李進卿
李進卿は、幷州晉陽の人である。若い頃より驍勇をもって護聖軍に隷した。後晉の天福年間、杜重威が軍を率いて宗城において安重榮を破ったとき、進卿は力戦して功があり、興順軍校に抜擢された。周の太祖が国を開くと、命を受けて配下の兵を率いて霊寿を戍守し、久しくして龍捷指揮使に遷った。顕徳初年、世宗に従って高平に戦い、鉄騎指揮使に改め、散員左射都校を歴任し、鉄騎及び内殿直都虞候に改めた。
子 延渥
延渥は蔭により供奉官に補され、まもなく閤門祗候となり、三遷して西京左蔵庫使に至った。咸平初年、平戎・寧辺・順安の各軍、保州、威虜軍鈐轄を歴任し、また冀州を知った。六年、瀛州に移った。
景德初年、契丹が大挙して辺境を擾乱し、胡盧河を経て関南を越え、十月、城下に抵った。昼夜鼓噪し、四面より夾攻した。十日間、その勢いはますます張り、ただ鼓を撃ち木を伐つ声が相聞こえ、奚人を駆り立てて板を背負い燭を秉り城壁に乗じて登らせた。延渥は州兵の強壮を率い、また巡檢史普の配下を集めて城に乗じ、礧石や巨木を発してこれを撃つと、皆累々として墜ち、殺傷甚だ多かった。翌日、契丹の主とその母が自ら鼓を鳴らして衆を急撃させ、矢を雨のごとく発した。延渥は兵を分けて拒守することますます堅く、契丹は遁走し、死者三万余人、傷者はその倍に及び、鎧甲・兵矢・竿牌数百万を獲た。駅伝をもって書を上聞すると、延渥に錦袍・金帯を賜り、将士には緡銭を賜り、延渥を本州團練使に遷した。通判・太子中允陸元凱を国子博士とし、緋を賜り、推官李翔を太子中允とし、録事参軍蔡亨を右賛善大夫とし、侍禁・兵馬監押王誨、殿直・貝冀同巡檢史普を内殿崇班として職を充することをもって故の如くとした。
初め、戍棚の城を護る垂板はわずか数寸ばかりであったが、契丹がこれを射ると、矢がその上に集まったこと凡そ二百余に及んだ。後に城の修繕を請うたとき、詔して板を取ってこれを視ると、真宗はその労を頗る称えた。また城守の際、陸元凱が流れ矢で顔面に当たり、史普が勇敢に敵を避けなかったことを聞き、さらに元凱を屯田員外郎に、普を尚食副使に遷した。普はまもなく卒し、またその子昭度を右侍禁に、昭儉を奉職に録した。
楊美
楊美は、幷州文水の人である。本名は光美であったが、太宗の旧名を避けて改めた。美は状貌雄偉で、武力人に絶し、豪侠を以て自ら任じた。後漢の乾祐年間、周の太祖が三叛を征するとき、美は杖策して軍門に詣でて求見し、周の太祖が召して語ると、これを壮とし、帳下に留めた。広順初年、累遷して禁軍大校となり、世宗に従って淮南を征し、功により鉄騎都指揮使に擢げられ、白州刺史を領した。
何繼筠
何繼筠は、字を化龍といい、河南の人である。父の福進は、後唐より周に至るまで事え、累官して忠武・成徳・天平の三節度となった。繼筠は幼い時、群児と遊ぶにも必ず行伍を分けて戦陣の象をなした。後晉の初年、殿直に補された。周の太祖が三叛を討つとき、表して繼筠を行に従わせた。賊が平定されると、供奉官に改めた。広順初年、福進が真定を鎮めると、衙内都校に署し、嘗て偏師を率いて土門より出で、幷人と戦い、数千級を斬首し、功により欽州刺史を領した。契丹の将高模翰が二千騎を率いて深・冀を擾乱し、葦栰をもって胡盧河を渡った。繼筠は虎捷都指揮使劉誠誨とともに兵を率いてこれを拒ぎ、武強に至り、老幼千余人を獲、模翰は遁走した。まもなく福進に従って朝廷に入り、内殿直都知となった。福進が卒すると、起復して濮州刺史となり、兵を領して静安軍を戍守した。契丹が内侵すると、繼筠はこれを逆撃して破り、棣州刺史に改めた。世宗が瓦橋関を征するとき、命じて繼筠に配下の兵を率いて百井道より出でさせ、幷人数千の衆を破った。恭帝が即位すると、西北面行営都監とした。
継筠は深沈にして智略があり、前後二十年にわたり辺境を守備し、士卒と苦楽を共にし、その死力を得た。辺境の情勢を推し量ることに長け、辺境の民は畏れて服し、多くその像を描いて祠った。子に承矩がいる。
