宋史

列傳第三十一 楊業子:延昭 等 附:王貴 荊罕儒從孫:嗣 曹光實從子:克明 張暉 司超

楊業

楊業はへい州太原の人である。父の信は、漢の麟州刺史であった。業は幼にして倜儻任侠、騎射に長け、狩猟を好み、獲物は人一倍であった。かつてその仲間に言ったことがある。「我れ他日に将となりて兵を用うるも、亦た鷹犬を用いて雉兔を逐うが如きのみ。」弱冠にして劉崇に仕え、保衛指揮使となり、ぎょう勇をもって聞こえた。累遷して建雄軍節度使に至り、屡々戦功を立て、向かうところ克捷し、国人は「無敵」と号した。

太宗が太原を征したとき、平素よりその名を聞き、嘗て購い求めた。既にして孤壘甚だ危うく、業はその主の継元を勧めて降伏し、生聚を保たしめた。継元が既に降ると、帝は中使を遣わして業を召し見、大いに喜び、右領軍衛大將軍とした。師が還ると、鄭州刺史を授けた。帝は業が辺事に老練であるとして、再び代州を兼ねて三交駐泊兵馬都部署に遷し、帝は密封した橐装を賜い、賜与は甚だ厚かった。時に契丹が雁門に入ると、業は麾下の数千騎を率いて西陘より出で、小陘を経て雁門北口に至り、南に向かって背を撃ち、契丹は大敗した。功により雲州観察使に遷り、仍って鄭州・代州を判じた。これより、契丹は業の旌旗を見るや即ち引き去った。主将で辺境を戍る者は多くこれを忌み、密かに上書して謗りその短を斥ける者があったが、帝はこれを見て皆問わず、その奏を封じて業に付した。

雍熙三年、大兵北征し、忠武軍節度使潘美を以て雲・応路行営都部署とし、業に命じてこれを副わしめ、西上閤門使・蔚州刺史王侁と、軍器庫使・順州団練使劉文裕とをしてその軍を護らしめた。諸軍は連ねて雲・応・寰・朔の四州を抜き、師は桑乾河に次いだ。時に曹彬の師が利あらず、諸路は班師し、美らは代州に帰った。

未だ幾ばくもせず、詔して四州の民を内地に遷らしめ、美らに命じてその部の兵を以てこれを護らしめた。時に契丹の国母蕭氏とその大臣耶律漢寧・南北皮室及び五押惕隠が衆十余万を率い、再び寰州を陥とした。業は美らに言うには、「今、遼兵は益々盛んにして、戦うべからず。朝廷はただ数州の民を取れと命ずるのみ。ただ兵を率いて大石路に出で、先ず人を遣わして密かに雲・朔州の守将に告げ、大軍が代州を離るる日を俟ち、雲州の衆をして先に出でしめよ。我が師が応州に次げば、契丹必ず来たりて拒まん。即ち朔州の民をして城を出で、直ちに石碣谷に入らしめよ。強弩千人を遣わして谷口に列し、騎士を以て中路に援けば、則ち三州の衆は万全を保たん。」と。侁はその議を沮みて曰く、「数万の精兵を率いてかくの如く畏懦す。ただ雁門北川中に趨き、鼓行して往くべし。」と。文裕も亦たこれを賛成した。業曰く、「不可なり。これは必ず敗るるの勢いなり。」と。侁曰く、「君侯は素より無敵と号す。今、敵を見て逗撓し戦わず、他志あるに非ずや。」と。業曰く、「業は死を避くるに非ず。時に未だ利あらざるが故に、徒らに士卒を殺傷して功を立てず。今、君は業を以て死せざるを責む。諸公に先んずべし。」と。将に行かんとして、泣きて美に謂いて曰く、「この行は必ず利あらず。業は太原の降将、分として死すべきなり。上は殺さず、連帥を以て寵し、兵柄を授く。敵を縦して撃たざるに非ず。その便を伺い、将に尺寸の功を立てて国恩に報いんとす。今、諸君は業を以て敵を避くると責む。業は当に先ず敵に死すべし。」と。因りて陳家谷口を指して曰く、「諸君はここに歩兵強弩を張り、左右の翼として援け、業の転戦してここに至るを俟ち、即ち歩兵を以て挟撃してこれを救わば、然らずば、遺類無からん。」と。美は即ち侁とともに麾下の兵を率いて谷口に陣した。寅より巳に至るまで、侁は人をして托邏臺に登らせてこれを望ましむ。契丹敗走せりと思い、その功を争わんと欲し、即ち兵を率いて谷口を離れた。美は制することができず、乃ち交河に沿って西南に二十里を行く。俄かに業の敗れたるを聞き、即ち兵を麾いて却走した。業は力戦し、午より暮に至り、果たして谷口に至った。人無きを見れば、即ち膺を拊って大いに慟哭し、再び帳下の士を率いて力戦し、身に数十創を受け、士卒は殆ど尽き、業は猶お手ずから数十百人を刃した。馬は重傷を負って進むこと能わず、遂に契丹に擒えられ、その子の延玉も亦た没した。業は因りて太息して曰く、「上は我を遇すること厚く、賊を討ち辺を捍ぎて報いんことを期す。而るに反って奸臣に迫られ、王師の敗績を致す。何の面目か生きんことを求むるに足らんや。」と。乃ち食わず、三日にして死した。

