宋史

列傳第三十四 劉福 安守忠 孔守正 譚延美 元達 常思德 尹繼倫 薛超 丁罕 趙瑫 郭密 傅思讓 李斌 田仁朗 劉謙

列傳第三十四 劉福 安守忠 孔守正 譚延美 元達 常思德 尹繼倫 薛超 丁罕 趙瑫 郭密 傅思讓 李斌 田仁朗 劉謙

劉福

原文劉福

劉福は徐州下邳の人である。若い頃は豪放磊落で、体躯魁偉にして膂力に優れていた。周の顯德年間、世宗が淮南を征した時、福は徒歩で壽春において謁見した。世宗は彼を異才と認め、麾下に留めた。出戦の度に、福に衛士を率いて先鋒たらしめ、紫金山の砦を陥落させるのに与った。淮南平定後、功績を記録され懷德指揮使を授けられた。

原文劉福,徐州下邳人。少倜儻,魁岸有膂力。周顯德中,世宗征淮南,福徒步謁見於壽春。世宗奇之,因留麾下。每出戰,則令福率衛士為先鋒,與破紫金山砦。淮南平,錄功授懷德指揮使。

宋の初年、橫海指揮使に遷り、配下部隊を率いて歩兵師帥劉光毅に隷属し、峽路より蜀しょくを征した。成都に至る頃には、孟昶は既に降伏していた。大将王全斌が降卒を部勒して京師に送還する途中、綿州に至ると、降卒が武器庫の兵器を盗み、蜀の旧将全師雄を脅迫して反乱を起こし、家屋を焼き、財貨を掠奪して去った。刺史成彦饒が同州・華州の兵百余人をもって城を守り、全斌は米光緒に七百騎と福の配下部隊を率いさせてこれを守護させた。光緒は師雄の妻子を皆殺しにしたため、師雄は反乱兵を率い、さらに村民十余万を集めて、攻城を激しくした。時に龍捷指揮使田紹斌が精鋭百騎を率いて東山の西北を行き、福は配下部隊を率いて山南を行き、賊の不意を衝いて挟撃した。賊の大軍は大潰し、斬首されあるいは江に溺れて死んだ者は万を数え、功により虎捷都虞候を授けられた。引き続き曹彬の麾下に隷属し、江南を平定した。帰還後、指揮使を授かり、蔚州刺史を領した。太宗に従って幷州・汾州を攻略し、馬歩都軍頭・武州團練使に遷った。端拱初年、外任として洺州防禦使となる。二年、雄州防禦使兼本州兵馬部署に改める。雄州の地は辺塞を扼し、常に重兵を屯していた。福が任地に至り、城塁を巡視し、鎮兵を徴発して修繕に充て、私財を出して宴饗・犒賞の資とし、敵寇たとえ大軍で来襲しても、これに恃んで恐れることはなかった。淳化初年、涼州觀察使・判雄州事に遷る。二年、卒去。六十四歳。太傅を追贈された。

原文宋初,遷橫海指揮使,率所部隸步帥劉光毅,由峽路征蜀。比至成都,孟昶已降。大將王全斌部送降卒歸京師,至綿州,降卒盜庫兵,劫蜀舊將全師雄以叛,焚廬舍,剽財貨以去。刺史成彥饒以同、華兵百餘人守其城,全斌遣米光緒將七百騎及福所部以屯護之。光緒盡殺師雄妻孥,師雄領叛卒,益聚村民十餘萬眾,攻城益急。會龍捷指揮使田紹斌率精銳百騎,由東山西北行,福領所部由山南行,出賊不意,夾擊之。賊眾大潰,斬首及溺江死者以萬計,以功授虎捷都虞候。繼隸曹彬麾下,平江南。還,授指揮使,領蔚州刺史。從太宗克幷、汾,遷馬步都軍頭、武州團練使。端拱初,出為洺州防禦使。二年,改雄州防禦使兼本州兵馬部署。雄州地控邊塞,常屯重兵。福至部,按行城壘,調鎮兵以給繕完,出私錢以資宴犒,寇雖大至,而恃以無恐矣。淳化初,遷涼州觀察使、判雄州事。二年,卒,年六十四。贈太傅。

福は学問はなかったが、部下を統御する方略があり、政務は簡易で、人々は大いにその徳を慕った。雄州を領すること五年、郡内は平穏であった。福は貴顕となってから、子らがしばしば大邸宅を建てるよう勧めたが、福は怒って言った。「我は厚い俸禄を受け、屋舎を借りて身を庇うには足りる。汝らは朝廷に報いる寸功もないのに、どうして居宅を営み構え、自らの安楽を図ることができようか。」ついに許さなかった。死後、上(皇帝)がその言葉を聞き、その子に白金五千両を賜い、邸宅を買わせた。

原文福雖不學,而御下有方略,為政簡易,人甚德之。領雄州五年,郡境寧謐。福既貴,諸子嘗勸起大第,福怒曰:「我受祿厚,足以僦舍以庇。汝曹既無尺寸功以報朝廷,豈可營度居室,為自安計乎?」卒不許。既死,上聞其言,賜其子白金五千兩,使市第宅。

安守忠

原文安守忠

安守忠、字は信臣、幷州晉陽の人である。父の審琦は、周の平盧軍節度使となり、陳王に封ぜられた。晉の天福八年、審琦が外任として山南東道を領することとなり、守忠を牙内指揮使とし、繡州刺史を領させた。周の顯德四年春、鞍轡庫使に改める。時に淮南が初めて平定された折、守忠を馳せ往って宣諭を命じた。当時、藩臣は驕慢で、朝廷の使者に対し粗略傲慢な態度をとることが多かったが、守忠は正礼をもって抗し、使命を辱めることはなかった。間もなく、衛州刺史に改める。

原文安守忠,字信臣,幷州晉陽人。父審琦,為周平盧軍節度,封陳王。晉天福八年,審琦出領山南東道,以守忠為牙內指揮使,領繡州刺史。周顯德四年春,改鞍轡庫使。會淮南初下,命守忠馳往宣諭。時藩臣驕蹇,遇朝使多簡傲,守忠抗以正禮,無所辱命。未幾,改衛州刺史。

宋の初年、入朝して左衛將軍となる。建隆四年、湖南が初めて平定された時、永州刺史を命ぜられる。乾徳年間、河陰の屯兵を護衛した。蜀平定後、太祖は遠方の習俗が苛酷な政治に苦しんでいることを知り、南鄭が交通の要衝であることから、特に守忠を興元府知事として撫綏を命じた。四年、漢州刺史に改める。当時は寇難がようやく平定されたばかりで、使者の車馬が頻繁に行き交い、官庫が不足したため、守忠は私財を出して費用に充てた。使者を派遣する度に、太祖は必ず戒めて言った。「安守忠は蜀にあって、自らを律して正しくした。汝が行って彼に会えば、その為人に倣うがよい。」開宝初年、濮州刺史に改める。時に黄河が澶州で決壊したため、守忠を潁州團練使曹翰の副使として工事監督を命じ、黄河の決壊口は塞がれた。五年、遼州知事となる。民の中に密かに幷州の賊寇を招き内応を謀る者がいたが、事が漏れ、守忠は皆これを斬って示衆した。九年、太原征討の将を命じ、守忠は詔を受けて孫晏宣と共に遼州より進軍し、やがて路羅砦監押馬繼恩と遭遇し、そこで相会して兵を合わせ賊境に入り、砦四十余を焼き払い、牛羊数千を獲た。深く進撃しようと議していたところ、ちょうど先帝(太祖)が崩御されたため、引き揚げた。

原文宋初,入為左衛將軍。建隆四年,湖南初平,命為永州刺史。乾德中,護河陰屯兵。蜀平,太祖知遠俗苦苛虐,南鄭為走集之地,故特命守忠知興元府以撫綏之。四年,改漢州刺史。時寇難甫平,使車旁午,公帑不足,守忠出私錢以給用。每遣使,太祖必戒之曰:「安守忠在蜀,能律已以正,汝行見之,當效其為人也。」開寶初,改濮州刺史。會河決澶州,命守忠副潁州團練使曹翰護役,河決遂塞。五年,知遼州。民有陰召幷寇謀內應者,事泄,守忠悉斬以徇。九年,命將征太原,守忠受詔與孫晏宣由遼州入,既而與路羅砦監押馬繼恩遇,乃相與會兵入賊境,燔砦四十餘,獲牛羊數千。議將深入,會上崩,乃班師。

