宋史

列傳第三十七 馬全義 雷德驤 王超

列傳第三十七 馬全義 雷德驤 王超

馬全義

原文馬全義

馬全義は幽州薊の人である。十余歳で撃剣を学び、騎射に長じた。十五歳の時、魏帥范延光の帳下に隷属した。延光が叛くと、晉祖がこれを征伐し、城を以て降伏し、配下の者を悉く名簿に載せて献上した。全義はその名簿の中にあり、これにより禁軍に補せられた。志を得ざるを以て、遂に遁走した。漢の乾祐年間、李守貞が河中を鎮守し、召して帳下に置いた。守貞が叛くと、周祖がこれを討ち、全義は毎度敢死の士を率い、夜に出て周祖の陣営を攻め、多く殺傷した。守貞は貪欲にして謀なく、性格は猜疑心が強く、全義は屡々策を画したが、皆用いられなかった。城が陥落すると、姓名を変えて亡命した。

原文馬全義,幽州薊人。十餘歳學擊劍,善騎射。十五,隸魏帥范延光帳下。延光叛,晉祖征之,以城降,悉籍所部來上。全義在籍中,因補禁軍。以不得志,遂遁去。漢乾祐中,李守貞鎮河中,召置帳下。及守貞叛,周祖討之,全義毎率敢死士,夜出攻周祖壘,多所殺傷。守貞貪而無謀,性多忌克,全義屢爲畫策,皆不能用。城陷,遂變姓名亡命。

周の広順初年、世宗が澶淵を鎮守すると、全義は往ってこれに仕えた。世宗に従って朝廷に入り、周祖が召見し、殿前指揮使に補し、左右に謂って曰く、「此の人は事える所に忠なり、昔、河中に在りて、屡々我が軍を挫けり、汝等は宜しく之に倣うべし」と。世宗が即位すると、右番行首に遷った。世宗に従って高平に戦い、功により散員指揮使に遷った。淮南征伐に従い、功により殿前指揮使・右番都虞候に遷った。恭帝が即位すると、鉄騎左第二軍都校を授けられ、播州刺史を領した。

原文周廣順初,世宗鎮澶淵,全義往事之。從世宗入朝,周祖召見,補殿前指揮使,謂左右曰:「此人忠於所事,昔在河中,屢挫吾軍,汝等宜效之。」世宗即位,遷右番行首。從世宗戰高平,以功遷散員指揮使。從征淮南,以功遷殿前指揮使、右番都虞候。恭帝即位,授鐵騎左第二軍都校,領播州刺史。

宋の初年、内殿直都知・控鶴左廂都校を歴任し、果州団練使を領した。李筠征伐に従い、筠は退いて沢州に拠った。城は小さいが堅固で、攻めても陥ちず、太祖はこれを憂い、全義を召して御榻の前で食を賜り計策を問うた。対えて曰く、「筠は孤城を守る、若し力を併せて急攻すれば、直ちに殄滅すべし、仮令緩やかにすれば、恰も其の奸を長ずるに足るのみ」と。太祖曰く、「此れ吾が心なり」と。即ち兵を麾いて急撃せしめた。全義は敢死の士数十人を率いて城に乗じ、堞を攀ぢて上り、飛矢に臂を貫かれ、流血体に被う。全義は鏃を抜き敵に臨み、士気益々奮い、遂に其の城を陥れた。虎捷左廂都校に遷り、睦州防禦使を領した。又、李重進征伐に従い、控鶴・虎捷の両軍を領して後殿となった。賊が平定され軍を返し、功績を録するに多く、龍捷左廂都校に改め、江州防禦使を領し、俄かに疾を病んだ。太祖は太醫を遣わして診視せしめ、仍ち密旨を諭して曰く、「疾の間隙を俟ち、当に河陽の節制を授くべし」と。全義の疾は既に亟く、只だ叩頭して謝すのみ。数日にして卒す。年三十八。特に検校太保・大同軍節度使を贈られた。子に知節あり。

原文宋初,歷內殿直都知、控鶴左廂都校,領果州團練使。從征李筠,筠退保澤州,城小而固,攻之未下,太祖患之,召全義賜食御榻前問計,對曰:「筠守孤城,若並力急攻,立可殄滅,儻緩之,適足長其奸爾。」太祖曰:「此吾心也。」即麾兵急擊之。全義率敢死士數十人乘城,攀堞而上,爲飛矢貫臂,流血被體。全義拔鏃臨敵,士氣益奮,遂克其城。遷虎捷左廂都校,領睦州防禦使。又從征李重進,領控鶴、虎捷兩軍爲後殿。賊平班師,錄功居多,改龍捷左廂都校,領江州防禦使,俄被疾。太祖遣太醫診視,仍諭密旨曰:「俟疾間,當授以河陽節制。」全義疾已亟,但叩頭謝。數日卒,年三十八。特贈檢校太保、大同軍節度使。子知節。

子 知節

原文子 知節

知節は字を子元と云い、幼くして孤となった。太宗の時、蔭により供奉官に補せられ、今の名を賜った。年十八、彭州の兵を監し、厳をもって衆に臨み、衆は之を老将の如く畏れた。又、潭州の兵を監し、時に何承矩が守たり、頗る文雅を以て吏治を飾る。知節は之を慕い、因って節を折りて書を読んだ。雍熙年間、兵を護りて博州にあり、契丹が辺境に入り、我が師を君子館にて敗った。先んじて、知節は城を完うし甲を繕い、芻粟を儲積す。吏民は以て事を生ずと為した。既にして契丹果たして至る。備え有るを以て、引き去った。

原文知節,字子元,幼孤。太宗時,以蔭補供奉官,賜今名。年十八,監彭州兵,以嚴蒞眾,眾憚之如老將。又監潭州兵,時何承矩爲守,頗以文雅飾吏治,知節慕之,因折節讀書。雍熙間,護兵博州,契丹入邊,敗我師於君子館。先是,知節完城繕甲,儲積芻粟,吏民以爲生事。既而契丹果至,以有備,引去。

定遠軍の知事に徙る。時に議して河南十三州の民を調発し餉を輸送せしむ。河北転運使樊知古が適た軍に至り事を議す。知節曰く、「軍は粟少なく、其の紅腐を簸えば、尚ほ十の六七を得べし」と。知古これに従い、果たして粟五十万斛を得、諸屯に分給し、遂に河南の役を省く。時に部民は寇を避けて保に入る。卒に婦女の首飾を盗む者有り、護軍は只だ笞してこれを遣わす。知節曰く、「民は外患を避けて来たり、反って内寇に罹る。此れにして恕すべくんば、何を以て下を粛せん」と。即ち命じて之を斬る。深・慶二州の知事となり、西京作坊使に遷る。旋って梓州の知事となる。李順の叛、詔して王継恩と共に賊を討たしむ。継恩は勢いを恃み自ら任じ、知節が己に附かざるを悪み、彭州を守らしめ、羸兵三百を付す。彭の旧卒は悉く召し還して成都にす。知節累ねて兵を益すことを請うも従わず。賊衆十万城を攻む。知節力戦し、晨より晡に至る。士多く死す。慨然として歎じて曰く、「賊の手に死するは、壮夫に非ざるなり」と。即ち槊を横たえて囲みを潰え出づ。遅明、援兵至る。復た鼓噪して入る。賊遂に潰え去る。太宗聞きて歎じて曰く、「賊衆我寡、知節は当たる易からざるなり」と。益州鈐轄を授け、益・漢九州都巡検使を加え、内園使に遷る。会に韓景祐の帳下劉旰が牙兵を脅して乱を為し、州県を連ねて下し、衆二千を逾ゆ。知節兵三百を領し、追いて蜀しょく州に至り、戦う。旰は邛州に走る。知節曰く、「賊が邛州を破れば、必ず勝に乗じて江を渡り我に迫らん。既に息みて後に戦わば、官軍倍するも、之を制するも亦た労す。其の弊に乗じて急撃するに如かず。之を破る必ず矣」と。遂に行く。方井鎮に次ぎ、旰と遇い、之を殺して噍類無し。

原文徙知定遠軍。時議調河南十三州之民輸餉,河北轉運使樊知古適至軍議事,知節曰:「軍少粟多,簸其紅腐,尚當得十之六七。」知古從之,果獲粟五十萬斛,分給諸屯,遂省河南之役。時部民入保避寇,卒有盜婦女首飾者,護軍止笞遣之。知節曰:「民避外患而來,反罹內寇,此而可恕,何以肅下?」即命斬之。知深、慶二州,遷西京作坊使。旋知梓州。李順之叛,詔與王繼恩同討賊。繼恩恃勢自任,惡知節不附己,遣守彭州,付以羸兵三百,彭之舊卒,悉召還成都。知節累請益兵,不從。賊眾十萬攻城,知節力戰,自晨抵晡,士多死,慨然歎曰:「死賊手,非壯夫也。」即橫槊潰圍出,遲明,援兵至,復鼓噪入,賊遂潰去。太宗聞而歎曰:「賊眾我寡,知節不易當也。」授益州鈐轄,加益、漢九州都巡檢使,遷內園使。會韓景祐帳下劉旰脅牙兵爲亂,連下州縣,眾逾二千,知節領兵三百,追至蜀州,與戰,旰走邛州。知節曰:「賊破邛州,必乘勝渡江薄我,既息而後戰,官軍雖倍,制之亦勞,不如乘其弊急擊之,破之必矣。」遂行。次方井鎮,與旰遇,殺之無噍類。

咸平初年、登州刺史を領し、秦州の知事となる。州嘗て羌酋の支属二十余人を質とす。二紀を逾ゆ。知節曰く、「羌も亦た人爾、豈に帰を懐かざらんや」と。悉く之を遣わす。羌人感し、終わりに至るまで、更に塞を犯さず。時に州に銀坑有り、歳久しくして礦竭く。課額除かず。主吏破産し、之を償うも足らず。知節之を蠲免せんことを請う。章三たび上り、乃ち允さる。西上閤門使に遷り、益州の知事兼本路転運使となる。乾徳以後より、歳毎に蜀の物を漕運し、動もすれば万計を逾ゆ。時に富民を籍して以て舟運を部し、坐して沈覆し破産する者衆し。知節代わって督し以て校を省め而して其の漕事を程せんことを請う。是より蜀人は頼み以て患を免る。

原文咸平初,領登州刺史、知秦州。州嘗質羌酋支屬餘二十人,逾二紀矣。知節曰:「羌亦人爾,豈不懷歸?」悉遣之。羌人感之,訖終,更不犯塞。時州有銀坑,歳久礦竭,課額弗除,主吏破產,償之不足。知節請蠲之,章三上,乃允。遷西上閤門使,知益州兼本路轉運使。自乾德後,歳漕蜀物,動逾萬計。時籍富民以部舟運,坐沉覆破產者眾。知節請代督以省校而程其漕事,自是蜀人賴以免患。

