宋史

列傳第三十三 王贊 張保續 趙玭 盧懷忠 王繼勳 丁德裕 張延通 梁迥 史珪 田欽祚 侯贇 王文寶 翟守素 王侁 劉審瓊

王贊

建隆の初め、李重進を始めて平定した時、太祖は平素より王贊の才幹を知り、修復の任を委ねるに足るとし、直ちに揚州知事に任じた。赴任の途上、船が閶橋の下で転覆し、溺死し、親族で従って没した者は三人であった。上は甚だ嘆き悼み、左右の者に言った、「朕の枢密使を溺れさせてしまった」と。大いに用いようとしていたのである。その家に絹三百匹、米・麦各二百斛を賜って葬儀を助けた。

張保續

後漢の乾祐の初め、出て隴州防禦使となった。周の太祖が革命を起こすと、召されて東上閤門副使となり、慕容彦超平定に従った。累進して引進副使・知閤門事となった。世宗が即位すると、西上閤門使を授けられた。翌年、進んで東上閤門使の位階となった。上に従って淮南に征し、寿州が降伏を申し出た際に、保續を先に派遣して慰撫させ、劉仁贍が将卒を率いて出降すると、その功により判四方館事に転じ、そのまま客省使に昇進した。瓦橋関平定に従い、呉越に使者として赴いた。

宋の初め、衛尉卿に転じ、判四方館・客省・閤門事を兼ねた。

保續の性質は耿直で、倹素を好み、閤門の職に前後四十年在り、宣贊の辞令をよくし、聞く者を傾聴させた。累次藩国に使いして命を辱めず。六朝に歴事して、未だ過ちがなかった。李筠征討に従軍したが、足疾のため河内に留まり、後に京師に帰った。建隆三年に卒去、年六十四。

趙玭

後周の顕徳の初め、王景に命じて兵を率い秦鳳を討たせた。しょくの李廷珪(彦儔)が出兵して救援したが、未だ到らぬうちに、軍の敗北を聞き、潰走して帰還した。玭は城門を閉ざして入れず、官属を召して諭して言った、「今、中朝の兵甲は天下に比類なく、西征に用いてより、戦いて勝たざるはない。蜀中が派遣した者は、将は皆武勇の者、卒は皆ぎょう鋭の者であったが、殺戮と遁逃の外、ほとんど一人も残らなかった。我々はどうして安んじてその禍を受けることができようか。危きを去り安きに就くは、まさに今日にあるべきである」と。衆は皆俯伏して命を聴いた。玭は遂に城を挙げて朝廷に帰順した。世宗は藩鎮に任じようとしたが、宰相范質が認めず、郢州刺史を授け、汝・密・沢の三州刺史を歴任した。

建隆年中、入朝して宗正卿となった。乾徳の初め、出て泰州刺史となった。二年、左監門衛大將軍・判三司に改めた。玭は狂躁で剛直、多く上旨に逆らい、太祖は頗る寛容に扱った。嘗て宰相趙普が私的に秦・隴の大木を売買した事実を探り出し、密かに奏上したが、普に知られることを恐れ、足疾を称して職の解除を求めた。五年の春、使職を罷め、本官を守った。この後、累次密疏を献上したが、皆、中に留め出されず、常に普が中傷していると疑った。六年、闕下に詣で、授けられた告身を納め、詔して私第に帰ることを命じられた。さらに鄆州に退居することを請うたが、許されなかった。玭は憤りに耐えず、一年余り後、普が入朝するのを待ち、馬前でその短所を大声で言いふらした。上はこれを聞き、玭及び普を便殿に召し、面と向かってその事を質した。玭は大声で普が木材を販売して利を図ったと誹謗した。上は怒り、急ぎ百官を集めて普を追放するよう命じ、且つその事を諭した。王溥らが玭が大臣を誣罔すと奏上し、普の事は解決を得た。上は玭を詰問責め、武士に命じて打たせ、御史に殿庭で審問させた。普が救済を図り、その罰を軽くすることができ、汝州の牙校に貶黜された。太平興国三年に卒去、年五十八。

