宋史

列傳第三十八 王繼忠 傅潛 張昭允 戴興 王漢忠 王能 張凝 魏能 陳興 許均 張進 李重貴 呼延贊 劉用 耿全斌 周仁美

列傳第三十八 王繼忠 傅潛 張昭允 戴興 王漢忠 王能 張凝 魏能 陳興 許均 張進 李重貴 呼延贊 劉用 耿全斌 周仁美

王繼忠

原文王繼忠

王繼忠は開封の人である。父の王充は武騎指揮使となり、瓦橋関に戍守して卒した。継忠は六歳の時、東班殿侍に補せられた。真宗が藩邸におられた時、側近に仕えることを得て、謹厳温厚なことで親信された。即位すると、内殿崇班に補せられ、累進して殿前都虞候に至り、雲州観察使を兼ね、出て深州副都部署となり、鎮州・定州・高陽関の三路鈐轄兼河北都転運使に改められ、高陽関副都部署に遷り、まもなく定州に移った。

原文王繼忠,開封人。父充,為武騎指揮使,戍瓦橋關,卒。繼忠年六歲,補東班殿侍。真宗在藩邸,得給事左右,以謹厚被親信。即位,補內殿崇班,累遷至殿前都虞候,領雲州觀察使,出為深州副都部署,改鎮、定、高陽關三路鈐轄兼河北都轉運使,遷高陽關副都部署,俄徙定州。

咸平六年、契丹の数万騎が南侵し、望都に至った。継忠は大将の王超及び桑讚らと兵を率いてこれを救援した。継忠は康村に至り、契丹と戦い、日暮れから夜中まで戦い、敵の勢いはやや退いた。夜明け近くに再び戦い、継忠は陣の東側に布陣し、敵に攻め立てられ、糧道を断たれた。王超と桑讚は皆、畏れ縮んで退却し、ついに救援に赴かなかった。継忠はただ麾下と共に馬を躍らせて馳せ赴き、服飾がやや異なっていたため、契丹にそれと見破られ、数十重に包囲された。兵士は皆重傷を負ったが、必死に戦い、戦いながら進み、西山の傍らを北へ向かい、白城に至り、ついに契丹に陥落した。真宗はこれを聞いて震悼し、初めは死んだものと思い、優詔を下して大同軍節度使を追贈し、贈り物と助け金を一等加増し、その四子に官職を与えた。

原文咸平六年,契丹數萬騎南侵,至望都,繼忠與大將王超及桑讚等領兵援之。繼忠至康村,與契丹戰,自日失至乙夜,敵勢小卻。遲明復戰,繼忠陣東偏,為敵所乘,斷餉道,超、讚皆畏縮退師,竟不赴援。繼忠獨與麾下躍馬馳赴,服飾稍異,契丹識之,圍數十重。士皆重創,殊死戰,且戰且行,旁西山而北,至白城,遂陷於契丹。真宗聞之震悼,初謂已死,優詔贈大同軍節度,賵賻加等,官其四子。

景德の初め、契丹が和を請い、継忠に奏章を上奏させたので、彼がまだ生きていることを知った。朝廷はこれに従い、ここより南北の兵を収め、継忠はそれに力を尽くした。毎年使者を契丹に遣わす時は必ず襲衣・金帯・器幣・茶薬を賜い、継忠も使者に対し必ず涙を流した。かつて付表を上して召還を懇請したが、上は誓書に「互いに求めない」と約しているので、それを変えたくないと考え、詔を賜ってその意を諭した。契丹主は継忠を非常に厚遇し、その姓名を耶律顕忠と改めさせ、また宗信と改名させ、楚王に封じた。後、その終わりを知らない。子に王懐節・王懐敏・王懐徳・王懐政がいる。

原文景德初,契丹請和,令繼忠奏章,乃知其尚在。朝廷從之,自是南北戢兵,繼忠有力焉。歲遣使至契丹,必以襲衣、金帶、器幣、茶藥賜之,繼忠對使者亦必泣下。嘗附表懇請召還,上以誓書約各無所求,不欲渝之,賜詔諭意。契丹主遇繼忠甚厚,更其姓名為耶律顯忠,又改名宗信,封楚王,後不知其所終。子懷節、懷敏、懷德、懷政。

真宗の宮邸に攀附した者で、継忠の次に、王守俊は済州刺史に至り、蔚昭敏は殿前都指揮使・保静軍節度使に至り、翟明は洺州団練使に至り、王遵度は磁州団練使に至り、楊保用は西上閣門使・康州刺史に至り、鄭懐徳は御前忠佐馬歩軍都軍頭・永州団練使に至り、張承易は礼賓使に至り、呉延昭は供備庫使に至り、白文肇は引進使・昭州団練使に至り、彭睿は侍衛馬軍副都指揮使・武昌軍節度使に至り、靳忠は侍衛馬軍都虞候・端州防禦使に至り、郝栄は安国軍節度観察留後に至り、陳玉は冀州刺史に至り、崔美は済州団練使に至り、高漢美は鄭州団練使に至り、楊謙は御前忠佐馬歩軍副都軍頭・河州刺史に至った。

原文真宗宮邸攀附者,繼忠之次有王守俊至濟州刺史,蔚昭敏至殿前都指揮使、保靜軍節度,翟明至洺州團練使,王遵度至磁州團練使,楊保用至西上閣門使、康州刺史,鄭懷德至御前忠佐馬步軍都軍頭、永州團練使,張承易至禮賓使,吳延昭至供備庫使,白文肇至引進使、昭州團練使,彭睿至侍衛馬軍副都指揮使、武昌軍節度,靳忠至侍衛馬軍都虞候、端州防禦使,郝榮至安國軍節度觀察留後,陳玉至冀州刺史,崔美至濟州團練使,高漢美至鄭州團練使,楊謙至御前忠佐馬步軍副都軍頭、河州刺史。

傅潛

原文傅潛

傅潛は冀州衡水の人である。若い時、州将の張廷翰に仕えた。太宗が藩邸におられた時、召し出して左右に置かれた。即位すると、殿前左班に属し、三度遷って東西班指揮使となった。太原征伐に従い、一日に二度流れ矢に当たった。また范陽征伐に従い、真っ先に涿州に到着し、契丹と戦い、五百余人を生け捕りにした。翌日、上(太宗)がその場所を通り過ぎ、積み重なった死体と遺棄された武器を見て、これを賞賛した。軍が帰還すると、内殿直都虞候に抜擢された。上は枢密に対し、「傅潛は従軍して功労があるのに、賞が薄い」と述べられた。さらに馬歩都軍頭・羅州刺史を兼ねさせ、捧日右廂都指揮使・富州団練使を兼ねるよう改め、日騎・天武左右廂都指揮使に遷り、雲州防禦使を兼ねた。

原文傅潛,冀州衡水人。少事州將張廷翰。太宗在藩邸,召置左右。即位,隸殿前左班,三遷東西班指揮使。征太原,一日,再中流矢。又從征范陽,先到涿州,與契丹戰,生擒五百餘人。翌日,上過其所,見積屍及所遺器仗,嘉歎之。師旋,擢為內殿直都虞候。上對樞密言:“潛從行有勞,賞薄。”復加馬步都軍頭、領羅州刺史,改捧日右廂都指揮使、領富州團練使,遷日騎、天武左右廂都指揮使,領雲州防禦使。

雍熙三年、大将曹彬を北征させる命が下り、傅潛を幽州道行営前軍馬歩軍都指揮使とした。軍は拒馬河で敗れ、責めを受けて右領軍衛大将軍に授けられ、検校司徒しとから右僕射に降格し、なお功臣の爵位と封邑を削られた。翌年、起用されて内外馬歩都軍頭・藩州防禦使を兼ね、まもなく殿前都虞候・容州観察使に任ぜられた。端拱初年、殿前副都指揮使・昭化軍節度使を加えられ、出て高陽関都部署となった。淳化二年四月、侍衛馬歩軍都虞候・武成軍節度使に任ぜられた。至道年間、出て延州路都部署となり、鎮州に改められた。

原文雍熙三年,命大將曹彬北征,以潛為幽州道行營前軍馬步軍都指揮使。師敗於拒馬河,責授右領軍衛大將軍,自檢校司徒降為右僕射,仍削功臣爵邑。明年,起為內外馬步都軍頭、領藩州防禦使,尋拜殿前都虞候、領容州觀察使。端拱初,加殿前副都指揮使、領昭化軍節度,出為高陽關都部署。淳化二年四月,拜侍衛馬步軍都虞候、領武成軍節度。至道中,出為延州路都部署,改鎮州。

真宗が即位すると、忠武軍節度使を兼ね、数か月後に召還された。咸平二年、再び出て鎮州・定州・高陽関の三路行営都部署となった。契丹が大挙侵入し、辺境の城砦は皆急を告げる飛書を寄こした。傅潛の麾下の歩騎合わせて八万余りは、皆自ら鉄撾・鉄棰を用意し、奮って撃たんと争った。傅潛は臆病で方略がなく、門を閉じて自ら守り、将校で戦いを請う者があれば、悪口を言って罵った。まもなく、契丹は狼山砦を破り、全力を挙げて威虜を攻め、寧辺軍及び祁州・趙州を略奪し、遊騎が邢州・洺州に出て、鎮州・定州の道が一か月以上不通となった。朝廷はたびたび間道を使って使者を遣わし、その出師を督促し、諸路の兵を合わせて撃つよう命じた。范廷召・桑讚・秦翰もたびたびこれを促したが、皆聞き入れなかった。廷召らは怒り、傅潛を罵って言った。「貴公の臆病さは一人の老婆にも及ばない。」傅潛は答えることができなかった。都鈐轄の張昭允もまたたびたび傅潛を勧めたが、傅潛は笑って言った。「賊の勢いはこのようである。我がこれと争えば、ちょうど我が鋭気を挫くだけだ。」しかしやむを得ず、騎兵八千、歩兵二千を分けて廷召らに与え、高陽関でこれを迎え撃たせ、なお出兵して援護することを約束した。廷召らが契丹と血戦した時、傅潛はついに到着せず、康保裔はついに戦死した。

原文真宗即位,領忠武軍節度,數月召還。咸平二年,復出為鎮、定、高陽關三路行營都部署。契丹大入,緣邊城堡悉飛書告急,潛麾下步騎凡八萬餘,咸自置鐵撾、鐵棰,爭欲奮擊。潛畏懦無方略,閉門自守,將校請戰者,則醜言罵之。無何,契丹破狼山砦,悉銳攻威虜,略寧邊軍及祁、趙遊騎出邢、洺,鎮、定路不通者逾月。朝廷屢間道遣使,督其出師,會諸路兵合擊,范廷召、桑讚、秦翰亦屢促之,皆不聽。廷召等怒,因詬潛曰:“公恇怯乃不如一嫗爾。”潛不能答。都鈐轄張昭允又屢勸潛,潛笑曰:“賊勢如此,吾與之角,適挫吾銳氣爾。”然不得已,分騎八千、步二千付廷召等,於高陽關逆擊之,仍許出兵為援。洎廷召等與契丹血戰而潛不至,康保裔遂戰死。

