劉福
劉福は徐州下邳の人である。若い頃は豪放磊落で、体躯魁偉にして膂力に優れていた。周の顯德年間、世宗が淮南を征した時、福は徒歩で壽春において謁見した。世宗は彼を異才と認め、麾下に留めた。出戦の度に、福に衛士を率いて先鋒たらしめ、紫金山の砦を陥落させるのに与った。淮南平定後、功績を記録され懷德指揮使を授けられた。
福は学問はなかったが、部下を統御する方略があり、政務は簡易で、人々は大いにその徳を慕った。雄州を領すること五年、郡内は平穏であった。福は貴顕となってから、子らがしばしば大邸宅を建てるよう勧めたが、福は怒って言った。「我は厚い俸禄を受け、屋舎を借りて身を庇うには足りる。汝らは朝廷に報いる寸功もないのに、どうして居宅を営み構え、自らの安楽を図ることができようか。」ついに許さなかった。死後、上(皇帝)がその言葉を聞き、その子に白金五千両を賜い、邸宅を買わせた。
安守忠
安守忠、字は信臣、幷州晉陽の人である。父の審琦は、周の平盧軍節度使となり、陳王に封ぜられた。晉の天福八年、審琦が外任として山南東道を領することとなり、守忠を牙内指揮使とし、繡州刺史を領させた。周の顯德四年春、鞍轡庫使に改める。時に淮南が初めて平定された折、守忠を馳せ往って宣諭を命じた。当時、藩臣は驕慢で、朝廷の使者に対し粗略傲慢な態度をとることが多かったが、守忠は正礼をもって抗し、使命を辱めることはなかった。間もなく、衛州刺史に改める。
宋の初年、入朝して左衛將軍となる。建隆四年、湖南が初めて平定された時、永州刺史を命ぜられる。乾徳年間、河陰の屯兵を護衛した。蜀平定後、太祖は遠方の習俗が苛酷な政治に苦しんでいることを知り、南鄭が交通の要衝であることから、特に守忠を興元府知事として撫綏を命じた。四年、漢州刺史に改める。当時は寇難がようやく平定されたばかりで、使者の車馬が頻繁に行き交い、官庫が不足したため、守忠は私財を出して費用に充てた。使者を派遣する度に、太祖は必ず戒めて言った。「安守忠は蜀にあって、自らを律して正しくした。汝が行って彼に会えば、その為人に倣うがよい。」開宝初年、濮州刺史に改める。時に黄河が澶州で決壊したため、守忠を潁州團練使曹翰の副使として工事監督を命じ、黄河の決壊口は塞がれた。五年、遼州知事となる。民の中に密かに幷州の賊寇を招き内応を謀る者がいたが、事が漏れ、守忠は皆これを斬って示衆した。九年、太原征討の将を命じ、守忠は詔を受けて孫晏宣と共に遼州より進軍し、やがて路羅砦監押馬繼恩と遭遇し、そこで相会して兵を合わせ賊境に入り、砦四十余を焼き払い、牛羊数千を獲た。深く進撃しようと議していたところ、ちょうど先帝(太祖)が崩御されたため、引き揚げた。
守忠は謹直誠実で淡泊であり、治政は簡静であった。太祖が藩王であった頃から、元来厚く親善しており、禅譲を受けた後も、常に優遇して任用したが、守忠はそれを益々謙虚に処した。太原征討に従軍し、多く謀略に参与したが、人々に知られることは稀であった。赴任した藩郡では、施与を喜び、宴饗・犒賞を豊かにし、かつ士大夫との交遊を好んだので、当時の論評は多く彼を称えた。初め、審琦は愛妾の故をもって、下僕に殺害された。守忠は終生妓妾を養わず、仏教を篤く信奉したのは、おそらく懲戒とする所があったからであろう。
孔守正
