宋史

列傳第三十八 王繼忠 傅潛 張昭允 戴興 王漢忠 王能 張凝 魏能 陳興 許均 張進 李重貴 呼延贊 劉用 耿全斌 周仁美

王繼忠

王繼忠は開封の人である。父の王充は武騎指揮使となり、瓦橋関に戍守して卒した。継忠は六歳の時、東班殿侍に補せられた。真宗が藩邸におられた時、側近に仕えることを得て、謹厳温厚なことで親信された。即位すると、内殿崇班に補せられ、累進して殿前都虞候に至り、雲州観察使を兼ね、出て深州副都部署となり、鎮州・定州・高陽関の三路鈐轄兼河北都転運使に改められ、高陽関副都部署に遷り、まもなく定州に移った。

咸平六年、契丹の数万騎が南侵し、望都に至った。継忠は大将の王超及び桑讚らと兵を率いてこれを救援した。継忠は康村に至り、契丹と戦い、日暮れから夜中まで戦い、敵の勢いはやや退いた。夜明け近くに再び戦い、継忠は陣の東側に布陣し、敵に攻め立てられ、糧道を断たれた。王超と桑讚は皆、畏れ縮んで退却し、ついに救援に赴かなかった。継忠はただ麾下と共に馬を躍らせて馳せ赴き、服飾がやや異なっていたため、契丹にそれと見破られ、数十重に包囲された。兵士は皆重傷を負ったが、必死に戦い、戦いながら進み、西山の傍らを北へ向かい、白城に至り、ついに契丹に陥落した。真宗はこれを聞いて震悼し、初めは死んだものと思い、優詔を下して大同軍節度使を追贈し、贈り物と助け金を一等加増し、その四子に官職を与えた。

景德の初め、契丹が和を請い、継忠に奏章を上奏させたので、彼がまだ生きていることを知った。朝廷はこれに従い、ここより南北の兵を収め、継忠はそれに力を尽くした。毎年使者を契丹に遣わす時は必ず襲衣・金帯・器幣・茶薬を賜い、継忠も使者に対し必ず涙を流した。かつて付表を上して召還を懇請したが、上は誓書に「互いに求めない」と約しているので、それを変えたくないと考え、詔を賜ってその意を諭した。契丹主は継忠を非常に厚遇し、その姓名を耶律顕忠と改めさせ、また宗信と改名させ、楚王に封じた。後、その終わりを知らない。子に王懐節・王懐敏・王懐徳・王懐政がいる。

真宗の宮邸に攀附した者で、継忠の次に、王守俊は済州刺史に至り、蔚昭敏は殿前都指揮使・保静軍節度使に至り、翟明は洺州団練使に至り、王遵度は磁州団練使に至り、楊保用は西上閣門使・康州刺史に至り、鄭懐徳は御前忠佐馬歩軍都軍頭・永州団練使に至り、張承易は礼賓使に至り、呉延昭は供備庫使に至り、白文肇は引進使・昭州団練使に至り、彭睿は侍衛馬軍副都指揮使・武昌軍節度使に至り、靳忠は侍衛馬軍都虞候・端州防禦使に至り、郝栄は安国軍節度観察留後に至り、陳玉は冀州刺史に至り、崔美は済州団練使に至り、高漢美は鄭州団練使に至り、楊謙は御前忠佐馬歩軍副都軍頭・河州刺史に至った。

傅潛

傅潛は冀州衡水の人である。若い時、州将の張廷翰に仕えた。太宗が藩邸におられた時、召し出して左右に置かれた。即位すると、殿前左班に属し、三度遷って東西班指揮使となった。太原征伐に従い、一日に二度流れ矢に当たった。また范陽征伐に従い、真っ先に涿州に到着し、契丹と戦い、五百余人を生け捕りにした。翌日、上(太宗)がその場所を通り過ぎ、積み重なった死体と遺棄された武器を見て、これを賞賛した。軍が帰還すると、内殿直都虞候に抜擢された。上は枢密に対し、「傅潛は従軍して功労があるのに、賞が薄い」と述べられた。さらに馬歩都軍頭・羅州刺史を兼ねさせ、捧日右廂都指揮使・富州団練使を兼ねるよう改め、日騎・天武左右廂都指揮使に遷り、雲州防禦使を兼ねた。

雍熙三年、大将曹彬を北征させる命が下り、傅潛を幽州道行営前軍馬歩軍都指揮使とした。軍は拒馬河で敗れ、責めを受けて右領軍衛大将軍に授けられ、検校司徒しとから右僕射に降格し、なお功臣の爵位と封邑を削られた。翌年、起用されて内外馬歩都軍頭・藩州防禦使を兼ね、まもなく殿前都虞候・容州観察使に任ぜられた。端拱初年、殿前副都指揮使・昭化軍節度使を加えられ、出て高陽関都部署となった。淳化二年四月、侍衛馬歩軍都虞候・武成軍節度使に任ぜられた。至道年間、出て延州路都部署となり、鎮州に改められた。

真宗が即位すると、忠武軍節度使を兼ね、数か月後に召還された。咸平二年、再び出て鎮州・定州・高陽関の三路行営都部署となった。契丹が大挙侵入し、辺境の城砦は皆急を告げる飛書を寄こした。傅潛の麾下の歩騎合わせて八万余りは、皆自ら鉄撾・鉄棰を用意し、奮って撃たんと争った。傅潛は臆病で方略がなく、門を閉じて自ら守り、将校で戦いを請う者があれば、悪口を言って罵った。まもなく、契丹は狼山砦を破り、全力を挙げて威虜を攻め、寧辺軍及び祁州・趙州を略奪し、遊騎が邢州・洺州に出て、鎮州・定州の道が一か月以上不通となった。朝廷はたびたび間道を使って使者を遣わし、その出師を督促し、諸路の兵を合わせて撃つよう命じた。范廷召・桑讚・秦翰もたびたびこれを促したが、皆聞き入れなかった。廷召らは怒り、傅潛を罵って言った。「貴公の臆病さは一人の老婆にも及ばない。」傅潛は答えることができなかった。都鈐轄の張昭允もまたたびたび傅潛を勧めたが、傅潛は笑って言った。「賊の勢いはこのようである。我がこれと争えば、ちょうど我が鋭気を挫くだけだ。」しかしやむを得ず、騎兵八千、歩兵二千を分けて廷召らに与え、高陽関でこれを迎え撃たせ、なお出兵して援護することを約束した。廷召らが契丹と血戦した時、傅潛はついに到着せず、康保裔はついに戦死した。

