宋史

列傳第三十七 馬全義 雷德驤 王超

馬全義

馬全義は幽州薊の人である。十余歳で撃剣を学び、騎射に長じた。十五歳の時、魏帥范延光の帳下に隷属した。延光が叛くと、晉祖がこれを征伐し、城を以て降伏し、配下の者を悉く名簿に載せて献上した。全義はその名簿の中にあり、これにより禁軍に補せられた。志を得ざるを以て、遂に遁走した。漢の乾祐年間、李守貞が河中を鎮守し、召して帳下に置いた。守貞が叛くと、周祖がこれを討ち、全義は毎度敢死の士を率い、夜に出て周祖の陣営を攻め、多く殺傷した。守貞は貪欲にして謀なく、性格は猜疑心が強く、全義は屡々策を画したが、皆用いられなかった。城が陥落すると、姓名を変えて亡命した。

周の広順初年、世宗が澶淵を鎮守すると、全義は往ってこれに仕えた。世宗に従って朝廷に入り、周祖が召見し、殿前指揮使に補し、左右に謂って曰く、「此の人は事える所に忠なり、昔、河中に在りて、屡々我が軍を挫けり、汝等は宜しく之に倣うべし」と。世宗が即位すると、右番行首に遷った。世宗に従って高平に戦い、功により散員指揮使に遷った。淮南征伐に従い、功により殿前指揮使・右番都虞候に遷った。恭帝が即位すると、鉄騎左第二軍都校を授けられ、播州刺史を領した。

宋の初年、内殿直都知・控鶴左廂都校を歴任し、果州団練使を領した。李筠征伐に従い、筠は退いて沢州に拠った。城は小さいが堅固で、攻めても陥ちず、太祖はこれを憂い、全義を召して御榻の前で食を賜り計策を問うた。対えて曰く、「筠は孤城を守る、若し力を併せて急攻すれば、直ちに殄滅すべし、仮令緩やかにすれば、恰も其の奸を長ずるに足るのみ」と。太祖曰く、「此れ吾が心なり」と。即ち兵を麾いて急撃せしめた。全義は敢死の士数十人を率いて城に乗じ、堞を攀ぢて上り、飛矢に臂を貫かれ、流血体に被う。全義は鏃を抜き敵に臨み、士気益々奮い、遂に其の城を陥れた。虎捷左廂都校に遷り、睦州防禦使を領した。又、李重進征伐に従い、控鶴・虎捷の両軍を領して後殿となった。賊が平定され軍を返し、功績を録するに多く、龍捷左廂都校に改め、江州防禦使を領し、俄かに疾を病んだ。太祖は太醫を遣わして診視せしめ、仍ち密旨を諭して曰く、「疾の間隙を俟ち、当に河陽の節制を授くべし」と。全義の疾は既に亟く、只だ叩頭して謝すのみ。数日にして卒す。年三十八。特に検校太保・大同軍節度使を贈られた。子に知節あり。

子 知節

知節は字を子元と云い、幼くして孤となった。太宗の時、蔭により供奉官に補せられ、今の名を賜った。年十八、彭州の兵を監し、厳をもって衆に臨み、衆は之を老将の如く畏れた。又、潭州の兵を監し、時に何承矩が守たり、頗る文雅を以て吏治を飾る。知節は之を慕い、因って節を折りて書を読んだ。雍熙年間、兵を護りて博州にあり、契丹が辺境に入り、我が師を君子館にて敗った。先んじて、知節は城を完うし甲を繕い、芻粟を儲積す。吏民は以て事を生ずと為した。既にして契丹果たして至る。備え有るを以て、引き去った。

定遠軍の知事に徙る。時に議して河南十三州の民を調発し餉を輸送せしむ。河北転運使樊知古が適た軍に至り事を議す。知節曰く、「軍は粟少なく、其の紅腐を簸えば、尚ほ十の六七を得べし」と。知古これに従い、果たして粟五十万斛を得、諸屯に分給し、遂に河南の役を省く。時に部民は寇を避けて保に入る。卒に婦女の首飾を盗む者有り、護軍は只だ笞してこれを遣わす。知節曰く、「民は外患を避けて来たり、反って内寇に罹る。此れにして恕すべくんば、何を以て下を粛せん」と。即ち命じて之を斬る。深・慶二州の知事となり、西京作坊使に遷る。旋って梓州の知事となる。李順の叛、詔して王継恩と共に賊を討たしむ。継恩は勢いを恃み自ら任じ、知節が己に附かざるを悪み、彭州を守らしめ、羸兵三百を付す。彭の旧卒は悉く召し還して成都にす。知節累ねて兵を益すことを請うも従わず。賊衆十万城を攻む。知節力戦し、晨より晡に至る。士多く死す。慨然として歎じて曰く、「賊の手に死するは、壮夫に非ざるなり」と。即ち槊を横たえて囲みを潰え出づ。遅明、援兵至る。復た鼓噪して入る。賊遂に潰え去る。太宗聞きて歎じて曰く、「賊衆我寡、知節は当たる易からざるなり」と。益州鈐轄を授け、益・漢九州都巡検使を加え、内園使に遷る。会に韓景祐の帳下劉旰が牙兵を脅して乱を為し、州県を連ねて下し、衆二千を逾ゆ。知節兵三百を領し、追いてしょく州に至り、戦う。旰は邛州に走る。知節曰く、「賊が邛州を破れば、必ず勝に乗じて江を渡り我に迫らん。既に息みて後に戦わば、官軍倍するも、之を制するも亦た労す。其の弊に乗じて急撃するに如かず。之を破る必ず矣」と。遂に行く。方井鎮に次ぎ、旰と遇い、之を殺して噍類無し。

咸平初年、登州刺史を領し、秦州の知事となる。州嘗て羌酋の支属二十余人を質とす。二紀を逾ゆ。知節曰く、「羌も亦た人爾、豈に帰を懐かざらんや」と。悉く之を遣わす。羌人感し、終わりに至るまで、更に塞を犯さず。時に州に銀坑有り、歳久しくして礦竭く。課額除かず。主吏破産し、之を償うも足らず。知節之を蠲免せんことを請う。章三たび上り、乃ち允さる。西上閤門使に遷り、益州の知事兼本路転運使となる。乾徳以後より、歳毎に蜀の物を漕運し、動もすれば万計を逾ゆ。時に富民を籍して以て舟運を部し、坐して沈覆し破産する者衆し。知節代わって督し以て校を省め而して其の漕事を程せんことを請う。是より蜀人は頼み以て患を免る。