盧懷忠

宋の初め、内酒坊副使に転じた。時に朗州で軍乱が起こり、太祖が出師して討伐しようとした際、懷忠を荊南に派遣し、因って言った、「江陵の人情の去就、山川の向背を、我は尽く知りたい」と。懷忠が使いから戻り、奏上して言った、「高継沖の甲兵は整っているが、控える弓兵は三万に過ぎず、年穀は豊かであるが、民は暴斂に苦しんでいる。南は長沙に近く、東は金陵に距たり、西は巴蜀はしょくに迫り、北は朝廷に奉じている。その形勢を観るに、まさに日も暇あらざる有様です」と。太祖は宰相范質らを召して言った、「江陵は四分五裂の国である。今、湖南に出師し、荊渚を仮道し、それに乗じてこれを下すは、万全の策である」と。即ち懷忠を前軍歩軍都監とした。荊湖が平定され、その功により内酒坊使に転じた。

乾徳二年、判四方館事に改め、江陵府知事を兼ねた。四年、王師が蜀を伐った。江陵は峡と江の合流する要衝に当たり、供億の労により、客省使に転じた。また翌年、江南に使いして帰還途中、病に遇い、轎で京師に帰った。太祖は医者を遣わし丸薬や艾を賜ったが、間もなく卒去、年四十九。大中祥符四年、その子の盧熙を校書郎に任用した。

王繼勳

宋初、磁州団練使に遷り、境上用兵の律を失い、荊罕儒が陣に陥ったことを坐し、右監門衛率を責授された。初め荊襄を平定した時、道州の権知を命ぜられ、間もなく本州刺史を授けられた。州境は広南と接し、劉鋹がしばしば兵を引きいて寇し入るので、継勳は嶺表を図るべき状を上言した。王師が南伐するに及び、賀州道行営馬歩軍都監と為された。継勳は武勇有り、軍陣に在っては、常に鉄鞭・鉄槊・鉄楇を用い、軍中では「王三鉄」と目された。

丁德裕

江南征討に際し、徳裕を常州行営兵馬都監として遣わし、呉越兵を領かせ、主帥を助けて進討させた。常州が平定され、州事を権知するよう命ぜられた。また昇州東南路行営都監に改め、潤州軍五千余を城下に破った。潤州を抜くに及び、常・潤等州経略巡検使を領するよう移された。徳裕は傾險なるを以て衆に悪まれ、勢いを恃んで剛狠、士卒を恤れず、貨を黷するに厭きず、越人はこれを苦しんだ。銭俶がその事を奏し、房州刺史に貶せられ、卒した。

張延通

梁迥

太祖が西蜀を討たんとし、迥に秦州戍兵を監させた。蜀が平定され、州兵を監するよう改め、宮苑使に転じた。太原征従して還り、蜀州刺史聶章を沁州兵馬部署と為す命に会い、迥にその軍を監させた。間もなく、幷人が寇し入り、迥は閻彦進と共に兵を率いてこれを撃破し、功により東上閤門使に遷った。開宝五年、広南道兵馬都監兼諸州巡検と為すよう命ぜられた。

八年、江南に奉使した。迥は元より貪冒で、外務は矯飾し、初めは厳毅で犯し難きが如く、饋食すらも受けず、江南人は甚だこれを憚った。やがて資貨を奉じ、その価数万緡に殆ど及ぶと、迥は即ち大喜過望し、舟に登って酒を縦にし、連日宴楽した。帰るに及び、恋々として発たず、人は多くこれを笑った。王師が金陵を伐つに及び、迥に潘美・劉遇と共に歩兵を率いて先ず荊南に赴かせ、且つ迥に行営歩兵及び左廂戦棹を護らせ、呉人と采石で戦い、殺獲甚だ衆かった。江南平定後、功により順州団練使を領した。

太宗即位し、四方館事を判じ、禁軍を領して沢州に戍した。太平興国三年、銭俶が来朝し、淮・泗に往き迎労するよう命ぜられた。夏、汴水が大いに決し、詔して迥に畿内丁男三千を発して汴口を護塞させた。四年、太原を征し、迥を行営前軍馬歩軍都監と為し、軍を督めて城を攻め、流矢に四たび中った。車駕還り、孟玄哲・崔翰と共に兵を率いて定州に屯するよう命ぜられ、功により引進使に遷った。五年、詔を受けて潘美と共に三交に幷州を城し、及び縁辺の堡障を築いた。七年、李継遷が辺を寇し、迥に兵を領して銀・夏州を護らせた。八年、召還され、唐州防禦使を授けられ、職に赴くよう命ぜられた。

