宋史

列傳第三十  馬令琮 杜漢徽 張廷翰 呉虔裕 蔡審廷 周廣 張勳 石曦 張藏英 陸萬友 解暉 李韜 王晉卿 郭廷謂 趙延進 輔超

馬令琮

馬令琮は、本名を令威といい、周の太祖の諱を避けてこれを改めた。大名の人である。父は全節、『五代史』に傳がある。全節は横海・定遠・昭義・彰德・定武・天雄の六つの節度使を歴任し、いずれも令琮を牙校に任じ、累進して彰德牙内都指揮使・檢校尚書左僕射に至り、勤州刺史を兼ねた。令琮は若くして騎射に優れ、かつて父に従って安州を平定し、また鎮州の安重榮と戦い、いずれも功績があり、これによって名を知られた。晉の開運二年、全節が卒去すると、令琮は喪中起復され、隰州刺史に任じられた。漢の高祖こうそが国を開くと、西京巡檢使となった。周の太祖が天命を受けると、陳州刺史に改められた。兗州征討に際しては、京城四門外巡檢となった。世宗が位を継ぐと、随州に移った。顯德二年、入朝して虎捷左第一軍都指揮使となった。六年、建州刺史を兼ねた。

太祖が即位すると、出て懷州刺史となった。李筠が叛くと、太祖は親征しようとし、三司の張美を召して兵糧を供給させた。張美は言上した、「河内は上党に近接しており、令琮が日夜蓄積を重ねて王師を待っています」。太祖はこれを良しとし、團練使に任じるよう命じた。執政が言上した、「令琮は今まさに大軍の供給に当たっており、他の郡に移すことはできません」。そこで懷州を團練に昇格させ、令琮をその使に充て、さらに先鋒都指揮使を兼ねさせた。澤州・潞州が平定されると、昭義兵馬鈐轄となった。一年余り後に病を得、詔により帰郡を許された。乾德元年、卒去した。享年三十九。太祖は大いにこれを哀れみ、その子延恩を殿直に任用した。

杜漢徽

杜漢徽は、京兆長安ちょうあんの人である。父の阿孫は、太原の威勝軍使であった。漢徽は膂力があり、騎射に優れ、十七歳で後唐の武皇(李克用)に仕えて廳直隊長となった。天成年間、累進して護聖軍使となった。晉の天福六年、慕容鄴らとともに安州の李金全を討ち、指揮使孫厚を生け捕りにし、功により興順指揮使に昇進した。八年、鎮州の安重栄征討に従い、護聖指揮使に改められ、父の阿孫は左讚善大夫を追贈された。開運二年、配下部隊を率いて深州を守備し、楽寿において契丹を破り、多くを殺傷捕獲した。漢の初め、高行周に従って鄴で杜重威を討ち、しばしば流れ矢に当たり、重傷を負いながらもなお力戦し、見る者をして壮とさせた。また配下部隊を率いて鎮州を守備し、霊寿において契丹を破り、車馬を多く獲た。周の世宗が劉崇を征したとき、漢徽は戦功があり、龍捷左第五軍都虞候に補され、配下部隊を安平県に移して屯させ、県の南で契丹を破り、器甲・車・帳幕を獲て、本軍左第四軍都虞候に昇進した。

宋の初め、本軍都校に補され、茂州刺史を兼ね、後に潮州刺史を兼ねた。李筠平定に従い、また李重進平定に従い、功績の記録が多かった。建隆三年、出て天長軍使となり、雄武軍使・知屯田事に移った。この冬、病にかかり、ただちに符印を通判の宋鸞に授け、告帰して京に帰ることを請うた。家人が医薬を求めるよう勧めると、漢徽は笑って言った、「私は軍旅に四十年、大小百余戦を経て、死ななかったのは幸いである。どうして薬を用いようか」。間もなく卒去した。

張廷翰

張廷翰は、冀州信都の人である。父の慎図は、周に仕えて兵部郎中となった。廷翰は若くして慷慨として大志を持ち、智略があり、騎射に優れていた。晉の天福年間、冀州刺史の張建武が召し補って牙校とし、その後刺史の李冲が本州の牢城軍校に任じた。契丹が中原に入ると、その党の何行通を刺史に任じたが、契丹主が道中で崩御すると、州人が共に行通を殺し、廷翰を推して州事を知らせた。漢の初め、そのまま刺史に任じられ、廷翰は行通を殺した者をことごとく捕らえて市で処刑した。政務は寛厚で簡易であり、民は大いにこれを愛した。周の広順初め、召されて朝廷に赴くと、周の太祖はその容貌が魁偉であるのを見て、枢密使の王峻に言った、「冀州は辺境に近い。たとえ改めて人を選んでも、廷翰に及ぶ者はいない」。即日に帰還させた。郡に在ること八年、契丹の将の高牟翰がしばしば辺境を攪乱したが、いずれも廷翰が撃退した。廷翰の家は財に富み、毎年人を遣わして金帛を携え北方に入り良馬を買い、常に数百匹を得て、貢献分以外はすべて貴顕近臣に贈り、大いに美誉を得た。顕徳年間、棣州・海州・沂州の三州團練使を歴任し、しばしば兵を率いて淮人を破り、萊州に移った。

