宋史

列傳第三十九 田紹斌 王榮 楊瓊 錢守俊 徐興 王杲 李重誨 白守素 張思鈞 李琪 王延範

田紹斌

田紹斌は汾州の人である。河東の劉鈞に仕えて佐聖軍使となり、遼州を戍った。周の顕徳四年、五十騎を率いて来帰したため、劉鈞はその父母と家族を誅殺した。世宗は召し出してぎょう武副指揮使に補任した。

宋の初め、崔彦進に従って李筠を征討し、大会砦を攻撃してこれを破り、功により龍捷指揮使に遷った。また沢州茶碾村において李筠を破り、李筠は沢州に退いて守ったが、紹斌は濠を穿ち包囲して守り、流れ矢が左目に当たった。前軍部署韓令坤はその事を上聞した。太祖が潞州において召見した時、紹斌は晋軍を殺すこと益々多く、その鎧甲を奪った。また揚州において李重進を討つことに従い、城の南に陣を布き、三日間包囲して城は潰え、斬首は千級を超えた。袍帯・緡帛を賜り、まもなく馬軍副都軍頭・龍衛指揮使に補任された。荊湖を下し、嶺南を平定するに当たり、率いて従軍した。しょくを討つに当たり、大将劉延譲の麾下に隷した。時に全師雄が神泉を寇したが、紹斌は率いる所部をもってその党数千を破った。時に漢・剣の道は梗塞していたが、これにより頼って寧んじたので、太祖は使者孫晏を遣わし詔を齎して賜賚すること加増した。蜀において凡そ三年、剽盗を殄除した。還って、龍捷都虞候に改めた。

かつて官馬を盗み、売却代金を博奕の借銭返済に使い尽くし、事が発覚し、獄が具わった。有司が講武殿に引見したところ、紹斌は死罪を称した。太祖はその驍勇を知り、これを宥そうとし、門外に拘束し、内侍を遣わして密かにこれに謂って曰く、「汝は今死すべき責め有り余れり」と。紹斌曰く、「もし恩を以て臣の死を貸さば、当に節を尽くして以て報いん」と。やがてまた引見し、これを釈し、かつ密かに白金を賜った。

江南征討に際し、諸軍より事を借りて五百人を得、歩鬬軍と為し、紹斌にこれを率いさせた。また雲騎二千を率いて昇州城下に至り、克獲すること居多かった。太祖が親しく河東を討つに当たり、紹斌に命じて何継筠に従い契丹兵を北百井において扼せしめ、賊の鼓幟を奪って還った。

太平興国初年、龍衛軍指揮使に擢げられ、江州刺史を領した。二年、梅山洞の蛮が叛き、翟守素と分かれて往きこれを撃つことを命じられた。邵州に至り、蛮酋符漢陽の死を聞き、その居処より十里を去り、その衆を大いに潰し、蛮二万を擒え、軍中に命じて利剣二百を取りこれを斬り、残り五千を遣わして諸洞に諭し帰らせた。これよりその党は帖服した。太宗は金帛・緡銭・金帯・鞍馬を以て賜った。天武・日騎軍指揮使を歴任し、馬歩都軍頭に改め、出でて鎮・定・高陽関を戍った。

曹彬が幽州を攻めるに当たり、先鋒指揮使を命じられ、数度契丹兵と遇って戦い、牛羊・器甲を奪った。師が還ると、便殿に召見し、溪州団練使を領することを加え、また北面に屯することを遣わした。端拱元年、冀州防禦使に拝され、まもなく解州に改めた。

淳化年間、河中・同・丹・坊・鄜・延・横嶺蕃界都巡検使となった。時に鄭文宝が席鶏城砦を城して清遠軍と為すことを議し、紹斌は文宝とともにその役を領した。城が完成すると、文宝の請いにより、知軍事を命じられた。至道元年、会州観察使に拝され、なお解州を判じ、やがて霊州馬歩軍部署を充てた。徒を率いて蕃に入り賊を討ち、斬首二千級、羊・馬・橐駝二万計を獲、馬は諸軍の欠けたる者に給した。捷報が聞こえると、手詔を下して嘉み諭した。数度金粟帛を部送して霊武・清遠に至らしめ、遠人は讋服して擾さず。

まもなく、皇甫継明・白守栄らが霊州において転餉を督し、紹斌は兵を率いて援接し、鹹井に抵った。賊三千余が来たり陣に迫り、行きながら戦い、耀徳に至るまで、凡そ千人を殺した。寇はまた後を尾し、紹斌は方陣を為し、傷つきし者を中に置き、自ら騎三百・歩弩三百を将いて、敵兵と浦洛河において確戦し、これを大いに破った。