雍熙二年、継遷が都巡検使曹光実を誘殺し、勢いに乗じてしばしば辺を寇した。再び迥を召して銀・夏都巡検使と為し、辺に赴きこれを捍禦させた。三年夏、銀州官舎にて卒し、年五十九。

迥の性は粗率で、特に文士を喜ばず、故事として、節帥が出鎮し及び来朝する時、便殿で宴労し、翰林学士は皆坐に預かった。開宝中、迥が閤門使であった時、太祖に白して言うには、「陛下が将帥を宴犒するに、何ぞこの輩を預坐せしむるや」と。これより以てこれを罷めた。淳化中に至り、翰林学士蘇易簡が太宗に白し、始めて預かるようになった。大中祥符八年、迥の子廷翰を録して奉職とした。

史珪

太祖が初めて臨御し、外事を周知せんと欲し、珪に博訪させた。珪は数事を廉得して上に白し、これを験するに皆実であったので、これによりこれを信じ、後には漸く威福を肆にするに至った。民に官物を市して価に当たらざる者あり、珪はその欺罔を告げ、法に置くべきとし、列肆は側目せざるはなかった。上これを聞き、因って詔を下して曰く、「古人が獄市を寄と為す者は、小民は唯利に従うを知り、尽く法を以てこれを縄するべからざるを知ったのである。況や先甲の令、未だ申明せず。苟も人を刑に陷らしむれば、深く理道に非ず。その二価を禁せんと欲すれば、宜しく明文を以て示すべし。今より応に官物を市易し、妄りに価直を増して官銭を欺罔する者は、案鞫して実を得れば、並びに枉法を以て論ず。その犯すところ詔前にある者は、一切問わず」と。これより珪は復た敢えて言わず。

時に徳州刺史郭貴が邢州を知り、国子監丞梁夢昇が德州を知った。貴の族人親吏の德州に在る者、頗る姦利を為し、夢昇は法を以てこれを縄した。貴は元より珪と善く、人を遣わしてその事を珪に告げ、夢昇を去らんと図った。珪は悉くこれを紙に記し、便を伺ってこれを言わんとした。一日、上因って言うには、「爾来中外の任ずる所、皆その人を得たり」と。珪は遽かに曰く、「今の文臣も、必ずしも皆善からず」と。乃ち懐中に記す所を探って進め、曰く、「只だ知德州梁夢昇が刺史郭貴を欺蔑し、幾ばくか死に至らしむるが如きは」と。上曰く、「これは必ず刺史の為す所不法なり。夢昇は真に清強の吏なり」と。因って記す所の紙を中書に付して曰く、「即ち夢昇を賛善大夫と為せ」と。既に又曰く、「左賛善とせよ」と。珪は譖を行われず、居常怏怏とした。九年、禁中の語を漏泄するを坐し、光州刺史に出された。歳饑に会い、淮・蔡の民が州境に流入し、珪は聞を待たず、即ち倉を開き価を減じて以て糶し、全活する所甚だ衆く、吏民が闕に詣で碑を植えて徳を頌せんと請う者数百人。

太平興国初、揚・楚等九州都巡検使と為された。四年、太原を征し、珪に彰信軍節度劉遇と共に城の北面を攻めさせた。幽州征従し、部する所の逗撓失律を坐し、定武行軍司馬を責授された。数月、召されて右衛将軍・平州刺史を領した。惠民河の浚渫を督し、尉氏より京に達する九十里、数旬にして畢り、民皆これを便とした。江・淮の民麹謀首等数十百人が聚まって盗と為るに会い、珪に龍猛騎兵五百を率いて往き捕らえさせ、悉くこれを獲た。六年、隰州刺史に遷り、保州・静戎軍を知った。上に縁辺便宜十五事を上り、皆従われた。

