宋史

列傳第三十二 李進卿 楊美 何繼筠 李漢超 郭進 牛思進 李謙溥 姚内斌 董遵誨 賀惟忠 馬仁瑀

列傳第三十二 李進卿 楊美 何繼筠 李漢超 郭進 牛思進 李謙溥 姚内斌 董遵誨 賀惟忠 馬仁瑀

李進卿

原文李進卿

李進卿は、幷州晉陽の人である。若い頃より驍ぎょう勇をもって護聖軍に隷した。後晉の天福年間、杜重威が軍を率いて宗城において安重榮を破ったとき、進卿は力戦して功があり、興順軍校に抜擢された。周の太祖が国を開くと、命を受けて配下の兵を率いて霊寿を戍守し、久しくして龍捷指揮使に遷った。顕徳初年、世宗に従って高平に戦い、鉄騎指揮使に改め、散員左射都校を歴任し、鉄騎及び内殿直都虞候に改めた。

原文李進卿,幷州晉陽人。少以驍勇隸護聖軍。晉天福中,杜重威帥師敗安重榮於宗城,進卿力戰有功,擢為興順軍校。周祖開國,命領所部兵戍靈壽,久之,遷龍捷指揮使。顯德初,從世宗戰高平,改鐵騎指揮使,歷散員左射都校,改鐵騎及內殿直都虞候。

宋の初年、貴州刺史を領し、三遷して鉄騎左廂都指揮使となり、乾州團練使を領した。乾徳初年、控鶴左廂都指揮使に遷り、漢州團練使に改めた。二年、虎捷左廂都指揮使に転じ、澄州團練使を領した。この年の冬、蜀しょくを伐つに当たり、進卿を帰州路行営歩軍都指揮使とし、巫山の砦を抜き、夔・萬の二州を陥れた。蜀が平定されると、功を録して侍衛親軍歩軍都虞候に拝し、保順軍節度を領した。開宝二年、太祖が親征して河東に赴くとき、進卿を留めて在京都巡檢とし、潁州刺史常暉・淄州刺史韓光愿を分かって河南・北の巡檢とした。帰還すると、親軍馬軍都虞候に改めた。六年、歩軍都指揮使に遷り、静江軍節度を領し、卒した。享年五十九。侍中を贈られた。子に延渥・延信がいる。延信は内殿崇班に至った。

原文宋初,領貴州刺史,三遷鐵騎左廂都指揮使,領乾州團練使。乾德初,遷控鶴左廂都指揮使,改漢州團練使。二年,轉虎捷左廂都指揮使,領澄州團練使。是歲冬,伐蜀,以進卿為歸州路行營步軍都指揮使,拔巫山砦,下夔、萬二州。蜀平,錄功拜侍衛親軍步軍都虞候,領保順軍節度。開寶二年,太祖親征河東,留進卿為在京都巡檢,潁州刺史常暉、淄州刺史韓光愿分為河南、北巡檢。及還,改親軍馬軍都虞候。六年,遷步軍都指揮使,領靜江軍節度,卒,年五十九,贈侍中。子延渥、延信。延信至內殿崇班。

子 延渥

原文子 延渥

延渥は蔭により供奉官に補され、まもなく閤門祗候となり、三遷して西京左蔵庫使に至った。咸平初年、平戎・寧辺・順安の各軍、保州、威虜軍鈐轄を歴任し、また冀州を知った。六年、瀛州に移った。

原文延渥以蔭補供奉官,尋為閤門祗候,三遷至西京左藏庫使。咸平初,歷知平戎、寧邊、順安軍、保州、威虜軍鈐轄,又知冀州。六年,徙瀛州。

景德初年、契丹が大挙して辺境を擾乱し、胡盧河を経て関南を越え、十月、城下に抵った。昼夜鼓噪し、四面より夾攻した。十日間、その勢いはますます張り、ただ鼓を撃ち木を伐つ声が相聞こえ、奚人を駆り立てて板を背負い燭を秉り城壁に乗じて登らせた。延渥は州兵の強壮を率い、また巡檢史普の配下を集めて城に乗じ、礧石や巨木を発してこれを撃つと、皆累々として墜ち、殺傷甚だ多かった。翌日、契丹の主とその母が自ら鼓を鳴らして衆を急撃させ、矢を雨のごとく発した。延渥は兵を分けて拒守することますます堅く、契丹は遁走し、死者三万余人、傷者はその倍に及び、鎧甲・兵矢・竿牌数百万を獲た。駅伝をもって書を上聞すると、延渥に錦袍・金帯を賜り、将士には緡銭を賜り、延渥を本州團練使に遷した。通判・太子中允陸元凱を国子博士とし、緋を賜り、推官李翔を太子中允とし、録事参軍蔡亨を右賛善大夫とし、侍禁・兵馬監押王誨、殿直・貝冀同巡檢史普を内殿崇班として職を充することをもって故の如くとした。

原文景德初,契丹大舉擾邊,經胡盧河,踰關南,十月,抵城下。晝夜鼓噪,四面夾攻。旬日,其勢益張,唯擊鼓伐木之聲相聞,驅奚人負板秉燭乘墉而上。延渥率州兵強壯,又集巡檢史普所部乘城,發礧石巨木擊之,皆纍纍而墜,殺傷甚眾。翌日,契丹主與其母親鼓眾急擊,發矢如雨。延渥分兵拒守益堅,契丹遁去,死者三萬餘,傷者倍之,獲鎧甲、兵矢、竿牌數百萬,驛書以聞。賜延渥錦袍、金帶,將士緡錢,遷延渥本州團練使。以通判、太子中允陸元凱為國子博士,賜緋;推官李翔為太子中允;錄事參軍蔡亨為右讚善大夫;侍禁、兵馬監押王誨,殿直、貝冀同巡檢史普為內殿崇班充職如故。

初め、戍棚の城を護る垂板はわずか数寸ばかりであったが、契丹がこれを射ると、矢がその上に集まったこと凡そ二百余に及んだ。後に城の修繕を請うたとき、詔して板を取ってこれを視ると、真宗はその労を頗る称えた。また城守の際、陸元凱が流れ矢で顔面に当たり、史普が勇敢に敵を避けなかったことを聞き、さらに元凱を屯田員外郎に、普を尚食副使に遷した。普はまもなく卒し、またその子昭度を右侍禁に、昭儉を奉職に録した。

原文初,戍棚垂板護城才數寸許,契丹射之,矢集其上凡二百餘。及請葺城,詔取板視之,真宗頗稱其勞。又聞城守之際,陸元凱流矢中面,史普勇敢不避敵,復遷元凱屯田員外郎、普尚食副使。普尋卒,又錄其子昭度為右侍禁,昭儉為奉職。

二年、延渥は邢州知州に移り、天雄軍・貝州副都部署を歴任し、冀・貝・博の三州を知った。大中祥符八年に朝廷に入り、病のため、連ねて告を賜り、右領軍衛大将軍に換え、演州團練使を領した。明年、その請いに従い、左武衛大将軍をもって致仕した。天禧初年、卒した。子の宗禹は内殿崇班となった。

原文二年,延渥徙知邢州,歷天雄軍、貝州副都部署,知冀、貝、博三州。大中祥符八年入朝,以疾,連賜告,換右領軍衛大將軍,領演州團練使。明年,從其請,以左武衛大將軍致仕。天禧初,卒。子宗禹,為內殿崇班。

楊美

原文楊美

楊美は、幷州文水の人である。本名は光美であったが、太宗の旧名を避けて改めた。美は状貌雄偉で、武力人に絶し、豪侠を以て自ら任じた。後漢の乾祐年間、周の太祖が三叛を征するとき、美は杖策して軍門に詣でて求見し、周の太祖が召して語ると、これを壮とし、帳下に留めた。広順初年、累遷して禁軍大校となり、世宗に従って淮南を征し、功により鉄騎都指揮使に擢げられ、白州刺史を領した。

原文楊美,幷州文水人。本名光美,避太宗舊名改焉。美狀貌雄偉,武力絕人,以豪俠自任。漢乾祐中,周祖征三叛,美杖策詣軍門求見,周祖召與語,壯之,留帳下。廣順初,累遷禁軍大校,從世宗征淮南,以功擢鐵騎都指揮使,領白州刺史。

太祖は美と旧知があり、即位すると、内殿直都知とした。建隆三年、青州北海県を軍に昇格させ、美を軍使とした。政は簡易を尚び、民は皆その徳を慕った。乾徳二年、召還されると、北海の民数百人が闕に詣でて留まることを乞い、詔して諭しても去らず、首謀者を笞打ってようやく罷んだ。馬歩軍都頭に遷った。蜀を討つに当たり、美を帰州路戦棹左右廂都指揮使とした。蜀が平定されると、内外馬歩軍副都軍頭に遷り、恩州團練使を領した。開宝二年、端州防禦使を領するよう改めた。六年、都軍頭を加えられ、宣州観察使を領した。まもなく虎捷左右廂都指揮使を授かり、河西軍節度を領した。党進・潘美を派遣して太原を征するに当たり、美を行営馬軍都虞候に命じた。太平興国二年冬、保静軍節度として出向した。三年夏、病により官を解いて京師に帰ることを求め、医薬を尋ねると、詔して内侍と道士馬志を遣わしてこれを視させた。まもなく卒した。享年四十八。侍中を贈られた。命により中使が葬儀を護った。美は人となり任気で施しを好み、賜与や俸禄を得るたびに、ことごとく親戚故旧に賙給した。死の日、家に余財なく、人多くこれを歎息した。

原文太祖與美有舊,即位,以為內殿直都知。建隆三年,升青州北海縣為軍,以美為軍使。為政尚簡易,民皆德之。乾德二年,召還,北海民數百詣闕乞留,詔諭之不去,笞為首者始罷。遷馬步軍都頭。會討蜀,以美為歸州路戰棹左右廂都指揮使。蜀平,遷內外馬步軍副都軍頭,領恩州團練使。開寶二年,改領端州防禦使。六年,加都軍頭,領宣州觀察使。俄授虎捷左右廂都指揮使,領河西軍節度。會遣党進、潘美征太原,命美為行營馬軍都虞候。太平興國二年冬,出為保靜軍節度。三年夏,以疾求解官歸京師,尋醫藥,詔遣內侍與道士馬志視之。未幾,卒,年四十八,贈侍中。命中使護葬。美為人任氣好施,凡得予賜及奉祿,盡賙給親戚故舊。死之日,家無餘財,人多歎息之。

何繼筠

原文何繼筠

何繼筠は、字を化龍といい、河南の人である。父の福進は、後唐より周に至るまで事え、累官して忠武・成徳・天平の三節度となった。繼筠は幼い時、群児と遊ぶにも必ず行伍を分けて戦陣の象をなした。後晉の初年、殿直に補された。周の太祖が三叛を討つとき、表して繼筠を行に従わせた。賊が平定されると、供奉官に改めた。広順初年、福進が真定を鎮めると、衙内都校に署し、嘗て偏師を率いて土門より出で、幷人と戦い、数千級を斬首し、功により欽州刺史を領した。契丹の将高模翰が二千騎を率いて深・冀を擾乱し、葦栰をもって胡盧河を渡った。繼筠は虎捷都指揮使劉誠誨とともに兵を率いてこれを拒ぎ、武強に至り、老幼千余人を獲、模翰は遁走した。まもなく福進に従って朝廷に入り、内殿直都知となった。福進が卒すると、起復して濮州刺史となり、兵を領して静安軍を戍守した。契丹が内侵すると、繼筠はこれを逆撃して破り、棣州刺史に改めた。世宗が瓦橋関を征するとき、命じて繼筠に配下の兵を率いて百井道より出でさせ、幷人数千の衆を破った。恭帝が即位すると、西北面行営都監とした。