そして車駕(天子)が親征しようとした時、また石保吉・上官正に命じて大名から前軍を率いて鎮州・定州に赴き、傅潛と合流させた。傅潛はついに逗留して出発せず、敵騎に徳州・棣州を侵犯させ、黄河を渡って淄州・斉州に迫り、人民を掠め、家屋を焼かせた。上は大名に駐蹕したが、辺境の捷報は未だ届かず、かつ諸将はたびたび増兵を請うたが、傅潛はこれを与えなかった。戦勝した者がいても、傅潛はまた抑えて上聞に達しなかった。上はこれによって大いに怒り、高瓊を単騎でただちに軍中に遣わして彼と代えさせ、傅潛を行在所に詣でさせた。到着すると、御史府に下し、銭若水に命じて共同で弾劾審理させ、一晩で獄が決した。百官が法を議して斬刑に当たるとし、従駕の群臣の多くが封事を上ってこれを誅するよう請うた。上はその死を赦し、詔を下して傅潛の現職の官爵を削奪し、その家眷と共に長流して房州に配した。傅潛の子で内殿崇班の傅従範もまた官籍を削られて父に従い流所に赴き、なおその資産を没収した。五年、赦令に会い、汝州に移された。景德初年、起用されて本州団練副使となり、左千牛衛上将軍に改め、西京に分司した。大中祥符四年、車駕が西巡して洛陽らくように至り、これに因んで従駕させて還京させ、左監門大将軍に遷し、その邸宅を返還した。久しくして、左金吾街仗を判じた。天禧元年、卒した。

原文及車駕將親征,又命石保吉、上官正自大名領前軍赴鎮、定與潛會。潛卒逗遛不發,致敵騎犯德、棣,渡河湊淄、齊,劫人民,焚廬舍。上駐大名而邊捷未至,且諸將屢請益兵,潛不之與。有戰勝者,潛又抑而不聞。上由是大怒,乃遣高瓊單騎即軍中代之,令潛詣行在。至,則下御史府,命錢若水同劾按,一夕獄具。百官議法當斬,從駕群臣多上封請誅之。上貸其死,下詔削奪潛在身官爵,並其家屬長流房州。潛子內殿崇班從範亦削籍隨父流所,仍籍沒其貲產。五年,會赦,徙汝州。景德初,起為本州團練副使,改左千牛衛上將軍,分司西京。大中祥符四年,車駕西巡至洛,因令從駕還京,遷左監門大將軍,還其宅。久之,判左金吾街仗。天禧元年,卒。

附 張昭允

原文附 張昭允

張昭允は、字を仲孚といい、衛州の人である。父の張秉の蔭官により、大理評事を試みられた。潘美が娘を妻とさせ、右班殿直に換奏し、長く在職したため、通事舎人に遷った。端拱初年、契丹が内擾したため、雄州監軍に任ぜられた。敵騎が秋に乗じて境上を掠奪したので、昭允は知州の田仁朗と共に精鋭の兵を選んでその陣営を襲い、敗走させた。西上閣門副使に進み、左右蔵の金銀銭帛を提総した。

原文張昭允者,字仲孚,衛州人。以父秉蔭,試大理評事。潘美妻以女,奏換右班殿直,以久次,遷通事舍人。端拱初,契丹內擾,命為雄州監軍。敵騎乘秋掠境上,昭允與知州田仁朗選銳卒襲其帳,敗走之。進西上閣門副使,提總左右藏金銀錢帛。

昭允は諸州の絹が常に規定外に数尺長いことを以て、それを裂き取って工官に渡し他の用途に備えるよう請い、毎年余剰を得た。その後、士卒が冬服を受け取った時、測ってみると規定に達せず、怨嗟の言葉を発したため、昭允は連座して免官された。まもなく起用されて崇儀副使となり、累進して西上閣門使・河西馬歩軍鈐轄となり、石州に屯した。李継遷討伐に会し、王超が夏州・綏州路を進み、後陣を率いた。王超は数百里も深入りし、白池を越えたが、道が阻まれ糧食が絶えた。昭允は配下の兵を率いてこれを救援し、戎人は大敗した。

原文昭允以諸州絹常度外長數尺,請裂取付工官備他用,歲獲羨餘。既而土卒受冬服,度之不及程,出怨言,昭允坐免官。俄起為崇儀副使,累遷西上閣門使、河西馬步軍鈐轄,屯石州。會討李繼遷,王超出夏、綏州路,領後陣,超深入數百里,逾白池,道阻糧絕,昭允以所部援之,戎人大敗。

真宗が即位すると、昭允は章懐皇后の姉婿であったため、大いに親信された。咸平二年、鎮・定・高陽関行営馬歩都鈐轄に任じられた。当時傅潜が都部署であったが、畏懦して城を守り、昭允はたびたび出兵を勧めたが、傅潜は兵を動かさなかった。傅潜が罪を得ると、昭允もまた官爵を削奪され、道州に長流された。景德二年、楚州団練副使として起用され、右神武将軍に改められた。大中祥符元年、卒去した。

原文真宗即位,以昭允章懷皇后姊婿,頗被親信。咸平二年,命為鎮、定、高陽關行營馬步都鈐轄。時傅潛為都部署,畏愞城守,昭允屢勸其出兵,潛按兵不動。潛既得罪,昭允亦削奪官爵,長流道州。景德二年,起為楚州團練副使,改右神武將軍。大中祥符元年,卒。

昭允は筆札を好み、射を習い、音律に通暁していた。子に正中、居中がいた。

原文昭允喜筆劄,習射,曉音律。子正中、居中。

戴興

原文戴興

戴興は、開封雍丘の人である。十余歳の時、勇力をもって里中に聞こえた。成長すると、身長七尺余、美しい髭髯を生やし、眉目は絵のようであった。太宗が藩邸におられた時、興は府に詣でて求見し、その異才を認められ、帳下に留め置かれた。即位すると、御馬左直に補され、直長に遷り、さらに御龍直副指揮使に遷った。太原征伐に従い、先登して流れ矢に中り、御龍弓箭直指揮使に補され、都虞候に遷った。ある日、帝が興に問うて言われた、「汝に尊属はあるか」。答えて言う、「臣の父延正、兄の進は皆、田を力めております」。即座に延正を諸衛将軍に、進を天武軍使に召し出された。まもなく興をして厳州刺史を領させ、天武左廂都指揮使・勝州団練使を領するよう改めた。

原文戴興,開封雍丘人。年十餘歲,以勇力聞里中。及長,身長七尺餘,美髭髯,眉目如畫。太宗在藩邸,興詣府求見,奇之,留帳下。即位,補禦馬左直,遷直長,再遷禦龍直副指揮使。從征太原,先登,中流矢,補禦龍弓箭直指揮使,遷都虞候。一日,帝問興曰:“汝頗有尊屬否?”對曰:“臣父延正、兄進皆力田。”即召延正為諸衛將軍,進為天武軍使。俄以興領嚴州刺史,改天武左廂都指揮使、領勝州團練使。

雍熙三年、曹彬らが北征して軍律を失い、諸将多くは坐して罷免されたが、興を侍衛歩軍都虞候とし、雲州防禦使を領させた。契丹が辺境を撹乱したため、興に澶州に屯して非常事態に備えさせ、本州観察使に改め、天雄軍副都部署を充てた。

原文雍熙三年,曹彬等北征失律,諸將多坐黜免,以興為侍衛步軍都虞候,領雲州防禦使。契丹撓邊,命興屯澶州以備非常,改本州觀察使,充天雄軍副都部署。

端拱初年、歩軍都指揮使に遷り、鎮武軍節度使を領し、襲衣・金帯・鞍勒馬を賜った。澶州、天雄軍都部署を歴任し、殿前副都指揮使に改め、出て鎮・定二州を帥いた。時に盗賊が群起し、五巡検の兵を合わせて討ったが、一月を過ぎても平定できなかった。興はひそかに配下の兵を率いて潜行し撃ち、捕らえ殺戮することほぼ尽くした。まもなく、高陽関に移り、殿前都指揮使に遷り、定国軍節度使を領し、白金一万両を賜り、毎年加給銭七百万を加えられた。

原文端拱初,遷步軍都指揮使、領鎮武軍節度,賜襲衣、金帶、鞍勒馬。曆澶州,天雄軍都部署,改殿前副都指揮使,出帥鎮、定二州。時盜賊群起,會五巡檢兵討之,逾月不能克。興陰勒所部潛出擊之,擒戮殆盡。未幾,徙高陽關,遷殿前都指揮使,領定國軍節度,賜白金萬兩,歲加給錢七百萬。

淳化五年、出て定武軍節度使となり、毎年加給銭千万を加えられた。西北が未だ平定されず、夏州路行営都部署・知州事に移った。時に五路で李継遷を討ち、興の率いる部隊は千余里も深入りしたが、賊を見なかった。太宗が崩御すると、三度上表して国哀に赴くことを求め、返答を待たずに出発した。京師に至ると、配下を擅かに離れた罪により、左遷されて左領衛上将軍となった。咸平初年、左金吾街仗を兼判し、まもなく出て京兆府知事となり、卒去した。太尉を贈られ、中使を遣わしてその喪を護り郷里に帰葬させた。子の永和、永豊を録用した。

原文淳化五年,出為定武軍節度,歲加給錢千萬。西北未平,徙夏州路行營都部署、知州事。時五路討李繼遷,興所部深入千餘里,不見賊。會太宗崩,三上表求赴國哀,不俟報上道。及至京師,以擅離所部,左遷左領衛上將軍。咸平初,兼判左金吾街仗,俄出知京兆府,卒。贈太尉,遣中使護其喪歸葬鄉里。錄其子永和、永豐。

王漢忠

原文王漢忠

王漢忠、字は希傑、徐州彭城の人である。若い頃は豪放で、膂力があり、体躯魁偉、騎射に優れていた。節帥の高継衝が帳下に召し出そうとしたが、漢忠は行かなかった。里中の少年を毆殺したため、逃亡した。一晩経って蘇生し、その父が蕭県まで追いかけて来たが、漢忠は還らず、西へ向かい京師に至った。太宗が藩邸におられた時、召し出され、その材力を奇として左右に置かれた。即位すると、殿前指揮使に補され、累遷して内殿直都知となった。太原征伐に従い、先登して流れ矢が眸に中ったが、戦いを一層激しくし、上はこれを壮として、東西班指揮使に遷した。劉継元が降伏すると、配下を率いて城中を安撫した。師が還ると、殿前左班指揮使に改め、三遷して右班都虞候・涿州刺史を領した。雍熙年間、馬歩軍都軍頭に改めた。端拱初年、出て賓州団練使となり、冀・貝二州部署を歴任し、天雄軍に移った。二年、入朝して侍衛馬軍都虞候・洮州観察使・高陽関副都部署を領した。契丹が南侵すると、漢忠は諸軍を合わせてこれを撃破し、斬首捕虬甚だ多かった。淳化初年、定州に移った。五年、殿前都虞候に遷った。