子 承矩
米信が滄州知事となったが、その吏事に習熟しないため、承矩を節度副使に任じて実質的に郡の政務を専管させた。当時、契丹が辺境を侵したので、承矩は上疏して言った。「臣は幼少の頃、先臣に従って関南で征戦に従軍し、北方辺境の道路・河川水源の地勢に詳しい。もし順安砦の西で易河蒲口を開削し、水を導いて東に海へ注がせ、東西三百余里、南北五七十里の範囲で、その沼沢地帯を利用し、堤防を築いて水を貯え屯田とすれば、敵騎兵の突進を阻止できます。一年ほどの間に、関南の諸沼沢が全て埋め立てられれば、直ちに稲田として播種できます。その辺境の州軍で塘水に臨むところは、城を守る軍士だけを留め置き、広く兵を発して守備させる煩わしさはありません。地利を収めて辺境を充実させ、険阻な要害を設けて防塞とし、春夏は農耕を督励し、秋冬は武事を習練し、民力を休養させて国家の経営を助けるのです。このように数年を経れば、彼が弱く我が強く、彼が疲労し我が安逸となる様子が見えてくるでしょう。これが辺境防禦の要策です。その順安軍より西、西山に至る百里ほどの間で水田のない所も、兵を選んで守備させ、その精鋭を選び、冗長な者を除くことを望みます。兵は寡ないことを憂えず、驕慢で精鋭でないことを憂えるべきです。将は臆病であることを憂えず、偏見があって謀略がないことを憂えるべきです。もし兵が精鋭で将が賢明ならば、四方の国境は高枕して憂いがありません。」太宗はこれを嘉納した。
長雨が災害となったため、担当者の多くはその非便を議論した。承矩は漢・魏から唐に至るまでの屯田の故事を引き合いに出して衆論を論破し、必ず実行することを務めた。そこで承矩を制置河北縁辺屯田使とし、その役事を監督させた。事柄は『食貨志』に詳しい。これにより順安以東の海に臨む地域、広大な数百里にわたり、全てが稲田となり、莞蒲や蜃蛤の豊富な産物があり、民はその利益に頼った。
真宗が即位すると、再び雄州知事に派遣し、承矩に詔を賜って言った。「朕は大業を継ぎ守り、ただ永遠の図を思い、華夷と共に富寿に至らんことを願う。ところで契丹は太祖が在位された日より、先帝が統を継がれた初めより、和好して往来し、礼と幣は絶えることがなかった。その後、汾・晋を回復し、辺境の臣が土地を貪り、国のために事を生じさせ、信義と友好は通じなくなった。今、聖なる先帝が崩御され、礼として訃告すべきである。汝は辺境の要地に任じ、詩書に通暁しているので、凡そ事機があれば必ず詳しく究め、軽重の際は、必ず中道を得るように務めよ。」承矩は契丹に書を送り、懐柔招来の旨を諭したが、その要領を得なかった。
契丹は軽佻にして整わず、貪婪にして親しみなく、勝てば互いに譲らず、敗れても互いに救わない。馳騁を容儀とし、弋獵を耕釣となす。櫛風沐雨も労と思わず、露宿草行も苦とせず。さらに騎戦の利を恃み、故に頻りに年を経て塞を犯す。臣が聞くに、兵に三陣あり。日月風雲は天の陣、山陵水泉は地の陣、兵車士卒は人の陣なり。今、地の陣を用いて険を設け、水泉を以て固めと為し、陂塘を建設し、滄海に綿亘せしめば、仮に敵騎有りと雖も、安んぞ衝を折らんや。昨者契丹辺を犯し、高陽一路は東は海に負い、西は順安に抵り、士庶安居す、即ち屯田の利なり。今、順安より西は西山に至るまで、地は数軍と雖も、路は百里に過ぎず、仮に丘陵岡阜有りと雖も、亦多く川瀆泉源あり、これに因りて広め、塘埭を制すれば、自ら辺患を息むべし。
