫知所自明。士安力辯其誣,下宗古吏,具得姦罔,斬之,準乃安。

景德元年九月、契丹の統軍撻覽は兵を率いて分かれて威虜・順安・北平を掠め、保州に侵攻し、定武を攻めたが、数度にわたり諸軍に撃退され、さらに東進して陽城澱に駐屯し、ついに高陽を攻めたが、目的を果たせず、転じて貝・冀・天雄を窺い、兵数は二十万と号した。真宗は便殿に座し、策の出づる所を問うた。士安と寇準は防備の方法を条陳し、また合議して真宗の澶淵行幸を請うた。士安は澶淵行幸は仲冬にあるべきと述べ、準は速やかに往くべきで、緩めるべからずと謂うた。結局士安の議を用いた。

原文景德元年九月,契丹統軍撻覽引兵分掠威虜、順安、北平,侵保州,攻定武,數為諸軍所卻,益東駐陽城澱,遂攻高陽,不得逞,轉窺貝、冀、天雄,兵號二十萬。真宗坐便殿,問策安出。士安與寇準條所以禦備狀,又合議請真宗幸澶淵。士安言澶淵之行,當在仲冬;準謂當亟往,不可緩。卒用士安議。

初め、咸平六年に、雲州観察使王継忠が戦って契丹に陥落した。この時至り、契丹のために議和を奏請した。大臣は敢えてどうすることもできなかったが、ただ士安のみが信ずるに足ると考え、真宗が羈縻を絶やさず、漸くその成立を許すべきと力説した。真宗は敵がかくも悍暴である以上、恐らく保証できまいと謂うた。士安曰く、「臣嘗て契丹の降人を得たり、其の深く侵入すれども、屡々挫かれて甚だ志を得ず、密かに引き去らんと欲するも名無きを恥じ、且つ彼ら寧ろ人の虚に乗じて其の巣穴を覆わすを畏れざらんや、此の請いは殆ど虚妄ならん。継忠の奏は、臣がこれを任せんことを請う」と。真宗喜び、手詔して継忠に、其の和を請うを許す。

原文初,咸平六年,雲州觀察使王繼忠戰陷契丹。至是,為契丹奏請議和。大臣莫敢如何,獨士安以為可信,力贊真宗當羈縻不絕,漸許其成。真宗謂敵悍如此,恐不可保。士安曰:「臣嘗得契丹降人,言其雖深入,屢挫不甚得志,陰欲引去而恥無名,且彼寧不畏人乘虛覆其巢穴,此請殆不妄。繼忠之奏,臣請任之。」真宗喜,手詔繼忠,許其請和。

時に既に巡幸の詔は下っていたが、議する者どもは尚喧喧として、二三大臣に金陵及び成都の図を進める者あり。士安は急ぎ準とともに請対し、其の不可を力陳し、ただ前計を堅定するのみ。真宗は兵を厳めて将に行かんとす、太白昼に見え、流星上臺より出でて北に斗魁を貫く。或いは兵未だ北に宜しからずと云い、或いは大臣之に応ずと云う。士安は丁度臥病し、準に書を移して曰く、「屡々疾を舁いて従行せんことを請うも、手詔許さず、今大計已に定まる、唯君之を勉めよ。士安は身を以て星変に当たりて国事に就くを得ば、心の願う所なり」と。已にして少しく間あり、追いて澶淵に至り、行在にて謁見す。時に既に兵数十万を聚め、契丹大いに震駭す、猶も衆に乗じて徳清を掠む。澶の北鄙に至り、伏弩の発射に為り、撻覽死し、衆潰えて遁去す。

原文時已詔巡幸,而議者猶哄哄,二三大臣有進金陵及成都圖者。士安亟同準請對,力陳其不可,惟堅定前計。真宗嚴兵將行,太白晝見,流星出上臺北貫斗魁。或言兵未宜北,或言大臣應之。士安適臥疾,移書準曰:「屢請舁疾從行,手詔不許,今大計已定,唯君勉之。士安得以身當星變而就國事,心所願也。」已而少間,追至澶淵,見於行在。時已聚兵數十萬,契丹大震,猶乘眾掠德清。至澶北鄙,為伏弩發射,撻覽死,眾潰遁去。

時に曹利用が契丹より使より還り、要領を得ることを具え、又其の使者姚東之と俱に来たり、講和の議遂に定まる。歳に契丹に銀絹三十万を遺す、朝論皆以て過ぎたりと為す。士安曰く、「此くの如くせざれば、契丹の顧みること重からず、和事恐らく久しからん」と。及んで兵を罷め、従いて還り、乃ち辺要に按じて良守将を選び易置す:雄州には李允則を以てし、定州馬知節、鎮州孫全照、保州楊延昭、其の他所の択用各々其の任を得たり。塞上に境外の牛馬の類を得る者は悉く之を還し、互市を通じ、鉄禁を除き、流亡を招き、儲蓄を広む。未だ幾ばくもせず、夏州の趙徳明も亦塞に款いて内附す。二方既に定まり、中外略く安んず。時を量り法を製し、次第に施行す。復た賢良方正・直言極諫等の科を置き、以て士を取ることを広む。

原文會曹利用自契丹使還,具得要領,又與其使者姚東之俱來,講和之議遂定。歲遺契丹銀絹三十萬,朝論皆以為過。士安曰:「不如此,契丹所顧不重,和事恐不能久。」及罷兵,從還,乃按邊要選良守將易置之:雄州以李允則,定州馬知節,鎮州孫全照,保州楊延昭,它所擇用各得其任。令塞上得境外牛馬類者悉還之,通互市,除鐵禁,招流亡,廣儲蓄。未幾,夏州趙德明亦款塞內附。二方既定,中外略安。量時製法,次第施行。復置賢良方正、直言極諫等科,以廣取士。

二年、章七八上り、病を以て免ぜんことを求む、優詔允さず。使を遣わして敦諭し、已むを得ず、復た起きて事を視る。十月晨朝、崇政殿廬に至り、疾暴に作る、真宗歩み出でて臨視す、已に言う能わず。詔して内侍竇神宝に肩輿を以て第に送帰せしめ、卒す、年六十八。車駕臨哭し、朝を廃すること五日、太傅・中書令を贈り、諡して文簡と曰う。皇城使衛紹欽を以て葬を治めしめ、有司に鹵簿を給す。其の子世長を録して太子中舎と為し、慶長を大理寺丞と為し、孫従古を将作監主簿と為す。

原文二年,章七八上,以病求免,優詔不允。遣使敦諭,不得已,復起視事。十月晨朝,至崇政殿廬,疾暴作,真宗步出臨視,已不能言。詔內侍竇神寶以肩輿送歸第,卒,年六十八。車駕臨哭,廢朝五日,贈太傅、中書令,諡文簡。以皇城使衛紹欽治葬,有司給鹵簿。錄其子世長為太子中舍,慶長為大理寺丞,孫從古為將作監主簿。

士安は端方沈雅、清識醞藉有り、風采美くしく、談吐善くし、至る所厳正を以て称さる。年老いて目眊むも、読書輟まず、手自ら讐校し、或いは親しく繕写す。又詞翰を精意し、文集三十巻有り。嘗て人に謂いて曰く、「僕仕宦赫赫の誉無し、但だ力を自ら規檢に尽くし、庶幾く過ち寡なからんことを爾」と。凡そ交游党援無く、唯王祐・呂端見引重せられ、王旦・寇準・楊億相善し、王禹偁・陳彭年皆門人なり。禹偁は済州の人。幼時に事を以て士安の官舎に至り、士安其の常童に非ざるを識り、之を留め、学を以て教え、挙業日々顕る。後遂に科に登り進用せられ、更に士安に在る前に在り。及んで士安制誥を知るに及び、其の命は乃ち禹偁の詞なり。