太平興国初年、転じて霊州知事となり、在官すること凡そ七年。雍熙二年、易州知事に改め、夏州に移る。西戎が辺境を侵犯する度に、戦えば必ず勝利し、功績を記録されてそのまま濮州團練使に任ぜられた。端拱年間、滄州知事となり、瀛州に改め、高陽関駐泊部署を兼ね、瀛州防禦使に遷る。初め、守忠はかつて「濮」の一字が方丈余りもある夢を見たが、この郡を領することほぼ二十年にして、ここに至って初めて悟ったのである。淳化二年、雄州知事に転ず。ちょうど僚佐と宴飲している時、軍校が謀反を企て、鎧を着て門にまで及んだ。門番が慌てて入って報告した。守忠は談笑自若とし、ゆったりと座客を顧みて言った。「此輩は酒に狂っただけである。捕らえよ。」人々はその度量に敬服した。翌年、耀州觀察使を加えられ、雄州判事を兼ねる。間もなく召還され、辺境の事柄を条陳し、上奏の内容が旨に適い、銭五百万を賜った。五年、また滄州知事となる。至道初年、雄州に移る。三年、再び滄州知事となる。感徳軍節度觀察留後を拝し、宋州に移り、制置営田使を兼ねる。威と徳を兼ね備え、吏民はその去るを忍ばなかった。咸平三年に入朝し、帰還を命じられたが未だ出発せず、急逝した。六十九歳。太尉を追贈された。その子継昌を供備庫副使に、婿の王世及を光祿寺丞に任じた。

原文太平興國初,移知靈州,在官凡七年。雍熙二年,改知易州,徙夏州。每西戎犯邊,戰無不捷,錄功就拜濮州團練使。端拱中,知滄州,改瀛州,兼高陽關駐泊部署,遷瀛州防禦使。初,守忠嘗夢一「濮」字方丈餘,及領是郡幾二十年,於是始悟。淳化二年,徙知雄州。方與僚佐宴飲,有軍校謀變,擐甲及閽,閽者倉卒入白。守忠言笑自若,徐顧坐客曰:「此輩酒狂爾,擒之可也。」人服其量焉。明年,加耀州觀察使,兼判雄州。未幾召還,條陳邊事,敷奏稱旨,賜錢五百萬。五年,又知滄州。至道初,移雄州。三年,復知滄州。拜感德軍節度觀察留後,徙宋州,兼制置營田使。威德兼著,吏民不忍其去。咸平三年入覲,遣還未行,暴卒,年六十九,贈太尉。錄其子繼昌為供備庫副使,婿王世及為光祿寺丞。

守忠は謹直誠実で淡泊であり、治政は簡静であった。太祖が藩王であった頃から、元来厚く親善しており、禅譲を受けた後も、常に優遇して任用したが、守忠はそれを益々謙虚に処した。太原征討に従軍し、多く謀略に参与したが、人々に知られることは稀であった。赴任した藩郡では、施与を喜び、宴饗・犒賞を豊かにし、かつ士大夫との交遊を好んだので、当時の論評は多く彼を称えた。初め、審琦は愛妾の故をもって、下僕に殺害された。守忠は終生妓妾を養わず、仏教を篤く信奉したのは、おそらく懲戒とする所があったからであろう。

原文守忠謹愨淡薄,為治簡靜。太祖居藩日,素相厚善,及受禪後,每優任之,守忠處之益謙。從征太原,多與謀略,人罕知之者。所至藩郡,樂施予,豐宴犒,且喜與士大夫遊從,故時論多與之。初,審琦以愛妾故,為隸人所戕。守忠終身不畜妓妾,而喜佞佛,蓋有所懲云。

孔守正

原文孔守正

孔守正は開封浚儀の人である。幼くして後唐の明宗の子、許王從益に仕えた。漢の初年、東西班承旨となり、魏王承訓に仕えた。周の世宗が淮南を征した時、材勇をもって選ばれ東班承旨となった。

原文孔守正,開封浚儀人。幼事後唐明宗子許王從益。漢初,為東西班承旨,事魏王承訓。周世宗征淮南,以材勇選為東班承旨。

宋の初年、内殿直に補せられ、驍ぎょう雄・吐渾指揮を兼領した。劉廷翰に従って蜀を平定し、帰還後、驍雄副指揮使に遷る。開宝年間、太祖が太原を征した時、守正は何繼筠の麾下に隷属した。時に契丹が兵を遣わして晉陽を救援したが、守正は石嶺関において接戦し、これを大破し、首級一万を斬り、その将王破得を捕獲した。当時、宋軍で敵に捕らわれた者が数百人おり、守正は騎兵を駆ってこれを奪い、皆取り戻した。

原文宋初,補內殿直,兼領驍雄、吐渾指揮。從劉廷翰平蜀,還,遷驍雄副指揮使。開寶中,太祖征太原,守正隸何繼筠麾下。會契丹遣兵來援晉陽,守正接戰於石嶺關,大敗之,斬首萬級,獲其將王破得。時宋師之陷敵者數百人,守正以騎軍馳之,盡奪以還。

太平興国年間、累遷して日騎東西班指揮使となる。太宗が親征して晉陽を攻めた時、守正は城西の洞屋の担当を分掌し、歩卒を率いて大声で叫び先登し、続いて内侍蔡守恩らと共に騎兵を率いて力戦し、晉軍は遂に潰走した。范陽征討に従い、金臺驛に至り、詔により劉仁蘊と共に先んじて岐溝関に向かう。時に城は未だ陥ちず、守正は夜中に城壁を乗り越え、鹿砦を渡り、機橋に臨み、大軍が将に至らんとすることを告げ、関使劉禹を説いて降伏させた。禹が懸橋を解くと、守正は遂に入城し、その軍民を撫諭し、城守を綦廷朗に委ね、自らは行在所に赴いた。時に契丹兵が涿州の東におり、守正は傅潜と共に御前東西班を率いて両陣に分かれ馳撃し、二十余里北へ追撃し、その羽林兵数百人を降伏させた。続いて高懷德・劉廷翰と合兵して桑乾河まで追撃し、契丹はこれ以降辺塞に近づかなくなった。労により再び日騎都指揮使に遷り、濡州刺史を領した。

原文太平興國中,累遷日騎東西班指揮使。太宗親征晉陽,守正分主城西洞屋,領步卒大呼先登,繼與內侍蔡守恩等率騎兵力戰,晉軍遂潰。從征范陽,至金臺驛,詔與劉仁蘊先趨岐溝關。時城未下,守正夜超垣,度鹿角,臨機橋,以大軍將至,說關使劉禹使降。禹解懸橋,守正遂入城,撫諭其軍民,以城守屬綦廷朗,而已赴行在。時契丹兵在涿州東,守正與傅潛率御前東西班分兩陣馳擊之,逐北二十餘里,降其羽林兵數百人。繼與高懷德、劉廷翰合兵追之至桑乾河,契丹自是不敢近塞。以勞再遷日騎都指揮使,領濡州刺史。

端拱元年の初め、龍衛都指揮使に遷り、長州團練使を兼ね、真定に出鎮した。この年の秋、潁州防禦使として出向した。まもなく、太宗は彼が軍旅に熟練しているとして、特に龍衛・神衛四廂都指揮使を置いてこれを授けた。振州防禦使を兼ねるよう改めた。翌年、殿前都虞候に任じ、容州觀察使を兼ねた。ある日、北苑で宴に侍っていると、上(皇帝)が玄武門に入ったが、守正は大いに酔って、王榮と御前で辺境の功績について論じ、憤って争い儀礼を失った。侍臣が官吏に付するよう請うたが、上は許さなかった。翌日、ともに殿廷に詣でて罪を請うた。上は言った、「朕も大いに酔って、まったく覚えていない」。そこで釈放して問わなかった。まもなく定州行営副部署に命じられ、詔を受けて保州軍の開道に赴き、曹河で敵に遭遇し、数度戦って、首級三十余を梟し、馬五十匹を獲た。上はこれを聞いて壮とした。