原文何繼筠,字化龍,河南人。父福進,歷事後唐至周,累官忠武、成德、天平三節度。繼筠幼時與群兒戲,必分行伍為戰陣之象。晉初,補殿直。周祖討三叛,表繼筠從行。賊平,改供奉官。廣順初,福進鎮真定,署衙內都校,嘗領偏師出土門,與幷人戰,斬首數千級,以功領欽州刺史。契丹將高模翰率二千騎擾深、冀,以葦栰度胡盧河。繼筠與虎捷都指揮使劉誠誨率兵拒之,至武強,獲老稚千餘人,模翰遁去。俄隨福進入朝,為內殿直都知。福進卒,起復,為濮州刺史,領兵戍靜安軍。契丹內侵,繼筠逆擊敗之,改棣州刺史。世宗征瓦橋關,命繼筠以所部兵出百井道,破幷人數千眾。恭帝即位,以為西北面行營都監。

建隆二年、棣州を団練に昇格させ、継筠をその使に充てた。三年、関南兵馬都監に任じた。乾徳四年、本州防禦使を加えられた。開宝元年秋、昭義節度使李継勲らに命じて太原を征討させ、継筠を先鋒部署とした。渦河に至り、幷州の軍と遭遇し、これを撃退して汾河の橋を奪い、城下でその軍勢を破り、馬五百匹を獲、その将張環・石贇を生け捕りにして献上した。二年春、太祖自ら晋陽を親征したところ、契丹が来援した。継筠は当時陽曲県に兵を駐屯させていたが、駅伝で行在所に召し出され、方略を授けられ、精鋭の騎兵数千を率いて石嶺関に赴き契丹を防ぐよう命じられ、次のように言われた。「明日の正午、卿の捷報を待つぞ。」期日に至り、帝は北台に臨んで待った。一人の騎兵が北より来るのを見て、急ぎ迎えさせて問うと、継筠の子承睿が捷を献じに来たのであった。刺史二人を生け捕りにし、捕虜百余を獲、首級千余を斬り、馬七百余匹、武器甲冑を多く得た。初め、幷州の者は契丹を恃んで声援としていたが、捷報が奏上されると、太祖は命じて獲た首級・鎧甲を城下に示させたので、幷州の者は意気消沈した。継筠は功により建武軍節度使・判棣州に任じられた。三年、来朝し、詔して鞍馬・戎杖を賜り、辺境を守備させた。四年秋、来朝し、背中に癰が発した。車駕がその邸に臨み、賜与は甚だ厚かった。間もなく卒去、五十一歳。帝は自ら臨み、そのために涙を流し、従容として侍臣に言われた。「継筠は辺境を防衛する功があったが、朕が早く方鎮を授けなかったのは、その運が悪いことを慮ったからだ。今や節度使を領したばかりで、果たして逝去したのは、誠に惜しいことだ。」侍中を追贈し、絹五百匹を賻い、中使に喪を護らせ、生前佩用した剣及び甲冑を共に葬るよう命じた。

原文建隆二年,升棣州為團練,以繼筠充使。三年,命為關南兵馬都監。乾德四年,加本州防禦使。開寶元年秋,命昭義節度李繼勳等征太原,以繼筠為先鋒部署。至渦河,與幷人遇,擊走之,奪汾河橋,敗其眾於城下,獲馬五百匹,擒其將張環、石贇以獻。二年春,太祖親征晉陽,契丹來援。繼筠時屯兵陽曲縣,驛召至行在所,授以方略,命將精騎數千赴石嶺關拒契丹,謂之曰:「翌日亭午,俟卿來奏捷也。」至期,帝御北臺以俟。見一騎自北來,亟遣逆問之,乃繼筠子承睿來獻捷。生擒刺史二人,獲生口百餘,斬首千餘級,馬七百餘匹,器甲甚眾。初,幷人恃契丹為聲援,及捷奏,太祖命以所獲首級、鎧甲示城下,幷人喪氣。繼筠以功拜建武軍節度、判棣州。三年,來朝,詔賜鞍馬、戎杖,令戍邊。四年秋,來朝,疽發背。車駕幸其第,錫齎甚厚。未幾,卒,年五十一。帝親臨之,為之流涕,從容謂侍臣曰:「繼筠捍邊有功,朕不早授方鎮者,慮其數奇耳。今才領節制,果至淪沒,良可惜也。」贈侍中,賻絹五百匹,中使護喪,令以生平所佩劍及介胄同葬。

継筠は深沈にして智略があり、前後二十年にわたり辺境を守備し、士卒と苦楽を共にし、その死力を得た。辺境の情勢を推し量ることに長け、辺境の民は畏れて服し、多くその像を描いて祠った。子に承矩がいる。

原文繼筠深沉有智略,前後備邊二十年,與士卒同甘苦,得其死力。善揣邊情,邊人畏伏,多畫像祠之。子承矩。

子 承矩

原文子 承矩

承矩、字は正則。幼くして棣州衙内指揮使となり、継筠に従って劉崇を討ち、その将胡澄を生け捕りにして献上した。開宝四年、閑廄副使に任じられた。太平興国三年、漳泉の陳洪進が領土を献上したので、詔して承矩に駅伝に乗って泉州の兵を監させた。仙遊・莆田・百丈で賊徒が呼応して集結したが、承矩は喬維岳・王文宝と共にこれを討ち平らげ、功により閑廄使に昇進した。政務で民を害する事柄数十条を上疏して述べ、全て容れられた。使の名が改められることとなり、即時に崇儀使となった。五年、河南府知事となった。当時、丁男百余を徴発して上供の物資を輸送させていたが、承矩は不当な労役と考え、上奏してその事を廃止させた。潭州知事に転じ、凡そ六年間、獄舎がしばしば空となり、詔してこれを嘉奨した。入朝して六宅使となった。端拱元年、潘州刺史を兼ね、河陽の屯兵を護るよう命じられた。

原文承矩,字正則。幼為棣州衙內指揮使,從繼筠討劉崇,擒其將胡澄以獻。開寶四年,授閑廄副使。太平興國三年,漳泉陳洪進納士,詔承矩乘傳監泉州兵。會仙遊、莆田、百丈寇賊嘯聚,承矩與喬維岳、王文寶討平之,以功就遷閑廄使。疏為政之害民者數十事上之,悉被容納。會改使名,即為崇儀使。五年,知河南府。時調丁男百十輩轉送上供綱,承矩以為橫役,奏罷其事。徙知潭州,凡六年,囹圄屢空,詔嘉獎之。入為六宅使。端拱元年,領潘州刺史,命護河陽屯兵。

米信が滄州知事となったが、その吏事に習熟しないため、承矩を節度副使に任じて実質的に郡の政務を専管させた。当時、契丹が辺境を侵したので、承矩は上疏して言った。「臣は幼少の頃、先臣に従って関南で征戦に従軍し、北方辺境の道路・河川水源の地勢に詳しい。もし順安砦の西で易河蒲口を開削し、水を導いて東に海へ注がせ、東西三百余里、南北五七十里の範囲で、その沼沢地帯を利用し、堤防を築いて水を貯え屯田とすれば、敵騎兵の突進を阻止できます。一年ほどの間に、関南の諸沼沢が全て埋め立てられれば、直ちに稲田として播種できます。その辺境の州軍で塘水に臨むところは、城を守る軍士だけを留め置き、広く兵を発して守備させる煩わしさはありません。地利を収めて辺境を充実させ、険阻な要害を設けて防塞とし、春夏は農耕を督励し、秋冬は武事を習練し、民力を休養させて国家の経営を助けるのです。このように数年を経れば、彼が弱く我が強く、彼が疲労し我が安逸となる様子が見えてくるでしょう。これが辺境防禦の要策です。その順安軍より西、西山に至る百里ほどの間で水田のない所も、兵を選んで守備させ、その精鋭を選び、冗長な者を除くことを望みます。兵は寡ないことを憂えず、驕慢で精鋭でないことを憂えるべきです。将は臆病であることを憂えず、偏見があって謀略がないことを憂えるべきです。もし兵が精鋭で将が賢明ならば、四方の国境は高枕して憂いがありません。」太宗はこれを嘉納した。

原文米信知滄州,以其不習吏事,命承矩知節度副使,實專郡治。時契丹撓邊,承矩上疏曰:「臣幼侍先臣關南征行,熟知北邊道路、川源之勢。若於順安砦西開易河蒲口,導水東注於海,東西三百餘里,南北五七十里,資其陂澤,築堤貯水為屯田,可以遏敵騎之奔軼。俟期歲間,關南諸泊悉壅闐,即播為稻田。其緣邊州軍臨塘水者,止留城守軍士,不煩發兵廣戍。收地利以實邊,設險固以防塞,春夏課農,秋冬習武,休息民力,以助國經。如此數年,將見彼弱我強,彼勞我逸,此禦邊之要策也。其順安軍以西,抵西山百里許,無水田處,亦望選兵戍之,簡其精銳,去其冗繆。夫兵不患寡,患驕慢而不精;將不患怯,患偏見而無謀。若兵精將賢,則四境可以高枕而無憂。」太宗嘉納之。

長雨が災害となったため、担当者の多くはその非便を議論した。承矩は漢・魏から唐に至るまでの屯田の故事を引き合いに出して衆論を論破し、必ず実行することを務めた。そこで承矩を制置河北縁辺屯田使とし、その役事を監督させた。事柄は『食貨志』に詳しい。これにより順安以東の海に臨む地域、広大な数百里にわたり、全てが稲田となり、莞蒲や蜃蛤の豊富な産物があり、民はその利益に頼った。

原文屬霖雨為災,典者多議其非便。承矩引援漢、魏至唐屯田故事,以折眾論,務在必行。乃以承矩為制置河北緣邊屯田使,俾董其役。事具《食貨志》。由是自順安以東瀕海,廣袤數百里,悉為稻田,而有莞蒲蜃蛤之饒,民賴其利。

淳化四年、西上閤門使・滄州知事に抜擢され、一年余りして雄州に転じた。御筆の印紙にその功績の最たるものを記録し、さらに弓剣を賜った。承矩は誠意をもって衆を統御し、その苦楽を共にした。辺境の民で機密事項を告げる者がいれば、左右を退けて親しく接し、猜疑忌避することがなかったので、契丹の動静は全て事前に知ることができた。至道元年、契丹の精鋭騎兵数千が夜襲して城下に至り、太鼓を打ち鳴らし火を放って、楼櫓を脅かした。承矩は兵を整えて出撃し、夜明け頃に陣を列ねて激戦を長く続け、斬首・捕虜は甚だ多く、その首長で鉄林相公と呼ばれる者を生け捕りにし、契丹は逃げ去った。この年春、府州が契丹の軍勢を破ったことがあり、承矩は殺傷・捕獲の数を条書きにして州民に知らせ、あるいは市に掲示したので、契丹は恥じ憤り、このような侵攻があったのである。太宗はその軽率さが敵を招いたと考え、再び命じて滄州の安守忠と互いに任地を交換させた。魏廷式が河北に派遣され、雄州の功績状況を得て、表を捧げて上奏した。また内侍劉を派遣して実情を検証させ、麾下の兵士で功のあった者千余人を、皆進擢し賜与を与えた。

原文淳化四年,擢為西上閤門使、知滄州,逾年,徙雄州。御書印紙錄其功最,仍賜以弓劍。承矩推誠御眾,同其甘苦。邊民有告機事者,屏左右與之款接,無所猜忌,故契丹動息皆能前知。至道元年,契丹精騎數千夜襲城下,伐鼓縱火,以逼樓堞。承矩整兵出拒,遲明,列陣酣戰久之,斬馘甚眾,擒其酋所謂鐵林相公者,契丹遁去。是年春,府州嘗敗契丹眾,承矩條殺獲以諭州民,或揭於市,契丹愧忿,故有是役。太宗意其輕率致寇,復命與滄州安守忠兩換其任。魏廷式使河北,得雄州功狀,抗表上言。又遣內侍劉核實,及麾下士有功者千餘人,皆進擢齎賜。