帝これを聞き、痛惜すること甚だしく、俄かに詔を下して曰く、「干戈を執りて社稷を衛い、鼓鼙を聞きて将帥を思う。力を尽くして敵に死し、節を立てて倫を邁る。追崇有らざれば、何を以て義烈を彰さんや。故雲州観察使楊業は誠は金石に堅く、気は風雲を激す。隴上の雄才を挺で、本より山西の茂族なり。自ら戎乗に委ね、戦功を資く。方に貔虎の師を提げ、以て辺陲の用に效せんとす。而して群帥は約を敗り、援兵は前らず。独り孤軍を以て、沙漠に陷る。勁果猋厲、死有りて回らず。古人に求め、何を以てかこれを加えん。是を用いて特び徽典を挙げ、以て遺忠を旌す。魂にして霊有らば、我が深意を知れ。太尉・大同軍節度を贈るべく、その家に布帛千匹・粟千石を賜う。大将軍潘美は三官を降し、監軍王侁は名を除き金州に隷し、劉文裕は名を除き登州に隷す。」と。

業は書を知らず、忠烈武勇にして智謀有り。攻戦を練習し、士卒と甘苦を同じくす。代北は苦寒にして、人多く氈罽を服す。業はただ纊を挟みて露坐し軍事を治め、傍らに火を設けず、侍者は殆ど僵仆すれども、業は怡然として寒色無し。政を為すこと簡易、下を御すること恩有り。故に士卒は用いらるるを楽んだ。朔州の敗に、麾下尚お百余人あり。業これに謂いて曰く、「汝等各々父母妻子有り、我と倶に死するは益無し。走り還りて天子に報ぜよ。」と。衆皆感泣して去ることを肯わず。淄州刺史王貴は数十人を殺し、矢尽きて遂に死し、余も亦た死し、一人として生還する者無し。聞く者皆流涕した。業既に没すと、朝廷はその子供奉官の延朗を録して崇儀副使とし、次子の殿直延浦・延訓は倶に供奉官とし、延環・延貴・延彬は倶に殿直とした。

子 延昭

延昭は、本名は延朗、後に改む。幼より沈黙寡言、児時の多くは戯れに軍陣を為し、業嘗て曰く、「この児は我に類す。」と。征行する毎に、必ずこれに従う。太平興国中、供奉官に補せられる。業が応・朔を攻むるに、延昭はその軍の先鋒となり、朔州城下に戦い、流矢臂を貫くも、闘い益々急なり。崇儀副使として出でて景州を知る。時に江・淮に凶饉有り、命ぜられて江・淮南都巡検使となる。崇儀使に改め定遠軍を知り、保州縁辺都巡検使に徙り、就いて如京使を加えられる。

咸平二年の冬、契丹が辺境を侵し、延昭は時に遂城に在った。城は小さく備えがなく、契丹はこれを攻めて甚だ急であり、長く数日を囲んだ。契丹は毎度督戦し、衆の心は危惧した。延昭は悉く城中の丁壮を集めて城壁に登らせ、武器と甲冑を分けて護守させた。時に大寒に会い、水を汲んで城上に灌ぐと、朝には悉く氷となり、堅く滑って登ることができず、契丹は遂に潰走し去り、その鎧仗を獲ること甚だ多かった。功により莫州刺史に拝された。時に真宗は大名に駐蹕し、傅潜は重兵を握って中山に頓していた。延昭は楊嗣・石普と屡々兵を益して戦うことを請うたが、潜は許さなかった。潜が罪に抵るに及んで、延昭を行在に赴かせ召し、屡々対面を得て、辺境の要務を訪ねた。帝は甚だ悦び、諸王に指示して曰く、「延昭の父業は前朝の名将なり。延昭は兵を治め塞を護るに父の風有り、深く嘉すべし」と。厚く賜い、遣わして還らしめた。この冬、契丹が南侵すると、延昭は鋭兵を羊山の西に伏せ、北より掩撃し、且つ戦い且つ退いた。山西に及ぶと、伏兵発し、契丹の衆は大敗し、その将を獲て、首を函にして献じた。本州団練使に進み、保州の楊嗣と並び命ぜられた。帝は宰相に謂いて曰く、「嗣及び延昭は、並びに疎外より出で、忠勇を以て自ら効す。朝中に忌嫉する者衆し。朕は力を保庇に尽くし、以て此に及ぶ」と。五年、契丹が保州を侵すと、延昭は嗣と兵を提げてこれを援けたが、未だ列を成さず、契丹に襲われ、軍士多く喪失した。李継宣・王汀を命じて代わり還らせ、その罪を治めんとした。帝曰く、「嗣らは素より勇を以て聞こえ、その後効を収めんとす」と。即ちこれを宥した。六年夏、契丹また望都を侵すと、継宣は逗遛して進まず、坐して秩を削られ、延昭を再用して都巡検使とした。時に防秋の策を講じ、詔して嗣及び延昭に利害を条上せしめ、また寧辺軍部署に徙した。

景德元年、詔して延昭の兵を益し満万人とし、もし契丹の騎兵が入寇すれば、則ち静安軍の東に屯せしむ。莫州部署石普に馬村の西に屯して屯田を護らしむ。黒盧口・万年橋の敵騎の奔衝する路を断ち、仍って諸路の兵を会して掎角となり追襲せしめ、魏能・張凝・田敏に奇兵を以てこれを牽制せしむ。時に王超は都部署たり、聴かず隷属せず。延昭上言して曰く、「契丹は澶淵に頓し、北境を去ること千里、人馬俱に乏し、衆と雖も敗れ易し。凡そ剽掠有るは、率ね馬上に在り。願わくは諸軍を飭し、その要路を扼せば、衆は殲すべし。即ち幽・易数州は、襲い取り得べし」と。奏入るも報いず、乃ち兵を率いて遼境に抵り、古城を破り、俘馘甚だ多し。