原文端拱初,遷龍衛都指揮使,領長州團練使,出鎮真定。是年秋,出為潁州防禦使。未幾,太宗以其練習戎旅,特置龍衛、神衛四廂都指揮使以授之。改領振州防禦使。明年,拜殿前都虞候,領容州觀察使。一日,侍宴北苑,上入玄武門,守正大醉,與王榮論邊功於駕前,忿爭失儀,侍臣請以屬吏,上弗許。翌日,俱詣殿廷請罪,上曰:「朕亦大醉,漫不復省。」遂釋不問。俄命為定州行營副部署,受詔詣保州軍開道,遇敵於曹河,與戰數合,梟首三十餘,獲馬五十匹,上聞而壯之。

淳化元年の初め、高陽関副都部署に抜擢された。軍中の小将がその校長を罵ったので、守正はこれを械で闕下に送り、上に裁断を求めた。専断したことはなかった。翌年、惠民河の浚渫を監督し、澶州の決河を塞ぎ、そのまま州軍知事に命じられた。慎州觀察使に改め、帰還して代州部署を兼ね、続いて幷代・夏綏・麟府の三鎮に移った。李継遷と大横岡で戦い、范廷召を援けて塞外に出て、白池で賊を破り、行荘に至って、焼き掠めすること甚だ多かった。代・夏二州部署に改めた。

原文淳化初,擢高陽關副都部署。軍中小將有詈其校長者,守正械送闕下,取裁於上,未嘗專決焉。明年,護浚惠民河,塞澶州決河,就命知州軍。改慎州觀察使,還,領代州部署,連移幷代、夏綏、麟府三鎮。與李繼遷戰大橫岡,援范廷召出塞,破賊於白池,至行莊,焚掠甚眾,改代、夏二州部署。

真宗が即位すると、再び代州に移った。咸平元年の初め、昌化軍節度觀察留後を授かった。守正は上言した、「四度雁門に任じ、辺境の亭候は久しく安泰です。願わくは東北に移って自ら効力を尽くさせてください」。ちょうど夏人が寇してきたので、定州行営副都部署に改めた。四年、彰徳軍留後に移り、風疾のため政務を妨げたので、安化軍留後に改めた。景德元年の初め、また職務に堪えないとして代わられた。当時、北辺の防秋を議論していたが、守正はなおもたびたび上表して行くことを請うた。上はこれを哀れんで、許さなかった。まもなく卒去した。享年六十六。泰寧軍節度使を追贈された。

原文真宗即位,復徙代州。咸平初,授昌化軍節度觀察留後。守正上言:「四任雁門,邊亭久安,願徙東北以自效。」會夏人入寇,改定州行營副都部署。四年,移彰德軍留後,以風疾妨政,改安化軍留後。景德初,復以不任職代。時議防秋北鄙,守正猶屢表請行。上閔之,不許。無何,卒,年六十六,贈泰寧軍節度使。

譚延美

原文譚延美

譚延美は、大名朝城の人である。軀幹が壮偉であった。若い頃は不逞で、群盗が集まって掠奪を行おうと謀っているのに出会うと、延美はすぐに近づいて加わった。捕らえられた時、法は皆死罪に当たったが、延美は盗賊と元々面識がなかったため、免罪を得た。その後、澶・魏の間を往来し、郷里で盗賊を働き、郷里はこれを患った。周の世宗が澶淵に鎮していた時、募って帳下に置いた。即位すると、殿前散都頭に補った。淮南に従征し、労により控鶴軍副指揮使に遷った。また三関を攻克した時、太祖が禁兵を率いており、牙隊を留めて監督した。

原文譚延美,大名朝城人。軀幹壯偉。少不逞,遇群盜聚謀將行剽劫,延美即趨就之。及就捕,法皆抵死,延美以與盜素不相識,獲免。自後往來澶、魏間,為盜於鄉里,鄉里患之。周世宗鎮澶淵,募置帳下。即位,補殿前散都頭。從征淮南,以勞遷控鶴軍副指揮使。又從克三關。時太祖領禁兵,留督牙隊。

建隆元年、控鶴指揮使に補い、やがて都虞候・馬歩副都軍頭に遷った。湖南を征伐し、解暉と分かれて行営戦棹都指揮使を領した。当時、汪端が朗州を攻撃して甚だ急であったので、招討使慕容延釗は延美に兵を率いて赴かせ、大いに賊衆を破り、汪端を生け捕りにして還った。鉄騎副指揮使に抜擢され、睦州刺史を兼ね、四度遷って内殿直都知となった。

原文建隆元年,補控鶴指揮使,稍遷都虞候、馬步副都軍頭。征湖南,與解暉分領行營戰棹都指揮使。時汪端寇攻朗州甚急,招討慕容延釗遣延美率兵赴之,大敗賊眾,擒端以還。擢鐵騎副指揮使,領睦州刺史,四遷至內殿直都知。

太平興国元年の初め、蘄州刺史となり、続いて廬・寿・濠・光州軍巡検使に移り、害をなす劇賊はことごとく捕らえられた。六年、威虜軍知事に移った。雍熙三年、挙兵して北伐し、延美を幽州西面行営都監に命じ、田重進とともに飛狐の北に出た。まもなく敵に遭遇した。延美は言った、「彼らは衆を恃んで我々を侮っている。不意を突いて先に攻撃すべきだ」。すぐに騎兵を指揮して直進させ、敵兵が潰れようとした時、大軍が続いて到着し、遂にこれを破った。首級五百を斬り、その将の大鵬翼を獲て献上し、功により本州防禦使に抜擢された。翌年、亳州に改め、鎮州鈐轄として出向した。

原文太平興國初,為蘄州刺史,連徙廬、壽、濠、光州軍巡檢使,劇賊之為害者悉就捕。六年,徙知威虜軍。雍熙三年,舉兵北伐,命延美為幽州西面行營都監,與田重進出飛狐北。俄遇敵,延美曰:「彼恃眾易我,宜出其不意先攻之。」即麾騎軍直進,敵兵將潰,大軍繼至,遂敗之,斬首五百,獲其將大鵬翼以獻,以功擢本州防禦使。逾年,改亳州,出為鎮州鈐轄。

端拱元年、寧遠軍知事に移った。ある日、契丹兵が城下に迫ったが、延美は門を開いてこれを見せたので、敢えて入らなかった。数日間城を包囲したが、門は以前のように開いており、民が芻糧を取りに出るのも平時と変わらなかったので、契丹兵はついに疑い、引き上げた。二年、邕州觀察使に進み、亳州を判じ、代州知事を兼ねた。この時、辺郡を任じられる者は皆、内地の一州を兼領して、その家属を置かせた。潞・陝・涇州知事に移った。咸平四年、左領軍衛上将軍で致仕した。六年、卒去した。享年八十三。建武軍節度使を追贈された。

原文端拱元年,徙知寧遠軍。一旦,契丹兵抵城下,延美開門以示之,不敢入。圍城數日,開門如故,民出取芻糧者無異平日,契丹卒疑之,遂引去。二年,進邕州觀察使、判亳州,兼知代州。是時任邊郡者,皆令兼領內地一州,處其家屬。徙知潞、陝、涇州。咸平四年,以左領軍衛上將軍致仕。六年,卒,年八十三,贈建武軍節度。

子の継倫は、崇儀副使に至った。雍は、虞部員外郎となった。

原文子繼倫,至崇儀副使;雍,虞部員外郎。

元達

原文元達

元達は、初め守旻と名乗り、洺州雞沢の人である。身長八尺余りで、膂力に優れ、射術に長けていた。家業は農であったが、苦労する仕事に耐えられず、耒耜を捨て、慨歎して去った。任侠を事とし、酒を縦にした。かつて酔って、道傍の槐樹を見て、剣を抜いてこれを斬ると、樹はすぐに断たれた。達はひそかに喜んで言った、「李将軍が石虎を射て羽を飲んだと聞く。今、樹が私のために断たれたのは、神の助けではなかろうか」。かつて少年数十百人を従えて盗賊を起こそうとしたが、里中の父老が互いに戒めたので、やめた。当時、郡は戸籍によって役を調発し、達は囚人を闕下に送る役目に当たった。数舎(三十里)行くと、囚人をことごとく放して言った、「我は汝らを見るに、これも丈夫である。どうしてこれを楽しもうか。善く自ら計らえ。我もまたここから去る」。まもなく郡が追捕に遣わしたが、到着すると達は弓を引き満たして待ち、追う者は近づけなかった。これにより山林間に亡命し、郷里の患いとなった。