今、辺境を守る将は多くその才に非ず、詩書を悦ばず、礼楽を習わず、以て疆界を守るべからず。制御に方無く、動もすれば国家を誤る。貔虎の師を提げると雖も、犬羊の衆を遏むる莫し。臣が兵法に按ずるに、凡そ兵を用うるの道は、これを校うるに計を以てし、その情を索む。将孰れか能ある、天地孰れか得る、法令孰れか行わる、兵衆孰れか強き、士卒孰れか練る、賞罰孰れか明らかなりと謂う。これ敵を料り勝を制するの道なり。これを知りて戦を用うる者は必ず勝ち、然らずんば必ず敗る。惟だ慮り無くして敵を易くする者は必ず人に擒にせらる。伏して望むらくは、慎んで疆吏を択び、辺民を出でて牧し、これに奉祿を厚くして、その心を悦ばしめ、威権を借りて、その令を厳にせしめんことを。然る後に深溝高壘し、馬を秣い兵を厲し、戦守の備えと為す。仁を修め徳を立て、政を布き恵を行い、安輯の道を広む。士卒を訓い、田疇を辟き、農耕を勧め、芻粟を畜え、以て凶年に備う。長戟を完うし、勁弩を修め、烽燧を謹み、保戍を繕い、以て外患を防ぐ。来ればこれを禦ぎ、去ればこれを備う。かくの如くすれば則ち辺城按堵せん。
臣また聞く、古の明王は吏民を安集し、俗に順いて教え、良材を簡募して、以て不虞に備う。斉桓・晋文は皆兵を募りて以て隣敵を服せしむ。故に強国の君は必ずその民に胆勇有る者を料りて一卒と為し、進みて戦い力に効い忠勇を顕わさんことを楽む者を一卒と為し、高きを逾え遠きに赴き、足軽くして善く闘う者を一卒と為す。この三者は兵の練鋭、内に出でては以て囲を決し、外に入りては以て城を屠る。況んや小大は形を異にし、強弱は勢を異にし、険易は備えを異にする。身を卑くして強に事うるは、小国の形なり。蛮夷を以て蛮夷を伐つは、中国の形なり。故に陳湯は西域を統べて郅支滅び、常恵は烏孫を用いて辺部寧し。且つ胆勇・楽戦・軽足の徒を聚むるは、古より良策と称す。請う、これを試み行わんことを。且つ辺鄙の人は多く壮勇を負い、外邦の情偽を識り、山川の形勝を知る。辺郡に於いて営を置き召募せんことを望む。品度して人才を須いず、ただ少壮にして武芸有る者万人を求む。契丹に警有るを俟ち、智勇の将に令して統べて用いしめば、必ず成功を顕わし、乃ち中国の長算なり。
また榷場の設けは、蓋し先朝権に従いて制を立て、以て契丹を恵み、その信を渝え盟を犯すを縦すと雖も、またこれを廃せず、大體を全うするに似たり。今、辺境の榷場は、その塞を犯すに因り、尋いで即ち停罷す。去歳、臣の上言に以て、雄州に場を置き茶を売る。資貨並び行わるれども、辺氓未だ済うる所無し。乞うらくは大臣に延訪し、その可否を議わしめ、或いは文武の中に抗執し独議する者有らば、是れ必ず別に良謀有るなり。請う、これに辺任を委ね、方略を施さしめ、成功を責めしめん。苟くも空しく浮議を陳べ、上聖聡を惑わさんには、只だ霊州の如き、足りて証験と為す。況んや茲の契丹はまた夏州の比に非ず。
四年十月、乾寧軍に鋭兵を選び、刀魚船を挽きて界河より直ちに平州境に趣き、以て西面の勢を牽かんことを建議す。五年、詔して兼ねて制置屯田使を領せしむ。始めて榷場を建つ。或いは承矩の意は継好に在りと謂う。然れども契丹は厭きること無く、未だ誠信に足らず、徒らに公行して窺伺せしむるのみ。会うに契丹に斥候卒を殺す者有り、復たこれを罷む。時に契丹数たび辺城を窺い、大いに渠を浚い、頗るその役を撓ます。詔して承矩に兵を握りて深くその境に入らしめ、以てその勢を分かしむ。承矩は騎兵無きを以て、第に数千の卒を遣わし混泥城より出で、これを襲いて還る。
承矩は頗る識鑒有り、長沙を典むる日、李沆・王旦を佐と為す。承矩厚くこれらを待ち、公輔の器有りと為す。推歩を善くし、自ら冥数を知り、乃ち老疾を以て僻郡を求む。詔して自らその代を択ばしむ。承矩は李允則を以て請う。乃ち承矩に斉州団練使を授け、これを任に遣わす。郡に至ること裁七日、卒す。年六十一。特ちに相州観察使を贈り、賻銭五十万、絹五百匹、中使葬を護る。
その子亀齢を以て侍禁と為し、昌齢・九齢を殿直と為し、遐齢を齋郎と為す。辺境及び涿・易州の民、承矩の卒するを聞き、皆相率いて雄州に詣り哀を発し僧に飯す。昌齢は斉王の女太和県主を娶り、内殿崇班に至る。昌齢の子象中は閤門祗候と為る。
李漢超
李漢超は、雲州雲中の人。始め鄴帥范延光に事え、知られず。また鄴帥高行周に事え、また親信せられず。会うに周世宗澶淵に鎮す。漢超遂に質を委ぬ。即位し、殿前指揮使を補し、三遷して殿前都虞候と為る。