和を請うに及び、真宗は辺州の守臣を選び、御筆を録して宰相に示し、延昭を命じて保州を知らしめ兼ねて縁辺都巡検使とす。二年、守禦の労を追叙し、本州防禦使に進め、俄かに高陽関副都部署に徙す。屯所に在ること九年、延昭は吏事に達せず、軍中の牒訴は、常に小校の周正を遣わしてこれを治めしむ。頗る正に罔かれ、因縁して奸を為す。帝これを知り、正を斥けて営に還らしめ、延昭を戒む。大中祥符七年、卒す。年五十七。

延昭は智勇善戦し、得たる奉賜は悉く軍を犒い、未だ嘗て家事を問わず。出入り騎従すること小校の如く、号令厳明にして、士卒と甘苦を同じくし、敵に遇えば必ず身先んじ、行陣克捷すれば功を下に推す。故に人用いらるるを楽しましむ。辺防に在ること二十余年、契これを憚り、目して楊六郎と為す。卒するに及び、帝嗟悼し、中使を遣わして櫬を護り帰らしむ。河朔の人多く柩を望みて泣く。その三子の官を録し、その常従・門客もまた芸を試み甄叙す。子に文広有り。

孫 文広

文広は、字は仲容。班行として賊の張海を討つ功有り、殿直を授かる。范仲淹が陝西を宣撫し、語りてこれを奇とし、麾下に置く。狄青に従い南征し、徳順軍を知り、広西鈐轄となり、宜・邕二州を知り、累遷して左蔵庫使・帯御器械となる。治平中、宿衛の将を議す。英宗曰く、「文広は名将の後、且つ功有り」と。乃ち成州団練使・龍神衛四廂都指揮使に擢で、興州防禦使に遷る。秦鳳副都総管韓琦、篳篥城を築かしむ。文広は声言して噴珠に城すとし、衆を率いて急ぎ篳篥に趣き、暮れに比べてその所に至れば、部分既に定まる。遅明、敵騎大いに至り、犯すべからざるを知りて去り、書を遺して曰く、「当に国主に白し、数万の精騎を以て汝を逐わん」と。文広、将を遣わしてこれを襲わしめ、斬獲甚だ多し。或いはその故を問う。文広曰く、「先んずれば人の気を奪う。此れ必ず争うの地、彼もし知りてこれを拠れば、則ち図るべからず」と。詔書褒諭し、襲衣・帯・馬を賜う。涇州・鎮戎軍を知り、定州路副都総管となり、歩軍都虞候に遷る。遼人代州の地界を争う。文広、陣図並びに幽燕を取るの策を献ず。未だ報いずして卒す。同州観察使を贈られる。

附 王貴

王貴は、并州太原の人。広順初、衛士を補う。宋初、累遷して散員都指揮使・馬歩軍都軍頭に至り、勝州刺史を領す。太平興国二年、出でて淄州刺史と為る。詔を受けて潘美に従い北征し、沁州を攻め、頗る戦功を立てる。楊業に従うに及び、遼兵に囲まれ、親しく数十人を射殺し、矢尽き、空弮を張り又数人を撃殺し、遂に害に遇う。年七十三。その子の文晟を供奉官に、文昱を殿直に擢づ。

荊罕儒

荊罕儒は、冀州信都の人。父は基、王屋の令。罕儒は少にして無頼、趙鳳・張輦と群盗を為す。晋の天福中、相率いて范陽に詣り、質を燕王趙延寿に委ね、親兵を掌るを得る。開運末、延寿は契丹主徳光に従い汴に入り、罕儒を署して密州刺史と為す。漢の初、山南東道行軍司馬に改む。周の広順初、率府率と為り、朝請に奉じ、貧しくして振るわず。顕徳初、世宗高平に戦い、命を用いざる者を戮し、因って驍勇の士を求む。通事舎人李延傑、罕儒を以て聞こゆ。即ち行在に召し赴かせ、命じて招收都指揮使と為す。太原を征するに会い、命じて罕儒に歩卒三千を率いて先ず敵境に入らしむ。罕儒、人に束芻を負わせて径ちに太原城に趨かせ、その東門を焚く。控鶴弩手・大剣直都指揮使に擢づ。淮南を平らぐに従い、光州刺史を領し、泰州に改め、下蔡守禦都指揮使兼舒・蘄二州招安巡検使と為る。四年、泰州初めて下る。真に刺史を拝し兼ねて海陵・塩城両監屯田使。明年三月、世宗泰州に幸す。罕儒を以て団練使と為し、金帯・銀器・鞍勒馬を賜う。六年春、軍吏耆艾、闕に詣りて留まるを請う。恭帝詔してこれを褒む。