原文王漢忠,字希傑,徐州彭城人。少豪蕩,有膂力,形質魁岸,善騎射。節帥高繼衝欲召至帳下,漢忠不往。因毆殺里中少年,遂亡。經宿復蘇,其父遣人追及於蕭縣,漢忠不肯還,西至京師。太宗在藩邸,召見,奇其材力,置左右。即位,補殿前指揮使,累遷內殿直都知。從征太原,先登,流矢中眸,戰益急,上壯之,遷東西班指揮使。劉繼元降,以所部安撫城中。師還,改殿前左班指揮使,三遷右班都虞候、領涿州刺史。雍熙中,改馬步軍都軍頭。端拱初,出為賓州團練使,曆冀、貝二州部署,徙天雄軍。二年,入為侍衛馬軍都虞候、領洮州觀察使、高陽關副都部署。契丹南侵,漢忠合諸軍擊敗之,斬馘甚眾。淳化初,徙定州。五年,遷殿前都虞候。

真宗が即位すると、中山から召還された。まもなく再び出て高陽関都部署となり、進んで威塞軍節度使を領した。咸平三年、また涇原・環慶両路都部署兼安撫使となり、侍衛馬軍都指揮使に遷り、鎮・定・高陽関都部署・三路都排陣使に改めた。契丹が中山を掠奪すると、漢忠は諸将を率いて野に陣し、契丹は遁走し、追撃して多くを斬り、その貴将を捕獲した。殿前副都指揮使を加えられ、保静軍節度使を領するよう改めた。

原文真宗即位,自中山召歸。俄復出為高陽關都部署,進領威塞軍節度。咸平三年,又為涇原、環慶兩路都部署兼安撫使,遷侍衛馬軍都指揮使,改鎮、定、高陽關都部署、三路都排陣使。契丹掠中山,漢忠率諸將陣於野,契丹遁,追斬甚眾,獲其貴將。加殿前副都指揮使,改領保靜軍節度。

五年、西面経略使を罷め、漢忠を邠寧・環慶両路都部署とし、李允正・宋沆を鈐轄とし、戍兵二万五千人を率い、漢忠に委ねて分道制御させた。数か月後に召還され、詔に違いて功無き罪に坐し、責められて左屯衛上将軍となり、出て襄州知事となったが、常俸の外に歳給銭二百万を増やされた。赴任せず、急に病を得て卒去した。太尉を贈られ、その長子で内殿崇班の従吉を閣門祗候とし、次子の従政・従益を左右侍禁とした。

原文五年,罷西面經略使,命漢忠為邠寧、環慶兩路都部署,李允正、宋沆為鈐轄,領戍兵二萬五千人,委漢忠分道控制。數月召還,坐違詔無功,責為左屯衛上將軍、出知襄州,常奉外增歲給錢二百萬。未上道,暴得疾卒。贈太尉,以其長子內殿崇班從吉為閣門祗候,次子從政、從益為左右侍禁。

漢忠には識略があり、軍政は甚だ厳粛で、毎度出兵する際、明朝には必ず香を焚いて祝い、「願わくは軍民、我が令に犯すこと無からん、違う者は一毫も貸さず」と言った。故に配下に盗みは無かった。性質は剛果で、小節に拘らず、財を軽んじ施すことを楽しんだ。読書を好み、詩をよくした。儒士を喜び、賓佐を礼をもって遇し、名声は甚だ高かったが、それ故に自ら矜り高ぶり、群帥は快く思わなかった。

原文漢忠有識略,軍政甚肅,每行師,詰旦,必行香祝曰:“願軍民無犯吾令,違者一毫不貸。”故所部無盜。性剛果,不務小節,輕財樂施。好讀書,頗能詩。喜儒士,待賓佐有禮,名稱甚茂,以是自矜尚,群帥不悅。

漢忠の没後、その子の従吉が闕に詣でて上書し、父の冤罪を訟うとともに、歴々に群臣を誹謗し、賄賂を行い党を樹て、及び辺防の屯戍の艱苦を蒙蔽した事があった。真宗は枢密の王継英らに命じて状を問わせたが、従吉はただ状中の言葉を誦するのみで、他に答えるところが無かった。上は従吉を御史に付し、ことごとく伏したところ、進士の楊逢がその文辞を作っていたことが分かった。従吉は除名に坐し、随州に配流された。楊逢は杖刑の上、春州に配流された。

原文漢忠沒後,其子從吉詣闕上書訟父冤,因歷詆群臣有行賂樹黨及蒙蔽邊防屯戍艱苦之事。真宗命樞密王繼英等問狀,從吉止誦狀中語,他無所對。上以從吉付御史,具伏,乃進士楊逢為之辭。從吉坐除名,配隨州;逢杖配春州。

王能

原文王能

王能は、広済定陶の人である。初め州将の袁彦に仕え、太宗が晋邸におられた時、召し出されて左右に置かれた。即位すると、内殿直に補され、六遷して殿前左班指揮使となり、進んで散員都虞候となった。久しくして潘州刺史を領し、再遷して殿前右班都虞候兼御前忠佐馬歩軍都軍頭となった。咸平初年、捧日右廂都指揮使から出て済州団練使・静戎軍知事となった。鮑河を決壊させ、長城口を断ち、北に雄州の塘水に注ぎ、戎馬の限界とし、方舟を通して漕運し、以て塞下を充実させることを建議した。また方田を開き、静戎・順安の境を尽くした。北辺より寇が来ると、能はこれを撃退した。

原文王能,廣濟定陶人。初事州將袁彥,太宗在晉邸,召置左右。即位,補內殿直,六遷至殿前左班指揮使,進散員都虞候。久之,領潘州刺史,再遷殿前右班都虞候兼御前忠佐馬步軍都軍頭。咸平初,自捧日右廂都指揮使出為濟州團練使、知靜戎軍。建議決鮑河,斷長城口,北注雄州塘水,為戎馬限,方舟通漕,以實塞下。又開方田,盡靜戎、順安之境。北邊來寇,能擊走之。

初めに、真宗は軍校のうち勤勉で勇猛な者を尋ね、方面の任に委ねるに当たり、宰相に語って曰く、「王能、魏能は頗る公家のために力を宣べ、陳興、張禹珪も亦時に声有りと聞く。才は固より全きは難し、十を抜きて五を得るも、亦助け有らん」と。景德の初め、本州防禦使に擢で、魏能、張凝と並びに命を受けて出でて邢洺路都部署と為り、俄かに鎮、定、高陽関三路行営都部署・押策先鋒に改む。祁州の城を護り、躬ら丁夫を率い、旦暮役所を離れず、宴犒周渉なり。詔使の北より至る者之を言うに会い、手詔を以て褒飭し、連ねて天雄軍・高陽関二部署に徙し、定州副都部署に改む。

原文初,真宗詢軍校勤勇者,委以方面,因語宰相曰:“聞王能、魏能頗宣力公家,陳興、張禹珪亦有聲於時,才固難全,拔十得五,亦有助也。”景德初,擢本州防禦使,與魏能、張凝並命出為邢洺路都部署,俄改鎮、定、高陽關三路行營都部署、押策先鋒。護城祁州,躬率丁夫,旦暮不離役所,宴犒周洽。會詔使自北至者言之,手詔褒飭,連徙天雄軍、高陽關二部署,改定州副都部署。

大中祥符二年、詔して鎮、定両路の部署を合して一と為し、命じて能に之を領せしむ。明年召し入れて、侍衛歩軍副都指揮使・曹州観察使を拝す。汾陰を祀り、留めて京城巡検兼留司殿前司事と為す。礼成りて、振武軍節度を加領し、復た鎮、定副都部署兼知定州と為る。八年、表を上りて入覲を求め、之を許す。

原文大中祥符二年,詔合鎮、定兩路部署為一,命能領之。明年召入,拜侍衛步軍副都指揮使、領曹州觀察使。祀汾陰,留為京城巡檢兼留司殿前司事。禮成,加領振武軍節度,復為鎮、定副都部署兼知定州。八年,表求入覲,許之。

先ず是れより、節帥の陛見するは、必ず長春殿に飲せしむも、兵を掌る者は則ち預からず。是に至り、特ちに藩臣の例を用いしむ。有司言く、「能既に坐に赴かば、則ち殿前馬軍の帥皆当に侍立すべし」と。是より諸帥を特ちに坐に預からしめ、是より兵を掌る者は率い之を例と為す。俄かに屯所に還り、静江軍節度を領するを改む。天禧元年、都指揮使に転じ、保静軍節度を領す。是の冬代わりて還り、入見し、足疾を以て舞蹈を免じ、宴を賜う。累表して解任を求め、特ちに告を以て医療せしむ。二年、制を以て彰信軍節度を授け、軍職を罷めて鎮に赴かしむ。地其の郷里に近きを以て、之を寵するなり。明年卒す。年七十八。太尉を贈り、而して其の子守信等の官を録す。

原文先是,節帥陛見,必飲於長春殿,掌兵者則不預。至是,特令用藩臣例。有司言:“能既赴坐,則殿前馬軍帥皆當侍立。”由是特令諸帥預坐,自是掌兵者率以為例。俄還屯所,改領靜江軍節度。天禧元年,轉都指揮使、領保靜軍節度。是冬代還,入見,以足疾免舞蹈,賜宴。累表求解,特與告醫療。二年,制授彰信軍節度,罷軍職赴鎮,以地近其鄉里,寵之也。明年,卒,年七十八。贈太尉,而錄其子守信等官。

張凝

原文張凝

張凝は、滄州無棣の人なり。少くして武勇有り、倜儻自ら任ず。郷人の趙氏の子、材を以て称せらるるも、凝は其の下に居るを恥じ、因みに弓を挟みて勝負を角つ。土を築きて百歩を約し之を射るに、凝一発洞して過ぎ、矢十許歩を激し、大樹に抵りて止まる。観者歎服す。節帥張美之を壮とし、召して帳下に置く。太宗藩邸に在り、其の名を聞き、以て親衛に隷す。即位し、殿前指揮使を補し、稍く散祗候班都虞候に遷る。

原文張凝,滄州無棣人。少有武勇,倜儻自任。鄉人趙氏子以材稱,凝恥居其下,因挾弓與角勝負。約築土百步射之,凝一發洞過,矢激十許步,抵大樹而止,觀者歎服。節帥張美壯之,召置帳下。太宗在藩邸,聞其名,以隸親衛。即位,補殿前指揮使,稍遷散祗候班都虞候。

淳化の初め、其の材幹有るを以て、王斌、王憲と並びに洛苑使を授けられ、凝は繡州刺史を領し、襲衣・金帯を賜い、毎に頒賚する必ず異等なり。出でて天雄軍駐泊都監と為り、貝州に移し、高陽関行営鈐轄・六宅使に改む。真宗践祚し、莊宅使を加え、北作坊使に遷る。