延州の知事兼鄜延駐泊部署に徙る。辺寇将に至らんとする。方に上元節、遽かに命じて燈を張り関を啓き、累夕宴楽す。寇測るべからず、即ち引き去る。会に鎮州程徳玄の政事曠弛す。徙りて知節を以て之に代う。詔して澶・魏等六州の糧を発し定武に輸送せしむ。時に兵境上に交わる。知節曰く、「糧の来るは、是れ盗を資するなり」と。止めて舟車の至る所に於いて之を収めしむ。寇得る所無くして遁る。

原文徙知延州兼鄜延駐泊部署。邊寇將至,方上元節,遽命張燈啟關,累夕宴樂。寇不測,即引去。會鎮州程德玄政事曠弛,徙知節代之。詔發澶、魏等六州糧輸定武,時兵交境上,知節曰:「糧之來,是資盜也。」止令於舟車所至收之,寇無所得而遁。

車駕澶淵に在り。時に王超兵数十万を擁して真定に屯し、逗留して進まず。知節書を移して之を誚譲す。超始めて兵を出だす。猶ほ中渡に橋無きを以て言と為す。知節予め材を度ることを命じ、一夕にして具わる。景德年中、定州の知事に徙る。未だ幾ばくもせず、東上閤門使・枢密都承旨を拝し、擢げて簽書枢密院事を拝す。

原文車駕在澶淵,時王超擁兵數十萬屯真定,逗留不進。知節移書誚讓之,超始出兵,猶以中渡無橋爲辭。知節預命度材,一夕而具。景德中,徙知定州,未幾,拜東上閤門使、樞密都承旨,擢拜簽書樞密院事。

当是の時、契丹已に盟し、中国事無し。大臣頻りに符瑞を言う。而知節は毎之を然とせず。嘗て「天下安んずと雖も、戦を忘れ兵を去るべからず」と以為て戒めと為す。自ら陳す、年歯未だ衰えず、五七年の間尚ほ駆策すべし。辺方に警有らば、願わくは其の行に預からん。但だ副都部署の名及び良馬数匹・軽甲一聯を得て足れりと。上以て然りと為し、因って銅鉄鎖子甲を製して以て賜う。宣徽北院使に進み、枢密副使を兼ぬるを加う。時に王欽若枢密使と為る。知節其の人為りを薄しと為し、事に遇いて敢えて言い、未だ嘗て少しくも屈せず。毎に廷議、其の直からざるを得れば、輒ち面して之を詆る。時に欽若の寵顧方に隆し。知節愈々之に下らざるを為す。

原文當是時,契丹已盟,中國無事,大臣方言符瑞,而知節毎不然之,嘗言「天下雖安,不可忘戰去兵」以爲戒。自陳年齒未衰,五七年間尚可驅策,如邊方有警,願預其行,但得副都部署名及良馬數匹、輕甲一聯足矣。上以爲然,因命製銅鐵鎖子甲以賜焉。進宣徽北院使,加兼樞密副使。時王欽若爲樞密使,知節薄其爲人,遇事敢言,未嘗少屈。毎廷議,得其不直,輒面詆之。時欽若寵顧方隆,知節愈不爲下。

大中祥符七年、出でて潁州防禦使・潞州の知事と為る。天禧初年、移りて天雄軍の知事となり、召されて宣徽南院使・知枢密院事を拝す。疾を以て罷めんことを乞う。彰徳軍留後・貝州の知事兼部署を除く。将に行かんとす。真宗其の臒瘁を閔み、止めて帰鎮を命ず。時に上党・大名の民已に争いて来たり迎謁す。未だ幾ばくもせず、卒す。年六十五。侍中を贈られ、諡して正恵と曰う。

原文大中祥符七年,出爲潁州防禦使、知潞州。天禧初,移知天雄軍,召拜宣徽南院使、知樞密院事。以疾乞罷,除彰德軍留後、知貝州兼部署。將行,真宗閔其臒瘁,止命歸鎮。時上黨、大名之民已爭來迎謁。未幾,卒,年六十五。贈侍中,諡正惠。

知節は将家の子にして、慷慨として武力智謀を以て自ら任じ、又能く書を好み、賓友儒者、善く交わる所の者は必ず一時の豪傑なり、事を論ずるに謇謇として未だ嘗て顧忌する所有らず、故に其の風を聞く者も、亦其の正直なるを知る云ふ。

原文知節將家子,慷慨以武力智謀自許,又能好書,賓友儒者,所與善厚,必一時豪傑,論事謇謇未嘗有所顧忌,故聞其風者,亦知其爲正直云。

雷德驤

原文雷德驤

雷德驤、字は善行、同州郃陽の人なり。周の廣順三年に進士に挙げられ、褐を解きて磁州軍事判官となる。召されて右拾遺と爲り、三司判官を充て、緋魚を賜ふ。顯德中、入りて詔を受けて隨州諸縣の民田屋稅を均定し、平允と稱せらる。

原文雷德驤,字善行,同州郃陽人。周廣順三年舉進士,解褐磁州軍事判官。召爲右拾遺,充三司判官,賜緋魚。顯德中,入受詔均定隨州諸縣民田屋稅,稱爲平允。

宋初、殿中侍御史に拜し、屯田員外郎・判大理寺に改む。其の官屬と堂吏と宰相趙普に附會し、擅に刑名を増す。因りて上言し、太祖に見えんことを求めて以て其の事を白せんとす。未だ引對せず、直ちに講武殿に詣でて之を奏す。辭氣俱に厲し。太祖之を詰む。德驤對へて曰く、「臣、陛下の日旰にして未だ食せざるに値ひ、方に威嚴を震はす爾。」帝怒り、左右をして曳き出さしめ、詔して極典に置かしむ。俄に怒り解け、黜して商州司戸參軍と爲す。刺史德驤の舊省郎なるを知り、客禮を以て之に接す。及び奚嶼州を知るに及び、宰相の旨を希ひ、至れば則ち倨りて庭參を受けしむ。德驤堪へず、怨言を出だす。嶼之を銜む。適に德驤の郡に至りて文を爲し上を訕る者有りと言ふ。嶼德驤を召して與に語らしめ、潛かに吏を遣はして其の家人を紿りて之を得しむ。即ち德驤を械繫し、狀を具して以て聞かしむ。太祖其の罪を貸し、籍を削りて靈武に徙す。數年、其の子有鄰登聞鼓を撃ち、中書の不法の事を訴ふ。趙普是に由りて出でて河陽を鎮す。德驤を召して秘書丞と爲し、俄に御史臺三院事を分判し、又吏部南曹を兼判す。開寶七年、同知貢舉。太祖崩じ、德驤を以て呉越國告哀使と爲す。還りて、戸部員外郎兼御史知雜事に遷り、職方員外郎に改め、陝西・河北轉運使を充つ。禮部・戸部郎中を歷ね、入りて度支判官と爲る。

原文宋初,拜殿中侍御史,改屯田員外郎、判大理寺。其官屬與堂吏附會宰相趙普,擅增刑名,因上言,欲求見太祖以白其事。未引對,直詣講武殿奏之,辭氣俱厲。太祖詰之,德驤對曰:「臣值陛下日旰未食,方震威嚴爾。」帝怒,令左右曳出,詔置極典。俄怒解,黜爲商州司戸參軍。刺史知德驤舊爲省郎,以客禮之。及奚嶼知州,希宰相旨,至則倨受庭參。德驤不能堪,出怨言,嶼銜之。適有言德驤至郡爲文訕上者,嶼召德驤與語,潛遣吏紿其家人取得之,即械繫德驤,具狀以聞。太祖貸其罪,削籍徙靈武。數年,其子有鄰擊登聞鼓,訴中書不法事,趙普由是出鎮河陽。召德驤爲秘書丞,俄分判御史臺三院事,又兼判吏部南曹。開寶七年,同知貢舉。太祖崩,以德驤爲呉越國告哀使。還,遷戸部員外郎兼御史知雜事,改職方員外郎,充陝西、河北轉運使。歷禮部、戸部郎中,入爲度支判官。

太平興國四年、車駕太原を征す。太原西路轉運使と爲る。六年、京朝官考課を同知し、俄に兵部郎中に遷る。七年、公累を以て本曹員外郎に降り、出でて懷州を知る。未だ幾ばくもせず、舊官に復し、又命じて兩浙轉運使と爲らしむ。其の子殿中丞有終も亦淮南轉運使と爲る。父子同日に詔を受け、搢紳之を榮しむ。俄に右諫議大夫に遷る。

原文太平興國四年,車駕征太原,爲太原西路轉運使。六年,同知京朝官考課,俄遷兵部郎中。七年,以公累降本曹員外郎、出知懷州,未幾,復舊官,又命爲兩浙轉運使。其子殿中丞有終亦爲淮南轉運使,父子同日受詔,搢紳榮之。俄遷右諫議大夫。

雍熙二年、征して朝に歸らしめ、京朝官考課を同知す。初め、帝宰相に謂ひて曰く、「朕前日班籍を閱し、官を擇びて河北轉運使と爲す。患ふ所は群臣の履行を周く知ること能はざるなり。今より德驤に令せしめて京朝官の履歷功過の狀を錄し引對せしめ、既に群臣を漸く識り、才を擇びて委任し、且つ官政有る者をして召對を樂しましめ、瑕累を負ふ者をして顧問を恥ぢしめ、以て懲勸と爲す可きなり。」と。

原文雍熙二年,征歸朝,同知京朝官考課,初,帝謂宰相曰:「朕前日閱班籍,擇官爲河北轉運使,所患不能周知群臣履行。自今令德驤錄京朝官履歷功過之狀引對,既得漸識群臣,擇才委任,且使有官政者樂於召對,負瑕累者恥於顧問,可以爲懲勸矣。」

端拱初、戸部侍郎に遷る。會に趙普再び相に入る。宣制の日、德驤方に班に立ち、覺えず笏を墜す。遽に疏を上し、田里に歸らんことを乞ふ。太宗召見し、安んじて之を諭し、白金三千兩を賜ひ、考課を知ることを罷め、止めて本官を以て朝請に奉ぜしむ。會に尚書省に事を議す。酒に乘じて起居員外郎鄭構を叱して盜と爲す。御史奏して劾す。下りて御史臺に案問せしむ。具に伏す。帝止めて月奉を罰して之を釋く。趙普の出でて西洛を守るに訖るまで、帝終に之を保全す。

原文端拱初,遷戸部侍郎。會趙普再入相,宣制之日,德驤方立班,不覺墜笏,遽上疏,乞歸田里。太宗召見,安諭之,賜白金三千兩,罷知考課,止以本官奉朝請。會議事尚書省,乘酒叱起居員外郎鄭構爲盜,御史奏劾,下御史臺案問,具伏,帝止令罰月奉而釋之。訖趙普出守西洛,帝終保全之。

淳化二年、其の婿如京副使衞えい濯、有鄰の子秘書省校書郎孝先の內亂を訟ふ。帝素より德驤を憐み、暴に其の醜を揚げんことを恐れ、孝先を吏に屬せず、止めて名を除き均州に配す。德驤教を失ふに坐し、責めて感德軍行軍司馬を授く。並びに其の子少府少監有終を責めて衡州團練副使を授く。德驤因りて慚憤して疾を成す。三年、卒す。年七十五。有終三司鹽鐵副使と爲り、表して舊官を追復せんことを乞ふ。之に從ふ。