雍熙中、曹彬に従い幽州を征し、押陣部署と為り、部する所を以て涿州に下った。師還り、卒し、年六十一。珪は智数多く、甘言小恵を以て人に誉を取るを好み、故に至る所その去るを忍ばずという。

田欽祚

宋初、閤門通事舎人に遷る。乾徳二年冬、蜀を討つに当たり、北路先鋒都監となり、駅伝に乗り往還して機密の事を宣達することを命ぜられる。孟昶降伏す、捷書を奉じて馳せて奏上し、西上閤門副使に遷る。蜀土の寇賊乱あり、また欽祚を遣わして師を率いて討ち平らげしむ。四年春、幷州の賊が楽平を寇す、羅彦瓌に従ってこれを防ぎ、独り配下の三千人をもって賊を破り、副将一人を擒え、俘獲甚だ多く、功により西上閤門使に遷る。開宝二年、また何継筠とともに賊兵を石嶺関にて破り、賀州刺史を領し、判四方館使となる。三年、契丹が中山を寇す、欽祚を以て定州路兵馬都部署とす。遂城にて戦うこと、旦より晡に及び、殺傷甚だ衆し。欽祚の馬、流れ矢に中りて踣る、騎士王超、馬を欽祚に授く、軍再び振るい、敵解きて去る。朝廷将に江表を討たんと議し、欽祚を遣わしてこれを覘かしむ、還りて奏上し旨に合い、江南に得たる宝貨の価三千万、悉く以て欽祚に賜う。師を興すに会し、首めて欽祚を命じ曹彬・李漢瓊とともに騎軍を率いて先ず江陵に赴かしめ、就いて昇州西南路行営馬軍兼左廂戦棹都監と命ず。兵を領して呉軍万余を溧水にて破り、その主帥李雄ら五人を斬り、裨将二人を擒う。進んで金陵を囲み、南面攻城部署となる。既に平らぎ、功により汾州防禦使を加領す。

太平興国初、引進使に遷り、晋州都鈐轄となる。太原の驍将楊業、衆を率いて洪洞県を寇す、欽祚これを撃ち破り、首級千余を斬り、馬数百を獲る。太宗、欽祚に白金五千両を賜い、宅を買わしむ。四年、太原征伐に従い、前鋒騎兵を護り、石嶺関に屯して契丹を防ぐ。

欽祚、性質剛愎にして気に任せ、忤犯すること多く、主帥郭進と協わず、進は戦功高く、屡々欽祚に陵辱せられ、心に甘んぜず、遂に自縊して死す。初め、賊兵奄然として至る、進は出て戦う、欽祚はただ壁を閉ざして自ら守るのみ、既に去りて、また追わず。受けし月俸の芻粟を、多く販売して利を図り、部下に訴えられ、責めて睦州団練使を授く。車駕北巡し、以て幽州西路行営壕砦都監とす。六年秋、房州団練使に改め、一年を逾ぎ、また柳州に改む。嶺外は瘴気多く、因って疾に罹り、累表して生還して闕下を乞う。上これを憐れみ、郢州団練使に遷す。郡に在ること二年、入朝し、欽祚上に見え、涕泣止まず。以て銀・夏・綏・宥都巡検使とし、俄かに召し還す。幽州征伐に会し、欽祚を命じ宣徽南院使郭守文とともに排陣使とす。時に欽祚既に病に被り、詔を受けて喜びに勝えず、一夕、卒す。

欽祚、性質陰険狡黠にして、特に儒士を喜ばず、同列を狎れ侮るを好み、人多くこれを悪む。子承誨、官は供奉官・閤門祗候に至る。承説、崇儀副使に至る。

侯贇

宋初、諸衛将軍となる。先に、朝廷歳に関中の穀麦を仰ぎて用を給す、贇その事を掌ること三十年を歴し、国用欠くこと無し。累遷して右武衛将軍に至る。開宝中、歴て建安軍・揚州・徐州の知事となり、皆善政あり。太宗即位し、福州知事に移り、右衛将軍に改む。太平興国二年、銭俶初めて土を納る、詔して贇を馳せて両浙諸州に往き軍儲の芻茭を閲視せしむ、累遷して右衛大将軍となる。七年、霊州知事となり、蕃落を按視し、時に宴犒して辺士の心を得、部内大いに治まり、左衛に遷る。朔方に在ること凡そ十余年、上久しく在任するを念い、代わるべき者を求めてその人を得難し。淳化二年、官にて卒す、年七十四、本衛上将軍を贈られる。