そして車駕(天子)が親征しようとした時、また石保吉・上官正に命じて大名から前軍を率いて鎮州・定州に赴き、傅潛と合流させた。傅潛はついに逗留して出発せず、敵騎に徳州・棣州を侵犯させ、黄河を渡って淄州・斉州に迫り、人民を掠め、家屋を焼かせた。上は大名に駐蹕したが、辺境の捷報は未だ届かず、かつ諸将はたびたび増兵を請うたが、傅潛はこれを与えなかった。戦勝した者がいても、傅潛はまた抑えて上聞に達しなかった。上はこれによって大いに怒り、高瓊を単騎でただちに軍中に遣わして彼と代えさせ、傅潛を行在所に詣でさせた。到着すると、御史府に下し、銭若水に命じて共同で弾劾審理させ、一晩で獄が決した。百官が法を議して斬刑に当たるとし、従駕の群臣の多くが封事を上ってこれを誅するよう請うた。上はその死を赦し、詔を下して傅潛の現職の官爵を削奪し、その家眷と共に長流して房州に配した。傅潛の子で内殿崇班の傅従範もまた官籍を削られて父に従い流所に赴き、なおその資産を没収した。五年、赦令に会い、汝州に移された。景德初年、起用されて本州団練副使となり、左千牛衛上将軍に改め、西京に分司した。大中祥符四年、車駕が西巡して洛陽らくように至り、これに因んで従駕させて還京させ、左監門大将軍に遷し、その邸宅を返還した。久しくして、左金吾街仗を判じた。天禧元年、卒した。

附 張昭允

張昭允は、字を仲孚といい、衛州の人である。父の張秉の蔭官により、大理評事を試みられた。潘美が娘を妻とさせ、右班殿直に換奏し、長く在職したため、通事舎人に遷った。端拱初年、契丹が内擾したため、雄州監軍に任ぜられた。敵騎が秋に乗じて境上を掠奪したので、昭允は知州の田仁朗と共に精鋭の兵を選んでその陣営を襲い、敗走させた。西上閣門副使に進み、左右蔵の金銀銭帛を提総した。

昭允は諸州の絹が常に規定外に数尺長いことを以て、それを裂き取って工官に渡し他の用途に備えるよう請い、毎年余剰を得た。その後、士卒が冬服を受け取った時、測ってみると規定に達せず、怨嗟の言葉を発したため、昭允は連座して免官された。まもなく起用されて崇儀副使となり、累進して西上閣門使・河西馬歩軍鈐轄となり、石州に屯した。李継遷討伐に会し、王超が夏州・綏州路を進み、後陣を率いた。王超は数百里も深入りし、白池を越えたが、道が阻まれ糧食が絶えた。昭允は配下の兵を率いてこれを救援し、戎人は大敗した。

真宗が即位すると、昭允は章懐皇后の姉婿であったため、大いに親信された。咸平二年、鎮・定・高陽関行営馬歩都鈐轄に任じられた。当時傅潜が都部署であったが、畏懦して城を守り、昭允はたびたび出兵を勧めたが、傅潜は兵を動かさなかった。傅潜が罪を得ると、昭允もまた官爵を削奪され、道州に長流された。景德二年、楚州団練副使として起用され、右神武将軍に改められた。大中祥符元年、卒去した。

昭允は筆札を好み、射を習い、音律に通暁していた。子に正中、居中がいた。

戴興

戴興は、開封雍丘の人である。十余歳の時、勇力をもって里中に聞こえた。成長すると、身長七尺余、美しい髭髯を生やし、眉目は絵のようであった。太宗が藩邸におられた時、興は府に詣でて求見し、その異才を認められ、帳下に留め置かれた。即位すると、御馬左直に補され、直長に遷り、さらに御龍直副指揮使に遷った。太原征伐に従い、先登して流れ矢に中り、御龍弓箭直指揮使に補され、都虞候に遷った。ある日、帝が興に問うて言われた、「汝に尊属はあるか」。答えて言う、「臣の父延正、兄の進は皆、田を力めております」。即座に延正を諸衛将軍に、進を天武軍使に召し出された。まもなく興をして厳州刺史を領させ、天武左廂都指揮使・勝州団練使を領するよう改めた。

雍熙三年、曹彬らが北征して軍律を失い、諸将多くは坐して罷免されたが、興を侍衛歩軍都虞候とし、雲州防禦使を領させた。契丹が辺境を撹乱したため、興に澶州に屯して非常事態に備えさせ、本州観察使に改め、天雄軍副都部署を充てた。

端拱初年、歩軍都指揮使に遷り、鎮武軍節度使を領し、襲衣・金帯・鞍勒馬を賜った。澶州、天雄軍都部署を歴任し、殿前副都指揮使に改め、出て鎮・定二州を帥いた。時に盗賊が群起し、五巡検の兵を合わせて討ったが、一月を過ぎても平定できなかった。興はひそかに配下の兵を率いて潜行し撃ち、捕らえ殺戮することほぼ尽くした。まもなく、高陽関に移り、殿前都指揮使に遷り、定国軍節度使を領し、白金一万両を賜り、毎年加給銭七百万を加えられた。

淳化五年、出て定武軍節度使となり、毎年加給銭千万を加えられた。西北が未だ平定されず、夏州路行営都部署・知州事に移った。時に五路で李継遷を討ち、興の率いる部隊は千余里も深入りしたが、賊を見なかった。太宗が崩御すると、三度上表して国哀に赴くことを求め、返答を待たずに出発した。京師に至ると、配下を擅かに離れた罪により、左遷されて左領衛上将軍となった。咸平初年、左金吾街仗を兼判し、まもなく出て京兆府知事となり、卒去した。太尉を贈られ、中使を遣わしてその喪を護り郷里に帰葬させた。子の永和、永豊を録用した。

王漢忠

王漢忠、字は希傑、徐州彭城の人である。若い頃は豪放で、膂力があり、体躯魁偉、騎射に優れていた。節帥の高継衝が帳下に召し出そうとしたが、漢忠は行かなかった。里中の少年を毆殺したため、逃亡した。一晩経って蘇生し、その父が蕭県まで追いかけて来たが、漢忠は還らず、西へ向かい京師に至った。太宗が藩邸におられた時、召し出され、その材力を奇として左右に置かれた。即位すると、殿前指揮使に補され、累遷して内殿直都知となった。太原征伐に従い、先登して流れ矢が眸に中ったが、戦いを一層激しくし、上はこれを壮として、東西班指揮使に遷した。劉継元が降伏すると、配下を率いて城中を安撫した。師が還ると、殿前左班指揮使に改め、三遷して右班都虞候・涿州刺史を領した。雍熙年間、馬歩軍都軍頭に改めた。端拱初年、出て賓州団練使となり、冀・貝二州部署を歴任し、天雄軍に移った。二年、入朝して侍衛馬軍都虞候・洮州観察使・高陽関副都部署を領した。契丹が南侵すると、漢忠は諸軍を合わせてこれを撃破し、斬首捕虬甚だ多かった。淳化初年、定州に移った。五年、殿前都虞候に遷った。