原文士安端方沉雅,有清識醞藉,美風采,善談吐,所至以嚴正稱。年耆目眊,讀書不輟,手自讎校,或親繕寫。又精意詞翰,有文集三十卷。嘗謂人曰:「僕仕宦無赫赫之譽,但力自規檢,庶幾寡過爾。」凡交游無黨援,唯王祐、呂端見引重,王旦、寇準、楊億相友善,王禹偁、陳彭年皆門人也。禹偁,濟州人。幼時以事至士安官舍,士安識其非常童,留之,教以學,舉業日顯。後遂登科進用,更在士安前。及士安知制誥,其命乃禹偁詞也。

士安没後、真宗寇準等に謂いて曰く、「畢士安は善人なり、朕に事え南府・東宮に及び、輔相に至る。躬を飭み行いを慎み、古人の風有り、遽かに此く淪没す、深く悼惜すべし」と。及んで王旦相と為り、面奏して曰く、「陛下前に畢士安の清慎古人の如きを称し、位に在りて之を聞き感歎す。仕えて輔相に至るも、四方に田園居第無く、没して未だ喪終わらざるに、家用已に屈す、真に陛下の知るに負わず。然れども其の家に仮貸して生を為さしむるは、宜しく之に周する者有るべく、窃かに謂う当に上恩を出すべし、臣敢えて私恵を為すに非ざるを」と。真宗感歎し、白金五千両を賜う。

原文士安沒後,真宗謂寇準等曰:「畢士安,善人也,事朕南府、東宮,以至輔相。飭躬慎行,有古人之風,遽此淪沒,深可悼惜。」及王旦為相,面奏:「陛下前稱畢士安清慎如古人,在位聞之感歎。仕至輔相,而四方無田園居第,沒未終喪,家用已屈,真不負陛下所知。然使其家假貸為生,宜有以周之者,竊謂當出上恩,非臣敢為私惠。」真宗感歎,賜白金五千兩。

子世長は衛尉卿に至り、慶長は大府卿に至る。孫従善は光禄少卿、従古は駕部郎中、従厚・従誨は検校水部員外郎、従簡は博羅令、従道は殿中丞、従範は山南西道節度推官、従益は太常寺太祝、従周は朝散郎・知洋州。曾孫仲達・仲偃は郡守に仕え至り、仲衍・仲游・仲愈。

原文子世長至衛尉卿,慶長至大府卿。孫從善光祿少卿,從古駕部郎中,從厚、從誨檢校水部員外郎,從簡博羅令,從道殿中丞,從範山南西道節度推官,從益太常寺太祝,從周朝散郎、知洋州。曾孫仲達、仲偃仕至郡守,仲衍、仲游、仲愈。

曾孫 仲衍

原文曾孫 仲衍

仲衍は字を夷仲と為し、蔭を以て陽翟主簿と為る。張昪は県の人なり、方に許を鎮め、朝に請いて、郷校を興さんと欲す。既に材を具え工を計り、又民をして自ら其の力を以て輸助せしむ。邑子馬宏は口舌を以て閭里に横たり、諸豪に謾りに謂いて曰く、「張公学を興すも、県令乃ち因りて以て諸民より取る、十百より千万に至りて未だ已まず、君将に堪えざらん。誠に百金を我に捐ぜば、我能く役を止めん」と。豪其の能くするを信じ、百金を予う。宏即ち府に詣り宣言す:「県吏尽く私に学の費を為し、又将に民に賦せんとす」と。昪果たして疑う、県に勅して且く止めしめ、又其の事を道に掲ぐ。令上疏して弁せんと欲す、仲衍曰く、「益無し、宏を取って之を治むるに如かず、弁せずして自ら直からん」と。会に県事を摂む、即ち逮捕して験治し、五日にして其の姦を得、昪に言う、宏を鄧州に流す、一県相賀す。給事中張問里中に居り、仲衍に謂いて曰く、「諺に云う『一悪を鋤き、十善を長ず』と、君之を謂うなり」と。

原文仲衍,字夷仲,以蔭為陽翟主簿。張昪,縣人也,方鎮許,請於朝,欲興鄉校。既具材計工,又聽民自以其力輸助。邑子馬宏以口舌橫閭里,謾謂諸豪曰:「張公興學,而縣令乃因以取諸民,由十百而至千萬未已也,君將不堪。誠捐百金予我,我能止役。」豪信其能,予百金。宏即詣府宣言:「縣吏盡私為學之費,又將賦於民。」昪果疑焉,敕縣且止,又揭其事於道。令欲上疏辯,仲衍曰:「亡益也,不如取宏治之,不辯自直矣。」會攝縣事,即逮捕驗治,五日得其姦,言於昪,流宏鄧州,一縣相賀。給事中張問居里中,謂仲衍曰:「諺云『鋤一惡,長十善』,君之謂也。」

進士に挙げられて第に中り、沈丘令に調ず。欧陽修・呂公著之を薦め、司農に入りて主簿と為り、丞に升る。呉充之を引きて中書検正と為す。契丹に奉使し、宴射にて連的に破り、衆驚異す。且つ其の姿容偉なりと為し、密かに人を使い其の衣を取って度と為し、制服を製して賜う。時に其の元会に預かり、尽く能く其の朝儀節奏を記し、図画して帰り献ず。後ち錢勰出使す、契丹主猶問う:「畢少卿は何の官ぞ?今安くにか在る?」と。

原文舉進士中第,調沈丘令。歐陽修、呂公著薦之,入司農為主簿,升丞。吳充引為中書檢正。奉使契丹,宴射連破的,眾驚異之。且偉其姿容,密使人取其衣為度,制服以賜。時預其元會,盡能記其朝儀節奏,圖畫歸獻。後錢勰出使,契丹主猶問:「畢少卿何官?今安在?」

王珪は充と相能わず、仲衍が充に用いらるるを以て、数え罪過を求めて之を傷めんと欲すも、卒に乗ずべき無く、但だ留滞して遷さず。四年を経て、乃ち秘閣校理を以て太常礼院を同知し、官制局検討官と為り、制文字千万計り、区別分類し、損益刪補し、皆曲く其の当を尽くす。凡そ中より其の事を問うは、必ず仲衍然る後に報ず、他人は知らず。『中書備対』三十巻を撰し、士大夫家争って其の書を伝う。

原文王珪與充不相能,以仲衍為充所用,數求罪過欲傷之,卒無可乘,但留滯不遷。經四年,乃以秘閣校理同知太常禮院,為官制局檢討官,制文字千萬計,區別分類,損益刪補,皆曲盡其當。凡從中問其事,必須仲衍然後報,他人不知也。撰《中書備對》三十卷,士大夫家爭傳其書。

高麗の使者が入貢し、詔して館に宿泊させた。上元の夜、使者と東闕の下で宴を開き、詩を作って聖徳を誦し、神宗が次韻して賜ったが、当時は寵遇とされた。官制が施行されると、帝は自ら起居郎に抜擢したが、王珪が任命を留め、峻しすぎると言って帝の前で争った。帝は連呼して「これは当然のことであろう」と言った。間もなく、急に病を得て、一晩で卒去した。享年四十三。帝は中使を遣わしてその家を弔問し、賻銭五十万を賜った。

原文高麗使入貢,詔館之。上元夕,與使者宴東闕下,作詩誦聖德,神宗次韻賜焉,當時以為寵。官制行,帝自擢起居郎,王珪留除命,謂為太峻,爭於前。帝連稱曰:「是當得爾。」未幾,暴得疾,一夕卒,年四十三。帝遣中使唁其家,賻錢五十萬。

曾孫に仲游あり。

原文曾孫 仲游

仲游は字を公叔といい、仲衍と同榜で登第し、寿丘柘城主簿・羅山令・環慶転運司干辦公事に任じられた。高遵裕に従って西征し、輸送の期限が逼迫した。陝西八十県の輸送役夫三十万が、一朝にして悉く集結した。転運使の范純粹・李察はその賦を請け、食糧を給与しようとしたが、必ず日を費やさねばならなかった。僚属と会議したが、皆どうすべきか分からず、仲游に委ねた。仲游は諸県の吏を集め、まず金帛緡銭の最も多いものを献上させ、鍵を開けるなと戒め、共にその名数を簿記して質とし、数千の斛量を予め整え、倉庫の壁をすっかり取り払い、余分な食糧を持つ者がその場所に至れば、各自で槩量し、半分を納め、半分を自給するようにした。朝を終えずして、霍然と解散した。翌日、大軍は遂に出発した。純粹・李察は嘆息して謝し、「君でなければ我が事は幾らか失敗するところであった」と言った。

