宋史

列傳第三十六 張鑑 姚坦 索湘 宋太初 盧之翰 鄭文寶 王子輿 劉綜 卞袞 許驤 裴莊 牛冕 張適 欒崇吉 袁逢吉 韓國華 何蒙 愼知禮

張鑑

張鑑、字は德明、瀛州團練使藏英の孫なり。父は裔、蔭により供奉官を補す。鑑は元より将家に生れ、幼にして学を嗜む能く、衛州霖落山に入りて肄業すること凡そ十餘年。太平興國三年、進士第に擢でられ、褐を釋けて大理評事・泰州柴墟榷務を監す。朝班に昇り太子右贊善大夫・婺州知州となり、就いて著作郎に遷る。還りて、監察御史を拝す。詔を奉じて江左に獄を決し、頗る冤滯を雪ぐ。殿中侍御史を歴任す。

時に曹彬等を命じて幽州を進討せしむるに當り、羣臣に方略を問う。鑑上疏して極言すべからざるを論ず。論者鑑を燕人とし、議を沮むは忠ならずとす。太宗置いて問わず。趙延進と同く左藏を掌る。延進恩を恃みて規を踰ゆ。鑑廷にこれを奏す。旨有りて延進を罷め、鑑を以て三司度支憑由催欠司を判ぜしむ。時に三部各に憑由催欠を置く。鑑併せて一と為さんことを請う。從う。王明・李惟清其の能を薦む。用いられて江南轉運使と為る。本部に大姓民を患う者有り。鑑名を以て聞く。太宗盡く部を令して魁首及び妻子を闕に送らしめ、三班職名を以て之を羈縻す。江左震肅す。又た瑞州清江・吉州新淦・袁州新喻の三縣を割き、臨江軍を置くことを建議す。時に以て便なりとす。召し還され、特ち慰獎せらる。梓州符昭愿驕僭にして法に違う。即ち鑑を以て之に代う。刑部員外郎・判大理寺に遷り、屯田郎中・判三司都催欠司に遷り、都勾院に改め、樞密直學士・知通進銀臺封駁司を拝し、又た三班を掌る。上言す、供奉官以下は殿最を考校せず、恐らく沮勸無からんと。即ち詔して鑑に磨勘職を兼ねしむ。三司を左右計と改め、天下を十道に分つ。鑑其の便ならざるを奏す。未幾、果たして舊に復す。

淳化中、盜西しょくに起こる。王繼恩之を討平す。然れども軍を御するに政無く、其の下功を恃みて暴横す。益州張詠密奏し、近臣を命じて師旅を分屯せしむることを請う。即ち鑑と西京作坊使馮守規を遣わし偕に往かしむ。後苑門に召對し、面して方略を授く。鑑曰く「益部新たに復し、軍旅和せず。若し使命の驟至するを聞き、其の戎伍を易うれば、慮うらくは或いは猜懼し、變不測より生ぜん。臣に安撫の名を假せんことを請う」と。太宗善しと稱す。鑑蜀に至る。繼恩猶お偃蹇として、朝廷其の縱肆を聞くを意えず。鑑の行に、空名宣頭及び廷臣數人を付す。鑑と詠即ち部戍卒を遣わして境を出さしめ、繼恩麾下の使臣も亦多く遣わして東還せしめ、繼恩輩を督して路を分ち殘寇を討捕せしめ、而して鑑等は反側を招輯す。事平ぎて朝に歸る。未だ至らざるに、左諫議大夫・戶部使を拝す。

時に五路兵を進めて西夏を討たしむ。鑑を令して傳に乘り環州に往き、李繼隆と議りて芻糧を靈州に護送せしむ。還るに及び、上疏して曰く、

「關輔の民、數年以來、並びに科役有り、畜産蕩盡し、室廬頓に空し。加うるに浦洛の行、曾て剽劫を經る。原州の役、又た遷延を致す。獨り令の從わざるに非ず、實に力の逮ばざるに縁る。況んや復た先ず糧草を棄て、見今逐處追科し、本戶の稅租、互いに他州に遣りて送納せしめ、往返千里、費耗十倍、愁苦怨歎、路岐に充塞し、春より冬に徂るまで、曾て暫くも息むこと無し。餱糧乏絕し、力用殫窮す。此の疲羸を顧みれば、尤も軫恤に堪えたり。今若し復た差率有らば、益々流亡を致し、縱令驅迫すとも、必ず撓潰を恐る。願わくは陛下特ち詔旨を垂れ、重ねて勞せしむること無からしめ、此の首春に因り、俾く務めて東作せしめよ。

況んや靈州一方、僻く絕塞に居り、西陲の舊地と雖も、實に中夏の蠹區なり。物力を竭して須を供し、甲兵を困して援送す。蕭然として空壘、祗だ外虞を益すのみ。賜うに繼遷を以てし、恩を懷かしめて籍を奉らしめ、稍々飛輓の役を息ますに若かず。事は深慮すべく、理は預防を要す。若し川決して後ち防ぎ、火熾えて方に戢むるを待たば、則ち焚溺の患深し。雖ち拯救せんと欲すとも、其れ得可けんや」と。

尋いで詔して鑑に專ら軍糧を督せしめ、軍興法を以て事に従わしむ。饋運頗る集まる。

眞宗即位し、給事中に遷り、使は舊の如し。咸平初、工部侍郎に改め、出でて廣州を知る。居ること二年、民其の政績を條し、上りて刻石を請う。三年、移りて朗州を知る。溪洞の羣蠻數寇擾す。鑑酋豪を召し、威信を以て諭す。皆俯伏して命を聽く。

初め、鑑南海に在りし時、李夷庚通判と為り、謝德權巡檢と為る。皆之と協わず。二人密かに言う、鑑貲を以て海賈に付し、往來して貿市すと。故に小郡に徙す。是に至り、鑑自ら陳す、親故瓊州に謫せらるる者有り、每たび奉米を以て商舶に附し寄せて之を贍うと。又た言う、夷庚・德權憸人貪凶の狀を。上意稍々釋く。召し還され、疾を以て相州知州に徙る。芝草監牧の室に生ず。鑑其の祥異を表し、以て河朔の兵を弭ぎ款附するの兆と為す。優詔以て之に答う。景德初、卒す。年五十八。

子:士廉、殿中丞と為る。士宗、太子洗馬。士程、屯田員外郎。

姚坦

姚坦、字は明白、曹州濟陰の人。開寶中、『尚書』により第に擢でられ、將陵尉に調補す。隰州推官・將作監丞・潯州知州を歴任す。太平興國三年、召し還されて著作佐郎・唐州通判と為る。

八年、諸王が宮中を出て邸宅に住むこととなり、詔して給事中・諫議大夫以上の者に、朝班の中より年五十以上で経書に通じ文行ある者を挙げさせ、宮僚(王府の官)に備えさせた。そこで戸部員外郎王適・監察御史趙齊を衛王府諮議とし、左贊善大夫戴玄を本府の翊善とした。水部員外郎趙令図を広平郡王府諮議とし、国子博士閻象を本府の翊善とした。また起居舍人楊可法・国子博士楊幼英・左贊善大夫杜新及び姚坦を併せて皇子の翊善とし、国子博士邢昺を諸王府侍講とし、姚坦には引き続き緋魚袋を賜った。太宗は王適らを召して言った、「諸子は深宮に生長し、世務を知らず、必ず良士の資を借りて導き補佐させ、日に忠孝の道を聞かせねばならぬ。汝らは皆朕が慎重に選んだ者である、各々努めるがよい」。姚坦は殿中丞・倉部員外郎を歴任し、金紫を賜った。本曹(倉部)郎中に遷り、考功郎中に転じ、引き続き益王府の翊善となった。

姚坦の性質は朴訥で強情で融通がきかなかった。王(益王趙元傑)がかつて邸内に築山を造り、数百万を費やし、完成すると、賓客や僚属を召して酒宴を開き、酒を置いて共に見物した。姚坦だけはうつむいていた。王が強いて見させると、姚坦は言った、「ただ血の山が見えるのみで、どうして築山と言えましょうか」。王は驚いてそのわけを尋ねた。姚坦は言った、「田舎にいた時、州県が租税を催促し、人々の父子兄弟を捕らえ、県に送って鞭打ちし、流れる血が体を覆うのを見ました。この築山は全て民の租税で造られたもの、血の山でなくて何でありましょうか」。この時、太宗もまた築山を造っていたが、これを聞いて取り壊した。

王は若くて安逸を好んだので、姚坦はすぐに醜く罵った。王はその人となりをひどく卑しんだ。これより姚坦はしばしばその行いを公然と暴露した。上(太宗)はかつて彼を戒めて言った、「元傑は書を知り学問を好む、これもまた賢王たるに足りる。少し節度に合わぬことがあっても、やはり婉曲な言葉で諫め諷刺すべきである。まして大した理由もなく罵りあばくのは、どうして補佐する道と言えようか」。間もなく、側近たちが王に教えて病気と偽って朝参しないようにさせた。太宗は日々使者を遣わして病状を見させたが、一月を過ぎても癒えず、大いに憂えた。王の乳母を召して様子を尋ねると、乳母は言った、「王はもともと病気ではありません。ただ姚坦が厳しく拘束し、普段から自由にさせてもらえないので、王は楽しめず、それで病気になったのです」。上は怒って言った、「朕が端正な士を選んで、王が善を行うのを補佐させているのに、王はその諫言を用いず、しかも病気を偽り、朕に正しい人を去らせて自分を自由にさせようとする。どうしてそれが叶うものか。しかも王は年少である、必ずやお前たちが謀ったのだろう」。そこで命じて後苑に引きずり出し、数十回杖打たせた。姚坦を召して慰め諭して言った、「卿は王宮にいて、正しいことをして多くの小人たちに憎まれる、大いに容易ならざることである。卿はただこのようにせよ、讒言や離間を慮るな、朕は必ず聞き入れない」。王が薨去すると、姚坦は衛尉少卿に改められ、吏部南曹を判った。ある日、事があって対面する機会を得た。上は彼が旧臣であるため、殿上に召し上げて語りかけた。姚坦は話がかつての王府に及ぶと、諸王を貶めて自分が敢えて直言したことを称えた。姚坦が退出すると、上は近臣に言った、「姚坦は宮邸にあって、正しい道理で諭し教えることができず、事に些細な過失があれば、すぐに従ってそれを広める。これは正直を売り名を取るだけである」。