宋初、散指揮都指揮使に改め、綿州刺史を領し、累遷して控鶴左廂都校となり、恩州團練使を領した。李重進平定に従い、まもなく斉州防禦使に遷り、関南兵馬都監を兼ねた。漢超が関南に在るとき、漢超がその娘を強いて妾とし、また金を貸して返さないと訴える者があった。太祖は召して問うて曰く、「汝の娘は誰に嫁ぐべきか」と。曰く、「農家です」と。また問うて曰く、「漢超が関南に至らなかったとき、契丹はどうであったか」と。曰く、「毎年侵暴に苦しみました」と。曰く、「今もまたそうか」と。曰く、「いいえ」と。太祖曰く、「漢超は朕の貴臣である。その妾となるのは農婦よりまさっているではないか。漢超が関南を守らなければ、なお汝が家の所有を保つことができようか」と。責めてこれを遣わした。密かに使者を遣わして漢超に諭して曰く、「速やかにその娘と貸したものを返せ。朕はしばらく汝を赦す。再びするな。用が足りなければ、どうして朕に告げなかったのか」と。漢超は感激して泣き、死をもって報いることを誓った。郡に十七年在り、政は平らかに訟は理まり、吏民はこれを愛し、闕に詣でて碑を立て徳を頌することを求めた。太祖は詔して率更令徐鉉に文を撰ませてこれを賜った。
子 守恩
郭進
郭進は、深州博野の人である。少時貧賤にして、鉅鹿の富家の傭保となった。膂力あり、倜儻として気を任せ、豪侠と結び、酒と蒲博を嗜んだ。その家の少年はこれを患い、進を殺さんと図った。妻の竺氏が密かにその謀を知り、進に告げたので、遂に晋陽に走り漢祖に依った。漢祖はその材を壮とし、帳下に留めた。晋開運末、契丹辺境を擾した。漢祖は太原に号を建てた。契丹主道中に崩じ、漢祖将に汴に入らんとし、進は奇兵を以て間道より先に洺州に趨り、因って河北諸郡を定めんことを請うた。累遷して乾・坊二州刺史となった。少帝即位し、磁州に改めた。
四年、車駕将に太原を征せんとし、先に進を命じて兵を分かち石嶺関を控えさせ、都部署として、北辺を防がせた。契丹果たして関を犯し、進はこれを大破し、また西龍門砦を攻め破り、俘馘を献じた。ここより幷人は気を喪った。時に田欽祚が石嶺軍を護り、恣に奸利諸不法の事を行った。進は力及ばず禁じえなかったが、亦屡々言に形した。進は武人、性剛烈、戦功高く、欽祚は他事を以てこれを侵し、心に甘んぜず、自経して死した。年五十八。欽祚は暴卒として聞こえた。太宗悼惜すること久しく、安国軍節度を贈り、中使に葬儀を護らせた。後頗るその事を聞き、因って欽祚の内職を罷め、房州団練使に出した。
進は材幹あり、財を軽んじ施しを好んだ。然れども性殺すことを喜び、士卒少しでも令に違えば必ず死に置き、家に居て婢僕を御するもまた然りであった。進が西山に在るとき、太祖は戍卒を遣わすに必ず諭して曰く、「汝ら謹んで法を奉ぜよ。我すらなお汝を赦すが、郭進は汝を殺すであろう」と。その下を御する厳毅この如し。然れども権道を以て人を任ずることができ、嘗て軍校が西山より闕に詣でて進を誣うる者あり。太祖その情状を詰問して知り、左右に謂いて曰く、「彼は過ちありて罰を畏れ、故に進を誣って免れんと求めるのだ」と。使者を遣わして進に送り、これを殺すことを命じた。時に幷人が入寇し、進は誣うる者に謂いて曰く、「汝敢えて我を論ず、確かに胆気あり。今汝の罪を捨てる。能く幷寇を掩撃すれば、即ち汝を朝に薦めよう。もし敗れば、自ら河東に投ぜよ」と。その人は踴躍して命を聴き、果たして克捷を致した。進は即ちこれを聞こえ、その職を遷すことを乞い、太祖はこれに従った。
初め、開宝中、太祖は有司に命じて宅を造り進に賜い、悉く筒瓦を用いた。有司言う、「旧制、親王公主の第でなければ用いるべからず」と。帝怒って曰く、「進は西山を控扼すること十余年、我をして北顧の憂い無からしむ。我が進を見ること豈に児女に減ぜんや。急ぎ往いて役を督せよ。妄りに言うな」と。太平興国初、また邸宅一区を賜った。