王文宝

文宝、内職を歴ること三十年、雅に外事を言うを好み、太祖・太宗頗るこれを信任し、中外咸くその口を畏る。出でて高陽関兵馬鈐轄となり、淳化二年、官にて卒す。

翟守素

開宝中、麟州・府州に会し内属の戎人、地を争い決せず、因って擾乱を致す、守素を命じて馳せ往きて撫諭せしむ。守素その曲直を弁じ、戎人悦服す。太原征伐に従い、海州刺史孫方進を命じて汾州を囲ましめ、守素その軍を監し、引進使に転ず。

開宝三年、命じて剣南十州都巡検使とし、東上閣門使郭崇信これを副く。守素に銭五百万を賜い、入謝の日、また岐帥符彦卿の官告使と為す。守素、賜与優厚なるを以て辞し、敢えて更に奉使の詔を当たるべからずとす、上許さず。九年、呉越国王銭俶来朝す、守素を命じて諸司の供帳を護り、郊外に迎労せしむ。幷州の塁未だ下らず、詔して洺州防禦使郭進とともに兵を率いて深くその境に入り、禾稼を蹈み藉り、守素多く虜獲す。太宗即位し、客省使に遷り、憲州刺史を領す。

太平興国三年夏、河、滎陽けいように決す、詔して守素に鄭州の丁夫千五百人を発し、兵卒千人とともに領護してこれを塞がしむ。この秋、梅山洞蛮、険に恃みて命に叛く、詔して守素を遣わし諸州の屯兵を率いて往きてこれを撃たしむ。霖雨十日に弥るに値い、弓弩弛み解け、用に堪えず、明日、将に接戦せんとす、守素一夕に木を削りて弩と為すことを令す。旦に及び、賊奄然として至る、交わしてこれを射れば、賊遂に敗る。勝に乗じて北に逐い、尽くその巣穴を平らぐ。先に、数郡の大吏・富人多く賊帥包漢陽と交通す、既にしてその書訊数百封を得るも、守素併せてこれを焚き、反側定まる。俄にして銭俶浙右の地を献ず、詔して守素を両浙諸州兵馬都監とし、諸郡を安撫せしむ、人心甚だ悦び、即ち以て杭州知事とす。歳満ちて、西京巡検使となる。秦王廷美、事によりて勒して私第に帰らしめ、守素を以て権知河南府兼留守司事とし、洛陽らくよう歳旱えて食艱しく、盗多く、上これを憂う。守素既に至り、漸く以て寧息す。未だ幾ばくもなく、商州団練使に遷る。

雍熙二年、延州知事に改む。劉廷讓が君子館に敗れてより、河朔諸州の城塁多く圮つ。四年、詔して守素と田仁朗・王継恩・郭延濬に分路按行せしめ、諸州鎮兵を発して増築し、その役を護らしむ。白金三十両を賜い、留めて天雄軍兵馬鈐轄・大名府知事に充て、潞州知事に改む。方田を建つるに会し、命じて代北方田都部署・へい州兵馬鈐轄と為し、夏州に屯することに従い、鳳翔府知事に改む。

淳化中、夏帥趙保忠上言す、その弟継遷、戎人を誘いて寇と為し、且つ援師を求むと。詔して守素に兵を率いて復た夏州に屯せしめ、未だ幾ばくもなく、また石州に徙し、老病を以て上疏して本郡に帰るを求め、これに従う。三年、卒す、年七十一。

守素は四朝に仕え、内職を五十年余り歴任した。性質は謹慎で、寛仁にして衆を容れ、任地ごとに治績があった。凡そ大辟の獄を断ずるに、罪状明白なりと雖も、仍く僚寀に遍く諮り、僉に同じて後に決す。属吏に過有れば面折せず、必ず公宴に因り往事の相類する者を援げて其の咎を獲たることを言い、以て微かに之を警めた。新進の後生多く節帥に至るも、守素は久しく次第に遷らず、殊に隕獲の意無く、時論是を以て之を多とす。