景德の初年、郡の長官を補うことを求め、鄧州知州に任じられた。転運使がその治績を上表したので、詔してこれを嘉奨した。大中祥符の初年、再び光州知州となった。二年、卒去。七十五歳。

索湘

索湘、字は巨川、滄州塩山県の人。開宝六年に進士となり、初官として鄆州司理参軍に任じられた。斉州に大事件があり、連座して逮捕された者が千五百人に及び、担当官庁が決断できなかった。索湘は詔を受けて推問し、事件はそれによって明らかになった。太平興国四年、転運使和峴がその才能を推薦し、太僕寺丞に遷り、度支巡官を充てられた。太子右賛善大夫に改め、殿中丞に転じ、推官を充てられ、監察御史に任じられた。九年、黄河が決壊し、民田を損なった。命を受けて戸部推官元玘と共に巡視した。ちょうど詔が下って東封(泰山封禅)が行われることとなり、劉蟠と共に泰山路転運事を知り、また河北転運副使となった。索湘は供給物資を計画調達し、有能で知られた。事が成就すると、屯田員外郎を加えられた。

翌年、契丹が侵入し、王師は君子館で敗れた。敵兵は勝ちに乗じて中渡橋を占拠し、土門を塞ぎ、鎮州に向かおうとした。諸将は計議未定であったが、索湘は田重進のために策を巡らし、大陣を結んで東進し、高陽関の兵と会合すると声言した。敵はそれを真に受け、すぐに衆を擁して平虜城で我が軍を遮ろうとした。(索湘は)夜の二更、兵を率いて南進し、まっすぐ鎮陽に入り、唐河を占拠した。敵の無備に乗じ、砦柵を破った。敵兵が気づいた時には、全て逃げ去っていた。雍熙年間、召されて塩鉄判官となり、駕部員外郎に改められた。端拱二年、河北で方田(土地測量)を行い、命を受けて樊知古の副として招置営田使となった。ちょうど議論により廃止され、再び河北転運使となった。虞部郎中に転じ、将作少監に選任された。しばらくして、庫の絹を勝手に換えて私用したと訴える者がおり、これに坐して膳部員外郎・相州知州に任じられた。時に群盗が西山の下に集まり、澶州の河橋を断ち切り、磁州・相州を攻め入ろうと謀り、旗を揚げ鼓を打ち、白昼に掠奪した。隣郡が兵千人を発して追捕したが、近づく者はいなかった。索湘は州軍の中から精鋭三百人を選び、彼らが境内に入るのを探知すると、すぐに襲撃してことごとく捕らえた。転運使王嗣宗がその状況を上奏したので、詔して旧官に復させ、河東転運使に任命した。索湘は忻州推官石宗道・憲州録事胡則を幹事役とし、命じて自らに随行させ、赴く州郡ごとにその帳簿を検査させた。二人は後に皆、清要の官を歴任した。翌年、王超らが師を率いて烏白池に向かい、無定河に到着したが、水源が枯れ絶え、軍士は渇きに苦しんだ。時に索湘は既に大鍬千枚を車で運んで到着しており、井戸を掘るよう命じた。衆はこれによって救われた。

真宗が即位すると、入朝して右諫議大夫となった。再び河北転運使を充てられ、管轄する郡の民に酒造を専売させ、歳ごとにごく僅かな税を納めさせていたが、ならず者たちがこれに乗じて姦盗を行っていた。索湘は上奏してこれを廃止した。德州では以前、民に馬を賦課して駅伝に供給させ、また民を歩遞として使役していた。索湘は官馬と兵卒で代え、人々は皆便利とした。ちょうど内殿崇班閻日新が建議し、静戎軍・威虜軍の両軍に場を設けて茶を売り、その利益を収めて軍用に資するよう請うたが、索湘は便利でないと上言し、遂に中止された。また事を言上する者が、榷場の商人に茶や薬などの物資を北界で売買することを許し、北界の商人には雄州・州での交易を許し、その貿易を助けて、辺境の患いを鎮めるべきだと請うた。詔して索湘に詳細に議論して上奏させた。索湘は上言して言った、「北辺では榷場を設置して以来、商人が輻湊し、制度は深くその宜しきを得ております。今もし互いに売買することを許せば、沿辺の商人が深く戎の地界に入り込み、私には便利でないと考えます。また北界の商人がもし雄州・霸州に来れば、その中に奸偽が混じることもあり、どうして見分けられましょうか。況んや辺境の民は動きやすく安んじ難く、蕃戎の情は羈縻制御すべきです。望むらくは暫く旧来のままが便利です」。ちょうど詔があり、定州の新楽・蒲陰の両県を復興修築することを計画させたが、索湘はその土地が狭く、屯兵の地ではないとして、遂に上奏してこれを中止させた。

索湘は文才には乏しかったが吏事に長け、辺境の部署を歴任し、赴く先々で必ず広く蓄えを増やして備えの計画を立てた。軍旅の間を出入りし、よく能ある名を著した。先に辺境の州に榷場を設置し、蕃夷と互市していたが、京から物資を車で運んでこれを充てており、中でも茶が最も煩わしく、また道が遠くて多く損傷・腐敗した。索湘は建議して、商人に長江沿いに茶を載せて辺境の郡に至り、そこで納入させることを許すよう請うた。これにより道中の消耗を免れるだけでなく、徴税の益もある。また威虜軍・静戎軍では毎年、辺境沿いの草地を焼いて南牧(契丹の侵入)に備えていた。事を言上する者がまた、北砦の山麓で銀の採掘を興すよう請うたが、索湘は敵を招くものと考え、これもまた上奏して中止させた。

咸平二年、入朝して戸部使となり、詔を受けて三司編敕を詳細に審定したが、王扶と互いに請託し合い、勝手に戸籍を改めたことで坐し、責められて将作少監に任じられた。三年、出て許州知州となり、荊南に移り、再び右諫議大夫・広州知州となった。四年、卒去。詔してその子希顔に喪を護送させ、駅伝を利用して故郷に帰らせた。

宋太初

宋太初、字は永初、澤州晉城の人なり。太平興國三年に進士に挙げられ、初めて官に就き大理評事・戎州通判となり、善政を以て聞こえ、詔を賜りて褒め称えらる。将作監丞・賛善大夫・晉州通判に遷り、太常丞に転ず。雍熙三年、成都府通判となり、緋魚を賜る。時に詔して直言を求めしに際し、『守成箴』を著して献上す。淳化初め、監察御史に遷る。時に北面に兵を用うるに当たり、選ばれて雄州通判となり、入朝して度支勾院を判ず。二年、京西転運副使となり、間もなく河東に移る。四年、正使に遷る。殿中侍御史に改む。

至道初め、兵部員外郎に遷り、塩鉄副使を充て、金紫を賜る。時に陳恕が使たり、太初は規画する所あるも必ず恕に諮り、未だ自ら功を為すを用いず、恕甚だ之を徳とす。時に西鄙に警有り、転饋艱急なりしに会い、刑部郎中に改め、陝西転運使を充てる。二年、白守栄・馬紹忠に命じて芻糧を護送せしめ、三番に分けて霊州に抵らしむ。転運副使盧之翰が旨に違いて併せて往き、戎人に掠奪せらる。上怒り、太初及び副使秘書丞竇玭を捕えて獄に繋ぐ。太初は責められて懐州団練副使と為り、之翰・玭は悉く除名せらる。之翰は許州司馬に貶せられ、玭は商州司戸掾と為る。明年、太初を起用して祠部郎中と為し、梓州を知らしむ。俄かに旧秩を復す。

真宗位を嗣ぎ、召し還し、復た命じて陝西の饋運の事を経度せしむ。咸平初め、右諫議大夫を拝し、江陵府を知る。蛮寇擾動す、太初は便宜を以て制遏し、詔して之を奨む。三年、再び梓州を知る。明年、益州の雷有終が母老を以て還るを求めしに、詔して太初に就いて代わらしむ。時に川峡を分けて四路と為し、各々転運使を置く。上は事に緩急有り、均しく済ますこと難しと為し、太初を四路都転運使と為し、要切の務は、俾く同しく規画せしむ。太初は鈐轄楊懐忠と頗る協わず。時に蜀土始めて安んず、上は其の事に臨みて矛盾するを慮り、亟に太初を召し還す。時に御史中丞趙昌言等が事に坐して劾せらるるに会い、権御史中丞を命ず。先ず是れ按劾して罪有れば、必ず予め朝旨を請う。太初は以て風憲の体を失うと為し、獄成りて然る後に上に聞こゆ。時の論之を韙とす。俄かに出でて杭州を知る。太初宿疾有り、浙右の卑湿便ならざるを以て、近地を求め、廬州を得る。疾久しく、頗る昏忘し、大郡を治むること能わず、連ねて汝・光の二州に徙る。景德四年卒す。年六十二。其の弟継譲を録して試校書郎と為す。