原文元達,初名守旻,洺州雞澤人。身長八尺餘,負膂力,善射。家業農,不任作苦,委耒耜,慨歎而去之。事任俠,縱酒。嘗醉,見道旁槐樹,拔劍斬之,樹立斷。達私喜曰:「吾聞李將軍射石虎飲羽,今樹為我斷,豈神助歟?」嘗從少年數十百人欲起為盜,里中父老交戒之,乃止。時郡以戶籍調役,達當送徒闕下,行數舍,乃悉縱之,曰:「吾觀汝曹,亦丈夫也,豈樂為是哉?可善自為計,吾亦從此逝矣!」已而郡遣追捕,至則達援弓引滿待之,追者不敢近。由是亡命山林間,為鄉里患。

太宗が晋王の邸にいた時、達は求めて謁見し、帳下に隷属することができた。かつて太宗に侍って園亭で射を習った時、命じて射させると、達は四発射て的に中らず、やがて連続して命中した。上は喜び、その名を達と改めさせた。即位すると、御龍直隊長に補った。雍熙元年の初め、累遷して媯州刺史となり、続いて本州団練使を兼ねた。州郡が亡命者を部送して闕下に至ると、左右の者が殺すようそそのかしたが、達は奏上して言った、「この類の竄匿する者は多い。どうしてことごとく殺せようか。赦して自新の道を開き、かつ好生の徳を成す方がよい」。上は悦び、これによりことごとく赦免した。端拱二年、侍衛歩軍都虞候に抜擢され、幽州刺史を兼ねた。北面行営都部署を歴任し、常山鎮から入って京城巡検となった。淳化四年に卒去した。享年四十二。昭化軍節度使を追贈された。

原文太宗居晉邸時,達求見,得隸帳下。嘗侍太宗習射園亭,命之射,達射四發不中的,已而連中。上喜,為更其名曰達。及即位,補御龍直隊長。雍熙初,累遷媯州刺史,繼領本州團練使。進州郡部送亡命者至闕,左右諷殺之,達奏曰:「此類竄匿者眾,豈能盡殺之哉?不如赦之,以開其自新之路,且以成好生之德。」上悅,因悉原之。端拱二年,擢侍衛步軍都虞候,領幽州刺史。歷北面行營都部署,由常山鎮入為京城巡檢。淳化四年卒,年四十二,贈昭化軍節度。

達は草野から奮い起こったが、戎署の職を歴任し、士大夫と交わるに至っては、節を折り礼を尽くすことができ、人はこれをもって称えた。

原文達雖奮自草野,歷職戎署,至交士夫,能折節盡禮,人以是稱之。

常思徳

原文常思德

常思徳は、開封の人である。周の顕徳元年の初め、材勇をもって応募し、天武軍に隷属し、累遷して神衛都虞候となった。雍熙元年の初め、曹彬に従って幽州を征し、これにより牙校に署された。まもなく威虜軍を鎮めた。端拱元年の初め、弓箭直都虞候として溪州刺史を兼ねた。淳化年間、李順が蜀で叛くと、命を受けて夔・峡に赴き招捕し、軍は達州新寧県に駐屯した。近州の土兵を調発し、梁山で賊徒三千余人を掩殺した。当時、雷有終が大軍を率いて合州の境上に到着すると、賊衆二万が来て防いだ。思徳は尹元・裴庄らと合撃し、合州は遂に平定された。賊帥の田奉正・蘇栄が果州に拠ったので、思徳はその遁走に乗じて追捕し、首級八百を斬った。果州が既定すると、残賊は渠州に保ち、および広安・梁山に走った。そこで兵を二つに分けた。広安・梁山に至る者は思徳がこれを率い、渠州に向かう者は元・庄がこれを率いた。合力して進討し、その党をことごとく殲滅した。これにより川・峡は頼って安静となり、再び寇患がなくなり、功により真に汝州刺史を授かった。

原文常思德,開封人。周顯德初,以材勇應募,隸天武軍,累遷神衛都虞候。雍熙初,從曹彬征幽州,因署牙校。尋鎮威虜軍。端拱初,以弓箭直都虞候領溪州刺史。淳化中,李順叛蜀,命往夔、峽招捕,師次達州新寧縣,調近州土兵掩殺賊徒三千餘人於梁山。時雷有終領大軍抵合州境上,賊眾二萬來拒。思德與尹元、裴莊等合擊之,合州遂平。賊帥田奉正、蘇榮據果州,思德因其遁而追捕之,斬首八百。果州既定,餘賊保渠州,及走廣安、梁山。乃分兵為二:抵廣安、梁山者,思德領之;趣渠州者,元、莊領之。合力進討,盡殲其黨。自是川、峽賴以安靜,無復寇患,以功真授汝州刺史。

初めに、曹彬が北征して不利となり、涿州に至った時、左右の者どもは皆潰走散逸したが、ただ思徳のみが配下の兵を率いて護衛し易州に至った。人に語って曰く、「既に軍務に備える以上は、主帥と生死を共にすべきである。もし利害を見て去就を決するならば、何の面目あって君父に拝謁できようか」と。太宗は嘗てその言葉を聞き、この度の出立に際しては、深く慰労を加え、且つ諭して曰く、「臣たる者は忠実を以て本とす。汝は若き時より、既に驍勇を以て自ら効を致し、且つ主将に心を尽くすことができた。朕に事える日こそ久しいが、忠実は一貫している。今は老いたりといえども、亦たその職務に心を尽くし、朕の委任寄託に背かぬようにせよ」と。

原文初,曹彬北征不利,至涿州,左右皆潰散,獨思德以所部護至易州。語人曰:「既備戎行,則與主帥同死生可也。若視利害以為去就,將何面目以見君父乎?」太宗嘗聞其言,至是陛辭,深加慰勞,且諭之曰:「為臣以忠實為本,汝少壯時,既以驍勇自效,且能盡心於主將,事朕之日雖久,而忠實如一。今雖老,亦當盡心乃職,庶無負乎朕之委寄也。」

未だ幾ばくもせず、慶州路副都部署に移り、邠州に駐屯す。咸平初年、李継隆と共に芻糧を率いて霊州に赴く。病により陳留都監に改め、左神武大将軍に換わる。二年、卒す。享年六十五。

原文未幾,移慶州路副都部署、屯邠州。咸平初,與李繼隆同部芻糧赴靈州。以疾改陳留都監,換左神武大將軍。二年,卒,年六十五。

尹継倫

原文尹繼倫

尹継倫は、開封浚儀の人である。父は勲、郢州防御使。嘗て内挙して継倫を以て用いるべきとし、太祖はこれに補して殿直とし、権めて虎捷指揮を領せしめ、嶺表平定に預かり、金陵を下す。太宗即位の後、供奉官に改める。太原征伐に従い、還って洛苑使に遷り、北面縁辺都巡検使を充てる。

原文尹繼倫,開封浚儀人。父勳,郢州防禦使。嘗內舉繼倫以為可用,太祖以補殿直,權領虎捷指揮,預平嶺表,下金陵。太宗即位,改供奉官。從征太原,還,遷洛苑使,充北面緣邊都巡檢使。