孔守正は開封浚儀の人である。幼くして後唐の明宗の子、許王從益に仕えた。漢の初年、東西班承旨となり、魏王承訓に仕えた。周の世宗が淮南を征した時、材勇をもって選ばれ東班承旨となった。
宋の初年、内殿直に補せられ、驍雄・吐渾指揮を兼領した。劉廷翰に従って蜀を平定し、帰還後、驍雄副指揮使に遷る。開宝年間、太祖が太原を征した時、守正は何繼筠の麾下に隷属した。時に契丹が兵を遣わして晉陽を救援したが、守正は石嶺関において接戦し、これを大破し、首級一万を斬り、その将王破得を捕獲した。当時、宋軍で敵に捕らわれた者が数百人おり、守正は騎兵を駆ってこれを奪い、皆取り戻した。
太平興国年間、累遷して日騎東西班指揮使となる。太宗が親征して晉陽を攻めた時、守正は城西の洞屋の担当を分掌し、歩卒を率いて大声で叫び先登し、続いて内侍蔡守恩らと共に騎兵を率いて力戦し、晉軍は遂に潰走した。范陽征討に従い、金臺驛に至り、詔により劉仁蘊と共に先んじて岐溝関に向かう。時に城は未だ陥ちず、守正は夜中に城壁を乗り越え、鹿砦を渡り、機橋に臨み、大軍が将に至らんとすることを告げ、関使劉禹を説いて降伏させた。禹が懸橋を解くと、守正は遂に入城し、その軍民を撫諭し、城守を綦廷朗に委ね、自らは行在所に赴いた。時に契丹兵が涿州の東におり、守正は傅潜と共に御前東西班を率いて両陣に分かれ馳撃し、二十余里北へ追撃し、その羽林兵数百人を降伏させた。続いて高懷德・劉廷翰と合兵して桑乾河まで追撃し、契丹はこれ以降辺塞に近づかなくなった。労により再び日騎都指揮使に遷り、濡州刺史を領した。
譚延美
譚延美は、大名朝城の人である。軀幹が壮偉であった。若い頃は不逞で、群盗が集まって掠奪を行おうと謀っているのに出会うと、延美はすぐに近づいて加わった。捕らえられた時、法は皆死罪に当たったが、延美は盗賊と元々面識がなかったため、免罪を得た。その後、澶・魏の間を往来し、郷里で盗賊を働き、郷里はこれを患った。周の世宗が澶淵に鎮していた時、募って帳下に置いた。即位すると、殿前散都頭に補った。淮南に従征し、労により控鶴軍副指揮使に遷った。また三関を攻克した時、太祖が禁兵を率いており、牙隊を留めて監督した。
子の継倫は、崇儀副使に至った。雍は、虞部員外郎となった。
元達
元達は、初め守旻と名乗り、洺州雞沢の人である。身長八尺余りで、膂力に優れ、射術に長けていた。家業は農であったが、苦労する仕事に耐えられず、耒耜を捨て、慨歎して去った。任侠を事とし、酒を縦にした。かつて酔って、道傍の槐樹を見て、剣を抜いてこれを斬ると、樹はすぐに断たれた。達はひそかに喜んで言った、「李将軍が石虎を射て羽を飲んだと聞く。今、樹が私のために断たれたのは、神の助けではなかろうか」。かつて少年数十百人を従えて盗賊を起こそうとしたが、里中の父老が互いに戒めたので、やめた。当時、郡は戸籍によって役を調発し、達は囚人を闕下に送る役目に当たった。数舎(三十里)行くと、囚人をことごとく放して言った、「我は汝らを見るに、これも丈夫である。どうしてこれを楽しもうか。善く自ら計らえ。我もまたここから去る」。まもなく郡が追捕に遣わしたが、到着すると達は弓を引き満たして待ち、追う者は近づけなかった。これにより山林間に亡命し、郷里の患いとなった。
達は草野から奮い起こったが、戎署の職を歴任し、士大夫と交わるに至っては、節を折り礼を尽くすことができ、人はこれをもって称えた。
常思徳
