宋史

列傳第三十五 劉保勳 滕中正 劉蟠 孔承恭 宋璫 袁廓 樊知古 郭載 臧丙 徐休復 張觀 陳從信 張平 王繼昇 尹憲 王賓 安忠

列傳第三十五 劉保勳 滕中正 劉蟠 孔承恭 宋璫 袁廓 樊知古 郭載 臧丙 徐休復 張觀 陳從信 張平 王繼昇 尹憲 王賓 安忠

劉保勳

原文劉保勳

劉保勳、字は修業、河南の人である。父の處讓は後唐に仕え、晉に入って樞密使に拝され、出て彰德軍節度使となった。保勳は若くして騎射を好んだ。後唐清泰年中、わずか十歳余りで潞州左司馬を攝行し、父に隨って彰德軍衙內都校を署した。父が卒すると、供奉官に補せられた。刑名の學を習い、詩に頗る巧みであった。詩を獻じたところ、宰相桑維翰は之を奇とし、奏して太常丞に擢でられた。漢を歴て秘書丞となった。周の廣順初年、其の法律に詳練なるを薦むる者有り、大理正を兼ね、工部員外郎に遷った。鄆・宋・楚の三州の鹽・麴・商稅を歴掌した。

原文劉保勳,字修業,河南人。父處讓,仕後唐,入晉拜樞密使,出為彰德軍節度。保勳少好騎射。後唐清泰中,裁十許歲,攝潞州左司馬,隨父署彰德軍衙內都校。父卒,補供奉官。習刑名之學,頗工詩。因獻詩,宰相桑維翰奇之,奏擢為太常丞。歷漢為秘書丞。周廣順初,有薦其詳練法律,兼大理正,遷工部員外郎。歷掌鄆、宋、楚三州鹽、麴、商稅。

宋初、戸部を拝した。母喪に遭い、起復し、出て蘄口の榷茶を掌った。雲安監鹽制置使に徙り、歳滿して、羨餘百萬を出したが、轉運使は状を以て聞かんと欲した。保勳曰く「官物を貪りて己が功と為す、可ならんや」と。乃ち止む。開寶初年、司封員外郎・監左藏庫に遷る。六年、宋州を知る。太平興國初年、祠部郎中に遷り、晉州を通判した。二年、選ばれて江南西路轉運使と為り、錢百萬を賜う。三年、兩浙東北路に徙る。太宗晉陽を征するに、戸部郎中に改め、隨軍轉運使兼勾當北面轉運事と為る。又侯陟と同に軍前諸事を勾當す。會うところ陝西北路轉運使雷德驤が沁州の軍糧を調發して後期す。詔して德驤を劾せしめ、保勳を以て之に代う。太原平らぎ、幷州を知ることを命ず。年を踰えて召し入れられ、大理寺を判じ、出て昇州を知る。是の冬、召し歸り、三司開拆司を點檢す。會うところ鹽鐵使闕く、又其の事を權領することを命ず。兵部郎中兼判三司勾院に遷る。八年、右諫議大夫を拝し、俄に開封府を知る。寡婦劉、府に詣りて訴う、夫の前妻の子元吉が堇を食中に置き、己を毒して將に死せんとすと。按驗して獄成る。元吉の妻、登聞鼓を撾ちて冤を訴う。事、御史臺に下る。其の實、劉に姦狀有り、元吉之を知る。劉、慙悸して疾を成し、故に之を誣告す。保勳、奉を奪わるること三月に坐す。俄に辛仲甫を以て之に代う。未だ幾ばくもあらず、復た大理寺を判ず。

原文宋初,拜戶部。遭母喪,起復,出掌蘄口榷茶。徙雲安監鹽制置使,歲滿,出羨餘百萬,轉運使欲以狀聞,保勳曰:「貪官物為己功,可乎?」乃止。開寶初,遷司封員外郎、監左藏庫。六年,知宋州。太平興國初,遷祠部郎中、通判晉州。二年,選為江南西路轉運使,賜錢百萬。三年,徙兩浙東北路。太宗征晉陽,改戶部郎中,為隨軍轉運使兼勾當北面轉運事。又與侯陟同勾當軍前諸事。會陝西北路轉運使雷德驤調發沁州軍糧後期,詔劾德驤,以保勳代之。太原平,命知幷州。逾年召入,判大理寺,出知昇州。是冬,召歸,點檢三司開拆司,會鹽鐵使闕,又命權領其事。遷兵部郎中兼判三司勾院。八年,拜右諫議大夫,俄知開封府。寡婦劉詣府訴夫主前妻子元吉置堇食中,毒己將死。按驗獄成,元吉妻撾登聞鼓訴冤,事下御史臺。其實劉有姦狀,元吉知之,劉慙悸成疾,故誣告之。保勳坐奪奉三月,俄以辛仲甫代之。未幾,復判大理寺。

雍熙二年、權御史中丞兼勾當差遣院。是の秋、權中丞を罷む。三年春、曹彬等に命じて幽州を征せしむ。保勳は本官を以て幽州行府事を知る。子の利涉は開封府兵曹を以て芻粟を督し軍に隨い、常に其の父に從う。會うところ王師利あらず、拒馬河を濟り、更に相蹂躪し、多く死す。保勳の馬淖中に陷る。利涉後より之を掀き出だすも、力勝たず、人馬相擠壓し、遂に俱に死す。時に年六十二。上、其の後を恤ぐことを命ず。保勳三子有り、二子は先ず保勳に死し、季子は隨ひて没す。其の孫巨川を以て嗣と為し、秘書正字を授く。端拱初年、特に召して工部侍郎を贈る。

原文雍熙二年,權御史中丞兼勾當差遣院。是秋,罷權中丞。三年春,命曹彬等征幽州,保勳以本官知幽州行府事。子利涉以開封府兵曹督芻粟隨軍,常從其父。會王師不利,濟拒馬河,更相蹂躪,多死。保勳馬陷淖中,利涉自後掀出之,力不勝,人馬相擠壓,遂俱死。時年六十二。上命恤其後。保勳三子,二子先保勳死,季子隨沒。以其孫巨川為嗣,授秘書正字。端拱初,特召贈工部侍郎。

保勳の性は純謹、少寐し、未だ嘗て物に忤わず、吏事に精しく、繁劇を憚らざりき。嘗て人に語りて曰く「吾が君命を受くるに未だ嘗て辭避せず、同僚に接するに未だ嘗て意を失わず、家に居て貲を積むに未だ嘗て千錢に至らず」と。死するに及び、聞く者皆之を痛惜す。至道三年、又其の次孫世長を錄して正字と為す。咸平初年、保勳の妻卒す。詔して錢十萬を賜う。巨川は累ねて比部郎中と為る。

原文保勳性純謹,少寐,未嘗忤物,精於吏事,不憚繁劇。嘗語人曰:「吾受君命未嘗辭避,接同僚未嘗失意,居家積貲未嘗至千錢。」及死,聞者皆痛惜之。至道三年,又錄其次孫世長為正字。咸平初,保勳妻卒,詔賜錢十萬。巨川,累為比部郎中。

滕中正

原文滕中正

滕中正、字は普光、青州北海の人である。曾祖の瑤は高郵令。祖の煦は即墨令。父の保裔は興平令。中正は弱冠にして進士に舉げられ第せず。周の顯德年中、滑帥の向拱奏して辟きて掌書記と為す。拱、彭門に鎮を移す。會うところ中正外艱に丁し、復た表して奪情し、仍って舊職を署し、朝散大夫を加う。拱、襄陽に鎮す。中正を以て襄・均・房・復觀察判官と為す。及び西洛を留守するに及び、又奏して河南府判官・檢校戸部員外郎を署す。

原文滕中正,字普光,青州北海人。曾祖瑤,高郵令。祖煦,即墨令。父保裔,興平令。中正弱冠,舉進士不第。周顯德中,滑帥向拱奏辟為掌書記。拱移鎮彭門,會中正丁外艱,復表奪情,仍署舊職,加朝散大夫。拱鎮襄陽,以中正為襄、均、房、復觀察判官。及留守西洛,又奏署河南府判官、檢校戶部員外郎。

乾德五年、度支員外郎侯陟、表中正に材幹有りとし、入れて殿中侍御史と為す。兩川平らぎ、選ばれて興元府を知り、西京留臺を判じ、俄に河南府留守司事を通判す。太祖西洛に雩祀す。祗事の勤を以て、倉部員外郎に轉ず。

原文乾德五年,度支員外郎侯陟表中正有材幹,入為殿中侍御史。兩川平,選知興元府,判西京留臺,俄通判河南府留守司事。太祖雩祀西洛,以祗事之勤,轉倉部員外郎。

太宗即位し、考功員外郎に遷り、四川東路轉運使を授かる。太平興國五年、召されて膳部郎中兼侍御史知雜事と為る。六年、中書舍人郭贄・戸部郎中雷德驤と同に京朝官の考課を知ることを命ぜらる。中正嘗て監察御史張白を薦舉して蔡州を知らしむ。官錢二百貫を假貸して粟麥を糴し以て利を射る。棄市に坐す。中正、本曹員外郎に降り、舊の如く知雜す。未だ幾ばくもあらず、又擢で拜して右諫議大夫、權御史中丞と為る。

原文太宗即位,遷考功員外郎,授四川東路轉運使。太平興國五年,召為膳部郎中兼侍御史知雜事。六年,命與中書舍人郭贄、戶部郎中雷德驤同知京朝官考課。中正嘗薦舉監察御史張白知蔡州,假貸官錢二百貫糴粟麥以射利,坐棄市。中正降為本曹員外郎,依舊知雜。未幾,又擢拜右諫議大夫,權御史中丞。

雍熙元年春、大宴し、上歡甚だし。虛盞を以て群臣に示す。宰相、酒を飲むこと過度なりと言い、恐らくは失儀の責有らんとす。上顧みて中正に謂ひて曰く「今君臣相遇ふ、失する者有らば彈劾すること勿れ」と。因りて是に伶官盛んに宴會の樂を言ふ。上曰く「朕が樂は時に在りて民安きに在り」と。是の冬乾明節、群臣上壽酒す。既に三行し、上目中正して曰く「三爵の飲、實に惟れ常禮なり。朕群臣と與に更に一卮を舉げんと欲す、可ならんや」と。中正曰く「陛下の聖恩甚だ厚し。臣敢へて詔を奉ぜざらんや」と。殿上皆萬歳と稱す。

原文雍熙元年春,大宴,上歡甚,以虛盞示群臣。宰相言飲酒過度,恐有失儀之責。上顧謂中正曰:「今君臣相遇,有失者勿彈劾也。」因是伶官盛言宴會之樂,上曰:「朕樂在時平民安。」是冬乾明節,群臣上壽酒,既三行,上目中正曰:「三爵之飲,實惟常禮,朕欲與群臣更舉一卮,可乎?」中正曰:「陛下聖恩甚厚,臣敢不奉詔。」殿上皆稱萬歲。

二年、年老を以て辭し、出て河南府を知る。未だ幾ばくもあらず、病に被り罷め、西京に分司す。淳化初年、留司御史臺を判じ、其の子玄錫に命じて權に河南司錄をして以て養ひに便ならしむ。二年、卒す。年八十四。

原文二年,以年老辭,出知河南府。未幾,被病罷,分司西京。淳化初,判留司御史臺,命其子玄錫權河南司錄以便養。二年,卒,年八十四。

中正の性は峻刻、連ねて大獄を鞫す。時議以て深文と為す。權中丞の日、綱憲を振舉し、人以て稱職を之に許す。二子並びに進士に舉げらる。玄錫は刑部郎中に至り、玄晏は後ち世寧と名づけ、工部郎中に至る。