太初の性周愼にして、至る所に幹職の誉有り。嘗て『簡譚』三十八篇を著し、自序に略して曰く、「広平生に文史老釈の学を纂し、嘗て謂う、『礼』の中庸、伯陽の自然、釈氏の無為、其の帰一なり。古聖の道を以て当世の事に契うを喜び、而して未だ博からざるを患う。忽ち外物耳目に触れ、内機性情に発す。因って筆を以て之を簡し、以て闕忘に備うるのみ」と。

子:伝慶、後に太子中舎と為る。

盧之翰

盧之翰、字は維周、祁州の人なり。曾祖玄暉、鴻臚卿。祖知誨、天雄軍掌書記。父宏、蔡州防禦判官。之翰少く篤学し、家貧しく、単州に客遊し、防禦使劉乙の門下に館す。乙錢塘に徙るに及び、之翰随いて其の郡に寓す。太平興國四年、進士に挙げらるるも解を得ず、登聞に詣りて自ら陳す。詔して京兆府の解試に附するを聴す。明年第に登り、初めて官に就き大理評事・臨安県知事となり、三たび遷りて殿中丞、洺州通判と為る。

契丹の寇入するに会い、之翰城中の丁壮を募り、漳・御河を決して以て城壁を固めしに、虜攻むること能わず。吏民闕に詣りて借留を求む。召し還され、太常博士に遷り、河東転運副使と為り、京西転運副使に徙り、工部員外郎に改む。潩河を導きて淮に合わしめ、許州に達せしめ、以て漕運を便にすべしと建議す。労を以て戸部員外郎を加う。又た陝西転運使に改め、吏部員外郎に遷る。至道初め、李順蜀に乱る。命じて兼ねて西川安撫転運使と為す。賊平ぎ、任に還る。

之翰嘗て李憲を薦めて大理丞と為す。憲贓に坐して死に抵る。之翰三任を削らるべし。時に副使鄭文宝、清遠軍を城するを議し、又た蕃商の塩を貨するを禁ず。之翰心に其の便ならざるを知るも、文宝方に事を任ずるを以て、敢えて其の議に異ならず。文宝の罪を得るに及び、之翰前の愆に並び、左授せられて国子博士と為り、使を領すること旧の如し。尋いで旧職を復す。時に芻糧を調発して霊州に輸するに会い、詔して三道に分けて護送せしめ、洛苑使白守栄・馬紹忠に命じて其の事を領せしむ。之翰旨に違いて擅に一と為し併せ、李継遷に邀撃せられて浦洛河に於いて大いに輜重を失う。詔して国子博士王用和に乗伝して逮捕せしめ、獄に繋ぎて鞫問す。之翰坐して除名せられ、許州司馬に貶せらる。明年、起用せられて工部員外郎・同勾当陝西転運使と為る。真宗即位し、復た吏部員外郎と為り、転運使を充てる。久しく次ぐを以て、召し拝して礼部郎中と為し、金紫を賜り、復た之を任に遣わす。

咸平元年、疾を以て国子博士張誌言に代わらしめて還るを命ず。未だ幾ばくもなく、復た出でて京西転運使と為る。先ず是れ、朝廷故原州を城するを議し、以て守備す。之翰之を沮みて罷む。其の後西鄙寧からず、修葺して鎮戎軍と為す。之翰横議して便ならずと坐し、黜けられて帰州を知り、便道に之きて官に就き、限り五日にして即ち発す。三年、広南西路転運使を授く。時に広州の索湘卒するに会い、就いて改めて太常少卿・知州事と為る。之翰廉称無く、又た転運使淩策と協わず、陰に其の事を発す。五年、永州を知るに徙る。未だ行かずして卒す。年五十七。

鄭文宝

鄭文宝、字は仲賢、右千牛衛大将軍彦華の子なり。彦華初め李煜に事え、文宝蔭を以て奉礼郎を授かり、煜の子清源公仲寓の書籍を掌り、校書郎に遷る。宋に入り、煜は環衛を以て朝請に奉ず。文宝一見せんと欲するも、衛者の之を難くするを慮り、乃ち蓑を被り笠を荷い、漁者を以て見え、聖主の寛宥の意を陳べ、宜しく節を謹みて上に奉じ、他慮為すべからざるを説く。煜之を忠とす。後に広文館生を補い、深く李昉に知らる。

太平興國八年、進士第に登り、修武主簿を除く。大理評事・梓州録事参軍事に遷る。州将表して薦む。光禄寺丞に転ず。一歳留まり、代わりて帰る。著する所の文を献じ、召して翰林に試みしめ、著作佐郎・潁州通判に改む。外艱に丁し、起きて州事を知る。召し拝して殿中丞と為し、川・陝に使して均税す。渝・涪に次ぎ、夔州広武の卒の乱を謀るを聞き、乃ち舸に乗り江に泛び、一夕に数百里し、計を以て之を平ぐ。陝西転運副使を授け、便宜に従事するを許す。時に歳饑うるに会い、豪民を誘いて粟三万斛を出さしめ、饑民八万六千口を活かす。既にして李順西蜀に乱り、秦隴の賊趙包徒数千を聚め、将に趨りて剣閣に至り以て之に附せんとす。文宝書を蜀郡に移し、兵を分けて討襲し、其の渠魁を獲、余党殲せらる。

文寶は前後十二回、環慶部から糧食を運び旱海を越えて霊武に入り、蕃情に通暁し、その言語を習得し、部落を経由する毎に酋長の帳中に宿し、その人々は或いは父と呼んだ。太常博士に遷る。内侍方保吉が陝右に出使し、頗る恣横にして、且つ文寶が陳堯叟と交遊し、その弟堯佐を推薦したと称した。駅伝で召して弁対させようとしたが、途中で上書して自らを弁明した。太宗はその事を察し、保吉を罪に坐せ、文寶に厚く賜与して遣わした。俄かにまた闕下に召し至らせると、文寶の奏対は弁捷にして、上は深く眷遇した。俄かに工部員外郎を加官す。時に龍猛卒が環慶に戍し、七年も交代せず、帰郷を思い、乱を謀った。文寶は詔を矯って庫の金を将士に給し、且つ自らを劾し、代償を請うた。詔してその費用を蠲免す。

先に、諸羌部落は樹芸甚だ少なく、ただ池塩を用いて辺民と穀麦を交易していたが、饋送が霊州に赴くに当たり、継遷に鈔掠された。文寶は建議して「銀・夏の北は千里不毛にして、ただ青白塩を販売して命を繋ぐのみである。これを禁じ、商人に安邑・解県の両池塩を陝西に販売させて民食を済ますことを許すべし。官はその利を得、而して戎は益々困窮し、継遷は戦わずして屈せしめられよう」と為した。乃ち詔して陝以西より私市する者あれば皆死に抵し、告げる者を募ってその罪を差定す。これを数ヶ月行うと、犯す者益々衆し。戎人食に乏しく、相率いて辺を寇し、小康堡を屠る。内属の万余帳も亦叛く。商人の両池塩を販売する者は利少なく、多く他径を取って唐・鄧・襄・汝の間に出て善価を邀え、吏は禁ずる能わず。関・隴の民は塩無くして食し、境上騒擾す。上その事を知り、知制誥銭若水を遣わし駅伝を馳せてこれを視させ、その禁を悉く除き、諸族を召して撫諭し、乃ち定まる。

朝廷古威州に城すべく議し、内侍馮従順を遣わして文寶に訪わしむ。文寶言う。

「威州は清遠軍の西北八十里、楽山の西に在り。唐の大中時、霊武の朱叔明は長楽州を収め、邠寧の張君緒は六関を収めしは、即ちその地なり。故壘未だ圯せず、水甘く土沃にして、良木薪秸の利有り。葫蘆・臨洮の二河に約し、明沙・蕭関の両戍を圧し、東は五原を控え、北は峽口を固め、以て西涼を襟帯し、霊武を咽喉するに足る。城するに便なり。

然れども環州より伯魚に至り、伯魚より青岡に抵り、青岡より清遠に拒ぐは皆両舍にして、而して清遠は群山の口に当たり、塞門の要を扼す。芻車野宿し、行旅頓絶す。威州は城の東隅を隔て、豎石盤互し、池を浚うべからず。城中旧より井脈乏しく、又飛烏泉は城を去ること尚千余歩、一旦辺縁に警急有らば、賊平夏の勝兵三千を引き、清遠の衝に拠り、高きに乗じて険を守り、数百人をして環州甜水谷・独家族を守らしめ、箭を伝えて野狸十族し、山中の熟戸を脅従せしめば、党項孰か従わざらん。又千騎を分かちて磧北清遠軍の口を守らしめば、即ち環より霊に至る七百里の地は国家の所有に非ず、豈に威州を以て禦がんや。請う先ず伯魚・青岡・清遠の三城を建て、頓師帰重の地と為さん。