初めに、曹彬が北征して不利となり、涿州に至った時、左右の者どもは皆潰走散逸したが、ただ思徳のみが配下の兵を率いて護衛し易州に至った。人に語って曰く、「既に軍務に備える以上は、主帥と生死を共にすべきである。もし利害を見て去就を決するならば、何の面目あって君父に拝謁できようか」と。太宗は嘗てその言葉を聞き、この度の出立に際しては、深く慰労を加え、且つ諭して曰く、「臣たる者は忠実を以て本とす。汝は若き時より、既に驍勇を以て自ら効を致し、且つ主将に心を尽くすことができた。朕に事える日こそ久しいが、忠実は一貫している。今は老いたりといえども、亦たその職務に心を尽くし、朕の委任寄託に背かぬようにせよ」と。
尹継倫
尹継倫は、開封浚儀の人である。父は勲、郢州防御使。嘗て内挙して継倫を以て用いるべきとし、太祖はこれに補して殿直とし、権めて虎捷指揮を領せしめ、嶺表平定に預かり、金陵を下す。太宗即位の後、供奉官に改める。太原征伐に従い、還って洛苑使に遷り、北面縁辺都巡検使を充てる。
端拱年中、威虜軍の糧秣補給が続かず、契丹は密かに侵入を謀る。上聞き、李継隆を遣わして鎮・定の兵万余を発し、輜重数千乗を護送せしむ。契丹の将於越はこれを探知し、精鋭数万騎を率い、路に邀えんとす。継倫は丁度兵を率いて巡察中、路が賊と直に相対す。於越は大軍に向かって直進し、継倫の軍を通り過ぎ、顧みることなく去る。継倫は麾下に謂いて曰く、「賊は我らを蔑ろにしているのだ。彼らが南に出て勝利すれば、帰還の際は乗勝して我らを北に駆り立てるであろう。勝たねばまた我らに怒りを泄らすであろう。生き残る者は無かろう。今日の計は、ただ甲を巻き枚を銜んで彼らを追跡するのみだ。彼らは鋭気を前に向け、我らの到来を予期せず、力戦して勝てば、自ら名を立てるに足る。仮に死してもなお忠義を失わず、どうして黙然として死し、胡地の鬼となろうか」と。衆は皆憤激して命に従う。継倫は軍中に馬に秣を食わせ、夜を待ち、人ごとに短兵を持ち、密かにその後を追跡す。数十里を行き、唐河・徐河の間に至る。天未だ明けず、於越は大軍より四五里離れ、食事を終え戦わんとす。継隆は前方に陣を布いて待ち受け、継倫は後方より急撃し、その将皮室一人を殺す。皮室とは、契丹の宰相である。皮室が捕らえられると、衆は遂に驚き潰走す。於越は食事中、箸を落とし、短兵にその臂を中てられ、傷甚だしく、良馬に乗じて先に遁走す。賊兵はそれに従い大いに潰え、互いに蹂躙し踏みつけられて死する者数知れず、残党は悉く引き去る。契丹はこれより敢えて辺境を窺わず、その平素互いに戒めるには、曰く「黒面大王」を避くべしと。継倫の面が黒い故である。功により長州刺史を領し、仍って巡検を兼ねる。
淳化初年、著作佐郎孫崇諫が契丹より逃げ帰り、太宗が辺境の事情を尋ねると、徐河の戦いで契丹が気力を奪われたことを極言し、故に継倫の名を聞く毎に、慌てふためきどうしてよいか分からぬという。ここにおいて継倫を尚食使に遷し、長州団練使を領せしめ、以て辺将を励ます。淳化五年、李継隆が詔を奉じて夏州を討つに、継倫を河西兵馬都監とす。未だ幾ばくもせず、深州団練使として本州駐泊兵馬部署を領す。
薛超