原文淳化二年,爲其婿如京副使衞濯訟有鄰子秘書省校書郎孝先內亂,帝素憐德驤,恐暴揚其醜,不以孝先屬吏,止除名配均州。德驤坐失教,責授感德軍行軍司馬。並其子少府少監有終責授衡州團練副使。德驤因慚憤成疾,三年,卒,年七十五。有終爲三司鹽鐵副使,表乞追復舊官,從之。

德驤文采無く、頗る強直を以て自ら任じ、性褊躁にして、物に忤ふこと多し。士大夫と與せられず。

原文德驤無文采,頗以強直自任,性褊躁,多忤物,不爲士大夫所與。

子 有鄰

原文子 有鄰

有鄰、開寶中、進士に挙げられて第せず。其の父既に靈武に竄せられ、意ふ宰相趙普の之を擠抑するを。時堂後吏胡讚・李可度職に在ること歳久しく、或は其の請託賕を受くると稱す。而して秘書丞王洞は德驤と同年に登第す。有鄰每に洞を造謁す。洞多く家事を之に委ぬ。一日、洞有鄰に令して白金半鋌を市はしむ。因りて曰く、「此れ吾が子に知らしめ、要は胡將軍と與へよ。」蓋し讚を謂ふなり。時に又詔有り、應に攝官三任解由全き者は牒を有司に投ずるを許し、即ち召試錄用を得しむ。有鄰素より前攝上蔡主簿劉偉と交遊す。偉嘗て三攝すと雖も、而して一任其の解由を失へるを知る。偉偽印を造り、其の兄前進士侁をして之を書寫せしむ。是に因りて試を送り銓を得たり。遂に章を具して其の事を告ぐ。並びに下りて御史府に按鞫せしむ。有鄰讚の家に出入す。故に其の事多く實なり。獄具はる。偉棄市に坐す。洞等並びに決杖除名せらる。讚・可度仍り其の家を籍す。有鄰秘書省正字を授けられ、公服靴笏・銀鞍勒馬・絹百匹を賜ひ、是より累ね疏を上して密かに人の陰事を告ぐ。俄に病に被る。白晝偉の室に入り、杖を以て其の背を箠るを見る。有鄰號呼して外に聞こゆ。數日にして死す。德驤に錢十萬を賜ひ、以て喪事を給す。

原文有鄰,開寶中,舉進士不第。其父既竄靈武,意宰相趙普擠抑之。時堂後吏胡讚、李可度在職歳久,或稱其請託受賕,而秘書丞王洞與德驤同年登第,有鄰毎造謁洞,洞多以家事委之。一日,洞令有鄰市白金半鋌,因曰:「此令吾子知,要與胡將軍。」蓋謂讚也。時又有詔,應攝官三任解由全者許投牒有司,即得召試錄用。有鄰素與前攝上蔡主簿劉偉交遊,知偉雖嘗三攝,而一任失其解由,偉造偽印,令其兄前進士侁書寫之,因是得試送銓。遂具章告其事,並下御史府按鞫。有鄰出入讚家,故其事多實。獄具,偉坐棄市,洞等並決杖除名,讚、可度仍籍其家。有鄰授秘書省正字,賜公服靴笏、銀鞍勒馬、絹百匹,自是累上疏密告人陰事。俄被病,白晝見偉入室,以杖箠其背。有鄰號呼聞於外,數日而死。賜德驤錢十萬,以給喪事。

子 有終

原文子 有終

有終、字は道成、幼くして聰敏、蔭を以て漢州司戸參軍を補ふ。時侯陟選を典む。木強にして犯し難し。選人庭に聽署す。敢へて嘩する者無し。有終獨り抗言し、願はくは大郡の治獄掾と爲らんとす。陟之を叱して曰く、「年未だ三十ならず、安んぞ此の官を任する可けんや。」有終爲に沮まず。萊蕪尉を署す。知監・左拾遺劉祺有終の年少なるを以て、頗る之を易しむ。有終其の奸贓を發す。祺罪に坐し杖せられ海島に流さる。有終を以て代はりて監事を知らしむ。先是、三司吏を補ひて冶官と爲す。率ね貲を以て進み、恣横なること多し。是に至り、署を受くる者、有終を憚り、率ね多く避けて免る。太宗即位し、其の名を聞き、內侍伍守忠を遣はして同く監事を掌らしめ、且つ其の治跡を察せしむ。守忠至るに裁周月にして、即ち還り奏して有終の強濟の狀をす。亟に詔して大理寺丞と爲らしむ。會に德驤陝西轉運を任ず。奏して解州通判と爲す。特許して德驤是の州を巡察せざらしむ。有終入りて鹽池の利害を奏す。贊善大夫に改め、還りて軍事を權知せしめ、通判を省かしむ。太平興國六年、殿中丞に遷り密州を知り、徙めて淮南轉運副使と爲り、緋魚を賜ひ、太常博士に改む。時德驤兩浙の漕を主る。往往境上に省す。時人之を榮しむ。

原文有終,字道成,幼聰敏,以蔭補漢州司戸參軍。時侯陟典選,木強難犯,選人聽署於庭,無敢嘩者。有終獨抗言,願爲大郡治獄掾,陟叱之曰:「年未三十,安可任此官?」 有終不爲沮。署萊蕪尉。知監、左拾遺劉祺以有終年少,頗易之。有終發其奸贓,祺坐罪杖流海島,以有終代知監事。先是,三司補吏爲冶官,率以貲進,多恣橫。至是,受署者憚有終,率多避免。太宗即位,聞其名,遣內侍伍守忠同掌監事,且察其治跡。守忠至裁周月,即還奏有終強濟之狀,亟詔爲大理寺丞。會德驤任陝西轉運,奏爲解州通判,特許德驤不巡察是州。有終入奏鹽池利害,改贊善大夫,令還權知軍事,省通判。太平興國六年,遷殿中丞、知密州,徙淮南轉運副使,賜緋魚,改太常博士。時德驤主漕兩浙,往往省於境上,時人榮之。

雍熙中、王師北征す。命じて蔚州飛狐路隨軍轉運使と爲す。入りて鹽鐵判官と爲り、戸部・度支副使を歷ね、金紫を賜ひ、出でて昇州を知る。淳化初、就きて少府少監に遷り廣州を知る。二年、女弟婿衞濯其の家法謹ならざるを訟ふ。有終親累に坐し、責めて衡州團練副使を授けられ、章服を奪はる。俄に外艱に丁す。行きて許田に及ぶ。召し歸り、入對す。錢八十萬を賜ひ、起して都官員外郎と爲し、度支・鹽鐵副使を歷ね、復た金紫を賜ふ。時江南・嶺外の茶鹽價一ならず。細民禁を冒して私販し、多く重辟に陷る。詔して有終に領せしめて江淮・兩浙・荊湖・福建・廣南路茶鹽制置使と爲し、就きて鹽を出だし茶を産するの地に出で、便宜を以て裁制せしむ。使還りて、工部郎中に改め大名府を知る。一月を踰えず、復た少府少監と爲り、徙めて江陵を知る。

原文雍熙中,王師北征,命爲蔚州飛狐路隨軍轉運使。入爲鹽鐵判官,歷戸部、度支副使,賜金紫,出知昇州。淳化初,就遷少府少監、知廣州。二年,女弟婿衞濯訟其家法不謹,有終坐親累,責授衡州團練副使,奪章服。俄丁外艱,行及許田,召歸,入對,賜錢八十萬,起爲都官員外郎,歷度支、鹽鐵副使,復金紫。時以江南、嶺外茶鹽價不一,細民冒禁私販,多陷重辟。詔有終領江淮、兩浙、荊湖、福建、廣南路茶鹽制置使,就出鹽產茶之地,以便宜裁制。使還,改工部郎中、知大名府,不逾月,復爲少府少監,徙知江陵。

李順の乱に際し、王師が西征するや、命ぜられて裴莊とともに峽路隨軍轉運使・同知兵馬事となる。兵糧を調達し発送し、軍務を計画するに、いずれも節度があった。軍が峽中に至り、盗賊と遭遇して格闘し、兵士は渇き疲弊したが、ちょうど雨が降り、軍士は兜鍪で水を受けて飲み、進みながら戦い、広安軍に至った。軍の砦は江に臨み、三面に柵を立てた。夜陰晦に会し、賊の大軍が急に至り、鬨の声をあげ火を挙げたので、兵士は恐れおののいたが、有終は安座して髪を梳くなど平然としていた。賊の包囲が完成すると、有終は奇兵を率いてその背後に出て撃ち、賊衆は驚き乱れ、水に飛び込んで死ぬ者が数え切れなかった。そのまま右諫議大夫・知益州に任ぜられた。簡州に次ぎ、仏寺に宿したが、賊が必ず来ると推測し、左右に厳重に戸を閉ざさせ、土地の者を召して厳しく夜警を備えさせ、初更に、間道から出た。賊は数重に包囲して守っていたが、寺を破って入った時には、柝を打つ者だけがいた。まもなく同招安使を兼ねた。賊が平定されると、知許州に改めた。三年、給事中・知并へい州に改めた。

原文李順之亂,王師西征,命與裴莊爲峽路隨軍轉運使、同知兵馬事。調發兵食,規畫戎事,皆有節制。師行至峽中,遇盜格鬥,眾渴乏,會天雨,軍士以兜牟承水飲之,且行且戰,進至廣安軍,軍壘瀕江,三面樹柵。會夜陰晦,賊眾奄至,鼓噪舉火,士伍恐懼,有終安坐櫛髮自若。賊圍既合,有終引奇兵出其後擊之,賊眾驚擾,赴水死者無算。就拜右諫議大夫、知益州。次簡州,寓佛舍,度賊必至,命左右重閉,召土人嚴更警備,初夕,間道而出。賊圍守數重,及壞寺入,惟擊柝者在焉。俄兼同招安使。賊平,改知許州。三年,改給事中、知并州。

真宗が位を嗣ぐと、工部侍郎を加えられた。咸平二年、代わって還り、知審刑院となり、まもなく戸部使を授けられた。三年、大名を巡師しようとし、有終を遣わして駅馬で先に澶州に至らせ、糧草の納入を監督させた。車駕が還り、徳清軍に次いだ時、ちょうど益州からの奏上があり、神衞の戍卒が正月元旦にひそかに蜂起し、兵馬鈐轄符昭壽を害し、都虞候王均を擁して乱を起こし、知州牛冕を追い払ったと報じた。即日、有終を瀘州觀察使・知益州兼川峽兩路招安捉賊事に任じた。御廚使李惠・洛苑使石普・供備庫副使李守倫をともに招安巡檢使とし、歩騎八千を与えて、招討に向かわせた。また洺州團練使上官正を東川都鈐轄とし、西京作坊使李繼昌を峽路都鈐轄とし、崇儀副使高繼勳・王阮をともに益州駐泊都監とし、供奉官・閤門祗候孫正辭を諸州都巡檢使とした。