初め、守栄と紹斌は期を約したが、やがて継明が卒し、故に一日後れたため、遂に賊に囲まれた。守栄らはこれを撃たんとしたが、紹斌曰く、「蕃戎は軽佻なり、輜重を棄ててこれと戦うことなかれ、当に轡を按じ陣を結び徐行すべし」と。守栄らは忿りて曰く、「若し但だ兵を率いて来迎するのみならば、吾が事に預かるなかれ」と。紹斌は因って率いる所部をして輜重より四五里を去らしめた。継遷は初め紹斌の旌旗を見て、敢えて撃たず。守栄らは自ら功を邀えんと欲し、これと戦った。賊は先に伏兵を置き、羸騎を以て挑戦し、やがて伏兵発し、守栄らは戦いに敗れ、丁夫は愕眙して遁れ、蹂躙されて死する者衆し。紹斌は率いる所部をして徐かに還り、一も遺失すること無し。清遠に至り、張延州と会食した。濠の中に人裸にして呼ぶを見て曰く、「我は白守栄なり」と。縄を以て引き上げ、衣を解きてこれに遺し、内侍馬従順を遣わして駅伝して聞かせた。太宗は益々これを嘉し、優詔を下して褒め称えた。

時に李継隆・范廷召に継遷を討たしめ、就いて紹斌を本州都部署兼内外都巡検使に命じた。継隆は浦洛の敗を上聞し、紹斌が兵を握り顧みず、自ら「霊武は我無くしては守れず」と言い、方面を図り、異志有りと上言した。太宗怒りて曰く、「此の者は昔嘗て太原来りて投ずるに背き、今また首鼠両端す、真に賊臣なり」と。即ち使者を遣わし捕え詔獄に繫ぎ鞫問し、右監門衛率府副率に貶し、虢州に安置した。

真宗即位し、召し還し、右監門衛大将軍を授け、叙州刺史を領し、まもなく萊州防禦使に改め、詔してその籍没した居第を還し、良馬十匹を賜った。環・慶・霊州・清遠軍部署に転じた。慶州に野鶏族有り、数度寇掠し、道路これを患えた。嘗て驍捷の卒二十余が邠州に往くが、その掠奪に遭い、即ち馳せて紹斌に告げた。紹斌はその酋帥三人を召し、臂を断ち、馘し、劓して放ち還した。寇は感化され、帖服した。紹斌は素より勇悍にして、同職と頗る叶わず。転運使宋太初は毎度部を按ずるに霊州・清遠において、多く貿易し、紹斌は語を発してその私を暴き、太初は心にこれを銜んだ。朝に還り、紹斌の過ちを言上し、まもなく召しに赴き、その事を直した。

咸平二年、北面に寇警有り、また鎮・定・高陽関路押先鋒を命じられ、傅潜に隷した。潜はこれを遣わし石普とともに保州を戍らせた。普は密かに知州楊嗣と議し出兵してこれを撃討した。夜に及び、普・嗣未だ還らず、紹斌はその敗衄を疑い、即ち兵を率いてこれを援けた。普・嗣は果たして賊に困らされ、厳涼河を渡り、師衆を頗る喪った。紹斌の至るに及び、即ち兵を合して疾く戦い、一百四十余人を獲、労により邢州観察使に遷った。潜は中山に屯したが、紹斌は三度潜に書を馳せ、かつ言うに、「辺衆大いに至る、但だ兵を唐河南に列し、城に背きてこれと戦い、慎んで窮追すること無かれ」と。潜の性巽懦にして、これを聞き益々敢えて出でず、賊衆益々熾んじ、城砦を焚き劫った。車駕は大名に駐り、潜の属吏を召し、詞は紹斌に逮り、即ち使者を遣わし械を繫ぎ、御史台に下し鞫問し、官を免じ、左衛率府副率に黜し、上都に送り、その出入を禁じた。五年、右千牛衛将軍を授け致仕した。

景德の初め、起用されて左龍武軍將軍・永城兵馬都監となる。三年、左監門衛大將軍に遷る。帝は紹斌が久しく職を失っていたことを以て、衝要の地に在るは宜しからずとし、乃ち考城都監に徙す。大中祥符の初め、長州刺史を領す。東封に従い、朝覲壇に就いて班に列する時、軍士が充庭旗を建てたところ、旗が倒れ、紹斌を圧して地に仆す。遽かに起き上がり、傷は無かった。時に紹斌は既に老いていたが、その壮健さは此の如し。左領軍衛大將軍・康州團練使・鞏縣都監を領すに遷る。二年、卒す。年七十七。