真宗が即位すると、中山から召還された。まもなく再び出て高陽関都部署となり、進んで威塞軍節度使を領した。咸平三年、また涇原・環慶両路都部署兼安撫使となり、侍衛馬軍都指揮使に遷り、鎮・定・高陽関都部署・三路都排陣使に改めた。契丹が中山を掠奪すると、漢忠は諸将を率いて野に陣し、契丹は遁走し、追撃して多くを斬り、その貴将を捕獲した。殿前副都指揮使を加えられ、保静軍節度使を領するよう改めた。

五年、西面経略使を罷め、漢忠を邠寧・環慶両路都部署とし、李允正・宋沆を鈐轄とし、戍兵二万五千人を率い、漢忠に委ねて分道制御させた。数か月後に召還され、詔に違いて功無き罪に坐し、責められて左屯衛上将軍となり、出て襄州知事となったが、常俸の外に歳給銭二百万を増やされた。赴任せず、急に病を得て卒去した。太尉を贈られ、その長子で内殿崇班の従吉を閣門祗候とし、次子の従政・従益を左右侍禁とした。

漢忠には識略があり、軍政は甚だ厳粛で、毎度出兵する際、明朝には必ず香を焚いて祝い、「願わくは軍民、我が令に犯すこと無からん、違う者は一毫も貸さず」と言った。故に配下に盗みは無かった。性質は剛果で、小節に拘らず、財を軽んじ施すことを楽しんだ。読書を好み、詩をよくした。儒士を喜び、賓佐を礼をもって遇し、名声は甚だ高かったが、それ故に自ら矜り高ぶり、群帥は快く思わなかった。

漢忠の没後、その子の従吉が闕に詣でて上書し、父の冤罪を訟うとともに、歴々に群臣を誹謗し、賄賂を行い党を樹て、及び辺防の屯戍の艱苦を蒙蔽した事があった。真宗は枢密の王継英らに命じて状を問わせたが、従吉はただ状中の言葉を誦するのみで、他に答えるところが無かった。上は従吉を御史に付し、ことごとく伏したところ、進士の楊逢がその文辞を作っていたことが分かった。従吉は除名に坐し、随州に配流された。楊逢は杖刑の上、春州に配流された。

王能

王能は、広済定陶の人である。初め州将の袁彦に仕え、太宗が晋邸におられた時、召し出されて左右に置かれた。即位すると、内殿直に補され、六遷して殿前左班指揮使となり、進んで散員都虞候となった。久しくして潘州刺史を領し、再遷して殿前右班都虞候兼御前忠佐馬歩軍都軍頭となった。咸平初年、捧日右廂都指揮使から出て済州団練使・静戎軍知事となった。鮑河を決壊させ、長城口を断ち、北に雄州の塘水に注ぎ、戎馬の限界とし、方舟を通して漕運し、以て塞下を充実させることを建議した。また方田を開き、静戎・順安の境を尽くした。北辺より寇が来ると、能はこれを撃退した。

初めに、真宗は軍校のうち勤勉で勇猛な者を尋ね、方面の任に委ねるに当たり、宰相に語って曰く、「王能、魏能は頗る公家のために力を宣べ、陳興、張禹珪も亦時に声有りと聞く。才は固より全きは難し、十を抜きて五を得るも、亦助け有らん」と。景德の初め、本州防禦使に擢で、魏能、張凝と並びに命を受けて出でて邢洺路都部署と為り、俄かに鎮、定、高陽関三路行営都部署・押策先鋒に改む。祁州の城を護り、躬ら丁夫を率い、旦暮役所を離れず、宴犒周渉なり。詔使の北より至る者之を言うに会い、手詔を以て褒飭し、連ねて天雄軍・高陽関二部署に徙し、定州副都部署に改む。

大中祥符二年、詔して鎮、定両路の部署を合して一と為し、命じて能に之を領せしむ。明年召し入れて、侍衛歩軍副都指揮使・曹州観察使を拝す。汾陰を祀り、留めて京城巡検兼留司殿前司事と為す。礼成りて、振武軍節度を加領し、復た鎮、定副都部署兼知定州と為る。八年、表を上りて入覲を求め、之を許す。

先ず是れより、節帥の陛見するは、必ず長春殿に飲せしむも、兵を掌る者は則ち預からず。是に至り、特ちに藩臣の例を用いしむ。有司言く、「能既に坐に赴かば、則ち殿前馬軍の帥皆当に侍立すべし」と。是より諸帥を特ちに坐に預からしめ、是より兵を掌る者は率い之を例と為す。俄かに屯所に還り、静江軍節度を領するを改む。天禧元年、都指揮使に転じ、保静軍節度を領す。是の冬代わりて還り、入見し、足疾を以て舞蹈を免じ、宴を賜う。累表して解任を求め、特ちに告を以て医療せしむ。二年、制を以て彰信軍節度を授け、軍職を罷めて鎮に赴かしむ。地其の郷里に近きを以て、之を寵するなり。明年卒す。年七十八。太尉を贈り、而して其の子守信等の官を録す。

張凝

張凝は、滄州無棣の人なり。少くして武勇有り、倜儻自ら任ず。郷人の趙氏の子、材を以て称せらるるも、凝は其の下に居るを恥じ、因みに弓を挟みて勝負を角つ。土を築きて百歩を約し之を射るに、凝一発洞して過ぎ、矢十許歩を激し、大樹に抵りて止まる。観者歎服す。節帥張美之を壮とし、召して帳下に置く。太宗藩邸に在り、其の名を聞き、以て親衛に隷す。即位し、殿前指揮使を補し、稍く散祗候班都虞候に遷る。

淳化の初め、其の材幹有るを以て、王斌、王憲と並びに洛苑使を授けられ、凝は繡州刺史を領し、襲衣・金帯を賜い、毎に頒賚する必ず異等なり。出でて天雄軍駐泊都監と為り、貝州に移し、高陽関行営鈐轄・六宅使に改む。真宗践祚し、莊宅使を加え、北作坊使に遷る。