薛超は、遼州平城の人である。少より勇力有り。乾徳初年、募に応じて虎捷卒と為る。崔彦進に従い蜀を伐ち平定し、功を録して虞候に補し、十将に遷る。太平興国初年、四遷して天武指揮使に至る。太原征伐に従い、遊騎千人を率いて鎮・定の境上に備禦し、以て軍勢を張る。車駕還御の後、契丹は頻りに鎮・定を寇し、侵掠已むこと無し。超は大将劉廷翰に従い兵を率いて徐河に至り、賊将十余騎を領いて出で挑戦す。超は馬を躍らせて直ちに前進し、連続して数人を射殺す。敵の勢い遂に退く。大軍はこれに乗じて奮撃し、斬首万余級。功により歩軍都軍頭を加えられ、神衛軍都校に遷り、叙州刺史を領す。
丁罕
趙瑫
郭密
傅思讓
李斌
田仁朗
田仁朗は大名元城の人である。父武は晋に仕えて昭義軍節度使と為る。仁朗は父の任により西頭供奉官と為る。太祖即位の後、李重進を討つに従い、城を攻めて功有り。還りて右神武統軍陳承昭と共に五丈河を浚い、以て漕運を通ず。
乾德年中、蜀を討つに当たり、仁朗を命じて鳳州路壕砦都監と為す。木を伐り道を除き、大軍以て済る。功を録して染院副使に遷す。太祖太原を征するに、陳承昭と共に汾水を壅ぎて城を灌ぐ。城将に陷らんとす、会に班師す。俄かに内染院使に遷り、数日にして左蔵庫使に改む。中官に讒えられ、太祖怒り、立って召して之を詰る。殿門に至り、冠帯を去るを命ず。仁朗神色撓まず、従容として曰く、「臣嘗て蜀を破るに従い、秋毫も犯さず。陛下固より之を知る。今禁中に蔵を主り、豈復た姦利を為して以て自ら汚さんや」と。太祖怒り解け、止だ其の職を停むるに止む。
開宝六年、起ちて榷易使と為る。七年、西北辺内侵するを以て、選びて慶州知事と為す。仁朗至り、麾下を率いて往きて之を撃つ。短兵将に接せんとし、前鋒稍く卻く。仁朗指揮使二人を斬る。軍中震恐し、争いて効命を乞う。遂に大いに之を破る。其の酋長相率いて和を請う。仁朗牛を烹ぎ酒を置きて之と約誓す。辺境乃ち寧んず。璽書之を褒美す。
太平興国初め、秦州羌寇と為る。仁朗を命じて兵を清水に屯せしむ。会に李飛雄の事敗れ、召して西上閤門使と為す。四年、太原を征するに、仁朗を命じて閤門祗候劉緒と共に太原城四面の壕砦を行按し、攻城の梯衝・器械を閲視せしむ。太原平らぎ、仁朗を留めて兵馬鈐轄と為し、閑廄使武再興・軍器庫副使賈湜並びに巡検と為す。俄かに仁朗と再興を命じて民を役し榆次の新城を築かしむ。大名に幸するに従い、又命じて滄州鈐轄と為し、俄かに東上閤門使・秦州知事に遷る。九年、四方館事を判ず。会に東封を議し、仁朗を命じて京より泰山に抵り、役を督し道を治めしむ。
李継遷乱を為す。仁朗を命じて兵を率い銀・夏を巡らしむ。歳余して召還さる。未だ幾ばくもせず、継遷麟州を攻め、曹光実を誘い殺し、遂に三族砦を囲む。仁朗を命じて閤門使王侁・副使董愿・宮苑使李継隆と共に、伝を馳せて辺兵数千を発し之を撃たしむ。仁朗綏州に次ぐ。兵を益すを奏請し、月余を留まり報を俟つ。会に三族砦の将折遇乜監軍使者を殺し、継遷と合す。太宗之を聞きて大いに怒り、亟に軍器庫使劉文裕を遣わし三交より疾置に乗りて仁朗に代わらしむ。継遷急に乗じ撫寧砦を攻む。仁朗文裕に代えらるるを知らず、喜びて諸将に謂いて曰く、「敵人は水草を逐い散じて岩険に保ち、常に烏合して寇と為り、勝てば進み、敗れば走り、以て其の巣穴を窮むる無し。今継遷羌・戎数万を嘯聚し、鋭を尽くして以て孤壘を攻む。撫寧は小なれども固く、兵は少なれども精なり。未だ旬浹を以て破るべからず。当に信宿を留まり、其の困するを俟ち、大兵を以て之に臨み、強弩三百を分かち、其の帰路を邀えば、必ず擒と成らん」と。