建隆の初め、鄭州を防禦に昇格させ、罕儒をその使とし、晋州兵馬鈐轄に改めた。罕儒は勇を恃み敵を軽んじ、嘗て騎兵を率いて深く晋の境に入り、人々多くは壁を閉じて出ず、虜獲甚だ衆し。是の年冬、復た千余騎を領して汾州城下に至り、其の草市を焚き、兵を案じて退く。夕べ京土原に次ぐ。劉鈞は大将郝貴超を遣わし万余人を領して罕儒を襲わしむ。黎明に之に及ぶ。罕儒は都監・氈毯副使閻彦進を遣わし兵を分かち以て貴超を禦がしむ。罕儒は錦袍に甲を裹み胡床に据わり士を享け、方に羊の臂臑を割きて啖わんとし、彦進の小しく却くを聞くや、即ち馬に上り兵を麾いて径に賊の鋒を犯す。并人は戈を攅りて之を舂き、罕儒猶格闘し、手ずから十数人を殺し、遂に害に遇う。劉鈞は素より罕儒の勇を畏れ、常に生け捕りにせんと欲し、其の死を聞くに及んで、罕儒を殺した者を求めて之を戮す。太祖痛惜已まず、其の子守勳を擢て西京武德副使と為す。因りて京土原の命に效わざる者を索め、慈州團練使王繼勳を黜して率府率と為し、閻彦進を殿直と為し、其の部下龍捷指揮使石進德等二十九人を斬る。

罕儒は財を軽んじ施すを好む。泰州に在りては、煮海の利有り、歳入鉅万、詔して十に其の八を収むるを聴くも、用猶足らず。家財は入るに籍有り、出すには其の数を問わず。供奉官張奉珪有り、泰州に使い、自ら後唐の張承業の子と称す。罕儒曰く「我が平生張特進の名を聞く、幸いに其の子を識る」と。厚く礼遇を加え、銭五十万、米千斛を遺う。

罕儒は書を知らざれども、儒士を礼接するを好む。進士趙保雍、登科して覆落し、海陵に客遊す。罕儒其の欲する所を問う。保雍、将に京師に帰らんとし、且つ江に縁る榷務にて絲を以て茗を易うれば厚利有りと言う。罕儒立って主蔵の奴を召し、蔵中の絲を籍するを令す。四千余両を得、尽く之を与う。然れども勇を好み善く戦い、勝負を顧みず。常に太原を削平せんと欲し、志未だ果たさずして敗に及び、人皆之を惜しむ。罕儒の兄は延福。延福の孫は嗣。

從孫 嗣

嗣は、乾徳の初め、募に応じて控鶴卒と為り、李繼勳に従い河東を討つ。繼勳は悍勇百人を択び、間道を以て洛陽らくよう砦を截つ。嗣は行間に出でて行かんことを請い、手ずから五十余級を斬り、賊は砦を焚きて宵に遁る。進みて汾河に薄る。賊将楊業、橋路を扼す。嗣は衆と転戦し、賊は橋を逾えて退く。業の所部の兵千計を殺し、業の従騎を射中て、旗鼓鎧甲を獲ること甚だ衆し。業は城を退きて保つ。進みて南門を焚き、羊馬城を奪い、矢は面に集る。賊数千、夜来たりて砦に薄る。繼勳は勇敢五百人を選び接戦せしむ。而して嗣は其の冠たり。旦に及び、数合戦い、斬馘多く所あり。

太祖に従い太原を征す。賊来たりて拒ぎ、洞子を焚く。殿前楊信を遣わし百人を領して之を援わしむ。嗣は之に預かり、率先して陣を陷る。召見せられ、御龍直に補す。太平興国の初め、三遷して天武軍校に至る。太宗再び太原を征す。嗣自ら陳べて願わくは一隊を率いて先登せんと。命じて城西の洞子を主らしむ。車駕師を巡る。嗣は城に登り、手ずから数賊を刃し、足は双箭を貫き、手炮に中り、二歯を折る。太宗之を見て、亟に召して錦袍・銀帯を賜う。幽州に従征し、殿前崔翰に隷し、三十級を斬り、龍猛副指揮使に補す。

五年、契丹雄州を侵し、龍灣堤に拠る。嗣は袁繼忠に隷す。繼忠、千人の力を率いて戦い路を奪わしむを令す。内侍州に至り城壘を閲する者有り、郛外に出づ。敵進みて之を囲む。亟に兵を出して接戦し、十数合、騎卒七百余を斬る。嗣の軍夜相失い、古城莊の外に在り、三鼓に敵の囲を突き、莫州城下に壁す。又た百人を領して敵の望櫓を斧し、五十級を斬る。敵は橋を界河に為し、将に遁らんとす。嗣之を邀撃し、殺獲甚だ衆し。六年、崔彦進に従い契丹を静戎の北に捍ぎ、慎興口に砦す。彦進は嗣を遣わし其の部を率いて河を度り、契丹と戦い、之を敗り、奔を追うこと二十余里。八年、李繼遷辺を寇す。嗣は袁繼忠・田欽祚に従い三叉口に戍り、前鋒と為り、賊千余を斬り、之を追い、牛羊・鎧甲・弓矢数千計を獲る。進みて萬井口・狐路谷に至る。余賊復た来たりて戦を請う。初め雄武千人を以て後殿と為す。賊に掩わる。繼忠は嗣に命じて之を援わしむ。凡そ数戦し、始めて雄武と隊を合わす。因りて陣を列ね格闘し、復た人馬七百余を奪う。欽祚夜還り、山に依りて営を為す。賊亦其の下に砦す。勁卒五十を募り往きて之を襲わしむ。嗣は其の帥と為る。賊の所に抵り、百余りを刺殺し、其の砦を焚きて還る。詔して錦袍・銀帯を賜う。