原文淳化初,以其有材幹,與王斌、王憲並授洛苑使,凝領繡州刺史,賜襲衣、金帶,每頒賚必異等。出為天雄軍駐泊都監,移貝州,改高陽關行營鈐轄、六宅使。真宗踐祚,加莊宅使,遷北作坊使。

咸平の初め、契丹南侵し、凝は率いる所部の兵を瀛州の西に伏せ設け、其の不意に出で、腹背奮撃し、身を挺して敵に陷る。凝の子昭遠、年十六、従行す。即ち単騎疾呼し、陣中に突入し、凝を掖いて出ず。左右披靡して敢えて動かず。明年、契丹の兵大いに至り、車駕大名に幸す。凝は范廷召と莫州の東に於いて分かれて要害を拠し、其の帰路を断つ。契丹宵遁し、凝は兵を縦いて之を撃ち、掠むる所の生口・資畜を尽く奪う。鎮、定、高陽関路前陣鈐轄に徙し、趙州刺史に遷る。

原文咸平初,契丹南侵,凝率所部兵設伏於瀛州西,出其不意,腹背奮擊,挺身陷敵。凝子昭遠,年十六,從行。即單騎疾呼,突入陣中,掖凝出,左右披靡不敢動。明年,契丹兵大至,車駕幸大名,凝與范廷召於莫州東分據要害,斷其歸路。契丹宵遁,凝縱兵擊之,盡奪所掠生口、資畜。徙鎮、定、高陽關路前陣鈐轄,遷趙州刺史。

四年、召し還され、潘璘に代わりて邠寧環慶霊州路副部署兼安撫使と為る。時に斥堠数擾れ、転運使劉綜飛輓の給せざるを懼れ、計を凝に問う。凝曰く、「今当に深入し、敵の資糧に因らば、慮うるに足らず」と。乃ち白豹鎮より兵を率いて敵境に入り、賊将を生擒し、三百餘帳・芻糧八萬を焼蕩し、五千餘を斬首し、牛馬・器甲二萬を獲、九百餘人を降す。慶州の蕃族胡家門等桀黠にして制し難く、凝は因みに襲い之を破る。又熟戸と生羌錯居し、頗る誘脅せらる。凝は兵を引きて八州原・分水嶺・柔遠鎮に至り、峇<者多>等百七十餘族を降し、四千戸を合す。辺境安んずるを得。就いて寧州団練使を加う。

原文四年,召還,代潘璘為邠寧環慶靈州路副部署兼安撫使。時斥堠數擾,轉運使劉綜懼飛免不給,問計於凝。凝曰:“今當深入,因敵資糧,不足慮也。”乃自白豹鎮率兵入敵境,生擒賊將,燒蕩三百餘帳、芻糧八萬,斬首五千餘,獲牛馬、器甲二萬,降九百餘人。慶州蕃族胡家門等桀黠難制,凝因襲破之。又熟戶與生羌錯居,頗為誘脅,凝引兵至八州原、分水嶺、柔遠鎮,降峇<者多>等百七十餘族,合四千戶,邊境獲安。就加寧州團練使。

景德の初め、本州防禦使に遷り、楊嗣に代わりて定州路行営副部署と為り、保州駐泊に徙し、又北面安撫使を兼ぬ。時に王超総帥と為り、大兵を以て中山に頓す。朝議凝と魏能、田敏、楊延昭を択び分かって精騎を握らしめ、契丹の至るを俟ち、則ち深入して以て其の勢を牽かしむ。超嘗て四人の悉く所部に隷せんことを請う。上は本奇兵を設けて敵の心腹を撓ます。若し復た大将の裁きを取らば、則ち効を責むる無からんと。乃ち凝等に超の節度を受けざらしむ。時に魏能逗撓し、退きて城堡を保つ。衆皆憤悱し、能を責譲す。凝独り黙然たり。或る之を問う。凝曰く、「能は粗材にして険愎、既に諸君の容れざる所と為る。吾復た切に之を言わば、其の心自ら安からしめず。計に非ず」と。上聞きて其の識有るを嘉す。

原文景德初,遷本州防禦使,代楊嗣為定州路行營副部署,徙保州駐泊,又兼北面安撫使。時王超為總帥,以大兵頓中山,朝議擇凝與魏能、田敏、楊延昭分握精騎,俟契丹至,則深入以牽其勢。超嘗請四人悉隸所部,上以本設奇兵撓敵之心腹,若復取裁大將,則無以責效,乃令凝等不受超節度。時魏能逗撓,退保城堡,眾皆憤悱,責讓能,凝獨默然。或問之,凝曰:“能粗材險愎,既不為諸君所容,吾復切言之,使其心不自安,非計也。”上聞而嘉其有識。

車駕澶淵に兵を観る。凝は衆を率いて易州に抵る。既にして契丹盟を受け北に帰る。過ぐる所猶侵剽已まず。遂に凝を以て縁辺安撫使と為し、兵を提げて其の後を躡わしむ。契丹乃ち敢えて略奪せず。高陽関部署に改む。明年労を議し、就いて殿前都虞候を加う。卒す。

原文車駕觀兵澶淵,凝率眾抵易州。既而契丹受盟北歸,所過猶侵剽不已,遂以凝為緣邊安撫使,提兵躡其後,契丹乃不敢略奪。改高陽關部署。明年議勞,就加殿前都虞候,卒。

凝は忠勇にして功名を好み、累ね西北に任じ、善く士卒を訓べ、器仗を繕完す。前後の賞賜多く以て師を犒う。家に餘資無く、京師に居第無し。真宗之を悼惜し、彰徳軍節度を贈り、中使を遣わして喪を護り京に還らしめ、官葬事を給し、厚く其の家を恤す。子昭遠。

原文凝忠勇好功名,累任西北,善訓士卒,繕完器仗,前後賞賜多以犒師,家無餘資,京師無居第。真宗悼惜之,贈彰德軍節度,遣中使護喪還京,官給葬事,厚恤其家。子昭遠。

魏能

原文魏能

魏能は、鄆の人なり。少くして募に応じ、雲騎軍に隷し、後選補されて日騎左射と為り、又殿前班に隷し、七遷して散員左班都知と為る。旧制、諸軍辞見するに、才器勇敢或いは迥に群を出づる者あれば、将校の交挙を許して以て任使し、其の志を枉げざらしむ。能時に外藩に戍すも、咸に挙ぐる者未だ有らず。太宗曰く、「能は材勇人に過ぐ。朕自ら保つ可し」と。是より之を進用す。

原文魏能,鄆人也。少應募,隸雲騎軍,後選補日騎左射,又隸殿前班,七遷散員左班都知。舊制,諸軍辭見,才器勇敢或迥異出群者,許將校交舉以任,使毋枉其志。能時戍外藩,咸未有舉者。太宗曰:“能材勇過人,朕可自保。”由是進用之。

端拱二年、御前忠佐馬軍副都軍頭を加え、歴て殿前左班都虞候・溪州刺史を領し、秩を加えて転じ馬歩軍都軍頭と為る。咸平三年、真に黄州刺史を拝す。明年、鎮、定、高陽関三路前陣鈐轄と為る。五年、鄭州団練使を知り、復た威虜軍に任ず。

原文端拱二年,加御前忠佐馬軍副都軍頭,歷殿前左班都虞候、領溪州刺史,加秩轉馬步軍都軍頭。咸平三年,真拜黃州刺史。明年,為鎮、定、高陽關三路前陣鈐轄。五年,知鄭州團練使,復任威虜軍。

契丹寇に入る。能は城西に当たり、諸将と合戦し、憚色無く、其の衆を大いに敗り、二萬級を斬首す。契丹の統軍鉄林相公来たりて陣に薄る。能は矢を発して之を殪し、並びに其の将十五人、甲馬・兵械を奪うこと益々衆し。契丹復た入る。能は州軍を率いて南関門に逆戦し、其の子正と都監劉知訓を遣わして間道より敵の行勢を絶ち、戦うこと数十合、退きて西山の下に薄り、之を破走し、器甲十八萬を獲る。契丹嘗て鈔に入らんと謀る。能偵知し、即ち兵を発して逆撃し、酋帥を生擒し、殄滅殆んど尽くす。

原文契丹入寇,能當城西,與諸將合戰,無憚色,大敗其眾,斬首二萬級。契丹統軍鐵林相公來薄陣,能發矢殪之,並其將十五人,奪甲馬、兵械益眾。契丹復入,能率州軍逆戰南關門,遣其子正與都監劉知訓間道絕敵行勢,戰數十合,退薄西山下,破走之,獲器甲十八萬。契丹嘗謀入鈔,能偵知,即發兵逆擊,生擒酋帥,殄滅殆盡。

六年、威虜軍部署・知軍事に改める。士民が闕下に詣でて能の留任を乞うたので、詔してこれを嘉した。能は、辺境を逃亡した戍卒については、その妻子を没収して奴婢とすることを建言した。上は厳しすぎることを慮り、自新の猶予期間を認め、違反した者は法により処することとした。時に順安軍の営田河道を浚渫して寇を扼する計画があり、能は莫州路部署に転任した。石普が順安の西境に兵を駐屯させていたので、詔して能に楊延昭・田敏と犄角の備えをなさしめた。景德初年、敵を長城口で破り、陽山を越えて追撃し、斬首・鹵獲した兵器が益々多かったので、詔して錦袍・金帯を賜った。再び配下部隊を率いて順安において寇を防いだ。

原文六年,改威虜軍部署、知軍事。士民詣闕下乞留能,詔嘉之。能建言戍卒逸邊境者,請沒其妻與子為奴婢。上慮嚴迫,聽緩期自新,違以法坐。會浚順安軍營田河道以扼寇,徙莫州路部署。石普屯兵順安之西境,詔能與楊延昭、田敏掎角為備。景德初,破敵長城口,追越陽山,斬首級、獲兵器益眾,詔賜錦袍、金帶。復以所部禦寇於順安。

六月、召されて防禦使に拝され、再び出向して寧辺軍路部署となった。詔して能の果断な才略を推し、再び威虜に任じて精兵を副え、敵の動静を窺わせた。辺境の賊百余人が居民を掠奪し、蕃僧を立てて帥としたので、能は田敏・楊勳と合兵して伏兵を設けてこれを撃ち、その帥を擒らえた。賊が城に迫って来たので、能は兵を出してこれを防いだが、少し敗れたので、すぐに陣を退いて城に入り、張凝が兵を率いて撃退した。時に詔して能と凝に偏師を率いて分道より幽州・易州に入り、契丹の勢いを牽制させようとしたが、能は臆病で進まず、かつ配下部隊を統制せず、多く人馬を俘奪した。まもなく定州に駐屯地を移し、凝を遣わして跡を追って北進させたが、能は粗暴で、自ら功のないことを思い、心に愧じ、多く怨みの言葉を吐き、誹謗の言葉が朝廷に聞こえた。朝議は能が剛直で狡猾、行いが慎みに欠け、専任できないとし、綦政敏を鈐轄に任じ、同職たらしめた。