原文中正性峻刻,連鞫大獄,時議以為深文。權中丞日,振舉綱憲,人以稱職許之。二子並舉進士,玄錫至刑部郎中,玄晏後名世寧,至工部郎中。

劉蟠

原文劉蟠

劉蟠、字は士龍、濱州渤海の人なり。漢の乾祐二年に進士に挙げられ、初めて官に就き益都主簿となる。宋の初め、安遠軍及び河陽節度推官、保義軍掌書記を歴任す。乾徳五年、召されて監察御史に拝され、染院事を掌る。初め、蘇曉が京城市征を掌り、頗る事を幹辦す。その卒するに及び、選ばれて蟠を以てこれに代う。冬、太宗の生辰使と為すを命ぜらる。開宝七年、殿中丞劉徳言とともに淮南諸州転運事を知る。太平興国初め、就いて倉部員外郎に遷り、転運使に改め、歳に江東の米四百萬斛を漕運して京師に給し、頗る称職たり。秩満す。部内の僧道留まるを乞う。詔して再任を許し、金紫を賜い、駕部員外郎に改む。八年、内艱に遭う。時に諸州の綱運留滞するを以て、起復し、京城陸路発運司事を知る。会に河韓村に決し、大いに丁夫を発してこれを塞ぐ。蟠を命じてその餉を調給せしむ。未だ幾ばくもせずして河塞がる。朝廷方に封禅を議す。蟠を以て東封水陸計度転運使と為す。会に詔してその礼を罷む。俄にして工部郎中に遷り、河北水路転運使を充つ。刑部郎中に改め、就いて水陸転運使を充て、入りて本部事を判ず。籍田畢りて、左諫議大夫に遷る。淳化初め、兼ねて同考京朝官差遣す。二年、暴に中風眩す。上、太醫を遣わしてこれを視しめ、金丹を以て賜う。卒す。年七十三。錢十萬を賜い、その喪事を給す。

原文劉蟠,字士龍,濱州渤海人。漢乾祐二年舉進士,解褐益都主簿。宋初,歷安遠軍及河陽節度推官、保義軍掌書記。乾德五年,召拜監察御史,典染院事。初,蘇曉掌京城市征,頗幹集,及卒,選蟠代之。冬,命為太宗生辰使。開寶七年,與殿中丞劉德言同知淮南諸州轉運事。太平興國初,就遷倉部員外郎,改轉運使,歲漕江東米四百萬斛以給京師,頗為稱職。秩滿,部內僧道乞留,詔許再任,賜金紫,改駕部員外郎。八年,丁內艱,時以諸州綱運留滯,起復,知京城陸路發運司事。會河決韓村,大發丁夫塞之,命蟠調給其餉,未幾河塞。朝廷方議封禪,以蟠為東封水陸計度轉運使,會詔罷其禮。俄遷工部郎中,充河北水路轉運使。改刑部郎中,就充水陸轉運使,入判本部事。籍田畢,遷左諫議大夫。淳化初,兼同考京朝官差遣。二年,暴中風眩,上遣太醫視之,賜以金丹。卒,年七十三。賜錢十萬,給其喪事。

蟠、性清介にして寡合、能く苦を攻め淡を食い、専ら苛刻を事とし、奇詐を設くるを好み、以て人主に知らるるを售る。染作を典る日、太祖多く臨視す。蟠、車駕の至るを偵い、輒ち短後衣を衣、芒屩を履き梃を持ちて以て役を督め、頭蓬にして治めず、遽に出でて迎謁す。太祖、事に勤むと以為い、錢二十萬を賜う。嘗て詔を受けて淮南に茶を巡る。部民私販する者衆し。蟠、羸馬に乗り、偽りに商人と称し、民家に抵りて茶を市わんことを求む。民家疑わず、出でてこれに与う。即ち擒えて法に置く。

原文蟠性清介寡合,能攻苦食淡,專事苛刻,好設奇詐,以售知人主。典染作日,太祖多臨視之,蟠偵車駕至,輒衣短後衣,芒屩持梃以督役,頭蓬不治,遽出迎謁。太祖以為勤事,賜錢二十萬。嘗受詔巡茶淮南,部民私販者眾。蟠乘羸馬,偽稱商人,抵民家求市茶,民家不疑,出與之,即擒置於法。

子鍇、初め父の蔭を以て大理評事と為る。咸平二年、進士第に擢げらる。嘗て『幸太學頌』を献ず。真宗、中夜書を観、鍇の頌を得て、頗る嘉賞す。出でて輔臣に示し、且つ鍇幼くして孤なり、能く自立すと言う。召して試み、史館に直するを命ず。累遷して戸部郎中・塩鉄副使に至る。

原文子鍇,初以父蔭為大理評事,咸平二年,擢進士第。嘗獻《幸太學頌》。真宗中夜觀書,得鍇頌,頗嘉賞之,出以示輔臣,且言鍇幼孤,能自立,召試,命直史館。累遷至戶部郎中、鹽鐵副使。

孔承恭

原文孔承恭

孔承恭、字は光祖、京兆萬年の人なり。唐の昭宗東遷するに及び、挙族これに随い、遂に河南に籍を占む。五世の祖戡、『唐書』に傳あり。戡の孫迥、萊州刺史。迥の子昌庶、虞部郎中。昌庶の子莊、晉に仕えて右諫議大夫と為る。戡より莊に至るまで、皆進士第に登る。承恭は莊の子なり。門蔭を以て秘書省正字を授かり、溫・安豐二県の主簿を歴任す。時に王審琦寿春を節制す。承恭を名家の子と以て、奏して節度推官を摂せしむ。府罷し、調補して鄭州録事参軍と為り、入りて大理寺丞と為る。宮詞を献じ、意を託して進まんことを求む。太祖その引喩の宜しからざるを怒り、居る官を免じ、田里に放ちて帰らしむ。

原文孔承恭,字光祖,京兆萬年人。唐昭宗東遷,舉族隨之,遂占籍河南。五世祖戡,《唐書》有傳。戡孫迥,萊州刺史。迥子昌庶,虞部郎中。昌庶子莊,仕晉為右諫議大夫。由戡至莊,皆登進士第。承恭,莊之子也。以門蔭授秘書省正字,歷溫、安豐二縣主簿。時王審琦節制壽春,以承恭名家子,奏攝節度推官。府罷,調補鄭州錄事參軍,入為大理寺丞。獻宮詞,託意求進。太祖怒其引喻非宜,免所居官,放歸田里。

太宗即位し、赦を以て旧官を復授す。時に初めて酒を榷す。承恭を以て西京酒麴を監せしめ、歳に課を六千萬増す。大理正に遷り、獄を議すること平允、庫部員外郎に擢げられ、大理少卿事を判ず。屯田・兵部の二郎中に遷り、同考校京朝官課第す。端拱三年、詔を下して曰く「九寺三監は国の羽儀、制度聲名、往々にしてここに在り。各おの副貳あり、その司存に率い、品秩素より高く、職任尤も重し。郎吏の遷授、これ旧章なり。比に縉紳の流を聞くに、頗る臺閣を以て自ら許し、散地と目し、甚だ謂れなきなり。朕将にこれを振わんとす。我より始む。兵部郎中孔承恭を以て太常少卿と為し、魏羽を秘書少監と為し、戸部郎中柴成務を光祿少卿と為し、魏庠を衛尉少卿と為し、張洎を太僕少卿と為し、呂端を大理少卿と為し、臧丙を司農少卿と為し、袁廓を鴻臚少卿と為し、工部郎中張雍を太府少卿と為す」と。また屯田郎中雷有終を以て少府少監と為し、虞部郎中索湘を将作少監と為す。時に裴祚・慎従吉・宋雄先だ少卿と為り、皆東宮官に改授す。また詔して承恭と左散騎常侍さんきじょうじ徐鉉に道書を刊正せしむ。俄に疾を以て官を解くを求め、且つ言う「早く嵩・少の間に遊び、その風土を楽しむ。願わくはここに卜居せん」と。上召見し、その羸瘠を哀れみ、御薬を出してこれを賜い、将作監致仕を授く。その子玢に同学究出身を以て、登封県尉と為し、俾くは禄を就けて養わしむ。未だ果たして行かずして卒す。年六十二。

原文太宗即位,以赦復授舊官。時初榷酒,以承恭監西京酒麴,歲增課六千萬。遷大理正,議獄平允,擢庫部員外郎,判大理少卿事。遷屯田、兵部二郎中,同考校京朝官課第。端拱三年,下詔曰:「九寺三監,國之羽儀,制度聲名,往往而在。各有副貳,率其司存,品秩素高,職任尤重。郎吏遷授,斯為舊章。比聞縉紳之流,頗以臺閣自許,目為散地,甚無謂焉。朕將振之,自我而始。其以兵部郎中孔承恭為太常少卿,魏羽為秘書少監,戶部郎中柴成務為光祿少卿,魏庠為衛尉少卿,張洎為太僕少卿,呂端為大理少卿,臧丙為司農少卿,袁廓為鴻臚少卿,工部郎中張雍為太府少卿。」又以屯田郎中雷有終為少府少監,虞部郎中索湘為將作少監。時裴祚、慎從吉、宋雄先為少卿,皆改授東宮官。又詔承恭與左散騎常侍徐鉉刊正道書,俄以疾求解官,且言早遊嵩、少間,樂其風土,願卜居焉。上召見,哀其羸瘠,出御藥賜之,授將作監致仕。以其子玢同學究出身,為登封縣尉,俾就祿養。未果行而卒,年六十二。

承恭、少くして疏縱、長ずるに及び、能く節を折り自ら励む。嘗て疏を上りて州県の長吏に令して耆老を詢訪し、民間の疾苦・吏治の得失を知り、及び令文「賤は貴を避け、少は長を避け、軽は重を避け、去は来を避く」を挙げ、京兆並びに諸州に詔して要害の処に木牌を設けその字を刻ましめ、違う者は律の如く論ずることを請う。上皆これを行わる。尤も仏を奉じ、多く蔬食し、得る所の俸禄、大半以て僧に飯す。嘗て上に人を殺さざることを勧め、また征戦の地に寺を修し及び僧尼を普度することを請う。人多くその迂闊なりと言う。

原文承恭少疏縱,及長,能折節自勵。嘗上疏請令州縣長吏詢訪耆老,求知民間疾苦、吏治得失,及舉令文「賤避貴,少避長,輕避重,去避來」,請詔京兆並諸州於要害處設木牌刻其字,違者論如律。上皆為行之。尤奉佛,多蔬食,所得奉祿,大半以飯僧。嘗勸上不殺人,又請於征戰地修寺及普度僧尼,人多言其迂闊云。

宋璫

原文宋璫

宋璫、字は寶臣、華州渭南の人なり。父鸞、監察御史。璫、乾徳中進士及び第し、抜萃に登科し、初めて官に就き青城主簿と為る。書を写すを好む。秩満し、数千巻を載せて以て帰る。呉廷祚永興を鎮む。辟いて書奏を掌らしむ。廷祚卒し、復た調して下邽主簿と為り、擢げられ著作佐郎・綿州知事と為る。太宗即位し、右賛善大夫に改め、峡路転運副使と為る。代わり還り、召対し、緋魚を賜う。復た出でて秦州知事と為り、善政あり。就いて監察御史に拝され、陝西転運使を充つ。韋亶を以て代わり秦州知事と為す。璫州を去ること百日未だ満たず、亶事に坐して獄に繋がる。上、璫前に治績あるを以て、錢五十萬を賜い、再び命じて秦州知事と為し、諸戎を安集し、部内清肅たり。

原文宋璫,字寶臣,華州渭南人。父鸞,監察御史。璫,乾德中進士及第,拔萃登科,解褐青城主簿。好寫書,秩滿,載數千卷以歸。吳廷祚鎮永興,辟掌書奏。廷祚卒,復調下邽主簿,擢著作佐郎、知綿州。太宗即位,改右贊善大夫,為峽路轉運副使。代還,召對,賜緋魚。復出知秦州,有善政,就拜監察御史,充陝西轉運使,以韋亶代知秦州,璫去州未百日,亶坐事繫獄。上以璫前有治績,賜錢五十萬,再命知秦州,安集諸戎,部內清肅。

雍熙初め、比部員外郎に転ず。在任凡そ六年、召し帰り、面して金紫を賜い、度支判官を授く。俄に屯田郎中・益州知事に遷る。歳饑多く盗あるに属す。璫初めて至り、方略を以て擒捕招輯し、盗皆首を伏せ息を屏ぐ。詔を下して嘉獎す。端拱初め、就いて右諫議大夫に拝す。時に両川転運使副皆事に坐して免ぜらる。璫を以て西川転運使と為し、左諫議大夫を加え、陝州知事に改む。

原文雍熙初,轉比部員外郎。在任凡六年,召歸,面賜金紫,授度支判官。俄遷屯田郎中、知益州,屬歲饑多盜,璫始至,以方略擒捕招輯,盜皆首伏屏息,下詔嘉獎。端拱初,就拜右諫議大夫。時兩川轉運使副皆坐事免,以璫為西川轉運使,加左諫議大夫,改知陝州。