延州の知事兼鄜延駐泊部署に徙る。辺寇将に至らんとする。方に上元節、遽かに命じて燈を張り関を啓き、累夕宴楽す。寇測るべからず、即ち引き去る。会に鎮州程徳玄の政事曠弛す。徙りて知節を以て之に代う。詔して澶・魏等六州の糧を発し定武に輸送せしむ。時に兵境上に交わる。知節曰く、「糧の来るは、是れ盗を資するなり」と。止めて舟車の至る所に於いて之を収めしむ。寇得る所無くして遁る。

車駕澶淵に在り。時に王超兵数十万を擁して真定に屯し、逗留して進まず。知節書を移して之を誚譲す。超始めて兵を出だす。猶ほ中渡に橋無きを以て言と為す。知節予め材を度ることを命じ、一夕にして具わる。景德年中、定州の知事に徙る。未だ幾ばくもせず、東上閤門使・枢密都承旨を拝し、擢げて簽書枢密院事を拝す。

当是の時、契丹已に盟し、中国事無し。大臣頻りに符瑞を言う。而知節は毎之を然とせず。嘗て「天下安んずと雖も、戦を忘れ兵を去るべからず」と以為て戒めと為す。自ら陳す、年歯未だ衰えず、五七年の間尚ほ駆策すべし。辺方に警有らば、願わくは其の行に預からん。但だ副都部署の名及び良馬数匹・軽甲一聯を得て足れりと。上以て然りと為し、因って銅鉄鎖子甲を製して以て賜う。宣徽北院使に進み、枢密副使を兼ぬるを加う。時に王欽若枢密使と為る。知節其の人為りを薄しと為し、事に遇いて敢えて言い、未だ嘗て少しくも屈せず。毎に廷議、其の直からざるを得れば、輒ち面して之を詆る。時に欽若の寵顧方に隆し。知節愈々之に下らざるを為す。

大中祥符七年、出でて潁州防禦使・潞州の知事と為る。天禧初年、移りて天雄軍の知事となり、召されて宣徽南院使・知枢密院事を拝す。疾を以て罷めんことを乞う。彰徳軍留後・貝州の知事兼部署を除く。将に行かんとす。真宗其の臒瘁を閔み、止めて帰鎮を命ず。時に上党・大名の民已に争いて来たり迎謁す。未だ幾ばくもせず、卒す。年六十五。侍中を贈られ、諡して正恵と曰う。

知節は将家の子にして、慷慨として武力智謀を以て自ら任じ、又能く書を好み、賓友儒者、善く交わる所の者は必ず一時の豪傑なり、事を論ずるに謇謇として未だ嘗て顧忌する所有らず、故に其の風を聞く者も、亦其の正直なるを知る云ふ。

雷德驤

雷德驤、字は善行、同州郃陽の人なり。周の廣順三年に進士に挙げられ、褐を解きて磁州軍事判官となる。召されて右拾遺と爲り、三司判官を充て、緋魚を賜ふ。顯德中、入りて詔を受けて隨州諸縣の民田屋稅を均定し、平允と稱せらる。

宋初、殿中侍御史に拜し、屯田員外郎・判大理寺に改む。其の官屬と堂吏と宰相趙普に附會し、擅に刑名を増す。因りて上言し、太祖に見えんことを求めて以て其の事を白せんとす。未だ引對せず、直ちに講武殿に詣でて之を奏す。辭氣俱に厲し。太祖之を詰む。德驤對へて曰く、「臣、陛下の日旰にして未だ食せざるに値ひ、方に威嚴を震はす爾。」帝怒り、左右をして曳き出さしめ、詔して極典に置かしむ。俄に怒り解け、黜して商州司戸參軍と爲す。刺史德驤の舊省郎なるを知り、客禮を以て之に接す。及び奚嶼州を知るに及び、宰相の旨を希ひ、至れば則ち倨りて庭參を受けしむ。德驤堪へず、怨言を出だす。嶼之を銜む。適に德驤の郡に至りて文を爲し上を訕る者有りと言ふ。嶼德驤を召して與に語らしめ、潛かに吏を遣はして其の家人を紿りて之を得しむ。即ち德驤を械繫し、狀を具して以て聞かしむ。太祖其の罪を貸し、籍を削りて靈武に徙す。數年、其の子有鄰登聞鼓を撃ち、中書の不法の事を訴ふ。趙普是に由りて出でて河陽を鎮す。德驤を召して秘書丞と爲し、俄に御史臺三院事を分判し、又吏部南曹を兼判す。開寶七年、同知貢舉。太祖崩じ、德驤を以て呉越國告哀使と爲す。還りて、戸部員外郎兼御史知雜事に遷り、職方員外郎に改め、陝西・河北轉運使を充つ。禮部・戸部郎中を歷ね、入りて度支判官と爲る。

太平興國四年、車駕太原を征す。太原西路轉運使と爲る。六年、京朝官考課を同知し、俄に兵部郎中に遷る。七年、公累を以て本曹員外郎に降り、出でて懷州を知る。未だ幾ばくもせず、舊官に復し、又命じて兩浙轉運使と爲らしむ。其の子殿中丞有終も亦淮南轉運使と爲る。父子同日に詔を受け、搢紳之を榮しむ。俄に右諫議大夫に遷る。

雍熙二年、征して朝に歸らしめ、京朝官考課を同知す。初め、帝宰相に謂ひて曰く、「朕前日班籍を閱し、官を擇びて河北轉運使と爲す。患ふ所は群臣の履行を周く知ること能はざるなり。今より德驤に令せしめて京朝官の履歷功過の狀を錄し引對せしめ、既に群臣を漸く識り、才を擇びて委任し、且つ官政有る者をして召對を樂しましめ、瑕累を負ふ者をして顧問を恥ぢしめ、以て懲勸と爲す可きなり。」と。

端拱初、戸部侍郎に遷る。會に趙普再び相に入る。宣制の日、德驤方に班に立ち、覺えず笏を墜す。遽に疏を上し、田里に歸らんことを乞ふ。太宗召見し、安んじて之を諭し、白金三千兩を賜ひ、考課を知ることを罷め、止めて本官を以て朝請に奉ぜしむ。會に尚書省に事を議す。酒に乘じて起居員外郎鄭構を叱して盜と爲す。御史奏して劾す。下りて御史臺に案問せしむ。具に伏す。帝止めて月奉を罰して之を釋く。趙普の出でて西洛を守るに訖るまで、帝終に之を保全す。