真宗が即位すると、再び雄州知事に派遣し、承矩に詔を賜って言った。「朕は大業を継ぎ守り、ただ永遠の図を思い、華夷と共に富寿に至らんことを願う。ところで契丹は太祖が在位された日より、先帝が統を継がれた初めより、和好して往来し、礼と幣は絶えることがなかった。その後、汾・晋を回復し、辺境の臣が土地を貪り、国のために事を生じさせ、信義と友好は通じなくなった。今、聖なる先帝が崩御され、礼として訃告すべきである。汝は辺境の要地に任じ、詩書に通暁しているので、凡そ事機があれば必ず詳しく究め、軽重の際は、必ず中道を得るように務めよ。」承矩は契丹に書を送り、懐柔招来の旨を諭したが、その要領を得なかった。

原文真宗嗣位,復遣知雄州,賜承矩詔曰:「朕嗣守鴻業,惟懷永圖,思與華夷共臻富壽。而契丹自太祖在位之日,先帝繼統之初,和好往來,禮幣不絕。其後克復汾、晉,疆臣貪地,為國生事,信好不通。今者聖考上仙,禮當訃告。汝任居邊要,洞曉詩書,凡有事機,必能詳究,輕重之際,務在得中。」承矩貽書契丹,諭以懷來之旨,然未得其要。

咸平二年、契丹が南侵し、しばしば内侍を派遣して密詔をもって防禦の計略を問い、密封して献上させた。かつて詔して辺境の民が拒馬河を越えて塞北で市馬することを聴許した。承矩は上言して言った。「縁辺の戦棹司は淘河から泥姑海口に至るまで、屈曲九百余里に及び、これは天険です。太宗が砦二十六、舗百二十五を設置し、廷臣十一人、戍卒三千余、舟百艘を配し、往来して巡邏警備させ、奸詐を防いだので、緊急時の備えは大いに要害でした。今、公私の貿易を聴許すれば、人馬が往来して渡河し、甚だ便宜ではなく、かつ砦・舗は全て虚設となります。」上疏が奏上されると、直ちに前詔を停止し、しばしば親筆の書簡で褒賞激励された。三年、召還されて引進使に任じられた。州民百余が宮門に赴いて馬を献上し、承矩を留任させるよう請願したので、詔書で嘉奨し、再び派遣した。承矩は上言して言った。

原文咸平二年,契丹南侵,屢遣內侍以密詔問禦遏之計,密封以獻。嘗詔聽邊民越拒馬河塞北市馬。承矩上言曰:「緣邊戰棹司自淘河至泥姑海口,屈曲九百餘里,此天險也。太宗置砦二十六,鋪百二十五,廷臣十一人,戍卒三千餘,部舟百艘,往來巡警,以屏奸詐,則緩急之備,大為要害。今聽公私貿市,則人馬交度,深非便宜,且砦、鋪皆為虛設矣。」疏奏,即停前詔,屢被手劄褒飭。三年,召還,拜引進使。州民百餘詣闕貢馬,乞借留承矩,詔書嘉獎,復遣之。承矩上言曰:

契丹は軽佻にして整わず、貪婪にして親しみなく、勝てば互いに譲らず、敗れても互いに救わない。馳騁を容儀とし、弋獵を耕釣となす。櫛風沐雨も労と思わず、露宿草行も苦とせず。さらに騎戦の利を恃み、故に頻りに年を経て塞を犯す。臣が聞くに、兵に三陣あり。日月風雲は天の陣、山陵水泉は地の陣、兵車士卒は人の陣なり。今、地の陣を用いて険を設け、水泉を以て固めと為し、陂塘を建設し、滄海に綿亘せしめば、仮に敵騎有りと雖も、安んぞ衝を折らんや。昨者契丹辺を犯し、高陽一路は東は海に負い、西は順安に抵り、士庶安居す、即ち屯田の利なり。今、順安より西は西山に至るまで、地は数軍と雖も、路は百里に過ぎず、仮に丘陵岡阜有りと雖も、亦多く川瀆泉源あり、これに因りて広め、塘埭を制すれば、自ら辺患を息むべし。

原文「契丹輕而不整,貪而無親,勝不相讓,敗不相救。以馳騁為容儀,以弋獵為耕釣。櫛風沐雨,不以為勞;露宿草行,不以為苦。復恃騎戰之利,故頻年犯塞。臣聞兵有三陣:日月風雲,天陣也;山陵水泉,地陣也;兵車士卒,人陣也。今用地陣而設險,以水泉而作固,建設陂塘,綿亙滄海,縱有敵騎,安能折衝?昨者契丹犯邊,高陽一路,東負海,西抵順安,士庶安居,即屯田之利也。今順安西至西山,地雖數軍,路才百里,縱有丘陵岡阜,亦多川瀆泉源,因而廣之,制為塘埭,自可息邊患矣。

今、辺境を守る将は多くその才に非ず、詩書を悦ばず、礼楽を習わず、以て疆界を守るべからず。制御に方無く、動もすれば国家を誤る。貔虎の師を提げると雖も、犬羊の衆を遏むる莫し。臣が兵法に按ずるに、凡そ兵を用うるの道は、これを校うるに計を以てし、その情を索む。将孰れか能ある、天地孰れか得る、法令孰れか行わる、兵衆孰れか強き、士卒孰れか練る、賞罰孰れか明らかなりと謂う。これ敵を料り勝を制するの道なり。これを知りて戦を用うる者は必ず勝ち、然らずんば必ず敗る。惟だ慮り無くして敵を易くする者は必ず人に擒にせらる。伏して望むらくは、慎んで疆吏を択び、辺民を出でて牧し、これに奉祿を厚くして、その心を悦ばしめ、威権を借りて、その令を厳にせしめんことを。然る後に深溝高壘し、馬を秣い兵を厲し、戦守の備えと為す。仁を修め徳を立て、政を布き恵を行い、安輯の道を広む。士卒を訓い、田疇を辟き、農耕を勧め、芻粟を畜え、以て凶年に備う。長戟を完うし、勁弩を修め、烽燧を謹み、保戍を繕い、以て外患を防ぐ。来ればこれを禦ぎ、去ればこれを備う。かくの如くすれば則ち辺城按堵せん。

原文今緣邊守將多非其才,不悅詩書,不習禮樂,不可守疆界。制御無方,動誤國家,雖提貔虎之師,莫遏犬羊之眾。臣按兵法,凡用兵之道,校之以計而索其情,謂將孰有能,天地孰得,法令孰行,兵眾孰強,士卒孰練,賞罰孰明,此料敵制勝之道也。知此而用戰者必勝,否則必敗。夫惟無慮而易敵者必擒於人也。伏望慎擇疆吏,出牧邊民,厚之以奉祿,使悅其心,借之以威權,使嚴其令。然後深溝高壘,秣馬厲兵,為戰守之備。修仁立德,布政行惠,廣安輯之道。訓士卒,辟田疇,勸農耕,畜芻粟,以備凶年。完長戟,修勁弩,謹烽燧,繕保戍,以防外患。來則禦之,去則備之,如此則邊城按堵矣。

臣また聞く、古の明王は吏民を安集し、俗に順いて教え、良材を簡募して、以て不虞に備う。斉桓・晋文は皆兵を募りて以て隣敵を服せしむ。故に強国の君は必ずその民に胆勇有る者を料りて一卒と為し、進みて戦い力に効い忠勇を顕わさんことを楽む者を一卒と為し、高きを逾え遠きに赴き、足軽くして善く闘う者を一卒と為す。この三者は兵の練鋭、内に出でては以て囲を決し、外に入りては以て城を屠る。況んや小大は形を異にし、強弱は勢を異にし、険易は備えを異にする。身を卑くして強に事うるは、小国の形なり。蛮夷を以て蛮夷を伐つは、中国の形なり。故に陳湯は西域を統べて郅支滅び、常恵は烏孫を用いて辺部寧し。且つ胆勇・楽戦・軽足の徒を聚むるは、古より良策と称す。請う、これを試み行わんことを。且つ辺鄙の人は多く壮勇を負い、外邦の情偽を識り、山川の形勝を知る。辺郡に於いて営を置き召募せんことを望む。品度して人才を須いず、ただ少壮にして武芸有る者万人を求む。契丹に警有るを俟ち、智勇の将に令して統べて用いしめば、必ず成功を顕わし、乃ち中国の長算なり。

原文臣又聞古之明王,安集吏民,順俗而教,簡募良材,以備不虞。齊桓、晉文皆募兵以服鄰敵,故強國之君,必料其民有膽勇者聚為一卒,樂進戰效力以顯忠勇者聚為一卒,能逾高赴遠、輕足善鬥者聚為一卒,此三者兵之練銳,內出可以決圍,外入可以屠城。況小大異形,強弱異勢,險易異備。卑身以事強,小國之形也。以蠻夷伐蠻夷,中國之形也。故陳湯統西域而郅支滅,常惠用烏孫而邊部寧。且聚膽勇、樂戰、輕足之徒,古稱良策,請試行之。且邊鄙之人,多負壯勇,識外邦之情偽,知山川之形勝。望於邊郡置營召募,不須品度人才,止求少壯有武藝者萬人。俟契丹有警,令智勇將統而用之,必顯成功,乃中國之長算也。

また榷場の設けは、蓋し先朝権に従いて制を立て、以て契丹を恵み、その信を渝え盟を犯すを縦すと雖も、またこれを廃せず、大體を全うするに似たり。今、辺境の榷場は、その塞を犯すに因り、尋いで即ち停罷す。去歳、臣の上言に以て、雄州に場を置き茶を売る。資貨並び行わるれども、辺氓未だ済うる所無し。乞うらくは大臣に延訪し、その可否を議わしめ、或いは文武の中に抗執し独議する者有らば、是れ必ず別に良謀有るなり。請う、これに辺任を委ね、方略を施さしめ、成功を責めしめん。苟くも空しく浮議を陳べ、上聖聡を惑わさんには、只だ霊州の如き、足りて証験と為す。況んや茲の契丹はまた夏州の比に非ず。

原文又如榷場之設,蓋先朝從權立制,以惠契丹,縱其渝信犯盟,亦不之廢,似全大體。今緣邊榷場,因其犯塞,尋即停罷。去歲以臣上言,於雄州置場賣茶,雖貲貨並行,而邊氓未有所濟。乞延訪大臣,議其可否,或文武中有抗執獨議,是必別有良謀。請委之邊任,使施方略,責以成功。苟空陳浮議,上惑聖聰,秖如靈州,足為證驗,況茲契丹又非夏州之比也。」

四年十月、乾寧軍に鋭兵を選び、刀魚船を挽きて界河より直ちに平州境に趣き、以て西面の勢を牽かんことを建議す。五年、詔して兼ねて制置屯田使を領せしむ。始めて榷場を建つ。或いは承矩の意は継好に在りと謂う。然れども契丹は厭きること無く、未だ誠信に足らず、徒らに公行して窺伺せしむるのみ。会うに契丹に斥候卒を殺す者有り、復たこれを罷む。時に契丹数たび辺城を窺い、大いに渠を浚い、頗るその役を撓ます。詔して承矩に兵を握りて深くその境に入らしめ、以てその勢を分かしむ。承矩は騎兵無きを以て、第に数千の卒を遣わし混泥城より出で、これを襲いて還る。

原文四年十月,建議選銳兵於乾寧軍,挽刀魚船自界河直趣平州境,以牽西面之勢。五年,詔兼領制置屯田使。始建榷場,或者謂承矩意在繼好,然契丹無厭,未足誠信,徒使公行窺伺。會契丹有殺斥候卒者,復罷之。時契丹數窺邊城,大浚渠,頗撓其役。詔承矩握兵深入其境,以分其勢。承矩以無騎兵,第遣數千卒出混泥城,襲之而還。