宋の初め、また冀州・亳州の二州を歴任した。乾徳二年に卒去した。享年四十七。

呉虔裕

呉虔裕は、許州許田の人である。父の徽は、左屯衛将軍であった。虔裕は若くして郡の吏となり、漢の高祖が許を鎮守したとき、その精細で謹直なところを愛し、右職に任じた。太原に移鎮するに及んで、虔裕を従えた。国を開くと、引進使に抜擢され、内客省使に転じた。時に鎮州節度使の劉在明が卒去したので、虔裕に兵を率いて巡護させた。隠帝が即位すると、召されて宣徽北院使となった。

周の太祖が三叛を討つに当たり、虔裕を河中行営都監とし、護聖諸軍五千を率いて赴かせた。李守貞は五千余りの兵を出し、梯橋を設け、長連城の西北において五路に分かれて周の太祖を防禦した。周の太祖は虔裕に命じて大軍を率い横撃させると、蒲人は敗走し、その梯橋を奪い、大半を殺傷した。軍が帰還すると、襲衣・玉帯を賜った。時に枢密使の楊邠が上言して職の解除を求めた。隠帝は人を遣わし楊邠に諭して言った、「枢機の重任は卿でなければならぬ。卿はどうして讒言を聞き入れこのような請いをするのか」。使者が到着したとき、虔裕が同席しており、すぐに大声で言った、「機要の重地は、長く居るべきところではない。後来の者に代わる代わる居らせるのがよい」。使者は帰ってこれを帝に報告し、帝は怒り、虔裕を鄭州防禦使として出した。乾祐末年、大臣を誅殺するに当たり、急詔で入朝させ、兵を率いて澶州を守備させた。留子陂の戦いに敗れると、ついに周の太祖に降った。広順初め、帰還を許され、襲衣・玉帯・鞍勒馬を賜った。周の太祖に従って慕容彦超を討ち、これを破った。汝州防禦使に改められ、右衛・左金吾衛の二大將軍兼街仗使を歴任した。

太平興国六年、右千牛衛上將軍に遷り、引き続き左街仗事を判じた。虔裕は金吾を掌ること三十余年、端拱初年に卒去した。享年八十八。太尉を追贈された。

虔裕は性質簡略率直にして、言動多く軽率放肆なり。右金吾上將軍王彥超が老齢を理由に致仕を請うたとき、虔裕は人に語りて曰く、「我たとえ殿階の下に倒れ伏すとも、断じて王彥超のごとく七十歳で致仕することを学ばじ」と。人々これを伝えて笑う。毎たび朝会および遊宴に従うとき、太宗その高齢を憐れみ、常に慰撫す。子延彬は、儀鸞副使に至る。延彬の子仁美は、内殿崇班に至る。

蔡審廷

蔡審廷は、磁州武安の人なり。曾祖凝は、邢州別駕。祖綰は、武安遠城三冶使。父顒は、洺州長史。審廷は少にして騎射に能く、晋の初め、募りに応じて護聖散都頭に補せらる。周の顕徳初め、擢て殿前散員と為り、転じて鉄騎副兵馬使と為る。世宗に従い高平に戦いて功有り、軍使に遷る。太祖が殿前都点検たりしとき、世宗に従い淮南を征し、審廷は麾下に隷し、紫金山の戦いに預かり、副指揮使に改む。

宋の初め、殿前散都頭指揮使を授かる。李筠征討に従い、沢州を攻めて先登し、飛石にて足を傷つけらる。帝良薬・美酒を以て賜う。車駕京に還るに及び、幸いにその官舎に至りてこれを問い、賜賚甚だ厚し。尋いで内殿直都虞候に転じ、俄かに伴飯都指揮使に改む。建隆年中、富州刺史を領し、内外馬歩軍副都軍頭を兼ぬ。乾徳初め、冀州刺史を授かる。太原征討のとき、北面歩軍都指揮使と為り、易州に兵を屯す。審廷士卒を訓練すること甚だ整えたり。太祖鎮陽を過ぐるに当たり、行在所にてこれを見、名馬・宝剣を賜い、鎮州兵馬都鈐轄と為すを命ず。開宝八年に卒す。年六十九。