淳化二年、其の婿如京副使えい濯、有鄰の子秘書省校書郎孝先の內亂を訟ふ。帝素より德驤を憐み、暴に其の醜を揚げんことを恐れ、孝先を吏に屬せず、止めて名を除き均州に配す。德驤教を失ふに坐し、責めて感德軍行軍司馬を授く。並びに其の子少府少監有終を責めて衡州團練副使を授く。德驤因りて慚憤して疾を成す。三年、卒す。年七十五。有終三司鹽鐵副使と爲り、表して舊官を追復せんことを乞ふ。之に從ふ。

德驤文采無く、頗る強直を以て自ら任じ、性褊躁にして、物に忤ふこと多し。士大夫と與せられず。

子 有鄰

有鄰、開寶中、進士に挙げられて第せず。其の父既に靈武に竄せられ、意ふ宰相趙普の之を擠抑するを。時堂後吏胡讚・李可度職に在ること歳久しく、或は其の請託賕を受くると稱す。而して秘書丞王洞は德驤と同年に登第す。有鄰每に洞を造謁す。洞多く家事を之に委ぬ。一日、洞有鄰に令して白金半鋌を市はしむ。因りて曰く、「此れ吾が子に知らしめ、要は胡將軍と與へよ。」蓋し讚を謂ふなり。時に又詔有り、應に攝官三任解由全き者は牒を有司に投ずるを許し、即ち召試錄用を得しむ。有鄰素より前攝上蔡主簿劉偉と交遊す。偉嘗て三攝すと雖も、而して一任其の解由を失へるを知る。偉偽印を造り、其の兄前進士侁をして之を書寫せしむ。是に因りて試を送り銓を得たり。遂に章を具して其の事を告ぐ。並びに下りて御史府に按鞫せしむ。有鄰讚の家に出入す。故に其の事多く實なり。獄具はる。偉棄市に坐す。洞等並びに決杖除名せらる。讚・可度仍り其の家を籍す。有鄰秘書省正字を授けられ、公服靴笏・銀鞍勒馬・絹百匹を賜ひ、是より累ね疏を上して密かに人の陰事を告ぐ。俄に病に被る。白晝偉の室に入り、杖を以て其の背を箠るを見る。有鄰號呼して外に聞こゆ。數日にして死す。德驤に錢十萬を賜ひ、以て喪事を給す。

子 有終

有終、字は道成、幼くして聰敏、蔭を以て漢州司戸參軍を補ふ。時侯陟選を典む。木強にして犯し難し。選人庭に聽署す。敢へて嘩する者無し。有終獨り抗言し、願はくは大郡の治獄掾と爲らんとす。陟之を叱して曰く、「年未だ三十ならず、安んぞ此の官を任する可けんや。」有終爲に沮まず。萊蕪尉を署す。知監・左拾遺劉祺有終の年少なるを以て、頗る之を易しむ。有終其の奸贓を發す。祺罪に坐し杖せられ海島に流さる。有終を以て代はりて監事を知らしむ。先是、三司吏を補ひて冶官と爲す。率ね貲を以て進み、恣横なること多し。是に至り、署を受くる者、有終を憚り、率ね多く避けて免る。太宗即位し、其の名を聞き、內侍伍守忠を遣はして同く監事を掌らしめ、且つ其の治跡を察せしむ。守忠至るに裁周月にして、即ち還り奏して有終の強濟の狀をす。亟に詔して大理寺丞と爲らしむ。會に德驤陝西轉運を任ず。奏して解州通判と爲す。特許して德驤是の州を巡察せざらしむ。有終入りて鹽池の利害を奏す。贊善大夫に改め、還りて軍事を權知せしめ、通判を省かしむ。太平興國六年、殿中丞に遷り密州を知り、徙めて淮南轉運副使と爲り、緋魚を賜ひ、太常博士に改む。時德驤兩浙の漕を主る。往往境上に省す。時人之を榮しむ。

雍熙中、王師北征す。命じて蔚州飛狐路隨軍轉運使と爲す。入りて鹽鐵判官と爲り、戸部・度支副使を歷ね、金紫を賜ひ、出でて昇州を知る。淳化初、就きて少府少監に遷り廣州を知る。二年、女弟婿衞濯其の家法謹ならざるを訟ふ。有終親累に坐し、責めて衡州團練副使を授けられ、章服を奪はる。俄に外艱に丁す。行きて許田に及ぶ。召し歸り、入對す。錢八十萬を賜ひ、起して都官員外郎と爲し、度支・鹽鐵副使を歷ね、復た金紫を賜ふ。時江南・嶺外の茶鹽價一ならず。細民禁を冒して私販し、多く重辟に陷る。詔して有終に領せしめて江淮・兩浙・荊湖・福建・廣南路茶鹽制置使と爲し、就きて鹽を出だし茶を産するの地に出で、便宜を以て裁制せしむ。使還りて、工部郎中に改め大名府を知る。一月を踰えず、復た少府少監と爲り、徙めて江陵を知る。

李順の乱に際し、王師が西征するや、命ぜられて裴莊とともに峽路隨軍轉運使・同知兵馬事となる。兵糧を調達し発送し、軍務を計画するに、いずれも節度があった。軍が峽中に至り、盗賊と遭遇して格闘し、兵士は渇き疲弊したが、ちょうど雨が降り、軍士は兜鍪で水を受けて飲み、進みながら戦い、広安軍に至った。軍の砦は江に臨み、三面に柵を立てた。夜陰晦に会し、賊の大軍が急に至り、鬨の声をあげ火を挙げたので、兵士は恐れおののいたが、有終は安座して髪を梳くなど平然としていた。賊の包囲が完成すると、有終は奇兵を率いてその背後に出て撃ち、賊衆は驚き乱れ、水に飛び込んで死ぬ者が数え切れなかった。そのまま右諫議大夫・知益州に任ぜられた。簡州に次ぎ、仏寺に宿したが、賊が必ず来ると推測し、左右に厳重に戸を閉ざさせ、土地の者を召して厳しく夜警を備えさせ、初更に、間道から出た。賊は数重に包囲して守っていたが、寺を破って入った時には、柝を打つ者だけがいた。まもなく同招安使を兼ねた。賊が平定されると、知許州に改めた。三年、給事中・知へい州に改めた。