淳化中、三呉歳饑・疾病し、民多く死す。長吏を択び養治せしむ。璫を命じて蘇州知事と為す。璫、體豐碩、素より足を病む。州に至り、地卑湿、疾益ます甚だし。人或いはその疾を謝して北帰するを勧む。璫曰く「天子民の病を以て我に綏撫せしむ。我身の病を以てして辞せば、臣子の義に非ず」と。既にして太白南斗を犯す。曰く「斗は呉の分なり。民方に饑う。天象かくの如し。長吏咎無からんや」と。四年、卒す。年六十一。上これを聞き嗟悼し、その子明遠を録して蒲城主簿と為し、俾くはその喪を護り帰葬せしむ。

原文淳化中,三吳歲饑、疾病,民多死,擇長吏養治之,命璫知蘇州。璫體豐碩,素病足,至州,地卑濕,疾益甚。人或勸其謝疾北歸,璫曰:「天子以民病俾我綏撫,我以身病而辭焉,非臣子之義也。」既而太白犯南斗,曰:「斗為吳分,民方饑,天象如此,長吏得無咎乎!」四年,卒,年六十一。上聞之嗟悼,錄其子明遠為蒲城主簿,俾護其喪歸葬焉。

璫、性清簡、官を歴ること三十年、未だ嘗て家事を問わず、唯だ書を聚めて以て子孫に貽す。且つ曰く「本を忘れざらしむるなり」と。明遠、淳化三年進士、後都官員外郎と為る。次子柔遠、亦進士及び第す。垂遠、閤門祗候。

原文璫性清簡,歷官三十年,未嘗問家事,唯聚書以貽子孫。且曰:「使不忘本也。」明遠,淳化三年進士,後為都官員外郎。次子柔遠,亦舉進士及第。垂遠,閤門祗候。

袁廓

原文袁廓

袁廓は、劍州梓潼の人である。蜀しょくにおいて進士に及第した。宋に入り、雙流縣主簿を補任された。また西平縣主簿となり、戸籍の漏れを調査して、民丁一万余りを得た。州の将がその職務に勤勉であることを推薦し、そのまま上蔡令に遷任され、また考課が最上であったため、太子右贊善大夫に抜擢され、御史府において推事を分領することを命じられ、榷貨務を掌った。廓は性来誇大で、大言を敢えてし、誹謗を好み、太祖は奇士として遇した。

原文袁廓,劍州梓潼人。在蜀舉進士及第。入宋,補雙流縣主簿。又為西平縣主簿,勾稽漏籍,得民丁萬餘,州將薦其勤職,就遷上蔡令,又以課最,擢太子右贊善大夫,令於御史府分領推事,掌榷貨務。廓性誇誕,敢大言,好詆訐,太祖以奇士待之。

太宗が即位すると、殿中丞に遷り、楚州知州として出向した。帰京し、京師の市征を掌り、一年のうちに数万緡の課税を増やした。上はこれを嘉し、緋魚袋を賜い、銭百万を下賜した。ちょうど錢俶が領土を全て籍に載せて献上した際に、命じて廓に浙中の籍を検査させ、諸州軍の倉庫の物を悉く京師に輸送させ、便宜を以て事を行わせた。なお詔して、毎回の公宴において別席に坐らせ、寵異を示した。また鄆州知州を命じたが、ちょうど黄河が決壊し、水が城に溢れ入り、住民の家屋を浸し、冬月には氷となって結んだ。廓は大いに民を発動して氷を鑿ち取り、竹輿に載せて城外に運び出し、積み散らした。使者が至り、その方略があるため水が城内に入らなかったと述べ、状をもって上聞し、監察御史に任じられた。春になって氷が解けると、州の地は低く、流氷が溢れ入って民の患いとなった。

原文太宗即位,遷殿中丞,出知楚州。歸,掌京師市征,歲中增課數萬緡,上嘉之,賜緋魚,齎錢百萬。會錢俶盡籍土宇以獻,命廓按籍浙中,諸州軍倉庫之物悉輸京師,得以便宜從事。仍詔每公宴別席而坐,以寵異之。復命知鄆州,會河決,溢入城,浸居人廬舍,至冬月結為冰。廓大發民鑿取,以竹輿舁出城,散積之。使者至,謂其有略,致水不入城,乃以狀聞,拜監察御史。至春凍解,州地下,流澌溢入為民患。

ちょうど秦王廷美が房州に遷置された際に、崇儀副使閻彥進を以て州事を知らせ、廓を通判州事とし、ともに白金三百両を賜った。廓は間もなく殿中侍御史に転じ、召されて戸部判官となり、陳恕・李惟清と共に芻糧の事を専ら計度することを命じられた。戸部員外郎に改め、また度支判官となった。籍田の儀があり、本曹郎中に転じ、戸部勾院を判った。

原文會秦王廷美遷置房州,以崇儀副使閻彥進知州事,廓通判州事,並賜白金三百兩。廓俄轉殿中侍御史,召為戶部判官,命與陳恕、李惟清專計度芻糧事。改戶部員外郎,又為度支判官。籍田,轉本曹郎中,判戶部勾院。

廓は強情で争いを好み、しばしば判使らと上前において曲直を較べ、声も気色も共に激しく、上は毎回寛容に扱った。しかし勾稽は精密であり、これにより部領が積み擁え、郡吏に訴えられた。詔して御史に弁問させたが、廓は宰相趙普に謁見して自らを弁明した。折しも鄭州團練使侯莫陳利用が罪を得たが、廓はかつて利用と書簡を往来させ親密であった。普はこれについて言った、「職務上の常事は、これ云うに足らず、利用と交わり密接であったことは、理において可であろうか」。廓は驚き慚じて涙を流し、答えることができなかった。数日後、溫州知州として出された。そのまま鴻臚少卿に遷任された。

原文廓強項好爭,數與判使等較曲直於上前,聲氣俱厲,上每優容之。然勾稽精密,由是部領擁積,為郡吏所訴,詔御史辨問,廓謁見宰相趙普自理。屬鄭州團練使侯莫陳利用得罪,廓嘗與利用書劄往還稔昵。普謂之曰:「職司常事,此不足云,與利用交結款密,於理可乎?」廓驚慚泣下,不能對。數日,出知溫州。就遷鴻臚少卿。

同郡の袁仁甫が州の関征を掌っていたが、平素より宗盟の分けにより、頗る親善していたが、一朝にして不和となり、互いに論奏した。上は光祿寺丞牛韶を遣わして按検させた。韶が至ると、ともに拘束して獄に繫ぎ対決させた。上は廓が誣告されたのではないかと疑い、駅伝で召し出して闕に赴かせた。廓は性来剛直で偏狭であり、詰問取り調べが峻急であったため、詔書が未だ至らぬうちに、憤死した。上は聞き、甚だこれを追悼した。また仁甫の訴えを検証すると、多く実状がなく、韶を官に免じ、仁甫を商州長史に貶し、廓に右諫議大夫を追贈した。その子丘賀を奉禮郎に録用した。始め十歳であった。上はなお廓を思いやむことが止まず、また詔して仁甫の名籍を削り、商州に配隷した。

原文同郡袁仁甫掌州之關征,素以宗盟之分,頗相親善,一旦不協,互有論奏。上遣光祿寺丞牛韶往按驗,韶至,並攝繫獄置對。上疑廓被誣,驛召赴闕。廓性剛褊,被詰治峻急,詔書未至,以憤死。上聞,甚追悼之。復驗仁甫所訴,多無實狀,免韶官,貶仁甫商州長史,贈廓右諫議大夫。錄其子丘賀為奉禮郎,始十歲。上猶念廓不已,又詔削仁甫名籍,配隸商州。

樊知古

原文樊知古

樊知古は、字を仲師といい、その先祖は京兆長安ちょうあんの人である。曾祖父の偁は、濮州司戸參軍であった。祖父の知諭は、呉に仕えて金壇令となった。父の潛は、李景に仕え、漢陽・石埭の二縣令を任じられ、池州に家を定めた。知古はかつて進士に挙げられず、遂に北帰を謀り、乃ち采石の江上で数ヶ月漁釣し、小船に絲繩を載せ、南岸に繋ぎ、速やかに櫂を漕いで北岸に抵り、以て江の広狭を測った。開寶三年、闕に詣でて上書し、江南が取るべき状を言い、以て進用を求めた。太祖は学士院に送って試させ、本科及第を賜い、舒州軍事推官として初任官となった。嘗て上に啓し、老母と親族数十人が江南におり、李煜に害される恐れがあると述べ、治所に迎えたいと願った。即ち詔して煜に遣わすよう命じた。煜は命を聞くと、即ち厚く装いを給し、護送して境上に至らせた。

原文樊知古,字仲師,其先京兆長安人。曾祖偁,濮州司戶參軍。祖知諭,事吳為金壇令。父潛,事李景,任漢陽、石埭二縣令,因家池州。知古嘗舉進士不第,遂謀北歸,乃漁釣采石江上數月,乘小舟載絲繩,維南岸,疾棹抵北岸,以度江之廣狹。開寶三年,詣闕上書,言江南可取狀,以求進用。太祖令送學士院試,賜本科及第,解褐舒州軍事推官。嘗啟於上,言老母親屬數十口在江南,恐為李煜所害,願迎至治所。即詔煜令遣之。煜方聞命,即厚給齎裝,護送至境上。

七年、召されて太子右贊善大夫に拝された。ちょうど王師が江表を征するに際し、知古は郷導となり、池州を陥落させた。八年、知古に州事を領させた。先に、州民が険を保って寇となっていたが、知古はこれを撃ち、連続して三つの砦を抜き、その首魁を擒えて献じ、残りは皆潰散した。南征を議するに当たり、高品の石全振を湖南に遣わして黄黒龍船を造らせ、大艦に巨大な竹縆を載せ、荊南より下らせ、八作使の郝守濬らに丁匠を率いさせてこれを営ませた。議者は江濤が険壮であるため、恐らく成就できないだろうと言ったが、乃ち石碑口において試しにこれを造り、采石に移し、三日で橋は成り、尺寸も違わなかった。これは知古の請によるものであった。

原文七年,召拜太子右贊善大夫。會王師征江表,知古為鄉導,下池州。八年,以知古領州事。先是,州民保險為寇,知古擊之,連拔三砦,擒其魁以獻,餘皆潰散。方議南征,命高品石全振往湖南造黃黑龍船,以大艦載巨竹縆,自荊南而下,遣八作使郝守濬等率丁匠營之。議者以謂江濤險壯,恐不能就,乃於石碑口試造之,移至采石,三日橋成,不差尺寸,從知古之請也。

金陵が平定されると、侍御史に擢拝され、伝車に乗って江南諸州を巡行し、利民を詢訪することを命じられ、復命して江南東路轉運事を知らされた。数日後、江南轉運使に改めて授けられ、銭一百万を賜った。先に、江南諸州では官が茶の十分の八を買い上げ、残りの分をまた徴収し、その後符を与えてその行く所を聴していたため、商人はこれを苦しんでいた。知古はその税を免除し、なお買い上げ価格を差し増すよう請い、以て民に便とした。江南は旧来鐵錢を用い、十が銅錢の一に当たり、物価が高騰し、民は不便であったが、知古もまた奏上してこれを罷めた。先に、李煜が用兵に際し、権宜的に調斂を行っていたが、知古は悉くこれを常額として奏上した。豫よ章の洪氏はかつて昇州の榷酤を掌り、鐵錢数百万を滞納していた。この時、知古は微時に嘗て洪氏に辱められたことを挟み、銅錢で償わせて快意を遂げた。

原文金陵平,擢拜侍御史,令乘傳按行江南諸州,詢訪利民,復命知江南東路轉運事。數日,改授江南轉運使,賜錢一百萬。先是,江南諸州官市茶十分之八,復徵其餘分,然後給符聽其所往,商人苦之。知古請蠲其稅,仍差增所市之直,以便於民。江南舊用鐵錢,十當銅錢之一,物價翔踴,民不便,知古亦奏罷之。先是,李煜用兵,權宜調斂,知古悉奏為常額。豫章洪氏嘗掌昇州榷酤,逋鐵錢數百萬。至是,知古挾微時嘗辱於洪氏,責償銅錢以快意。

太宗が即位すると、庫部員外郎を授けられた。召し帰され、金紫に換えられ、銭百万を賜い、京西北路轉運使を命じられた。太平興國六年、虞部郎中を加えられ、そのまま邠州知州に改め、鳳翔府に移った。入朝して鹽鐵判官となり、出て荊湖轉運使を領した。雍熙初年、比部郎中に遷った。ちょうど河朔で用兵があり、諸郡を両路に分け、以て漕輓を給した。知古を東路轉運使に遷し、駕部郎中に遷り、銭五十万を賜った。知古は本名を若水、字を叔清といったが、召見の際、上が問うて言った、「卿の名は何の書に出ているか」。対えて言った、「唐の尚書右丞倪若水は亮直であり、臣は窃かにこれを慕います」。上は笑って言った、「『知古』と改名せよ」。知古は頓首して詔を奉じた。倪若水は実は名を「若冰」といい、知古は学が浅く、妄りに引き合いに出して答えたため、人皆これを笑った。