古人言う有り『金城湯池も粟なければ守る能わず』と。二年の間を俟ち、秦民息肩せば、臣請う営田を建て粟を積み辺を実らするの策を立て、五原の故城を修め、三池の塩利を専らにし、以て金帛を以て党項酋豪の子弟を啖い、朝廷の用に為さしめん。唯だ朔方を安んじ豎子を制するのみならず、安西を経営し河湟を綏復するに至るまで、此れ其の漸なり」と。

詔して其の議に従う。

文寶賀蘭山下に至り、唐室の営田旧制を見て、興復を建議し、秔稻万余斛を得べく、歳運の費を減ずべしとす。清遠は積石嶺に拠り、旱海中に在り、霊・環を去ること皆三四百里、素より水泉無し。文寶は民を発して水を数百里外より負わせ、数千人を留屯せしめ、又民を募りて榆槐雑樹及び猫狗鴉鳥を至らしむる者に厚くその直を給す。地舄鹵にして、樹皆立枯す。西民甚だ其の役を苦しみ、而して城するも能く守らず、卒に山水の為に壊される。又寧・慶州に水磑を為さしむるも、亦山水に漂去せらる。

継遷の酋長に嵬囉嵬悉俄なる者有り。文寶は金帛を以てこれを誘い、手書を以て要約し、その長子を質に留め、継遷を陰図せしめ、即ち遣わし去る。これに謂いて「事成らば、朝廷汝を以て刺史に授けん」と。文寶又預め漆木を以て函を為し、以て継遷の首を馳献するに備う。又民を発して石碑石を曳き清遠軍に詣らしめ、将に功を紀さんと図る。而して嵬囉等は尽く事を以て継遷に告ぐ。継遷上表して罪を請う。上文寶を怒るも、猶含容す。既にして文寶復た塩禁を請う。辺民法を冒して罪に抵る者甚だ衆し。太常博士席羲叟獄を陝西に決し、廉って其の事を知り、以て中丞李昌齢に語る。昌齢以て聞かしむ。文寶又解州の塩価を減ずるを奏す。未だ歳満たずして、課二十万貫を虧く。復た三司に発せらる。乃ち塩鉄副使宋太初を命じて都転運使と為し、文寶に代えて還らしめ、御史台に下して鞫問せしむ。具に伏す。詔を下して切責し、藍山令に貶す。未だ幾ばくもせず、枝江令に移す。

真宗即位し、京山に徙す。咸平中召還され、殿中丞を授かり、京南榷貨を掌る。時慶州兵を発して芻糧を護り霊州に詣る。文寶素より山川の険易を知り、上言して必ず継遷に敗れんとす。未だ幾ばくもせず、果たして其の奏の如し。転運使陳緯賊に没し、継遷進みて清遠軍を陥す。時文寶内艱に丁し、服未だ闋けず、即ち相府を命じて召し其の策略を詢わしむ。文寶因り《河西隴右図》を献じ、其の地利の本末を叙し、且つ霊州棄つべからずと言う。時方に大将王超を遣わして霊武を援けしむ。即ち文寶を復た工部員外郎とし、随軍転運使と為す。環州に至り、或いは言う霊州已に陥せりと。文寶乃ち其の服を易え、単騎を引き、大雪を冒し、間道清遠故城に抵り、尽く其の実を得、遂に班師を奏し、就いて本路転運使を除し、上疏して再び清遠軍を葺くを請う。都部署王漢忠其の好んで事を生ずと言う。遂に河東転運使に徙す。更に上言して管内の広鋭兵万余は資糧得難く、近南諸州に徙置するを請い、又強壮戸に馬を市わしめ、征役に備えんと欲す。宰相李沆等は広鋭州兵は皆本州の城を守り、営を置けば必ず安土重遷を慮い、之を徙せば即ち紛擾を致すと為す。又強壮は郷落に散処し、拘轄する所無く、其の市馬を勒むるも亦便ならざるを恐る。上復た文寶をして条対せしむ。文寶固より前議を執り、且つ土人久留すれば恐らくは或いは事を生ぜんとす。上曰く「前に団並軍伍を令し、営壁を改置せしむるは、其の互に本貫を移さしめんと欲するなり。行うこと已に久し」と。而して文寶確かに其の利を陳ぶ。因りて銭若水を命じて詳度して以て聞かしむ。若水の対する所は沆等と同じ。遂に之を罷む。

先に、麟・府に重兵を屯し、皆河東より輸饋す。地里甚だ邇けれども、河津の阻みに限らる。土人は河東の民の罕に至るを利し、則ち芻粟価を増す。上嘗て辺に使する者に訪う。言う河は才に闊きこと数十歩なりと。乃ち文寶を詔して府州・定羌軍に於いて経度し浮橋を置かしむ。人以て便と為す。会う継遷麟州を囲む。伝に乗じて晨夜之に赴かしむ。囲み解く。刑部員外郎に遷り、金紫を賜う。頃之、寇準其の西事に熟するを薦め、以て駆策に備うべしとす。因りて復た陝西転運使に任ず。嘗て手劄を出し、密かに戒めて辺事を僚属と計議し、過ぎて須索有ること勿く、重ねて下を擾わすこと勿からしむ。後に其の張皇する有りと言う者あり。詔して京西に徙し、朱台符を以て之に代う。

景德元年の冬、契丹が辺境を侵犯し、また河東に移った。文寶は配下を安んじ集め、郷兵を募り、辺境の守備を張り、また蕃漢の兵を率いて河北に赴き、手詔をもって褒め諭された。間もなく、また京西に臨んだ。契丹が和を請うと、文寶は長久の策を陳べ、上はこれを嘉した。三年、召還されたが、到着せず、病に罹り、表を奉って藩郡の散秩を求めた。詔して籍を除かずに聴き、続けて奉養して疾を養わせ、その子の鄆州推官於陵を大理寺丞・知襄城県とし、以てその養いを便ならしめた。大中祥符の初め、兵部員外郎に改めた。車駕が汾陰を祀り還ると、文寶は鄭州に至り請見した。上はその久しく疾えるを以て、忠武軍行軍司馬を除した。文寶は就かず、以前の官をもって襄城の別墅に帰った。六年、卒す。年六十一。

文寶は方略を談ずるを好み、功名を以て己が任と為した。久しく西辺に在り、兵計に参預し、心に余り有りて識足らず、又細行を護らず、延べ薦むる所の属吏甚だ多しと雖も、未だ嘗て択ばざりき。晚年病みて廃し、従子が邑を為すに、多く県政を撓せり。詩を能くし、篆書に善くし、鼓琴に工なり。集二十巻有り、又『談苑』二十巻・『江表志』三巻を撰す。

王子輿

王子輿、字は希孟、密州莒の人。曾祖の甲、義勇を以て郷人の推す所と為る。唐末、淄・青・徐・兗皆南に呉人を結びて梁に拒ぐ。梁三鎮を得て、呉人の北侵益々急なり、沂・密は尤も其の害を被る。州民聚まりて八砦を為し以て寇を払い、遂に甲を署して八砦都指揮使と為す。祖の徽、父の職を襲い、晋の末、賊帥趙重進高密を掠め、徽戦いて没す。父の璉、復た其の事を嗣ぐ。周の世宗淮南を平らげ、始めて兵を去り農に即き、厚く自ら封殖す。

子輿少くして文詞に業み、太平興国八年進士に挙げられ、褐を解きて北海主簿と為る。歴て大理評事、臨海県を知り、光禄寺丞に改む。西蜀に使い獄を決し還り、興国軍を知る。淳化中、雷有終江・浙・荊湖茶塩制置使と為り、子輿を判官と為すを奏す。転じて太子中允、著作郎に改め、江・淮・両浙制置茶塩、就いて転じて太常博士。真宗即位し、殿中侍御史に遷る。因りて入対し、三司と利害を論列し、子輿を以て長と為す。度支員外郎に転ず。子輿は毎事上計司に上り、移報稽滞するを以て、省職を兼ぬるを求め、乃ち命じて塩鉄判官と為し、仍って制置を領し、歳課五十余万貫を増す。咸平三年、就いて命じて兼ねて淮南転運使を充す。

子輿は吏事に精しく、久しく茶塩漕運を掌り、利害を周知し、裁量経制し、公私之に便なり。至る所の郡県、公事を以て申請する者、文牒紛委し、頃刻を待ちて報ずるも、子輿皆即時に決遣し、曾て凝滞無し。明年、表を奉り代を求め、詔して自ら択ぶを許す。子輿は卞袞・劉師道の名を聞き、即ち命じて袞と師道を転運使と為す。子輿を召し、右諫議大夫・戸部使に拝す。五年二月、方に便殿にて奏事するに、俄に疾発して地に仆れ、中使を命じて掖け出さしめ、第に至り卒す。子の道宗方に幼きを以て、三司判官朱台符を命じて其の家を検校せしむ。子輿は止だ一子有り、而して三女皆幼し。道宗尋いで卒す。家は楚州に寓す。子輿の妻劉は父母の家に還り、子輿の旅櫬は京師に在り、景德中、官船を借りて柩を移し、還って其の里に葬り、京師の居第を鬻ぎ、銭を以て楚州の官庫に寄せ、以て三女の資送に備う。其の従弟の請に従うなり。

劉綜

劉綜、字は居正、河中虞郷の人。少くして外兄の通遠軍使董遵誨に依る。遵誨嘗て馬を貢するを遣わす。太祖其の敏弁を嘉し、将に三班の職を授けんとす。綜自ら陳ぶ、素より詞業を習い、願わくば科挙に応ぜんと。還るに及び、上は真珠盤龍衣を解きて以て遵誨に賜わんとす。綜辞して曰く、「遵誨人臣たり、安んぞ敢えて此の賜に当たらんや」と。上曰く、「吾遵誨を以て方面に委ぬ、此を以て疑わず」と。