真宗が位を嗣ぐと、工部侍郎を加えられた。咸平二年、代わって還り、知審刑院となり、まもなく戸部使を授けられた。三年、大名を巡師しようとし、有終を遣わして駅馬で先に澶州に至らせ、糧草の納入を監督させた。車駕が還り、徳清軍に次いだ時、ちょうど益州からの奏上があり、神衞の戍卒が正月元旦にひそかに蜂起し、兵馬鈐轄符昭壽を害し、都虞候王均を擁して乱を起こし、知州牛冕を追い払ったと報じた。即日、有終を瀘州觀察使・知益州兼川峽兩路招安捉賊事に任じた。御廚使李惠・洛苑使石普・供備庫副使李守倫をともに招安巡檢使とし、歩騎八千を与えて、招討に向かわせた。また洺州團練使上官正を東川都鈐轄とし、西京作坊使李繼昌を峽路都鈐轄とし、崇儀副使高繼勳・王阮をともに益州駐泊都監とし、供奉官・閤門祗候孫正辭を諸州都巡檢使とした。

正月三日、均は衆を率いて漢州を陥とし、綿州を攻撃したが、十日間で落とせず、剣門に向かった。先に、知剣州・秘書丞李士衡は賊が必ず来ると推測し、城は守れないとして、官庫の財物をすべて移して剣門を守り、その倉庫を焼き、さらに榜を掲げて流亡する軍卒を招き、数千人を得た。やがて賊が果たして来ると、士衡は剣門都監・左蔵庫副使裴臻とともにこれを迎撃した。時に風雪が連日続き、均の衆は掠奪するものがなく、ただ腐った酒粕を食い、臻が戦い、数千級を斬首した。賊衆は疲弊困憊して夜遁し、益州に戻って守った。士衡はただちに騎馬を馳せて入奏し、上はこれを嘉し、士衡を度支員外郎に任じ、緋衣を賜い、臻は崇儀使・峰州刺史を領し、もとの職のままとした。

知蜀州・供奉官・閤門祗候楊懷忠は変事を聞くと、ただちに郷丁を調発して十一路の巡檢兵と合わせ、期日を定めて進討した。蜀の民で賊に従わない者は相率いて抵抗し、仲間はこれを「清壇衆」と呼んだ。「清壇」の頭目七十余人を選び、すべて巡檢將に補任し、判官高本を駅馬で馳せて奏聞させた。十七日、懷忠は衆を率いて益州に入り、城の北門を焼き、三井橋に至った。時に均はなお剣門に留まり、賊将魯麻胡と江瀆廟の前に陣を敷き、朝から夕方まで、数度戦ったが、懷忠の兵勢は敵わず、所属の地に退いた。懷忠の部下には李順の旧党が多く、略奪を貪る者が多かったので、敗北したのである。懷忠は嘉・眉七州に移文し、軍士と丁男を調発して来会させた。二月、再び益州を攻撃した。時に均はちょうど逆党趙延順を遣わして邛・蜀を攻撃させており、懷忠はこれと迎え撃って戦い、賊はやや退いた。懷忠は轉運使陳緯とともに兵を指揮して子城の南門から直ちに軍資庫に入り、緯とともにその庫の鍵に署名した。均の衆はみな銀の槍に刺繍の衣で、数隊に分かれ、子城中に列をなした。賊兵が通遠門から出て、懷忠と数度戦ったが、暮れに会したので、懷忠はまた軍を筰橋に退き、水を背にして陣を列ね、櫧木橋の南に砦を築き、邛・蜀への路を防いだ。賊はもはや南に攻略できず、清水壩・温江・金馬の三道から来て櫧木砦を攻め、官軍の背後に出て、江原の神祠を焼き、邛・蜀からの援路を断った。懷忠は三路に分兵してこれに抗し、五百余級を斬首し、残りの衆を皂江に追い落とし、甲冑や弩を多く獲た。勝に乗じて賊を益州の南十五里まで追い、鶏鳴原に砦を築き、王師を待った。均もまた成都の東門を閉じて自らを固めた。

この月、有終らが到着し、石普に先に綿漢都巡檢張思鈞とともに漢州を回復させ、進んで升僊橋に壁を築かせた。賊が出て砦を攻撃したが、有終はこれを撃退した。ある日、均は城門を開いて偽って逃げる様子を装い、有終と上官正・石普は兵を率いてまっすぐに入ったが、官軍は分かれて民財を掠奪し、部隊の規律が整わなかった。賊は関門を閉じて伏兵を発し、路口に寝台を並べたので、官軍は出ることができず、これによって殺された。有終らは城壁の塀を伝って墜ち、李惠はこれに死し、漢州に退いて守った。益州城中の民はみな奔り出て四方に逃げたが、また賊党が分かれて騎兵で追い殺し、あるいは囚人として縛り、四肢を切断し一族を誅戮して衆を脅した。また士民僧道の壮年の者を脅して兵とし、まず手の甲に刺青し、次に髪を剃り、次に顔に入墨し、軍装を与え、城壁に登らせ、旧賊党と交互に配置した。有終は榜を掲げてこれを招き、来た者にはその衣の袂に署名して釈放し、日に数百人に及んだ。

三月、弥牟砦を攻撃し、千余級を斬首したが、また賊に阻まれた。四月、賊は升僊橋から分路して来寇し、ともに軍を東側に集め、有終は兵を率いて迎撃し、これを大破し、千余人を殺し、その傘蓋・金槍などを奪い、均は単騎で城に還った。有終はその子の奉禮郎孝若を遣わして馳せて奏上させ、上は孝若を召して賊を破った経緯を問い、左右に向かって笑って言った、「均は鼠窃に過ぎぬ。城に拠って自ら守るといえども、日数を数えれば捕らえられよう」。孝若はかつて武芸を習ったことを言上し、官位を改めて効力を尽くしたいと願い出たので、ただちに供奉官に補任した。まもなく刑部員外郎馬亮を轉運使とし、國子博士張志言をその副とし、供備庫副使張晌を綿漢都巡檢使とした。楊懷忠はまた配下を分けて合水尾・浣花などに砦を築き、投石器を立て、竹柵を設けてこれに抗した。

賊は升僊での敗北以来、橋を撤去し門を塞ぎ、官軍は清還江に進み、橋を架けて渡った。有終は石普とともに城の北門の西に屯し、壕に沿って土山を築き、分かれて鹿角を設け、また旧草場を得て、雲梯や衝車・洞車などの攻撃用具を造り、普がこれを専管した。高繼勳・張晌・孫正辭は城東を攻め、上官正・李繼昌・王阮は城西を攻め、楊懷忠は巡檢殿直・閤門祗候馬貴とともに城南を攻め、賊将趙延順は凶党をすべて駆り立てて抵抗した。やがて延順は流れ矢に当たって死に、またその党丁重萬を遣わして城門の上に立たせたが、官軍がこれを射て、倒した。毎度城を攻めるたびに、ちょうど雨に会い、城は滑って登れず、官軍と丁夫は洞屋を造って進んだが、賊はまた地道を掘って出て掩撃し、壕に溺れて死ぬ者が千余人に及び、軍勢はやや挫けた。時にちょうど暑湿で、軍士は多く病気にかかり、有終は他州で薬を買ってこれを治療した。