紹斌は兵間(軍中)に長じ、戦法に習熟し、その後累ねて格闘を以て功を立てた。然れども性暴戾にして、故に屡々黜せられる。子の守信は、内殿崇班・閣門祗候となる。

王榮

王榮は定州の人。父の洪嗣は、晉に仕えて本州十縣遊奕使となる。榮は少にして膂力有り、瀛州の馬仁瑀に事えて廝役となる。太宗が藩邸に在った時、左右に隷するを得る。即位すると、殿前指揮使を補し、稍々遷って本班都知・員僚直都虞候となる。盜が棣州に発し、州兵は捕らえることができず、榮が往きて討ちこれを擒える。御前忠佐馬步軍都軍頭を加えられ、懿州刺史を領す。秦王廷美の宴労を受けた罪に坐し、出されて濮州馬軍教練使となる。未だ行かず、馬仁瑀の子が、榮が秦王の親吏と善しとし、因って狂言「我まもなく節帥を得るべし」と為したと告げ、坐して籍を削られ、海島に流される。

雍熙中に召還され、副軍頭となる。端拱の初め、員寮左右直都虞候兼都軍頭に改め、再び懿州刺史を領す。累遷して龍衛都指揮使・羅州團練使を領す。兵を率いて遂城を戍り、辺騎が来寇するを撃ち破り、千餘人を擒える。召されて侍衛馬軍都虞候・峰州觀察使に拝され、出されて定州行營都部署となる。榮は粗率にして、為すところ理に中らず、官地を侵して蔬を蒔き、公錢を吝惜して将士を労わず、且つ母老いて迎え養わず、供給甚だ薄し。太宗聞いて怒りて曰く、「忠臣は孝子の門より出ず。榮が親に事えること此の如し。竄逐の餘、凶行悛まず、豈に復た左右に置き、晉帝が張彦澤を養成するに效わんや」と。即ち詔して罷め、督責し、右驍衛大將軍を授く。寄班供奉官張明は定州兵を護り、榮の不法を睹て、間嘗て規正す。榮は短を護り、毎に其の己を攻むるを疾む。莊宅使王斌も亦た是の州に監軍し、素より榮と善し、明が榮の罪を構うるを意とし、因って明を摭いて以て怨に報いんとす。樞密院に下して状を問う、皆実せず。上怒り、左右に語りて曰く、「張明は賤微の中より起り、蹴鞠を以て朕に事え、潔己小心、輩流に見ゆ。夫れ刑罰の加わるは、必ず其の罪に当たるべし。今王斌は榮の故を以て曲く明の罪を奏し、刑憲を致さんと欲す。苟も其の当を失わば、適足らん以て榮の心を快くし、而して誣罔する者得以て肆に行わん。且つ榮は同類を淩轢し、君と親に事えて鮮しく其の力を竭くさず。国家の賞罰の柄は、敢えて私す所に非ず。将帥の職は、裨校と同じからず。朕豈に張明に党して王榮を棄てんや、奈何ぞ理の当たるに直を求めざる」と。遂に明に労を賜い緡錢・束帛を賜い、榮は右羽林軍大將軍に遷す。

真宗即位、獎州刺史を領し、尋いで濱州防禦使を授かり、涇原儀渭駐泊部署に遷る。咸平二年、車駕北征し、召されて貝・冀行營副都部署となる。師旋し、復た涇原に還る。明年、霊武の芻糧を援送す。智略に疎く、斥候を厳にせず、積石に至り、夜蕃寇に劫われ、營部大乱し、衆亡び殆んど尽きる。法に当りて誅すべし、死を恕し、名を除き均州に配す。六年、起用されて左衛將軍となる。

景德の初め、権判左金吾街仗司事。上澶淵に兵を観る。契丹の遊騎が河氷を涉り濮州境に抵る。命ぜられて黄河南岸都巡檢使となり、鄭懷德と自行在より龍衛兵を領して追襲す。時に已に詔して滄州部署荊嗣に先ず其の部を率い淄・青に屯せしめ、榮等を遣わして兵を合して邀撃せしむ。二年、左神武軍大將軍・恩州刺史を領すに遷る。郊祀し、左龍武軍・達州團練使を領すに改む。大中祥符中、左衛大將軍・昌州防禦使を領すに遷る。六年、太清宮に朝し、命ぜられて河南府駐泊都監となる。九年、卒す。年七十。其の一子に官す。榮は射を善くし、嘗て強を引いて屋棟に注げば、矢木に数寸入り、時人目して「王硬弓」と為す。