原文六月,召拜防禦使,復出為寧邊軍路部署。詔推能果略,再任以威虜,使副精兵伺敵動止。邊人百餘掠居民,樹蕃僧為帥,能與田敏、楊勳合兵設伏擊之,擒其帥。賊來逼城,能出兵拒之,少衄,即卻陣入城,張凝以兵擊卻之。會詔能與凝領偏師分道入幽、易,牽制契丹之勢,能畏愞不前,且不戢所部,多俘奪人馬。俄徙屯定州,及遣凝躡跡北行,能粗險,自度無功,心愧,多怨辭,以訕聞。朝議謂能剛猾少檢,不可專任,乃命綦政敏為鈐轄,俾同職焉。

翌年、軍は大名に還った。時に王能・曹璨がそれぞれ兵を率いて帰京し、城下に至ると、鈐轄孫全照は能・璨の軍に北門より分道して先に入城させ、能の軍はその後に入った。能は全照が自分を後回しにしたことに怒り、疾駆して競って入城したので、全照がこれを射ると、能は堪えられず、全照の弓を奪って去った。翌日、判府王欽若のもとに赴き、全照が押隊閣門楊凝を射傷けたと誣告し、言葉は甚だ紛糾した。全照は密かに上疏して、能が兵を退かせて遅滞し、軍が緩慢で期に遅れ、また軍が凱旋する際に整わなかった様子を奏した。上は初め能が逗留したと聞き、少し怒っていた。全照の上奏があったので、張凝・白守素らに事実を質し、ただちに右羽林將軍に責授し、鞏縣都監として出向させた。翌年、自ら陳述したことにより、特旨をもって右驍ぎょう衛大將軍・虢州都監に改官し、累遷して康州團練使を加領した。大中祥符八年、卒去した。その子の正を閣門祗候に、靖を三班奉職に録用した。

原文明年,師還大名。時王能、曹璨各領兵歸闕,即城下,鈐轄孫全照遣能、璨之師由北門分道先入,能師繼之。能怒全照之後己,即疾驅競入,全照射之,能嚄唶不堪,奪全照弓以去。翌日,詣判府王欽若誣全照射傷押隊閣門楊凝,詞頗紛競。全照密疏能摧兵退縮,師緩失期,及師旋不整狀。上初聞能逗遛,微怒。會全照奏,乃質實於張凝、白守素等,即責授右羽林將軍,出為鞏縣都監。明年,以自陳,特改官右驍衛大將軍、虢州都監,累遷加領康州團練使。大中祥符八年,卒。錄其子正為閣門祗候,靖為三班奉職。

陳興

原文陳興

陳興は、澶州衛南の人である。開寶年中に応募して卒となり、禦龍右直に隷属した。太宗が河東を征し、幽陵に幸した際、興は常に従い、特に賞賜を受け、累遷して天武指揮使となった。端拱年中、御前忠佐歩軍副都軍頭に改める。王超が並・代部署となった時、興を随軍とするよう奏上し、汾州に派遣して戍守させた。翌年、李繼隆が行営を河西に置くと、興はその麾下に隷属し、清朔・龍衛諸軍を率いて綏・夏・銀州を攻略し、繼隆は権知夏州を命じた。まもなく屯所に還り、詔を受けて河東縁辺の城池・器甲・芻糧を提轄した。至道初年、繼隆がその材幹を推薦し、召し補われて禦龍弩直都虞候となった。咸平初年、馬軍都軍頭・蒙州刺史を領す。三年、憲州刺史・知霸は州を真授され、滄州副都部署に転じ、石州・隰州駐泊に移った。時に綏州を築城することとなり、詔して錢若水と共に利害を視察に赴き、事柄は『若水傳』に詳しい。

原文陳興,澶州衛南人。開寶中應募為卒,得隸禦龍右直。太宗征河東,幸幽陵,興常從,特被賞賜,累遷天武指揮使。端拱中,改御前忠佐步軍副都軍頭。王超為並、代部署,奏興隨軍,遣戍汾州。明年,李繼隆行營河西,興隸麾下,部清朔、龍衛諸軍,克綏、夏、銀州,繼隆命權知夏州。尋還屯所,受詔提轄河東緣邊城池、器甲、芻糧。至道初,繼隆薦其材幹,召補禦龍弩直都虞候。咸平初,為馬軍都軍頭、領蒙州刺史。三年,真授憲州刺史、知霸州,徙滄州副都部署,移石、隰駐泊。會城綏州,詔與錢若水往視利害,事具《若水傳》。

また涇原儀渭鎮戎軍部署に転じた。上言して、鎮戎軍から渭州瓦亭砦まで七十余里の間に二つの堡があるので、兵三百人を留めてこれを戍守させるよう請うた。まもなく曹瑋・秦翰と兵を率いて鎮戎軍西北の武延鹹泊川に至り、蕃寇の章埋族の帳幕を掩撃し、二百余級を斬首し、三百余人を生擒し、鎧甲・牛羊・駱駝・馬三万に及ぶものを奪った。詔書をもって嘉獎し、金帯・錦袍・器幣を賜った。繼遷の配下の康奴族は、往年霊州の援糧を掠奪し、険阻と人多勢いを恃み、特に凶暴で狡猾で制し難かった。再び秦翰らと合衆して進討し、その巣穴を窮め、老幼を俘虜とし、器畜を多く鹵獲し、その窖蔵を悉く焼き払い掘り起こした。再び詔してこれを褒め、加えて賜賚を加えた。その年、六穀の大首領潘羅支が、諸蕃を率いて賊を撃ちたいので、霊州で兵を合わせてほしいと申し出た。上は道が遠く師期を刻限するのは難しいと考え、詔して興に、羅支からの報せが届き次第、直ちに配下部隊を率いて天都山を越えて援護に向かわせ、奏上を待たないよう命じた。會して繼遷が死んだため、事は中止となった。景德三年、本州團練使・知徐州に遷った。

原文又徙涇原儀渭鎮戎軍部署。上言鎮戎軍去渭州瓦亭砦七十餘里,中有二堡,請留兵三百人戍之。俄與曹瑋、秦翰領兵抵鎮戎軍西北武延鹹泊川,掩擊蕃寇章埋族帳,斬二百餘級,生擒三百餘人,奪鎧甲、牛羊、駝馬三萬計。詔書嘉獎,賜金帶、錦袍、器幣。繼遷所部康奴族,往歲鈔劫靈州援糧,恃險與眾,尤桀黠難制。復與秦翰等合眾進討,窮其巢穴,俘老幼、獲器畜甚眾,盡焚掘其窖藏。復詔褒之,仍加賜賚。其年,六穀大首領潘羅支言,欲率諸蕃擊賊,請會兵靈州。上以道遠難刻師期,詔興侯羅支報至,即勒所部過天都山以援,勿須奏命。會繼遷死,事寢。景德三年,遷本州團練使、知徐州。

興は行伍より起こり、武略があり、赴任先で頗る名声と実績を顕した。真宗は軍校の材能について言えば、必ず興を能ある者とした。大中祥符初年、召されて龍神衛四廂都指揮使・登州防禦使を領し、出向して邠寧環慶路副都部署兼知邠州となった。劫盗を擅自に釈放した罪に坐し、軍職を罷められ、敘州防禦使・知懷州に改められた。六年、卒去した。

原文興起行伍,有武略,所至頗著聲績。真宗言軍校之材,必以興為能。大中祥符初,召為龍神衛四廂都指揮使、領登州防禦使,出為邠寧環慶路副都部署兼知邠州。坐擅釋劫盜,罷軍職,改敘州防禦使、知懷州。六年,卒。

許均

原文許均

許均は、開封の人である。父の邈は、太常博士であった。均は、建隆年中に応募して龍捷の卒となり、遼州征伐に従軍し、功により武騎十将に補され、錦袍・銀帯を賜った。開寶年中、武騎副兵馬使に遷る。曹彬に従って金陵を征し、衆を率いて水砦を陥落させ、流れ矢が手を貫いた。本軍使に改める。河東征伐に従い、隆州城を攻撃し、真っ先に登城してこれを陥落させ、八ヶ所の傷を負った。副指揮使に遷り、前後たびたび賞賚を受けた。出向して杭州に駐屯した時、妖僧紹倫が党を結んで乱を起こしたので、均は巡検使周瑩に従い、これを悉く擒らえて殺した。

原文許均,開封人。父邈,太常博士。均,建隆中應募為龍捷卒,征遼州,以功補武騎十將,賜錦袍、銀帶。開寶中,遷武騎副兵馬使。從曹彬征金陵,率眾陷水砦,流矢貫手。改本軍使。從征河東,攻隆州城,先登,陷之,中八創。遷副指揮使,前後屢被賞賚。出屯杭州,妖僧紹倫結黨為亂,均從巡檢使周瑩悉擒殺之。

端拱初年、指揮使に補される。李繼隆・秦翰に従って夏州に赴いた。趙保忠を擒らえ、均に兵を率いて守衛させた。龍衛第四指揮使に改め、まもなく夏州に駐屯し、賊が境を侵犯して来たので、一日に十二度戦ってこれを退けた。また石普に従って原州牛欄砦で賊を撃ち、深く侵入し、牛羊・漢人の生口を多く鹵獲した。普がその功績を上表したので、第三軍指揮使に遷った。

原文端拱初,補指揮使。從李繼隆、秦翰赴夏州。擒趙保忠,令均率兵衛守。改龍衛第四指揮使,俄屯夏州,賊來犯境,一日十二戰,走之。又從石普擊賊於原州牛欄砦,深入,獲牛羊、漢生口甚眾。普表上其功,遷第三軍指揮使。

咸平初年、御前忠佐馬軍都軍頭として秦州を戍守した。王均の乱が起こると、駅伝で蜀しょくに派遣され、雷有終の麾下に隷属し、魚橋門を守り、また秦翰に従って広都で賊党を追撃して殺し、その衆七千余を降伏させた。駅伝で召されて東西班都虞候・順州刺史を拝命した。五年、稍遷して散員都虞候となった。嘗て召し出されて北面の辺事について諮問され、翌日、磁州刺史・深州兵馬鈐轄を真授された。六年、涇州駐泊部署に改める。数ヶ月後、知鎮戎軍となった。嘗て巡察に出て、隴山の木峽口に至ったが、真宗はその無断の離城を慮り、狂寇の奔突を憂い、詔書をもって戒飭した。まもなく吏治に明るくないとして、曹瑋を代わりに任じ、均は邠州駐泊部署に転じ、永興軍部署に改められた。車駕が澶淵に巡幸しようとした時、詔して均に知府の向敏中及び鳳翔の梁鼎と共に諸州の巡検捕盗事を提総させ、河陽に至ったところで、行在に召し出された。