原文仲游,字公叔,與仲衍同登第,調壽丘柘城主簿、羅山令、環慶轉運司干辦公事。從高遵裕西征,運期迫遽,陝西八十縣饋輓之夫三十萬,一旦悉集,轉運使范純粹、李察度受其賦而給之食,必曠日乃可。會僚屬議,皆不知所為,以諉仲游。仲游集諸縣吏,令先效金帛緡錢之最,戒勿啟扃鐍,共簿其名數以為質,預飭其斛量數千,洞撤倉庾牆壁,使贏糧者至其所,人自𣂏槩,輸其半而以半自給,不終朝霍然而散。翌日,大軍遂行。純粹、察歎且謝曰:「非君幾敗吾事。」

元祐初め、軍器衛尉丞となった。学士院に召されて試験を受け、同策問者は九人で、黄庭堅・張耒・晁補之らであった。蘇軾はその文章を異とし、第一に抜擢した。集賢校理・開封府推官を加えられ、出て河東路刑獄を提点した。韓縝が故相として太原にいたが、列郡と同様に按視した。縝の奴僕が、ある兵卒が公堂の傍らで自分の衣服を掠奪したと告げた。縝は怒り、兵卒を法に置こうとした。仲游は言った、「奴僕の衣服は薄く鮮やかで、敢えて帥牙においてこれを掠めるとは、人情に非ざるなり」。これを取り上げて獄に付して治めさせ、兵卒は免れることができた。太原の銅器は天下に名高いが、ただ一物も買わず、人が矯りと考えるのを恐れた。かつて行くに当たり、茶匕を二つ買って去った。縝は言った、「公叔の如きは真に清いと謂うべし」。

原文元祐初,為軍器衛尉丞。召試學士院,同策問者九人,乃黃庭堅、張耒、晁補之輩。蘇軾異其文,擢為第一。加集賢校理、開封府推官,出提點河東路刑獄。韓縝以故相在太原,按視如列郡,縝奴告有卒剽其衣於公堂之側,縝怒,將置卒於理。仲游曰:「奴衣服鮮薄而敢掠之於帥牙,非人情也。」取以付獄治,卒得免。太原銅器名天下,獨不市一物,懼人以為矯也,且行,買二茶匕而去。縝曰:「如公叔可謂真清矣。」

召されて職方・司勳の二員外郎に拝され、秘閣校理・耀州知州に改めた。この年は大旱魃であり、仲游は民が未だ飢えぬ先に、境内に掲示して諭した、「郡は振施と平糴を若干万石行う」と。実はその数を虚張したのである。富室は備え有るを知り、また相勧めて倉を開いた。凡そ食糧を求めた民は十七万九千口、一人としてその郷を去る者はなかった。

原文召拜職方、司勳二員外郎,改秘閣校理、知耀州。是歲大旱,仲游先民之未飢,揭喻境內曰:「郡振施與平糴若干萬石。」實虛張其數。富室知有備,亦相勸發廩。凡民就食者十七萬九千口,無一人去其鄉。

徽宗の時、鄭・鄆の二州知州、京東・淮南転運副使を歴任した。入朝して吏部郎中となり、孔子廟は顔回以下、皆朝廷より爵命を受け、冠冕を正しく着けて居るのに、子の鯉・孫の伋は野服幅巾で祭っているのは相応しくないと上言した。詔して皆追って侯爵とした。

原文徽宗時,歷知鄭、鄆二州,京東、淮南轉運副使。入為吏部郎中,言孔子廟自顏回以降,皆爵命於朝,冠冕居正,而子鯉、孫伋乃野服幅巾以祭,為不稱。詔皆追侯之。

仲游は早くに司馬光・呂公著に知られたが、用いられるに及ばなかった。范純仁は特に彼を知り、国政を執った時、また丁度母喪にあったので、故に寸尺の進用も得られなかった。然しながらもまた党籍に堕ち、坎𡒄として散官のまま終わり、享年七十五。

原文仲游早受知於司馬光、呂公著,不及用。范純仁尤知之,當國時,又適居母喪,故未嘗得尺寸進。然亦墮黨籍,坎𡒄散秩而終,年七十五。

仲游の文章は事理に切実で根柢があり、浮誇詭誕・戯弄不荘の語はなかった。蘇軾が館閣にいた時、頗る言語文章をもって時政を規切した。仲游はその禍に及ぶことを憂い、書を送って戒めて言った。

原文仲游為文切於事理而有根柢,不為浮誇詭誕、戲弄不莊之語。蘇軾在館閣,頗以言語文章規切時政。仲游憂其及禍,貽書戒之曰:

「孟軻は已むを得ずして後に弁じ、孔子は言わんと欲せず、古人が精謀極慮し、固く功業を成し寿命を養う所以のものは、未だかって此れより出でざるは無し。君が立朝以来より、禍福利害身に係る者は未だかって言わず、ただ直に其の言を惜しむのみ。夫れ言語の累は、口より出づる者のみを言と為すに非ず、其の詩歌に形り、賦頌に賛し、碑銘に託し、序記に著わるるも、亦た言語なり。今、口に畏るるを知りて未だ文に畏るるを知らず、是とする所を是とすれば則ち是とする者喜び、非とする所を非とすれば則ち非とせらるる者怨む。喜ぶ者は未だ君の謀を済す能わず、而して怨む者は或いは已に君の事を敗る。天下の君の文を論ずるや、孫臏の兵を用うるが如く、扁鵲の疾を医するが如く、固より指名する所の者なり。是非の言無くとも、猶ほ是非の疑い有り、況んや其れ有らんや。官は諫臣に非ず、職は御史に非ずして、人の未だ是とせざるを非とし、危き身を以て諱に触れて其の間に遊ぶは、殆ど石を抱いて溺るるを救うるが如し」。

原文「孟軻不得已而後辯,孔子欲無言,古人所以精謀極慮,固功業而養壽命者,未嘗不出乎此。君自立朝以來,禍福利害繫身者未嘗言,顧直惜其言爾。夫言語之累,不特出口者為言,其形於詩歌、贊於賦頌、託於碑銘、著於序記者,亦語言也。今知畏於口而未畏於文,是其所是則見是者喜,非其所非則蒙非者怨;喜者未能濟君之謀,而怨者或已敗君之事矣。天下論君之文,如孫臏之用兵,扁鵲之醫疾,固所指名者矣。雖無是非之言,猶有是非之疑,又況其有耶?官非諫臣,職非御史,而非是人所未是,危身觸諱以游其間,殆猶抱石而救溺也。」

司馬光が政を執り、王安石の為したことに反した時、仲游はこれに書を与えて言った。

原文司馬光為政,反王安石所為,仲游予之書曰:

「昔、安石は興作の説をもって先帝を動かし、財の足らざるを患えし故に、凡そ政の民財を得べくするものは用いざる無し。蓋し青苗を散じ、市易を置き、役銭を斂め、塩法を変ずるは、事なり。而して興作せんと欲し、足らざるを患うるは、情なり。苟も其の興作の情を杜せずして、徒らに其の散斂変置の事を禁ぜんと欲すれば、是れを以て百説して百行わず。今、遂に青苗を廃し、市易を罷め、役銭を蠲し、塩法を去り、凡そ利と号して民を傷つくるものは、一掃して之を更えんとす。則ち向來新法に用事せし者は必ず喜ばざらん。喜ばざるの人は、必ず但だ曰わん『青苗は廃すべからず、市易は罷むべからず、役銭は蠲すべからず、塩法は去るべからず』とのみに非ず、必ず足らざるの情を操り、足らざるの事を言いて、上意を動かさん。石人を致して之を聴かしむるも、猶ほ動かさんとす。是の如くんば、則ち廃する者は復た散じ、罷する者は復た置き、蠲する者は復た斂め、去る者は復た存せん。則ち足らざるの情は、預め治むべからざるか。

原文「昔安石以興作之說動先帝,而患財之不足也,故凡政之可以得民財者無不用。蓋散青苗、置市易、斂役錢、變鹽法者,事也;而欲興作、患不足者,情也。苟未能杜其興作之情,而徒欲禁其散斂變置之事,是以百說而百不行。今遂廢青苗,罷市易,蠲役錢,去鹽法,凡號為利而傷民者,一掃而更之,則向來用事於新法者必不喜矣。不喜之人,必不但曰『青苗不可廢,市易不可罷,役錢不可蠲,鹽法不可去』,必操不足之情,言不足之事,以動上意,雖致石人而使聽之,猶將動也。如是,則廢者可復散,罷者可復置,蠲者可復斂,去者可復存矣。則不足之情,可不預治哉?