端拱年中、威虜軍の糧秣補給が続かず、契丹は密かに侵入を謀る。上聞き、李継隆を遣わして鎮・定の兵万余を発し、輜重数千乗を護送せしむ。契丹の将於越はこれを探知し、精鋭数万騎を率い、路に邀えんとす。継倫は丁度兵を率いて巡察中、路が賊と直に相対す。於越は大軍に向かって直進し、継倫の軍を通り過ぎ、顧みることなく去る。継倫は麾下に謂いて曰く、「賊は我らを蔑ろにしているのだ。彼らが南に出て勝利すれば、帰還の際は乗勝して我らを北に駆り立てるであろう。勝たねばまた我らに怒りを泄らすであろう。生き残る者は無かろう。今日の計は、ただ甲を巻き枚を銜んで彼らを追跡するのみだ。彼らは鋭気を前に向け、我らの到来を予期せず、力戦して勝てば、自ら名を立てるに足る。仮に死してもなお忠義を失わず、どうして黙然として死し、胡地の鬼となろうか」と。衆は皆憤激して命に従う。継倫は軍中に馬に秣を食わせ、夜を待ち、人ごとに短兵を持ち、密かにその後を追跡す。数十里を行き、唐河・徐河の間に至る。天未だ明けず、於越は大軍より四五里離れ、食事を終え戦わんとす。継隆は前方に陣を布いて待ち受け、継倫は後方より急撃し、その将皮室一人を殺す。皮室とは、契丹の宰相である。皮室が捕らえられると、衆は遂に驚き潰走す。於越は食事中、箸を落とし、短兵にその臂を中てられ、傷甚だしく、良馬に乗じて先に遁走す。賊兵はそれに従い大いに潰え、互いに蹂躙し踏みつけられて死する者数知れず、残党は悉く引き去る。契丹はこれより敢えて辺境を窺わず、その平素互いに戒めるには、曰く「黒面大王」を避くべしと。継倫の面が黒い故である。功により長州刺史を領し、仍って巡検を兼ねる。

原文端拱中,威虜軍糧饋不繼,契丹潛議入寇。上聞,遣李繼隆發鎮、定兵萬餘,護送輜重數千乘。契丹將於越諜知之,率精銳數萬騎,將邀於路。繼倫適領兵巡徼,路與寇直。於越徑趨大軍,過繼倫軍,不顧而去。繼倫謂其麾下曰:「寇蔑視我爾。彼南出而捷,還則乘勝驅我而北,不捷亦且泄怒於我,將無遺類矣。為今日計,但當卷甲銜枚以躡之。彼銳氣前趣,不虞我之至,力戰而勝,足以自樹。縱死猶不失為忠義,豈可泯然而死,為胡地鬼乎!」眾皆憤激從命。繼倫令軍中秣馬,俟夜,人持短兵,潛躡其後。行數十里,至唐河、徐河間。天未明,越去大軍四五里,會食訖將戰,繼隆方陣於前以待,繼倫從後急擊,殺其將皮室一人。皮室者,契丹相也。皮室既擒,眾遂驚潰。於越方食,失箸,為短兵中其臂,創甚,乘善馬先遁。寇兵隨之大潰,相蹂踐死者無數,餘黨悉引去。契丹自是不敢窺邊,其平居相戒,則曰:當避「黑面大王」,以繼倫面黑故也。以功領長州刺史,仍兼巡檢。

淳化初年、著作佐郎孫崇諫が契丹より逃げ帰り、太宗が辺境の事情を尋ねると、徐河の戦いで契丹が気力を奪われたことを極言し、故に継倫の名を聞く毎に、慌てふためきどうしてよいか分からぬという。ここにおいて継倫を尚食使に遷し、長州団練使を領せしめ、以て辺将を励ます。淳化五年、李継隆が詔を奉じて夏州を討つに、継倫を河西兵馬都監とす。未だ幾ばくもせず、深州団練使として本州駐泊兵馬部署を領す。

原文淳化初,著作佐郎孫崇諫自契丹逃歸,太宗詢以邊事,極言徐河之戰契丹為之奪氣,故每聞繼倫名,則倉皇不知所措。於是遷繼倫尚食使,領長州團練使,以勵邊將。淳化五年,李繼隆奉詔討夏州,以繼倫為河西兵馬都監。未幾,以深州團練使領本州駐泊兵馬部署。

至道二年、将帥を分遣して五道と為し、以て李継遷を討たしむ。時に大将李継隆は霊環路より往くが、逗留して進まず。上怒り、急ぎ継倫を京師に召し、霊・慶兵馬副都部署を授け、以て継隆を輔けしめんとす。時に継倫は既に病に罹り、強いて起きて詔を受く。上は平素よりその酒を嗜むを聞き、上尊の酒を賜い遣わす。即日駅伝に乗じて行営に赴き、慶州に至り卒す。享年五十。上聞きて嗟悼し、賻賵を加等し、中使を遣わしてその喪を護り帰葬せしむ。

原文至道二年,分遣將帥為五道,以討李繼遷。時大將李繼隆由靈環路往,逗撓不進。上怒,急召繼倫至京師,授靈、慶兵馬副都部署,欲以夾輔繼隆也。時繼倫已被病,強起受詔。上素聞其嗜酒,以上尊酒賜而遣之。即日乘驛赴行營,至慶州卒,年五十。上聞之嗟悼,賻賵加等,遣中使護其喪而歸葬焉。

薛超

原文薛超

薛超は、遼州平城の人である。少より勇力有り。乾徳初年、募に応じて虎捷卒と為る。崔彦進に従い蜀を伐ち平定し、功を録して虞候に補し、十将に遷る。太平興国初年、四遷して天武指揮使に至る。太原征伐に従い、遊騎千人を率いて鎮・定の境上に備禦し、以て軍勢を張る。車駕還御の後、契丹は頻りに鎮・定を寇し、侵掠已むこと無し。超は大将劉廷翰に従い兵を率いて徐河に至り、賊将十余騎を領いて出で挑戦す。超は馬を躍らせて直ちに前進し、連続して数人を射殺す。敵の勢い遂に退く。大軍はこれに乗じて奮撃し、斬首万余級。功により歩軍都軍頭を加えられ、神衛軍都校に遷り、叙州刺史を領す。

原文薛超,遼州平城人。少有勇力。乾德初,應募為虎捷卒。從崔彥進伐蜀平,錄功補虞候,遷十將。太平興國初,四遷至天武指揮使。從征太原,領遊騎千人備禦鎮、定境上,以張軍勢。及車駕還,契丹頻寇鎮、定,侵掠無已。超從大將劉廷翰率兵至徐河,賊將領騎十餘出挑戰,超躍馬直前,連射數人斃,敵勢遂卻。大軍乘之奮擊,斬首萬餘級。以功加步軍都軍頭,遷神衛軍都校,領敘州刺史。

雍熙三年、潘美に従い北征し、雁門・西陘に至り、路にて契丹と遭遇し、また戦いてこれを破る。寰州まで追撃し、斬首五百余級、その将趙彦辛は城を以て降る。超は連続して創を受け、流血甲縷に濡るるも、軍士を指揮すること自若たり、乗勝して応州に抵る。その節度副使艾正は城を以て降る。還りて、馬歩軍都軍頭を加えらる。淳化初年、鎮州に屯し、天武指揮使に遷り、澄州団練使を領す。至道元年卒す。享年五十七。

原文雍熙三年,從潘美北征,至雁門、西陘,路與契丹遇,又戰敗之。追至寰州,斬首五百餘級,其將趙彥辛以城降。超連被創,流血濡甲縷,部分軍士自若,乘勝抵應州,其節度副使艾正以城降。還,加馬步軍都軍頭。淳化初,屯鎮州,遷天武指揮使,領澄州團練使。至道元年卒,年五十七。

丁罕

原文丁罕

丁罕は、潁州の人である。募に応じて衛士に補され、累遷して指揮使となる。劉廷翰に従い徐河に戦い、橋を奪う功により、本軍都虞候に遷る。累遷して天武指揮使となり、奨州団練使を領す。淳化三年、出でて沢州団練使・霸は州知州と為る。会うこと河溢れ城塁を壊す。罕は私財を以て募り築かしめ、民皆これを徳とす。五年、容州観察使として霊環路行営都部署を領し、李継遷と戦い、斬首俘獲数万を以て計る。至道年中、兵を率いて大将李継隆に従い青岡峡より出でる。賊は聞きて先に遁走し、十日行程を追うも見ずして返る。三年、真に密州観察使を拝し威虜軍知軍となり、貝州に移る。咸平二年、卒す。子守徳は、能くその家を継ぐ。

原文丁罕者,潁州人。應募補衛士,累遷指揮使。從劉廷翰戰徐河,以奪橋功,遷本軍都虞候。累遷天武指揮使,領獎州團練使。淳化三年,出為澤州團練使、知霸州。會河溢壞城壘,罕以私錢募築,民咸德之。五年,以容州觀察使領靈環路行營都部署,與李繼遷戰,斬首俘獲以數萬計。至道中,率兵從大將李繼隆出青岡峽,賊聞先遁,追十日程,不見而返。三年,真拜密州觀察使、知威虜軍,徙貝州。咸平二年,卒。子守德,能世其家。