雍熙二年、進士第に挙げられ、褐を解きて邛州軍事推官と為る。就いて改めて永康軍判官、遷って大理評事・眉州通判、転じて太僕寺丞。代わり還り、便殿に対し、因りて言う、「蜀地富庶にして、安寧久し、益州の長吏、望むらくは慎みて其の人を択べ」と。上之を嘉し、太子中允に改む。未だ幾ばくもせず、李順果たして乱を為す。復た召見し、面を賜いて緋魚す。尋いで三門発運司水陸転運使、大名府通判と為る。連ねて家難に丁し、起きて建安軍を知る。

先ず是れ、天長軍及び揚州六合県の民賦を輸するに便ならず。綜奏請して天長軍を降して県と為し、揚州に隷し、六合県を以て建安軍に隷せしむ。是より民力均しく済う。時に淮南転運使王嗣宗発運事を兼ね、規画多く迂滞す。綜因りて上言し、復た都大発運司を置き、専ら其の職を幹せんことを請う。至道二年、太常丞に遷り、職事修め挙げ、之を称薦する者多し。

咸平の初め、命じて王欽若に代わり三司都理欠憑由司を判ぜしめ、出でて河北転運副使と為る。嘗て言う、「州県の幕職官、昏耄を以て放罷せらるる者、其の間に実に廉謹の士有り、或いは幼累託る無く、或いは居止定まり無く、全く禄廩を藉り以て朝夕を済わす。一旦停罷せらるれば、則ち饑寒依る無く、以て和気を傷つく。望むらくは今より並びに致仕官を除かん」と。又言う、「法官の獄を断ずるや、皆律令の文を引き、以て軽重の罪を定む。其の奏御に及び、復た云う、慮り未だ中を得ずと、別に進止を取るは、殊に一成不変の道に非ず、且つ復た聖断に煩わし。望むらくは今より旨を降して約束し、復た然るを得ざらしめん」と。時に河北兵寇の後を承け、民戸凋弊し、吏部の銓する所の幕職州県官皆四方の人、風俗を習わず、且つ土を懐うの思有り、是を以て政事多く因循して挙がらず。綜建議して請う、今より並びに河朔の人を以て之を充て、其の安居を冀い、職事に勤まんことを。

夏人西辺を擾し、環慶大いに士馬を屯す。詔して綜を徙めて陝西転運副使と為し、転じて太常博士。時に梁鼎解塩を禁じ、官自ら貨鬻せんことを議す。乃ち綜と杜承睿を命じて青白塩事を制置せしむ。綜条上して利害をし、力を尽くして便ならざるを言い、卒いて其の事を罷む。時に霊州孤危、献言する者或いは之を棄てんことを請う。綜上言して曰く、「国家の財力雄富、士卒精鋭なりと雖も、而して凶孽を剪除し能わざるは、誠に賞罰未だ行わず、而して任ずる所其の材に非ざるが故なり。今或いは軽く群議に従い、霊川を棄てんと欲するは、是れ賊の奸計に中るなり。且つ霊州は民淳く土沃み、西陲の巨屏と為り、宜しく固く守り、以て扞蔽と為すべし。然る後に浦洛河に軍城を建て、兵を屯め糧を積みて之が応援と為す、此れ暫く労して永く逸するの勢なり。況んや鎮戎軍は霊州と相接す、今若し之を棄つれば、則ち原・渭等州益々設備を須うべく、其の労費を較ぶれば十倍して多く、則ち利害の理昭然として験すべし」と。俄かに転運使を充す。

四年、また鎮戎軍に屯田務を設置することを建議し、また唐の『安國鎮制置城壕鎮戎古記』の石本を写して進上し、詔してその請いに従う。まもなく闕に詣で、奏事が旨にかなうと、金紫・緡銭五十万を賜り、再び職を莅むことを遣わされる。また嘗て言う、「天下の州郡の長吏は、審官が皆資例に拠って授けるが、適材を得ていない。今後、西川・荊湖・江・浙・福建・広南の知州は、あるいは地が津要に居り、あるいは戸口繁庶の処は、望むらくは親しく選任を加えられたい。その執政の旧臣及び給事中・舎人以上の知州の処も、また官を通判する者を選ぶ。また京朝官で遠官に任ずべき者は、率ね父母未葬を以て辞とし、規免を求める意がある。請う、今後父母委しく未葬の者は、告を請うて営辦することを許す。審官が状を投ずるには、並びに明らかに父母已葬を言い、方に例に依って考課することを許し、違う者は並びにその官を罷むることを」。これに従う。

五年、工部員外郎兼侍御史知雑事を拝す。六年、起居舎人に遷り、再び河北転運使となる。時に両河用兵し、辺事煩急にして、転漕の任は、特に倚んで辦ずる所となる。綜は継いでその職を領し、詳練と号せられる。ここに至り眷矚甚だ厚く、警急の際には、輒ちその奏処を資とする。契丹和を請うと、乃ち近臣を遣わして擢用の意を諭す。景德三年、召して戸部員外郎・枢密直学士・勾当三班院を拝す。綜言う、「御史の員数至って少なく、毎たび朝請を奉じ、制獄を劾するに、多く他官を以てこれを承け、甚だ彝制を紊す。望むらくは詔して両制以上各々材御史に堪える者を挙げて充て、三院合わせて十員を置く。もし出使して獄を按ずるには、経る所の州郡の、官吏の能ふと否と、生民の利病、刑獄の枉濫、悉く察挙を得ることを」。四年、西幸し、道河陽の境上に出ず。時に節度使王顯疾を被り還京す。綜を以て孟州事を権知す。未だ幾ばくもなく召し還り、復た出でて幷州を知り、政績を以て聞こゆ。州民留まることを乞い、優詔して嘉獎す。朝に帰り、審官院を知り、吏部・礼部二郎中に改め、職を充て、兼ねて通進・銀台・封駁司を知る。

大中祥符四年、契丹使を館伴し、因りて『大雪歌』を作りて献ず。即ち命じて同知貢挙と為し、李宗諤を以て代わりに館伴使と為す。まもなく開封府を権知す。綜は貴要の富民と交結し、その為に請求し、あるいは親属と托して、試秩を奏授し、これに縁り官司を謁見し、頗る公政を紊すを以て、因りて建議して抑止を加うることを請う。また文武官遠任に居りて、家属京師に寓する者、その子孫弟侄無頼の者は、望むらくは厳に行いを約束し、並びにその交遊輩を劾罪すべし、これに従う。七年、老疾を以て河中を典むることを求む。真宗、太寧宮廟の長吏祠を奉ずるに、綜は拝起に艱しく、恭事に克たざるを慮り、廬州を知らしむ。明年、学士を罷め、右諫議大夫を授く。八年卒す。年六十一。

綜は強敏にして吏材有り、至る所豪右を抑挫し、文法を振挙し、時に幹治と称せらる。然れども気を尚びて勝ちを好み、物論に許されず。子建中・正中、並びに賛善大夫。弟綽、淳化三年の進士、官は刑部郎中。

卞袞

卞袞、字は垂象、益州成都の人。父震、詩を作るに工なり。蜀の進士に挙げられ、渝州刺史南光海辟いて判官と為す。蜀平らぎ、仍って旧職。会うに賊杜承褒衆を率いて城を囲み、援兵至らず、震躬ら士卒を率い、且つ戦い且つ拒ぎ、流矢に中り、創甚だしく、軍に臨むこと能わず。而して州兵重傷し、甲を巻きて宵遁す。刺史陳文襲遏むこと能わず、賊遂に郡城を拠いるに入り、偽官を以て厚く賄し震を誘う。震皆その使を斬る。賊に東章と云う者あり、本州の兵校なり。因りて人を遣わして朝廷の威徳を述べ、禍福を以て諭す。章懼れ且つ信じ、因りて伏兵をしてその党類を撃たしむ。承褒の衆素より備えず、即時に大潰す。震と文襲余卒を分部して之を夾攻し、賊衆遂に平らぐ。文襲州城を陷失せるに坐し、籍を削りて民と為す。震は以前の功を以て贖うを得、虢州録事参軍として卒す。

太平興国八年、袞進士第に登り、累遷して大理評事・将楽県知県、光禄寺丞・泗州通判に改む。著作佐郎・広南転運司承受公事に遷り、まもなく宣州通判。淳化中、上命じて庶僚の中廉幹なる者を采り、御書印紙を給し、俾くに課最を書かしめ、仍って実奉を賜いて以て之を旌異す。袞これに預かる。太常丞に改む。咸平初、監察御史に遷り、淮南転運副使・同荊湖発運使と為り、幹職を以て聞こえ、就いて殿中侍御史を加う。入りて三司開拆司を判し、再び淮南転運使兼発運使と為る。咸平六年、三司使の職を併せて副貳を分置し、袞を以て刑部員外郎と為し、塩鉄副使を充てる。景德初、疽背に発して卒す。年四十五。その弟扆を録して臨潁主簿と為し、子鹹を将作監主簿と為す。