原文咸平初,以御前忠佐馬軍都軍頭戍秦州。王均之亂,遣乘傳之蜀,隸雷有終麾下,守魚橋門,又從秦翰追殺賊黨於廣都,降其眾七千餘。驛召授東西班都虞候、領順州刺史。五年,稍遷散員都虞候。嘗召見,訪以北面邊事,翌日,真拜磁州刺史、深州兵馬鈐轄。六年,改涇州駐泊部署。數月,知鎮戎軍。嘗出巡警,至隴山木峽口,真宗以其無故離城,慮有狂寇奔突,詔書戒敕。俄以其不明吏治,用曹瑋代之,徙為邠州駐泊部署,改永興軍部署。車駕將巡澶淵,詔均與知府向敏中及鳳翔梁鼎同提總諸州巡檢捕盜事,至河陽,召赴行在。

時に王長壽という者がいた。元は逃亡兵卒で、勇力があり、計略に富み、百余人の徒党を集めていた。この春、陳留に至って掠奪を働き、県民が捕らえようとしたが果たせず、朝廷は使者を遣わして兵を増やし、澶州・濮州の間で追い払った。ちょうど契丹が南侵し、黄河沿いの民衆が驚き騒ぐと、長壽は徒党を結んでますます勢力を増し、人々は皆これを憂いた。均が胙城に至ると、長壽はその徒党五千余人を率いて県内に侵入し掠奪し、均の部下の歩兵は鎧を脱ぎ捨ててこれと戦った。均は方略をもってこれを誘い、長壽を生け捕りにし、悪党を斬り捕らえてことごとく殲滅した。上は敵を防ごうとしている最中であったため、賊を捕らえたことで均を褒賞しようとはしなかった。ただ均の部下の兵卒を賞し、傷を負った者には絹帛を賜り階級を進めた。翌年、以前の功労を追って叙し、均を本州の団練使に抜擢し、まもなく出向して代州の知州となった。四年の秋、均は病に倒れ、米鋭が代わって召還されたが、到着する前に均は卒去した。その子、懐忠を奉礼郎に、懐信を侍禁に任じた。幼子の懐徳は、別に伝がある。

原文時有王長壽者,本亡命卒,有勇力,多計慮,聚徒百餘。是春,抵陳留剽劫,縣民捕之不獲,朝廷遣使益兵,逐之澶、濮間。會契丹南侵,夾河民庶驚擾,長壽結黨愈眾,人皆患之。均至胙城,長壽與其徒五千餘人入縣鈔掠,均部下徒兵裼袒與鬥。均以方略誘之,生擒長壽,斬獲惡黨皆盡。上以方禦敵,未欲因捕賊獎均。但賞均部下卒,被傷者賜帛遷級焉。明年,追敘前勞,擢為本州團練使,尋出知代州。四年秋,均被疾,以米銳代還,未至而均卒。錄其子懷忠為奉禮郎,懷信為侍禁。幼子懷德,自有傳。

張進

原文張進

張進は、兗州曲阜の人である。拳勇にして射術に優れ、強弓を引き絞ること一石余りに及んだ。曹州にて募兵に応じ、鎮兵に隷属した。太祖自ら勇士を選び、進の才力を奇として、控鶴官に補し、積功により御龍弩直都虞候・恩州刺史を領するに至った。至道年間、御前忠佐歩軍都軍頭を兼ねた。太宗がかつて内厩に行幸した際、進は親校として鉞を執り前導し、体躯魁偉にして同輩をはるかに凌いでいた。太宗は熟視してこれを異とし、天武右廂都指揮使・賀州団練使に抜擢した。

原文張進,兗州曲阜人,拳勇善射,挽強及石餘。應募曹州,隸鎮兵。太祖親選勇士,奇進才力,以補控鶴官,積勞至禦龍弩直都虞候、領恩州刺史。至道中,兼御前忠佐步軍都軍頭。太宗嘗幸內廄,進以親校執鉞前導,體質魁岸,迥出儕輩。太宗熟視異之,擢為天武右廂都指揮使、領賀州團練使。

咸平初年、昭州防禦使に遷り、龍神衛四廂都指揮使・京城左右廂巡検を充任した。まもなく、捧日・天武四廂都指揮使に遷った。二年の秋、近郊で閲兵があり、進は殿前都指揮使王超とともに自ら金鼓を執り、その進退を節し、軍容は甚だ整然としていた。上に従って北征し、また超とともに大陣及び先鋒の策応を管勾した。三年、権殿前都虞候となり、侍衛歩軍都虞候・鎮州副部署に遷り、天雄軍部署に転じた。ちょうど黄河が鄆州王陵口で決壊したため、数州の丁男を発動してこれを塞がせ、進にその役事を監督させた。およそ一月余りで完了し、詔を下してこれを褒めた。并へい州・代州副都部署に移った。

原文咸平初,遷昭州防禦使,充龍神衛四廂都指揮使、京城左右廂巡檢。未幾,遷捧日、天武四廂都指揮使。二年秋,閱武近郊,進與殿前都指揮使王超親執金鼓,節其進退,軍容甚肅。從上北征,又與超管勾大陣及先鋒策應。三年,權殿前都虞候,遷侍衛步軍都虞候、鎮州副部署,徙天雄軍部署。會河決鄆州王陵口,發數州丁男塞之,命進董其役,凡月餘畢,詔褒之。移並、代副都部署。

李継遷が麟州を寇したとき、州の将は単身の使者を遣わし間道を通って太原に援軍を請うた。諸将は詔旨がないことを理由に躊躇して決断できなかったが、進ひとりが異議を唱え、兵を発して救援に赴かせた。到着すると包囲は解け、手詔を下してその美を褒めた。契丹が中山を侵したとき、進に広鋭の騎兵二万を率いさせ、土門から出て鎮州・定州で合流するよう命じたが、到着する前に敵は退き、再び晋陽に帰還した。景德元年、卒去した。上は中使を遣わして喪を護り京に還らせ、官が葬事を給した。子の元晋は、内殿崇班・閣門祗候に至った。天禧末年、その次子元素を三班借職に任じた。

原文李繼遷寇麟州,州將遣單介間道乞師太原。諸將以無詔旨,猶豫未決,進獨抗議,發兵赴援,既至而圍解,手詔褒美。契丹侵中山,命進率廣銳二萬騎,由土門會兵鎮、定,未至而敵退,復歸晉陽。景德元年,卒。上遣中使護喪還京,官給葬事。子元晉,至內殿崇班、閣門祗候。天禧末,錄其次子元素為三班借職。

李重貴

原文李重貴

李重貴は、孟州河陽の人である。姿形雄偉にして、騎射を善くした。若くして節度使王審琦に仕え、甚だ親信され、甥娘を妻として与えられ、合流鎮将に補された。鎮に群盗があり、重貴がまだ若いのをよいことに、夜に乗じて侵入し掠奪しようと謀った。重貴はこれを知ると、すぐに柵を築き民に射術を習わせた。盗賊はこれを聞いて潰走した。太宗が藩邸におられたとき、その勇幹を知り、召し出して帳下に隷属させた。即位すると、殿前指揮使に補し、累遷して龍衛左第四軍都指揮使・河州刺史を領するに至り、捧日右廂都指揮使・蠻州団練使を領するよう改めた。

原文李重貴,孟州河陽人。姿狀雄偉,善騎射。少事壽帥王審琦,頗見親信,以甥妻之,補合流鎮將。鎮有群盜,以其尚少,謀夜入劫鈔。重貴知之,即築柵課民習射,盜聞之潰去。太宗在藩邸,知其勇幹,召隸帳下。即位,補殿前指揮使,累遷至龍衛左第四軍都指揮使、領河州刺史,改捧日右廂都指揮使、領蠻州團練使。

至道二年、衛州団練使として出向した。赴任しないうちに、命により五路の将を率いて李継遷を討つこととなり、重貴を麟府州濁輪砦路都部署に任じた。便殿で対面を得て、言上した。「賊は沙磧の中に居り、水草を追って牧畜し、定まった住処がなく、戦闘に便利で、利あれば進み、利なければ逃げます。今、五路が斉しく侵入すれば、彼らは兵勢のあまりに盛んなるを聞き、来て接戦せず、遠く遁れることを謀るでしょう。追おうとすれば人馬に食糧が乏しく、守ろうとすれば堅固な堡塁が地にありません。賊が未だ平定されないのに、臣らは何の面目をもって陛下にお目にかかることができましょうか」。太宗はこれを善しとし、御剣を取り出して賜り、また累次にわたり使者を遣わして慰労した。果たしてその後、諸将は大功を立てられなかった。帰還すると、代州・并州副都部署に任じた。真宗が即位すると、本州防禦使を加えられ、高陽関行営副都部署に転じた。

原文至道二年,出為衛州團練使。未行,會命將五路討李繼遷,以重貴為麟府州濁輪砦路都部署。得對便殿,因言:“賊居沙磧中,逐水草牧畜,無定居,便戰鬥,利則進,不利則走。今五路齊入,彼聞兵勢太盛,不來接戰,且謀遠遁。欲追則人馬乏食,將守則地無堅壘。賊既未平,臣輩何顏以見陛下?”太宗善之,出御劍以賜,又累遣使撫勞。既而諸將果無大功。及還,命為代、並副都部署。真宗即位,加本州防禦使,徙高陽關行營副都部署。

咸平二年、契丹が南侵し、楊疃に兵を屯させることを議した。張凝が先鋒を率いて敵に遭遇し、重貴は策応兵を率いて激戦し、全軍を率いて帰還した。范廷召が定州から来て、契丹兵と遭遇して交戦し、康保裔の大陣が敵に覆われた。重貴は凝とともに救援に赴き、腹背に敵を受けたが、申の刻から寅の刻まで、力戦して疾く戦い、敵はようやく退いた。時に諸将はその部署をかなり失ったが、重貴と凝だけが全軍を率いて屯所に還った。凝が将士の功績の状況を上奏することを議すると、重貴は慨然として言った。「大将が陥没したのに我々が功績を計算するなど、何の面目があろうか」。上はこれを聞いて嘉した。

原文咸平二年,契丹南侵,議屯兵楊疃,張凝領先鋒遇敵,重貴率策應兵酣戰,全軍而還。范廷召自定州至,遇契丹兵交戰,康保裔大陣為敵所覆,重貴與凝赴援,腹背受敵,自申至寅,疾力戰,敵乃退。時諸將頗失部分,獨重貴與凝全軍還屯。凝議上將士功狀,重貴喟然曰:“大將陷沒而吾曹計功,何面目也!”上聞而嘉之。

翌年春、労により階級及び食邑を進められ、貝州知州に転じ、召し出されて労問を受け、再び郡に入るよう遣わされた。この冬、滄州駐泊副都部署兼知州事に転じた。病気のため京に還り医薬を受けることを求め、病癒えると、連続して邢州・天雄軍の二部署となり、また冀州知州となった。景德初年、車駕が澶淵に行幸した際、召還されて大内都部署となった。翌年春、鄭州知州として出向し、病が甚だしいため、左武衛大将軍・潘州防禦使を授けられ、左羽林軍大将軍致仕に改めた。大中祥符三年、卒去した。