今の策と為すは、当に天下の計を大いに挙げ、出入の数を深く明らかにし、諸路の積む所の銭粟を一たび地官に帰し、経費二十年の用を支うるを得しむべし。数年の間、又た将に今日より十倍せん。天子をして天下の財に余り有ることを曉然と知らしめば、則ち足らざるの論は前に陳ぶるを得ず、然る後に新法を論ずる者は、始めて永く罷めて行うべからざるなり。

原文為今之策,當大舉天下之計,深明出入之數,以諸路所積之錢粟一歸地官,使經費可支二十年之用。數年之間,又將十倍於今日。使天子曉然知天下之餘於財也,則不足之論不得陳於前,然後所論新法者,始可永罷而不可行矣。

昔、安石の位に居るや、中外其の人に非ざるは無く、故に其の法行わるるを得たり。今、前日の弊を救わんと欲して、左右侍従・職司・使者、十に七八は皆安石の徒なり。二、三の旧臣を起し、六、七の君子を用うるも、然れども累百の中に其の十数を存するのみ。何ぞ其の勢の為す可きに在らん。勢未だ為す可からずして之を為さんと欲すれば、則ち青苗廃すと雖も将に復た散ぜん、況んや未だ廃せざるをや。市易罷むと雖も将に復た置かん、況んや未だ罷めざるをや。役銭・塩法も亦た然り。此れを以て前日の弊を救わんとするは、人の久しく病みて少しく間あるが如く、其の父子兄弟顔色に見て喜びて未だ敢えて賀せざるは、其の病の猶ほ在るを以てなり」。

原文昔安石之居位也,中外莫非其人,故其法能行。今欲救前日之敝,而左右侍從、職司、使者,十有七八皆安石之徒,雖起二三舊臣,用六七君子,然累百之中存基十數,烏在其勢之可為也。勢未可為而欲為之,則青苗雖廢將復散,況未廢乎?市易雖罷且復置,況未罷乎?役錢、鹽法亦莫不然。以此救前日之敝,如人久病而少間,其父子兄弟喜見顏色而未敢賀者,以其病之猶在也。」

光・軾は書を得て聳然とし、竟に其の慮いの如くなった。

原文光、軾得書聳然,竟如其慮。

仲愈は国子監丞・諸王府侍講・鳳翔府知事を歴任し、兄仲游が党籍に陥ったことに連坐し、例によって廃黜された。徽宗は言った、「畢仲衍は先帝に遇せられた者なり、罪籍を除くべし」。仲愈を都官郎中とし、秘書少監に抜擢したが、卒去した。

原文仲愈歷國子監丞、諸王府侍講、知鳳翔府,坐兄仲游陷黨籍,例廢黜。徽宗曰:「畢仲衍被遇先帝,可除罪籍。」以仲愈為都官郎中,擢秘書少監,卒。

寇準

原文寇準

寇準、字は平仲、華州下邽の人である。父の相は、晉の開運年間に、辟召に応じて魏王府記室参軍となった。準は若くして英邁で、『春秋』三伝に通じた。十九歳の時、進士に挙げられた。太宗は人を取るに、多くは臨軒して顧問し、年少の者は往々にして罷め去らせた。或る者が準に年齢を増すよう教えたが、答えて曰く「準は今まさに進取せんとす、君を欺くべけんや」と。後に及第し、大理評事を授かり、帰州巴東県・大名府成安県の知事となった。毎期会や賦役を催すに、未だ嘗て符移を出だすことなく、唯だ郷里の姓名を具して県門に掲げるのみで、百姓は敢えて後期する者無し。累遷して殿中丞・鄆州通判となった。召されて学士院に試され、右正言・直史館を授かり、三司度支推官となり、転じて塩鉄判官となった。時に詔して百官に事を言わしむるに及び、準は利害を極めて陳べたので、帝は益々これを器重した。尚書虞部郎中・枢密院直学士に擢げられ、吏部東銓を判じた。嘗て殿中にて事を奏すに、語合わず、帝怒って起たんとす。準は即ち帝の衣を引き、帝をして復た坐らしめ、事決して乃ち退く。上は是よりこれを嘉し、曰く「朕が寇準を得るは、猶お文皇の魏徴を得るが如し」と。

原文寇準,字平仲,華州下邽人也。父相,晉開運中,應辟為魏王府記室參軍。準少英邁,通《春秋》三傳。年十九,舉進士。太宗取人,多臨軒顧問,年少者往往罷去。或教準增年,答曰:「準方進取,可欺君邪?」後中第,授大理評事,知歸州巴東、大名府成安縣。每期會賦役,未嘗輒出符移,唯具鄉里姓名揭縣門,百姓莫敢後期。累遷殿中丞、通判鄆州。召試學士院,授右正言、直史館,為三司度支推官,轉鹽鐵判官。會詔百官言事,而準極陳利害,帝益器重之。擢尚書虞部郎中、樞密院直學士,判吏部東銓。嘗奏事殿中,語不合,帝怒起,準輒引帝衣,令帝復坐,事決乃退。上由是嘉之,曰:「朕得寇準,猶文皇之得魏徵也。」

淳化二年春、大旱あり、太宗近臣を延いて時政の得失を問う。衆は天数の故と対す。準対えて曰く「『洪範』に天人の際は、影響の如く応ずと。大旱の証は、蓋し刑に平らかならざる所有るなり」と。太宗怒り、起って禁中に入る。頃之して、準を召して不平の状を問う。準曰く「願わくは二府を召し至らしめよ、臣即ちこれを言わん」と。詔有りて二府を召し入る。準乃ち言うに曰く「頃者、祖吉・王淮皆法を侮り賕を受けしに、吉は贓少なれば乃ち誅せられ、淮は参政沔の弟なるを以て、主守の財を盗むこと千万に至るも、止だ杖するのみ、仍って其の官を復す。平らかならずして何ぞや」と。太宗以て沔に問う。沔頓首して謝す。ここに於て沔を切責し、而して準を用うべきを知る。即ち準を左諫議大夫・枢密副使に拝し、同知院事に改む。

原文淳化二年春,大旱,太宗延近臣問時政得失,眾以天數對。準對曰:「《洪範》天人之際,應若影響,大旱之證,蓋刑有所不平也。」太宗怒,起入禁中。頃之,召準問所以不平狀,準曰:「願召二府至,臣即言之。」有詔召二府入,準乃言曰:「頃者祖吉、王淮皆侮法受賕,吉贓少乃伏誅;淮以參政沔之弟,盜主守財至千萬,止杖,仍復其官,非不平而何?」太宗以問沔,沔頓首謝,於是切責沔,而知準為可用矣。即拜準左諫議大夫、樞密副使,改同知院事。