附 牛思進
牛思進は、祁州無極の人である。少時より軍に従い、膂力を以て聞こえた。嘗て強弓を取りて耳に掛け、手を以てこれを引きて満たさしめた。また牆に負いて立ち、力士二人その乳を撮って曳くも、嶷然として動かず、軍中みなこれを異とした。太平興国四年、平定軍知軍となり、河東征伐に従い、石嶺関部署郭進卒すや、命じて思進を以てこれに代えさせた。師還り、功により本州団練使に改めた。七年、右千牛衛上将軍を授けられて致仕し、卒した。
李謙溥
李謙溥、字は德明、幷州盂の人なり。性慷慨にして、然諾を重んず。父の蕘は、後唐清泰年中、晉祖幷門を鎮むるに、參謀に署す。天福初め、開封府推官となり、契丹に使いして還り、上言して曰く、「外國に節を屈するは、久長の策に非ず」と。時に晉祖方に契丹を父事す、其の言を悦ばず、出でて汝州魯山令となり、官に卒す。
謙溥少くして『左氏春秋』に通ず。晉祖に從ひ汴に入り、殿直を補ひ、契丹に奉使す。少帝即位し、西頭供奉官に改め、漢の初め、東頭に遷る。周祖三叛を討ち及び鄴都を守るに、謙溥往來して密命を宣べ、周祖之を愛す。廣順初め、供備庫副使に遷る。世宗劉崇を征し、遼州刺史張乙堅壁して下らず、謙溥を遣わし単騎にて之を説かしむ、乙城を以て降る、功を以て閑廄使に改む。師還り、留められて晉州兵馬都監と為る。偏師を以て河東境に入り、頻りに克捷を致し、世宗詔して之を褒美す。會に隰州刺史孫義卒す、時に世宗親しく淮南を征す、謙溥節帥楊廷璋に謂ひて曰く、「大寧は咽喉の要地、守を闕くべからず。且つ車駕出征す、若し報を俟たば、則ち孤城陷らん」と。廷璋即ち謙溥に權めて隰州事を署す。郡に至り、亟に城隍を浚ひ、兵備を厳にし、凡そ八日、幷人果たして数千騎を以て来寇す。時に盛暑、謙溥単衣扇を持ち、二小吏に從ひ城に登り、徐歩して戦具を按視す。幷人退舍し、後旬餘、大いに衝車を発して城を攻む。謙溥敢死の士を募り、百餘人を得、短兵堅甲し、枚を銜み夜縋りて城を出づ。會に廷璋の兵至り、勢を合はせて夾攻し、其の及ばざるを掩ふ。幷人大いに擾ひ、衆を悉くして遁去す。北を追うこと数千里、首千餘級を斬る、時に顯德四年なり。明年五月、孝義県を攻め破り、功を以て衢州刺史を領し、監軍元の如し。世宗北征し、行在に赴くを召す。恭帝即位し、澶州巡検使と為り、詔して莫州に城せしむ、数旬にして就く。丹州刺史に改む。
建隆四年、慈州に移り、晉・隰縁辺都巡検を兼ね、石州事を行ひ、興同砦を以て治所と為す。冬、将に南郊に事有らんとす。太祖四路に命じて兵を進め、地を略して太原せしむ。鄭州刺史孫延進・絳州刺史沈繼深・通事舎人王睿等師陰地より出で、謙溥を以て先鋒と為し、霍邑に会す。謙溥因りに攻取の策を画す、継深等共に之を沮み、延進用ふる能はず。軍還り、白璧関を出で、谷口に次ぐ、謙溥諸将に語りて曰く、「王師深く敵境に入る、今既に軍を退く、彼必ず我を乗せん、諸君備ふべし」と。諸将答へず、謙溥独り部をして甲を擐かしむ。俄に追騎果たして至る、延進等倉皇として谷中に走る、独り謙溥兵を麾して之を拒ぎ、幷人引き退く。未だ幾ばくもあらず、隰州刺史に移る。
謙溥は宣祖と里閈を同じくし、弟の謙升は太祖と布衣の交はり有り。其の母の閻嘗て厚く太祖を待ち、即位に及び、数たび迎へて宮中に入れ、左右して之を掖き、拝せしめず、坐して飲食するを命じ、旧故に話及び、賜齎優厚なり。雍熙中、太宗許王の為に謙升の女を納れて夫人と為し、謙升を以て如京副使と為す。謙溥の子允則・允正。允則は寧州防禦使に至る。從子の允恭は内殿崇班・閤門祗候と為る。
子 允正
允正、字は修己、蔭を以て供奉官を補ふ。太平興國中、左蔵庫を掌り、屢たび升殿して事を奏するを得、太宗頗る其の旧故を記憶す。雍熙中、張平と同く三班を掌り、俄に閤門祗候と為る。四年、閤門通事舎人に遷る。時に女弟許王に適す、居第を以て宋偓に質す、太宗之を詰めて曰く、「爾が父辺を守ること二十餘年、止だ此の第有るのみ、何を以て之を質すや」と。允正具に以て奏す、即ち内侍を遣わし輦銜して贖ひ還し、縉紳咸く詩を賦して美を頌す。