周廣

周廣は、字を大均とす。その先は応州神武川の人なり。父密は、晋に事え、鄜・延・晋三鎮の節度使を歴任す。周の広順初め、太子太師に至りて致仕す。廣は幼くしてその父に従い牙校と為る。漢の初め、供奉官を授かる。未だ幾ばくもせず、左千牛衛将軍に擢てらる。周の祖、将を命じて慕容彦超を兗州に討たしむるに、廣を行営都監と為す。賊平ぎ、功を録して右武衛将軍に遷る。俄かに右神武将軍に改め、鎮淮軍兵馬都監を充てる。世宗に従い淮南を征す。江北数州を得るや、即ち廣に命じて労来安集せしむ。民甚だこれを徳とす。因って常州刺史を領し、内外馬歩軍都軍頭を兼ぬ。淮南平らぎ、眉州刺史に改む。

宋の初め、隰州刺史を授かる。乾徳三年、潘州団練使に遷り、雄武諸営を訓練せしむ。開宝二年、太原征討に従い、攻城楼櫓戦棹都部署と為り、師還りて、内外馬歩軍副都軍頭を加えらる。六年、右屯衛大将軍に改め、郡を領すること旧に如し。太平興国二年、卒す。

張勲

張勲は、河南洛陽らくようの人なり。晋の開運年中、留守景延廣に事えて典客と為り、延廣表して供奉官と為す。周の世宗将に淮南を征せんとす。勲を以て申州縁淮巡検と為す。光州の機事を採りて朝廷に聞こゆるに因り、即ち勲に命じて兵を率い同しく討ち平げしむ。遂に光州軍を監し、内外巡検を充てる。後に黄州を攻め、麻城にて呉人を破り、復た柏業山砦を破る。目中に流矢を受く。内園副使に遷る。及び瀛・莫を征するに、以て州兵馬都監と為す。

初め、李筠を征するに、勲は石守信に従い前軍を董じ、大会砦を抜き、及び太行にて筠の衆を破り、沢州を破るに、皆功に預かる。太祖京に還り、権をもって許州を知ることを命ず。未だ幾ばくもせず、李重進叛く。又詔して石守信・李処耘と先んじて兵を率いて進討せしむ。揚州を抜き、勲を兵馬都監と為し、氈毯使に遷す。朗陵を討ち、前軍兵馬都監を充てる。荊湖平らぎ、功を以て衡州刺史を拝す。乾徳初め、郴州及び桂陽監を克ち、勲を刺史兼監使と為す。五年、代わりて帰る。揚州に至りて卒す。年六十八。太祖甚だこれを憐れみ、その子廷敏を録して殿直と為す。勲は性残忍にして殺を好み、毎たび城邑を攻め破るに、ただ「且く斬る」と揚言し、頗る横に鋒刃に罹る者あり。将に衡州に赴かんとするや、州民皆涕泣して相い謂いて曰く、「『張且斬』至れり、吾輩何を以てか安んぜん」と。

石曦

石曦は、へい州太原の人なり。晋の祖の弟韓王暉の子なり。天福年中、曦を以て右神武将軍と為す。漢より周に至るまで、右武衛・左神武二将軍を歴任す。恭帝即位の初め、左衛将軍と為る。会に高麗王昭に恩を加うるに、曦をして左ぎょう衛大将軍戴交に副え使を充てしむ。

建隆三年、再び高麗に使いし、左驍衛大将軍に遷り、秦州の屯兵を護る。西人辺を犯す。曦率いる所の兵を以てこれを撃ち破り、渠帥十三人を斬る。太祖晋を征するに、曦兵二千人を領し沢・潞より道を除きて太原に至り、汾水を壅ぎてその城を灌ぎ、又兵千人を益し、部して遼州を攻む。俄かに雄州を知り、代わりて潭州鈐轄と為る。開宝八年、兵を領して袁州にて南唐軍二千余を破り、梅山・板倉諸洞の蛮寇を平らげ、俘馘数千人を得る。太平興国年中、右神武・右羽林大将軍を歴任し、連ねて孟・襄二州を知り、誠州刺史を領するに遷る。雍熙四年、改めて霸州を知り部署を兼ぬ。会に陳廷山謀りて平戎軍を以て叛き北辺に入らんとす。曦これを察知し、侯延済と計を定め、廷山を禽えて献ず。その功を録し、本州団練使を領するを加えられ、鎮州同知と為る。淳化二年、原州に移り、右龍武軍大将軍に遷る。病に被り告を請う。詔して特に全俸を給す。四年、卒す。年七十四。賵賻等を加う。