趙瑫

原文趙瑫

趙瑫は、貝州清河の人である。衛士より累遷して龍衛指揮使となる。亦た徐河の戦功により、鎮州団練使を加えられ、兵馬部署に至る。至道二年、官にて卒す。享年七十。帰義軍節度使を贈られる。

原文趙瑫者,貝州清河人。由衛士累遷龍衛指揮使。亦以徐河戰功,加鎮州團練使,至兵馬部署。至道二年卒於官,年七十。贈歸義軍節度使。

郭密

原文郭密

郭密は貝州経城の人である。体躯雄偉にして膂力人に絶す。幼くして孤となり、母に従い同郡の王乙に嫁ぎ、因って王姓を冒す。瀛州知事馬仁瑀の推薦により、晋王の帳下に隷し、左右に給事す。太宗即位の後、指揮使に補せられ、復た郭氏に姓を改む。淳化年間に至るまで、凡そ八遷し、貝州駐泊兵馬部署に移る。時に夏人辺境を寇す。密に武略有るを以て、安州観察使を擢領せしめ、霊州兵馬都部署を充てしむ。士卒を訓練し、号令厳粛にして、夏人畏服し、辺境之に頼りて寧謐たり。至道二年に卒す。年五十八。保順軍節度使を贈らる。

原文郭密,貝州經城人。軀幹雄偉,膂力絕人。幼孤,隨母適同郡王乙,因冒姓王氏。以知瀛州馬仁瑀薦,隸晉王帳下,給事左右。太宗即位,補指揮使,復姓郭氏。至淳化間,凡八遷,移貝州駐泊兵馬部署。會夏人寇邊,以密有武略,擢領安州觀察使,充靈州兵馬都部署。訓練士卒,號令嚴肅,夏人畏服,邊境賴以寧謐。至道二年卒,年五十八。贈保順軍節度。

傅思讓

原文傅思讓

傅思讓は冀州信都の人である。少より無頼にして勇力有り、騎射を善くす。太宗晋邸に居らるる時、親事都校に補せらる。即位の後、衛士直長に補せられ、累遷して平州刺史に至る。詔を奉じて唐興口に於いて契丹兵を破る。端拱年中、四遷して容州観察使・莫州知事となり、隴州に移る。上命じて殿中丞林特に州事を同判せしめ、以て之を夾輔せしむ。思讓の為す所多く不法なるを以ての故なり。至道二年に卒す。年七十四。保順軍節度使を贈らる。

原文傅思讓者,冀州信都人。少無賴,有勇力,善騎射。太宗居晉邸,補親事都校。即位,補衛士直長,累遷至平州刺史。奉詔破契丹兵於唐興口。端拱中,四遷為容州觀察使、知莫州,移隴州。上命殿中丞林特同判州事,以夾輔之,以思讓所為多不法故也。至道二年卒,年七十四。贈保順軍節度。

李斌

原文李斌

李斌は青州の人である。太宗晋邸に在らるる時、其の状貌魁偉なるを聞き、召して左右に置く。即位の後、御龍直副指揮使に補せらる。太平興国年中、天武指揮使として鄭州刺史を領す。七年、嘗て秦王廷美の饋遺を受けたるに坐し、曹州都校に貶せらる。雍熙三年、営州刺史に遷る。四年、溪州団練使を領し、連ねて貝・冀二州駐泊都監と為る。淳化年中、継いで萊州・洺州団練使を領す。政理に勤め、人其の清慎に服す。転運使陳緯状を以て朝廷に聞ゆ。至道初め、桂州観察使に拝し、仍って洺州を判じ、滄州に徙る。及んで代わるに及び、吏民其の去るを忍ばず、隣境も亦其の善状を上る。詔書之を褒美す。咸平三年に卒す。年六十一。

原文李斌者,青州人。太宗在晉邸,聞其狀貌魁偉,召置左右。即位,補御龍直副指揮使。太平興國中,以天武指揮使領鄭州刺史。七年,坐嘗受秦王廷美饋遺,貶曹州都校。雍熙三年,遷營州刺史。四年,領溪州團練使,連為貝、冀二州駐泊都監。淳化中,繼領萊州、洺州團練使。勤於政理,人服其清慎,轉運使陳緯以狀聞於朝。至道初,拜桂州觀察使,仍判洺州,徙滄州。及代,吏民不忍其去,鄰境亦上其善狀,詔書褒美之。咸平三年卒,年六十一。

田仁朗

原文田仁朗

田仁朗は大名元城の人である。父武は晋に仕えて昭義軍節度使と為る。仁朗は父の任により西頭供奉官と為る。太祖即位の後、李重進を討つに従い、城を攻めて功有り。還りて右神武統軍陳承昭と共に五丈河を浚い、以て漕運を通ず。

原文田仁朗,大名元城人。父武,仕晉昭義軍節度使。仁朗以父任西頭供奉官。太祖即位,從討李重進,攻城有功,還,與右神武統軍陳承昭浚五丈河,以通漕運。

乾德年中、蜀を討つに当たり、仁朗を命じて鳳州路壕砦都監と為す。木を伐り道を除き、大軍以て済る。功を録して染院副使に遷す。太祖太原を征するに、陳承昭と共に汾水を壅ぎて城を灌ぐ。城将に陷らんとす、会に班師す。俄かに内染院使に遷り、数日にして左蔵庫使に改む。中官に讒えられ、太祖怒り、立って召して之を詰る。殿門に至り、冠帯を去るを命ず。仁朗神色撓まず、従容として曰く、「臣嘗て蜀を破るに従い、秋毫も犯さず。陛下固より之を知る。今禁中に蔵を主り、豈復た姦利を為して以て自ら汚さんや」と。太祖怒り解け、止だ其の職を停むるに止む。

原文乾德中,討蜀,命仁朗為鳳州路壕砦都監。伐木除道,大軍以濟,錄功遷染院副使。太祖征太原,與陳承昭壅汾水灌城。城將陷,會班師。俄遷內染院使,數日,改左藏庫使。為中官所讒,太祖怒,立召詰之,至殿門,命去冠帶。仁朗神色不撓,從容曰:「臣嘗從破蜀,秋毫無犯,陛下固知之。今主藏禁中,豈復為姦利以自汙?」太祖怒釋,止停其職。

開宝六年、起ちて榷易使と為る。七年、西北辺内侵するを以て、選びて慶州知事と為す。仁朗至り、麾下を率いて往きて之を撃つ。短兵将に接せんとし、前鋒稍く卻く。仁朗指揮使二人を斬る。軍中震恐し、争いて効命を乞う。遂に大いに之を破る。其の酋長相率いて和を請う。仁朗牛を烹ぎ酒を置きて之と約誓す。辺境乃ち寧んず。璽書之を褒美す。

原文開寶六年,起為榷易使。七年,以西北邊內侵,選知慶州。仁朗至,率麾下往擊之,短兵將接,前鋒稍卻,仁朗斬指揮使二人,軍中震恐,爭乞效命,遂大破之。其酋長相率請和,仁朗烹牛置酒與之約誓,邊境乃寧,璽書褒美。

太平興国初め、秦州羌寇と為る。仁朗を命じて兵を清水に屯せしむ。会に李飛雄の事敗れ、召して西上閤門使と為す。四年、太原を征するに、仁朗を命じて閤門祗候劉緒と共に太原城四面の壕砦を行按し、攻城の梯衝・器械を閲視せしむ。太原平らぎ、仁朗を留めて兵馬鈐轄と為し、閑廄使武再興・軍器庫副使賈湜並びに巡検と為す。俄かに仁朗と再興を命じて民を役し榆次の新城を築かしむ。大名に幸するに従い、又命じて滄州鈐轄と為し、俄かに東上閤門使・秦州知事に遷る。九年、四方館事を判ず。会に東封を議し、仁朗を命じて京より泰山に抵り、役を督し道を治めしむ。

原文太平興國初,秦州羌為寇,命仁朗屯兵清水。會李飛雄事敗,召為西上閤門使。四年,征太原,命仁朗與閤門祗候劉緒按行太原城四面壕砦,閱視攻城梯衝、器械。太原平,留仁朗為兵馬鈐轄,閑廄使武再興、軍器庫副使賈湜並為巡檢。俄命仁朗與再興役民築榆次新城。從幸大名,又命為滄州鈐轄,俄遷東上閤門使、知秦州。九年,判四方館事。會議東封,命仁朗自京抵泰山,督役治道。