原文真宗嗣位,加工部侍郎。咸平二年,代還,知審刑院,俄授戸部使。三年,將巡師大名,遣有終乘驛先詣澶州督納糧草。車駕還,次德清軍,會益州奏至,神衞戍卒以正旦竊發,害兵馬鈐轄符昭壽,擁都虞候王均爲亂,逐知州牛冕。即日,拜有終瀘州觀察使、知益州兼川峽兩路招安捉賊事。御廚使李惠、洛苑使石普、供備庫副使李守倫並爲招安巡檢使,給歩騎八千,命往招討。又以洺州團練使上官正爲東川都鈐轄,西京作坊使李繼昌爲峽路都鈐轄,崇儀副使高繼勳、王阮並爲益州駐泊都監,供奉官、閤門祗候孫正辭爲諸州都巡檢使。

正月三日、均は衆を率いて漢州を陥とし、綿州を攻撃したが、十日間で落とせず、剣門に向かった。先に、知剣州・秘書丞李士衡は賊が必ず来ると推測し、城は守れないとして、官庫の財物をすべて移して剣門を守り、その倉庫を焼き、さらに榜を掲げて流亡する軍卒を招き、数千人を得た。やがて賊が果たして来ると、士衡は剣門都監・左蔵庫副使裴臻とともにこれを迎撃した。時に風雪が連日続き、均の衆は掠奪するものがなく、ただ腐った酒粕を食い、臻が戦い、数千級を斬首した。賊衆は疲弊困憊して夜遁し、益州に戻って守った。士衡はただちに騎馬を馳せて入奏し、上はこれを嘉し、士衡を度支員外郎に任じ、緋衣を賜い、臻は崇儀使・峰州刺史を領し、もとの職のままとした。

原文正月三日,均率眾陷漢州,進攻綿州,旬日不能下,趣劍門。先是,知劍州、秘書丞李士衡度寇必至,城不能守,悉徙官帑保劍門,焚其倉廩,及署榜招軍卒之流逸者,得數千人。已而賊果至,士衡與劍門都監、左藏庫副使裴臻逆擊之。時風雪連日,均眾無所掠,唯食敗糟,臻與戰,斬首數千級。賊眾疲劇宵遁,還保益州。士衡即馳騎入奏,上嘉之,拜士衡度支員外郎,賜緋;臻崇儀使、領峰州刺史,仍舊職。

知蜀州・供奉官・閤門祗候楊懷忠は変事を聞くと、ただちに郷丁を調発して十一路の巡檢兵と合わせ、期日を定めて進討した。蜀の民で賊に従わない者は相率いて抵抗し、仲間はこれを「清壇衆」と呼んだ。「清壇」の頭目七十余人を選び、すべて巡檢將に補任し、判官高本を駅馬で馳せて奏聞させた。十七日、懷忠は衆を率いて益州に入り、城の北門を焼き、三井橋に至った。時に均はなお剣門に留まり、賊将魯麻胡と江瀆廟の前に陣を敷き、朝から夕方まで、数度戦ったが、懷忠の兵勢は敵わず、所属の地に退いた。懷忠の部下には李順の旧党が多く、略奪を貪る者が多かったので、敗北したのである。懷忠は嘉・眉七州に移文し、軍士と丁男を調発して来会させた。二月、再び益州を攻撃した。時に均はちょうど逆党趙延順を遣わして邛・蜀を攻撃させており、懷忠はこれと迎え撃って戦い、賊はやや退いた。懷忠は轉運使陳緯とともに兵を指揮して子城の南門から直ちに軍資庫に入り、緯とともにその庫の鍵に署名した。均の衆はみな銀の槍に刺繍の衣で、数隊に分かれ、子城中に列をなした。賊兵が通遠門から出て、懷忠と数度戦ったが、暮れに会したので、懷忠はまた軍を筰橋に退き、水を背にして陣を列ね、櫧木橋の南に砦を築き、邛・蜀への路を防いだ。賊はもはや南に攻略できず、清水壩・温江・金馬の三道から来て櫧木砦を攻め、官軍の背後に出て、江原の神祠を焼き、邛・蜀からの援路を断った。懷忠は三路に分兵してこれに抗し、五百余級を斬首し、残りの衆を皂江に追い落とし、甲冑や弩を多く獲た。勝に乗じて賊を益州の南十五里まで追い、鶏鳴原に砦を築き、王師を待った。均もまた成都の東門を閉じて自らを固めた。

原文知蜀州、供奉官、閤門祗候楊懷忠聞變,即調鄕丁會十一路巡檢兵,刻期進討。蜀民不從賊者相率抗禦,儕伍謂之「清壇眾」。擇「清壇」之魁七十餘人,悉補巡檢將,遣判官高本馳驛以聞。十七日,懷忠率眾入益州,焚城北門,至三井橋。時均尚留劍門,與賊將魯麻胡陣於江瀆廟前,自晨至晡,戰數合,懷忠兵勢不敵,退還所部。懷忠部下多李順舊黨,頗貪剽劫,故敗績焉。懷忠移文嘉、眉七州,調軍士丁男來會。二月,再攻益州。時均方遣逆黨趙延順攻邛、蜀,懷忠逆與之戰,賊稍退。懷忠與轉運使陳緯麾兵由子城南門直入軍資庫,與緯署其庫籥。均眾皆銀槍繡衣,爲數隊,分列子城中。賊兵出通遠門,與懷忠戰數合,會暮,懷忠復退軍筰橋,背水列陣,砦櫧木橋南,以扞邛、蜀之路。賊故不復能南略,自清水壩、溫江、金馬三道來攻櫧木砦,出官軍後,焚江原神祠,斷邛、蜀援路。懷忠三路分兵以抗之,斬首五百餘級,驅其餘眾入皂江,獲甲弩甚眾。乘勝逐賊至益州南十五里,砦於雞鳴原,以俟王師。均亦閉成都東門以自固。

この月、有終らが到着し、石普に先に綿漢都巡檢張思鈞とともに漢州を回復させ、進んで升僊橋に壁を築かせた。賊が出て砦を攻撃したが、有終はこれを撃退した。ある日、均は城門を開いて偽って逃げる様子を装い、有終と上官正・石普は兵を率いてまっすぐに入ったが、官軍は分かれて民財を掠奪し、部隊の規律が整わなかった。賊は関門を閉じて伏兵を発し、路口に寝台を並べたので、官軍は出ることができず、これによって殺された。有終らは城壁の塀を伝って墜ち、李惠はこれに死し、漢州に退いて守った。益州城中の民はみな奔り出て四方に逃げたが、また賊党が分かれて騎兵で追い殺し、あるいは囚人として縛り、四肢を切断し一族を誅戮して衆を脅した。また士民僧道の壮年の者を脅して兵とし、まず手の甲に刺青し、次に髪を剃り、次に顔に入墨し、軍装を与え、城壁に登らせ、旧賊党と交互に配置した。有終は榜を掲げてこれを招き、来た者にはその衣の袂に署名して釈放し、日に数百人に及んだ。

原文是月,有終等至,令石普先與綿漢都巡檢張思鈞收復漢州,進壁升僊橋。賊出攻砦,有終擊走之。一日,均開城偽爲遁狀,有終與上官正、石普率兵徑入,官軍分剽民財,部伍不肅。賊閉關發伏,布床榻於路口,官軍不得出,因爲所殺。有終等緣堞而墜,李惠死之,退保漢州。益州城中民皆奔迸四出,復爲賊黨分騎追殺,或囚縶之,支解族誅以恐眾。又脅士民僧道之少壯者爲兵,先刺手背,次髡首,次黥面,給軍裝,令乘城,與舊賊黨相間。有終署榜招之,至則署其衣袂釋之,日數百人。

三月、弥牟砦を攻撃し、千余級を斬首したが、また賊に阻まれた。四月、賊は升僊橋から分路して来寇し、ともに軍を東側に集め、有終は兵を率いて迎撃し、これを大破し、千余人を殺し、その傘蓋・金槍などを奪い、均は単騎で城に還った。有終はその子の奉禮郎孝若を遣わして馳せて奏上させ、上は孝若を召して賊を破った経緯を問い、左右に向かって笑って言った、「均は鼠窃に過ぎぬ。城に拠って自ら守るといえども、日数を数えれば捕らえられよう」。孝若はかつて武芸を習ったことを言上し、官位を改めて効力を尽くしたいと願い出たので、ただちに供奉官に補任した。まもなく刑部員外郎馬亮を轉運使とし、國子博士張志言をその副とし、供備庫副使張晌を綿漢都巡檢使とした。楊懷忠はまた配下を分けて合水尾・浣花などに砦を築き、投石器を立て、竹柵を設けてこれに抗した。

原文三月,進攻彌牟砦,斬首千餘級,復爲賊所拒。四月,賊由升僊橋分路來寇,並軍於東偏,有終率兵逆擊,大敗之,殺千餘人,奪其傘蓋、金槍等物,均單騎還城。有終遣其子奉禮郎孝若馳奏,上召孝若問敗賊之由,笑謂左右曰:「均鼠竊爾,雖嬰城自守,計日可擒矣。」孝若因言嘗習武藝,願改秩以效,即補供奉官。俄以刑部員外郎馬亮爲轉運使,國子博士張志言副之,供備庫副使張晌爲綿漢都巡檢使。楊懷忠又分所部砦於合水尾、浣花等處,樹機石、設笓籬以拒之。

賊は升僊での敗北以来、橋を撤去し門を塞ぎ、官軍は清還江に進み、橋を架けて渡った。有終は石普とともに城の北門の西に屯し、壕に沿って土山を築き、分かれて鹿角を設け、また旧草場を得て、雲梯や衝車・洞車などの攻撃用具を造り、普がこれを専管した。高繼勳・張晌・孫正辭は城東を攻め、上官正・李繼昌・王阮は城西を攻め、楊懷忠は巡檢殿直・閤門祗候馬貴とともに城南を攻め、賊将趙延順は凶党をすべて駆り立てて抵抗した。やがて延順は流れ矢に当たって死に、またその党丁重萬を遣わして城門の上に立たせたが、官軍がこれを射て、倒した。毎度城を攻めるたびに、ちょうど雨に会い、城は滑って登れず、官軍と丁夫は洞屋を造って進んだが、賊はまた地道を掘って出て掩撃し、壕に溺れて死ぬ者が千余人に及び、軍勢はやや挫けた。時にちょうど暑湿で、軍士は多く病気にかかり、有終は他州で薬を買ってこれを治療した。