張藏英

張藏英は、涿州范陽の人で、自ら唐の宰相嘉貞の後裔と称す。唐末、一族挙げて賊の孫居道に害せられ、藏英は十七歳にして、僅かに身をもって免る。後に豳州市にて居道に逢い、佩刀を抜きてこれを刺すも、死せず、吏に捕らえられる。節帥趙德鈞はその壮挙を賞し、釈放して問わず、牙職に補す。藏英は後に居道が関南に避地したと聞き、乃ち関南都巡検使を求む。到着すると微服して鉄楇を携え、居道の家の側に匿れ、その出づるを伺い、これを撃ちて地に仆し、その耳を噛みて食らい、遂に捕えて帰る。父母の位を設け、酒肴を陳べ、居道を前に縛り、号泣してこれを鞭ち、その肉を臠に切り、三日を経て、その心を刳りて祭る。即ち官に詣でて自首し、官は上に請うてこれを釈す。燕・薊の間、これを「報讐張孝子」と目す。契丹はこれを用いて盧䑓軍使兼榷塩制置使とし、坊州刺史を領せしむ。周の広順三年、内外の親属並びに所部の兵千余人、及び煮塩戸の長幼七千余口、牛馬万計、舟数百艘を率い、航海して周に帰す。滄州に至り、刺史李暉これを聞す。周祖は頗るこれを疑い、封禅寺に館せしむ。俄かに襲衣・銀帯・銭十万・絹百匹・銀器・鞍勒馬を賜う。数月後、世宗即位し、徳州刺史を授く。未だ幾ばくもせず召し帰し、便殿に対し、備辺の策を詢ねらる。藏英は深州李晏口に砦を置き、及び境上の亡命者を誘いて軍に隷せしむることを請い、願わくは主将となり、便宜討撃を得んとす。世宗悉くこれに従う。これをもって縁辺招收都指揮使と為し、名馬・金帯を賜う。藏英は遂に李晏口に城を築き、累月、勁兵数千人を募る。時に鳳翔節度使王彦超を遣わして辺を巡らしむるに、契丹に囲まれしに会い、藏英は新たに募りし兵を率いて馳せ往きてこれを撃ち、転戦十余里、契丹解き去る。濮州刺史に改め、仍って辺任を領す。契丹の将高牟翰が精騎数千をもって辺を擾わすや、藏英は胡盧河北にてこれを逆撃し、旦より晡に至り、殺傷甚だ衆し。暮に値いて兵を収むるに、契遁去す。後に兵を領して楽寿を巡るに因り、契丹の幽州驍将姚内斌、藏英の兵少なるを偵知し、精騎二千をもって県の北に陣す。藏英は麾下を率いてこれを撃ち、辰より申に及び、士皆殊死に戦い、内斌遂に解き去る。世宗、璽書を降して褒美す。瓦橋関を征し、先鋒都指揮使と為り、関北にて契丹騎数百を敗る。固安県を下し、又関南排陣使に改む。宋初、瀛州団練使に遷り、並びに関南軍を護る。建隆三年、治所にて卒す。年六十九。孫の鑒は、自ら伝有り。

陸萬友

陸萬友は、蔚州霊丘の人。少くして太原に隷し裨校と為る。漢祖起義し、擢て護聖指揮使と為す。隠帝即位し、出でて天雄軍馬軍都指揮使と為る。周祖の起兵するや、萬友謀に預かる。践祚するに及び、擢て散員都指揮使と為し、奨州刺史を領す。世宗嗣位し、龍捷左第三軍都指揮使に遷る。控鶴右廂都校に転じ、虔州団練使を領し、虎捷右廂に改め、閬州防禦使を領す。恭帝嗣位し、出でて安州防禦使と為る。

宋初、沂・蘄二州防禦使を歴任す。乾徳四年、汝州に改む。開宝中、南唐を討つに、采石磯に舟を造りて師を済さしむ。萬友を命じてこれを守らしむ。江南平らぎ、和州防禦使と為る。太宗嗣位し、もって晋・絳等州都巡検使と為す。帝太原を征し、汾・石二州を克つ。萬友を以て石州都巡検使と為し、俄かに石州を知ることを兼ね、鳳翔・秦・隴を巡警す。代わり帰り、詔して瀛州を知らしむ。郡に在ること二年、政務苟簡なり。雍熙二年、右監門衛大将軍に改め、河陰兵馬都監を充てる。年を踰えて卒す。年七十三。萬友始め業とす圬鏝、既に貴達すれども、本を忘れず、銀を以て圬鏝器数十事を為し子孫に示す。性猛暴、武勇を以て自ら任じ、至る所善政無し。太宗その勲旧を以てし、恩遇替わらず、その次女を聘して許王夫人と為す。

解暉

解暉は、洺州臨洺の人。父の珪は、募に応じて州兵と為り、後唐天成中、西征して剣門に至り、陣に没す。暉は少くして勇力有り、父の戎事に死するを以て、兵籍に隷するを得。雁門に戍し、契丹と接戦し、首七級を斬り、酋長一人を獲る。功を以て奉国軍隊長に遷る。晋の天福中、安重栄鎮州に反し、因り兵を挙げて闕に向かう。宋城に至り、晋師逆戦し、大いにこれを破る。暉は軍中の壮士百余りを募り夜に賊壘を搗き、殺獲甚だ衆し。暉頻りに流矢に中るれども、戦いを督すること自若とし、顔色撓まず、功を以て本軍列校に遷る。周の広順初、劉崇契丹とともに晋州を侵す。暉は都部署・枢密使王峻等に従い往きてこれを援く。暉は敢死の士三十余りを率い、夜に契丹の帳に入りてこれを撃ち、殺獲甚だ衆し。本軍第五指揮使に遷る。世宗に従い淮南を征し、所部を率いて黄州を下し、刺史高弼を禽え、虎捷第一軍都虞候に遷る。