李継遷乱を為す。仁朗を命じて兵を率い銀・夏を巡らしむ。歳余して召還さる。未だ幾ばくもせず、継遷麟州を攻め、曹光実を誘い殺し、遂に三族砦を囲む。仁朗を命じて閤門使王侁・副使董愿・宮苑使李継隆と共に、伝を馳せて辺兵数千を発し之を撃たしむ。仁朗綏州に次ぐ。兵を益すを奏請し、月余を留まり報を俟つ。会に三族砦の将折遇乜監軍使者を殺し、継遷と合す。太宗之を聞きて大いに怒り、亟に軍器庫使劉文裕を遣わし三交より疾置に乗りて仁朗に代わらしむ。継遷急に乗じ撫寧砦を攻む。仁朗文裕に代えらるるを知らず、喜びて諸将に謂いて曰く、「敵人は水草を逐い散じて岩険に保ち、常に烏合して寇と為り、勝てば進み、敗れば走り、以て其の巣穴を窮むる無し。今継遷羌・戎数万を嘯聚し、鋭を尽くして以て孤壘を攻む。撫寧は小なれども固く、兵は少なれども精なり。未だ旬浹を以て破るべからず。当に信宿を留まり、其の困するを俟ち、大兵を以て之に臨み、強弩三百を分かち、其の帰路を邀えば、必ず擒と成らん」と。仁朗部署已に定まり、閑暇を示さんと欲し、日其の樗博を縱え、軍事を恤みせず。上之を知り、使者を遣わし仁朗を召して闕に赴かしめ、御史に下して仁朗の兵を益すを請い及び三族を陷れたる状を按問せしむ。仁朗対えて曰く、「召しし銀・綏・夏の兵は、其の州皆城を防ぐに留め、遣わさず。部する所千余人有り、皆曹光実の旧卒なり。器甲完からず、故に兵を益すを請う。況んや芻粟を転輸する未だ備わらず。三族砦と綏は相去ること道遠く、元の詔の救う所に非ず。昨臣已に継遷を擒うるの策を定めんとす、会に詔して臣に代わる。其の謀果たさず」と。因りて言う、「継遷は部落の情を得たり。願わくは優詔を降し之を懐来し、或いは厚利を以て諸酋長を啖い密かに之を図らしめよ。然らずんば、恐らくは他日制し難く、大いに辺患と為らん」と。御史其の状を聞ゆ。上大いに怒り、切に憲府の官吏を責めて曰く、「仁朗軍政を恤みせず、過と為すこと得んや」と。大理遂に仁朗を当てて軍興を乏くし及び征人の期に違えること二十日以上、死に坐す。上特だ之を貸し、詔を下して商州団練副使に責授し、馳驛に発遣せしむ。

原文李繼遷為亂,命仁朗率兵巡銀、夏,歲餘召還。未幾,繼遷攻麟州,誘殺曹光實,遂圍三族砦。命仁朗與閤門使王侁、副使董愿、宮苑使李繼隆,馳傳發邊兵數千擊之。仁朗次綏州,奏請益兵,留月餘俟報。會三族砦將折遇乜殺監軍使者,與繼遷合。太宗聞之大怒,亟遣軍器庫使劉文裕自三交乘疾置代仁朗。繼遷乘急攻撫寧砦,仁朗不知為文裕所代,喜謂諸將曰:「敵人逐水草散保岩險,常烏合為寇,勝則進,敗則走,無以窮其巢穴。今繼遷嘯聚羌、戎數萬,盡銳以攻孤壘,撫寧小而固,兵少而精,未可以旬浹破。當留信宿,俟其困,以大兵臨之,分強弩三百,邀其歸路,必成擒矣。」仁朗部署已定,欲示閑暇,日縱其樗博,不恤軍事。上知之,遣使召仁朗赴闕,下御史按問仁朗請益兵及陷三族狀。仁朗對曰:「所召銀、綏、夏兵,其州皆留防城,不遣。所部有千餘人,皆曹光實舊卒,器甲不完,故請益兵。況轉輸芻粟未備,三族砦與綏相去道遠,非元詔所救。昨臣已定擒繼遷策,會詔代臣,其謀不果。」因言:「繼遷得部落情,願降優詔懷來之,或以厚利啖諸酋長密圖之。不爾,恐他日難制,大為邊患。」御史以其狀聞,上大怒,切責憲府官吏曰:「仁朗不恤軍政,得為過乎?」大理遂當仁朗乏軍興及征人違期二十日以上,坐死,上特貸之,下詔責授商州團練副使,馳驛發遣。

是の役、仁朗の計已に決す。王侁等に構えられ、逗撓して進軍せず、故に貶に及ぶ。後数ヶ月、上其の無罪なるを知り、召して右神武軍大将軍に拝す。河北東路諸州の城池を部修せしむ。数ヶ月にして就る。留めて雄州を知らしめ、澄州刺史を領するを加う。時河北兵を用う。大藩多く節将を用う。朝議以て通判の権位倫ならずとし、諸司使に吏幹有る者を選びて之を佐けしめ、仁朗を以て定州節度副使事を知らしむ。俄かに召して闕に赴かしむ。未だ命を聞かずして卒す。年六十。時は端拱二年なり。

原文是役也,仁朗計已決,為王侁等所構,逗撓不進軍,故及於貶。後數月,上知其無罪,召拜右神武軍大將軍。部修河北東路諸州城池,數月而就。留知雄州,加領澄州刺史。時河北用兵,大藩多用節將,朝議以通判權位不倫,選諸司使有吏幹者佐之,以仁朗知定州節度副使事。俄召赴闕,未聞命而卒,年六十,時端拱二年也。

仁朗性沈厚にして謀略有り。頗る書伝に渉り、至る所善政有り。雅に音律を好み、尤も其の妙に臻る。時内職中咸く仁朗を以て称首と為す。故に死するの日人多く之を惜しむ。

原文仁朗性沉厚,有謀略。頗涉書傳,所至有善政。雅好音律,尤臻其妙。時內職中咸以仁朗為稱首,故死之日人多惜之。

劉謙

原文劉謙

劉謙は博州堂邑の人である。曾祖父の劉直は純朴で篤実な人柄をもって郷里に知られ、里の者がその衣服を盗んでも咎めようとしなかった。州の将軍が廉潔を知り、人に命じて故意に衣服を盗ませたが、やはり訴え出ず、将軍は前の盗人を召し出して詰問し、返させようとした。劉直は偽って言うには、「衣服は自ら少年に与えたもので、盗まれたのではない」と。州将はその義を感じ、金帛を賜ろうとしたが、受けずに去った。父の仁罕は軽佻で任侠を自任した。五代末、寇賊が充満し、仁罕は衆を率いて澶州の浮橋を断ち賊を潰走させ、さらに数十人を誘い捕らえ、芻粟を出して官軍に給した。内黄鎮将に補せられた。かつて用事で酒家に至り、群盗が突然集まるのに遇い、計略をもってその首領を悉く梟首し、西京留守の向拱のもとに携えて詣り、汜水鎮将に補せられ、まもなく散都頭となった。宋初、許州龍衛副指揮使に遷った。王師が広南を征討するに際し、前鋒となった。還って、同州都校に改め、卒した。

原文劉謙,博州堂邑人。曾祖直,以純厚聞於鄉黨,里有盜其衣者,置不問。州將廉知,俾人故竊其衣,亦不訴理,即召詰前盜衣者,俾還之。直紿云:「衣乃自以遺少年,非竊也。」州將義之,賜以金帛,不受而去。父仁罕,輕俠自任。五代末,寇盜充斥,仁罕率眾斷澶州浮橋以潰賊,因誘獲數十人,出芻粟給官軍。補內黃鎮將。嘗因事至酒家,遇群寇暴集,以計悉梟其首,攜詣西京留守向拱,補汜水鎮將,俄為散都頭。宋初,遷許州龍衛副指揮使。會王師征廣南,為前鋒。還,改同州都校,卒。