袞は明敏にして吏幹有り、累ね財賦を掌り、心を清くして局を治め、称職と号せらる。然れども性惨毒にして、掊克峻厳、専ら捶楚に事え、至って『大虫』の号有り。真宗嘗て近臣に謂いて曰く、「袞は公忠にして瘁を尽くし、畏避する所無く、人及ぶこと罕なり。然れども頃在外任、頗る残酷を傷け、至る所の州県、繊微の過ち、容貸する所無し。大凡そ部下を督察し、愆違を糾逖するは、大故有るに非ざれば、矜恕すべく、官吏自ずから威を畏れ恩を懐き、敢えて過ちを貳せず、公家の事も亦済わざる無し。乃ち知る、吏と為るの方、中に適うを善と為すことを」。

許驤

許驤、字は允升、世家は薊州。祖信、父唐、世々財を以て辺郡に雄たり。後唐の季、唐契丹将に辺を擾わんとするを知り、その父に白して曰く、「今国政廃弛し、狄人必ず釁に乗じて動かば、則ち朔・易の地、民その災いに罹らん。苟も即ち去らざれば、且つ虜と為らん」。信は資産富殖を以て、他に徙るを楽しまず、唐遂に潜かに百金を齎して南す。未だ幾ばくもなく、晋祖革命し、果たして燕・薊を以て契丹に賂し、唐の帰路遂に絶つ。嘗て商貲を汴・洛の間に擁し、進士綴行して出づるを見て、窃かに歎じて曰く、「子を生むには当に此の如くせしむべし」。因りて復た行賈せず、睢陽に卜居し、李氏の女を娶り、驤を生む。風骨秀異。唐曰く、「吾が志を成せり」。

郡人戚同文経術を以て徒を聚む。唐驤を携えて之に詣り、且つ曰く、「唐、頃者父母に辞せず、死して余恨有り。今先生に拝し、即ち吾が父なり。又自ら学ばざるを念い、子を教えて以て宗緒を興さんことを思う。此の子幼しと雖も、願わくは先生之を成せ」。驤十三にして文を属する能く、詞賦を善くす。唐は字を識らずして、家産を罄いて驤の為に当時の秀彦と交わらしむ。

驤は太平興国初年に貢部に詣で、呂蒙正と名を並べ、太宗が京尹であった時、よく知られていた。廷試に及んで甲科に擢でられ、解褐して将作監丞・益州通判となり、銭二十万を賜った。右賛善大夫に遷る。五年、右拾遺・直史館に転じ、右補闕に改める。六年、出て陝府西北路転運副使となる。副使が罷められるに会い、鄜州知州に徙る。召還されて比部員外郎となる。宣州・升州の二州を知るを歴る。雍熙二年、江南転運副使に改める。洪州・吉州の上供運船が水損物を生じ、主吏は罪を懼れて故意に舟を覆し、獄を鞫うる者は欺盗を按じて、流死に当たる者数百人となった。驤は馳せ往きて訊問し、その情実を得て以て聞こえ、多く軽典を得しめ、優詔を以てこれを褒めた。また上言す、「劫盗配流の者、赦に遇って原を得、本郷に還り、告捕者を讎うて、多く殺害を為す、今より請うに軍に隷せしむるを以てす」と。詔して可とす。正使に遷る。端拱初年、主客郎中を拝し、俄かに福州知州に徙る。累表して還るを求め、報を俟たず、朝に入り、便殿に召対し、延いて良久に問う。兵部郎中に改め、西川転運使を領し、久しく外任に処るを以て辞と為し、右諫議大夫に擢授し、就いて益州知州を命ず。召し帰り、上言す、「蜀民は浮窳にして動揺し易し、宜しく忠厚なる者を択びてこれを撫すべく、予備を為す」と。既にして李順叛き、衆は頗るその先見に伏す。審官院知事を命じ、御史中丞に遷る。疾を以て固く譲るも、許さず。占謝の日、坐を命じて労問し、良薬を出してこれを賜い、「此れ朕の服して験を得たる者なり」と言う。後ち驤は久病を以て職を振るう能わず。真宗即位し、兵部侍郎に改む。屡々小郡を求めて疾を養い、因りて朝に入り儀を失い、御史の糾する所と為るも、特詔して問わず、単州知州を命ず。咸平二年卒す、年五十七。工部尚書を贈る。その子宗寿に出身を賜う。

驤は他に才略無きも、人は儒厚の長者と称す。宗寿は後に殿中丞となる。

裴莊

裴莊、字は端己、閬州閬中の人。曾祖琛、後唐の昭州刺史。祖遠、河東観察支使。父全福、鄠県令。莊は蜀に在り、明経に登第す。宋に帰し、虹県尉・高陵主簿を歴り、本府召して権司理掾を為す。転運使雷徳驤は威望を以て自ら任じ、嘗て巡按して境に至る、官属は皆出で迎候す。莊独り本局に視事し、徐ろに道周に謁す、徳驤はその守有るを称す。権忻州録事参軍に徙る。先ず、へい州は積年の軍儲を蓄え、条制甚だ峻し、出納を掌る者常に十余人、及び莊之に代わる、独りその事を任ず。絳州防禦推官に擢授し、并・嵐二州の緡帛芻糧を提点し、遼州判官に改め、仍って旧局に蒞る。

雍熙三年、将を命じて辺を巡らし、莊を以て随軍糧料を掌らしむ。内客省使楊守一これを称薦し、大理寺丞を授く。時に雲・朔の降戸を汝・洛に遷し、莊を遣わしてこれを安輯す。俄かに忻州通判となり、未だ上道せず、会に魏咸信出でて澶州を鎮む、改めて通判を命ず。未だ年を逾えず、咸信その能を表し、太子中允に遷る。端拱初年、潘美真定を鎮め、又辟いて通判と為す。時に契丹趙・深を掠め、辺将功無し、莊上書して以て「周世宗樊愛能・何徽の二将を誅し、遂に淮南を取り、巴蜀はしょくを克つ。願わくは陛下紀律を申明し、寇を玩ばしむること無からしめよ」と為す。又言う、「縁辺の砦柵戍兵既に寡く、戎人襲い取り易し、皆請うて廃罷し、以て州兵を益す」と。会に詔して方田を建つ、莊復た上言す、「大いに兵師を役し、辺鄙に事を生ずるを慮う」と。上これを善しとす。

淳化三年、辺事を以て訪ね召し、旨に称し、面して緋魚を賜い、清資官を授けしむ。翌日、監察御史・荊湖南路転運使を拝す。未だ行かず、三司塩鉄判官に改む。上疏して両省官に諫紙を与うるを請い、又故事を引き、屠月には重刑を報ずる勿からしむ。会に劉式建議して縁江の榷務を廃するを請う、莊力言してその便ならざるを為す。出でて荊湖北路転運使と為る。五年、李順蜀に乱し、命じて雷有終と並びに峡路随軍転運・同知兵馬事を兼ねしむ。或いは言う、莊は本蜀の人、此の任に宜しからずと、上益々倚信し、便宜を許す。事平ぎ、殿中侍御史に転じ、工部・司封の二員外郎を歴り、特詔して討賊の方略を問う。

至道二年、将を遣わし五路より出でて李継遷を討たしむ、莊は陰に師の出でて功無きを料り、因りて継遷に恩を加うるを請い、その倔強にして命を拒ぐを俟ち、則ち甲を按じて塞外にし、俘擒するは未だ晩しからずとす。既にして諸将果たして敗績す。俄かに祠部郎中に遷る。真宗即位し、度支に遷り、河東転運使を充てる。上章して言う、「慶・邠・延州・通遠軍は、皆辺要に処る、武幹の姚内斌・董遵誨の如き者を請うてこれを任ぜしめよ」と。又言う、「田紹斌は嘗て疑われ、韓崇業は本秦王の婿、程徳玄は始め晋邸に事え、初めは甚だ親近し、後ち疏遠外遷し、皆怨望を懐く、宜しく戎寄を委すべからず」と。未だ幾ばくもなく、蘇州知州に移る。

咸平二年、命じて江南を巡撫す。使い還り、池州・興国軍は良吏を得、余は称するに足る者無しと言う。且つ言う、「朝廷の命ずる所の知州・通判は、率ね資考を以て授け、至っては因循偷安し、政術無くして継いで親民を得る者有り。その素より公器を蘊み政績有る者は、偶々公坐に縁り、則ち冗務を司どるに黜けられ、真偽弁ぜず、僥幸甚だし。今より望むらくは慎みてその人を選び、資格を以て補授せず、政績有る者には恩礼を加えよ」と。

是の年秋、契丹塞を犯し、命じて河北転運使と為す。時に傅潜大軍を統べて定州の北に駐す、莊屡々条奏してその謀略無きを為し、或いは機を失うるを慮う。会に王顕枢密を掌る、顕と潜は俱に攀附より起り、頗るこれを庇う。莊の奏至るも、多く報ぜず。越州知州に徙る。俄かに傅潜罪を得、莊因りて上言す、「顕・潜は皆材に非ず、辺事を誤らしむ、請う行って厳誅を加え、以て群議を粛せしめよ」と。未だ幾ばくもなく、宣州知州に徙る。会に詔して百辟に封を上り直言せしむ、莊四事を条列す:一に暴征を去る、二に煩刑を省く、三に吏職を択ぶ、四に稼政を敦む。疏奏し、詔してその宜く行う所の先後を開陳せしむ、莊の対甚だ悉し。司封郎中に改む。景德初年、命じて両浙を安撫し、能吏二十人、慢官者五人を奏し、多く升黜す。又潞州・邢州の二州を知る。