この月、詔して洛苑使・入内副都知秦翰を両川捉賊招安使とす。有終は翰と協議し、城北の魚橋にまた土山を築く。八月、城北の羊馬城を陥とし、ついに雁翅敵棚を設け、洞屋を覆いて進み、羅城に迫る。九月、城北の洞屋成る。賊は対して敵楼を設けて官軍に抗す。有終、卒を遣わしてこれを焼かしむ。賊はここより銷沮し、月城を築いて自らを固む。有終、敢死の士を募りて間道より入らしむ。賊は薬矢を為し、中る者は立ちどころに死す。有終、卒に氈を蒙り燧を秉って入るを命じ、その望櫓・機石を悉く焼かしむ。先に東西南の砦に鼓噪して城を攻めしめ、有終と石普と分かって洞屋を主りて進む。普、城に穴を穿ちて暗門と為す。門成るや、賊は戟を攢えて前にあり、敢えて進む者なし。二卒の行くを請う者有り、厚賞を以て許す。乃ち戈を麾いて直ちにこれを衝く。賊の鋒稍く却く。遂に城に入る。有終、城楼に登りて下瞰す。賊の余衆、なお天長観前に砦し、文翁坊に密かに砲架を設く。高継勳、馬亮に白し、稭稈・油籸を給するを請う。衆、長戟・巨斧を執り、炬を秉って進み、悉くこれを焼く。楊懷忠、その砦を天長観前に焼き、大安門に追い至り、またこれを敗る。この夕二鼓、均とその党二万余、南より万里橋門を出で、囲みを突いて遁走す。有終、伏兵有るを疑い、人を遣わして城中に火を放つ。詰朝、秦翰と門楼に登る。牙吏に偽署の官職を受けたる者有り、捕え得て、楼の下に立ち、傍らに薪を積み、その上に火を置く。男子の魁壮なる者を索めてこれを弁ぜしむ。曰く「某嘗て某職を受く」と。即ち左右に命じて捽ちて火中に投ぜしむ。晨より晡に至るまで、焼き死する者数百人、時に冤酷と謂う。均既に走り、合水尾を渡り、広都より陵・栄を略し、富順監に趣く。過ぐる所に橋を断ち路を塞ぎ、倉庫を焼きて去る。

初め、有終、懐忠を遣わして虎翼軍を領してこれを追わしむ。後二日、石普継いて往き、全軍を以て後援と為す。十月、均、富順に至る。その将校、筏を以て江を渡り、戎・瀘の蛮境に趣く。朝廷、毎歳孟冬の朔、詔して富順監に酒肴を具えさせ、内属の蛮酋を犒う。この日、設具を裁するに、均の党適来たり、皆これを食す。懐忠の追騎将に至らんとするを聞き、均、心これを易し、その党に謂いて曰く「速やかに懐忠に降れ」と。その衆に負担して行かしむ。懐忠、富順より六十里、楊家市に少しく憩う。賊衆の後にある者、戦を邀う。懐忠、騎士を遣わして高原に登りて賊を覘わしめ、かつその左右に語りて曰く「賊をして江を渡らしめば、後悔及ぶこと無からん。石侯将に至らんとするを聞く。奇兵を以てこれを取るべし」と。乃ち江に臨んで陣を列ねてこれを撃つ。余党散走す。舟有りて将に江を渡りて遁れんとする者、懐忠、強弩を合わせてこれを射る。溺死すること甚だ衆し。懐忠、旗を張り鼙を鳴らして城に入る。均方に監署の中に在り。その衆多く酔う。均窮蹙して縊死す。虎翼軍校魯斌、その首を斬りて懐忠に詣る。僭偽の法物・旌旗・甲馬甚だ衆くを獲、その党六千余人を禽え、逆徒殲さる。懐忠、軍を旋して北門を出づ。石普の衆方に至る。均の首を奪い馳せて成都に帰り、北市に梟す。

均は本、開封の散従直に隷し、後に軍校を補す。初め、成都に戍する神衞軍は、均及び董福を以て二指揮を分かちてこれを領せしむ。福は衆を御するに法有り、部下皆優足す。均はその下の飲博を縦し、軍装も亦以て費を給す。この歳、車駕河朔に幸す。符昭寿と牛冕、東郊に大閲す。蜀人趨りてこれを観る。二軍の衣服鮮弊等しからず。均の衆、ここにより慚憤す。益州知州と鈐轄の二廨並びに禁旅を牙隊と為す。歳除、冕は酒肴を以て部士を犒う。而して昭寿は既に驕恣し、復た侵虐を肆にす。冕も亦寛弛して政無し。故に詰朝合い起って乱を為す。

神衞の卒既に昭寿を殺す。この日、成都の官吏方に相与いて正を賀す。変を聞き、皆奔竄す。牛冕と転運張適、城を縋りて出づ。惟だ都巡検使劉紹栄、刃を冒して格闘す。既にして衆寡敵せず。叛卒未だ主有らず。或いは紹栄を奉じて帥と為さんと欲する者あり。紹栄、弓を摂めて罵りて曰く「我は燕人なり。比に郷土を棄て来たりて本朝に帰す。豈に汝と同逆せんや。汝亟に我を殺せ。我肯えて朝廷に負かんや」と。衆未だ敢えて動かず。監軍王澤と均適来たり。乃ち均に謂いて曰く「汝の部する所乱を為す。盍ぞ自ら往きて招安せん」と。均既に往く。叛卒即ちこれを擁して主と為す。紹栄自経して死す。均、大蜀と僭号し、化順と改元し、官称を署置し、貢挙を設け、張鍇を謀主と為す。

鍇は本名を美と曰い、太原の旧卒、後に神衞の小校と為る。狡獪にして、嘗て戦陣を歴り、粗く陰陽に習い、熒惑を以て同悪す。故に均を勧めて乱を為さしむ。均は実に戇愞にして謀無し。嘗て言う「官軍若し至らば、我当に先路を出でて迎え、自ら脅迫の状を陳ぜん」と。鍇これを聞き、軍中の子弟を択びて寄班に署し、以て均を防守せしめ、人と接見せしめず。官軍城を囲み、毎に箭を射て招誘し、及び均の子弟をして城下に至らしむるも、均皆これを知らず。箭書を得れば、鍇悉くこれを焼く。起りより敗るるまで、守る所止だ一城のみ。均初め親軍を署して天降虎翼と為す。後、果たして虎翼軍に殺さる。