雍熙三年、田重進・譚延美に従い師を率いて遼境に入り、疾く飛狐口に戦い、遼師利あらず。重進は全師を引いて合撃し、遼騎引き去る。進みて飛狐城の北に至る。遼将大鵬翼衆を率いて復た至る。重進陣を東偏に圧し、数戦勝たず。嗣を命じて西偏に出でしめ、兵を麾いて山崖に薄き、短兵を以て接戦せしむ。遼兵敗れ、崖に投じて下る。手ずから百余級を斬る。散卒千余り野に在り。嗣之を呵止し、悉く弦を断ち筈を折りて来降す。河槽に追い至り、復た撃退す。余衆は土嶺に屯す。裨将黄明と戦い勝たず、将に退かんとす。嗣之に謂いて曰く「汝暫く兵を此に頓し、我が為に声援と為れ。我当に此の嶺を奪わん」と。遂に力戦し、奔を追うこと五十余里、倉頭に抵りて還る。又た招收の卒千人を領し、倉頭・小治の二砦を克つ。黄明と戦い、直谷砦を克ち、嗣を命じて焉に屯せしむ。数日、遼人復た師を致す。重進と戦い、奔突往来し、大軍頗る擾る。重進は嗣を召し合戦せしめ、悉く之を走らしめ、礮具・鎧胄を奪う。賊は夜を乗じて復た直谷・石門の二砦を囲む。重進は嗣を遣わし精兵五百を以て之を済わしむ。嗣曰く「敵二万余、今援師甚だ寡し、囲を解くこと難し」と。重進之を頗る憂う。嗣曰く「譚師は小治に屯し、兵二千を綰く。願わくは間道を以て往き、其の策応を邀えん」と。中夜、匹馬にて延美に詣る。延美曰く「敵勢此の若きは、何ぞ解くべけんや」と。嗣曰く「請う全軍を移して平川に就き、旗を植え隊を立て、別に三二百人を択び白旗を道側に張らん。彼れ旗幟の綿亙遠く甚だしきを見て、大軍継いて至ると謂わん。嗣自ら其の部五百を以て疾く駆り往きて鬥わば、必ず其の砦を克たん」と。延美之を許す。一日に凡そ五七戦し、遼兵遂に引き去る。咸く嗣の料る所の如し。

蔚州の降るや、重進先ず嗣に命じ勇士数十人を率いて縋り入り、守将を見て、其の実状を得しむ。翌日、将に降を受けんとす。而して敵は反って大軍の出づる路を拒む。遂に之と鬥い、殺傷甚だ衆し。屡び縋りて城に入り、守将の帰服する者を取る。重進の壘、糧運頗る乏し。嗣は降卒を遣わし州の廩を輦して之を済わしむ。遼の援兵大いに至る。副都指揮使江謙妄言して衆を惑わす。嗣即ち之を斬る。悉く兵を収め輜重を斂めて重進の砦に還り、遼人と転戦す。時に軍校五人、其の四は悉く鬥い死す。大嶺に至り、嗣之と戦い、敗走せしむ。師還る。太宗便殿に引見す。重進其の労有るを言う。本軍都虞候に補す。

また李継隆に従って北平砦において敵を防ぎ、蒲城に赴かんとしたが、途中で敵に遭遇し、激戦して、捕虜と鹵獲品を非常に多く得た。また鸞女祠において戦い、継隆は歩卒二千を遣わし、定州古城に伏せさせたが、敵に攻撃され、命じて嗣がこれを救援した。唐河橋に至り、嗣は橋の通路を扼して出戦し、敵の包囲を数重も解き、伏兵と合流し、三隊に分かれて、水を背にして陣を布いた。敵将の于越が百余隊の騎兵を率いて烽火台に臨んで戦いを求めたので、嗣は兵を整えてこれと戦い、数度の合戦の後、継隆と会することができ、また東側に陣を布き、これを大いに破った。継隆がこれを上聞すると、詔してこれを嘉賞し、本軍都指揮使に遷し、澄州刺史を兼ねた。

至道二年、御前忠佐馬歩軍頭を加えられ、定州に駐屯した。遼人が侵入したので、范廷召に隷属し、偏師を率いて嘉山において遼兵を防いだ。廷召が高陽に移ると、嗣に兵二千を率いて殿軍となることを命じた。平敵城を過ぎると、遼の兵衆十余万が来襲し、嗣はたびたび出戦した。桑賛と秦翰が救援に来ると、夜の二更に、敵が再び来襲したので、嗣は言った、「彼らは夜戦に不利である、我らはその砦を破り、大軍に合流すべきである。」即ち賛・翰と合勢し、配下に命じて敵の炬火の多いところを望見して力を合わせて突撃させ、翌朝、瀛州に至った。咸平三年、本州団練使を加えられ、郎山路都巡検使として出向し、蒲陰において敵の砦を破り、捕虜と鹵獲品を非常に多く得た。四年、嗣に万人を率いて西山路を遮断することを命じた。敵が急に到来したため、大軍は進むことができずに中止した。五年、真に蔡州団練使・趙州部署に任じられた。一年余りして、滄州に移った。この冬、遼人が侵入したので、命じて配下の兵を率いて斉州から淄州・青州に至り警備させた。景德初年、また劉漢凝・田思明とともに兵を率いて冀州に至り辺境を防ぐことを命じられた。まもなく澶州の行在所に赴いた。遼人が和を請うたので、再び任地に還された。鄆州・鳳翔・永興の部署を歴任した。車駕が亳州に行幸した際、留め置かれて旧城内同都巡検使となった。大中祥符七年、虢州防禦使・邠寧環慶副部署に改められ、卒した。嗣は行伍の間から起こり、功労によって方面の任に居り、百五十余戦を経て、没した。兄の子の信・貴はともに左侍禁となり、貴は内殿崇班に至った。