原文太宗即位,授庫部員外郎。召歸,換金紫,賜錢百萬,命為京西北路轉運使。太平興國六年,加虞部郎中,就改知邠州,移鳳翔府。入為鹽鐵判官,出領荊湖轉運使。雍熙初,遷比部郎中。會河朔用兵,分諸郡為兩路,以給漕輓。遷知古為東路轉運使,遷駕部郎中,賜錢五十萬。知古本名若水,字叔清,因召見,上問之曰:「卿名出何書?」對曰:「唐尚書右丞倪若水亮直,臣竊慕之。」上笑曰:「可改名『知古』」。知古頓首奉詔。倪若水實名「若冰」,知古學淺,妄引以對,人皆笑之。

端拱初年、右諫議大夫・河北東西路都轉運使に遷り、白金千両を賜った。両路に各々轉運副使を置き、都轉運使の名は知古に始まる。二年、詔して河北西路招置營田使を加えた。城を修めるための木材五百万余り、牛革三百万を奏請した。上は言った、「万里の長城は豈にこれに在るだろうか。古より匈奴と黄河は、互いに中国の患いとなってきた。朕が即位以来、或いは疆埸に事なき時は、則ち圩堤を修築する役があり、近頃は辺境の烽火が稍々警報を発すると、則ち黄河は安流して害がない。これは蓋し天意が更迭して戒めを垂れ、常に惕厲せしめるのである。然れども不虞に備えるは、古の善き教えであり、深溝高壘もまた王公が険を設ける意義である。卿の請は過当であり、吾が民を重く困らせることにはならないか」。乃ち詔して有司に量りて官物を以て給するよう命じた。

原文端拱初,遷右諫議大夫、河北東西路都轉運使,賜白金千兩。兩路各置轉運副使,都轉運使之名自知古始。二年,詔加河北西路招置營田使。奏請修城木五百餘萬、牛革三百萬。上曰:「萬里長城豈在於此?自古匈奴、黃河,互為中國之患。朕自即位以來,或疆埸無事,則有修築圩堤之役。近者邊烽稍警,則黃河安流無害,此蓋天意更迭垂戒,常令惕厲。然而預備不虞,古之善教,深溝高壘,亦王公設險之義也。所請過當,不亦重困吾民乎?」乃詔有司量以官物給之。

ちょうど度支使の李惟清が上言して河北の軍儲が備えられていないとし、河南十七軍州の粟を発して赴かせるよう請うた。太宗は言った、「農事は今まさに殷く、豈に更にこの役を興すべきであろうか」。惟清が固く請うたため、上は左正言の馮拯を伝車に乗せて知古と計らせた。知古は即ち言った、「河北の軍儲は均済して足り、農閑期を俟って民に転餉させましょう」。拯が復命すると、太宗は言った、「細かく籌らなければ、民は果たして弊を受けるであろう」。未だ幾ばくもなく、入朝して事を奏上し旨に称し、給事中に拝された。間もなく戸部使となった。

原文會度支使李惟清上言河北軍儲無備,請發河南十七軍州轉粟以赴。太宗曰:「農事方殷,豈可更興此役?」惟清固以為請,上遣左正言馮拯乘傳與知古計之。知古即言:「河北軍儲可以均濟足,俟農隙令民轉餉。」拯復命,太宗曰:「不細籌之,則民果受弊矣。」未幾,入朝奏事稱旨,拜給事中。俄為戶部使。

知古は才力あり、累任して転運使となり、当時の評判は甚だ良かった。しかし戸部に在るとき、頻りに職務を治めず、詔書にて厳しく責められ、名声は益々衰えた。平素より陳恕と親善であり、恕は当時参知政事であったが、太宗が計司の事に不都合があると述べると、恕は悉く知古に告げた。後に奏事の際、知古は自ら弁解した。上(太宗)が問うて曰く、「何処から知ったのか」と。曰く、「陳恕が臣に告げました」と。上は恕が禁中の言葉を漏らしたことを怒り、且つ知古の軽佻さを憎んだので、両名を共に罷免した。知古を出して梓州知州と為すが、未だ到着せず、西川転運使に改めた。

原文知古有才力,累任轉運使,甚得時譽。及在戶部,頻以職事不治,詔書切責,名益減。素與陳恕親善,恕時參知政事,太宗言及計司事有乖違者,恕具以告。後因奏事,知古遂自解。上問:「從何得知?」 曰:「陳恕告臣。」上怒恕泄禁中語,且嫉知古輕侻,故兩罷之。出知古知梓州,未至,改西川轉運使。

知古は自ら嘗て三司使を務めたのに、一朝にして剣外の漕運を掌ることを以て、鬱々として志を得ず、常に足疾を称し、未だ郡県を巡行せず。

原文知古自以嘗任三司使,一旦掌漕運劍外,鬱鬱不得志,常稱足疾,未嘗按行郡縣。

蜀中は富饒にして、羅紈錦綺等の物は天下に甲たり、言事者は競って功利を商榷す。また土狭く民稠にして、耕種足らざるを給せず、是によりて兼併する者は益々賤きを糴り貴きを販りて以て利を規る。淳化年中、青城県の民王小波が衆を聚めて乱を為し、其の衆に謂いて曰く、「吾は貧富の均からざるを疾む、今汝輩の為に之を均せん」と。附く者益々衆く、遂に青城県を攻め陷し、彭山を掠め、其の令斉元振を殺す。巡検使張玘と江源県に於いて闘い、小波を射て、其の額に中り、旋ち創に病みて死し、玘も亦殺さる。衆遂に小波の妻弟李順を推して帥と為す。初め、小波の党与は僅かに百人、州県は備禦を失い、故に所在に蜂起し、万余人に至る。蜀州を攻め、監軍王亮及び官吏十余りを殺す。邛州を陷し、知州桑保紳・通判王従式及び諸僚吏を害し、都巡検使郭允能を逐う。允能は麾下を率いて新津江口にて戦うも、賊に為りて殺され、同巡検・殿直毛儼は徒歩にて身を免る。賊勢益々張り、衆数万人に至り、永康軍・双流・新津・温江・郫県を陷し、火を放ち大いに掠め、其の党を留めて之を守らしむ。往きて成都を攻め、西郭門を焼くも、利あらず、引き去る。漢州・彭州を陷し、旋ち成都を陷す。

原文蜀中富饒,羅紈錦綺等物甲天下,言事者競商榷功利。又土狹民稠,耕種不足給,由是兼並者益糴賤販貴以規利。淳化中,青城縣民王小波聚眾為亂,謂其眾曰:「吾疾貧富不均,今為汝輩均之。」附者益眾,遂攻陷青城縣,掠彭山,殺其令齊元振。巡檢使張玘與鬥於江源縣,射小波,中其額,旋病創死,玘亦被殺。眾遂推小波妻弟李順為帥。初,小波黨與裁百人,州縣失於備禦,故所在蜂起,至萬餘人。攻蜀州,殺監軍王亮及官吏十餘人。陷邛州,害知州桑保紳、通判王從式及諸僚吏,逐都巡檢使郭允能。允能率麾下與戰新津江口,為賊所殺,同巡檢、殿直毛儼徒步以身免。賊勢益張,眾至數萬人,陷永康軍、雙流、新津、溫江、郫縣,縱火大掠,留其黨守之。往攻成都,燒西郭門,不利,引去。陷漢州、彭州,旋陷成都。

時に既に詔して梓州知州・右諫議大夫張雍を以て知古に代わり転運使と為す。雍未だ至らず、知古は知府郭載及び属官と共に東川に走る。詔して復た両川漕運を掌らしむ。知古は擅に所部を離れ、制置状無きに伏す。上は特ち之を宥し、本官を以て均州知州に出だす。事に視すること旬日、憂悸して卒す。年五十二。上は猶お嗟憫し、其の子漢公に同学究出身を賜う。

原文時已詔知梓州、右諫議大夫張雍代知古為轉運使。雍未至,知古與知府郭載及屬官走東川。詔復令掌兩川漕運。知古具伏擅離所部,制置無狀,上特宥之,以本官出知均州。視事旬日,憂悸卒,年五十二。上猶嗟憫,賜其子漢公同學究出身。

知古は明俊にして吏幹あり、辞弁捷給なりしが、西川に任ずるに及び、盗を弭せずして逃げ、雖も宥さるるを得たれど、終に慙じて死せりと云う。

原文知古明俊有吏幹,辭辨捷給,及任西川,不能弭盜而逃,雖獲宥,終以慙死云。

郭載 附

原文郭載 附

郭載、字は咸熙、開封浚儀の人。父は暉、右監門衛将軍・義州刺史。載は蔭により右班殿直となり、累遷して供奉官・閤門祗候。雍熙初年、西川兵馬捕盗事を提挙し、太宗は鞍馬・器械・銀銭を賜い以て之を遣わす。四年、積労により崇儀副使を加う。召還され、上言す、「川・峡の富人俗多く贅婿を為し、死すれば則ち其の子と均しく其の財を分つ、故に貧者多し」と。詔して之を禁ず。端拱二年、引進副使・天雄軍知軍に擢でられ、入りて同勾当三班と為り、出でて秦州知州兼沿辺都巡検使と為る。先ず、辺を巡る者は多く兵騎を領して以て戎人を威し、至る所頗る之を煩苦せしむ。載は悉く減じ去り、戎人は感悦す。西上閤門使に遷り、成都府知府に改む。

原文郭載,字咸熙,開封浚儀人。父暉,右監門衛將軍、義州刺史。載蔭為右班殿直,累遷供奉官、閤門祗候。雍熙初,提舉西川兵馬捕盜事,太宗賜鞍馬、器械、銀錢以遣之。四年,以積勞加崇儀副使。召還,上言:「川、峽富人俗多贅婿,死則與其子均分其財,故貧者多。」詔禁之。端拱二年,擢引進副使、知天雄軍,入同勾當三班,出知秦州兼沿邊都巡檢使。先是,巡邊者多領兵騎以威戎人,所至頗煩苦之。載悉減去,戎人感悅。遷西上閤門使,改知成都府。

載が天雄軍に在りし時、屡々奏して市糴の朝臣段献可・馮侃等の市う所の粗悪なるを言い、軍人皆曰く、「此の物安んぞ食を充たすべけんや」と。太宗頗る疑い、使いて覆験せしむるに、報に及び、載の奏する所と同し。献可等は皆官を削るに坐し、仍ち填償せしむ。載が受代するに及び、献可等の市う所は皆支弁畢り、復た羨数有り。三司判勾馮拯以て聞こゆ。太宗は度支使魏羽を召して詰む。羽曰く、「献可等の市う所は粗悪に至らず、亦た欠数無し。臣は侃と親旧なり、是を以て未だ敢えて白せず」と。太宗曰く、「此れ公事爾、何を用て畏避せん」と。因りて詔して宰相に謂いて曰く、「此れ乃ち郭載の力奏する所、朕累ね卿等と議うに、皆実有りと云う。今支弁畢りて、頗る羨余有り、軍士復た詞訴無し。郭載、朕向に純誠を以て之を待つ、何為れぞ矯誣此に及ぶ。然れども已に西川に委ぬ、還る日を俟ち別に当に詰責すべし」と。是に於いて献可等悉く復官す。

原文載在天雄軍,屢奏市糴朝臣段獻可、馮侃等所市粗惡,軍人皆曰:「此物安可充食?」太宗頗疑,使覆驗之,及報,與戴奏同。獻可等皆坐削官,仍令填償。及載受代,獻可等所市皆支畢,復有羨數。三司判勾馮拯以聞,太宗召度支使魏羽詰之。羽曰:「獻可等所市不至粗惡,亦無欠數。臣與侃親舊,是以未敢白。」太宗曰:「此公事爾,何用畏避?」因詔宰相謂曰:「此乃郭載力奏,朕累與卿等議,皆云有實。今支畢,頗有羨餘,軍士復無詞訴。郭載,朕向以純誠待之,何為矯誣及此?然已委西川,俟還日別當詰責。」 於是獻可等悉復官。