賊既に平ぐ。承受供奉官楊崇勳を遣わし伝を乗じて捷を告げしむ。崇勳に錦袍・銀帯・器幣を賜う。有終は保信軍節度観察留後を加え、秦翰を内園使・恩州刺史と為し、石普を冀州団練使と為し、高継勳・王阮並びに崇儀使と為し、孫正辞を内殿崇班と為し、李継昌を奨州刺史と為し、張晌を供備庫副使と為し、楊懐忠を供備庫副使と為し、馬貴を供奉官と為す。この役、懐忠の功最も居り、石普に忌まれる。朝廷微かにこれを聞き、寄班安守忠を遣わして戦所を按視せしむ。その功状を尽く得る。故を以て懐忠復た崇儀使に遷り、恩州刺史を領す。

四年、有終代わりて還る。命じて涇・原・儀・渭・鎮戎路都部署と為す。辞して拝せず。永興軍府知事に改め、秦州に徙す。景德初め、幷代副都部署に徙し、黄金四百両を賜う。丁内艱有り、起復す。契丹寇す。上澶淵に幸す。詔して有終に率いる所の部をして土門より鎮州に抵り、大兵と会せしむ。既にして王超・桑贊逗撓して功無し。唯だ有終赴援し、威声甚だ振う。河北の列城、その雄張に頼る。俄にして契丹好を修む。命じて還りて屯所にす。就いて并州を判じ、召して宣徽北院使・検校太保を拝す。二年七月、暴疾に卒す。年五十九。侍中を贈る。その子孝若を録して内殿崇班・閤門祗候と為し、孝傑を内殿崇班と為し、孝緒を供奉官と為し、孝恭を侍禁と為す。親族・門客・給事輩遷補する者八人。

有終は、倜儻として自ら任じ、小節に拘らず、幹局あり、沈敏にして善く断じ、強禦を畏れず、財を軽んじて施しを好んだ。歴任して藩閫を典とし、士卒を撫することを能くし、宴犒に豊かであったが、官用が足りなければ、私帑及び榷銭を傾けてこれを給した。家に余財なく、身を奉ずること甚だ薄く、常に用いるものは、銅の鞍勒馬のみであった。崇仁里にある邸宅は、徳驤の創建したものである。有終は蜀において嘗て備用庫の銭数百万を借り、その邸宅を納めて償おうと奏上したが、優詔をもって蠲免された。宣徽使となり、特例として廉鎮公用銭を歳二千貫給された。身没の日、宿負なお千万に啻ならず、官がこれを償った。王継英が枢密に在り、有終の進用を頗る忌み、しばしばその蜀に在り及び辺境を守るにおいて厚く費やして士卒の心を収めたことを言上したが、真宗はこれを信ぜず、遂に保護した。

孫 孝先

孝先は、字を子思といい、有鄰の子である。進士に挙げられ、秘書省校書郎を試み、天長県知事となった。衞濯がその内乱を訟えたことにより、除籍されて均州に配流された。後に再び宛丘県知事となり、李継隆が陳州を判じ、その才能を推薦し、試大理評事を加えられた。契丹が内寇すると、真宗は大名に行幸し、孝先は部内の芻糧を河北に運び、真っ先に行在所に至り、太常寺奉礼郎に抜擢された。

王均が益州で反乱を起こすと、季父有終に従って進討し、孝先は先鋒を率いて賊と升僊橋で戦い、数百の首級を斬り、王均の金槍と黄傘を得て献上し、将作監丞に改められた。

李継遷が霊州を陥落させると、朝廷は兵を調発し、軍費は多く民から出たため、関内は大いに擾乱した。孝先は商人を募り粟を塞下に入れることを増やすよう請い、茶塩をもって償うことを提案した。召対して旨に称い、駅伝を馳せて陝西に赴き、転運使鄭文宝と議して規画を立てさせ、後に多く施行された。累遷して尚書屯田員外郎となった。嘗て三司拘収司を建置し、以て天下の財利出入の数を検することを請い、詔してその請いの如くとした。

興元府知府となり、保任が事実に失するに坐し、通判華州に降格され、鄆州知事に転じた。宰相寇準の推挙により、内園使・貝州知事に換官された。時に慈州の民張熙載が詐って黄河都総管を称し、並河の州郡の芻糧の数を籍録し、貝州に至った。孝先はその奸を覚り、捕らえて獄に繫いだ。孝先はこれによって奇功と為し、以て朝廷を動かさんと欲し、司理参軍紀瑛に迫って熙載に偽って契丹の諜者と為させ、号して景州刺史兼侍中・司空しくう・大霊宮使とし、部送して京師に送らせた。枢密院が取り調べて孝先の教唆した状を得、澤州都監に貶謫され、利・虢の三州を経て、環慶路兵馬鈐轄・邠州知事に改められた。一年余りして、昭州刺史を領し、益州鈐轄となり、再遷して左蔵庫使、抜擢されて西上閤門使・涇原路鈐轄兼渭州知事となり、再び邠州知事となり、耀州に転じ、右領軍衞大将軍・昭州刺史を以て、西京に分司して卒した。子に簡夫あり。

曾孫 簡夫

簡夫は、字を太簡といい、隠居して仕えなかった。康定年中、枢密使杜衍がこれを推薦し、召見され、秘書省校書郎を以て秦州観察判官に簽書された。公事が既に罷まった後、長安ちょうあんに居住し、自ら処士として起用されたことを以て、再び衆に随って官を調えることを肯ぜず、多く岐路を為して辟薦を求めた。時に三白渠が久しく廃れていたので、京兆府は遂に簡夫を推薦して渠事を治めさせた。先に、渠を治めるに歳ごとに六県の民を四十日役し、梢木数百万を用いたが、水が足りなかった。簡夫は三十日を用い、梢木は旧の三分の一に比し、而して水が余った。坊州知事となり、簡州に転じ、張方平の推薦により、雅州知事となった。

既にして辰州の蛮酋彭仕羲が内寇すると、三司副使李参・侍御史朱処約が安撫したが定められず、継いで簡夫を派遣した。至れば則ち諸将を督して進兵し、明溪の上・下二砦を築き、その険要を拠り、故省地の石馬崖五百余里を拓き取った。仕羲は内附した。三司塩鉄判官に抜擢され、病を以て、虢・同二州知事となり、累遷して尚書職方員外郎となり、卒した。その子寿臣を録用して郊社斎郎とした。