咸平の初め、契丹南侵し、凝は率いる所部の兵を瀛州の西に伏せ設け、其の不意に出で、腹背奮撃し、身を挺して敵に陷る。凝の子昭遠、年十六、従行す。即ち単騎疾呼し、陣中に突入し、凝を掖いて出ず。左右披靡して敢えて動かず。明年、契丹の兵大いに至り、車駕大名に幸す。凝は范廷召と莫州の東に於いて分かれて要害を拠し、其の帰路を断つ。契丹宵遁し、凝は兵を縦いて之を撃ち、掠むる所の生口・資畜を尽く奪う。鎮、定、高陽関路前陣鈐轄に徙し、趙州刺史に遷る。

四年、召し還され、潘璘に代わりて邠寧環慶霊州路副部署兼安撫使と為る。時に斥堠数擾れ、転運使劉綜飛輓の給せざるを懼れ、計を凝に問う。凝曰く、「今当に深入し、敵の資糧に因らば、慮うるに足らず」と。乃ち白豹鎮より兵を率いて敵境に入り、賊将を生擒し、三百餘帳・芻糧八萬を焼蕩し、五千餘を斬首し、牛馬・器甲二萬を獲、九百餘人を降す。慶州の蕃族胡家門等桀黠にして制し難く、凝は因みに襲い之を破る。又熟戸と生羌錯居し、頗る誘脅せらる。凝は兵を引きて八州原・分水嶺・柔遠鎮に至り、峇<者多>等百七十餘族を降し、四千戸を合す。辺境安んずるを得。就いて寧州団練使を加う。

景德の初め、本州防禦使に遷り、楊嗣に代わりて定州路行営副部署と為り、保州駐泊に徙し、又北面安撫使を兼ぬ。時に王超総帥と為り、大兵を以て中山に頓す。朝議凝と魏能、田敏、楊延昭を択び分かって精騎を握らしめ、契丹の至るを俟ち、則ち深入して以て其の勢を牽かしむ。超嘗て四人の悉く所部に隷せんことを請う。上は本奇兵を設けて敵の心腹を撓ます。若し復た大将の裁きを取らば、則ち効を責むる無からんと。乃ち凝等に超の節度を受けざらしむ。時に魏能逗撓し、退きて城堡を保つ。衆皆憤悱し、能を責譲す。凝独り黙然たり。或る之を問う。凝曰く、「能は粗材にして険愎、既に諸君の容れざる所と為る。吾復た切に之を言わば、其の心自ら安からしめず。計に非ず」と。上聞きて其の識有るを嘉す。

車駕澶淵に兵を観る。凝は衆を率いて易州に抵る。既にして契丹盟を受け北に帰る。過ぐる所猶侵剽已まず。遂に凝を以て縁辺安撫使と為し、兵を提げて其の後を躡わしむ。契丹乃ち敢えて略奪せず。高陽関部署に改む。明年労を議し、就いて殿前都虞候を加う。卒す。

凝は忠勇にして功名を好み、累ね西北に任じ、善く士卒を訓べ、器仗を繕完す。前後の賞賜多く以て師を犒う。家に餘資無く、京師に居第無し。真宗之を悼惜し、彰徳軍節度を贈り、中使を遣わして喪を護り京に還らしめ、官葬事を給し、厚く其の家を恤す。子昭遠。

魏能

魏能は、鄆の人なり。少くして募に応じ、雲騎軍に隷し、後選補されて日騎左射と為り、又殿前班に隷し、七遷して散員左班都知と為る。旧制、諸軍辞見するに、才器勇敢或いは迥に群を出づる者あれば、将校の交挙を許して以て任使し、其の志を枉げざらしむ。能時に外藩に戍すも、咸に挙ぐる者未だ有らず。太宗曰く、「能は材勇人に過ぐ。朕自ら保つ可し」と。是より之を進用す。

端拱二年、御前忠佐馬軍副都軍頭を加え、歴て殿前左班都虞候・溪州刺史を領し、秩を加えて転じ馬歩軍都軍頭と為る。咸平三年、真に黄州刺史を拝す。明年、鎮、定、高陽関三路前陣鈐轄と為る。五年、鄭州団練使を知り、復た威虜軍に任ず。

契丹寇に入る。能は城西に当たり、諸将と合戦し、憚色無く、其の衆を大いに敗り、二萬級を斬首す。契丹の統軍鉄林相公来たりて陣に薄る。能は矢を発して之を殪し、並びに其の将十五人、甲馬・兵械を奪うこと益々衆し。契丹復た入る。能は州軍を率いて南関門に逆戦し、其の子正と都監劉知訓を遣わして間道より敵の行勢を絶ち、戦うこと数十合、退きて西山の下に薄り、之を破走し、器甲十八萬を獲る。契丹嘗て鈔に入らんと謀る。能偵知し、即ち兵を発して逆撃し、酋帥を生擒し、殄滅殆んど尽くす。

六年、威虜軍部署・知軍事に改める。士民が闕下に詣でて能の留任を乞うたので、詔してこれを嘉した。能は、辺境を逃亡した戍卒については、その妻子を没収して奴婢とすることを建言した。上は厳しすぎることを慮り、自新の猶予期間を認め、違反した者は法により処することとした。時に順安軍の営田河道を浚渫して寇を扼する計画があり、能は莫州路部署に転任した。石普が順安の西境に兵を駐屯させていたので、詔して能に楊延昭・田敏と犄角の備えをなさしめた。景德初年、敵を長城口で破り、陽山を越えて追撃し、斬首・鹵獲した兵器が益々多かったので、詔して錦袍・金帯を賜った。再び配下部隊を率いて順安において寇を防いだ。

六月、召されて防禦使に拝され、再び出向して寧辺軍路部署となった。詔して能の果断な才略を推し、再び威虜に任じて精兵を副え、敵の動静を窺わせた。辺境の賊百余人が居民を掠奪し、蕃僧を立てて帥としたので、能は田敏・楊勳と合兵して伏兵を設けてこれを撃ち、その帥を擒らえた。賊が城に迫って来たので、能は兵を出してこれを防いだが、少し敗れたので、すぐに陣を退いて城に入り、張凝が兵を率いて撃退した。時に詔して能と凝に偏師を率いて分道より幽州・易州に入り、契丹の勢いを牽制させようとしたが、能は臆病で進まず、かつ配下部隊を統制せず、多く人馬を俘奪した。まもなく定州に駐屯地を移し、凝を遣わして跡を追って北進させたが、能は粗暴で、自ら功のないことを思い、心に愧じ、多く怨みの言葉を吐き、誹謗の言葉が朝廷に聞こえた。朝議は能が剛直で狡猾、行いが慎みに欠け、専任できないとし、綦政敏を鈐轄に任じ、同職たらしめた。