景德元年、朝に入り、進みて英州団練使を領す。真宗、宰相に謂いて曰く、「承矩は書を読み名を好み、才能を以て自ら許す。宜しく善地を択びてこれを処すべし」と。冬、出でて澶州を知る。承矩、辺を守る以来、嘗て朝廷に遠人を懐柔し、息兵の計と為さんことを欲す。これに及び、車駕本部に按巡し、卒に契丹と和し、益々歎賞を加う。韓杞の至るや、命じて郊にこれを労わしむ。明年春、復た雄州を知る。是の歳、契丹始めて使を遣わし幣を奉ず。承矩、朝廷の辺人を待つ礼に悠久に行うべきものは、悉く疏して以て聞かしむ。手詔して嘉納し、仍って事に未だ尽きざる者有らば便宜に裁処するを聴す。三年、真に雄州団練使に拝す。時に辺兵稍々息み、農政未だ修まらず。また縁辺安撫使を置き、命じて承矩これを為さしめ、且つ詔して辺民にその復業を誘わしむ。承矩曰く、「契丹これを聞けば、必ずその部属を誘うと謂わん」と。乃ち詔文を易えて水旱流民の意と為す。王欽若時に枢密を知り、漢の蟲達・周仲の詔を改めしを援い、承矩を罪せんことを請う。帝曰く、「承矩は辺に任じて功有り。当に優仮すべし」と。第に詔して自今朝旨未だ便ならざる者は、奏稟して進止せしむ。

原文景德元年,入朝,進領英州團練使。真宗謂宰相曰:「承矩讀書好名,以才能自許,宜擇善地處之。」冬,出知澶州。承矩自守邊以來,嘗欲朝廷懷柔遠人,為息兵之計。及是,車駕按巡本部,卒與契丹和,益加歎賞。韓杞之至也,命郊勞之。明年春,復知雄州。是歲,契丹始遣使奉幣。承矩以朝廷待邊人之禮悠久可行者,悉疏以聞。手詔嘉納,仍聽事有未盡者便宜裁處。三年,真拜雄州團練使。時邊兵稍息,農政未修。又置緣邊安撫使,命承矩為之,且詔邊民誘其復業。承矩曰:「契丹聞之,必謂誘其部屬也。」乃易詔文為水旱流民之意。王欽若時知樞密,援漢蟲達、周仲居改詔,請罪承矩。帝曰:「承矩任邊有功,當優假之。」第詔自今朝旨未便者,奏稟進止。

承矩は頗る識鑒有り、長沙を典むる日、李沆・王旦を佐と為す。承矩厚くこれらを待ち、公輔の器有りと為す。推歩を善くし、自ら冥数を知り、乃ち老疾を以て僻郡を求む。詔して自らその代を択ばしむ。承矩は李允則を以て請う。乃ち承矩に斉州団練使を授け、これを任に遣わす。郡に至ること裁七日、卒す。年六十一。特ちに相州観察使を贈り、賻銭五十万、絹五百匹、中使葬を護る。

原文承矩頗有識鑒,典長沙日,李沆、王旦為佐,承矩厚待之,以為有公輔器。善推步,自知冥數,乃以老疾求僻郡。詔自擇其代,承矩以李允則為請。乃授承矩齊州團練使,遣之任,至郡裁七日,卒,年六十一。特贈相州觀察使,賻錢五十萬,絹五百匹,中使護葬。

その子亀齢を以て侍禁と為し、昌齢・九齢を殿直と為し、遐齢を齋郎と為す。辺境及び涿・易州の民、承矩の卒するを聞き、皆相率いて雄州に詣り哀を発し僧に飯す。昌齢は斉王の女太和県主を娶り、内殿崇班に至る。昌齢の子象中は閤門祗候と為る。

原文以其子龜齡為侍禁;昌齡、九齡為殿直;遐齡為齋郎。緣邊洎涿、易州民,聞承矩卒,皆相率詣雄州發哀飯僧。昌齡娶齊王女太和縣主,至內殿崇班。昌齡子象中,為閤門祗候。

李漢超

原文李漢超

李漢超は、雲州雲中の人。始め鄴帥范延光に事え、知られず。また鄴帥高行周に事え、また親信せられず。会うに周世宗澶淵に鎮す。漢超遂に質を委ぬ。即位し、殿前指揮使を補し、三遷して殿前都虞候と為る。

原文李漢超,雲州雲中人。始事鄴帥范延光,不為所知。又事鄆帥高行周,亦不見親信。會周世宗鎮澶淵,漢超遂委質焉。即位,補殿前指揮使,三遷殿前都虞候。

宋初、散指揮都指揮使に改め、綿州刺史を領し、累遷して控鶴左廂都校となり、恩州團練使を領した。李重進平定に従い、まもなく斉州防禦使に遷り、関南兵馬都監を兼ねた。漢超が関南に在るとき、漢超がその娘を強いて妾とし、また金を貸して返さないと訴える者があった。太祖は召して問うて曰く、「汝の娘は誰に嫁ぐべきか」と。曰く、「農家です」と。また問うて曰く、「漢超が関南に至らなかったとき、契丹はどうであったか」と。曰く、「毎年侵暴に苦しみました」と。曰く、「今もまたそうか」と。曰く、「いいえ」と。太祖曰く、「漢超は朕の貴臣である。その妾となるのは農婦よりまさっているではないか。漢超が関南を守らなければ、なお汝が家の所有を保つことができようか」と。責めてこれを遣わした。密かに使者を遣わして漢超に諭して曰く、「速やかにその娘と貸したものを返せ。朕はしばらく汝を赦す。再びするな。用が足りなければ、どうして朕に告げなかったのか」と。漢超は感激して泣き、死をもって報いることを誓った。郡に十七年在り、政は平らかに訟は理まり、吏民はこれを愛し、闕に詣でて碑を立て徳を頌することを求めた。太祖は詔して率更令徐鉉に文を撰ませてこれを賜った。

原文宋初,改散指揮都指揮使,領綿州刺史,累遷控鶴左廂都校,領恩州團練使。從平李重進,尋遷齊州防禦使兼關南兵馬都監。漢超在關南,人有訟漢超強取其女為妾及貸而不償者,太祖召而問之曰:「汝女可適何人?」曰:「農家也。」又問:「漢超未至關南,契丹如何?」曰:「歲苦侵暴。」曰:「今復爾耶?」曰:「否。」太祖曰:「漢超,朕之貴臣也,為其妾不猶愈於農婦乎?使漢超不守關南,尚能保汝家之所有乎?」責而遣之。密使諭漢超曰:「亟還其女並所貸,朕姑貰汝,勿復為也。不足於用,何不以告朕耶?」漢超感泣,誓以死報。在郡十七年,政平訟理,吏民愛之,詣闕求立碑頌德。太祖詔率更令徐鉉撰文賜之。

霸は州監軍馬仁瑀は嘗て漢超を兄事し、多く自ら勝手に振る舞い、麾下の卒を擅に発して遼境に入り、人口・羊馬を掠奪した。これにより二将は互いに悪しざまにした。太祖はその変を生ずるを慮り、中使を遣わして漢超・仁瑀に金帛を賜い、和解せしめた。太平興国初、応州観察使に遷り、斉州を判し、なお関南巡検となった。二年八月、屯所にて卒した。太宗は甚だ悼惜し、太尉・忠武軍節度を贈り、中使に葬儀を護らせた。漢超は士卒を善く撫で、これと苦楽を共にし、死の日、軍中みな涙を流した。子に守恩あり。

原文霸州監軍馬仁瑀嘗兄事漢超,多自肆,擅發麾下卒入遼境,剽奪人口、羊馬,由是二將交惡。太祖慮其生變,遣中使賜漢超、仁瑀金帛,令和解之。太平興國初,遷應州觀察使、判齊州,仍為關南巡檢。二年八月,卒於屯所。太宗甚悼惜,贈太尉、忠武軍節度,中使護葬。漢超善撫士卒,與之同甘苦,死之日,軍中皆流涕。子守恩。

子 守恩

原文子 守恩

守恩は、少より驍勇果断にして戦を善くし、父の風あり。初め斉州牙職に補せられた。開宝二年、太祖親征して太原を征し、漢超は北面行営都監となり、守恩は父の軍中に従った。時に契丹が兵を遣わして河東を援け、定州西嘉山に至り、将に土門に入らんとした。守恩は牙兵数千騎を領してこれを戦い破った。首三千級を斬り、戦馬・器甲を多く獲、首領二十七人を擒にした。漢超に随って行在に謁し、戎服金帯・器幣・緡銭を賜い、太祖は左右に謂いて曰く、「この稚子よくかくの如くす。他日将帥の才なり」と。漢超卒すや、驍猛軍校に擢げられ、累官して隷州刺史・霊州知州に至った。転運使陳緯と芻糧を部送して瀚海を過ぎるに、賊の邀撃を受け、守恩及び子の広文助教象之・隷州衙内指揮使望之・弟の寄班守忠は皆没した。真宗これを聞き震悼し、特に守恩に洪州観察使を賜った。次子に祐之・順之・用之・潤之・慶之・成之・蔵之あり。

原文守恩,少驍果善戰,有父風。初補齊州牙職。開寶二年,太祖親征太原,漢超為北面行營都監,守恩從父軍中。會契丹遣兵援河東,至定州西嘉山,將入土門,守恩領牙兵數千騎戰敗之。斬首三千級,獲戰馬、器甲甚眾,擒首領二十七人。隨漢超見於行在,賜戎服金帶、器幣、緡錢,太祖謂左右曰:「此稚子能若是,他日將帥才也。」漢超卒,擢為驍猛軍校,累官至隴州刺史、知靈州。與轉運使陳緯部芻糧過瀚海,為賊所邀,守恩及子廣文助教象之、隴州衙內指揮使望之、弟寄班守忠皆沒。真宗聞之震悼,特賜守恩洪州觀察使。次子祐之、順之、用之、潤之、慶之、成之、藏之。

郭進

原文郭進

郭進は、深州博野の人である。少時貧賤にして、鉅鹿の富家の傭保となった。膂力あり、倜儻として気を任せ、豪侠と結び、酒と蒲博を嗜んだ。その家の少年はこれを患い、進を殺さんと図った。妻の竺氏が密かにその謀を知り、進に告げたので、遂に晋陽に走り漢祖に依った。漢祖はその材を壮とし、帳下に留めた。晋開運末、契丹辺境を擾した。漢祖は太原に号を建てた。契丹主道中に崩じ、漢祖将に汴に入らんとし、進は奇兵を以て間道より先に洺州に趨り、因って河北諸郡を定めんことを請うた。累遷して乾・坊二州刺史となった。少帝即位し、磁州に改めた。

原文郭進,深州博野人。少貧賤,為鉅鹿富家傭保。有膂力,倜儻任氣,結豪俠,嗜酒蒲博。其家少年患之,欲圖殺進,婦竺氏陰知其謀,以告進,遂走晉陽依漢祖。漢祖壯其材,留帳下。晉開運末,契丹擾邊。漢祖建號太原。契丹主道殂,漢祖將入汴,進請以奇兵間道先趨洺州,因定河北諸郡。累遷乾、坊二州刺史。少帝即位,改磁州。

周広順初、淄州に移った。二年、吏民が観察使に詣でて留任を挙請した。この秋、登州刺史に遷った。時に群盗が居民を攻撃掠奪したので、進は鎮兵を率いてこれを平定し、部内は清粛となった。民吏千余人が闕に詣でて『屏盗碑』を立てることを請い、許された。顕徳初、衛州に移った。衛・趙・邢・洺の間に亡命者が多く、汲郡は山に依り河を帯び、出没し易く、隙を伺って掠奪し、吏が捕えれば輒ち遁去するので、故に累歳その党類を絶つことができなかった。進はその情状を備えて知り、因って計を設けてこれを発擿し、数ヶ月の間に剪滅して余すところなく、郡民また碑を立ててその事を記すことを請うた。洺州団練使に改め、善政あり、郡民また闕に詣でて碑を立て徳を頌することを請い、詔して左拾遺鄭起に文を撰ませてこれを賜った。進は嘗て城の四面に柳を植え、壕の中に荷芰蒲薍を種えた。後益々繁茂した。郡民これを見て涙を垂れる者あり、曰く、「これは郭公の植えしものなり」と。