原文賊自升僊之敗,徹橋塞門,官軍進至清還江,爲梁而度。有終與石普屯於城北門之西,依壕爲土山,分設鹿角,又得舊草場,造梯衝洞車攻具,普專主之。高繼勳、張晌、孫正辭攻城東,上官正、李繼昌、王阮攻城西,楊懷忠與巡檢殿直、閤門祗候馬貴攻城南,賊將趙延順盡驅凶黨以拒。既而延順中流矢死,又遣其黨丁重萬立城門上,官軍射之,殪。毎攻城,輒會雨,城滑不能上,官軍及丁夫爲洞屋以進,賊又鑿地道出掩之,溺壕中死者千餘,軍勢小衄。時方暑濕,軍士多疾,有終市藥他州療之。

この月、詔して洛苑使・入内副都知秦翰を両川捉賊招安使とす。有終は翰と協議し、城北の魚橋にまた土山を築く。八月、城北の羊馬城を陥とし、ついに雁翅敵棚を設け、洞屋を覆いて進み、羅城に迫る。九月、城北の洞屋成る。賊は対して敵楼を設けて官軍に抗す。有終、卒を遣わしてこれを焼かしむ。賊はここより銷沮し、月城を築いて自らを固む。有終、敢死の士を募りて間道より入らしむ。賊は薬矢を為し、中る者は立ちどころに死す。有終、卒に氈を蒙り燧を秉って入るを命じ、その望櫓・機石を悉く焼かしむ。先に東西南の砦に鼓噪して城を攻めしめ、有終と石普と分かって洞屋を主りて進む。普、城に穴を穿ちて暗門と為す。門成るや、賊は戟を攢えて前にあり、敢えて進む者なし。二卒の行くを請う者有り、厚賞を以て許す。乃ち戈を麾いて直ちにこれを衝く。賊の鋒稍く却く。遂に城に入る。有終、城楼に登りて下瞰す。賊の余衆、なお天長観前に砦し、文翁坊に密かに砲架を設く。高継勳、馬亮に白し、稭稈・油籸を給するを請う。衆、長戟・巨斧を執り、炬を秉って進み、悉くこれを焼く。楊懷忠、その砦を天長観前に焼き、大安門に追い至り、またこれを敗る。この夕二鼓、均とその党二万余、南より万里橋門を出で、囲みを突いて遁走す。有終、伏兵有るを疑い、人を遣わして城中に火を放つ。詰朝、秦翰と門楼に登る。牙吏に偽署の官職を受けたる者有り、捕え得て、楼の下に立ち、傍らに薪を積み、その上に火を置く。男子の魁壮なる者を索めてこれを弁ぜしむ。曰く「某嘗て某職を受く」と。即ち左右に命じて捽ちて火中に投ぜしむ。晨より晡に至るまで、焼き死する者数百人、時に冤酷と謂う。均既に走り、合水尾を渡り、広都より陵・栄を略し、富順監に趣く。過ぐる所に橋を断ち路を塞ぎ、倉庫を焼きて去る。

原文是月,詔洛苑使、入內副都知秦翰爲兩川捉賊招安使。有終與翰叶議,於城北魚橋又築土山。八月,克城北羊馬城,遂設雁翅敵棚,覆洞屋以進,逼羅城。九月,城北洞屋成,賊對設敵樓以抗官軍,有終遣卒焚之,賊自是銷沮,築月城以自固。有終募敢死士間道以入,賊爲藥矢,中者立死。有終令卒蒙氈秉燧以入,悉焚其望櫓機石,先遣東西南砦鼓噪攻城,有終與石普分主洞屋以進。普穴城爲暗門,門成,賊攢戟於前,無敢進者。有二卒請行,許以厚賞,乃麾戈直衝之,賊鋒稍卻,遂入城。有終登城樓下瞰,賊之餘眾,猶砦天長觀前,於文翁坊密設炮架。高繼勳白於馬亮,請給稭稈油籸,眾執長戟巨斧,秉炬以進,悉焚之。楊懷忠焚其砦天長觀前,追至大安門,復敗焉。是夕二鼓,均與其黨二萬餘南出萬里橋門,突圍而遁。有終疑有伏,遣人縱火城中。詰朝,與秦翰登門樓,牙吏有受偽署官職者,捕得,立樓下,傍積薪,厝火其上,索男子魁壯者令辨之,曰某嘗受某職,即命左右捽投火中。自晨至晡,焚死者數百人,時謂冤酷。均既走,度合水尾,由廣都略陵、榮,趣富順監,所過斷橋塞路,焚倉庫而去。

初め、有終、懐忠を遣わして虎翼軍を領してこれを追わしむ。後二日、石普継いて往き、全軍を以て後援と為す。十月、均、富順に至る。その将校、筏を以て江を渡り、戎・瀘の蛮境に趣く。朝廷、毎歳孟冬の朔、詔して富順監に酒肴を具えさせ、内属の蛮酋を犒う。この日、設具を裁するに、均の党適来たり、皆これを食す。懐忠の追騎将に至らんとするを聞き、均、心これを易し、その党に謂いて曰く「速やかに懐忠に降れ」と。その衆に負担して行かしむ。懐忠、富順より六十里、楊家市に少しく憩う。賊衆の後にある者、戦を邀う。懐忠、騎士を遣わして高原に登りて賊を覘わしめ、かつその左右に語りて曰く「賊をして江を渡らしめば、後悔及ぶこと無からん。石侯将に至らんとするを聞く。奇兵を以てこれを取るべし」と。乃ち江に臨んで陣を列ねてこれを撃つ。余党散走す。舟有りて将に江を渡りて遁れんとする者、懐忠、強弩を合わせてこれを射る。溺死すること甚だ衆し。懐忠、旗を張り鼙を鳴らして城に入る。均方に監署の中に在り。その衆多く酔う。均窮蹙して縊死す。虎翼軍校魯斌、その首を斬りて懐忠に詣る。僭偽の法物・旌旗・甲馬甚だ衆くを獲、その党六千余人を禽え、逆徒殲さる。懐忠、軍を旋して北門を出づ。石普の衆方に至る。均の首を奪い馳せて成都に帰り、北市に梟す。

原文初,有終遣懷忠領虎翼軍追之,後二日,石普繼往,以全軍爲後援。十月,均至富順,其將校以筏度江,趨戎、瀘蠻境。朝廷毎歳孟冬朔,詔富順監具酒肴,犒內屬蠻酋。是日裁設具,而均黨適至,皆食焉。聞懷忠追騎將至,均心易之,謂其黨曰:「速降懷忠。」令其眾負擔以行。懷忠距富順六十里,於楊家市少憩,賊眾在後者邀戰,懷忠遣騎士登高原覘賊,且語其左右曰:「縱賊度江,後悔無及,聞石侯將至,當以奇兵取之。」乃臨江列陣擊之,餘黨散走,有舟將度江而遁者,懷忠合強弩射之,溺死甚眾。懷忠張旗鳴鼙入城,均方在監署中,其眾多醉,均窮蹙縊死。虎翼軍校魯斌斬其首詣懷忠,獲僭偽法物、旌旗、甲馬甚眾,禽其黨六千餘人,逆徒殲焉。懷忠旋軍出北門,石普之眾方至,奪均首馳歸成都,梟於北市。

均は本、開封の散従直に隷し、後に軍校を補す。初め、成都に戍する神衞軍は、均及び董福を以て二指揮を分かちてこれを領せしむ。福は衆を御するに法有り、部下皆優足す。均はその下の飲博を縦し、軍装も亦以て費を給す。この歳、車駕河朔に幸す。符昭寿と牛冕、東郊に大閲す。蜀人趨りてこれを観る。二軍の衣服鮮弊等しからず。均の衆、ここにより慚憤す。益州知州と鈐轄の二廨並びに禁旅を牙隊と為す。歳除、冕は酒肴を以て部士を犒う。而して昭寿は既に驕恣し、復た侵虐を肆にす。冕も亦寛弛して政無し。故に詰朝合い起って乱を為す。

原文均本隸開封散從直,後補軍校。初,神衞軍之戍成都者,以均及董福分二指揮以領之。福御眾有法,部下皆優足。均縱其下飲博,軍裝亦以給費。是歳,車駕幸河朔,符昭壽與牛冕大閱於東郊,蜀人趨觀之,二軍衣服鮮弊不等,均眾因是慚憤。益州知州與鈐轄二廨並禁旅爲牙隊,歳除,冕以酒肴犒部士,而昭壽既驕恣,復肆侵虐,冕亦寬馳無政,故詰朝合起爲亂。

神衞の卒既に昭寿を殺す。この日、成都の官吏方に相与いて正を賀す。変を聞き、皆奔竄す。牛冕と転運張適、城を縋りて出づ。惟だ都巡検使劉紹栄、刃を冒して格闘す。既にして衆寡敵せず。叛卒未だ主有らず。或いは紹栄を奉じて帥と為さんと欲する者あり。紹栄、弓を摂めて罵りて曰く「我は燕人なり。比に郷土を棄て来たりて本朝に帰す。豈に汝と同逆せんや。汝亟に我を殺せ。我肯えて朝廷に負かんや」と。衆未だ敢えて動かず。監軍王澤と均適来たり。乃ち均に謂いて曰く「汝の部する所乱を為す。盍ぞ自ら往きて招安せん」と。均既に往く。叛卒即ちこれを擁して主と為す。紹栄自経して死す。均、大蜀と僭号し、化順と改元し、官称を署置し、貢挙を設け、張鍇を謀主と為す。

原文神衞卒既殺昭壽,是日,成都官吏方相與賀正,聞變,皆奔竄,牛冕與轉運張適縋城而出,惟都巡檢使劉紹榮冒刃格鬥。既而眾寡不敵,叛卒尚未有主,或欲奉紹榮爲帥者,紹榮攝弓罵曰:「我燕人也,比棄鄕土來歸本朝,豈能與汝同逆,汝亟殺我,我肯負朝廷哉!」眾未敢動。監軍王澤與均適至,乃謂均曰:「汝所部爲亂,盍自往招安?」均既往,叛卒即擁之爲主,紹榮自經死。均僭號大蜀,改元化順,署置官稱,設貢舉,以張鍇爲謀主。

鍇は本名を美と曰い、太原の旧卒、後に神衞の小校と為る。狡獪にして、嘗て戦陣を歴り、粗く陰陽に習い、熒惑を以て同悪す。故に均を勧めて乱を為さしむ。均は実に戇愞にして謀無し。嘗て言う「官軍若し至らば、我当に先路を出でて迎え、自ら脅迫の状を陳ぜん」と。鍇これを聞き、軍中の子弟を択びて寄班に署し、以て均を防守せしめ、人と接見せしめず。官軍城を囲み、毎に箭を射て招誘し、及び均の子弟をして城下に至らしむるも、均皆これを知らず。箭書を得れば、鍇悉くこれを焼く。起りより敗るるまで、守る所止だ一城のみ。均初め親軍を署して天降虎翼と為す。後、果たして虎翼軍に殺さる。

原文鍇本名美,太原舊卒,後爲神衞小校。狡獪,嘗歷戰陣,粗習陰陽,以熒惑同惡,故勸均爲亂。均實戇愞無謀,嘗言:「官軍若至,我當先路出迎,自陳被脅之狀。」鍇聞之,擇軍中子弟署寄班,以防守均,令不與人接見。官軍圍城,毎射箭招誘,及令均子弟至城下,均皆不之知。得箭書,鍇悉焚之。自起至敗,所守止一城而已。均初署親軍爲天降虎翼,後果爲虎翼軍所殺。