準は知院張遜と数えず事を上前にて争う。他日、温仲舒と偕に行くに、道にて狂人に逢い馬を迎えて万歳を呼ぶ。判左金吾王賓は遜と雅に相善し、遜嗾して其の事を上らしむ。準は仲舒を引いて証と為す。遜は賓をして独り奏せしむ。其の辞頗る厲しく、且つ互いに其の短を斥く。帝怒り、遜を謫し、準も亦罷めて青州知州となる。

原文準與知院張遜數爭事上前。他日,與溫仲舒偕行,道逢狂人迎馬呼萬歲,判左金吾王賓與遜雅相善,遜嗾上其事。準引仲舒為證,遜令賓獨奏,其辭頗厲,且互斥其短。帝怒,謫遜,準亦罷知青州。

帝は準を顧みること厚く、既に行きて後、これを念い、常に楽しからず。左右に語りて曰く「寇準は青州に在りて楽しむか」と。対えて曰く「準は善き藩を得たり、苦しむべからず」と。数日を経て、輒ち復た問う。左右は帝の意を揣りて且つ復た準を召し用いんとす、因りて対えて曰く「陛下は準を思うこと少なからず忘れず。聞くに準は日に酒を縦すと、未だ知らず亦た陛下を念うや」と。帝黙然たり。明年、召して参知政事に拝す。

原文帝顧準厚,既行,念之,常不樂。語左右曰:「寇準在青州樂乎?」對曰:「準得善藩,當不苦也」數日,輒復問。左右揣帝意且復召用準,因對曰:「陛下思準不少忘,聞準日縱酒,未知亦念陛下乎?」帝默然。明年,召拜參知政事。

唐末より、蕃戸に渭南に居る者有り。温仲舒秦州を知り、之を渭北に駆り、堡柵を立てて以て其の往来を限る。太宗奏を覧て懌えず、曰く「古え羌戎尚お伊・洛に雑処す。彼の蕃夷は動き易く安んじ難し。一たび調発有らば、将に関中を重く困らせん」と。準言う「唐の宋璟は辺功を賞せず、卒に開元の太平を致す。疆埸の臣功を邀えて以て禍を稔らすは、深く戒むべし」と。帝因りて命じて準をして渭北に使いしめ、族帳を安撫せしめ、而して仲舒を鳳翔に徙す。

原文自唐末,蕃戶有居渭南者。溫仲舒知秦州,驅之渭北,立堡柵以限其往來。太宗覽奏不懌,曰:「古羌戎尚雜處伊、洛,彼蕃夷易動難安,一有調發,將重困吾關中矣。」準言:「唐宋璟不賞邊功,卒致開元太平。疆埸之臣邀功以稔禍,深可戒也。」帝因命準使渭北,安撫族帳,而徙仲舒鳳翔。

至道元年、給事中を加う。時に太宗在位久しく、馮拯等上疏して儲貳を立てんことを乞う。帝怒り、之を嶺南に斥く。中外敢えて言う者無し。準初め青州より召し還され、入見す。帝足創甚だしく、自ら衣を褰ぎて以て準に示し、且つ曰く「卿来ること何ぞ緩やかなる」と。準対えて曰く「臣は召されざれば京師に至ることを得ず」と。帝曰く「朕が諸子の孰れか神器に付すべき者」と。準曰く「陛下天下の為に君を択むに、婦人・中官に謀り及ぶは不可なり。近臣に謀り及ぶは不可なり。唯だ陛下の以て天下の望に副う所を択まんことを」と。帝首を俯すること久しく、左右を屏いて曰く「襄王は可か」と。準曰く「子を知るは父に若くは莫し。聖慮既に以て可と為す、願わくは即ち決定せよ」と。帝遂に襄王を以て開封尹と為し、改めて寿王に封じ、ここに於て皇太子と立つ。廟見して還るに、京師の人々道に擁して喜躍し、曰く「少年の天子なり」と。帝之を聞きて懌えず、準を召して謂いて曰く「人心遽かに太子に属す、我を何の地に置かんと欲するか」と。準再拝して賀して曰く「これ社稷の福なり」と。帝入りて後嬪に語り、宮中皆前にして賀す。復た出で、準を延いて飲ませ、極めて酔いて罷む。

原文至道元年,加給事中。時太宗在位久,馮拯等上疏乞立儲貳,帝怒,斥之嶺南,中外無敢言者。準初自青州召還,入見,帝足創甚,自褰衣以示準,且曰:「卿來何緩耶?」準對曰:「臣非召不得至京師。」帝曰:「朕諸子孰可以付神器者?」準曰:「陛下為天下擇君,謀及婦人、中官,不可也;謀及近臣,不可也;唯陛下擇所以副天下望者。」帝俯首久之,屏左右曰:「襄王可乎?」準曰:「知子莫若父,聖慮既以為可,願即決定。」帝遂以襄王為開封尹,改封壽王,於是立為皇太子。廟見還,京師之人擁道喜躍,曰:「少年天子也。」帝聞之不懌,召準謂曰:「人心遽屬太子,欲置我何地?」準再拜賀曰:「此社稷之福也。」帝入語後嬪,宮中皆前賀。復出,延準飲,極醉而罷。

二年、南郊に祠る。中外の官皆進秩す。準が素より喜ぶ所の者は多く台省の清要官を得、悪む所及び知らざる者は退いて序を進めらる。彭惟節の位は素より馮拯の下に居る。拯は転じて虞部員外郎と為り、惟節は転じて屯田員外郎と為る。章奏に銜を列するに、惟節猶お其の下に処る。準怒り、堂帖を以て拯を戒めて朝制を乱す毋からしむ。拯憤り極まり、準の擅権を陳べ、又た条上して嶺南の官吏の除拜不平なる数事を上る。広東転運使康戩も亦た言う、呂端・張洎・李昌齢は皆準の引く所なり。端は之を徳とし、洎は能く曲く準に奉じ、而して昌齢は畏愞にして敢えて準と抗せず、故に以て胸臆を任じ、経制を乱すことを得たりと。太宗怒る。準適た太廟を祀り事を摂す。召して端等を責む。端曰く「準は性剛く自ら任す。臣等は数えず争わんと欲せず、国体を傷つけんことを慮る」と。因りて再拝して罪を請う。及び準入対す。帝の馮拯の事に語及び、自ら弁す。帝曰く「若し廷に弁ぜば、執政の体を失わん」と。準猶お力爭して已まず、又た中書の簿を持して曲直を帝の前に論ず。帝益々悦ばず、因りて歎じて曰く「鼠雀尚お人の意を知る、況んや人においてをや」と。遂に準を罷めて鄧州知州と為す。

原文二年,祠南郊,中外官皆進秩。準素所喜者多得臺省清要官,所惡不及知者退序進之。彭惟節位素居馮拯下,拯轉虞部員外郎,惟節轉屯田員外郎,章奏列銜,惟節猶處其下。準怒,堂帖戒拯毋亂朝制。拯憤極,陳準擅權,又條上嶺南官吏除拜不平數事。廣東轉運使康戩亦言:呂端、張洎、李昌齡皆準所引,端德之,洎能曲奉準,而昌齡畏愞,不敢與準抗,故得以任胸臆,亂經制。太宗怒,準適祀太廟攝事,召責端等。端曰:「準性剛自任,臣等不欲數爭,慮傷國體。」因再拜請罪。及準入對,帝語及馮拯事,自辯。帝曰:「若廷辯,失執政體。」準猶力爭不已,又持中書簿論曲直於帝前,帝益不悅,因歎曰:「鼠雀尚知人意,況人乎?」遂罷準知鄧州。

真宗即位し、尚書工部侍郎に遷す。咸平初め、河陽に徙し、同州に改む。三年、京師に朝す。行きて閿郷に次ぎ、又た鳳翔府に徙す。帝大名に幸す。詔して行在所に赴かしむ。刑部に遷し、権知開封府と為す。六年、兵部に遷し、三司使と為る。時に塩鉄・度支・戸部を合して一使と為す。真宗命じて準に裁定せしむ。遂に六判官を以て分ち之を掌らしめ、繁簡始めて適中す。