楊瓊

楊瓊は汾州西河の人。幼くして馮繼業に事え、材勇を以て称される。太宗召して帳下に置く。即位し、御龍直に隷し、三遷して神勇指揮使となる。太原に征従し、労を以て御龍直指揮使を補す。雍熙の初め、弩直都虞候兼御前忠佐馬步都軍頭・顯州刺史を領すに改む。

淳化中、李順蜀に叛く。瓊往きて夔・峡に賊を擒え招安し、兵を領して峡より上り、賊と遇い、累戦して渝・合に抵り、尹元・裴莊と分路進討し、資・普二州及び雲安軍を克ち、数千級を斬首す。詔書嘉獎し、使いを遣わして即軍中に真に単州刺史を拝す。

至道の初め、召還されて共に職す。明年、州知州兼鈐轄に徙す。未だ幾ばくもせず、防禦使・霊慶路副都部署・河外都巡檢使に改む。賊累ねて疆を寇すも、瓊固く捍ぎて功有り。黄河を導き、民田数千頃を溉ぐ。合河鎮の北にて賊を敗り、擒獲する人畜多くを占む。賊騎五百城下を掠むるを撃ち破り、北に三十里を追う。並びに詔を賜い嘉諭す。

咸平二年、命ぜられて涇原儀渭邠寧環慶清遠軍霊州路副都部署となる。尋いで鎮・定・高陽関三路押策先鋒に徙し、定州の北に屯す。明年、王超に副いて鎮州都部署と為り、再び環慶に遷り、定州に徙す。四年、召還され、鄜州觀察使を以て霊・環十州軍副都部署兼安撫副使を充す。嘗て使いを遣わし旨を諭す、賊若し清遠及び青岡・白馬砦を寇せば、即ち兵を合して戦うべしと。是の秋、果たして長く清遠を囲み、積石河に頓す。清遠屡々間使を走らせ瓊に詣り師を済さんことを請う。瓊将に悉く出兵して援と為さんとす。鈐轄内園使馮守規・都監崇儀使張繼能曰く、「敵近く、重兵前に在り、継ぐもの進む無く、悉く往くべからず」と。乃ち止めて副部署海州團練使潘璘・都監西京左藏庫劉文質に命じ兵六千を率いて之に赴かしめ、且つ曰く、「我が継ぎて至るを伺え」と。瓊逗遛して進まず、慶州に頓す。寇鼓兵して南門を攻め、其の子阿移北門を攻め、壕を堙め橋を断ちて以て戦う。瓊鈐轄李讓を遣わし精卒六百を督して往き援わしむ。至れば則ち城已に陥つ。賊青岡城下に泊す。瓊と守規・繼能方に緩行して出師す。清遠の敗を聞くに及び、益々恇怯して前まらず。順州刺史王瑰普瓊に謂ひて曰く、「青岡地遠く水泉有り、師を屯するの計に非ず、願わくは之を棄てん」と。瓊謀を合して芻糧兵仗を焚き、老幼を駆りて以て出づ。瓊師を卻し、退きて洪德砦を保つ。寇威浸く熾んにして、未だ嘗て一鋒を交えず。事上に聞こえ、伝えて瓊輩を召し、悉く御史獄に繫ぎ、罪を治めて死に当たる。兵部尚書張齊賢等議して律の如く請う。詔して特り命を貸し、官を削り、長く崖州に流す。繼能・守規輩同坐し、其の家業を籍す。明年、道州に移す。

景德の初め、起用されて右領軍衛將軍となった。分司西京。累遷して左領軍衛大將軍、賀州團練使を領し、兗州を知った。ある州卒が自ら神術を得て、空中を飛行できると称し、州人は大いに惑わされた。瓊はこれを捕らえ、その足を折り、上奏してこれを誅戮した。五年、卒す。年六十七。その子舜臣を録して奉職とした。長子舜賓は、内殿崇班・閤門祗候であった。

錢守俊

錢守俊は、濮州雷澤の人である。若い頃勇猛で、かつて陂澤の中で盗賊となり、「轉陂鶻」と称された。周の顯德年中、応募して鉄騎卒となった。早くから太祖に仕え、淮南に従征し、紫金山で戦い、壽春を陥れ、戦艦千余艘を獲た。続いて關南を攻克することに従った。