載は行きて梓州に至る。時に李順已に乱を構え、日者潜かに載に告げて曰く、「益州必ず陷ん、公往かば禍を受くべし、数日少しく留まらば免るべし」と。載怒りて曰く、「吾詔を受けて方面を領す、阽危の際、豈に敢えて遷延せんや」と。即日成都に入る。順の兵城を攻むること益々急なり、拒守すること能わず、乃ち樊知古と僚属を率いて関を斬りて出で、余衆を以て梓州より剣門に趨り、招安使王継恩に随い兵を統べて順を討ち、之を平らげ、復た成都に入る。月余り、憂患病を成し、卒す。年四十。

原文載行至梓州,時李順已構亂,有日者潛告載曰:「益州必陷,公往當受禍,少留數日可免。」載怒曰:「吾受詔領方面,阽危之際,豈敢遷延邪?」即日入成都。順兵攻城益急,不能拒守,乃與樊知古率僚屬斬關出,以餘眾由梓州趨劍門,隨招安使王繼恩統兵討順,平之,復入成都。月餘,憂患成病,卒,年四十。

載は前に蜀に在りし時、頗る能く民の為に害を除き、故に蜀民之を悦ぶ。再び成都に至るや、即ち兵乱に値い、及び継恩に随い賊を平らぐるに、亦た全済する所有り。故に其の死するや、成都の人多く之を歎惜す。

原文載前在蜀,頗能為民除害,故蜀民悅之。再至成都,即值兵亂,及隨繼恩平賊,亦有所全濟。故其死也,成都人多歎惜之。

臧丙

原文臧丙

臧丙、字は夢寿、大名の人。弱冠にして学を好む。太平興国初年進士に挙げられ、解褐して大理評事、大寧監通判と為る。官は民に課して井を煮て塩と為し、丙の職兼ねて其の事を総ぶ。先ず、官は銭を給して薪を市うも、吏多く侵牟し、歳課充たざるに至り、械繫に坐する者常に数十百人。丙至るや、井戸を召して面して銭を付す。既にして市う薪山積し、歳塩致して羨数有り。

原文臧丙,字夢壽,大名人。弱冠好學。太平興國初舉進士,解褐大理評事,通判大寧監,官課民煮井為鹽,丙職兼總其事。先是,官給錢市薪,吏多侵牟,至歲課不充,坐械繫者常數十百人。丙至,召井戶面付以錢,既而市薪山積,歲鹽致有羨數。

太宗晋陽を平らげ、丙を以て右賛善大夫・遼州知州と為す。丙は素より剛果にして吏幹有り。会う同年生の馮汝士が秘書丞として石州を知り、監軍と協わず、一夕腹に刃を剚いて死す。事疑わし。丙上疏して汝士の死は自殺に非ずと言い、按治を乞う。上奏を覧て驚駭し、即ち使いを遣わして之を鞫し、丙を召して状を問う。丙曰く、「汝士は牧守の任に居り、私罪有りと聞かず、而して自殺と云う。若し冤死を明らかにせず、宿直者に罪を加えざれば、今後書生は辺郡を治むること能わざるべし」と。上其の直を嘉し、著作郎に改め、俄かに右拾遺・直史館に遷る。工部員外郎を加え、河東転運使を充て、俄かに本路営田使を兼ぬ。代わりて帰り、戸部郎中・同知審官院を授かる。

原文太宗平晉陽,以丙為右贊善大夫、知遼州。丙素剛果,有吏幹。會同年生馮汝士以秘書丞知石州,與監軍不協,一夕剚刃於腹而死,事可疑。丙上疏言汝士死非自殺,乞按治。上覽奏驚駭,即遣使鞫之,召丙問狀。丙曰:「汝士居牧守之任,不聞有私罪,而言自殺,若使冤死不明,不加宿直者以罪,今後書生不能治邊郡矣。」上嘉其直,改著作郎,俄遷右拾遺、直史館。加工部員外郎,充河東轉運使,俄兼本路營田使。代歸,授戶部郎中、同知審官院。

朝廷方に九寺の亜列を以て重しと為し、司農少卿に改む。淳化二年、右諫議大夫に拝し、出でて江陵府知府と為る。歳余り、疾有り。上之を聞き、中使及び尚医を遣わし馳せ往きて之を視しむるも、月を逾えて卒す。年五十三。上之を軫悼し、其の子待用を四門助教と為す。

原文朝廷方以九寺亞列為重,改司農少卿。淳化二年,拜右諫議大夫,出知江陵府。歲餘,疾。上聞之,遣中使及尚醫馳往視之,逾月卒,年五十三。上軫悼之,以其子待用為四門助教。

丙旧名は愚、字は仲回。既に孤となり、常に其の父が丙を召し偶々庭に立ち、空に向かいて指して曰く、「老人星見ゆ」と夢みる。丙仰ぎ之を視るに、黄明潤大なり。因りて望みて拝す。既に寤め、私に喜びて曰く、「吉祥なり」と。寿星は丙に出で丁に入るを以て、乃ち名を改む。是に至りて験無し。丙は礼に於いて名を更むべからず、古人は夢を数占するを戒め、妄りに喜ぶ無き也。

原文丙舊名愚,字仲回。既孤,常夢其父召丙偶立於庭,向空指曰:「老人星見矣。」丙仰視之,黃明潤大,因望而拜。既寤,私喜曰:「吉祥也。」以壽星出丙入丁,乃改名焉,至是無驗。丙於禮不當更名,古人戒數占夢,無妄喜也。

待用は金部郎中・東染院使・賀州刺史を歴任した。次子の列は進士に及第し、太常丞に至った。

原文待用歷金部郎中、東染院使、賀州刺史。次子列進士及第,至太常丞。

徐休復

原文徐休復

徐休復、字は廣初、濮州鄄城の人である。太平興国初年に進士に挙げられ、初官は大理評事・通判となった。転運使がその才能を推薦し、任を代わって帰朝し、太子右賛善大夫を授かり、著作郎・直史館に改められ、緋魚袋を賜り、左拾遺に遷った。六年、右補闕を加えられ、両浙東北路転運副使を充て、明州知州に移った。七年秋、召されて闕下に赴き、翌年、庫部員外郎・知制誥を授かった。九年、出て広州知州となり、この年、水部郎中を加えられた。雍熙二年、そのまま比部郎中に遷り、枢密直学士を充て、金紫を賜り、従前通り州の事を治めた。

原文徐休復,字廣初,濮州鄄城人。太平興國初舉進士,解褐大理評事、通判。轉運使薦其材,代歸,授太子右贊善大夫,改著作郎、直史館,賜緋魚,遷左拾遺。六年,加右補闕,充兩浙東北路轉運副使,移知明州。七年秋,被召赴闕,明年,授庫部員外郎、知制誥。九年,出知廣州,是歲,加水部郎中。雍熙二年,就遷比部郎中,充樞密直學士,賜金紫,依舊知州事。

休復は転運使王延範と不協であり、そこで延範が私かに術士を養い、過客を厚く待遇し、部下の吏を恩をもって撫で、故人韋務昇に書を送って隠語を作り、朝廷の事を偵察し、反状が既に備わっていると奏上した。詔して内侍閻承翰を遣わし、休復と共にこれを按問劾奏させ、遂に法に照らして処断した。

原文休復與轉運使王延範不協,乃奏延範私養術士,厚待過客,撫部下吏有恩,發書與故人韋務昇作隱語,偵朝廷事,反狀已具。詔遣內侍閻承翰與休復同按劾之,遂抵於法。

端拱初年、左諫議大夫を加えられ、召されて戸部使となった。淳化元年、使を罷め、給事中に遷り、続けて青州・潞州の二州の知州を務めた。休復は先に上言し、父母が青州に仮葬されているので、州事を領することを願い、それによって墳墓を営みたいと言った。青州に着いて一年余り経ったが、ただ財を聚め貨を殖やすだけで、終に葬事のことは言わなかった。潞州に着いて数ヶ月後、脳に腫瘍が生じた。やがて病が重くなると、王延範が見えるかのようで、休復はただ号呼して死罪と称するばかりであり、数日後に卒去した。享年五十三。

原文端拱初,加左諫議大夫,召為戶部使。淳化元年,罷使,遷給事中,連知青、潞二州。休復先上言,以父母槁葬青社,願得領州事,因營丘壟。至青州逾年,但聚財殖貨,終不言葬事。至潞州數月,瘍生於腦。既而疾甚,若見王延範,休復但號呼稱死罪,後數日卒,年五十三。

休復に他に能はなく、誥命を掌ることは甚だ不称職であり、行いも縉紳の間で称賛されることはなかったという。

原文休復無他能,掌誥命甚不稱職,履行不見稱於搢紳云。

張觀

原文張觀

張観、字は仲賓、常州毗陵の人である。江南において進士に及第した。宋に帰順し、彭原主簿となった。太平興国初年、興元府掾に移り、再び進士に挙げられず、雞沢主簿に調任された。再び試験を求め、特旨により忠武掌書記を授かり、そのまま観察判官に改められた。上に刺史を復活させること及び武徳卒を外州に遣わして事を偵察させないことを請うたところ、頗る上意に叶い、召されて監察御史に拝され、桂陽監使を充てた。自らの業とした文章を献上し、進士及第を賜った。

原文張觀,字仲賓,常州毗陵人。在江南登進士第。歸宋,為彭原主簿。太平興國初,移興元府掾,復舉進士不第,調雞澤主簿。再求試,特授忠武掌書記,就改觀察判官。上請復刺史及不遣武德卒詣外州偵事,頗稱旨,召拜監察御史,充桂陽監使。獻所業文,賜進士及第。

時に三司が剣外の賦税が軽いと上言したため、詔して観に駅伝に乗って諸州を巡行させ、それによって少し増やすよう命じた。観は上疏して言った。「遠方の民は軽々しく動揺させるべきではなく、これに因って撫でるのでさえ、その所を失うことを憂うるのに、況んや賦税を増してこれを擾乱することなどできようか。仮に穀物が豊かに蓄積され流れ出たとしても、これを輸送して京師に送れば、漕運はますます煩わしくなり、固よりよろしくない。あるいは兵を分けて食わせるにしても、これまた安んじて存する策ではなく、ただ民に怨みを募るだけで、国家の利益は見られない。」太宗は深くもっともだと思い、それによって留めて遣わさなかった。その後、再び上疏して言った。

原文會三司言劍外賦稅輕,詔觀乘傳按行諸州,因令稍增之。觀上疏言:「遠民不宜輕動撓,因而撫之,猶慮其失所,況增賦以擾之乎?設使積粟流衍,用輸京師,愈煩漕輓,固不可也。或以分兵就食,亦非安存之策,徒斂怨於民,未見國家之利。」太宗深以為然,因留不遣。其後,復上疏曰:

「臣は光寵を憑み、風憲の位に備わり、百官の起居の日ごとに遇うと、庭に分立し、儀に如かざる者を司察して挙げている。それによって陛下の天慈による優しい包容を見るに、多く近臣と政を論じ、徳音が往復し、頗る煩労でもある。至っては有司の職官が、意を承けて順い従い、簿書の煩雑なことを、皆上聞に及ぼしている。ただ至尊を褻瀆するのみならず、実にまた国体を軽んじて紊乱している。況や帝王の道は、言えば左史がこれを書き、動けば右史がこれを書き、緗素に列ねて、軌範として垂れるものであり、慎まざるべからざるものである。方今の急務とするところは、遠人が未だ服さず、辺境が安寧でないこと。陰陽が未だ序せず、倉廩がなお虚しいこと。淳朴が未だ還らず、奢侈の風がなお盛んなこと。県道が未だ治まらず、逃亡者がなお多いこと。刑法が未だ措かれず、禁令がなお厳密なこと。廃れた典章が未だ復せず、封祀がなお欠けていること。凡そこの数者は、皆朝廷の急務である。誠に願わくは陛下、聴断の暇、宴息の余に、大臣を体貌し、これをもって大要を論じさせ、心を沃し膝を造って、極意に論思せしめられよ。そうすれば治体と化源は、何れの所に至らざることがあろうか。

原文「臣憑借光寵,備位風憲,每遇百官起居日,分立於庭,司察不如儀者舉之。因見陛下天慈優容,多與近臣論政,德音往復,頗亦煩勞。至於有司職官,承意將順,簿書叢脞,咸以上聞,豈徒褻黷至尊,實亦輕紊國體。況帝王之道,言則左史書之,動則右史書之,列於緗素,垂為軌範,不可不慎也。若夫方今之急者,遠人未服,邊鄙不寧。陰陽未序,倉廩猶虛。淳樸未還,奢風尚熾。縣道未治,逋逃尚多。刑法未措,禁令猶密。墜典未復,封祀猶闕。凡此數者,皆朝廷之急務也。誠願陛下聽斷之暇,宴息之餘,體貌大臣,以之揚榷,使沃心造膝,極意論思,則治體化源,何所不至?