仁朗部署已に定まり、閑暇を示さんと欲し、日其の樗博を縱え、軍事を恤みせず。上之を知り、使者を遣わし仁朗を召して闕に赴かしめ、御史に下して仁朗の兵を益すを請い及び三族を陷れたる状を按問せしむ。仁朗対えて曰く、「召しし銀・綏・夏の兵は、其の州皆城を防ぐに留め、遣わさず。部する所千余人有り、皆曹光実の旧卒なり。器甲完からず、故に兵を益すを請う。況んや芻粟を転輸する未だ備わらず。三族砦と綏は相去ること道遠く、元の詔の救う所に非ず。昨臣已に継遷を擒うるの策を定めんとす、会に詔して臣に代わる。其の謀果たさず」と。因りて言う、「継遷は部落の情を得たり。願わくは優詔を降し之を懐来し、或いは厚利を以て諸酋長を啖い密かに之を図らしめよ。然らずんば、恐らくは他日制し難く、大いに辺患と為らん」と。御史其の状を聞ゆ。上大いに怒り、切に憲府の官吏を責めて曰く、「仁朗軍政を恤みせず、過と為すこと得んや」と。大理遂に仁朗を当てて軍興を乏くし及び征人の期に違えること二十日以上、死に坐す。上特だ之を貸し、詔を下して商州団練副使に責授し、馳驛に発遣せしむ。
仁朗性沈厚にして謀略有り。頗る書伝に渉り、至る所善政有り。雅に音律を好み、尤も其の妙に臻る。時内職中咸く仁朗を以て称首と為す。故に死するの日人多く之を惜しむ。
劉謙
劉謙は博州堂邑の人である。曾祖父の劉直は純朴で篤実な人柄をもって郷里に知られ、里の者がその衣服を盗んでも咎めようとしなかった。州の将軍が廉潔を知り、人に命じて故意に衣服を盗ませたが、やはり訴え出ず、将軍は前の盗人を召し出して詰問し、返させようとした。劉直は偽って言うには、「衣服は自ら少年に与えたもので、盗まれたのではない」と。州将はその義を感じ、金帛を賜ろうとしたが、受けずに去った。父の仁罕は軽佻で任侠を自任した。五代末、寇賊が充満し、仁罕は衆を率いて澶州の浮橋を断ち賊を潰走させ、さらに数十人を誘い捕らえ、芻粟を出して官軍に給した。内黄鎮将に補せられた。かつて用事で酒家に至り、群盗が突然集まるのに遇い、計略をもってその首領を悉く梟首し、西京留守の向拱のもとに携えて詣り、汜水鎮将に補せられ、まもなく散都頭となった。宋初、許州龍衛副指揮使に遷った。王師が広南を征討するに際し、前鋒となった。還って、同州都校に改め、卒した。
劉謙は若くして気概に感じ、小節に拘らなかった。初めて嶺表に赴き父を省み、仁罕は金帛を資して北に帰り行商せよと命じた。堂邑の旧墅に還り、かつて郷里の悪少に辱められ、劉謙は怒りに耐えず、これを毆り殺した。京師に亡命し、募りに応じて軍に従い、衛士に補せられ、次第に遷って内殿直都知となった。至道初年、真宗が皇太子となられ、宮衛を増補するに当たり、太宗が便坐に御し、諸校を親選され、劉謙に西頭供奉官・東宮親衛都知を授け、袍笏・鞾帯・器幣を賜った。真宗が即位すると、擢て洛苑使を授けた。劉謙は行伍より起り、禁職を好まず、官秩の換えを求め、殿前左班指揮使に改め、諸司使の俸料を給された。咸平初年、御前忠佐馬歩軍都軍頭に遷り、勤州刺史を領し、殿前右班都虞候を加えられた。上(皇帝)が大名に行幸され、北苑に至った時、劉謙が病を得たので、帰して将護させようとしたが、劉謙は懇請して従行を願った。そこで二人の子を随侍させ、なお尚医を従えさせ、御厨が調膳してこれを給した。病が癒えると、服用した鞍勒を毀ち中使に与え、上はこれを聞き、白金二百両を賜った。車駕が還ると、捧日左廂都指揮使に改め、本州団練使を領した。四年、捧日・天武四廂都指揮使に遷り、本州防禦使を領し、権殿前都虞候となった。