宋の初め、禁衛に補され、散員直に隷した。乾德年中、殿前班都知に転じた。まもなく太原を征し、戦う最中、矢が左足に中ったが、抜いて再び進み、格闘を止めなかった。還ると、東西班指揮使に改め、馬歩軍副都軍頭に遷った。太平興国四年、命を受けて張紹・李神祐・劉承珪とともに師を率いて定州に屯し、北辺に備えた。まもなく秩を加えられ演州刺史を領し、趙州に移屯した。また范陽征討に従い、師が還る途中、道で敵に遇い、徐河で戦い、千級を斬首し、百匹の馬を奪った。雍熙三年、命を受けて北征し、田重進は飛狐道より出で、守俊は偏師をもって援軍となり、辺騎が雲のごとく集まったが、守俊は甲を按じて従容として進戦し、これを大いに破った。連続して趙・定の屯兵を護った。代わって還り、軍頭引見司を掌った。

淳化三年、出て単州團練使となった。また翌年、斉州に改遷した。時に河西蕃部が内擾し、命を受けて副都部署としてその地を鎮めた。まもなく石州に移屯し、数度官を改めた。時に守俊が病みかつ老いて、重兵を握りながらその職に堪えぬという言があった。召還され、左領軍衛大將軍・潘州防禦使を領し、権金吾街仗を授かった。大中祥符三年卒す。年八十一。

守俊は累ねて軍に従い征討し、前後三十六創を被った。景德年中、その子允慶を録して奉職とした。弟の守信は、官は崇儀副使。守榮は、内園使であった。

徐興

徐興は、青州の人である。拳勇をもって兵籍に隷するを得た。周の顯德年中、太祖に従い淮右を征した。宋の初め、御龍直に隷した。ちょうど澤・潞を平定し、その功を上ると、控鶴軍使に補された。晉陽を征し、部卒が汾水を堰き止めて幷州城を灌漑し、その労を多くした。還り、本軍副指揮使に遷った。

太平興国の初め、潘美に従って團柏谷に趣き、奮って賊と闘い、果敢の気があり、人これを勝つことができなかった。偽の兵馬都監李美を生擒し、身に重創を被ったが、少しも屈しなかった。指揮使を加えられた。太宗が太原を征し、幽・薊を討つに、興は従戦し、屡々流れ矢に中り、その著しい戦跡をもって聞こえた。天武都虞候に補され、累遷して秩を加えられ、出て洺州部署となった。初め方田を建てることを議し、命を受けて興がその事を董じたが、まもなくまた中止された。端拱年中、鎮・定の城を修築し、一ヶ月余りで完工した。莫州防禦使に改め、静戎軍を知り、祁・博の二州を歴任した。

咸平年中、涇・原・環・慶の十州部署となった。詔により霊武の芻糧を転送することを督し、道は積石を経て、しばしば寇に掠奪された。興は歩兵が畏懼し、戦い利あらず、時に王榮の援兵が応じなかったため、遂に敗走した。これに坐して官籍を削られ、郢州に流された。赦に会い、入朝して右衛將軍となり、左監門衛大將軍に遷った。景德二年卒す。年六十八。

王杲

王杲は、斉州の人である。周の顯德年中、応募して卒となった。世宗に従って三關を収め、先鋒に隷した。宋の初め、澤・潞を征し、揚州を平定するに、杲は選に応じて従行し、戦功を獲ると、散指揮使に抜擢され、累転して馬軍副都軍頭となり、幷州に屯した。雍熙年中、龍衛右第二軍都虞候となった。ちょうど趙保忠を夏州に還すこととなり、命を受けて杲が兵を引きいて護送した。還ると、保忠が方物を贐としたが、杲は拒んで受け取らなかった。太宗これを知り、詔して白金百両を賜った。右第一軍に遷り、鎮州に屯した。

契丹が入寇し、大将郭守文に隷し、城を扞ぎ、杲は北関を守った。寇が退くと、命を受けて餉藁を督し威虜軍に趣いた。還って徐河に抵ると、時に尹継倫が寇と戦い、小敗し、杲はちょうど河上で賊に遇い、即ち兵を按じてこれを拒ぎ、賊を殺し、その乗っていた馬を奪った。守文が上聞すると、召見を受けて状況を問われ、都軍頭・勤州刺史を領することを補され、命を受けて河北を監察し、有能の名声があった。まもなく命を受けて定州諸軍の騎射を閲教し、入朝して軍頭引見司を掌った。

李順の乱に、尹元とともに西川招安使となり、賊を破り、万級を斬首し、その功により真除されて唐州刺史となった。時に賊は既に平定されたが、道路はなお梗塞し、余党は山林に拠って姦を肆うものがあり、杲は石普らとともに彭州で追捕し、ここにおいて始めて平定した。至道の初め、ようやく還った。また霊州副部署に遷り、道すがら環州に留まり、改めて幷州とし、夏州知州に徙った。ちょうど趙保吉が帰款すると、召還され、伏落津に次ぎ、石州知州に移り、石・隰副部署に徙った。まもなく、河西への転餉が期限に遅れたため、右千牛衛大將軍に降格された。咸平五年、出て亳州永城県都監となった。召され、将に入見せんとしたが、病が急で果たせず、卒す。年六十四。