淳化中、命じて戎・瀘州の叛蠻を討たしむ。西上閤門副使に遷る。太宗京城の獄囚淹繫するを慮ひ、允正を命じて之を提総せしむ。嘗て詔を請ひ御史臺に開封府司録司・左右軍巡・四排岸司の印紙を与へて囚簿を作らしめ、禁繫の月日を署し、其の罪犯を條し、歳満りて其の殿最を較はしむ。詔其の請に從ふ。年を踰へ、開封府上言して曰く、「京師浩穰、禁繫尤も衆し、御史府考較の際、胥吏奔命し、推鞫を妨ぐること有り、況んや欺隱無く、推校を煩はすに足らず」と。卒に之を罷む。允正又左右蔵を提点し、屢たび伝に乗り北面し、辺要を経度す。五年、衛州修河部署と為る。會に清遠軍積石砦を建つ、命じて瀚海に詣り其の役を部分せしむ。還り、西上閤門使・幷州駐泊鈐轄を拝す。俄に張永德に代りて州事を知り、代州に徙る。
咸平初め、西蜀に使して民事を詢訪し、還り、秩を進めて東上閤門使と為り、歴りて鎮・莫二州を知る。又た幷・代馬歩軍鈐轄と為る。契丹辺を擾はし、車駕大名に駐る、允正高瓊と率ひて太原軍を土門路より出で来り会し、便殿に召見せらる。部する所に廣銳騎士数百有り、皆素より練習し、命じて允正に引きて入らしめ、緡銭を賜ふ。遣はして邢州に屯せしめ、石保吉と遼人を逐はしむ、遼人遁去す。俄に兵を以て大名に会し、復た幷代に還る。五年、涇原儀渭・邠寧環慶の両路を合して一界と為し、王漢忠を都部署と為し、駅にて允正を召して鈐轄兼安撫都監と為し、即日上道す。又た命じて錢若水と同く洪德・懷安沿辺諸砦に詣りて辺事を経度せしめ、誠州刺史を領するを加ふ。七月、両路の職を罷め、復た幷代鈐轄に任ず。毎に錢若水辺壘を按巡すれば、即ち詔して權めて州事を蒞む。四方館使に進み、馬知節に代りて鄜延部署・延州知事を兼ね、客省使・定州知事兼鎮定都鈐轄に改む。
姚内斌
姚内斌は、平州盧龍の人なり。契丹に仕えて関西巡検・瓦橋関使と為る。周の顕徳六年、太祖世宗に従いて北征し、兵瓦橋関に次ぐ。内斌衆五百人を率いて城を以て降る。世宗之を汝州刺史と為す。吏民闕に詣でて留まるを挙ぐ。恭帝詔して之を褒む。内斌本名は宣祖諱の下一字を犯す、遂に今の名に改む。李筠を平ぐるに従い、虢州刺史に改む。西夏数え西鄙を犯す。内斌を以て慶州刺史兼青・白両池榷塩制置使と為す。郡に在ること十数年、西夏畏伏し、敢えて塞を犯さず、内斌を号して「姚大虫」と曰う。其の武猛なるを言うなり。
初め、内斌降る。其の妻子皆契丹に在り。乾徳四年、子承贊密かに幽州より来帰す。五年、幽州の民田光嗣等又内斌の児女六人を以て間道より来帰す。太祖並びに召見し、衣服・緡銭・鞍馬を賜い、中使をして護送して還し内斌に付せしむ。開宝四年、召して闕に赴かしむ。上之を待すること甚だ厚く、帰りて治所に遣わす。七年春、暴に疾を得て卒す。年六十四。中使を遣わして喪を護り、帰葬して洛陽す。常の賻の外、其の子に田三十頃を賜う。承贊は供奉官・閤門祗候と為り、陣に死す。承鑒は殿中丞に至る。
董遵誨
太祖微時に、客遊して漢東に至り、宗本に依る。而して遵誨父の勢を憑藉し、太祖毎に之を避く。遵誨嘗て太祖に謂いて曰く、「毎に見るに城上の紫雲蓋の如く、又高台に登るを夢み、黒蛇に遇うこと長さ約百尺余、俄に龍と化して飛騰し東北に去り、雷電之に随う。是れ何の祥ぞや」と。太祖皆対えず。他日兵戦の事を論ずるに、遵誨理多く屈し、衣を拂いて起つ。太祖乃ち宗本に辞して去る。是より紫雲漸く散ず。即位に及び、一日、便殿に召見す。遵誨地に伏して死を請う。帝左右を令して扶け起し、因りて之を諭して曰く、「卿尚ほ往日の紫雲及び龍化の夢を記すや」と。遵誨再拝して万歳を呼ぶ。俄にして部下に軍卒有りて登聞鼓を撃ち、其の不法十余事を訴う。太祖釈して問わず。遵誨益々惶愧して罪を待つ。太祖召して之を諭して曰く、「朕方に過を赦し功を賞せんとす。豈に旧悪を念わんや。汝復た憂うること勿れ。吾将に汝を録用せん」と。遵誨再拝して感泣す。又遵誨に問う、「母安くにか在る」と。遵誨奏して曰く、「母氏幽州に在り、患難を経て睽隔す」と。太祖因りて人をして辺民を賂わしめ、窃かに其の母を迎え、送りて遵誨に与う。遵誨外弟劉綜を遣わして馬を貢ぎて以て謝す。太祖其の服する所の真珠盤龍衣を解き、命じて齎し之を賜う。綜曰く、「遵誨人臣たり、豈に此れに当たらんや」と。太祖曰く、「吾方に方面を委んとす。此れを嫌わず」と。