原文真宗即位,遷尚書工部侍郎。咸平初,徙河陽,改同州。三年,朝京師,行次閿鄉,又徙鳳翔府。帝幸大名,詔赴行在所,遷刑部,權知開封府。六年,遷兵部,為三司使。時合鹽鐵、度支、戶部為一使,真宗命準裁定,遂以六判官分掌之,繁簡始適中。

帝久しく準を相たらんと欲すも、其の剛直にして独り任すに難きを患う。景德元年、畢士安を以て参知政事と為す。月を逾え、並びに命じて同中書門下平章事と為す。準は集賢殿大学士を以て士安の下に位す。是の時、契丹内寇し、游騎を縦って深・祁の間を掠め、小不利有れば輒ち引き去り、徜徉として闘う意無し。準曰く「是れ我を狃うなり。請う師を練り将を命じ、驍ぎょう鋭を簡び要害に拠りて以て之を備えん」と。是の冬、契丹果たして大いに侵入す。急書一夕に凡そ五至す。準発せず、飲み笑いて自如たり。明日、同列以て聞かしむ。帝大いに駭き、以て準に問う。準曰く「陛下此れを了せんと欲すれば、五日を過ぎず爾」と。因りて請う帝の澶州に幸せんことを。同列懼れ、退かんと欲す。準之を止め、候駕の起たんことを令す。帝之を難じ、還りて内に入らんと欲す。準曰く「陛下入らば則ち臣見ることを得ず、大事去らん。請う還らずして行かん」と。帝乃ち親征を議し、群臣を召して方略を問う。

原文帝久欲相準,患其剛直難獨任。景德元年,以畢士安參知政事,逾月,並命同中書門下平章事,準以集賢殿大學士位士安下。是時,契丹內寇,縱游騎掠深、祁間,小不利輒引去,徜徉無鬥意。準曰:「是狃我也。請練師命將,簡驍銳據要害以備之。」是冬,契丹果大入。急書一夕凡五至,準不發,飲笑自如。明日,同列以聞,帝大駭,以問準。準曰:「陛下欲了此,不過五日爾。」因請帝幸澶州。同列懼,欲退,準止之,令候駕起。帝難之,欲還內,準曰:「陛下入則臣不得見,大事去矣,請毋還而行。」帝乃議親征,召群臣問方略。

やがて契丹が瀛州を包囲し、貝州・魏州に直進してくると、朝廷内外は震駭した。参知政事の王欽若は江南の出身であったので、金陵への行幸を請うた。陳堯叟は蜀しょくの出身であったので、成都への行幸を請うた。帝が寇準に問うと、寇準は内心二人の謀略を知りながら、あえて知らないふりをして言った、「誰が陛下にこの策を画いた者か、その罪は誅すべきである。今、陛下は神武であり、将臣は協和している。もし大駕が親征されれば、賊は自ずから遁走するであろう。そうでなければ、奇計を出してその謀を撓ませ、堅守してその師を老いさせれば、労逸の勢いにおいて、我らが勝算を得るのである。どうして宗廟社稷を棄てて楚や蜀の遠地へ行幸しようとなさるのか。行幸の地では人心が崩壊し、賊が勢いに乗じて深く侵入すれば、天下は再び保つことができようか」。かくして帝に澶州への行幸を請うた。

原文既而契丹圍瀛州,直犯貝、魏,中外震駭。參知政事王欽若,江南人也,請幸金陵。陳堯叟,蜀人也,請幸成都。帝問準,準心知二人謀,乃陽若不知,曰:「誰為陛下畫此策者,罪可誅也。今陛下神武,將臣協和,若大駕親征,賊自當遁去。不然,出奇以撓其謀,堅守以老其師,勞佚之勢,我得勝算矣。奈何棄廟社欲幸楚、蜀遠地,所在人心崩潰,賊乘勢深入,天下可復保邪?」遂請帝幸澶州。

南城に至ると、契丹の兵勢がちょうど盛んであったので、人々は駐蹕して軍勢を窺うよう請うた。寇準は固く請うて言った、「陛下が河を渡らなければ、人心はますます危うくなり、敵の気勢は未だ挫かれず、威を取って勝を決する所以ではない。しかも王超が勁兵を率いて中山に屯してその喉元を扼し、李継隆・石保吉が大陣を分けてその左右の肘を扼している。四方の征鎮で援けに赴く者は日に日に至っている。何を疑って進まないのか」。衆議はみな恐れたが、寇準は力を争って論じたが、決しなかった。退出して屏風の間で高瓊に出会い、彼に言った、「太尉は国恩を受けておられる。今日、報いるものがあるか」。答えて言った、「瓊は武人である。死を効さんことを願う」。寇準が再び入内して対すると、高瓊は庭下に立って従った。寇準は声を厲して言った、「陛下が臣の言を然りとされないなら、どうして高瓊らにお試しになられないのですか」。高瓊は即ち仰いで奏上した、「寇準の言う通りです」。寇準は言った、「機は失うべからず。速やかに駕を進めるべきである」。高瓊は即ち衛士に麾して輦を進めさせた。帝は遂に河を渡り、北城の門楼に御した。遠近の人々が御蓋を望見すると、踊躍して歓呼し、その声は数十里に聞こえた。契丹兵は互いに顔を見合わせ驚愕し、列を成すことができなかった。

原文及至南城,契丹兵方盛,眾請駐蹕以覘軍勢。準固請曰:「陛下不過河,則人心益危,敵氣未懾,非所以取威決勝也。且王超領勁兵屯中山以扼其亢,李繼隆、石保吉分大陣以扼其左右肘,四方征鎮赴援者日至,何疑而不進?」眾議畢懼,準力爭之,不決。出遇高瓊於屏間,謂曰:「太尉受國恩,今日有以報乎?」對曰:「瓊武人,願效死。」準復入對,瓊隨立庭下,準厲聲曰:「陛下不以臣言為然,盍試問瓊等?」瓊即仰奏曰:「寇準言是。」準曰:「機不可失,宜趣駕。」瓊即麾衛士進輦,帝遂渡河,御北城門樓,遠近望見御蓋,踴躍歡呼,聲聞數十里。契丹相視驚愕,不能成列。

帝は軍事をことごとく寇準に委ねた。寇準は制を承けて専決し、号令は明粛で、士卒は喜悦した。敵数千騎が勝に乗じて城下に迫った。詔して士卒に迎撃させ、大半を斬獲したので、敵は引き去った。上は行宮に還り、寇準を城上に留めて置き、徐ろに人をやって寇準が何をしているか視させた。寇準はちょうど楊億と飲みながら博戯をし、歌い戯れて歓呼していた。帝は喜んで言った、「寇準がこのようであるなら、我また何を憂えよう」。十数日相持するうち、その統軍の撻覧が出て督戦した。時に威虎軍頭の張瑰が床子弩を守っていたが、弩の機が動いて発せられ、矢が撻覧の額に中った。撻覧が死んだので、契丹は密かに書を奉って盟を請うた。寇準は従わなかったが、使者が来てますます固く請うので、帝はこれを許そうとした。寇準は使者に臣と称させ、かつ幽州の地を献上させようとした。帝は兵を厭い、ただ羈縻して絶やさないだけにしようとした。また、寇準が兵を幸いにして自ら重きを取ろうとしていると讒する者がいた。寇準は已むを得ず、これを許した。帝は曹利用を遣わして軍中に赴かせ歳幣を議させ、「百万以下ならば皆許すことができる」と言った。寇準は曹利用を幄に召し寄せて言った、「たとえ勅があっても、汝の許すところは三十万を過ぎてはならない。三十万を過ぎれば、我は汝を斬る」。曹利用が軍中に至ると、果たして三十万で成約して還った。河北の兵が罷んだのは、寇準の力によるものであった。