翌年、軍は大名に還った。時に王能・曹璨がそれぞれ兵を率いて帰京し、城下に至ると、鈐轄孫全照は能・璨の軍に北門より分道して先に入城させ、能の軍はその後に入った。能は全照が自分を後回しにしたことに怒り、疾駆して競って入城したので、全照がこれを射ると、能は堪えられず、全照の弓を奪って去った。翌日、判府王欽若のもとに赴き、全照が押隊閣門楊凝を射傷けたと誣告し、言葉は甚だ紛糾した。全照は密かに上疏して、能が兵を退かせて遅滞し、軍が緩慢で期に遅れ、また軍が凱旋する際に整わなかった様子を奏した。上は初め能が逗留したと聞き、少し怒っていた。全照の上奏があったので、張凝・白守素らに事実を質し、ただちに右羽林將軍に責授し、鞏縣都監として出向させた。翌年、自ら陳述したことにより、特旨をもって右ぎょう衛大將軍・虢州都監に改官し、累遷して康州團練使を加領した。大中祥符八年、卒去した。その子の正を閣門祗候に、靖を三班奉職に録用した。

陳興

陳興は、澶州衛南の人である。開寶年中に応募して卒となり、禦龍右直に隷属した。太宗が河東を征し、幽陵に幸した際、興は常に従い、特に賞賜を受け、累遷して天武指揮使となった。端拱年中、御前忠佐歩軍副都軍頭に改める。王超が並・代部署となった時、興を随軍とするよう奏上し、汾州に派遣して戍守させた。翌年、李繼隆が行営を河西に置くと、興はその麾下に隷属し、清朔・龍衛諸軍を率いて綏・夏・銀州を攻略し、繼隆は権知夏州を命じた。まもなく屯所に還り、詔を受けて河東縁辺の城池・器甲・芻糧を提轄した。至道初年、繼隆がその材幹を推薦し、召し補われて禦龍弩直都虞候となった。咸平初年、馬軍都軍頭・蒙州刺史を領す。三年、憲州刺史・知州を真授され、滄州副都部署に転じ、石州・隰州駐泊に移った。時に綏州を築城することとなり、詔して錢若水と共に利害を視察に赴き、事柄は『若水傳』に詳しい。

また涇原儀渭鎮戎軍部署に転じた。上言して、鎮戎軍から渭州瓦亭砦まで七十余里の間に二つの堡があるので、兵三百人を留めてこれを戍守させるよう請うた。まもなく曹瑋・秦翰と兵を率いて鎮戎軍西北の武延鹹泊川に至り、蕃寇の章埋族の帳幕を掩撃し、二百余級を斬首し、三百余人を生擒し、鎧甲・牛羊・駱駝・馬三万に及ぶものを奪った。詔書をもって嘉獎し、金帯・錦袍・器幣を賜った。繼遷の配下の康奴族は、往年霊州の援糧を掠奪し、険阻と人多勢いを恃み、特に凶暴で狡猾で制し難かった。再び秦翰らと合衆して進討し、その巣穴を窮め、老幼を俘虜とし、器畜を多く鹵獲し、その窖蔵を悉く焼き払い掘り起こした。再び詔してこれを褒め、加えて賜賚を加えた。その年、六穀の大首領潘羅支が、諸蕃を率いて賊を撃ちたいので、霊州で兵を合わせてほしいと申し出た。上は道が遠く師期を刻限するのは難しいと考え、詔して興に、羅支からの報せが届き次第、直ちに配下部隊を率いて天都山を越えて援護に向かわせ、奏上を待たないよう命じた。會して繼遷が死んだため、事は中止となった。景德三年、本州團練使・知徐州に遷った。

興は行伍より起こり、武略があり、赴任先で頗る名声と実績を顕した。真宗は軍校の材能について言えば、必ず興を能ある者とした。大中祥符初年、召されて龍神衛四廂都指揮使・登州防禦使を領し、出向して邠寧環慶路副都部署兼知邠州となった。劫盗を擅自に釈放した罪に坐し、軍職を罷められ、敘州防禦使・知懷州に改められた。六年、卒去した。

許均

許均は、開封の人である。父の邈は、太常博士であった。均は、建隆年中に応募して龍捷の卒となり、遼州征伐に従軍し、功により武騎十将に補され、錦袍・銀帯を賜った。開寶年中、武騎副兵馬使に遷る。曹彬に従って金陵を征し、衆を率いて水砦を陥落させ、流れ矢が手を貫いた。本軍使に改める。河東征伐に従い、隆州城を攻撃し、真っ先に登城してこれを陥落させ、八ヶ所の傷を負った。副指揮使に遷り、前後たびたび賞賚を受けた。出向して杭州に駐屯した時、妖僧紹倫が党を結んで乱を起こしたので、均は巡検使周瑩に従い、これを悉く擒らえて殺した。

端拱初年、指揮使に補される。李繼隆・秦翰に従って夏州に赴いた。趙保忠を擒らえ、均に兵を率いて守衛させた。龍衛第四指揮使に改め、まもなく夏州に駐屯し、賊が境を侵犯して来たので、一日に十二度戦ってこれを退けた。また石普に従って原州牛欄砦で賊を撃ち、深く侵入し、牛羊・漢人の生口を多く鹵獲した。普がその功績を上表したので、第三軍指揮使に遷った。

咸平初年、御前忠佐馬軍都軍頭として秦州を戍守した。王均の乱が起こると、駅伝でしょくに派遣され、雷有終の麾下に隷属し、魚橋門を守り、また秦翰に従って広都で賊党を追撃して殺し、その衆七千余を降伏させた。駅伝で召されて東西班都虞候・順州刺史を拝命した。五年、稍遷して散員都虞候となった。嘗て召し出されて北面の辺事について諮問され、翌日、磁州刺史・深州兵馬鈐轄を真授された。六年、涇州駐泊部署に改める。数ヶ月後、知鎮戎軍となった。嘗て巡察に出て、隴山の木峽口に至ったが、真宗はその無断の離城を慮り、狂寇の奔突を憂い、詔書をもって戒飭した。まもなく吏治に明るくないとして、曹瑋を代わりに任じ、均は邠州駐泊部署に転じ、永興軍部署に改められた。車駕が澶淵に巡幸しようとした時、詔して均に知府の向敏中及び鳳翔の梁鼎と共に諸州の巡検捕盗事を提総させ、河陽に至ったところで、行在に召し出された。