曹光実

曹光実は、雅州百丈の人である。父の疇は、しょくの静南軍使となり、邛崍を押さえて、蛮夷を防いだ。光実は若い頃から武勇に優れ、胆気があり、財を軽んじて施しを好み、細行に拘らず、意は豁如としていた。疇が卒すると、光実が職を嗣ぎ、永平軍節度管内捕盗游奕使に遷った。

乾徳年間、太祖は王全斌らに命じて蜀を平定させた。まもなく盗賊が群れをなして起こり、夷人の張忠楽という者は、かつて群れをなして攻撃・略奪を行い、かつ光実がその徒党を殺したことを恨み、数千の兵衆を率いて、夜中に急に到来し、その居宅を包囲し、鬨の声を上げて一斉に進んだ。光実は母を背負い、戈を揮って包囲を突破して出たので、賊衆は退いて近づかず、賊はその一族三百余人を殺した。また塚墓を発き、その棺槨を壊した。光実は全斌のもとに赴き、詳しく事の次第を告げ、冤憤を雪ぐことを誓った。当時蜀中の諸郡はまだ平定されておらず、そこで雅州の地形の要害を図示し、併せて用兵攻取の策を陳べ、官軍に先にこれを平定するよう請うた。全斌はその志を壮とし、兵を率いて先導するよう命じたところ、果たしてその城を攻克し、忠楽を捕らえて意を快くした。全斌はそこで光実を義軍都指揮使に任命した。残った賊寇はなお沈黎を占拠していたが、光実は配下の兵でこれをことごとく平定した。そこで光実をもって黎・雅二州の知州兼都巡検使とし、安集して労来し、蛮族はこれを懐いた。

六年の秋、全斌は彼を入朝させて京師に貢ぎ物を献上させ、そこで境内が安寧であることを言上し、義軍を罷めて農に帰することを乞うた。太祖は喜び、左右に謂って言った、「これは蜀中の傑俊である。」詔して殿に昇らせ、長く労問し、黎州刺史とした。開宝三年、唐州刺史に改めた。交州・広州が平定された後、群盗がまだ止まず、光実を嶺南諸州都巡検使とした。着任すると、群盗を追捕し、海辺はこれによって寧かになった。太平興国二年、そのまま本州団練使に遷った。車駕が河東を征した際、光実をもって威勝軍の事を知らしめ、軍糧を調達するよう命じた。光実は入朝して告げ、一旅の兵を率いて鋭気を奮って先鋒となることを願ったが、帝は言った、「物資・糧食の事は重要であり、それもまた力を尽くすに足る。」河東が平定されると、汾・遼・石・沁等州都巡検使に命じられた。五年、汝州団練使に改めた。大軍が北征した際、潘美と分かれて雁門から出撃した。光実は前鋒となり、敵に遭遇して迎撃し、これを破り、数千級を斬首し、優詔をもって嘉賞された。

李継捧が入朝した際、光実を銀・夏・綏・麟・府・豊・宥州都巡検使とした。継捧の弟の継遷は蕃落に逃れ込み、辺境の患いとなったので、光実は隙に乗じて掩襲して地斤沢に至り、捕虜と斬首を非常に多く得、その族帳を破り、継遷の母と妻及び牛羊一万にのぼるものを鹵獲した。継遷はかろうじて免れ、人を遣わして光実を欺いて言った、「私はたびたび敗走し、勢い窮まって自ら存立することができません、公は私の降伏を許されますか。」そこで誠意を示し、甥舅の礼を述べ、ある日に葭蘆川において降伏することを約した。光実はこれを信じ、かつその功を専有しようとして、人と謀らなかった。約束の日になると、継遷は先に伏兵を設け、十数人に近くの城まで来て光実を迎えさせ、光実は数百騎を従えてこれに赴いた。継遷が先導して北に行き、その地に至らんとした時、手を挙げて鞭を麾くと伏兵がこれに応じ、光実はそこで害に遇い、卒した。享年五十五。帝はこれを聞いて驚き悼み、賵賻を一等加え、その子の大理評事の克譲を右賛善大夫とし、克恭を殿直とした。淳化二年、また克己を奉職に任用し、後に内殿承制に至った。克広は閣門祗候に至った。従子に克明がいる。

従子 克明

克明は、字を堯卿という。生まれた時、ちょうど敵が百丈県を攻撃し、父の光遠が害に遇い、乳母が克明を抱いて葦蒲の中に匿い、難を免れた。成長すると、兵法を好み、騎射に優れ、従父の光実はこれを奇とした。衙内都虞候に補された。光実が葭蘆州において敵を撃ち、戦死した。克明は当時輜重を護って後方におり、光実の死を聞き、軍が乱れることを恐れ、秘して喪を発さなかった。陽に人を西から来させて光実の命として軍を銀州に還すと伝えさせ、ひそかに僕の張貴とともに敵中に入り、光実の屍体を獲得して還り、京師に葬った。これによって名が顕れた。