原文周廣順初,移淄州。二年,吏民詣觀察使舉留。是秋,遷登州刺史。會群盜攻劫居民,進率鎮兵平之,部內清肅,民吏千餘人詣闕請立《屏盜碑》,許之。顯德初,移衛州。衛、趙、邢、洺間多亡命者,以汲郡依山帶河,易為出沒,伺間椎剽,吏捕之輒遁去,故累歲不能絕其黨類。進備知其情狀,因設計發擿之,數月間剪滅無餘,郡民又請立碑記其事。改洺州團練使,有善政,郡民復詣闕請立碑頌德,詔左拾遺鄭起撰文賜之。進嘗於城四面植柳,壕中種荷芰蒲薍,後益繁茂。郡民見之有垂涕者,曰:「此郭公所種也。」

建隆初、太祖親征して沢・潞を征し、本州防禦使に遷り、西山巡検を充てた。嘗て曹彬・王全斌と太原境に入り、数千人を獲た。開宝二年、太祖親征して河東を征し、進を行営前軍馬軍都指揮使とした。九年、将を命じて河東を征し、進を河東道・忻・代等州行営馬歩軍都監とし、山後諸州の民三万七千余口を招徠した。太平興国初、雲州観察使を領し、邢州を判し、なお西山巡検を兼ね、京城道德坊の第一区の邸宅を賜った。

原文建隆初,太祖親征澤、潞,遷本州防禦使,充西山巡檢。嘗與曹彬、王全斌入太原境,獲數千人。開寶二年,太祖親征河東,以進為行營前軍馬軍都指揮使。九年,命將征河東,以進為河東道、忻、代等州行營馬步軍都監,招徠山後諸州民三萬七千餘口。太平興國初,領雲州觀察使、判邢州,仍兼西山巡檢,賜京城道德坊第一區。

四年、車駕将に太原を征せんとし、先に進を命じて兵を分かち石嶺関を控えさせ、都部署として、北辺を防がせた。契丹果たして関を犯し、進はこれを大破し、また西龍門砦を攻め破り、俘馘を献じた。ここより幷人は気を喪った。時に田欽祚が石嶺軍を護り、恣に奸利諸不法の事を行った。進は力及ばず禁じえなかったが、亦屡々言に形した。進は武人、性剛烈、戦功高く、欽祚は他事を以てこれを侵し、心に甘んぜず、自経して死した。年五十八。欽祚は暴卒として聞こえた。太宗悼惜すること久しく、安国軍節度を贈り、中使に葬儀を護らせた。後頗るその事を聞き、因って欽祚の内職を罷め、房州団練使に出した。

原文四年,車駕將征太原,先命進分兵控石嶺關,為都部署,以防北邊。契丹果犯關,進大破之,又攻破西龍門砦,俘馘來獻,自是幷人喪氣。時田欽祚護石嶺軍,恣為奸利諸不法事,進雖力不能禁,亦屢形於言。進武人,性剛烈,戰功高,欽祚以他事侵之,心不能甘,自經死,年五十八,欽祚以暴卒聞。太宗悼惜久之,贈安國軍節度,中使護葬。後頗聞其事。因罷欽祚內職,出為房州團練使。

進は材幹あり、財を軽んじ施しを好んだ。然れども性殺すことを喜び、士卒少しでも令に違えば必ず死に置き、家に居て婢僕を御するもまた然りであった。進が西山に在るとき、太祖は戍卒を遣わすに必ず諭して曰く、「汝ら謹んで法を奉ぜよ。我すらなお汝を赦すが、郭進は汝を殺すであろう」と。その下を御する厳毅この如し。然れども権道を以て人を任ずることができ、嘗て軍校が西山より闕に詣でて進を誣うる者あり。太祖その情状を詰問して知り、左右に謂いて曰く、「彼は過ちありて罰を畏れ、故に進を誣って免れんと求めるのだ」と。使者を遣わして進に送り、これを殺すことを命じた。時に幷人が入寇し、進は誣うる者に謂いて曰く、「汝敢えて我を論ず、確かに胆気あり。今汝の罪を捨てる。能く幷寇を掩撃すれば、即ち汝を朝に薦めよう。もし敗れば、自ら河東に投ぜよ」と。その人は踴躍して命を聴き、果たして克捷を致した。進は即ちこれを聞こえ、その職を遷すことを乞い、太祖はこれに従った。

原文進有材幹,輕財好施,然性喜殺,士卒小違令,必寘於死,居家御婢僕亦然。進在西山,太祖遣戍卒,必諭之曰:「汝輩謹奉法。我猶貸汝,郭進殺汝矣。」其御下嚴毅若此。然能以權道任人,嘗有軍校自西山詣闕誣進者,太祖詰知其情狀,謂左右曰:「彼有過畏罰,故誣進求免爾。」遣使送與進,令殺之。會幷人入寇,進謂誣者曰:「汝敢論我,信有膽氣。今捨汝罪,能掩殺幷寇,即薦汝於朝;如敗,可自投河東。」其人踴躍聽命,果致克捷。進即以聞,乞遷其職,太祖從之。

初め、開宝中、太祖は有司に命じて宅を造り進に賜い、悉く筒瓦を用いた。有司言う、「旧制、親王公主の第でなければ用いるべからず」と。帝怒って曰く、「進は西山を控扼すること十余年、我をして北顧の憂い無からしむ。我が進を見ること豈に児女に減ぜんや。急ぎ往いて役を督せよ。妄りに言うな」と。太平興国初、また邸宅一区を賜った。

原文初,開寶中,太祖令有司造宅賜進,悉用筒瓦。有司言:「舊制,非親王公主之第不可用。」帝怒曰:「進控扼西山十餘年,使我無北顧憂。我視進豈減兒女耶?亟往督役,無妄言。」太平興國初,又賜宅一區。

附 牛思進

原文附 牛思進

牛思進は、祁州無極の人である。少時より軍に従い、膂力を以て聞こえた。嘗て強弓を取りて耳に掛け、手を以てこれを引きて満たさしめた。また牆に負いて立ち、力士二人その乳を撮って曳くも、嶷然として動かず、軍中みなこれを異とした。太平興国四年、平定軍知軍となり、河東征伐に従い、石嶺関部署郭進卒すや、命じて思進を以てこれに代えさせた。師還り、功により本州団練使に改めた。七年、右千牛衛上将軍を授けられて致仕し、卒した。

原文牛思進者,祁州無極人。少從軍,以膂力聞。嘗取強弓絓於耳,以手引之令滿。又負牆立,力士二人撮其乳曳之,嶷不動,軍中咸異之。太平興國四年,知平定軍,從征河東,石嶺關部署郭進卒,命思進代之。師還,以功改本州團練使。七年,授右千牛衛上將軍致仕,卒。

李謙溥

原文李謙溥

李謙溥、字は德明、幷州盂の人なり。性慷慨にして、然諾を重んず。父の蕘は、後唐清泰年中、晉祖幷門を鎮むるに、參謀に署す。天福初め、開封府推官となり、契丹に使いして還り、上言して曰く、「外國に節を屈するは、久長の策に非ず」と。時に晉祖方に契丹を父事す、其の言を悦ばず、出でて汝州魯山令となり、官に卒す。

原文李謙溥,字德明,幷州盂人。性慷慨,重然諾。父蕘,後唐清泰中,晉祖鎮幷門,署為參謀。天福初,為開封府推官,使契丹還,上言:「屈節外國,非久長策。」時晉祖方父事契丹,不悅其言,出為汝州魯山令,卒官。

謙溥少くして『左氏春秋』に通ず。晉祖に從ひ汴に入り、殿直を補ひ、契丹に奉使す。少帝即位し、西頭供奉官に改め、漢の初め、東頭に遷る。周祖三叛を討ち及び鄴都を守るに、謙溥往來して密命を宣べ、周祖之を愛す。廣順初め、供備庫副使に遷る。世宗劉崇を征し、遼州刺史張乙堅壁して下らず、謙溥を遣わし単騎にて之を説かしむ、乙城を以て降る、功を以て閑廄使に改む。師還り、留められて晉州兵馬都監と為る。偏師を以て河東境に入り、頻りに克捷を致し、世宗詔して之を褒美す。會に隰州刺史孫義卒す、時に世宗親しく淮南を征す、謙溥節帥楊廷璋に謂ひて曰く、「大寧は咽喉の要地、守を闕くべからず。且つ車駕出征す、若し報を俟たば、則ち孤城陷らん」と。廷璋即ち謙溥に權めて隰州事を署す。郡に至り、亟に城隍を浚ひ、兵備を厳にし、凡そ八日、幷人果たして数千騎を以て来寇す。時に盛暑、謙溥単衣扇を持ち、二小吏に從ひ城に登り、徐歩して戦具を按視す。幷人退舍し、後旬餘、大いに衝車を発して城を攻む。謙溥敢死の士を募り、百餘人を得、短兵堅甲し、枚を銜み夜縋りて城を出づ。會に廷璋の兵至り、勢を合はせて夾攻し、其の及ばざるを掩ふ。幷人大いに擾ひ、衆を悉くして遁去す。北を追うこと数千里、首千餘級を斬る、時に顯德四年なり。明年五月、孝義県を攻め破り、功を以て衢州刺史を領し、監軍元の如し。世宗北征し、行在に赴くを召す。恭帝即位し、澶州巡検使と為り、詔して莫州に城せしむ、数旬にして就く。丹州刺史に改む。

原文謙溥少通《左氏春秋》。從晉祖入汴,補殿直,奉使契丹。少帝即位,改西頭供奉官,漢初,遷東頭。周祖討三叛及守鄴都,謙溥往來宣密命,周祖愛之。廣順初,遷供備庫副使。世宗征劉崇,遼州刺史張乙堅壁不下,遣謙溥單騎說之,乙以城降,以功改閑廄使。師還,留為晉州兵馬都監。以偏師入河東境,頻致克捷,世宗詔褒美之。會隰州刺史孫義卒,時世宗親征淮南,謙溥謂節帥楊廷璋曰:「大寧,咽喉要地,不可闕守。且車駕出征,若俟報,則孤城陷矣。」廷璋即署謙溥權隰州事。至郡,亟命浚城隍,嚴兵備,凡八日,幷人果以數千騎來寇。時盛暑,謙溥單衣持扇,從二小吏登城,徐步按視戰具。幷人退舍,後旬餘,大發衝車攻城。謙溥募敢死士,得百餘人,短兵堅甲,銜枚夜縋出城。會廷璋兵至,合勢夾攻,掩其不及。幷人大擾,悉眾遁去。追北數十里,斬首千餘級,時顯德四年也。明年五月,攻破孝義縣,以功領衢州刺史、監軍如故。世宗北征,召赴行在。恭帝即位,為澶州巡檢使,詔城莫州,數旬而就。改丹州刺史。

建隆四年、慈州に移り、晉・隰縁辺都巡検を兼ね、石州事を行ひ、興同砦を以て治所と為す。冬、将に南郊に事有らんとす。太祖四路に命じて兵を進め、地を略して太原せしむ。鄭州刺史孫延進・絳州刺史沈繼深・通事舎人王睿等師陰地より出で、謙溥を以て先鋒と為し、霍邑に会す。謙溥因りに攻取の策を画す、継深等共に之を沮み、延進用ふる能はず。軍還り、白璧関を出で、谷口に次ぐ、謙溥諸将に語りて曰く、「王師深く敵境に入る、今既に軍を退く、彼必ず我を乗せん、諸君備ふべし」と。諸将答へず、謙溥独り部をして甲を擐かしむ。俄に追騎果たして至る、延進等倉皇として谷中に走る、独り謙溥兵を麾して之を拒ぎ、幷人引き退く。未だ幾ばくもあらず、隰州刺史に移る。