臣はまた嘗て唐史を読み、貞観初年に始めて崇文館を置き、学士・耆儒を命じて更に直し互いに進み、朝を聴く際には内殿に入って文義を講論し、時政を商榷したことを見た。或いは日が暮れるまで倦むことを忘れ、或いは夜半に至って初めて罷めた。これを信史に書き記し、不朽として垂れた。況んや陛下の左右前後は、皆端士偉人である。伏して望むらくは、循常の務めを釈め、浩然の気を養い、深く近臣に詔して、玄風を闡揚せしめ、上は祖宗のために無疆の美を播き、下は子孫のために不抜の業を建てられよ。それと金穀を較量し、毫厘を剖析し、有限の光陰を以て、無涯の細務に役せられることと、どうして同年に語ることができようか。」

原文臣又嘗讀唐史,見貞觀初始置崇文館,命學士、耆儒更直互進,聽朝之際,則入內殿講論文義,商榷時政。或日旰忘倦,或宵分始罷,書諸信史,垂為不朽。況陛下左右前後,皆端士偉人,伏望釋循常之務,養浩然之氣,深詔近臣,闡揚玄風,上為祖宗播無疆之休,下為子孫建不拔之業。與夫較量金穀,剖析毫厘,以有限之光陰,役無涯之細務者,安可同年而語哉!」

上はこれを覧て称賛し、召して緋魚袋を賜い、度支判官とした。

原文上覽而稱之,召賜緋魚,以為度支判官。

一年余りして、左司に遷り、塩鉄判官に改まった。嘗て奏事によって上に白して言った。「陛下は淳化を敦むることに務め、殿宇の采飾を皆撤去し、ただ朴素を尚ばれることは、天下の幸いである。しかし服御の器用についても、臣は純粋で倹約なものに従われることを願います。」上は言った。「朕は諸事簡約であり、至って着用するものは多く絁絹を用い、皆洗濯したものである。卿の言は甚だ善い。」観は頓首して謝した。観は数度省署及び長春殿の次中に在り、その使李惟清に事を諮り、弁説が食い違い、礼容を失った。惟清は甘んじることができず、それによってその任を解くよう奏上した。観は抗章して論列し、上もまたその過失のないことを察したので、間もなく旧職を再授した。また仏寺の修治を罷めるよう諫めたが、報いられなかった。俄かに出て諸路茶塩制置副使となり、上疏して茶塩の制を改めることは理に便ならずと言い、上意に合わず、黄州知州に改められ、揚州に遷り、いずれも善政があった。

原文歲餘,遷左司,改鹽鐵判官。嘗因奏事白上曰:「陛下務敦淳化,殿宇采飾,皆徹去之,惟尚樸素,天下幸甚。然於服御器用,臣願亦從純儉。」上曰:「朕庶事簡約,至於所服,多用絁絹,皆經浣濯爾,卿言甚善。」觀頓首謝。觀數在省署及長春殿次中,諮事於其使李惟清,辨說牴牾,失禮容,惟清不能甘,因奏解其任。觀抗章論列,上亦察其無失,故未幾復授舊職。又諫罷治佛寺,不報。俄出為諸路茶鹽制置副使,上疏言更茶鹽之制,於理非便,不合旨,改知黃州,遷揚州,皆有善政。

時に三司が旧制を改め、州県の籍を均してその職を分けることとなり、召されて三司河東道判官となった。詔があり、計司の官属は越局して他の事を言ってはならないとされた。観は自ら諫官を任じていたので、上書して拾遺補闕の職を指陳し、事を言うのは固より当然であるとして、詔に奉じなかった。上は怒り、宰相に言った。「朕は三司の僚属に各々その職に率いるよう戒めたのであって、諫官に時務を言わざることを命じたのではない。観は妄りに援引し、以て朕を諷刺した。暫くは容忍し、深く責めようとは思わない。」そこで出て道州知州とし、広南西路転運使に移した。交州の黎桓が乱兵に殺され、丁濬が復位したという事を奏上したことが事実でないことに坐し、弾劾された。獄が未だ決せぬうちに、桂州で卒去した。享年五十三。

原文會三司改舊貫,均州縣之籍以分其職,召為三司河東道判官。有詔計司官屬不得越局言他事,觀自以任諫官,乃上書指陳拾遺補闕之職,言事固當然,不奉詔。上怒,謂宰相曰:「朕俾警三司僚屬各率其職,非令諫官不言時務,觀乃妄有援引,以諷刺朕,姑為容忍,不欲深責。」乃令出知道州,移廣南西路轉運使。坐奏交州黎桓為亂兵所殺、丁濬復位事不實,被劾。獄未具,卒於桂州,年五十三。

観は広く『漢書かんじょ』・『史記しき』を覧、雅に事を論ずることを好み、辞理が切実で率直であり、古人の風があった。

原文觀廣覽《漢》、《史》,雅好論事,辭理切直,有古人之風焉。

論ずるに、保勳はその子に従って死事に殉じ、宋璫は己れの身を忘れて民を恤み、臧丙は友誼を信じて枉を明らかにす、その履歴するところ、皆観るに足るものあり。中正は粗く風紀を振るうも峻深にして恕寡く、袁廓は剛狷誇誕にして寵任を徼り、承恭は平恕にして止むを知るも佞佛を好み、固より皆善に尽くすに至らず。知古は首めて征南の謀を献じ、遂に試用の階と為るも、その旧都に轡を攬るや、猶宿怨を尋ね、昔人の所謂私怨を以て郷党の好を廃せざる者と異なり。郭載は矯誣を肆に為し、而して恚を懐いて死し、休復は慎終の孝を虧き、而して人を禍に致すを楽しまば、庸ぞ議するに足らんや。若し観の忠讜を献納し、体要を識達するは、則ち又た嘉すべき者なり。

原文論曰:保勳從其子以死事,宋璫忘其身以恤民,臧丙信友誼以明枉,其所履歷,皆有足觀。中正粗振風紀而峻深寡恕,袁廓剛狷誇誕以徼寵任,承恭平恕知止而好佞佛,固皆未盡於善。知古首獻征南之謀,遂階試用,而其攬轡舊都,猶尋宿怨,與昔人所謂不以私怨惡廢鄉黨之好者異矣。郭載肆為矯誣,而懷恚以死;休復虧慎終之孝,而樂致人於禍,庸何議焉?若觀之獻納忠讜,識達體要,則又可嘉者也。

陳從信

原文陳從信

陳從信、字は思齊、亳州永城の人なり。恭謹にして強力、心計精敏なり。太宗の晋邸に在らしむる時、財用を典せしめ、王宮の事大小を問わず悉く之に委ぬ。累官して右知客押衙に至る。

原文陳從信,字思齊,亳州永城人。恭謹強力,心計精敏。太宗在晉邸,令典財用,王宮事無大小悉委焉。累官右知客押衙。

開寶三年秋、三司言う、倉儲の月給、明年二月に止むと。請う、諸軍を分屯し民船を尽く率い、以て江・淮の漕運を資せんと。太祖大いに怒り、之を責めて曰く、「国に九年の蓄無きを不足と曰う。爾素より計らずして倉儲を垂尽からしめ、乃ち屯兵を請い民船を括して以て運ばしむ、是れ卒に致すべきか。今汝を設くるも安んぞ用いん。苟くも闕くるところあらば、当に汝を罪して以て衆に謝せん」と。三司使楚昭輔懼れ、太宗に詣りて寬釋を求め、力を尽くさしめんとす。太宗既に許し、從信を召して之を問う。對えて曰く、「從信嘗て楚・泗に遊び、糧運の患を知る。良に舟人の食とするに、日を歷て郡縣勘給するを以て、是を以て凝滯す。若し舟を発するより日を計り往復して併せ支うれば、以て其の程限を責むべし。又た楚・泗にて米を舟に運び、京に至りて復た輦して倉に入る、宜しく運卒を宿備し、即時に出納せしむべし。此くの如くせば、毎運数十日を減ずべし。楚・泗より京に至る千里、旧八十日一運、一歳三運。若し淹留の虚日を去らば、則ち歳に一運を増すべし。今三司民舟を籍せんと欲す、若し許さざれば則ち以て辦を責むる無く、之を許せば則ち冬中京師の薪炭殆ど絶えん。舟の堅き者を募りて糧を漕し、其の損敗する者に薪炭を載せしむるに任せば、則ち公私俱に済はん。今市米騰貴し、官価斗錢七十、賈する者利を失い、敢えて京師に致す無く、商と雖も厚く儲くるも匿して糶さず、是を以て米益々貴く、民将に餓殍せんとす。若し民の自便に聽かば、即ち四方奔湊し、米多きに價自ずから賤し」と。太宗明日具に奏す、太祖之を可とす、其の事果たして集まる。

原文開寶三年秋,三司言倉儲月給,止及明年二月,請分屯諸軍盡率民船,以資江、淮漕運。太祖大怒,責之曰:「國無九年之蓄曰不足,爾不素計而使倉儲垂盡,乃請屯兵括民船以運,是可卒致乎?今設汝安用?苟有所闕,當罪汝以謝眾!」三司使楚昭輔懼,詣太宗求寬釋,使得盡力。太宗既許,召從信問之,對曰:「從信嘗遊楚、泗,知糧運之患。良以舟人之食,日歷郡縣勘給,是以凝滯。若自發舟計日往復並支,可以責其程限。又楚、泗運米於舟,至京復輦入倉,宜宿備運卒,令即時出納,如此,每運可減數十日。楚、泗至京千里,舊八十日一運,一歲三運。若去淹留之虛日,則歲可增一運焉。今三司欲籍民舟,若不許,則無以責辦,許之,則冬中京師薪炭殆絕矣。不若募舟之堅者漕糧,其損敗者任載薪炭,則公私俱濟。今市米騰貴,官價斗錢七十,賈者失利,無敢致於京師,雖居商厚儲亦匿而不糶,是以米益貴,民將餓殍。若聽民自便,即四方奔湊,米多而價自賤矣。」太宗明日具奏,太祖可之,其事果集焉。

太宗即位し、東上閤門使に遷し、枢密都承旨を充つ。会うに八作副使綦廷珪、疾を因りて假滿つるも籍を落さず、愈ゆる日朝參せず、即ち班中に入る。宣徽使潘美・王仁贍並びに坐して奉を一季奪われ、從信と閤門使商鳳は責められ閑廄使・閤門祗候を授けられ、余は罪に抵るに差あり。太平興国三年、左衛將軍に改め、復た枢密都承旨と為る。太宗幷・汾を征し、以て大内副部署と為す。七年、秦王廷美の事に坐し、本官を以て罷む。明年、三部に分使し、從信を以て度支使と為し、第を浚儀宝積坊に賜い、右衛大將軍を加う。九年、卒す、年七十三、太尉を贈らる。

原文太宗即位,遷東上閤門使,充樞密都承旨。會八作副使綦廷珪,因疾假滿不落籍,愈日不朝參,即入班中,宣徽使潘美、王仁贍並坐奪奉一季,從信與閤門使商鳳責授閑廄使、閤門祗候,餘抵罪有差。太平興國三年,改左衛將軍,復為樞密都承旨。太宗征幷、汾,以為大內副部署。七年,坐秦王廷美事,以本官罷。明年,分使三部,以從信為度支使,賜第於浚儀寶積坊,加右衛大將軍。九年,卒,年七十三,贈太尉。

從信方術を好み、李八百と云う者あり、自ら八百歳と言う。從信之に事えて甚だ謹み、其の術を傳えんことを冀うも、竟に得る所無し。又た侯莫陳利用と云う者あり、為す所多く法に不法、始め從信の推薦に因り、人以て是を以て之を少くす。

原文從信好方術,有李八百者,自言八百歲,從信事之甚謹,冀傳其術,竟無所得。又侯莫陳利用者,所為多不法,始因從信推薦,人以是少之。

張平

原文張平

張平、青州臨朐の人なり。弱冠にして単州に寓し、刺史羅金山に依る。金山滁州に移り、平を署して馬歩都虞候と為す。太宗京兆を尹とし、其の邸を置く。秦王廷美貴州を領するに及び、復た署して親吏と為す。後数年、平が府中の錢物を匿すを譖る者有り、秦王太宗に白して之を鞫すも、状無し。秦王益々喜ばず、遂に遣り去らしむ。太宗其の罪に非ざるを憐れみ、以て徐帥高繼冲に属す。繼冲署して鎮将と為す。平歎じて曰く、「吾が命蹇たりと雖も、後必ずしも福と為らざる無からん」と。