宋初、歩軍都軍頭、沢州征に従い、力戦し、目に流矢中る。師還り、勲を策して内外馬歩軍副都軍頭と為す。建隆四年、湖広道行営前軍戦棹都指揮使を充てる。潭州平らぎ、璽書を降して奨諭す。偽統軍黄従志岳州に拠る。暉は舟師を率いて討ち平げ、従志及び将校十四人を生禽し、俘斬数千、溺死者衆し。控鶴右第二軍都指揮使に改め、高州刺史を領す。乾徳六年、詔して所部軍を領して上党に屯し、李継勳に従い太原を略す。開宝九年、境上にて太原軍を破り、首千余級を斬り、馬三十匹を獲る。均州刺史に改む。

太平興国二年、詔して潞州北乱柳石囲の中に城を築き、名づけて威勝軍と為し、暉を以て軍使と為す。并州征に従い、尚食使石彦贇とともに所部を率いて先ず隆州を下し、并州の兵三百余りを殺し、招討使李詢等六人を禽えて行在所に献じ、賜予有り加う。復た彦贇とともに戦士を督し城西行営に隷し、分かれて太原を攻む。劉継元降る。太宗太原の宮女三人を暉に賜う。俄かに功を以て本州団練使・霸州知事に遷る。雍熙初、雲・応・寰・朔・忻・代等州都巡検使を充てる。三年、代わり本郡に帰る。淳化二年、病に被り、上章して老を告げ、右千牛衛上将軍致仕に改む。詔未だ至らざるに卒す。年八十。

暉は鷙猛木強、詔を受けて征伐する毎に、常に身を以てこれに先んず。人の憚る所を、暉はこれを視ること甚だ易きが若し、ここに由り頻りに戦功を立て、金創体に遍し。時に驍将と称す。子の守顒は、内殿崇班・閤門祗候に至る。

李韜

李韜は河朔の人である。勇力と胆気を有し、槊を用いることに長け、禁軍隊長となった。周祖が三叛を征討した際、韜は白文珂に従って河中を攻め、兵はその城に迫った。文珂は夜に周祖のもとを訪れて犒軍を議し、韜を城下に留めた。時に営柵は未だ備わっておらず、李守貞が虚に乗じて来襲した。営中に忽ち火が上がるのを見て、賊が集まって来たことを知り、惶怖して拠り所を失った。客省使閻晉卿が左右数十人を率い、月城の側で韜に出会い、韜に言うには、「事急なり。城中の者は皆黄紙の甲を着て、火光に照らされ、色は皆白し。これは殊に弁え易い。如何せん軍士に闘志無きことよ」と。韜は憤怒して言うには、「豈に君の禄を食みながら国に死を致さざらんや」と。即ち槊を援って進み、軍中の死士十余輩が韜に従って賊鋒を犯した。蒲に猛将あり、馬を躍らせ戈を持って韜を擬す。韜これを刺し、胸を洞いて墜ちた。また連ねて数十人を殺し、蒲軍は遂に潰えた。因って撃ち、大いにこれを破り、守貞は是より閉壘して敢えて出ずる無し。俄に驍将王三鉄降り、城は遂に平らぎ、韜は此れより名を知られる。累遷して軍校となり、出でて趙州刺史となり、慈州に移る。乾徳六年に卒す。

王晉卿

王晉卿は河朔の人である。少より勇敢にして、郷里に推された。周世宗が澶淵に在った時、晉卿は武芸を以て求見し、帳下に隷するを得た。即位に及び、東頭供奉官を補す。高平に戦い、淮甸を征することに従い、毎に密旨を宣伝することを遣わされ、甚だ親信された。北征に及び、先鋒都監となり、督戦して功有り、詔して控鶴都虞候を権す。関南を克ち、軍器庫使を授かる。顕徳四年、龍捷右第一軍都指揮使となり、彭州刺史を領す。恭帝即位、出でて濱州刺史となる。

乾徳中、興州刺史となる。四年、漢州に移る。時にしょくは初平らぎ、寇盗充満す。晉卿は武備を厳にし、方略を設け、禽捕剪滅し、遺漏有ること無し。是より以降、劇賊と雖も敢えて其の境を窺う者無し。然れども賄を以て聞こえ、太祖は其の才を惜しんで問わず。秩満して闕に帰り、疾を以て頤養を求め、左監門衛将軍・奉朝請に改む。重錦十匹・銀千両を貢ぎて謝す。詔して納れず、其の貨を黷するを以て、之を愧じたるなり。未だ幾ばくも無く、詔して北辺を戍し、疆場清粛なり。開宝四年、復た莫州刺史を授かる。郡に在りて謹みて斥候し、善く撫循し、士卒は皆用いられることを楽み、辺民安堵す。六年八月卒す。年六十七。