劉謙は若くして気概に感じ、小節に拘らなかった。初めて嶺表に赴き父を省み、仁罕は金帛を資して北に帰り行商せよと命じた。堂邑の旧墅に還り、かつて郷里の悪少に辱められ、劉謙は怒りに耐えず、これを毆り殺した。京師に亡命し、募りに応じて軍に従い、衛士に補せられ、次第に遷って内殿直都知となった。至道初年、真宗が皇太子となられ、宮衛を増補するに当たり、太宗が便坐に御し、諸校を親選され、劉謙に西頭供奉官・東宮親衛都知を授け、袍笏・鞾帯・器幣を賜った。真宗が即位すると、擢て洛苑使を授けた。劉謙は行伍より起り、禁職を好まず、官秩の換えを求め、殿前左班指揮使に改め、諸司使の俸料を給された。咸平初年、御前忠佐馬歩軍都軍頭に遷り、勤州刺史を領し、殿前右班都虞候を加えられた。上(皇帝)が大名に行幸され、北苑に至った時、劉謙が病を得たので、帰して将護させようとしたが、劉謙は懇請して従行を願った。そこで二人の子を随侍させ、なお尚医を従えさせ、御厨が調膳してこれを給した。病が癒えると、服用した鞍勒を毀ち中使に与え、上はこれを聞き、白金二百両を賜った。車駕が還ると、捧日左廂都指揮使に改め、本州団練使を領した。四年、捧日・天武四廂都指揮使に遷り、本州防禦使を領し、権殿前都虞候となった。

原文謙少感概,不拘小節。初詣嶺表省父,仁罕資以金帛,令北歸行商。還堂邑舊墅,嘗為鄉里惡少所辱,謙不勝怒,毆殺之。亡命京師,遂應募從軍,補衛士,稍遷內殿直都知。至道初,真宗升儲邸,增補宮衛,太宗御便坐,親選諸校,授謙西頭供奉官、東宮親衛都知,賜袍笏、鞾帶、器幣。真宗即位,擢授洛苑使。謙起行伍,不樂禁職,求換秩,改殿前左班指揮使,給諸司使奉料。咸平初,遷御前忠佐馬步軍都軍頭,領勤州刺史,加殿前右班都虞候。上幸大名,至北苑,屬謙有疾,遣歸將護,謙懇請從行。既俾其二子隨侍,仍挾尚醫以從,御廚調膳以給之。疾瘳,毀所服鞍勒以遺中使,上聞,賜白金二百兩。駕還,改捧日左廂都指揮使,領本州團練使。四年,遷捧日、天武四廂都指揮使,領本州防禦使,權殿前都虞候。

時に高翰が天武左廂都校であり、ある兵卒が負債のために人を殺し、屍を高翰の営中に埋めた。数日後、土を発してこれを得た。上は高翰が検察を失ったことを怒り、便殿に執って引見した。劉謙は即ち前に進み奏上して言うには、「高翰の職務は巡邏および諸軍を閲教することにあり、常時営中におるわけではなく、本営の事は軍頭に責むべきです」と。上はこれにより高翰の罪を釈いた。

原文時高翰為天武左廂都校,有卒負債殺人,瘞屍翰營中,累日,發土得之。上怒翰失檢察,執見於便殿。謙即前奏:「翰職在巡邏及閱教諸軍,不時在營,本營事宜責之軍頭。」上為釋翰罪。

景德初年、侍衛馬軍都虞候を加えられ、潯州防禦使を領するよう改め、まもなく権歩軍都指揮使となった。明年の冬、制により殿前副都指揮使・振武軍節度使を授けられた。先に、劉謙は久しく権殿前都虞候を務めていたが、まもなく曹璨が正授として擢てられ、劉謙は頗る慨歎の色を示した。この時至り、曹璨は馬軍の副となり、劉謙は禁衛を領するよう昇進したのである。河北に屯兵する時、常に八月に冬衣を給していた。劉謙は辺城は早く寒くなることを上言し、六月に給するよう請い、後にはこれを例とした。まもなく、足疾を理由に郡を典とすることを求め、上は召見し、敦めて勉めた。

原文景德初,加侍衛馬軍都虞候,改領潯州防禦使,俄權步軍都指揮使。明年冬,制授殿前副都指揮使、振武軍節度。先是,謙久權殿前都虞候,俄擢曹璨正授,謙頗形慨歎。至是,璨副馬軍,而升謙領禁衛焉。河北屯兵,常以八月給冬衣。謙上言邊城早寒,請給以六月,後以為例。無何,以足疾求典郡,上召見,敦勉之。

大中祥符初年、東封に従い、上(皇帝)が泰山に登られると、詔して山下の馬歩諸軍を都総せしめ、西京左蔵庫副使の趙守倫とともに山門を閲視し、施設に法があり、籍に著された者のみが登ることができた。礼が成ると、都指揮使に進授され、保静軍節度使を領するよう移った。明年八月に卒し、年六十、侍中を贈られた。初め、劉謙が応募しようとした時、同軍の王仁徳とともに日者に占わせた。日者は劉謙を指して仁徳に言うには、「汝はこの人の廐吏となるであろう」と。劉謙が殿前を帥するに及んで、仁徳は果たして廐中に隷役していた。

原文大中祥符初,從東封,上升泰山,詔都總山下馬步諸軍,與西京左藏庫副使趙守倫閱視山門,設施有法,著籍者乃得上焉。禮成,進授都指揮使,移領保靜軍節度。明年八月卒,年六十,贈侍中。初,謙將應募,與同軍王仁德訊於日者。日者指謙謂仁德曰:「爾當為此人廄吏。」及謙帥殿前,仁德果隸役廄中。

子の劉懷懿は、後に東染院副使となった。劉懷詮は、内殿崇班・閤門祗候となった。

原文子懷懿,後為東染院副使。懷詮,內殿崇班、閤門祗候。

論じて曰く、宋初の諸将は、率ね草野より奮い起こり、戎行より身を起こし、盗賊無頼の徒すらもまたその間に廁し、屠狗・販繒の者と何の異なることがあろうか。用いられるに及んで、皆能く卓然として自ら樹立し、これは御するにその道を得たからである。劉福は下を御するに方略あり、至る所に績を著し、禄を受くること厚くとも燕安の謀を為さず、国にありて家を忘るる者と謂うべし。守忠は辺事に練達し、身を禔(安)んじ謙慎であり、卒校の変を談笑の間にして弭やめしめたのは、権を行なうに善くする者でなければできないことである。仁朗は沈毅にして謀あり、累ね征討に従い、綏州の役は、ただ功無きのみならず、反って逗撓の罪に坐せられた。豈にその計の善からざるによるであろうか。ただ讒邪の輩に構えられたのである。その余の諸子は、皆戦功を積んで通侯を取った。延美の如きは門を開いて敵を示し、思徳の如きは主帥を翼衛し、継倫の如きは契丹を襲撃し、薛超の如きは創を裹つつんで戦に赴き、元達の如きは亡命を赦すことを請い、郭密の如きは士卒を訓撫し、これらは皆忠義仁勇にして称するに足る者である。劉罕・劉瑫・思讓、また劉斌・劉謙の如きは、奇功には乏しいが、また能くその職を共にし、過ちを寡くする者である。守正は素より戎旅に練達し、累ね辺要を任ぜられたが、労を矜り忿りを肆ほしいままにし、労謙の君子に比すれば、能く愧じないことがあろうか。

原文論曰:宋初諸將,率奮自草野,出身戎行,雖盜賊無賴,亦廁其間,與屠狗販繒者何以異哉?及見於用,皆能卓卓自樹,由御之得其道也。劉福御下有方略,所至著績,受祿雖厚,而不為燕安之謀,可謂國爾忘家者矣。守忠練達邊事,禔身謙慎,弭卒校之變於談笑之頃,非善於行權者不能也。仁朗沈毅有謀,累從征討,綏州之役,不惟無功,而反坐逗撓,豈其計之不善哉?特為讒邪所構爾。自餘諸子,皆積戰功以取通侯。若延美之開門示敵,思德之翼衛主帥,繼倫之襲擊契丹,薛超之裹創赴戰,元達之請赦亡命,郭密之訓撫士卒,斯皆忠義仁勇,有足稱者。罕、瑫、思讓,若斌、若謙,雖乏奇功,而亦克共乃職,能寡過者也。守正素練戎旅,累任邊要,而矜勞肆忿,視於勞謙之君子,能無愧乎。