原文張平,青州臨朐人。弱冠寓單州,依刺史羅金山。金山移滁州,署平馬步都虞候。太宗尹京兆,置其邸。及秦王廷美領貴州,復署為親吏。後數年,有譖平匿府中錢物,秦王白太宗鞫之,無狀,秦王益不喜,遂遣去。太宗憐其非罪,以屬徐帥高繼冲,繼冲署為鎮將。平歎曰:「吾命雖蹇,後未必不為福也。」

太宗即位し、召して右班殿直を補し、秦・隴に市木を監む。平悉く制を新たにし、都務を建て、水陸の費を計り、春秋二時に巨筏を聯ね、渭より河に達し、砥柱を歷て以て京に集む。期歳の間、良材山積す。太宗其の功を嘉し、供奉官・陽平都木務監兼造船場に遷す。旧官舟を造り既に成るも、河流湍悍なるを以て、其の漂失を備え、凡そ一舟に三戶を調して之を守らしめ、歳に戶数千を役す。平遂に池を穿ち水を引き、舟を其中に繫ぎ、復た民を調せず。寇陽拔華と云う者有り、関輔の間を往来し、患を為すこと積年、朝廷内侍を命じ数州の兵を督して之を討たしむも、克たず。平好辞を以て人を遣わし之を説かしむ、遂に来帰す。崇儀副使に改め、仍其の務を領す。凡そ九年、計りて官錢八十萬緡を省く。

原文太宗即位,召補右班殿直,監市木秦、隴,平悉更新制,建都務,計水陸之費,以春秋二時聯巨筏,自渭達河,歷砥柱以集於京。期歲之間,良材山積。太宗嘉其功,遷供奉官、監陽平都木務兼造船場。舊官造舟既成,以河流湍悍,備其漂失,凡一舟調三戶守之,歲役戶數千。平遂穿池引水,繫舟其中,不復調民。有寇陽拔華者,往來關輔間,為患積年,朝廷命內侍督數州兵討之,不克。平以好辭遣人說之,遂來歸。改崇儀副使,仍領其務。凡九年,計省官錢八十萬緡。

雍熙初、召し還され、同知三班事と為り、如京使に遷る。三年、西上閤門使に改む。纔に三月、又た客省使に改む。四年、王明に代わり鹽鐵使と為る。平陽平署を掌ること積年、是の秋、陝西轉運使李安其の旧陽平にて姦利を為せしを発すと聞き、憂恚して疾を成し卒す、年六十三。朝を廢し、右千牛衛上將軍を贈り、官葬具を給す。

原文雍熙初,召還,同知三班事,遷如京使。三年,改西上閤門使。才三月,又改客省使。四年,代王明為鹽鐵使。平掌陽平署積年,是秋,聞陝西轉運使李安發其舊為陽平姦利,憂恚成疾而卒,年六十三。廢朝,贈右千牛衛上將軍,官給葬具。

平史傳を好み、微時に異書に遇えば、尽日耽玩し、或いは衣を解きて之に易う。貴に及び、書数千卷を聚む。彭門に在る日、郡吏平を侮る者数輩有り、後悉く罪せられ京窯務に配す。平の子從式適其の役を董むるに、之を見て、以て平に語る。平之を第に召し、為に酒饌を設け之を勞して曰く、「公等不幸、偶々斯の患に罹る、慎んで以前を念うること無かれ」と。緡錢を給し、且つ從式に戒めて善く之を視さしむ。未だ幾ばくもせず、赦に遇い原を得、時人其の寬厚を稱す。從式太宗の藩邸に事え、累官して文思使に至る。

原文平好史傳,微時遇異書,盡日耽玩,或解衣易之。及貴,聚書數千卷。在彭門日,郡吏有侮平者數輩,後悉被罪配京窯務。平子從式適董其役,見之,以語平。平召至第,為設酒饌勞之,曰:「公等不幸,偶罹斯患,慎勿以前為念。」給以緡錢,且戒從式善視之。未幾,遇赦得原,時人稱其寬厚。從式事太宗藩邸,累官文思使。

子 從吉

原文子 從吉

次子從吉、蔭を以て殿直を補し、轉じて供奉官・宜州知州と為り、屢溪蠻を破る。轉運使堯叟其の状を上す、累遷して内殿崇班・閤門祗候に至る。在任凡そ八年、代わり還り、如京副使と為る。咸平中、環州知州、嘗て宋沆と率いて兵を将い西夏を襲うも、小衄す。部署張凝其の専を表し、責められ内殿崇班を授く。俄に澧州知州、旧秩を復す。景德四年、宜州軍校陳進叛く、命じて曹利用の副と為し広南東・西路安撫使とし、兵を将いて之を討たしむ。象州大鳥砦に次ぎ、賊と戦い、進は先鋒郭志言に刺さる。遂に城に入り、首六十級を斬る。賊を平ぐる功を以て、莊宅副使に改む。未だ還らざるに卒す、年四十九。

原文次子從吉,以蔭補殿直,轉供奉官、知宜州,屢破溪蠻。轉運使堯叟上其狀,累遷內殿崇班、閤門祗候。在任凡八年,代還,為如京副使。咸平中,知環州,嘗與宋沆率兵襲西夏,小衄,部署張凝表其專,責授內殿崇班。俄知澧州,復舊秩。景德四年,宜州軍校陳進叛,命副曹利用為廣南東、西路安撫使,將兵討之。次象州大鳥砦,與賊戰,進為先鋒郭志言所刺,遂入城,斬首六十級。以平賊功,改莊宅副使。未還,卒,年四十九。

王繼升

原文王繼升

王繼升、冀州阜城の人なり。性純質謹願。太宗に藩邸に事え、太宗之を信任す。即位し、供奉官を補し、累遷して軍器庫副使に至る。陳洪進來り漳・泉の地を献ず、繼升を以て泉州兵馬都監と為す。会うに遊洋洞民萬餘叛き、泉を攻む。繼升潜に精騎二百を率い夜撃ち之を破り、其の魁を擒え、械して闕下に送る。余黨悉く平ぐ。召し還され、軍器庫使に遷り、順州刺史を領し、諸道陸路発運事を知る。

原文王繼升,冀州阜城人。性純質謹願。事太宗於藩邸,太宗信任之。即位,補供奉官,累遷軍器庫副使。陳洪進來獻漳、泉之地,以繼升為泉州兵馬都監。會遊洋洞民萬餘叛,攻泉,繼升潛率精騎二百夜擊破之,擒其魁,械送闕下,餘黨悉平。召還,遷軍器庫使,領順州刺史,知諸道陸路發運事。

雍熙四年、諸道の水陸発運を一つの司に併合し、継升を刑部員外郎董儼とともにその事を掌らせたところ、称職と号された。まもなく右神武軍将軍に遷る。端拱初年、本州団練使を領するよう改められ、三月に卒去、六十四歳。太宗は大いに嘆悼し、洋州観察使を贈られ、葬事は官が給した。子に昭遠あり。

原文雍熙四年,以諸道水陸發運併為一司,命繼升與刑部員外郎董儼同掌其事,號為稱職。俄遷右神武軍將軍。端拱初,改領本州團練使,三月,卒,年六十四。太宗頗嗟悼,贈洋州觀察使,葬事官給。子昭遠。

子 昭遠

原文子 昭遠

昭遠は、体躯魁偉で色黒く、継升はこれを「鉄山」と名づけた。膂力あり、騎射に長ず。少時、山に入り鷹・鶻を捕らえんとし、澗水が十余丈も暴漲したのに遭い、昭遠は大樹に登り、一晩を経て免れた。かつて河を渡り、氷が陥没し、二人が傍らで共に引き出したが、昭遠は神色自若であった。里中の悪少年と遊び交わるのを好み、ある日、衆が里神を祀っていると、昭遠がちょうど来たので、ある者が博戯の投子を授け、「汝、他日にもし節鉞を得たら、試みにこれを擲って占ってみよ」と言うと、昭遠が一擲すると、六つの歯が皆赤かった。

原文昭遠,形質魁偉,色黑,繼升名之「鐵山」。有膂力,善騎射。少時入山捕鷹鶻,值澗水暴漲十餘丈,昭遠升大樹,經宿得免。嘗涉河,冰陷,二人傍共援出之,昭遠神色自若。喜與里中惡少遊處,一日,眾祀里神,昭遠適至,有以博投授之,謂曰:「汝他日儻有節鉞,試擲以卜之。」昭遠一擲,六齒皆赤。

南遊して京師に至り、太宗に晋邸で仕え、特に親遇を受け、常にその小字で呼ばれた。即位すると、殿前指揮使に補され、次第に都知に遷る。太原征従に従い、先登して流れ矢に中り、血が甲の縷に染みたが、戦いをますます急にした。ちょうど劉継元が降伏したので、城門を守り、兵仗を籍することを命ぜられた。また范陽征従に従い、多くを擒獲し、散員指揮使を超授された。

原文南遊京師,事太宗於晉邸,特被親遇,常呼其小字。及即位,補殿前指揮使,稍遷都知。從征太原,先登,為流矢所中,血漬甲縷,戰益急。會劉繼元降,命守城門,籍兵仗。又從征范陽,多所擒獲,超散員指揮使。

涪王が房陵に遷されたとき、禁衛諸校の楊均・王栄らは依附したことで譴責を受けたが、ただ昭遠だけは関与せず、太宗はこれを忠と認めた。再び東西班都虞候に遷り、殿前班都指揮使に転じ、寰州刺史を領した。馬歩軍都軍頭に改め、伝駅に乗じて鎮・定・高陽関に赴き、兵を募って契丹に備えることを命ぜられた。また冀州駐泊都監となり、まもなく沢州団練使・洺州都部署を授かる。太宗はしばしばその才能を称え、急使に備えるに足るとした。

原文涪王之遷房陵也,禁衛諸校楊均、王榮等以依附被譴,獨昭遠無所預,太宗以為忠。再遷東西班都虞候,轉殿前班都指揮使,領寰州刺史。改馬步軍都軍頭,命乘傳鎮、定、高陽關,募兵以備契丹。又為冀州駐泊都監,俄授澤州團練使、洺州都部署。太宗屢稱其能,可備急使。

端拱初年、召されて殿前都虞候となり、勤州防禦使を領した。役人に命じて綾錦院を公署として整えさせると、地を掘って山形の鉄を得た。ある者が言うには、この地は即ち鉄山の故営であり、また昭遠の幼名と合致するというので、聞く者これを異とした。太宗はかつて紈扇に草書で古詩を書き、諸将に賜ったが、その意は多く比喩諷諫を含み、昭遠に賜ったものは、特に賞遇を加えられた。二年、沙州観察使を領し、再び幷・代副都部署となる。至道年間、李継遷が西辺を擾乱し、霊武の糧道を絶ったので、昭遠を霊州路都部署とし、二十五州の芻粟を護送させたところ、ついに霊武に達し、継遷は敢えて犯さなかった。

原文端拱初,召為殿前都虞候,領勤州防禦使。命有司治綾錦院為公署,掘地得鐵若山形,或言此地即鐵山故營,又與昭遠幼名合,聞者異之。太宗嘗草書紈扇,作古詩賜諸將,意多比諷,其賜昭遠,尤加賞遇。二年,領沙州觀察使,再為幷、代副都部署。至道中,李繼遷擾西鄙,絕靈武糧道,命昭遠為靈州路都部署,護二十五州芻粟,竟達靈武,繼遷不敢犯。

真宗即位すると、定州行営都部署に移る。まもなく、保静軍節度使を拝し、天雄軍都部署・知府事を充てる。咸平二年、河陽知事に移り、数ヶ月で卒去、五十六歳。時に車駕は大名におり、朝を廃した。太尉を贈られ、諡して恵和と曰い、中使が葬事を護った。

原文真宗即位,徙定州行營都部署。未幾,拜保靜軍節度使,充天雄軍都部署、知府事。咸平二年,移知河陽,數月卒,年五十六。時車駕在大名,為廢朝。贈太尉,諡惠和,中使護葬。

昭遠はやや書を読み知り、性吝嗇にして、至るところ善政無し。同母弟の昭懿もまた晋邸に仕え、捧日都虞候に至った。弟の昭遜は、西京作坊使。初め、祖母の郭氏がかつて昭遠の母に対し昭遠を指して「この児は貴相あり、他日必ず公侯に至らん」と言い、昭懿を指して「この児は俸銭二万を過ぎれば、堪えられぬであろう」と言ったが、果たして皆その言の如くなった。