簡夫は初め隠者として起り、出入りに牛に乗り、鉄冠を冠り、自ら「山長」と号した。関中用兵の際、口舌を以て公卿を捭闔した。既に仕えてからは、自らの暮らしが稍々驕侈となり、騶御の服飾、頓にその旧を忘れ、里閭の者が指して笑って曰く「牛及び鉄冠は安在ぞ」と。

王超

王超は、趙州の人、弱冠にして身長七尺余り。太宗が京尹の時、召して麾下に置いた。即位すると、御龍直に隷させた。淳化二年、累遷して河西軍節度使・殿前都虞候に至った。

真宗が嗣位すると、翊戴の功により、検校太傅を加えられ、天平軍節度使を領した。咸平二年秋、禁兵二十万を東郊で大閲し、超は五方旗を執って進退を節し、上は戎幄に御してこれを観、面して褒賞を賜った。大名行幸に従い、都虞候張進と並んで先鋒となった。都大点検傅潜が逗撓して罪を得ると、超を侍衞馬歩軍都虞候・鎮州行営都部署とし、また鎮・定・高陽関の三路を帥いた。契丹が辺境に入ると、遂城西で戦い、俘馘二万を数え、その裨王騎将十五人を斬り、手詔を以て褒美された。

李継遷が清遠軍を陥落させると、超を将として西面行営の師を率いさせてこれを防ぎ、永興軍の帥に転じた。宰相が超の材は将帥に堪えると上言し、遂に超を以て定州路行営の帥とし、王継忠をその副とした。尋ねて鎮・定・高陽関三路都部署を加え、密かに中使を遣わして御弓矢を賜い、便宜従事を許した。開府儀同三司・検校太尉を加えられた。咸平六年、遼師が大いに侵入し、超は鎮州の桑贊・高陽関の周瑩を召して兵を率いて定州に会させたが、瑩は詔旨に非ずとして至らなかった。遼兵が望都を包囲すると、超・贊は兵を率いて赴き、県南六里に陣した。継忠は陣の東偏に在り、契丹がその背を出で、糧道を遮絶し、人馬困乏した。継忠は馳せ前って契丹と戦い、超・贊は遂に師を旋したため、継忠は孤軍にして没した。上は即ち劉承珪・李允則を馳せ遣わし、退衄の状を察せしめ、且つ鎮州副部署李福・拱聖軍都指揮使王昇が戦時に先んじて旋ったことを言上させ、福は坐して籍を削られ封州に流され、昇は杖刑に決し、瓊州に配隷された。

景德初年、上が親しく澶淵に巡幸し、超を行在に召し赴かせたが、また師期を緩めたため、契丹は遂に深く侵入した。時に南北が通好したため、故にその責を薄くし、ただ超の三路の帥を罷めるに止め、崇信軍節度使とし、河陽知事に転じた。また建雄に移鎮し、青州知事となり、卒した。侍中を贈られ、再び尚書令しょうしょれいを贈られ、魯国公に追封され、諡して武康といった。

王超は将帥として部署をよくし、部下を統御するに恩をもってした。高瓊とともに禁旅を管轄し、かつて休暇を取って他へ出かけた際、営塁を過ぎると、軍校が時を移さずに出迎えなかったので、瓊はただちに鞭打ちの罰を命じたが、超は公務による行軍でないとして、罪を加えるべきではないとし、人々はその寛恕を称えた。しかし軍陣に臨んでは謀略に乏しく、戦闘においては拙劣であった。子に徳用がある。

子 徳用

徳用、字は元輔。父の超は懐州防禦使となり、徳用は衙内都指揮使に補せられた。至道二年、五路に分かれて出兵し李継遷を撃つこととなり、超は兵六万を率いて綏州・夏州より出撃し、徳用は十七歳で先鋒となり、一万の兵を将いて鉄門関で戦い、十三級を斬首し、捕虜および掠奪した畜産は数万にのぼった。進軍して烏白池に至ると、他の将の多くは道を失って到着せず、虜の勢いは鋭甚であったので、超は兵を押さえて進まなかったが、徳用はこれに乗ずることを請い、精兵五千を得て転戦すること三日、敵の勢いは退いた。徳用は言った、「帰還する軍は険阻を迫られれば必ず乱れる。」そこで兵を率いて夏州より五十里の地に至り、その帰路を断ち、命令を下して言った、「隊列を乱して行く者は斬る!」一軍は粛然とし、超もまたそのために轡を押さえた。継遷はその後を追ったが、左右の者が望見すると隊伍は甚だ厳整であり、敢えて近づく者はいなかった。超はその背を撫でて言った、「王氏に子あり。」

累遷して内殿崇班となり、御前忠佐をもって馬軍都軍頭とされ、出て邢州・洺州・磁州・相州の巡検となった。盗賊の張洪が境界上に集結していたが、官吏は捕らえることができなかった。徳用は氈車に勇士を載せ、婦人の装いを偽り、邯鄲を過ぎた。賊は果たして来邀し、勇士が奮い出て、ことごとくこれを擒らえた。陝西東路の督捕に転じると、盗賊は互いに戒めて言った、「これは張洪霸を擒らえた者である。」みな相率いて逃げ去った。環慶路指揮使となり、まもなく奏事が旨に逆らい、責められて鄆州馬歩軍都指揮使を授けられた。内殿直都虞候・殿前左班都虞候・柳州刺史を歴任し、捧日左廂都指揮使・英州団練使に遷った。

天聖初年、博州団練使として広信軍知軍となった。城壁は破損して久しく修治されていなかったが、徳用は禁軍を率いてこれを増築し、詔を賜って褒め諭された。冀州に転じ、龍神衞・捧日天武四廂都指揮使・康州防禦使・侍衞親軍歩軍馬軍都虞候を歴任した。召還されて、また幷代州馬歩軍副都総管となり、殿前都虞候・歩軍副都指揮使に遷った。桂州・福州観察使を歴任した。

章献太后が朝政に臨まれたとき、内降を求めて軍吏を補任しようとする者があったが、徳用は言った、「吏を補うことは軍政である、与えることはできない。」太后は固くこれを与えようとされたが、ついに詔を奉じず、やむを得ず止めた。太后が崩御すると、有司が衛士に坐甲を命じようと請うたが、徳用は言った、「故事ではない。」と詔を奉じなかった。