初め、蜀人が京師に留まる者は郷里に還ることを禁じられていたが、克明は母が老いているため、間道を通って帰った。李順が反乱を起こすと、克明が将家の子であり、かつ名があると聞き、官職で脅迫しようとした。克明は母を携えて山谷に遁れ、夜に神祠に止まったが、夢に人が叱って起きるよう言うのがあり、覚めて去ると、賊が果たして到来した。賊が雅州を陥落させると、克明は数万の衆を募って王師を迎え、そこで名山・火井・夾江等九県を回復した。嘉・眉・邛の三州に分兵し、七つの砦を立てて賊を遮った。また雅州を収復し、六十余人を斬り、賊将の何承禄らは雲南に逃走した。蜀が平定されると、西頭供奉官・黎州兵馬監押に抜擢された。残った賊寇がまだ止まないため、権邛州駐泊巡検を兼ねた。翌年、峡路の潰卒の鄧紹らがまた起こって雅州を攻撃したが、克明はまたこれを平定した。軍を還して邛州に至り、賊の王珂に遭遇し、延貢鎮において戦い、矛でこれを撃ち、左の踝に当てた。後にまた山下に伏兵を設け、数十騎で賊と交戦したが、克明は偽って敗走し、配下の兵が期に遅れ、伏兵が発動しなかった。克明は身を挺して逃走し、賊が急に追うので、大石に倚り弓を引いて三発射ち、三人を斃した。これによって難を免れた。入朝し、内殿崇班に改められ、温・台等七州都巡検使となった。

景德年間(1004-1007年)、蛮族が邕州を寇したため、供備庫副使に改められ、邕州知州となった。左江・右江の蛮洞三十六ヶ所を、克明はその酋長を召し寄せ、恩信をもって諭した。この年の承天節に、相率いて集まってきた。克明は慰撫し、衣服を出して与えると、感激して泣きながら去った。ただ如洪峒だけは険阻を恃んで来なかったので、克明は両江防遏使の黄衆盈に命じて兵を率いてこれを攻めさせ、その首領の陸木前を斬り、市に梟首した。

宜州の澄海軍校の陳進が反乱を起こした。時に鬱江が暴漲し、州城が崩壊したので、克明は丁夫を率いて木材を伐り連舫を作り、水上に繋ぎ止めて、外城のような形にした。また多くの旗幟を掲げ、巨大な筏を浮かべ、その上に兵を陳列して、守備の準備とした。溪峒の兵三千を募り、また黄衆盈も千五百の兵を渡らせ、象州へ向かおうとした。巡撫使の曹利用が克明に会兵を約したのに会い、行軍して貴州に至った時、賊に遭遇し、これを大いに破り、四百余級を斬首した。賊が平定されると、利用がその功績を独占した。交代して帰還すると、真宗が南方の事情を問うたところ、答えが意に適ったので、一子に官を賜り、供備庫使に遷り、江・淮・両浙都大提挙捉賊となった。克明は人を遣わして賊を捕らえる時、常に私財を出して資助したので、そのため人人が力を尽くした。賊の中の敏捷で勇猛な者を見ると、縛を解き、帰ってその仲間を捕らえさせ、前後して千余人を捕獲した。江寧府知事の張詠がその事を上聞すると、銭四十万を賜り、平州刺史を領し、辰州知州となった。撫水蛮が叛くと、宜・融・桂・昭・柳・象・邕・欽・廉・白の十州都巡検使兼安撫使に転任した。到着すると、蛮の酋長が一器の薬を献じて言うには「溪峒の薬」であり、薬箭で人に当たっても、これで解毒すれば死なないという。克明は「どうやってそれを験するのか」と問うと、「鶏や犬で試させてください」と言った。克明は「人で試すべきだ」と言い、薬箭を取って酋の腿を刺し、その薬を飲ませると、即座に死んだ。群蛮は慚愧し恐れて去った。

この年の冬、安撫都監の王文慶と馬玉が天河砦の東から出撃し、克明は宦官の楊守珍と共に環州樟嶺の西から出撃した。磴道は危険で絶え、林木は深く阻み、蛮は多く伏弩を設けて待ち構えていた。馬玉の向かうところ力戦し、しばしば蛮軍を破った。この時朝廷の意向は招撫にあり、たびたび詔を下して克明を諭したが、克明もまた深入りを恐れ、たびたび文書を送って馬玉を止めた。馬玉が如門団に至ると、蛮に扼せられて進むことができなかった。克明は遷延して傍観し、一月余りして、ようやく撫水州に至り、知州の蒙承貴らと盟約を結んで帰還した。

間もなく、桂州知事兼管勾溪峒公事となり、初めて溪峒司を設置した。また広南東路・西路の土軍を閲兵して忠敢軍とすることを上奏した。州人は茅を覆って屋根とするため、年にしばしば火災があった。克明は北軍を選んで陶瓦の作り方を教え、また江水を引き入れて城内に導き、火災を防いだ。交代して帰還し、滁州知事となり、鼎州に転任した。ちょうど交阯の李公蘊が邕州を寇したため、文思使として再び邕州知事となった。到着すると、人を交阯に入らせて利害を諭したので、公蘊は表を奉って謝罪した。西上閤門使に遷り、登州・舒州・邵州の三州知事を歴任し、再び鼎州に転任し、卒した。

張暉

張暉は、幽州大城の人である。後唐の清泰初年(934年)、控鶴軍に隷属し、累進して奉国・弩手都頭となった。後晋の開運末年(946年)、武行徳と共に河陰で契丹の甲船を奪った。行徳が河陽を領すると、暉を弩手指揮使とし、また兵を率いて懐州へ向かうよう命じた。契丹の将が遁走しようとしたので、州軍を領することとなった。漢の高祖こうそが汴に入ると、暉は滎陽けいようで迎え、懐州刺史に任じられた。乾祐初年(948年)、郢州刺史の慕容業が政治に不法が多いため、暉を縁漢都巡検使とし、唐州を領させ、兵を屯して郢州に至り、即座に業と交代した。京に還ると、郢州刺史に改められた。