遵誨書を知らず、豁達にして崖岸無く、方略多く、能く強を挽きて命中し、武藝皆人に絶る。通遠軍に在ること凡そ十四年、一面を安撫し、夏人悦服す。嘗て霊武進奉使の鞍馬・兵器を剽略する者有り。遵誨帳下を部署して之を討たんと欲す。夏人懼れ、略する所のものを尽く帰し、拝伏して罪を請う。遵誨即ち慰撫して去らしむ。是より各封略を謹み、秋毫も敢えて犯さず。太祖・太宗の朝を歴り、委遇終始替わらず、便宜を以て軍事を制するを許す。太平興国六年、卒す。年五十六。帝軫悼すること久し、中使を遣わして葬を護らしめ、賵賻等を加え、其の子嗣宗・嗣栄を録して殿直と為す。
賀惟忠
賀惟忠は、忻州定襄の人なり。少より勇敢にして、騎射に善し。周祖兵を将いて三叛を討たんとす。惟忠道左に謁し、自ら其の武藝有るを陳ぶ。周祖之を悦び、即ち留置して所部とす。開国に及び、世宗の帳下に隷するを得、奏して供奉官を補す。辞せず、輒ち朝に入る。世宗之を怒り、嗣位に及び、終に遷擢せず。
惟忠の性剛果にして、書を知り、兵法に洞曉し、方略有り。易州に在りて亭障を繕完し、士卒を撫で、其の死力を得、毎に塞に乗じて兵を用うるに、向う所必ず克ち、威名北辺に震い、故に十余年の間契丹敢えて南牧せず。
昭度は西京作坊使に至る。淳化中、通遠軍を知り、罪有りて当に棄市すべし、死を減じて商州に流す。
馬仁瑀
馬仁瑀は大名府夏津県の人である。十余歳の時、父が学問をさせようとしたが、すぐに逃げ帰った。また郷校に遣わして『孝経』を習わせたが、十余日経っても一字も覚えられなかった。博士が鞭打つと、仁瑀は夜中に独りで往き学堂を焼き、博士は辛うじて身一つで逃れた。常に里中の数十人の子供たちを集め、彼らと遊び、行陣の形を整え、自ら将軍と称し、日々彼らと約束を結び、遅刻した者を鞭打つと、子供たちは皆畏れて服従した。また果物を買い均しく与え、ますます親しみ付き従った。成長すると、弓射に優れ、二百斤の弓を引いた。
後漢の乾祐年間、周の太祖が鄴に鎮守した時、仁瑀は十六歳で、その麾下に属することを願った。周の太祖は平素よりその勇猛を聞いており、会うと大いに喜び、側近に留め置いた。広順初年、内殿直に補任された。世宗が即位すると、苑中で衛士に弓射を習わせたが、仁瑀の弓の力が最も強く、発する矢は多く命中したため、錦袍と銀帯を賜った。折しも太原の劉崇が侵入し、世宗が親征して高平に至ると、周軍は不利となり、諸将の多くは退却した。仁瑀は衆に言った、「主君が辱められれば臣は死す、我々は何の役に立つのか」と。そこで弓を引き馬を躍らせ、身を挺して陣を出て賊を射、数十人を斃したので、士気はますます奮い、大軍がこれに乗じ、劉崇は遂に大敗した。世宗が上党に至ると、軍律を失った罪で誅された諸将は七十余人に及んだ。仁瑀を抜擢して弓箭控鶴直指揮使とし、京に還ると、また散指揮使に遷した。淮南征伐に従い、楚州に至り、水砦を攻めた。砦中に百尺余の高さの飛楼が建てられ、世宗がこれを眺めると、距離はほぼ二百歩あり、楼上の見張りの兵卒が声を厲して罵ったので、世宗は大いに怒り、側近に射させたが、遠くて届かなかった。仁瑀が弓を引き絞り満たすと、弦の響きに応じて(兵卒は)倒れた。淮南平定の時、身に数十の傷を受け、良薬を賜り、内殿直都虞候に遷った。また三関平定に従った。恭帝が即位すると、詔により太祖の北伐に従った。