原文帝盡以軍事委準,準承制專決,號令明肅,士卒喜悅。敵數千騎乘勝薄城下,詔士卒迎擊,斬獲大半,乃引去。上還行宮,留準居城上,徐使人視準何為。準方與楊億飲博,歌謔歡呼。帝喜曰:「準如此,吾復何憂?」相持十餘日,其統軍撻覽出督戰。時威虎軍頭張瑰守床子弩,弩撼機發,矢中撻覽額,撻覽死,乃密奉書請盟。準不從,而使者來請益堅,帝將許之。準欲邀使稱臣,且獻幽州地。帝厭兵,欲羈縻不絕而已。有譖準幸兵以自取重者,準不得已,許之。帝遣曹利用如軍中議歲幣,曰:「百萬以下皆可許也。」準召利用至幄,語曰:「雖有敕,汝所許毋過三十萬,過三十萬,吾斬汝矣。」利用至軍,果以三十萬成約而還。河北罷兵,準之力也。

寇準が相位にあった時、人を用いるのに順序を以てせず、同列の者は甚だ悦ばなかった。ある日、また官を除くと、同列の者が吏に因って例簿を持たせて進めた。寇準は言った、「宰相が賢を進め不肖を退ける所以である。もし例を用いるなら、それは一吏の職務に過ぎない」。二年、中書侍郎兼工部尚書を加えられた。寇準は澶淵の功を頗る自ら矜り、帝もまたこれによって寇準を甚だ厚く遇した。王欽若はこれを深く嫉んだ。ある日、朝会の時、寇準が先に退出すると、帝は目を送った。王欽若は因って進み出て言った、「陛下が寇準を敬われるのは、その社稷の功があるからでしょうか」。帝は言った、「その通りである」。王欽若は言った、「澶淵の役を、陛下は恥とされないで、寇準に社稷の功があるとおっしゃるのは、どうしてですか」。帝は愕然として言った、「何故か」。王欽若は言った、「城下の盟は、『春秋』がこれを恥じるところです。澶淵の挙は、これこそ城下の盟です。万乗の貴をもって城下の盟をなすこと、これに如く恥ずべきことがありましょうか」。帝は愀然としてこれを不悦とした。王欽若は言った、「陛下は博戯をお聞きになったことがありますか。博をする者が銭を輸して尽くそうとすると、乃ち有る所を全て出します。これを孤注と言います。陛下は、寇準の孤注なのです。これまた危ういことです」。

原文準在相位,用人不以次,同列頗不悅。它日,又除官,同列因吏持例簿以進。準曰:「宰相所以進賢退不肖也,若用例,一吏職爾。」二年,加中書侍郎兼工部尚書。準頗自矜澶淵之功,雖帝亦以此待準甚厚。王欽若深嫉之。一日會朝,準先退,帝目送之,欽若因進曰:「陛下敬寇準,為其有社稷功邪?」帝曰:「然。」欽若曰:「澶淵之役,陛下不以為恥,而謂準有社稷功,何也?」帝愕然曰:「何故?」欽若曰:「城下之盟,《春秋》恥之。澶淵之舉,是城下之盟也。以萬乘之貴而為城下之盟,其何恥如之!」帝愀然為之不悅。欽若曰:「陛下聞博乎?博者輸錢欲盡,乃罄所有出之,謂之孤注。陛下,寇準之孤注也,斯亦危矣。」

これによって帝の寇準に対する顧みは次第に衰えた。明年、刑部尚書・知陝州として罷免され、かくて王旦を用いて相とした。帝は王旦に言った、「寇準は多くの人に官を許し、これを己の恩としている。行くに当たっては、深くこれを戒めるがよい」。泰山に従って封じ、戸部尚書・知天雄軍に遷る。汾陰を祀り、貝・徳・博・洺・濱・棣巡検捉賊公事を提挙することを命じられ、兵部尚書に遷り、都省を判じた。亳州に幸し、権東京留守となり、枢密院使・同平章事となった。

原文由是帝顧準浸衰。明年,罷為刑部尚書、知陝州,遂用王旦為相。帝謂旦曰:「寇準多許人官,以為己恩。俟行,當深戒之。」從封泰山,遷戶部尚書、知天雄軍。祀汾陰,命提舉貝、德、博、洺、濱、棣巡檢捉賊公事,遷兵部尚書,入判都省。幸亳州,權東京留守,為樞密院使、同平章事。

林特が三司使となり、河北の歳輸の絹が欠けたので、これを督めること甚だ急であった。ところが寇準は平素より林特を悪んでおり、頗る転運使の李士衡を助けて林特を沮え、かつ魏にいた時に嘗て河北の絹五万を進めたが三司が納めず、以て供給が欠けるに至ったと言い、主吏以下を劾するよう請うた。しかし京師の歳費の絹は百万であり、寇準の助けたのは僅か五万に過ぎなかった。帝は不悦とし、王旦に言った、「寇準の剛忿は昔の如し」。王旦は言った、「寇準は人の恵みを懐くことを好み、また人に威を畏れられることを欲します。これらは皆、大臣の避けるところです。ところが寇準は乃ちこれを己の任とします。これがその短所です」。未だ幾ばくもせず、武勝軍節度使・同平章事・判河南府として罷められ、永興軍に徙った。

原文林特為三司使,以河北歲輸絹闕,督之甚急。而準素惡特,頗助轉運使李士衡而沮特,且言在魏時嘗進河北絹五萬而三司不納,以至闕供,請劾主吏以下。然京師歲費絹百萬,準所助才五萬。帝不悅,謂王旦曰:「準剛忿如昔。」旦曰:「準好人懷惠,又欲人畏威,皆大臣所避。而準乃為己任,此其短也。」未幾,罷為武勝軍節度使、同平章事、判河南府,徙永興軍。

天禧元年、山南東道節度使に改めた。時に巡検の朱能が内侍都知の周懷政を挟んで天書を詐った。上は王旦に問うた。王旦は言った、「初め天書を信じなかったのは寇準です。今天書が降りました。須らく寇準にこれを上らせるべきです」。寇準は従ってその書を上った。朝廷内外は皆これを非とした。遂に中書侍郎兼吏部尚書・同平章事・景霊宮使に拝された。

原文天禧元年,改山南東道節度使,時巡檢朱能挾內侍都知周懷政詐為天書,上以問王旦。旦曰:「始不信天書者準也。今天書降,須令準上之。」準從上其書,中外皆以為非。遂拜中書侍郎兼吏部尚書、同平章事、景靈宮使。

三年、南郊を祀り、尚書右僕射・集賢殿大学士に進んだ。時に真宗は風疾を得られ、劉太后が内で政に預かった。寇準は間を請うて言った、「皇太子は人の属望するところです。願わくは陛下、宗廟の重きを思い、神器を伝え、方正の大臣を択んで羽翼とされますように。丁謂・銭惟演は佞人です。少主を輔けることはできません」。帝はこれを然りとした。寇準は密かに翰林学士の楊億に表を草させ、太子の監国を請わせ、かつ楊億を援けて政を輔けさせようとした。已にして謀が泄れ、太子太傅として罷められ、萊国公に封じられた。時に周懷政は反側して自ら安からず、かつ罪を得ることを憂え、乃ち大臣を殺害し、皇后の政預かりを罷めさせ、帝を太上皇として奉じ、太子に位を伝え、再び寇準を相とすることを謀った。客省使の楊崇勳らがこれを丁謂に告げた。丁謂は微服して夜に犢車に乗り、曹利用の許に詣って事を計り、明日これを聞かせた。乃ち周懷政を誅し、寇準を太常卿・知相州に降とし、安州に徙し、道州司馬に貶した。帝は初めこれを知らなかった。ある日、左右に問うて言った、「我が目中に久しく寇準を見ないのは、何故か」。左右は敢えて答えなかった。帝が崩御された時も、惟だ寇準と李迪のみが託すことができると信じられた。その重んぜられること、この如くであった。