時に王長壽という者がいた。元は逃亡兵卒で、勇力があり、計略に富み、百余人の徒党を集めていた。この春、陳留に至って掠奪を働き、県民が捕らえようとしたが果たせず、朝廷は使者を遣わして兵を増やし、澶州・濮州の間で追い払った。ちょうど契丹が南侵し、黄河沿いの民衆が驚き騒ぐと、長壽は徒党を結んでますます勢力を増し、人々は皆これを憂いた。均が胙城に至ると、長壽はその徒党五千余人を率いて県内に侵入し掠奪し、均の部下の歩兵は鎧を脱ぎ捨ててこれと戦った。均は方略をもってこれを誘い、長壽を生け捕りにし、悪党を斬り捕らえてことごとく殲滅した。上は敵を防ごうとしている最中であったため、賊を捕らえたことで均を褒賞しようとはしなかった。ただ均の部下の兵卒を賞し、傷を負った者には絹帛を賜り階級を進めた。翌年、以前の功労を追って叙し、均を本州の団練使に抜擢し、まもなく出向して代州の知州となった。四年の秋、均は病に倒れ、米鋭が代わって召還されたが、到着する前に均は卒去した。その子、懐忠を奉礼郎に、懐信を侍禁に任じた。幼子の懐徳は、別に伝がある。

張進

張進は、兗州曲阜の人である。拳勇にして射術に優れ、強弓を引き絞ること一石余りに及んだ。曹州にて募兵に応じ、鎮兵に隷属した。太祖自ら勇士を選び、進の才力を奇として、控鶴官に補し、積功により御龍弩直都虞候・恩州刺史を領するに至った。至道年間、御前忠佐歩軍都軍頭を兼ねた。太宗がかつて内厩に行幸した際、進は親校として鉞を執り前導し、体躯魁偉にして同輩をはるかに凌いでいた。太宗は熟視してこれを異とし、天武右廂都指揮使・賀州団練使に抜擢した。

咸平初年、昭州防禦使に遷り、龍神衛四廂都指揮使・京城左右廂巡検を充任した。まもなく、捧日・天武四廂都指揮使に遷った。二年の秋、近郊で閲兵があり、進は殿前都指揮使王超とともに自ら金鼓を執り、その進退を節し、軍容は甚だ整然としていた。上に従って北征し、また超とともに大陣及び先鋒の策応を管勾した。三年、権殿前都虞候となり、侍衛歩軍都虞候・鎮州副部署に遷り、天雄軍部署に転じた。ちょうど黄河が鄆州王陵口で決壊したため、数州の丁男を発動してこれを塞がせ、進にその役事を監督させた。およそ一月余りで完了し、詔を下してこれを褒めた。へい州・代州副都部署に移った。

李継遷が麟州を寇したとき、州の将は単身の使者を遣わし間道を通って太原に援軍を請うた。諸将は詔旨がないことを理由に躊躇して決断できなかったが、進ひとりが異議を唱え、兵を発して救援に赴かせた。到着すると包囲は解け、手詔を下してその美を褒めた。契丹が中山を侵したとき、進に広鋭の騎兵二万を率いさせ、土門から出て鎮州・定州で合流するよう命じたが、到着する前に敵は退き、再び晋陽に帰還した。景德元年、卒去した。上は中使を遣わして喪を護り京に還らせ、官が葬事を給した。子の元晋は、内殿崇班・閣門祗候に至った。天禧末年、その次子元素を三班借職に任じた。

李重貴

李重貴は、孟州河陽の人である。姿形雄偉にして、騎射を善くした。若くして節度使王審琦に仕え、甚だ親信され、甥娘を妻として与えられ、合流鎮将に補された。鎮に群盗があり、重貴がまだ若いのをよいことに、夜に乗じて侵入し掠奪しようと謀った。重貴はこれを知ると、すぐに柵を築き民に射術を習わせた。盗賊はこれを聞いて潰走した。太宗が藩邸におられたとき、その勇幹を知り、召し出して帳下に隷属させた。即位すると、殿前指揮使に補し、累遷して龍衛左第四軍都指揮使・河州刺史を領するに至り、捧日右廂都指揮使・蠻州団練使を領するよう改めた。

至道二年、衛州団練使として出向した。赴任しないうちに、命により五路の将を率いて李継遷を討つこととなり、重貴を麟府州濁輪砦路都部署に任じた。便殿で対面を得て、言上した。「賊は沙磧の中に居り、水草を追って牧畜し、定まった住処がなく、戦闘に便利で、利あれば進み、利なければ逃げます。今、五路が斉しく侵入すれば、彼らは兵勢のあまりに盛んなるを聞き、来て接戦せず、遠く遁れることを謀るでしょう。追おうとすれば人馬に食糧が乏しく、守ろうとすれば堅固な堡塁が地にありません。賊が未だ平定されないのに、臣らは何の面目をもって陛下にお目にかかることができましょうか」。太宗はこれを善しとし、御剣を取り出して賜り、また累次にわたり使者を遣わして慰労した。果たしてその後、諸将は大功を立てられなかった。帰還すると、代州・并州副都部署に任じた。真宗が即位すると、本州防禦使を加えられ、高陽関行営副都部署に転じた。

咸平二年、契丹が南侵し、楊疃に兵を屯させることを議した。張凝が先鋒を率いて敵に遭遇し、重貴は策応兵を率いて激戦し、全軍を率いて帰還した。范廷召が定州から来て、契丹兵と遭遇して交戦し、康保裔の大陣が敵に覆われた。重貴は凝とともに救援に赴き、腹背に敵を受けたが、申の刻から寅の刻まで、力戦して疾く戦い、敵はようやく退いた。時に諸将はその部署をかなり失ったが、重貴と凝だけが全軍を率いて屯所に還った。凝が将士の功績の状況を上奏することを議すると、重貴は慨然として言った。「大将が陥没したのに我々が功績を計算するなど、何の面目があろうか」。上はこれを聞いて嘉した。