王侁

太平興國初、梅山洞蠻を討つに預かる。契丹の使来貢す、詔して侁をして境上に送らしむ。還りて、霊州・通遠軍に使す。及旋の際に言う、主帥の留むる所の牙兵率ね辺人と交結し、頗る桀黠にして制し難く、歳久すれば慮るべしと、請う悉く之を代えんことを。太宗因り侁を遣わし内郡の卒を調べて往きて之に代えしむ。戍者は代わるを聞き、多く還るを願わず。侁其の中旅拒する者を察して之を斬り以て徇し、衆皆悚息し、遂に将ちて還る。一歳の中数往来西辺し、多く便宜を奏し、上多く聴用し、通事舎人に遷る。

四年、太原に従征し、以て侁に陽曲・塌地・石嶺関諸屯を護らしめ、廄馬介冑を賜う。五月、即ち城下にて東上閣門副使に転ず。晋陽平らぎ、留めて嵐・憲巡検と為す。九年、代わりて還り、西上閣門使に遷り、銭百万を賜う。河西三族の首領折遇乜叛きて李継遷に入る、侁師を帥いて討ち之を擒にし、功を以て蔚州刺史を領す。王師北征す、命せられて并州駐泊都監と為り、又雲・応等州兵馬都監と為る。

侁の性剛愎、語を以て楊業を激し、業因り力戦して陣に陷る、侁坐して名を除かれ、金州に配隷す、事は『楊業伝』に載す。赦に会い、均州団練副使に移す。淳化五年召還さる、道病し、京師に至り卒す。

弟僎は供奉官・閤門祗候、交阯征討の軍敗に坐し誅せらる。備・偃並びに進士及第、偃は太常博士に至る。

樸の弟格は、宋初に右補闕・直史館と為り、都官員外郎・広南転運使に至る。格の子侗は太平興國の進士、都官員外郎に至る。

劉審瓊

開寶中、累遷して軍器庫使に至る。会に枢密使李崇矩の門人鄭伸登聞鼓を撃ち、誣り告げて崇矩が太原の席羲叟の黄金を受け、翰林学士扈蒙と私に結び、甲科を以て私に羲叟に与え、審瓊を引いて証と為す。上怒り、審瓊を召し詰問す、審瓊具に其の誣枉なることを言い、解を得、遂に出でて鎮州を知る。七年、太宗河東を征し、駐蹕すること月余、儲偫闕無く、檀州刺史を領し潭州を知るに遷る。州素より火多く、日ごとに民を調べて水を積みて防と為し、民甚だ之を労す。審瓊至り、悉く之を罷め、以て民の便と為す。河陽を知るに徙る。淳化三年、代を受けて帰り、衰老を陳べ、正に郡符を受くるを乞う。上其の旧人を閔み、坊州刺史を授く。至道三年、官に於いて卒す。

審瓊嘗て外諸侯に給事し、雅に酒令博鞠を善くし、年八十余、筋力衰えず、髭髮黳黒し。孫爽は進士及第、後に祠部員外郎・秘閣校理と為る。

論じて曰く、王贊は小校より奮跡し、奉公の節有り、姦を列郡に繩し、強禦を畏れず。保續は単車を以て出使し、君命を辱しめず。懷忠は荊渚の将に危きを識る。継勳は番禺の取るべきを知る。侯贇は久しく辺郡を治め、文寶は数え屯兵を護る。斯れ各一時の效なり。德裕・梁迥・欽祚・王侁皆戎旅を練習し、頗る勳労著しきも、然れども率ね強戾にして温克に乏しく、以て戾に速かなるは、斯れ乃ち明哲の戒むる所なり。比は剛険を以て悔吝を蒙り、珪は発擿を以て威福を肆にす、其れ不逞なる者か。守素は躁競に事えず、審瓊は期頤を克く享く。『易』に曰く「履を視て祥を考うれば、其の旋ること元吉なり」と。此れ之を謂うなり。