賊既に平ぐ。承受供奉官楊崇勳を遣わし伝を乗じて捷を告げしむ。崇勳に錦袍・銀帯・器幣を賜う。有終は保信軍節度観察留後を加え、秦翰を内園使・恩州刺史と為し、石普を冀州団練使と為し、高継勳・王阮並びに崇儀使と為し、孫正辞を内殿崇班と為し、李継昌を奨州刺史と為し、張晌を供備庫副使と為し、楊懐忠を供備庫副使と為し、馬貴を供奉官と為す。この役、懐忠の功最も居り、石普に忌まれる。朝廷微かにこれを聞き、寄班安守忠を遣わして戦所を按視せしむ。その功状を尽く得る。故を以て懐忠復た崇儀使に遷り、恩州刺史を領す。

原文賊既平,遣承受供奉官楊崇勳乘傳告捷,賜崇勳錦袍、銀帶、器幣,有終加保信軍節度觀察留後,以秦翰爲內園使、恩州刺史,石普爲冀州團練使,高繼勳、王阮並爲崇儀使,孫正辭爲內殿崇班,李繼昌爲獎州刺史,張晌爲供備庫副使,楊懷忠爲供備庫副使,馬貴爲供奉官。是役也,懷忠之功居最,爲石普所忌,朝廷微聞之,遣寄班安守忠按視戰所,盡得其功狀,以故懷忠復遷崇儀使,領恩州刺史。

四年、有終代わりて還る。命じて涇・原・儀・渭・鎮戎路都部署と為す。辞して拝せず。永興軍府知事に改め、秦州に徙す。景德初め、幷代副都部署に徙し、黄金四百両を賜う。丁内艱有り、起復す。契丹寇す。上澶淵に幸す。詔して有終に率いる所の部をして土門より鎮州に抵り、大兵と会せしむ。既にして王超・桑贊逗撓して功無し。唯だ有終赴援し、威声甚だ振う。河北の列城、その雄張に頼る。俄にして契丹好を修む。命じて還りて屯所にす。就いて并州を判じ、召して宣徽北院使・検校太保を拝す。二年七月、暴疾に卒す。年五十九。侍中を贈る。その子孝若を録して内殿崇班・閤門祗候と為し、孝傑を内殿崇班と為し、孝緒を供奉官と為し、孝恭を侍禁と為す。親族・門客・給事輩遷補する者八人。

原文四年,有終代還,命爲涇、原、儀、渭、鎮戎路都部署,辭不拜,改知永興軍府,徙秦州。景德初,徙爲幷代副都部署,賜黃金四百兩。丁內艱,起復,契丹入寇,上幸澶淵,詔有終率所部由土門抵鎮州,與大兵會。既而王超、桑贊逗撓無功,唯有終赴援,威聲甚振,河北列城,賴其雄張。俄而契丹修好,命還屯所,就判并州,召拜宣徽北院使、檢校太保。二年七月,暴疾卒,年五十九,贈侍中。錄其子孝若爲內殿崇班、閤門祗候,孝傑爲內殿崇班,孝緒爲供奉官,孝恭爲侍禁,親族、門客、給事輩遷補者八人。

有終は、倜儻として自ら任じ、小節に拘らず、幹局あり、沈敏にして善く断じ、強禦を畏れず、財を軽んじて施しを好んだ。歴任して藩閫を典とし、士卒を撫することを能くし、宴犒に豊かであったが、官用が足りなければ、私帑及び榷銭を傾けてこれを給した。家に余財なく、身を奉ずること甚だ薄く、常に用いるものは、銅の鞍勒馬のみであった。崇仁里にある邸宅は、徳驤の創建したものである。有終は蜀において嘗て備用庫の銭数百万を借り、その邸宅を納めて償おうと奏上したが、優詔をもって蠲免された。宣徽使となり、特例として廉鎮公用銭を歳二千貫給された。身没の日、宿負なお千万に啻ならず、官がこれを償った。王継英が枢密に在り、有終の進用を頗る忌み、しばしばその蜀に在り及び辺境を守るにおいて厚く費やして士卒の心を収めたことを言上したが、真宗はこれを信ぜず、遂に保護した。

原文有終倜儻自任,不拘小節,有幹局,沈敏善斷,不畏強禦,輕財好施。歷典藩閫,能撫士卒,豐於宴犒,官用不足,則傾私帑及榷錢以給之。家無餘財,奉身甚薄,常所御者,銅鞍勒馬而已。第在崇仁里者,德驤所創。有終在蜀嘗貸備用庫錢數百萬,奏納其第償之,優詔蠲免。爲宣徽使,特給廉鎮公用錢歳二千貫。身沒之日,宿負猶不啻千萬,官爲償之。王繼英在樞密,頗忌有終進用,屢言其在蜀及守邊厚費以收士卒心,真宗不之信,卒保護焉。

孫 孝先

原文孫 孝先

孝先は、字を子思といい、有鄰の子である。進士に挙げられ、秘書省校書郎を試み、天長県知事となった。衞濯がその内乱を訟えたことにより、除籍されて均州に配流された。後に再び宛丘県知事となり、李継隆が陳州を判じ、その才能を推薦し、試大理評事を加えられた。契丹が内寇すると、真宗は大名に行幸し、孝先は部内の芻糧を河北に運び、真っ先に行在所に至り、太常寺奉礼郎に抜擢された。

原文孝先,字子思,有鄰子也。舉進士,試秘書省校書郎,知天長縣。以衞濯訟其內亂,除籍配均州。後復知宛丘縣,李繼隆判陳州,薦其能,加試大理評事。契丹內寇,真宗幸大名,孝先以部芻糧河北,首至行在,擢太常寺奉禮郎。

王均が益州で反乱を起こすと、季父有終に従って進討し、孝先は先鋒を率いて賊と升僊橋で戦い、数百の首級を斬り、王均の金槍と黄傘を得て献上し、将作監丞に改められた。

原文王均反益州,隨季父有終進討,孝先率先鋒與賊戰升僊橋,斬首數百,得均金槍黃傘以獻,改將作監丞。

李継遷が霊州を陥落させると、朝廷は兵を調発し、軍費は多く民から出たため、関内は大いに擾乱した。孝先は商人を募り粟を塞下に入れることを増やすよう請い、茶塩をもって償うことを提案した。召対して旨に称い、駅伝を馳せて陝西に赴き、転運使鄭文宝と議して規画を立てさせ、後に多く施行された。累遷して尚書屯田員外郎となった。嘗て三司拘収司を建置し、以て天下の財利出入の数を検することを請い、詔してその請いの如くとした。

原文李繼遷陷靈州,朝廷調兵,軍費多出於民,關內大擾。孝先請益募商人入粟塞下,償以茶鹽。召對稱旨,命馳驛陝西,與轉運使鄭文寶議立規畫,後多施行。累遷尚書屯田員外郎。嘗建置三司拘收司,以檢天下財利出入之數,詔如其請。

興元府知府となり、保任が事実に失するに坐し、通判華州に降格され、鄆州知事に転じた。宰相寇準の推挙により、内園使・貝州知事に換官された。時に慈州の民張熙載が詐って黄河都総管を称し、並河の州郡の芻糧の数を籍録し、貝州に至った。孝先はその奸を覚り、捕らえて獄に繫いだ。孝先はこれによって奇功と為し、以て朝廷を動かさんと欲し、司理参軍紀瑛に迫って熙載に偽って契丹の諜者と為させ、号して景州刺史兼侍中・司空しくう・大霊宮使とし、部送して京師に送らせた。枢密院が取り調べて孝先の教唆した状を得、澤州都監に貶謫され、利・虢の三州を経て、環慶路兵馬鈐轄・邠州知事に改められた。一年余りして、昭州刺史を領し、益州鈐轄となり、再遷して左蔵庫使、抜擢されて西上閤門使・涇原路鈐轄兼渭州知事となり、再び邠州知事となり、耀州に転じ、右領軍衞大将軍・昭州刺史を以て、西京に分司して卒した。子に簡夫あり。

原文知興元府,坐保任失實,降通判華州,徙知鄆州。宰相寇準舉,換內園使、知貝州。會慈州民張熙載詐稱黃河都總管,籍並河州郡芻糧數,至貝州。孝先覺其奸,捕繫獄。孝先欲因此爲奇功,以動朝廷,迫司理參軍紀瑛教熙載偽爲契丹諜者,號景州刺史兼侍中、司空、大靈宮使,部送京師。樞密院按得孝先所教狀,謫澤州都監,利、虢三州,改環慶路兵馬鈐轄、知邠州。逾年,領昭州刺史,爲益州鈐轄,再遷左藏庫使,擢西上閤門使、涇原路鈐轄兼知渭州,復知邠州,徙耀州,以右領軍衞大將軍、昭州刺史,分司西京卒。子簡夫。

曾孫 簡夫

原文曾孫 簡夫

簡夫は、字を太簡といい、隠居して仕えなかった。康定年中、枢密使杜衍がこれを推薦し、召見され、秘書省校書郎を以て秦州観察判官に簽書された。公事が既に罷まった後、長安ちょうあんに居住し、自ら処士として起用されたことを以て、再び衆に随って官を調えることを肯ぜず、多く岐路を為して辟薦を求めた。時に三白渠が久しく廃れていたので、京兆府は遂に簡夫を推薦して渠事を治めさせた。先に、渠を治めるに歳ごとに六県の民を四十日役し、梢木数百万を用いたが、水が足りなかった。簡夫は三十日を用い、梢木は旧の三分の一に比し、而して水が余った。坊州知事となり、簡州に転じ、張方平の推薦により、雅州知事となった。

原文簡夫,字太簡,隱居不仕。康定中,樞密使杜衍薦之,召見,以秘書省校書郎簽書秦州觀察判官。公事既罷,居長安,自以處士起,不復肯隨眾調官,多爲岐路求辟薦。時三白渠久廢,京兆府遂薦簡夫治渠事。先時,治渠歳役六縣民四十日,用梢木數百萬,而水不足。簡夫用三十日,梢木比舊三之一,而水有餘。知坊州,徙簡州,用張方平薦,知雅州。

既にして辰州の蛮酋彭仕羲が内寇すると、三司副使李参・侍御史朱処約が安撫したが定められず、継いで簡夫を派遣した。至れば則ち諸将を督して進兵し、明溪の上・下二砦を築き、その険要を拠り、故省地の石馬崖五百余里を拓き取った。仕羲は内附した。三司塩鉄判官に抜擢され、病を以て、虢・同二州知事となり、累遷して尚書職方員外郎となり、卒した。その子寿臣を録用して郊社斎郎とした。

原文既而辰州蠻酋彭仕羲內寇,三司副使李參、侍御史朱處約安撫不能定,繼命簡夫往。至則督諸將進兵,築明溪上、下二砦,據其險要,拓取故省地石馬崖五百餘里。仕羲內附。擢三司鹽鐵判官,以疾,知虢、同二州,累遷尚書職方員外郎,卒。錄其子壽臣爲郊社齋郎。