初め、詔により仁瑀らが荊湖の諸郡を領したが、数年を経ずしてその地を回復した。この時、蜀を征伐しようとし、また詔により川・峡の諸郡を領し、遂にこれを平定した。先に、薛居正が貢挙を掌った時、仁瑀は私に託した者(の合格)を囑したが、榜が出るとその人物はいなかった。聞喜宴の日、仁瑀は酒が酣になると、託した者を連れて居正の許に至り厳しく責めた。御史中丞劉溫叟に弾劾されたが、帝は寛大に扱った。王継勳は后族として驕り恣に、将帥を凌ぎ蔑ろにし、人々は皆避けた。独り仁瑀は言葉の調子で譲らず、かつて袖を捲し腕を露わにして殴ろうとした。折しも帝が郊外で講武を行おうとしたので、遂にお互いに謀ろうとし、各々配下の兵に命じて密かに白梃を買わせた。太祖は密かにこれを知り、詔して講武を中止し、仁瑀を出して密州防禦使とした。
太祖が晋陽を征した時、仁瑀に命じて師を率い辺境を巡らせ、上谷・漁陽に至った。契丹は平素より仁瑀の名を聞いており、出撃せず、そこで兵を放って大いに掠め、生口・牛羊数万を捕虜とした。車駕が還ると、仁瑀は治所に帰った。翌年、群盗が兗州で起こり、賊首の周弼・毛襲は甚だ勇猛で、風貌も奇偉であり、周弼は「長脚龍」と号した。監軍が討捕したが数度不利となり、詔して仁瑀に掩撃させた。仁瑀は麾下十余の兵卒を率いて泰山に入り、周弼を擒にし、その徒党を尽く捕え、魯の郊は遂に寧かになった。
開宝四年、瀛州防禦使に遷った。兄の子がかつて酔って誤って平民を殺し、獄に繋がれて死罪に当たった。民の家は自ら言うに、宿怨があるわけではなく、ただ過誤である、過失殺傷として論じてほしいと願った。仁瑀は言った、「私は長吏でありながら、兄の子が人を殺す、これは権勢を頼むものであって、過失ではない。どうして私的な親族のため国法を乱すことができようか」と。そこで律に照らして論じ、民の家に布帛を与えて棺や収殮の具とした。太平興国初年、遼州知州に移った。四年、車駕が太原を征し、仁瑀に命じて成州刺史慕容超・飛龍使白重貴・八作使李継昇と分かれて城を攻めさせた。范陽征伐の時、仁瑀に命じて禁兵を率い盧龍の北で契丹を撃たせ、契丹兵は奔り潰れた。師が還ると、朔州観察使に遷り、瀛州事を判じた。七年、卒去、五十歳。河西軍節度使を追贈し、葬事は官が給した。
論じて言う。宋初、交州・広州・剣南・太原は各々大号を称し、荊湖・江表はただ貢奉を通じるのみで、契丹は相抗し、西夏は未だ服さなかった。太祖は常に帥を謀ることに意を注ぎ、李漢超を関南に屯させ、馬仁瑀を瀛州に守らせ、韓令坤を常山に鎮め、賀惟忠を易州に守らせ、何継筠に棣州を領させて、北敵を拒ませた。また郭進に西山を控えさせ、武守琪を晋州に戍らせ、李謙溥を隰州に守らせ、李継勲を昭義に鎮めて、太原に備えさせた。趙贊を延州に屯させ、姚内斌を慶州に守らせ、董遵誨を環州に屯させ、王彦昇を原州に守らせ、馮継業を霊武に鎮めて、西夏に備えさせた。その一族が京師にいる者は、手厚く撫でた。郡中の筦榷の利は、悉く彼らに与えた。貿易を恣にさせ、通過する征稅を免じ、亡命を召募して爪牙とすることを許した。凡そ軍中の事は皆便宜を得、来朝する毎に必ず召し対して座を命じ、厚く飲食を供し、賜与を与えて遣わした。これにより辺臣は資財に富み、死士を養うことができ、間諜として使い、敵情を洞知した。その侵入に及んでは、伏兵を設けて掩撃し、多く勝利を得、二十年間西北の憂いがなかった。これにより将を命じ師を出し、西蜀を平げ、湖湘を拓き、嶺表を下し、江南を克し、向かう所志を遂げたのは、誠に赤心を推して群下を馭するに至った所以である。李進卿・楊美の如きもまた専ら師を率いて西征し、而して楊美は北海に居て、楽易をもって民心を結び、誠に為政の本を得た。延渥・承矩・守恩・允正は皆先業を継ぎ、勳名を著した。承矩は屯田を議し、和好を賛し、その謀は甚だ遠大であった。守恩は果敢にして事に死した。宋の武功は、ここに於いて盛んとなったのである。