郭廷謂

郭廷謂は字を信臣と云い、徐州彭城の人である。父全義は南唐に仕えて濠州観察使となった。廷謂は幼より学を好み、書に工み、騎射に善し。殿前承旨を補し、濠州中軍使に改む。李景は毎に中朝の機事を偵察させて奏上させた。全義卒し、庄宅使・濠州監軍に擢でる。周世宗が淮右を攻むるに、南人は屡敗し、城中甚だ恐れる。廷謂は州将黄仁謙と固禦の計を為す。周師は諜を遣わして鉄券を其の塁に及ぼすも、廷謂は之を拒む。城中の負販の輩は率ね不逞なり。廷謂は其の亡逸を慮り、籍して大寺に置き、兵を遣わして之を守り、日食を給し、防城の具を製せしむ。其の習う所に随う。以て故に周師は卒に城中の虚実を覗うことを得ず。

周師は浮梁を渦口に為し、張従恩・焦継勲をして之を守らしむ。廷謂は仁謙に語りて曰く、「此れ濠・寿の患いなり。彼は騎士を以て勝つ、故に陸に利有り。我は舟師を以て鋭し、故に水に便なり。今夏久雨し、淮流泛溢す。願わくは舟兵二千を仮し、其の橋を断ち、其の城を屠り、直ちに寿春に抵らん」と。仁謙は初め其の議を沮むも、已む無く之に従う。即ち軽棹して枚を銜みて其の橋に抵り、兵を麾して笮を断ち、悉く之を焚く。周師大いに衄き、死者計うべからず。其の資糧を焚きて還る。功を以て武殿使を授かる。周師退きて定遠を保つ。又壮士を募りて負販の状を為さしめ定遠に入り、軍の多寡及び守将の名を偵さしむ。還りて曰く、「武行徳・周務勍なり」と。廷謂曰く、「是図る可し」と。又郷兵万余及び卒五千を籍し、日夕訓練し、山に依り枚を銜み伏兵を設けて之を破る。周師大いに潰え、行徳は単騎脱走す。時に玉帛子女を以て廷謂に餉る者有り。悉く之を拒み、唯良馬二百匹を取って献ず。功を以て滁州刺史・上淮巡検応援兵馬都監となる。紫金山の戦いに及び、南唐諸将は帰降する者多し。独り廷謂は全軍を以て還り濠州を守り、追うも及ばず。時に濠守は城を棄てて走らんと欲す。廷謂之を止む。俄に本州団練使を加え、戈甲を繕い、溝壘を治め、常に敵至るが如し。是の秋、周師復た至る。景に表して援を請い、且つ周兵四臨するを言い、卑辞を以て和を請い、以て隣好を固むるを乞う。夜に敢死士千余を出して周営を襲い、頭車洞屋を焚く。周師蹂躪し死者甚だ衆し。既にして援兵至らず、周師急撃す。廷謂諸軍を集めて壘門の外にし、南望して大いに慟哭して周に降る。山陽に至り、世宗に見ゆ。特に宴労を加え、金帯・襲衣・良馬・器皿を賜い、亳州防禦使に拝す。其の弟本州馬歩都校廷讚を和州刺史と為す。命じて天長軍を攻めしめ、其の将馬贇を降す。又楼櫓戦櫂左右廂都監と為り、俄に譙郡に帰る。

宋初、上党征従し、再び亳州を知る。乾徳二年、代わりて還り、絳州防禦使に改む。両川平らぎ、馮瓚が梓州を知る。僕夫に訟せられ、廷謂を召して静江軍節度観察留後と為し以て之に代う。州は旧政を承け、庄宅戸・車脚戸有り、皆州将に隷す。鷹鷂戸は日に雉兔を献じ、田猟戸は歳に皮革を入る。又郷将・都将・鎮将の輩有りて互いに閭里を擾わす。廷謂悉く之を除く。開宝五年卒す。年五十四。

廷謂は性恭謹、母に事えて孝を以て聞こえ、未だ嘗て帯を束ねずして立侍すること無し。子に延濬有り。廷謂の兄廷諭は南唐に仕えて太子洗馬となり致仕し、宋初に至り秘書監となる。廷諭の子に延澤有り。

子 延濬

延濬は字を利川と云う。幼より謙和なり。初め、廷謂が静江軍節度使となった時、延濬は桂州牙内都指揮使となった。廷謂卒し、太祖は延濬を録して供奉官と為し、屡西北に使い、機事を宣諭す。