原文明年春,以勞進階及食邑,徙知貝州,召至勞問,復遣入郡。是冬,徙滄州駐泊副都部署兼知州事。以疾求還京就醫藥,既愈,連為邢州、天雄軍二部署,又知冀州。景德初,車駕幸澶淵,召還,為大內都部署。明年春,出知鄭州,以疾甚,授左武衛大將軍、領潘州防禦使,改左羽林軍大將軍致仕。大中祥符三年,卒。

呼延贊

原文呼延贊

呼延贊は、并州太原の人である。父の琮は、後周の淄州馬歩都指揮使であった。贊は若くして驍騎卒となり、太祖はその材勇をもって、東班長に補し、入れて承旨とし、驍雄軍使に遷した。王全斌に従って西川を討ち、身をって先鋒となり、数か所の創傷を受け、功により副指揮使に補された。太平興国初年、太宗自ら軍校を選び、贊を鉄騎軍指揮使とした。太原征伐に従い、先んじて登り城に乗り、女牆に及んで墜落すること数四に及び、面と向かって金帛を賜りこれを褒めた。七年、崔翰に従って定州を戍守し、翰がその勇を言上したため、馬軍副都軍頭に抜擢され、次第に内員寮直都虞候に遷った。

原文呼延贊,并州太原人。父琮,周淄州馬步都指揮使。贊少為驍騎卒,太祖以其材勇,補東班長,入承旨,遷驍雄軍使。從王全斌討西川,身當前鋒,中數創,以功補副指揮使。太平興國初,太宗親選軍校,以贊為鐵騎軍指揮使。從征太原,先登乘城,及堞而墜者數四,面賜金帛獎之。七年,從崔翰戍定州,翰言其勇,擢為馬軍副都軍頭,稍遷內員寮直都虞候。

雍熙四年、馬歩軍副都軍頭を加えられた。かつて陣図・兵要及び営砦を築く策を献上し、辺境の任を領することを求めた。召見され、武芸を行わせた。贊は武具を具えて馬を馳せ、鉄鞭・棗槊を揮い、廷中を数四旋回し、またその四子、必興・必改・必求・必顯を引き入れて、代わる代わる剣を舞い槊を盤らせた。白金数百両及び四子の衣帯を賜った。

原文雍熙四年,加馬步軍副都軍頭。嘗獻陣圖、兵要及樹營砦之策,求領邊任。召見,令之作武藝。贊具裝執馳騎,揮鐵鞭、棗槊,旋繞廷中數四,又引其四子必興、必改、必求、必顯以入,迭舞劍盤槊。賜白金數百兩及四子衣帶。

端拱二年、富州刺史を領した。まもなく輔超とともに都軍頭を加えられた。淳化三年、保州刺史・冀州副都部署として出向した。屯所に至り、統御の才がないため、遼州刺史に改めた。また民を治めることができないため、再び都軍頭・扶州刺史を領し、康州団練使を加えられた。

原文端拱二年,領富州刺史。俄與輔超並加都軍頭。淳化三年,出為保州刺史、冀州副都部署。至屯所,以無統御材,改遼州刺史。又以不能治民,復為都軍頭、領扶州刺史,加康州團練使。

咸平二年、大名行幸に従い、行宮内外都巡検となった。真宗がかつて軍校を補任した際、皆が己の功績を述べ、あるいは喧嘩に至る者もいたが、贊ひとりが進み出て言った。「臣の月俸は百千ですが、所用はその半にも及びません。忝くも幸い多きに過ぎます。国に報いることのないを思い、敢えてさらに昇進を求めず、恐らくは福過ぎて災い生ずることを恐れます」。再拝して退いた。衆人はその分を知ることを嘉した。三年、元徳皇太后の園陵に際し、儀衛の護衛を掌るよう命じられ、帰還して間もなく卒去した。

原文咸平二年,從幸大名,為行宮內外都巡檢。真宗嘗補軍校,皆敘己功,或至喧嘩,贊獨進曰:“臣月奉百千,所用不及半,忝幸多矣。自念無以報國,不敢更求遷擢,將恐福過災生。”再拜而退,眾嘉其知分。三年,元德皇太后園陵,命掌護儀衛,及還而卒。

贊は胆勇を有し、鷙悍にして軽率、常に「願わくは敵のために死せん」と語った。全身に「赤心殺賊」の字を彫り、妻子僕使に至るまで皆然り、諸子の耳の後ろには別に「出門忘家為國、臨陣忘死為主」と刺字した。また破陣刀・降魔杵を作り、鉄折上巾(両側に刃があり、いずれも十数斤の重さ)を着けた。絳色の帕で頭を包み、騅馬に乗り、服飾は詭異であった。性質はまた鄙誕にして理に近からず、厳冬に水をかけて幼児を冷やし、成長して寒さに強く勁健になることを望んだ。その子が病んだ時、贊は股を切り取って羹とし、これを治療した。贊の死後、必顯を抜擢して軍副都軍頭とした。

原文贊有膽勇,鷙悍輕率,常言願死於敵。遍文其體為“赤心殺賊”字,至於妻孥僕使皆然,諸子耳後別刺字曰:“出門忘家為國,臨陣忘死為主。”及作破陣刀、降魔杵,鐵折上巾,兩旁有刃,皆重十數斤。絳帕首,乘騅馬,服飾詭異。性復鄙誕不近理,盛冬以水沃孩幼,冀其長能寒而勁健。其子嘗病,贊刲股為羹療之。贊卒後,擢必顯為軍副都軍頭。

劉用

原文劉用

劉用は相州の人である。祖父の萬進は河中府馬歩軍都指揮使。父の守忠は左驍衛大將軍を以て致仕した。用は音律に通暁し、騎射に巧みで、太宗に晋邸にて仕えた。即位すると、軍職を補され、累遷して散都頭都虞候となった。端拱初年、馬歩軍副都軍頭・涼州刺史・鎮定招安使となり、転じて捧日都指揮使となった。李順が蜀で乱を起こすと、西路行営鈐轄となった。賊が平定されると、祁州刺史に遷った。至道初年、河西・烏白池都鈐轄となり、千余級を斬首し、五百匹の馬を奪い、高陽関副都部署に改めた。

原文劉用,相州人。祖萬進,河中府馬步軍都指揮使。父守忠,左驍衛大將軍致仕。用曉音律,善騎射,事太宗於晉邸。即位,補軍職,累遷散都頭都虞候。端拱初,為馬步軍副都軍頭、領涼州刺史、鎮定招安使,轉捧日都指揮使。李順亂蜀,為西路行營鈐轄。賊平,遷祁州刺史。至道初,為河西、烏白池都鈐轄,斬首千餘級,奪馬五百匹,改高陽關副都部署。

真宗が即位すると、本州団練使・并州副都部署を加えられた。咸平年中、貝州に移り、まもなく瀛州を知り、再び高陽関副都部署となった。当時、烽堠がたびたび警報を発したため、用は辺兵を増やすことを建議し、敵が南牧したならば、即ち驍鋭を率いて東路より出撃し、その勢いを牽制すべきであるとし、地形図を献上した。上は宰相を召してこれを閲覧させ、その奏を認可し、かつ転運使に命じて保州・威虜・静戎・順安軍に資糧を準備させた。

原文真宗即位,加本州團練使、并州副都部署。咸平中,徙貝州,俄知瀛州,復為高陽關副都部署。時烽堠數警,用建議益邊兵,俟其南牧,即率驍銳出東路以牽制其勢,因圖上地形。上召宰相閱視,可其奏,且令轉運使於保州、威虜、靜戎、順安軍預備資糧。

六年、三路より出師して敵を防ぐべく命じ、詔して用と劉漢凝・田思明に兵五千を率いさせ、東路より石普・孫全照と合流して掎角の勢いでこれを攻撃させた。まもなく、鎮州副部署に換えた。景德初年、邢州部署となった。車駕が北征した際、用は城守の功労により爵邑を進められ、斉・陳・潞の三州を知り、大中祥符二年に卒した。

原文六年,命將三路出師扞敵,詔用與劉漢凝、田思明領兵五千,由東路會石普、孫全照掎角攻之。未幾,換鎮州副部署。景德初,為邢州部署。車駕北征,用以城守之勞,進爵邑,歷知齊、陳、潞三州,大中祥符二年卒。

耿全斌

原文耿全斌

耿全斌は冀州信都の人である。父の顥は懐順軍校であった。全斌は若い頃から豊偉で、顥が連れて陳摶に謁見すると、摶は藩侯の相があると言った。顥が西蜀に戍守すると、全斌は省みに赴き、舟に乗って江を遡ったが、夜に大風で纜を失い、七十里も漂流し、夜明けになっても風が止まなかったが、舟が突然岸に泊まり、人々は大いに怪しんだ。後に京師に遊学し、太宗が藩邸におられた時、全斌は大通りで待ち伏せて拝謁し、自ら材幹を薦め、召されて武芸を試され、左射に優れていたため、帳下に隷属した。即位すると、東班承旨を補され、次第に遷って驍猛副兵馬使となった。

原文耿全斌,冀州信都人。父顥,懷順軍校。全斌少豐偉,顥攜謁陳摶,摶謂有藩侯相。顥戍西蜀,全斌往省,乘舟溯江,夜大風失纜,漂七十里,至曙風未止,舟忽泊岸,人頗異之。後遊京師,屬太宗在藩邸,全斌候拜於中衢,自薦材幹,得召試武藝,以善左射,隸帳下。即位,補東班承旨,稍遷驍猛副兵馬使。

太原征伐に従い、帰還の途上、蒲陰で契丹と遭遇し、徐河まで追撃し、水口の要害を占拠した。日騎副兵馬使・雲騎軍使に遷補され、瀛州に屯した。契丹と戦い、乗っていた馬が二度流れ矢に当たって死に、計三度乗り換えたが、戦って退かず、契丹は引き揚げた。端拱初年、宥州で蕃部を撃ち、これを破った。雲騎指揮使・御前忠佐馬軍副都軍頭を歴任し、馬軍都軍頭に改め、深州を戍守し、累転して散直都虞候・順州刺史を領し、殿前左班都虞候・馬歩軍都軍頭に改めた。

原文從征太原,還,遇契丹於蒲陰,追擊至徐河,因據水口要害。遷補日騎副兵馬使、雲騎軍使,屯瀛州。與契丹戰,所乘馬兩中流矢死,凡三易乘,戰不卻,契丹為引去。端拱初,擊蕃部於宥州,敗之。曆雲騎指揮使、御前忠佐馬軍副都軍頭,改馬軍都軍頭,戍深州,累轉散直都虞候、領順州刺史,改殿前左班都虞候、馬步軍都軍頭。