原文建隆四年,移慈州,兼晉、隰緣邊都巡檢,行石州事,以興同砦為治所。冬,將有事於南郊。太祖命四路進兵,略地太原。鄭州刺史孫延進、絳州刺史沈繼深、通事舍人王睿等師出陰地,以謙溥為先鋒,會霍邑。謙溥因畫攻取之策,繼深等共沮之,延進不能用。軍還,出白璧關,次谷口,謙溥語諸將曰:「王師深入敵境,今既退軍,彼必乘我,諸君當備之。」諸將不答,謙溥獨令所部擐甲。俄追騎果至,延進等倉皇走谷中,獨謙溥麾兵拒之,幷人引退。未幾,移隰州刺史。

開宝元年、李継勲等を命じて太原を征せしめ、謙溥を以て汾州路都監と為す。太祖晉陽を征し、東砦都監と為る。前軍副部署党進謙溥を遣わし西山に木を伐ちて以て軍用に給せしむ、未だ至らざるに、鼓声を聞く、乃ち幷人西砦を逼る。大将趙贊之を禦ぐ、幷衆未だ退かず、謙溥部を麾して之に赴かしむ。太祖遽に至りて戦を観、其の赴援する者精甲に非ざるを怪しみ、之を問ふ、乃ち謙溥なり、帝甚だ喜ぶ。謙溥州に在ること十年、敵人の境を犯すを敢へず。招收将劉進と曰ふ者有り、勇力人に絶ゆ、謙溥之を撫すること厚く、其の死力を借り、境上に往来し、少を以て衆を撃つ。幷人之を患ひ、蠟丸の書を為りて以て進を間はし、佯りて書を道中に遺す、晉帥趙贊之を得て以て聞す。太祖進を械して闕下に送るを令す、謙溥其の事を詰む、進伏して死を請ふ。謙溥曰く、「我挙宗四十口を以て汝を保せり」と。即ち上言して進は幷人の悪む所、此れ乃ち反間なりとす。奏至り、帝悟り、遽に之を釈するを令し、禁軍都校の戎帳・服具を賜ふ。進感激し、敵を撃ちて自ら効はんことを願ふ。

原文開寶元年,命李繼勳等征太原,以謙溥為汾州路都監。太祖征晉陽,為東砦都監。前軍副部署党進遣謙溥伐木西山以給軍用,未至,聞鼓聲,乃幷人逼西砦。大將趙贊禦之,幷眾未退,謙溥麾所部赴之。太祖遽至觀戰,怪其赴援者非精甲,問之,乃謙溥也,帝甚喜。謙溥在州十年,敵人不敢犯境。有招收將劉進者,勇力絕人,謙溥撫之厚,借其死力,往來境上,以少擊眾。幷人患之,為蠟丸書以間進,佯遺書道中,晉帥趙贊得之以聞。太祖令械進送闕下,謙溥詰其事,進伏請死。謙溥曰:「我以舉宗四十口保汝矣。」即上言進為幷人所惡,此乃反間也。奏至,帝悟,遽令釋之,賜以禁軍都校戎帳、服具。進感激,願擊敵自效。

開宝三年、謙溥を召して済州団練使と為す。後辺将律を失ひ、復た晉・隰縁辺巡検使と為り、辺民之を聞きて喜び、争ひ相ひ道左に迎労す。六年、兵を領して太原に入り、連ねて七砦を抜く。八年、疾を以て帰を求め、肩輿にて洛に抵る、太祖中使を遣わし太醫を領して就き之を視しむ。京師に至り、疾篤く、累りて章を上りて祿を辞す、許さず。明年春、卒す、年六十二。太祖甚だ之を痛惜し、賻贈加ふること有り、葬事官に給す。

原文開寶三年,召謙溥為濟州團練使。後邊將失律,復為晉、隰緣邊巡檢使,邊民聞之喜,爭相迎勞於道左。六年,領兵入太原,連拔七砦。八年,以疾求歸,肩輿抵洛,太祖遣中使領太醫就視之。至京師,疾篤,累上章辭祿,不許。明年春,卒,年六十二。太祖甚痛惜之,賻贈有加,葬事官給。

謙溥は宣祖と里閈を同じくし、弟の謙升は太祖と布衣の交はり有り。其の母の閻嘗て厚く太祖を待ち、即位に及び、数たび迎へて宮中に入れ、左右して之を掖き、拝せしめず、坐して飲食するを命じ、旧故に話及び、賜齎優厚なり。雍熙中、太宗許王の為に謙升の女を納れて夫人と為し、謙升を以て如京副使と為す。謙溥の子允則・允正。允則は寧州防禦使に至る。從子の允恭は内殿崇班・閤門祗候と為る。

原文謙溥與宣祖同里閈,弟謙升與太祖為布衣交。其母閻嘗厚待太祖,及即位,數迎入宮中,使左右掖之,不令拜,命坐飲食,話及舊故,賜齎優厚。雍熙中,太宗為許王納謙升女為夫人,以謙升為如京副使。謙溥子允則、允正。允則至寧州防禦使。從子允恭為內殿崇班、閤門祗候。

子 允正

原文子 允正

允正、字は修己、蔭を以て供奉官を補ふ。太平興國中、左蔵庫を掌り、屢たび升殿して事を奏するを得、太宗頗る其の旧故を記憶す。雍熙中、張平と同く三班を掌り、俄に閤門祗候と為る。四年、閤門通事舎人に遷る。時に女弟許王に適す、居第を以て宋偓に質す、太宗之を詰めて曰く、「爾が父辺を守ること二十餘年、止だ此の第有るのみ、何を以て之を質すや」と。允正具に以て奏す、即ち内侍を遣わし輦銜して贖ひ還し、縉紳咸く詩を賦して美を頌す。

原文允正,字修己,以蔭補供奉官。太平興國中,掌左藏庫,屢得升殿奏事,太宗頗記憶其舊故。雍熙中,與張平同掌三班,俄為閤門祗候。四年,遷閤門通事舍人。時女弟適許王,以居第質於宋偓,太宗詰之曰:「爾父守邊二十餘年,止有此第耳,何以質之?」允正具以奏,即遣內侍輦錢贖還,縉紳咸賦詩頌美。

淳化中、命じて戎・瀘州の叛蠻を討たしむ。西上閤門副使に遷る。太宗京城の獄囚淹繫するを慮ひ、允正を命じて之を提総せしむ。嘗て詔を請ひ御史臺に開封府司録司・左右軍巡・四排岸司の印紙を与へて囚簿を作らしめ、禁繫の月日を署し、其の罪犯を條し、歳満りて其の殿最を較はしむ。詔其の請に從ふ。年を踰へ、開封府上言して曰く、「京師浩穰、禁繫尤も衆し、御史府考較の際、胥吏奔命し、推鞫を妨ぐること有り、況んや欺隱無く、推校を煩はすに足らず」と。卒に之を罷む。允正又左右蔵を提点し、屢たび伝に乗り北面し、辺要を経度す。五年、衛州修河部署と為る。會に清遠軍積石砦を建つ、命じて瀚海に詣り其の役を部分せしむ。還り、西上閤門使・幷州駐泊鈐轄を拝す。俄に張永德に代りて州事を知り、代州に徙る。

原文淳化中,命討戎、瀘州叛蠻。遷西上閤門副使。太宗慮京城獄囚淹繫,命允正提總之。嘗請詔御史臺給開封府司錄司、左右軍巡、四排岸司印紙作囚簿,署禁繫月日,條其罪犯,歲滿較其殿最。詔從其請。逾年,開封府上言:「京師浩穰,禁繫尤眾,御史府考較之際,胥吏奔命,有妨推鞫,況無欺隱,不煩推校。」卒罷之。允正又提點左右藏,屢乘傳北面,經度邊要。五年,為衛州修河部署。會建清遠軍積石砦,命詣瀚海部分其役。還,拜西上閤門使、幷州駐泊鈐轄。俄代張永德知州事,徙代州。

咸平初め、西蜀に使して民事を詢訪し、還り、秩を進めて東上閤門使と為り、歴りて鎮・莫二州を知る。又た幷・代馬歩軍鈐轄と為る。契丹辺を擾はし、車駕大名に駐る、允正高瓊と率ひて太原軍を土門路より出で来り会し、便殿に召見せらる。部する所に廣銳騎士数百有り、皆素より練習し、命じて允正に引きて入らしめ、緡銭を賜ふ。遣はして邢州に屯せしめ、石保吉と遼人を逐はしむ、遼人遁去す。俄に兵を以て大名に会し、復た幷代に還る。五年、涇原儀渭・邠寧環慶の両路を合して一界と為し、王漢忠を都部署と為し、駅にて允正を召して鈐轄兼安撫都監と為し、即日上道す。又た命じて錢若水と同く洪德・懷安沿辺諸砦に詣りて辺事を経度せしめ、誠州刺史を領するを加ふ。七月、両路の職を罷め、復た幷代鈐轄に任ず。毎に錢若水辺壘を按巡すれば、即ち詔して權めて州事を蒞む。四方館使に進み、馬知節に代りて鄜延部署・延州知事を兼ね、客省使・定州知事兼鎮定都鈐轄に改む。

原文咸平初,使西蜀詢訪民事,還,進秩東上閤門使,歷知鎮、莫二州。又為幷、代馬步軍鈐轄。契丹擾邊,車駕駐大名,允正與高瓊率太原軍出土門路來會,召見便殿。所部有廣銳騎士數百,皆素練習,命允正引以入,賜緡錢。遣屯邢州,與石保吉逐遼人,遼人遁去。俄以兵會大名,復還幷代。五年,合涇原儀渭、邠寧環慶兩路為一界,命王漢忠為都部署,驛召允正為鈐轄兼安撫都監,即日上道。又命與錢若水同詣洪德、懷安沿邊諸砦經度邊事,加領誠州刺史。七月,罷兩路之職,復任幷代鈐轄。每錢若水按巡邊壘,即詔權蒞州事。進四方館使,代馬知節為鄜延部署、兼知延州,改客省使、知定州兼鎮定都鈐轄。

大中祥符三年、累次上表して還京を求む。京師に至り、汾陰を祀らんとす。疾のため扈従に難あり、河陽部署に命じて以て養いを便ならしむ。会に張崇貴卒し、趙德明頗る逾軼す、亟に詔して允正を徙して鄜延部署と為し、内侍に密詔して存諭せしむ。礼成り、河州団練使を領す。允正頗る書を知り、性厳毅にして、財を疎にし、自ら修飭するを喜ぶ。素より佝僂を病み、是を以て要近に在ること罕なり、累ね辺任を典とし、殺戮多し。是の秋、徙めて永興軍を知り、卒す。年五十一。

原文大中祥符三年,累表求還。至京師,將祀汾陰,以疾難於扈從,命為河陽部署以便養。會張崇貴卒,趙德明頗逾軼,亟詔徙允正為鄜延部署,內侍密詔存諭。禮成,領河州團練使。允正頗知書,性嚴毅,疏財,喜自修飭。素病佝僂,以是罕在要近,累典邊任,多殺戮。是秋,徙知永興軍,卒,年五十一。

姚内斌

原文姚內斌

姚内斌は、平州盧龍の人なり。契丹に仕えて関西巡検・瓦橋関使と為る。周の顕徳六年、太祖世宗に従いて北征し、兵瓦橋関に次ぐ。内斌衆五百人を率いて城を以て降る。世宗之を汝州刺史と為す。吏民闕に詣でて留まるを挙ぐ。恭帝詔して之を褒む。内斌本名は宣祖諱の下一字を犯す、遂に今の名に改む。李筠を平ぐるに従い、虢州刺史に改む。西夏数え西鄙を犯す。内斌を以て慶州刺史兼青・白両池榷塩制置使と為す。郡に在ること十数年、西夏畏伏し、敢えて塞を犯さず、内斌を号して「姚大虫」と曰う。其の武猛なるを言うなり。

原文姚內斌,平州盧龍人。仕契丹為關西巡檢、瓦橋關使。周顯德六年,太祖從世宗北征,兵次瓦橋關,內斌率眾五百人以城降。世宗以為汝州刺史,吏民詣闕舉留,恭帝詔褒之。內斌本名犯宣祖諱下一字,遂改今名。從平李筠,改虢州刺史。西夏數犯西鄙,以內斌為慶州刺史兼青、白兩池榷鹽制置使。在郡十數年,西夏畏伏,不敢犯塞,號內斌為「姚大蟲」,言其武猛也。