李重誨

李重誨は応州金城の人である。祖父の高は後唐の莊宅使・獎州刺史を務めた。父の彦榮は契丹に仕え、環州刺史を拝命し、重誨はかつてその応州馬歩軍都指揮使となった。太平興国五年、潘美が軍を出して寇を防ぐにあたり、重誨はその節度使蕭咄李に従い代州北嶺で迎え撃ったが、大敗した。美は咄李を斬り、重誨を捕らえて献上した。太宗は召見し、鄧州馬歩軍都指揮使に補任した。ちょうど趙普が外鎮に出るにあたり、州軍を監するよう奏上した。

雍熙三年、召還されて武州刺史となり、出向して忻州都巡検・縁辺十八砦招安制置使となり、服帯・鞍馬を賜った。北兵が辺境を侵すと、重誨は配下部隊を率いて邀撃し、これを破り、羊馬・鎧甲を多く獲たので、詔を賜って嘉賞された。ちょうど嶺蛮が叛いたため、広・桂・融・宜・柳州招安捉賊使に改め、便宜を以て事に従うことを許された。

至道初年、累遷して涇原儀渭鎮戎軍鈐轄となった。咸平三年、邠寧環慶路に転じた。霊武への糧秣輸送において斥候を厳にせず、積石に至って虜騎に路上で掠奪され、営部が大いに乱れた罪により、除名され光州に流された。五年、起用されて内殿崇班・鄜延駐泊都監となり、まもなく崇儀使に遷った。景德年中、趙徳明が既に帰順したが、麟州・府州において他志を謀るものありとの言があった。上は涇原の地が要衝で兵衆が多いことを慮り、緩急あればと、重誨を鈐轄に転じた。さらに益州に遷り、皇城使に改めた。大中祥符六年、卒去、年六十八。

重誨は純朴誠実で過ちが少なかった。真宗はその遠土に没したことを悼み、その子に伝車を乗り継いで往き、柩を護って帰ることを命じ、駅舎の別室に留まることを許した。子の禹謨は、将作監主簿に録された。弟の重睿は、歴官して澄州団練使となった。子の禹偁は、閤門祗候となった。

白守素

白守素は開封の人である。祖父の延遇は周に仕えて鎮国軍節度使に至った。父の廷訓は宋初に龍捷都指揮使・博州刺史を領した。守素は蔭補により東班承旨となった。太平興国五年、右班殿直に遷補され、善射により供奉官・帯御器械を授かり、三遷して供備庫使に至った。

咸平三年春、契丹が辺境を犯すと、王能とともに邢州を戍ることを命じられ、まもなくまた麦守恩・石贊とともに先鋒を領してこれを防いだ。敵が退くと、再び荊嗣とともに河北・京東の賊捕りを督した。四年、鎮州行営鈐轄に命じられ、騎兵を率いて大陣の西側を押さえ、屡々格闘に当たった。まもなく定州鈐轄に改め、再び鎮州に転じた。王継忠が陥落したとき、宋師は還って河を渡ったが、敵がこれに乗じた。守素は橋を占拠し、数百の矢があり、発するごとに必ず中てたので、敵は近づけず、遂に引き去った。

真宗が輔臣と三路の賊防御を議し、皆が言うには、「威虜は北道の要害を扼すること特に甚だしい。騎兵六千を分屯させ、魏能を部署とせんことを請う」と。上は言った、「能は頗る強情で、特に事を共にし難い。聞くところによれば守素は久しく辺計を練り、張鋭の性は頗る和善なり。戎務に参知せしめ、互いに助け合わしむるがよかろう」と。そこで守素・鋭を鈐轄とし、順安に戍ってこれを副えしめた。

景德元年、契丹が長城口を侵すと、守素は能とともに兵を発してこれを破り、北に追って陽山を過ぎ、首級を斬り器械を獲ること甚だ多く、錦袍・金帯を賜った。まもなく冀州に屯するよう転じ、転運使劉綜がその智勇を挙げ、将帥の材に任ずべきとし、康州刺史を加領した。また騎卒を提げて静戎軍を戍り、兼ねて営田の役を蒞んだが、まもなく鎮・定鈐轄となった。この冬、契丹が再び内侵すると、守素はその前鋒を破り、車重を獲、また敵境に入り、多くの従者を俘虜にした。和を請うに及んで、辺戍の職を省き、曹璨とともに鎮・定に留任した。前功を追叙し、合州団練使を加えた。