全斌は軍中に能ある名声があった。真宗がかつて辺事について召して問うと、全斌は口頭で利害を陳述し、大いに旨にかなった。そこで輔臣に謂って「元澄・鄭誠・耿全斌は、人多くこれを称える。その詞気を観るに、志操ある者のようである。宿衛に止まっているだけでは、その才を見ることができない。辺郡で試すのがよい」と言った。そこで雄州刺史・深州知事に拝し、石・隰部署に移して河西に備えさせた。継遷が死ぬと、全斌は兵を率いて伏落関に入り、蕃部を誘って来帰する者数千人を得た。まもなく安粛軍を知り、かつて山川の険易を描いて図とし、献上した。

原文全斌在軍中有能名。真宗嘗召問邊事,全斌口陳利害,甚稱旨。因謂輔臣曰:“元澄、鄭誠、耿全斌,人多稱之。觀其詞氣,若有志操,止在宿衛,無以見其才,宜以邊郡試之。”遂拜雄州刺史、知深州,徙石、隰部署以備河西。繼遷死,全斌率兵入伏落關,誘蕃部來歸者數千人。俄知安肅軍,嘗繪山川險易為圖以獻。

契丹が侵攻して来ると、山北より河滸に至り、全斌は子の従政に橋砦を焼かせ、自らは精兵を分率してこれを撃退した。冀州刺史・高陽関鈐轄に改め、従政を抜擢して侍禁・寄班祗候とした。大中祥符初年、泰山に封禅するに当たり、濮州鈐轄とした。その年、京師に還り、卒した。

原文契丹來侵,自山北抵河滸,全斌遣子從政焚橋砦,分率精兵擊走之。改冀州刺史、高陽關鈐轄,擢從政為侍禁、寄班祗候。大中祥符初,封禪泰山,以為濮州鈐轄。其年還京師,卒。

周仁美

原文周仁美

周仁美は深州の人である。開宝年中、応募して貝州驍捷軍に隷属した。関南の李漢超が選んで給使に備えさせ、たびたび契丹の諜者を捕獲した。漢超に従って西嘉山で戦い、身に重傷を負い、隊長に補された。漢超がその功を上奏すると、殿前班に隷属し、衣帯・鞍勒馬・什物・奴婢・器械を賜った。王継恩に命じて引き入れ、広く見せしめた。祗候庫を通り過ぎた時、太祖がその力でどれほどの銭を背負えるかと問うと、仁美は「臣は七八万は持ち上げられます」と答えた。太祖は「惜しい、圧死するだろう」と言い、四万五千を背負わせるのみと命じ、これを賜った。次第に遷って右班都知・御前忠佐馬軍副都軍頭となり、環州を戍守した。

原文周仁美,深州人。開寶中,應募隸貝州驍捷軍。關南李漢超選備給使,屢捕獲契丹諜者。從漢超戰於西嘉山,身中重創,補隊長。漢超上其功,隸殿前班,賜衣帶、鞍勒馬、什物、奴婢、器械。命王繼恩引入縱觀,過祗候庫,太祖問其力能負錢幾許,仁美曰:“臣可勝七八萬。”太祖曰:“可惜壓死。”止命負四萬五千,因賜之。稍遷右班都知、御前忠佐馬軍副都軍頭,戍環州。

当時、牛耶泥族が累年寇掠していたため、仁美は陳徳玄・宋思恭と共にこれを撃ち、三千級を斬首し、牛羊三百余を獲、戎族の囷窖を発して軍糧とした。また思恭と共に募窟泉岌拖族を討ち、格闘して八十余級を斬った。至道初年、石昌の牛耶泥族が再び叛くと、徳玄は仁美に兵を提げてこれを撫輯させた。仁美は石昌鎮主の和文顯に言った。「この賊を除かねば、辺患は止まない」。そこで厚く肴酒を設け、酋長二十八人を召し出して縛り、州の獄に送った。これより諸族は畏服した。

原文時牛耶泥族累歲為寇,仁美與陳德玄、宋思恭往擊之,斬首三千級,獲牛羊三百餘,發戎族囷窖以餉師。又與思恭討募窟泉岌拖族,格鬥,斬八十餘級。至道初,石昌牛耶泥族復叛,德玄令仁美提兵撫輯之。仁美謂石昌鎮主和文顯曰:“此賊不除,邊患未弭。”因厚設殽酒,召酋長二十八人縛送州獄,自是諸族懾畏。

二年、また馬紹忠・白守栄・田紹斌と共に芻糧を部勒して清遠軍に赴き、仁美は先鋒となった。岐子平に至り、虜と戦い、これを走らせた。翌日、また浦洛河で戦い、巳の刻から戌の刻まで、数十合戦い、進んで乾河に壁した。紹忠・守栄は皆敗走し、紹斌は浦洛に退いて止まったが、仁美の率いる所の兵は三千に満たず、自身も八ヶ所の傷を負いながら、芻糧と官吏を護衛して直ちに清遠に到達した。紹斌が後に至り、その勇幹を深く歎賞し、表を上ってその功を奏した。

原文二年,又與馬紹忠、白守榮、田紹斌部芻糧趣清遠軍,仁美為先鋒。至岐子平,與虜角,走之。明日,又戰於浦洛河,自巳至戌,戰數十合,進壁乾河。紹忠、守榮皆敗走,紹斌退止浦洛,獨仁美所部不滿三千,身中八創,護芻糧、官吏直抵清遠。紹斌繼至,深歎其勇幹,表上其功。

当時、運糧の民で道路上で傷つく者が相次いだため、仁美は徒兵を率いて援護し、皆環州に到達させた。また橐駝路で虜に遭遇し、これを撃退した。先に、諸蕃がたびたび京師に馬を貢ぐ際、継遷に邀撃されていたが、仁美が騎士を率いて援護すると、賊は敢えて侵犯しなくなった。澶州龍衛軍都虞候に補され、部署の李継隆が麾下に留めるよう奏上し、軍中の伉健なる者千人を選び、仁美に率いさせた。たびたび敵境に入り、戦って功があった。

原文時運糧民道路被傷者相繼,仁美領徒援護,悉抵環州。又遇虜於橐駝路,擊走之。先是,諸蕃每貢馬京師,為繼遷邀擊,仁美領騎士為援,賊不敢犯。補澶州龍衛軍都虞候,部署李繼隆奏留麾下,選軍中伉健者千人,令仁美領之,屢入敵境,戰有功。

やがて澶州に還る。召見され、時に諸軍に射をさせたところ、仁美は自ら筋力未だ衰えずと陳べ、殿廷に対し二矢を発することを願う。上これを許す。既にして前に奏して曰く、「臣は戎門に老い、多く外郡に戍し、稀に曾て京闕に入覲す。前後征行し、體に三十餘創を被る。今日萬乘に対し得るは、千載の幸なり。儻し或いは宿衛に備員し、殿庭の下に立ち一日を過ごすを得ば足れり」と。上、傅潛を顧みて笑い、潛も亦その武幹を称し、力めて留め、馬歩軍副都軍頭に補す。

原文俄還澶州。召見,會令諸軍射,仁美自陳筋力未衰,願對殿廷發二矢,上許之。既而前奏曰:“臣老於戎門,多戍外郡,罕曾入覲京闕。前後征行,體被三十餘創,今日得對萬乘,千載之幸。儻或備員宿衛,立殿庭下一日足矣。”上顧傅潛而笑,潛亦稱其武幹,力留,補馬步軍副都軍頭。

潛は北面に屯し、常に自ら従う。契丹、蒲陰を攻む。仁美、萬騎を領してその囲みを解く。又王超に従い鎮・定・儀・渭に屯し、累遷して龍衛軍都指揮使・順州刺史を領し、復た鎮・定に屯す。時に州に亡命卒あり、聚まって盗を為し、村閭を剽掠して患いと為す。王超、仁美に委ねて招捕せしむ。仁美、勇敢の卒を選び、詐って亡命し賊の所に趣き、その要領を得、即ち自ら往きて禍福を以て諭し、賊中に一日留まる。超、忽ち仁美を失い、これを求むること甚だ急なり。詰旦、仁美至り、具にその事を道い、乃ち庫錢を出だして仁美に付し賞と為す。数日ならずして、賊悉く降り、凡そ二百餘人を得て、以て軍籍に隷す。

原文潛屯北面,常以自隨。契丹攻蒲陰,仁美領萬騎解其圍。又從王超屯鎮、定、儀、渭,累遷龍衛軍都指揮使、領順州刺史,復屯鎮、定。時州有亡命卒聚盜,剽村閭為患,王超委仁美招捕。仁美選勇敢卒,詐亡命趣賊所,得其要領,即自往諭以禍福,留賊中一日。超忽失仁美,求之甚急。詰旦,仁美至,具道其事,乃出庫錢付仁美為賞。不數日,賊悉降,凡得二百餘人,以隸軍籍。

景德中、徙めて陳州に屯し、入って軍頭引見司を掌る。大中祥符元年、駕に従い泰山に至り、山下諸壇の牲牢祭饌を檢視することを命ぜらる。明年、出でて磁州團練使・衛州知州と為り、やがて滄州部署に改め、高陽關副部署に移る。八年、擢て龍神衛四廂都指揮・獎州防禦使を領し、捧日・天武四廂都指揮使に遷り、改めて端州防禦使を領し、權めて京新城內都巡檢と為る。是に先立ち、巡兵亡卒盗賊を捕え、獲ざれば皆罰あり、而して獲る者は賞無し。仁美、因りて差し立て賞格を立てて聞かしむ。詔してその請に従う。天禧三年、卒す。

原文景德中,徙屯陳州,入掌軍頭引見司。大中祥符元年,從駕泰山,命檢視山下諸壇牲牢祭饌。明年,出為磁州團練使、知衛州,俄改滄州部署,移高陽關副部署。八年,擢為龍神衛四廂都指揮、領獎州防禦使,遷捧日、天武四廂都指揮使,改領端州防禦使,權京新城內都巡檢。先是,巡兵捕亡卒盜賊,不獲皆有罰,而獲者無賞。仁美因差立賞格以聞,詔從其請。天禧三年,卒。

論じて曰く、繼忠は臨陣して敵に赴き、以て死を自ら效す。その生くるや亦幸にして免るるも、然れども朔庭に在りて貴寵用事し、議者これを李陵に方う。而して大節固より已に虧けり。潛は三路の帥と為り、兵八萬餘を握る。大敵前に在りて、逗撓畏縮し、致して康保裔をして援無くして戰沒せしむ。此れにして誅せざれば、宋は是に於いて刑を失う。興・均の輩は或いは藩邸より進み、或いは行伍より起り、一時際会し、出ずれば則ち轅門に勲を書し、入れば則ち岩陛を拱扈す。古の名將の如きを求めれば、則ち未だ之を見ざるなり。

原文論曰:繼忠臨陣赴敵,以死自效,其生也亦幸而免,然在朔庭貴寵用事,議者方之李陵,而大節固已虧矣。潛為三路帥,握兵八萬餘,大敵在前,逗撓畏縮,致康保裔以無援戰沒,此而不誅,宋於是乎失刑矣。興、均輩或由藩邸進,或自行伍起,一時際會,出則書勳轅門,入則拱扈岩陛,求其如古名將,則未之見也。