大中祥符初年東封し、鴻臚少卿に改め、入りて登聞鼓院を判ず。汾陰に祀り、太僕少卿に遷り、北嶽加号冊礼副使と為り、《北行記》三巻を撰して以て献ず。六年、出でて襄州を知る。明年、車駕南京に幸す、莊は太宗に逮事する恩例を以て、太府卿を授け、権判西京留司御史台と為す。天禧二年、入りて刑部を判じ、疾を以て西京に分司す。郊祀し、光禄卿に改め、上都に帰るを求め、以て医薬に便ならしむ。卒す、年八十一。その孫慶孫を録し、将作監主簿を試みしむ。

莊は吏幹有り、頗る清操無く、慷慨敢言、太宗その忠讜を奨め、多く聴納す。規画を為すを好むも、然れども学術寡し。嘗て建議して広聴院西垣学士を置くを請い、聞く者これを嗤う。晚年退居し、棺櫝を製して以て自ら随う。賓客を接するを喜び、終日倦むこと無し。子奐、咸平三年進士、屯田郎中;稷、左班殿直・閣門祗候。

牛冕

牛冕、字は君儀、徐州彭城の人。太平興國三年の進士、初任は将作監丞・郴州通判、和州に移る。左讚善大夫を加えられ、太常丞に遷り滁州知事となり、勤政をもって聞こえた。召還されて監察御史に転ず。

端拱元年、文章の試験を受け、左正言・直史館に遷る。潤州知事として出向、泉州に移るが未着のうちに福建轉運使に任命され、左司諫を加えられる。邵武軍歸化の金坑を廃止するよう建議し、土人はこれを便利とした。至道初年、召されて入朝し、兵部員外郎に進み、潭州知事となる。郡に着いて数日で、また召されて兼侍御史知雜事に任ぜられる。

真宗が東宮にあった時、冕はかつて使を奉じて生辰の礼幣を賜ったことがあり、即位後もその名を覚えており、工部郎中に改める。永熙陵の復土の際、中丞が欠員であったので、儀仗使に命ぜられる。当時三司はそれぞれ官局を設け、多くは均斉を欠いていた。冕は合して一使とし、その副を分設すれば、事務煩雑でなくとも処理できると請うた。その後、ついに冕の議を用いた。

咸平元年、選ばれて益州知事となり、右諫議大夫を拝する。両川は李順平定後、民は困苦に陥り、その業に安んぜず、朝廷の矜恤も緩やかであったので、戍卒が符昭壽の暴虐に乗じ、嘯集して乱をなした。冕は轉運使張適とともに城を委して漢州に奔る。詔して闕に赴かしめ、京兆に至り、その罪を劾し、ともに官籍を削る。冕は儋州に流され、適は連州参軍となる。冕は赦に遇い、欽・英二州に移り、鄂・海二州別駕、淮南節度副使を歴任する。

大中祥符初年、真宗は宰相に語って曰く、「冕は素より純善なり、黜棄されて久しい。量り宜しく甄敘すべし」と。すなわち起用して漣水軍知事とし、まもなくまた祠部員外郎となり、卒す。年六十四。子の昭儉は殿中丞に至る。

張適

張適は、太平興國五年の進士。藩郡に任じ、治績あり、廉敏をもって称せられる。水部員外郎・鄜州知事となる。対を得て、太宗はその詞気の俊邁を喜び、緋魚を賜う。まもなく京東轉運副使に改め、直集賢院を加えられ、一日に三たび寵渥を被り、時人はこれを栄しとした。西川轉運使に移り、坐して貶せられる。後、起用されて彰信軍節度副使・淮陽軍知事となり、卒す。

欒崇吉

欒崇吉、字は世昌、開封封丘の人。少くして吏部令史となり、上書して事を言い、調補されて臨淄主簿となる。会に県令が贓罪で敗れるや、すなわち崇吉を命じてこれに代えしむ。また書判優等により、舒州團練判官に改める。未だ行かず、留まって中書刑房堂後官とし、太子右讚善大夫に改め、出て揚州榷務を掌る。未幾、殿中丞に遷り、また堂後官兼提点五房公事となる。

崇吉は文法に明習し、清白に勤事す。至道初年、擢て度支員外郎・度支副使とす。時に堂後官著作佐郎楊文質を秘書丞・提点五房事とす。上召見して曰く、「汝は欒崇吉の擢用を見るや。自ら勖勵すべし」と。崇吉はまもなく祠部郎中を加えられる。真宗の時、累擢して江南轉運使となる。代還して刑部を判し、鼓司・登聞院を兼ねる。後、司農少卿に遷り洪州知事となる。有司は歳ごとに民財を斂めて舟を造っていたが、崇吉の至るところ、奏してこれを罷む。疾を以て濠州に移り、衛尉少卿に遷り、将作監を以て致仕し、卒す。子二人:源は虞部員外郎。沂は殿中丞。

袁逢吉

袁逢吉、字は延之、開封鄢陵の人。曾祖の儀は唐に仕え、軍功をもって黄州刺史に至る。祖の光甫は尉氏令。父の蟾は大理評事。逢吉は四歳にして『爾雅』・『孝経』を誦し、七歳で兼ねて『論語』・『尚書』を通ず。周の太祖召見し、篇を発してこれを試み、束帛を賜いその精習を賞す。開寶八年、『三伝』に及第し、初任は清江尉。知州王明その能を薦め、就いて除して豊城令とす。明年、また轉運使張去華とともに治状を条上し、『春秋』博士として召される。端拱初年、国子博士・度支推官に遷る。また戸部勾院・度支・憑由理欠司を判ず。淳化年中、戸部判官に改む。水部・司門員外郎を歴任。出て西京轉運使となり、水部郎中に転ず。宰相呂蒙正その経術有るを称し、学官に任ずべしとす。会に蜀が叛し、その吏資を籍して西川轉運使に授けんとす。至道初年、荊湖北路に移す。時に賊方に平らぎ、夔・峡にはなお官軍が聚まり、供饋は荊楚より出づ。逢吉は遠渉を憚り、軍前に赴いて計度せず、糧餉を乏くした罪に坐し、職を罷められ夔州知事となる。会に使を遣わして川・陝を采訪す。因って条上して知州・通判に治跡有る者七人、逢吉と朱協・李虚己・薛顔・邵曄・査道・劉檢とこれに預かる。皆詔を賜い褒諭す。司門・庫部の二郎中を歴任。

咸平年中、また京東轉運使となり、連ねて福・江・陳・襄の四州を知る。大中祥符年中、権西京留司御史臺、汝州知事に移り、太祖に事えたことを以て、鴻臚少卿を拝す。七年、卒す。年六十九。

逢吉は性修謹にして、時務に練達す。初め、鄆州の牧馬草地が民田数百頃を侵し、牒訴連ねて上り、凡そ五たび使を遣わして按視するも決せず。逢吉命を受けて往くや、則ち侵したる田を悉く還し、民皆これを徳とす。兄の及甫は京東・峡路轉運副使を歴任し、駕部郎中に至る。逢吉の子成務は比部員外郎・京東轉運副使に至る。從子の楚材は虞部員外郎に至る。

韓國華

韓國華、字は光弼、相州安陽の人である。太平興国二年に進士に挙げられ、初めて官に就き大理評事・瀘州通判となり、そのまま右賛善大夫に昇進した。任期を終えて帰還すると、彰徳軍節度判官に任じられた。著作佐郎・監察御史に転じた。

雍熙年間、太常少卿を仮として高麗に使した。時に太宗は北征を企てており、高麗が遼の国境に接し、しばしばその侵掠を受けていることから、詔を携えてこれを諭し、かつ兵を発して西で合流するよう命じた。到着すると、その風俗は甚だ獰猛で傲慢であり、険阻を恃んで遷延し、直ちに詔を奉じなかった。国華は檄を移し、朝廷の威徳を以て諭し、速やかに臣節を守るべきであり、然らずんば天兵東下し、責めを逃れる術なからんことを告げた。ここにおいて彼らは俯伏して命を聴いた。使節として帰還し、緋魚袋を賜った。雍熙三年、右拾遺・直史館に改められ、鼓司・登聞院を判じ、まもなく三司開拆推官を充てられた。四年、本司を判じ、左司諫に転じ、塩鉄判官を充てた。

淳化二年、契丹が和を請うたが、朝議はその真実を疑い、国華を河朔に使わしてこれを察せしめた。到着すると、その詐偽をことごとく得て上聞した。毎年後苑で花を賞でる宴には、三館の学士は皆参預することができた。三年の春、国華と潘太初は対面の機会に因り、自ら両省の清官に任じかつ計司の職を兼ねているのに、曲宴に侍することができないと述べ、館職を兼ねることを願った。即日に命じてともに直昭文館とした。二日後、苑宴に陪預した。三司の属官が館職を兼直するのは、国華らから始まった。まもなく、刑部員外郎を授かり、三司勾院を判じ、再び塩鉄判官となり、また左計判官となり、まもなく三勾を都判し、金紫を賜り、兵部員外郎・屯田郎中・京東転運使に改められ、陝西路に転じた。旧制では、川・陝の官の俸給は、全て鉄銭で支給され、資用が乏しいことが多かったので、国華はその数を増やすよう上奏した。都官郎中を加えられ、入朝して大理寺を判じ、職方郎中に改められた。詳定が中正を失ったため、命じて梁顥に代わらせた。河陽・潞州の知事となり、転運使がその善く綏輯し、供億を幹弁することを上言したので、詔してこれを褒賞した。