大中祥符三年、李迪に副えて契丹に使することを命じられた。守素は辺境に居ること久しく、その名は北庭に聞こえ、頗る畏服されていた。上はその行きたがらぬを慮り、密かに内侍を遣わして守素に訊ねさせた。守素は頓首して感咽し、直ちに崔可道を以て代えさせた。再遷して南作坊使となった。大中祥符五年、卒去した。上は甚だ惜しみ、常例の賻の外に別に銭五十万を賜い、喪を護って京師に還ることを命じ、その一子を官に録した。

張思鈞

張思鈞は邢州沙河の人である。祖父の中正は漢の沢州刺史であった。思鈞は若くして撃剣・挽強に長じ、博奕を善くした。初め応募して卒となり、晋の開運年間に広鋭軍使に遷った。周の広順初年、聶知遇に従って河東を攻め、その衆三千余を破った。向訓に従って東征し、捉生将となり、江猪嶺で小校張万を生擒した。また符彦卿に従って幷人と代州で戦い、留まって南北両関巡検となった。

宋初、龍衛指揮使に補された。李継勲が遼州を下したとき、帯甲祠で戦い、首級万余を斬り、長城まで追撃し、その将莫山・鮑淑を擒にし、人騎二百余を掠めた。まもなく潞州に屯し、三十余度合戦した。乾徳年中、労功により都虞候に遷った。開宝三年、郭進・田欽祚が三交を戍り、かつて石嶺関で戦いに従い、首級一万五千余を斬った。閤門祗候の斉延琛・苗昶が軍中に陥ると、思鈞は勁騎を鼓して突入し、奪還した。何継筠が晋境に入ると、思鈞はその麾下に隷し、南橋を抜いて直ちに渡った。大将が出るごとに、必ず先鋒に辟した。太平興国初年、定州に屯し、兵を領いて磁窯を援け、その衆を戦い破り、身に五十の創を受けながらも奮い顧みず、遂に賊を逐い、軍城に迫り、馬及び鎧甲を奪うこと多かった。間もなく、辺人が再び攻めると、城下で逆襲し、首級万余を斬った。上はこれを嘉し、服帯を賜うことを命じ、河州刺史を領した。

雍熙三年、辺人が河間を寇すと、劉廷譲が君子館で会戦し、思鈞に翼従を命じた。時に天は大いに寒く、弓は彀うことができず、援兵も至らなかった。ここにおいて敗績し、数年軍中に留め置かれ、使役されて還ることができなかった。端拱初年、契丹より初めて逃げ帰り、澄州刺史・知斉州を授かった。思鈞は武をもって進み、元来民政を知らず、僅か一月余りで、即ち濮・鄆・濱・棣州巡検に転じた。至道年中、鄜延巡検使に改めた。ちょうど右堡砦を修繕し、寇を撃って走らせた。間もなく、寇が保安軍に迫ると、曹璨とともに往きて援け、五十余里を追躡し、木場に至って寇は遁去した。

真宗即位すると、益州鈐轄兼綿・漢九州都巡検使に転じた。咸平年中、王均の乱により、兵を出して綿州を保った。賊が漢州を陥すと、思鈞は進攻してこれを克ち、偽刺史苗進を斬り、また石普とともに賊を弥牟砦で破った。巴西尉の傅翱に善馬があった。思鈞はこれを求めたが、翱は与えなかった。思鈞は賊を平らげ、心に功が多いことを恃み、翱を召し至り、転餉が期に後れたことを責めて斬った。上はその事を聞き、伝召して御史台に付して鞫治させた。罪は斬に当たったが、特かにこれを貸し、官籍を削って封州に流した。

六年、起用されて左司禦率府率・考城監軍となる。車駕澶淵に幸す、行在に召し詣らしめ、李繼隆・石保吉に命じて兵事を同議せしめ、服御を賜うこと有加なり。景德二年、西京水北都巡檢使となり、俄に西京に分司す。行在に召し対せしむ、上其の老を憫み、唐州防禦副使を授け、鄭州に徙す。大中祥符二年、再び左千牛衛將軍に遷る。四年七月、卒す、年八十九。子承恩、三班奉職となる。

思鈞は行伍より起り、征討に稍く功有り。質狀小さくして精悍、太宗嘗て其の「樓羅」を稱し、是より人目して「小樓羅」と為す。

李琪

李琪、河南伊闕の人。幼くより兵家に生長し、宣祖に給事するを得、左右して太祖に仕え、材力を以て稱せられ、進みて備執御に備わる。及び受禪す、命じて鎮職を補わしむ。太宗京府に在り、復た之に事えしむ。是より累遷して效忠都虞候・開封府馬步軍副都指揮使・富州刺史を領す。嘗て対請し、自ら太祖に經事すと言い、而して京師に居宅無しと、太宗官第を以て之に假す。