初め、内斌降る。其の妻子皆契丹に在り。乾徳四年、子承贊密かに幽州より来帰す。五年、幽州の民田光嗣等又内斌の児女六人を以て間道より来帰す。太祖並びに召見し、衣服・緡銭・鞍馬を賜い、中使をして護送して還し内斌に付せしむ。開宝四年、召して闕に赴かしむ。上之を待すること甚だ厚く、帰りて治所に遣わす。七年春、暴に疾を得て卒す。年六十四。中使を遣わして喪を護り、帰葬して洛陽らくようす。常の賻の外、其の子に田三十頃を賜う。承贊は供奉官・閤門祗候と為り、陣に死す。承鑒は殿中丞に至る。

原文初,內斌降,其妻子皆在契丹。乾德四年,子承贊密自幽州來歸。五年,幽州民田光嗣等又以內斌兒女六人間道來歸,太祖並召見,賜以衣服、緡錢、鞍馬,令中使護送還內斌。開寶四年,召赴闕,上待之甚厚,遣歸治所。七年春,暴得疾卒,年六十四。遣中使護喪,歸葬洛陽,常賻外,賜其子田三十頃。承贊為供奉官、閤門祗候,死於陣;承鑒至殿中丞。

董遵誨

原文董遵誨

董遵誨は、涿州范陽の人なり。父宗本は、騎射に善く、契丹の帥趙延寿の麾下に隷す。嘗て事を以て延寿を説くも、用いられず。延寿の執わるるに及び、挙族南奔す。漢祖之を得て、擢き随州刺史に拝し、遵誨を随州牙校に署す。周の顕徳初め、世宗北征す。大将高懐徳は、遵誨の舅なり。表して遵誨を従行せしむ。師高平に次ぎ、晋人と遇う。将に戦を接せんとす。晋兵未だ列を成さず。懐徳命じて遵誨に先んじて奇兵を出して之を撃たしむ。晋人潰え、大軍進み継ぎ、遂に之を敗る。二年、秦・鳳を討つ。大将韓通又表して遵誨を自らに随わしむ。賊と唐倉に戦い、先登して陣を陥れ、蜀の招討使王鸞を擒えて以て献じ、秦・鳳二州を克つ。師還り、其の前後の功を録し、東西班押班を補し、又遷りて驍武指揮使と為す。四年、世宗に従いて淮南を征し、合肥を攻めて之を下す。六年、韓通に従いて雄・霸二州を平ぐ。

原文董遵誨,涿州范陽人。父宗本,善騎射,隸契丹帥趙延壽麾下,嘗以事說延壽,不能用。及延壽被執,舉族南奔。漢祖得之,擢拜隨州刺史,署遵誨隨州牙校。周顯德初,世宗北征,大將高懷德,遵誨之舅也,表遵誨從行。師次高平,與晉人遇。將接戰,晉兵未成列,懷德命遵誨先出奇兵擊之,晉人潰,大軍繼進,遂敗之。二年,討秦、鳳,大將韓通又表遵誨自隨。與賊戰於唐倉,先登陷陣,擒蜀招討使王鸞以獻,克秦、鳳二州。師還,錄其前後功,補東西班押班,又遷驍武指揮使。四年,從世宗征淮南,攻合肥,下之。六年,從韓通平雄、霸二州。

太祖微時に、客遊して漢東に至り、宗本に依る。而して遵誨父の勢を憑藉し、太祖毎に之を避く。遵誨嘗て太祖に謂いて曰く、「毎に見るに城上の紫雲蓋の如く、又高台に登るを夢み、黒蛇に遇うこと長さ約百尺余、俄に龍と化して飛騰し東北に去り、雷電之に随う。是れ何の祥ぞや」と。太祖皆対えず。他日兵戦の事を論ずるに、遵誨理多く屈し、衣を拂いて起つ。太祖乃ち宗本に辞して去る。是より紫雲漸く散ず。即位に及び、一日、便殿に召見す。遵誨地に伏して死を請う。帝左右を令して扶け起し、因りて之を諭して曰く、「卿尚ほ往日の紫雲及び龍化の夢を記すや」と。遵誨再拝して万歳を呼ぶ。俄にして部下に軍卒有りて登聞鼓を撃ち、其の不法十余事を訴う。太祖釈して問わず。遵誨益々惶愧して罪を待つ。太祖召して之を諭して曰く、「朕方に過を赦し功を賞せんとす。豈に旧悪を念わんや。汝復た憂うること勿れ。吾将に汝を録用せん」と。遵誨再拝して感泣す。又遵誨に問う、「母安くにか在る」と。遵誨奏して曰く、「母氏幽州に在り、患難を経て睽隔す」と。太祖因りて人をして辺民を賂わしめ、窃かに其の母を迎え、送りて遵誨に与う。遵誨外弟劉綜を遣わして馬を貢ぎて以て謝す。太祖其の服する所の真珠盤龍衣を解き、命じて齎し之を賜う。綜曰く、「遵誨人臣たり、豈に此れに当たらんや」と。太祖曰く、「吾方に方面を委んとす。此れを嫌わず」と。

原文太祖微時,客遊至漢東,依宗本,而遵誨憑藉父勢,太祖每避之。遵誨嘗謂太祖曰:「每見城上紫雲如蓋,又夢登高臺,遇黑蛇約長百尺餘,俄化龍飛騰東北去,雷電隨之,是何祥也?”」太祖皆不對。他日論兵戰事,遵誨理多屈,拂衣而起。太祖乃辭宗本去,自是紫雲漸散。及即位,一日,便殿召見,遵誨伏地請死,帝令左右扶起,因諭之曰:「卿尚記往日紫雲及龍化之夢乎?」遵誨再拜呼萬歲。俄而部下有軍卒擊登聞鼓,訴其不法十餘事,太祖釋不問。遵誨益惶愧待罪,太祖召而諭之曰:「朕方赦過賞功,豈念舊惡耶?汝可勿復憂,吾將錄用汝。」遵誨再拜感泣。又問遵誨:「母安在?」遵誨奏曰:「母氏在幽州,經患難睽隔。」太祖因令人賂邊民,竊迎其母,送與遵誨。遵誨遣外弟劉綜貢馬以謝,太祖解其所服真珠盤龍衣,命齎賜之。綜曰:「遵誨人臣,豈敢當此。」太祖曰:「吾方委以方面,不此嫌也。」

会に李筠沢・潞に叛く。遵誨を令して慕容延釗に従いて之を討たしめ、馬軍都軍頭に遷し、因りて之を留めて鎮守せしむ。三年、召して帰し、再遷して散員都虞候と為す。乾徳六年、西夏辺に近きを以て、通遠軍使を授く。遵誨既に至り、諸族の酋長を召し、朝廷の威徳を以て諭し、羊を刲き酒を釃し、宴犒甚だ至れり。衆皆悦服す。後数月、復た来たりて辺を擾す。遵誨兵を率いて深く其の境に入り、之を撃ち走らしめ、俘斬甚だ衆く、羊馬数万を獲り、夷落以て定まる。太祖其の功を嘉し、就きて羅州刺史を拝し、使は故の如し。太宗即位し、兼ねて霊州路巡検を領す。

原文會李筠叛澤、潞,令遵誨從慕容延釗討之,遷馬軍都軍頭,因留之鎮守。三年,召歸,再遷為散員都虞候。乾德六年,以西夏近邊,授通遠軍使。遵誨既至,召諸族酋長,諭以朝廷威德,刲羊釃酒,宴犒甚至,眾皆悅服。後數月,復來擾邊,遵誨率兵深入其境,擊走之,俘斬甚眾,獲羊馬數萬,夷落以定。太祖嘉其功,就拜羅州刺史,使如故。太宗即位,兼領靈州路巡檢。

遵誨書を知らず、豁達にして崖岸無く、方略多く、能く強を挽きて命中し、武藝皆人に絶る。通遠軍に在ること凡そ十四年、一面を安撫し、夏人悦服す。嘗て霊武進奉使の鞍馬・兵器を剽略する者有り。遵誨帳下を部署して之を討たんと欲す。夏人懼れ、略する所のものを尽く帰し、拝伏して罪を請う。遵誨即ち慰撫して去らしむ。是より各封略を謹み、秋毫も敢えて犯さず。太祖・太宗の朝を歴り、委遇終始替わらず、便宜を以て軍事を制するを許す。太平興国六年、卒す。年五十六。帝軫悼すること久し、中使を遣わして葬を護らしめ、賵賻等を加え、其の子嗣宗・嗣栄を録して殿直と為す。

原文遵誨不知書,豁達無崖岸,多方略,能挽強命中,武藝皆絕人。在通遠軍凡十四年,安撫一面,夏人悅服。嘗有剽略靈武進奉使鞍馬、兵器者,遵誨部署帳下欲討之。夏人懼,盡歸所略,拜伏請罪,遵誨即慰撫令去。自是各謹封略,秋毫不敢犯。歷太祖、太宗朝,委遇始終不替,許以便宜制軍事。太平興國六年,卒,年五十六。帝軫悼久之,遣中使護葬,賵賻加等,錄其子嗣宗、嗣榮為殿直。

賀惟忠

原文賀惟忠

賀惟忠は、忻州定襄の人なり。少より勇敢にして、騎射に善し。周祖兵を将いて三叛を討たんとす。惟忠道左に謁し、自ら其の武藝有るを陳ぶ。周祖之を悦び、即ち留置して所部とす。開国に及び、世宗の帳下に隷するを得、奏して供奉官を補す。辞せず、輒ち朝に入る。世宗之を怒り、嗣位に及び、終に遷擢せず。

原文賀惟忠,忻州定襄人。少勇敢,善騎射。周祖將兵討三叛,惟忠謁於道左,自陳其有武藝,周祖悅之,即留置所部。洎開國,得隸世宗帳下,奏補供奉官,不辭,輒入朝。世宗怒之,及嗣位,終不遷擢。

初め儀鸞副使を授け、易州を知らしめ、辺を捍うこと功有り。尋いで正使に遷す。開宝二年、太祖常山に駐まる。惟忠を以て本州刺史兼易・定・祁等州都巡検使と為す。嘗て流矢に中る。六年、金瘡発して卒す。太祖之を聞きて嗟悼し、即ち其の子昭度を以て供奉官と為す。

原文初授儀鸞副使,令知易州,捍邊有功,尋遷正使。開寶二年,太祖駐常山,以惟忠為本州刺史兼易、定、祁等州都巡檢使。嘗中流矢,六年,金瘡發而卒。太祖聞之嗟悼,即以其子昭度為供奉官。

惟忠の性剛果にして、書を知り、兵法に洞曉し、方略有り。易州に在りて亭障を繕完し、士卒を撫で、其の死力を得、毎に塞に乗じて兵を用うるに、向う所必ず克ち、威名北辺に震い、故に十余年の間契丹敢えて南牧せず。

原文惟忠性剛果,知書,洞曉兵法,有方略。在易州繕完亭障,撫士卒,得其死力,每乘塞用兵,所向必克,威名震北邊,故十餘年間契丹不敢南牧。

昭度は西京作坊使に至る。淳化中、通遠軍を知り、罪有りて当に棄市すべし、死を減じて商州に流す。

原文昭度至西京作坊使。淳化中,知通遠軍,有罪當棄市,減死流商州。

馬仁瑀

原文馬仁瑀

馬仁瑀は大名府夏津県の人である。十余歳の時、父が学問をさせようとしたが、すぐに逃げ帰った。また郷校に遣わして『孝経』を習わせたが、十余日経っても一字も覚えられなかった。博士が鞭打つと、仁瑀は夜中に独りで往き学堂を焼き、博士は辛うじて身一つで逃れた。常に里中の数十人の子供たちを集め、彼らと遊び、行陣の形を整え、自ら将軍と称し、日々彼らと約束を結び、遅刻した者を鞭打つと、子供たちは皆畏れて服従した。また果物を買い均しく与え、ますます親しみ付き従った。成長すると、弓射に優れ、二百斤の弓を引いた。