原文三年,祀南郊,進尚書右僕射、集賢殿大學士。時真宗得風疾,劉太后預政於內,準請間曰:「皇太子人所屬望,願陛下思宗廟之重,傳以神器,擇方正大臣為羽翼。丁謂、錢惟演,佞人也,不可以輔少主。」帝然之。準密令翰林學士楊億草表,請太子監國,且欲援億輔政。已而謀泄,罷為太子太傅,封萊國公。時懷政反側不自安,且憂得罪,乃謀殺大臣,請罷皇后預政,奉帝為太上皇,而傳位太子,復相準。客省使楊崇勳等以告丁謂,謂微服夜乘犢車詣曹利用計事,明日以聞。乃誅懷政,降準為太常卿、知相州,徙安州,貶道州司馬。帝初不知也,他日,問左右曰:「吾目中久不見寇準,何也?」左右莫敢對。帝崩時亦信惟準與李迪可託,其見重如此。

乾興元年、再び雷州司戸参軍に貶された。初め、丁謂は寇準の門を出て参知政事に至り、寇準に事えること甚だ謹んでいた。嘗て中書で会食した時、羹が寇準の鬚を汚した。丁謂は起ち上がり、徐ろにこれを払った。寇準は笑って言った、「参知政事は国の大臣である。乃ち官長のために鬚を払うのか」。丁謂はこれを甚だ愧じた。これによって傾き構えること日を追って深まった。寇準が貶されて未だ幾ばくもせず、丁謂もまた南に竄され、雷州を通った。寇準は人を遣わして一頭の蒸羊を境上で迎えさせた。丁謂は寇準に会おうとしたが、寇準はこれを拒絶した。家僮に仇を報いようと謀る者がいると聞くと、乃ち門を杜って博戯をさせ、出ることを許さず、丁謂の行く遠きを伺って、乃ち罷めた。

原文乾興元年,再貶雷州司戶參軍。初,丁謂出準門至參政,事準甚謹。嘗會食中書,羹污準須,謂起,徐拂之。準笑曰:「參政國之大臣,乃為官長拂鬚邪?」謂甚愧之,由是傾構日深。及準貶未幾,謂亦南竄,道雷州,準遣人以一蒸羊逆境上。謂欲見準,準拒絕之。聞家僮謀欲報讎者,乃杜門使縱博,毋得出,伺謂行遠,乃罷。

天聖元年、衡州司馬に転ず。初め、太宗嘗て通天犀を得、工人に命じて二つの帯と為し、一を以て準に賜う。是に及び、準人を遣わして洛中より取り寄せ、既に至ること数日、沐浴し、朝服を具し帯を束ね、北面して再拝し、左右を呼び臥具を設けしむるを促し、榻に就きて卒す。

原文天聖元年,徙衡州司馬。初,太宗嘗得通天犀,命工為二帶,一以賜準。及是,準遣人取自洛中,既至數日,沐浴,具朝服束帶,北面再拜,呼左右趣設臥具,就榻而卒。

初め、張詠成都に在り、準の相に入るを聞き、其の僚属に謂ひて曰く、「寇公は奇材なり、惜しむらくは学術足らざる爾」と。準の陝に出づるに及び、詠適た自ら成都罷めて還る、準厳に供帳を設け、大いに具して待つ。詠将に去らんとす、準之を郊に送り、問ひて曰く、「何を以てか準を教ふる」と。詠徐かに曰く、「『霍光伝』は読まずんばあるべからず」と。準其の意を諭せず、帰りて其の伝を取りて読み之、「学無く術無し」に至り、笑ひて曰く、「此れ張公の我を謂ふ所なり」と。

原文初,張詠在成都,聞準入相,謂其僚屬曰:「寇公奇材,惜學術不足爾。」及準出陝,詠適自成都罷還,準嚴供帳,大為具待。詠將去,準送之郊,問曰:「何以教準?」詠徐曰:「《霍光傳》不可不讀也。」準莫諭其意,歸取其傳讀之,至「不學無術」,笑曰:「此張公謂我矣。」

準は少年富貴、性豪侈にして、劇飲を喜び、賓客を宴する毎に、多く扉を闔へ驂を脱ぐ。家未だ嘗て油燈を爇せず、庖匽の在る所と雖も、必ず炬燭す。

原文準少年富貴,性豪侈,喜劇飲,每宴賓客,多闔扉脫驂。家未嘗爇油燈,雖庖匽所在,必然炬燭。

雷州に在ること一年余り。既に卒し、衡州の命乃ち至り、遂に西京に帰葬す。道荊南公安に出づ、県人皆路に於いて祭を設け哭し、竹を折りて地に植え、紙銭を掛く、月を逾えて之を視るに、枯竹尽く筍を生ず。衆因りて廟を立て、歳時に之を享く。子無く、従子随を以て嗣と為す。準歿する後十一年、復た太子太傅と為し、中書令・萊國公を贈り、後又諡を賜ひて忠愍と曰ふ。皇祐四年、詔して翰林學士孫抃に神道碑を撰せしめ、帝其の首を篆して「旌忠」と為す。

原文在雷州逾年。既卒,衡州之命乃至,遂歸葬西京。道出荊南公安,縣人皆設祭哭於路,折竹植地,掛紙錢,逾月視之,枯竹盡生筍。眾因為立廟,歲時享之。無子,以從子隨為嗣。準歿後十一年,復太子太傅,贈中書令、萊國公,後又賜諡曰忠愍。皇祐四年,詔翰林學士孫抃撰神道碑,帝為篆其首曰「旌忠」。

論じて曰く、呂端秦王の居留を諫め、表表として已に大器を見え、寇準と相を同じくして常に之を譲り、李繼遷の母を留めて誅せず。真宗の立つや、王繼恩を室に閉ぢ、以て李后の異謀を折りて大計を定む。既に立つて、猶簾を去り殿に升り審視するを請ひ、然る後に下拝す、太宗之を「大事に糊塗せず」と謂ふは、臣を知るは君に過ぐる莫し。宰相和せずんば、以て大計を定むるに足らず。畢士安寇準を薦め、又之が誣を辨す。契丹大挙して入り、辞を合して以て真宗を勧め、遂に澶淵に幸し、終に鉅敵を却く。歳幣を議するに及び、因りて重賄を請ひ、其の久盟を要す。是に由りて西夏牽制の謀を失ひ、随亦内附す。景德・咸平以来、天下乂安なるは、二相協和の致す所なり。準は太宗朝に於いて太子を建つるを論じ、神器は婦人に謀り、中官に謀り、近臣に謀るべからずと謂ふ。此の三言は、万世の龜鑒と為す可し。澶淵の幸、力めて衆議を沮ぎ、竟に雋功を成す、古の所謂大臣は、斯に於いて之を見る。然れども衣を挽きて諫を留め、面して同列を詆す、直言の風有りと雖も、包荒の量少なし。策を禁中に定むるに、与ふる所を慎まず、致して懷政の邪謀を啓き、坐して南裔に竄る。勲業是の如くにして厥の終を令せず、所謂「臣密ならざれば則ち身を失ふ」とは、豈に信ぜざらんや。

原文論曰:呂端諫秦王居留,表表已見大器,與寇準同相而常讓之,留李繼遷之母不誅。真宗之立,閉王繼恩於室,以折李后異謀,而定大計;既立,猶請去簾,升殿審視,然後下拜,太宗謂之「大事不糊塗」者,知臣莫過君矣。宰相不和,不足以定大計。畢士安薦寇準,又為之辨誣。契丹大舉而入,合辭以勸真宗,遂幸澶淵,終卻鉅敵。及議歲幣,因請重賄,要其久盟;由是西夏失牽制之謀,隨亦內附。景德、咸平以來,天下乂安,二相協和之所致也。準於太宗朝論建太子,謂神器不可謀及婦人、謀及中官、謀及近臣。此三言者,可為萬世龜鑒。澶淵之幸,力沮眾議,竟成雋功,古所謂大臣者,於斯見之。然挽衣留諫,面詆同列,雖有直言之風,而少包荒之量。定策禁中,不慎所與,致啟懷政邪謀,坐竄南裔。勳業如是而不令厥終,所謂「臣不密則失身」,豈不信哉!