太平興国初、内庭の宣索及び殿前の賜齎・移文庫務に専ら之を領する者無きを以て、乃ち合同憑由印を置き、延濬と内蔵庫副使劉蒙正に之を掌らしむ。又八作司を領し及び汴河の督治に当たる。

雍熙三年、崇儀使に改める。詔して翟守素・田仁朗・王繼恩とともに河北に赴き、諸路に分かれて諸州の城壘を巡行し、鎮兵を発してこれを修繕せしむ。端拱二年、河北に方田を設くべしとの詔があり、延濬ら五人をして共に往きて規画せしむるも、その務めを罷むるに会して止む。淳化四年、李順の乱あり、西京作坊使に改め、成都十州都巡検使を充てる。時に成都将に陥らんとす、延濬単騎にして城に入り、郭載と議して亡卒を募り剣門に退保す。賊数千来たりてその後を躡う、これを撃破す。王繼恩兵を率いて至り、延濬を先鋒壕砦使と為し、即ち兵を領して倍道を以て先進す。賊探騎数十を出す、延濬悉くこれを禽え、賊の機事を尽く得る。延濬旗幟を易え号を変う、賊知覚せず、関を斬りて掩い入り、千余級を斬る。繼恩また延濬に漢州を治めしむるを請う。州兵燹を経て、廨舎・橋梁・城砦悉く毀る。延濬軍民を募りてこれを修め、また州の帑蔵を率いて軍需に応ず。功を録し、洛苑使に改む。また兵を率いて遂州に屯せしむるを命ぜらる。剣門鈐轄・転運使劉錫その労を言上し、詔書を以て嘉奨す。真宗の初め、内園使に改む。代わりて還る、会に河朔兵を用う、延濬馳せ往きて辺城に至り、砦壘を按視す。咸平二年、疾にて卒す。子に有倫あり、供奉官・閤門祗候と為る。

從子に延澤あり。

延澤、字は德潤、南唐にて秘書省正字を試みる。乾徳中、四遷して著作佐郎と為り、殿中丞に転じ建州を治む。淳化二年、太宗延澤及び右賛善大夫董元亨の皆好学にして典籍に博通するを聞き、詔して宰相に召して経史の大義を問わしむ。皆条に対し旨に称し、史館検討を命ぜらる。歴て国子『周易』博士・国子博士と為る。咸平中休退を求め、虞部員外郎を授けられて致仕す。濠州城南に居り、小園を以て自ら娯しみ、その牡丹を詠ずる千余首。図籍万余巻を聚め、手自ら刊校す。范杲・韓丕皆これと遊ぶ。景德初め卒す。元亨も亦た虞部員外郎に至り、嘗て『玄門碑志』三十巻を纘む。

趙延進

趙延進、澶州頓丘の人。父は暉、周の太子太師。暉偏将たりし時、趙在禮鄴に拠る。延進頗る学を親しみ、嘗て軍中の少年と民家に入り、競いて財賄を取るも、延進独り書数十編を持ち帰る。同輩これを哂う。

漢の末、暉鳳翔節度を領すも、未だ鎮に赴かず、王景崇城に拠りて反す。暉を都招討使と為してこれを撃たしむ。延進年十八、屡々軍鋒に当たる。景崇平らぎ、延進捷奏を奉じて入り、鳳翔牙内指揮使を授けられ、貴州刺史を領す。暉宋州に徙るも、亦た従いて牙職と為り、栄州刺史を領すことを改む。睢陽に盗数百あり、各々酋帥を立て民患と為る。延進父の命を以て、牙兵千余を領し悉くこれを禽戮す。詔書を以て褒美す。外艱に遭い、表して持服を求めしむ。喪終わりし後、周世宗淮南を征し、延進万縑を献じて軍を助け、仍て対を請う。世宗これを召見す。時に延進従兄ありて虎捷都虞候・帳前横衝指揮使と為る。世宗延進を指してこれに語りて曰く、「爾が弟拳勇謀有り、将に禁軍の大校を授けんとす」と。延進自ら陳して好んで書を読むを以て、願わざるなり。翌日、右千牛衛将軍・濠州兵馬鈐轄を授けられ、瓦橋関に従征し、随駕金吾街仗使と為る。

宋の初め、右羽林軍将軍・濠州都監に遷る。会に蜀を伐つ、襄州川路の津要に当たるを以て、鈐轄・同知州務を命ぜらる。蜀平らぎ、専ら郡事を領す。漢江水歳ごとに堤を壊し民田を害す。常に工を興して修護す。延進石を累ねて岸と為し、遂にその患を絶つ。入りて両浙・漳泉国信使と為る。開宝二年、右龍武将軍・霊州知事を授けらる。母老いて留まらんことを願うを以て、権判右金吾街仗使を得、歴て河中府・梓・相・青の三州を治む。