原文馬仁瑀,大名夏津人。十餘歲時,其父令就學,輒逃歸。又遣於鄉校習《孝經》,旬餘不識一字。博士笞之,仁瑀夜中獨往焚學堂,博士僅以身免。常集里中群兒數十人,與之戲,為行陣之狀,自稱將軍,日與之約,鞭其後期者,群兒皆畏伏。又市果均給之,益相親附。及長,善射,挽弓二百斤。

後漢の乾祐年間、周の太祖が鄴に鎮守した時、仁瑀は十六歳で、その麾下に属することを願った。周の太祖は平素よりその勇猛を聞いており、会うと大いに喜び、側近に留め置いた。広順初年、内殿直に補任された。世宗が即位すると、苑中で衛士に弓射を習わせたが、仁瑀の弓の力が最も強く、発する矢は多く命中したため、錦袍と銀帯を賜った。折しも太原の劉崇が侵入し、世宗が親征して高平に至ると、周軍は不利となり、諸将の多くは退却した。仁瑀は衆に言った、「主君が辱められれば臣は死す、我々は何の役に立つのか」と。そこで弓を引き馬を躍らせ、身を挺して陣を出て賊を射、数十人を斃したので、士気はますます奮い、大軍がこれに乗じ、劉崇は遂に大敗した。世宗が上党に至ると、軍律を失った罪で誅された諸将は七十余人に及んだ。仁瑀を抜擢して弓箭控鶴直指揮使とし、京に還ると、また散指揮使に遷した。淮南征伐に従い、楚州に至り、水砦を攻めた。砦中に百尺余の高さの飛楼が建てられ、世宗がこれを眺めると、距離はほぼ二百歩あり、楼上の見張りの兵卒が声を厲して罵ったので、世宗は大いに怒り、側近に射させたが、遠くて届かなかった。仁瑀が弓を引き絞り満たすと、弦の響きに応じて(兵卒は)倒れた。淮南平定の時、身に数十の傷を受け、良薬を賜り、内殿直都虞候に遷った。また三関平定に従った。恭帝が即位すると、詔により太祖の北伐に従った。

原文漢乾祐中,周祖鎮鄴,仁瑀年十六,願隸帳下,周祖素聞其勇,既見,甚喜,留置左右。廣順初,補內殿直。世宗嗣位,命衛士習射苑中,仁瑀弓力最勁,而所發多中,賜錦袍、銀帶。會太原劉崇入寇,世宗親征至高平,周師不利,諸將多引退。仁瑀謂眾曰:「主辱臣死,安用我輩!」乃控弦躍馬,挺身出陣射賊,斃者數十人,士氣益振,大軍乘之,崇遂敗績。世宗至上黨,諸將坐失律誅者七十餘人。擢仁瑀為弓箭控鶴直指揮使,及還京,又遷散指揮使。從征淮南,至楚州,攻水砦。砦中建飛樓高百尺餘,世宗觀之,相去殆二百步,樓上望卒厲聲嫚罵,世宗怒甚,命左右射之,遠莫能及。仁瑀引滿,應弦而顛。及淮南平,身被數十創,賜以良藥,遷內殿直都虞候。又從平三關。恭帝嗣位,詔從太祖北伐。

初め佐命の功により散員都指揮使を授かり、貴州刺史を領し、まもなく鉄騎右廂都指揮使に遷り、また虎捷左廂都指揮使となり、扶州団練使を領した。沢州・潞州平定に従い、功により常州防禦使を領し、龍捷左廂都指揮使に改めた。建隆二年、岳州防禦使を領するよう改め、まもなくまた漢州を領するよう移された。

原文初以佐命功授散員都指揮使,領貴州刺史,俄遷鐵騎右廂都指揮使,又為虎捷左廂都指揮使,領扶州團練使。從平澤、潞,以功領常州防禦使,改龍捷左廂都指揮使。建隆二年,改領岳州防禦使,俄又移領漢州。

初め、詔により仁瑀らが荊湖の諸郡を領したが、数年を経ずしてその地を回復した。この時、蜀を征伐しようとし、また詔により川・峡の諸郡を領し、遂にこれを平定した。先に、薛居正が貢挙を掌った時、仁瑀は私に託した者(の合格)を囑したが、榜が出るとその人物はいなかった。聞喜宴の日、仁瑀は酒が酣になると、託した者を連れて居正の許に至り厳しく責めた。御史中丞劉溫叟に弾劾されたが、帝は寛大に扱った。王継勳は后族として驕り恣に、将帥を凌ぎ蔑ろにし、人々は皆避けた。独り仁瑀は言葉の調子で譲らず、かつて袖を捲し腕を露わにして殴ろうとした。折しも帝が郊外で講武を行おうとしたので、遂にお互いに謀ろうとし、各々配下の兵に命じて密かに白梃を買わせた。太祖は密かにこれを知り、詔して講武を中止し、仁瑀を出して密州防禦使とした。

原文初,詔仁瑀等領荊湖諸郡,不數歲,復其地。至是,將征蜀,又詔領川、峽諸郡,遂平之。先是,薛居正知貢舉,仁瑀私囑所與者,榜出,無其人。聞喜宴日,仁瑀酒酣,攜所囑者詣居正切責之。為御史中丞劉溫叟所劾,帝優容之。王繼勳以后族驕恣,淩蔑將帥,人皆引避。獨仁瑀詞氣不相下,嘗攘臂欲毆之。會帝將講武郊外,遂欲相圖,各勒所部兵私市白梃。太祖密知之,詔罷講武,出仁瑀為密州防禦使。

太祖が晋陽を征した時、仁瑀に命じて師を率い辺境を巡らせ、上谷・漁陽に至った。契丹は平素より仁瑀の名を聞いており、出撃せず、そこで兵を放って大いに掠め、生口・牛羊数万を捕虜とした。車駕が還ると、仁瑀は治所に帰った。翌年、群盗が兗州で起こり、賊首の周弼・毛襲は甚だ勇猛で、風貌も奇偉であり、周弼は「長脚龍」と号した。監軍が討捕したが数度不利となり、詔して仁瑀に掩撃させた。仁瑀は麾下十余の兵卒を率いて泰山に入り、周弼を擒にし、その徒党を尽く捕え、魯の郊は遂に寧かになった。

原文太祖征晉陽,命仁瑀率師巡邊,至上谷、漁陽。契丹素聞仁瑀名,不敢出,因縱兵大掠,俘生口、牛羊數萬計。駕還,仁瑀歸治所。明年,群盜起兗州,賊首周弼、毛襲甚勇悍,材貌奇偉,弼號曰「長腳龍」。監軍討捕數不利,詔仁瑀掩擊。仁瑀率帳下十餘卒入泰山,擒弼,盡獲其黨,魯郊遂寧。

開宝四年、瀛州防禦使に遷った。兄の子がかつて酔って誤って平民を殺し、獄に繋がれて死罪に当たった。民の家は自ら言うに、宿怨があるわけではなく、ただ過誤である、過失殺傷として論じてほしいと願った。仁瑀は言った、「私は長吏でありながら、兄の子が人を殺す、これは権勢を頼むものであって、過失ではない。どうして私的な親族のため国法を乱すことができようか」と。そこで律に照らして論じ、民の家に布帛を与えて棺や収殮の具とした。太平興国初年、遼州知州に移った。四年、車駕が太原を征し、仁瑀に命じて成州刺史慕容超・飛龍使白重貴・八作使李継昇と分かれて城を攻めさせた。范陽征伐の時、仁瑀に命じて禁兵を率い盧龍の北で契丹を撃たせ、契丹兵は奔り潰れた。師が還ると、朔州観察使に遷り、瀛州事を判じた。七年、卒去、五十歳。河西軍節度使を追贈し、葬事は官が給した。

原文開寶四年,遷瀛州防禦使。兄子嘗因醉誤殺平民,繫獄當死。民家自言非有宿憾,但過誤爾,願以過失殺傷論。仁瑀曰:「我為長吏,而兄子殺人,此怙勢爾,非過失也。豈敢以私親而亂國法哉?」遂論如律,給民家布帛為棺斂具。太平興國初,移知遼州。四年,車駕征太原,命仁瑀與成州刺史慕容超、飛龍使白重貴、八作使李繼昇分兵攻城。及征范陽,命仁瑀率禁兵擊契丹於盧龍北,契丹兵奔潰。師還,遷朔州觀察使,判瀛州事。七年,卒,年五十。贈河西軍節度,葬事官給。

論じて言う。宋初、交州・広州・剣南・太原は各々大号を称し、荊湖・江表はただ貢奉を通じるのみで、契丹は相抗し、西夏は未だ服さなかった。太祖は常に帥を謀ることに意を注ぎ、李漢超を関南に屯させ、馬仁瑀を瀛州に守らせ、韓令坤を常山に鎮め、賀惟忠を易州に守らせ、何継筠に棣州を領させて、北敵を拒ませた。また郭進に西山を控えさせ、武守琪を晋州に戍らせ、李謙溥を隰州に守らせ、李継勲を昭義に鎮めて、太原に備えさせた。趙贊を延州に屯させ、姚内斌を慶州に守らせ、董遵誨を環州に屯させ、王彦昇を原州に守らせ、馮継業を霊武に鎮めて、西夏に備えさせた。その一族が京師にいる者は、手厚く撫でた。郡中の筦榷の利は、悉く彼らに与えた。貿易を恣にさせ、通過する征稅を免じ、亡命を召募して爪牙とすることを許した。凡そ軍中の事は皆便宜を得、来朝する毎に必ず召し対して座を命じ、厚く飲食を供し、賜与を与えて遣わした。これにより辺臣は資財に富み、死士を養うことができ、間諜として使い、敵情を洞知した。その侵入に及んでは、伏兵を設けて掩撃し、多く勝利を得、二十年間西北の憂いがなかった。これにより将を命じ師を出し、西蜀を平げ、湖湘を拓き、嶺表を下し、江南を克し、向かう所志を遂げたのは、誠に赤心を推して群下を馭するに至った所以である。李進卿・楊美の如きもまた専ら師を率いて西征し、而して楊美は北海に居て、楽易をもって民心を結び、誠に為政の本を得た。延渥・承矩・守恩・允正は皆先業を継ぎ、勳名を著した。承矩は屯田を議し、和好を賛し、その謀は甚だ遠大であった。守恩は果敢にして事に死した。宋の武功は、ここに於いて盛んとなったのである。

原文論曰:宋初,交、廣、劍南、太原各稱大號,荊湖、江表止通貢奉,契丹相抗,西夏未服。太祖常注意於謀帥,命李漢超屯關南,馬仁瑀守瀛州,韓令坤鎮常山,賀惟忠守易州,何繼筠領棣州,以拒北敵。又以郭進控西山,武守琪戍晉州,李謙溥守隰州,李繼勳鎮昭義,以禦太原。趙贊屯延州,姚內斌守慶州,董遵誨屯環州,王彥昇守原州,馮繼業鎮靈武,以備西夏。其族在京師者,撫之甚厚。郡中筦榷之利,悉以與之。恣其貿易,免其所過征稅,許其召募亡命以為爪牙。凡軍中事皆得便宜,每來朝,必召對命坐,厚為飲食,錫齎以遣之。由是邊臣富貲,能養死士,使為間諜,洞知敵情;及其入侵,設伏掩擊,多致克捷,二十年間無西北之憂。以至命將出師,平西蜀,拓湖湘,下嶺表,克江南,所向遂志,蓋能推赤心以馭群下之所致也。若李進卿、楊美亦專師西征,而美居北海,以樂易結民心,誠得為政之本。延渥、承矩、守恩、允正皆紹先業,以勳名著。承矩議屯田,贊和好,其謀甚遠。守恩以果敢死事。宋之武功,於斯為盛焉。