原文昭遠頗知書,性吝嗇,所至無善政。母弟昭懿亦事晉邸,至捧日都虞候。弟昭遜,西京作坊使。初,祖母郭氏嘗對昭遠母指昭遠曰:「此兒有貴相,他日必至公侯。」指昭懿曰:「此兒奉錢過二萬,不能勝矣。」果皆如其言。

昭遠の子、懐普は九歳で太宗の側近に仕え、西京左蔵庫使・平州刺史に至る。懐一は供備庫副使。懐正は内殿承制。懐英は内殿崇班。

原文昭遠子懷普,九歲事太宗左右,至西京左藏庫使、平州刺史。懷一,供備庫副使。懷正,內殿承制。懷英,內殿崇班。

尹憲

原文尹憲

尹憲は、幷州晋陽の人。開宝年中、太宗に藩邸で仕える。太宗即位すると、殿直に抜擢され、延州保安軍使を充て、供奉官に改まる。太平興国四年、府州の屯兵を護り、鄜州の三族と会して嵐州を攻め、敵千余衆を破り、偽の知嵐州事馬延忠を擒え、縁河の諸砦を抜く。功により西京作坊副使に転ず。朔州界に入り、寧武軍を破り、その軍使を殺し、人馬・器甲を多く獲る。夏州兵を護るよう改め、供備庫使に転ず。三氵義・醜奴荘・岌伽羅膩葉の十四族を殺戮し、その渠帥を誘う。詔書を屡降して褒め称えられる。雍熙初年、詔により夏州知事とし、地斤沢において李継遷の衆を攻め破り、継遷は遁走し、四百余帳を俘獲する。配下において諸帳を抽移し、別に騎兵を置き、平砦と号してその用に備えることを奏請し、詔はこれに従う。まもなく蘆関及び南山の野狸数族を殺し、諸族は遂に擾乱す。代わって還り、洪州巡検となる。まもなく、莫州屯兵を護ることを命ぜられる。

原文尹憲,幷州晉陽人。開寶中,事太宗於藩邸。太宗即位,擢為殿直,充延州保安軍使,改供奉官。太平興國四年,護府州屯兵,與鄜州三族會攻嵐州,破敵千餘眾,擒偽知嵐州事馬延忠,拔緣河諸砦。以功轉西京作坊副使。入朔州界,破寧武軍,殺其軍使,獲人馬、器甲甚眾。改護夏州兵,轉供備庫使。殺戮三氵義、醜奴莊、岌伽羅膩葉十四族,及誘其渠帥。屢降詔書褒美。雍熙初,詔就知夏州,攻破李繼遷之眾於地斤澤,繼遷遁走,俘獲四百餘帳。奏請於所部抽移諸帳,別置騎兵,號曰平砦,以備其用,詔從之。俄殺蘆關及南山野狸數族,諸族遂擾。代還,為洪州巡檢。未幾,命護莫州屯兵。

三年、詔して瀛州知事兼兵馬鈐轄とし、富州刺史を領し、東上閤門使に遷る。端拱二年、滄州知事となり、邢州に移り、皆鈐轄を兼ねる。淳化初年、王文宝とともに四方館使に命ぜられ、連続して鎮・定州の屯兵を護る。貝州知事に改め、高陽関兵馬鈐轄に移る。五年、定州知事となり、兵馬部署の王栄と協わず。栄は元来粗暴で、忿って憲を殴り倒したため、憲は怏怏として疾を致し、数日で卒去、六十三歳。

原文三年,詔知瀛州兼兵馬鈐轄,領富州刺史,遷東上閤門使。端拱二年,知滄州,移邢州,皆兼鈐轄。淳化初,與王文寶並命為四方館使,連護鎮、定州屯兵。改知貝州,移高陽關兵馬鈐轄。五年,知定州,與兵馬部署王榮不協。榮素粗暴,因忿毆憲仆地,憲怏怏致疾,數日卒,年六十三。

王賓

原文王賓

王賓は、許州許田の人。小心で謹直。十余歳で宣祖の側近に仕え、長じて騎射に長ず。太宗が兗海節度を領すると、太祖はこれをもって府中の右職に任ず。太平興国初年、東頭供奉官・亳州監軍に補される。賓の妻は嫉妬深く悍ましく、賓はこれを制することができず、当時監軍は任所に家を携えることを許されなかったが、妻が擅に亳に至ったので、賓は詳しく上奏した。太宗はその妻を召し、衛士に捽かせて杖百を加え、妻は忠靖卒に配され、一夕で死す。賓は儀鸞副使に遷り、内酒坊を領す。

原文王賓,許州許田人。小心謹願。年十餘,事宣祖左右,及長,善騎射。太宗領兗海節制,太祖以署府中右職。太平興國初,補東頭供奉官、亳州監軍。賓妻妒悍,賓不能制,時監軍不許挈家至任所,妻擅至亳,賓具白上。太宗召其妻,俾衛士捽之,杖百,以妻忠靖卒,一夕死。遷賓儀鸞副使,領內酒坊。

太原征従に従い、また范陽征従に従い、彰信節度使劉遇とともに城の東面を攻める。五年、車駕が北巡するに当たり、王仁贍の副として大内都部署となる。七年、洛苑使に改まる。ちょうど汴漕が滞り、軍食が給せず、詔して別に水陸発運の両司を置き、賓に心計ありとして、演州刺史を領し、儒州刺史許昌裔とともにその事を掌らせた。凡そ四年、儲積が増加し羨余を生じ、称職と号され、まもなく右神武将軍に改まる。

原文從征太原,又從征范陽,與彰信節度劉遇攻城東面。五年,車駕北巡,副王仁贍為大內都部署。七年,改洛苑使。會汴漕壅滯,軍食不給,詔別置水陸發運兩司,以賓有心計會,領演州刺史,與儒州刺史許昌裔同掌其事。凡四年,儲積增羨,號為稱職,俄改右神武將軍。

黎陽は舟車の交會する地に當たり、禁兵常に萬餘を屯し、度支使張遜の薦めにより、賓をして黎陽軍を護らしめ、兼ねて黄・御兩河發運事を領せしめ、俄に本州團練使を領す。賓の請ふに黎陽に通利軍を建つるにより、命じて就て軍事を知らしむ。賓公署・郵館を規起し、供帳の器咸く具はる。本軍大將軍を加へ、歲別に錢二百萬を給し、俄に河北水陸路轉運使を兼ぬ。

原文黎陽當舟車交會,禁兵常屯萬餘,以度支使張遜薦,命賓護黎陽軍,兼領黃、御兩河發運事,俄領本州團練使。以賓請黎陽建通利軍,命就知軍事。賓規起公署、郵館,供帳之器咸具。加本軍大將軍,歲別給錢二百萬,俄兼河北水陸路轉運使。

貝州の兵屯に壁壘無く、分かれて邸肆に寓す、賓隙地を選び舍千二百餘を築きて之を處す、優詔を以て褒美す。召して右羽林大將軍・判左金吾兼六軍諸衛儀仗司事と為す。淳化四年、出でて揚州を知り兼ねて淮南發運使と為り、徙めて通許鎮都監と為る。至道元年、卒す、年七十三、賻贈加等す。

原文貝州兵屯無壁壘,分寓邸肆,賓選隙地築舍千二百餘以處之,優詔褒美。召為右羽林大將軍、判左金吾兼六軍諸衛儀仗司事。淳化四年,出知揚州兼淮南發運使,徙為通許鎮都監。至道元年,卒,年七十三,賻贈加等。

賓宣祖・太祖・太宗に事へ殆ど六十年、最も勤舊なり、故に恩寵尤も異なり、前後賜賚數千萬、俱に釋氏を奉ず。黎陽に在る日、古寺の基を按見し、即ち奉錢を以て之を修め、地を掘ること丈餘、數石佛及び石碣を得、賓の姓名有り、賓其の事を異として聞す。詔して寺を名づけて淳化と為し、新印經一藏・錢三百萬を賜ひて以て之を助く。

原文賓事宣祖、太祖、太宗殆六十年,最為勤舊,故恩寵尤異,前後賜賚數千萬,俱奉釋氏。在黎陽日,按見古寺基,即以奉錢修之,掘地丈餘,得數石佛及石碣,有賓姓名,賓異其事以聞。詔名寺為淳化,賜新印經一藏、錢三百萬以助之。

安忠

原文安忠

安忠は河南洛陽らくようの人なり。祖叔千は晉に仕へ累ねて方鎮を任じ、太子太師を以て致仕す。父延韜は左清道率府率なり。忠形質魁岸、書を知らず、纔に姓名を通ずるのみ。太宗の藩邸に事ふること殆ど二十年、太宗即位し、東頭供奉官を授け、弓箭庫を掌る。内弓箭庫副使・西京作坊使に遷り、翰林司・內衣庫を掌り、醫官院を提點し、兵を屯すこと雄州に於て掌る。

原文安忠,河南洛陽人。祖叔千,仕晉累任方鎮,以太子太師致仕。父延韜,左清道率府率。忠形質魁岸,不知書,才通姓名而已。事太宗藩邸殆二十年,太宗即位,授東頭供奉官,掌弓箭庫。遷內弓箭庫副使、西京作坊使,掌翰林司、內衣庫,提點醫官院,掌屯兵於雄州。

會に曹彬拒馬河に敗る、忠砦兵を分ちて緣邊に布列し、以て遊騎に備へ、又河を鑿ち城壁を葺く。俄に威虜軍に徙め、又鎮定路大陣の左廂に隷し、就て東上閤門使に擢ぐ。大將李繼隆・田重進・崔翰と與に契丹兵を祁州の北に追ひ、詔書を以て獎飭す。端拱元年、移して高陽關屯兵を護る。契丹鎮・定を侵し、又崔翰と與に之を拒ぐ。傅潛瀛州に陣し、忠城の西面に當る。二年、徙めて壽州を知り、月を踰へ、貝州に移す。劇賊十二人久しく民患と為る有り、忠之を捕へ、悉く獲る。

原文會曹彬敗於拒馬河,忠分砦兵布列緣邊,以備遊騎,又鑿河葺城壁。俄徙威虜軍,又隸鎮定路大陣之左廂,就擢東上閤門使。與大將李繼隆、田重進、崔翰追契丹兵祁州北,詔書獎飭。端拱元年,移護高陽關屯兵。契丹侵鎮、定,又與崔翰拒之。傅潛陣於瀛州,忠當城之西面。二年,徙知壽州,逾月,移貝州。有劇賊十二人久為民患,忠捕之,悉獲。

淳化四年、左金吾街仗を判ず。王賓出でて揚州を知るに、忠を以て代はりて左龍武軍大將軍と為す。忠泣きて請ふ「諸衛將軍朝外に列し、左右を迎ふるを得ず、願くは舊職に復せん」と。上笑ひて曰く「環列の官は古き官なり。大將軍三品、汝終に朝廷表著の位を知らざるなり」と。因りて其の請に從ふ。俄に東上閤門使に復し、淮南諸州兵馬鈐轄を充つ。至道三年、病を以て歸を求め、泗州に至りて卒す、年六十四。天禧元年、其の孫惟慶を錄して殿直と為す。

原文淳化四年,判左金吾街仗。王賓出知揚州,以忠代為左龍武軍大將軍。忠泣請:「諸衛將軍列在朝外,不得迎左右,願復舊職。」上笑曰:「環列之官,古官也。大將軍三品,汝終不知朝廷表著之位。」因從其請。俄復東上閤門使,充淮南諸州兵馬鈐轄。至道三年,以病求歸,至泗州卒,年六十四。天禧元年,錄其孫惟慶為殿直。

論じて曰く、太宗潛居に在りしとき、左右必ず忠厚強幹の士を求む。即位に及び、舊邸の功を修め、陳從信・張平・王繼升・尹憲・王賓・安忠の六人者は、咸く任使に備はり、又皆兵食の重寄を畀へ、而して各其の職を振舉す、稱するに足る者有り。然れども平は舊怨を修めず、庶幾くは士夫の度に進まる。從信の進むる所の邪佞術を以て上心を蠱惑するは、猶ほ近侍の常態を免れざるか。

原文論曰:太宗居潛,左右必求忠厚強幹之士。及即位,修舊邸之功,陳從信、張平、王繼升、尹憲、王賓、安忠六人者,咸備任使,又皆畀以兵食之重寄,而各振舉其職焉,有足稱者矣。然平不修舊怨,庶幾進於士夫之度。從信所進邪佞以術蠱惑上心,猶不免於近侍之常態歟!