簡夫は初め隠者として起り、出入りに牛に乗り、鉄冠を冠り、自ら「山長」と号した。関中用兵の際、口舌を以て公卿を捭闔した。既に仕えてからは、自らの暮らしが稍々驕侈となり、騶御の服飾、頓にその旧を忘れ、里閭の者が指して笑って曰く「牛及び鉄冠は安在ぞ」と。

原文簡夫始起隱者,出入乘牛,冠鐵冠,自號「山長」。關中用兵,以口舌捭闔公卿。既仕,自奉稍驕侈,騶御服飾,頓忘其舊,里閭指笑之曰:「牛及鐵冠安在?」

王超

原文王超

王超は、趙州の人、弱冠にして身長七尺余り。太宗が京尹の時、召して麾下に置いた。即位すると、御龍直に隷させた。淳化二年、累遷して河西軍節度使・殿前都虞候に至った。

原文王超,趙州人,弱冠長七尺餘。太宗尹京,召置麾下。及即位,以隸御龍直。淳化二年,累遷至河西軍節度使、殿前都虞候。

真宗が嗣位すると、翊戴の功により、検校太傅を加えられ、天平軍節度使を領した。咸平二年秋、禁兵二十万を東郊で大閲し、超は五方旗を執って進退を節し、上は戎幄に御してこれを観、面して褒賞を賜った。大名行幸に従い、都虞候張進と並んで先鋒となった。都大点検傅潜が逗撓して罪を得ると、超を侍衞馬歩軍都虞候・鎮州行営都部署とし、また鎮・定・高陽関の三路を帥いた。契丹が辺境に入ると、遂城西で戦い、俘馘二万を数え、その裨王騎将十五人を斬り、手詔を以て褒美された。

原文真宗嗣位,以翊戴功,加檢校太傅、領天平軍節度。咸平二年秋,大閱禁兵二十萬於東郊,超執五方旗以節進退,上御戎幄觀之,面賜褒獎。從幸大名,與都虞候張進並爲先鋒。都大點檢傅潛逗撓得罪,以超爲侍衞馬歩軍都虞候、鎮州行營都部署,又帥鎮、定、高陽關三路。契丹入邊,與戰於遂城西,俘馘二萬計,斬其裨王騎將十五人,手詔褒美。

李継遷が清遠軍を陥落させると、超を将として西面行営の師を率いさせてこれを防ぎ、永興軍の帥に転じた。宰相が超の材は将帥に堪えると上言し、遂に超を以て定州路行営の帥とし、王継忠をその副とした。尋ねて鎮・定・高陽関三路都部署を加え、密かに中使を遣わして御弓矢を賜い、便宜従事を許した。開府儀同三司・検校太尉を加えられた。咸平六年、遼師が大いに侵入し、超は鎮州の桑贊・高陽関の周瑩を召して兵を率いて定州に会させたが、瑩は詔旨に非ずとして至らなかった。遼兵が望都を包囲すると、超・贊は兵を率いて赴き、県南六里に陣した。継忠は陣の東偏に在り、契丹がその背を出で、糧道を遮絶し、人馬困乏した。継忠は馳せ前って契丹と戦い、超・贊は遂に師を旋したため、継忠は孤軍にして没した。上は即ち劉承珪・李允則を馳せ遣わし、退衄の状を察せしめ、且つ鎮州副部署李福・拱聖軍都指揮使王昇が戦時に先んじて旋ったことを言上させ、福は坐して籍を削られ封州に流され、昇は杖刑に決し、瓊州に配隷された。

原文李繼遷陷清遠軍,以超將西面行營之師禦之,徙帥永興軍。宰相言超材堪將帥,遂以超帥定州路行營,王繼忠副之。尋加鎮、定、高陽關三路都部署,密遣中使賜以御弓矢,許便宜從事。加開府儀同三司、檢校太尉。咸平六年,遼師大入,超召鎮州桑贊、高陽關周瑩率兵會定州,瑩以非詔旨不至。遼兵圍望都,超、贊率兵赴之,陣於縣南六里。繼忠在陣東偏,契丹出其背,遮絶糧道,人馬乏困,繼忠馳前與契丹戰,超、贊遂旋師,繼忠孤軍沒焉。上即遣劉承珪、李允則馳往,察退衄之狀,且言鎮州副部署李福、拱聖軍都指揮使王昇當戰先旋,福坐削籍,流封州,昇決杖,配隸瓊州。

景德初年、上が親しく澶淵に巡幸し、超を行在に召し赴かせたが、また師期を緩めたため、契丹は遂に深く侵入した。時に南北が通好したため、故にその責を薄くし、ただ超の三路の帥を罷めるに止め、崇信軍節度使とし、河陽知事に転じた。また建雄に移鎮し、青州知事となり、卒した。侍中を贈られ、再び尚書令しょうしょれいを贈られ、魯国公に追封され、諡して武康といった。

原文景德初,上親巡澶淵,召超赴行在,復緩師期,契丹遂深入。會南北通好,故薄其責,止罷超三路帥,爲崇信軍節度使,徙知河陽。又移鎮建雄,知青州,卒。贈侍中,再贈尚書令,追封魯國公,諡武康。

王超は将帥として部署をよくし、部下を統御するに恩をもってした。高瓊とともに禁旅を管轄し、かつて休暇を取って他へ出かけた際、営塁を過ぎると、軍校が時を移さずに出迎えなかったので、瓊はただちに鞭打ちの罰を命じたが、超は公務による行軍でないとして、罪を加えるべきではないとし、人々はその寛恕を称えた。しかし軍陣に臨んでは謀略に乏しく、戦闘においては拙劣であった。子に徳用がある。

原文超爲將善部分,御下有恩。與高瓊同典禁旅,嘗休假他適,過營壘,軍校不時將迎,瓊即命箠罰,超以爲非公行,不當加罪,人稱其恕。然臨軍寡謀,拙於戰鬥。子德用。

子 徳用

原文子 德用

徳用、字は元輔。父の超は懐州防禦使となり、徳用は衙内都指揮使に補せられた。至道二年、五路に分かれて出兵し李継遷を撃つこととなり、超は兵六万を率いて綏州・夏州より出撃し、徳用は十七歳で先鋒となり、一万の兵を将いて鉄門関で戦い、十三級を斬首し、捕虜および掠奪した畜産は数万にのぼった。進軍して烏白池に至ると、他の将の多くは道を失って到着せず、虜の勢いは鋭甚であったので、超は兵を押さえて進まなかったが、徳用はこれに乗ずることを請い、精兵五千を得て転戦すること三日、敵の勢いは退いた。徳用は言った、「帰還する軍は険阻を迫られれば必ず乱れる。」そこで兵を率いて夏州より五十里の地に至り、その帰路を断ち、命令を下して言った、「隊列を乱して行く者は斬る!」一軍は粛然とし、超もまたそのために轡を押さえた。継遷はその後を追ったが、左右の者が望見すると隊伍は甚だ厳整であり、敢えて近づく者はいなかった。超はその背を撫でて言った、「王氏に子あり。」

原文德用,字元輔。父超爲懷州防禦使,補衙內都指揮使。至道二年,分五路出兵擊李繼遷,超帥兵六萬出綏、夏,德用年十七,爲先鋒,將萬人戰鐵門關,斬首十三級,俘掠畜產以數萬計。進師烏白池,他將多失道不至,虜銳甚,超按兵不進,德用請乘之,得精兵五千,轉戰三日,敵勢卻。德用曰:「歸師迫險必亂。」乃領兵距夏州五十里,絶其歸路,下令曰:「亂行者斬!」一軍肅然,超亦爲之按轡。繼遷躡其後,左右望見隊伍甚嚴整,莫敢近。超撫其背曰:「王氏有子矣。」

累遷して内殿崇班となり、御前忠佐をもって馬軍都軍頭とされ、出て邢州・洺州・磁州・相州の巡検となった。盗賊の張洪霸はが境界上に集結していたが、官吏は捕らえることができなかった。徳用は氈車に勇士を載せ、婦人の装いを偽り、邯鄲を過ぎた。賊は果たして来邀し、勇士が奮い出て、ことごとくこれを擒らえた。陝西東路の督捕に転じると、盗賊は互いに戒めて言った、「これは張洪霸を擒らえた者である。」みな相率いて逃げ去った。環慶路指揮使となり、まもなく奏事が旨に逆らい、責められて鄆州馬歩軍都指揮使を授けられた。内殿直都虞候・殿前左班都虞候・柳州刺史を歴任し、捧日左廂都指揮使・英州団練使に遷った。

原文累遷內殿崇班,以御前忠佐爲馬軍都軍頭,出爲邢、洺、磁、相巡檢。盜張洪霸相聚界上,吏不能捕。德用以氈車載勇士,詐爲婦人飾,過邯鄲。賊果來邀,勇士奮出,悉禽之。徙督捕陝西東路,盜賊相戒曰:「此禽張洪霸者。」皆相率逃去。爲環慶路指揮使,尋以奏事忤旨,責授鄆州馬歩軍都指揮使。歷內殿直都虞候、殿前左班都虞候、柳州刺史,遷捧日左廂都指揮使、英州團練使。

天聖初年、博州団練使として広信軍知軍となった。城壁は破損して久しく修治されていなかったが、徳用は禁軍を率いてこれを増築し、詔を賜って褒め諭された。冀州に転じ、龍神衞・捧日天武四廂都指揮使・康州防禦使・侍衞親軍歩軍馬軍都虞候を歴任した。召還されて、また幷代州馬歩軍副都総管となり、殿前都虞候・歩軍副都指揮使に遷った。桂州・福州観察使を歴任した。

原文天聖初,以博州團練使知廣信軍。城壞久不治,德用率禁軍增築之,有詔褒諭。徙冀州,歷龍神衞、捧日天武四廂都指揮使、康州防禦使、侍衞親軍歩軍馬軍都虞候。召還,又爲幷代州馬歩軍副都總管,遷殿前都虞候、歩軍副都指揮使。歷桂州、福州觀察使。

章献太后が朝政に臨まれたとき、内降を求めて軍吏を補任しようとする者があったが、徳用は言った、「吏を補うことは軍政である、与えることはできない。」太后は固くこれを与えようとされたが、ついに詔を奉じず、やむを得ず止めた。太后が崩御すると、有司が衛士に坐甲を命じようと請うたが、徳用は言った、「故事ではない。」と詔を奉じなかった。