琪性素より鄙にして、三朝に歷事すれども、行ひ修まらず。每たび士卒を分遣して關梁を守護せしむるに、必ず其の贈遺を覬ひ、厚薄を視て重輕と為す。太宗之を知り、遂に屯衛大將軍に改授し、郡を領すること舊の如くせしむ、乃ち顧みて曰く「吾琪を無過の地に置かんと欲するのみ」と。左武衛大將軍を加う。景德中、老いて且つ病むを以て、表して五日に一たび起居に赴くを求め、俄に臺諫の糾する所となり、常參に赴かしむ。真宗其の舊を念い、特に月奉を賜い以て養わしむ。大中祥符元年卒す、年八十四。

王延範

王延範、江陵の人。形貌奇偉、任俠を喜び、家財に富む。父保義、荊南高氏の行軍司馬兼武泰軍留後を為す。高從誨奏して延範を太子舍人に署す。後從誨の孫繼冲に隨い入覲し、薦めて大理寺丞・泰州知州と為し累遷して司門員外郎となる。

太平興國九年、廣南轉運使と為る。性豪率にして気を尚び、尤も術数を好む。嘗て梓州を通判し、杜先生有りて左道を以て衆を惑わし、延範に謂ひて曰く「汝意に之く所有らば、我常に陰に之を助け為さん」と。延範心に喜び、敢えて恣横を為す。後江南轉運使と為り、劉昴有りて吉州市に卜を賣り、其の言多く驗あり、延範に謂ひて曰く「公まさに一方に偏霸すべし」と。又徐肇有りて延範の為に九宮算法を推し、八少一を得、肇驚き起ちて曰く「君侯大貴言う可からず、江南李國主の如くすべし」と。前戎城主簿田辨自ら善く相すと言い、延範に謂ひて曰く「君は坐天王形・頻伽眼・仙人鼻・雌龍耳・虎望にて、大威德・猛烈富貴の相有り。即日に四門輦に乗ずべし」と。是に至り、豹其の公宇に入り、数吏をぜい傷す、従者皆恐慄し、敢えて進まず、延範独り戟を抜き前ち逐い、之を刺殺す、益々此を以て自ら負う。廣州掌務殿直趙延貴・將作監丞雷說と会宿し、天象を観る、延貴西方の一大星を指して曰く「此れ所謂『火星南斗に入り、天子殿を下り走る』ものなり」と。雷說『星經』を出して之を證す、乃ち太白の行度南斗を經るなり、延貴誤って火星と為す。

延範日夕に掌市舶陸坦と議し兵を発さんと欲す、会に坦代わりて帰る、延範書を左拾遺韋務昇に寓し隠語を為し、朝廷の機事を偵う。延範奴の如く僚属を視、刑峻くして怨多し。会に懷勇小將張霸轉運司に給使す、延範事に因り之を杖つ、霸延範の知廣州徐休復と協せざるを知り、休復に詣り、延範の将に不軌を謀り及び諸の不法の事を告ぐ。休復馳せて之を奏す。太宗高品閻承翰を遣わし伝に乗じ、會して轉運副使李琯及び休復雑治して延範を治め、具に伏す。昴・辨・坦と俱に廣州市に斬らる、延範の家を籍没す。務昇名を除き商州に配す、延貴等皆罪に抵り、霸に錢十万を賜う。

論じて曰く、紹斌征討に従い、凡そ百戦を踰え、未だ嘗て以て憚と為さず、屢廃斥せられ、未だ嘗て以て慊と為さず。太祖盗馬の罪を宥し、引見賜予し、法を屈して過ちを使い、用て能く其の力を致すなり。榮親に事うること薄く、詔を下して過を督む。瓊州卒を折して以て妖惑を釋く。王杲夏に贐を辭す。思鈞身を抜きて自ら帰り、斬るべくして貸す。琪は鄙を以て稱せらる。守俊・興の輩は勇を以て備給使を得る。守素久しく邊計を練り、人頗る畏伏す。重誨将略足らざれども、亦た稱す可き有り。大抵武夫悍卒は、過無き能わず、而も亦た各々長所有り。其の過を略して其の長を用うれば、皆な事を集うるに足る。一勝一負に至りては、兵家の常勢、其の大節の何如なるかを顧みるのみ。若し榮や、其の生む所を薄くす、大節虧く、屢罪を以て黜せらる、宜なるかな。