時に高翰が天武左廂都校であり、ある兵卒が負債のために人を殺し、屍を高翰の営中に埋めた。数日後、土を発してこれを得た。上は高翰が検察を失ったことを怒り、便殿に執って引見した。劉謙は即ち前に進み奏上して言うには、「高翰の職務は巡邏および諸軍を閲教することにあり、常時営中におるわけではなく、本営の事は軍頭に責むべきです」と。上はこれにより高翰の罪を釈いた。
景德初年、侍衛馬軍都虞候を加えられ、潯州防禦使を領するよう改め、まもなく権歩軍都指揮使となった。明年の冬、制により殿前副都指揮使・振武軍節度使を授けられた。先に、劉謙は久しく権殿前都虞候を務めていたが、まもなく曹璨が正授として擢てられ、劉謙は頗る慨歎の色を示した。この時至り、曹璨は馬軍の副となり、劉謙は禁衛を領するよう昇進したのである。河北に屯兵する時、常に八月に冬衣を給していた。劉謙は辺城は早く寒くなることを上言し、六月に給するよう請い、後にはこれを例とした。まもなく、足疾を理由に郡を典とすることを求め、上は召見し、敦めて勉めた。
大中祥符初年、東封に従い、上(皇帝)が泰山に登られると、詔して山下の馬歩諸軍を都総せしめ、西京左蔵庫副使の趙守倫とともに山門を閲視し、施設に法があり、籍に著された者のみが登ることができた。礼が成ると、都指揮使に進授され、保静軍節度使を領するよう移った。明年八月に卒し、年六十、侍中を贈られた。初め、劉謙が応募しようとした時、同軍の王仁徳とともに日者に占わせた。日者は劉謙を指して仁徳に言うには、「汝はこの人の廐吏となるであろう」と。劉謙が殿前を帥するに及んで、仁徳は果たして廐中に隷役していた。
子の劉懷懿は、後に東染院副使となった。劉懷詮は、内殿崇班・閤門祗候となった。
論じて曰く、宋初の諸将は、率ね草野より奮い起こり、戎行より身を起こし、盗賊無頼の徒すらもまたその間に廁し、屠狗・販繒の者と何の異なることがあろうか。用いられるに及んで、皆能く卓然として自ら樹立し、これは御するにその道を得たからである。劉福は下を御するに方略あり、至る所に績を著し、禄を受くること厚くとも燕安の謀を為さず、国にありて家を忘るる者と謂うべし。守忠は辺事に練達し、身を禔(安)んじ謙慎であり、卒校の変を談笑の間にして弭めしめたのは、権を行なうに善くする者でなければできないことである。仁朗は沈毅にして謀あり、累ね征討に従い、綏州の役は、ただ功無きのみならず、反って逗撓の罪に坐せられた。豈にその計の善からざるによるであろうか。ただ讒邪の輩に構えられたのである。その余の諸子は、皆戦功を積んで通侯を取った。延美の如きは門を開いて敵を示し、思徳の如きは主帥を翼衛し、継倫の如きは契丹を襲撃し、薛超の如きは創を裹んで戦に赴き、元達の如きは亡命を赦すことを請い、郭密の如きは士卒を訓撫し、これらは皆忠義仁勇にして称するに足る者である。劉罕・劉瑫・思讓、また劉斌・劉謙の如きは、奇功には乏しいが、また能くその職を共にし、過ちを寡くする者である。守正は素より戎旅に練達し、累ね辺要を任ぜられたが、労を矜り忿りを肆にし、労謙の君子に比すれば、能く愧じないことがあろうか。