原文章獻太后臨朝,有求內降補軍吏者,德用曰:「補吏,軍政也,不可與。」太后固欲與之,卒不奉詔,乃止。太后崩,有司請衞士坐甲,德用曰:「非故事也。」不奉詔。

仁宗が太后の閣中を閲覧し、徳用が以前に軍吏の事を奏上した文書を得て、これを奇とし、大用に値すると考え、検校太保・簽書樞密院事に拝した。徳用は謝して言った、「臣は武人であり、幸いにも馳駆して自ら効力を尽くすことができ、陛下の威霊に頼り、行間に罪を待つだけで足ります。かつ臣は学ばず、大事を担当するには足りません。」帝は使者を遣わして枢密院に入ることを促し、ついに副使となった。久しくして、奉国軍節度観察留後同知院事となり、知院に遷った。安德軍を歴任し、検校太尉・定国軍節度使・宣徽南院使を加えられた。趙元昊が反すると、徳用は自ら将となって討伐することを請うたが、許されなかった。

原文仁宗閱太后閣中,得德用前奏軍吏事,奇之,以爲可大用,拜檢校太保、簽書樞密院事。德用謝曰:「臣武人,幸得以馳驅自效,賴陛下威靈,待罪行間足矣。且臣不學,不足以當大事。」帝遣使者趣入院,遂爲副使。久之,以奉國軍節度觀察留後同知院事,遷知院。歷安德軍,加檢校太尉、定國軍節度使、宣徽南院使。趙元昊反,德用請自將討之,不許。

徳用の容貌は雄毅で、顔は黒く、頸以下は白晰であり、人々は皆これを異とした。言事者が徳用の容貌が芸祖に似ていると論じ、御史中丞孔道輔が引き続いてこれを言い、かつ徳用は士心を得ているとして、久しく機密を管轄すべきではないとし、ついに罷められて武寧軍節度使・徐州大都督ととく府長史となった。徳用が府州で馬を買ったという言い立てがあり、その券を上ると、商人から買ったものであった。言事者はなおやまず、右千牛衞上將軍・随州知州に降格され、州には判官が置かれ、家族は皆恐れおののいたが、徳用の挙止言色は平時の如くであり、ただ賓客を接しないだけであった。曹州知州に転じたとき、ある者が徳用に言った、「孔中丞は公を害しましたが、今は死にました。」徳用は言った、「中丞は言官である、どうして私を害する者であろうか。朝廷は一人の忠臣を失った、惜しいことである。」起用されて保静軍節度観察留後・青州知州となり、澶州に改めた。陝西では用兵が久しく功がなく、契丹が劉六符を遣わして関南の地の回復を求め、兵をもって国境を圧迫した。徳用は帝に謁見し、涙を流して言った、「臣は以前に罪を得ましたが、陛下は赦して誅さず、今は命を辱しめるに足りません。」帝は慰労し、言った、「河北はちょうど警報がある、卿を借りて鎮撫させたい。」また手詔を賜って慰勉し、保静軍節度使に拝した。その年は大いに豊作となり、六符は徳用を見て拝礼して言った、「これは公の仁政の及ぶところである。」真定府・定州路都総管に転じ、還って奏事し、また宣徽南院使として成徳軍を判した。赴任せず、定州路都総管に転じた。日々士卒を訓練し、久しくして、兵士はまことに用いるに足るものとなった。

原文德用狀貌雄毅,面黑,頸以下白晰,人皆異之。言者論德用貌類藝祖,御史中丞孔道輔繼言之,且謂德用得士心,不宜久典機密,遂罷爲武寧軍節度使、徐州大都督府長史。有言德用市馬於府州者,上其券,乃市於商人者。言者猶不已,降右千牛衞上將軍、知隨州,州置判官,家人皆惶恐,德用舉止言色如平時,惟不接賓客而已。徙知曹州,或謂德用曰:「孔中丞害公,今死矣。」德用曰:「中丞言官,豈害我者?朝廷亡一忠臣,可惜也。」起爲保靜軍節度觀察留後、知青州,改澶州。陝西用兵久無功,契丹遣劉六符來求復關南地,以兵壓境。德用見帝,流涕言:「臣前被罪,陛下赦而不誅,今不足辱命。」帝慰勞,曰:「河北方警,借卿鎮撫之。」又賜手詔慰勉,拜保靜軍節度使。歳大熟,六符見德用拜曰:「此公仁政所及也。」徙真定府、定州路都總管,還奏事,復以宣徽南院使判成德軍。未行,徙定州路都總管。日訓練士卒,久之,士殊可用。

契丹が諜者を遣わして来て覗わせたので、ある者は捕らえて殺すことを請うたが、徳用は言った、「ただこれを捨てよ、彼が実情を得て報告すれば、これすなわち人の兵を戦わずして服させるものである。」翌日大いに閲兵し、桴鼓を援る兵士は皆躍り上がり、進退坐作、終日一人も戮さなかった。そこで命令を下した、「糗糧を具え、我が鼓声を聴き、我が旗幟の向かうところを見よ。」覗った者は帰って契丹に報告し、漢兵が大いに侵入しようとしていると言った。やがてまた和議が論じられ、ついに陳州に転じ、また河陽に転じた。赴任せず、入朝して奉朝請し、出て相州を判し、同中書門下平章事・澶州判に拝した。鄭州に転じ、祁国公に封ぜられ、還って、会霊観使となった。

原文契丹使諜者來覘,或請捕殺之,德用曰:「第舍之,彼得實以告,是服人之兵以不戰也。」明日大閱,援桴鼓之士皆踴躍,進退坐作,終日不戮一人。乃下令:「具糗糧,聽吾鼓聲,視吾旗幟所向。」覘者歸告契丹,謂漢兵將大入。既而復議和,遂徙陳州,又徙河陽。不行,入奉朝請,出判相州,拜同中書門下平章事、判澶州。徙鄭州,封祁國公,還,爲會靈觀使。

徳用はもとより射をよくし、老いても衰えなかった。瑞聖園で侍射したとき、辞して言った、「臣は老いりました、弓矢に勝つことができません。」帝は再三これを諭し、二矢を持って未だ発たなかった。帝がこれを見て、必ず中てるよう命じると、ようやく弓矢を収めて謝し、一発で的に中て、再発してもまた中てた。帝は笑って言った、「徳用は中てようと思えば即ち中てるだけである、誰が老いてかつ衰えたと言おうか。」襲衣・金帯を賜い、検校太師を加えられ、また鄭州を判し、澶州に転じ、集慶軍節度使に改め、冀国公に封ぜられた。皇祐三年、上疏して骸骨を乞い、太子太師をもって致仕し、大朝会では中書門下の班に綴じた。

原文德用素善射,雖老不衰。侍射瑞聖園,辭曰:「臣老矣,不能勝弓矢。」帝再三諭之,持二矢未發。帝顧之,使必中,乃收弓矢謝,一發中的,再發又中。帝笑曰:「德用欲中即中爾,孰謂老且衰乎?」賜襲衣、金帶,加檢校太師,復判鄭州,徙澶州,改集慶軍節度使,封冀國公。皇祐三年,上疏乞骸骨,以太子太師致仕,大朝會綴中書門下班。

徳用は将家の子であり、軍中の情偽を習い知り、恩をもって下を撫でることをよくしたので、多く士心を得た。たとえ屡々辺境に臨んでも、未だみずから矢石に親しみ、攻戦を督したことはなかったが、名声は四夷に聞こえ、里巷の婦女小児に至るまで、皆徳用を「黒王相公」と呼んだ。

原文德用將家子,習知軍中情偽,善以恩撫下,故多得士心。雖屢臨邊境,未嘗親矢石、督攻戰,而名聞四夷,閭閻婦女小兒,皆呼德用曰「黑王相公」。

帝はかつて使者を遣わして辺境の事を問うたが、徳用は言った、「咸平・景德の年中、諸将に陣図を賜り、人々は皆死守して戦法に従い、緩急相救わず、ついに屡々敗れるに至りました。誠に願わくば陣図を諸将に賜らず、彼らが応変して奇を出し、自ら異なる効果を立てることを得させてください。」帝はこれを然りとした。

原文帝嘗遣使問邊事,德用曰:「咸平、景德中,賜諸將陣圖,人皆死守戰法,緩急不相救,以至於屢敗。誠願不以陣圖賜諸將,使得應變出奇,自立異效。」帝以爲然。

徳用は致仕していたが、乾元節の上寿には、廷中の班に預かった。契丹の使者が訳者に語って言った、「黒王相公はまた起用されたのか。」帝はこれを聞き、起用して河陽三城節度使・同中書門下平章事・鄭州判とした。至和元年、ついに枢密使とし、命じて入謁拝謁させた。翌年、富弼が相となると、契丹の使者耶律防が至り、徳用は防と玉津園で射をした。防は言った、「天子は公をもって枢密を典せしめ、富公を用いて相とされた、将相ともに人を得ました。」帝はこれを聞いて喜び、弓一、矢五十を賜った。後に魯国公に封ぜられ、去位を求めること六七度に及び、ついに忠武軍節度使・景霊宮使とし、また同群牧制置使とした。詔があり五日に一度朝会に参じ、子孫一人に扶掖させることを聴された。卒す、年七十九、太尉・中書令を贈られ、諡して武恭とした。その家に黄金を加賜した。

原文德用雖致仕,乾元節上壽,預班廷中。契丹使語譯者曰:「黑王相公乃復起耶?」帝聞之,起爲河陽三城節度使、同中書門下平章事、判鄭州。至和元年,遂以爲樞密使,命入謁拜。明年,富弼相,契丹使耶律防至,德用與防射玉津園。防曰:「天子以公典樞密而用富公爲相,將相皆得人矣。」帝聞之喜,賜弓一,矢五十。後封魯國公,求去位至六七,乃以爲忠武軍節度使、景靈宮使,又以爲同群牧制置使。有詔五日一會朝,聽子孫一人扶掖。卒,年七十九,贈太尉、中書令,諡武恭。加賜其家黃金。

徳用の諸子の中で、咸融は最も鍾愛され、晩年は頗るこれを縱し、不法の事多し、後に更に節を折り自ら飭し、官は左藏庫使・眉州防禦使に至る。

原文德用諸子中,咸融最鍾愛,晩年頗縱之,多不法,後更折節自飭,官至左藏庫使、眉州防禦使。

論じて曰く、全義・徳驤は、太祖・太宗に遇知され、超は真宗を翊戴し、崇顯に致す宜し、然れども堇堇として人を踰ゆる者無く、而して各々子有りて勳を國籍に勒す。若し知節は將家に生れ、書を讀むを喜び、朝に立ちて事を爭ひ、剛正を以て天下に稱せられ、其れ邦の司直か。有終は進士より起り、明幹にして兵を知り、蜀の鉅賊を平げ、聲を鄰敵に振るひ、『肇敏戎公』と謂ふ可し。至りて精神折衝し、名四夷に聞こえ、矯矯たる虎臣は、則ち徳用其れ有り。

原文論曰:全義、德驤,遇知太祖、太宗,超復翊戴真宗,宜致崇顯,然堇堇無踰人者,而各有子勒勳於國籍。若知節生將家,喜讀書,立朝爭事,以剛正稱天下,其邦之司直歟!有終起進士,明幹知兵,平蜀鉅賊,振聲鄰敵,可謂「肇敏戎公」矣。至於精神折衝,名聞四夷,矯矯虎臣,則德用其有焉。