後周の広順初年(951年)、劉崇が晋州・絳州を寇したため、暉を召して歩軍左廂排陣使とした。師が還ると、沂州刺史に改めた。三年(953年)、吏民が闕に詣でて留任を請願し、間もなく冀州に改めた。ちょうど詔して李晏口・束鹿・安平・博野・百八橋・武強などの城を築かせることとなり、暉に命じてその役を監督させると、一月余りで完成した。世宗に従って淮甸を征し、壕砦都指揮使を充てた。楚州・泗州を抜くと、即座に泗州を授けられた。間もなく耀州に改め、まもなく西南面橋道使となった。

宋の初め、沢州・潞州征討に従い、行営壕砦使となり、先登して陣を陥とした。事が平定されると、華州団練使に遷り、郡において頗る治績があった。建隆二年(961年)、太原が未だ下らないため、詔して入覲させて計略を問うと、暉は答えて言った「沢州・潞州は李筠の叛乱を経て、瘡痍未だ復せず、軍旅一旦興れば、恐らく人力重く困窮します。兵を収めて民を育み、富庶に俟って後に謀るに如かず」。そこで襲衣・金帯・鞍勒馬を賜り、州に還るよう命じた。朝廷がまさに蜀を伐つことを議すると、鳳州団練使兼縁辺巡検壕砦橋道使に遷った。暉は山川の険易をことごとく把握し、密かに上疏してこれを陳べた。太祖はこれを見て大いに喜んだ。乾徳二年(964年)、大軍が西下するに及び、暉を西川行営先鋒都指揮使に充てた。兵を督して大散関の路を開き、自ら士卒を撫で、且つ役し且つ戦い、人はその労を忘れた。十二月、青泥嶺に至り、卒した。

天禧五年(1021年)、暉の妻が百五歳となり、家が貧しかったため、闕に詣でて自ら陳べた。詔して束帛を賜り、その孫の永徳を三班借職に録した。

司超

司超は、大名元城の人である。初め邢帥の安叔千に仕えた。漢の高祖が太原にいた時、超は往ってこれに依り、帳下に隷属して小校となった。漢祖が河を渡ろうとすると、超を遣わして先に勁騎を率いさせ、晋州・絳州より河陽へ向かわせた。汴に入ると、超を鄆州必敵指揮使とした。時に京東諸州に寇盗が充満していたため、超を宋州・宿州・亳州の三州游奕巡検使とした。宿州西固鎮守禦都指揮使に改め、潁州下蔡鎮に移って屯した。たびたび淮人と戦い、功績があった。周の世宗が宰相の李穀に命じて淮南を討たせた時、超を歩軍先鋒副都指揮使とし、また廬州・寿州・光州・黄州などの巡検使とした。盛唐県において淮人三千余衆を大破し、棹船四十余艘を獲、その監軍の高弼・果毅指揮使の許万を生け捕りにして献上した。時に黄州が未だ下らなかったため、即座に超に遥かに刺史を領させ、兼ねて楼櫓戦棹右廂都校とした。師が還ると、光州刺史に改め、麻城の北で呉軍千余を破った。顕徳四年(957年)の冬、王審琦と共に舒州を攻め、呉軍三千を破り、先んじて刺史の施仁望を生け捕りにして行在所に献上した。即座に超を舒州団練使とした。

宋の初め、宋偓に副えて舟師を率い江徼を巡撫することを命じ、一月余りして、特詔して舒州を防禦に昇格させ、超を以てその使に充てた。太祖が李重進を討つに際し、前軍歩軍都指揮使とし、平定されると、治所に帰還させた。建隆三年(962年)春、蔡州防禦使に遷った。乾徳六年(968年)、絳州防禦使に改め、晋州兵馬鈐轄に転任した。この秋、また趙贊に副えて邠州行営都部署とし、河東を進攻した。太祖が親征するに及び、行営前軍歩軍都指揮使となり、鄭州防禦使に改めた。開宝七年(974年)、朝廷が江左を討たんとすると、超が久しく淮右に在り、江山の険易に習熟しているとして、蘄州防禦使に転任させた。淮西に行き至り、卒した。享年七十一。天禧元年(1017年)、その孫の文睿を三班奉職に録した。

【評論】

論ずるに、昔、許子は師において卒し、葬るに等を加う。《春秋》これを書すは、臣節を褒め官守を儆しむる所以なり。業、罕儒、光実は皆、捍城の寄せに当たり、戎に臨み力戦し、敵境に歿す。罕儒は勇を恃み戒めず、光実は賊の遷の言に甘んずるも、その失は軽敵に在りと雖も、然れどもその躯を忘れ節に徇うは、誠に嘉すべし。業は本より太原の驍将、太宗の寵遇に感じ、以て報いんと思う。常勝の家、千慮一失。然れどもその素より士心を得たり。部卒は離れ去るに忍びず、これに従いて歿す、則ち忠義の風概見るべし。嗣と延昭は並びに勲伐を紹ぐに克たり。延昭は久しく辺閫に居り、戎を総べ士を訓し、威名方略、敵に聞こえ、嗣に優る。暉は危時に於いては則ち陷陣の功有り、平時に於いては則ち戎を息ますの諫を献ず。超は頻りに戦いて以て淮海を清め、その忠誠勇果、率ね尚ぶべき者有り。