翌年春、労により階級及び食邑を進められ、貝州知州に転じ、召し出されて労問を受け、再び郡に入るよう遣わされた。この冬、滄州駐泊副都部署兼知州事に転じた。病気のため京に還り医薬を受けることを求め、病癒えると、連続して邢州・天雄軍の二部署となり、また冀州知州となった。景德初年、車駕が澶淵に行幸した際、召還されて大内都部署となった。翌年春、鄭州知州として出向し、病が甚だしいため、左武衛大将軍・潘州防禦使を授けられ、左羽林軍大将軍致仕に改めた。大中祥符三年、卒去した。

呼延贊

呼延贊は、并州太原の人である。父の琮は、後周の淄州馬歩都指揮使であった。贊は若くして驍騎卒となり、太祖はその材勇をもって、東班長に補し、入れて承旨とし、驍雄軍使に遷した。王全斌に従って西川を討ち、身をって先鋒となり、数か所の創傷を受け、功により副指揮使に補された。太平興国初年、太宗自ら軍校を選び、贊を鉄騎軍指揮使とした。太原征伐に従い、先んじて登り城に乗り、女牆に及んで墜落すること数四に及び、面と向かって金帛を賜りこれを褒めた。七年、崔翰に従って定州を戍守し、翰がその勇を言上したため、馬軍副都軍頭に抜擢され、次第に内員寮直都虞候に遷った。

雍熙四年、馬歩軍副都軍頭を加えられた。かつて陣図・兵要及び営砦を築く策を献上し、辺境の任を領することを求めた。召見され、武芸を行わせた。贊は武具を具えて馬を馳せ、鉄鞭・棗槊を揮い、廷中を数四旋回し、またその四子、必興・必改・必求・必顯を引き入れて、代わる代わる剣を舞い槊を盤らせた。白金数百両及び四子の衣帯を賜った。

端拱二年、富州刺史を領した。まもなく輔超とともに都軍頭を加えられた。淳化三年、保州刺史・冀州副都部署として出向した。屯所に至り、統御の才がないため、遼州刺史に改めた。また民を治めることができないため、再び都軍頭・扶州刺史を領し、康州団練使を加えられた。

咸平二年、大名行幸に従い、行宮内外都巡検となった。真宗がかつて軍校を補任した際、皆が己の功績を述べ、あるいは喧嘩に至る者もいたが、贊ひとりが進み出て言った。「臣の月俸は百千ですが、所用はその半にも及びません。忝くも幸い多きに過ぎます。国に報いることのないを思い、敢えてさらに昇進を求めず、恐らくは福過ぎて災い生ずることを恐れます」。再拝して退いた。衆人はその分を知ることを嘉した。三年、元徳皇太后の園陵に際し、儀衛の護衛を掌るよう命じられ、帰還して間もなく卒去した。

贊は胆勇を有し、鷙悍にして軽率、常に「願わくは敵のために死せん」と語った。全身に「赤心殺賊」の字を彫り、妻子僕使に至るまで皆然り、諸子の耳の後ろには別に「出門忘家為國、臨陣忘死為主」と刺字した。また破陣刀・降魔杵を作り、鉄折上巾(両側に刃があり、いずれも十数斤の重さ)を着けた。絳色の帕で頭を包み、騅馬に乗り、服飾は詭異であった。性質はまた鄙誕にして理に近からず、厳冬に水をかけて幼児を冷やし、成長して寒さに強く勁健になることを望んだ。その子が病んだ時、贊は股を切り取って羹とし、これを治療した。贊の死後、必顯を抜擢して軍副都軍頭とした。

劉用

劉用は相州の人である。祖父の萬進は河中府馬歩軍都指揮使。父の守忠は左驍衛大將軍を以て致仕した。用は音律に通暁し、騎射に巧みで、太宗に晋邸にて仕えた。即位すると、軍職を補され、累遷して散都頭都虞候となった。端拱初年、馬歩軍副都軍頭・涼州刺史・鎮定招安使となり、転じて捧日都指揮使となった。李順が蜀で乱を起こすと、西路行営鈐轄となった。賊が平定されると、祁州刺史に遷った。至道初年、河西・烏白池都鈐轄となり、千余級を斬首し、五百匹の馬を奪い、高陽関副都部署に改めた。

真宗が即位すると、本州団練使・并州副都部署を加えられた。咸平年中、貝州に移り、まもなく瀛州を知り、再び高陽関副都部署となった。当時、烽堠がたびたび警報を発したため、用は辺兵を増やすことを建議し、敵が南牧したならば、即ち驍鋭を率いて東路より出撃し、その勢いを牽制すべきであるとし、地形図を献上した。上は宰相を召してこれを閲覧させ、その奏を認可し、かつ転運使に命じて保州・威虜・静戎・順安軍に資糧を準備させた。

六年、三路より出師して敵を防ぐべく命じ、詔して用と劉漢凝・田思明に兵五千を率いさせ、東路より石普・孫全照と合流して掎角の勢いでこれを攻撃させた。まもなく、鎮州副部署に換えた。景德初年、邢州部署となった。車駕が北征した際、用は城守の功労により爵邑を進められ、斉・陳・潞の三州を知り、大中祥符二年に卒した。

耿全斌

耿全斌は冀州信都の人である。父の顥は懐順軍校であった。全斌は若い頃から豊偉で、顥が連れて陳摶に謁見すると、摶は藩侯の相があると言った。顥が西蜀に戍守すると、全斌は省みに赴き、舟に乗って江を遡ったが、夜に大風で纜を失い、七十里も漂流し、夜明けになっても風が止まなかったが、舟が突然岸に泊まり、人々は大いに怪しんだ。後に京師に遊学し、太宗が藩邸におられた時、全斌は大通りで待ち伏せて拝謁し、自ら材幹を薦め、召されて武芸を試され、左射に優れていたため、帳下に隷属した。即位すると、東班承旨を補され、次第に遷って驍猛副兵馬使となった。

太原征伐に従い、帰還の途上、蒲陰で契丹と遭遇し、徐河まで追撃し、水口の要害を占拠した。日騎副兵馬使・雲騎軍使に遷補され、瀛州に屯した。契丹と戦い、乗っていた馬が二度流れ矢に当たって死に、計三度乗り換えたが、戦って退かず、契丹は引き揚げた。端拱初年、宥州で蕃部を撃ち、これを破った。雲騎指揮使・御前忠佐馬軍副都軍頭を歴任し、馬軍都軍頭に改め、深州を戍守し、累転して散直都虞候・順州刺史を領し、殿前左班都虞候・馬歩軍都軍頭に改めた。