景德年間、秘書監を仮として契丹に使し、また江南巡撫となり、入朝して開封府判官を権知した。真宗が陵に詣でる際、魏咸信が曹州から召し出されて扈従したので、国華に州事を権知させた。まもなく太常少卿に改められ、出て泉州知事となった。大中祥符初年、右諫議大夫に転じた。四年、任期を終えて帰還する途中、建州に至り、伝舎で卒した。五十五歳。その子の充に科挙の出身を賜った。

国華は儀表が立派で、性質は純直であり、時に誉れがあった。子に、琚・璩・琦があり、いずれも進士及第した。琦は英宗・神宗の宰相となり、独自の伝がある。

何蒙

何蒙、字は叔昭、洪州の人である。若くして『春秋左氏伝』に精通した。李煜の時、進士に挙げられず、書を献じて事を言上したため、録事参軍に任じられた。宋に入り、洺州推官を授かった。太平興国五年、遂寧令に転じた。時に太宗が契丹親征から還り、詩を作って献上した。召見されて賞歎され、右賛善大夫を授かり、三転して水部員外郎・廬州通判となった。時に郡中で火災があり、官舎が焼け、専売事務所も全て焼失した。蒙は民の器物を借り、隣郡から酒用の米を借りて酒を造り、やがて税収が倍増した。戸部使がその状況を上奏すると、詔して銭を賜りこれを褒賞した。やがて司門に転じた。巡撫使潘慎修がその才敏を推薦し、駅伝で召し出されて京に至り、対面に因り、江・淮の茶法について諮問されると、蒙は利害を条奏して旨に叶い、緋魚袋と銭十万を賜った。二日後再び対面し、また淮南の酒専売の便宜を上奏し、特に庫部に改められ、さらに銭二十万を賜り、淮右に至ってその事を総提するよう命じられた。これより毎年余剰の利益があった。使節として帰還し、温州知事となったが、赴任せず、留まって在京諸司庫務を提挙した。外任を求め、再び命じて温州知事となった。挙人が不適当であったことに坐し、一官を削られた。

真宗が即位すると、前の官位を回復し、上言して淮南の塩禁を開くことを請うた。時に卞袞・楊允恭らがちょうど塩禁を便宜とすることを主張し、共にこれを排抑したため、出て梧州知事となった。ほどなく、水部郎中に改め、著した『兵機要類』十巻を上った。時に審官が漢陽軍知事に擬し、引見対面すると、鄂州知事に改められた。大中祥符初年、庫部に転じた。四年、太府少卿を加えられた。まもなく、太平州知事となり、また袁州知事となった。州民は多く金を採ったが、蒙は建議してこれをもって租税に代えることを請うた。上は「もしそうすれば農は業を廃するであろう」と言って許さなかった。まもなく濠州に転じた。六年、上表して致事を謝し、光禄少卿を授けられて致仕したが、命令が下る前に卒した。七十七歳。

慎知礼

慎知礼、衢州信安の人である。父の温其は詞学があり、銭俶に仕え、元帥府判官で終わった。知礼は幼くして学を好み、十八歳の時、書を献じて俶に干謁し、校書郎に任じられた。まもなく、掌書記に命じられた。

宋の初め、俶の子惟済の入覲に介添えし、帰還すると、営田副使に任じられた。太平興国三年、俶に従って帰朝し、鴻臚卿を授かった。陳州・興元府の知事を歴任した。知礼の母は八十余歳で、宛丘に住んでいたため、懇願して帰養を求めた。退処すること十年、縉紳はその孝を称えた。母の喪が明けると、上表して禄を納めることを請うた。至道三年、工部侍郎をもって致仕した。知礼は幼少から白首に至るまで、毎年『五経』を読み、一周してからやめた。巻を開くごとに必ず衣冠を正して端坐し、少しも懈怠することがなかった。咸平初年に卒した。七十一歳。子に従吉がある。

子 従吉

従吉、字は慶之、銭俶の婿である。元帥府長史となった。宋に帰順し、将作少監に任じられた。時に朝士で声望ある者を選んで少列を補うこととなり、太子右庶子に改められた。真宗が皇太子となると、衛尉少卿に換えた。真宗が即位すると、再び右庶子となり、詹事に転じた。従吉は帰朝以来、散官の地位にほぼ三十年居り、よく文酒をもって自ら楽しみ、士大夫多くこれと交遊した。景德初年、上言して事務を領することを求め、刑部を判じた。法律にかなり留意し、便宜を条上し、天下から奏上される成案は多く糾駁し、本司に積もっている負犯人の告身を売却し、それで什器を購入した。

大中祥符初年、改めて衛尉卿を授かり、在京刑獄を糾察し、右諫議大夫に拝され、吏部銓を判じた。初め、選人が判を試みる際は多く地面に藉りて坐っていたが、従吉は公銭で莞席を買い与えた。事に臨んで敏速であり、公家に心を勤め、任地では務めて察し、多く請対して事を陳べ、上はその隠さざるところを評価した。

八年、給事中に改め、権知開封府を兼ねる。命を受けた後、召されて戒められて曰く、「京府は浩穰にして、凡そ事太だ速やかなれば則ち誤り、太だ緩やかなれば則ち滞る。惟だ中を酌むを須いるのみ。請属は一も受けざれ」と。僅か数ヶ月にして、咸平県の民張斌の妻盧氏有り、甥の質が酒に酔って詬悖するを訴う。張は素より豪族、質は本養子なりしが、証左明白にして、質は吏に賄す。従吉の子大理寺丞鋭は時に石塘河の運送を監督し、咸平に往来し、県宰に請いて、質を復た劉姓と断じ、第に盧と同居せしむ。質及び盧は迭りに訟を為し、県は府に聞く。従吉は戸曹参そうしん軍呂楷を命じて県に就き推問せしむ。盧の従叔虢略尉昭一は白金三百両を楷に賂し、楷は久しく決せず。盧の兄文質は又た銭七十万を従吉の長子大理寺丞鈞に納め、鈞は其の事を従吉に白くして、其の受けたる所を隠す。盧は又た府に詣でて列訴し、即ち其の事を右軍巡院に下す。昭一の兄澄は嘗て手書を以て銭惟演に達し、云く「従吉に寄語せよ、事鈞・鋭に逮ばんとす、之を緩めよ」と。従吉は頗る疑懼し、密かに御史台に付するを請う。即ち詔して御史王奇・直史館梁固に之を鞫わしむ。獄成り、従吉は坐して給事を削り勒停せられ、惟演は翰林学士を罷められ、楷・鈞は官を免ぜられ、衡州・郢州に配隷せられ、鋭・文質は皆一官を削られ、澄・昭一は並びに決杖して配隷せらる。

又た高清なる者、庫部郎中士宏の子、景德中に進士に挙げられ、宰相寇準は弟の女を以て之に妻せしむ。寇氏卒し、故相李沆の家復た之に婿す。子官は賄を以て聞こえ、頗る姻援を恃みて驕縱し、被服公侯の家の如く、是を以て小民を欺蠹す。太康県を知り、民に府に詣でて家産を訴うる者有り、清は其の賄を納む。時に已に任を罷められ、即ち他所に逃居す。鋭は嘗て清に就き白金七十両を貸し、清は多に賄賂を納め、事将に敗れんとし、以て助けを求む。時に方に盧氏の獄を鞫う。従吉は対を請い、其の事を発し、以て自ら解かんと欲す。清等を逮えて獄に繫ぎ、比部員外郎劉宗吉・御史江仲甫を命じて之を劾せしむ。清は枉法にして死に当たるも、特杖脊げい面し、沙門島に配す。鋭は又た衛尉寺丞を削らる。従吉は坐して首露已に発するに在り、銅を贖うに当たるも、特諫議大夫を削らる。天禧三年、起して衛尉卿と為す。明年、登聞鼓院を判ず。寇準と親善するに坐し、光禄卿を以て致仕す。未幾卒す、年七十。

従吉は詩を為すを喜び、時に警語有り。兼ねて医術に工なり。子孫仕に登る者甚だ衆く、第進士朝に升り朱紱を曳く者数人。家は財に富み、尤も能く生を治め、多く負販の器を造り僦賃し、以て市に棺櫝を鬻ぐに至る。又た善く饌具を為し、権要に分遺す。晚年進趨弥だ篤く、以て敗るるに至り、物論之を鄙む。子鏞、金部度支員外郎・秘閣校理。鍇、太常博士。

論じて曰く、八政の首は食貨、国家の経費は一日も無きべからざるを以てなり。然れども之を生むに道有りて之を用うるに節有れば、則ち其の人に存するのみ。張鑑は命を西蜀に将り、処製宜しきを得、庶幾くは権を行なうべし。子輿は経制を裁損し、索湘は茶の鬻を罷むるを議し、許驤は儒行を謹み守り、知禮は経学に篤く信じ、國華は君命を辱しめず、皆足れりと称すべき者有り。太初は自ら性命の蘊を達せりと謂うも、而して卒に釈・老の帰に流れ、文寶は久しく辺郡に任ずるも、而して免れずして生事を以て黜せられ、劉綜は朔・易に労を著すも而して経術に短く、従吉は公務に勤むるも而して子を訓うるに疎し、固より未だ尽善を得たりと為すべからず。自余の諸子、之翰は潔白の操を虧き、卞袞は仁恕の道に乏しく、冕之は其の城守を棄て、坦之は輔導に疎し、則ち君子の取らざる所なり。