太平興国中、大軍并州を平らげ、幽薊を討つ。皆攻城八作壕砦使と為る。嘗て詔して砲具八百を督造せしめ、期を半月とす。延進八日に成る。太宗親しくこれを試み、大いに悦ぶ。また城北の諸洞子を主らしむ。師の班するに及び、孟玄哲・薬可瓊とともに留まり定州に屯せしむ。遼人辺を擾わす。命じて延進崔翰・李継隆とともに兵八万を将いてこれを禦がしめ、陣図を賜い、八陣に分かちて以て事に従わしむ。師満城に次す。遼騎坌として至る。延進高きに乗りてこれを望むに、東西野に亙りてその際を見ず。翰ら方に図に按じて陣を布く。陣各々百歩を去り、士衆疑懼し、略として闘志無し。延進翰らに謂いて曰く、「主上吾らに辺事を委ねたまうは、蓋し敵に克つを期するなり。今敵衆此の如く、而して我が師星布す。その勢懸絶す。彼若し我を持たば、将に何を以てか済わん。合してこれを撃つに如かず。以て勝を決すべし。令に違いて利を得るは、国を辱しむるに愈れるに猶あらずや」と。翰ら曰く、「万一捷からずんば、則ちこれを奈何せん」と。延進曰く、「倘や喪敗有らば、則ち延進独りその責を当たるべし」と。ここに於いて二陣に改め、前後相副う。士衆皆喜び、三戦してこれを大破し、人馬・牛羊・鎧甲数十万を獲る。功を以て右監門衛大将軍・鎮州知事に遷る。代わるに及び、吏民数千闕を守りて留まるを借る。詔して一年留まるを許す。俄かに右領軍衛大将軍に改め、出でて高陽関・平戎軍都監兼縁辺巡検と為り、鈐轄に改む。揚州を治め、召し入られ、右屯衛大将軍を授けられ、相州を治むるに徙る。右驍衛大将軍に遷り、鄧州を治むるに改む。淳化初め、飛蝗境に入らず、詔してこれを褒む。還り、右金吾街仗事を判す。至道二年、右金吾衛大将軍に拝す。咸平二年卒す。年七十三。左武衛上将軍を贈らる。

延進姿状秀整、経史に渉猟し、詩什を作るを好む。士流これに因りて多く之を称す。延進の妻は即ち淑徳皇后の妹なり。故に顕徳・興国中、頗る腹心を以て任ぜらる。子に昂あり、太平興国二年進士第に登り、戸部郎中・直昭文館に至る。

輔超

輔超、忻州秀容の人。家世農を業とす。超少より勇悍にして力有り。晉の開運中応募し、澶州の軍籍に隷す。漢の乾祐中、趙思綰永興に拠りて叛く。周祖諸将を護してこれを討ち、兵を督して城を攻む。超驍勇十七人を率いて雲梯に昇り、北門楼を斫る。楼壊れて入る。士卒継いで進む。城遂に陥る。功を以て小校に補す。顕徳中、太祖に従い淮南を征し、常に鋭を執り前駆す。滁・泗を定め、淮陰を破り、揚州を下す。功を以て日騎副兵馬使に転ず。

宋の初め、上党平定に従い、再び内直都知に遷る。太宗即位すると、超を馬軍都軍頭とした。親征して太原を征するに会し、矢石を冒して堞に攀じ先登し、身に十三の創傷を受け、帝その勇を嘉し、錦袍・銀帯・帛五十段を賜う。詰朝、再び城に乗る、流矢に中ること八、復た厚賜を加う。大いに挙兵して范陽を襲い、兵を三路に分ち、超は偏将米信に隷し、田重進の先鋒となり、飛狐・蔚州を取る。馬歩軍副都軍頭に遷り、俄に外補して曹州馬歩軍都指揮使となり、峰州刺史を領し、欒州に改む。召し帰し、都軍頭に転ず。淳化三年、出でて徳州刺史となる、使者を誣奏して駅吏を毆殺せしむるに坐し、責授して右監門衛将軍とし、誠州刺史を領す。五年、復た都軍頭を加え、澄州刺史を領す。真宗即位、獎州団練使を領するを加え、真に拝して萊州団練使とし、年老いて京師に留まらんことを願うに、之に従う。景德元年卒す、年七十七。

論ずるに曰く、太祖天下を有つ、凡そ五代の臣、恩信を以て之を結ばざるはなく、既に其の反側を安んずるも、亦其の威力を借り、以て四方を鎮撫す。故に一時の諸将、呉虔裕・蔡審廷の徒、数たび征討に従い、咸らく労績有り。若し馬令琮の河内を守り、兵食を儲けて王師を迎え、解暉の湖南を撃ち、鋒鏑を冒して敵将を禽うるは、此れ忠藎驍果、尤も称すべき者なり。漢徽の疾危に薬を辞し、蔵英の親の為に復讐するは、亦皆一節の美なり。惟だ張勳の殺を嗜み、晋卿の貨を冒すは、威を立て勤を著すと雖も、取らざる所なり。