全斌は軍中に能ある名声があった。真宗がかつて辺事について召して問うと、全斌は口頭で利害を陳述し、大いに旨にかなった。そこで輔臣に謂って「元澄・鄭誠・耿全斌は、人多くこれを称える。その詞気を観るに、志操ある者のようである。宿衛に止まっているだけでは、その才を見ることができない。辺郡で試すのがよい」と言った。そこで雄州刺史・深州知事に拝し、石・隰部署に移して河西に備えさせた。継遷が死ぬと、全斌は兵を率いて伏落関に入り、蕃部を誘って来帰する者数千人を得た。まもなく安粛軍を知り、かつて山川の険易を描いて図とし、献上した。

契丹が侵攻して来ると、山北より河滸に至り、全斌は子の従政に橋砦を焼かせ、自らは精兵を分率してこれを撃退した。冀州刺史・高陽関鈐轄に改め、従政を抜擢して侍禁・寄班祗候とした。大中祥符初年、泰山に封禅するに当たり、濮州鈐轄とした。その年、京師に還り、卒した。

周仁美

周仁美は深州の人である。開宝年中、応募して貝州驍捷軍に隷属した。関南の李漢超が選んで給使に備えさせ、たびたび契丹の諜者を捕獲した。漢超に従って西嘉山で戦い、身に重傷を負い、隊長に補された。漢超がその功を上奏すると、殿前班に隷属し、衣帯・鞍勒馬・什物・奴婢・器械を賜った。王継恩に命じて引き入れ、広く見せしめた。祗候庫を通り過ぎた時、太祖がその力でどれほどの銭を背負えるかと問うと、仁美は「臣は七八万は持ち上げられます」と答えた。太祖は「惜しい、圧死するだろう」と言い、四万五千を背負わせるのみと命じ、これを賜った。次第に遷って右班都知・御前忠佐馬軍副都軍頭となり、環州を戍守した。

当時、牛耶泥族が累年寇掠していたため、仁美は陳徳玄・宋思恭と共にこれを撃ち、三千級を斬首し、牛羊三百余を獲、戎族の囷窖を発して軍糧とした。また思恭と共に募窟泉岌拖族を討ち、格闘して八十余級を斬った。至道初年、石昌の牛耶泥族が再び叛くと、徳玄は仁美に兵を提げてこれを撫輯させた。仁美は石昌鎮主の和文顯に言った。「この賊を除かねば、辺患は止まない」。そこで厚く肴酒を設け、酋長二十八人を召し出して縛り、州の獄に送った。これより諸族は畏服した。

二年、また馬紹忠・白守栄・田紹斌と共に芻糧を部勒して清遠軍に赴き、仁美は先鋒となった。岐子平に至り、虜と戦い、これを走らせた。翌日、また浦洛河で戦い、巳の刻から戌の刻まで、数十合戦い、進んで乾河に壁した。紹忠・守栄は皆敗走し、紹斌は浦洛に退いて止まったが、仁美の率いる所の兵は三千に満たず、自身も八ヶ所の傷を負いながら、芻糧と官吏を護衛して直ちに清遠に到達した。紹斌が後に至り、その勇幹を深く歎賞し、表を上ってその功を奏した。

当時、運糧の民で道路上で傷つく者が相次いだため、仁美は徒兵を率いて援護し、皆環州に到達させた。また橐駝路で虜に遭遇し、これを撃退した。先に、諸蕃がたびたび京師に馬を貢ぐ際、継遷に邀撃されていたが、仁美が騎士を率いて援護すると、賊は敢えて侵犯しなくなった。澶州龍衛軍都虞候に補され、部署の李継隆が麾下に留めるよう奏上し、軍中の伉健なる者千人を選び、仁美に率いさせた。たびたび敵境に入り、戦って功があった。

やがて澶州に還る。召見され、時に諸軍に射をさせたところ、仁美は自ら筋力未だ衰えずと陳べ、殿廷に対し二矢を発することを願う。上これを許す。既にして前に奏して曰く、「臣は戎門に老い、多く外郡に戍し、稀に曾て京闕に入覲す。前後征行し、體に三十餘創を被る。今日萬乘に対し得るは、千載の幸なり。儻し或いは宿衛に備員し、殿庭の下に立ち一日を過ごすを得ば足れり」と。上、傅潛を顧みて笑い、潛も亦その武幹を称し、力めて留め、馬歩軍副都軍頭に補す。

潛は北面に屯し、常に自ら従う。契丹、蒲陰を攻む。仁美、萬騎を領してその囲みを解く。又王超に従い鎮・定・儀・渭に屯し、累遷して龍衛軍都指揮使・順州刺史を領し、復た鎮・定に屯す。時に州に亡命卒あり、聚まって盗を為し、村閭を剽掠して患いと為す。王超、仁美に委ねて招捕せしむ。仁美、勇敢の卒を選び、詐って亡命し賊の所に趣き、その要領を得、即ち自ら往きて禍福を以て諭し、賊中に一日留まる。超、忽ち仁美を失い、これを求むること甚だ急なり。詰旦、仁美至り、具にその事を道い、乃ち庫錢を出だして仁美に付し賞と為す。数日ならずして、賊悉く降り、凡そ二百餘人を得て、以て軍籍に隷す。

景德中、徙めて陳州に屯し、入って軍頭引見司を掌る。大中祥符元年、駕に従い泰山に至り、山下諸壇の牲牢祭饌を檢視することを命ぜらる。明年、出でて磁州團練使・衛州知州と為り、やがて滄州部署に改め、高陽關副部署に移る。八年、擢て龍神衛四廂都指揮・獎州防禦使を領し、捧日・天武四廂都指揮使に遷り、改めて端州防禦使を領し、權めて京新城內都巡檢と為る。是に先立ち、巡兵亡卒盗賊を捕え、獲ざれば皆罰あり、而して獲る者は賞無し。仁美、因りて差し立て賞格を立てて聞かしむ。詔してその請に従う。天禧三年、卒す。

論じて曰く、繼忠は臨陣して敵に赴き、以て死を自ら效す。その生くるや亦幸にして免るるも、然れども朔庭に在りて貴寵用事し、議者これを李陵に方う。而して大節固より已に虧けり。潛は三路の帥と為り、兵八萬餘を握る。大敵前に在りて、逗撓畏縮し、致して康保裔をして援無くして戰沒せしむ。此れにして誅せざれば、宋は是に於いて刑を失う。興・均の輩は或いは藩邸より進み、或いは行伍より起り、一時際会し、出ずれば則ち轅門に勲を書し、入れば則ち岩陛を拱扈す。古の名將の如きを求めれば、則ち未だ之を見ざるなり。