仁宗が太后の閣中を閲覧し、徳用が以前に軍吏の事を奏上した文書を得て、これを奇とし、大用に値すると考え、検校太保・簽書樞密院事に拝した。徳用は謝して言った、「臣は武人であり、幸いにも馳駆して自ら効力を尽くすことができ、陛下の威霊に頼り、行間に罪を待つだけで足ります。かつ臣は学ばず、大事を担当するには足りません。」帝は使者を遣わして枢密院に入ることを促し、ついに副使となった。久しくして、奉国軍節度観察留後同知院事となり、知院に遷った。安德軍を歴任し、検校太尉・定国軍節度使・宣徽南院使を加えられた。趙元昊が反すると、徳用は自ら将となって討伐することを請うたが、許されなかった。

徳用の容貌は雄毅で、顔は黒く、頸以下は白晰であり、人々は皆これを異とした。言事者が徳用の容貌が芸祖に似ていると論じ、御史中丞孔道輔が引き続いてこれを言い、かつ徳用は士心を得ているとして、久しく機密を管轄すべきではないとし、ついに罷められて武寧軍節度使・徐州大都督ととく府長史となった。徳用が府州で馬を買ったという言い立てがあり、その券を上ると、商人から買ったものであった。言事者はなおやまず、右千牛衞上將軍・随州知州に降格され、州には判官が置かれ、家族は皆恐れおののいたが、徳用の挙止言色は平時の如くであり、ただ賓客を接しないだけであった。曹州知州に転じたとき、ある者が徳用に言った、「孔中丞は公を害しましたが、今は死にました。」徳用は言った、「中丞は言官である、どうして私を害する者であろうか。朝廷は一人の忠臣を失った、惜しいことである。」起用されて保静軍節度観察留後・青州知州となり、澶州に改めた。陝西では用兵が久しく功がなく、契丹が劉六符を遣わして関南の地の回復を求め、兵をもって国境を圧迫した。徳用は帝に謁見し、涙を流して言った、「臣は以前に罪を得ましたが、陛下は赦して誅さず、今は命を辱しめるに足りません。」帝は慰労し、言った、「河北はちょうど警報がある、卿を借りて鎮撫させたい。」また手詔を賜って慰勉し、保静軍節度使に拝した。その年は大いに豊作となり、六符は徳用を見て拝礼して言った、「これは公の仁政の及ぶところである。」真定府・定州路都総管に転じ、還って奏事し、また宣徽南院使として成徳軍を判した。赴任せず、定州路都総管に転じた。日々士卒を訓練し、久しくして、兵士はまことに用いるに足るものとなった。

契丹が諜者を遣わして来て覗わせたので、ある者は捕らえて殺すことを請うたが、徳用は言った、「ただこれを捨てよ、彼が実情を得て報告すれば、これすなわち人の兵を戦わずして服させるものである。」翌日大いに閲兵し、桴鼓を援る兵士は皆躍り上がり、進退坐作、終日一人も戮さなかった。そこで命令を下した、「糗糧を具え、我が鼓声を聴き、我が旗幟の向かうところを見よ。」覗った者は帰って契丹に報告し、漢兵が大いに侵入しようとしていると言った。やがてまた和議が論じられ、ついに陳州に転じ、また河陽に転じた。赴任せず、入朝して奉朝請し、出て相州を判し、同中書門下平章事・澶州判に拝した。鄭州に転じ、祁国公に封ぜられ、還って、会霊観使となった。

徳用はもとより射をよくし、老いても衰えなかった。瑞聖園で侍射したとき、辞して言った、「臣は老いりました、弓矢に勝つことができません。」帝は再三これを諭し、二矢を持って未だ発たなかった。帝がこれを見て、必ず中てるよう命じると、ようやく弓矢を収めて謝し、一発で的に中て、再発してもまた中てた。帝は笑って言った、「徳用は中てようと思えば即ち中てるだけである、誰が老いてかつ衰えたと言おうか。」襲衣・金帯を賜い、検校太師を加えられ、また鄭州を判し、澶州に転じ、集慶軍節度使に改め、冀国公に封ぜられた。皇祐三年、上疏して骸骨を乞い、太子太師をもって致仕し、大朝会では中書門下の班に綴じた。

徳用は将家の子であり、軍中の情偽を習い知り、恩をもって下を撫でることをよくしたので、多く士心を得た。たとえ屡々辺境に臨んでも、未だみずから矢石に親しみ、攻戦を督したことはなかったが、名声は四夷に聞こえ、里巷の婦女小児に至るまで、皆徳用を「黒王相公」と呼んだ。

帝はかつて使者を遣わして辺境の事を問うたが、徳用は言った、「咸平・景德の年中、諸将に陣図を賜り、人々は皆死守して戦法に従い、緩急相救わず、ついに屡々敗れるに至りました。誠に願わくば陣図を諸将に賜らず、彼らが応変して奇を出し、自ら異なる効果を立てることを得させてください。」帝はこれを然りとした。

徳用は致仕していたが、乾元節の上寿には、廷中の班に預かった。契丹の使者が訳者に語って言った、「黒王相公はまた起用されたのか。」帝はこれを聞き、起用して河陽三城節度使・同中書門下平章事・鄭州判とした。至和元年、ついに枢密使とし、命じて入謁拝謁させた。翌年、富弼が相となると、契丹の使者耶律防が至り、徳用は防と玉津園で射をした。防は言った、「天子は公をもって枢密を典せしめ、富公を用いて相とされた、将相ともに人を得ました。」帝はこれを聞いて喜び、弓一、矢五十を賜った。後に魯国公に封ぜられ、去位を求めること六七度に及び、ついに忠武軍節度使・景霊宮使とし、また同群牧制置使とした。詔があり五日に一度朝会に参じ、子孫一人に扶掖させることを聴された。卒す、年七十九、太尉・中書令を贈られ、諡して武恭とした。その家に黄金を加賜した。

徳用の諸子の中で、咸融は最も鍾愛され、晩年は頗るこれを縱し、不法の事多し、後に更に節を折り自ら飭し、官は左藏庫使・眉州防禦使に至る。

論じて曰く、全義・徳驤は、太祖・太宗に遇知され、超は真宗を翊戴し、崇顯に致す宜し、然れども堇堇として人を踰ゆる者無く、而して各々子有りて勳を國籍に勒す。若し知節は將家に生れ、書を讀むを喜び、朝に立ちて事を爭ひ、剛正を以て天下に稱せられ、其れ邦の司直か。有終は進士より起り、明幹にして兵を知り、蜀の鉅賊を平げ、聲を鄰敵に振るひ、『肇敏戎公』と謂ふ可し。至りて精神折衝し、名四夷に聞こえ、矯矯たる虎臣は、則ち徳用其れ有り。